第1章 置き土産
2007年11月21日 原稿用紙31枚
第2章 兄弟
2007年12月14日 原稿用紙38枚
第3章 先輩
2008年5月9日~2008年5月31 原稿用紙32枚
第4章 月の石
2008年5月31日~2008年6月2日 原稿用紙37枚
第5章 借金地獄
2008年6月2日~2008年6月3日 原稿用紙41枚
第6章 経営者
2008年6月3日~2008年6月4日 原稿用紙43枚
第7章 捺印
2008年6月4日 原稿用紙37枚
第8章 烏龍茶
2008年6月5日 原稿用紙34枚
第9章 同級生
2008年6月9日~2008年6月10日 原稿用紙31枚
【再度執筆開始】
第10章 初恋の人
2010年4月08日~2010年4月09日 原稿用紙26枚
第11章 同窓会
2010年4月09日~2010年4月10日 原稿用紙38枚
最終章
2010年4月10日~2010年4月10日 原稿用紙25枚
【本編合計枚数 原稿用紙412枚で完結】
第三章《先輩》
ここ最近のパパンとママンは仲が悪い。だって常連客の竹花さんと、過去に関係があった事をママンがつい口を滑らせてしまったんだから。何もあのタイミングで言う事ないと思うんだ。自分の女房が、過去の話とはいえ昔からの友人に抱かれたという事実。知らないでいるほうが、人間幸せな時だってある。パパンが気の毒に思えた。
僕にとって幸いな事といえば、夜オナニーする時、両親の卑猥な声を聞かずに済むという点である。ゆっくり自分の好きな時間を堪能できる訳だ。
うちの両親はどちらかといえば、パパンがママンに惚れているという図式である。パパンはママンに当たる事ができないので、必然的に僕が八つ当たりの対象になってしまう。先ほどパパンが気の毒だと感じたが、そんな気持ちはあっという間に吹き飛んでしまう。
「おい、努! おまえはこんな事もできないのか?」
店を開けて間もないのに、パパンは無理難題を押しつけてくる。
「今まで料理を運ぶだけだったのに、いきなりキャベツの千切りをしろって言われたってできる訳ないじゃん。包丁一つ、ロクに扱った事ないのにさ」
「気合いだ。気合いさえあれば、何でもできるものだ」
そんなもの、気合いなんかでできる訳がないのだ。頑固になった時のパパンは本当に性質が悪い。
「今まで通りでいいじゃんか。別にここを継ぐって訳じゃないんだから」
「駄目だ。おまえはここを継ぐ運命にあるのだ」
パパンはすっかり僕に継がせるつもりでいる困ったちゃんだ。職業選択の自由など、まるでお構いなし。つい、年を取った自分を想像してみる。
頭に捻りハチマキを巻きながらフライパンを片手に転がす僕。カウンター席には、『肥溜めブラザース』こと、パパンと竹花さんが二人でいつも飲んだくれている。注文が殺到し調理場が火の車なのに、「おい、努。早くレバニラ作れや」とパパンが真っ赤な顔で怒鳴りだす……。
「冗談じゃないよ! 小汚い連中を相手に、生涯をまっとうしろって言うのかよ?」
「何を抜かす、この小僧が! 小汚い連中だと? おまえの給料はその小汚い客が払う金が収入源なんだぞ」
自分が小汚いなんて、露ほども思っていない幸せなパパン。
「何が給料だよ? 一ヶ月必死に働いたって、十万もないじゃないか」
「ふん、おまえは黙って俺の言う通りに働いてりゃあいいんだ。余計な事を考えるのは、あと十年経ってからにしとけ」
「冗談じゃないやい。労働基準法に違反してるじゃないか。こんな安賃金でボロボロになるまで働かせてさ」
「何が労働基準法だ。このコッパが。おまえがやっている事は仕事じゃない。ただのお手伝いに過ぎん。それで十万ぐらいのお駄賃もらえているんだから、俺に感謝しやがれ」
いくら何でも酷過ぎる。僕が毎日ひいひい言いながらやっている事をお手伝いだなんて……。
「う、訴えてやるからな」
「どうぞ、ご自由に。民事不介入に過ぎん。まあそんな面倒な事をしたら、もっとお小遣いを下げてやるだけだけどな」
「き、汚いぞ」
「汚くねえよ」
とぼけ顔で口を開くパパン。無性に腹が立ってきた。
「汚いじゃないか!」
「いや、北あるよ」
こんな時にクソつまらない駄洒落など使いやがって……。
「つまんないんだよ!」
「ふん、おまえなど黙って俺の言う通りに生きていればいいのだ」
「酷いや。それじゃあまるで僕は、パパンの道具じゃないか!」
「け、道具? おかしな事を言うな……」
「何でだよ? 指図されっ放しの人生なんて、まるで道具じゃないか!」
「チ・チ・チ……。道具は喋らん。愚痴も言わん。それに飯も食わん」
勝ち誇ったような表情でパパンは言った。
「ひぃ~、酷いや……」
「ふん、泣いたってキャベツの千切りを誤魔化せた訳じゃないぞ? とっととやれ」
「パパンの馬鹿」
「何だと?」
「そんなんだから、ママンを竹花さんに寝取られるんだ」
「馬鹿者!」
パチンと乾いた音がして、僕の頬は熱を帯びたように熱くなる。パパンが感情的になり、僕のつるんつるんの頬に平手打ちをしたのだ。
「ち、ちくしょう~!」
僕は泣きながら、家を飛び出そうとする。その時、階段から足音が聞こえ、二階からママンが降りてきた。
必要以上にお尻をプリプリ揺らしながら階段を降りるママン。いつもそんなオーバーアクションだから、うちの小汚い客どもに、「あんなケツに、チクワぶっ刺したらどうなんだろうね?」とか言われるんだ。ひょっとしたら、あいつらのマスターベーションのおかずにされているかもしれないのに……。
「あらあら努。何を泣いているのよ?」
僕のキラリと光る涙に気付いたママンは、覗き込むようにして声を掛けてきた。
「パパンが酷いんだよ、ママン」
「う~ん、何でそんな状況になったのか、私は分からないわ」
「あのね……」
「ううん、私はそんな事を聞きたい訳じゃないのよ、セニョリータ」
「ぼ、僕はセニョリータなんかじゃないよ」
「いいのよ、今はセニョリータで。じゃないと話が進まないから」
「はあ? 訳が分からないよ」
「いいから黙って私の歌を聞きなさい。ほら、耳を澄ませて。私が唄うなんて滅多にない事なんだから、耳をかっぽじってありがたく聞きなさい」
そう言うとママンは階段の途中で立ち止まったまま、両腕を組み、天井を見上げながら唄いだした。
「男は~、な~み~だ~を~流さない! プリプリン! ロボットだから、マシーンだ~から~、プリプリン!」
何だ? どこかで聞いた事あるような曲だが……。
「あ、ひょっとして『グレートマジンガー』の主題歌じゃないの? それならちょっと違うよ。最初は『男は~』じゃなく、『俺は~』だし。それに『プリプリン』じゃなくてさ、『ダダッダン』だよ?」
「いいの、いいの。そんな細かい事は。私が歌う時は『プリプリン』でいいのよ」
「そんなの変じゃないか」
「ちっとも変じゃないわ。それに最近ね、近所で『若奥さまカラオケ突撃隊』ってグループ作ったのよ。私はそれの副会長でもあるんだけどね」
また訳の分からない怪しい団体を……。
「全然ママンは若奥さまじゃないじゃないか」
僕の台詞にママンの目がキッと釣り上がった。
「いいのよ、実際の年齢なんて。見た目が若く見えればそれで若奥さまの条件を満たしているんだから」
「だって僕が十八で、パパンが四十二でしょ。パパンとママンは二つ違いだから……」
「努! つまらない計算なんかしてんじゃないよ。今日の晩御飯のおかずのコロッケ。努のだけ半分にするわよ。いいの?」
「何でそうなんだよ」
「目上の年を気にすると、そういう目に遭うという教訓よ」
いつもママンは自分が不利になると、これだ。我が家の食卓の実権はママンが握っているから、ここは大人しくしておこう。
「悪かったよ。ママン、うちのお客にも人気あるもんね」
「そうそう、私って自分で思っているよりも人気者なのよね。うちが何とか常連客ついているのも、私のプリプリのお尻が目当てに決まってんだから」
「……」
一体、何て台詞を……。パパンが聞いたら烈火の如く怒り出すだろう。ママンは自分から狙ってお尻をプリプリ動かしていたのだ。店の手伝いなど何もせずに……。
「そういえば、あなたは私の歌の真意が何も分かっていないようね」
「真意? 何それ? そんなの分かる訳ないじゃないか」
「私が言いたいのはね。男は涙を流さないって事を伝えたかったのよ。お分かり?」
それなら普通に言えば済む事じゃないか。別にわざわざ古いアニメの主題歌を変えて唄う必要など、どこにもないのに。
「何がお分かりだよ。何で僕が泣いていたのか理由すら聞かないでさ」
「今はもう泣いてないじゃないの。早くパパンの手伝いをしないと、また怒られるわよ」
まったく誰のせいでパパンの機嫌が悪いと思っているんだ。毎度の事ながらママンは本当にお気楽だ。この人と話していても何の解決にならないので、仕方なく僕は食堂へ戻る事にした。
パパンはタンタンとリズミカルな音を立てながら、キャベツの千切りをしている。僕が来たのに視線すら向けようとしない。
「お手伝いに来ましたよ」
あえて嫌味ったらしく言うと、パパンは包丁の手を止め、「とっととのれんを出せ、このちょんまげハゲ」と偉そうに抜かしてきた。
「くっ……」
思わず「何がちょんまげハゲだ」と怒鳴りたかったが、また平手打ちを喰らうのも嫌なので、ここは我慢して言われた通りに動く事にする。
外に出てゆっくり深呼吸をしてみた。熱かった頭が少し冷静になった気がする。考えてみると、竹花さんの事まで言ったのは言い過ぎだったかもしれない。パパンが怒るのも無理はないだろう。だけど、僕の存在を道具以下と抜かし、平手打ちまでするなんて酷過ぎる。こうなったら早いところ次の就職先を見つけ、あの小汚い定食屋から脱出する以外、方法はない。
「おい、早くのれん出せよ」
背後から声を掛けられたので振り向くと、捻りハチマキを巻いた小汚いオヤジがイライラしながら待っていた。
「すいません、もうちょっとで開きますので」
出来る限りの笑顔で明るく言うと、「口を動かす暇あるなら、ちゃっちゃと店開けろや」と傍若無人な態度で返ってきた。
「は、はい……」
何も言い返せない自分が悔しかった。僕の気持ちが暗く沈んでいようと、客には何の関係もないのだ。そしてこんな日に限って、うちの定食屋は忙しかったりする。
「はい、肉団子クリームシチュー風!」
「へい!」
最近のパパンは妙なメニューを増やしていた。何がクリームシチュー風なのか、僕にはさっぱり分からないが、おかげで客に対する対応が余計に面倒になっている事だけは確かだ。
「ねえ、お兄ちゃん。焼そばイタリアンって何?」
牛乳ビンの底をメガネにつっくけたようなおばさんが、パイナップルのような髪の毛をボリボリと掻きながら聞いてくる。水を注がなきゃいけないし、料理のオーダーだってとらなきゃいけない。大忙しの時に、このようなメニューの説明を求めてくる客は非常に邪魔だった。
「太麺焼そばをナポリタン風に作ったものです」
簡単に説明すると、牛乳ビンメガネのおばさんはジッと僕を見つめながら言った。
「何故ナポリタン風だとイタリアンなの?」
そんなの僕が知る訳ないじゃないか。パパンの気まぐれで一昨日追加されたメニューなんだから……。
「さ、さあ、何でなんでしょうかね」
「ちょっとあなた、ここ大事よ」
「へ?」
「こう見えて私はナポリタン愛好家なのよ。それを焼きそばの麺を使ってというだけでも邪道なのに、イタリアンとは何事よ」
メガネを掛けたおばさんは、髪の毛を両手で掻き毟りだしながら口を尖らせ、どうでもいい事を言っている。どうしてもパイナップルのようなヘアースタイルに視線が行ってしまう。僕はこのおばさんを『パイナポー』と呼ぶ事に決めた。
「ちょっとあなた、何をボーっとしているのよ。人の話をちゃんと聞いているの?」
「き、聞いてますよ」
「じゃあ、何でナポリタン風がイタリアンなのか説明してみなさい」
このクソ忙しいのにパイナポーめ……。
「知りませんよ。お気に召さないなら、他のメニューを注文すればいいじゃないですか」
「私はね~、この焼そばイタリアンが気になって気になって仕方がないのよ。分かる、この気持ち?」
「いえ、分かりません……」
何でパイナポーの気持ちなど僕が理解しなきゃいけないんだ。
「例えばの話よ? 私がナポリタンを食べたとして、口の周りにいっぱいケチャップがくっつく。私はそれに気付かず、家に帰ってお化粧を落とそうと鏡を見た時、ふと思うのよ。あら、私ったら口の周りにナポリタンのケチャップをくっつけちゃってまったくって…。こういうの何だか非常にイタリアンチックだと思わない?」
「全然思いませんが……」
「キー! あなた、サービス業失格よ? そんな事じゃ」
参ったな。こういう時に限って店内はほぼ満席だったりする。僕は、他の客の水を注ぐ振りをしながら、その場からうまく逃げた。
ガラッと音がして入口の戸が勢いよく開く。ここの常連客であり、パパンの幼馴染、そしてママンと昔関係があった竹花さんが威勢よく店に入ってきた。
「竹花君、格好いい! さすが私が昔、抱かれた事だけはあるわ」
ママンのいらぬひと言以来、店に来るのは初めてである。恐る恐る僕はパパンの顔を盗み見た。ヤバい…、こめかみの辺りがピクピクと動いている。
「おう、努ちゃん。今日は混んでいるね」
竹花さんはいつもと変わらない陽気さだ。前回パパンと大喧嘩したのが嘘のような振る舞いだった。
「い、いらっしゃいませ……」
よくもまあぬけぬけシャーシャーと来られたものだ。竹花さんはごく普通にカウンター席に腰掛けた。パパンが目の前で料理を作っているというのに……。
「とりあえずビール。泡多めでな」
「へ、へい……」
心中穏やかではないパパン。竹花さんのほうを向こうともせず、黙々と料理を作っている。僕は二人の挙動を見ながらビールを注いでいたので、つい泡をこぼしてしまった。
「おい、努! 何をボーっとしとるんだ」
パパンが唾を吐きながら怒声を浴びせてきた。見ていないようでこんな時ばかりしっかり見ているのだ。
「わ、悪かったよ」
「こぼれた分のビールはおまえの給料から天引きだからな」
「そ、そんな殺生な……」
だいたいこぼれたビール分の天引きなんて、一体いくらぐらい引くつもりなんだ。
「おまえは物のありがたみが分からんから駄目なのだ。少しは身に沁みてみやがれ」
ただでさえ機嫌の悪かったパパン。竹花さんが来た事で、さらに拍車が掛かっているようだ。
「まあまあ落ち着けって、弟よ」
陽気な竹花さんは、訳の分からない台詞を言いながら仲裁に入ってきた。
「おい、何が弟なんだ?」
確か二人は同じ年。それなのに『弟』と呼ぶ根拠は、僕の中で一つしか考えられなかった……。
「俺っちが先。おまえはあと。だから俺っちがお兄ちゃんで、あんたが弟」
そう言うと、竹花さんはいやらしい顔で二マッと笑った。歯を磨いていないのか、前歯には青ノリみたいなものがついている。いや、そんな事より何て事を言ってしまうのだ。またパパンが烈火の如く怒りだす……。
「き、貴様~!」
パパンはその場にあったキャベツの千切りをわし掴みすると、カウンター席に座る竹花さんに向かって投げつけた。呆然とそれを見る店内の客。
「おぉー!」
思わず店内でどよめきが起こった。竹花さんは飛んできたキャベツを手でかわしながら全部よけたのだ。その動きは千手観音を連想させた。見事としかいえない動きを見せた竹花さん。パパンはとても悔しそうに恨みの籠もった目線で睨みつけている。
「まだまだよの~。しょせん弟はお兄ちゃんには勝てん。お兄ちゃんより優れた弟など存在しないのだよ、カカカ……」
ん、どこかで聞いた事のあるような台詞……。
「何が弟だ、竹花の! まだキャベツなど序の口に過ぎんわ」
パパンはケチャップを手に持つと、「ふんはっ」と掛け声を出しながら発射させた。四方八方に乱れ飛ぶケチャップ。
「いや~!」
「うげ、マジかよ?」
客の悲鳴が店内にこだました。
「甘い。甘過ぎる。おまえの拳には甘さが抜けきれていないのだ、弟よ」
何と騒ぎを巻き起こした張本人の竹花さんは、先ほどのパイナポーを盾代わりに隠れ、一切ケチャップを浴びていなかった。
「えへへ、私の顔にたくさんのケチャップ……。これってイタリア~ン」
パイナポーは自分の顔についたケチャップを指でなぞり、ペチャペチャと舐めている。ひぃ~、何もかもメチャクチャだ。
「冗談じゃねえよ」
「ふざけんな!」
客たちは文句を言いながら金も払わず店を飛び出していく。頭を抱えながらその場にしゃがみ込んでいると、背後から肩を叩かれた。
「相変わらずすごい状況だな、努」
振り向くと、いつも仲良くゲームセンターに一緒に行く先輩のムッシュー石川が立っていた。
ソースと醤油の入ったチューブを両手に持ちながら、「二刀流だぁ~」と叫ぶ竹花さん。
ケチャップとマヨネーズを乱射しながら、「何クソ、我も二刀流だぜよ」と対抗意識を燃やすパパン。
どっちも目くそ鼻くそのレベルの低い争いである。さすが『肥溜めブラザース』と呼ばれた事のある二人だ。当然の事ながら店内にあれだけいた客は、みんな金も払わず逃げていく。
しばらく争いが収まりそうもないので、僕と先輩のムッシュー石川は一番奥の席に腰掛け、勝手にビールを飲んでいた。
「先輩、酷いでしょ? うちの店……」
「先輩と呼ぶな。ムッシューと呼びなはれ」
「そういえば、何でムッシューなんですか? 先輩は、石川智之という立派な名前があるのに……」
「フ、フルネームで呼ぶなっちゅーの。我輩は生まれた地である道産子を捨て、関東人となったのだ。そこで私は『ムッシュー石川』と名乗る事にしたのさ。随分と古い話だがな、ふっ……」
この人の脳みそはどうなっているのか、一度頭を割って中を見てみたいものだ。何故、名前を変えなきゃいけないのか意味不明だし、最後に『ふっ……』とか気取っているのも分からない。それに自分の呼び方を『私』だとか『我輩』だとか全然統一性がないのだ。
「じゃ、じゃあムッシューさん……」
「おお、いいねえ。その響き。あ、響きって言ってもさ、サントリー響じゃないよ」
この人のギャグセンスはまったく面白くなかった。
「ムッシューさん、それ、寒いですよ……」
学生時代の頃、本気でお笑い芸人を目指していたらしいが、もちろんその願いは叶っていない。
「まあ、そんな時なんて誰にだってあるさ」
そう言って先輩はメガネを少しだけずらし、遠くを見るような目で気取りだした。
「今日はどうしたんです? うちに来るなんて珍しい」
「ああ、今日は待望の給料日でな。努に酒でもご馳走してやろうじゃないのって感じで来た訳」
「また牛をしばきながら、ビールをチビリと飲むんですか?」
「馬鹿者、何てレベルの低い発想を…。今日は私に感謝するぞ」
「え、感謝?」
「ああ、感謝と言っても、官が泊まったりする『官舎』じゃないよ?」
「そんな事いちいち言わなくても分かりますよ」
「あ、『愛は勝つ』のカンでもないからね?」
「つまらないですよ!」
「ノンノンノ~ン!そこ、突っ込みかた甘い」
「え?」
「どうせなら『誰がそんな事思うかいな』って我輩の頭をピシャンと叩くぐらいじゃないと駄目じゃん」
「先輩にそんな事できませんよ」
「駄目駄目。ここはやっとかないと先に進まないから」
「何の為に先へ進む必要があるんですか?」
「ちゃうねん、ちゃうねん。ここは恥ずかしさを捨てなきゃ、あかん」
「もー、意味不明ですよー。だいたい何ですか、恥ずかしさって」
「我らの夢を叶えるには、恥ずかしさを捨てなきゃ」
「ぼ、僕らの夢? 何ですか、それ……」
「ま、詳しく話すから場所変えよか」
「だって僕はまだ仕事中ですよ?」
「これでもか?」
先輩がパパンと竹花さんを指差す。二人とも調味料だらけでメチャクチャだ。
「貴様、この豆泥棒が!」
「ふん、お下がり野郎め」
パパンたちの視界に、僕らはまるで入っていないようだ。
「な? こんな状態じゃ客も入って来れないだろ。さっさとのれんでも閉まって、飲みに行こうぜ」
「う~ん……」
確かに店を閉めるのが最善の方法かもしれないが……。
「男なら迷わず行けよ。行けば分かるさ、竜宮城」
「何ですか、竜宮城って?」
何だか甘酸っぱい匂いがしそうなところだ。こんなソースや醤油が四方に飛び散っているところなんかよりはいい。
「ふふふ、嫌なら別に君は来なくてもいいのだよ」
まったくものを含んだ言い方が好きなんだから、この人は……。
「嫌なんて言ってませんよ~。とっとと店閉めて行きましょう、その竜宮城とやらへ」
僕は入口に掛かっているのれんをしまいに行った。
時間はまだ夕方の七時前。僕らは以前揉めた『兄弟』の前を通る。あの昭和の香りを醸し出す悪徳女将は、偉そうにタバコを吸いながら足を組んで座っていた。
ひと言怒鳴りつけてやりたかったが、今は先輩のいう『竜宮城』が気になっているのも事実だ。
「ムッシューさん、一体どこへ行くんですか?」
「甘酸っぱい若い女子のいる店ぞよ」
「ほ、ほんとですかっ!」
「相方に嘘を言ってもしょうがないじゃないか」
「相方って何の相方ですか?」
「ふっ、それはおいおい話すさ」
ムッシューはどこを見ているのか知らないが、遠い目をしている。その時、『兄弟』のドアが勢いよく開き、女将が出てきた。
「ちょっと、そこの小坊主!」
もの凄い形相で睨みつけてくる女将。もはや完全に女を捨てている。よくこれで客商売が勤まるものだ。
「こ、小坊主って何だ!」
僕の大事なデジカメを叩き壊しやがって…。あの時の恨みはまだ消えていない。
「いつになったら、このドアの弁償代持ってくるんだい?」
「じょ、冗談じゃないや。元々あんなの壊れていたじゃないか! それに何だい。そっちの常連客なんてうちの小松菜を盗むわ、泥棒に入るわ最低じゃないかよ」
「ふん、何を抜かす。このこわっぱが」
「な、何が『こわっぱ』だ!」
「ふん、とっとと有り金置いて消えな。営業妨害で警察呼ぶよ?」
「ぐっ……」
自分たちが最初に汚い事をしておき警察を呼ぶなんて、何て卑怯な女なのだろう。確かにここは『兄弟』の店前だ。警察が来て現場検証でもしたら、僕が不利になる。
「ほら、とっとと有り金を出しなよ」
女将がにじり寄り、僕のポケットに手を入れようとした瞬間、その手首を誰かが掴んだ。
「おいおい、マドモゼア~ル。フェアじゃないぜ」
先輩のムッシュー石川だった。しかし『マドモゼア~ル』とか言っていたけど、『マドモアゼル』の間違いないじゃないだろうか? それに『マドモアゼル』って、お嬢さん、または娘さんって意味だったような……。
「あらま、いい男」
女将は、いきなり先輩に抱きつきだした。何だ何だ……。
予想外の展開に戸惑う僕。
「……」
しかもムッシューは、そんな女将のお尻に手を回し、いやらしい手つきで撫で回していた。何て節操のない男なのだ。
「おい、努。まあ、そういう訳だ。竜宮城はまただな」
「え~?」
先輩ことムッシュー石川は、女将にべったりくっついたまま『兄弟』の中へと消えていった。
本当に今日はメチャクチャな一日だ。
帰り道、僕は一人でブツブツ言いながら歩いている。さっきまで若い女子のいる店で、ご馳走してやるとか言っていたのに、先輩は酷い。酷過ぎる。
しかも『兄弟』の女将なんて、どう見たって五十後半だぞ? よくあんな物の怪に抱きつかれてその気になれるものだ。あの人とは縁の切り時がきたのかもしれないな。
家に帰ると、ちょうど店の入口から竹花さんが出てきた。ひょっとして今まで暴れていたのか……。
「おい、努ちゃん。俺は勝ったぞ」
僕を見るなり竹花さんは鼻息を荒くしながらガッツポーズをしている。体中、ケチャップやソースで調味料まみれだ。
「勝ったって何をです?」
「弟に負けるお兄ちゃんはいない」
それだけ言うと、とても嬉しそうに竹花さんはスキップをしながら帰っていった。
店の中、メチャクチャだろうな……。
恐る恐る覗き込んでみると、パパンが床に倒れていた。慌てて僕は駆け寄る。
「パパン! どうしたの?しっかりして」
酷い有様のパパン。鼻の穴から耳の穴までマヨネーズが練り込まれていた。僕は急いでテッシュを使い拭き取った。
「う~ん……」
「あ、大丈夫、パパン?」
「どけっ!」
覗き込む僕を払いのけ、パパンは不機嫌そうに立ち上がる。
「ひ、酷いや……」
パパンは店内をグルリと見回し、「こんなに店を汚しおって、貴様、ちゃんと片付けていけよ」とだけ言うと、階段を上がって二階に行ってしまう。
「何で僕が……」
この酷過ぎる現状に思わず涙が出る。僕は涙を拭い、仕方なく散らかった店内の掃除を始める。床をモップで擦りながら、絶対にすぐ別のところへ就職してやると自分自身に誓った。
後日、先輩のムッシュー石川から一通のメールが届いた。
《おう、努。元気かいな? 我は雲。雲ゆえに自由気まま。なのであの女将と付き合う事にしたんだ。もちろん結婚を前提にね。披露宴には必ず呼ぶぜ、相方。友人代表のスピーチ、ちゃんと今から考えておいてくれよな、ベイビー。 ムッシュー石川》
「え~?」
この時、自分が広大なカオスの中に、いつの間にか放り込まれた感覚がした。