初めて書かされたホラー小説 ホラー
馬鹿の坂本と阿呆の若松と俺で作り上げた風俗店の『ガールズコレクション』。最後の最後で坂本に、渾身の一撃をお見舞いした俺は、少しだけ心のモヤが晴れた気がする。しかしあんな馬鹿を殴ったところで、犠牲になったものは二度と帰ってこない。俺の心だけでなく、百合子は心と体にも傷を負った。
二人の間にできた子供をおろしてしまったという事実は、俺の中で生涯消えないものとなるだろう……。
百合子の前の旦那との間にできた二人の娘の詩織と小百合には何も言えず、隠している部分でもある。
一番責任あるのは俺だ。巣鴨警察署の留置所から釈放された俺は、百合子の望み通り、その日の夜に抱き、彼女の中へ射精した。覚悟を決めたつもりだったのだ。三人のオーナーたちからもらった七十五万の金をほとんど使ってしまった俺は、村井の誘いで風俗の話へ簡単に乗ってしまったのが原因である。
店長という役職にアグラをかいただけの坂本。そして四人のオーナーの一人の兄である若松。馬鹿と阿呆と組んだ時点で店は、はなっから穴の開いた沈没船だったのである。
一週間でオープンさせると聞いていた店も、ふたを開ければ二ヶ月以上掛かってしまう。
当時、二ヶ月間給料が出ない状況の俺に対し罵倒してきた彼女。とうとう俺と百合子の間にできた子供をおろすおろさない言い合いにまで発展してしまった。そこへ百合子の長女であるまだ小学六年生詩織から一通のメールが届いた。
『ママから話を聞きました。本当に龍チンはママと別れちゃうんですか? もし別れちゃっても、たまに私から電話とかメールはしてもいいですか? 私はまだ子供だから割り切れません。 詩織』
このメールを見た時、俺は思わず泣いてしまった。そして百合子を睨みつけながら、「もういい加減、お互い意地を張り合うのはやめようぜ」と叫んだ。
しかし、百合子は意地悪そうな表情で、「私…、昔浮気したって言った事あるよね?」と口を開いた。今まで聞いた事もない台詞だった。愕然とした俺は、「絶対におまえに俺の子供など産ませない! 一筆書けっ!」とおろさせる決意をしたのだ。
お互いの譲らないエゴが、一つの命を犠牲にしてしまう。やり切れない想いを抱えながら、刻々と子供をおろす日だけが近づいてくる。
おろす当日になって俺は百合子と久しぶりに会った。そして手術にも付き合った。そこで初めて自分の犯した過ちに気づき、いくら泣いても悔やんでも取り戻せない業を背負った事に気づく。
組織を抜けようと思った時はすでに遅かった。
西武新宿線でのトラブルも無駄に長くなり、それを忠実に再現した小説『とれいん』という作品を書き終えたが、果たして本当にこれで良かったのだろうか?
我が子をおろす手術をしている際も、俺はこの『とれいん』を書き続けた。手術が終わり、精気のすっかり抜け落ちた百合子の姿を見た瞬間、俺は自分の罪深さを心の奥底で自覚し、業を背負った。
俺にとっても百合子にとっても、この『とれいん』はできれば振り返りたくないトラウマ的なもの。彼女の了承を得て、文字を書き連ね完成させたまではいいが、これは俺と百合子と命を摘んでしまった我が子だけの作品なのだ。世に出す必要性もない。俺は『とれいん』をお蔵入りさせる事に決めた。
目の前の視界に、先ほど放り投げた数枚の札がヒラヒラと舞いながら落ちていく。俺は床に札が落ちるまで、静かに見守る。
体を小刻みに痙攣させながら床に倒れる坂本。顔面は俺の殴った部分だけが紫色に変色し、辺りには血が飛び散っていた。
こんなくだらない輩を殴る為に、俺は体を鍛えてきた訳ではない。しかし、それでも殴らずにはいられなかった……。
「あ、神威ちゃん。ここだけの話だけどさ。この店、明後日で辞めるから」
「はあ? 今何て言ったんですか?」
「だから二日後に辞めるって」
「何だ、その軽い言い方は?」
「だって上が決めた事だもん」
「おい…、おまえの身勝手な言葉で、どれだけの女の子が犠牲になり、迷惑をこうむったと思っているんだ?」
「しょうがないじゃん。第一俺が一番可哀相だよ」
「……」
「俺たちはやるだけやったじゃん。店を潰すって決めたのは上だしね」
「お…、おまえが何をしたと言うんだ……」
「あ、神威ちゃん。女の子たちには明日まで普通に営業するから、店をたたむとか言っちゃ駄目だよ?」
昨日の会話が耳に残っていた。この三ヶ月間で一千万円の損失。どれだけ俺が孤軍奮闘したところで焼け石に水だった。坂本の言葉など関係ない俺は、ついてきてくれた杏子とミミには伝えておく事にした。そして知り合いの風俗店に彼女たちを紹介し、俺は一日早くその場で辞める事を伝えた。
すると坂本は「神威ちゃんがいなくなったらどうすんのさ? 責任感ってもんがないの?」と責て立ててくる始末だった。俺は財布を取り出し、中にある札をすべて忠に向かって放り投げた。呆気に取られながら舞う札を見る坂本。
「これが俺の…、みんなの怒りだっ!」
まるで反省のない坂本に対し、懸命に抑えていたものを解き放った瞬間だった。
二十九歳の時に出場した総合格闘技の試合でさえ、本気で相手を殴れなかった俺。本格的に鍛えだしてから人間を思い切り殴ったのは目の前に倒れている坂本と、小学時代からの同級生である深沢史博だけだった。
素人相手に自分が本気で殴れば、相手がどのようになるかぐらいは理解しているつもりだ。しかし殴った事に対する後悔など何もない。
忌々しい『ガールズコレクション』の店内をゆっくり見渡してから、外へ出た。
「神威さん……」
「きょ、杏子さんに、ミミさん……。何でそこに?」
「今日で終わりなんですよね?」
「……」
「神威さんと会えるのも、一緒に働けるのも、本当に今日で終わりなんですよね?」
杏子は目に涙を溜めながら大きな声で言った。
「う、うん……。俺の力不足で…、君たちまで…。本当にごめん……」
道の隅で俺を待っていた風俗嬢の杏子とミミ。
人目もはばからず杏子は俺にしがみついて号泣しだした。彼女の心境は痛いほど分かる。これまで体を張って、俺と共に必死に頑張ってくれたのだ。ずっと風俗嬢という職業に対し、色眼鏡で見ていた。だけど彼女たちの真剣な姿を見て、接したからこそ俺には理解できる。職業に貴賎などないって事を……。
「ほら、杏子さん、そんなに泣かないで」
優しく頭を撫でると、さらに杏子は顔を俺の胸に押し付けて泣いた。
「神威さん……」
ミミが微笑みながら近づいてくる。
「ミミさん……」
「本当に今までありがとうございました。こんな年のいった私にも、ちゃんとチャンスをくれて、たくさん稼がせてくれて……」
そう言いながらミミは深々と頭を下げた。
「おいおい、やめてよ、ミミさん」
区役所の裏道である東通りを歩く通行人たちは、不思議そうに俺たちを眺めていた。彼女たちとはたった二、三ヶ月間だったかもしれないが、協力してやってきた仲間だ。絆というものがいつからか生まれ、親近感だって沸いていたのである。俺だってこのまま別れるのは辛かった。
できればどこかで食事に連れて行きたい気持ちだったが、俺は持金すべてを『ガールズコレクション』の店内にバラ撒いてしまったのだ。人間、感情的になるとロクな事がない。
待てよ…。ポケットの中に小銭が数千円分はあるはずだ。お別れ会としてはしょぼいかもしれないが、喫茶店ぐらいならご馳走してやれるな。
「ほら、杏子さんにミミさん。こんなところにいたって何もいい事なんてないですよ。ご馳走するから、近くの喫茶店にでも行きますか?」
「やだっ!」
「え?」
ようやく杏子が泣き顔を上げ、俺を見つめる。
「前に神威さん言ってくれた。頑張っていたら、いつか新宿プリンスホテルのレストランに連れて行ってくれるって……」
「……」
理想を言えば本当にそうしたい。しかし、金が本当にないのだ。どう足掻いたってできない事はある。変に格好をつけてから返事をしてもしょうがない。
「今日でお別れなら、もう新宿プリンスへ一緒に行く機会なんて絶対ないでしょっ! 私はそんなの嫌だ……」
「すまない…。本当にできる事ならそうしたいさ…。でも、今さっき坂本を殴る前に財布にあった汚れた金は、すべて放り投げてしまって金がないんだ……」
正直に伝える。ないものはない。今さらあの店の中に入って、一度投げ捨てた金を拾いに行く気はさすがになかった。俺のチンケな精一杯のプライドでもある。
杏子とミミはしばらく顔を見合わせるとニヤリと頷き、俺の両腕にしがみついてきた。
「お金がないなんて関係ないわ。ねえ、ミミちゃん」
「本当そうよね」
「はあ?」
「神威さん、約束通りプリンスへ私たちを連れて行って下さい」
「だからさ、悪いんだけど、無理なものは無理なんだよ。分かってくれ……」
「分かりません。早く私たちを連れて行って下さい。連れて行くだけでいいんですよ。私たちが、お金は持ってますからね」
さっきまでワンワン泣いていたはずの杏子は、意地悪そうに笑っていた。いくら金がないからって、そんな惨めな事などできない。
「杏子さん…、あなたたちに出させるなんて、できる訳ないでしょ」
「もう、神威さんってばほんとに頑固なんだから。こうなったらミミちゃん、強引に連れて行きましょう」
「そうだね」
二人の女は、俺を引きずるような感じで歌舞伎町を歩き出した。
「おいおい、ちょっと勘弁してくれよ」
「ダーメ」
これは金を粗末にした罰なのか? これまで女性と食事に行くのに金などほとんど出させたない俺は、こういう事に慣れていない。
「龍ちゃんはね、もうちょっと人に奢られるって事を知ったほうがいい」
地元の二つ上の先輩である月吉さんから以前言われた台詞を思い出した。あの人はいつもそう言いながら、こんな俺に食事をご馳走してくれる。
うまく騙そうと金の匂いに釣られて近づいてくる人間が多い歌舞伎町で成長した俺にとって、とても貴重で大事な先輩だった。
彼女たちの気持ちも分かるだけに素直に従いたかったが、男のプライドがそれを邪魔していた。
男一人に女が二人という珍しい組み合わせで、新宿プリンスホテルの入り口まで来る。別に金さえ持っていれば、こうまで困らない事なんだけどな……。
「神威さん、INって書いてあるこの自動ドアから入ればいいんですよね?」
「ん…、ああ……」
重い気分のまま入った通路を左折し、階段を降りていく。
フロントでチェックインをしている宿泊客が、俺たちをジロジロ見ていた。両腕に女がベッタリと腕を絡ませているのだから、目立って当然だろう。あまりの恥ずかしさに顔から火を噴きそうだった。
「いらっしゃいませ、神威さん」
一人のホテルマンが近づいてくる。
「あ、松本さん、お久しぶりです」
ゲーム屋『ワールド』時代に常連で来てくれた松本は、このホテルではロビーラウンジのマネージャーを務めている。
「今日はずいぶんと賑やかですね」
「いえ、そんなんじゃないんですよ」
「良かったらコーヒーでもどうぞ。お代なんていりませんから」
松本は満面の笑みを浮かべながら、俺たちをエスコートする。
当時プリンスのホテルマンだと分からなかった俺は、綺麗に遊んでいく彼らの集団に好感を覚え、できる限りのサービスをした。後日たまたまプリンス地下二階にあるイタリアンレストラン『アリタリア』へ食事に来た時、偶然ここの従業員だと知ったのだ。
連れてきた女にゲーム屋をしていると言えなかった俺。ゲーム屋に出入りしている事実をホテル側に知られては困る従業員たち。不思議と利害が一致したのか、俺はビップ待遇でもてなされた。それ以来俺は、この新宿プリンスホテルをよく利用するようになったのだ。
「神威さんって本当に顔が広いんですね~」
席に着くと、杏子が感心したようにマジマジと俺の顔を眺めている。
「いや、そんな事ないですって。単なる偶然ですよ」
「前から思っていたんですけど、何で神威さんみたいな人が、あんな腐ったお店なんかで働いていたんですか? しかも坂本や若松の馬鹿みたいな連中と一緒に。私、ずっと疑問に思っていたんですよ」
ミミが興味津々に質問してくる。何度も辞めたいとは伝えた。だけどオーナーの村川は四十五万円を返せ、それができないなら家族や彼女の百合子に不幸が起きるかもしれないと脅されたのだ。しかも子供をおろした経緯から、西武新宿線での一件まですべて赤裸々に話をしなくてはならないだろう。それを説明するにはとても時間が掛かるし、骨が折れる。
「そんな買いかぶらないで。俺ってただの馬鹿だから、あそこしか働く場所がないって思っていたんだ。まああまりにもいい加減な店だったから何度も辞めようとは思ったけどね」
「何で辞めなかったんですか?」
「ん~…、だって一応俺のいる時間帯だけは赤字っていうの嫌だったし、俺が協力してほしいって呼び掛けに対して、ミミさんや杏子さん、二人はちゃんと応じてくれたじゃないですか。だったら二人が頑張ってくれる間だけでも、一生懸命やらなきゃって動いただけですよ」
中途半端な敬語を交えながら話す俺。もう仕事中じゃないんだし、普通に話せばいいのにな。自分の話し方にもどかしさを感じる。
「本当に神威さんがあの店にいてくれて助かりました」
「私も、神威さんがあの時そう言ってくれたからこそ、頑張れたし……」
当たり前だ。彼女たちは金を稼ぐ為に割り切って客のチンチンを嫌な顔一つせずくわえてきたのだ。ひたむきに頑張ってくれるのは店の為であり、自分の為でもある。だから女は金を手にする事ができるのだ。そんな当たり前の事すら勘違いしてできない女が多過ぎる。
「何の為にこの仕事を選び、またこの店に来てくれたのか? 俺のいる時間、真面目に来てくれるなら稼がせてあげたいんだ。だってまったく関係ない男のをくわえているんだよ? 店長の坂本から若松から馬鹿ばかりだけど、せめて俺ぐらい君たちの大変さを少しでも理解してあげたい。だから俺のいる時間、俺を信じて真面目に出勤してほしい」
当時彼女たちへ真剣に伝えた俺の意思。ほとんどの風俗嬢は小馬鹿にしたように鼻で笑い、来てくれなかった。そんな状況の中この二人だけは、俺を信じてちゃんと来てくれたのだ。週に五回も六回も……。
ヤキモチ焼きの百合子は、店の事に対し熱心になっていく俺を見る度責め立ててきた。それはもちろん当然だ。彼女は俺との間にできた子供までおろしているのだ。しかし、辞めようにも辞められない俺。その理由を百合子に伝えられないもどかしさ。歯痒さだけがプライベートでは浮き彫りになっていった。
「神威さ~ん、大丈夫ですかー?」
杏子が俺の顔を覗き込むように見ているのに気づく。彼女らとはこれで最後の別れ。過去を思い出し、湿っぽくなるのはやめよう。
「大丈夫ですよ。本当に今までありがとう」
「そ…、そんな事言わないで下さいよ…。杏子、悲しくなっちゃう……」
「あ、分かったから泣かないで。楽しく明るく行きましょう」
不思議そうにマネージャーの松本が遠くから見ていたので、俺たちはアイスコーヒーを飲み干して、席を立つ。
松本は「料金なんていいですよ」と明るい笑顔で言ってくれ、そのまま金も受け取らず行かせてくれた。今度、百合子、そして、娘の詩織と小百合と一緒に四人でお礼に来ないとな……。
ロビーラウンジを出ると、地下二階へ向かう階段を降り、『レストラン プリンスバイキング』に着く。ここを通過して奥へ進むと、『アリタリア』に行ける。西武新宿駅と駅ビルのpepeがくっついているせいか、毎度の事ながら変な造りだなと感じた。
イタリアンレストラン『アリタリア』に到着すると、マネージャーの鎌足が笑顔で出迎えてくれる。
奥のゆったりしたテーブルに案内され、俺の好きなウイスキーをデキャンタに入れて持ってきてくれた。
「何で神威さんって行くところ行くところで、そんなにサービスされるんですか?」
目を丸くして杏子が興奮している。
「たまたまですって」
「そんな雰囲気じゃないですよ。みんな、笑顔で神威さんのところへ来てくれるじゃないですか」
「じゃあ多分、このホテルと俺の相性がいいだけに過ぎませんって」
「神威さんの底が全然見えないわ」
ミミまでビックリしたような表情で俺を眺めている。女性二人にそう言われ、内心は嬉しかった。しかし俺が金を持っていないという現実があるので素直に喜べない。
右の拳を握り、ゆっくりと見つめた。坂本を殴ったこの拳。一瞬だけスッとはしたが、この拳からは何一つ生まれない。
今の俺は、職も金も失ったただの三十三歳の中年男に過ぎないのだ。
そうだ。ようやくあの『ガールズコレクション』を辞める事ができたのを早く百合子へ報告しなきゃ……。
「杏子さん、ミミさん、ちょっとだけ席を外してもいいですか?」
「ええ、どうぞ」
俺は『アリタリア』の入り口まで向かい、百合子へ電話を掛けてみる事にした。
最近百合子との仲は正直言ってキツいものがある。風俗店で働き続けた俺を責める彼女。当たり前の話であるが、実際に辞められない現状に置かれ、その言い訳すらできなかった俺。ようやく今日でその鬱憤も終わるのである。
「はい……」
電話に出た百合子の声は暗く聞こえた。
「もしもし、俺だ。今日さ、やっとあの店、辞めたからさ」
元気良く、そして力強く話した。過去に色々嫌な事があり過ぎた。でも、起こってしまった事は取り戻せない。大事なのはそれを教訓に、楽しく生きるしかないのだ。
「そう……」
まるで興味がないというような感じで答える百合子。俺にとって記念すべき日だったので、少しは喜んでほしかった。これまでのイライラが脳みそを支配していく。
「何だよ、その言い方は?」
「もっと早く辞めてほしかったわ……」
「俺だってできればそうしたかったさ…。でも……」
「ごめん、今、ちょっと話したくない気分だから」
百合子は冷たく言い、電話を切ってしまう。
「……」
子供までおろすハメになり、身も心もボロボロにさせてしまった百合子には深く反省していた。だからあんな店を辞めようと何度も訴えた。しかし卑怯な手口で自由に辞めさせなくされた俺は本当になす術が何もなかったのだ。
ホームページ作成料と、店のパソコンやデジカメ、プリンターの設置費でもらった四十万。そして二ヶ月間給料が一円も出なかった日々。辞めたいと伝えた俺に、オーナーの村川は五万円の金を強引に握らせて誤魔化してきた。その四十五万円を辞めるなら返せと、非常に村川は言った。電車賃は自腹、給料も出ない状況の俺は返せる状況ではなかったのだ。
どうなってもいいと腹を括ったが、村川は俺の家の住所や百合子の家まで調べていた。そしてそんな真似をしたら、回りに不幸な事が起きるかもしれないと脅された。
百合子にこれ以上辛い思いなんて絶対にさせられない。そしてまだ小学生の詩織や小百合に何かあったら…。そう思った俺は、すべてを飲み込んだ上で従順に働くしか道は残されていなかった……。
なら『ガールズコレクション』を流行らせ、金を稼がせるしかない。そういうつもりで努力をしてきたつもりだ。しかし逆に百合子との仲はどんどんまたおかしくなっていった。
「はぁ~……」
深い溜息を大きく吐いてから、自分の席へ向かった。
「どうしたんですか、神威さん。顔色があまり良くないですよ?」
心配そうに杏子が声を掛けてくる。今日で彼女たちとお別れなのに、プライベートを出してどうするんだ。こんな事じゃいけない。感情を表に出すな。
「いや、そんな事ないですよ。気のせいです。それより注文決まりましたか?」
「私、ピザが食べたい」
「私はパスタかな」
「今日は本当にごめんなさい。俺が二人にご馳走してあげたかったんだけど……」
「何を言ってんですか。私たちでいつも話していたんですよ。お世話になっている神威さんには、二人でいつかご馳走してあげようねって。ねえ、ミミさん」
「そうですよ、神威さん」
何でこんな優しい子たちが風俗なんてやってんだろうって素直に思う。
「ありがとうございます……」
百合子との一件で、重い気分だった心が次第に晴れてくる。やっぱり女って本当に偉大だ……。
「だから神威さんも好きなものバンバン頼んじゃいましょうよ、ね?」
「分かりました…、今回だけお二方のご好意を受けさせてもらいます」
俺の台詞に二人は大笑いした。
「何だか神威さんって、ひと昔前の武士みたい、アハハ」
「本当の武士が聞いたら怒りますよ」
こうして有意義で楽しい時間を俺たちは送った。この三人であの腐っていた『ガールズコレクション』を何とか頑張ってやってきたのだ。たかが三ヶ月間とはいえ、その絆は他の人間では分からないものがあるだろう。
杏子は二十五歳の独身女性。過去に一度結婚経験があるが、旦那には借金を残され捨てられたらしい。まだ幼い子供を女手一人で育てるには、自分の体を売る方法しか考えられなかったようだ。どうせ体を売って金を得るのなら、俺が稼がせてあげよう。子供の育児も放棄せず、体を張っているのだ。店を流行らせたい俺と、金を稼がなくてはいけない杏子。二人の利害関係が一致した時、お互い信頼できる絆が生まれた。
ミミはそれを見て、協力してくれるようになったのである。
俺が小学二年生の冬、お袋に捨てられた過去。そういった思い出があるせいか、どうも俺は一人で子供を育てる女性には弱い。偉いなあと尊敬する部分と、こういう女性の元で生まれたかったという思いが俺の中を同居していた。
一度、百合子に杏子の事を話した事がある。いやらしい意味ではなく、素直に偉いよねと伝えたかったのだ。しかしヤキモチを焼いたのか、百合子は「私なら絶対に体を売るような真似なんてしない」と不機嫌そうに言った。
言い返しはしなかったが、「では飲み屋で働くのはいいのか?」と言いたかった。俺はスナックへブラリと飲みに行ったからこそ、百合子と出会ったのだ。昼間はOL、夜スナックで働く百合子。
ずっと求め続けてきた秋奈への想い。俺になびいてくれない寂しさも手伝い、始めから百合子を口説いていた。電話番号を聞き、話をした時俺は「子供いるのか?」と聞いてみる。答えは「二人いる」だったが、別段ショックは受けない。想定内だったからだ。旦那に押し付けられた借金があるからと百合子はあの時言っていた。
子供を育てるのは本当に金が掛かる。幼い頃俺ら三兄弟を育ててくれたおばさんのユーちゃん。食い盛りの子供三人を毎週レストランに連れていく。ケチだから飲み物を飲ませないのではなく、あの時そこまでユーちゃんには余裕がなかったのだ。
俺は百合子を気にせず口説き、毎月十万円の金を渡してあげた。
確かに自分の女が他人のチンチンをくわえるなんて、想像したら堪えられない。だけど他に道がない女はどうしたらいいのか? 誰も助けちゃくれない。子供だって育てるのに金は掛かる。綺麗事だけじゃ生きていけない場合だってあるのだ。
俺はゲーム屋時代、たくさんの金を稼ぎ、それらをほとんど飲み屋と風俗とギャンブルにつっ込んだ。無駄遣いと言えば無駄遣いであるが、だからこそ分かる事もある。
飲み屋の女は、心を切り売りして男を騙し、金を使わせる商売だ。女を求め、抱きたいから男は無理をしてでも飲み屋へ通う。しかしほとんどの男は空振りに終わり、残るのは後悔と虚しさだけである。
風俗の女はちょっと違う。初めから裸同士の付き合いなのだ。男の目的意識も射精する事にある為、決定的に違う点と言えば騙されたという事がないのである。
どっちが偉いかなど一概に言えないけど、どっちかと聞かれれば俺は風俗嬢のほうが尊いと言える。心の切り売りと綺麗な言葉を使っているが、実際に金を遣う男から見れば、調子のいい嘘を並べているだけに過ぎない飲み屋の女。風俗嬢は伊達や酔狂じゃなく、体を張って、どんな男のチンチンだってくわえるのが商売なんだから……。
よく一線を越えるという言葉がある。女性から見て三つの線引きがあると、俺は考えていた。
一つは就職でもアルバイトでもして普通に生活を送っている女性。この人たちが一番尊いかと言えば、そうとも言えない。表面がいいだけで裏では意地汚く何でもするような女だっているからだ。例えば不倫にしたり、子供を捨ててしまったり。それでも一番尊い清らかな性格の人が多い空間ではある。
一線を越えた一つが飲み屋の女。スナック、クラブ、キャバクラなどがそうだ。心を切り売りするだけの騙しの商売。
もう一つが風俗である。ファッションヘルス、ソープランド、ピンサロなどだ。射精させる事が目的の為、心とかでなく体で体当たりする商売。
よくキャバクラでそういった事を話すと、大抵の飲み屋の女は「風俗嬢なんて、あそこまで落ちたくないようねえ」と平気で言う子が多い。おそらくテレビや雑誌などの馬鹿なマスコミが作り上げた今のキャバクラ業界。給料がいい。綺麗な子が多い。いい部分だけをクローズアップさせ、世間の認識を変えていった。
体を売るのはいけないけど、口先で男を騙し、金を毟り取るのがそんなに偉いのだろうか?
ひと昔前、俺が子供だった頃、飲み屋で働く女はいつもコソコソしていた。
「あの人はね、夜の商売の人だから」
そんな風に後ろ指を指す近所のおばさんのいたぐらいである。飲み屋の女もまっとうに働いていないという背徳感があるのか、子供だった俺から見ても何かに怯えているように見えたものだ。当時俺にはそういった年上の女性を見て、陰りがあるってこういう事を言うんだなと思っていた。
そういった陰りがある女たちは、キャバクラにはほとんどいない。いるのは場末のスナックぐらいだろう。何故か俺は陰りのある女を求める部分があった。スナックで知り合った百合子を口説いたのも、端正な顔立ちもそうだが彼女の持つ陰りに惹かれたというウエイトは大きい。
俺はどちらかと言えば、綺麗で若い女がただキャーキャー言いながらいるキャバクラよりも、陰りのある女が多いスナックのほうが好きだった。今のキャバ嬢は、低脳なホストクラブの馬鹿な男たちと変わらない。
俺は歌舞伎町で嫌ってほどホストを見てきたが、あれはほとんどクズのやる仕事だ。酒の価値も分からず、勢いだけで無駄に消費する世界。売れているから役に立っているという人もいる。だけど、売れさえすれば何をしてもいいのだろうか?
何人の女を風俗に沈めたと豪語して自慢する馬鹿なホストは、腐るほど見てきた。そしてそれを羨望の眼差しで見つめる馬鹿な若手のホストたち。見ているだけで無性にイライラした。
男って本来、女性を守る生き物だろ? それが女から金を掠め取って何が格好いいのだ。
そういった点は昔と何一つ変わらない俺。
だから風俗で働くという事には、当初とても抵抗があった。女性が主役であり、稼ぐ為の商品でもある仕事に対し、嫌悪感をずっと抱いていたのだ。
「お腹いっぱいになったけど、神威さん…、もっと私、お酒飲みたい」
食前酒であるキールを飲んだ杏子は、ちょっと酔っていた。可愛らしく感じる。こんな子が風俗嬢をやっているのだ。信じられない気分だった。
でも、杏子がこうやって頑張る姿を見せてくれたからこそ、俺は風俗嬢に対する偏見がなくなったのかもしれない。
「うーん、でもさ、杏子さん。ちょっと酔ってない? 大丈夫?」
「だって~、今日で神威さんとお別れなんでしょ?」
レストランの中だというのに、杏子はまた泣きながら俺に抱きついてきた。
「分かった。分かったから杏子さん、ちょっと離れて、ね? お願いだからさ」
ミミはその様子を見てゲラゲラと笑っている。そして遠くの位置からマネージャーの鎌足もニヤリとしているのが見えた。
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