第6章 人類学研究が絶頂に
三ツ沢遺跡の発掘を機に東大解剖学教室の小金井良精との知遇を得たことは、マンローにとって大きな足がかりになりました。
マンローは三ツ沢の人骨を “アイノの頭蓋骨” と予想し、小金井に鑑定を依頼しました。彼は合わせて発掘現場を訪れ発見場所の検分も依頼しました。
小金井はこの人骨をアイヌ人に近縁のものと判断しました。
実は、小金井には大きな声ではいえない実績があったのです。彼はアイヌ人の人骨300体を隈なく調査し、日本人と比較・検討しています。そのおかげでアイヌに関する人類学上の権威になったのです。
人類学雑誌に掲載された小金井の講演(結論部分)
小金井の証言に自信を得たマンローは、雑誌に人骨の発見状況や頭蓋骨の計測所見を掲載しました。そしていくつかの根拠を元に、この人骨がアイヌ人であると断定します。
ただこの断定は危うさを含んでいました。小金井は①どちらかといえばアイヌに近い、②積極的にアイヌと断定することではない といっているに過ぎないので、マンローの主張を完全に裏付けるものではありません。
またアイヌ先住説については、南方x北方の混合種ではないかとの意見も出されました。
現在ではアイヌのみならず沖縄もふくめ、仁保人の体内には縄文人の血が色濃く残っている事がわかっています。
だから一歩立ち止まればよかったのですが、さらに突き出してしまいます。
東京人類学会雑誌に東京人類学会雑誌に「アイヌ模様と石器時代模様」を発表。縄文土器とアイヌ紋様の類似に注目し、アイヌこそ縄文人の子孫なのだと主張しました。
これは印象論であり、議論の質を低めるものです。こういう議論に入ってしまうと、アイヌを犬ころだと思っている大方の日本人には受け入れられなくなってしまいます。だからこそ小金井は慎重に数字でもってモノを言うようにしていたのです。
これを見た学会主流は、マンローをアマチュア学者と断定し、その主張を無視します。いかにもやりそうな、こすっからい手口です。
ついでマンローは、小金井らと川崎の南加瀬貝塚の発掘調査を行います。発掘遺物の層位的分析に基づいて、マンローは弥生・縄文土器の年代評価を提起しました。
当時はまだ縄文も弥生もへったくれもなく、石器時代と一括されていた時代です。その先見性は群を抜いていたと思います。
日本の学界の無理解ぶりに失望したマンローは、考古学研究の成果をまとめ出版しました。
これが『先史時代の日本』(Prehistoric Japan)です。
自費出版されたこの本は、長年にわたり、英語での概説書としては唯一のものでした。
だから外国人は日本の先史時代に関してマンローの本を読んで興味と関心を持ってやってくるのに、日本人の研究者はそのことを知らないという、困った状況が続いたことになります。
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