そして、視界に捉えているアサダさんの姿が徐々に大きくなり、月の光が映した白い顔の輪郭にアサダさんの目鼻の形がはっきりと見て取れるようになった。
―何故そんな虚ろな目をしているんですか。
月明かりに照らされたアサダさんの横顔に、ただ虚空を見続ける乾いた瞳を見たとき、私は思わずそう問いかけたくなった。
しかし、その問いに対する答えは恐らく返って来ないだろう。そうと判るような、あまりに空虚なアサダさん表情が、私にその言葉をためらわせた。
同時に、月明かりが照らす湖面の青白い光の中に融け入ったように静かに佇むアサダさんに、何かこの世のものではないような危うい美しさを感じる。
その美しさは心を打たれるような輝きとは異なり、どこか悲しい気持ちを孕んだ静的なものだった。
その静けさにアサダさんの心が呑み込まれてしまうのではないかという不安に駆られ、私は冷たく凍えた身体から、ようやく声を放った。
「・・・アサダさん!」
私のことが全く見えてないのだろうか。アサダさんは身動き一つしなかった。虚空を見つめる瞳もそのままだ。
もうとっくに冷たさで痺れ、感覚が麻痺した手足を動かし続け、ようやく目の前のアサダさんに手が届くところまでやってきた。
「アサダさん!どうしたんですか、アサダさん!!」
いくら呼んでも反応しない。
こんなに近くにいるのに、ものすごく遠くにいるような気がした。
私はたまらずアサダさんの身体を両腕で抱き寄せる。
自分の冷え切った身体と、もっと冷たいアサダさんの身体が触れ合った。驚くほど冷たかったが、掴むことができた。ようやくこの手で抱きしめることが出来た。
アサダさんの身体をようやく感じることができたのに、私の心にはより強い切なさが押し寄せる。
「アサダさん!どうしたんですか、しっかりしてください!」
私はアサダさんの身体を少しでも温めようと強く抱きしめながら必死に呼びかける。
どこか遠くにいってしまったアサダさんの心を呼び戻すように。
それでもアサダさんは静かなままだった。
もう、アサダさんの心は、本当にここに居ないのかもしれない。
そして、もう二度と戻ることが無いのかもしれない。
そんな絶望感が急激に押し寄せる。
気がつくと私は声を出して泣いていた。
駄々をこねる子供のように。冷たい身体よりも、心が苦しくて、ただただ悲しかった。
目の前にアサダさんの顔がある。でも、その空虚な瞳は私を見ていない。そのことが耐えられなかった。
私はむせび泣きながら、アサダさんの顔を両手で包み、強く唇を重ねた。
それは、上司に密かな恋心を抱きながらひとり想像していたものとは程遠い、絶望的で独りよがりなファーストキスだった。
・・・つづく
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