岩上智一郎の作品部屋(小説・絵・漫画・料理等)

著書:新宿クレッシェンド

自身の頭で考えず、何となく流れに沿って楽な方を選択すると、地獄を見ます

5 新宿プレリュード

2019年07月14日 12時07分00秒 | 新宿プレリュード

 

 

4 新宿プレリュード - 岩上智一郎の作品部屋(小説・絵・漫画・料理等)

12345678910カクテルを数杯飲んだ未来は、少しほろ酔い状態である。酒で酔わせて口説くというのは、自分自身の美学に反していた。「そろそろ、出ようか?」「うん!」ホテル...

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 職場で、北野さんと顔を合わせるのは気まずい……。
 しかし、そんな心配など杞憂に過ぎなかった。翌日俺は喉の腫れが再発し、もがき苦しんでいた。
 昨日のデートの時は何でもなかったのに…。その分のツケまで一気に回ったような感じがする。
 北野さんを苦しめた天罰のような気がした。
 ジッと寝ていても、直らないのは前回で分かっている。俺は、また目の前の病院に駆け込んだ。
 静止を振り切って強引に退院。しかし一ヶ月ももたずに再度入院。
 前回と同じ病室へ運び込まれた俺。まだ退院せず、同じ顔ぶれが多い。懲りずに戻ってきた俺の顔を見ると、病室内のみんなは笑って出迎えてくれる。
 また退屈な日々の始まりであった。
 あれだけ声が出せなかったのに、点滴を一日打っただけで、ある程度は回復している。
 苦しさから逃れられただけでも、本来なら幸せなはずだが、治れば治ったで人間は不平不満を覚えるものだ。
 北野さんの顔が見たかった。しかし、あのデート以来、連絡のとりようがない。あと一週間もすれば、彼女はホテルを辞める。そして俺自身、セクションを移動するかどうかも決まる。
 ずっとそばにいて当たり前の存在だった彼女。
 それが、もうそばにはいなくなるのだ。
 好きという感情を自覚してから、こんな風になるなんて…。人生とは、つくづく因果なものである。
 一年間一緒にやってきて、最後に笑顔で見送る事すらできない俺。
 未来からは数回、電話が入っていたが、今は話したくないので出なかった。もちろん性欲は人並みにある。しかし今はそんな気分ではなかった。
 やるせなさだけが募る。これだけゆっくり考えられる時間を持ちながら、俺は北野さんの事だけを考えていた。

 先輩の長谷部さんと、熊髭の原田さんの二人がお見舞いに来てくれた。
 ここしばらくのところ、顔を合わせていなかったので、どうしたのか知り合いに聞いていたら、家の前の病院に入院していると聞いてやってきたらしい。
「何だよ、思ったより元気そうじゃねーか」
「初日ぐらいですよ。声も何も出せず、おとなしく寝ていたのは……」
「まあ、元気そうで何よりだ」
「俺の姿が見えなくて、二人とも寂しかったんじゃないですか?」
「馬鹿言え。野郎の顔を一ヶ月二ヶ月見なくたって、何の問題もないって」
 他愛ない会話をして、久しぶりに楽しい時間を過ごせた。二人とも、以前と変わらない日常を送っているみたいである。
 入院して一週間が経った。すっかり元気にはなっているが、退院と言われない限り、今はおとなしくしていよう。
 前と決定的に違うのは、花が一つもないという点であった。
 一ヶ月もたずに再入院した俺に、花を再び持ってくるような奇特な人間などいない。
 北野さん、またお見舞いに来てくれないかな……。
 そんな事ばかり考えていた。

 ある日、担当の先生に聞いてみた。
「もう俺、すっかり元気なんですけど、また喉が腫れるって事ありますか?」
「う~ん、そうね…。でも、もう少し様子を見ましょう」
「できれば、扁桃腺切ってもらいたいんですよね。もう再発するの嫌だし」
「できれば切らないほうがいいのですよ」
「そうですか」
「小さい頃、耳鼻咽喉科へ掛かっていた事はありますか?」
「ええ、すぐ近所のところに」
「じゃあ、私がそこに紹介状を書きますので、明日、そこへ行って診断受けて来て下さい」
「……」
 何で俺はここに入院しているのだろう。この先生、本当に大丈夫なのかと真剣に思った。
「あの、俺はここで入院しているのに何故わざわざ別のところへ診察を受けに行かなくてはならないんですか?」
「一応、慣れたところのほうがいいので」
 何を言っているのだろうか、この先生は? 正直、不安でいっぱいになってきた。
 それだけ言うと、先生は逃げるように俺の病室から消えた。

 見舞い客は前ほど来なく、何もできない退屈な日々。
 北野さんは、もうホテルを辞めてしまっただろうな。
 もう、彼女と逢う事は永遠にないのかな。
 せめて、あの時、強引にキスをしておけば良かった。
 今の俺は本当に一人ぼっちである。誰からも必要とされず……。
 居場所を一生懸命作る為、頑張ってきたホテルからも必要とされなくなっているのだ。
 自分の存在が酷く無意味なものに感じられた。
 そんな時に、ホテルの部下である村井が、再度お見舞いに来てくれた。浅草から川越まで相当時間が掛かるだろうに……。
「元気そうじゃないですか?」
「元気は元気だけど、する事がなくてつまらないよ」
「ははは…、あ、神威さん……」
「なんだい?」
「神威さんのセクション移動が決まりました」
 村井の表情は暗くなっていた。お見舞いに行くついでに、それも伝えろと頼まれたのだろう。
「そっか…。まあ、上層部の決定だ、仕方ないさ……」
 ただのから元気だった。覚悟はしていたものの、実際に決まると辛いものである。
「神威さん、このままホテル辞めてしまうんですか?」
「そうだな…。だって宴会でしょ? そんな事をする為に、頑張ってきたんじゃないもん。ラウンジで酒を作れなければ、あそこには俺の居場所なんてないさ」
「実は自分もいい機会なので、辞表を出そうかと思っているんです」
「……」
 事実上、職なしになっている俺が、彼に何て言葉を掛ければいいのか分からない。
「北野さんも、先月で上がりました」
「そっか……」
 いい奴は、どんどんいなくなっていく。
「歌手のキャシーとポールも、先月づけでカナダへ帰りました」
「そうか……」
 未来とのデートを思い出す。あの時の恩すら、まだ俺は返していない。
「ポールが、『カムイ?』って寂しそうに何度も言いながら、帰っていきました」
 去年のクリスマスに仕事終了後、プロレス仕込みのちゃんこ鍋を作り、一緒に食べたのを思い出した。一口食べて、「オー、テイスティー!」と大喜びし、レシピを教えてくれとうるさく言ってきたのが懐かしい。
 外人なのに律儀なポールは、正月の時一緒に初詣に行き、食事をご馳走してくれた。お礼に寿司屋へ連れて行くと、焼アナゴを奇妙なものでも見るような目つきで、口に運ぼうともしなかった。お参りの際、五円玉を手渡し、「坊主の頭にこのコインをぶつけるんだ」と、デタラメを教えた事もある。さすがに騙されず「ユー、バットボーイ」と笑っていた。
 キャシーは日本のカラオケ行きたいと言い出し、いい部屋を予約して向かうと「私はプロだから一曲だけしか唄わない」と、本当に一曲しか唄わなかった。
 飲み物を飲む際、絶対に氷の入ったものは、一切口にしないプロ意識の塊みたいな女性だった。
 あの陽気な二人まで、いなくなってしまったのか……。
「とりあえず俺、退院したら、ホテルへ一度は顔を出すようだしね」
「そうですね。みんな、心配していましたよ」
「村井もわざわざ来てくれて、本当ありがとうね」
「いえいえ、神威さんの様子も見たかったし」
 俺は、いい後輩を持ったものである。その時、頭の中にピンと閃くものが走った。
「あ、ねえねえ……」
「どうしたんですか?」
「お腹減ってない?」
「え、ええ…。多少は」
「これからステーキ食いに行こうよ!」
「えっ! だって神威さん、入院中じゃないですか?」
「分厚い肉が食いたいんだよ~。血の滴るような肉を」
「だって……」
「ね、お願い! 一緒に行こうよ~。いや一緒に行ってくれ。頼む、な?」
 困り果てた様子の村井に、俺は駄々を捏ねてみた。
「まったく…、あとで怒られても知りませんよ」
「うん、大丈夫、大丈夫」
 こうして俺は病院を抜け出し、ステーキハウスへ向かう事になった。

 分厚い肉を食べたいというのも、もちろんあったが、さりげなく北野さんの事を詳しく聞き出したかったのだ。
 ジュージューと鉄板の上で、うまそうな音を立てながら、ステーキは目の前に置かれる。自然と口の中に涎が溜まりだす。
「ずっと夢にまで見ていたステーキが……」
 無我夢中で肉にかぶりつく。レアのちょうどいい焼き具合。一口、食べただけで体中の細胞が歓喜の悲鳴を上げて騒ぎ出した。
 これで確信できた。やはり俺は肉食なのだろう。肉を食べるていると、これ以上の幸せがあるのだろうかという気持ちになってくる。
 ある程度の満腹感を覚え、ようやく落ち着く事ができた。
 よく食欲、性欲、睡眠欲というが、人間は絶対に寝るので、睡眠欲が先に来て、その次が食欲なのであろう。性欲とは、余裕があって初めてうまくいくものなのかもしれない。
「なあ、北野さん、もうホテル辞めちゃったんでしょ?」
「ええ」
「ラウンジの面々、誰もお別れ会とかやらなかったの?」
「そうですね……。誰一人…、特にこれといって……」
「冷たいなぁ~」
 たかが一年とはいえ、ちゃんと筋を通しながら辞めていった北野さん。誰一人、何かしようという人間がいないのだ。もし、俺がいれば…。入院している自分が非常に歯痒い。
 彼女はどんな気持ちで、ホテルをあとにしたのだろう。だからといって連絡先も何も知らない俺は、どうする事もできないのだ。
 常にどこか寂しそうな目をしていた北野さん。
 できれば俺がその寂しさを埋めてあげたかったが、あとの祭りである。
 また一緒に食事をしながら、楽しく会話がしたかった。
 一緒に、街を歩きたかった。
 まだ、花屋敷にさえ行っていないのに……。
 もう北野さんは、アジアの旅行へ旅立ってしまったのか。日本にいないとなると、俺にはどうする術もない。
「神威さん?」
「ん?」
「どうしました?」
「ん、いや……」
「何だか深刻そうな表情をしていたので……」
「入院してるから今はいいけどさ…、退院したら、俺、実際どうなるのかなと思ってね」
「……」
「宴会に配属でしょ? シェーカーを振れないなら、あのホテルにいても意味ないさ」
「確かにシェーカーを振っている時の神威さんは、とても楽しそうですからね」
 現実を考えると、重い気持ちになる。今の俺に、何が残されているのだろう?
 人並み外れた体と力。ホテルで学んだ接客術とバーテンダーのスキル。それだけである。
 また新しく居場所探し。俺の安住の地はどこにあるのだろうか。本当はどこへ行っても、そんなものはないかもしれない。
 食事を終え、一旦病院の前まで戻る。入り口のドアを開けようとすると、鍵が掛かっていた。
 時間は深夜十二時を回っている。
「ゲッ…、参ったなあ~」
「中へ入れないんですか?」
「鍵、掛けられてるもん」
「インターホンで、看護婦に開けてもらえば……」
「馬鹿、そんな事したら抜け出したの、一発で分かっちゃうじゃん」
「そんなのさっきから分かっているんじゃないですか?」
「ステーキ食っていい気分の状態なのにさ、今、怒られたら嫌じゃん」
「……」
「まあ、とりあえず、せっかく外にいるんだから、俺は酒でも飲みに行ってくるよ」
「え、大丈夫なんですか?」
「まあ、何とかなるでしょ…。それより村井は帰れるの?」
「ええ、まだ終電には間に合います」
 こうして俺と村井は別れ、酒を求める旅が始まる。北野さんの件で、ショックをかなり引きずっていた。
 今の俺は精神的に弱っていた。そんな時は女に溺れたいものである。となると、自然に足の方向は、未来の働くスナックへと向いていた。

 とにかく女を抱きたい。
 今の俺に抱けそうな女は、未来だけである。
 あの時、抱いた感覚が蘇り、体全身が興奮をしていた。
 スナックのドアを開けると、下品なカラオケの音が聞こえる。
「あ、神威さん。入院してたんじゃないの?」
 飲み屋で働く女の一人が、ビックリした表情で尋ねてくる。
「誰に聞いたんだよ?」
「原田さん」
「ああ、なるほど……」
「お酒なんか飲んでいいの?」
「さっきステーキも食ったし、問題ないだろ」
「そんなの聞いた事ないよ~」
「聞いた事なくていい。とにかく酒をくれ! ストレートで……」
 目の前でグレンリベット十二年を置かれる際、店内をさりげなく見回す。
 この場で働いている女は五名。その中に未来の姿は見えない。
「はい、お待たせ~」
「どうも」
 ショットグラスに注がれた酒を飲み干す。久しぶりに飲んだので、喉が焼けるような感覚を覚えた。
「あ、そういえばこの間、久美ちゃんとデートしたんでしょ?」
「え、誰? 久美って……」
「酷いなあ~、久美ちゃんは久美ちゃんしかいないでしょう~」
 久美…、久美…。誰の事だろう。
「……!」
 そういえば、未来の源氏名、ここでは名前を逆さにした久美だった。
「あ、ああ…。久美がどうしたの? 今日はいないみたいだけど……」
「この間ね、久美ちゃん。神威さんとデートしちゃったって、すごい喜んでいたんだよ」
 あいつ、店の女どもに余計な事を言っていないだろうな…。ここは余計な事を言わず、うまく情報を聞き出す事にしてみよう。
「喜んでいるなら問題ねーじゃねーか」
「そのあとさ、あなた、全然久美ちゃんの電話、取らなかったでしょ?」
 そういえば北野さんの件で頭がいっぱいで、まったく未来の事を考えていなかった。電話も彼女から確かにあったが、返事一つ返していない。
「しばらく落ち込んでいてさ……」
「……。で、どうしたんだ?」
「お店辞めちゃったよ」
「……」
 ここ最近、急な展開が多過ぎる。
「辞めるなら辞めるでいいけど、何であいつはひと言、電話をよこさないんだ」
「したでしょ? したけど、電話に出なかったのは神威さんのほうでしょ? 」
 返す言葉がなかった。
「それに彼女、私に泣きながら言ってたよ。あの子を抱いて寝ている時、別の女性の名前を寝言で言っていたって」
 寝言? もしかして北野さんの名前をあの時俺は、知らずの内に言っていたと言うのか? しばらく色恋沙汰がなかった男が一気にもてたと勘違いをし、有頂天になると始末が悪い。この俺がいい例である。
「電話…。ちょっと、あいつに電話してくるよ……」
 北野さんもいなくなった今、俺を癒せる女性は未来しかいなかった。非常に都合いいが、俺は未来を嫌いになった訳ではない。
 店の外へ出て、未来の携帯を鳴らす。
 十数回コールを鳴らしても、未来は電話へ出てくれなかった。
 北野さんを傷つけ、未来までも知らず知らずの内に傷つけていたのだ。最低男…。そんな烙印を押された気分だった。
 この日の酒は、とてもまずく感じられた。

 沈んだ気持ちのまま、病院へ辿り着く。しかし案の定、ドアは鍵が掛かっている状態のままである。途方にくれた。
 目の前の病院なので、家に帰って寝ればいいか……。
 家のすぐ裏手にある長谷部さんの店の明かりが、まだついている。ここまできたら、長谷部さんのところへ寄ってから帰ろう。
 未来から、電話が来る様子はなかった。
 北野さんにしろ、未来にしろ、きっと俺に愛想を尽かしたのだろう。
 この寂しさとせつなさを何とかしたかった。真っ直ぐ家へ帰るのが嫌だった。
 自動扉を開け、中へ入る。長谷部さんが、笑顔でカウンター客と会話をしている最中であった。
「こんばんは~」
 俺の顔を見た途端、長谷部さんの顔が変わる。
「おまえ、まだ入院中だろ?」
「え、そうですけど……」
「何しに来たんだ?」
「いや、ちょっと抜け出したら、鍵、掛けられちゃって…。軽く飲ませてもらおうかなと」
「馬鹿、駄目だよ。帰りな」
「え……」
「おまえ、この間さ、俺と原田さんで見舞いに行ったばかりだろ? しかも今回の入院はぶり返して二度目の入院じゃねーか。それをさ、抜け出して酒? ふざけんなよ!」
「す、すみません…。おとなしく帰ります」
 一礼して、外へ出た。
 長谷部さんが、俺の体を心配して怒ってくれているのは、充分に理解できた。しかし、こうも立て続けに色々あると、さすがにへこんでしまう。
 仕方ない。今日のところは病院にも帰れないし、家でおとなしく寝るのが懸命だ。
 朝の五時半ぐらいになって、戻れば、看護婦にも見つからないだろう。
 こんな事なら、抜け出さなければ良かった…。自分が悪いのを分かってはいるが、やり場のない静かな怒りが俺を包んでいた。

「神威、オメーさ……」
 身長百九十センチ、体重百十キロの大男が、俺に声を掛けてくる。
「何でしょう?」
「そんな変なシャツ着てよ…。何か危ねえ宗教でもやってんじゃねーのか?」
 小馬鹿にした表情で意地悪そうに笑う大林。俺より二年先に入門した先輩レスラーである。
 師匠の大地さんに可愛がられ、常にマンツーマンで指導を受けている俺に、大林はちょっとしたジェラシーを抱き、何かにつけて絡んでくる存在だった。
「オメー、口、ねーのかよ? 危ねえ宗教でもやってんのかって聞いてんだろが!」
「お言葉ですが、これは薪能といって、日本古来のものであり、それを宗教なんて言っていると、知性の程度が分かりますよ?」
 俺の言葉にカッとなる大林。ただでさえ頭が悪いのに、そこをつかれたものだから、余計に怒っていた。
「最近、図に乗ってんじゃねーのか?」
「いえ、そんな事はないですけど……」
 俺の親父はこの当時、薪能をやっていた。たまたまその薪能のデザインしたTシャツをプレゼントされただけの話だが、それだけでこんな因縁つけられたら楽しい訳がない。
「生意気なんだよ、神威は」
「すみません……」
 プロレスの世界は、完全な縦社会である。上の者には絶対服従。そういった暗黙の了解があった。そのルーツは相撲の世界から取り入られたと言われている。
「おい、大林。おまえ、神威に絡むのやめろよ」
 寮長である浅田さんが止めに入る。この人はみんなから慕われ、いいまとめ役でもあった。
「浅田さんは黙ってて下さいよ。こいつ、先輩に対する礼儀知らないんですよ」
 思わず、「じゃあ、おまえはどうなんだ?」と言いそうになる。理不尽の塊みたいな男、大林。
 ん、待てよ……。
 こいつが上下関係を言いながら、自分ではそれを守っていないという事は、逆に下の者からやられても筋は通るはずだ。
 俺は合宿所のリングの上にあがった。
「大林さん、スパーリングしませんかぁー?」
 わざと、語尾を延ばし、馬鹿にしたような表情で話す。
「テ、テメー……」
 うまい具合に挑発に乗った大林。一度、こいつだけはスパーリングできっちりと伸しておきたかった。入った順番と年齢では負けているが、強さなら負けない。
「あれ、やっぱやめときますか?」
「上等だよ、オラ!」
 顔を真っ赤にしながらリングへあがる大林の顔は、滑稽で笑える。
「行くぞ、オラ!」
 そのまま、俺に勢いよく掛かってくる大林。体重があるだけあって、力は強い。
 パワーで敵わないのは百も承知。倒れるふりをして、グランドへ引きずり込んだ。一瞬、相手の右手首をつかみ、斜め四十五度に外側へ捻る。
 手首を極め、肘…。肘まで関節がロックしたら、肩…。人間の体の構造を知れば、面白いもので、手首をつかむだけで相手をまったく身動きできなくさせる事ができた。
「テ、テメー……」
 関節を極められ、身動きのとれなくなった大男。見ていて自然とニヤけてくる。
 グランドでの関節の極め合いなら、俺はあきらかに大林より強い。余裕を持って、極めた手首を離す。離す際も、ニヤけながら離した。
「舐めてんじゃねーぞ、小僧が!」
 戦いはカッとなったら終わりである。大林の動きは冷静さを欠き、手に取るように先の展開を読めた。
 俺は相手の力を利用し、巧みに関節を固定して身動きさせなくさせるだけだ。必死にもがいても、身動きなどできやしない。無理に動くと、骨や靭帯が伸びる覚悟が必要であった。
「ギブアップっすか?」
 リング外に陣取る先輩らに聞こえないぐらいの小さな声で囁く。
「貴様!」
 パッと手を離した瞬間であった。そのまま、互いに間合いをとるはずなのに、大林はがむしゃらに突っ込んでくる。
 体重差、約二十キロ。完全に上に乗られると、軽い分だけ俺は不利である。
 相手を舐め過ぎ油断した。
 そう思った時、左肘を極められていた。
「へ、へへ…。動けねーだろが!」
 初めて俺の関節を卑怯な方法でとれた大林は、得意満面な表情である。激痛が全身を走る。それでも悔しさから、俺は無理に笑顔を作った。まだ利き腕である右は自由である。
 ミシ…、という靭帯が伸びる音が聞こえた。『打突』を使うか……。
 こんな非常時用に密かに開発していた殺人技である『打突』。この世界で体の大きくない俺は、極限まで親指を鍛えてきた。激しい鍛錬の中、何度も右の親指の爪は剥がれた。親指だけの指縦伏せに始まり、鉄筋に親指のみで叩きつける打撃練習。バケツの中に石をたくさん拾い、その中へ何度も親指を突き刺す練習もした。数年に渡る修練により、俺の右の親指は特異な硬さと力が備わっていた。あとは純粋にこの親指を相手の横っ腹目掛け、突き刺せばいいだけである。それに『千切り』だってある。
 こんな奴、ぶっ刺してやればいい。そう思った時、大地師匠から言われた言葉を思い出した。
『馬鹿野郎! おまえは人を殺すつもりでリングに上がっているのか?』
 俺がこの『打突』を開発し、大地師匠に見せ、得意げになっていた時言われた台詞である。そんなつもりはない。しかし俺が密かにやってきた事はそういう事なのだ。
 腕を完全に極められ、身動きの取れない俺。『打突』さえ使えれば……。
「タップせいや、オラ!」
 意地でもしたくなかった。気の遠くなるような痛み…。それでも懸命に笑うようにした。
「……!」
 言いようのない音と痛みが走り、目の前が真っ暗になる。左腕が燃えるように痛かった。
 痛みでリングの上をのた打ち回った。微かに開いた視界の先には、俺の左肘の骨が歪に突き出していた。

 嫌な事を思い出したものである……。
 いつになったら、この事を忘れられるのだろうか? 一生、この嫌な思い出を引きずって生きるのか。
 左肘を回すと、ゴリゴリと嫌な音が鳴る。今では完全に骨がくっついているが、後遺症で回りの靭帯が鳴ってしまう。特に生活する上で、これといった支障はないが……。
 気づけば、俺は泣いていた。
 ずっと孤独だった。
 誰かにすがりたかった。
 居場所が欲しかった。
 大きな体を小さく縮め、膝を抱えて泣いた。
 自分の歪な左肘を見つめる。相変わらず、肘の先は醜く骨が歪に突き出ていた。一生消えない負け犬の烙印。
 あの時『打突』を使っていれば、今頃はリングの上で……。
 やめよう。あの時俺は『打突』を使わず、勝負に負けたというだけなのだから。
 プロレス界で生きる事すら許されず、一般社会からもそこへいる事を拒まれた。今の俺は惨めな負け犬である。
 好きな女には去られ、職もない。
 世界中の人間たちから、忌み嫌われているような気がした。
『何があっても生きてくれ。おまえは生きなきゃ駄目だ』
 一番仲のいい先輩の言葉を思い出した。
 そう…。俺は何があっても生きなきゃいけない。嫌な事の連続かもしれない。それでも俺は生きるって、先輩とあの時約束した。
 嫌な事を今は考えるな……。
 辛くても笑おう。笑っていよう。自分以外の人間がいる時は、出来る限り明るくいよう。
 その為には、まず寝よう。
 ゆっくり寝て、それから色々考えればいい……。

 目を覚ますと、お昼の十二時になっていた。
 ヤバい…。朝の五時半には、病院へ帰ろうと思っていたのに…。今頃、病院では俺がいないと大騒ぎだろう。
 急いで身支度を整える。
 そっと病院へ入り、さりげなく病室へ向かう。
「……!」
 病室の目の前には、担当の看護婦が点滴を持ったまま、仁王立ちしていた。
 恐ろしい。
 俺の姿を確認するなり、その看護婦は凄まじい形相へと豹変する。
「神威さん」
「は、はい……」
「今まで、どこへ行っていたんですか?」
「あ、あのですね…。ホ、ホテルの部下が見舞いに来てくれまして……」
「ええ、それで?」
「途中まで悪いので送って行ったんです……」
「はい、それで?」
「で、帰ってきたら、病院の扉に鍵が掛かっていまして……」
「で?」
「家、目の前じゃないですか…。なので、明日、朝早く帰ればいいかなと思いまして……」
「呼び鈴鳴らせば良かったんじゃないですか?」
「あ…、そこまでは思いつきませんでした……」
「で、何で朝帰るつもりが、こんな時間になっているんですか?」
「それがですね……」
「ええ」
 言い訳が何も思いつかなかった。
「寝坊してしまいまして……」
「……」
 看護婦の顔が一段と怖くなった。
「ごめんなさい…。おとなしく点滴されます。許して下さい」
 それだけ言って、俺はみんなのいる病室へ逃げた。看護婦も他の患者の手前、それ以上何も言わなかった。
 しかしこの日から、看護婦の俺を見る目が決定的に変わってしまった。

 一週間が過ぎた。
 適度に知り合いが見舞いに来てくれ、俺はとりあえずおとなしくして日常を過ごしている。
 一日二回の点滴タイム。すっかり元気になっている俺を見ると、大抵の看護婦は、興醒めした顔で、「いつまで入院しているんですか?」と嫌味っぽく聞いてきた。
 退院して、ホテルへ行くのが嫌だった。
 どの面を下げて、マネージャーやみんなに会ったらいいのか分からない。
 今の自分が、非常に格好悪く感じられた。
 いいのか、これで? 自問自答をする。
「あんな奴が、プロレスの世界にいたのか」
 そう言われるのが嫌で、俺はずっと頑張って信念を持ち続けていたんじゃないのか。
 じゃあ、どうする? シンプルに考えろ。
 せっかく大日本生命に入ったばかりだが、これじゃあ、狙って入ったようなものだと見られる。なので保険の木村さんには、今回の保険適用は自分から辞退するつもりでいた。
 自分なりの筋を通しながら、一生懸命生きよう。
 まだまだ俺は、ちゃらんぽらんだ。
 今、できる事を一つ一つやっていけばいい。
 物事を整理してみる。
 まずは、退院する。それからホテルへ挨拶。セクション移動は決まっているので、ホテルは辞める事になるだろう。それとついでに木村さんへ話し、保険適用の辞退。けじめをひと通りつけてから、新しい職を探せばいい。
 孤独だって別にいいじゃないか…。俺は俺だ。
 少しだけ気持ちが楽になった。
 この日、俺は退院手続きを行った。

 浅草ビューホテルへ連絡して、明日、顔を出しに行く事にする。
 マネージャーは、言い辛そうに俺のラウンジから宴会への移動を告げた。
「しょうがないですよ」
「すまない…。おまえが入院して大変な状態なのに、力になれず……」
「上層部の決定ですからね」
「で、どうするんだ?」
「もちろん、前に言った通り辞めます」
「そうか」
「残念ですか?」
「ああ、もちろん残念だ」
「じゃあ、上に掛け合って下さいよ」
「……」
 黙り込むマネージャー。少し酷だったな。
「冗談ですよ、冗談…。とにかく明日、行きますから」
「分かった、待ってるぞ」
 電話を切ると、夜まで部屋でゴロゴロして時間を過ごした。
 そういえば、未来の奴…。あれ以来、連絡がない。仕方ないか。もう彼女の事は思い出さないようにしよう。俺は彼女を傷つけてしまったのだから……。
 夜になってから、隣の長谷部さんの店へ顔を出した。
「本日付で、無事、退院しました」
 入り口で大きく声を出すと、長谷部さんの表情はほころんだ。
「よし、おめでとう! じゃあ、まずは快気祝いだ。飲め! 俺の奢りだ!」
「ありがとうございます」
 この日のグレンリベットは、格別にうまく感じた。
 小学時代からの同級生である岩崎靖史が教えてくれたウイスキー。ホテルも辞めた事だし、時間もある。久しぶりに彼へ連絡を取り、たまには飲みに誘ってみるか。
 しばらくは女とかはいい。自分自身をしっかりさせよう。
 浮かぶ時もあれば、沈む時だってある。沈んだら、また頑張ればいいだけだ。
「あ、この野郎。また、病院抜け出してきやがったのか?」
 原田さんまで店に来た。前回抜け出した話を大方長谷部さんから聞いたのだろう。
「違いますよ~。ちゃんと本日で退院したんですからね」
「そっかそっか、おめでとう! じゃあ、飲め。俺の奢りだ!」
 本当、原田さんと長谷部さんは面倒見がいい。
 明日、ホテルへ行くようなので、俺は朝までにならないよう、手頃な時間で切り上げる事にした。

 自分の気の持ちよう一つで、いくらだって精神は浮き沈みするものだ。
 この先、きっと明るい未来が待っている。
 電車に乗ってホテルに向かいながら、ポジティブに考えるようにした。
 久しぶりのホテル。俺はここでしばらくお世話になったのだ。従業員用の入り口から入る際、一礼してからにした。感謝を忘れてはならぬ。
 中に入っても威風堂々と歩き、ラウンジへ向かう。
 マネージャーや料理長に挨拶を済ませ、退職手続きも済ませる。他の従業員たちに明るく接した。
 部下の村井は寂しそうにしていたので背中を軽く叩き、陽気に話すよう心掛ける。
「村井、おまえがいたから、俺はこのホテルも楽しく過ごせた」
「神威さん……」
「そんな顔すんなって。もう二度と会えないって訳じゃあるまいし」
「お世話になりました」
「いやいや、こちらこそ…。二回も見舞いに来てくれて、本当ありがとう」
「神威さん……」
「ん?」
「あの時、私を庇ってくれて…、ありがとうございます……」
「まだ、そんな事言ってんのか」
「だって」
「もういいって。可愛い後輩が理不尽な目に遭っていたら、助けるのが先輩の役目だろ」
「ありがとうございます」
「今度会う時は、ゆっくり酒でも飲もうな」
「ええ、ぜひ!」
 俺はゆっくり右手を差し出した。
 村井はギュッと俺の手を握ってくる。
 この絆は生涯大事にしていこう。俺は心の中で固く誓った。
 ラウンジの休憩時間というのもあり、保険の木村さんがいたので声を掛ける。
「木村さ~ん」
「あ、神威さん」
「すみません、保険に入った瞬間、すぐに入院しちゃって」
「いえいえ、退院されたんですか?」
「ええ、昨日で…。それでですね」
「ええ」
「入ったばかりで保険適用なんて少しいやらしいので、今回は辞退させていただきますから」
「何を言ってるんですか? ワザと入院したんじゃないのは、みんな知ってるでしょ」
「まあ、そうですけど」
「大丈夫! 私がちゃんと掛け合うから、そっちは心配しないで」
「いや、でも」
「いいから、私にそっちは任せてちょうだい!」
 ここまで俺に対し、親身になってくれるなんて…。心が自然と暖かい気持ちになれる。
「でも……」
「いいから神威さんは、私の言う通りにしてちょうだい、ね?」
「は、はぁ」
 退院して二日目。俺は浅草ビューホテルの退職が決定した。

 

 

6 新宿プレリュード - 岩上智一郎の作品部屋(小説・絵・漫画・料理等)

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