酢女と王様
俺の彼女はとても性格が良く、一緒にいて居心地がいい。
付き合いだして、半年は経っていた。
もっと前から知り合っていたような……。
そう思うぐらい、お互いの波長も合っていた。
わがままな俺は、いつもやりたい放題。だけど、彼女はいつだって笑顔で暖かく見守ってくれている。
俺が会いたいと言えば、すぐにすっ飛んできて会いに来た。
俺が腹減ったと言うと、夜中でも一緒に食事へ付き合ってくれた。
俺が抱きたいと言うと、嫌な顔一つもせず大人しく抱かれた。
ここまで従順な女もいないだろう。
一度、秩父の山奥にある温泉へ、真夏に旅行に行き、メロンのソフトクリームを食べた。メロンが食えない俺は、ソフトクリームならと頼んでみたが、生々しいメロンの味がし、とてもじゃないが食べられないでいる。
そんな時、彼女は自分の頼んだ普通のソフトクリームと交換してくれた。
「あら、こっちのメロンもおいしいじゃない」
「嫌だ。そのメロン、本当のメロンみたいな味がすんだもん」
「じゃあ、普通のにすればよかったのに」
「どんなんだか食べてみたかったんだよ」
「はいはい、龍ちゃんは王様だからね」
いつも彼女は俺の事を王様と呼んだ。
一緒に風呂へ入る時も、俺の体を隅々まで丁寧に洗ってくれた。
付き合いだして一年が過ぎようとした時、彼女から「一緒に暮らさない?」と、誘われた。
確かにお互いの住む距離が離れていて、いつも会うまでに一時間ぐらいの移動時間が掛かっている。彼女からすれば、週に三、四回は会っているのだから、それならと思っても、当たり前の感覚かもしれない。
しかし、二十八歳になる俺は、今まで同棲などした事がなかった。
一緒になったらなったらで、自由が利かなくなるようなイメージがあったのである。俺はひたすら考えた。
今の彼女は本当に性格も良く、馬だって合う。
このまま一緒にいるのも悪くない。
だけど、この同棲を許可したら、一生俺は、見えない鎖に繋がれるようなイメージを持っていた。
まあ、こんな事を考える自体、相手に失礼か……。
「一緒に住むとしたら、どの辺がいいんだい?」
とりあえず希望を聞いてみる事にした。
「う~ん、できれば新宿、渋谷、池袋近辺が、便利じゃないかな」
新宿で仕事をする俺は、そのほうが便利である事は確かである。彼女の勤務先は八王子なので、もっとへんぴなところを指定すると思ったぐらいだ。
まあ、この辺の性格の良さを俺は気に入っているのだろう。
もうじき俺も、三十になる…。
結婚を意識しても、おかしくない年になっているのだ。
そこそこの金を稼いでいる俺は、毎週になると競馬にはまっている。
土日で、最低十万円は使っている俺。
不思議な事に、今の彼女と出会ってから競馬運まで上がっていた。
たまにではあるが、俺が大金を張り、勝負しようとすると、止める時と、止めない時があるのである。
彼女が競馬を今回は見送ってというと、必ずといっていいぐらい、俺の予想は外れた。忠告を聞かなければ、十万円は最低でも負けていた事になる。
逆に馬連一点に、五万突っ込もうとするのを止めない時は、ほとんど当たったりした。
今まで競馬で負け続け、稼いだ金をドブに捨てていたような生活が、彼女のおかげで、非常に豊かな生活を送れているのである。
だから俺がデート代や、ホテル代のほとんどを出してやった。
彼女も、悪いと思ってか、稼ぎが少ないのにセブンスターをワンカートン買ったりしてプレゼントしてくれた。
歌舞伎町のゲーム屋へ行った事がないというので、初めて連れて行った時には驚いた。
何故なら、今までにない勝ち方をしたからである。
この当時、歌舞伎町の流行りは、レートが一円のポーカーだった。
俺がたまたま入った店は、一円レートのゲームもあったが、倍の二円レートの台もあった。珍しいのでやってみる。
横では彼女が大人しく座って見ていた。
マックスの二百ベット、つまり金額にして二百円を毎回、一ゲームにつぎ込みながら、遊んでいると、フォーカードが揃う。
「ん…、何だ?」
画面上がいきなり点滅しだして、背景が赤色で止まった。このゲームのフォーカードは五十倍だったので、二百ベット賭けている俺は、一万点になっている。その一万が、倍の二万点になっていた。
店員が近づき、ちょっとした説明をしてくれた。
「この台、一応叩き台なんですが、フルハウス、フォーカードが揃うと画面が点滅して、赤で止まれば二倍。緑で止まれば三倍になるんですよ。もちろんダブルアップして叩けますよ。まあ、ほとんどのお客さんは叩きませんけどね」
俺はそんな柔い客じゃねえぜ……。
くだらないプライドを持つ俺は、躊躇わずダブルアップのボタンを押した。
今、テイクすれば、金額にして二万円になるというのに……。
「おぉ!」
ダブルアップを押し、画面を切り替えると、カードの上に「×5」という表記がある。
「すごいですね~。これ、当てれば二万かける五倍で、一気に十万になりますよ」
もはや一円のレートでは考えられない配当であった。
「でも、こんなのさすがに当たらないでしょ?」
「そうですね…。さすがにこれは当たった人、見た事ありませんね」
店員は正直に答えた。
まあ、最初に入れた金額は、初回の二千円だけである。これが一気に十万になる可能性があるのなら、やってみるのも一興であろう。
彼女は、俺の叩く様子を黙って見守っていた。
「うりゃっ!」
気合いを入れ、ビックのボタンを叩く。
「おぉ!」
店員たちもビックリした声を上げた。
何と、俺は二万×五倍を見事、当ててしまったのだ。
横にいる彼女と手を取り合い、はしゃぐ俺たち。
きっとこの女は、俺にとって上げマンなのであろう。
さっきも俺が勝負に行こうとして、止めなかった。本人が意識してかどうかまでは分からない。しかし、いつだって女が止めない時は、こうして勝っているのが現実である。
店員は、俺のやっているゲームの画面をポラロイドカメラで撮り、額縁に飾って店内に貼った。日にちと台の番号。そしてその横には「神威龍一様」と書かれている。
気分を良くした俺は、これ以上、この台でやっても出ないのを分かりながら、八万円突っ込んだ。
最後に店員に一万円札をチップ代わりにあげ、店を出る。
結局、最初に二千円使っているから、たった八千円の儲けになってしまったが、気持ち的には万馬券を取った時以上のものがあった。
「おまえ、本当に上げマンだよな……」
顔を見つめながらマジマジ言うと、彼女は照れ臭そうにしながら下をうつむく。
「この金で、うまいもんでも食おうぜ!」
「うん!」
「何が食いたい?」
「う~ん……」
「好きなもんを言いな」
「じゃ、じゃあね…」
「何がいい?」
「私、ラーメンと餃子がいいな……」
「何だよ、それは?もっといいもんを食おうぜ?」
「でも~…、気分的に餃子が食べたいなあって……」
「分かったよ…」
俺は、勝った八千円の半分である四千円を彼女にあげた。なかなか受け取ろうとしなかったので、半ば強引に渡す。
「この金、受け取らなきゃ別れちまうぞ!」
「分かった…。分かったよ……」
渋々、金を受け取る彼女。こういった奥ゆかしい面もいい。
どっちにしても欲のない女である。
歌舞伎町内にあるラーメン屋へ入る。
今まで肉食である俺の好みの店ばかりつき合わせていたが、彼女はこういった素朴なものが好きだったのか……。
「何にするんだい?」
「私は、餃子とラーメンがあれば……」
「じゃあ、適当に色々頼むから、一緒に色々摘むか」
「そうだね」
俺は、メニューをざっと見て、店員を呼ぶ。
「すみません。え~とですね~…。餃子を二人前に、ラーメン一つ。それと春巻きに、麻婆茄子。あとは生姜焼きと、炒飯。あとは……」
「龍ちゃん、そんなに私、食べれないよう……」
「分かったよ。じゃあ、とりあえずその辺で」
「か、かしこまりました」
彼女は、嫌そうな目つきでメニューを眺めている。
「大丈夫だよ。俺が残ったら、全部残さず食うからさ」
「ならいいけど……」
俺と彼女は、先ほどのゲームの話をして盛り上がった。
通常、ダブルアップを叩いても、一万点を超すと一気となる。なので、大きな点数といっても、九千六百×五倍がいいところである。それだって、普通なら当たる訳がないのだ。
いきなり十万点の一気ができたのは、本当に彼女の上げマン効果のおかげかもしれない。
もし、こいつと一緒に住むとしたら、新宿から近い高田馬場辺りが理想かな…。
そんな事を考えている内に、料理が次々と運ばれてきた。
俺は炒飯や麻婆茄子を食らい、彼女はラーメンを啜りながら餃子を摘む。
彼女の餃子の食べ方は、非常に変わっていた。
普通なら、醤油に酢とラー油。人それぞれによって入れ方のバランスは違うが、中には酢は駄目で醤油だけという人間もいる。それはそれで分かる。
しかし、彼女は酢だけで餃子を食べていた。
「醤油はいいの?」
「うん、私、酢だけで食べるのが好きなの」
このような食べ方をする人間を初めて見たので、少しビックリしたが、変わっているなあと思う以外、別段、気にする事はない。
途中で、俺がラーメンを食べたり、彼女が炒飯を食べたりとしていると、さすがにお腹が膨れてきた。
「俺、あと、こっちの食べるだけで精一杯になってきた…。あと、ラーメンと餃子頼むわ」
「もういらないの?」
「ああ、腹一杯だもん……」
「ほんとにラーメン食べない?」
「いいよ、食べちゃって……」
返事をするのもだるいぐらい腹が膨れている。
「じゃあ、私、食べちゃうよ?」
くどいぐらい彼女は、しつこく聞き直す。
「いいよ、ほんとに……」
俺がそう答えた瞬間だった。
彼女の手が、酢の入ったビンに伸びる。左手で蓋を外したかと思うと、ラーメンの丼に向かって、酢をダバダバ入れだした。
ほぼ満タンに入っていた酢を全部、ラーメンにぶち込んだ彼女は、照れ臭そうに笑う。
「私、お酢大好きなんだ……」
おいしそうに酢がたっぷり入ったラーメンを食べる彼女の姿を見て、俺は鳥肌が立っていた。
もし、こいつと一緒に住んだら、毎日、手料理を食べる事になる。
俺は別に酢が嫌いではない。どちらかといえば、好きなほうである。餃子を食べる時の割合も、酢のほうが多目にするぐらいだ。
しかし、彼女の酢の使い方は異様である。
ひとビンすべて酢をラーメンにぶち込むような女。
絶対に味覚が狂っているとしかいいようがない。
その彼女の手料理を毎日のように食わされるのか……。
考えるとゾッとした。
味覚が違い過ぎるのは、一緒になったとしても、絶対にうまくいかないような気がする。いや、その前に彼女の作る料理を口に入れたくなかった。
寿司屋などにある酢飯は好きである。しかし、毎日のようにご飯の中に酢を大量に入れられたらどうしよう…。
何を作るにも、調味料代わりに酢をドバッと入れられる。
「私、お酢が好きだからさ……」
そのひと言で済まされたらどうしよう……。
今まで一緒に暮らすつもりでいたのが、一気に反転したような感じである。
ひょっとしたら、あいつの掻く汗の半分以上は、酢で出来ているんじゃないだろうか?
彼女の顔に、酢の入ったビンが一緒に重なってくる。
「どうしよう……」
俺は、今までの思い出など関係なしに、別れたいとまで思うようになった。
あれ以来、俺からは連絡をしていない。
彼女から、明日空いているかというメールは、二回ほど来た。しかし、俺は仕事が入っているとか、適当ないい訳をでっちりあげ、断っている。
悪いとは思いながらも、もし次に会う時は、俺が別れ話を切り出す時であると感じていた。
彼女からすれば、「一体、私が何をしたの?」と思うであろう。
性格だっていい。
従順である。
居心地だって良かった。
酢をラーメンに、ドバドバ入れるところを見るまでは…。
普通に考えれば、料理に何でも酢を入れる訳がない。そんな事は分かっている。しかし、目をつぶると、部屋で立ったまま、腰に手を掛け、酢のビンを一気飲みしている女の姿がリアルに頭の中で浮かんできた。
「最近どうかしたの?龍ちゃん、ちょっと変だよ?」
とうとう彼女から電話が掛かってきた。
いつもなら普通に会っているのに、避けるようになって一週間が過ぎようとしている。
メールでは埒があかないと、電話をしてきたのだろう。
「ん、いや…、別に……」
「一緒に住む部屋なんだけどさ。高田馬場辺りでいい物件見つかったの。今日、時間あるなら一緒に見に行かない?」
「……」
何て答えればいいんだ?
「あれ、龍ちゃん?」
覚悟を決めろ……。
今、ここでちゃんと決めないと、どっちも傷つくだけだ。
「ごめん…。俺、もうちょっと競馬、一生懸命やりたいから、一緒に住むの、もうちょい待って……」
「りゅ、龍ちゃん……」
誰がどう見ても「はぁ?」と言いたくなるような訳の分からないいい訳をしながら、俺はとりあえず電話を切った。
あいつは何も悪い事をしていない……。
罪悪感が全身を包み込んだ。
悪いのは俺だ。
あいつは、ただ無類の酢好きというだけなのに……。
頭の中では、彼女は風呂上りに腰に手をあてながら、酢を一気飲みして、「プハッ」っとしている姿を想像していた……。
競馬をもうちょっと一生懸命やりたいからって何だ?
そんな事を言われた相手は、一体、どう思うのだろう……。
まさか原因は、ラーメンに酢をドバドバ入れたからだと、言えるはずがない。餃子を酢だけで食べたからだなんて、言えるわけがないのだ。
どうしよう……。
俺は、毎日のように悩んでいた。
鏡を見ると、ここ最近で白髪が増えたような気がする。
頭の中は、彼女が可哀相だといった気持ちと、酢を一気飲みする彼女の姿が交互に訪れていた。
実際に会うと、情にほだされ気持ちが揺らいでしまう……。
メールで、別れようと言うしかない……。
《拝啓…。ごめん、ちょっと色々自分の身の振り方を考えていく内に、俺たち別れたほうがいいんじゃないかなって思うようになった。非常に身勝手なのは分かっている。本当にすまないと思っている…。別にこれはおまえが悪い訳でなく、俺の一方的な意見だ。気を悪くしないでくれとは言わない。勝手な俺の言い分をメールで押しつけているのだから…。俺は最低だと思う。おまえは性格もいいし、人柄だっていい。俺でなく、もっといい男を見つけてくれ……》
長いメールを打ち、何度も読み直した。
これであいつは分かってくれるだろうか?
仮にも、一緒に住もうと思った相手から、このようなメールをもらったら、どのように感じるのか?
傷つかないだろうか?
深い溜め息をつく。
自分で勝手にやっているのだ。
やらなきゃいけない事は分かっている。
別れるなら、情を掛けるな……。
現状のままいたいなら、今すぐ電話を掛け、会いに行けばいい……。
単純な二択。俺には、どちらを選択するかなど、迷う必要はなかった。
「すまない……」
俺は、メールの送信ボタンを押した。
送信中…という画面をジッと見つめ、今ならキャンセルできると何度も思った。しかし、俺はただ、その画面をジッと見ている事しかできないでいる。
送信完了しました……。
無情にも携帯の画面には、その言葉が表示される。
物凄い後悔が襲ってくるが、今さら遅い。
すでに送ってしまったあとなのである。
あいつは今、どんな気持ちでこのメールを見ているのだろうか?
やるせない気持ちになり、自己嫌悪に陥る。
窓を開け、澄み切った青空を意味もなくボーっと見つめた。
今は何も考えるな……。
それだけを自分に言い聞かせながら、俺は青空をしばらく見つめていた。
五分ほどして、携帯が鳴る。
受信音から、彼女からのメールだと分かった。
携帯を取ろうと伸ばす手が、とても重く感じる。
恐る恐る俺は、画面を見た。
《龍ちゃん、何かの冗談でしょ?何かおかしいよ~》
たったそれだけの短い文章だった。
その短い文章は、俺の心の中を深くえぐる。
「本当にすまない……」
俺は、心の中で何度も懺悔をした。
あれからもうじき八年が過ぎ去ろうとしている。
結局冷血になりきれなかった俺は、彼女と同棲をしていた。以前送ったメールは単なる俺のおふざけという事になっている。
「お待たせ~。腕によりを掛けてご飯作ったわよ~」
そう言いながら彼女は食卓に常備してある酢のボトルを鷲掴みすると、ラッパ飲みで一気に飲み干した。
―了―