二人の女が両脇にいて、最上階にあるラウンジの『シャトレーヌ』へと向かう。しかも払いはすべて女性陣である。こんな状況を百合子に見られたら、殺されるな……。
地下二階の『アリタリア』は注文していない料理まで鎌足がテーブルに置ききれないぐらいたくさん出してくれ、しかも会計時「ちょうど六千円で結構です」とかなり安くしてくれた。杏子とミミは会計の値段に対しビックリしていた。
本当にプリンスの従業員には頭が上がらない。何でここまで俺に対して優しくしてくれるのだろう。
二十五階へエレベータが到着する。
エレベータを出て突き当たりを左に行けばラウンジ。右手がレストランという造りになっていた。
俺たちは左へ向かうと、ここでも従業員は歌舞伎町側の窓際の席を用意してくれる。
「わぁ~、綺麗~……」
まるで子供のようにベッタリと窓に手をついて、杏子は夜景を眺めていた。
「こういうところには来た事ないのかい?」
「うん、初めて……」
彼女の場合、一日四、五時間働き、週に五日間出勤。俺はできるだけ客を呼び寄せ、平均で一日辺り三万から四万の金を稼がせていた。それでもまだ借金は残っているらしく、あまり客がつかない日は子供と一緒に納豆ご飯しか食べていないと言っていた。
それでもいつだってこの子は笑顔で、時には俺が落ち込んでいる時、逆に元気付けてくれたのだ。
何度この位置から歌舞伎町の汚いネオンを見下ろしただろうか。杏子やミミと同じ風俗嬢だった裕美を思い出す。あいつも三千万ぐらいの借金を押し付けられたって言ってたっけなあ……。
普通に仕事して普通に生きている人間からすれば、何でそんな馬鹿な事がって思うだろう。でも、常識じゃ考えられない事を平気でできるのも、同じ人間なのだ。
俺は男だから、女の立場にはどう足掻いてもなれないから、風俗で働く子の気持ちをすべて分かってやる事はできない。でも何かの縁で知り合ったのだ。少なくてもその痛みをできるだけ理解してやりたいという思いは持ち合わせていたかった。
どんどんおかしくなるこの世の中。人の痛みを分からない奴がどんどん増えているからだと思う。どんなに世知辛くなっても、俺は親しくなった人の痛みは理解してやりたい。
携帯電話のバイブが鳴る。着信は彼女の百合子からだった。先ほどの言い合いから少しは頭が冷めたのだろうか。
「……」
景色を見ながらはしゃぐ杏子の邪魔をしたくなかったので、俺はあえて電話に出るのをやめておく。あとでひと悶着起きるだろうが、今ぐらい自由にしていたい。
俺たちは酒を飲み、『ガールズコレクション』での愚痴を言い合い、楽しい時を過ごした。
酒の弱い杏子が結構足に来ていたので、肩を貸しながら帰り道を歩き、エレベータの前まで行く。
「ねえ、神威さん…、今日はまだ時間ありますか?」
ミミが真面目な顔で聞いてくる。
「時間? うーん、まああるような、ないような……」
「じゃあ、付き合って下さい。ちょっとお話が……」
「どこへ? 話って?」
「外に出たら言います」
ちょうどエレベータが来たので、俺たちは静かに乗り込んだ。
新宿プリンスホテルから出ると、杏子は俺の腕にしがみついたまま「お店の人と、風俗嬢がこんな感じのところをオーナーに見られたら、私たちクビになっちゃいますね~」と陽気に酔っ払っていた。
「いや、杏子さん、俺たちがクビというより、あの店、明日で終わるから」
「神威さんと別れたくないよ~。今度行くお店に神威さんも一緒に働いて下さい」
「無理だよ。今度こそ彼女に殺されます」
「嫌だ、嫌だ! 杏子、神威さんと一緒に働く」
ダダをこねる杏子を見て、とても愛おしくなる。
初めての風俗での仕事。始めはホームページ作成などパソコンでしか関わらないという条件だった。しかしあまりにも無計画で経費ばかり使う坂本や若松に苛立ち、仕方なく俺も風俗店の従業員として働かないといけなくなってしまう。抜けられないなら何とか店を建て直さないと…。そんな思いに最初に同意してくれ、体を張ってくれたのがこの杏子だった。
三ヶ月間まるで一日も休めず、毎日歌舞伎町へ行かなくてはいけない日々。さすがに疲れ仕事中うっかり寝てしまう事すらあったぐらいだ。
俺一人なら精神的におかしくなっていただろう。でも、杏子が頑張ってくれたからこそ、挫けずにいられた。
一度だけ客とプレイ中の杏子からSOSの連絡があった事があった。尻の穴へ強引に指を突っ込んでくる嫌な中年客で、何回か我慢しながら注意していたが、本番禁止なのに強引に押し倒され入れられそうになった時である。俺はすぐそのレンタルルームへダッシュで向かい、その客を連れ出した。「何だ、この風俗店で働いている若造が」と小馬鹿にする中年オヤジの胸倉をつかみ、泣くまで脅した事もある。杏子はそのあと「ごめんね、神威さん。私、迷惑掛けないようあのオヤジのケツの穴まで舐めたんだよ。でも……」と泣き出したので、俺は笑顔で「大丈夫、君は何も悪くないよ」と頭を優しく撫でてやった。
変わらない日常だったけど、杏子のおかげで楽しく仕事をできたなあ……。
気づけば俺は、そっと杏子を抱き締めていた。
「ありがとう…。本当に今までありがとう、杏子さん」
「や、やだ…、通行人が見てますよ?」
俺の行動でちょっと我に返ったのか、杏子は顔を真っ赤にしている。
「ごめんごめん…、感謝を言うつもりが自然と体も動いちゃって」
いつもならそんなやり取りを見て笑っているミミが、今は真剣に俺たちを見ていた。そういえば外に出たら話があるとか言っていたよな。
「神威さん……」
「あ、ミミさん、話って?」
「これから私のあとをついてきて下さい」
「う、うん……」
ミミはそれだけ言うと、再びコマ劇場へ向かう道を真っ直ぐ歩き出した。
西武新宿駅前の通りから一番街通りが交差するところまで来ると、左手には新宿コマ劇場が見える。ミミは十字路へ出るとそのまま左折し、歌舞伎町交番のある方向へ向かう。
このまま真っ直ぐ行けば歌舞伎町二丁目。韓国や中国人の店や、ホストクラブ、あとはラブホテルぐらいしかないエリアになる。どこか行きつけの店でもあるのかな?
俺は杏子に肩を貸したまま、黙々とあとに続く。
一軒のラブホテルの前まで来ると、ミミは足をとめる。そしてゆっくりこちらを向いた。
「神威さん…、さっき私と杏子ちゃんで話したんです。二人共、神威さんに抱いてもらいたいって……」
「ミ…、ミミさん……」
俺の腕をつかんでいる杏子の手に力が入る。
「駄目ですか? 神威さん……」
「きょ、杏子さん……」
二人の気持ちは本当に嬉しかった。
これからこの二人を抱く。普通なら男冥利に尽きる話だ。ちょっと前の俺なら喜んでこの状況を受け入れただろう。一対一のセックスではなく、二人の女を同時に抱くなんて滅多にない貴重な経験になるだろう。
男として本音を言えば、杏子みたいな女は一度抱いてみたかった。抱く事でこの子を癒してやりたかった。
「……」
だけど、俺には彼女の百合子がいる。いくらさっき喧嘩っぽくなったとはいえ、あいつを裏切る事はできない。
もし俺がこのまま性欲に流され抱いてしまうと、何の為に子供をおろしてまで、まだ百合子と付き合っているのか、まるで意味がなくなる……。
考えとは逆に、俺の下半身は大きくなり、その状況をまだかと待ち受けていた。
「駄目ですか、神威さん……」
大きく息を吸い込んで、ゆっくりと吐き出す。
「気持ちは本当に嬉しい。女性二人を同時に抱けるなんて、今後俺の人生でないかもしれない。見れば分かると思うけど、俺のあそこだって今、すごい興奮して大きくなっている。本音を言えば欲望に…、性欲に忠実に生きたい。でも、こんな俺を信じている女がいる。彼女がいなければ喜んで相手をしている…。それにさ、俺…、あの店で働いてきた中で、取り返しのつかない大きな犠牲を払っているんだ……。だからその犠牲もそうだし、待っている彼女を裏切る事はできない……」
ミミは寂しそうに笑った。杏子は下を向いたので表情が分からない。
「ごめんなさい…、変な事言っちゃって。私たちはそんな神威さんだから、ついていったんです。ちょっと目を閉じてもらえますか?」
「え、目を? うん……」
唇に何かが触れる。慌てて飛びのく。
「嫌だなあ…、女として自信をなくしちゃうなあ。せめて感謝のつもりでキスぐらいしたかったのに」
「ご、ごめん……」
「まあ、いいです。こんな事よりも神威さんには感謝してますから。私は旦那も家で待っているし、これで帰ります。今までありがとうございました」
深々とお辞儀をするミミ。
「いや、こちらこそ本当に今までありがとう。最後にご馳走にまでなっちゃって」
「私はこれで気が済みましたけど、杏子さんはまだ気が済まないようですよ、フフ。神威さん、杏子さんの事よろしく頼みますよ。それではお世話になりました」
彼女の後姿がどんどん遠くなっていく。
ホテルの前で残された俺と杏子。
風俗嬢とその店の従業員。
一人の男と女。
まだ杏子は下をうつむいたままだった。
まだ肌寒い中、俺たちはそのまま無言で立っている。何か声を掛けないと。
「杏子さん、もう八時ですよ。子供を迎えに行かなくていいんですか?」
「今日で神威さんとお別れなんですよね……」
「杏子さん! あなたは一人の女である前に母親でもあります。そりゃあ俺だって杏子さんと今日で終わるのは辛いですよ。でも、しょうがないじゃないですか。店はなくなり、もう一緒には働けないんです。俺が彼女も何もいなければ、何とかしてやりたい。でも、何回か話したと思うけど、俺の彼女、すごいヤキモチ焼きだから、無理なんです。分かって下さい」
「子供は今日だけ、親にお願いして預かってもらっている……」
杏子はゆっくり頭を俺の胸板に預けてくる。
「杏子さん!」
「もうちょっとだけでも、こうしてちゃ駄目?」
「……」
スーツの胸ポケットにある携帯電話が再び震える。彼女の百合子からだろう。
「電話出ないんですか……」
「……。今は出ない。いいよ、しばらくこのままで俺もいたかったし……」
「何で抱いてくれないんですか?」
「さっきも言っただろ? 俺には彼女がいるって」
「黙っていれば誰にも分かりません…。今日で私たち最後なんですよ……」
「それはそうだけど…、そういう問題じゃない」
「私…、汚いですか? 毎日他の男にいやらしい事されているから……」
「ううん、そんな事は絶対にないよ。むしろ君の心は尊い。とても綺麗だ。だからこそ、俺はあんな店でも残って君の為に頑張った」
再び杏子は俺の胸で泣き出した。俺はそんな彼女をゆっくりと力強く抱き締めた。
浮気、不倫……。
様々な呼び方があるが、どこからが浮気でどこまでが健全なのだろう。今、俺は彼女ではない女性をホテルの前でギュッと抱き締めている。こんなところを百合子に見られたら、きっと錯乱するだろう。
いけないというのは重々承知している。でも、今はこの子をこうやってやらないといけないような気がした。
何度も揺れる携帯電話。今頃百合子は電話に出ない俺をイライラしながら怒っているに違いない。
このまま流されて杏子を抱けたら、どんなに楽だろうか。
正直、百合子という存在がいなければ、俺はこの杏子を口説いていたはずだ。常に一生懸命な彼女に対し、好意的に捉えている自分がいた。
抱き締めていた両腕を離し、右手の人差し指で杏子のアゴに触れる。彼女の顔が見たかった。人差し指を軽く曲げ、杏子の顔が見えるよう上に向けた。
涙で化粧が落ちかけた杏子。そこにいつもの元気な面影などどこにもなかった。
どのぐらいお互いこうして見つめ合っていたのだろう。
もうじき四月。春がやってくる。違う道を行く俺たち。新しい出会いがあれば、これまでの付き合いだって当然なくなる事もある。
俺はこの女が好きなんだろ?
杏子は待っているんだぞ?
キスぐらいしてしまえ……。
徐々に彼女の唇へ顔を近づける。杏子はそれを確認すると、そっと目を閉じた。
「きょ…、杏子……」
「……」
その時脳裏に子供をおろした時の百合子の姿が浮かんだ。まるで魂を抜かれ、さまような歩き方。どこを見ているのか分からないような虚ろな目。もう二度とあんな思いをさせないって俺は誓ったんじゃないのか?
そして娘の詩織が送ってきたメール。あの時泣きながら懸命にメールを打ったのだろう。もうあんな風に子供たちを悲しませる事なんて、俺にはできない。
杏子の両肩へ手を置く。そして静かに口を開いた。
「ごめん…、大切な彼女がいるんだ……」
「……」
「駅まで送る。それで俺たちはお別れなんだ」
「神威さん……」
また涙があふれ出す杏子。
「ん、何だい?」
「また泣いてもいい?」
ゆっくりと首を横に振る。
「いや、もう駄目だ。これでお別れなんだ。現実を見ていかなきゃ。本音を言えば、君をこのまま抱きたいさ。でもさ、ギリギリの良心でこらえている。まだ抱いていない。キスだってしていない…。だから最後ぐらい格好つけさせてくれよ」
下半身はギンギンにたぎっている。本能で行動すれば、このまま抱きたい。杏子を今抱けば、どれだけ気持ちよくセックスができるだろうか。
だけど、駄目なんだ。欲望に、性欲に流された時点で俺は俺でなくなる。
昔は違った。
金にものを言わせ、相手の気持ちなど何も考えず、ただ自分が抱きたいからという目的だけで女を抱けた。腐るほど女を傷つけ泣かせてきた。
でも、そこに俺自身の幸せなど、どこにもなかった現実。お互いの心と心が触れ合い、最高のタイミングになった時こそ、真の幸せがあるのだろう。
その点で言えば、杏子を抱けば幸せだって感じられる。しかし、そのあとに待つのは苦痛だけなのだ。
顔も知らず、名前さえない我が子。あの子はどこかで俺を見ているだろう。
そして彼女の百合子。今でこそうまくいかずギクシャクしているが、時間が経てば元のように仲良くなれるはず。あんな思いをさせた彼女を裏切る訳にいかない。
崇高な感覚でいたかった。それでも本当にそれでいいのかと何度も性欲の波が押し寄せてくるぐらい、杏子は魅力的な女だった。
俺は杏子の肩に腕を回す。お互い黙ったまま新宿駅へと向かった。
コマ劇場の前を通り、一番街通りへ差し掛かる。時刻は夜の六時を回っていた。すれ違う人の比率も自然と高くなる。色違いのレンガのような造りのスカウト通りを抜け、JR新宿駅東口まで行く。アルタ前の横断歩道を渡り、改札へ向かう階段を降りた。
空いている右腕で人混みを掻き分けながら進む。
杏子は何も言わず、俺も黙って彼女の肩に腕を回したままだった。
ここで俺と杏子はお別れなのだ。毎日のように顔を合わせ、お互いそばにいるのが当たり前になっているような仲。いくら仕事上とはいえ、いつの間にか情が沸いてしまうのも無理はない。
正直別れたくなかった。もうちょっと彼女とこうしていたかった……。
「別れたくないよう……」
杏子はボソッと呟く。
「きょ、杏子さん……」
俺は壁に彼女をつけて、向かう合うような格好になる。
「もう、これで二度と会えないの?」
「……」
心が苦しかった。おまえの事が気になるし、まだまだ会いたい。そう本音を言いたい。
「神威さん……」
駅の中はたくさんの人であふれかえっている。よく改札口の前で人目はばからず抱擁し合うカップルを目にするが、今の俺たちもそう変わらない。
「本音を言えば名残惜しいよ。決まってんじゃん。君がいたからこそ、俺は腐らずに頑張れた。俺だって別れたくなんかないさ」
「神威さん、キスして……」
杏子は目を閉じた。
しばらく彼女の真っ赤な唇を見つめる。
「……」
自分では分かっていた。キスをしたら、もう自分の理性がとまらなくなるのを……。
「神威さん、女に恥をかかせないで……」
自分の惚れやすい性格を嫌ってほど自覚していた。俺は杏子を好きになっている。ちょっとでも手を出せば、完全に自分のものにしたくなるだろう。
欲望のままに動くのは簡単だ。でも杏子に手を出したら、百合子はどうなる?
何度同じ自問自答を俺はしているのだ。もういい加減ブレるのはやめようぜ。必死に自分へそう言い聞かせた。
「杏子さん、これで俺たちはお別れだ」
俺は彼女の肩から手を離し、そのまま歌舞伎町へ向かって歩き出す。
杏子には可哀相だが『ガールズコレクション』は崩壊した。もう、これ以上俺たちを結ぶものなど何もないのだ。
一切後ろを振り返らず、外へ出る階段を駆け上がった。
地元の川越へ帰る。無性に百合子の顔が見たかった。そして血は繋がっていないが娘として可愛がってきた詩織と小百合にも会いたかった。
あの忌々しい『ガールズコレクション』をやっと辞められた。三ヶ月間、休みなど一日もなかった。少しはゆっくりしたいものだ。
いや、違う。馬鹿な自分のプライドで、金をすっかりなくしてしまった俺。もう、ゆっくりなどしていられない。早く安定した暮らしを。そして稼いで娘たちをもっと色々なところへ連れて行き、楽しい思い出を作ってやらねば……。
百合子へ連絡をして、川越へ到着したのを伝える。彼女は「すぐ行く」と短い返事をしただけだった。
以前から誘いのあった長谷村さんの携帯電話へ連絡をしてみる。温和な話し口調、穏やかな性格。ああいった人の下で働けるなら、俺も自分の経験やスキルを思う存分発揮できるかもしれない。
「もしもし、神威ですが……」
「あ、神威さんですか。今日はどうしました?」
「お久しぶりです。今日付けを持って、『ガールズコレクション』、ようやく辞める事ができました。以前お誘いいただいていた件なんですが、こんな俺をよろしくお願いできますでしょうか?」
「え、神威さんっ! うちに来てくれるんですか?」
「長谷村さんさえよろしければ、ぜひよろしくお願いします。すみませんでした。こんなにお時間取られてしまって」
「とんでもない。いつぐらいからなら来られますか?」
「長谷村さんの都合のいいように。明日でも明後日からでも、俺はすぐ動けます」
「本当なら明日と言いたいところですが、今日辞めたばかりで少しはゆっくりしたいでしょう。一週間後ぐらいならどうですか?」
一週間後。そのぐらいはゆっくり休養したい。しかし今の俺には金などないのだ。甘えるな。ハッキリ言おう。
「すみません。長谷村さんがよろしければ、明日からでもお願いします」
「いいんですか? 早く来てくれるなら助かります。私のいる事務所分かりますか?」
「いえ」
「区役所通りを真っ直ぐ行って職安通りにぶつかったところの『赤札堂』分かります?」
「はい、スーパーみたいなところですよね?」
「そうです。その辺まで来たら電話もらえますか? 近くなんで迎えに行きます」
「分かりました。明日、何時ぐらいに行けばいいでしょう?」
「ゆっくりでいいですよ。夕方の五時ぐらいでいいですか?」
「分かりました。では、明日の夕方五時には行きます。よろしくお願いします」
電話を切り終わる頃には家に到着していた。
二千五年になってから、もう三ヶ月が過ぎている。時間が経つのは本当に早いものだ。
去年の一月から始まった俺の小説。『新宿クレッシェンド』。どうしても秋奈へ読んでもらいたくて書いた処女作。何度も印刷をして本という形にし、初めてプレゼントした作品でもある。「逢って話しませんか?」と彼女はやっと心を開いてくれた。しかし始まった浄化作戦。俺は自分の統括する店が警察にパクられ徹夜で動き回る。気が緩んだのがずっと寝てしまった俺。あれだけ逢いたかった秋奈との待ち合わせを俺はすっぽかしてしまう形になる。そしてその日、誕生日だった百合子を祝い、俺たちは結ばれた。
第二弾の『でっぱり』。近所に住む一つ年上の先輩の栄一さん夫婦の為に書いた作品。可愛い盛りの子供を病気で亡くした栄一さんは、深い悲しみを背負いながらも日々を生きている。奥さんはゲッソリ痩せてしまい、頬までこけていた。人間を飼うという表現がピッタリのオーナーである北方の元で働いていた俺は、当時栄一さんにいつか目にものを見せてやると言った事がある。先輩は俺の後頭部を触り「大丈夫、龍ちゃんはそんな酷い事ができない人間だから」と言った。無性に後頭部が触りたくなる癖のある主人公と、クレッシェンドの店長役の岩崎のその後を組み合わせたら、面白い作品ができるかもしれない。俺は口頭で物語を言うと、そばで聞いていた奥さんはクスッと笑ってくれる。子供が亡くなってから初めて見た笑顔。ならば、この想いを乗せて作品にしようと書いたものだ。
そして俺の現役時代を描いた『打突』。完全に俺のマスターベーションである。主人公はもちろん俺である神威龍一。やるせない思いを胸に抱えながらトレーニングに明け暮れた日々。大和プロレスへの挑戦。そしてチョモランマ大場社長、ヘラクレス大地さんや伊達さんとの出会い。日の当たるスポットに出られなかった俺の想いを描いた作品だ。
クレッシェンド第四弾として書いた『フェイク』。百合子と付き合い始めてから、初めて書いた小説でもある。『新宿クレッシェンド』の主人公である赤崎隼人を再び主役にした作品。新しい主人公として光太郎という男を使い、交互に物語を書いていく方式を使ったが、あまりにも急ぎ過ぎたのか陳腐な内容になってしまい、彼女の百合子に「この終わり方はないんじゃないの」と言われ、ボツにした。
次に書いたのが『歯車 一章ゴッホ』。初のコメディ作品だが、俺の中学時代からの悪友であるゴッホこと岡崎勉をそのまま主人公にしたものだ。内容はいかに彼が女にアタックしてフラれ続けてきたかというどうでもいい作品。
ゴッホが出たら次は後輩の出川も出さなきゃと書いたのが『歯車 二章出川』。会えば必ず愚痴り出す出川。深夜の郵便局でアルバイトを十年していた彼が突然「神威さん、俺、郵便局辞めて個人事業をします」と言い出した話をそのまま物語りにしたどうでもいい作品である。
去年最後に書いた作品である『とれいん』…。俺と百合子の子供をおろした事に対する懺悔的なものを含めたもの。世に出すとかそういう為に書いた訳ではない。だから俺はこの作品だけはお蔵入りさせる事に決めた。
思えば去年の誕生日を迎えてからは、本当に嫌な年だった。誕生日翌日に捕まり、留置所へ行き、誘われた風俗の仕事は二ヶ月以上給料がまるで出ない日々を送る。口論から百合子との間にできた子供までおろしてしまう。巻き込まれた西武新宿線の特急小江戸号でのトラブル。家の前に夜の間、一時間だけ停めたらやられた理不尽な駐車禁止。『ガールズコレクション』の組織から脅され抜け出せない日々……。
僅か三ヵ月半の間で、これだけあったのだ。ロクな思い出がない。
二千五年になって、これでも少しはマシになってきたのかな。ようやくあの風俗店から開放され、心機一転頑張れる。
タバコを吸いながら数ヶ月前を思い出していると、メールが届く。百合子が家に到着したようだ。
「ずいぶんと戻ってくるのが遅かったのね……」
会うなり百合子の言い方にはあきらかに刺が含まれていた。
「急に明日辞めるって、坂本の野郎が抜かしやがったからさ」
「私はもっと早く辞めてほしかった」
「……」
百合子の言い分は痛いほどよく分かる。しかし抜けられなかった現状がこっちにもあったのだ。それを百合子に対し言う訳にはいかない。
「何で黙っているの」
「いや…、本当にすまなかったと……」
「……」
「あ、明日、以前誘われていた長谷村さんのところへ仕事の件で行ってくるんだ」
「龍一…、あなた全然今年に入って休みなんて取っていなかったでしょ? ちょっとぐらいゆっくりしたら?」
「本当はそうしたいけど、今日あの店を辞める際、財布の中の金をバラ撒いてきてしまったんだ……」
百合子の目つきが鋭くなる。当たり前だ。俺が馬鹿な事をしたのだから。
「龍一はちょっと感情的になり過ぎるよ」
「うん…、それは本当に反省している」
「だったら何で」
「汚い金で…、詩織や小百合にご飯を食べさせたくなかった。俺が稼いできた金は、すべて裏稼業だから汚い金かもしれない。でも、人を騙したり、陥れたりした事は一度もないんだ。それでもあの『ガールズコレクション』で得た金だけは、持っているのが本当に嫌になって……」
右の拳を見つめながら静かに言った。坂本をいくら全力で殴ったからといっても、取り返しのつかない事実。あれ以来俺の胸には見えない大きな穴が開いたままだ。
もうあんな地獄を味わうのは懲り懲り。人間、頭のいい悪い関係なく、一部の障害を除けば誰でも簡単に子供を作る事はできる。いや、この世の中で、子供を作ろうと目的を置いた上でのセックスをしている人たちは全体の何パーセントぐらいなのか。ほとんどの人間が快楽の為だけにしているはずだ。かつて俺もそうだったから……。
何故人間は子供を生もうとするのか? 自分と愛した相手の遺伝子を受け継ぐ者を作る。昔からほとんどの人間がしてきた行為。だからこそ家族となり、先祖という過程が生まれる。
留置所から出た夜、「中に出してほしい」と言った百合子。
何の職にもついていなかった俺はその想いに駆られ、初めて彼女の中へ射精した。しかし先の展開を考えれば、するべきではなかったのだ。百合子となら結婚してもいいと思った。彼女の二人の子供がいたって構わなかった。家ではコブつきの女性との結婚には当然反対されるだろう。特に親父はそういう性格だ。だけどそんな事は問題ない。俺自身がしっかりすればいいのだから。
考えが見当違いの方向へ行っている。
忘れるな。俺は自分の子供をおろさせているのだ……。
しっかりとその事実を忘れてはいけない。そして二度と同じ過ちだけは繰り返しちゃいけない。
視界がにじむ。胸が痛い。左手で押さえながら、俺はいつの間にか泣いていた。
百合子は俺の左手をつかみ、どかすと静かに自分の頭を胸につけてくる。
「もう、これで終わったんだよね?」
「ああ……」
「私、詩織、小百合……。私たち親子三人をこれからもよろしくお願いします」
「うん……」
俺たちは部屋の中で抱き合って泣いた。
「やっと終わったぜ……」
俺は、『ブランコで首を吊った男』の執筆を終え、大きく伸びをする。
原稿用紙で三百一枚。そこそこの長さだ。
俺が自分で考え編み出した初のホラー小説が、今ここに完成したのだ。ひと仕事終えたような気だるさを感じ横になる。
「ん…、待てよ……」
明日の休みは彼女の百合子の弟の家にお邪魔するようだから、今の内やっておくか。
俺はパソコンの前に再び座り、ヒーロー戦隊ものの『ゴレンジャー』や『怪傑ズバット』などの動画を編集し、DVDでも観られるようセッティングをしてから寝転がった。
百合子の弟の家には竜君という三歳の子供がいる。幼い頃の俺ととても似ている子だったので、自然と親近感も沸く。
竜君はアニメよりも、実写のヒーローものを好んでいたので、試しに俺が昔ハマった歴代の『仮面ライダー』や『ウルトラマン』などの動画をインターネット上から集め、オリジナルDVDを作りプレゼントした。すると竜君はとても気に入ってくれ、俺に懐くようになった。もともと子供好きの俺は、週末の日曜日になるとほとんど竜君に会う為予定を空けていた。