マンロー関連をこちらに移すことにします。
定期読者には個人的な読書ノートの断片に毎回お付き合いさせるのは申し訳ないので…
とりあえず、本日の記事は、現在進行系の感想です
マンローの「先史時代の日本」は、今見ても素晴らしい本だと思います。そこには日本の考古学会や歴史学会には見られない発想が満載されています。
たしかに今までも薄っすらと感じてはいたのですが、
旧石器時代→縄文時代→弥生時代→古墳時代→奈良時代
という日本史の時代区分がいかに非論理的で、いかに非国際的で、いかに非科学的であるかが、霧が晴れてように見渡せるようになりました。
マンローの見解をざっくりといえば
先史時代イコール非文字時代イコール石器時代
であり、
本史時代イコール文字時代イコール鉄器時代
なのです。
この点から考えれば、日本古代史のうち、奈良時代のみが本史時代でそれまでのすべては先史時代です。
しかし古墳時代は鉄器が流入を開始しており、移行期と言えます。
この移行期をマンローはドルメン時代と呼ぼうとしましたが、これは彼が徹底して道具にこだわって時代区分をしたことから見て、激しく矛盾します。
弥生時代と古墳時代が継起するという論理矛盾に匹敵する混乱です。
私は短縮され、未熟のままに終わった青銅器時代と見るべきだろうと思います。
マンローのもう一つの議論は、人類の発展史はメソポタミアを基準にして図るべきだというものです。世界中で日々発生しているすべての出来事は、グリニッジ時間で記載されなければならないし、人類社会の歴史を語るならキリスト教徒であろうとなかろうとB.CあるいはA.Dで語らなければならない、という主張です。
それがグローバルな科学というものなのでしょう。
「世界四大文明」とか、「中国三千年の歴史」などというけど、結局それは鉄器を生み出す歴史に規定されている限りにおいては、メソポタミア文明の亜流に過ぎない、という強い確信がそこにはあります。
その考えの発展として、アジアにおける西方文明の伝播の形式、担い手などが議論になり、ついで交通の発展による、歴史発展のスキップと変形が議論になります。
それが一つは青銅器時代の短縮と未熟、一つは鉄器所有と非所有による種族間の非対称性、すなわち征服→排除という関係です。
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