日本の支石墓文化は晩期縄文人がになった
1.渡来民と縄文人を巡る議論
① 弥生文化を担ったのは渡来民であることは、論をまたない。
② しかしその渡来民がいつ、どこから、どのようにやってきたのかについてはまだ定説化はされていない。
③ とくに渡来民と土着の縄文人がどのように混血して日本人の原型を形成したのかについては、いまだに多くの議論がある。
2.支石墓と渡来民
これらの議論をなす上で、鍵概念のひとつとなるのが「支石墓」文化である。
巨石文化の一系としてのドルメンはヨーロッパからアジアにかけての亜寒帯地域に横断的に広がっている。
しかしそれは朝鮮半島の半ばより南には進出していない。朝鮮半島の南西部に見られるものは、長江文明と共通する支石墓であり、ドルメンと一括するにはふさわしくない。
3.日本に支石墓文化をもたらしたのは縄文人
長江文明の特徴である支石墓文化を朝鮮半島に持ち込んだのは長江人と考えられる。類似の墓式が長江流域に存在する。
ただし、支石墓文化を持つ長江人が朝鮮半島南部にわたったのは、大規模水田文化よりずっと前のことなのではないか。
おそらく紀元前10世紀以前に、小規模な植民者が直接黄海をわたって朝鮮半島の南西岸に入っていたのではないだろうか。
彼らはそこで先着していた縄文人と交わり、支石墓文化を伝えた。縄文人は故郷に戻り肥前地方に支石墓を建てた。日本の支石墓は肥前・肥後の狭い地域に集中している。
おそらくそれとともに米作技術も受け継いだに違いない。糸島・唐津には米作跡地と共存する晩期縄文人の遺跡が見られる。ただし肥前の民は漁民・海民としてのスタイルを捨てようとしなかった。
4.渡来人の集団移住は戦国時代?
技術の移動=人の移動ではない。人の移動、とくに人種構成が半分も入れ替わるような大移動には、民族の生死に関わるような強烈なインパクトが伴うはずだ。
日本人の民族的構成を変えるほどに大量の渡来民が移入するには、よほどの事情がなければならない。この議論は日本人論を考える上で決定的に欠けていると思う。
後世になって北方の騎馬民族が侵攻しヤマト王権を打ち立てる。これは征服である。しかし皆殺し作戦でも取らない限り、征服だけでは住民の遺伝学的系列を変えるには至らない。
私は、戦国時代に長江下流から淮河流域に覇を唱えた楚の集団が逐われ、山東半島→京畿道を経て洛東江流域(私の想像では豊葦原瑞穂国)に拠点を形成したのではないかと考える。これが第一の事情である。
彼らはそこで南岸の多島海(私の想像では大八州)に先住する晩期縄文人とおおいに交わった。そして古朝鮮民族の南下に伴い、これを逃れて大量に渡海した。すなわち渡来民が素のままで日本に来て、それから縄文人と交わったのではなく、少なくともかなり大量の混血人が渡海して来たのだと思う。これが第二の事情である。
5.肥前国風土記と縄文
この節は瀬川拓郎「アイヌ学入門」からの受け売りである。
九州北部の中でも肥前地方(佐賀県松浦・呼子、長崎県平戸から五島列島、及び東西の彼杵半島)には縄文時代からの漁民・海民が暮らしていた。
九州北部の中でも肥前地方(佐賀県松浦・呼子、長崎県平戸から五島列島、及び東西の彼杵半島)には縄文時代からの漁民・海民が暮らしていた。
魏志倭人伝に描かれた異人としての「鯨面・文身の民」を指すと思われる。
奈良時代に文章化された「風土記」には、以下のような記述がある。
五島列島の漁民は顔かたちが南九州の隼人に似ている。その言葉は土地の人々の言葉とは異なっている。
竹中(2012)によれば、南九州山間部の古墳時代人骨は、現代九州の西北部、長崎県などと共通する特徴がある。それは古代縄文人の特徴に通じると思われる。
6.晩期縄文人の由来は九州南部
隼人はおそらく熊襲と類似であろう。九州南部に東北とは独立した縄文文化を築いた人々がいた。それは沖縄までを含む海洋民族としての縄文人であった。
南部九州の文化は6500年前の大噴火により消滅したが、生き延びた人々は九州西岸を北上し朝鮮半島まで至ったと思われる。黒潮に逆らって沖縄まで達した人々が朝鮮海峡を渡れないはずはない。
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