アバ・デ・ロスサントス
上記文献はオリジナルではなくその要旨である。下記はそのさらなる要約である。
ネットで調べたら、これは平成20年度の北海道大学文学部に提出された博士論文であった。
これが一線級の学者でなく大学院生の博士論文として提出されたものであることにおどろく。このような議論こそ日本の考古学・人類学研究の焦点に据えられるべきではないかと思う。
(現在はスペイン国立セビーリャ大学文献学部所属)
ここでは明治・大正期における「先史」に関する受け止め、「先史」という時代概念の受容過程を考察する。それは考古学史としてあっただけではなく、「先史観」が問われる思想史としてもあった。
ネットで調べたら、これは平成20年度の北海道大学文学部に提出された博士論文であった。
これが一線級の学者でなく大学院生の博士論文として提出されたものであることにおどろく。このような議論こそ日本の考古学・人類学研究の焦点に据えられるべきではないかと思う。
(現在はスペイン国立セビーリャ大学文献学部所属)
ここでは明治・大正期における「先史」に関する受け止め、「先史」という時代概念の受容過程を考察する。それは考古学史としてあっただけではなく、「先史観」が問われる思想史としてもあった。
従来の日本考古学史研究には2つの系譜がある。
① 資料集成や学史上の基礎的事項(発見・発掘調査・先駆的研究など)の整理を行う第一の系譜
② その時期に展開された考古学研究の実践を、社会・政治・経済等との関係において吟味する第二の系譜(より露骨にいえば皇国史観とのせめぎあいー私)
本論では、発見史・思考史・研究法史の三者の相互関係を整理しながらアプローチする「弁証法的学史論」をとる。
特に重要な主題として、時代概念・その形成過程という先史学の流れを「思想史」という観点から検証する。
すなわち、旧石器時代・繩文時代・弥生時代・古墳時代といった現在使用されている時代概念を前提とせず議論したい。(より露骨にいえば批判的再検討ー私)
第一章 モースの時代
1879年(明治12)に、E.S.Morse著『大森介墟古物編』が出版される。
考古学が欧米の考古学にキャッチアップし、集古の学から先史学へと発展する。
当時の日本社会では三時代法における「石器時代」の考えは比較的すんなりと受け入れられた。
それに対して、「先史」という概念、用語が未だ正しく理解なかった。
翻っていえば、有史時代、あるいは歴史という概念は十分に受け止められなかった。
第二章 三宅米吉の時代
1886年(明治19)に三宅米吉『日本史學提要』が出版された。モースの著書に遅れること7年、ともかく日本側に素地が形成されたことを意味する。
これは三宅というよりは当時形成されつつあった日本の学術集団の受け止めを反映したものであった。
三宅は日本歴史を「神代」から語るのはやめた。
しかし「神代」を先史に取り替えるのではなく、「太古」という独自概念を主張した。つまり有史以前ではあるが先史ではないということだ。
第三章 ハ木奘三郎の時代
1902年(明治35)にハ木奘三郎『日本考古學』が出版された。
八木は坪井正五郎の門下であり、それは東大考古学の到達として捉えられる。(そこには坪井の理論のゴタマゼ性と思いつき性、一言で言えば無思想性が顕になっているー私)
① 先史時代(Prehistoric)、原史時代(Protohistoric) 、歴史時代(Historic) の3区分の導入
19世紀後半の欧米考古学の時代区分法の主流。文字資料の出現を基準とする区分法。
(これ自体は、研究の方法論から見て、たいへん正しい分類だ。ただ歴史は生産史、文化史としてだけではなく軍事史としても見なければならないので、これだけでは不足だー私)
② 「古墳時代」という新たな時代概念を導入した。
(最悪の時代概念である。石器時代を即自的な時空間として成立させた。その結果生じた先史時代と原史時代との論理的間隙を生じ、多くの混乱をもたらしたー私)
第四章 マンローの時代
1908年(明治41)に『Prehistoric Japan』が出版された。
この書物は「先史」という思考空間を論じるうえで、欠くことのできない位置を占める。
マンローは先史時代(石器時代)と原史時代(古墳時代)とを結びつけた。
そして弥生文化(青銅器文化)をヤマト文化の初期段階として位置づけた。それらは当時ようやく認識され始めた時代概念である。
(この本は日本の学界からは無視されている。強烈なアンチテーゼだったと想像される)
(この本は日本の学界からは無視されている。強烈なアンチテーゼだったと想像される)
第五章 鳥居龍蔵の時代
1918年、鳥居龍蔵『有史以前乃日本』が刊行された。鳥居はマンローとの「ドルメン論争」を通じて「固有日本人」概念を構築した。(鳥居はマンローの提起を正面から受け止めた唯一の日本人学者だったー私)
鳥居の「固有日本人」は弥生文化を担った人々のことである。これにより日本人(大和民族)にも石器時代があったことが確定され、先史時代が科学的議論の対象とされるようになった。
ということで、肝心のところは省略されているが文章の性格上やむを得ないところである。「固有日本人」説についてはウィキ上で次のように書かれている。(鳥居の論考にはこの頃から“ブレ”が目立つようになるー私)
アイヌ人を除く古代の日本人として、固有日本人、インドネジアン、インドシナ民族が挙げられる。固有日本人とは現代日本人の直接の祖先であり、弥生文化の直接の担い手である。この人々は、石器使用の段階に東北アジアから日本列島に住み着き、金属器使用時代になって再び北方の同族が渡来してきた。
鳥居とマンローとの間には「ドルメン論争」が発生した。これは固有日本人論にとどまらないものがあり、日本の考古学の根幹に関わるいくつかの重要な論点がある。
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