鈴木頌の「なんでも年表」

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安倍頼時の「胡国」探検

2020-08-30 16:26:28 | 日本 蝦夷 アイヌ

大変ありがたい話で、最近は日本書紀も今昔物語もネットで読めてしまう。関係者のご努力に心から感謝する次第です。

というわけで、今回は今昔物語集175「陸奥国の安倍頼時、胡国に行きて空しく返りし語というもの。

今は昔、と始まるが、これでは困る。解説では11世紀なかばと書いてあるから、およそ1050年ころの話だ。

前九年の役と安倍頼時

ウィキでこの頃の日本を見てみると、平安時代の中期から末期にあたる。唐はすでに滅び北宋の時代だが、北方の諸国が勢いを増している。

東北では10年にわたる前九年の役が戦われている。ウィキによるとこの頃、安倍氏は陸奥国の奥六郡をおさめ、半独立的な勢力を形成していた。彼らは「東夷」として蛮族視されていた。

これを快く思わない朝廷は安倍氏の懲罰を試みた。1051年、朝廷軍と安倍頼時は玉造郡鬼切部で戦った。闘いは息子貞任の率いる安倍軍が勝利し、朝廷は頼時に大赦を与えた。

このあと陸奥守となった源頼義は、安倍氏を挑発して戦争を起こした。1056年のことである。翌年安倍氏は主君頼時を失うが、子貞任が黄海の戦で頼義軍を撃破した。頼義は供回り6騎で命からがら逃れたという。

1062年に再び兵を起こした源頼義は、出羽の俘囚清原氏を味方につけ、今度は安倍氏を圧倒した。しかし朝廷は源頼義を快く思わず、清原氏に奥州の支配権を与えた。

安倍頼時と今昔物語

それで、安倍頼時の氏素性は分かった。それで頼時がなぜ今昔物語に登場するのかと言うと…

頼時は頼義に襲われ命を落とすのであるが、その前にかなり長い雌伏の期間をおいたらしい。そしてそのときに胡国に一時避難したようなのだ。

これは多分一つの解釈に過ぎないと思うが、とにかく1050年代に起きた長い戦争の間に、頼時は北海道まで逃れたことがあったということになる。



前置きはこのくらいにして

巻第三十一 第十一 「陸奥国の安倍頼時、胡国に行きて空しく返りし語」

今は昔、陸奥国に安倍頼時と云ふ兵(つはもの)ありけり。

その国の奥に夷(えびす)と云ふものありて、…陸奥守をつとめる源頼義を攻めようとしたり…

安倍頼時、その夷と心を同じくしたとの情報ありたり。

源頼義は、安倍頼時を攻めむとしけり。

頼時はこう言った。

「古より今に至るまで、朝廷のせめを蒙る者その数あったが、未だ朝廷に勝ちたる者一人も無し。然れば、我にあやまり無しと思へども、せめを蒙れば、遁るべき方は無い。

しかし、この地の奥の海北の方に、かすかに見渡さるる地があるなり。

其処(そこ)に渡りて、一帯の状況を見て、良さそうな所ならば、渡り住みなむとおもう。

ここにていたづらに命を落とすよりは、我を去りがたく思はむ人をありったけ集めて、かしこに渡り住みなむ」

そこで頼時は

先づ大きなる船一つを調(ととの)えた。それに乗りて行きける人は、 頼時の他に、子の厨河(くりやがは)の二郎貞任(さだたふ)、鳥海(とりうみ)の三郎宗任(むねたふ)、その外の子ども、亦親しく仕へける郎等二十人ばかりなり。

さらに その従者ども、亦食物などする者、取り合はせて五十人ばかり 一つ船に乗りて、暫く食ふべき白米、酒、菓子(このみ)、魚鳥など皆多く入れしたためて、船を出して渡りけり。

その見渡さるる地に行き着きにけり。

遙かに高き巌の岸にて、上は滋(しげ)き山にて登るべき様も無かりけり。
そこで
山の根に付きてさし廻ると、左右遙かなる芦原にてありける。大きなる河の港を見付ける。

河は底(そこひ)も知らず、深き沼のやうなる河なり。
人や見ゆると見けれども、人も見えざり。遙かなる芦原にて道踏みたる跡も無し。


人気(ひとけ)のする所やあると、河を上(のぼり)つ。なほ人の気はひも無く同じ様なりければ、三十日さし上りにけり。

その時に怪しく地の響きたり。芦原のはるかに高きに船をさし隠して、葦のひまより見つ。

ここで胡国の騎者が登場する。

胡の人、うち続き数も知らず出で来にけり。千騎ばかりはあらむとぞ見えける。
河の端に皆うち立ちて、聞きも知らぬ言葉どもなれば、何事を云ふとも聞こえず。

 

歩(かち)なる者どもをば、馬に乗りたる者どもの傍(そば)にひき付けひき付けつつぞ渡りける。

 

頼時らは考えた


「こんなところまで上るとも、途方も無き所なり。これほど自然(おのづから)事にあひなば極めて益無し。食物の尽きぬ前に、いざ返りなむ」


それよりさし下りて海を渡りて本国に帰りにける。
その後、幾程も経ずして頼時は死にけり。


という物語を、頼時の子の宗任法師が語ったそうだ。

宗任は筑紫に居たそうだから、囚われの身となって流されたのだろう。



どうも流石にそのまま信じる気にもなれない。人跡未踏の果てしなき湿原地帯であれば、到底1千騎の騎馬部隊とその数倍の徒士の集団を養えるはずがない。

北上川は大河であり、これにまさるような河は石狩川しかない。

ありうる想定とすれば、蒙古の大軍が樺太から北海道まで進出し、アイヌと相まみえたということになるが、蒙古側にその文書的情報があるとは聞かない。

緋縅の赤がきわめて鮮烈な名場面である。黒沢明の映画を見るようである。平家物語のように琵琶法師によって歌い継がらたものではないだろうか。

おそらく騎馬部隊の話は宗任法師が子供時代に見た朝廷軍の記憶であろう。北上河畔には広大な湿地帯が広がっていただろう。それは父が殺され、自らも俘囚となる恐ろしい体験だったろう。

ただ宗任は貞任の弟で鬼切部の戦いにも参加したベテランだから、朝廷軍は恐ろしいだけの幼児体験ではない。此のへんはよくわからないところだ。



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