朝明けに

聖書のことばから、うれしい一日一日の糧を!

深く憐れまれて、御子を送り込まれたのだそうです。屠られる小羊として

2014-02-17 23:41:51 | 聖書から
私た
ちは

羊の群れ、



道を誤り、

それぞれの方角に

向かって行った。



その

私たちの罪をすべて、

主は

彼に負わせた。

イザヤ書53:6
 



イエスは

舟から上がり、

大勢の群衆を見て、

飼い主のいない羊のような有様を

深く

憐れまれた。

マルコ6:34
  



(ローズンゲン日々の聖句2/18;火)






あの方の

創造の目的から外れて

自分勝手な道に向かう人間。



それは、

飼い主のいなくなった羊の群れのような様

なのでしょうか。





あの方は、

その私たち人間の外れの責任を

すべて、

イエスに

負わせられたのだそうです。





それは、

飼い主のいない羊のような有様を

深く憐れまれたからこそ

なのだそうですね。





その

憐れみの心が

イエスの中にも

満ちていたということのようです。



御父と

心を一つにしておられた、

人となられた御子なる神

イエス、



そして、

十字架の死にまで

忠実に

御父の御思いと

思いを

一つにしておられたのだそうです。




私たちも、

その

御父と御子の一つの中に

加わるのでしょうか。



今日も。










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通り過ぎないで、受け取る場にとどまっていてほしいのだそうですね。あの方

2014-02-16 23:28:19 | 聖書から
お前たちの罪が

恵みの雨を

とどめたのだ。

エレミヤ書5:25
 





神の恵みから

除かれることのないように

気をつけなさい。

ヘブル書12:15
 



 (ローズンゲン日々の聖句2/17;月)






農作物の収穫のために必要な雨、

季節に従ってこれを降らせて下さる

あの方の恵み。





しかし、

かたくなで、

逆らい、そむく心が

これをとどめてしまうのだそうです。




あの方は、

そうしていただく資格のない私たちに、

あの方の側の一方的な働きによって、

私たちのそむきを赦し



あの方の子として、

あの方と心を一つにしながら

生きる、

新しい生き方を

提供していて下さるのだそうですね。





このプレゼントを

受け取ることをやめて、

元の生き方に帰って行ってしまう、



そのような、

この恵みから無関係になったしまうことのないように、



受け取っていく場に

どどまり続けていくようにと、

願っていて下さるのだそうですね。

あの方。



今日も。



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あの方の深い憐れみを足掛かりに嘆願の祈りを祈るのですね

2014-02-15 23:55:36 | 聖書から
私たちは、

あなたの

深い憐れみのゆえに、



伏して

嘆願の祈りを

ささげます。

ダニエル書9:18

(今週の聖句)
 





主の御名を呼ぶ者は

皆、

救われる。

ヨエル書3:5

(新改訳2:32)
 





イエスの言葉:

はっきり言っておく。

あなたがたが

わたしの名によって

何かを

父に願うならば、

父は

お与えになる。

ヨハネ16:23
  



(ローズンゲン日々の聖句2/16;日)






御子である方の

お名前を呼び求める者は

救われるのだそうです。





そのお方が、

ご自分の命をささげて、

ご自分のからだに、

私たちの受けるはずだった罰を

残りなく受け取って下さったから

なのだそうです。



あの方が

私たち人間を憐れみ、

惜しんで下さって



プレゼントして下さった救いだそうですから、



受け取りさえすれば、

誰にでも

与えていただけるものなのだそうです。


「生れた時からの霊」という

私自身では

あの方と心を一つにすることが出来ず、



ただうなじを強くして

逆らうばかりであることを

認めて、



御子である方の十字架刑での処刑を

私の処刑と

見なして、



処刑済みの者とされていることを

受け取り、



新しく派遣されて来て下さる

「聖である霊」と

呼ばれる方をお迎えして、





この方が

私たちの心に思わせて下さる

「父である方」の御思いを求めていくとき、



「子は、

父がしておられることを見て行う以外には

自分からは

何事も行うことができません。



父がなさることは

何でも、

子も

同様に行うのです。」

(ヨハネ5:19)

と仰られる

イエスと同じ在り方の方向に立つことになり、

イエスの名によって

(イエスの代理人として)

願う位置に立っていることになるのでしょうか。




いずれにしても、

私たち、

自分の働きの報酬、

当然受ける権利として

何かを願うことができる者ではなく、



ひとえに、

あの方の

深い憐れみを手掛かりにして、



伏して

嘆願の祈りをささげる者なのですね。



イエスのゆえに

大胆に。



今日も。





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諭や懲らしめが必要なとき

2014-02-14 23:23:59 | 聖書から
わが子よ、

主の諭を

拒むな。



主の懲らしめを

避けるな。

箴言3:11
 





あなたがたにゆだねられている、

神の羊の群れを

牧しなさい。



強制されてではなく、

神に従って、

自ら進んで

世話をしなさい。

Ⅰペテロ5:2





(ローズンゲン日々の聖句2/15;土)







自分の思ったとおりに生きたい、

「善悪を知る者になった」私たちにとって、

諭されるとか懲らしめられるって

嫌だなって感じですね。





神の羊を牧するということの中にも、

この

諭したり懲らしめたりすることも

含まれているということでしょうか。





もし、

群れの中に、

はずれていったり、

他を傷つけたり、

そこなっていく者が出て来ると、

諭したり懲らしめたりすることが

必要になって来ることも

あるのでしょうか。



でも、

その時、

人間的な思いからではなく、

あの方の御心を受けて

やって行きたいものですね。



イエスが

「もしわたしがさばくなら、

そのさばきは正しいのです。



なぜなら、

わたしひとりではなく、

わたしと

わたしを遣わした方とが

さばくのだからです。」 

(ヨハネ8:16)



言っておられるように。



今日も。



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憐れみと祈りの霊、真理の霊と呼ばれる方に導いていただけるのだそうですね。私たち

2014-02-13 23:35:22 | 聖書から
わたしは

ダビデの家とエルサレムの住民に、

憐れみと祈りの霊を

注ぐ。

ゼカリヤ書12:10
 





イエスの言葉:

その方、

すなわち、

真理の霊が来ると、



あなたがたを導いて

真理を

ことごとく

悟らせる。

ヨハネ16:13
 



 (ローズンゲン日々の聖句2/14;金)






エルサレムが包囲されるその時、

御子である方は、

エルサレムに攻めて来るすべての国々を

滅ぼし、



そして、

ダビデの家とエルサレムの住民に、

憐れみと祈り(恵みと哀願)の霊

と呼ばれる方を

派遣されるのだそうですね。



その霊である方によって

ユダヤの人たちは、

御座におられる方が、

自分たちが、かつて突き刺した者であると

悟り、

激しく泣くのだそうです。




真理、

それは、

あの十字架刑で処刑され、

ローマ兵の一人によってわき腹を槍で突き刺され

(おそらく心臓に達するまで)、

死んでいることが確認された

(ヨハネ19:34)

イエスという男が、



実は、

永遠の昔から

「父である神」と共におられ、

人間をはじめ、この自然界、宇宙の

創造主である

「御子である神」、「ことば」と呼ばれる神である

(ヨハネ1:1~3)、

ということ、なのでしょうか。...



私たちが御前に出る、

その御座に着いておられる方は、

「ほふられたとみられる小羊」

(黙示録5:6)

なのだそうですから。




そして、

このゼカリヤ書の預言は、

まだこれから先の事と思われますが、



イエスのこの言葉は、

イエスがこれを語られたその50日後に

実現し、

現在に続いているのだそうです。




イエスが、

「わたし自身からは何事もせず、

ただ

父がわたしに教えられたとおりに、

これらのことを話している」

(ヨハネ8:28)

のだと言っておられますが、



この「真理の霊」と呼ばれる方も、

「自分から語るのではなく、

御子が父から受けたものを、

そのまま、聞くままを話す」方

なのだそうですね。




それゆえに、

この方が、

私たちの心の中に起こされる

「思い」も、



御子である方が

父である方から受けた、

そのままのもの

なのでしょうね。




この「思い」に導かれて行くとき、

イエスが

「わたしと父とは一つです」

(ヨハネ10:30)

と言われた、

その一つの中に

私たちも

加えられていくということでしょうか。



今日も。




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