朝明けに

聖書のことばから、うれしい一日一日の糧を!

私の全部を探り知る方が、

2017-04-04 07:49:33 | 聖書から
私は言う。
「闇の中でも主は私を見ておられる。
夜も光が私を照らし出す。」
闇もあなたに比べれば闇とは言えない。
夜も昼も共に光を放つ。詩139:11~12

 私たちがイエスから既に聞いていて、
あなたがたに伝える知らせとは、
神は光であり、
神には闇が全くないということです。Ⅰヨハネ1:5

 ヨブ記19:21~27
 ルカ22:24~30(通読箇所)
  (ローズンゲン日々の聖句4/4;火)

 私たちが、天の神、主、「わたしはあるという者」と名乗られる方から身を隠そうとして、
「おお、闇よ。私をおおえ。私の回りの光よ。夜となれ」と言っても、
天の神、主にとっては、闇も暗くはなく、暗闇も光も同じことなのだそうです。
それは、この方が私の内臓を造り、母の胎のうちで私を組み立てられた方。
胎児の私を見られ、この方の書物に私のすべてが書きしるされたのだそうですから。
私のために作られた日々が、しかも、その一日もないうちに(詩篇139:7~16)。

 天の神、主は、光そのものであり、回転の影とか闇の部分が全くない方なのだそうです。
だから、私たちが、神と交わりがあると言っていながら、
しかも、隠し事をし、闇の中を歩いているなら、
私たちは偽りを言っていることになるのだそうです。

 もし、自分には罪がないと言うなら、私たちは自分をあざむいており、
真理は私たちのうちにはないのだそうです。

 けれども、私たちが自分の罪を言い表し、神さまの前に差し出し、見ていただき、
明るみの出来事、光の中の出来事としていくなら、
御前には、私を贖(あがな)う方がいてくださり(ヨブ19:21~27)、
私たちの罪、的外れの責任を、全部、ご自身に受け取ってくださって、
ご自分の罪、的外れとして、その罰をご自身に受けてくださっているのだそうです。

 だから、私たちは安心して、自分の罪、的外れをありのまま、そのままこの方の前に差し出し、光の中の出来事、明るみの出来事として大丈夫なのだそうです(Ⅰヨハネ1:5~9)。

 天の神、主は、私たちの罪、的外れの存在であることを良く知っておられ、
憐れみをもって、イエスによる救いを用意していてくださるのだそうですから。

 自分の的外れの実態を認め、この、神さまの憐れみの中に生きる者は、
心の中にある、自分が他の人よりも、少しでも偉い者になろうとする思いも、
イエスの十字架刑での処刑に合わせていただいて処刑された、死んだ、〔生まれた時からの私〕という霊から出て来ている思いであることを認めて、
これをそのままイエスの御前に差し出し、受け取ってもらい、
明るみの出来事としてもらいながら、
イエスがそうであったように、
〔聖である霊〕が心に置いてくださる〔父である神〕の御思いのとおりに、
仕える者にもしていただけるのだそうです。

 イエスの御国で、イエスの食卓で食事をする者とも(ルカ22:24~30)。
今日も。
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預言のとおりに、仕えるために、命を献じるために来られた方

2017-04-02 20:27:02 | 聖書から
人の子は、仕えるために、
また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために
来た。マタイ20:28(4/2の週の聖句)

 見よ、
わたしは苦しみの炉でお前を試みる。イザヤ書48:10

 パウロの手紙:
私たちは生きている間、
絶えずイエスのために死にさらされています。
死ぬはずのこの身にイエスの命が現れるために。Ⅱコリント4:11

 マルコ10:35~45
 詩22:1~22(通読箇所)
  (ローズンゲン日々の聖句4/2;日)

 イエスが生まれる550年ほど前に書かれたダニエルの預言。
その預言の中にあるのですね。
「見よ、人の子のような方が天の雲に乗って来られ、
年を経た方のもとに進み、その前に導かれた。
この方に、主権と光栄と国が与えられ、
諸民、諸国、諸国語の者たちがことごとく、彼に仕えることになった。
その主権は永遠の主権で、
過ぎ去ることがなく、この国は滅びることがない」(ダニエル7:13~14新改訳)と。

 イエスは、そのダニエルが言う「人の子」、
天の雲に乗って来る、永遠の主権と光栄と国が与えられ、すべての者が仕える、
その「人の子」だと、名乗られるのですね。
ただし、今回は、仕えられるためではなく、仕えるために、
多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのだと。

 イエスが生まれる1000年ほど前に書かれたダビデの詩。
その中には、
「わが神、わが神、どうして、私をお見捨てになったのですか」(詩篇22:1新改訳)とあり、
「主に身を任せよ。彼が助け出したらよい。彼に救い出させよ。彼のお気に入りなのだから」(同8)、
「私の力は、土器のかけらのようにかわききり、私の舌は、上あごにくっついています」(15)、
「彼らは私の着物を互いに分け合い、私の一つの着物を、くじ引きにします」(18)とあります。

 そして、1000年ほど後のこと、午前9時頃、十字架に架かられたイエスは、午後の3時に、「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ(わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか)」と叫ばれて息を引き取られたのだそうです(マルコ15:34)。

 祭司長たちは、イエスをあざけって、
「今、十字架から降りてもらおうか。
そうしたら、われわれは信じるから。
彼は神により頼んでいる。
もし神のお気に入りなら、いま救っていただくがいい。
『わたしは神の子だ』と言っているのだから」(マタイ27:41~43)と嘲笑したのだそうです。

 イエスは、「わたしは渇く」と言われ(ヨハネ19:28)、
また、「兵士たちは、イエスを十字架につけると、
イエスの着物を取り、ひとりの兵士にひとつずつあたるように4分した。
また下着をも取ったが、それは上から全部一つに織った、縫い目なしの物であった。
そこで彼らは互いに言った。
『それは裂かないで、だれの物になるか、くじを引こう』」(ヨハネ19:23~25)と。
そして、そのようにしたのだそうです。

1000年ほど前のダビデの言葉のとおりがイエスの身に起こったのですね。

 天の神、主は、ご自分の民を悩みの炉で試し、純粋にし、鍛錬し、強くされるようです。
苦しめられ、途方にくれ、イエスの死をこの身に帯び、イエスのために絶えず死に渡されていますが、そのことによって、イエスのいのちが、この死ぬべき肉体において明らかに示されるようになるのだそうです。

主イエスを死者の中からよみがえらせた方は、私たちをもイエスとともによみがえらせ、ご自身の前に立たせてくださるのだそうですから(Ⅱコリント4:8~14)。

仕えられるためにではなく、仕えるために来て、
私たちを買い戻す身代金として、ご自身のいのちを献げてくださったイエスによって。
この新しい週も。
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