朝明けに

聖書のことばから、うれしい一日一日の糧を!

「栄光の座」にふさわしい者にしていただけて

2018-06-25 10:11:29 | 聖書から
 我々を見捨てないでください。
あなたの栄光の座を
軽んじないでください。エレミヤ書14:21

 パウロの手紙:
私たちの神が、
あなたがたを招きにふさわしいものとしてくださり、
また、その御力で、
善を求めるあらゆる願いと信仰の働きを
成就させてくださるように。Ⅱテサロニケ1:11

 マタイ10:26~33
 ホセア書2:16~25(新改訳12~23)(通読箇所)
   (ローズンゲン日々の聖句6/25;月)

 天の神、主、
「『わたしはある(I AM)』という者」と名乗られる方は、
エルサレムの神殿を栄光の御座とされました。

 イエスは言われます。
「父(である神)を礼拝するのは、
この山(サマリヤのゲリジム山)でもなく、
エルサレムでもない、
そういう時が来ます。
真の礼拝者たちが
霊とまことによって父(である神)を礼拝する時が来ます。
今がその時です」(ヨハネ4:21~23)」、と。

 そして、イエスが、
私たちの身代わりとなって十字架刑での処刑を受けられ、
墓に葬られ、
三日目に死人のうちから新しい霊のからだに復活し、
40日に渡って何度も弟子たちに現れて、
神の国のことを語ったのち、
オリーブ山で弟子たちが見守る中、
雲に迎えられて、
天の〔父である神〕の右の座に帰られた今は、
このイエスの贖(あがな)いによる救いを受け入れた者に、
イエスを通して、
もう一人の助け主、〔聖である霊〕と呼ばれる方が来られ、
「その腹から、生ける水の川が流れ出るようになる」(ヨハネ7:38)のだそうです。

 イエスの贖いによる救いを受け入れた者、ひとりひとりが、
「神が住まわれる神殿」、
「栄光の座」としていただけるのだそうです。

 天の神、主は、
ご自身の「栄光の座」とした私たち一人一人を、
「見捨てられたもの」と言われたり、
周りの人々から軽んじられたりすることがないように、
ご自身の「栄光の座」、神殿にふさわしい者に、
ご自身の名をもって呼ばれる、
「神の子」、「神の家族」にふさわしい者にしようとし、
御力によって、
善を慕うあらゆる願いと信頼の働きとを全うしてくださるのだそうです(Ⅱテサロニケ1:11)。

 だから、私たちは、
「神のひとりのようになり、善悪を知るように」なっている、
〔生まれたときからの私〕という霊による、
至らなさや、神にふさわしくないものなどが出て来ますが、
それらの一つ一つをイエスの前に投げ出し、
見ていただき、知っていただき、受け取っていただきながら、

 大胆に、イエスを「私の救い主」、「主」と言い表してよいのだそうです(マタイ10:26~33)。
「あなたは私の神」(ホセア2:23)と。

 私たちの頭の毛さえも、みな数えていてくださって、
その一本さえもこの方の許しがなければ
抜け落ちることはない(マタイ10:29~30、ルカ21:18)、のだそうですから。

 安心して、イエスを通して来てくださる
〔聖である霊〕と呼ばれる方が心に置いてくださる、
〔父である神〕の御思いに心を向け、
その御思いについて行ってみたいですね。
どのようなことが起こるのか。
今日も。

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天の神、主の、知恵と力が来るのだそうですから

2018-06-24 21:25:53 | 聖書から
 互いに重荷を担いなさい。
そのようにしてこそ、
キリストの律法を全うすることになるのです。ガラテヤ書6:2(6/24の週の聖句)

 神の御名をたたえよ、
世々とこしえに。
知恵と力は神のもの。ダニエル書2:20

 洗礼者ヨハネの言葉:
天から与えられなければ、
人は何も受けることができない。ヨハネ3:28

 ルカ6:36~42
 詩58(通読箇所)
   (ローズンゲン日々の聖句6/24;Ⅳ日曜)

 私たちの持っているものは、
私たち自身の存在も含めて、全部、
天から与えられたもの、
〔父である神〕の御思いから出ているのだそうです。

 天の神、主、
「『わたしはある(I AM)という者」と名乗られる方は、
私たち一人一人に、
綿密な計画を立てておられるのだそうです。
祝福の計画を。
ご自身の知恵と力をもって。

 だから、この、
「神のひとりのようになり、善悪を知るようになって」(創世記3:5、22)、
天の神、主に背き、
この方に対立、対抗している
〔生まれたときからの私〕という霊を、
イエスが受けてくださった十字架刑での処刑で、
処刑されたもの、死んだものとしていただき、

 このイエスを通して来てくださる
〔聖である霊〕と呼ばれる方をお迎えし、
この方が心に置いてくださる
〔父である神〕の御思いによって生きていくとき、
私たちは、神のご計画に沿った、
意義のある、幸せな今日を生きることになるのだそうです。

 私たちの、
〔生まれたときからの私〕と言う霊から来る思いは、
自分を人よりも上に置かなければ気が済まず、
人を自分の善悪の判断のとおりに動かそうとし、
善いものをすべて、独占しようとする思いなのですね。

 でも、〔聖である霊〕と呼ばれる方が私たちの心に置いてくださる
〔父である神〕の御思いは、
相手を大切に思い合い、
互いに、相手の重荷を負い合おうと思う思いなのだそうです。

 あわれみ深い、
人を「あの人はダメな人だ」とさばいて、断定し、
罪に定めることなく、
赦していく思い、
人に与えていこうと思う思いなのだそうです。

 天の神、主は、
知恵と力を、
そして、生きていくのに必要なもの、すべてを、
量りをよくして、
押しつけ、揺すり入れ、あふれるまでにして、
私たちに与えたいと思っていてくださるのだそうですから(ルカ6:36~38)。

 この新しい週も。

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私たちを豊かにさせようと

2018-06-23 00:01:03 | 聖書から
 主はその偉大な御名のゆえに、
ご自分の民を
決しておろそかにはなさらない。サムエル記上12:22

 あなたがたは、
私たちの主イエス・キリストの恵みを
知っています。
主は豊かであったのに、
あなたがたのために貧しくなられた。
それは、主の貧しさによって、
あなたがたが豊かになるためだったのです。Ⅱコリント8:9

 ヨナ書3:1~10
 ホセア書2:4~15(通読箇所)
   (ローズンゲン日々の聖句6 /23;土)

 天の神、主、
「『わたしはある(I AM)』という者」と名乗られる方は、
ご自分の名にかけて、
ご自分の民をおろそかにはなさらない方なのだそうですね。

 私たちを豊かにするために、
〔御子である神〕ご自身が、神の子の位を後にして、
人となり、人の世に来られ、
しかも、王宮にでもなく、
エルサレムにでもなく、
「ナザレから何の良い者がでるであろう」と言われていた、ナザレの
貧しい大工の子として育たれたのですね。

 そして、人生の真っ盛り、33歳の頃、
神に呪われた者として十字架刑での処刑を受けられるところまで、
低く、貧しくなってくださったのだそうです。

 そのことによって、私たちを、
「神のひとりのようになり、善悪を知るようになっている」、
神にそむき、神に対立、対抗している、
「的外れ」になってしまっている、
〔生まれたときからの私〕という霊を、
処刑が終わっている者、
死んだものとしてくださるのだそうです。

 そのうえで、もう一人の助け主(ヨハネ14:16)、
〔聖である霊〕と呼ばれる方が受け入れる者に来てくださって、
私たちの心に
〔父である神〕の御思いを置いてくださって、
受け入れる者が、〔父である神〕と思いを同じくし、
心を一つにする者にしてくださるのだそうです。

 神の子の身分を与え、
神の家族として天の御国を受け継ぎ、
イエスと栄光を共にする者にしてくださるのだそうです。

 だから、滅ぼさなくて済むように、
このイエスによる救いを受け取ってほしいのだそうです(ヨナ3:9~10)。

 恋人の後を追って行った女が、
「私は行って、初めの夫に戻ろう。
あの時は、今よりも私は幸せだったから」と言うように(ホセア2:9、新改訳2:7)。

 天の神、主の豊かさの中へ。
今日も。

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私のただ中に来て

2018-06-22 08:06:40 | 聖書から
娘、シオンよ、
声をあげて喜べ。
わたしは来て、あなたのただ中に住まう、
と主は言われる。ゼカリヤ書2:14(新改訳では2:10)

 神は、独り子をお遣わしになりました。
その方によって、
私たちが生きるようになるためです。
ここに、神の愛が
私たちの内に示されました。Ⅰヨハネ4:9

 ガラテヤ書3:6~19
 ホセア書2:1~3(新改訳1:10~2:1)(通読箇所)
   (ローズンゲン日々の聖句6/22;金) 

 天の神、主、
「『わたしはある(I AM)』という者」と名乗られる方は、
私たちを愛してくださって、
私たちとひとつ家族となり、
いっしょに住んで、
心を一つになる関係になりたいと思っていてくださるようですね。

 そのために、独り子である方が、
アダムの背き、「的外れ」を引き継がない「女の子孫」として、
処女マリヤの胎を通して
人として、人の世に生まれられたのだそうです。

 そして、この方がおよそ33歳の頃、
私たちの身代わりとなり、
私たちの背き、「的外れ」の責任をご自身に負って、
神に呪われた者となって木にかかり(申命記21:23、ガラテヤ3:13)、
十字架刑での処刑を受けてくださったのだそうです。

 そして、「神のひとりのようになり、善悪を知るようになっている」(創世記3:5、22)、
私たちの〔生まれたときからの私〕という霊を
処刑済みのもの、死んだものとしてくださるのだそうです。

 そのうえで、受け入れる者にもう一人の方、
〔聖である霊〕と呼ばれる方が来てくださって(ガラテヤ3:14)、
この方が、私たちの心に、
〔父である神〕が私たち一人一人に思っておられる御思いを
置いてくださるのだそうです(エレミヤ31:31~34、エゼキエル36:25~28)。

 それで、受け入れる者は、心に
〔父である神〕の御思いを持つ者にしていただけるのだそうです。
愛によって、心を一つにする者に、
私たちの思いが神のうちにあり、
神の御思いが私たちのうちにある(Ⅰヨハネ4:13)ように。

 「生ける神の子ら」と言われ、
「わたしの民」、
「愛される者」と言われる者に(ホセア2:1~3、新改訳1:10~2:1)。

 私たち、イエスによって、〔聖である霊〕と呼ばれる方をお迎えし、
〔父である神〕の御思いを置いていただくのですね。
 私たちと、思いを一つにしたいと思っていてくださるのだそうですから。
今日も。

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誰が、信頼できるでしょう?

2018-06-21 16:58:51 | 聖書から
 万軍の主よ、
あなたに依り頼む人は、
いかに幸いなことでしょう。詩84:13

 アブラハムは
希望するすべもなかったときに、
なおも望みを抱いて、信じた。ロマ書4:18

 マタイ18:15~20
 ホセア書1:1~9(通読箇所)
   (ローズンゲン日々の聖句6/21;木)

 万軍の主と呼ばれ、
天使の軍団、万軍に号令をかけられる方、
天の神、主、
「『わたしはある(I AM)』という者」と名乗られる方を
信頼する者は
幸せな者、なのですね。
 天の神、主、
「『わたしはる(I AM)』という者」と名乗られる方は、
アブラハムに約束して、言われたのだそうです。

 「さあ、天を見上げなさい。
星を数えることができるなら、それを数えなさい。
あなたの子孫はこのようになる」と。

 けれども、子が生まれないまま、年月は進み、
アブラハムは100歳になり、
自分のからだが死んだも同然であり、
妻のサラは90歳、
女の常々のことはもうとっくになくなっていて、
その胎は死んでいることを認めながら、

 なお、死者を生かし、
ないものを有るもののようにお呼びになる方に信頼し、
約束の言葉が実現することを待ち望んだのだそうです。

 そして、ついに、その不妊の女、妻サラから、
約束の子、イサクが生まれることになったのですね。

 天で、
〔父である神〕の御思いの中で成っていることが、
ご計画の時が満ちて、
地に、
私たちに実現するのだそうですから(マタイ18:18:18)。

 約束された方、
天の神、主、
「『わたしはある(I AM)』という者」と名乗られる方に
信頼する者は、なんと幸せなことでしょう。
今日も。

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