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6.日本における民族の交代
青銅は武器や道具としては不向きですが、死者への供物としては用い続けられました。それには理由があります。
古墳で銅製のヤジリが出土することがあります。発見された銅製の矢じりは銅鉾の形に似ています。ヤマト墓の青銅製の矢先は青銅文化の生き残りと思われます。
鉄の剣の導入により、青銅のような弱い金属は淘汰されました。突いたり切ったりするためには弱すぎるからです。しかしヤジリであれば、加工が容易であることは利点となります。だから鉄の導入後も使われ続けました。
青銅は武器や道具としては不向きですが、死者への供物としては用い続けられました。それには理由があります。
ドルメンで石の剣が出土するのは、古墳で青銅のヤジリが出土するのと類似しています。ドルメンの主たちの祖先には、石の剣を振り回した祖先がいたことを暗示しています。ヤマトの古墳から石の剣が欠如しているわけは、ヤマトの先祖が石の剣を使っていなかったからです。
それではヤマトの古墳からどうして銅剣が出てこないか。それはヤマトがやってきたときにはドルメンが(すでに)限られた地域にしか流布していなかったからです。
ドルメン人が鉄製武器の文化より後着したというのはありえない話です。
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青銅の担い手がヤマトの同盟者として日本に来た可能性はあります。しかしそれなら、青銅と鉄の剣が古墳(時代の墓)から見つかるでしょう。
まさに問題は、青銅文化から鉄の文化への連続的進化があったのかどうかということです。この問題は簡単に解決されません。
タイラーらが指摘したように、「文明化は、もともとの住民による自発的な成果ではなく、外国によって生成される傾向がある」のです。
文明は、内発的に発展する場合もあります。しかし劇的発展は移入によってもたらされることのほうが遥かに多いのです。
文化が継続的に発展した可能性を示すいくつかの証拠もありますが、それは包括的なものではありません。
文化が継続的に発展した可能性を示すいくつかの証拠もありますが、それは包括的なものではありません。
圧倒的な量の遺物が示すのは、ヤマト時代の遺物が大陸から輸入されたものであり、それが日本人の新たな文明を形成したということです。
* つまりマンローは一種の「騎馬民族説」を唱えているのだ。大陸から鉄製の武器で武装した集団が来襲し、石器集団(部分的に青銅化)を支配する。それが大和政権で、ヤマト種族と弥生人との間には明らかに隔絶がある。
当面、確実な結論としては、日本のいくつかの地方で、アジア本土からの新文化の移入によって補強された進歩があったと仮定することです。
7.鉄はいつ、どこから、どのようにやってきたのか
青銅器と鉄器の文化がどこから始まったか、それらを日本に持ち込んだ軍兵がどこからやってきたのか(なぜならそれらの金属器はまず何よりも兵器であったから)、それらの兵器が大陸のどこから、どのルートでやってきたのか。
この大問題は、まだ明確に解決できていません。 これらの重要な問題は、しかしながら、いくつかの検討課題をかかえています。私はそれらの条件の短い要約を与えることを提案します。
ここで、アジア全体の状況をみたうえで、私はヤマト侵攻の時期について考えてみたいと思います。
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ここで説明されている「ヤマト」という言葉は、「ヤマトの国」から取られました。現在の奈良県です。中国の記録では、紀元1世紀以降の古代日本の主権者として記載されています(邪馬台国)
日本の歴史家や考古学者は、ヤマトを政治的実体としてではなく、「種族」として語っています。それは先住民とは対照的にミカドの国を建国した人々の美称なのです。
ヤマトという用語は、8世紀初頭の歴史的な時代(奈良時代)まで引き伸ばして使われることががあります。
ヤマト文化の流入は紀元前1000年から500年の間に始まったと考えられます。それは世界史に見るならば、アジア西部(中東)に起きた鉄器文明が、偏西風のように中国・韓国へ流れ、進歩をもたらした歴史です。
ヤマト文化の流入は紀元前1000年から500年の間に始まったと考えられます。それは世界史に見るならば、アジア西部(中東)に起きた鉄器文明が、偏西風のように中国・韓国へ流れ、進歩をもたらした歴史です。
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