吹く風ネット

喫茶店

 四十数年前のある時期、ぼくは出版会社に席を置いていた。そこに入ったばかりの頃の話。『喫茶店』という題の文章を書いてこいという宿題が出たことがある。何を書こうかとぼくは考えた。ありきたりのことを書いたりすると、ただの作文になってしまう。それがぼくには面白くない。そこでよく通っていた喫茶店でのマスターたちとぼくとのやりとりを、ト書きや説明をつけずに書いたのだった。つまり会話だけの文章を書いたわけだ。

 翌日、上司が烈火のごとく怒って、文句を言ってきた。
「おい、しんた。何だ、これは!?」
「喫茶店でのやりとりですけど」
「何がやりとりだ。こんなの作文以下だ」
「喫茶店の現実じゃないですか」
「何が現実だ。書き直してこい」
 だいたい、論語だってお経だって、多くは会話文で成り立っている。そのほうがより伝わるからだ。

 納得いかないぼくは、書き直しなどせずに放っておいた。そのことが気に入らなかったのか、その後上司はぼくに、色々な無理難題を押しつけてくるようになった。ある日の夕方、突然「おい、今から熊本に行って、公衆電話に置いてある電話帳を盗ってこい」と言ってくることもあった。
 筑後訛りが抜けないその男から、「お前、ちゃんと標準語で話せよ」と言われるのもシャクに障った。

 最後には、
「しんた、おまえ夢はあるか」
「ありますよ」
「どんな夢だ?」
「ミュージシャンになる夢です」
「おまえ、いつまでそんな甘い夢を見とるんだ」
 と、人の夢にまでケチをつけだした。 甘くても辛くても夢は夢だ。しかも思いつきで答えた夢ではない。長年抱いてきた夢なのだ。
 その言葉を聞いて縁の切れ目を感じたぼくは、翌日無言で会社を去ったのだった。

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