しかし、捉えたその柔らかな感触を自分のものに出来たのは、ほんの一瞬だけだった。
突如、周りから湖面の水の音が消え、身体にまとわりつく凍てついた水の冷たくて重たい抵抗感も、さらには自分の両手が包んだ目の前にあるはずのアサダさんの顔も唇の感触も消え失せていた。
まるで、自分の身体感覚のスイッチが突如OFFになったように。
そして、今自分は湖を高い場所から見下ろしている。その湖の中に、自分自身とアサダさんの姿があった。
私は空中に浮いているのだ。正しくは、私の身体から抜け出した”意識”が。
突然、声が頭の中に響いた。
『・・・イナダくん』
それがアサダさんの声であることに気がついたと同時に、アサダさんの姿が突然目の前の空中に像を結んだ。
私は声を上げてアサダさんの名前を呼んだつもりが、私の声は全く音にならなかった。周りは相変わらず静寂が支配している。
声の出ないことに驚くよりも前に、自分の心の中にある思いが声とは異なるエネルギーとして放たれるのが判った。
『アサダさん・・・!』
目の前のアサダさんが、小さく頷く。
私はテレパシーというのもを初めて体験した。
何から伝えればいいのかと悩む必要が無いことがすぐに判った。
今この状態で生まれる私の思いは、同時にアサダさんの心の中に浸透していくような不思議な感覚があった。
私は、丘に建つ小屋の窓からアサダさんを見た。今まさにもうひとりのアサダさんの首を締めようとしていたその姿を目撃したあと、慌てて追いかけてこの場所まで来た。氷のように凍てつく湖に分け入り、抜け殻のように佇むアサダさんの唇にキスをした。
それらの事を思い起こした時点で、状況は全てビジョンとなって、アサダさんにも伝わっているという事が何故か自分にも判る。
アサダさんは、私が問いたい事を伝える前に、答え始める。
『・・・もう終わりに、したかったの』
アサダさんの思いが私の胸に浸透してくるのがわかり、その部分が急に重たく感じられた。
不意に、脳裏に会社の上司として見ていたいつものアサダさんの笑顔が思い浮かんだ。
しかし、同時に、その笑顔の裏に隠された拭い去ることができない孤独感と虚しさが、心の凝りとなってアサダさんを苦しめている事がつぶさに感じ取れた。
面倒見がよくて男勝りな上司。仕事ができてきれいな憧れの上司。そのアサダさんの笑顔は、心の底に棲みついてしまった孤独と虚しさから懸命に抗うようにして作られていた笑顔であることが、今の自分にはよく判った。
『もう、わたしでいることに疲れたから・・・』
その言葉と一緒に、アサダさんの心の凝りが走馬灯のビジョンとなって観えはじめる。
周りには決して弱音を吐けなかった。
自分という存在のせいで、周りにどんな迷惑も掛けたくない。
そのために、何でもできる自分にならないとだめだとずっと思っていた。
小さい頃から、ずっと。
そうじゃないと、自分はここに居られない。
小さな頃から、預かってくれた叔父と叔母になるべく気が付かれないように勉強をした。
そうすれば、ミキちゃんはほんとに手がかからない子だね、と言ってもらえるから。
だから、叔母に何か欲しいものないの?と聞かれれば決まって鉛筆とノートをセットで買ってもらった。
本当にそれでいいの?と聞かれると、とびきりの笑顔でうんと頷いた。
絵を書くのが好きだからと、小さな嘘もついた。
叔父と叔母の実の息子や、周りの子達は皆塾に通ったり通信の教材を与えてもらったりしていることはよく知っている。
もし自分の成績が良くなかったら、それほど経済的に裕福ではない叔父と叔母に、変な気を使わせることになる。
自分は何もしなくても勉強ができる子だということを、信じてもらわなければならなかった。
親戚に少し上の女の子がいて着るものはいつお下がりを分けてもらえていたのは、叔父と叔母の経済的負担を考えてしまう自分にとってはとってもラッキーな事だった。
友達にも、両親がいなくて大変な思いをしているという風に思われたくなかった。
自分は何としても普通な子か、それ以上の子として見られたかった。
公立の高校に入れてもらえてからは、カフェやお惣菜屋さんのアルバイトをしながら必死に勉強した。
学校で仲良くしてくれる友達もいたが、プライベートででかけたり自分の生い立ちをしゃべるほど深入りするつもりはなかった。付き合いでお金を使いたくなく、アルバイトと勉強に忙しかったし、何より、変に気を遣われるのが嫌だった。
だから、誰にでも人当たりは良いけど、どこかクールで謎めいた優等生。言ってみればそんなキャラクターとしてやり過ごした。
大学には奨学金を得て通った。
大学でもみんなが楽しそうに話すサークルには入らずアルバイトを頑張った。絶対に留年なんかできないので勉強も必死にやった。
こうしていればそれなりの会社に就職できるだろうし、経済的に自立して働くことで、預かりの身にかかるプレッシャーからすべて開放されると思っていた。
自分にとっては、就職こそが自由になれるゴールだと思っていた。
そして、今の会社に就職した。お世話になった叔父と叔母の家から出て、ワンルームの賃貸で待望の一人暮らしの生活が始まった。
仕事にはやりがいを感じられた。
一生懸命にやっているうちに、周りの同僚や上司からも認められ、仕事を通じて築かれた人間関係に安心感を覚えることができた。
だからこそ、この居場所を失うのが怖くなった。
仕事を完璧にこなさなければ気がすまない自分がいた。時折体調を崩しそうなほどストイックに自分を追い込むことが、仕事に対する責任感として評価される反面、時にいろんな人に心配されたりもした。
でも、そうやって親身になってくれる人を、なるべく避けようとする自分がいた。
誰かとプライベートで深い人間関係になってバランスが崩れることを恐れていたのだ。
そして、30歳を迎えた時、突如気がついてしまった。
それは、小さい頃から自分が抱いた恐れと同じであることを。
大人になっても、自立して環境が変わっても、自分は同じものに縛られ、何も変われていないことに、愕然とした。
ふと周りを見渡すと、よく片付けられてはいるものの、これといった可愛い雑貨や植物もない自分の部屋が目に入った。
キッチンに置かれた食器はどれも白くてシンプルなものばかり。
色や柄のついたものを買おうと思っても、それらから得体のしれない息苦しさを感じてしまい、どうしても買うことができなかった。
自分の行動の全ては、”しなければならない”という思いに縛られていた。だからなのかもしれない。
皆の言う”可愛い”というものがどんなものかは判ったが、そういうものを自ら欲するという心の働きが自分には分からなかった。
そのことが自分に緊張感をもたらすことさえあった。
チカチカするような色使いで皆が楽しそうに馬鹿騒ぎをして笑うようなテレビ番組は同じような理由で観ることができない。
自分はこんなにも味気のない取り繕う人生を、あと何十年続けることになるのだろう。
犯罪はもちろん、他人に迷惑をかけるようなことは一切していない。
そんな意地のようなものだけが自分の心の拠り所だった。
でも、そんな自分に、正直疲れてしまったのだ。
そんな時、まだ若くて綺麗な芸能人が家族を残して自ら命を絶ってしまった報道があった。
周りの人は皆、この人に限って自殺する理由なんて考えられない。素晴らしい人。真面目で明るい人。よくできた妻であり、立派な母でもあった。大きな悩みも聞いたことがない。そんな事を口々に言っていた。
でも、自分と同じような心の穴を塞げずにいた人なのかもしれない。そう思う自分がいた。
『気がついたら、私はこの世界にいた。そして、自分の首を締めていたの・・・』
・・・つづく
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