朝明けに

聖書のことばから、うれしい一日一日の糧を!

私たちの救いと栄えとは、神にかかっているのだそうですから

2017-07-16 22:38:10 | 聖書から
あなたがたは恵みにより、信仰によって救われました。
このことは、神の賜物です。エフェソ書2:8 (7/16の週の聖句)

 私の救いと栄とは神にかかっている。詩62:8

 イエスはペテロに言われた。
「わたしはあなたのために、
信仰がなくならないように祈った」ルカ22:32

 ルカ5:1~11
 詩1(通読箇所)
   (ローズンゲン日々聖句7/16;Ⅲ日)

 私たちの救いは、私たちの側の何かから始まったことではなく、
天の神、主、「わたしはあるという者」と名乗られる方から出ているのだそうです。

 「わたしはあるという者」と名乗られる方は、
「さあ、人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて」と仰られて(創世紀1:26)、
最初の人アダムとエバを造られたのだそうですが、
アダムとエバは、その造られた、天の神、主と思いを一つにして生きる場に留まることをせず、
もっと素晴らしい者になろうとして、
「神のひとりのようになり、善悪を知る者」になる道を選んだのだそうです。
それで、アダムとエバの子孫である私たち人間は、すべて、
この「神のひとりのようになり、善悪を知る者」として生まれてきているのだそうです。

 この、創造の目的から〔的外れ〕になり、ズレてしまっている私たちを、
天の神、主は、廃棄処分にせず、なお、大切に思っていてくださって、
最初の創造の目的、「われわれのかたち、われわれに似せた者」に回復しようと計画してくださるのだそうです。

 天の神、主は、まず、
「みんなは悪くても、一番いいものから人類を造り直せばよくなりますよ」という、私たち人間の側の言い分に対して、
当時、一番正しい生き方をしていたノアを選び、
このノアの家族から新しい人類を生まれさせられました。
が、その結果が今の世界です。

 次いで、天の神、主は、私たちの、
「私たちだって、その気になりさえすれば、あなたが仰る通りの正しい生活ができますよ。
私は、ちゃんと自分の力で正しく生きていけます。
救い主など必要ありません」という言い分に対して、
ひとりの人アブラハムを選び、この人から一つの民族、イスラエル民族を生まれさせて、
この民族にご自身の思いを律法という形で文章で示し、
民は「主の仰せられたことはみな行います」と答えて(出エジプト19:8、24:3、7)、神の民となる契約を結ばれたのですが、
そのイスラエルの歴史においても、
人々は、「神のひとりのようになり、善悪を知る者」として、
自分の理性の判断による、自分が善いと思う道を行くばかりで、
何度、預言者を派遣して立ち返るよう呼び掛けても、
「われわれのかたち、われわれに似せた」者にはならなかったのですね。

 そして、これ以上放置できない時点になり、ついに、アッシリアを用い、バビロンを用いてイスラエルを打たれるそのとき、新しい契約の約束を与えられたのだそうです。

天の神、主、自らが人間のこの〔的はずれ〕の責任を負い、人々をきよめたうえで、
〔聖である霊〕と呼ばれる方を受け入れる者に派遣して、この方によって受け入れる者の心にご自身の御思いを書き付け、
受け入れる者がご自身と思いを一つにし、心を一つにしながら生きるようにする(エレミヤ31:31~34、エゼキエル36:25~28)という。


 そして、ご計画の時が満ちて、〔御子である神〕が、「女の子孫」として(創世記3:15)、人の世に来られ(ヨハネ1:14)、
自ら十字架刑での処刑を受けられ、そして、約束の〔聖である霊〕と呼ばれる方が、待ち望んでいたイエスの弟子たちに来られて、弟子たちは、この方が心に置かれる御思いのとおりを話す者にしていただいたのだそうです(使徒2:1~4)。

 そして、この約束は、イエスの十字架刑での処刑によるそむきの罪の赦しを受け取るすべての人に与えられており(使徒2:37~39)、
受け入れる者は〔父である神〕と思いを一つにして生きることができるのだそうです。

このように、この救いの出来事は最初から最後まで、天の神、主から出ていることであって、
神にかかっていること、神からの賜物、プレゼントなのだそうです。

 私たちが、これを受け入れ、受け取り、思いを一つにして生きる、
それはイエスご自身が願い、祈っていること、なのだそうですから。
この新しい週も。
イメージ 1

[にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ]

[https://blog.with2.net/link/?1470390人気ブログランキングへ]

[269RANKのランキングサイト]


羊は、その声を知っているので、ついて行く

2017-07-15 08:45:45 | 聖書から
モーセは主に言った。
どうか、
この国民があなたの民であることも
目にお留めください。出エジプト33:13

 良い羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。
自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って行く。
羊はその声を知っているので、ついて行く。ヨハネ10:3~4

 ヨナ4:1~11
 フィリピ書1:12~18a(通読箇所)
  (ローズンゲン日々の聖句7/15;土)

 エジプトを脱出し、シナイ山のふもとに宿営したイスラエルの民。
神である主は、
「わたしは、あなたをエジプトの国、奴隷の家から連れ出した、あなたの神、主、『わたしはあるという者』である。
あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。
あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない」(出エジプト⒛:2~4)と言われ、
民は、「主の仰せられたことはみな行います」と答え、神の民となる契約を結んだ人々。

 しかし、モーセがシナイ山に登り、下りてくるのが遅いと、
モーセは40日ほど山にいたようですが、
「さあ、私たちに先立って行く神を、造ってください。
私たちをエジプトの地から連れ上ったあのモーセという者が、どうなったのか、私たちにはわからないから」とアロンに迫り、金の子牛を造り、お祭りをはじめたのだそうです。

 けれども、このような民のことも、モ-セは、なお、「この国民があなたの民であることも目にお留めください」と執り成すのですね。


 イエスは、ご自身を羊飼いに例え、ご自分の民は、羊飼いの声を知っているので、先頭に立って行く羊飼いについて行く、と言われるのですね。

 イエスは、また、言われました。
「わたしにはまた、この囲いに属さないほかの羊があります。
わたしはそれをも導かなければなりません。
彼らはわたしの声に聞き従い、一つの群れ、ひとりの牧者になるのです」(ヨハネ10:16)と。


 預言者ヨナは、神から、アッシリアの首都ニネメベに遣わされて、
「もう、40日すると、ニネベは滅ぼされる」と預言して回ったのですが、
それを聞いたニネベの人たちが、神に立ち返り、行い改めたのを見て、
神が、ヨナを通して宣言されたとおりにニネメベの人たちを滅ぼさなかったので怒ったのだそうです。
それで、神は、怒るヨナを諭して、
「わたしは、この大きな町ニネベを惜しまないではいられようか。
そこには、右も左もわきまえない12万以上の人間と、数多くの家畜とがいるではないか(ヨナ3:11)と仰られたのだそうです。


 天の神、主、「わたしはあるという者」と名乗られる方は、
御子イエスによって私たちの的外れの責任を処理済みにし、
〔聖である霊〕と呼ばれる方によって、
私たちがこの方に聞き、御自分と思いを一つにしながら生きていってほしいのだそうですね(ピリピ1:18)。
今日も。
イメージ 1

[にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ]

[https://blog.with2.net/link/?1470390人気ブログランキングへ]

[269RANKのランキングサイト]


慈しみとまことは、互いに出会い、正義と平和は、互いに口づけする御国で

2017-07-14 09:01:58 | 聖書から
主を畏れる人に救いは近く、
慈しみとまことは出会い、
正義と平和は口づけする。詩85:10、11 

 私たちは義の宿る新しい天と地とを、
神の約束に従って待ち望んでいるのです。Ⅱペテロ3:13

 フィリピ書2:1~5
 フィリピ書1:1~11(通読箇所)
  (ローズンゲン日々の聖句7/14;金)

 慈しみ、恵みとまこととは、互いに出会い、正義と平和とは、互いに口づけするのだそうです。
新しい天と地では。

 その神の御国の到来を待ち望んでいるのですね。
約束のことばに従って。

 天の神、主、「わたしはあるという者」と名乗られる方は、
私たちの、「神のひとりのようになり、善悪を知る者」になっている、自分自身である〔生まれた時からの私〕という霊を、イエスの十字架刑での処刑に合わせていただいて、処刑されたもの、死んだものとして死亡手続を済ませてくださり、
受け入れる者にもう一人の救い主、〔聖である霊〕と呼ばれる方を派遣してくださるのだそうです。

 そして、受け入れる者は、この方の満たしの中にあって、〔父である神〕が私たち一人一人に思っておられる御思いを、心に置いてくださるのだそうです。

 それで、受け入れる者は、〔父である神〕と思いを一つにし、心を一つにして生きるようにしていただけるのだそうです。

 受け入れる者は、〔父である神〕と思いを一つにしておられる〔御子である神〕、イエスの思いの中にもいる者としてくださって、
励まし、愛の慰め、御霊の交わり、愛情とあわれみを持つ者ともしてくださり、
喜びに満たされ、一致を保ち、同じ愛の心を持ち、心が合わせられ、志を一つにしていただけるのだそうです(ピリピ2:1~2)。

 自分が神のひとりのようになり、他の人より優れた者にならないと気が済まない、自己中心や虚栄を、死んだ者から出て来た思いとして(ロマ6:11、コロサイ2:20、3:3)、横に眺めながら、
へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思い、
自分のことだけではなく、他の人のことも顧みるようにしていただけるのだそうです(ピリピ2:3~4)。

 それで、イエスが私たちを迎えに、もう一度、来られるその日には(Ⅰテサロニケ4:16~17)、私たちは、葉ばかり茂って実が一つもない、いちじくの木のようではなく(マルコ11:13)、イエスが遣わされた〔聖である霊〕と呼ばれる方による義の実に満たされている者ともしてくださるのだそうですね(ピリピ1:11)。
今日結ぶ、その実に。
イメージ 1

[にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ]

[https://blog.with2.net/link/?1470390人気ブログランキングへ]

[269RANKのランキングサイト]

神が住まわれる、神のからだとしてくださり

2017-07-13 08:53:00 | 聖書から
ソロモンは神殿を献堂して言った。
「神は果たして地上にお住まいになるでしょうか。」列王記上8:27

いまだかって、神を見た者はいない。
父のふところにいる独り子である神、
この方が神を示されたのである。ヨハネ1:18

 Ⅰコリント12:19~26
 使徒16:25~40(通読箇所)
  (ローズンゲン日々の聖句7/13;木)

 ソロモンの栄華と言われる、栄華を極めるそのソロモンが建てた神殿についてさえも、
ソロモンは、「天の神、主、『わたしはあるという者』と名乗られる方をお入れすることはできません」と言うのですね。
天は、天の神、主の王座、地は足台だと仰られる方ですから。

 私たち人間は、神をあれこれ考えますが、しかしそれらは、私たち人間の想像、推論あって、必ずしも、神の実態ではないようです。

 使徒ヨハネは言います。
「いまだかって、神を見た者はいない。
父のふところにおられる独り子である神、
この方が神を示されたのである」と。

 独り子である神、「神のことば」の立場におられる方、その方が人となってこの人の世に来られた。
この方によって私たちは神を体験することになるのだそうです。

 そして、このイエスが受けられた十字架刑での処刑に合わせていただいて、
「神のひとりのようになり、善悪を知る者」になっている、自分の〔生まれた時からの私〕という霊を、処刑済みのもの、死んだものとしていただき、
三日目に死人の中より新しい霊のからだに復活し、天に帰り、〔父である神〕の右の座に帰られたイエスが派遣してくださるもう一人の助け主、
〔聖である霊〕と呼ばれる方をお迎えする者は、
神が内に住まわれるところ、神の神殿としていただけるのだそうです。

 そして、この方によって〔父である神〕が私たち一人一人に思っておられる御思いを心に置いていただき、〔父である神〕と思いを一つにして生きる者は、
神の〔からだ〕と呼ばれ、
〔父である神〕が思われるように生きる者にしていただけるのだそうです。

 ちょうど、ある人とそのからだの関係、
からだ、その肢体、手足が、その人の思うように動くように(Ⅰコリント12:19~26)。

 私たち一人一人を、神が住まわれる神殿としてくださり、
神のからだの一部、肢体として、御思いを実現していく者にしてくださるのだそうです。
ピリピでのパウロとシラスのように(使徒16:25~40)。
今日も。
イメージ 1

[にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ]

[https://blog.with2.net/link/?1470390人気ブログランキングへ]

[269RANKのランキングサイト]


御国を受け継ぐことの保証としての証印を押していただき

2017-07-12 09:51:05 | 聖書から
「わたしは二度とわが顔を彼らに隠すことなく、
わが霊を
イスラエルの家に注ぐ」と主なる神は言われる。エゼキエル書39:29

 あなたがたもまた、
キリストにおいて、
約束された聖霊で証印を押されたのです。エフェソ書1:13

 マルコ11:(⒛、21)22~26
 使徒16:16~24(通読箇所)
  (ローズンゲン日々の聖句7/12;水)

 天の神、主、「わたしはあるという者」と名乗られる方は、
「さあ、人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて」(創世記1:26)と望まれて、私たち人間を造られたのだそうです。

 けれども、最初の人アダムは、その、天の神、主と思いを一つにしていく、その場に留まることをせず、
もっと自分を高めようと思い、
「神のひとりのようになり、善悪を知る者」になって(創世記3:5、22)、
天の神、主に対立、対抗する者になったのだそうです。
そして、このアダムの子孫であるわたしたちもこの性質を受け継いで生まれて来ているのだそうです。
ダビデ王が、「ああ、私は咎(とが)あるものとして生まれ、罪ある者として母は私を身ごもりました」(詩篇51:5)と言っているのは、このことを指しているようです。

 天の神、主は、私たちがなお、「私は自分の力でちゃんとやって見せます。救い主など私には必要ありません」という口を封じるため、
まず、そのときの最良の者であったノアを選び、
このノアとその家族から新しく歴史を始められたのですが、その結果は今の世界のようでした。

 次いで、天の神、主は、一人の人アブラハムを選び、この一人の人から一つの民族を育て、
この民族にご自身の御思いを、「律法」という形で示し、
民は、「主の仰せられたことはみな行い、聞き従います」と答え(出エジプト19:8、24:3、7)、
天の神、主は、この民、イスラエルの神となり、この民をご自身の「祭司の王国、聖なる国民」(出エジプト19:6)とすると言われ、契約が結ばれたのだそうです。

 けれども、その後の800年ほどのイスラエルの歴史においても、民は、「神のひとりのようになり、善悪を知る者」として、自分の善いと思う道を歩むばかりで、天の神、主と思いを一つにしようとはしなかったのだそうです。

 神の「律法」を自分の力で行いますといくら答えても、行い得ない、
律法によっては義とされることはできないことがこのイスラエルの歴史においても明らかにされた、ということでしょうか。

 それで、何度も預言者を遣わしてご自身に立ち返るよう呼び掛けても応じようとせず、自分の道を行くばかりの民をこれ以上放置できず、
アッシリアを、次いでバビロンを用いて懲らしめようとされるそのとき、一つの約束を与えられたのだそうです。

 「見よ。その日が来る。――主の御告げ――その日、わたしはイスラエルの家とユダの家とに、新しい契約を結ぶ。
その契約は、わたしが彼らの先祖の手を握って、エジプトの国から連れ出した日に、彼らと結んだ契約のようではない。
わたしは彼らの主であったのに、彼らはわたしの契約を破ってしまった。
――主の御告げ――
彼らの時代の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうだ。
――主の御告げ――
わたしはわたしの律法を彼らの中に置き、彼らの心にこれを書きしるす。
わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる」(エレミヤ31:31~33新改訳)。

 「わたしがきよい水をあなたがたの上に振りかけるそのとき、
あなたがたはすべての汚れからきよめられる。
わたしはすべての偶像の汚れからあなたがたをきよめ、
あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を授ける。
わたしはあなたがたのからだから石の心を取り除き、あなたがたに肉の心を与える。
わたしの霊をあなたがたのうちに授け、わたしのおきてに従って歩ませ、わたしの定めを守り行わせる。
あなたがたは、わたしがあなたがたの先祖に与えた地に住み、
あなたがたはわたしの民となり、わたしはあなたがたの神となる」エゼキエル36:25~28)。

 この約束からさらに700年ほどの時を経て、いよいよご計画の時が満ちて、〔御子である神〕が、女の子孫(創世記3:15)として人の世に来られ、
およそ33歳の頃、十字架刑での処刑を受けてくださり、
受け入れる者のからだから石のように自分の思いで凝り固まった心、
「神のひとりのようになり、善悪を知る者」となっている〔生まれた時からの私〕という霊をイエスと一緒に十字架に架けられ処刑されたもの、死んだものとして取り除き、
約束の〔御霊なる神〕、〔聖である霊〕と呼ばれる方が来てくださって、
〔父である神〕の私たち一人一人に思っておられる御思いを心に置いてくださり、
受け入れる者がこの御思いによって生きるようにしてくださったのだそうです。

 この、〔聖である霊〕と呼ばれる方によって〔父である神〕の御思いのように生きる生き方が天の御国での生き方であり、
そのまま、天の御国に通用する生き方、天の御国を受け継ぐ証印でもあるようですね。

 天の御国の生き方を、この地で練習しているということでしょうか。
今日も。

[にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ]

[https://blog.with2.net/link/?1470390人気ブログランキングへ]

[269RANKのランキングサイト]