朝明けに

聖書のことばから、うれしい一日一日の糧を!

先が見えなくて、暗闇を手探りしているような感じの方、光の中へ

2023-07-13 22:52:07 | 聖書から
あなたは、
あなたの神、主の聖なる民である。
主は地の面のすべての民の中から
あなたを選んで、
ご自分の宝の民とされた。申命記14:2

 

あなたがたは皆、
光の子、昼の子だからです。
私たちは
夜にも闇にも属していません。Ⅰテサロニケ5:5



 ロマ書9:14~23(24~26)
 マタイ5:21~26(通読箇所)
   (ローズンゲン『日々の聖句』7/14;金)



     ―――― α&ω ――――



 聖書が啓示している神、天の神、【主】、

「『わたしはある(I am)』という者」と
名乗られる方(出エジプト3:14)は、
私たちを世界中のすべての民の中から選んで、
ご自分の宝の民としてくださった、というのですね。



もちろん、このことばは、直接的には
イスラエルの民に対して言われているものですが、
アブラハムの神への信頼にならう私たちも、
アブラハムの霊的子孫として、
私に言われていることとして、
このことばを受け取っていいのでしょうね。

天の神、【主】は、私たちを選んで、
ご自身の宝の民としてくださった、と。



そして、闇の中から連れ出し、光の子、昼の子どもにして、
光に属する者にしてくださっているのですから。 





 パウロは、
ローマのクリスチャンに宛てた手紙に書いています。



アブラハムの子どもたちがみな、
アブラハムの子孫だということではなく、
約束の子どもが子孫と認められる、と。

イサクの子、ヤコブとエソウの場合も、
その子どもたちがまだ生まれもせず、
善も悪も行わないうちに、
選びによる神のご計画が、
(子どもたちの)行いによるのではなく、
召してくださった方によって進められた、と。



そしてパウロは続けます。

それでは、どのように言うべきでしょうか。
神に不正があるのでしょうか。
神はモーセに言われました。
「わたしはあわれもうと思う者をあわれみ、
いつくしもうと思うものをいつくしむ。」

ですから、これは人の願いや努力によるのではなく、
あわれんでくださる神によるのです。
神は人を御心のままにあわれみ、
また御心のままに頑(かたく)なにされる
(頑なになるままにされる)のです。



神は、
御怒りを示してご自分の力を示そうと望んでおられた、
滅ぼされるはずの怒りの器を、
豊かな寛容をもって耐え忍ばれました。

栄光のためにあらかじめ備えられた
あわれみの器に対して、
ご自分の豊かな栄光を知らせるために。



このあわれみの器として、神は私たちを、
ユダヤ人の中からだけでなく、
異邦人の中からも召してくださったのです。

それは、ホセアの書でも神が言っておられるとおりです。
「わたしは、わたしの民でない者を

わたしの民と呼び、
愛されない者を愛されるものと呼ぶ。

あなたがたはわたしの民ではない、
と言われたその場所で、
彼らは生ける神の子らと呼ばれる」(ロマ9:14~26より)と。





 イエスは言われます。

「昔の人々に対して、『殺してはならない。
人を殺す者はさばきを受けなければならない』
と言われていたのを、あなたがたは聞いています。



しかし、わたしはあなたがたに言います。
兄弟に対して怒る者は、
だれでもさばきを受けなければなりません。
兄弟に『ばか者』と言う者は最高法院(ローマ時代,
ユダヤ人の司法・行政・宗務をつかさどった
ユダヤの最高自治機関)で裁かれます。

『愚か者』と言う者は火の燃えるゲヘナに投げ込まれます。



ですから、
祭壇の上にささげ物を献げようとしているときに、
兄弟が自分を恨んでいることを思い出したなら、
ささげ物はそこに、祭壇の前に置き、
行って、まずあなたの兄弟と仲直りをしなさい。
それから戻って、そのささげ物を献げなさい。


あなたを訴える人とは、一緒に行く途中で早く和解しなさい。
そうでないと、訴える人はあなたを裁判官に引き渡し、
裁判官は下役に引き渡し、
あなたは牢に投げ込まれることになります。
まことに、あなたに言います。
最後の1コドラント(1デナリ〈労働者の1日分の給料〉の
64分の一の貨幣、日本流にいえば「最後の1円まで」)
を支払うまで、
そこから決して出ることはできません。」(マタイ5:21~26)





 私たちの人生は、
ちょうど、イエスが言われた、
この訴える人と一緒に裁判官の所へ行っている
途中のようなものなのでしょうね。
「最後の審判」と呼ばれている
最終的な神のさばきの法廷に向かって。



そして、神のほうで、
イエスのいのちをかけて和解を用意し、
和解を受け取るように提案していてくださる。

だから、これを受け取るように、と。



さらに、【聖である霊】と呼ばれる方によって
私たちの心に神の御思いを置いて、
私たちが神と思いを一つにして生きられるように
してくださるのですから。



だれからも後ろ指をさされることのない、
しみもしわもない、
イエスと同じ神の子の栄光に輝く者にしようと。



私たちをも、ご自身のあわれみにおいて一方的に選んで、
ご自分の宝の民、光の子としてくださって。

今日も。



     ~~~~~~~~~~~~~~ 


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人を抹殺する者から、すべての人に、いつも善をしたいと思う者へ

2023-07-13 07:55:23 | 聖書から
ルベンは兄弟たちに言った。
「血を流してはいけない。」創世記37:23(独)



互いに、
またすべての人に対して、
いつも善を行うよう努めなさい。Ⅰテサロニケ5:15



 使徒15:4~12
 マタイ5:13~20(通読箇所)
   (ローズンゲン『日々の聖句』7/13;木)



     ―――― α&ω ――――



 夢を見る者であり、父ヤコブの偏愛を受けていたヨセフ。
10人の兄たちから妬まれて、殺されそうになりました。
でも、長男のルベンが弟たちに、
「血を流してはいけない」と言って、
ヨセフを殺すことを押し止めたのだそうです。



「神の一人のようになり、善悪を知る」者になって、
神の創造の目的から「的外れ」になっている(創世記3:22)
私たちの〔生まれたときからの私〕から出て来る思いは、
嫉妬や怒りで、人を無き者にしよう、
殺そうとする思いなのですね。



天の神、【主】は、
そのような思いの出どころである霊、
〔生まれたときからの私〕自身を、
イエスが受けられた十字架刑での死刑によって、
死刑が完了しているもの、
死んだものとしてくださっているのだそうです。



 そのうえで、死んで墓に葬られ、
三日目、日曜日の早朝、
死人の中から新しい霊のからだに復活し、
天の、【父である神】の右の座に帰られた
イエスを通して来てくださる【聖である霊】と呼ばれる方が、
私たちの心に【父である神】の御思いを置き、
書き記してくださるので、
この方、【聖である霊】と呼ばれる方によって、
私たちのうちに
【父である神】の御思いがあるようにしていただけ、
私たちがこの方によって心に来る
【父である神】がしようと思われることをしていくように
していただけるというのですね。(エレミヤ31:31~34、エゼキエル36:25~28、ヨハネ17::21~23、同14:12)



すべての人に対して、いつも善を行いたいとの思いも
私の心にも来て。



 それで私たちの心には、
この、【聖である霊】と呼ばれる方によって心に来た
【父である神】の御思いと、
自分の〔生まれた時からの私〕から出て来た思いとが
あるようになります。



私たちは、〔生まれたときからの私〕から出て来た思いを、
イエスの十字架に合わせていただいて
「死んだもの」から出て来た思いであることを認めて、
これをイエスの御前に差し出し、投げ捨てながら、
【父である神】の御思いで生きる生き方をするようになります。




 【聖である霊】と呼ばれる方によって心に来る
【父である神】の御思いで生きる人たちの共同体(教会)が
始まった時、
メンバーはすべて
ユダヤ人(割礼を受けている人たち)、
ユダヤ教の中で育った人たちでした。



それで、異邦人が神の民に加わるには、
割礼(自分の力で神の律法を行い、
神に義と認められる生き方をする儀式)を
受けなければならない、との固定観念が
強かったのですね。



その固定観念が打ち破られ、
人が神の前に義と認められるのは
イエスに対する信頼だけによることが確立した、
エルサレム会議のことをルカは次のように記しています。



パウロとバルナバがエルサレムに着くと、
彼らは教会の人々と使徒たちと長老たちに迎えられた。
それで、
神が彼らとともにいて行われたすべてのことを報告した。


ところが、
パリサイ派(律法を守ることに特に熱心なグループ)の者で
信者になった人たちが立ち上がり、
「異邦人にも割礼を受けさせ、
モーセの律法を守るように命じるべきである」と言った。



そこで使徒たちと長老たちは、
この問題について協議するために集まった。
多くの論争があった後、ペテロが立って彼らに言った。



「兄弟たち。ご存じのとおり、
神は以前にあなたがたの中から私をお選びになり、
異邦人が私の口から
福音のみことばを聞いて信じるようにされました。

そして、人の心をご存じである神は、
私たちに与えられたのと同じように、
異邦人にも聖霊を与えて、
彼らのために証しをされました。

私たちと彼らの間に何の差別もつけず、
彼らの心を信仰によってきよめてくださったのです。



そうであるなら、なぜ今あなたがたは、
私たちの先祖たちも私たちも負いきれなかったくびきを、
あの弟子たちの首に掛けて、神を試みるのですか。
私たちは、
主イエスの恵みによって救われると信じていますが、
あの人たちも同じなのです。」



すると全会衆は静かになった。
そして、バルナバとパウロが、
神が彼らを通して異邦人の間で行われた
しるしと不思議について話すのに、
耳を傾けた。(使徒15:4~12)





 また、イエスは言われました。

「あなたがたは地の塩です。
もし塩が塩気をなくしたら、
何によって塩気をつけるのでしょうか。
もう何の役にも立たず、
外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけです。



あなたがたは世の光です。
山の上にある町は隠れることができません。


また、明かりをともして枡ますの下に置いたりはしません。
燭台の上に置きます。
そうすれば、家にいるすべての人を照らします。



このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせなさい。
人々があなたがたの良い行いを見て、
天におられる
あなたがたの父をあがめるようになるためです。



わたしが律法や預言者を廃棄するために来た、
と思ってはなりません。
廃棄するためではなく成就するために来たのです。



まことに、あなたがたに言います。
天地が消え去るまで、
律法の一点一画も決して消え去ることはありません。
すべてが実現します。



ですから、これらの戒めの最も小さいものを一つでも破り、
また破るように人々に教える者は、
天の御国で最も小さい者と呼ばれます。



しかし、それを行い、また行うように教える者は
天の御国で偉大な者と呼ばれます。
わたしはあなたがたに言います。
あなたがたの義が、
律法学者やパリサイ人の義にまさっていなければ、
あなたがたは
決して天の御国に入れません。(マタイ5:13~20)





 天の神、【主】によって造られた私たち人間。
神は私たち人間を、
「われわれのかたちとして、
われわれの似姿に」と思って造られました。



「われわれ」、
【父である神】、【御子である神】、
【聖である霊】と呼ばれる神が
それぞれ、全知、全能、永遠不変の方でありながら、
自分の思うことをしていくのではなく、
愛において、自由意思で、自発的に、
思いを同じくし、心を一つにしておられる、
その一つに加わり、その一つを
目に見える形で現すものを造ろう(創世記1:26)と。



神は、その御思いのとおりに人を造られました。
しかし、人は、その、神から造られた場に留まることを
良しとせず、
もっと素晴らしい者になろうとして、
「神の一人のようになり、善悪を知る」者になって、
自分一人で事の善し悪しを決める者に
なってしまいました。(創世記3:22)



造り主である神に対立、対抗する、
創造の目的から「的外れ」な者に。
ちょうど、塩気を失った塩が、何の役にも立たず、
外に投げ捨てられ、踏みつけられるようなものに。



しかし、天の神、【主】は、
そのような私たちをなお大切に思ってくださって、
造られた本来の位置に取り戻すことを計画されました。



それは、【御子である神】が
人間イエス(神、【主】は救いという意味)となって
人の世に来られ、
すべての人間の身代わりとなって、
すべての人間の「的外れ」の責任のすべてを
ご自身の身に負い、
「神に呪われたもの」となって十字架刑での死刑を受ける、
というものでした。

ご自身が死刑を受けられることによって、
すべての人間の死刑が完了したものとするために。
罪を犯した者はその罪にふさわしい刑罰を受けるという
律法の要求を全うして。



イエスが死刑を受けられたことによって、
私たちすべての人間の死刑が完了し、
聖である方が私たちに来られても
私たちが滅びてしまわないようにしてくださいました。



それで、いよいよ、
約束の【聖である霊】と呼ばれる方が私たちに来て、
私たちの心に【父である神】の御思いを置き、書き記して、
私たちのうちに【父である神】の御思いがあり、
私たちを
【父である神】の御思いで生きるようにしてくださる道が
開けました(エレミヤ31:31~34、エゼキエル36:25~28、ヨハネ17::21~23)。



私たちを、塩気を取り戻した塩、
世の光、暗闇を照らす明かりとして用いようと。
人を殺す(存在を否定する)者であった私たちの心に、
すべての人に対して、善を行いたいと思う
【父である神】の御思いを置いて。



律法学者やパリサイ人(自分の努力で律法を行い、
神に義と認められようとする人たち)のように
表面だけ律法を守っているのではなく、
心から、神と思いを一つにして、
神がしようと思われることをしていく、
律法を成就する者に。

今日も。



     ~~~~~~~~~~~~~~ 


(聖書のことばへの疑問やご意見、
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また、婚活で広く出会いを求めたい、
教会に行っていないけれど
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