後水尾天皇の皇女・皇子が四代渡り天皇に就いていた時代が終わり
後水尾の孫にあたる天皇が登場してくる、息子の・霊元天皇の・・
第四皇子として延宝3年〈1675〉に生誕されている
幼名を五宮、諱を朝仁と云い、天和二年〈1682〉親王宣下を受け、
翌三年に立太子、貞享四年〈1687〉霊元天皇の譲位にともなって即位された
この天皇さん中々の人物で、朝廷側の古儀復活を実行に移した天皇です
南北朝時代以来、三百年跡絶えていた、立太子式を行い、皇太子を経て即位し、
即位にあたっては、大嘗祭〈だいじょうさい〉を復活させている
残念ながら、三十代半ばと云う、志半ばにしての崩御だったので、
祖父・後水尾天皇や、父・霊元天皇ほどの強い個性は発揮できませんでした
おまけに・・・父・霊元天皇よりも先に崩御しているのです
さて、在位中の事件として、あの有名な忠臣蔵事件があります。
その切っ掛けとは・・江戸城松の廊下での刃傷事件でした
浅野内匠頭の吉良上野介への刃傷事件、実は東山天皇が関わっている
この刃傷事件は東山天皇が派遣した江戸幕府への勅使接待での、トラブルが原因
さぞかし、天皇も浅野内匠頭の所行に怒りを覚えていた・・と思いきや
実は全くの逆で、天皇は上野介が斬られたと聞くや大喜びし、
浅野内匠頭を見殺しにしたとして、勅使を参内禁止の処分にしています
これには深い理由があったのです・・・赤穂城の築城の際に、
天守建造を見送ってまで、御所修築に尽力した浅野家に対し、
後西天皇の譲位などで幕府側として朝廷に圧力をかけてきた・・
吉良上野介への、反発があったものとされています
また、徳川家康の側室で、御三家の紀州藩祖頼信、水戸藩祖頼房の実母
お万の方が深く帰依した、日蓮宗の日近上人を崇敬し、
上人が開祖となった駿河の龍華寺に行幸し、朝廷の祈願所としました
最後は、第五皇子〈中御門天皇〉に譲位したその年に疱瘡が原因で崩御された
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