朝明けに

聖書のことばから、うれしい一日一日の糧を!

永遠のいのち、〔父である神〕の御思いの中を生きる

2018-07-26 10:51:46 | 聖書から
 山が移り、丘が揺らぐこともあろう。
しかし、わたしの慈しみはあなたから移らず、
わたしの結ぶ平和の契約が
揺らぐことはないと、
あなたを憐れむ主は言われる。イザヤ書54:10

 神は、その独り子をお与えになったほどに、
世を愛された。
独り子を信じる者が一人も滅びないで、
永遠の命を得るためである。ヨハネ3:16

 Ⅰコリント12:27~13:3
 ヨハネ7:1~13
   (ローズンゲン日々の聖句7/26;木) 

 天の神、主、
「『わたしはある(I AM)』という者」と名乗られる方は、
私たち人間をあわれんでくださる方。
私たちをいつくしんでくださる方なのだそうです。

 私たちは、この方から、
「われわれのかたちとして、われわれに似せて」(創世記1:26)と願われ、
「われわれ」、
〔父である神〕、〔御子である神〕、〔聖である霊〕と呼ばれる神が、
愛と尊敬において、
自由意思で自発的に
心を一つにし、
思いを一つにし、
行動を一つにし、
存在を一つにしていらっしゃる、
その一つに、
愛と尊敬において、
自発的に、自由意思で加わる者を
との願いで造られた者なのだそうです。

 けれども、最初の人、アダムとエバは、
その造られた、神と心を一つにする場にとどまることを善しとせず、
もっと偉い者になろうとして、
「神のひとりのようになり、善悪を知る」ようになって(創世記3:5、22)、
造り主である天の神、主に背き、
対立、対抗する者になったのだそうです。
創造の目的から「的外れ」の者に。

 そして、このアダムとエバの子孫である私たち人間は、
この「的はずれ」の性質を受け継いで生まれて来ているのですね。

 けれども、神の慈しみは、
そのような私たち人間からも移ってしまうことはないのだそうです。

 〔御子である神〕が、
このアダムの〔的外れ〕の性質を受け継がない
「女の子孫」(創世記3:15)として、
ダビデの子孫の一人であるナザレ村の貧しい一処女、
マリヤの胎を通して、
人の世の、この歴史の中に来てくださり、

 およそ33歳の頃、
私たち、すべての人間の身代わりとなって、
神に呪われた者となって木に掛けられ、
十字架刑での処刑を受けてくださったのだそうです。

 〔父である神〕は、
このイエスの受けられた処刑を、
私たち、すべての人間の
「神のひとりのようになり、善悪を知る」ようになっている
〔生まれたときからの私〕という霊が処刑されたもの、死んだもの、
処罰が終わっているものとしてくださるのだそうです。

 そのうえで、
受け入れる者にもう一人の助け主、
〔聖である霊〕と呼ばれる方を派遣してくださって、
〔父である神〕が一人一人に思っておられる御思いを
受け入れる者の心に置いてくださり(エレミヤ31:31~34、エゼキエル36:25~28)、
受け入れる者が〔父である神〕と同じ思いを思い、
一つ心になり、
〔父である神〕がしようと思われることをしていくようにしてくださるのだそうです。
イエスがそうであったように。

 それで、受け入れる者は、
「永遠のいのち」の中を生きる、
唯一のまことの神、
〔父である神〕と
〔父である神〕から遣わされた〔御子である神〕イエスを、
〔聖である霊〕と呼ばれる方によって
体験的に知りながら生きる(ヨハネ17:3)、

〔父である神〕の御思いの中を生きる(ヨハネ12:50)ように
していただけるというのですね。

 そして、この平和の契約、新しい契約は、
揺らぐことがないのだそうですから。

 受け入れる者は、
キリストのからだの一部分、各器官として、
かしらであるキリストから来る
〔父である神〕の愛の御思いの中を生きるようにしていただけるのですね(Ⅰコリント12:27~13:3)。

 〔父である神〕のご計画の時々に合わせて(ヨハネ7:6~8)。
今日も。

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神から発し、神によって成り、神に至る

2018-07-25 09:00:26 | 聖書から
 神はご自分にかたどって人を創造された。
神にかたどって創造された。
男と女に創造された。創世記1:27

 主においては、
男なしに女はなく、
女なしに男はありません。
それは女が男から出たように、
男も女から生まれ、
また、すべてのものが神から出ているからです。Ⅰコリント11:11~12

 マタイ5:33~37
 ヨハネ6:60~71(通読箇所)
   (ローズンゲン日々の聖句7/25;水)

 天の神、主は、霊であって、
形をもたないお方なのですね。

 それで、
「ご自分にかたどって人を創造された」という、
「われわれのかたち、われわれに似せて」(創世記1:26)とは、
〔父である神〕、〔御子である神〕、〔聖である霊〕と呼ばれる神の
関係をさしているということでしょうか。

 「それは、父よ、
あなたがわたしにおられ、
わたしがあなたにいるように、
彼らもわたしたちにおるようになるためです」(ヨハネ17:21)と
イエスが言っておられるように。

 そして、
ひとりの男とひとりの女、
結婚は、この神の「かたち」そのものなのでしょうね。

 「それゆえ男はその父母を離れ、
妻と結び合い、
ふたりは一体となるのである」(創世記2:24新改訳)の
「それゆえ」は、
直前の、女が男の「助け手」として、
男のあばら骨から女が造られたことをさすのでしょうが、

 さらに、
「さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて」にまで
さかのぼることができるのでしょうか。

 つまり、男一人では、
「われわれのかたち、われわれに似せ」た関係ができない、
ということになるのでしょうか。

 結婚は、
「われわれ」、
〔父である神〕、〔御子である神〕、〔聖である霊〕と呼ばれる神が、
愛と尊敬において、自由意思で、自発的に
思いを一つにし、心を一つにし、行動を、存在を一つにしていらっしゃる、

「自分のこころを行なうのではなく、
遣わした方のみこころを行なおう」としていらっしゃる(ヨハネ6:38、16:14)、

その一つの中に加えられて、
神と思いを同じくし、心を一つにした者どうしが、
一つに、一体になるという。

 だから、神は、結婚を大切にし、
これを壊す不品行、姦淫を極端に嫌われるのでしょうね。

よく、世で言われている、
「ふたりが合意の上ならいい」のではなく、
ふたりとも石で打ち、悪を除き去るように(申命記22:22~27)と
厳しく命じておられるように。

 私たちも、神から出ている者、
〔父である神〕の御思いによって生まれて来て、
御思いによって今日まで運ばれて来たもの。

だから、
私たちに代わって十字架刑での処刑を受けてくださり、
墓に葬られ、
三日目に死人のうちから新しい霊のからだに復活し、
40日に渡って何度も弟子たちに現れて神の国のことを語ったのち、
天の〔父である神〕の右の座に帰られたイエスが派遣してくださる
〔聖である霊〕と呼ばれる方が
受け入れる者の心に置いてくださる御思いは、
イエスがそうであったように、
愛と尊敬において、自由意思で自発的に、
「自分の思いが成ることではなく、〔父である神〕の御思いが成るように」と
願っていく思いのようです。

 それで、事に当たっては、
自分の思いを通そうとして、神かけて誓うようなことはせず、
事実を事実のままに、
「はい」は「はい」、
「いいえ」は「いいえ」とだけ言い、
〔父である神〕の御思いが成ることを見ていくようになるのだそうです(マタイ5:33~37)。

 イエスが派遣してくださる
〔聖である霊〕と呼ばれる方によって(ヨハネ6:60~71)。
今日も。

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すべての国々が、この方、イエスによって祝福を得るのだそうですから。

2018-07-23 07:03:58 | 聖書から
 イサクへの主の言葉:
地上の諸国民はすべて、
あなたの子孫によって祝福を得る。創世記26:4

 東や西から大ぜいの人が来て、
天の国でアブラハム、イサク、ヤコブと共に
宴会の席に着く。マタイ8:11

 マタイ7:7~12
 ヨハネ6:28~40(通読箇所)
(ローズンゲン日々の聖句7/23;月)

 このイサクへの約束は、
およそ2千年後、
アブラハム、イサク、ヤコブの子孫であるダビデ、
そしてそのダビデの子孫であるマリヤの胎を通して、
生まれられたイエスによって成就したのだそうです。

 イエスは、十字架刑での処刑を受けられましたが、
〔父である神〕は、このイエスの処刑をもって
すべての人間の
そむき、「的外れ」の処罰が終わったものとしてくださるのだそうです。

 そのうえで、これを受け取った者に、
もう一人の助け主、
〔聖である霊〕と呼ばれる方を派遣してくださって、
この方によって、
受け入れる者の心に、
ご自身が一人一人に思っておられる御思いを置いてくださるのだそうです。

 それで、受け入れる者は、
この部分において、
父である神と同じ思いを思い、一つ心になって、
一つ行動をとる者にしていただけるのだそうです。

 それで、天の神、主と一つになっている者として、
天の御国での宴会の席を用意していただけるのだそうです。
イエスは、
「わたしについて来なさい。
わたしがいる所に、わたしに仕える者もいるべきです」(ヨハネ12:26)
と言っておられますから。

 私たちが、もし、
求め続けるなら与えられ、
捜し続けるなら見つけ出し、
たたき続けるならなら与えられるのだそうですから(マタイ7:7~9)。

 そして、イエスがそうであったように、
「自分の心を行なうのではなく、
遣わした方の御心を行行なう」(ヨハネ6:38)ことを求めるようになるのだそうですから。
今日も。

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戦車を、馬を、軍備を誇るよりも、天の神、主の御名を誇りとして

2018-07-22 07:38:24 | 聖書から
 光の子として歩みなさい。
光から、
あらゆる善意と正義と真実が生じるのです。エフェソ書5:8~9(7/22の週の聖句)

 戦車を誇る者もあり、
馬を誇る者もあるが、
我らは、我らの神、
主の御名を唱える。詩20:8

 キリスト・イエスにおける恵みによって
強くなりなさい。Ⅱテモテ2:1

 マタイ5:13~16
 詩48(通読箇所)
   (ローズンゲン日々の聖句7/22;Ⅳ日曜)

 イエスは、天の御国のたとえとして、
花婿を出迎えるため、
ともし火を持って花婿を出迎える10人の乙女の話しをしておられます。
5人は予備の油を用意していたが、
あとの5人は予備の油を用意していなかったという。

 また、イエスは言われます。
「あかりをつけて、それを枡(ます)の下に置く者はありません。
燭台の上に置きます。
そうすれば、家にいる人々全部を照らします。
このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、
人々があなたがたの善い行いを見て、
天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい」(マタイ5:15~16)。

 ともし火、あかり、
当時はランプだったのですね。
ランプは、ランプ自身で光を出すことは出来ません。
ランプは中の油が灯心を通って、その先で燃えて光を放つものです。

 イエスの話しの中などでは、
油は、〔聖である霊〕と呼ばれる方をさしていることが多いです。
すると、ランプの器具や灯心は私たちのことなのでしょうか。

 「光の子として歩む」、
「あなたがたの光を人々の前で輝かせる」、
その光は、
私たち自身から出るものではなく、
私たちのうちに来られる〔聖である霊〕と呼ばれる方が、私たちをとおして働かれる、
その働きの現れのことなのでしょうね。

 「あらゆる善意と正義と真実」、
それは、私たちのうちにあるものではなく、
私たちのうちから出て来るものではなく、
天の神、主のご性質なのでしょうから。

 自分で立とうとする者は、
自分の力を強くし、自分の力の強さを誇りとするようです。
「戦車を、軍馬を」、軍備を整えて安心し、誇るように。

 けれども、キリストにおける恵みによって、
私たちの功績によらず、
恵みとして、
イエスによって来てくださる〔聖である霊〕と呼ばれる方の強さを
私の強さとする生き方もあるようです。
この詩篇48篇の作者のように。

 主は、
「『わたしはある(I AM)という者」と名乗られる方は、
大いなる方。
大いにほめたたえられるべき方。
その聖なる山、われらの神の都において。
高嶺の麗しさは、全地の喜び。
北の端なるシオンの山は大王の都。

 神は、その宮殿で、ご自身をやぐらとして示された。
見よ。王たちは相つどい、ともどもにそこを通り過ぎた。
彼らは、見るとたちまち驚き、おじ惑って急いで逃げた。
その場で恐怖が彼らを捕らえた。
産婦のような苦痛。
あなたは東風でタルシシュの舟を打ち砕かれる。
私たちは聞いたとおりを、そのまま見た。
万軍の主の都、われらの神の都で。
神は都を、とこしえに堅く建てられる。(詩篇48:1~8新改訳)

 私たちに代わって
十字架刑での処刑を受けてくださって、
「神のひとりのようになり、善悪を知る」ようになっている(創世記3:5、22)、
私たちの〔生まれたときからの私〕という霊を、
処刑が終わったもの、死んだものとしてくださり、

 墓に葬られ、
三日目に死人のうちより新しい霊のからだに復活して、
天の〔父である神〕の右の座に帰られたイエス。

 そのイエスを通して来てくださる〔聖である霊〕と呼ばれる方は、
受け入れる者をとおして、
〔父である神〕の御思いのとおりを実行してくださるのだそうですから。

 善意と正義と真実をもって。
この新しい週も。

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神が前もって準備してくださった善い業の中を

2018-07-21 00:00:43 | 聖書から
 主なる神は、
土の塵(ちり)で人を形づくり、
鼻に息を吹き入れられた。
人はこうして生きる者となった。創世記2:7

 私たちは神に造られたものであり、
しかも、神が前もって準備してくださった
善い業(わざ)のために、
キリスト・イエスにおいて造られました。
私たちは、その善い業を行なって歩むのです。エフェソ書2:10

 黙示録19:4~9
 ヨハネ6:22~27(通読箇所)
   (ローズンゲン日々の聖句7/21;土)

 天の神、主、
「『わたしはある』という者」と名乗られる方は、
「われわれのかたちとして、われわれに似た」ものが欲しいと望まれ(創世記1:26)、
私たち人間を造ろうとされたのだそうです。

 そして、まず、私たち人間の住みかとして、
私たち人間が暮らすのに何不自由なく、
そして、喜び、楽しめるようにと、
この天地宇宙、
この地球の自然環境を造り出されのだそうです。

 そして、すべての準備が出来上がったところで、
最初の人アダムのからだを、土の塵で造り、
そして、鼻に息(あるいは霊)を吹き入れて
彼を生きる者とされて
エデンの園に置かれたのだそうです。

 神が前もって準備していてくださった善い業、
海の魚、空の鳥、家畜、
地のすべてのもの、
地をはうすべてのものを、
神の御心のとおりに統治するようにと。

 しかし、最初の人アダムは、
その、天の神、主によって造っていただいた、
天の神、主と心を一つにし、
天の神、主が思っておられる御思いを受けて、
その御思いのとおりに治めていく場にとどまっていることを善しとせず、

 もっと偉い者に、
神の場に自分を引き上げ、
自分一人の理性の善し悪しの判断のままに事を行っていく者になろうとして、
「神のひとりのようになり、善悪を知る」ようになり(創世記3:5、22)、
自分一人の理性での善し悪しの判断によって行動していく者になったのだそうです。

 アダムの子孫である私たち人間は、
ひとり残らず、
このアダムの「的外れ」の性質をもって生まれて来ており、

 「神のひとりのようになり、善悪を知る」者として、
神に背き、対立、対抗して生きる者として生まれて来ているのだそうです。

 けれども、天の神、主は、
そのような最初の創造の目的から「的外れ」になった私たち人間が、
エルサレムの生ごみを焼却処分しているゲヘナの谷のごみのように
焼却処分されることを惜しんで、
最初の、創造の目的どおりに、
「われわれのかたちとして、われわれに似せた」ものに
回復しようと計画してくださったのだそうです。

 それで、その、ご計画の準備の時が満ちて、
〔父である神〕は、〔御子である神〕を、
アダムの「的外れ」の性質を受け継がない「女の子孫」として(創世記3:15)、
ダビデの子孫であるナザレ村の一処女、
マリヤの胎を通して、
人間イエスとして人の世に派遣されたのだそうです。

 そして、この方がおよそ33歳の頃、
〔父である神〕は、
この方を私たちすべての人間の身代わりのいけにえとして立て、
ユダヤ人の指導者たちの妬みを用い、
ローマ兵の手によって十字架刑で処刑されたのだそうです。

 〔父である神〕は、このイエスの処刑を、
私たちすべての人間の、
「神のひとりのようになり、善悪を知る」ようになっている、
〔生まれたときからの私〕という霊の処刑と見なしてくださり、
私たちの〔生まれたときからの私〕という霊を、
処刑が終わっている者、
死んだ者としてくださるのだそうです。

 そして、〔父である神〕は、
この、イエスによる死を受け取った者に、
もう一人の助け主、〔聖である霊〕と呼ばれる方を派遣してくださって、
この方によって、
私たちの心に、
ご自身が、私たち一人一人に思っておられる御思いを置いてくださり、
書きしるしてくださって(エレミヤ31:31~34、エゼキエル36:25~28)、
私たちが〔父である神〕と同じ思いを思い、
一つ心になるようにしてくださるのだそうです。

 「われわれ」、
〔父である神〕、〔御子である神〕、〔聖である霊〕と呼ばれる神が、
愛と尊敬において、
自由意思で、自発的に、
思いを一つにし、
行動を一つにし、
存在を一つにしておられるように。

 だから、このイエスが、
〔父である神〕から遣わされた方であることを受け取り、
イエスを通して派遣してくださる〔聖である霊〕と呼ばれる方をお迎えして、
〔父である神〕と思いを同じくし、
心を一つにして、
〔父である神〕がしようと思われることをしていく者になる、

 それを受け取っていくことが、
神の業であり、
永遠のいのちに至る食物を食べることである(ヨハネ6:27)と、
イエスは言うのですね。

イエスによって、
このことにあずかっている者たちは言うのだそうです。

 「ハレルヤ。
万軍の支配者である、われらの神である主は王となられた。
私たちは喜び楽しみ、神をほめたたえよう。
小羊の婚姻の時が来て、花嫁はその用意ができたのだから。
花嫁は光り輝く、きよい亜麻布の衣を着ることを許された。
その亜麻布とは聖徒たちの正しい行いである」、と。

 この、神が準備してくださった善い業の中を歩む者、
小羊の婚宴に招かれた者は幸いなのだそううですから(黙示録19:6~9)。
神の真実のことばによって、
私たちも。
今日も。

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