朝明けに

聖書のことばから、うれしい一日一日の糧を!

光の中に差し出したものは光にしていただけるのだそうですから。

2015-07-26 08:35:03 | 聖書から
 光りの子として歩みなさい。
光から、

あらゆる善意と正義と真実とが生じるのです。エフェソ5:8~9

        (今週の聖句)



 民よ、

どのような時にも神に信頼し、
御前に心を注ぎ出せ。
神は私たちの避け所。詩編62:9




 何事でも

神の御心に適うことを私たちが願うなら、

神は聞き入れてくださる。

これが神に対する私たちの確信です。Ⅰヨハネ5:14

            (ローズンゲン日々の聖句7/26;日)

 
 光りの子としての歩み。
それは、天の神、主の御前に心を注ぎだしながら生きる生き方ということでしょうか。
 「明るみに引き出されるものは、みな、光りによって明らかにされます。

明らかにされたものはみな、光りだからです。」(エフェソ5:13~14)
とあり、また
「もし、神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、

私たちは互いに交わりを保ち、

御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。……

もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、

神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、

すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」(Ⅰヨハネ1:7、9)
とありますから。




 私たちが御前に注ぎだすもの、それは決して良いものではないのですね。
私たち自身、生まれたときからの霊という私たち自身は、

天の神、主と一つ思いになって生きる者をと願われて造られた者なのに、

その造られた場所を捨て、自分で善悪を決める者の道を選び取り、

天の神、主に対抗して、神の一人のようになろうとしている者なのだそうです(創世記1:26、3:22))。

 それで、その的はずれになった私自身、「生まれながらの私」という霊から出て来る思いは、

不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものものでしかないのだそうです。

 私たち、道徳や教育によって、そういう者でなくなろうと努力しますが、

それで、外側の行動を少しよく見せることはできますが、

心の中、生まれたときからの霊から出て来る心の思いはどうしようもないのが現実のようです。

 天の神、主が問題にし、見ておられるのは、外側だけではなく、心の内の思いそのものなのだそうですから(マタイ5:21~48)。




 天の神、主は、私たち一人ひとりを、御自身と思いを一つにする者にと、なお、願い続けて下さって、

永遠の昔から、天地創造の前から一緒に居られた「御子である神」と呼ばれる方を、

人間イエスとして人の世に派遣し、

その方が、およそ33歳の頃、私たち人間の罪の罰のすべてをこの方の上に置いて、十字架刑で処刑して、

私たち「生まれたときからの霊」という私自身を処罰済みとして下さったのだそうです。




 そのうえで、私たちが受け入れるなら、

もう一人の救い主、「聖である霊」と呼ばれる方を私たち一人ひとりの内に派遣して下さって、この方によって、

ご自身の、私たち一人ひとりに関する御思いを私たちの心に思わせて下さって、

私たち一人ひとりがご自身と一つ思いになって生きるようにと願っておられるのだそうです。




 私たち、自分のうちに湧いてくるドロドロとした思いを、

そのまま天の神、主の御前に注ぎだし、見ていただき、知っていただいて、

光に照らされた、明るい出来事にしていただけるのだそうです。
 そして、その私自身、その思いの出どころである「生まれたときからの霊」という私は

イエスとともに十字架刑で処刑されており、

その思いは、処刑された者から出て来る思いであることを受け取って、

「聖である霊」と呼ばれる方をお迎えし、

この方が私たちの心に置いて下さる御思い、私たち一人ひとりを通してしようと思っておられる思いを我が願いとして願っていく者にしていただけるのだそうです。


この新しい週も。












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すべての良いものを用意していて下さるのだそうですね。私たちにも。

2015-07-25 07:50:34 | 聖書から

 主は命を断ち、また命を与え、
陰府に下し、また引き上げて下さる。サムエル記上2:6



 永遠の契約の血による羊の大牧者、私たちの主イエスを、
死者の中から引き上げられた平和の神が、
御心を行うために、
主イエスによって、
すべての良いものをあなたがたに備えてくださるように。ヘブル書13:20

      (ローズンゲン日々の聖句7/25;土)

 主は、最初の人アダムを土の塵で造り、
その鼻に息を吹き入れ、生きる者にして下さった方(創世記2:7)。

 私たちを、父の腰の中ではぐくみ、
母の胎の中で組み立てられた方(詩編139:15)。

主は殺し、また生かし、
よみに下し、またあげられる。
主は、貧しくし、また富ませ、
低くし、また高くし、
弱い者をちりから起こし、
貧しい人を、あくたから引き上げ、
高貴な者とともに、座らせ、
彼らに栄光の位を継がせられる(ⅠサムエルⅡ:6~8)。

 イエスを死者の中から引き上げられたその方が、
私たちを御心を行う者とするために、
逆らうばかりの、私たち、生まれた時からの霊を、
イエスの十字架刑に合わせて、処刑された者とし、
私たちが受け入れるなら、
妬むほどに愛しておられる方、聖である霊と呼ばれる方を
私たちの内に派遣して、
この方によって私たちの心に、
しようと思われることを願いとして起こして下さって(ピリピ2:13)、
私たちを、一つ思いを思う者にして下さり(エゼキエル36:26)、
御心を行う者にして下さるのだそうです(ヨハネ14:12)。

 そのために必要なものは、
すべて備えていて下さるのだそうですね。


 だから、一歩、踏み出してみれば、それが体験できるのだそうです。

今日も。












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新しい契約の中に入れて下さるのだそうです。私たちも。

2015-07-24 08:00:20 | 聖書から
主よ、私はあなたに感謝します。
あなたは私に向かって怒りを燃やされたが、
その怒りを翻し、私を慰められたからです。イザヤ書12:1



 キリストの言葉:
わたしのもとに来る人を、
わたしは決して追い出さない。ヨハネ6:37


      (ローズンゲン日々の聖句7/24;金)

 怒りを、ご自身で引き受け、翻し、私たちを受け入れ慰めて下さる方。
救いを求めて来る者を追い返したりなさらない方。

 自分を、「十字架につけろ」、「十字架につけろ」と叫び、
「神殿を打ち壊して三日で建てる人よ。もし、神の子なら、自分を救ってみろ。十字架から下りて来い」、

「もし、神のお気に入りなら、いま、救っていただくがいい。『わたしは神の子だ』と言っているのだから」

とあざける人たちのことを、

「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分で分からないのです」と執り成しておられる方。

 自分を三度も、「あんな人は知らない」というはずのペテロに対して、

「わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈った。

だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たち(ほかの弟子たち)を力づけてやりなさい」とおっしゃる方。

 神の戒めを守れない私たちに代わって、十字架でご自身の血を流し、御自身の肉を裂き、新しい契約、「見よ。その日が来る。――主のみ告げ――その日、わたしは、イスラエルとユダの家とに、新しい契約を結ぶ。わたしは(新しい霊を授け)、わたしの律法を彼らの中に置き、彼らの心にこれを書きしるす」(エレミヤ31:33、エゼキエル36:26)と預言されていた、その新しい契約を開いて下さった方(ルカ22:14~20)。

 私たちは、この出来事を知識として知っているところにとどまらないで、この新しい契約の事実の中を歩み、体験的に知るのだそうです(マタイ7:24~29)。
今日も。










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主こそ、わが光!

2015-07-23 07:06:01 | 聖書から

たとえ闇の中に座っていても、
主こそわが光。ミカ書7:8

 キリストの言葉:
わたしを信じる者が、...
誰も暗闇の中にとどまることのないように、
わたしは光として世に来ました。ヨハネ12:46

      (ローズンゲン日々の聖句7/23;木)




 主が光なのですね。主の御思いが。
主の御思いの中にとどまる時、私たちは光の中にいるのですね。
たとえ、まわりの状況が最悪で、暗闇の中に座っているようであったとしても。

 イエスは、光りとしてこの世に来られた方なのですね。
天の、父である神と呼ばれる方の御思いを世に示し、御思いのとおりに生きるために世に来られた方なのだそうですから。
イエスは、言葉のひと言さえも、自分から話しているのではなく、天の父である神が話そうと思っていらっしゃることだけを話しておられたのだそうです(ヨハネ8:28)。
完全に、100パーセント、御父と思いを一つにし、行動を一つにしておられたのですね。
 それで、「わたしを見る者は、わたしを遣わした方を見るのです」(ヨハネ12:45)、「わたしと父とは一つです」(ヨハネ10:30)と言い得たのですね。

 イエスが、100パーセント、御父の御思いの中にいることで、光そのものであられらたように、私たちもイエスに合わせられ、イエスと一つになるものとして(Ⅰコリント10:16~17)、イエスがお遣わし下さる聖である霊と呼ばれる方をお迎えし、この方によって、心に、御父の、私たち一人ひとりに関わる御思いを書き記していただいて(エゼキエル36:26~27)、その御思いについて行くとき(ガラテヤ5:25)、私たちも、光りの中を歩んでいることになるということでしょうか。

 天の神、主が願っておられることは、私たちが、お互いに、「何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにする」生き方(マタイ7:12)なのだそうですが、聖である霊と呼ばれる方が、私たちの心に、そのうような生き方をしたいなという願いを起こさせて下さり、実現に至らせて下さるのだそうですから(フィリピ2:13)。
今日も。












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繁栄を与えて下さるのだそうですね。この方。

2015-07-22 07:08:37 | 聖書から
わたしは彼らを増やす。
数が減ることはない。
わたしが彼らに栄光を与え、侮られることはない。エレミヤ書30:19

 イエスの言葉:
天の国はからし種に似ている。
人がこれを取って畑に蒔けば、どんな種よりも小さいのに、
成長するとどの野菜よりも大きくなり、
空の鳥が来て枝に巣を作るほどになる。マタイ13:31~32

      (ローズンゲン日々の聖句7/22;水)
 天の神、主と呼ばれる方は、私たちの反抗に対して怒りをあらわし、私たちを打たれますが、また、思い直して憐れんで下さる方でもあるのだそうです。
 神に裁かれた者、打たれ、呪われた者とされ、かせいでも報酬がなく、争いがあり平安がなかったけれど、これからは、平安の種がまかれ、ぶどうの木は実を結び、地は産物を出し、天は露を降らせ、幸いを下し、祝福とならせて下さるのだそうです。
 だから、互いに真実を語り、真実と平和の裁きを行い、互いに心の中で悪を計らず、偽りの誓いを愛するな。これらはみな、わたしが憎むからだ、と(ゼカリヤ8:9~17)。
 私たちに代わって十字架刑で処刑され、私たちの背きの罪をご自身に背負って下さった方、墓に葬られ、3日目、日曜日の早朝、墓よりよみがえり、40日に渡って何度も弟子たちに現れ、ご自分が生きておられることを見せたうえで、天の元、居られたところ、父である神と呼ばれる方の右の座に帰られた方。
 そのイエスが私たちひとり一人に派遣して下さる聖である霊と呼ばれる方が、私たちの心に働きかけて、私たちひとり一人の心に天の神、主の御思いを書き記して下さるのだそうです。

 それで、私たちが願うなら、私たちの心にも、この方が憎むことを憎み、この方がしたいと思うことをしたいと思う思いが来るようにしていただけるのだそうです。

 その思いは、まだ何も起こっていないような、まだ小さく、からし種、針の先でちょっとついたあとくらいの、目を凝らさなければ見落としてしまうような小さな出来事であったとしても、成長して、木のように大きくなり、私たちの心いっぱいに満ちる思いになり、私たちの行動の原動力となり、溢れ出して多くの人々に広がっていくのだそうです。
 私たちも、平和と祝福を持って来る者として、用いていただけるのだそうですね。
今日も。


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