第12章 マンローが遺したかったもの
1.マンローの研究目的
この章は、一つの推察に過ぎません。
60歳をはるかに超えたマンローが、最後の力を振り絞って北海道の寒村に飛び込み、最後はほとんど無一物になってまで求めたものはなんだったのか、それは今となっては推察するしかありません。
ただ、その波乱に満ちた生涯をあとづけていくと、日本古来の先住民であるアイヌ(縄文)人を文化史の中軸として据えることに、学問的な使命感を燃やしていたと考えざるを得ないのです。
そのためにミッシングリングを探し求めた結果が、二風谷行きとなったのではないでしょうか。
そのことを考えると、遺著「アイヌ:信仰と儀礼」は、たしかに遺稿集ではあるにせよ、マンローの意図したところとはかい離があるように思えます。
2.マンローのつけた表題は違った
1936年11月のセリグマンあての手紙にはこう書かれています。
いま、19章からなる本を構想している。5年前から内容が深化した。序章「アイヌの過去に関して」と終章「アイヌの現在に関して」が付け加えられた。
そしてマンローは、やがて本となるべきこの論文に「アイヌ むかしといま」(AINU Past and Present)という表題を与えました。
この題名にはマンローの思いが込められていると思います。
たしかにマンローは、眼前のアイヌの暮らしそのものを丹念に記録してはいますが、マンローはたんなる写実に徹しているのではありません。そこに旧石器・縄文以来の日本先住民の「むかし」を投影しようとしています。
しかしマンローの最大の理解者セリグマンはすでに39年に亡くなっていました。その遺志を継いだ妻のブレンダは、十数年の歳月をかけて遺稿集の出版にこぎつけました。
ブレンダの努力がなかったら、この本は日の目を見ることなく、忘却の彼方へと沈んでいたに違いありません。ブレンダ・セリグマンの貢献には感謝の他ありません。
しかしそのうえで、マンローの意思をもう少し正確に受け止めてもらいたかったという気持ちもします。
本の題名は「アイヌの伝習」(Ainu:Creed and Cult)と改められました。後から加えた序章「アイヌの過去に関して」と終章「アイヌの現在に関して」の2章もカットされてしまいました。
ブレンダはマンローの19世紀的な大仰さを好まず、テーマの社会的広がりを避けようとしたのだろうと思います。
たしかにマンローの持論というか、一種の「大風呂敷」をあまり好かない人もいたでしょう。でも、そこも含めていかにもマンローだし、北海道の山間の僻地のアイヌに骨を埋めた心意気は、たんなる民族学的興味からは理解できないでしょう。
3.いま一度「先史時代の日本:序説」へ
マンローの日本先史時代の認識は次のようなものでした。
① メソポタミア・エジプトの古代文明が中央アジアの遊牧民へと波及した。
② 中央アジアの遊牧民は、広大なステップ地帯を西はヨーロッパの大西洋岸から、東は遼河・黄河地帯まで移動し、農耕を広げ、武器を広げ、文化を広げた。
③ それが東アジアに、最初は青銅器文化を、ついで鉄器文化を広げた。
④ 日本ではそのころ先住民が北海道から沖縄に至る全土に広がり、大陸とは異なる文化(縄文)を展開した。
⑤ 紀元前数世紀から、まず最初に弥生土器を特徴とする青銅器文化が進出し、ついで、先行する文化を押しのける形で大陸から鉄器文化が流入した。
⑥ 鉄器文化の担い手はやがてヤマト政権を形成し、有史時代へと入っていく。
⑦ 先住民(マンローの言うアイヌ人)は絶滅したのではなく、ヤマト政権により抑圧され、辺縁化し、最後にアイヌ人として生き残った。
彼の持論の中でストーンサークル・支石墓文化論は少々勇み足ですが、その大筋はここ数十年のゲノム研究により確認されています。
明治の末にこれだけの理論を打ち立てた先見性は驚くべきものがあります。
4.ヒューマニスト マンロー
また、医学的言及にも秀でたものがあります。学位論文におけるがんと結核についての社会医学視点、それを説得力あるものとする見事な疫学的推論技術は眼を見張るものがあります。
北海道でのアイヌの実地診療にもとづいた、疾病と公衆衛生についての心のこもった指摘は、当時国内でおいて群を抜いたものでしょう。
「熊祭り」をめぐるバチェラーとの論争ではこう述べています。
バチェラーはアイヌコタンを伝道に歩いているのに、アイヌの精神面について理解しようとしない。
アイヌにはアイヌの信仰がある。一方的なキリスト教のおしつけをせず、アイヌ民族の心を理解すべきだ。
バチェラーはその後みずからの誤りを認め、マンローに詫びを入れています。マンローが尊敬されていたことを示すエピソードです。
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