第8章 「先史時代の日本」 その2
前回は世界史から見た日本ということで、『序説」の壮大なパースペクティヴを紹介しましたが、今回は日本論に集中します。実はここのところが一番書きづらくて執筆を躊躇していました。
この章では日本に伝来してきた西方文化がどのように日本の先史時代を形成してきたのかについて触れていきます。
といっても先史時代論そのものを展開するわけではありません。マンローの先史時代論がどのような先見性を持っていたのかを明らかにすることが目的です。
マンローには独特の用語があり、それは彼の独特の史観に基づいています。ここでは一般的な用語に置き換えて説明しますが、独特の用語を用いた理由については、必要に応じて説明していきたいと思います。
先史論の基本的な柱は時代区分論と、先史時代をになった人々が誰かという2つの問題に帰すると言えます。
A. 時代区分論
マンローは先史時代を縄文時代と古墳時代とに分けます。これは当時の日本の考古学会の主流だった考えです。
これは天皇制と神話を受け入れざるを得なかった以上仕方がなかったのかもしれません。
そうすると大森貝塚以来、各地で見つかる縄文遺跡はどうも記紀の時代とは結びつかないのです。
そこで縄文時代の文化は一旦絶滅し、その後現代に日本民族の祖先が朝鮮半島から降臨してきたのではないか、という事になっていました。
マンローは古墳時代を鉄器時代ととらえ直すことによりこの分離論に挑みます。そして鉄器時代の前に短いが重要なもう一つの時代、すなわち青銅器の時代があったのではないかと考えたのです。
そして3つの時代は断絶することなく、相互に重なり合って大和王朝の時代へとつながっていったのではないかと考えたのです。
これは当時教科書となっていた、「日本考古学」(八木奘三郎)の水準をはるかに越えたものでした。
現在縄文から有史時代への歴史区分としては弥生時代・古墳時代となっていますが、これをマンロー風に言えば、紀元前7、8世紀から紀元前1世紀くらいの青銅器時代と、その後の鉄器時代になるでしょう。
これは荒いスケッチに過ぎず、とくにヤマト文化との異同は混乱しています。
アバさんはマンローを「伝播主義」と評しています。メソポタミアから青銅器がやってきて鉄器がやってきて、それが波状的に日本に渡来したという考えは、当時は非常にユニークでした。
アバさんはこう書いています。
青銅器の担い手は、鉄器の担い手に先行して列島に進入した。その後に、大陸からの新たな集団の進入によって列島に鉄器が広がった。
鉄器文明の作った古墳からは青銅器は発見されず、多くは土中から発見される。
ここでは青銅器文化が鉄器文化と重なり、鉄器文化の担い手に押しつぶされたことが示唆されています。
B.先史文化の担い手論
マンローの提起は端的に「石器時代の人民はアイヌだった」というものです。
これは日本のアカデミーへの真っ向からの挑戦でした。同時にヨーロッパに広がっていたアイヌ=コーカソイド説にも衝撃を与えるものでした。
もし縄文人がアイヌだとすれば、遺跡分布から見て、アイヌは北海道から沖縄まであまねく広がっていたことになります。
そこに最初は青銅器人、ついで鉄器人が入ってくれば、程度の差こそあれ、それらは混血し、混血しないものは周縁部にし寄せられたという経過が浮かび上がってきます。
ヤマト政権にとって、このような筋書きは悪夢以外の何物でもありません。
ただマンローにははや見え早とちりの癖があり、縄文土器とアイヌ紋様が似ているから、「アイヌこそ縄文人の子孫」だと無茶を言って、これはひんしゅくを買ったようです。
ただマンローにははや見え早とちりの癖があり、縄文土器とアイヌ紋様が似ているから、「アイヌこそ縄文人の子孫」だと無茶を言って、これはひんしゅくを買ったようです。
いかし縄文=アイヌの「極論」は、その後の遺伝子学的な方法で確認されました。アイヌ(とくに男性)は縄文人の血統を強く残す種族であることがあらゆる方法で確認されています。
縄文人が生活する日本列島に最初は青銅器人が入ってきて、西日本では縄文人と混血しました。これが日本人の原基となります。
ついで比較的短期の間に鉄器文化を担う人が入ってきて、現日本人を征服する形で諸国家を形成したという経過です。
まことに素晴らしい先見性ではないでしょうか。
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