2024/12/24 tue
前回の章
影原美優からは、相変わらず連絡がある。
自殺未遂までして、古木との間にできた子供はおろす羽目になり、それでも彼女は古木といる選択をしていた。
影原の話が本当なら、古木から蔑まされ、時には暴力も振るわれ、それでも彼に依存をし続ける。
「好きなのに理由って必要ですか?」
初めて会った時、彼女はそう俺に答えた。
究極の駄々っ子。
俺が彼女へ下した評価。
相談に乗る内に、少しそれとは違うのかと思うようになっていた。
影原が子供をおろす手術の日。
内密で牧田順子と会っていた古木英大。
俺は怒鳴りつけ、これまで彼を避けていた。
影原は俺のパソコンが故障し『鬼畜道 〜天使の羽を持つ子〜』のデータが無くなってしまった記事を見ていたようで、恐らく古木なら直せると伝えてきた。
これまで古木を無視してきたのに、自分のパソコンが故障したから見てくれとはさすがに言えない。
影原的には古木の目の前で、俺の名前を出すと効果があるという事は聞いていた。
彼女からすれば、俺も古木の傍にいる環境で話をできるよう持っていきたいという意図もあるのだろう。
俺自身のプライドか、もしくは失った小説データの復旧か……。
舘や酔狂で原稿用紙五千枚近くの小説を書いていた訳ではない。
本来なら、先輩の坊主さんに頼めば何とかなりそうな案件であるが、常に忙しいのでわざわざ川越まで来てもらう訳にもいかないだろう。
無理強いはできない。
もしデータの復旧が叶うのなら、それ以上望むものは確かになかった。
パナソニックでシステムエンジニアとして働く古木なら、データを引っ張り出せるかもしれない。
影原美優が子供をおろした日以来だから数ヶ月ぶりになるが、小説の為だ。
背に腹は代えられない。
「分かった。じゃあ古木君にデータの件お願いするよう言っといて」
「あ、岩上さん……」
「ん、どうした?」
「私…、実は極度の肩凝りでして…。古木のほうから岩上さんの腕は聞いています。それであの……」
「了解、俺が影原さんの施術すればいいわけね」
「いいでしょうか?」
「まあこっちの専門分野だし、放って置くわけにもいかないでしょ。いつなら都合いいの?」
「あ、今日でしたら…。今なら時間空いていますので」
まあ俺はどうせ無職だし、いつでも構わないか。
「了解、じゃあ古木君のところまで車で向かいに行くよ」
「よろしくお願いします」
俺は着替えを済ませ、車に乗り込んだ。
一つ大きな問題があった。
助手席にいる影原美優。
施術の理想は、高周波を使い、岩上流三点療法が一番確実だ。
しかしこの子を俺の家に連れてきた場合、どこで施術する?
さすがに以前患者の津村さんを診た時のように、おじいちゃんの部屋でというわけにもいかない。
俺の部屋は汚過ぎる……。
親父の部屋はありえないし……。
三階なら空いている部屋が二つあるが、あのフロアーには伯母さんのピーちゃんがいる。
今の時間帯なら間違いなく三階の部屋にいるから、俺が彼女を家に連れ込んだのを見た場合、どんなリアクションをするか分からない。
「うーん……」
「どうしたんですか?」
「いや…、影原さんを施術する場所が……」
宛もなく車をただ走らせ、国道十六号へ出ていた。
「私…、あそこでも構いません……」
「え、どこ?」
影原が指差した方向は、国道沿いにあるラブホテルだった。
「え…、さすがに……」
「でも…、こういうところしかないですよね?」
「まあ……」
「普通に私を施術するんですよね?」
「もちろん」
「なら大丈夫です、私は……」
俺と影原美優が二人で、ラブホテルへ入る?
確かにゆったりとしたスペース、横になれる環境は施術上欲しい。
俺は減速し、ラブホテルの中へ車を入れた。
古木や牧田順子との三角関係があるから、どうしても問題児に見えてしまっていたが、影原美優単体で考えるとそこそこ可愛い女性なのだ。
二人でパネルを見てどの部屋にするか迷っている姿は、他の人から見ればただのカップルにしか見えないだろう。
適当に部屋を選び、四階の部屋へ向かう。
何とも言えない空気の中、影原は上着を脱いでベッドへ横たわる。
「うつ伏せでいいんですか?」
「首や肩でしょ? なら、うつ伏せで……」
手で触診する。
三十代半ばとはいえ、かなり肩がガチガチに固まっている。
「これじゃ、偏頭痛とかあるでしょ?」
「え、何で分かるんですか?」
「まあそこそこ重度な患者を見てきたからね。触ればある程度症状は分かるさ」
右肩から開始する。
固まった部分を左親指で強く押さえた。
「痛むかい?」
「う…、まだ大丈夫です」
俺は右親指を使い、腕の経絡を押さえる。
左親指に、微かな血液の流れが変わるのを感じた。
「今は?」
「痛くないです。指を離したんですか?」
「いや、二点療法といって、痛む箇所を押さえたまま、他の経絡を押さえて痛みを取る方法をしている」
一分ほど押していると、肩が温かくなるのが分かる。
俺は右手を離す。
「どう? 今痛みは?」
「あれ? 何か軽いと言うか……」
「違う箇所行くよ。もっといくらでも軽くさせるから」
女性独特のいい匂いが鼻をつく。
そういえば、しばらく女を抱いていない。
馬鹿、何を考えているんだ?
古木の女だぞ。
ラブホテルの密室という空間が悶々とさせ、おかしくしているのだ。
「最近古木君とは、どうよ?」
「私には相変わらずです…。おまえの作る飯は不味いから作るなとか…。たまに帰ってこない時があるんですけど…、おそらく順子さんのところへ、隠れて行っているのだと思います」
「相変わらずどうしょうもないなあ……」
まだあの馬鹿、牧田と別れていないのか。
思い返せば影原が子供をおろしている最中、当日姿をくらまし牧田と密会していたほどである。
「私が何か言い返すと、たまに殴られますし……」
「え、古木君が? どこを?」
「顔です…。ほら、ここにまだ少し殴られた時の痣が残っています」
腫れは引いているが、若干黒く変色した肌。
中で軽い内出血をしている証拠だ。
「何故殴られた?」
「本当は私とでなく、順子さんと一緒にいたいのでしょう。いつも言われます…。おまえが人を騙し討ちするような卑怯な真似しやがったから、俺は順子と別れる羽目になったと……」
「……」
「確かに私って、馬鹿なんですよね……」
うん、本当に大馬鹿だ。
何で男を見る目がまったく無いのだろう?
過去結婚して、娘を旦那に取り上げられる状況まで追い込まれたのに……。
この子は酷く孤独なのだろうな。
俺も似たようなものだが、まだ家がある。
彼女の場合、関西方面からこっちへ出てきて、古木へ依存するような形でないと生きてさえいけない。
薄く残る痣を見た。
幼少期が蘇る。
お袋は俺が泣き叫んでも、殴る手を止めてくれなかった。
無抵抗のまま殴られる状況は、地獄である。
自分ができる事といえば、泣く事と、両腕で顔を隠すようにガードができるくらい。
そう…、このままだと殺されちゃう……。
あの時そう思ったから、気付けば強さを求めていたのだ。
「ちょ、ちょっと岩上さん……」
気付けば俺は、影原の殴られた跡に手を触れていた。
「可哀想……」
思わず出た言葉。
「……」
同情からなのか?
色欲からなのか?
俺は気付けば影原の顔に近付いている。
いい匂いがした。
唇と唇が触れ合いそうな瞬間、影原は顔を背ける。
彼女の態勢が崩れ、ベッドから落ちそうになるのを腕で受け止めた。
手に小気味いい感触。
俺は影原美優の胸に触れていた。
性欲が大きくなり、俺をどんどん支配していく。
気付けば、彼女を仰向けに押し倒していた。
まるで抵抗する様子がない影原。
服を脱がす。
形の良い乳房が現れる。
「何故…、拒まない?」
ゆっくり口を開く。
「だってプロのリングへ上がる人が、本気で力を出されたら、私は何も抵抗できません……」
俺の手は影原の太腿へ伸び、股間へゆっくりと指を這わせた。
下着に指先が触れる。
凄い濡れていた。
「男の人の力には勝てません……」
「……」
無抵抗なまま。
彼女の顔をしばらく眺めた。
左目から一筋の涙が零れる。
俺は手を離す。
ベッドから降りてソファへ腰掛け、タバコに火をつけた。
強引に女を抱いた事など、これまで一度も無い。
何でこんな流れになってんだよ……。
はだけた服を整えた影原。
「何で…、こんな事したんですか?」
「……。分からない…。ただ、いい女とホテルに二人きりでいたら、俺も男だ。悶々とする」
何やってんだよ、俺は……。
彼女を家まで送り、部屋へ戻る。
股間がギンギンに熱くなっていた。
みゆきへ『パパンとママン』の最終章のデータを送らないと……。
花(影原美優)
> 気持ちは分かりますよ、だから何とか救ってやりたかった。
その一人って女性ですか?
男性ですか?
未だ男性だと定義で話しますが、まだ話を聞くようならその人と一緒になったほうが幸せですよ。
もし、相談相手が女性だったらごめんなさい、俺の思い違いです。
女性なら、俺が葛原さんに送ったメールを見せながら、相談してみて下さい 。
京都に住む女性です。
> 俺はあの時、彼か子供かという選択をさせろとアドバイスしたまでです。
本当に子供第一なら、何故一人ででも無理して頑張ろうって思えなかったんですか?
その信念があり、実際にそれで頑張っていたなら、俺は逆にあとで古木君をぶっ飛ばしてましたよ。
人としての摂理ってもんを分からせる為に。
『ちゃんと入籍もして二人で生きていこう。もし、今回の件で子供が出来ない体になったなら。
それでも子供が欲しいと思うなら、その時は養子でもなんでもとればいい。』
その言葉を信じたまでです。
> それは後付ではないのですか?
手紙の件でご実家から連絡が来て、その後数ヶ月は 『出したきゃ出せ。といったのは俺だ。でも、本当に出すとは思わなかった。 手出さしてしてしまうほどお前の事を追い詰めていた。悪かった』 …、そう言ってました。
なので手紙を出した事は、特段悪い事だとは感じませんでした。
> 後付け、先付けの話をするなら、何故彼女がいると分かった時点で身を引かなかったんですか?
少なくても俺の前ではあの時「幸子と生きる」と堂々と言っていましたが
『向こうに不満があってこっちに来た。お前と別れたくない。』
そう言われたら「別れます」って言わないですよね。
> でも、俺は彼じゃないし、あとどうしてほしいです?
どうって・・・?
これまでのメールのやり取りを見返してみた。
孤独な彼女は、俺に対し知らず知らずの内に依存しているのだろう。
影原美優とのおかしな行為。
あれは一体何だったのだろうか?
俺があのまま抱こうとしたら、あいつは素直に抱かれていたのか?
指先が触れた時、影原はとても濡れていた。
どういうつもりなんだ?
いや、それは俺にも言える。
手を出すつもりなんて、毛頭無かったのに……。
一人になっても悶々としていた。
高校時代の同級生の小谷野へ相談してみた。
「うーん…、おっぱい見たぐらいじゃ、岩上は割に合わねえな」
確かに小谷野の言うように割に合っていない。
中学時代の悪友ゴリへ相談してみた。
「むー…、おっぱい触ったぐらいじゃ割に合わねえな」
こんな馬鹿にまで、似たような事を言われる始末。
何なんだ、コイツら……。
似たような感想言いやがって。
まあ、なるようになるだろう。
別の事を考えよう。
…といっても、俺は小説の事くらいしかないか。
あれだけ大勢の人間が応援してくれたのに、今じゃほとんどいなくなった。
俺に生の感想を届けてくれるのは、みゆきくらい。
みゆきの存在にはとても感謝している。
しかし彼女は、単なる俺の小説の一ファンに過ぎない。
もうしほさんのような的確な指摘をしてくれるような人は、もう現れないのだろう……。
俺は自身が執筆した作品『パパンとママン』を最後で壊した。
自分が生み出したものに対して単なる八つ当たり。
無抵抗…、または抵抗できないものに対しての攻撃。
これって、虐待に近いものがある……。
散々作品で母親への憎悪を込めたくせに、自分でも同じような事をしていた。
血は争えないのか?
俺も親父もお袋も、みんな糞まみれだ。
全員がそれぞれを憎しみ合っているだけ。
俺はよく短気だと言われる。
それは間違いだ。
短気だったら、とっくに親父や加藤皐月、ピーちゃんなどこの手で殺している……。
まだ何とか理性が働いているから、抑えているのだ。
平穏無事に温く生きてきた人間に、俺の苦境の何が分かる。
俺は聖人君子でもないし、霞を食って生きられる仙人でもない。
しほさんも、セクラクララも過度な要求を俺にしやがって……。
「……っ!」
部屋の電球が切れ、真っ暗になる。
またかよ。
この間取り替えたばかりだろ?
この間は百円ローソンなんかで買ったから、不良品の電球だったのだろう。
俺は近所の二十四時間スーパーマルエツで、新しい電球を買ってくる。
電球の付け根のところに、何かしらの原因があるのだろうか?
そろそろ休業補償も終わり。
現実を見て、働いて金を稼ぐ必要があった。
みゆきからメールが届く。
彼女もどうせ、俺があえて崩した『パパンとママン』に対する質問の内容だろう。
俺はこの程度の物書きだ。
勝手に幻滅して去ればいい。
メールを開くと、俺は驚いた。
そしてあれだけ怒っていた感情が、驚きにより冷静さを少し取り戻す。
『智さん、何かあったんですか? みゆきは何か心配しています。パパンとママンの最終章読みました。智さんに何があったのか、分かりません。みゆきで良ければ何でも言って下さいね。 澤井みゆき』
画像が添付されている。
見ると、みゆきの下着姿の画像だった。
一体彼女は何故、こんな画像を?
俺はみゆきへ電話を掛けた。
「智さん、どうしたんですか?」
「みゆきさん…、何であんな画像を?」
「んー…、何て言うか…。智さん今元気無いのかなって思って……」
「そりゃあ俺も男だから、君のような綺麗な子の下着姿の写真なんて見たら、嬉しいし興奮だってするよ! でも何でこんな真似を?」
「最終章読んだら、今までと全然違うじゃないですか! 智さんの私生活に、何かあったんじゃないかって…。気が付いたら、あんな写真撮って、智さんへ送っていました」
「……」
「あの…、迷惑でしたか?」
「迷惑だなんて…。さっきも言ったでしょ? 俺も男だって……」
「みゆきは智さんの小説が大好きなんです。鬼畜道とかも読んだから、智さんの現実の辛さ、ちょっとは分かっているつもりです。でも、みゆきは馬鹿だから、こんな事しかできなくて……」
彼女なりの配慮。
ドス黒い憎悪が薄れていくのが分かる。
「君は人妻で、幼い子供だっているでしょ」
「もちろん分かってます。でも、本当、気が付いたら写真撮っていたんです。嫌な思いさせて、ごめんなさい……」
「いや…、嫌な思いなんてしていないよ。むしろビックリしたけど、興奮もした」
「それなら良かったです」
「みゆきさん、ごめんよ」
「え、何がです?」
俺は中野英幸さんから昼食に誘われ、選挙の出馬表明から家を継げと言われた事。
以前同級生を呼んで家で飲み会をしていたら、伯母さんのピーちゃんがかなり失礼な真似を友人たちへした事。
家の内情を振り返り、スッキリしていたはずの心が憎悪に染まった事。
愚痴に近い感情をすべて彼女へ吐き出した。
「みゆきは、智さんがどんな辛い心境で書いても、楽しく書いても、智さんの小説は全部好きです」
「ありがとう…。本当にみゆきさん、ありがとう……」
俺は一回り以上年下の人妻に、電話口で深々と頭を下げた。
俺が闇に落ちないよう、こうしてまた救ってくれる人がいる。
全然実っていないが、頭を垂れる稲穂になれよ。
自流の流れに沿って……。
二千十年五月十三日。
早いもので、ジャンボ鶴田師匠が亡くなってから十周忌になる。
この十年間の自分を振り返ってみた。
総合格闘技の復帰から、ピアノへ。
新宿浄化作戦開始と共にパソコンを覚え、小説を書き始める。
インターネットに触れたのもこの頃。
裏稼業の引退。
サラリーマンが勤まらない俺は、『岩上整体』を開業。
賞の受賞と、七年半ぶりの総合格闘技復帰戦。
大日本印刷、KDDI時代……。
現在ギネスへ挑戦を立ち上げているが、達成はまだまだ先の話である。
ならば、作り上げてきた作品を表舞台へ出せるよう動いてみるのもいいか。
『人生はチャレンジだ』
生前、師匠が残してくれた言葉。
俺は今も生きているんだから、毎日をいや、一瞬一瞬を大切に頑張らないと。
古木英大から連絡が入る。
ひょっとして影原美優との事かと一瞬勘ぐったが、それは無いだろう。
電話に出る。
「あ、岩上さん、お久しぶりです。古木です」
「ああ、久しぶり」
「うちのに聞いたんですけど、何でもパソコンが壊れて小説のデータが取り出せないと? もし自分で良ければ一度見てみたいのですが……」
少しおどおどしつつも、俺の調子を伺うような言い回し方。
どうやら影原美優も、あの時の事は伏せているようだ。
多少の罪悪感を覚えながらも、古木がその件を分からないのなら、それはそれでいいかくらいの気持ちになる。
あの三角関係に、無関係の俺を巻き込んだ張本人なのだ。
まあいい。
俺も都合良く利用されたのである。
小説データ復旧の為、彼を利用するのはそう悪い事ではない。
過去、岩上整体の建物に雷が落ちてパソコンが壊れた時も、古木は直してくれた。
女関係がだらしないだけで、元々スキルがあって仕事はできる奴なのである。
パソコンごと渡し、とにかく小説データの復旧さえできればと伝えた。
待つ事数時間…、壊れたノートパソコンは元に戻らないが、中のハードディスクは無事だったようで、無事小説データの吸出しに成功する。
黙って家出してしまった息子たちが、ようやく親の元へ帰って来てくれたような感覚。
うん…、間違いなく『鬼畜道 ~天使の羽を持つ子~帰ってきた……。
「岩上さん…、ワードデータで六メガ以上って、どれだけ文字を書いたんですか……」
「原稿用紙で五千枚くらい」
戻って来てくれた……。
俺はあれだけ罵倒していた古木へ心からお礼を伝えた。
これでまた前進できる。
俺はとり憑かれたように永遠とキーボードを叩き続ける。
限界が来るまで、執筆を続けた。
いつの間にか執筆しながら倒れるように眠っていた俺。
携帯電話の着信音で目を覚ます。
悪友ゴリからだった。
「よう、智いっちゃん! どうせ暇だろ。飯でも行かねえ?」
コイツが『いっちゃん』という時は、妙にご機嫌な時。
ゴリがご機嫌になるなんて、女関係しかあるまい。
ここ二週間くらい、ずっと小説を書き続けていた。
たまには気分転換も悪くない。
またあいつの勘違い話でも聞いてやるか。
ファミリーレストランに入ると、まだ注文もしていないのにゴリはプリクラをテーブルの上に置いてくる。
ゴリと仲睦まじそうに一緒に写るごく平凡な女。
「何これ?」
「何これじゃねえよ。彼女だよ」
「ふーん…、彼女ね…。えっ! 彼女? ゴリに?」
俺はKDDI時代、SNSのauグリーを少しだけしている期間があり、紹介ポイント欲しさにゴリを誘った事があった。
一年半以上前の話である。
ゴリはグリーを出会い系サイト代わりに、切磋琢磨しながら日々奮闘していたらしい。
川越市近辺に住む女性すべてに対し、手当たり次第に片っ端から声を掛ける日々。
川越が駄目なら、次は狭山、それも駄目なら所沢と…、そして引っ掛かったのが現在の女のようだ。
「おまえ、馬鹿なの?」
「そんな事言うんじゃねえよ。人の幸せを共に祝えないような奴は、ロクな大人になれねえぜ、いっちゃん」
「何がいっちゃんだよ…。ところでその子の名前は?」
「則代っていうんだよ。いい名前だろ?」
「ノリマンね」
「テメー、人の彼女捕まえて、ノリマンとか言ってんじゃねえよ」
「また人様の妻なんて事は無いよな?」
「ふざけんなよ! れっきとした幼稚園の先生だよ」
「ふーん、そう。じゃあ幸せ一杯なゴリに、ここの会計奢ってもらおうかな」
「普通逆だろ? お祝いに奢るもんだろ」
「前に言っていた通り、俺は休業補償も切れ、本当の無職になった。ここまで金が無いのも珍しいくらいだ。だからこれまでの感謝を振り返り、俺に奢れ」
「確かに岩上がそこまで金無いのも、珍しいよな」
そう言ってゴリは珍しく食事を奢ってくれた。
家まで送ってもらうと、ちょうど隣の家の扉が開く。
もうトンカツひろむは辞めてしまったので、おばさんか良江ちゃんかな?
「あれ、一ちゃん!」
乗松家の長男、乗松一久。
岡部さんと同級生であり、俺の隣同士の幼馴染。
五歳年が離れているので、小さい頃は一ちゃんのあとをくっついて遊んでもらった。
昔を思い出す。
近くの駐車場でスーパーカーの展示会があった。
僕は隣の食堂の一ちゃんに連れられ、会場に行った。
チンチンのない良江ちゃんは、車に興味がないのかプクッとむくれて「私は行かないから」と素っ気なかった。
以前消しゴムのスーパーカーのガチャガチャをやり、カウンタックやフェラーリ、ランボルギーニミウラなどを僕は何個か持っていた。
会場に着くと、僕は圧倒された。
消しゴムでしか見た事がないスーパーカーが、目の前にたくさんあったのだから。
赤いカウンタック。
青のフェラーリ。
黄色のランボルギーニミウラ。
派手な外観の名前も分からない車。
今、思えば、三十台も停められない普通の駐車場に、そのような展示会があったのだ。
非常に豊かな時代だったといえよう。
その記憶は今でも薄っすらと脳裏に焼きついている。
幼き頃の良き思い出の一つであった。
僕は興奮して鼻をふくらませながら、会場を走り回る。
名前の知らない車も多数あった。
車のドアが上向きに開く、ガルウイング型のカウンタックが一番のお気に入りだった。
他の車と違い、平らにつぶれているように見える低い車高。
フェラーリにしても、外観は非常に特徴的だった。
誰もがひと目で見て分かる外観を持つのが、スーパーカーなのだと思った。
一人ではしゃいでいた僕は、連れてきた一ちゃんの存在を思い出し、辺りを見回した。
会場の中は多くの人で賑わい、子供だけでなく大人もたくさんいる。
僕は人を押しのけながら必死に探した。
遠くのほうで、見た事のないような車の前に一ちゃんはいた。
僕が近づいても、一ちゃんはその車をジッと眺めている。
「これって何の車なの?」
「ランボルギーニイオタって車だよ」
「へー、イオタ」
「そう、イオタ」
「ミウラの仲間かな」
「よく分からないけど、多分そうだよ」
「カウンタックは?」
「あれは違うんじゃないの」
「ふーん」
スーパーカーに対する知識など、ほとんど持っていない僕たちは適当な事を言っていた。
でも、見ているだけで楽しかった。
どの車も格好良かった。
その展示会を見てから、僕はインベーダーを我慢して、ガチャガチャに小遣いを使った。
十円玉を二枚重ねて、投入口に入れる。
レバーを右方向に一回転ひねると、うずらの卵をちょっと大きくしたぐらいのカプセルが出てくる。
中にはスーパーカーの消しゴムが一つ入っていた。
僕は一ちゃんがお気に入りのランボルギーニイオタが当たるまで、インベーダーを我慢してやり続けた。
弟の徹也の車好きは、この頃が影響しているのかもな。
「ん、どうしたの、智ちゃん」
「いや…、昔一ちゃんによくスーパーカーの展示場へ連れてってもらったなあと」
「あはは、懐かしいね」
「そういえば岡部さんから聞きましたけど、一ちゃんずっと海外へ行ってるんですよね?」
「うん、僕は青年海外協力隊ってあるでしょ? それの上の職員をやっているから、後進国ばかり色々な国を行っているよ」
「へー、凄いなあ」
「智ちゃん、今は何をしているの? 豊樹から、小説で賞を取って本を出したって言うのは聞いたけど」
「それが先日失業保険が切れて、現在無職です。これから職探しですね」
「だったらさ、うちのところ来れば? 海外になるけど」
「え、一ちゃんのところへ?」
「トーイック、本来なら七百三十くらいなんだけど、六百四十くらい取れれば、僕の顔で何とかできるからさ」
トーイック?
何だろ、それは……。
海外か……。
そういえば一度も日本から出ていない。
いい頃合いなのかもな。
川越と新宿知らない無知な俺は海外へ。
こうして一ちゃんとこのタイミングで会ったのも流れ、色々切り替える時期に来たのかもしれない。
俺はここ数日の流れをミクシィで記事にしてみた。
二千十年五月二十三日。
ゴリにとうとう人生初の彼女ができる。
二千十年五月二十七日。
俺は川越を離れる事にする。
【二千十年五月二十五日 】
今年になってから自己を振り返る為の作品『鬼畜道~天使の羽を持つ子~』の執筆を開始した。
原稿用紙六千枚を過ぎた辺りから、精神的に病んでいると自覚する。
過去の嫌な思い出やトラウマ的な事を振り返りながら、現状を考えると、何故今こうなんだろうか?
そんな疑問を抱えながら常に日々葛藤している自分がいた。
鬼畜道でも新宿編を書いていた頃の自分は、とても明るく楽しい気分になれていた。
それがその後を書き始めると、どう表現していいのだろうか。
どんどん住み慣れ親しんでいた地元が、非常に住み難く、吐き気がする街になっていた。
無性にイライラし、憎悪という感情が体内へ蓄積され、破壊衝動が暴走し始める。
一生懸命やった事に対して嘲笑を浴びせからかう連中には、怒って当然だという想いは常にあった。
口で言って分からない奴には拳で語り、分からせてやろうか。
しかし本気で自分が殴れば、相手がどうなるかぐらいは自覚しているから、常に破壊衝動を抑制している。
それでも怒りという感情をあらわにすればするほど、親しいと思っていた人間はどんどん離れていく。
自分が間違っているのか?
いや、離れた奴らがおかしいだけだ。
そんな自問自答をしながら作品を書く日々。
有り余るほどの金を稼いでいた頃。
ずいぶんと無茶だったが、馬鹿だった分楽しかった。
小説を書くようになり、物事を深く考えるようになって、どうも人生というものが酷く滑稽でつまらないものになっていく。
金を持っていたから、たくさんの人間が寄ってきて利用された。
じゃあ金など捨て、精神的なものを考えるようにしよう。
そう思ったのが今年から。
実際約半年間、そんな日々を過ごしてきて、じゃあ誰が残っている?
窮屈で退屈な時間を送り、得たものは身の回りの人間の資質と、自分がいかにちっぽけな存在かという事。
執筆をしていて最近はまったく気分が乗らず、書く気力さえなくなってきた。
ネタはあれだけあり、いくらだって書けるはずなのに、書いているのが苦痛でしょうがない。
どうしてもその当時を思い出し、自身の運命を呪ってしまう。
神という存在が本当にいて、それが試練だというなら、そんなものはいらない。
苦しいならしばらく作品を執筆する事自体やめればいい。
多額の金を得て、金を捨て、現在に至る。
もう一度金を得るよう動いてみるか。
ならば…、憎悪に縛られ、自身の運命を呪ったこの地をそろそろ抜け出す頃合いなのかもしれない。
たくさん色々な事をやってきて残ったのは経験と虚しさ。
それでついてしまったプライド、虚栄心……。
一度、沁み込んだ自我を捨てるのもいいだろう。
これまでの人生を一度リセットをしてみようじゃないか。
もう呪われたレールに乗る必要性など、どこにもないのだから。
一から新たな世界を築きに向かおう。
周りに振り回されず、自身をもっと考え、そして時流に身を任せてみよう。
昨日、小学時代の恩師に地元を離れようと思うと伝えた。
先生は先日プレゼントした『鬼畜道 一章 幼少編』を読んでくれたようで、作品についての感想を語ってくれ、そのあとで「岩上…、おまえ、こんな内容の作品を書いていて、精神的におかしくならないか?」と心配してくれた。
正直に現在の心境を伝え、リセットする事を話し、いずれまた再会する事を約束する。
小説を書くのが楽しくて寝る時間さえ惜しんだあの頃。
書きたいから書いているだけ……。
それを取り戻す為に、新しい道を歩もうと思う。
ぎーたか
どうか「死」とかってゆーオプションは無しで……。
「……」
出やがったな、ぎーたか。
何でこの記事から俺の死を連想するのだ?
そんな心配なら俺と一度会ってみればいいのによ。
意地悪であえて、コメントは返さない事にする。
勝手に俺を心配して悶えろ。
俺は幼馴染の一ちゃんと共に海外へ羽ばたくのだよ。
まだ何も決まっていないから、こういう濁した書き方をしたまででね。
本当にいつもはツンツンしているくせに、デレッとする時はするんだよな。
それでいて顔は市川由衣なんだろ?
あー、こういう女をものにしたい……。
さて、一ちゃんの言っていたトーイックがどんなものか調べてみるとするか。
英語の検定なのか。
海外なんだから当たり前だよな。
とりあえず一ちゃんへメール送っておこう。
あのタイミングで一ちゃんと会えて、こうして海外へって思ったのは、何かしら運命的なものを感じています。
技術、技能、特技なら、小説の執筆、バーテンダーのスキル、料理の技術、KDDI時代の苦情処理コミュニケーション能力、あとは格闘技のスキルはあまり役に立ちそうもないと思いますが、一応護身術として……。
トーイックについて、ネットで調べましたけど、まさか一般教養でなく英語中心なものだとは今の今まで知らなかったんです……。
でも、せっかくのチャンスなので、勉強はして努力してみます。付け刃でどの程度できるかどうか分かりませんが。
あと、そっちにいてもしもですが、暇をしているようなら、今書き掛けではありますが、ギネスブック挑戦作品である『鬼畜道~天使の羽を持つ子~』のデータを送りますね。
世界で一番長い作品としての挑戦なので、現在で原稿用紙六千枚程度(三十年掛かった世界記録の約十分の一)までは書けています。
今作は、自分の自伝的な内容になっている為、幼少時代の一ちゃんや良江ちゃんも、名前は微妙に変わっていますが登場しています。
岩上 智一郎より
英検とは違うみたいだな、トーイック。
さて参考資料など色々調べないと……。
みゆきへ、海外行くって言ったら驚くだろうな。
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