第10章 そして二風谷へ
1.生活基盤が崩れる
このあたり私生活上はいろいろと事件が相次ぎました。それは1923年(大正12)になって一気に生活の破綻をもたらしました。モンロー60歳のことです。
8月はじめに義父の貿易商ファブルブラントが突然死しました。その3週間後に関東大震災が発生しました。横浜の自宅は全焼し、発掘資料や機材などは全滅してしまいました。図書3千冊、原稿・写真なども灰燼に帰しました。
翌年に入ると、当主を失い震災で甚大な被害を出したファヴルブラント家は破産してしまいました。
ファブルブランド社の発行した絵葉書
ファブルブランド社はスイス時計の輸入販売を主力としていました。妻の実家の財力をあてにしていたマンローは窮地に陥りました。医師としての名声はすでに赫々たるものがありましたが、もともと財布の底は抜けている人です。
貧乏とマンロー独特の生活スタイルに悩んだ妻アデルはヒステリー状態になりました。マンローは、ウィーンのフロイトあてに妻を紹介し、送り出しました。結果的にはそのまま離婚へとつながっていったのですが、紹介先が天下のフロイトですから、たんなる厄介払いとは思えません。
2.敬遠されたマンロー史学
私生活上の問題もさることながら、日本の関連学会からのネグレクトがかなり応えた可能性もあると思います。
三ツ沢遺跡の発掘からアイヌ先住説を唱えたマンローは、アイヌ人が日本列島にあまねく先住していた、すなわち今で言う「縄文人」説に至りました。
さらに先住民が絶滅したあとに大陸から大和人が渡ってきたのではなく、両者は併存し、あるいは融合しあるいは排除されたのだと主張しました。とくに風土記などに登場する土蜘蛛に注目し、これが辺縁化する縄文人だと唱えています。
さらにマンローは、後続民族が青銅器と弥生土器(中間土器)を使用する弥生人と、鉄器を使用するヤマト民族に分けるられるのではないかと示唆しています。
さらにマンローは、後続民族が青銅器と弥生土器(中間土器)を使用する弥生人と、鉄器を使用するヤマト民族に分けるられるのではないかと示唆しています。
これらが日本の学会主流に受け入れられなかったのは、日露戦争のあと俄然盛り上がった皇国史観の影響が大きいと思います。
多くの学者がビビって忖度しました。世は、津田左右吉が「凶悪思想家」と非難された時代だったのです。万世一系の教義に真っ向から対立するアイヌ先住民説、ヤマト政権=征服王朝説は表立って主張できるようなものではありません。マンローは英語で書いていたから、あまりお咎めを受けなかったのかもしれません。
3.窮地を救ったセリグマン
孤立すれば、意固地になる。マンローの所説が若干主観的となったのはやむを得ないところでしょう。
たとえば支石墓を巡るマンローの主張は、やはり勇み足だったと思います。
公私ともに窮地にあったマンローを救ったのが、故国のロンドン大学の人類学教授セリグマンでした。
マンローの読者は圧倒的に英国人でした。有名な科学誌「ネイチャー」にも彼の研究動向が掲載されています。
中でもセリグマンは熱心な支持者で、訪日時にわざわざ軽井沢のサナトリウムまで来て、マンローの仕事を称賛しました。
同時にセリーグマンは、マンローの論文に起源や解釈を偏重する傾向があることも指摘しました。そして得られた結論を性急に一般化することなく、まずは正確な事実の記述を行うよう助言しました。
よほどこの言葉が嬉しかったのでしょう。マンローはそれから死ぬまでの20年近く実事求是の態度を守り続けました。
セリグマンは言葉で励ましただけではありません。ロックフェラー財団にマンローの研究を推薦。翌年には財団から150ポンドの研究費が与えられました。
後年セリグマンの奥さん(同じく人類学者)が監修した「アイヌの伝習」は淡々と事実が積み上げられているようですが、ぜひ「先史時代の日本」を下敷きとして読んでもらいたいと思います。
こうして、60を過ぎたマンローは、都会や外人社会での生活と決別し、アイヌの現地研究に余生を捧げることになったのです。
4.なぜ最期の地が北海道なのか
変な質問ですが、なぜマンローはアイヌ研究のために北海道に来たのでしょう。
というのは、マンローにとってアイヌとはまず縄文人だったはずです。そして縄文人の生き残りがアイヌ人として北海道に生き残っているという理解です。
その限りにおいて、マンローは来日後まもなく北海道への旅行を繰り返すようになります。
しかしそれは先史時代の日本の研究の一環なのです。アイヌの姿の中にはるか昔の縄文の面影を探し求める旅なのです。
この点がアイヌ人保護に尽力した英国人宣教師バチェラーとの違いでした。
バチェラーは当時一般的だったアイヌ人コーカソイド説に従って、日本人とはまったく異なる印欧系種族の末裔と考えていました。
マンローは奉仕や保護に来たのではありません。調査し、研究し、そのことで日本を学ぶために、北海道に居を構えたのです。
これが、逆境の中にあってもたじろがず、生涯にわたってアイヌの地に踏みとどまった理由なのではないでしょうか。
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