社会不安障害:SAD、ボランティアとセカンドライフ

SADで会社を休職したが、一年で復帰し、無事定年を務めて、その後の生活とボランティアについて気ままに掲載中

アップルの前CEOスティーブ・ジョブス氏の死亡で自分を見つめかえすが、未だに何をしたいかわからない。

2011-10-07 21:44:17 | ITについて

アップルの前CEOスティーブ・ジョブズ氏がわずか56歳で亡くなった。一昨日、朝日夕刊トップ記事だった。最も帰宅後奥様に言われて初めて知った。聞いた瞬間「えーっ」と言ってしまった。

氏 は今年8月にアップル社CEOを辞任する際に「CEOとして職務と期待が果たせなくなる日が来た」と語っており、「膵臓がん」との闘病生活を送っていたとも言われていた。

余りにも突然の訃報が大変残念だ。しかし大手新聞の一面に一企業の前経営者の死亡記事が出るのは珍しい。いくら時価総額世界1だとしても。すばらしい商品やサービスを世に送り出して来たとしても。しかしそれだけ大変なカリスマだったと言う事なのだろう。すばらしい製品とサービスに感謝したい。

さて、氏とは同じ時代だ。氏の昔の言葉「自分の好きな事を仕事にしなさい。一度の人生しかないのだから(と言うような文章だったと思う)」で40代になったばかりの時に悩んだ。これは今でもそうだ。仕事を変わる度に、悩んだ。会社が変わっても悩んだ。常に自分に何ができるか?と言うより自分は一体何をしたいのか?

残念ながら仕事と言う意味では、この答えを今だ見つけていない。もうすぐ定年が見えてきた歳なのに。この時になってもまだ見えていない。余りにもスティーブ・ジョブズ氏と違うなさけない人生だ。

私の小さい頃の夢は科学者になる事だった。おそらく「鉄腕アトム」の影響だろう。そして高校の時は医者になる事だった。親父が高校の時に、それを願ったからだ。親父は息子たちの誰か一人を医者にさせたかった様だ。一番可能性があった長男(私の兄)が、高校で死体を洗うアルバイトを経験し、医者になる道がなくなった。最も昨年、兄の息子が無事医者になり、親父の夢を実現させてくれた。

母親が突然亡くなった事で、私の進路は変わった。浪人不可の一発国立大学のみしか許されなかったからだ。当時通信工学なる学科がある大学を選んだ。そう通信工学と言うのがどう物か分からずに。ただその大学で2番目に難しい学部と言う事と就職が良いと言う事で。

そして大学4年の時の研究テーマを当時のミニコンで処理した。研究テーマは今でも理解不能で難解な人工知能に関するテーマだった。この時に初めて、コンピュータを使った。そしてアルゴリズムを知った。プログラムを知った。そして面白いと思った。私の就職先はコンピュータ関連となった。

しかし当時はオイルショックの大不況な時だった。大手のコンピュータ企業への就職は全て失敗した。最も大手メーカー系しか狙わなかったのだが・・・

結局ベンチャー企業へ就職した。そしてシステムつまりハードもソフトも両方あるいはどちらかと言うとハードよりの仕事がしたかった。しかし技術がわかる営業を要求された為これを了承した。そしてその結果、その後の仕事の方向性が決まった気がする。そう営業をやりながら習得できたのはソフトしかなかったからだ。ハードの設計がやりたかったが、結局これも私の捨てた夢の一つとなった。

しかし面白い物で、当時(30年以上前)のこの業界は、先輩と後輩あるいは大先輩と言えどもスタートラインが同じだった。つまりノウハウが必要だったが、そのノウハウは先輩や後輩と言えども習得するのは同じだった。これの意味する事はかなり大きかったと思う。先輩たちに教えてもらう事もなく、対等に仕事をした。もちろん1つ上の先輩と1つ下の後輩には、出社拒否症で迷惑をかけたが。翌年大先輩達を追い抜いてセールスのトップクラス(会社で2番目)を実現した。

私は若くして、課長となった。入社4年目だったと思うが既に部下が10人近くいた。余りにも若くして課長になった為、私にはそのノウハウつまり経験がなかった。コンピュータの知識はあっても。そして課長と言う責任だけが重く、待遇や見返りが少ない事に不満が募っていった。

そして、会社は急激に成長し、外部から人材を中途採用した。私の上にも新しい上司が来た。会社がうまくいっている時は良いが、一旦うまくいかなくなると、いろいろ問題が発生する。そして新しい上司やもともとの上司に対する不満が更に募った。私にとっては、無能な上司(だったように思う。もちろん人間的には否定する気はない。仕事ができなかったからだ。)だった。本当は無能な上司でも良かった。しかし無能だった為に、社長は私に直接命令し、私の責任を問う場面が増えた。それでも私の上司たちが部下たる私をかばってくれれば我慢した。しかし会議で私が責任を問われてもそれをかばう事はなかった単なる飾りだった。私より給料が多くて、職位が上なのに・・・。

次第に会社の経営方針や社長に対して不信感を抱くようになった。私達が苦労してビジネスを育ててきた事に対して、理解がされていないように感じた。今までの信頼関係はなんだったのだろうか?と。

そして、危機的な状況で、私たち管理職に突きつけられたボーナスカットの自己申請の提出要求。そうすんなり会社が苦しいから、管理職はボーナスをカットさせて欲しいと言う依頼であれば、私はすんなり受けたと思う。しかしそうではなく、自分でボーナスカットを依頼する旨の自己申請を出せとの要求だった。

私には奥様と息子がいた。毎日悩んだ。おそらく不信を抱くようになって1年近く悩んだと思う。それにまだ自信もなかった。

一方当時、ヘッドハンティングの話が何件か私にもきた。しかし心を動かされる仕事はなかった。と言うかベンチャーでいやになっていたので、今度は大手指向だったのかも知れない。当時ベンチャーで今は超有名企業となっている会社からの話も多くあったのだが・・・。奥様と息子の為に、この時は冒険はやめた。そして結論を出した。

この申請を出す代わりに私は辞表を提出した。そして会社を見捨てた。そして私の部下も見捨てた。同僚も見捨てた。お客様も見捨てたかも知れない。しかし部下や同僚は私の為に盛大な送迎会をしてくれた。

この時の判断は今思えば正しかったと思う。次のやりがいのある仕事と言うか未来を自分でつかむ為に飛び出したからだ。最も今考えれば、自分の力に自信があれば、社長や部長等上司を怒鳴り散らしても、その不条理を問うべきだったと思ったが、若すぎてその自信もなかった。それより、次の仕事つまりコンピュータの営業から技術の仕事へ変わりたかった。・・・(続く)


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