224/11/1
前回の章
俺の初めてのブログ『新宿の部屋』。
現在は『智一郎の部屋』に変えたが、最後のほうでネット上知り合いになった山崎ちえみという女性がいた。
彼女は俺の作品を絶賛してくれ、応援してくれる。
ありがたい話だ。
山崎ちえみは京都に住んでいるようで、岩上整体へ行ってみたいといつも言う。
さすがに京都から川越では、気軽に追いでとも言えない。
来た患者をこなし、空いた時間は小説の執筆作業。
そんな日を過ごしていると、整体の前に誰か人が立っている。
模様の入った透明のガラス張りドアなので、何となく人がいるのは分かるのだ。
まあ駅前だし、待ち合わせでいるだけかもしれない。
俺は放っておき、執筆を続けた。
自分のペースで自由に小説を書けるのはいいが、もうちょい患者来てくれて売上があれば最高なんだけどな。
ふと外を見ると、まだ人が立っている。
さすがにドアを開け様子を見た。
一人の三十代の女性が、岩上整体の写真を色々撮っている。
何をしてんだ、この人は?
「あの…、何かうちの整体に御用でしょうか?」
声を掛けるとその女性は笑顔になり、「あー、本物の智さんだー」と一人ではしゃいでいた。
「え、あの……」
「山崎ちえみです」
しばらく考える。
「あーっ! ブログのちえみさん?」
「そうです、そうです!」
こうして京都から遥々山崎ちえみは岩上整体へやって来た。
黒髪ショートカットで彫りは深いが中々の美人。
俺から見た第一印象だった。
山崎ちえみは首も肩もガチガチで、時間を掛けて施術する。
「腰と言うか背中が凄い張ってますね。こっちも診ときますよ」
患者が来なかったので、二時間くらい掛けて治す。
肩甲骨へ手を差し込み、骨を調整。
首の牽引。
骨盤調整。
「そのまま立って、両手を頭の後ろで組んでもらえますか?」
「こうですか?」
「はい、力を抜いて……」
俺はそのままちえみの身体を持ち上げ、身体中の靭帯を鳴らす。
「え、凄い骨が鳴りましたね」
「骨というか、靭帯が鳴っているんですけどね。あ、そのまま今度は手をバンザイして下さい」
プロレスでいうフルネルソンの体勢で固定し、骨の位置を確かめる。
両肘を内側に一瞬だけ力を入れた。
ボキボキ……。
「うわー、凄い鳴りましたね」
「身体どうですか?」
ちえみは首や肩を回し、色々確認している。
「凄い軽いです!」
その時ちょうど患者が入ってきたので、会話を止めて待機席へ行かせた。
あとから来た患者をベッドへ行かせ、ちえみの会計に行く。
「おいくらでしょうか?」
「初診なんで千円です」
「えっ! そんな…、それじゃさすがに……」
京都からわざわざ来たのだ。
俺からの感謝も込めたつもりだった。
「いえ、みなさん最初は全員そうなんで…。ごめんなさい、患者さん待っているので」
「あ、すみません」
ちえみは千円札を手渡し、慌てて出ていく。
俺は待たせていた患者の元へ向かった。
ちえみの次に来たのは、五十代後半のメガネを掛けた女性。
「えーと、当整体は初めてですよね?」
「初めてだけど、よーく知ってるよ」
「え? …と言いますと?」
「うちの子から話は聞いているからね」
「うちの子? えーと……」
「森田昇次郎の母です」
「あー、はじめまして。彼はたまにここ来てくれています」
森田昇次郎とは小、中学の同級生。
小学三年から六年までの四年間同じクラスだった。
証券会社で働く彼は、仕事帰りクタクタになって岩上整体へ来る事が多い。
母親にまで宣伝してくれていたなんて、素直に嬉しいものだ。
「岩上君、昇ちゃんと同じクラスだったでしょう」
「ええ」
「だから昔から私は知っているんだよ」
施術をしながら、森田昇次郎こと森昇のお袋さんとは色々な話をした。
「昇ちゃんはね、給料入ると月に一度江戸銀へ連れてってくれるんだよ」
「ああ、うちの近くのお寿司屋さんですね」
俺の五つ上の先輩がやっているところだ。
岡部さんの同級生って前に聞いた事がある。
「一回あの子ね、別の会社の引き抜きが来て、迷っていた時期があるから、今まで会社にお世話になったんだから、目先のお金に惑わされずしっかりしなさいって言ったんだよ」
森昇のお袋さんの意見は、結果正しかった。
彼は今、川越の今成のほうで一軒家を建て、中学時代の同級生と結婚し子供も二人いる。
うん、普通の家庭、普通の母親ってこういうものだよな……。
森昇が素直に羨ましかった。
「こんにちわー」
ドアを開けると同時に元気良く入って来る女性。
小川京子、二十七歳、主婦。
「子供を母が見てくれているんで、来れたんですよ」
「それはそれはいいお母さんじゃないですか。今日はどの辺が悪いのですか?」
「腰と首ですね」
「はい、いつも行っている整体あるんですけど、先生が腰痛でお休みになっちゃって……」
俺は大きなズボンを履くような形のエアーコンセラーから始めた。
「あ、これ気持ちいいですね。空気がグワーッて来て」
空気の圧縮で足の血行を良くし、また冷え性改善にもなる。
ただこの機械は患者が喜ぶだろうと、八十万のリースで入れたものだ。
三点療法を首にしていると、「痛い痛い」と騒ぐ。
「首が悪いから、そんな痛がるんです。ちょっとだけ我慢して下さいね」
首を終わると、腰も診てほしいと言われる。
最近は通常だと初診千円だが、そのあとも希望するなら追加でもう千円もらうようにしていた。
先程のちえみは京都から来たので、特別な処置をしたまでである。
彼女は子供を産んだせいか、腰も結構悪い。
ギャーギャー騒ぎながらも、骨盤調整を終える。
「二千円でいいんですか?」
「ええ、次からは通常料金になりますからね」
こうして小川京子は足取り軽く出て行った。
この日は結構患者が続く。
やっと切れてタバコを吸う。
するとドアが開いた。
「ん? あれ、まだ身体駄目ですか?」
京都から来た山崎ちえみだった。
「いえ、身体は凄い軽いですよ。ただ、まだ泊まるところも決めてなくて……」
旅行で川越に来たわけじゃないのか?
まさか岩上整体へ来る為にわざわざ?
いや、それは無いか。
「どこかホテルとかないですかね?」
「一番近くなら、ここを出た目の前のぺぺあるじゃないですか? その向こうが川越プリンスホテルですよ」
「そうなんですね。あとお腹も減っちゃって……」
「何系が好きなんです? それによって勧める店違ってきますし」
「うーん、あと川越ってどの辺行くのがお勧めなんですか?」
京都から川越まで来たのに、観光でもなくホテルも押さえていない。
随分変わった人だな……。
「観光なら、蔵造りのある通りや、徳川家康が作った喜多院。まあ色々ありますよ」
「せっかく智さんに会えたので、案内してもらえませんか?」
少しは俺に気があるのかな?
まあ美人だし悪い気はしない。
あと二時間ほどで整体終わりだし、せっかく京都から来たのだ。
食事くらいご馳走してあげるか。
早めに店を閉め、食事へ連れて行く。
「何食べたいですか?」
「智さんが行きたい場所で大丈夫ですよ。お酒出すところでも」
酒か…、ぼだい樹にするか、料理も旨いし。
ぼだい樹で酒を飲みながら食事もして、外へ出る。
「あの…、泊まるホテルも探してもらってもいいですか?」
「あー、はいはい。近くならさっき言ったプリンスホテルが……」
「そこで大丈夫です」
ここから徒歩数分の距離なので、川越プリンスホテルまで案内する。
チェックインを済ませ、帰ろうとすると「すみません、少しだけ肩に違和感が」と言う。
近くだしまた整体へ戻るかと考えていると、「良かったらホテルの部屋でちょっと診てもらえたら」と言うので、一緒に彼女の部屋へ入った。
内心、誘われているのかなと思いながら……。
中へ入ると突然抱きついてくる。
これは抱くしかない流れだな。
俺は初対面の山崎ちえみを抱く。
そのまま一緒に泊まってほしいと言うので、仕方なくプリンスホテルへ泊まった。
チェックアウトして予定を聞くと、今日には帰るようだ。
本当に岩上整体だけの為に来たのか。
抱いてしまったし、せっかく川越来たので蔵造りの並ぶ中央通りへ向かう。
菓子屋横丁も裏にあるので連れて行く。
喜多院の五百羅漢にも案内する。
先輩の生臭坊主有原照龍がいる成田山川越別院にも連れて行く。
ここは昔から亀がたくさんいる池がある。
有原照龍が俺の姿を発見し、若い坊主に「見ろ、岩上智一郎が女連れで成田山来てるぞ」と笑いながら話しているので挨拶に行った。
「整体のほうどうよ?」
「まだまだ全然ですよ」
「おい、俺の後輩で智一郎って言うんだけど、整体やってるから診てもらえば?」
「え、ほんとですか!」
有原照龍は勝手に若い坊主の治療をタダでしろと抜かす。
まあ高校生の頃、よく遊びに連れてってもらったし、まあいいか……。
「分かりましたよ、ダイナマイトちんちん有原大先生」
「また随分懐かしい仇名覚えてやがるな。まあ智一郎頼むよ」
成田山の若い坊主を立たせ、後ろから両腰の骨へ、親指を捻じ入れる。
「ウギャーッ!」
「痛いのは腰が痛いからだ。一分このまま我慢しろ」
いつもより三倍増しで痛くしてやった。
その様子を見て、ちえみは大笑いしている。
彼女を駅まで送ると、少し遅れたが岩上整体をオーブンさせた。
美容師小輪瀬絵里が二度目の来店。
どうやら俺の施術を気に入ってくれたようだ。
前回うるさい悲鳴を上げた小川京子もまた来てくれる。
施術中話していると、きょうちんという名前でミクシーをやっているので、マイミクになった。
森昇のお袋さんがまた来店し、施術を受けに来る。
ここ最近の新規患者がリピートしてくれ、大変ありがたい。
一度きょうちんが「先生、何が好き?」と聞いてきた。
「え、何で?」と聞くと「好きな食べ物」と言うので「茄子が一番好き」と答える。
すると次に来た際、三本一パックの茄子を持参してきた。
「え、何それ?」と聞くと、「先生、茄子が好きと言ったから」と茄子をプレゼントしてもらう。
「茄子くれたから、施術料金三千円にまけてあげる」と言うと、きょうちんはその事をミクシーの日記に書き、ママ友たちがこぞって茄子を持ってくるようになったので、慌てて日記を消させた。
茄子三本持ってきただけで、施術料二千円もまけられるか……。
ただ悪ノリした俺は、家に帰って茄子を使った料理で茄子ミートソースと茄子のグラタンを十人前作り、岩上整体ブログで『来た人先着十名様まで料理あげます』と謳った。
たまたま整体へ来た小輪瀬絵里は、嬉しそうにグラタンを食べて帰る。
すると本当に十人以上来たので、このくだらない企画は二度と止めようと心に固く誓う。
ある日森昇のお袋さんが「岩上君は何が好きなんだい?」と聞かれ、一瞬ギクリとする。
前回茄子で懲りたので、簡単に差し入れできないものを言おうと考えた。
「糠漬けのキュウリが好きですね。最近糠味噌のキュウリって見ないじゃないですか」と答えると、翌日お袋さんは家の糠床を持ってくる。
糠味噌の手入れの仕方などを丁重に教わった。
何故こんな流れになるのだろうと不思議に思ったが、群馬の先生が流れを大事にと言っていたのを思い出し、何とか納得するように努める。
整体を開ける前に、糠味噌を掻き回す作業が増えた。
京都へ帰ったちえみから、毎日のように電話やメール、チャットが来る。
身体一つでやってるので、仕事中は勘弁してほしいと伝えた。
性欲に負けたとはいえ、ちょっとヤバい女に手を出してしまったかもしれない。
新規でモサッとした男が入ってきた。
一見若そうにも見えるが、三十五歳の俺より年上と言われてもおかしいとは思わない不思議な感じの男。
問診表を書いてもらうと、十九歳なので驚いた。
「えーと、症状は?」
「あ、あのですね…、僕、右手の握力が四キロしかないんですね」
「は? 嘘でしょ?」
男性の握力平均が四十くらいだとして、女性なら十何キロとかはいる。
それにしても四キロはないだろ?
「ほ、本当なんです」
彼の右手を見ると、手の甲の親指の付け根のところが不自然に凹んでいる。
「事故か何かで?」
「いえ、原因は分からないです」
初めて見る症状。
これまで色々な医者や接骨院に行ってもまるで改善されないらしい。
俺の手におえるのか?
「うーん…、じゃあ、吸引式でなく、パッド型の高周波つけて、手の筋肉をつけるトレーニングをしてみようか」
電気を流し、彼の指が勝手に動き出す。
「せ、先生は握力どのくらいあるんですか?」
「最近測ってないけど、全盛期で右は九十六キロあったよ」
「え、九十六?」
「右たげね。左は過去一度肘壊しているから、五十あるかないかだよ」
握力が四キロしかない男は「凄いですね」と目を丸くして驚いている。
彼は原因不明というだけで、右手が病気なのかすら分かっていない。
高周波を使い何とかしてやりたかったが、実際どのくらい握力が増えたのかすら本人も自覚していなかった。
「ごめん、俺にはこのくらいしかできないや。力になれてないから施術料金はいいよ」
「あ、あの…、何かすみませんでした」
そう言って、彼は寂びそうに帰っていった。
少し遣る瀬無い気分になった時、店の電話が鳴る。
「はい、岩上整体です」
「あ、智さんですか? ちえみです」
「すいません、これから患者来るので準備中なんですよ」
俺は電話を強引に切った。
中学時代の後輩であり、現役ヤクザバリバリの山田弘也が患者を紹介してきた。
患者といっても、もちろんヤクザでしかも組長だった。
「じゃ先輩、俺は用があるんで後はよろしく」
山田は組長だけ置いていく。
問診表を書…、いや、別にいいや。
迫力ある身体つきといかつい表情はザ・ヤクザそのもの。
「あ、先生、自分腰を悪くしましてね」
年齢は俺より四つ上。
体重百十キロあるらしい。
「よく俺がうつ伏せに寝転んで、テーブルの上から組員がジャンプさせて自分の腰に落ちるよう命令するんですが、それやると痛くて転げ回りますが、後々楽になるんですわ」
それってプロレスラーがトップロープの上に登って、ジャンプして相手の身体にただ落ちるフットスタンプって技じゃん……。
「駄目ですよ、そんな無茶しちゃ…、身体本当に壊れますよ」
「でも、腰が辛いんですわ」
まあ整体閉めてからの時間帯だし、しょうがないか。
「分かりました。そこのベッドへ寝てもらえますか」
「お願いします。色々なところ行くんですけど、みんなソーッとしかやらないから全然効き目ないんですわ」
手首足首まで入った立派な刺青。
こうまでコテコテのヤクザじゃ、普通はビビッて痛くないようソーッとしかやらないよな……。
「組長さん、予め言っておきますが、自分の施術は結構痛いですよ?」
「ええ、痛みには職業上強いんですわ。先生、お願いします!」
こうしてヤクザ組長の施術が始まる。
高周波をつけながらの岩上流三転療法。
組長は痛みで「グワッ」とかたまに叫んでいる。
俺は気にせず、どんどん続けた。
「うちの事務所、湯游ランド分かります?」
「ええ、元ニチイのところですよね」
「え、先生ニチイ知ってんすか?」
「まあ、生まれ川越ですからね」
ニチイ…、スーパーなのかデパートなのかよく分からないが、俺が子供の頃はよく行く遊び場になっていた。
四階建てで、一階二階は服などが売っているのでほとんど行く事は無かったが、三階のエスカレーター上がったところに狭い喫茶店があり、四階は意地悪そうな老人夫婦が管理をするゲームセンターと、半額堂という関西弁を話す胡散臭そうなオヤジが、中古本やゲーム、玩具などを売っている変な店があった。
たまに夏になると四階の奥で子供騙しなお化け屋敷を開催し、それ以外奥のスペースは卓球台が数台置いてあった変なデパート。
地下はエスカレータで降りると、カウンター席五つ程度のクソ狭いラーメン屋とか飲食店が並んでいた。
俺は幼少の頃、ニチイのエレベーターで我慢できなくてクソを漏らした事がある。
一緒にいた隣の家トンカツひろむの五つ上の岡部さんの同級生でもある乗松一久こと一ちゃん、二つ上の妹の良江ちゃん兄妹に連れられ、一緒に遊んでいた頃の話。
一ちゃんが匂いで気付き、俺はバレたくなくて良江ちゃんのせいにした。
必死にお尻に手を当てて匂いを漏れないようにしつつ、必死に「良江ちゃん、臭いよ」と言って泣かせた事もある。
まだ岡部さんもその頃小学生なので、平和な時代だった。
「そのニチイの前のマンションあるじゃないですか」
「安田ビルですか?」
出て行ったお袋は三姉妹の末っ子。
実家は俺の家から徒歩五分程度。
三姉妹の真ん中のせっちゃんは、安田家に嫁へ行き、その当時の父親が安田金之助という市議会議員だった。
湯游ランドの前の安田ビルは、その安田家所有のマンションなのでよく知っていた。
「先生、何でも知ってますね。凄いっすわ」
変なところで関心する組長。
「ちょっと痛くなりますからね」
左右の骨盤の腰骨に親指をめり込ます。
「ウガッ!」
「痛いですか?」
「だ、大丈夫っす……」
うん、我慢強いだけあってかなりほぐれてきたな。
「では横向いて下さい。骨盤調整やりますから」
極度の骨の歪み。
大きな靭帯のいい音が響き渡る。
「立って腰を回してもらえますか?」
組長は起き上がり、大きな身体をブルンブルン回転させる。
「おぉっ! 何すか、この軽さ! 先生何をしたんすか?」
「いや…、腰が痛いと言うから、楽になるように施術を……」
「先生凄いっす! こんな楽になったの初めてですわ!」
それはそうだろう。
こんな図体のデカいコテコテのヤクザ、誰がまともに相対すると思うのだ。
俺だって山田の紹介じゃなかったら、受けていない。
組長はニコニコ喜びながら、代金一万円を払ってくれる。
「先生の事、気に入っちゃったんすけど、昼間お茶とか飲みに来ていいすか?」
「いや、駄目です」
「え?」
「うち、普通の女性患者多いんですよ。組長みたいに迫力ある人来たら、女性患者来なくなっちゃいますって。うち、潰れてもいいですか? 組長の腰、夜なら診ますけど」
「いや、潰れたら困ります。夜ならいいんすね?」
「だってどこもちゃんと診てくれないんですよね?」
「そうなんですわ」
こんな感じで、ヤクザの組長が夜限定で岩上整体の患者となった。
小説を書いていると、入口に人の気配を感じた。
振り向くと人の影が見える。
患者か?
しかしいつまで経ってもドアが開かない。
ひょっとして山崎ちえみが、また京都から来たのか?
恐る恐るドアを開けると、金子修一が立っていた。
「何だよ、修。開けて入ってくればいいじゃん」
修は俺の四つ下の後輩。
姉に二つ上の真由美がいる。
つまり金子姉弟は俺の弟、徹也、貴彦の同級生だ。
本当に近所なので小学生の頃は同じ班。「渡しましょう」と一緒に学校まで通学した仲である。
昔は八百屋をやっていて、茄子を一山百円で売っているものだから、俺は見ると堪らなくなりインベーダーを我慢して茄子を買う事が多かった。
当時の俺のお小遣いは一日百円。
一山で七、八本の茄子が百円で売っているのである。
茄子が一山三、四本だったら、迷う事なくインベーダーに使っていた。
しかし七、八本という魅惑の本数が、幼い俺を狂わせる。
金子家は、そんな家だった。
修は介護の仕事をやりながら、親父や変態松永さんが所属するお囃子の雀會に所属。
俺たちの世代では修しかいない。
何故なら子供の頃、あの馬鹿親父が太鼓を叩く木のバチで、見せしめのように俺の腕をバチバチ叩きいつも陰で泣いていたので、ビビった同級生らはみんな辞めてしまったのだ。
正に雀會のA級戦犯である。
親父が二代目会長をやる前、まだ栗原名誉会長が初代会長の頃の話。
昔から大人しくいつもニコニコしている修を嫌う人間はほとんどいない。
まあ岩上整体へ自分からわざわざ来たのだから、俺はそんな嫌われていないのだろう。
修を腰を施術する。
施術中、携帯電話が鳴る。
「修、ちょっと待ってね」
携帯電話の画面を見ると、山崎ちえみからの着信だった。
俺は着信拒否の設定をして、診察ベッドへ戻る。
仕事中に連絡するなと、あれほど言ったのに、あの女……。
「修お待たせ、ごめんね」
暇だったので時間掛けて修の身体を診る。
初診なんで千円にしたが、可愛い後輩なのでコイツは毎回千円でいいと伝えた。
今は無き、家の前にあった映画館ホームラン劇場社長の櫻井さんと酒を飲んでいる時、知り合いの弁当屋がとても安く、一人前でも宅配してくれる南大塚駅近くの弁当屋があると言う。
経費削減しないと、岩上整体はヤバい。
一人で良心的に経営しているから、儲かっていないのだ。
俺は櫻井さんに頼み、その弁当屋を紹介してもらう。
一日辺り四百三十円とかなり安いので、一週間くらいは感謝して弁当を食べた。
十九歳のエステシャンでもあり、岩上整体患者の福本秀美にも紹介したほどだ。
しかし値段通りのお粗末な弁当に飽きた俺。
ボソボソ食べていると憂鬱になってくる。
俺はこの弁当の名を密かに『鬱弁当』と名付けた。
そんな事をしたところで弁当が美味くなるわけではない。
いつも整体の外に発泡スチロールの容器があり、その中に弁当は届く。
ある日、蓋を開けて食べようとしたら、ポテトサラダにゴマでも振ってあるのかなと思い、箸を伸ばすと動いた。
よく見ると、甘く煮た芋のようなものに小さな黒い蟻がたくさんたかっているだけなのが分かる。
一気に食欲を無くした俺は一切手をつけず、発泡スチロールの容器にそのまま弁当をしまう。
三日連続手をつけずに置いているのに、弁当屋は毎日新しい弁当を持ってくる。
さすがに電話をして抗議をした。
「蟻が入っていたと言うけど、うちの弁当に限ってそんな事はありえない!」
何か意味不明な事を言っているぞ。
俺が何度蟻が凄かったと説明しても、そんな事は無いの一点張り。
面倒臭くなり、電話を切った。
すぐに電話が鳴る。
何だよ、鬱弁当屋が……。
「はい!」
口調がどうしても乱暴になってしまう。
「あ、智さんですか? ちえみです」
またコイツかよ……。
仕事中店の電話にれんらくするなと何度も言っているのに。
「ごめんなさい。ちょっと今患者いて手が離せないので」
電話を強引に切る。
返す刀で、弁当屋へ連絡し、注文は今後辞める事を伝えた。
岩上整体のドアが開き、小さな子供たちがわらわら入って来る。
何だ何だと驚いていると、小、中学時代の同級生である増田清子が入ってきた。
「岩上、久しぶりだね!」
彼女とは小学一年生から四年生までの四年間同じクラス。
サッパリして明るい性格の増田とは、若い頃よく遊んだ時期もあった。
「ひょっとして増田の子供?」
乳母車を押しながら入ってきた増田は「そうなんだよー、突然大人数でごめんね」と謝ってくる。
男二人に女一人、そして赤ん坊……。
「全然問題ないよ。それにしても凄いな四人も産んだんだ?」
「うん、まだチビばかりだけどね」
「いいよ、俺チビッ子好きだしね。ゴマシオみたいにウネウネしてて可愛いし」
「ゴマシオ?」
「ああ、俺がチビッ子の事を勝手にそう呼んでんの」
増田の子供たちは岩上整体の中で興奮してはしゃぎ回っている。
「あ、増田、ちょっと留守番しててもらえる?」
「いいけど、何で?」
「ちょっと買い物あってさ」
俺は来たばかりの増田家族に留守番を頼み、駆け足で目の前の駅ビルペペへ向かう。
最上階に百円ショップがあるので、ゴマシオたちが喜びそうな玩具とか売っているだろう。
シャボン玉や子供騙しの玩具を適当に買い、整体へ戻る。
「ほら、これ全部やるぞー」
子供たちの心をこれで一気に掴む。
俺は増田にデジタルカメラを持たせ、動画を取るようお願いする。
ジーッと俺を不思議そうに見ているチビッ子に右の親指を出す。
「いい? お兄ちゃんの指に両手で摑まって」
黙って両手で親指を摑むゴマシオ。
そのまま親指で持ち上げると、増田の子供は興奮して大喜びした。
しばらく増田とは連絡を取っていなかったが、この日からまたちょっとしたやり取りが始まる。
飯野君へ増田が来た事を伝えると「懐かしいですねー」と嬉しそうだった。
チャブーやゴリのようなヨゴレには、増田に迷惑掛かるといけないので言わずにおく。
彼女は川越祭りになると、俺のいる連雀町まで子供を連れてきてくれ、チビッ子好きの俺は大いに喜んで子供をあやした。
ガラガラと威勢よくドアが開く。
四十代後半の女性が入ってくる。
「あ、あのー、チラシ見て来たんですけど、千円で診てもらえるんですか?」
「はいはい、大丈夫ですよ。どこで当整体の広告見たんですか?」
岩上整体川越名店街の協力店は、現在八十七店舗まで増えていた。
「ガソリンスタンドです」
ガソリンスタンド?
山口油材か。
俺が高校生の頃アルバイトしてお世話になったところである。
距離的に一番遠い場所の広告を見て、来てくれたのか。
「ではここまでバスか何かでいらしたんですか?」
「いえ、歩いてきました」
歩いてきた?
山口油材からここまで何キロあるんだ?
普通に歩いても下手したら一時間は歩くようだぞ?
何かこの人、変だな……。
「では問診表を書いてもらえますか?」
四十八歳、主婦。
腰が慢性的に悪いようだ。
「ではベッドへうつ伏せで横になって下さい」
「先生! ほんとに千円ですよね?」
「安心して下さい。ボッタクリなんてしませんよ。こんな駅前で店を構えてて」
「では、お願いします」
高周波をつけて、いつものように施術を始める。
「先生……」
「はい、何でしょう?」
「うち、娘が二人いるんですね」
「何歳くらいなんですか?」
「十五と十七です」
「へえ、もうちょいで世話も掛からないし、いい年頃じゃないですか」
「質問なんですけど、うちの子たち援助交際やっていると思います?」
何だ、この人……。
やっぱちょっと変だ……。
「見た事無いので分からないですよ」
笑って誤魔化すと、中年女性はうつ伏せのまま「あー、どうしよう、どうしよう」とブツブツ言い出す。
何か怖いなこの人……。
「まあ、お母さん真面目そうだし、ちゃんと接してそうなので、していないと思いますよ」
「ほんとですか!」
いきなり起き上がり、俺の手を両手で握ってきた。
「いやいや、お母さん、離して下さい」
「あ、すみません、すみません」
何か嫌だな、この人……。
「また同じようにうつ伏せになって下さい」
「はい…。あ、先生」
「何ですか?」
「うちの旦那って本当にケチなんですよ」
「まあまあケチなんて言わずに…。家族の為に一生懸命働いているお父さんじゃないですか」
「いえ、本当にケチでお風呂入るの一週間に一度しか入れさせてくれないんです」
トドのように太った身体。
施術とはいえ、身体に触るのが嫌になってきた。
いきなり勝手に仰向けになり、俺の手首を掴んでくる。
「何ですか? 離して下さいよ!」
「先生、私ね…。今年で四十八になるんですけど、妊娠しているか心配で心配で…、先生、触って下さい!」
そう言いながら、彼女は俺の腕を掴んだまま股のほうへ持っていく。
「離して下さい!」
強引に腕を引き戻す。
この女、更年期障害なのか?
頭大丈夫か?
「先生、あの……」
「お金いらないんで、帰って下さい!」
「え、じゃあ次の予約は……」
「すみません、三年先まで予約埋まっていますので、お帰り下さい」
「え、あの……」
「早くして下さい! もうそろそろ次の患者来ますので」
俺は不潔な更年期障害のトドを岩上整体から追い出した。
一人でやっていると、こういう危険な目に遭う事もあるのだと勉強になった。
今日はずっと鳥肌が立っていた。
岩上整体を開けようと一階へ降りると、おじいちゃんが居間にいたので声を掛ける。
「ああ、智一郎。どうだ、整体の調子は?」
「そこそこ患者さん来てくれるようになったけど、まだまだだよね」
「そうか、ちゃんと頑張るんだぞ」
「はい、分かってます」
同じテーブルに座っていたおばさんのピーちゃんが、俺を見ながら話し掛けてきた。
「おまえの整体の通り沿いの奥に接骨院あるだろ?」
「ああ、下自転車屋の手前くらいにあるね」
「あそこは私が行くプール仲間の間で凄い評判いいんだ。手でちゃんとやってくれるしって」
相変わらず棘のある言い方してくるな。
「だったらその通りの駅前で私の甥っ子が整体開業しているから、顔出してみてよぐらい言い返せばいいじゃん」
「そんな恥搔くような事、恥ずかしくて言える訳ないだろ」
恥?
何故甥っ子が整体をしていると言うのが恥なんだ?
一気にカーッと頭に血が上った。
「何だと、テメー!」
「やめないか、智一郎!」
おじいちゃんが間に入るので、俺は黙って整体へ行く事にした。
以前群馬の先生が言っていたように、ピーちゃんとは分かり合えないのだろう。
それにしてもこれから仕事だというのに、何て人の神経を逆撫でするのが好きな人なんだろうか。
俺は多分さっき言われた台詞を一生忘れる事は無いだろうな……。
イライラ整体を開ける準備をしていると、店の電話が鳴る。
「はい、もしもし岩上整体ですが……」
「あ、智さん! ちえみです」
「ごめんなさい、今患者の施術中なんで」
乱暴に受話器を叩きつけるように置く。
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