くじは膝の上に投げられるが、
ふさわしい定めは
すべて主から与えられる。箴言16:33
何よりもまず、
神の国と神の義を求めなさい。
そうすれば、これらのもの(食べるもの、飲むもの、着るもの)は
みな加えて与えられる。マタイ6:33
ロマ書3:9b~20
黙示録8:1~5(通読箇所)
(ローズンゲン日々聖句10/30;火)
イエスが十字架刑での処刑を受け、
死んで葬られ、
三日目に死人の中から新しい霊のからだに復活し、
天の〔父である神〕の右の座に帰られて、
〔聖である霊〕と呼ばれる方を派遣してくださり、
この方によって、
〔父である神〕の御思いが、
受け入れる者の心に置かれるようになる前の時代、
人々は、神の御心を伺い、事を決めるのに、
ひざの上にくじを投げていたのだそうです。
いずれにしても、事を決められるのは、
天の神、主、
「『わたしはある(I am)』という者」と名乗られる方なのですね。
すべてのことが、
神から発し、
神によって成り、
神に至る(ロマ11:36)のだそうですから。
だから、私たち、
何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、など、心配する者ですが、
まず、第一に、神の国と神の義を求めていくなら、
これらのものは、加えて与えていただけるのだそうです。
〔父である神〕の御思いが実現すること、
イエスが私たちの身代わりとなって受けてくださった
十字架刑で処刑によって
受け取る者に与えられる神の義を求めていくなら。
律法、
モーセを通して示された〔父である神〕の御思いを、
自分の努力で実行していくことによっては、
だれひとり、神の前に義と認められない、
合格点を取ることができる者はいないのだそうです。
律法によっては
罪の意識が生じる、
自分がどんなに「的外れ」な者であるかが明らかになるだけ、
なのだそうですから。
しかし、今は、
イエスが十字架刑で処刑を受けてくださって、
神に呪われた者となって死んでくださり、
墓に葬られ、
三日目に死人の中から新しい霊のからだに復活し、
40日に渡って弟子たちに何度も現れて神の国のことを語り、
オリーブ山で弟子たちが見守る中、天に上げられ、
〔父である神〕の右の座に帰られ、
受け入れる者に
〔聖である霊〕と呼ばれる方を派遣してくださる今は、
そして、その〔聖である霊〕と呼ばれる方が、
受け入れる者の心に、
〔父である神〕の御思いを置いてくださり
(エレミヤ31:31~34、エゼキエル36:25~31)、
受け入れる者が〔父である神〕と思いを、心を、
一つにして生きる道が開けた今は、
律法とは別に、
しかも律法と預言者(旧約聖書)によって証しされて、
神の義が示されているのだそうです。
それは、
イエス・キリストを信頼することによって、
すべての信頼する人に、
なんの差別もなく、与えられる神の義、
なのだそうです(ロマ3:20~22)。
それで私たちは、
このことばに信頼し、
この神からの義をもらい、受け取り、
〔聖である霊〕と呼ばれる方をお迎えして、
この方が心に置いてくださる〔父である神〕の御思いに聞き、
それが成るよう、願っていくのですね。
くじによるのではなく。
そして、私たちの祈りは、
神の御前に届いているのだそうですから(黙示録8:3~4)。
今日も。
(近くの教会を知りたい等の方は;shkhknsyg3@yahoo.co.jpへどうぞ。)
ふさわしい定めは
すべて主から与えられる。箴言16:33
何よりもまず、
神の国と神の義を求めなさい。
そうすれば、これらのもの(食べるもの、飲むもの、着るもの)は
みな加えて与えられる。マタイ6:33
ロマ書3:9b~20
黙示録8:1~5(通読箇所)
(ローズンゲン日々聖句10/30;火)
イエスが十字架刑での処刑を受け、
死んで葬られ、
三日目に死人の中から新しい霊のからだに復活し、
天の〔父である神〕の右の座に帰られて、
〔聖である霊〕と呼ばれる方を派遣してくださり、
この方によって、
〔父である神〕の御思いが、
受け入れる者の心に置かれるようになる前の時代、
人々は、神の御心を伺い、事を決めるのに、
ひざの上にくじを投げていたのだそうです。
いずれにしても、事を決められるのは、
天の神、主、
「『わたしはある(I am)』という者」と名乗られる方なのですね。
すべてのことが、
神から発し、
神によって成り、
神に至る(ロマ11:36)のだそうですから。
だから、私たち、
何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、など、心配する者ですが、
まず、第一に、神の国と神の義を求めていくなら、
これらのものは、加えて与えていただけるのだそうです。
〔父である神〕の御思いが実現すること、
イエスが私たちの身代わりとなって受けてくださった
十字架刑で処刑によって
受け取る者に与えられる神の義を求めていくなら。
律法、
モーセを通して示された〔父である神〕の御思いを、
自分の努力で実行していくことによっては、
だれひとり、神の前に義と認められない、
合格点を取ることができる者はいないのだそうです。
律法によっては
罪の意識が生じる、
自分がどんなに「的外れ」な者であるかが明らかになるだけ、
なのだそうですから。
しかし、今は、
イエスが十字架刑で処刑を受けてくださって、
神に呪われた者となって死んでくださり、
墓に葬られ、
三日目に死人の中から新しい霊のからだに復活し、
40日に渡って弟子たちに何度も現れて神の国のことを語り、
オリーブ山で弟子たちが見守る中、天に上げられ、
〔父である神〕の右の座に帰られ、
受け入れる者に
〔聖である霊〕と呼ばれる方を派遣してくださる今は、
そして、その〔聖である霊〕と呼ばれる方が、
受け入れる者の心に、
〔父である神〕の御思いを置いてくださり
(エレミヤ31:31~34、エゼキエル36:25~31)、
受け入れる者が〔父である神〕と思いを、心を、
一つにして生きる道が開けた今は、
律法とは別に、
しかも律法と預言者(旧約聖書)によって証しされて、
神の義が示されているのだそうです。
それは、
イエス・キリストを信頼することによって、
すべての信頼する人に、
なんの差別もなく、与えられる神の義、
なのだそうです(ロマ3:20~22)。
それで私たちは、
このことばに信頼し、
この神からの義をもらい、受け取り、
〔聖である霊〕と呼ばれる方をお迎えして、
この方が心に置いてくださる〔父である神〕の御思いに聞き、
それが成るよう、願っていくのですね。
くじによるのではなく。
そして、私たちの祈りは、
神の御前に届いているのだそうですから(黙示録8:3~4)。
今日も。
(近くの教会を知りたい等の方は;shkhknsyg3@yahoo.co.jpへどうぞ。)