マンロー伝
第11章 二風谷、アイヌと向き合った12年
1.マンローと北海道
話はさかのぼりますが、マンローがアイヌに実際に接触するようになったのは、随分前のことです。
日本に来てまもなく、マンローは最初の北海道旅行に出ます。35歳のときのことです。このときはバチェラーの案内で白老のアイヌ村落を訪問しています。
マンローがアイヌに本格的な興味をいだいたのは、むしろ日本各地での調査を通じてでした。
三ツ沢遺跡で発掘された古代人骨がアイヌ人のものだと認定されました。
さらに10年ほど下って九州南部の発掘調査で「アイヌ文化」が全国に広がっていたことを知ったマンローは、あらためて深くアイヌのことを考えるようになりました。
2.なぜ二風谷か
セリーグマンが軽井沢を訪問したのが、1929年(昭和4)のことでした。この年マンローは北海道のアイヌ人社会への移住を決意したようです。
後に道庁の職員の谷さんにこう手紙を書いています。
私がアイヌの研究に余生を捧げることにしたきっかけは、来日したセリグマンの勧めによる。二風谷をフィールドとして選んだのは、アイヌ人家族が密集して住んでいるので調査の能率が上がると思ったからだ。それに風景が美しいというのも大きい。それを30年に4ヶ月暮らしてみて実感した。
実は白老という選択肢もあったと思います。最初の北海道旅行(98年)で訪れたのも白老でした。
16年には、家族とともに2ヶ月にわたり白老に滞在しています。このときは木材倉庫を改造して借り、アイヌの無償診察と並行しながら研究をおこないました。
主としてこのときの経験から北海道庁に報告書を提出しています。これは「旧土人に関する調査」という題で発表されました。
報告書はほぼ全てがアルコール問題に関連しています。
アルコールが貧困、濫費、不衛生、疾患をもたらしている。そしてこれに他所から持ち込まれた伝染病(痘瘡、結核、梅毒)が加わる。さらに和人による様々な差別がこれを助長している。したがってアイヌの健康対策としては、禁酒が第一の柱となる。そのためには、まずもってアイヌへの敬意を持つこと、さらに農地の確保と営農援助などの具体的支援をもとめる。
そして、次のように書き添えています。
かつてスコットランド高地人は哀れむべき状態にあった。しかしその後、彼らは英国における第一流の学者を輩出した。種族の間に教育の差はあっても、知能上の差はない。
マンローの面目躍如たるものがあります。
マンローは白老の経験をもとに、診療と調査・研究を組み合わせることの有効性を実感し、その方式を二風谷でも踏襲しました。
白老でのフィールド調査から13年、マンローは今度は日高・釧路地方にアイヌ遺跡調査のため来道しました。
このときアイヌの健康状態が一変していることに驚きます。それは結核の蔓延です。当時二風谷でも結核が猛威をふるい、全数35戸のコタンから年間27体の柩を送り出したと言われます。柩を設えるまでもなくみまかった子供たちを加えると、死者の数はその3倍に達しました。
32年、マンローは道庁あてに提出した開業届にこう書いています。
私が見た病気は、まず結核のあらゆる病型である。消化器疾患は、そのほぼ全てが回虫症である。トラコーマはほとんどのアイヌ人が感染している。膿痂疹や疥癬などの皮膚病は、貧困層では当然のことである。心臓病、気管支炎、ロイマチス、貧血もかなり多い。梅毒の多くは陳旧性であリ、顕性は少ない。精神病・ノイローゼも多く、とくに女子に目立つ。
(私たちはそれから35年後の1966年に、山一つ隔てた穂別町和泉のアイヌで検便を行ったが、学童のほぼ全てが回虫陽性でした)
3.チヨ夫人との二人三脚
この節は私にはトリビアルな話題ですが、読者サービスでいろんなエピソード、それと写真を転載します。
アデル夫人と別居状態になったあと、マンローは軽井沢のサナトリウムの婦長だった木村チヨさんと深い仲になります。
どうもマンローには、母性本能をくすぐるところがあるようです。チヨさんはマンローの二風谷行に同行し、献身的に働きます。そして37年に二人は入籍します。マンロー74歳、チヨ52歳のことです。
33年マンロー邸が完成した頃が、多分一番楽しかった時期ではなかったでしょうか。
白い木造3階建て部分は居室、渡り廊下でつながった平屋は診療室だった。22歳年下のチヨさんが看護師として手助けしました。
「日本語があまりうまくなくてね。奥さんが愛敬のある人で、そばに立って通訳していました」アイヌ民族について教えを乞おうと、マンローはよくエカシ(長老)のもとに出かけていたという。チヨ夫人と仲むつまじく連れ立って歩いていた。(地元民の談話)
クリニックの診療はかなりチヨ夫人に委ねられていました。皮膚病や眼病の治療などはほぼナースの仕事です。マンローは午前中は研究に専念し午後から診療したとのことです。
北大の解剖学教室に研修に来ていたマライーニという若い医師は、次のように書き綴っています。
朝早くからアイヌの病人が五・六人、ときには十人も、邸宅の客まで待ち合わせていた。マンロー邸は、コタンの人々のサロンとなった。男たちは熊や鹿を射止めた手柄話に花を咲かせ、時にはヤイシヤマ(情歌)を歌った。マンローやチヨを巻き込んでウポポを踊った。2人は結婚式や葬式にも招待され、貴重な風習を体験した。マンローは薬草の使い方、毒矢の扱い、鮭漁の方法などを教えてもらい、ノートに書き写した。
4.最晩年のマンロー
このように日本を愛し、アイヌを愛し、アイヌとの生活を愛したマンローでしたが、時局の変化はマンローに酷いものとなりました。
セリグマンの尽力で手に入れたフォード財団の研究費も期限が切れ、安定した収入源は閉ざされました。地元での診療はお金になるどころか、金食い虫となっていきます。
収入を手に入れるため、夏の間は軽井沢の病院に行って、アルバイトして、そのお金で残りの9ヶ月を凌ぐという生活になりました。
1939年になると二風谷から平取にかけて、「マンローはスパイだ」とのデマが流れ始めました。
道で人に行き交うとき、知らない人は自分を見て顔をしかめたり、嘲るようになった。気の毒な病人を往診する以外は全然外出しないようになった。
と、マンローは書いています。
旅行中には憲兵に捕まるという事件も起きました。
マンローとチヨは憲兵に列車から引きずり下ろされた。憲兵は殴る蹴るの暴行を加えた。マンローは「日本人! 国籍日本人!」と叫んだ。チヨは「マンローは軽井沢の病院長で、秩父宮さまのテニスのお相手」と訴えた。これを憲兵が確認したことで2人は釈放された。
76歳となったマンローは、一度は自宅・土地を処分して軽井沢に戻ろうと考えましたが、軽井沢出張中に思い直し、二風谷永住を決意します。永住というのはここで死ぬということです。
41年、体の不調を感じたマンローは、北大で腎臓がんの診断を受けました。秋にはすでに診療困難となり二風谷の自宅で療養を続けることになりました。
その年の12月、太平洋戦争が始まりました。マンローは日本国籍を取得していましたが、敵性外国人とみなされ事実上の自宅幽閉となりました。北大の学生が逮捕された宮沢事件にも関係していたようです。
翌42年4月、癌性腹膜炎が併発し腹水が貯留。さらに腸閉塞を併発し死去しました。チヨ夫人、高畠トク元夫人、マライーニ、福地医師が臨終に立ち会いました。享年79歳でした。
葬儀はバチェラーが平取に建てた聖公会の教会で行われました。遺体は遺言に従い火葬され、二風谷のトイピラの丘に埋葬されました。コタンの人々も長い葬列に続きました。
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