マンローが横浜に降り立ち、「日本の人」となったのは、1891年5月12日のことのようです。明治で言えば24年。このときのマンローの年齢は28歳でした。
前の章で書いたように、マンローはインドでの生活を断念し香港に拠点を移したのですが、そのことは香港で生活の資を確保するということでした。
記録によると、彼は1890年に香港の汽船会社ペニンシュラ&オリエンタル社に船医として勤務しています。この会社は香港・横浜間の定期航路をもっていて、2週間に1度行き来していたようです。
マンローはこの航路の船医として何度も横浜を訪れました。その間にインドでの体験をまとめた「精神の物質的基本性質とさらなる進化」という論文集を横浜で発行しています。小生未見ですが、一種の哲学論らしいです。この頃は考古学の道は断念し哲学者への道を模索していたのかもしれません。
香港の生活は1年ほど続きましたが、この間に病気がぶり返し、入院が必要となりました。
このとき馴染みのあった横浜での療養を決意したようです。
横浜に降り立ったマンローはそのまま横浜ゼネラルホスピタル(外国人専用)に入院。ここは外人専用病院で、医師もイギリス人でした。入院は年余に及んだと言います。
ここからマンローの日本での生活が起ち上がっていくのですが、その生活環境はかなり特異なものでした。
病癒えたマンローはそのままゼネラルホスピタルの院長に就任します。これはおそらく看板院長ということでしょう。エジンバラ大学出身ということになれば日本では相当の肩書きです。当時の東大にもエジンバラ大学出身のお抱え学者がたくさんいました。
イギリスの領事館は1874年まで横浜にあり、当時も旧領事館を中心に、貿易関係者からなる一種の外人租界が出来上がっていました。
マンローはこの外人租界の中で外人の患者だけを診療し、英語だけしゃべって生活していました。租界に住む外人女性と結婚し、家庭を築きました。
とはいえ、外国人社会の中にマンローもそれなりに溶け込んで行きます。とくに東大医学部お雇いの医師でゼネラルホスピタルの顧問でもあったベルツとの親交は大きな影響を与えました。
ベルツは趣味の域を越えた人類学の徒で、帰国後はドイツ人類学界の東洋部長まで務めています。一回り上のベルツは、マンローの良き導き手だったのではないでしょうか。
ベルツは趣味の域を越えた人類学の徒で、帰国後はドイツ人類学界の東洋部長まで務めています。一回り上のベルツは、マンローの良き導き手だったのではないでしょうか。
英語ができる日本人たち、たとえば新島襄、内村鑑三、新渡戸稲造などのキリスト教関係者、岩波茂男、土井晩翠などとの交流もあったようです。
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