朝明けに

聖書のことばから、うれしい一日一日の糧を!

私たちの呼ぶ声に答えてくださるのだそうですから。どんなときにも。

2018-07-20 00:07:49 | 聖書から

 わたしはわたしの羊飼いを火にいれ、
銀を精錬するように精錬し、
金を試すように試す。
彼が名を呼べば、
わたしは彼に答える。ゼカリヤ書13:9

 パウロの手紙:
わたしは苦難をも誇りとします。
私たちは知っているのです。
苦難は忍耐を、
忍耐は練達を、
練達は希望を生むということを。ロマ書5:3~4

 ルカ22:14~20
 ヨハネ6:16~21(通読箇所)
   (ローズンゲン日々聖句7/20;金)

 天の神、主、
「『わたしはある(I AM)という者」と名乗られる方は、
残されたご自分の民を、
銀を精錬するように、
金を試すように、
苦難によって忍耐を与え、
忍耐によって練達を、
練達によって希望を与えてくださる方のようですね。

 御自身の独り子であられる方を苦しみに合わせ、
十字架刑の処刑で
その血をを流させ、
その肉を裂かれたように(ルカ22:14~20)。

 夜の、ガリラヤ湖の
吹きまくる強風で漕ぎ悩む弟子たちの舟に、
イエスが湖の上を歩いて近づいて来られたのだそうです。

 幽霊だと思って恐怖の叫び声をあげる弟子たちに、
イエスは、
「わたしだ。恐れることはない」と声をかけられた(ヨハネ6:16~21)のだそうです。

 そのように、私たちが叫び、御名を呼ぶとき、
天の神、主は、私たちに答えてくださり、
「これはわたしの民だ」と言ってくださるのだそうです(ゼカリヤ13:9)。

 だから、私たちにはどんなときにも希望があるのですね。
何によっても、失望に終わることのない希望が。
今日も。
  
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人を大いなる者、力ある者になさる方が

2018-07-18 21:41:11 | 聖書から
 主よ、
あなたの勢いと力は御手の中にあり、
またその御手をもって
いかなるものでも
大いなる者、
力ある者となさることができる。歴代誌上29:12

 弟子たちの間で
自分たちのうちだれが一番偉いかという議論が起きた。
イエスは彼らの心の内を見抜き、
ひとりの子どもの手を取り
自分のそばに立たせた。ルカ9:46~47

 Ⅰコリント10:16,17
 ヨハネ6:1~15(通読箇所)
   (ローズンゲン日々の聖句7/19;木)

 人が、大いなる者となったり、力ある者となるのは、
天の神、主と呼ばれるお方がなさることだとダビデは言うのですね。

 イエスは、弟子たちの中から、特別に12弟子を選ばれましたけれど、
その選ぶ基準は、
毛並みのいい者、優秀な者をというのではなかったようです。

 当時、
優秀な者、毛並みのいい者は
エルサレムにいっぱいいましたから。

 でも、イエスが選ばれた12弟子は、
ガリラヤ地方のただの漁師だったり、
人からのけ者にされている取税人だったりの、
学歴もない、名もない、
この世の取るに足りない者や見下されている者(Ⅰコリント1:27~28)だったようです。

 けれども、その12弟子の間でも、
誰が一番偉いのかという意識が常に心にあったようです。

 それで、イエスは、弟子たちの心を見抜き、
ひとりの子どもの手を取り
(呼び寄せたのではなく、手を取って来させたのですから、
本当に小さな子だったのでしょうね)、
自分のそばに立たせ、言われたのだそうです。
「だれでも、このような子どもを、わたしの名のゆえに受け入れる者は、
わたしを受け入れる者です。
また、わたしを受け入れる者は、
わたしを遣わされた方を受け入れる者です。
あなたがたすべての中で一番小さい者が一番偉いのです」(ルカ9:46~48)。

 天の御国で、イエスの御座の近くに立つ者は、
私たち仲間の中で、信仰深く、立派にやっている、
みんなに認められている人ではなく、
みんなから無視され、
「こんな人」と思われているような人なのかもしれませんね。

 神は、知恵ある者をはずかしめるために、
この世の愚かな者を選び、
強い者をはずかしめるために、
この世の弱い者、取るに足りない者やみくだされている者、
無に等しい者をあえて選ばれるのだそうですから(Ⅰコリント1:27~28)。


 パウロは言うのですね。
「私たちが祝福する(聖餐式の)祝福の杯は、
キリストの血にあずかることではありませんか。
私たちの裂くパンは、
キリストのからだにあずかることではありませんか。
パンは一つですから、
私たちは、多数であっても、一つのからだです。
それは、みなの者がともに一つのパンを食べるからです」(Ⅰコリント10:16、17)、と。

 からだには多くの肢体があります。
その、それぞれの肢体に意思があるとして、
それぞれが自分の善いと思うことをやっていったら、
からだは分裂してしまいます。

 からだの肢体は、
それぞれの役目、分を果たし、
その人の意思のとおりに動くことでからだを構成していくことができるようです。

 イエスが、人々を避けて、
ガリラヤ湖の向こう岸に行かれ、山に登られたとき、
イエスが病人たちになさっていたしるしを見た多くの人たちが
イエスを追いかけて来たのだそうです。

 日も傾いたとき、
イエスは、人々を空腹のまま帰らせたくないと思われたのだそうです。
それで、男だけで5千人いた人々を、50人ずつ草の上にすわらせ、
ちょうど、少年が持っていた大麦のパン五つと小さい魚二匹を取り、
感謝をささげてから、すわっている人々に分けてやられたのだそうです。
そして、彼らが十分食べ、余ったパン切れを集めると、
12のかごがいっぱいになったのだそうです。

 けれども、人々は、
イエスの心を理解しようとも、聞き従おうともせず、
自分の信仰の基準に従って、
イエスを王として担ぎ出し、
ローマ軍に対抗し、ダビデの王国を再現しようと、
イエスをむりやりに連れて行こうとしたのだそうです。
 パンは食べたけれど、イエスのからだに加わるのではなく。

 天の神、主は、
私たちにも、
「神のひとりのようになり、善悪を知る」ようになっていて、
神にそむき、対立、対抗している「的外れ」の自分の実体を分からせ、
イエスの御前に差し出し、見ていただくようにさせてくださり、
〔聖である霊〕と呼ばれる方が、
〔父である神〕の御思いを心に置いてくださって、
聞いていくようにさせてくださるのだそうですね。

 イエスというパンを食べた者、
イエスのからだに加えられ、
〔父である神〕の御思いで動いていく者に。

 小さい子どものように
天の神、主がなさるままを受けていく者に。
今日も。

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新しい神の都、シオン(エルサレム)において

2018-07-17 22:18:57 | 聖書から
 背信の子らよ、立ち帰れ、
と主は言われる。
わたしこそあなたたちの主である。
わたしはあなたたちを連れてシオンに行こう。エレミヤ3:14

 わたしのもとに来る人を、
わたしは決して追い出さない。ヨハネ6:37

 使徒10:(21~23)24~36
 ヨハネ5:31~47(通読箇所)
   (ローズンゲン日々の聖句7/18;水)

 私たち人間は、
天の神、主、
「『わたしはある(I AM)』という者」と名乗られる方によって、
「われわれのかたちとして、
われわれに似せて」(創世記1:26)、
〔父である神〕、〔御子である神〕、〔聖である霊〕と呼ばれる神が、
愛と尊敬において、
自由意思で、自発的に一つになっていらっしゃる、
そのご自身との一つに加わる者を、
との願いで造られたものなのだそうです。

 けれども、最初の人アダムは、
その、造られた場に満足せず、
もっと素晴らしい者になろうとして、
「神のひとりのようになり、
善悪を知る」ようになって(創世記3:5、22)、
神にそむき、対立、対抗して、
自分一人の理性の善し悪しの判断で事を決めていく、
創造の目的から「的が外れた者」、
ずれてしまった者になったのだそうです。

 そして、アダムの子孫である私たちは、
そのアダムの「的外れ」を引き継いで生まれて来ているのですね。

 それでも、天の神、主は、
私たちを見捨てず、
私たちを大切に思っていてくださって、
創造の目的のとおりに回復しようと計画してくださったのだそうです。

 〔御子である神〕が人間イエスとして人間の歴史の中に来られ
この方が私たち人間の身代わりとなり、
私たち人間の「的外れ」の責任を負って、
十字架刑での処刑を受けてくださったのだそうです。

 〔父である神〕は、このイエスが受けてくださった処刑によって
私たちの処罰が終わっているものとしていてくださって、
私たちがこのままで神のもとに帰って行けるようにしていてくださるのだそうです。

 そして、神の民、イスラエルにだけではなく、
異邦人の私たちにも言われるのですね。
「背信の子らよ、立ち帰れ」と。

 そして、帰って来た者を、
神は決して捨てたりて追い出したりはしないのだそうですから。

 天の神、主は、
異邦人である、ローマ軍の百人隊長、コルネリオの求めに応えて、
コルネリオの家に使徒ペテロを派遣されたのですね。
そして、ペテロがイエスのことを語っている最中に、
〔聖である霊〕と呼ばれる方が来られて、
ペテロの話しを聞いていた人々に臨み、
彼らは、この方が語らせられるままに、
異言を話し、神を賛美するようになったのだそうです(使徒10:21~46)。

 こうして、
天の神、主は、
ユダヤ人だけでなく異邦人も、
かたよりなく受け入れてくださることを証しされたのだそうです。

 〔父である神〕は、
イエスが受けてくださった十字架刑での処刑を
私たち自身の〔生まれたときからの私〕という霊の処刑としてくださり、
これを受け取った者に、
もう一人の助け主、
〔聖である霊〕と呼ばれる方を派遣してくださって、
この方によって、
ご自身の御思いを私たちの心に置いてくださり、
書きつけてくださるのだそうです。

 それで、私たちが
〔父である神〕と同じ思いを思い、
心を一つにして生きることが、
私たちが神に受け入れられていることの証しとなり、
私たちをとおして〔父である神〕の御思いが成っていくことが
証言ともなっていく(ヨハネ5:36)というのですね。

 そして、この世の人生を終えて
〔父〕のもとに帰ったら時、
「よくやった。良い忠実なしもべだ。
あなたはわずかな物に忠実だったから、
わたしはあなたにたくさんの物を任せよう。
主人の喜びをともに喜んでくれ」(マタイ25:21、23)
と言っていただける栄誉を(ヨハネ5:44)、受けるようにしてくださるのだそうです。

 新しい神の都、シオン(エルサレム)において。
私たち、その希望の中に。
今日も。
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祭司の王国、聖なる国民としてくださって

2018-07-17 08:15:08 | 聖書から
 主の言葉:
あなたたちは、
わたしにとって、
祭司の王国、
聖なる国民となる。出エジプト記19:6

 イエスの言葉:
あなたがたに平和があるように。
父がわたしをお遣わしになったように、
わたしもあなたがたを遣わす。ヨハネ20:21

 マタイ22:1~14
 ヨハネ5:24~30(通読箇所)
   (ローズンゲン日々の聖句7/17;火)

 天の神、主、
「『わたしはある(I AM)』という者」と名乗られる方は、
私たちを「祭司の王国」、「聖なる国民」としようと
思っていてくださるのだそうですね。

 それで、私たちの
「神のひとりのようになり、善悪を知る」ようになって、
ご自身に逆らい、背き、対立、対抗している
私たちの〔生まれたときからの私〕という霊の「的外れ」を解決するために、

 ご計画の時が満ちたとき、
〔御子である神〕が、
アダムの「的外れ」の性質を受け継がない「女の子孫」(創世記3:15)として、
ダビデ王の子孫であるナザレ村の貧しい一処女、
マリヤの胎を通して、
人間イエスとして人の世に来られたのだそうです。

 そして、およそ33歳の頃、
私たちの「的外れ」の責任をご自分の身に負って
十字架刑での処刑を受けてくださったのだそうです。

 〔父である神〕は、
この、御子イエスの受けられた処刑を
私たちの〔生まれたときからの私〕という霊の処刑としてくださり、
私たちの〔生まれたときからの私〕という霊を、
処刑が終わっている者、死んだもの(ロマ6:4~11)、としてくださるのだそうです。

 〔父である神〕は、
処刑され、墓に葬られたイエスを、
三日目、日曜日の早朝、
死人のうちから新しい霊のからだによみがえらせ、
40日に渡って何度も弟子たちに現れて神の国のことを語るようにされ、
オリーブ山で、弟子たちが見守る中、
上げられ、雲に迎えられて見えなくされ(使徒1:3~9)、
ご自身の右の座に帰らせなさったのだそうです。

 そして、このイエスを通して、
もう一人の助け主、
〔聖である霊〕と呼ばれる方を受け入れる者に派遣してくださって(ヨハネ14:16、ロマ8:15)、

 bこの方によって
ご自身が私たち一人一人に思っておられる御思いを、
私たち心に置き、
私たちがご自身と同じ思いを思い、
一つ心になるようにしてくださるのだそうです(エレミヤ31:31~34、エゼキエル36:25~28)。

 それで、受けれる者は、
自分の〔生まれたときからの私〕という霊から出て来る思いは
死んだものから出て来た思いであると認めて(計算して)、
これをイエスの御前に差し出し、受け取っていただきながら、
イエスがそうであったように、
〔父である神〕の御思いで生きるようにしていただけるのだそうです。

 〔父である神〕と思いを一つにする聖別された者、
この世から取り分けられた者とし、

 祭司、
この世の人々と神との間に立って、
御思いを受けて執り成していく者にと。

 神ご自身の平和をもって、
〔聖である霊〕と呼ばれる方に覆われ、包まれながら、
今、置かれているそれぞれの場所に神によって派遣された者に。

 道ばたから、王の宴会の席に連れて来られた人のように、
〔父である神〕が用意してくださった礼服、
イエスの義(神との正しい関係)を着て(マタイ22:11~13)。

 「自分自身の望むことを求めず、
遣わした方のみこころを求める」ようにしていただきながら(ヨハネ5:30)。
今日も。

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神の民の平和と祝福の中を

2018-07-16 10:23:22 | 聖書から
 どうか主が民を祝福して
平和をお与えになるように。詩29:11

 あなたがたは、
神がすべての者の主なるイエス・キリストによって
平和の福音を宣べ伝えて、
イスラエルの子らにお送りくださった
御言葉をご存知でしょう。使徒10:36(口語訳)

 ヨハネ6:47~56
  ヨハネ5:19~23(通読箇所)
   (ローズンゲン日々の聖句7/16;㊊) 

 天の神、主、
「『わたしはある(I AM)』という者」と名乗られる方は、
ご自身の民に力をお与えになり、
平和を、平安をもって、
ご自身の民を祝福される方なのだそうですね。

 それで、すべての人が
ご自分の民、家族になることを願っておられるのだそうです。

 神はかたよったことをなさらず、
どの国の人であっても、
神を恐れかしこみ、
正義を行なう人なら、神に受け入れられるのだそうですから。

 神はイエス・キリストによって、平和を宣べ伝え、
イスラエルの子孫に御言葉をお送りになりました。

 このイエス・キリストはすべての人の王です。
神はこの方に聖霊と力を注がれました。
このイエスは、
神がともにおられたので、巡り歩いて良いわざをなし、
また悪魔に制せられているすべての者をいやされました。

 人々はこの方を木にかけて殺しました。
しかし、神はこのイエスを三日目によみがえらせ、
現れさせてくださいました。
イエスは死者の中からよみがえられて後、
弟子たちといっしょに食事もされました。

 イエスは弟子たちに命じて、
このイエスこそ生きている者と死んだ者とのさばき主として、
神によって定められた方であることを人々に宣べ伝え、
そのあかしをするように言われたのです。

 イエスについては、
預言者たちもみな、
この方を信じる者はだれでも、
その名によって罪の赦しが受けられる、
とあかししています(使徒10:35~43新改訳)。


 イエスは、
寂しいところまで追いかけて来た、男だけで5千人ほどいた人々を、
5つのパンと2匹の魚で満腹させて帰されたのですが、
その人々はイエスを王にしようとしてイエスを捜してついて来たのだそうです。

 それで、イエスは、その人々に、
「あなたがたがわたしを捜しているのは、
しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからです。
なくなる食物のためにではなく、
いつまでも保ち、
永遠のいのちに至る食物のために働きなさい」と答えられたのだそうです。

 それで人々が、
「私たちが神のわざを行なうために、何をすべきでしょうか」
と尋ねたので、
イエスは、
「あなたがたが、神が遣わした者を信じること、
それが神のわざです」と答えたのだそうです。

 彼らは
「それでは、私たちが見てあなたを信じるために、
しるしとして何をしてくださいますか。
どのようなことをなさいますか。
私たちの父祖たちは荒野でマナを食べました。
『彼は彼らに天からのパンを与えて食べさせた』と書いてあるとおりです」
と要求したのだそうです。

 イエスは言われました。
「まことに、あなたがたに告げます。
信じる者は永遠のいのちを持ちます。
わたしはいのちのパンです。
(モーセが民に食べさせたマナ(天からのパン)ではなく)
わたしは、天から下って来たパンです。

 だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。
またわたしが与えようとするパンは、
世のいのちのための、わたしの肉です。
わたしの肉を食べ、
わたしの血を飲む者は、
永遠のいのちを持っています。
わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。

 わたしの肉を食べ、
わたしの血を飲む者は、
わたしのうちにとどまり、
わたしも彼の内にとどまります」(ヨハネ6:47~56)。

 それで、弟子たちのうちの多くの者は
「この人は、
どのようにしてその肉を私たちに与えて食べさせることができようか。
これはひどい言葉だ。
そんなことをだれが聞いておられようか」と言って、離れ去って行き、
もはやイエスとともに歩かなくなったのだそうです。

 イエスは言われます。
「いのちを与えるのは御霊です。
肉は何の益ももたらしません。
わたしがあなたがたに話したことばは、
霊であり、またいのちです。」

 だから、
「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む」と言っておられる
「肉」とか「血」は、
そこに見えているイエスの肉体、血のことではなく、
霊的なもの、
「話したことば」、
また、そのことばが表そうとしているの「思い」なのでしょうね。

 だから、パン(食べた物)が身体のうちにあり、
また、身体はパン(食べた物)によってできているように、

 「父よ、
あなたがわたしにおられ、
わたしがあなたにいるように、
彼らもわたしたちにおるようになり、
わたしたちがひとつであるように、
彼らも一つであるように」(ヨハネ17:21~22)、と言われる、
そのことを言っておられるようです。

 私たちの身代わりになって
十字架刑での処刑を受けてくださり、
墓に葬られ、
三日目に死人のうちから新しい霊のからだによみがえり、
弟子たちの見ている前で雲に迎えられ、
天の〔父である神〕の右の座に帰られたイエス。

 そのイエスが派遣してくださる〔聖である霊〕と呼ばれる方。
この方が、私たちの心に
〔父である神〕のことば、御思いを置いてくださり、
〔父である神〕の御思いの中に受け入れる者がおり、
受け入れる者のうちに〔父である神〕の御思いがあるようにしてくださるのだそうです。

 それで、イエスが、
「まことに、まことに、あなたがたに告げます。
子は、父がしておられることを見て行う以外には、
自分からは何事も行うことができません。
父がなさることは何でも、子も同様に行うのです。
それは、父が子を愛して、
ご自分のなさることをみな、
子にお示しになるからです」(ヨハネ5:19~20)と言われているように、

 わたしたちも、
このわたし自身である〔生まれたときからの私〕という霊から出て来る思いは、
イエスが受けてくださった十字架刑での処刑に合わせていただいて
死んだ者から出て来た思いであると認めて(計算して)、
イエスに差し出し、受け取っていただきながら、
〔聖である霊〕と呼ばれる方が心に置いてくださる
〔父である神〕の御思いに沿って進んでいくようにしていただけるのだそうです。
神の民、家族にしていただいて
平和と祝福の中を。
今日も。

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