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千利休切腹の背景 伊達政宗と徳川家康

2021-02-24 23:52:23 | すずめ踊り

千利休切腹の背景 伊達政宗と徳川家康

前田秀一 プロフィール

 

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 町人の娯楽や情報交換の手段としてたしなまれていた「茶湯」は十六世紀後半に至って新しい展開を始めた。
 足利将軍家(~1573年)では儀礼として用いられていた「茶湯」は、織田信長(~1582年)によって「御茶湯御政道」として政治の道具とされ、後を継いだ豊臣秀吉(~1598年)は千利休を指南役として「御茶湯御政道」の政治的、経済的活用を継続し、さらに千利休の大成により「茶湯」に文化的価値を加えた。
 織田信長の後継争いに勝った豊臣秀吉は、信長の遺志をついで天下統一を目標に掲げ、四国、九州、関東、東北へと兵を進め、その先に「朝鮮出兵」を見据えた。
 奥羽仕置の結果、天正19年(1591)2月4日伊達政宗が上洛し臣従したことにより、豊臣秀吉は名実ともに天下統一を成し遂げることになった。
 反面、これを機会にあたかもご用済みにでもなったかのように、千利休は蟄居の身となり豊臣秀吉から切腹を命じられ辞世に無念を託してこの世を去った。

 千利休の死に関して「茶湯」論に関するものが多いが、その背景を補う「政治的謀殺」論の展開も少なくない。
 カナダ在住のオルガ・ポホリレス氏が『野村美術館研究紀要 第4号』、1頁〔(財)野村文華財団、1995年〕に「千利休の政治的側面」について総論を寄稿している。日本文化の規範に関わる人物について外国人の目からどのように見えたのか大変興味があった。
 文献情報検索の結果、ごく最近(平成26年3月17日)福井幸男氏が大変興味ある研究論文「千利休切腹の原因およびその後の千利休の死をめぐる言説に関する研究」を桃山学院大学文学研究科に学位論文として提出し、審査の結果、博士(文学)号を授与されていたことが分った。
 近世初頭、堺と仙台両市の象徴的な人物・千利休と伊達政宗が徳川家康を含めて深い関係にあったという事実に奇しき縁を感じた。

 

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 平成17年(2005)以来、堺にゆかりの深い“すずめ踊り”を絆として堺と仙台の市民交流活動に取り組み、今年〔平成26年(2014)〕で10年目を迎えることになった。

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 慶長5年(1600)、徳川家康の許可を得て伊達政宗が仙台城築城に取り組んだ。その際、かねて懇意にしていた堺の茶人で商人・今井宗薫が相談に乗り石垣の築造に堺の石工衆を派遣した。
 慶長8年(1603)、新城移徒式の宴席で、招かれた石工衆がお祝いに即興的に飛んだり跳ねたりして踊りを披露した。その踊りが、えさをついばむすずめのようであったことから、伊達家の家紋(「竹に雀」)に因んで“すずめ踊り”と名付けられたと伝わっている。
 その伝説を絆として、「人が輝き、地域を元気に!」を合言葉に堺と仙台両政令都市の市民交流活動が始まった。
 この伝説のダイナミズムの根源として、中近世の象徴的な人物・千利休と伊達政宗、両者を取り巻く徳川家康の奇縁を探ってみた。

拡大版は こちらから

 オルガ・ポホリレス氏は、利休の切腹原因に触れた論説を以下のように大別している。
   ・中央集権派(石田三成ほか)が地方分権派(徳川家康ほか)への見せしめの政治的策謀
      朝尾直弘1963「豊臣政権論」『日本歴史9 近世1』岩波講座
      村井康彦1977『千利休』NHKブックス
   ・「身分法令」に抵触し身分を逸脱した商人上がりの御茶頭の抹殺
      芳賀幸四郎1963『千利休』吉川弘文館
      唐木順三1963『千利休』筑摩叢書
      桑田忠親1981『千利休-その生涯と芸術的業績』中央公論社

 朝尾直弘氏は、「利休の死は豊臣政権内部で行われた苛烈な権力闘争の結果もたらされたもので、利休の政治的な役割の側面、特に硬軟拮抗していた東国征伐において政治的な役割を果たしていた利休を勢力の増大した石田三成派が仕組んだ謀殺であった」と説きポホリレス氏は支持した。

 村井康彦氏の論は、「問題とされた大徳寺三門は利休が茶器の不正な鑑定によって得た富で造営したのだと何者にか纔言され」「利休が茶器の鑑定や売買において不正を働いたという点で罪状の第2に挙げられた。」

  

 「しかし、おおよそ天正十四,五年をさかいとして利休の好みと世間一般の嗜好とは明らかに乖離し始めており、たびたび引き合いに出すが、例の黒茶碗の話に示されるように、そうした傾向に対して利休自身は激しい抵抗を試みていた。これ以後の利休は、頑迷になることが自己主張であり、それがおのれの美意識を表明することでもあった。その美意識の断絶が、新義の道具を構えること、すなわち世間の目にはよくないものをいいようにいう、不正と思われるおそれは十二分にあったし、ある場合にはそれを承知で敢えてしていた。ここに至れば利休の「敵」はひとり秀吉に限るものではなく、世間一般であったとすらいえた。 
  不正は利休にとっては世間に対する挑戦であった。その意味で、利休賜死は直接的には三成派による政治的謀殺と考えるが、しかしその観点からだけでは処刑は秀吉側近(一派)の推進するところとなって、肝心の秀吉の意思が宙に浮いてしまうのではないか。仮に側近によるお膳立てであったとしても、最終的には秀吉が同意している以上、右の罪状は秀吉を納得せしめたものであったはずである。この茶器鑑定をめぐる問題は口実にすぎないだろうが、しかし決して虚構されたものとか、賜死の理由として不十分といった軽々な罪状ではなかった。」

 村井康彦氏から大徳寺三門木像問題を表面化させた考証者として名前を挙げられた桑田忠親氏は、「新進歴史学者の異説」(恐らく朝尾直彦氏、村井康彦氏と思われる)に対して以下反論した。
 「利休を地方分権派の荷担者とみなし、伊達政宗謀反の嫌疑を、家康の仲裁で秀吉が赦免し、地方分権派の勝利となったので、それを根に持った石田三成らの中央集権派の人々が、その報復として利休をやり玉に挙げたというのは、どう考えても変である。」
 「利休が好意をもっていたのは、当時、会津の黒川(若松)城に封ぜられていた蒲生氏郷の方である。氏郷は、利休の茶湯の愛弟子(利休七哲の高弟)でもあった。だから、その氏郷が政宗の策謀にかかって苦戦しているのをはなはだ心配しているわけだ。つまり、利休は政宗のことを憎んでいたのである。だから3月になって秀吉が奥州へ出馬し、政宗を討ち、氏郷の危急を救うことを、内心、期待していたに相違ない。ところが、秀吉会津出馬の噂を聞いた政宗は、周章狼狽し、早速、死装束に身をやつして西上し、2月4日に上洛し、罪科を秀吉に詫び、赦免を請うた。秀吉はまたもや政宗の猿芝居にたぶらかされ、奥州再征を中止した。」「利休処罰の動機は、秀吉の東国経営方針などとは無関係であろう。」
 「利休が処罰された原因と動機は、・・・秀吉が天下平定後、日本の国内に封建的な社会秩序を建設するに当たって最も目ざわりだったのは、大名を大名とも、武士を武士とも思わない不敵な堺町人であり、・・・頭の高い、知行三千石取の御茶頭、いや天下一の茶湯の名人千利休であった。」「利休を擁護していた一派の勢力が、豊臣秀長の病気によって弱体化したのに乗じ、前田玄以や木下祐慶ら反体制派の人々が利休の失脚を推進させた。」「反利休派の人々の意見も入れて、もっともらしい罪状として取り上げたのが、大徳寺木像安置の一件と茶道具目利き売買不正の一件であった」

 

   福井幸男氏は、千利休切腹の原因に関する「諸説」を批判的に検討し、「史料記述」および切腹における「特異性」の分析・検討を踏まえて新たな視点・角度から千利休切腹の真相を究明した。
 その結果、主たる罪状は大徳寺三門木像安置と茶湯道具目利き不正売買に集約されたが、この点については「処断当局者による公示罪状である」ということに注意を促している。
木像安置が首罪であると当時の人たちが思ったのは、切腹前に利休の木像を一條戻橋で磔にし、高札で罪状を事前に公示していることや、切腹後にその木像の足で踏ませた形で利休の首を獄門に懸けるなど周囲に対して見せしめとする視覚効果を狙ったと考察した。

 

 一方、首罪の大徳寺三門木像安置に関しては、鎌倉幕府法および分国法の規定や天正17年当時の京都が大坂と並ぶ最重要直轄領として厳重管理されていたこと、さらに江戸期に徳川宗家の菩提寺・知恩院の三門楼上に造営した棟梁・五味金右衛門夫妻の木像が安置されていることを事例に挙げ、木像の落慶法要から問題化されるまでの1年2ヶ月もの長い期間の後であったことを考えると、当初特に問題視されていなかったことを、単に利休処罰のための口実としてでっち上げたにほかならないと考察した。
    
 これらの考察から、「処断当局者による前代未聞の木像磔や切腹にもかかわらず獄門、しかも木像の足で踏みつけると言う特異性は、武門として密かに一目置いている徳川家康に対する官位による威圧と結論付けた。」
 さらに、「切腹直前の利休屋敷の厳重警固(上杉景勝率いる三千人の兵動員)は、側近官僚に捏造された「反朝鮮出兵密談」に利休が一枚噛んでいるという疑いに対する警告および政宗上洛直後、利休は家康、政宗らと妙覚寺で茶会に臨んでおり、万一不穏な動きがあれば断固処断するという警鐘メッセージとして秀吉が利休に切腹を命じた家康へ見せしめの措置であった」と考察した。

  

 千利休像(大仙公園)     臨済宗大徳寺派南宗寺禅堂鬼瓦      伊達政宗像(仙台青葉城跡)

 茶の湯を通して「内々の儀」に深く関わりどの大名や武将よりも剛気に直言し失言など恐れない千利休は、伊達政宗の臣従で東国も手の内に治め、ついに天下人となった関白秀吉にとってもはや疎ましい存在になってきた。
 むしろ、天下統一を果たした関白秀吉は、待望の世継ぎ鶴松の将来のため、豊臣家の態勢固めを念頭に利休に代わって身近に石田三成ら権力派を重用し、さらに朝鮮出兵をまじめに考える今となっては、利休は無用の長物とさえ考えるようになってきた。
 秀吉の参謀として態勢を固めた中央集権派は、武門として一目置く徳川家康への牽制も兼ねて、最大の擁護者・豊臣秀長が亡くなったこの機会に千利休を政治的に謀殺する計画を隠密に進め、口実として大徳寺三門利休木像安置を不敬罪とし、茶湯道具目利き不正売買の風評をでっち上げ、三千石の知行に処せられた身分を建前として利休の切腹を秀吉に進言した。
 その首謀者が石田三成であったことを浮かび上がらせた。

<引用文献>
1)オルガ・ポホリレス1995「千利休の政治的側面」『野村美術館研究紀要 第4号』 (財)野村文華財団 p.1
2)寺本伸明、梅山秀幸、布引敏雄2014年3月17日 
  「博士論文の要旨および博士論文審査結果の要旨」桃山学院大学文学部
     福井幸男 「千利休切腹の原因およびその後の千利休の死を巡る言説に関する研究」 
3)福井幸男2011「千利休切腹の原因および原因に関する一考察」
            『人間科学 第40号』 桃山学院大学綜合研究所、1頁 2011年3月
4)千 宗室監修2008「利休宗易年譜」『裏千家今日庵歴代第1巻 利休宗易』淡交社 p.138
5)仙台市史編さん委員会編2006『仙台市史 特別編7』仙台市 244頁

 

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