岩上智一郎の作品部屋(小説・絵・漫画・料理等)

著書:新宿クレッシェンド

自身の頭で考えず、何となく流れに沿って楽な方を選択すると、地獄を見ます

4 新宿プレリュード

2019年07月14日 12時05分00秒 | 新宿プレリュード

 

 

3 新宿プレリュード - 岩上智一郎の作品部屋(小説・絵・漫画・料理等)

12345678910休憩時間になっても、体調はまるで回復しない。だるくなる一方であった。最近鍛えていないから、弱くなったのかな?体が弱ると心まで弱くなってくる。情けなくな...

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 カクテルを数杯飲んだ未来は、少しほろ酔い状態である。
 酒で酔わせて口説くというのは、自分自身の美学に反していた。
「そろそろ、出ようか?」
「うん!」
 ホテルのみんなへお礼を言い金額を払おうとすると、タダにしてくれた。それでは申し訳ないと食い下がったが、一切金額はいらないとマネージャーに言われ、ありがたく好意を受け取る事にする。
 腕をつかんでいないと、未来は真っ直ぐ歩けない。エレベータの乗る際も心配で離せなかった。
「今日はすごい楽しい…。神威さん、ほんとありがとね」
 上目遣いにジッと見られると、ドキッとする。さすがに女というものを意識してしまう。このデートで、俺は彼女に対するほのかな淡い想いができたのかもしれない。
「歌手の人に、ホテルの人…。それに料理長さん。神威さんがどれだけ慕われているのか、よく分かったような気がする」
 今日は特別たまたまだ…。そう言いたいのを堪え、軽く微笑んだ。彼女の楽しんでいる雰囲気をあえて壊す必要性もない。
 それにしても、想像以上のみんなの接待に、感謝を覚えた。羽田にしてもそうである。人間、そこまで心底悪い奴はいないのかもしれない。
 ホテルを出て、すぐそばに焼きアナゴのうまい寿司屋があった。腹はいっぱいだが、未来へどうしても食べさせてやりたかった。
「なあ、未来。近くにさ、うまい焼アナゴの寿司屋あるんだ。ちょっとだけ食べてくか?」
「えー、太っちゃうよ~。でも、食べたいなぁ~」
 俺たちは、そのまま寿司屋まで行き、軽く寿司をつまんだ。
 たまには、こうやって異性とデートというのもいいものである。心に溜まっていたストレスなんてどこかへ行ってしまったようだ。
 男だから未来を抱きたい…。でも今は彼女を大事に考え、いい関係を積み重ねていくのがベストのような気がした。
 明日は仕事だが、マネージャーが「ゆっくり出勤しろ」と気を使ってくれ、夕方五時の出勤にしてくれた。今日のところは大人しく彼女を送り届け、ゆっくり休むか。


 車を二時間ほど走らせて、ようやく地元川越が近づいてくる。完全な飲酒運転だったが、検問にまるで引っ掛からない。おそらく今日の俺は、かなり運がいいのだろう。
 背もたれにもたれ掛かりながら未来は、俺の左手にそっと自分の右手を重ねてきた。
「……」
 何も言わず、黙って運転する俺。心臓の鼓動は、どんどん早くなっていた。
「触れていると、落ち着く……」
 横目でチラッと未来を見る。彼女の視線はずっと俺の横顔を見つめていた。何だか妙な展開になってきたな……。
 未来の手は暖かく、そして柔らかかった。気持ち軽く俺の左手の拳を握っているような感じがする。
 場馴れしていない俺は黙って運転する以外、術がない。
 皮のシートに服がこすれる音。未来はいつの間にかさらに近づき、俺の胸元へ静かに自分の顔を寄り掛かりだす。
 心臓がドキドキしているのがバレてしまう……。
 俺はそんな阿呆な事を考えていた。
 ずっと酒を飲みにスナックへ行き、ただ普通に話し、仕事の憂さを晴らしていただけの関係。片や未来は、久美子という源氏名で時間給をもらい働いているだけ。
 ひょんな事から、こうデートしているが、実際俺たちって何なのだろう?
 今のこの状態を第三者が見れば、カップルがイチャイチャしているに過ぎない。
 彼女に、軽い男と見られたくなかった。
 だから口説きもせず、紳士的に振舞うようにしていた。
 今その未来がすぐ目の前にいる。俺の胸に顔を乗せ、気持ち良さそうに目を閉じていた。
 いくら女馴れしていない俺でも、このままではいけないと感じている。だが、どうすればいい……。
 先ほどのホテルでの接待は、たまたま特別なだけである。俺の力ではない。未来の目に、俺がどう映ったのか分からない。でもそれは俺一人の力ではないのだ。
 色々な事を考えた。
 分からない事だらけだけど、一つだけ分かっている事がある。それは今、運転をやめ、車を停めなければいけないという事であった。
 慎重に音を立てず、静かに車を路上へ停める。
 ゆっくり顔を上げる未来。
 瞳は宝石でも入っているかのようにキラキラしていた。
 彼女は、俺の表情を確認すると、ゆったり目を閉じる。
 今までの人生の中、一番自然な流れで俺は彼女の唇に自分の唇をつけた。心地よい感触を覚え、体全身に電気が走る。
 気がつけば、優しく彼女を抱き締めていた。
 一瞬だけ、北野さんの寂しそうな顔が頭の中をよぎった。
 俺は振り払うかのように未来の口の中へ、自分の舌を捻り込んだ。

 鏡張りの下品な天井を見つめながら、タバコを吹かす俺。
 窓を開き外の景色を見るが、見慣れた普通の景色である。さきほどまで自分の働くラウンジで飲んでいたのが随分前の事のように思えた。二つの景色をこうして比べてみると、あきらかに違いは分かる。未来があのようにはしゃぎ、うっとりするのも当たり前だったかもしれない。
 久しぶりに女を抱いた。
 どちらが言うまでもなく、自然と近くのモーテルへ入り、自然に体を重ね合わせた。
 横では疲れていたのか、未来がスヤスヤと寝ている。
 布団をめくり、彼女の裸体をしばし眺めた。胸はそこまで大きくはないが、バランスのとれたいい体である。先ほどまで、俺はこの女とセックスをしていたのだ。
 未来の秘部を指でまさぐると、まだ濡れていた。
 俺は布団から起き上がり、彼女の秘部へ自分のを突き刺した。
 反応がない未来の顔を見て、腰をゆっくり動かしだす。徐々に勢いに任せながら動きを激しくすると、未来の寝ているはずの顔が歪みだし、「あっ……」という小さな声を洩らしていた。
「未来~っ!」
 名前を呼びながら、腰を振り続けると、彼女の目が開いた。
「な、なぁ~に…。あ…、やだ…。な、何、してんの…、あっ……」
 ビックリしつつも、未来は感じていた。
 二度目の射精をすると、再び俺はベッドへ寝転がる。
 未来は横でまだ体をピクピクと小刻みに痙攣されていた。
 モーテルの下品な造りの部屋の中、彼女の完成された美しさは、この場にそぐわないもののような気がする。
 軽く乳房を撫でながら、頭の下へ腕を差し込んだ。
 もし横で寝ているのが北野さんだったら……。
 今さら俺は何馬鹿な事を考えている? 俺はたった今、未来を抱いたばかりというのに。北野さんとはあくまでも同じ職場で働く同僚なだけである。俺にとって大事なのは未来。
 派手なベージュと白のチェックの布団を掛け直すと、優しく右腕で腕枕をしてあげながら、そのまま眠りについた。

 この日は、次の日の夕方近くまで一緒にモーテルで寝ていたので、延長料金をかなりとられた。でも全然惜しくはなかった。
 彼女の住むマンションの近くまで送ると、俺は家へ車を停め、そのまま浅草ビューホテルへ向かった。そろそろ出勤する時間が迫っている。
「また、逢えるよね?」
 別れ際、未来が言った台詞。何を意味するのかは分からない。ただ、俺自身もまた彼女と同じ時間を過ごし共有したかったので、力強く頷いた。
 幸せだなという思いが頭の三分の二を占めていた。
 電車でいつものようにホテルへ向かい到着すると、ユニフォームに着替える。
 ラウンジ『ベルヴェデール』へ行き、昨日のお礼を一人一人、丁重に言って回った。
 この日、北野さんも出勤していたので、彼女とだけは顔を合わせづらかった。お喋りな誰かが、きっと彼女にも昨日の様子を伝えているのは目に見えて分かっていた。
 最上階の狭いラウンジ内を北野さんの近くにいないよう心掛ける。
 村井や他の従業員は昨日あれからどうなったのかなど、野暮な事を聞いてきた。まあ、真面目に帰したよと、とりあえず荒波立てないような言い訳をして誤魔化す。
 本日の俺のシフトは、お泊まりコース。北野さんは……。
 気になり、さりげなくシフト表をチェックしていると、背後から声を掛けられた。
「あ、北野さん」
「もう喉、大丈夫なんですか?」
 みんなが昨日の未来の件でしか話題を振ってこない中、彼女の健康を気遣った台詞は、素直に嬉しかった。しかしその分、心も痛んだ。
 退院したあと、彼女と少し二人で色々話せる機会さえあれば、今頃どうなっていたかは分からない。昨日、未来を抱いておきながら、俺は今、目の前にいる北野さんへ対しても、特別な感情を抱いている。
「ありがとう…。今のところは……」
 話している最中、喉に妙な違和感を覚えた。入院する前と似たような感覚の嫌な違和感だった。
「神威さん、どうしました?」
「い、いや…。何でもないよ……」
 北野さんは、外の景色をジッと見つめている。
「何かあるの?」
「い、いえ…。あそこの花屋敷…。こんな近くで働いているのに、まだ一度も行った事ないんだなと思って」
「そういえば、俺もそうだね」
「良かったら、今度一緒に行きませんか?」
「え……」
 この子は昨日の未来を連れてきた件を聞いていないのだろうか。それとも知っていて、あえて俺を誘っているのか?
「駄目ですか?」
「え、いやいや…。全然構わないよ」
「じゃあ、シフトだと」
 シフト表を眺める北野さんの横顔。思わず見つめてしまうぐらい綺麗だった。真っ直ぐな綺麗さというより、どこかそこに儚さも同居した不思議な綺麗さである。
「あ、神威さん。この日、う~んと、明後日なら、私も神威さんも予定合いますよ」
「どれどれ…。俺は休みで、北野さんは…、十一時半上がりなんだ」
「いいですか?」
「ああ、喜んで」
「やったぁ~」
 ホテルの目の前にある小さな小さな遊園地へ行く約束をしたぐらいで、こんなに喜んでくれるとは……。
 他の従業員の目がなければ、ギュッと抱き締めたい衝動に駆られた。
 待て…、節操がなさ過ぎるぞ、俺は……。
 昨日、未来を抱いたこの手で、北野さんを抱き締めるというのか?
 一体、北野さんと未来…、どっちが好きなんだ?
 いくら考えても、自分の中で答えは出なかった。
 明後日…。明後日になれば、北野さんとデートだ。その時、俺は自分でどっちが好きなのかを知る事ができそうな気がした。

 ラウンジの休憩時間を見計らい、いつも訪ねてくる保険の勧誘のおばちゃんがいた。
 名前を木村さんといい、木村さんは俺の顔を見ると、小走りに近づいてきた。
「神威さ~ん」
「何すか?」
「この間まで入院されていたんでしょ?」
「ええ、もうすっかり大丈夫ですけどね……」
「よろしかったらね」
「保険ですか?」
「そうそう!」
 とても嬉しそうに頷く木村さん。
 以前から勧誘を受けていたが、健康体の俺はすべて断っていた。しかしこの間の入院で、いつ何が起きてもおかしくないと、少し反省をしている自分自身がいた。
「もし、よかったらどうかなと思ってね」
「う~ん」
 確かに親戚や仲のいい知り合いが、保険をやっている者がいなく、今まで保険とはまったく無縁ではあった。
「年齢的にも何があるか分からないでしょ?」
「まぁ……」
 先ほどの喉の違和感を思い出す。
「どうかな?」
「そうですね…。確かに入っておけば、あとあと安心ですからね」
「じゃあ?」
「いいですよ」
 俺が笑顔で頷くと、木村さんは抱きついてきた。
「ちょ、ちょっと勘弁して下さいよ~」
 こんなところを北野さんに見られでもしたら、洒落にならない。俺は保険会社の大日本生命へ、この日加入する事になった。
 これで月々約一万三千円の金が自動で銀行から引かれる訳だ。

 北野さんが仕事を上がり、お泊まり要員だけになる。
 仕事をしていて、何故か調子がおかしかった。トイレに行き、鏡の前で大きく口を開ける。心なしか喉の奥が少し腫れているような気がした。
「あぁ~…、あっ」
 声を出してみたが、調子があきらかにおかしい。
「な、何か、声の調子が、また……」
 強引には退院したが、あの時、完全に良くなっていたんじゃないのか。どんなに体を鍛えていても、人間、喉は鍛えようがない。二度とあんな辛い目に遭うのはごめんだった。
 気のせいか、目眩までしてくる。
 あれからまだ数週間しか経っていないのに……。
 一体、俺はどうなってしまったのだろう?
 その日、泊まりなので、一日様子を見る事にした。
 しかし翌日になっても、喉の具合は悪化していくばかりであった。
 もうじきこのラウンジから移動になるかもしれないという大事な時期なのに何故……。
 一度腫れた喉は、まったく治る様子さえなかった。
 仕事を終え、飲み屋へも寄らず、真っ直ぐ家へ帰る。
 一晩安静にして寝れば、大丈夫だろう。
 明日は北野さんとデートだ。普段なら陽気なはずが、喉のせいで面倒になっていた。
 喉の痛みを堪え、目を閉じる。しばらく数時間その状態でいても、なかなか睡魔は訪れてくれない。
 こんなんで明日、大丈夫なのか……。
 北野さんのあの嬉しそうな表情。俺の体調のせいで潰したくはない。
 こんな俺に少なからず好意を持ってくれているのだ。まだ、お見舞いに来てくれた時のお礼さえ、満足にできていない。
 プロレスが駄目になって数年。その期間で俺は、ここまで弱くなってしまったのか。
 自分が情けなかった。
 以前ならこの程度、跳ね返せただろう。もう俺も二十五歳。若くはない年齢にきている。
「あの団体にいた人間も普通に社会に出れば、こんなもんなんだよ」
 それだけは絶対に言われまい。そう思いながら必死に歯を食い縛って頑張ってきた。俺の行動一つで、世話になった師匠らまで軽く見られる可能性がある。そんな風にだけは絶対に思わせないように生きてきたんだ。
 何も考えず、今は寝ろ。目をつぶって、体を休めろ。
 必死に治るようにと念じながら、いつの間にか俺は寝ていた。

 背中から叩きつけられたような衝撃を覚え、目を開ける。
 黒いロープが三本。ここは……。
 慌てて辺りを見回す。
 そこはリングの上であった。
 以前、ここで散々体を苛め抜いてきたリングの上に、何故か俺はいた。
「ほら、神威。もうへばったのか?」
「大地師匠……」
 人の良さそうな笑顔で、俺を覗き込む師匠。
「まだまだへばるには早いぞ。ほら、腕立ての姿勢をとって」
「は、はい!」
「あと、まだ六百回残ってるよ」
「はい!」
 師匠が、また俺をマンツーマンで見てくれている。それだけで俺は満足だった。何も考えないでいい。この人が俺をどんどん強くしてくれる。
 額から汗が噴き出す。髪の毛も汗でビショビショだ。
「はい、百…。次は腹筋ね」
「はいっ!」
 そうだ。俺はこうやって、いつも必死に食らいついてやってきたんだ。
 師匠のトレーニングは、腕立て、腹筋、スクワットを毎日各百回ずつ、十セットを準備運動でやらせる。そのあとで本格的なしごきが待っているのだ。
「はい、次はスクワット」
 リングのマット上に、俺の汗が滴り落ち、それは染みとなっていく。いくらやっても基礎運動は辛い。地味な運動の繰り返しだからだ。しかし、それが筋肉を進化させていくのである。
 合宿所の窓は、半分開き、外から気持ちいい風が流れてくる。その風を体に纏うと、俺はまだまだ頑張ろうという気になれた。
「ちゃんと僕はね、休み時間あげているんだよ。いいかい? 腕立ての時は、腹筋とスクワットの…。スクワットの時は、腕立てと腹筋の各筋肉が、休み時間を取っているんだからね」
 師匠の口癖。無茶苦茶な理論ではあるが、俺はずっとそうやってきたのだ。おかげで日々、自分でも強くなっていくのが目に見えて分かっていた。
 毎日が地獄であった。トイレへ行くと、血尿しか出なかった。汗をたっぷり掻いて、たくさん食い物を腹に詰め込んだ。昼と夜に出る特製ちゃんこ。毎日食べても飽きる事はない。
「はい、あと各二セットずつ」
「は、はい……」
 その時、窓に人影が見えたような気がした。
「み、未来……」
 何故か窓から未来が、道場の中を覗き込んでいる。汗だくになっている俺を見ると、大袈裟に手を振ってきた。
 思わず駆け寄る。
「どうして、ここに?」
「神威さん、一緒にこれからホテル行こうよ」
「ば、馬鹿…。今、合宿中だから駄目だよ……」
「え、何を言っているの?」
「……」
 辺りを見回すと、いつの間にか別の場所になっていた。
「何をキョロキョロしてるのよ」
 目の前にはホテルがあった。馬鹿な…、さっきまで俺は、師匠と一緒にトレーニングをしていたのに……。
「入らないの?」
 悪戯っ子がするような目つきで、未来は俺を見ている。また、こいつを抱けるんだ。そう思うと、あえて流れに逆らう必要はないんじゃないのか。
「神威さん……」
 また別の声が…。振り向くと、そこには北野さんが立っていた。何故、こんなところに彼女がいる?
「その人と行ってしまうんですか?」
 悲しそうな北野さんの表情。
「い、いや……」
「ちょっと、どっちにするのよ?」
 怒った顔の未来。後門の虎、前門の狼とはこの事か……。
 この場でどっちにするかなんて、決められる訳がない。
「神威さん、あなた、私を抱いたんでしょ?」
「神威さん、今日、一緒に花屋敷行くんでしょ?」
 自分のした事とはいえ、何でこんな風になるんだ?
「うっ……」
 急激に、喉が激しい痛みを発する。
「……」
 二人が何かを言っているが、痛みで俺は地面を転げ回っていた。

 声が出ない…。苦しい……。
 目を再び開くと、自分の部屋にいた。夢だったのか……。
 しかし、喉の痛みだけは本物だった。鏡を見ると、前に入院する前のようにパンパンに腫れ上がっていた。
 明日…、いや、もう今日か。北野さんとの約束はどうするんだ? あれだけ楽しみにしていたのだ。無理でもいいから、今は寝ろ。痛みを堪えながら、必死に自分へ言い聞かせる。
 喉が渇きを覚えていたので、水分を取ろうとすると、痛みでまったく飲めないでいた。
 これじゃあ、前回とすっかり同じだ。また、あの苦しみを味わうのか……。
 せめて入院する前に、北野さんとのデートだけはしておきたかった。今日一日だけ我慢しろ。
 額に手を当てると、熱もかなりあるようだ。
 何で大事な日に、こうなるんだ。
 俺は自分の運命を呪った。
 だるさが増し、俺は布団へ横になる。すっかり貧弱になったものだ。
 とりあえず明日は、十二時までにホテルへ行かないといけない。今は寝て体を休め、少しでもマシな状態にしなくては……。

 すっかり眠っていたようだ。
「時間は……」
 良かった。独り言のようにボソッと言っただけではあるが、少しは声が出せるようになっている。
「……!」
 時計を見てビックリした。時刻は三時半を指していた。北野さんとの約束は十二時…、完全なすっぽかしだ。
 慌てて携帯電話を見る。浅草ビューホテルからの番号…。北野さんからの着信履歴でいっぱいだった。最新の着信履歴は、三時…。まだ三十分前か。
 慌ててホテルへ電話をした。
 電話に出たのは、マネージャーだった。
「おいおい、神威…。おまえも罪な事をするなよ~」
「き、北野さんは……?」
「まだ、いるよ。おまえが約束をすっぽかす訳ないって、ずっと『ベルヴェデール』で待ってるぞ」
「……」
「もう来ないよって、みんな言ったんだけどね…。頑として動かないで待っているんだ」
「い、今から行くって伝えて下さい! え、え~と、行くまでにどうしても二時間近くは見るようなので、ごめんって伝えて下さい。今から俺、向かいます!」
「お、おい……」
 マネージャーが何か言い掛けていたが、電話を切る。ジッとしていられなかった。喉は幾分マシになっている。体はだるいがそんな悠長な事など言ってられない。ここで行かなかったら、俺は男じゃない。
 急いで着替えると、全力で川越駅へ向かった。まずは逢って謝ろう。
 頭の中は北野さんの事でいっぱいだった。

 電車に乗っている間もずっとイライラしていた。「もっと飛ばせよ」とか思っていたが、無理なのは分かっている。それでも運転室へ駆け込んで、「飛ばせ!」と言いたかった。
 池袋の駅へ着くと、ダッシュで山手線へ乗り込む。あと鶯谷の駅まで約三十分。着いたら、タクシーでホテルまで五分…。よし、あと四十分もあれば到着する。
 時計を見ると、四時十五分。だいたい五時頃には行けるだろう。こんな時、川越と浅草間の長い距離を恨めしく思ってしまう。
 冷静に考えてみた。
 北野さんを俺は、五時間半も待たせている事になるのだ……。
 携帯が鳴る。ホテルからか? 画面を見ると、スナックで働く未来からであった。電車の中なので常識的に出られない。非常にタイミングの悪い電話である。未来は数回電話を鳴らした。着信音が迷惑になるといけないので、俺は電源を落とす。
 まさか、さっきの夢のような展開にはならないよな?
 白昼の中、俺は電車に乗りながら阿呆みたいな事を考えていた。

 時間にして、四時五十三分。
 何とか五時前に、俺は浅草ビューホテルへ到着した。
 中に入るといらぬ事を言う連中がいるので、外から電話を掛けた。
「あ、北野さん!」
「神威さん、大丈夫ですか?」
「うん、北野さん、ほんとごめん。ちょっと体調悪くて寝てて、電話に全然気がつかなかったんだ」
「そんな無理してまで……」
「約束だろ! 花屋敷行くって…。ごめん…。ほんと、こんなに遅れちゃって」
「連絡とれて良かったです」
「今、外にいるんだけど…、もし、これからでもいいって言うなら……」
「もちろんいいですよ。でも、今日はご馳走してもらいますからね」
「ああ、もちろん!」
 俺はようやくホッとできた。
 ホテルの従業員用出口から出てきた北野さんの表情は、微塵も怒っていないようだった。それどころか、嬉しいのを我慢しているような感じさえ受けた。
「本当にごめんなさい…。こんな五時間以上も待たせてしまって」
「いいですよ。きっと、来てくれるって思ってましたから」
「ラウンジのみんな、何か言ってなかった?」
「待っても無駄だから帰りなよって、みんな…。ふふ」
「どうせだったら、賭けておけば、北野さん一人勝ちだったのに」
「神威さん…、反省が足りませんよ」
「ご、ごめんなさい…」
 こうして体調不良の中、俺と北野さんの初デートが始まった。

 今、俺と北野さんはイタリアンレストランの中、テーブルを挟んで向かい合っている。
 花屋敷は冬場というのもあり、夕方の六時で終了だというので、急遽ご飯を食べようという事になった。
「実は、神威さんにお話があったんです」
「え、話?」
「はい、そうです」
 内心、ドキドキだった。もし、彼女が付き合ってほしいと言ったら、俺はどうしたらいいのだろう。こんな優しい子が俺の彼女だったら、本当に幸せだろうな。
「ちょっと前に、神威さんに辞めないでほしいって言ったじゃないですか」
「うん」
「あんな事、言っといて怒られるかもしれませんが……」
 ちょっと予想とは違うのかな。
「どうしたの?」
「私、実は今月いっぱいでホテル辞めるんです」
「えーっ!」
「こ、声、大きいですよ…。みんな、こっち見てます」
「あ、ああ…。ごめんごめん…。でもさ、何でまた」
「入った時から、お金頑張って貯めて、海外へ旅行というか、しばらく滞在するのが夢だったんです」
「え、滞在ってどのぐらい?」
「少なくても一年か二年は……」
「誰か知り合いでもいるのかい?」
「いえ、いませんけど…。色々な場所を歩くのって私、大好きなんです」
「……」
「ビックリさせちゃってごめんなさい」
「本当に?」
「ええ」と言う、北野さんの目は真面目そのものだった。
 正直かなりショッキングな事だった。北野さんがあと少しで日本からいなくなる。
「ホテルには言ったの?」
「ええ、マネージャーだけには、前から言ってあります」
「そうなんだ……」
「どうしました?」
「いや…、寂しいなと思ってね」
「……」
 心から出た本音の言葉だった。俺はこの間、抱いた未来より、最初から北野さんが好きだった事にようやく気がついた。でも、もう遅い。
 この子の笑顔が、しばらく見られなくなるのか……。
 そう思うと、余計に愛おしく感じる。
「でも、神威さん。喉、大丈夫なんですか?」
「う、うん…。今のところはね。おかげさまでゆっくり休ませてもらったし、大丈夫だと思う」
「良かった……」
 食事を終え、外に出る。まだ、外をそのままただぶらつくには寒過ぎる季節だった。
「どこか行きたいところは?」
「浅草寺に行きたいです」
「了解!」
 元々俺は無宗教だし、寺にお参りに行くという習慣はない。しかし、好きな子となら、どこだって楽しいものであった。
 鳩の群れがいたので、パンを千切ってばら撒く。すると、数十匹の鳩が、俺の足元に群がりだした。
「あ、神威さん…。そのまま動かないで……」
「え?」
「写真、私、趣味で結構いいカメラもっているんです、ほら」
「へえ」
「今、いいアングルだなと思って、写真を撮りたいなあって……」
 日本にいるのは、あと数日の北野さん。そんな彼女が望むなら、俺はいくらだって被写体になろう。
 カメラを構え、真剣な表情の彼女を見ると、海外でも同じ事をしてそうだと思い、少しおかしくなった。
「あ、駄目ですよ~、神威さん。口元ニヤけてますよ~」

 北野さんをギュッと抱き締めたい。
 俺を五時間以上も待っていてくれた時から、ずっとそんな衝動に駆られていた。いきなり抱きついても駄目だ。
 そのちょうどいいタイミングが来るのを俺はジッと見計らっていた。
 浅草寺の帰り、近くのビリヤードへ寄った。
「私、やった事ないですよ~」
「大丈夫、俺が教えてあげるから」
 初めてビリヤードをするという彼女は、何気に楽しさが分かったのか、大はしゃぎで球を突いていた。
「あ、もうこんな時間……」
 楽しい時は過ぎるのが本当に早い。時計は十時を回っていた。俺はこちらへ来るまでかなり遠いほうなので、十一時半を過ぎたら、地元へ帰れなくなる。でも、今日は北野さんとずっと一緒にいたかった。
「そろそろ神威さんも帰らないと、間に合わなくなりますよ」
「う、うん……」
「駅は別々だけど、とりあえず方向は一緒なので向かいますか」
「そうだね……」
 駅まで向かう帰り道。風は非常に冷たかった。
「寒い~」
 その時、自然に体が動いた。気づけば、俺は北野さんを後ろから抱き締めていた。
「……」
「これなら、少しは寒くないだろ?」
「……。はい……」
 どのくらいその状態でいただろうか。細身の北野さんの体を俺は優しく抱き締めたまま、顔をこちらへ振り向かせた。
 両手を彼女の頬で包み込む。お互い至近距離な状況で見詰め合った。
「ホテルで働いて、どのくらいになったっけ?」
「ちょうど一年です」
「そっか…。一年間、お疲れさま」
「こちらこそ、お世話にばかりなってしまって」
 こんないい子がすぐ近くにいたのに、俺は飲み屋で憂さをずっと晴らしていた。彼女はいつだって俺の体を気遣ってくれていた。
 もっと早く気づければよかったのに……。
「北野さんって名前、美加だよね?」
「は、はい…」
「名前で呼んでいいかい?」
「え、は、はい……」
「美加……」
 すぐ近くに北野さんの唇がある。俺は、そっと顔を近づけていく。
 唇と唇が触れた瞬間だった。
「だ、駄目!」
 慌てて身を翻された。
「き、北野さん?」
「ご、ごめんなさい……」
「いや、こちらこそ」
 少し彼女に対し、気持ちが焦り過ぎたみたいだ。
「神威さんは…。神威さんには、彼女さん…。いるじゃないですか」
「……!」
 やはり誰かが北野さんの耳に、未来の事を喋った奴がいたのか。俺の軽率な行動で傷をつけてしまったかもしれない。
 未来の件に関しては、何とも言い訳のしようがなかった。彼女という訳ではない。しかし、それをどう北野さんへ説明すればいいのだろうか?
「私、帰ります……」
「北野さん……」
「今日はご馳走さまでした」
 一礼して、北野さんはゆっくりと去っていく。このままでいいのか…。何とかしないと。
「北野さん……」
 俺は大声であとを追い駆け、肩をつかむ。
「誰に何て聞いたか分からない…。でも、彼女とかじゃないんだ。俺、彼女なんていない」
 自分で、何でこんな事を言っているのか不思議だった。
 北野さんの目は、少し潤みだしていた。
「神威さんって、彼女でもない人とデートできるんですか? 何でもない人と、そうやって平気でデートできるんですか?」
 返す言葉がなかった。俺は最低の言葉を彼女に吐いたのだ。そしてさらに彼女を傷つけたようである。
 小走りに帰る北野さんの背中を、俺は黙って見送るしか術がなかった。

 

 

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