朝明けに

聖書のことばから、うれしい一日一日の糧を!

この方の恵みから、さらに豊かな恵みの中へ

2018-06-20 07:55:19 | 聖書から
 主 は、
恵みの倉である天を開いて、
季節ごとにあなたの土地に雨を降らせ、
あなたの手の業すべてを祝福される。申命記28:12

 私たちは皆、
この方の満ちあふれる豊かさの中から、
恵みの上に、さらに恵みを受けた。ヨハネ1:16

 ミカ書7:7~9、18~20
 アモス書9:11~15

 天の神、主、
「『わたしはある(I AM)』という者」と名乗られる方は、
ご自身の満ちあふれる豊かさの中から、
私たちを恵み、
さらに恵もうとしておられる方。
天の窓を開いて、季節に従って雨を降らせて、地を潤し、
作物を育て、実らせてくださる方。
私たちの手の業すべてを
祝福しようとしていてくださる方なのだそうですね。

 たとえ、私たちが今、倒れていても、
暗闇にすわっていても、
天の神、主の激しい怒りを身に受けていても、
〔父である神〕は、
イエスの義において私たちを裁いてくださるのだそうです。

 だから、私たちは、この方を仰ぎ見、
救いの神として待ち望むといいのだそうです。
この方は、イエスによって、
私たちの願いを聞いてくださる方なのだそうですから。

 この方は、
イエスが受けてくださった十字架刑での処刑を私たちに適応し、
私たちの咎(とが)、背きの罪を、処罰済みとして、
見過ごしてくださり、
いつくしみを喜んで下さるのだそうですから(ミカ7:7~9、18~20)。

 「その日、
わたしは、ダビデの倒れている仮庵を起こし、
その破れを繕い、その廃墟を復興し、
昔の日のようにこれを建て直す。

 見よ。その日が来る。
山々は甘いぶどう酒をしたたらせ、
すべての丘もこれを流す。
わたしはわたしの民イスラエルの繁栄を元どおりにする。
彼らは荒れた町々を建て直して住み、
ぶどう畑を作って、そのぶどう酒を飲み、
果樹園を作って、その実を食べる。

 わたしは彼らを彼らの地に植える。
彼らは、わたしが与えたその土地から、もう引き抜かれることはない」
と天の神、主は、仰せられる(アモス9;11~15)のだそうですから。

この方は、私たちを、恵みから
さらに豊かに恵もうと思っていてくださるのだそうですから。
今日も。

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〔父である神〕の御思いによって生きるようにしていただけて

2018-06-18 22:44:24 | 聖書から
 わたしの裁きを行い、
わたしの掟に従って歩むなら、
彼は父の罪のゆえに死ぬことはない。エゼキエル書18:17

 あなたがたが
先祖伝来のむなしい生活から贖われたのは、
金や銀のような朽ち果てるものにはよらず、
キリストの尊い血によるのです。Ⅰペテロ1:18~19

 士師記10:6~16
 アモス書9:1~10(通読箇所)
   (ローズンゲン日々の聖句6/19;火)

 私たちは、
イエスが十字架刑での処刑を受けて、献げてくださったた
イエスご自身の血によって、
先祖伝来のむなしい、実を結ばない、
意味のない生活から買い戻されたのだそうです。

 そして、イエスを通して来てくださる
〔聖である霊〕と呼ばれる方によって、
心に、〔父である神〕の御思いを置いていただき、
〔父である神〕と同じ思い、一つ心にしていただいて、
その、心に来た〔父である神〕の御思いによって
生きるようにしていただけるのだそうです。

 それで、もう、父の罪、
最初の人、アダム以来、ずっと引き継いで来た
「的外れ」の責任から解放されて、
意味のある生を生きる者にしていただけるのだそうです。

 他の神々に心を寄せず、
隣人の妻を汚さず、
だれをもしいたげず、
質物をとどめておかず、
物をかすめず、
飢えている者に自分の食物を与え、
裸の者に着物を着せ、
卑しいことから手を引き、
利息や高利を取ったりしないで(エゼキエル18:14~17新改訳)。
今日も。

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〔聖である霊〕と呼ばれる方が、私たちの内にとどまり

2018-06-17 19:05:04 | 聖書から
 人の子は、
失われたものを捜して
救うために来たのである。ルカ19:10(6/17の週の聖句) 

 わたしの霊は
お前たちの中にとどまっている。
恐れてはならない。ハガイ書2:5

 希望は私たちを欺(あざむ)くことがありません。
私たちに与えられた聖霊によって、
神の愛が
私たちの心に注がれているからです。ロマ書5:5

 ルカ15:1~3、11b~32
 詩139(通読箇所)
   (ローズンゲン日々の聖句6/17;Ⅲ日曜)

  「人の子」とは、
普通、人間を指して使われる言葉ですけれど、
イエスは、ダニエル書7:13~14、
「見よ。人の子のような方が天の雲に乗って来られ、
年を経た方のもとに進み、その前に導かれた。

 この方に、主権と光栄と国が与えられ、
庶民、諸国、諸国語の者たちがことごとく、
彼に仕えることになった。
その主権は永遠の主権で、過ぎ去ることがなく、
その国は滅びることがない」(新改訳)とある、
その「人の子のような方」を指して、
自分がそれだ、という意味で、
ご自身のことを「人の子」と言われたようです。
 〔御子である神〕が、人となって人の世に来た者だ、と。

 そして、イエスは、
自分が人となって人の世に来たのは、
失われていない、
さまよい出ていない、
「的外れ」になっていない、
ちゃんとやっている人を捜しに来たのではなく、

 失われている者、
さまよい出て「的外れ」になっている者を探し出して
救うために来たのだ、と。

 そして、〔父である神〕は、
自分の相続分の生前贈与を求め、
それをまとめて遠くの町に出かけ、
放蕩している弟息子の帰りを待ちわびている父親、

 全財産を、使い果たし、
無一文になって、食べるのにも窮して、
父の家を思いだし、
謝ろうと帰って来た弟息子が、まだ、家からは遠くにいるのに、
彼を見つけ、
かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけし、
一番良い着物を着せ、
手に指輪をはめさせ、靴をはかせて、
肥えた子牛を引いて来てほふらせ、
祝宴を始めた、父親のようだ(ルカ15:11~24)、と。


  〔父である神〕は、
「さあ、人を造ろう。
われわれのかたちとして。われわれに似せて」(創世記1:26新改訳)と願って、
〔父である神〕、〔御子である神〕、〔聖である霊〕と呼ばれている神が、
愛において、
自由意思で、自発的に、
心を一つにしておられる、
その一つに加わる者をと願って、
私たち人間を造ってくださったのだそうです。

 しかし、最初の人、アダムとエバは、
その、造られた、神との一つの場にとどまることをせず、
もっと偉い者になろうとして、
「神のひとりのようになり、
善悪を知るようになろう」(創世記3:5、22)として、
神の背き、神に対立、対抗する者となってしまったのだそうです。

 それで、このアダムとエバから出た私たち人間は、
「神のひとりのようになり、
善悪を知るようになった者」として、生まれてきているのだそうです。

 〔父である神〕は、そのように、ご自分に背き、
対立、対抗する者になって、
創造の目的から「的外れ」になってしまっている私たち人間を、
切り捨て、廃棄処分ことを善してせず、
創造の目的のとおりに回復しようと計画されていたのだそうです。

 それで、〔父である神〕は、
この人間の歴史を導き、
ご計画の時が満ちて、
〔御子である神〕を、人として、人の世に派遣し、
この方を私たち人間の身代わりにして、
私たち人間の背き、「的外れ」の責任をこの方に負わせて、
神に呪われた者として木に架け、
十字架刑で処刑し、
私たちの〔生まれたときからの私〕という霊を、
処刑された者、死んだものと手続きしてくださるのだそうです。

 そして、これを受け入れる者に、
もう一人の方、〔聖である霊〕を派遣し、
この、〔聖である霊〕と呼ばれる方によって、
私たちの心に、
ご自身が一人一人に思っておられる御思いを置き、書きしるして、
受け入れる者がご自身と同じ思いを思い、一つ心になるようにしようと
されているのだそうです(エレミヤ31:31~34、エゼキエル36:25~28)。
創造の目的のとおりに。

 そして、父である神は、
この、木に架けられ、処刑を受けられた方を、
死者の中から新しい霊のからだに復活させ、
天のご自分の右の座に帰らせたうえで、
ご計画の時が満ちると、
再び、今度は、天の雲に乗って地に来られるようにし、
諸民、諸国、諸国語の者たちを統治するよう、
計画されているのだそうです。

 イエスは、ご自身を、
その「人の子」だとおっしゃるのですね。
人となった〔御子である神〕、キリストだと。

 天の神、主、
「『わたしはある(I AM)』という者」と名乗られる方は、
私の内臓を造り、
私を母の胎のうちで組み立てられた方。
私の座るのも立つのも知っておられ、
胎児の私を見られ、
私のために作られた日々が、その一日もないうちに、
私のすべてをご自身の書物に書きしるしておられる方(詩篇139:2、13 ,16)。

 失われている私を捜し出して、
イエスによって滅びから救い、
〔聖である霊〕と呼ばれる方によって、私の心に御思いを置き、
ご自身と一つ心にし、
ご自身がしようと思われることを協働していく者にしてくださるのだそうです。

この希望は、必ず、成る、
私たちを欺き、失望させることはないのだそうです。
イエスによって来られた〔聖である霊〕と呼ばれる方は、
私たちの内にとどまり、働かれるのだそうですから。
この新しい週も。

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善い働きと善い言葉を語る者に

2018-06-16 08:08:11 | 聖書から
 私の受けた苦痛は平和のために他ならない。
あなたは私の魂に思いを寄せ、
滅びの穴に陥らないようにされた。
私の罪を全て、後ろに投げ捨てられた。イザヤ書38:17

 私たちを愛して
慰めと希望を与えられる
主キリストと父なる神が、
あなたがたの心を励まし、強め、
善い働きと
言葉を語るものとしてくださるように。Ⅱテサロニケ2:16~17

 ヨナ書2:1~11
 アモス書8:1~10(通読箇所)
   (ローズンゲン日々の聖句6/16;土)

 ユダの王、ヒゼキヤは病気になって、
天の神、主から、
「あなたの家を整理せよ。あなたは死ぬ。直らない」と言われ、
顔を壁に向け、主に祈って言ったのだそうです。

 「ああ、主よ。どうか思い出してください。
私が、まことを尽くし、全き心をもって、あなたの御前に歩み、
あなたがよいとみられることを行ってきたことを。」

 こうして、ヒゼキヤは大声で泣いたのだそうです。
それで、天の神、主は、
「わたしはあなたの祈りを聞いた。
あなたの涙も見た。
見よ。わたしはあなたの寿命にもう15年を加えよう」
と言ってくださったのだそうです(イザヤ38:1~6)。

 そして、病気から回復したとき、このように歌ったのですね。
私たちも、いろいろなことで苦しみ、苦痛を受けますが、
それを、そのままに、天の神、主に訴えていくとき、
私たちはこの方をもっともっと深く体験し、
この方との深い交わりに進むことができるようです。

 そして、
「わたしの受けた苦痛、苦しみは平和、平安のためでした」と言うように。
天の神、主が、私のことを思っていてくださり、
私の罪のすべてを、
御子イエスによって、
ご自身のうしろに投げ捨てていてくださることが分かるのだそうですから。

 天の神、主、
「『わたしはある(I AM)』という者」名乗られる方は、
私たちを愛して、
私たちに、恵みによって永遠の慰めとすばらしい望み、
天の神、主と共に生きる新しい生き方を与えてくださっているのだそうです。

 御子イエスの十字架刑での死によって、
私たちの「神のひとりのようになり、善悪を知るように」なって(創世記3:5、22)、
神にそむき、対立、対抗している〔生まれたときからの私〕という霊を、
処刑済み、死んだものとしてくださって、ご自身のうしろに投げ捨てられ、

 このイエスを通して、
もう一人の方、〔聖である霊〕と呼ばれる方が来てくださって、
私たちの心に
〔父である神〕が、私たち、それぞれに思っておられる御思いを
置いてくださり、

 私たちが〔父である神〕と同じ思いを思い、
一つ心にしていただけて、
〔父である神〕が私を通してしようと思われることを
していくようにしてくださるのだそうですから。

 〔父である神〕が、
私を通してしようと思われる良い働き、良いわざ、
〔父である神〕が語ろうとしておられる良い言葉を語る者に(ヨハネ8:28、12:50)。


 私たち、自分が順調なときには、
天の神、主を忘れ、さまよい出て行く者ですが、

困難な出来事、苦しみによって
魂が衰え果てたとき、
天の神、主を思いだし(ヨナ2:1~7)、
主を呼び、
この新しい生き方に立ち返ることができるようですね。

 天の神、主は、私たちの心の中を見ておられ(アモス8:4~6)、
イエスによって実現した恵みを用意して、
私たちがご自身に立ち返るのを待っていてくださるのだそうですから。
ご自身と思いを一つにし、心を一つにして生きてほしいと。
今日も。

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イエスは、私たちの咎、背きのために、むち打たれ、槍で刺し通されて

2018-06-15 11:28:03 | 聖書から
 彼(主の僕)が刺し貫かれたのは、
私たちの背きのためであり、
彼が打ち砕かれたのは、
私たちの咎のためであった。イザヤ書53:5

 私たちが神を愛したのではなく、
神が私たちを愛して、
私たちの罪を贖(あがな)ういけにえとして、
御子をお遣わしになりました。
ここに愛があります。Ⅰヨハネ4:10

 ヨハネ6:37~40(41~46)
 アモス書7:10~17(通読箇所)
   (ローズンゲン日々の聖句6/15;金)

 天の神、主、
「『わたしはある(I AM)』という者」と名乗られる方は、
「さあ、人を造ろう。
われわれのかたちとして、
われわれに似せて」(創世記1:26)、と仰られ、

 〔父である神〕、〔御子である神〕、〔聖である霊〕と呼ばれる神が、
愛において、自由意思で、自発的に一つとなっておられる、
その一つに加わり、
愛において、自由意思で、自発的に、
ご自身と心を一つにし、
存在を一つにし、行動を一つにする者を、と願われて
私たち人間を造られたのだそうです。

 けれども、最初の人、アダムとエバは、
その、愛における神との一つの場にとどまることをせず、
もっと立派な者になろうとし(創世記3:5)、
自分一人の理性の判断で事の善し悪しを決めていく者、
「神のひとりのようになり、
善悪を知るように」なった(創世記3:22)のだそうです。
天の神、主に背き、対立、対抗する、
創造の目的から「的外れ」の者に。

 それで、愛と言っても、
その「神のひとりのようになり、善悪を知るようになった」私たちからは、
自分中心の、自分勝手な、
相手を自分の思うとおりに支配しようとする愛しか、
出て来ないのですね。

 ですから、この、「生まれたときからの私」のままで、
いくら、神を、人を愛しようとしても、
それは、天の神、主が願っておられる愛ではなく、
自己中心の、自分勝手な愛でしかないのだそうです。

 天の神、主は、そのような「的外れ」になった私たちを、
なお、愛し、
求め続けてくださって、
エルサレムのごみがゲヘナの谷で焼却されていたように、
私たちを焼却処分することを善しとしないで、
創造の目的のとおりに回復しようと計画してくださったのだそうです。

 〔父である神〕は、
〔御子である神、独り子である神〕を、
人間イエスとして、人の世に派遣し、
この方を私たちすべての人間の身代わりとして立て、
この方を、神に呪われた者として十字架刑で処刑することで、

 私たちの、
「神のひとりのようになり、善悪を知る」ようになっている
〔生まれたときからの私〕という霊を
処刑された者、死んだものと手続きしてくださるのだそうです。

 そのうえで、〔父である神〕は、
この、イエスによる「死」を受け入れる者に、
イエスを通して、
もう一人の方、〔聖である霊〕と呼ばれる方を派遣してくださって(ヨハネ14:16)、
受け入れる者に「神の子」の身分を与え(ロマ8:15)、
一つ家族の者とし、

 この方の働きで、
受け入れる者の心に、
ご自身が私たち一人一人に思っておられる御思いを置いて、
受け入れる者がご自身と同じ思いを思い、
一つ心になるようにしてくださるのだそうです(エレミヤ32:31~34、エゼキエル36:25~28、ヨハネ17:21~22)。
善悪の判断をご自身と一つにする者にと。

 だから、イエスが、むち打ちの刑を受け、
十字架に架かり、
死んだことを確認するため、
ローマ兵によって脇腹から槍で突き刺されたのは、
私たちの咎、「的外れ」から回復させるための、
〔父である神〕のご計画の出来事であった、というのですね。

 私たちの〔生まれたときからの私〕という霊からは、
神を愛する思いは出て来ません。

 けれども、神は私たちを愛し続けていてくださって、
〔御子である神〕イエスによって、
私たちの、この、〔生まれたときからの私〕という霊を、
死んだもの、処刑されたものとしてくださって、
〔聖である霊〕と呼ばれる方を派遣してくださり、

 受け入れる者がご自身と一つ思い、一つ心になり、
一つ家族としての語らいの中を生きる、
「永遠のいのち」を生きるようにしてくださるのだそうです。
終わりの日によみがえる」者ともして(ヨハネ6:37~46)。

  羊を飼い、いちじく桑の木を栽培していたアモスを呼び出し、
北イスラエル王国に対する預言をする者にされた、
天の神、主は(アモス7:14~17)、

 私たちをとおしてしようと思われる
愛の業、祝福の業を、
私たちの今、置かれているそれぞれの場で現してくださるのだそうです。

 十字架刑で処刑されたイエスを通して来てくださる
〔聖である霊〕と呼ばれる方によって。
今日も。

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