恋をしてお互いを好きになった結婚するという恋愛小説のようなことは無理だと思っていた。
十代の頃、見た目のいい若い男爵や子爵と恋愛関係になったが、自分が浮気相手の一人だと知ったとき、怒りよりも熱が冷めてしまい、現実というものを改めて知った。
心配した母の友人が貴族の男性を紹介してくれた、年上の男性は見た目も決してハンサムという訳ではなかった。
若い妻をもらったことが嬉しかったのか、夫となった男性は欲しいもの、望みは何でも叶えると言ったが、その言葉を心から信じる事はできず、なんて可愛のない女なんだろうと思ってしまった。
愛は永遠ではない、夫となった男性もいつかは浮気をするかもしれない、そう思っていた。
ところが、夫が突然、病に倒れた、先が長くないと医者から知らされ、これから先の生活を考えると不安になった、母や弟の生活は夫のおかげで成り立っていたのだ。
自分が亡くなっても数年の間は母と弟、あなたの生活は大丈夫だと夫から言われて泣きそうになった、ずっと一緒にいたかったんだけどね、すまないと謝られて言葉が出なかった。
「私は良い妻でしたか」
燃えるような情熱は感じられず、純粋な愛情で結ばれたのかと聞かれたら言葉に詰まる、だが、愛していなかった訳ではないのだと思った。
実家に戻った私は夫の残してくれたものを糧にして商会を立ち上げることを決心した、夫は生粋の貴族ではなかった、町人として、いや、ただの商人ならもっと生きられたのではないかと思った。
夫が生きている間、仕事を手伝ったことがあった、君には才能があるよ、そう言われたときはお世辞だと思っていた。
一人では何もできない、だから才能、実力を持った人間を集めて。
それから数年、フランシーヌ、彼女は恋をした。
だが、自分から好きだとは、いや、いえなかった。
そんな時、母から病気の事を聞かされた、自分の命は、あと数年だと、だけど娘の人生を、恋を、応援していると。
貴族同士の結婚というのは愛情などは関係ない、愛妾や恋人を作るのも当たり前だ、豪華絢爛というのが普通だが、自分の式では、フランは、それを断った。
そして、書類上の形式なものにしたいと相手に申し出た。
自分は商会の仕事に専念したいので愛人や妾を持ってくださって構いません、ただ、子供だけは作らないでくださいという事を契約書として婚前前に提出した。
もしかしたら、裏があるのかもと相手は勘ぐるかもしれないと思ったが、何故か、相手は、それをすんなりと承諾した。
結婚、一年目にして準備が整うと女性用の化粧品の開発の為に専門職人を集めてフランは商会を立ち上げた。
このとき、皆に五年という期間を設けた、たくさんの種類でなくていい、特許が取れて、皆が独り立ちできるように儲けた金は職人たちで平等にわけること。
商会は、その時点で解散すると離すと職人たちは驚いた。
出戻りの貴族の女が婿を探しているという話に飛びついたジャイルズは結婚には二度失敗した男だ、今年、四十を迎えたが、精悍な顔と無駄のない体つき、貴族なの手背金もある、女たちの受けはいい、だが、それだけだ、付き合い始めてしばらくすると女たちの方から離れていくのだ。
爵位はあっても、金はそこそこだと、女もそれなりに値踏みをしてくる。
ある日、貴族の出戻りの女が婿を探しているという話を聞いた、詳しく聞くと、式は書類上の形式的なもので構わない、愛人や妾も、男からしたら都合が良い話だが、相手の女は男よりも商売が好きらしい。
要するにモテない女が契約結婚を持ちかけてきたのだ。
それなら、こちらも割り切って付き合う事ができるとジャイルズは同意した。
若くはない、三十路になったばかりのフランシーヌと会ったときの最初の印象は地味な女性という印象だった、愛人を作れという事は子供は好きではないし欲しくはないのだろう、もとよりタイプではないし、手を出すつもりはなかった。
結婚して数ヶ月、ジャイルズは行きずりで街の娘に手を出した、貴族の男に手を出されたという事で娘は貴族の屋敷を尋ね、逢いに来た、それだけではない、妊娠したというのだ。
「自分は子供を作るつもりはない」
結婚当初の契約を破る訳にはいかない、だが、娘は産みたいと頑固に首を振った。
「何故です、あなたの血を分けた子供なんです、堕ろせ、殺せとおっしゃるんですか」
「聞き分けのないことを」
「だったら奥様に話してください、女なら子を産みたいという気持ちをわかってくれます」
自分の妻は商売と金儲けにしか興味がないと説明しても娘は頑固だった、仕方ない、ジャイルズは久しぶりに妻のいる別宅を訪ねた。
「妊娠ですか」
久しぶりに会う妻の顔は疲れているような顔つきだが、自分が気にしても仕方ないとジャイルズは本題を切り出した。
「産みたい、奥様は女だから自分の気持ちがわかる筈だと頑固で、なかなか折れない」
妻の視線から逃げるようにわずかに顔をそらす、仕方ないですねと彼女は呟いた。
「避妊はしなかったんですか」
自分を怒る訳でもない、もしかして呆れているのかもしれないとジャイルズは思った。
「できたものは仕方ないです、一緒に暮らすとしても生活費はあなたが出してください、商会はこれから大変なんですから」
「大変って、何かあったのか」
あなたには関係ないことですと言われてジャイルズは黙り込んだ。
娘は貴族の館に住むということに有頂天になった、もしかして男は子供ができた事で自分を正式に妻にしてくれるかもしれないという夢さえ抱いたとしても無理はないだろう、だが、その日。
「ルディアさんね」
声をかけられて娘は驚いた。
「奥様ですか」
女はディーナと名乗った。
「あなたが侯爵の愛人だというなら、私はフラン様の、というところかしら」
まさかと思いながらも娘は相手を見た着ているものから身につけているアクセサリーまで高価なものだと感じられる、正直、自分とはあまりにも違いすぎる、そんな視線を感じたのかもしれない、自分の首元を飾る宝石を見た。
「黒真珠を見たことがないようね」
「し、真珠ですか、黒なんてあるんですか」
「ええ、王族でさえ、所持している者は片手の数もいないでしょうね」
「そ、そんな、高価なもの」
「私は商会の看板なの」
ルディアは自分が持っている今まで男から送られた宝石やアクセサリーを思い浮かべた。
「あなたの、それ、侯爵からのプレゼントでしょう」
女の言葉に頷いたルディアは、人前に出つけるのはやめなさいと言われて、えっとなった。
「偽物よ」
自分の送った宝石が偽物だと信じられない、でまかせだ、愛人の言葉に馬鹿馬鹿しい、そんなのはやっかみだと彼女を宥めようとしたジャイルズだが、その女性は鑑定士、本職だと言われたんですと言われて、まさかと思った。
男は目の前にテーブルに置かれたピンク色のダイヤを見ると目を細めた。
「幾ら、出されました」
白金貨、二百枚だというと少し驚いたように男はジャイルズを見た。
「貴族の女性なら喜ばないでしょうな、カットもですが、端にわずかな濁りがある、光の加減で目立たないようですが、こうすると」
言われてダイヤを見たが、正直、指摘されたところを見てもよくわからない、目を凝らし濁りや陰りと言われても、気のせいではと思ってしまう。
はっきりと言葉にはしない、だが、この鑑定士は内心、呆れているのかもしれないとジャイルズは思った。
偽物だったということを伝えるとルディアは、そうですかと力なく頷いた、自分がプレゼントしたときは、あんなにも喜んでいたのにと思いながら、ジャイルズは自分の中のわずかな不満を押し殺すように飲み込んだ。
フランシーヌ様のお母様が亡くなりました。
知らせを聞いたジャイルズは驚かなかった、具合の悪いことは以前から聞いていたからだ。
離縁したい、別れましょう、いつかはと思っていた、だが、今なのかとジャイルズは驚いた。
「まだ、約束の期限には」
「商会の人間、勿論、あなたの恋人や友人も呼んで、お別れ会よ」
離婚に向けて前向きになっている彼女の言葉に夫であるジャイルズは迷った。
「別れてしまって、生活は大丈夫なのか」
「私より、あなたはどうなの、最近、新しい恋人を作ったんでしょう」
「知っていたのか」
自分の事など気にかけていないと思っていたのにと驚いた。
ジャイルズは悩んだ、妻は自分と別れることに前向きだ、だが、自分はどうだ。
これから先、贅沢をしなければ生きていける、だが、ここ数年、愛人にねだられて仕方なく、金の工面
を頼んでいたのは妻だ、金貸しに借りるよりは楽だったということもある、対面やプライドを気にすることもなく楽だったせいもある。
だが、それだけではない、メイドや庭師達も歳をとり、実家に帰る者もいる、今までよく働いてくれたと彼らに老後の足しにして欲しいと十分過ぎる程の金を出したのは妻だ。
侯爵という身分と立場、主であるというのに気が回らなかった、いや、感じてはいたのだ、館の修繕も彼女は自分から金を出した、惜しみなくだ。
今、別れてしまったら駄目だと思った、パーティーの夜、自分は改めて妻に結婚の継続を望んでいることを伝えよう、別れたくないというんだとジャイルズは考えた。
「皆さん、今日はようこそおいでくださりました、楽しんでください、最後の夜です」
広間に集まった客人達は装飾に、料理に目を奪われ、簡単のため息を漏らした。
「商会を閉めるとは残念です」
「思い切った事をする、女は怖いな」
「だからこそ、ここまで成功したといえるのではなくて」
「職人達はたいしたものだぞ、引き抜きたいと思ったぐらいだ」
「店を構えたものもいるとか」
男女の会話にジャイルズは自分の妻が、周りからどう見られているのかということを改めて知った。
「それにしても、フランシーヌ、思い切った事をするな、引退とは」
「これからゆっくり過ごしたいと」
「そんな歳でもあるまいし、いや、こればかりは」
「でも、羨ましいことね」
妻の姿を探していたジャイルズは思わず足を止めた、数人の男女に囲まれている一人の女性に目が奪われたのだ。
まさか、あの女性が、すらりとした長身、薄い茶色の髪を綺麗にまとめて結い上げている美女が自分の妻、まさか、信じられない。
「ほら、フラン、待ち人がいらしたわ」
女性がこちらを見た、自分のことを言っているのか、ジャイルズは踏み出そうとした、ところが。
自分のすぐそばをフランシーヌは通り過ぎていく、気づいてもいないようだ、広間に入ってきた一人の男性に真っ直ぐに向かっていく。
「皆に、お友達に紹介させてください、お父様」
亡くなった母親の再婚相手かと、ジャイルズは気づいた、一度会った事がある、結婚の話が決まったときにだ、中年の小柄な、どこにでもいるような男性だが、客人達の視線が男に集まり、皆が我先にと挨拶に向かう。
「羨ましいですわ、シェルダンの南方に行かれるとか、あそこは、良いところですわ」
一人の婦人が声をかける。
「あら、ご存じないの、フランは、その為に色々と準備していたそうですわ」
「ジェムズトロールの館、あれを手に入れるとはな、驚きだよ」
大勢の男女に取り囲まれて義理の娘の話を聞かされた男性は驚き顔だ。
「お父様が大好きな彫金ができるように専用の部屋、道具、材料を用意したんです、暖かい土地でゆっくり、のんびり過ごしてください」
娘の言葉に父親は驚いた。
「フラン、実は君のお母さんと私は正式には」
結婚していないんだ、だから、自分は一人で暮らすつもりだ、ここに来るまでに考えていた言葉、だが、何故か、飲み込んでしまった、嬉しそうな娘の顔を見て言葉が出てこなかった。
亡くなった彼女の母親からの言葉を今更のように思い出す。
誕生日には花束とプレゼント、手紙が届く、母親と自分の事を心配して気遣った気遣った内容だ、そして生活は大丈夫かと、何かあっては大変と金を送ってくることもあったが、それに手をつける事はできなかった。
(義理の父親となる男を好きになったなど、あの子は自分から言い出すことはないでしょう、だから)
結婚などしなくても一緒にいてあげてほしい。
「お父様、彫金を始めたら、私にも何か作ってください」
勿論だと男は頷いた、すると彼女は約束ですよ、皆さんが聞いていますからねと笑った、本当に嬉しそうに。
「もう、フラン、あんな顔をして」
「見ているこちらが恥ずかしいぞ」
「仕方ないわよ」
離れた場所から見ていたジャイルズは近寄る事ができなかった、自分は、まだ夫だというのに、妻である彼女と婚姻を継続させようと思っていた、なのに、それを躊躇している、今しかないというのに。
「あなた、皆様に、ご挨拶は」
振り返ると最初の愛人であるルディアが立っていた。
「私ね、家に帰ろうと思います」
突然の事にジャイルズは驚いたが、女は公爵家はなくなるんですからと言葉を続けた。
「出て行くのか」
「私がいなくても大丈夫でしょう」
自分以外にも女がいることを彼女は知っている。
「実家はなくなっただろう、行く当てがあるのか」
「シェルダンに行くの」
何故、その場所が出てくる、ジャイルズは驚いた。
「私ね、商売を始めるの、奥方が色々と教えてくれたの」
いつの間にと思わずにはいらなかった、まるで、自分だけが取り残されていくような感覚を覚えた。
広間にいる人間達は皆、楽しそうに笑っているというのに、自分だけがそうではない。
取り残されているような気持ちを味わっていると、あなたと声がした、振り返ると半年ほど前に作った新しい愛人が立っていた、しかし、一人ではない。
隣には男がいる、女が意味ありげな視線で自分を見ながら、口元に笑いを浮かべてきた。
この女も自分から別れたいと言うのだろうか。
自分の立っている場所が、こんなにも不安定なものだったとは、今更のようにジャイルズは未来への不安を覚えた。
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