朝明けに

聖書のことばから、うれしい一日一日の糧を!

私たちの主イエス・キリストの神であり、父である方を称えさせて下さいますように

2017-07-26 08:50:09 | 聖書から

聖歌隊によって神をたたえよ。詩68:27

忍耐と慰めの源である神が、
あなたがたに、キリスト・イエスに倣って互いに同じ思いを抱かせ、
心を合わせ声をそろえて、
私たちの主イエス・キリストの神であり、父である方を称えさせて下さいますように。ロマ書15:5~6

 使徒16:23~34
 フィリピ書4:1~9(通読箇所)
  (ローズンゲン日々の聖句7/26;水)

私たちの忍耐と慰めは天の、主から来るのだそうですね。

その方が、私たちもイエスに似る者にしてくださり、
イエスが、〔父である神〕と愛し、〔父である神〕と一つ思いになって、
自分からは何事もせず、ただ、〔父である神〕がイエスを通してしようと思われることだけをしていき、
〔父である神〕がほめたたえられることを求めていったように(ヨハネ8:25~28)、

私たちも、〔父である神〕と同じ思いを心に抱かせていただき、
互いに心を合わせ声をそろえて〔父である神〕を称える者にしていただけるのだそうです。

 ピリピでのこと、うるさく付きまとう、占いの霊に疲れた女から、その霊を追い出したことで、パウロとシラスは捕らえられ、むち打たれ、足かせをはめられて獄に入れられていたのだそうです。
むち打たれた傷の痛みで眠られなかったのでしょうか。
真夜中、二人が祈り、賛美の歌を歌っていると、
天の神、主は、突然、大地震を起こし、獄の扉を全部開け、囚人、皆の鎖を解いてしまわれたのだそうです。
目を覚ました看守は、獄の扉が開いているのを見て、囚人が逃げてしまったものと思い、剣を抜いて自殺しようとしたのですが、
パウロが、「自害してはいけない。私たちは皆、ここにいる」と叫んで自殺を止めたのだそうです。
看守は、パウロとシラスの前にひれ伏し、「先生方、救われるためには、何をしなければなりませんか」と問うたのだそうです。
それで、パウロが、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」と答えると、その家の者全部がパウロの語る主のことばを聞き、
彼とその家の者全部がバプテスマ(洗礼)を受けたのだそうです。

私たちの賛美の中でも、天の神、主は、素晴らしい御業を行ってくださるのでしょうか。


〔父である神〕は、十字架刑での処刑を受けられ、復活されたイエスをを通して派遣される、「聖である霊〕と呼ばれる方によって、
私たちの心の思いも、いつも主イエスの中で喜んでいるようにしてくださり、
寛容な心ですべての人に接し、
思い煩いも全部〔父〕の御前に差し出し、見ていただき、
あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、願うところを〔父である神〕に知っていただき、
神から来る平安の中を生きるようにしてくださるのだそうです。

すべて、真実なこと、
すべての誉れあること、
すべての正しいこと、
すべての清いこと、
すべての愛すべきこと、
すべての評判のよいこと、
そのほか徳と言われること、賞賛に値することを心に留めるようにも。

〔父である神〕をほめたたえ、賛美の歌を歌いながら。
今日も。
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2017-07-25 07:09:05 | 聖書から
あなたは私の魂を死から、
私の目を涙から、
私の足を突き落とそうとする者から、
助け出してくださった。詩116:8

 エパフロデトはひん死の重病でしたが、
神は彼を憐れんでくださいました。
彼だけでなく私をも憐れんで、
悲しみを重ねずに済むようにしてくださいました。フィリピ書2:27

 使徒2:32~40
 フィリピ書3:17~21(通読箇所)
  (ローズンゲン日々の聖句7/25;火)

エパフロデトは、ピリピの教会からのパウロへの支援を届けるために、ローマの獄中にいるパウロのもとに遣わされ、パウロの世話をしていたようです。
その彼がひん死の重病にかかり、そのことがピリピの教会の人たちにも伝わり、心配されていたようです。
そんな彼を、天の神、主は心に留めていてくださっていやしてくださり、
パウロ自身も、悲しみに悲しみを重ねないで済むようにしてくださったのだそうです。

私たちの魂を死から、私たちの目を涙から、私たちの足を突き落とそうとする者から、助け出してくださり、守ってくださる方なのですね。
天の神、主、「わたしはあるという者」と名乗られる方は。

〔父である神〕は、私たちを救い、助けるために、〔御子〕である方を、〔女の子孫〕(創世記3:15)として、人間の世に派遣され、この方がおよそ33歳の頃、私たち、すべての人間のそむきの責任を負わせて、十字架刑で処刑され、私たちの処罰が完了しているものとしてくださったのだそうです(ヨハネ19:30)。

そのうえで、〔父である神〕は、このイエスをよみがえらせて、ご自身の右の座に復帰させられたのだそうです。

そして、そのイエスを通して、もう一人の助け主、〔聖である霊〕と呼ばれる方を受け入れる者に派遣してくださり、
この方によって、私たち一人一人に思っておられる御思いを私たちの心に置いてくださり、
受け入れる者がご自身と同じ思いを思い、
心を一つにして生きるようにしてくださるのだそうです(使徒2:32~40)。

〔聖である霊〕と呼ばれる方をお迎えした120人ばかりのイエスの弟子たちが、この方が心に置かれた御思いのままに話し出したように(使徒2:1~4)。

〔父である神〕は、受け入れる者を、この、〔御子であるイエス〕と〔聖である霊〕と呼ばれる方によって、ご自身の、天の御国の国籍を持つ者としてくださるのだそうです。

 そして、そこから、イエスを救い主として、もう一度、派遣してくださり、万物をご自身に従わせることのできる御力によって、私たちのこの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださるのだそうです(ピリピ3:17~21)。

 そのときまで、私たちは、この天の御国での生き方、
〔父である神〕と思いを同じくし、心を一つにして生きるという生き方を練習しておくのだそうです。
天の神、主の助けと守りの中で。
今日も。
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牧者たち、民を導く立場にある人たちのためにも、願いと執り成しと感謝とを

2017-07-24 08:22:17 | 聖書から
わたしはあなたたちに、
心にかなう牧者たちを与える。
彼らは賢く、巧みに導く。エレミヤ書3:15

 願いと祈りと執り成しと感謝とをすべての人々のためにささげなさい。
王たちやすべての高官たちのためにもささげなさい。
私たちが常に信心と品位を保ち、
平穏で落ち着いた生活を送るためです。Ⅰテモテ2:1~2

 出エジプト記14:15~22
 フィリピ書3:12~16(通読箇所)
  (ローズンゲン日々の聖句7/24;月)

 天の神、主、「わたしはあるという者」と名乗られる方は、
「さあ、人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて」と仰られ、
また、「彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配(統治、管理)するように」と仰られて人を造られたのだそうです(創世記1:26)。

 〔御子である神〕、〔聖である霊〕と呼ばれる神が、愛と尊敬のゆえに、自由意思で、自発的に、〔父である神〕と思いを一つにし、心を一つにし、行動を一つにし、存在を一つにしておられる、
そのように、〔父である神〕を愛し、自由意思で、自発的に、〔父である神〕と思いを一つにし、心を一つにし、行動を一つにし、存在を一つにする者をとの願いにおいて人を造られ、
その一つになった思いをもって、地を、地に生きる者を支配(統治、管理)するようにと。

 ですから、牧者、民を導くものとして立てられた者は、神と一つ思いになって、神の御思いを実現していく者として立てられているものなのでしょうね。

 それで、その人たちが、そのあるべき姿で役目を実行できるようにと、願い、執り成し、感謝をささげなさいと勧めておられるようです。


 モーセも、自分の力でイスラエルの民を救おうとしたときは、民に退けられたのだそうですけれど(出エジプト2:11~14)、
ミデヤンの地に逃れ、失意のうちに、羊を飼う40年を過ごす中で、自分の力を取り去られ、ただ、神の御思いが成ることを求めて行動する者とされて、
今度は、神から遣わされてエジプト王の前に立つ者とされたようです(出エジプト3、4章)。

 それで、自分にはそんなことができる何の力もない事を感じながら、
でも、天の神、主の言われるとおりに、手を海の上に差し伸ばすと、
天の神、主が働かれて、海の水が分かれ、
イスラエルの民は海の真ん中の、乾いた地を進んで行けるようになったのだそうです(出エジプト14:15~22)。


 私たちも、自分の力に余ることの前に立つとき、自分の力の無さ、自分の可能性のほうを見て、躊躇し、退くものですけれど、「でも、お言葉ですから」(ルカ5:5)と、神の御思いが成ることを目指して、前に向かって踏み出してみるとき(ピリピ3:13)、天の神、主の御力の現れを見ることができるのだそうです。

 私たちが祈っても、日本の国の政治を行っている人たちが変わるなど、考えられない、とも思いますが、
でも、天の神、主、「わたしはあるという者」と名乗られる方は、その人たちのためにも、ご自身と思いを一つにしていくようにと、願い、執り成すようにと仰られるのですね。
今日も。
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名前を呼ばれて、トコトコと羊飼いについて行く羊のように

2017-07-23 06:49:01 | 聖書から
恐れるな、わたしはあなたを贖(あがな)う。
あなたはわたしのもの。
わたしはあなたの名を呼ぶ。イザヤ書43:1(7/23の週の聖句)

 驕(おご)り高ぶるな、高ぶって語るな。
主は何事も知っておられる神、
人の行いが正されずに済むであろうか。サムエル記上2:3

 わたしたちは、言葉や口先だけでなく、
行いをもって誠実に愛し合おう。Ⅰヨハネ3:18

 マタイ28:16~20
 詩26(通読箇所)
  (ローズンゲン日々の聖句7/23;Ⅳ日)

私たちは、アダムの子孫として、
「さあ、人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて」(創世記1:26)と望まれて造られていながら、
その、天の神、主との思いを一つにしていく場に留まることをせず、
もっとすばらしいものになろうとして、
造り主である天の神、主に対抗して、
「神のひとりのようになり、善悪を知る者」(創世記3:5、22)になっている者です。
〔的外れ〕のもの、ずれてしまったものとして焼却処分にされても仕方のないものです。

 けれども、天の神、主、わたしたちを造り出した方は仰っておられるのだそうです。
「恐れるな。わたしがあなたを贖ったのだ。
わたしはあなたの名を呼んだ。
あなたはわたしのものだ。
わたしの目には、あなたは高価で尊い。
私はあなたを愛している」(イザヤ43:1、4新改訳)と。


 私たちの、私たち自身である〔生まれた時からの私〕という霊は、自分を「神のひとりのような者、善悪を知る者」として驕り高ぶる者、横柄は思いを持つ者なのですね。
自分の力でそれを正そうとしても、少しできたからと言って、その出来た自分をまた誇り、高ぶっていく者(ロマ7:14~25)。
神である主はそれをよくご存じなのですね。


 それで、〔御子である神〕が、アダムのそむきの性質を受け継がない〔女の子孫〕(創世記3:15)として、人の世に来て下さり、
ご自身を贖い代金として差し出し、十字架刑での処刑を受けてご自身のいのちで支払い、私たちを買い戻してくださった。
だから、「あなたはわたしのものだ」と仰る。


 十字架刑での処刑を受けられ、死んで墓に葬られ、
三日目、日曜日の早朝、死者の中から新しいたい体によみがえられ、
40日に渡って何度も弟子たちに現れて、神の国のことを語ったのち、
弟子たちのみている前で、オリーブ山から天の父である神の右の座に帰られたイエス。

そのイエスが、神の御子の座にあって、今度は、もう一人の助け主、〔聖である霊〕と呼ばれる方を受け入れる者に派遣してくださるのだそうです。

 この方が、受け入れる者の心に、〔父である神〕が一人一人に思っておられる御思いを置いてくださるので、受け入れる者は〔父である神〕が思っておられる御思いを持つ者にしていただけるのだそうです。

それで、私たちの心にも、〔父である神〕の愛の御思いが来て、
口先だけの、言葉だけの愛でなく、
〔父である神〕の御思いを行動していく者にもしていただけるのだそうです。
名前を呼ばれて、トコトコと羊飼いについて行く羊のように(ヨハネ10:3~4)。

世の終わりまで(マタイ28:20)、
いつも、いつまでも(ヨハネ14:16)
私たちと一緒にいてくださる〔聖である霊〕と呼ばれる方によって。

数々の集まりの中で、主をほめたたえながら(詩篇26:12)。
この新しい週も。
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自分の弱さ、駄目さ加減に思いっ切り泣く者を

2017-07-22 07:28:44 | 聖書から
私たちは皆、汚(けが)れた者となり、
正しい業もすべて汚れた着物のようになった。イザヤ書64:5

 主は振り向いてペトロを見つめられた。
ペトロは「今日、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」と言われた主の言葉を思い出した。
そして外に出て、激しく泣いた。ルカ22:61~62

 フィリピ書3:12~16
 フィリピ書3:1~11(通読箇所)
  (ローズンゲン日々の聖句7/22;土)

 イエスが「最後の晩餐」の席で、ペテロに、
「シモン、シモン(ペテロの本名。ペテロ〔岩の断片、石〕はイエスが付けたあだ名)、見なさい。サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました。しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」と言われたとき、ペテロは言ったのだそうです。
「主よ。ごいっしょになら、牢であろうと、死であろうと、覚悟はできております」。

しかし、その夜、イエスが捕らえられ、大祭司の家で裁判にかけられているとき、庭までついて行ったペテロは、
女中から「この人も、イエスといっしょにいました」と言われ、
「あの人を知りません」と3度も打消し、
そのとき、鶏が鳴いたのだそうです。

振り向いてペテロを見つめられたイエスのまなざしは、
責めるでもなく、なじるでもなく、
とっても優しかったのでしょうね。

それで、ペテロは、外に出て、大地に身を投げ出して泣いたのでしょうね。


 「神のひとりのようになり、善悪を知る者になった」(創世記3:5、22)私たちは、
汚(けが)れた着物のよう、なのだそうです。
どこまでも、天の神、主に対抗し、
「私は自分の努力でこれだけ善い人間になりました」と神の前に自分を誇ろうとする者のようです(ロマ7:18~25)。

 けれども、天の神、主は、そのような私たちを焼却処分にせず、
この時の、ペテロを見つめられたイエスのように、慈愛に満ちた目で見つめてくださり、
イエスによって、的外れの責任を全部ご自身に受け取ってくださって、処罰済みとし、

受け入れる者にもう一人の助け主、〔聖である霊〕と呼ばれる方を派遣してくださって、
この方によってご自身の御思いを一人一人の心に置いてくださり、
私たちを、心が一新されたもの(ロマ12:2)としてくださるのだそうです。

 それで、私たちも、私たちの主、キリスト・イエスを知っていることの素晴らしさのゆえに、
人間的なものを頼みとしないで、
キリストを得、キリストの中にある者と認められ、
律法を自分の力で行うことによって得られる自分の義ではなく、
キリストを信じる信仰による義、
信仰に基づいて、神から与えられる義を持つことができる、という望みで生きるようにしていただけるのだそうです。

キリストとその復活の力を知り、
またキリストの苦しみにあずかることも知って、
キリストの死と同じ状態になり、死者の中からの復活に達するよう、
後ろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、
キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、
目標を目指して一心に走るのだそうです(ピリピ3:1~14)。

〔聖である霊〕と呼ばれる方によって。
今日も。
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