第1章 置き土産
2007年11月21日 原稿用紙31枚
第2章 兄弟
2007年12月14日 原稿用紙38枚
第3章 先輩
2008年5月9日~2008年5月31 原稿用紙32枚
第4章 月の石
2008年5月31日~2008年6月2日 原稿用紙37枚
第5章 借金地獄
2008年6月2日~2008年6月3日 原稿用紙41枚
第6章 経営者
2008年6月3日~2008年6月4日 原稿用紙43枚
第7章 捺印
2008年6月4日 原稿用紙37枚
第8章 烏龍茶
2008年6月5日 原稿用紙34枚
第9章 同級生
2008年6月9日~2008年6月10日 原稿用紙31枚
【再度執筆開始】
第10章 初恋の人
2010年4月08日~2010年4月09日 原稿用紙26枚
第11章 同窓会
2010年4月09日~2010年4月10日 原稿用紙38枚
最終章
2010年4月10日~2010年4月10日 原稿用紙25枚
【本編合計枚数 原稿用紙412枚で完結】
第五章《借金地獄》
「はぁ~……」
思わず出るため息。今日もうちの食堂は忙しかった。いつもなら部屋へ真っ先に向かい、楽しいテッシュタイムの時間だと言うのに……。
先日行ったスナック『月の石』。すべてはあそこへ行ったのが失敗の始まりだったのだ。うちの食堂だとビールは一杯四百円である。それがあの店は一杯千円。普通に考えても倍以上の値段だ。思いっきりぼっている。酷いもんだ。ただでさえ高いのに、会計時になると意味不明の金額まで乗せられている。
先輩であるムッシュー石川を呼び出し、金を払わせようとしたまでは良かった。しかし、彼はあの店の従業員であるれっこに一目惚れをしてしまい、勇気を振り絞って道路へ飛び出した。そこで車に跳ねられたのだ。当然会計の責任は僕に来る。二千円しか持っていなかったので、『月の石』でタダ働きさせられるハメに陥ってしまった。
今日からあの店で、タダ働きが始まる……。
店の片付けを済ませ外へ出ようとすると、パパンが声を掛けてきた。
「おい、努。どこへ行くんだ?」
「いや、ちょっと……」
「む、ちょっととは何だ? そんな日本語などあるか、馬鹿者。このこっぱめ」
「何で『ちょっと』って答えたぐらいで、そんな言われ方をされなきゃならないんだよ?」
精神的に余裕のない僕は、どこかピリピリしていた。
「ふん、キチンと私にどこへ行くのか言いなさい。いつもならおまえ、自分の部屋に籠もってオナニーする時間じゃないか。息子の異変に気付かぬ親など駄目だからなあ」
「な、何を言ってんだよ? 僕が部屋でオナニー? 冗談じゃないよ。アイドルと一緒で僕はうんちやオナラなどしない。だから当然オナニーなんかする訳ないじゃないかよ!」
自分でとんでもない事を口走っているのは分かっていたけど、どうにも止まらなかった。まさかパパンに僕の大事なテッシュタイムがバレているなんて、露ほどにも思わなかったのだ。
「くくく……」
嫌な含み笑いをするパパン。
「何がおかしいんだよ?」
何故か妙に恥ずかしい。
「実はだな、私とママンは壁に聞き耳を立てて、おまえの様子を伺っていたのだよ。息子の成長をこっそりとチェックしておく為にもな。そういえばおまえ、いく時、『アフッ』とか情けない声出すんだなあ、くくく……」
カーッとつま先まで熱くなった。酷い。酷過ぎる。
「酷いや、パパンの馬鹿!」
僕は泣きながら、家を飛び出した。
薄暗い夜道。星の見えないどんよりとした空。今の僕の心境を表しているような感じだ。何が悲しくて、ムッシュー石川の飲み代分まで僕がカバーしないといけないんだろうか。まったくあの男はとんでもない奴だ。『兄弟』の女将とは出来ちゃうし、『月の石』のれっこには迫るしで、メチャクチャだ。
夜空を見上げ、しばらく眺めたが、僕の大好きなオリオン座すら見えない。
いけないいけない。物事の取り方一つでまったく違う気持ちになれるはず。今の僕の心が暗いから、どんどん悪い方向へ行っているのだ。明るく考えればいい。いや、明るくなれるような事を思い浮かべれば楽しくなるだろう。
まずあのパイナポーの下でタダ働きされられる現実。それだって考えようで、あの美人のれっこと一緒に仕事ができるのだ。椅子に座る時、パンティがちょろっと見えちゃったりするかもしれない。もし、見えたらどうしよう…。そんな時は「お腹が痛いです」って適当に言って帰り、テッシュタイムにしちゃえばいい。最高のおかずが手に入るかもしれないのだ。それにタダ酒がいっぱい飲めるかもしれない。客で行くと金を取られるが、あそこで働く分は取られる事などない。
幾分足取りが軽くなってくる。うん、いいぞ。この調子だ。もっと貪欲に楽しい事を思い浮かべようじゃないか。
この間行った時は、ママのパイナポーとれっこしかいなかったが、まだ他の子を見た事がないのだ。ひょっとしたら、こんな僕を気に入ってくれる奇麗なお姉さまがいるかもしれない。そんな事になったらどうする? ヤバいよ。二十歳になる前に結婚しちゃうかもしれないんだぞ。う~ん、考えようによっちゃ楽園だ。
パパンのいるあんな小汚い定食屋で働くより、よっぽどパラダイスかも……。
働き具合によってはあのパイナポーも、ちゃんと給料を出してくれ、「あんた、うちでこのまま働く気はないかい?」なんて言われちゃったりするかもしれないのだ。
『月の石』の看板が見えてきた。もうれっこは出勤しているのかな? ママがまだ来ていなければ、れっこと二人きり……。
もしかして、れっこともいい関係になっちゃったりして……。
「努君、私ね。あなたの事、気に入っちゃったの」
「駄目だよ。君は人妻だろ? 危険な情事はヤバいぜ」
「時には女だって覚悟を決める事だってあるわ」
「しょうがないな。じゃあ、今晩だけだぜ、マイハニー」
妄想がどんどん膨らむ。それと同時に熱くなる股間。
「ちょっとあんた、さっきから何、店の前でボーっと突っ立っているのよ?」
「え?」
振り向くとれっこが僕の背後に立っている。いつの間に……。
「さっさと入って働きなさいよ。あんたさ、飲み代分払い終わるまで、タダ働きなんだよ」
「わ、分かってますよ、れっこさん……」
「はあ? 何であんた、私の本名知っている訳?」
「い、いや…、あのですね。免許証を見たからなんですけど…、ふぎゃっ!」
いきなりれっこは、僕のモチモチした頬に平手打ちをしてきた。
「あんただったの? 私の免許証を持ってんのは。昨日からないって焦ってずっと探していたのに、何であんたが持っている訳?」
「いや、これは…。実は、き、昨日ですね。お店で飲んでいる時、床に落ちていたんですよ。いきなりぶたなくたっていいじゃないですか」
「ふん、とっとと返しなさいよ。まったく油断も隙もない」
さっきまで思い描いた楽しい空想が、一気に音を立てて崩れていった。
店へ入ると客はまだ誰もいない状態で、カウンター席にパイナポーが一人で腰掛けていた。口の周りを真っ赤にしながらナポリタンを食べている。
「おう、小坊主。仕事終わったのか?」
いきなり何て言い草なんだろうか。
「は、はい」
「本当小汚い格好しているね~。麗華ちゃん、小坊主にワイシャツ渡してあげて」
人を値踏みするような嫌な目つきで見るパイナポー。
「は~い」
僕はれっこから渡されたワイシャツに着替えた。
「ちょっとあんた、さっさとズボン脱ぎなさいよ」
パイナポーが背後から怒鳴りつけてくる。何で僕がズボン脱がなきゃいけないんだ?
「え、ズボン? 脱ぐ? 何でです?」
「今日は『月の石ワイシャツデー』なのよ。みんな、ワイシャツ姿で下は着ない日なの。分かったら、さっさと脱ぎなさい」
言いながらズボンを目の前で脱ぎだすパイナポー。カバパンツが見え、僕は吐き気をもよおした。何が『月の石ワイシャツデー』なのだ。つき合わされるこっちの身にもなれってんだ。仕方なく僕も言われた通り、嫌々ズボンを脱ぐ。奥かられっこが出てくる。
「はう……」
れっこのワイシャツ一枚姿は、妙にいやらしく見えた。僕の股間は一気に膨れ上がる。
「おい、小坊主。この立て看を外に出してきな」
木の枠組みで簡単に作られた布地の立て看板。『本日ワイシャツデー』と書いてあった。僕は外に看板を出しに行く。慎重に辺りを見回してから、看板を置いた。幸い人通りはほとんどいない。ワイシャツを着ているが、下はパンツ一丁。どう見ても変態にしか見られないだろう。こんな格好のところを知り合いにでも見られたら大変だ。
すぐ店に戻ると、れっこがテーブルを拭いていた。ん、もうちょっと屈めば、れっこのパンティが見えちゃうかも……。
さり気なくそっと屈み覗こうとした瞬間、後ろから頭を叩かれた。
「何やってんだい、小坊主が」
「な、何もしてませんよ。一体何ですか。人の頭を急に叩いて」
僕は覗き行為を誤魔化かのように、少し強めの口調でパイナポーへ言った。
「あれ、ママどうしたんですか?」
「麗華ちゃんのパンティをこの小坊主、屈んで覗こうとしてやがったんだよ」
「えー、サイテー」
「じょ、冗談じゃないですよ。誰がいつそんな真似をしましたか?」
「今、やろうとしてたじゃないか。だから私があんたの頭を引っぱたいたんだろ」
「誤解ですよー、もー」
「まあいい。とっとと働き蟻のように働いて、この間のタダ飲みした分は体で払ってもらうからね」
まったく何日間、こんな事を僕にさせるつもりなんだ。そんな時、入口のドアが開き、客が姿を現した。
現れた客は、五十代のサラリーマン風の男だった。ヨレヨレのスーツに崩れたネクタイ。見た感じ、ごく普通の疲れたオヤジである。
「あ~ら、チョーさん。いらっしゃい」
急に猫なで声を出すパイナポー。一体どこから声を出しているのだというぐらい薄気味悪い声だった。
「あ、チョーさんだ。いらっしゃい。今日は一人?」
「お、麗華ちゃん。ワイシャツ一枚だけの姿もなかなか色っぽいね~」
「やだ~、チョーさんったら。お酒は焼酎でいいの?」
「ああ、それだけが私の生き甲斐だ。いつもので頼むよ」
「は~い」
チョーさんと呼ばれる男は席に腰掛けると、僕のほうをジッと見だした。
「おい、君……」
「は、はい」
「何だね、一体…。その無様な格好は?」
無様ってれっこと同じ格好をしているのに、何でこうも接し方が違うんだ。でも相手は客なので、多少の理不尽さには我慢しなきゃいけない。
「いえ、『月の石ワイシャツデー』という事らしいので僕までこんな格好をさせられているんです……」
「違う違う。私が言いたいのはそんな事じゃない」
「え?」
「君には恥じらいがあるんだよ。女性ならその恥じらいも美しく見える」
「そう、夜の蝶と呼ばれた私みたいにね」
パイナポーが気安くチョーさんの肩に手を掛け、会話に加わってくる。チョーさんは、パイナポーを無視したまま話を続けた。
「しかし君は男だ。日本男児だろうが?」
「は、はあ……」
「だったら男らしくせんといかん」
「え、だってこんな格好で男らしくって……」
「言い訳も駄目。例えばだよ、例えばだがね。君のグンゼパンツの先っちょが、少々薄汚れていたとしても、それはそれでいいんだよ」
「え、別に僕、グンゼパンツなんてはいていませんけど?」
「だから今言っただろう? 言い訳は駄目だと」
「でも僕のパンツの先っちょは、別に薄汚れていないですよ?」
「君はさっきから『別に』という言葉が多過ぎる。そんなんじゃ日本男児と呼べないぞ。それでいいのか?」
ハッキリ言ってどうでもよかった。こんなオヤジにどう思われようと、僕の人生が変わる訳ではない。
「おい、何を黙っている? 討論というものはだね。お互いの意見をぶつけ合い、そこに何かを生み出していくものなんだよ」
「はあ……」
また面倒な客が来たものである。僕の働く食堂の常連客も、竹花さんを筆頭に濃いのが多いが、ここ『月の石』も一癖あるような客が多そうだ。
「はい、おまたせ~。チョーさんの大好きな『焼酎の梅と青リンゴサワー』ね」
梅と青リンゴを足したサワー? このオヤジ、こんな訳分からない飲み物を頼んでおいて、何が日本男児なのだろうか。れっこはチョーさんの向かいに座り、彼がタバコを吸おうとすると手早く火をつける。
チョーさんは下唇を前に突き出し、煙を出しながら鼻で吸い込んだ。その姿はどう見ても格好いいとは言えない。僕の位置からでも、彼の鼻から長い鼻毛がニュッと突き出てきたのが見えた。
「ほら、麗華ちゃん。鯉の滝登りだよ~」
得意げに語っているが、「あんた、鼻毛が飛び出てるぜ」と言ってやりたかった。こんな事をしているからこのオヤジの鼻毛は発達して長いのだろう。れっこが席に来た事で、僕の事などまったく視界に入らなくなったようだ。チョーさんは。笑顔でれっこに色々話し掛けていた。
夜の十時を過ぎると、様々な客で『月の石』は賑わいだした。れっこ以外の女の子は、まだ誰も来ない。僕はアイスペールに氷を入れ運んだり、灰皿を持っていったりと大忙しだ。でもうちの定食屋に比べれば、この程度何て事はない。
むしろ嫌だったのが、女の人数の少なさだ。パイナポーを合わせたとしても、店の女は二人しかいないのである。れっこのつかない席の客は不機嫌そうに酒を煽り、僕に半分八つ当たりしてきた。
そして働いていくにつれ、スナックという仕事はどういうものなのかが少し分かり掛けてきた。簡単に言えば、ここに来る客はそこそこの金を持っているのだ。
一杯千円もするビールをガバガバ飲み、一本八千円もするウイスキーのボトルや、四千円もする焼酎のボトルを平気で入れちゃうんだから……。
この間来た時、何で会計がこんなに高かったのかという謎も解けた。最初に来た時点で席料というか、セット料金というものが三千円取られるのだ。これはボトルを入れて残った場合、次来たらタダになるのを防止する為のもので、どの飲み屋でもやっている事らしい。ただ氷がなくなったり、水割り用の水がなくなったりした時、お代わりすると一つにつき千円プラスされるという事実。たかが水道水じゃないかと言いたくなるが、これも商売の鉄則らしい。
要はここに来る客全員、女と一緒に酒を飲みたいのだろう。
うちの定食屋に来る客層とは明らかに違うのも勉強になる。これでちゃんと給料が出れば何の文句もないのに、僕はタダ働き。一体いつまでタダで働くのだろうか? パイナポーへ聞いてみる事にした。
「すみません、ママ」
「ん、何だい?」
「あの…、僕っていつまでタダ働きすればいいんですか?」
「う~ん、ちょっと待ちな。あんたのつけが二万七千でしょ。時給五百円として……」
一日六時間働いたとして、たった三千円……。
「え、ちょっと待って下さいよ。時給五百円って何ですか? マックやロッテリアより安いじゃないですか?」
「ふん、それが嫌なら二万七千円、耳を揃えてとっとと返しな」
「……」
「ほら、できないんだろ? じゃあブツブツ抜かすんじゃないよ、このすっとこどっこい」
「いや、二万七千じゃないや。利子もつくから、う~んと一日三千円ぐらいつけとくか。とりあえずあんたのつけは、現在三万三千円だね」
一日で利子三千円もついたら、僕はずっとタダ働きのままじゃないか。
「ちょ、ちょっと待って下さいよ。今日働いた分を引いても三万…。あまりにも暴利過ぎません?」
「ふん、冗談はおよし。嫌なら全額耳を揃えて返しなって。できないなら黙って働け、このとうへんぼく」
「……」
僕の体内を駆け巡る血が、静かに頭に昇っていくのが分かる。これは静かなる怒りの感情。よくも人の足元を見て、それだけの事を言えたものだ。僕は唇をギュッと噛み締めながら、感情を必死に押し殺した。
昨日『月の石』で深夜二時まで働いていたから、今日は寝不足だ。朝ママンに叩き起こされるまで、僕は起きられなかった。
『月の石』の借金問題は思ったより深刻である。楽観視していた自分が愚かだ。働いても日々の利子を払う分しか稼げない。となると、僕の給料が入った時に二万七千…、いや、利子もついたから三万円の元金を一気に返さないと話にならないのだ。
ママンに相談して給料を上げてもらおう。それか三万ほど前借りしよう。それしか道はない。いや、待てよ? 飲み代の半分以上は先輩であるムッシュー石川の飲み食いした分である。それを何故僕が、すべて肩代わりしなきゃいけないんだろうか。
店が暇な時を狙って、ムッシューのお見舞いへ行こう。それで三万円を出させる。そうすれば万事OKじゃないか。うん、僕って冴えている。
思えばこれまでの人生、食うか食われるかといえば、食われる側だったような気がする。これからは食う側に回ってやる。そして楽しく人生を謳歌しようじゃないか。
「おい、努。貴様、何をボケッとしてやがるんだ。とっとと働け、しゃくとり虫」
「くっ……」
実の息子に向かってしゃくとり虫はないんじゃないか? パパンの言葉は海よりも深く、氷よりも冷たい。子供に対する愛情なんて何一つないのだろう。そんな男だから、ママンを竹花さんに寝取られたりするんだ。
のれんを掛け、店がオープンする。
最初に入ってきた客は、捻りハチマキオヤジだった。食事する時ぐらい、ハチマキを取ればいいのに……。
「おい、ビール」
「へ、へい」
こんな真っ昼間からビールを飲むなんて、本当にクズなオヤジだ。きっと家じゃ家族に相手をされていないのだろう。哀れなものだ。
「それと…、ん?またメニュー増えたのか? 何だ『エキゾチックナポリタン』って?」
「ま、まあエキゾチックなナポリタンって感じです」
「馬鹿野郎。それじゃそのまんまじゃねえか。どういう料理だって聞いているんだよ?」
そんなの知る訳がない。だってパパンが勝手についさっき付け加えたメニューなんだから。昨日まではそんな料理なかった。
「ですから、エキゾチックなんですよ」
「おまえなー……」
捻りハチマキが怒鳴ろうとした時、「ちょっと待ちなさい」と入口から声が聞こえた。僕たちはその方向を見ると、一人の女性が入ってくる。
「ナッポリナッポリ~、私は~ナッポリ~ノ~。誰が呼んだか、ナッポリ~。それはそう、私が~呼び始めた~。さあ、みなさんもご一緒に、パルメザ~ン……」
ゲ、この奇妙な歌は……。
「……」
何という事だろう。『月の石』のママであるパイナポーまでやってきた。
「ちぇ、何よ。みんな、ノリが悪いわね」
パイナポーは、『パルメザ~ン』と一緒に唄ってほしかったのだろう。不服そうな表情を浮かべている。誰がそんなものを一緒に唄うかっていうんだ。
「い、いらっしゃいませ……」
「おお、小坊主。昨日はお疲れさま。ちょうど外を歩いていたら、『エキゾチックナポリタン』がどうのこうのって声が聞こえたもんだから、私って大のナポリ好きでしょ?あなたたちの会話が、どれだけ私の心を弾ませたか分かる? こんな年になってもときめくものがあるって素敵でしょ」
「……。あの、『エキゾチックナポリタン』を注文するって事でしょうか?」
「うん、鋭い! あんた、小坊主から昇進して坊主って呼んであげるわ、ルルンブ」
何が『ルルンブ』だ。まったく都合がいいんだから。
「じゃあ、俺はビールを飲みながら、『エキゾチックナポリタン』を見て、注文を決めるかな。とりあえずつまみに『辛子メンタイ餃子』くれや」
「へい」
僕は注文を受けると、パパンに向かって大きな声で叫んだ。
「注文です。辛メン餃子一丁、エキナポ一丁!」
「おいす、辛メン餃子一丁、エキナポ一丁! ウォンチュ!」
まだ客も二人しかいないので、僕は捻りハチマキへビールを出すと、パパンが『エキゾチックナポリタン』をどうやって作るのか眺める事にした。
パパンが料理を作っている最中、ママンが階段から降りてくる。一瞬だけ店内を見ると、お尻の振り具合をプリプリと大袈裟に振り出した。また狙っての行動だ……。
捻りハチマキは、覗き込むようにしてママンのお尻を見ていた。
「はぁ~、チクワぶっさしてえ……」
この男、その息子の前で何て物騒な台詞を呟くのだ。ママンは何も言わず、入口のドアを開けて外へ出て行く。
パパンが、細いパスタの麺を手に取り出した。何故か占い師のように両手で麺を挟み、ジャラジャラと音をさせながら沸騰したお湯に入れていく。続いて作り置きしてある餃子を冷蔵庫から出し、フライパンの上に乗せた。うちにある餃子の種類は豊富だ。全部で七種類の餃子があるから、注文を受ける僕が大変である。
うちのパパンは麺を茹でる際、時間を一切計らない。箸で茹でている最中の麺を一本取り、自ら口で茹で具合を見るのだ。軽く頷くと、パパンは麺を取り出す。
焼きあがった餃子を皿に乗せると、「はい、辛子メンタイ餃子!」と僕に差し出してくる。
「へい!」
僕は餃子を捻りハチマキの席まで運ぶと、またパパンの料理する手順を見に行く。
先日購入したという高い牛肉を冷蔵庫から出してくるパパン。確かグラム三千円したとか言ってたっけ。パパンは肉の塊の一部を包丁で削ぎ落とすと、鮮やかな手つきでコマ切りに切り出した。
続いて玉ねぎも切り、ピーマン、トマトを切り刻んでいく。そういえば以前ママンが、「私はね、パパンのあの巧妙で繊細な手つきに惚れて結婚を承諾したのよ」って言っていたな。性格に問題があるが、料理の腕はピカ一なのだ。
パパンは肉を炒め、野菜を順に入れていく。ある程度炒めると指先で塩をつまみ、味の調整をしている。最後にケチャップをドバッと入れ、完成させた。
「はい、エキゾチックナポリタン!」
「へ、へい!」
「あ、努。このパルメザンチーズとタバスコも忘れるなよ?」
「へ、へい」
よだれを垂らしながら待つパイナポーの目の前に『エキゾチックナポリタン』を置く。
「んまー、何て優雅なケチャップの香り…。これってまさしくイタリア~ン……」
「いいから早く温かい内に食べて下さいよ」
「ナポリタン道を目指し、苦節六十年……。とうとう究極のナポリタンに出会えたかもしれないのね」
え、このババー…、六十歳を超えているのか? 店じゃ四十歳とか言っていたけど……。
二十歳もサバを読むなんて酷い奴だ。
「まだタバスコやチーズは掛けちゃいけないの。これは最初にまず食べてみて、それから自分流に調整していく為の調味料なのよ。分かる? ここんとこ大事よ?」
「はあ……」
一口食べたパイナポーは、「ん、んまーっ! 何て絶品なナポリタンなの」と叫び、何故かパルメザンチーズを山のようにパスタへ掛けだした。タバスコも鬼のように振っている。
言っている事と、やっている事が矛盾しているような……。
昼の忙しい時間帯が過ぎ、僕はパパンに相談してムッシュー石川のお見舞いへ行く事にした。あの手の輩は一度でも顔を出さないと、あとで何を言われるか分からない。それに、奴から三万円を取らないと僕の明日はないのだ。
家から徒歩五分も掛からない位置に、ムッシューの入院する病院はある。パパンに頼み、『すき焼きメガトン風春巻き』を作ってもらい、それを見舞い用の品として持っていく事に決めた。
病院へ到着し、彼の部屋まで向かう。
「……」
車に直撃されたムッシューは、痛々しい姿でベッドへ横になっていた。右足が折れているのかガチガチにギブスを巻かれ、足を吊っている状態だ。
「ム、ムッシューさん、お元気ですか~。努ですよ~」
「元気な訳ないだろうが! 何で元気なのに入院せにゃあアカンのよ?」
体がズタボロの割に、口先だけは達者なムッシュー。
「す、すみません。これ、良かったらどうぞ。うちのパパンが作った『すき焼きメガトン風春巻き』なんですけど……」
「おまえ、この姿見て分からんのか、ボケ。どうやって両手を使うんや? 両腕ともギブスガチガチやんけ」
「あ、じゃあ、僕がムッシューさんに『あ~ん』って食べさせましょうか?」
「ふん、おまえみたいな小汚いクソガキなんぞに、誰がそんな事してもらって嬉しいんやねん。はよ、ワイのバシタ呼んできいや」
「え、バシタって……」
「ワイの女やないけ。『兄弟』の女将や」
「あ、そうでしたね」
この男、『月の石』でれっこにあれだけ求愛しといて、どういう精神回路をしているのだ。そもそもこんなハメになったのだって、昔テレビでやっていたドラマの主人公の真似をしようとして、車に轢かれたというのに……。
「ほれ、餃子冷めるやんけ。はよ、行ってこいや、ダボ」
人にお願いするのに何て言い草だろう。それに餃子じゃなくて、一応春巻きなんだけどな。まあいっか。今は怪我で苦しんでいるのだ。少しぐらい大目に見てやろうじゃないか。タンポポのように優しく暖かい僕のおおらかな心に感謝しとけよ。僕は素直に頷き、『兄弟』へ向かった。
向かう途中、うちの食堂の前を通り掛かる。そんな混んでいないかな? 窓から覗くと、竹花さんがカウンターへ座って、パパンと楽しそうに話をしていた。この二人、仲がいいんだか悪いんだか……。
僕は構わず『兄弟』の女将の元へ向かった。
今度は『兄弟』のドアを壊さないように、静かにそっと開ける。
「あ、あの店の小坊主だ」
「根性悪だ」
「暴力魔だ」
「むむ……」
いつもの常連客である小松菜泥棒老夫婦に、オカマの泥棒オヤジ、別の小松菜泥棒オヤジ二人組まで勢揃いしていた。非常に嫌な面子である。うちの小松菜やレジの金を盗み、挙句の果てには食い逃げまでしやがって連中だ。人の事を好き勝手言いやがって……。
「おい、こわっぱ。一体何の用だい?」
奥から女将が出てきた。僕はムッシューが病院へ入院している事を簡単に説明する。すると女将の形相はこの世と思えない落胆ぶりになり、オロオロしだした。
「う~ん、ここのカツは最高だ。世界で一番泣けるカツじゃ」
小松菜泥棒夫婦の旦那が、口の周りにソースがいっぱいついた状態で叫ぶ。この男、本当に小判ザメのような男だ。前回『とんかつ原田』へ強引に連れて行かれた時も、そこのカツを褒めちぎり、店に入ってきたヨボヨボのおじいさんを指差し、「あんな死に掛けのジジーだってな~。ここのカツ、食いてーんだよっ!」と酷い事を言っていたくせに……。
女将は小松菜オヤジの言葉など、まるで耳に入らないかのように錯乱している。
「どこ? どこに私のダーリンは入院してるんだい? 早く教えなよ。どこにいるんだい?」
「落ち着いて下さいよ。命に別状はないですから」
「うっさい! 早く場所を教えやがれってんだ。刺すよ?」
女将は包丁をいつの間にか握り締めていた。目つきがおかしい。正気の沙汰じゃない。
「や、やめて下さいよ……」
「じゃあ、さっさとお言い!」
この時、名案が閃いた。この情報をうまく使えば、金になるかもしれない……。
「それがですね。もう面会の時間、今日は終わっているんです。で、病院側から入院の手付け金を払ってほしいと言われましてね…。ほら、ムッシューさん、急に事故に遭った訳だから、お金持っていなかったんですよ。今、動ける状態じゃないし……」
「いくら必要なんだい?」
「できれば三万ほど……」
僕はとっさに『月の石』の飲み代分を言っていた。その瞬間、女将は胸倉を掴んでくる。
「おい、おまえにはドアの弁償代の五万の貸しがあるよな?」
あれほど錯乱していた女将は金の事になると、急に冷静さを取り戻していた。
「え……」
「とぼけんじゃないよ。こっちは誓約書までキッチリ取ってあるんだからね」
「……」
「その中から三万。おまえが払っておきな」
「そんなー」
「そしたら弁償の代金あと三万で勘弁してやるよ」
「え? それって二万の間違いじゃ……」
「おい、利子ってもんがあるだろうが。え、このクソ味噌っ歯が」
誰が『クソ味噌っ歯』なのだ。僕は味噌っ歯じゃないし、クソだって漏らしていない。どっちにしても、この女将じゃ話にならない事が判明した。僕は適当に相槌を打ち、『兄弟』から逃げるように飛び出した。
再び病院へ戻ると、ムッシューはそわそわしながら廊下を見つめていた。
「あ、ムッシューさん。女将、今留守みたいでして……」
「なぬ? そんな訳あらへんやろが! ちょっとおまえの携帯貸せや。ワテの携帯、事故った時に壊れてもうたんや」
納得のいかないムッシュー。しかしあの女将はこの場所を知らない。僕さえ教えなければ知りようがないのだ。誰が教えてやるもんか。それにこの男から三万を毟らないと僕に明日はない。
「ここは病院内だから携帯は禁止ですよ」
「うっせー、このボケナスが! とっとと渡せや、オラ!」
包帯やギブスでグルグル巻きにされ、身動きの取れない男が凄んだところで、何も怖くなかった。
「それよりも、ムッシューさん。この間の『月の石』の飲み代なんですが、あそこのママから三万請求されているんですよ」
「知らんよ、そんな事は」
彼はそう言うと、あれだけ怒鳴りながら怒っていたのに、急に目を閉じ寝たふりをしだした。
「え? ちょっとムッシューさん!」
「何や何や…。ワテ、体痛くて眠いねん…。放っといてーな」
「ちょっと、三万円払って下さいよ、ムッシューさん!」
「知らん知らん。ワテ、眠いねん。『月の石』? 何やそれ? ワテは知らん。知らんがな。勝手にさらしとけや」
「冗談じゃないですよ。僕があなたの分まで働いて、飲み代を返しているんですよ? 可哀相だと思わないんですか?」
「そんなん知らんがな。もうウチ、寝る時間やねん。こう見えて虚弱体質やねん」
「ムッシューさん、『月の石』で飲んだ三万。早く下さいよ!」
「ん? 『月の石』なんぞ知らんって言うとるやんけ。ワテ、もう眠いんや。放っといて」
「まだ真っ昼間じゃないですか? ムッシューさん。ムッシューさんってばー」
この男、あの店のれっこに求愛しようとしたところを車に跳ねられ、こんな姿になっているのに、金を払いたくないと知らんぷりするつもりなのか……。
こいつの飲み代の分まで僕が背負い、夜中までタダ働きしているというのに……。
「ガーガー……」
恐るべき事に、ムッシューは本当にいびきを掻きながら寝てしまった。
ムッシューの寝顔を見ている内に、静かな殺意が全身を覆ってくる。自然と天井へ向かって右拳をつきあげる僕。ゆっくり息を吸い込み、呼吸を整えた。
「天に召しませ…、アーメン……。これが僕の怒りだぁ~っ! 喰らえ、天誅拳っ!」
「うぎゃぁ~!」
僕の拳は的確に、ムッシューの右足をとらえていた。
病室内の人間が騒ぎ出したので、僕は顔を手で隠しながら全力で逃げた。
結局、何の解決にもならなかった。ムッシューのギブスでガチガチに巻かれた右足へ、聖なる拳をお見舞いしてきたが、一向に気は晴れない。
僕は死んだ魚のような目でパパンの作った料理を運び、一日を終える。背後からパパンの怒鳴り声が聞こえるが、どうでもよかった。今ある借金だけで、『兄弟』のドアの弁償代の五万と、『月の石』の飲み代の三万がある。八万もあるのだ。
人生お先真っ暗である。必死に頑張って生きてきたのになあ。
店が終わり、僕はまた今日も『月の石』のタダ働きへ向かう。六時間働いて、その日の利子分だけしか返せない日々。いつまで経っても減らない元金。
「は~あ……」
本当ため息しか出ない。重く暗く沈んだこの気持ち。きっと誰も分かってくれないのだ。
『月の石』のドアを開け、本日二回目の仕事が始まる。ほとんどタダ同然で働く僕をアゴでこき使うとんでもない性悪ママのパイナポー。
半分ヤケクソで仕事をしているとドアが開き、新しい客が入ってきた。
「パ、パパン……」
僕はとっさにカウンターに隠れた。こんなところで働いているのが見つかったら大変な事になる。しばらくして恐る恐る覗く。パパンはテーブルに両肘をつきながら、れっこの顔を見て懸命に口説いていた。
「僕にとって、君は最高の女神だよ。もう大好きなんだ。そうだ。今度さ、デート一緒にしようよ。ね、駄目? こう見えて、僕まだ独身なんだよね」
まさかここの客で、しかもれっこを口説いていたなんて…。世間は本当に狭い。
「は、はあ……」
困るれっこ。パパンは自分で何を言っているのか、自覚しているのか?
「僕はこう見えてさ、ある一流ホテルのコック長でね」
「え、そうなんだ。すごいね~」
「良かったら、今度洒落たディナーでもしようよ」
「う~ん」
この事をママンに言ったらどうなるんだ? 待てよ…。これって僕、かなり有利な条件を握ったって事になるんじゃないのかな……。
僕は深呼吸をして落ち着き、いい方法を考えた。ゆっくりパパンの席へ向かう。
「お客さま…、他のお客さまもいるので、もう少し声のトーンを下げていただきたいのですが……」
わざと声色を変えて、パパンに言った。
「んだと? 何だ、客に向かって…、ゲッ!」
僕だと知らず振り向くパパン。僕を見た瞬間の表情は、何とも言えないとんでもない顔になっていた。
「何してんの、パパン。こんなところで……」
「お、おまえこそ……」
「いい? 今、僕はパパンに何をしているのって質問している訳ね」
「つ、努…。ちょ、ちょっと外出ようか」
「うん、いいよ」
僕たち親子は、『月の石』から場所を外へ移した。れっこは訳が分からないと言った表情で、不思議そうに僕たちを見ていた。
こうしてパパンの弱みを握った僕は、口止め料として三万五千円をもらった。もちろん以後、口止め料は請求しないと約束をされられた上でだけど……。
「ほんと、努、ママンに言うなよな?」
ママンにバレたら、自分の人生は終わりだと実感したのだろう。哀れだが仕方ない。背に腹は変えられないのだ。
「男と男の約束じゃないか。そんな卑劣な真似などしないよ」
すっかり怯えたパパンを見て、また僕がピンチになった時は、この手を使えばいいやと思った。
僕はパイナポーへ三万を払い、タダ働き生活にわずか二日でピリオドを打ったのである。
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