『文鮮明先生御言葉選集 3 - 12. 真の道を知り、偽ものを見極めよう 』(1957年11月1日)
1957年11月1日(金曜日)、全本部教会
聖書拝読:
創世記4:1-8、マタイによる福音書13:24-31、ヨハネによる福音書10:1-6
<祈祷>
危うい地上で不足する私たちを見つけ出し、心配や悩みから守ってくださったお父様! 私たちは自ら父の前に正しく立ち、お父様の涙を受け止め、お父様の優しい心情を心と身体で感じられるように許してください。
また、そのような心があるならば、この時を見つけてください。そして、お父様が成そうとされる御業の意志を彼らと共に協議し、終わりの暗闇と死の波がこの時代を襲うであろうとしても、それを見分け越える能力を持つあなたの知恵と力を持たせてください、愛するお父様、切に願います。
罪に埋もれて生きる人間であるが故に、すべてを自己中心に考えることが容易であり、意図しない意図を立て、それが意図であるかのように動き出すことが容易な私たちであると知っています。お父様、そうした私たちを完全に目覚めさせてください。
こうして完全な自己の中心を立て、お父様の永遠の命の道に進むことができるように許してください。唯一、お父様の望まれる御心のためにすべてを排除し、サタンと闘い抜くことができる子どもたちとなるように許してください、愛するお父様、切に願います。
私たちはまだ無知な人々を導くことができる命の基準がどこにあるかを知らずにおり、ただ自分自身のために心配し、祈ったことが多いと思っています。お父様、こうした私たちを目覚めさせてください。私たちの正しい心と身体が原理法度に従って、最後の勝利の地点まで進むことができるように導いてください、お父様、切に願います。
この時もサタンはお父様が私たちに与えようとしている恵みを阻むためにあらゆる策略と陥穽(かんせい)で混乱させていると知っています。お父様、そうしたすべてを打ち破り、サタンと闘い抜くことができる私たちを導いてください。そして、勝利の狭い門の内側で父と緊密なつながりを持ちながら進んでいけるお父様の子として許してください、愛するお父様、切に願います。
また、今日終わりを迎えるべき私たちに、すべてを見極める新たな眼差しを与えてください。また、私たち自身を中心に据えた周囲のすべてが、自らの試練の対象であることを知らせてください。
さらに、それらがサタン的な要素にならないように許してください。私たち自身がそれらを踏み越え、お父様の栄光を示すに足ることができるように、お父様、私たちを導き、保護してください、切にお願いいたします。
この時、地方に広がり、お父様の前で祈っている家族が多いことを知っています。彼らがどのような状況や環境に置かれているかに関わらず、お父様が直接保護してくださいますように。
こうして、終わりに委ねられた神聖な使命を果たし、他者に残ることができる姿となれるように許してください、愛するお父様、切に願います。
お父様の栄光を示す勝利の日を築くために、新たな覚悟と決意を持ち、サタンに立ち向かう力と能力を心と身体に備えることができるように、この時を許してください。また、お父様の無限の愛の手がこの地上の万民、この国の三千万人の民族に現れることを切に望みながら、すべての言葉を主の名によってお祈り致します。アーメン。
<御言葉>
今日皆さんに贈る言葉のタイトルは『真の道を知り、偽ものを見極めよう』です。
現代の多くの人々は、真偽を見分けられずに混沌の中で生きています。この時間を通じて、この聖書の文章を通して真実とは何か、偽りとは何かを見極めたいと思います。
人類の堕落によって、天の嘆きは何千年もの歴史の中で人々に向けられてきました。また、現世の人類にも天の嘆きが向けられていると同時に、私たちの子孫についても天が嘆きをもっています。
また、人間に授けられた万物にも天の嘆きがあることを知っています。人間が天の摂理を背いて進んだ道が、現代の終末時代のすべての事態の悲しみと嘆きとなったことをよく知っています。では、そのような嘆きを取り除くために人間はどうすればよいのでしょうか?また、どのような姿勢を持たなければならないのでしょうか?これが今日の皆さんが知るべき重大な問題です。
では、今、皆さんはどのような頂を越えなければならないでしょうか?皆さんは万物の嘆きの頂を越えなければなりませんし、残された人類の嘆きの頂を越えなければなりません。そして、残された天の嘆きの頂を越えなければなりません。言い換えれば、今日の皆さんは、これまでの6000年の歴史を通じて、数多くの人類に向けられた天の嘆きを解消し、また、その人類の嘆きを癒し、創世以来持ち出された万物の嘆きを解消しなければならないということです。
皆さんは救済還元原理を学んでいるため、救済条件というものを知っているでしょう。個人が一つの救済条件を設けることは、その一因に留まるだけでなく、創世以来現在まで内的に存在する神の嘆き、イエスと聖霊の嘆き、霊界にいる千万の聖人と天使の嘆き、または地獄にいる諸霊の嘆きまでも解消する救済条件とならなければなりません。それだけでなく、その救済条件は現在この地上に生きている全人類の嘆きまでも解消する救済条件とならなければなりません。これを皆さんは確実に知っておかなければなりません。
また、今日の皆さんは、自らを超えて創世以来の無数の嘆きの頂を越え、終末の最後の審判台に向かって歩まなければならない立場にあることを忘れてはなりません。
では、今皆さんは宇宙的な嘆きの頂を越えて命の道に向かうか、それともその頂を越えられずに死の道に向かうか、このような岐路に立たされています。そのため、今日皆さんはその生死の岐路に立ち、どのようにしてその頂を越えるか、どのようにしてサタンと戦い、どのようにしてその頂を越えて天の栄光を示すかを考えなければなりません。
もしもそのような考えを持って生きる人がいるなら、彼の生活は重大なものになるでしょう。彼の視線は自己を超えて天の摂理を見つめる必要があり、彼の感情は罪悪の現実ではなく、この世界を憂いながらも神の真実な愛を感じる必要があります。そして彼の行動は自己のための行動ではなく、万物の嘆きを癒す行動とならなければなりません。
誰でも、そのような重大な立場から天と地と人間の代わりに歴史的なため息の崖を超えるための生活を送れば、その生活は語り尽くせない驚異的な生活となり、語り尽くせない生命力を発揮する生活となるでしょう。他人がどうであれ、自分の心を守りながら、厳しい困難や逆境、ため息の崖を乗り越え、サタンと戦わなければなりません。
ですから、今日の皆さんも、それぞれに与えられたため息の崖を越える責任が自分にあることを認識し、立っている足場、持っている精神、見つめる希望と向かう標準がそれぞれどこを向いているかを常に忘れず、反省する人になるべきです。もしそれを忘れてしまえば、忘れるその日がちょうど神の悲しみの日となり、忘れるその時がちょうど人間と万物が皆さん一人一人を通じて持っていた無限の希望と期待が一瞬にして消え去り、再びため息の崖に戻る悲しみの時間となるでしょう。この事実を今日の皆さんは自分の身体と心ではっきり感じなければなりません。
では、今日の皆さんはどのような崖を超えるべきでしょうか?皆さんはまず、歴史的なため息の崖を超えなければなりません。その次に、皆さんの前後左右に見えない恐怖の力であるサタンたちを打ち負かさなければなりません。
もし皆さんが歴史的なため息の崖を踏み越えようとすると、そこからはんぱないサタンの力から派生する恐怖の力にぶつかると、皆さん自身の進む道を向かうことができず、横道に向かわざるを得なくなります。
ですから、今日の皆さんはその道を越えるために、皆さん一人一人の心が捧げられることさえあれば、全宇宙が皆さん一人一人をため息の条件とすることさえあれば、皆さんは命を捧げてその道を越えるためにサタンと戦わなければなりません。
そのような皆さんがサタンと戦わなければ、皆さんは自らも知らずに堕落したアダムと共に行かざるを得なくなり、また神の意志に反して天倫を背くカインの後を追うしかないことを念頭に置かなければなりません。
今の時は皆さん一人一人が立って全宇宙のため息をため息の帰還に戻さなければならない時ですから、今日の皆さんには友が一人もいません。また今の時はアダムが堕落する直前に神が直接介入できなかった立場と同じようなそのような時ですから、神が堕落した人間自ら新しい帰還の過程に入って、今までのすべてのため息の歴史を踏み越えさせるために皆さんの仕事に直接介入されないことです。
ですから、今日の皆さんの周りで見られるさまざまな現象は、これまでのすべてのため息の条件を開拓するために現れるものであり、見える事実があるとすれば、それは皆さんにため息の崖を自ら超えさせるための、つまりため息の崖を帰還させる事実であるということです。
では、今日の皆さんが天地のすべてに対して溢れるため息を取り除くために、どのようにすればよいでしょうか?皆さんが天地のため息を解放しようとすると、まずすべての存在が皆さんを攻撃しようとするでしょう。その時には、そこに受けて倒れることがあるとしても、死を覚悟して進んでいかなければなりません。今日の皆さんが進む道には、必ず物質的な苦痛が伴うでしょうし、またその物質が皆さんを攻撃し、万民が皆さんを攻撃するときがあるのです。
イエス・キリストが人類のためにこの地上で帰還的な条件を設けるために現れたときも、万民や万物がイエス・キリストを攻撃しました。私たちがこれを振り返るとき、皆さんが進む道でも人間や万物が皆さんを攻撃するということがわかります。
また、皆さんが進む道において、神が皆さんを攻撃する時、そのことに絶望して天を恨む人になるとすれば、終末の審判の関門を通過することはできません。
ですからキリスト教では、すべてを捨てるように言いました。肉体的なすべてを犠牲にするように言いました。自分の内にある人間的なすべてを軽視するようにというのです。その時、人間はようやく良い存在となり、父の栄光を心行くまで享受することができ、父の愛の領域に無限に吸収されて入ることができるのです。そのような人になれない場合、彼は人間の骨の中にこれまでため息の要素が沈殿したままになってしまうのです。
では、そのため息の要素はどのような歴史的な過程を経てきたのでしょうか?アダムとイヴの堕落以降、6000年の歴史的な過程を経て、そのため息の要素がサタンに導かれてきたのです。皆さんはこれを理解しなければならず、またそのため息の要素を皆さんの子孫に引き継ぐかもしれない危うい瞬間に直面していることを理解しなければなりません。
ですから今、皆さんは自分のすべてを捨てることができる人にならなければなりません。自分自身を天の前に屈服させ、従わせ、誰よりも早く天を代表してサタンの矢を受ける覚悟ができる人にならなければなりません。サタンとの戦いにおいて誰よりも早く立ち上がる人にならなければなりません。また人間に対しても同様であり、神の意志に対してもそうであり、物質に対しても誰よりも早く自己を犠牲にすると公言する人にならなければなりません。このような人にならなければ、終末の最後の審判を免れることはできないことを皆さんは確実に理解しなければなりません。
聖書の歴史を時代的に区別してみると、旧約時代は象徴の犠牲の時代であり、次に実際の犠牲の時代であり、その次には心の犠牲の時代であることがわかります。また、これを結論付けると、神・人間・万物が存在するが、これらを一度に帰還させることはできないため、これまでの6000年間のすべての内容が今日の終末の世界に現れていることがわかります。
つまり、神が6000年間持っていたため息の内容が今日この地上の全ての人類の前に現れているということです。したがって、このような時代に生きる人々は、誰も安らぐことができず、誰もため息の波に巻き込まれないことはできないということです。
では、このような時代に生きる今日の皆さんはどうすればよいのでしょうか?皆さんはすべてのことで失敗してはならず、時代や場所を超えてサタンの誹謗にかからないように努めなければなりません。そして、皆さんはこれまで自分自身をかけて6000年のため息の歴史が押し寄せてきたことから、その6000年の大洪水の波が皆さんの進む道に横たわっていることを理解しなければなりません。
皆さんがその洪水の波に巻き込まれないためには、この地上のことに執着してもがき苦しむ人になってはいけません。言い換えれば、自分自身に縛られて神の計画に目がくらんだ人になってはいけないということです。
では、皆さんがそのような歴史的なため息の崖を越えた後はどうすればよいのでしょうか?これまでガイン的な使命分野を担ってきた皆さんは、アベルとして現れる神の子女を奉仕し、彼を代わりに奉仕し、自分に残っている堕落的なすべてのため息の要素を排除して唯一神の御心に従う人にならなければなりません。
そして、皆さんは周囲の10人と向き合うとき、その10人が自分を完全な人間にするために自分を性格づけし、自分のため息の条件を取り除く人々として感じ、そうして扱うことができる人にならなければなりません。つまり、皆さん一人を完成させるために周囲に数多くの人々が存在していることです。彼らは誰のために、またはどのような意図で動いているかと言えば、皆さん一人を完全な人間にするために動いているということです。
また、皆さんはガインとアベルが共に神に犠牲をささげたとき、アベルの犠牲を受け入れた神の立場と、ガインの犠牲を受け入れなかった神の立場が相違しているように見えるかもしれませんが、そうではありません。ガインに天の立場を代弁していたアベルを通じて少しでも心があった場合、神はそのガインの犠牲を受け入れていただろうということです。神は時間的な差異はあったかもしれませんが、公正な立場から彼らを扱おうとしたということです。
では、皆さんが今や神の前で宇宙的なため息の崖を超え、神が喜び、喜ぶことのできる唯一の犠牲として現れたいと思うならば、皆さんはどうすればよいでしょうか?宇宙万物を帰還させるためのアベル的な祭壇を築き、アベル的な犠牲として羊を捧げるのではなく、皆さん一人の生命の実体を捧げることができるべきです。
昔のアベルが天の使命を受けて負担せず、血を流して神の計画を挫折させたことと同様に、今日の皆さんもそうではならないはずです。皆さんの周りに現れるすべての事実は、自分自身を完成させるために現れるという心を持ち、どのような人がどのような不正な環境に自分を追いやろうとも、天の道に背いてはならないという堅固な信念を持たなければなりません。そして、皆さんが周囲の環境のすべてを忘れ、ただ父の栄光を示すために死を覚悟して前進できる人になるべきです。
ケインとアベルが犠牲を捧げた後、アベルの犠牲だけが神に受け入れられたことをアベルがケインを憎んで打ち殺したが、ケインがアベルを憎んでいたときから、皆さんは理解する必要があります。ケインは神が自分の犠牲を受け入れないので、一瞬のうちにアベルに対する憎しみが生まれ、彼を殴ったのではなく、その出来事にぶつかる前からアベルを憎み、殺したいと思っていたのです。
そのような堕落的な血統を受け継いだ今日の皆さんが宇宙的なため息の崖を超えるためには、どうすればよいでしょうか?今、皆さんは神への不信と闘争の条件を確立する祭壇を築くべきではなく、父の栄光を紹介し、父に喜びと栄光をもたらす勝利的なアベルの祭壇を築くべきです。
したがって、今日の皆さんの生活は単に個人に限定されるものではありません。全体を代表する生活なのです。皆さん一人一人が父の前に伏せるその時が、その時間、意志を中心に生きる生活が、その時間と生活で終わるものではありません。そこでケインの立場かアベルの立場か、という二つの分岐路が決定されるのです。つまり、今日の皆さんは過ちによってアベルとなり、また過ちによってケインとなるかもしれない、この莫大な歴史の崖に直面しています。
私たちが帰還の原理を見ても、人間をよりアベル的な存在として見つけて、礼拝し、奉仕させることを目指していたのは、これまで神が6000年間労働された摂理の歴史であることがわかります。したがって、すべてを帰還させるために、神は世界的なアベルとして人類の前に一人を送ったが、その人はイエス・キリストであったのです。
当時のユダヤ人やイスラエルの民が、昔のケインがアベルを妬んで憎んだことと同じ立場を取らず、ケインの立場ではなくアベルの立場にあるイエス様に絶対服従し、礼拝すれば、彼らは宇宙的なため息の崖を超えることができたでしょう。また、そこから、神が望まれた生命の祭壇、つまりアベル的な栄光の祭壇をこの地上に建設することができたでしょう。しかし、当時のユダヤ人やイスラエルの民がイエス様を妬み、憎んで十字架にかけたため、そのような意図が一時にして挫折したことを、今日の皆さんは確実に知っておかねばなりません。
今、皆さんが無限の欲望を抱き、無限の永遠の世界を讃えるのであれば、ただ自分自身にとどまっていることはできません。皆さんに迫ってくるすべてのため息の崖を超えなければならず、無限の悲しみや苦難にもかかわらず、それを踏み越えてサタンと果敢に戦うことができる人にならなければなりません。
また、皆さんは天に従って忍耐しなければなりませんが、ある時だけではありません。耐え続けるが、ある時だけ耐えることはできず、自分の命が消えるその時まで天に従い、苦難に耐えねばなりません。もしもそのような皆さんがなれない場合、皆さんは終末の最後の審判の崖を越えることができないことを心に留めておかねばなりません。
では、今日の時代はどのような時でしょうか?神の意志がこの地上に現れる時です。今日のこの地上にはケインとアベルがいます。マタイ13章にある言葉のように、この地上には雑草と穀物があります。また、ヨハネ10章の言葉のように、門を通り抜ける真の牧者がいる一方で、門を通らずに他へ行く偽りの牧者もいます。ですから、誤解すれば、私たちの教会でも同様の状況が起こり得ることを皆さんは直視しなければなりません。
そんなことを知り、今や皆さんは教会を中心にして誰がアベルであり、誰がケインであるかを見分けなければなりません。二人がいれば必ず一人はアベルであり、一人はケインであること、三人がいれば二人はアベルにもケインにもなり得るが、最も中心的なアベルとケインがいること、これを皆さんが確実に見分けなければならないことです。そして、そのケインとアベルが一つにならずに分かれてはなりません。
一方は正しい手であり、一方は悪い手であることです。ですから、誰もが私の神でありながら、あなたの神であり、私を愛するだけでなく、あなたを愛する神であるという信仰の立場から、お互いにアベル的な存在を見つけ、ケイン的な立場を避けるための最大の努力をしなければなりません。もしもそのような人になれない場合、皆さんはいつでも天の審判にかかり、ただちに見破られることを確実に知らねばなりません。
今日、私たちの教会を中心に見ると、必ずしもケインとアベルが存在します。したがって、神はアベルを通して言葉を示し、すべての人がアベルと一体になることを望まれています。しかし、アベルと一体にならないようにする者がいます。それが誰かと言えば、まさにサタンです。したがって、正しい信仰を持つためには、あなた自身よりもアベル的な存在と一体になるために、根本と自分のすべてを検討することができる必要があります。
かつてエデンの園で、太陽は天使から誘惑の言葉を聞いてアダムと相談し、「天使がこう言っているのですが、どうすればよいですか?」と相談しましたが、太陽は堕落しなかったのです。また、太陽が神と相談したが、堕落しなかったのです。しかし、太陽はその誘惑の言葉を聞いてアダムと相談せず、神と相談しないことで、堕落する過ちを犯してしまいました。
神は「食べてはいけない」という掟を定めましたが、それを否定する天使が太陽に対し、「その日にそれを食べると、あなたの目が開き、神のように善悪を知るようになる。」(創世記3:5)と誘惑したように、今日でも、このようなサタンの巧妙な動きが、あなたが気づかないうちに起こっています。
したがって、今日のあなたは、あなたの周りで起こっているすべての事実を識別することが必要です。農夫が収穫の時を迎え、穀物とからくり、血と穀物を識別できるように、あなたも神とサタンの行為を識別し、その結果を判断できるようになる必要があります。
今、あなたはどのような人になる必要がありますか?収穫の喜びを味わう人になる必要があります。あなた自身が父の前に誇らしく立つことができる人になる必要があります。からくりの実を結ぶのではなく、真の穀物の実を結ばなければなりません。したがって、今日のあなたは、天からの恵みを正しく受け入れることができるよう、真の穀物として成長しなければなりません。そして、あなたは天が恵みを与えるその時を知る必要があります。
神は堕落した人間を救うための新しい摂理の時がいつなのかを知る必要があります。あなたが神の新しい摂理の時を迎えて、からくりの立場にならず、真の穀物の実として結ばれるために、すべてを正しく識別することができなければなりません。
しかし、人間は6000年の歴史の中でまだ真実と偽りを正しく識別していませんでした。人類史を代表して真の穀物として実を結んだ者は、まだ一人もいませんでした。歴史以来、多くの人々が一貫して望んでいた実を結んだ人はいなかったのです。ただし、それを収穫するための使者がいるなら、その方がまさにイエス・キリストであったことをあなたは知る必要があります。
今日、皆さんは人間が最終的に結ぶべき実がどのような形で結ばれるかを心配し、切望する心で生命の道を向かわなければなりません。それによって、自らが生命の道に入り、新たな第二の生命を生み出す姿にならなければなりません。
あなたの心には常に真実だけが存在するわけではありません。あなたの心という畑には、真の穀物が植えられることもあれば、からくりが植えられることもあります。単にあなたが滞在する環境にだけからくりが植えられているのではなく、あなたの心の奥に堕落の要素が残っていることを意味します。それを取り除き、自分の心を清めるために犠牲の道を歩まれた方は誰でしょうか。それは今日の皆さんが確実に知るべきことは、イエス・キリストであったということです。
それでは、皆さんの生活はどうでしょうか?皆さんが日々の生活の中で一度動くたびに、その行動が真実か偽りか、どちらかになります。皆さんが見たり、聞いたり、話したり、感じたりするすべてが真実か偽りかです。このように、皆さんは自分自身を中心に立ち上がる一つ一つのすべての事実が真実と偽りの分岐点にあることを感じなければなりません。
今日の皆さんの心にはケイン的な面とアベル的な面があります。また、皆さんの心にはからくりと真の穀物があるということです。したがって、皆さんがどのような行動をした後は常にそれがケイン的だったかアベル的だったかを反省することになります。
このように、すべてはケインとアベルの立場、または全方位の存在として存在しています。ですから、今日の皆さんはどこに行くにしても、アベルのものはアベルのもので、ケインのものはケインのもので見分けて立てなければなりません。下等動物でさえ、自分が食べる草が毒かどうかを見分けるのに、万物の王である人間が自分にぶつかってくるすべての事実を正しく見分けなければならないことです。誰がケインであり、誰がアベルであるかをはっきりと見分けなければなりません。
もし昔、太陽が自分にぶつかってきたその誘惑の手を正しく見分けていたなら、堕落しなかったでしょう。神の言葉に頼って生命を賭け、最後までサタンと戦っていたら、太陽は堕落しなかったでしょう。しかし、時には時としてのものを欲する不貞な欲望を見分けられずに堕落してしまったことを皆さんは確実に知るべきです。
今日、皆さんの前にはからくりと真の穀物があるでしょう。真の牧者と偽の牧者もいるでしょう。ですから、今こそ皆さんはそれを正しく見分けなければなりません。真の牧者は自らが真の牧者であるとは言いません。いつでも黙々と神の御心と、すべての万物を自分の心に抱き進んで行くだけで、自らの立場を弁明しません。ですからイエス様も、ピラトの法廷に立った時、悪人たちは自らが正しいと主張しましたが、イエス様は自らを弁明しませんでしたことを振り返るべきです。
しかし、終末のいつかは、何が真で何が偽かを見分けることができない時が来るでしょう。そのため、神はそのような時を迎える人に油を塗り、密室に入って祈れと言われました。互いに自分が正しいと主張した後では、激しい混乱と混乱が起こり、誰が真の牧者であるか偽の牧者であるかを区別することができなくなるため、静かに密室に入り、自分自身で祈って判断するように教えられたのです。
真の子は、父が褒めることがない限り、自己を自慢せず、自分自身を弁明しません。父の栄光の座に立っても、それを自慢せず、むしろ自己を謙遜させようとするのです。ですから、今日の皆さんもそのような人になるために、不断の努力をしなければなりません。今日の私たちの教会を中心に見ると、自分自身は知らないが先生がそのような道を切り開くために、霊的または実質的な面で激しい闘いを繰り広げていることを認識しなければなりません。
現在、皆さんは踏み外すと暗い死の権下に落ちる可能性があります。全体を助けようとするよりも、自己の利益を中心に置く、つまり欲望を満たそうとする要素が多くあります。そのため、今日の皆さんはそのように欠けた自己を否定し、すべてを父に委ねて、「父の御心が行われるように」と内面的な心情を持たなければなりません。もし皆さんがそのような心情を持たずに進むなら、皆さんは無駄な足掻きをするしかありませんし、サタンが支配する死の権力から逃れるすべがありません。
今、皆さんが進む道にはサタンの試練が多いでしょう。また、霊的な経路を通じて行く人は多くの試練に直面するでしょう。そのため、サタンが自身の試練で人間が倒れると、「あなたがこれでどうなるのか?」と嘲笑しながら皆さんの道を遮るでしょう。
ですから、今日の皆さんにはサタンのそのような嘲笑を避ける道がなければならず、皆さんはその道を原理を通じてよく知っています。それでは真の牧者はどのような牧者であり、真の子に従う真慵はどのようにすべきか、真の御言葉を通して播かれる種、つまり真の穀物を結ばせる種はどのようなものか、真のアベルの立場に立つためにはどのように生活すればよいかといったこれらの問題を解決して越えなければなりません。
したがって、皆さんは天地の前や人間と万物の前に自分を立てるアベルの資格を備える必要があります。そのためには、誤った道を避け、真の道を進むことができるでしょう。これを心に留めておいてください。
あなたが自分に微かに教えられるものがあるからといって、軽率に動いてはいけません。確かな真理による方向性がない場合、絶対に動いてはいけないということです。たとえ誰かが新しい事実をはっきりと教えてくれたとしても、それをそのまま信じてはならず、必ず自分よりもアベル的な人と相談しなければなりません。もしそれをあなたたち自身で考え混乱させると、天使界の霊的な堕落などの現象が起こることをあなたは確実に知るべきです。
今日、終わりの日を迎えた皆さんは、アベルの立場から父の前に捧げられるべき一つの贈り物を持っている必要があります。もし皆さんが真のアベルとして立ち上がろうとするならば、唯一父だけが知り、自分だけが知ることができる贈り物、誰もが持つことのできない貴重な贈り物を持っていなければなりません。もし他の人に知られたら、その贈り物が真の穀物であっても、からくりになってしまうということです。
ですから今日、皆さんは誰もが知りえない真の穀物の贈り物を準備し、父の前に心を込めて捧げなければなりません。そうすることで、皆さんは父の真の従順な子、またこの地のすべての民のアベルとして立ち上がることができ、新しい生命を再び実らせることができるでしょう。
そして終わりの日を迎えた皆さんは、ただ父の従うだけで終わるのではなく、万民を導く指導者にならなければなりません。父の国が完成したとき、万民を導く指導者として喜び、真の牧者として喜ぶことができなければなりません。そのためには皆さんが誰の力も借りず、自分自身の隠れた真摯な贈り物を父の前に捧げる羊の群れにならなければなりません。
盗みと強奪はどのような人ですか?自分のものではないものを自分のものとして利用する人です。今日でもそのような人々が多いようです。私たちの教えを利用して、自分たちのものでないものを自分たちのもののように使っているということです。天からもらったら天に返し、自分のものとしてもらったら自分のものとして使う人が正しい人です。天からもらったものを自分のものとして利用する強奪や盗みのような人になってはなりません。
ですから、今皆さんはアベル的な存在として立つための条件を持たなければなりません。真の牧者の倉庫に入ることのできる真の実りを結ばなければなりません。真の牧者が喜び、楽しむことのできる真の実り、真の穀物にならなければならないということです。春の季節に咲く花はどのような花であっても、秋には実りを結ぶことです。しかし、その花が秋に豊かな実りを結ぶためには、成長する過程で適切な温度、湿度、栄養が必要です。
今後も、皆さんが天の意志を受け継ぐアベル的存在として果実を結ぶためには、今日も明日も、10年後も20年後も30年後も、あるいは60年後も、死ぬその瞬間に至るまで、天に対する真心を尽くし、誠実に仕えることが求められます。また、死の床に就いたとしても、変わらぬ中で父に対する信仰の道理を尽くすべきです。
しかしながら、信仰生活において信じられないことがあったり、あるいは無知で知らないことがあった場合、そのように不確かな事実に動揺して行動してしまうことは避けるべきです。もしも不確かな事実に動揺して行動してしまった場合、自然とサタンの立場に陥ります。そのようになると、最後の審判の座に立たざるを得なくなるでしょう。
皆さんが進む道には必ず敵が現れます。信仰的な敵が現れ、経済的な敵が現れるでしょう。また、進んでいく中で、わたしたちの統一教会の家族同士が互いに敵として立ちはだかることもあるでしょう。そして、サタンは皆さんが一度でも誤りを犯すその瞬間を狙い、皆さんをカインの道へと追いやろうとします。そのような敵に立ち向かい、カインの立場に立たないためには、どのように生きるべきでしょうか?皆さんは、自分を犠牲にしてでも、全体のために生きなければなりません。
皆さんの心は親の心として、体は主の体として、すべての人々のために生きるべきであり、だれよりも真心を尽くして父をたたえ、父の前に真っ直ぐな供物として立つべきです。こうして人間が堕落し失った「息子」「成長」「完成」の三冊の書を超えるために、天に対する忠誠の道理を尽くさなければなりません。皆さんがこれまで数十年間にわたって父の前に忠誠を尽くしたとしても、それだけではすべてが終わるわけではありません。
今後、どのような忠誠を示そうとも、皆さんは自らの一代で三代以上の忠誠を尽くさなければなりません。そして、そのようになると、堕落した「息子」「成長」「完成」の三冊の書を一挙に還元できるでしょう。もしそのような皆さんになれないならば、最終的にはサタンの支配する領域にとどまることになり、父の前に真実なアベルとして立つことができません。
したがって、今こそ皆さんは父に対して、サタンが知らないし、サタンが讒言することのできない忠誠と信仰の道理を尽くすべきです。皆さんの一途な忠誠が永遠の忠誠として残るために、皆さんはサタンの結果である邪道を見分け、天の真実な道に従い、最後の瞬間まで父の前に従順であり、真の供物として立つべきです。
<祈祷>
愛するお父様、わたしたちはこれまで前しかあると思っていたが、後ろがあることを、今日をもって知りました。また、今日だけでなく明日もあり、上があると思っていたが、下もあることをこの時知りました。
また、それが永遠の計画に基づいて結ばれているならば、右が左になり、左が右になる、つまり前後左右が入れ替わっても、父の前に立つことができることを知るようになりました。
しかし、まだ人間の本質的な罪の根源を取り除くことができていないため、今日のこの時代は前後左右上下が混乱し、正しく交換されていないことも感じるようになりました。
愛するお父様! 今や、父の永遠の計画を中心にして前後左右が完全に一つになる喜びの日が早くやってくるように許してください。
今、私たちは自分自身を捨てようとする心はなく、自分を立てようとする心だけがあったので、いつかお父様の審判を免れることはできないことを悟らせてください。
そうして私たちは、上が下を代わり、下が上を、右が左を、左が右を代わり、結局はすべてが不可分の関係を築き、お父様の前で誇れる姿として、お父様の栄光を歌う真の父の子どもになれるように、愛するお父様、切に求めます。
お父様、今この時代は見えない邪道が私たちの前に横たわっていることを知っておりますので、今や私たちはその道を見極め、静かに天に向かって進みながら、勝利の日の意志を成し遂げ、お父様を喜ばせるお父様の子どもになれるように、許してください。
これまで一つの目標を見据えてきたすべてが一つの目標で終わり、一つの目標で実を結ぶその日の父の喜びが早くこの地上に現れるように、また、お父様が喜ぶその心に共感し、私たちも喜ぶことができるように、愛するお父様、切に求めます。
残されたこの時間も全て、ただお父様がお預かりになり、お取り計らいください。すべての言葉を、主の名によってお祈り申し上げました。アーメン。
さらに、それらがサタン的な要素にならないように許してください。私たち自身がそれらを踏み越え、お父様の栄光を示すに足ることができるように、お父様、私たちを導き、保護してください、切にお願いいたします。
この時、地方に広がり、お父様の前で祈っている家族が多いことを知っています。彼らがどのような状況や環境に置かれているかに関わらず、お父様が直接保護してくださいますように。
こうして、終わりに委ねられた神聖な使命を果たし、他者に残ることができる姿となれるように許してください、愛するお父様、切に願います。
お父様の栄光を示す勝利の日を築くために、新たな覚悟と決意を持ち、サタンに立ち向かう力と能力を心と身体に備えることができるように、この時を許してください。また、お父様の無限の愛の手がこの地上の万民、この国の三千万人の民族に現れることを切に望みながら、すべての言葉を主の名によってお祈り致します。アーメン。
<御言葉>
今日皆さんに贈る言葉のタイトルは『真の道を知り、偽ものを見極めよう』です。
現代の多くの人々は、真偽を見分けられずに混沌の中で生きています。この時間を通じて、この聖書の文章を通して真実とは何か、偽りとは何かを見極めたいと思います。
人類の堕落によって、天の嘆きは何千年もの歴史の中で人々に向けられてきました。また、現世の人類にも天の嘆きが向けられていると同時に、私たちの子孫についても天が嘆きをもっています。
また、人間に授けられた万物にも天の嘆きがあることを知っています。人間が天の摂理を背いて進んだ道が、現代の終末時代のすべての事態の悲しみと嘆きとなったことをよく知っています。では、そのような嘆きを取り除くために人間はどうすればよいのでしょうか?また、どのような姿勢を持たなければならないのでしょうか?これが今日の皆さんが知るべき重大な問題です。
では、今、皆さんはどのような頂を越えなければならないでしょうか?皆さんは万物の嘆きの頂を越えなければなりませんし、残された人類の嘆きの頂を越えなければなりません。そして、残された天の嘆きの頂を越えなければなりません。言い換えれば、今日の皆さんは、これまでの6000年の歴史を通じて、数多くの人類に向けられた天の嘆きを解消し、また、その人類の嘆きを癒し、創世以来持ち出された万物の嘆きを解消しなければならないということです。
皆さんは救済還元原理を学んでいるため、救済条件というものを知っているでしょう。個人が一つの救済条件を設けることは、その一因に留まるだけでなく、創世以来現在まで内的に存在する神の嘆き、イエスと聖霊の嘆き、霊界にいる千万の聖人と天使の嘆き、または地獄にいる諸霊の嘆きまでも解消する救済条件とならなければなりません。それだけでなく、その救済条件は現在この地上に生きている全人類の嘆きまでも解消する救済条件とならなければなりません。これを皆さんは確実に知っておかなければなりません。
また、今日の皆さんは、自らを超えて創世以来の無数の嘆きの頂を越え、終末の最後の審判台に向かって歩まなければならない立場にあることを忘れてはなりません。
では、今皆さんは宇宙的な嘆きの頂を越えて命の道に向かうか、それともその頂を越えられずに死の道に向かうか、このような岐路に立たされています。そのため、今日皆さんはその生死の岐路に立ち、どのようにしてその頂を越えるか、どのようにしてサタンと戦い、どのようにしてその頂を越えて天の栄光を示すかを考えなければなりません。
もしもそのような考えを持って生きる人がいるなら、彼の生活は重大なものになるでしょう。彼の視線は自己を超えて天の摂理を見つめる必要があり、彼の感情は罪悪の現実ではなく、この世界を憂いながらも神の真実な愛を感じる必要があります。そして彼の行動は自己のための行動ではなく、万物の嘆きを癒す行動とならなければなりません。
誰でも、そのような重大な立場から天と地と人間の代わりに歴史的なため息の崖を超えるための生活を送れば、その生活は語り尽くせない驚異的な生活となり、語り尽くせない生命力を発揮する生活となるでしょう。他人がどうであれ、自分の心を守りながら、厳しい困難や逆境、ため息の崖を乗り越え、サタンと戦わなければなりません。
ですから、今日の皆さんも、それぞれに与えられたため息の崖を越える責任が自分にあることを認識し、立っている足場、持っている精神、見つめる希望と向かう標準がそれぞれどこを向いているかを常に忘れず、反省する人になるべきです。もしそれを忘れてしまえば、忘れるその日がちょうど神の悲しみの日となり、忘れるその時がちょうど人間と万物が皆さん一人一人を通じて持っていた無限の希望と期待が一瞬にして消え去り、再びため息の崖に戻る悲しみの時間となるでしょう。この事実を今日の皆さんは自分の身体と心ではっきり感じなければなりません。
では、今日の皆さんはどのような崖を超えるべきでしょうか?皆さんはまず、歴史的なため息の崖を超えなければなりません。その次に、皆さんの前後左右に見えない恐怖の力であるサタンたちを打ち負かさなければなりません。
もし皆さんが歴史的なため息の崖を踏み越えようとすると、そこからはんぱないサタンの力から派生する恐怖の力にぶつかると、皆さん自身の進む道を向かうことができず、横道に向かわざるを得なくなります。
ですから、今日の皆さんはその道を越えるために、皆さん一人一人の心が捧げられることさえあれば、全宇宙が皆さん一人一人をため息の条件とすることさえあれば、皆さんは命を捧げてその道を越えるためにサタンと戦わなければなりません。
そのような皆さんがサタンと戦わなければ、皆さんは自らも知らずに堕落したアダムと共に行かざるを得なくなり、また神の意志に反して天倫を背くカインの後を追うしかないことを念頭に置かなければなりません。
今の時は皆さん一人一人が立って全宇宙のため息をため息の帰還に戻さなければならない時ですから、今日の皆さんには友が一人もいません。また今の時はアダムが堕落する直前に神が直接介入できなかった立場と同じようなそのような時ですから、神が堕落した人間自ら新しい帰還の過程に入って、今までのすべてのため息の歴史を踏み越えさせるために皆さんの仕事に直接介入されないことです。
ですから、今日の皆さんの周りで見られるさまざまな現象は、これまでのすべてのため息の条件を開拓するために現れるものであり、見える事実があるとすれば、それは皆さんにため息の崖を自ら超えさせるための、つまりため息の崖を帰還させる事実であるということです。
では、今日の皆さんが天地のすべてに対して溢れるため息を取り除くために、どのようにすればよいでしょうか?皆さんが天地のため息を解放しようとすると、まずすべての存在が皆さんを攻撃しようとするでしょう。その時には、そこに受けて倒れることがあるとしても、死を覚悟して進んでいかなければなりません。今日の皆さんが進む道には、必ず物質的な苦痛が伴うでしょうし、またその物質が皆さんを攻撃し、万民が皆さんを攻撃するときがあるのです。
イエス・キリストが人類のためにこの地上で帰還的な条件を設けるために現れたときも、万民や万物がイエス・キリストを攻撃しました。私たちがこれを振り返るとき、皆さんが進む道でも人間や万物が皆さんを攻撃するということがわかります。
また、皆さんが進む道において、神が皆さんを攻撃する時、そのことに絶望して天を恨む人になるとすれば、終末の審判の関門を通過することはできません。
ですからキリスト教では、すべてを捨てるように言いました。肉体的なすべてを犠牲にするように言いました。自分の内にある人間的なすべてを軽視するようにというのです。その時、人間はようやく良い存在となり、父の栄光を心行くまで享受することができ、父の愛の領域に無限に吸収されて入ることができるのです。そのような人になれない場合、彼は人間の骨の中にこれまでため息の要素が沈殿したままになってしまうのです。
では、そのため息の要素はどのような歴史的な過程を経てきたのでしょうか?アダムとイヴの堕落以降、6000年の歴史的な過程を経て、そのため息の要素がサタンに導かれてきたのです。皆さんはこれを理解しなければならず、またそのため息の要素を皆さんの子孫に引き継ぐかもしれない危うい瞬間に直面していることを理解しなければなりません。
ですから今、皆さんは自分のすべてを捨てることができる人にならなければなりません。自分自身を天の前に屈服させ、従わせ、誰よりも早く天を代表してサタンの矢を受ける覚悟ができる人にならなければなりません。サタンとの戦いにおいて誰よりも早く立ち上がる人にならなければなりません。また人間に対しても同様であり、神の意志に対してもそうであり、物質に対しても誰よりも早く自己を犠牲にすると公言する人にならなければなりません。このような人にならなければ、終末の最後の審判を免れることはできないことを皆さんは確実に理解しなければなりません。
聖書の歴史を時代的に区別してみると、旧約時代は象徴の犠牲の時代であり、次に実際の犠牲の時代であり、その次には心の犠牲の時代であることがわかります。また、これを結論付けると、神・人間・万物が存在するが、これらを一度に帰還させることはできないため、これまでの6000年間のすべての内容が今日の終末の世界に現れていることがわかります。
つまり、神が6000年間持っていたため息の内容が今日この地上の全ての人類の前に現れているということです。したがって、このような時代に生きる人々は、誰も安らぐことができず、誰もため息の波に巻き込まれないことはできないということです。
では、このような時代に生きる今日の皆さんはどうすればよいのでしょうか?皆さんはすべてのことで失敗してはならず、時代や場所を超えてサタンの誹謗にかからないように努めなければなりません。そして、皆さんはこれまで自分自身をかけて6000年のため息の歴史が押し寄せてきたことから、その6000年の大洪水の波が皆さんの進む道に横たわっていることを理解しなければなりません。
皆さんがその洪水の波に巻き込まれないためには、この地上のことに執着してもがき苦しむ人になってはいけません。言い換えれば、自分自身に縛られて神の計画に目がくらんだ人になってはいけないということです。
では、皆さんがそのような歴史的なため息の崖を越えた後はどうすればよいのでしょうか?これまでガイン的な使命分野を担ってきた皆さんは、アベルとして現れる神の子女を奉仕し、彼を代わりに奉仕し、自分に残っている堕落的なすべてのため息の要素を排除して唯一神の御心に従う人にならなければなりません。
そして、皆さんは周囲の10人と向き合うとき、その10人が自分を完全な人間にするために自分を性格づけし、自分のため息の条件を取り除く人々として感じ、そうして扱うことができる人にならなければなりません。つまり、皆さん一人を完成させるために周囲に数多くの人々が存在していることです。彼らは誰のために、またはどのような意図で動いているかと言えば、皆さん一人を完全な人間にするために動いているということです。
また、皆さんはガインとアベルが共に神に犠牲をささげたとき、アベルの犠牲を受け入れた神の立場と、ガインの犠牲を受け入れなかった神の立場が相違しているように見えるかもしれませんが、そうではありません。ガインに天の立場を代弁していたアベルを通じて少しでも心があった場合、神はそのガインの犠牲を受け入れていただろうということです。神は時間的な差異はあったかもしれませんが、公正な立場から彼らを扱おうとしたということです。
では、皆さんが今や神の前で宇宙的なため息の崖を超え、神が喜び、喜ぶことのできる唯一の犠牲として現れたいと思うならば、皆さんはどうすればよいでしょうか?宇宙万物を帰還させるためのアベル的な祭壇を築き、アベル的な犠牲として羊を捧げるのではなく、皆さん一人の生命の実体を捧げることができるべきです。
昔のアベルが天の使命を受けて負担せず、血を流して神の計画を挫折させたことと同様に、今日の皆さんもそうではならないはずです。皆さんの周りに現れるすべての事実は、自分自身を完成させるために現れるという心を持ち、どのような人がどのような不正な環境に自分を追いやろうとも、天の道に背いてはならないという堅固な信念を持たなければなりません。そして、皆さんが周囲の環境のすべてを忘れ、ただ父の栄光を示すために死を覚悟して前進できる人になるべきです。
ケインとアベルが犠牲を捧げた後、アベルの犠牲だけが神に受け入れられたことをアベルがケインを憎んで打ち殺したが、ケインがアベルを憎んでいたときから、皆さんは理解する必要があります。ケインは神が自分の犠牲を受け入れないので、一瞬のうちにアベルに対する憎しみが生まれ、彼を殴ったのではなく、その出来事にぶつかる前からアベルを憎み、殺したいと思っていたのです。
そのような堕落的な血統を受け継いだ今日の皆さんが宇宙的なため息の崖を超えるためには、どうすればよいでしょうか?今、皆さんは神への不信と闘争の条件を確立する祭壇を築くべきではなく、父の栄光を紹介し、父に喜びと栄光をもたらす勝利的なアベルの祭壇を築くべきです。
したがって、今日の皆さんの生活は単に個人に限定されるものではありません。全体を代表する生活なのです。皆さん一人一人が父の前に伏せるその時が、その時間、意志を中心に生きる生活が、その時間と生活で終わるものではありません。そこでケインの立場かアベルの立場か、という二つの分岐路が決定されるのです。つまり、今日の皆さんは過ちによってアベルとなり、また過ちによってケインとなるかもしれない、この莫大な歴史の崖に直面しています。
私たちが帰還の原理を見ても、人間をよりアベル的な存在として見つけて、礼拝し、奉仕させることを目指していたのは、これまで神が6000年間労働された摂理の歴史であることがわかります。したがって、すべてを帰還させるために、神は世界的なアベルとして人類の前に一人を送ったが、その人はイエス・キリストであったのです。
当時のユダヤ人やイスラエルの民が、昔のケインがアベルを妬んで憎んだことと同じ立場を取らず、ケインの立場ではなくアベルの立場にあるイエス様に絶対服従し、礼拝すれば、彼らは宇宙的なため息の崖を超えることができたでしょう。また、そこから、神が望まれた生命の祭壇、つまりアベル的な栄光の祭壇をこの地上に建設することができたでしょう。しかし、当時のユダヤ人やイスラエルの民がイエス様を妬み、憎んで十字架にかけたため、そのような意図が一時にして挫折したことを、今日の皆さんは確実に知っておかねばなりません。
今、皆さんが無限の欲望を抱き、無限の永遠の世界を讃えるのであれば、ただ自分自身にとどまっていることはできません。皆さんに迫ってくるすべてのため息の崖を超えなければならず、無限の悲しみや苦難にもかかわらず、それを踏み越えてサタンと果敢に戦うことができる人にならなければなりません。
また、皆さんは天に従って忍耐しなければなりませんが、ある時だけではありません。耐え続けるが、ある時だけ耐えることはできず、自分の命が消えるその時まで天に従い、苦難に耐えねばなりません。もしもそのような皆さんがなれない場合、皆さんは終末の最後の審判の崖を越えることができないことを心に留めておかねばなりません。
では、今日の時代はどのような時でしょうか?神の意志がこの地上に現れる時です。今日のこの地上にはケインとアベルがいます。マタイ13章にある言葉のように、この地上には雑草と穀物があります。また、ヨハネ10章の言葉のように、門を通り抜ける真の牧者がいる一方で、門を通らずに他へ行く偽りの牧者もいます。ですから、誤解すれば、私たちの教会でも同様の状況が起こり得ることを皆さんは直視しなければなりません。
そんなことを知り、今や皆さんは教会を中心にして誰がアベルであり、誰がケインであるかを見分けなければなりません。二人がいれば必ず一人はアベルであり、一人はケインであること、三人がいれば二人はアベルにもケインにもなり得るが、最も中心的なアベルとケインがいること、これを皆さんが確実に見分けなければならないことです。そして、そのケインとアベルが一つにならずに分かれてはなりません。
一方は正しい手であり、一方は悪い手であることです。ですから、誰もが私の神でありながら、あなたの神であり、私を愛するだけでなく、あなたを愛する神であるという信仰の立場から、お互いにアベル的な存在を見つけ、ケイン的な立場を避けるための最大の努力をしなければなりません。もしもそのような人になれない場合、皆さんはいつでも天の審判にかかり、ただちに見破られることを確実に知らねばなりません。
今日、私たちの教会を中心に見ると、必ずしもケインとアベルが存在します。したがって、神はアベルを通して言葉を示し、すべての人がアベルと一体になることを望まれています。しかし、アベルと一体にならないようにする者がいます。それが誰かと言えば、まさにサタンです。したがって、正しい信仰を持つためには、あなた自身よりもアベル的な存在と一体になるために、根本と自分のすべてを検討することができる必要があります。
かつてエデンの園で、太陽は天使から誘惑の言葉を聞いてアダムと相談し、「天使がこう言っているのですが、どうすればよいですか?」と相談しましたが、太陽は堕落しなかったのです。また、太陽が神と相談したが、堕落しなかったのです。しかし、太陽はその誘惑の言葉を聞いてアダムと相談せず、神と相談しないことで、堕落する過ちを犯してしまいました。
神は「食べてはいけない」という掟を定めましたが、それを否定する天使が太陽に対し、「その日にそれを食べると、あなたの目が開き、神のように善悪を知るようになる。」(創世記3:5)と誘惑したように、今日でも、このようなサタンの巧妙な動きが、あなたが気づかないうちに起こっています。
したがって、今日のあなたは、あなたの周りで起こっているすべての事実を識別することが必要です。農夫が収穫の時を迎え、穀物とからくり、血と穀物を識別できるように、あなたも神とサタンの行為を識別し、その結果を判断できるようになる必要があります。
今、あなたはどのような人になる必要がありますか?収穫の喜びを味わう人になる必要があります。あなた自身が父の前に誇らしく立つことができる人になる必要があります。からくりの実を結ぶのではなく、真の穀物の実を結ばなければなりません。したがって、今日のあなたは、天からの恵みを正しく受け入れることができるよう、真の穀物として成長しなければなりません。そして、あなたは天が恵みを与えるその時を知る必要があります。
神は堕落した人間を救うための新しい摂理の時がいつなのかを知る必要があります。あなたが神の新しい摂理の時を迎えて、からくりの立場にならず、真の穀物の実として結ばれるために、すべてを正しく識別することができなければなりません。
しかし、人間は6000年の歴史の中でまだ真実と偽りを正しく識別していませんでした。人類史を代表して真の穀物として実を結んだ者は、まだ一人もいませんでした。歴史以来、多くの人々が一貫して望んでいた実を結んだ人はいなかったのです。ただし、それを収穫するための使者がいるなら、その方がまさにイエス・キリストであったことをあなたは知る必要があります。
今日、皆さんは人間が最終的に結ぶべき実がどのような形で結ばれるかを心配し、切望する心で生命の道を向かわなければなりません。それによって、自らが生命の道に入り、新たな第二の生命を生み出す姿にならなければなりません。
あなたの心には常に真実だけが存在するわけではありません。あなたの心という畑には、真の穀物が植えられることもあれば、からくりが植えられることもあります。単にあなたが滞在する環境にだけからくりが植えられているのではなく、あなたの心の奥に堕落の要素が残っていることを意味します。それを取り除き、自分の心を清めるために犠牲の道を歩まれた方は誰でしょうか。それは今日の皆さんが確実に知るべきことは、イエス・キリストであったということです。
それでは、皆さんの生活はどうでしょうか?皆さんが日々の生活の中で一度動くたびに、その行動が真実か偽りか、どちらかになります。皆さんが見たり、聞いたり、話したり、感じたりするすべてが真実か偽りかです。このように、皆さんは自分自身を中心に立ち上がる一つ一つのすべての事実が真実と偽りの分岐点にあることを感じなければなりません。
今日の皆さんの心にはケイン的な面とアベル的な面があります。また、皆さんの心にはからくりと真の穀物があるということです。したがって、皆さんがどのような行動をした後は常にそれがケイン的だったかアベル的だったかを反省することになります。
このように、すべてはケインとアベルの立場、または全方位の存在として存在しています。ですから、今日の皆さんはどこに行くにしても、アベルのものはアベルのもので、ケインのものはケインのもので見分けて立てなければなりません。下等動物でさえ、自分が食べる草が毒かどうかを見分けるのに、万物の王である人間が自分にぶつかってくるすべての事実を正しく見分けなければならないことです。誰がケインであり、誰がアベルであるかをはっきりと見分けなければなりません。
もし昔、太陽が自分にぶつかってきたその誘惑の手を正しく見分けていたなら、堕落しなかったでしょう。神の言葉に頼って生命を賭け、最後までサタンと戦っていたら、太陽は堕落しなかったでしょう。しかし、時には時としてのものを欲する不貞な欲望を見分けられずに堕落してしまったことを皆さんは確実に知るべきです。
今日、皆さんの前にはからくりと真の穀物があるでしょう。真の牧者と偽の牧者もいるでしょう。ですから、今こそ皆さんはそれを正しく見分けなければなりません。真の牧者は自らが真の牧者であるとは言いません。いつでも黙々と神の御心と、すべての万物を自分の心に抱き進んで行くだけで、自らの立場を弁明しません。ですからイエス様も、ピラトの法廷に立った時、悪人たちは自らが正しいと主張しましたが、イエス様は自らを弁明しませんでしたことを振り返るべきです。
しかし、終末のいつかは、何が真で何が偽かを見分けることができない時が来るでしょう。そのため、神はそのような時を迎える人に油を塗り、密室に入って祈れと言われました。互いに自分が正しいと主張した後では、激しい混乱と混乱が起こり、誰が真の牧者であるか偽の牧者であるかを区別することができなくなるため、静かに密室に入り、自分自身で祈って判断するように教えられたのです。
真の子は、父が褒めることがない限り、自己を自慢せず、自分自身を弁明しません。父の栄光の座に立っても、それを自慢せず、むしろ自己を謙遜させようとするのです。ですから、今日の皆さんもそのような人になるために、不断の努力をしなければなりません。今日の私たちの教会を中心に見ると、自分自身は知らないが先生がそのような道を切り開くために、霊的または実質的な面で激しい闘いを繰り広げていることを認識しなければなりません。
現在、皆さんは踏み外すと暗い死の権下に落ちる可能性があります。全体を助けようとするよりも、自己の利益を中心に置く、つまり欲望を満たそうとする要素が多くあります。そのため、今日の皆さんはそのように欠けた自己を否定し、すべてを父に委ねて、「父の御心が行われるように」と内面的な心情を持たなければなりません。もし皆さんがそのような心情を持たずに進むなら、皆さんは無駄な足掻きをするしかありませんし、サタンが支配する死の権力から逃れるすべがありません。
今、皆さんが進む道にはサタンの試練が多いでしょう。また、霊的な経路を通じて行く人は多くの試練に直面するでしょう。そのため、サタンが自身の試練で人間が倒れると、「あなたがこれでどうなるのか?」と嘲笑しながら皆さんの道を遮るでしょう。
ですから、今日の皆さんにはサタンのそのような嘲笑を避ける道がなければならず、皆さんはその道を原理を通じてよく知っています。それでは真の牧者はどのような牧者であり、真の子に従う真慵はどのようにすべきか、真の御言葉を通して播かれる種、つまり真の穀物を結ばせる種はどのようなものか、真のアベルの立場に立つためにはどのように生活すればよいかといったこれらの問題を解決して越えなければなりません。
したがって、皆さんは天地の前や人間と万物の前に自分を立てるアベルの資格を備える必要があります。そのためには、誤った道を避け、真の道を進むことができるでしょう。これを心に留めておいてください。
あなたが自分に微かに教えられるものがあるからといって、軽率に動いてはいけません。確かな真理による方向性がない場合、絶対に動いてはいけないということです。たとえ誰かが新しい事実をはっきりと教えてくれたとしても、それをそのまま信じてはならず、必ず自分よりもアベル的な人と相談しなければなりません。もしそれをあなたたち自身で考え混乱させると、天使界の霊的な堕落などの現象が起こることをあなたは確実に知るべきです。
今日、終わりの日を迎えた皆さんは、アベルの立場から父の前に捧げられるべき一つの贈り物を持っている必要があります。もし皆さんが真のアベルとして立ち上がろうとするならば、唯一父だけが知り、自分だけが知ることができる贈り物、誰もが持つことのできない貴重な贈り物を持っていなければなりません。もし他の人に知られたら、その贈り物が真の穀物であっても、からくりになってしまうということです。
ですから今日、皆さんは誰もが知りえない真の穀物の贈り物を準備し、父の前に心を込めて捧げなければなりません。そうすることで、皆さんは父の真の従順な子、またこの地のすべての民のアベルとして立ち上がることができ、新しい生命を再び実らせることができるでしょう。
そして終わりの日を迎えた皆さんは、ただ父の従うだけで終わるのではなく、万民を導く指導者にならなければなりません。父の国が完成したとき、万民を導く指導者として喜び、真の牧者として喜ぶことができなければなりません。そのためには皆さんが誰の力も借りず、自分自身の隠れた真摯な贈り物を父の前に捧げる羊の群れにならなければなりません。
盗みと強奪はどのような人ですか?自分のものではないものを自分のものとして利用する人です。今日でもそのような人々が多いようです。私たちの教えを利用して、自分たちのものでないものを自分たちのもののように使っているということです。天からもらったら天に返し、自分のものとしてもらったら自分のものとして使う人が正しい人です。天からもらったものを自分のものとして利用する強奪や盗みのような人になってはなりません。
ですから、今皆さんはアベル的な存在として立つための条件を持たなければなりません。真の牧者の倉庫に入ることのできる真の実りを結ばなければなりません。真の牧者が喜び、楽しむことのできる真の実り、真の穀物にならなければならないということです。春の季節に咲く花はどのような花であっても、秋には実りを結ぶことです。しかし、その花が秋に豊かな実りを結ぶためには、成長する過程で適切な温度、湿度、栄養が必要です。
今後も、皆さんが天の意志を受け継ぐアベル的存在として果実を結ぶためには、今日も明日も、10年後も20年後も30年後も、あるいは60年後も、死ぬその瞬間に至るまで、天に対する真心を尽くし、誠実に仕えることが求められます。また、死の床に就いたとしても、変わらぬ中で父に対する信仰の道理を尽くすべきです。
しかしながら、信仰生活において信じられないことがあったり、あるいは無知で知らないことがあった場合、そのように不確かな事実に動揺して行動してしまうことは避けるべきです。もしも不確かな事実に動揺して行動してしまった場合、自然とサタンの立場に陥ります。そのようになると、最後の審判の座に立たざるを得なくなるでしょう。
皆さんが進む道には必ず敵が現れます。信仰的な敵が現れ、経済的な敵が現れるでしょう。また、進んでいく中で、わたしたちの統一教会の家族同士が互いに敵として立ちはだかることもあるでしょう。そして、サタンは皆さんが一度でも誤りを犯すその瞬間を狙い、皆さんをカインの道へと追いやろうとします。そのような敵に立ち向かい、カインの立場に立たないためには、どのように生きるべきでしょうか?皆さんは、自分を犠牲にしてでも、全体のために生きなければなりません。
皆さんの心は親の心として、体は主の体として、すべての人々のために生きるべきであり、だれよりも真心を尽くして父をたたえ、父の前に真っ直ぐな供物として立つべきです。こうして人間が堕落し失った「息子」「成長」「完成」の三冊の書を超えるために、天に対する忠誠の道理を尽くさなければなりません。皆さんがこれまで数十年間にわたって父の前に忠誠を尽くしたとしても、それだけではすべてが終わるわけではありません。
今後、どのような忠誠を示そうとも、皆さんは自らの一代で三代以上の忠誠を尽くさなければなりません。そして、そのようになると、堕落した「息子」「成長」「完成」の三冊の書を一挙に還元できるでしょう。もしそのような皆さんになれないならば、最終的にはサタンの支配する領域にとどまることになり、父の前に真実なアベルとして立つことができません。
したがって、今こそ皆さんは父に対して、サタンが知らないし、サタンが讒言することのできない忠誠と信仰の道理を尽くすべきです。皆さんの一途な忠誠が永遠の忠誠として残るために、皆さんはサタンの結果である邪道を見分け、天の真実な道に従い、最後の瞬間まで父の前に従順であり、真の供物として立つべきです。
<祈祷>
愛するお父様、わたしたちはこれまで前しかあると思っていたが、後ろがあることを、今日をもって知りました。また、今日だけでなく明日もあり、上があると思っていたが、下もあることをこの時知りました。
また、それが永遠の計画に基づいて結ばれているならば、右が左になり、左が右になる、つまり前後左右が入れ替わっても、父の前に立つことができることを知るようになりました。
しかし、まだ人間の本質的な罪の根源を取り除くことができていないため、今日のこの時代は前後左右上下が混乱し、正しく交換されていないことも感じるようになりました。
愛するお父様! 今や、父の永遠の計画を中心にして前後左右が完全に一つになる喜びの日が早くやってくるように許してください。
今、私たちは自分自身を捨てようとする心はなく、自分を立てようとする心だけがあったので、いつかお父様の審判を免れることはできないことを悟らせてください。
そうして私たちは、上が下を代わり、下が上を、右が左を、左が右を代わり、結局はすべてが不可分の関係を築き、お父様の前で誇れる姿として、お父様の栄光を歌う真の父の子どもになれるように、愛するお父様、切に求めます。
お父様、今この時代は見えない邪道が私たちの前に横たわっていることを知っておりますので、今や私たちはその道を見極め、静かに天に向かって進みながら、勝利の日の意志を成し遂げ、お父様を喜ばせるお父様の子どもになれるように、許してください。
これまで一つの目標を見据えてきたすべてが一つの目標で終わり、一つの目標で実を結ぶその日の父の喜びが早くこの地上に現れるように、また、お父様が喜ぶその心に共感し、私たちも喜ぶことができるように、愛するお父様、切に求めます。
残されたこの時間も全て、ただお父様がお預かりになり、お取り計らいください。すべての言葉を、主の名によってお祈り申し上げました。アーメン。
文鮮明先生の言葉選集 3 - 13. 「神の力は一つの心と一つの意志が結ばれた場所に現れる」(1957年11月10日)
1957年11月10日(日)前本部教会
使徒行伝4:27-5:11
<祈祷>
愛お父様、最後の戦いが私たちの目の前に迫り、イスラエルの民に告げ示され、示された父の御心をこの地上に成就させねばならないこの場所で、再び聖霊が現れなければならない時が迫っていることを認めます。
今は前例のない歴史的犠牲を全地球の前に示さねばならない新たな時であり、お父様の無限の努力の手を共にしなければならないと感じております。お父様、お任せください。立ててください。呼んで命じられるときには、天の力と能力を授けてください。お父様が望まれる御心をこの地上に成就させ、余剰があるように、歴史をなさってください。お父様、切望し、願っております。
主を失い、120人の弟子がマカの屋根裏部屋で一つになり、叫び声を上げたその叫び声が天地を通して新たな再創造の歴史を引き起こしたことと同様に、今日、私たちも心と体が一つとなり、お父様の御心を代わりにマカの屋根裏部屋に集まった120人の弟子と同じ歴史を私たちの心と体に示してください。
そして、天が震動し、地が揺れ、勝利的な天の栄光がこの地上に現れることを許してください。お父様、熱望し、望んでおります。そして、これまで多くの先達がただお父様の御心のために自らのすべてを捧げたことと同様に、私たちもお父様の御心の前に純粋な心で従う生ける犠牲として捧げられることを許してください。愛するお父様、切望し、望んでおります。
この時間、私たちのすべてを父に委ねました。喜びの御心を示してください。約束された時と場所を延期しないでください。急いで起こし、6000年間にわたって結びついた憎しみの感情を解消してください。お父様、切に頼み、望んでいます。
この場に集まった私たち一人ひとりが、新たな決意と決心を持ち、新たな誓いとしてお父様の子女の資格を自ら持ち、進んで行けるように許してください。
切に願い、望み、すべての言葉を主の名においてお祈り致しました。アーメン。
<御言葉>
今日のこの時間は、「神の力は一つの心と一つの意志が結ばれた場所に現れる」と題して、お話ししたいと思います。
イエス様が復活された後40日間、この地におられ、慰めの聖霊を送り、約束され、昇天されましたが、イエス様を追っていた弟子たちは、イエス様が復活された栄光の姿を見て、神の約束の意味が成就されると思い喜んでいましたが、イエス様は彼らにいつ「再び来る」と明確な言葉を述べないまま昇天してしまったのです。
では、当時の弟子たちの心境はどうだったでしょうか?愛する主イエスを十字架に掛けた不信のイスラエルの民とユダヤ教の一派に対する言いようのない敵意が湧き上がったでしょう。復活した主の御心、神の御心であれば自分の身が粉々になり、骨が溶けることすらあるとしても、最後の勝利のために復活した主を追いかける覚悟を持っていたことでしょう。
そのような覚悟、すなわち主が去られた後、天に慕い求めていたその心、死ぬことがあっても、または困難な十字架の道が遮られているかもしれないが、この道を放棄してはならないという覚悟を持っていた姿で、弟子たちはこの人あの人に対して励まし合ったでしょう。そうしてこのような心境にあった弟子たちに、イエス様は現れて聖霊を送り、約束されました。
その後、マカの屋根裏部屋に集まった120人の弟子は、天が背後で起こすことも想像もつかない体験をしてから、歴史的なすべての理の意味を受け止めることができ、またイエス様の30年間の人生の経験と3年間の公生涯の中で感じた内的な心情を共感する段階に入ったのです。
そして彼らは、自分たちがイエス様を裏切った罪悪感に押しつぶされずにはいられず、この地に来られたイエス様が自分たちにそうではない天の唯一の子であったことを悟るようになりました。
さらに彼らは、イエス様がこの地に万民の救い主として来られたことを確実に悟れば悟るほど、心の中で鉄壁の覚悟と決意を持ち、兄弟と兄弟、使徒と使徒、信徒と信徒が励まし合い、一つの心を中心にして一つの目標に向かって動くようになりました。
彼らが追求する一つの意志のために、お互いが心を交換し、お互いに一体となって、120人の弟子が一人ひとり異なっているが、父の御心に従って進む方向とその動きは一つの姿として現れることです。
このような現象が使徒たちの間で起こり、彼らは燃え盛る心を持ち、その後彼らはどこを向いて叫ぶようになったのでしょうか?彼らはイエス様を反対したイスラエルの民を向いて叫び始めました。そして、イエス様を信じない多くの人々に対して、新たな決心と覚悟を持って新たな誓いとして、自分たちが一体となっているその心を曲げる者がないことを示しました。
自分たちが最初に天の前に固く誓い、覚悟した姿で現れたことはもちろんですが、いかなる迫害が激しい環境であっても確固たる中心を持って現れる時に、天は彼ら一人ひとりをイエスの代わりの存在として立て、使命を委ねられたことを皆さんは知るべきです。
このような心を持った人は一人だけではありませんでした。そして、主を失った悲しみが大きければ大きいほど、その心には悔しさが入り混じり、神の御心が強く動くほど、その心には天を裏切った群衆に対する敵意が強く高まりました。彼らを一挙に砕き、天の御心を即時に成就させる覚悟で天に対して現れた時、ここには人間ではなく、神の力が現れたのです。
ここで人間としては想像できない神の直接的な権能の行使が無知な民、不信心の民、反逆的な民に示されたことを私たちは知らなければなりません。
こうして120人の弟子がマカの屋根裏部屋に集まり、聖霊を送って下さるというお約束を心に信じ、一つになって祈ることがなければ、今日のキリスト教は世界的な宗教にはならなかったでしょう。
その時、地に伏して祈っていた120人の弟子には恐れる心がありませんでした。自らの名誉や自らの体面、そして家庭さえもすべて忘れ、ただ主の約束がいつか、どこかで果たされると信じ、120人の弟子が一つになって祈るとき、4000年間、天と地の間に立ちふさがっていた死の支配を打ち破り、聖霊が地上に臨んだのです。
この出来事は偶然ではありませんでした。この出来事によって人間を再び創造できる新しい道が切り開かれたのですが、これが誰によって成し遂げられたのか?これは120人の弟子が一つの心、一つの熱意、一つの犠牲の精神で父の御心を望み求めた切実なその心によって成し遂げられたのです。こうして地において行われなかった聖霊の歴史がようやく新たな歴史的な出発をすることができたということをあなた方は知らなければなりません。
120人の弟子は天に向かって切望する心に感動し、どんな敵にも対処しながらも死を覚悟して進んでいく心を持つようになりました。ここに天の力が再び働いたので、この力は誰も断つことができなかったのです。このような力が踏み台となって彼らが言葉通り天を動かせる力を行使したことをあなた方は知らなければなりません。
では今日の神の御心を成就するためにはどうすればよいでしょうか?まず第一に、私たちは神と一体となる心を持たなければなりません。神と一体となる心の持ち主になった後、私たちはまた兄弟と一体となる心を持たなければなりません。これが最後に神の御心を成就するための最も重要な礎になるということをあなたがたは忘れてはなりません。
この地上には千人いれば千通りの考えがありますが、神の御心は一つです。そのため、私たちは自分の意見や提示する条件を踏みにじり、全てのものを取り除き、父の御心、父の条件に従うべきです。私たちの考えや心が異なり、それぞれの立場や環境が異なっていても、父の御心と一致しなければ神の御心は達成されないということです。
では、当時の使徒たちはどの程度まで一致していたでしょうか? 有無相通する程度まで一致していました。彼らは自分のものと他人のものの区別がありませんでした。彼らは神の御心を中心に置き、私はあなたであり、あなたは私であるという統一の心で、一つになりました。したがって、彼らは誰がどのような困難に直面しようとも、それを個人の問題として放置せず、自らの問題として捉えました。
兄弟の苦難を自らの骨と肉、髄として感じるようになったとき、天も動きました。つまり、あなたも互いに自分のすべてを忘れ、ただ父の御心だけを求めるためにどんな犠牲が伴っても自らのすべてを捧げる覚悟、兄弟の苦難を自らの苦難として感じる心を持つ者にならなければなりません。
今、地上に生きるあなた方にとって、物質が敵です。あなたが自分の財布に入っているお金を自分のものと考え、また自分だけがそのお金を使えると考え、私の意志のためにそのお金が使われるべきだと考える自己中心的な考えに捕らわれているならば、あなたはまだ父の御心を中心に置き、一つになった立場にありません。
これに対する天の憐れみと哀れみは、あなたが想像する程度の悲しみや哀れみではないことを理解しなければなりません。あなたが想像できないほどの悲しみ、あなたが想像できないほどの緊急事態に置かれていることを、あなたが思いやり、理解する必要があります。
さて、あなたは使徒たちを見習い、全信徒が従っていた初代教会の動きを取り入れなければなりません。そうしないと、天の祝福を受けることができない最後の聖者たちであり、天国の審判の行使を代行しなければならない最後の聖者たちであるあなたは、天の御心を自分のものに利用する人となったのではないか、自らを考えなければならない時が来たということを心に留めなければなりません。
このような使徒たちの動き、あなたにとっても私にとっても、全体が一つの心となることを阻むものが現れるのは、サタンの働きです。それは、信じるすべてのものを一つにし、神の審判を代行するように、全てを信じ、一致できる環境を崩すためのサタンの働きです。
このように一つに結ばれた使徒たちの前に、誰が現れたかというと、アナニヤとサッピラが現れました。彼らは使徒たちが行動し、信者たちが動くのをうらやましく思っていたのです。しかし、それは世俗を中心にした、うらやむ気持ちだったのです。今日の私たちにとっては、これを忘れてはならないことです。
天の驚くべき恵みは、だれにでも栄光ある恵みとして示され、だれもがそれが自分に現れることを望むでしょう。ペテロが一言言うだけで、数千人が悔い改め、あるいは異言を話し、病人が癒されるなど、想像を絶する驚くべき出来事が起こるのを見て、アナニヤとサッピラが同じ立場にあることをうらやみながら、自分も同じ立場に立とうとする人間的な考えを持ち、一つの聖徒の姿として現れるとき、天は許せなかったのです。今日のあなた方は、特にこれを忘れてはならないでしょう。
自分が持っていたものを売って、いくらかを隠しておき、一部だけを差し出し、その後すべてを差し出したかのような振る舞いをすると、天の意志を破壊しようとする、巧妙なサタンの策略であることを、あなた方は知らなければならないでしょう。
自分の真心をそのまま示して、天の意志に吸収される聖徒ならば、差し出すことは問題ではありません。『私の心を全部差し出します。死んでも生きても、あなたの喜ばれるとおりに主がお使いになり、支配してください』と祈りながら、切望する心を持ち、すべてを忘れて差し出し、動く使徒たちの前にアナニヤとサッピラが自分の欲望を中心にし、自分の問題を心配し、立ち去ったことは、イエスの昇天直後、初代教会が新たな基盤を築かなければならない場で、天の道を遮る最大の条件となったのです。
アナニヤの心情が聖霊を通して露呈されると、ペテロは、「天には許されないサタンがあなたの心に入り込んでいる。あなたにサタンが侵入したことは許されない」と言い、聖霊の言葉を代弁し、アナニヤを裁いたことを、この時に悟らなければなりません。
それでは、今度は私たちはどのような心構えを持つべきでしょうか? 自分を中心に置いた条件を立て、天の意志に立ち向かおうとする者は、アナニヤやサッピラと同じ立場に置かれることになります。これは何を予告しているのでしょうか?これは、一つにまとまる群れの前に一体になれない要素を持つ者は、終末の審判の時、死を免れないことを予告しているのです。
マルコの屋根裏部屋に集まった120人の弟子は、昇天した主イエスのためにすべてを捨て、自分の名誉や面目やすべての社会的状況を忘れ、あなたも私も一つで、こちらもあちらも一つで、約束された言葉を崇拝しながら、一つに結びついたとき、ここで天の新たな計画が聞かれました。
終末の使命を担う私たちには、マルコの屋根裏部屋に集まった120人の弟子に起きたような歴史が起こるべきです。そして今、この時こそ、聖霊と聖者と父の歴史が、あなた方一人ひとりの身体で繰り広げられる時なのです。
それでは、終末に父の前に立つ者は誰でしょうか? 主の名と父の名がその額に刻まれた者が、終末の父の前に立てる14万4千人の群れに入ることができると仰せになりました。
今日の私たちは、聖霊の歴史を通じてキリストの認めを受け、キリストと聖霊の認めを受けた後に、誰の認めを受けるべきかと言えば、父の認めを受けるべきです。そして聖霊は母なる神であり、イエス様は父なる神と言われていましたので、これまで聖霊を受け取ったならば、今度は父なる神を受け取る時が来たということです。
したがって、私たちが父なる神を受けるためには、どうすればよいでしょうか? 父と私とが永遠に一つになる資格を得なければなりません。では、一つになるためにはどれほど切望すればよいのでしょうか? イエス様が復活して40日間を過ごされ、約束を残して昇天された後、120人の弟子が一つになり、切望の心で待ち望んでいたその以上の切望の心で、「父の神よ、早く臨まれますように!」と切望しなければなりません。その時が今私たちの前に来たのです。
では、この時にあなた方はどうすればよいでしょうか? あなた方は自分のものがないという事実を知るべきです。私の体も私の心も私のものではないということです。自分のものだという人は、まだサタンの側にいるのです。あなた方の分け前とは、あなた方の心の中で感じる使命だと考えてください。私たちはこのような心を持たなければなりません。
私が私のものでなければ、私は誰のものになるべきでしょうか? 私は父のものにならなければなりません。父のものになるためには、父の御心を中心にし、一つの心とならなければなりません。一つの心と一つの意志がなければ、神の御心は成就されません。
120人の弟子がマルコの屋根裏部屋で一つになったように、終末において120人の弟子以上の人々が一つの心で結びつけることができるでしょうか? これが問題ですが、そのような道を行く私たちにとって、誰が敵でしょうか? 一つに結びつくことを断ち切り、破壊する条件を提示しようとする集団があるなら、そのような集団があなた方の敵です。
今日、私たちが戦わなければならないのは、世界のサタンではなく、聖徒たちが動く様子や、天にいる使徒たちを中心にし、信徒たちが動く様子と同じ様相を持ち、自分の心に誤った心を抱いて動くこのような群れが、今日の私たちの敵であること、あなたたちの中にそのような心を持つ者がいるならば、聖徒たちの前に正直に打ち明けなければならないことです。打ち明けずに天の前にこれを隠していって、重苦しい条件に陥りながら、天の前に進もうとするならば、その人の終末の運命は審判台を免れることはできません。
ですから、今日のあなたたちは心のかばんを解いて置かなければなりません。そうしないでアナニアやサッピラのようなそのような心に捕われて、心身で自分を囲み、自分のものを満たして置き、天の全体の価値を考えず、神と一つにならず、一つの意志を達成しようとするこのような心を忘れ置かれて、自分のものとして主張すれば、終末には天の審判を免れることはできません。
では、今あなたたちは何を知らなければならないでしょうか? 自分が二つの心を持っている矛盾した存在であることを知らなければなりません。そしてあなたたちと異なる考えを持っている兄弟がいることを知らなければなりません。そうであっても、あなたたちはあなたたちと異なる考えを持つ兄弟を反対せず、その兄弟と一つになろうとしなければなりません。これが父の御心です。
あなた自身が真実な命を持つ存在として、天の義の歴史を経験した十人と一つになれば、十人の物質を持つようになり、百人と一つになれば、百人の物質を持つようになるのです。
堕落とは何か? 神と私たちの心が一つにならなかったことです。サタンは何か? 天と私たちとの心を引き裂いたものがサタンです。あなたがたが今日この教会を中心にして、父の御心を求め、原理の言葉を学びながらいます。この原理の言葉を中心にして生活することが神の御心であるため、あなたがたがその御心を中心にして生活しない限り、アナニアやサッピラのようなそのような立場を免れることはできません。
今、そのように非常に恐れ多い時であるため、あなたがたが今条件に陥れば、脱出する術がないことを知らなければなりません。誰一人として自分を守るために弁明してくれる時が来ていることを知らなければなりません。昔も今も無知な人々は、天の方向と衝突した後に気付きます。しかし、その時はもう遅いのです。
あなたがたに父の御心を案じる心がありますか? そうであれば、兄弟たちと一つになりなさい。父の御心を求めて努力する心がありますか? 自分が一つになれる生命の源となりなさい。一つになれないすべての条件を補うし、自分が居る所で一つになれる力を示す人が、お父様の子・娘であるのです。
父の御心のために最後の戦い場に立ち、父の御心を達成しようとする責任感を感じる皆さんなら、自分のすべてを忘れて統一しなければなりません。一心一意になって、一つの姿を持たなければなりません。ここに裏切り者がいるとしても、ペテロがため息をついたように、皆さん自身がまずこの心を持ち、それぞれがサタンのすべての条件を排除しなければなりません。そうしないと、最初は神の御心を強く支持していても、知らぬ間にサタンの支配下に落ちてしまうことになります。これを忘れてはいけません。
今、一心一意になれない場合、むしろ原理を知らずに神の御心を知らなかった方がましなことでしょう。もしアナニアやサッピラが使徒たちの集まりを知らなければ、裁きを受けなかったでしょう。こうして、壮大な歴史的瞬間に皆さんが立っているのです。
今、全てを忘れ、一心一意になり、そのために熱中し、全力を注ぎ、忠誠を尽くし、最後の父の手にしっかりとしがみつかなければなりません。
すると、皆さんは勝利の子となるでしょう。最後に聖霊の手を経て、イエスの手を経て、父の手を握った後、再びサタンは奪うことはできません。このような瞬間に直面している今日の皆さんは、「アーメン」とおっしゃられた主の約束を心に留め、今日も明日も、使徒たちが切望したように熱心な心で父の手を握り、父の命令に従って行動し、善と悪を見分ける資格者とならなければなりません。そうしなければ、聖霊の裁きもイエスの裁きもなく、父が行う裁きの大いなる山を越えることはできません。
父の裁きの時がまだ来ていないため、イエスや聖霊の時には罪を犯しても許されましたが、父の裁きの時には許しがないということです。私たちはこの意味を理解し、私たちの心と意志が一致しない人がいれば、父も運行できないという原理の言葉を学びました。そして、どの程度統一されているかに応じて、神の御心がそこに比例して現れることを理解しなければなりません。
今、皆さんが父の聖霊を受けて、父と同じ心で生活する人にならなければならない時です。そうなると、皆さん自身に父が直接教えてくださることがたくさんあるでしょう。父が自ら現れて介入し、皆さんの進む道を教え、サタンと戦う方法も教えてくれるでしょう。
したがって、皆さんは互いに父なる神の聖性を受け取り、父なる神と同じ心を持ち、父なる神の御旨を受け入れ、父が私を代わりにし、私もまた父を代わりと感じると同時に、一体となることができなければなりません。このような形が広がるにつれて、次第に父なる神の御旨が達成されることになります。何度も祈るよりも、皆さんが一体となろうとする努力を、他の誰よりもたくさん行い、深くその価値を理解し、御旨のために闘う心を持つことが重要です。そうでなければ、裁判台に立たされることになるでしょう。
ですから、この時点では、皆さん個々人が心と体を合わせて父なる神の聖性を受け入れ、父と一体となる生活をしなければ、父の御旨を知ることもなく、父の御旨を知らない限り、父の心も知らないということです。父の心を知らない限り、父の御旨を中心にして一体となることはできないのです。
皆さん自身がこれまでこの教会に通ってきたからこそ、今知るべきことは、父の御旨の前に皆が一心一意になることと、父の御旨が私の御旨であり、父の心が私の心であるべきだということ、このようにならなければ神の権威の行使が起こらないことを知る必要があります。
イエスと聖霊も父の御旨を中心にし、父の心を中心にし、一体となった時に勝利的な復活の歴史がありました。同様に、皆さんも父の熱望が皆さんの心と一体となり、神の御旨が皆さんの御旨と一致して、互いにそれを達成しようとする何かの力が一つの方向に向かうことを感じるようになった時、ここで皆さんが考えられない神の権威の行使が現れるのです。
したがって、二人が一緒に祈る中で神が動きます。したがって、皆さんが意志を見据える中で、三位一体の期待を生み出してくれました。皆さんが三位一体の期待を中心に据え、どの程度まで一心一意になれるか、これが問題です。
密議を中心にし、どの程度一心一意になったか、これが問題です。もし過去にこのように一心一意になる使命を持っていたのにもかかわらず、一心になれなかった立場に立っていた人は特に、自分がアナニヤやサッピラと同じ立場に立っていたということを忘れてはいけません。すべてを忘れて今、最後の戦いを展開するためには、結束した力と結束した心と一つの御旨を私たちは全体的に実現しなければなりません。今日、私たちが標語を立てるなら、『一心になろう、一つの御旨になろう』です。
一心一意となるためには、皆さんは物質や社会的な名誉、社会的な地位や権力など、すべてを忘れることができる人間でなければなりません。これが阻まれているのであれば、これを堂々と打ち破ることができる人間でなければなりません。昔、使徒たちがマルコの屋根裏部屋に現れた聖霊の歴史と同じように、無知な敵を打ち破った英雄を生み出すことができるでしょう。皆さんもそのような心を持って、「一つの心とならせ、一つの意志とならせ、一つの行動が現れるようにしてください。」と祈るべきです。これが今私たちが叫ばなければならない標語です。これを阻止し、これを実現できないような人がいるのであれば、その人は直ちに天の敵であると言えます。
皆さんは今日、大きな目標が達成されることを望みますか?それなら、一心にならなければなりません。大きな栄光が現れることを望みますか?皆さん一人一人が一体とならなければなりません。心が一致する場所にはすべてが通じます。無限に忍耐することもできます。
ですから、今日は早急に一心にならなければなりません。私の心に一致しない要素がありますか?これが敵であり、これが大悪魔であることを知り、これがあなたを地獄に引きずり込むことを知らなければなりません。サタンがあなたを取り憑くことを知らなければなりません。それが条件となり、あなたが裁判台に立たされることになるのです。
そのような条件をあなたの生活から取り除き、環境から整理していく覚悟を持ち、あなたの心が一つになり、意志が一つになり、父の心と父の御旨の代理としてサタンを従わせるまで、私たちは団結しなければなりません。今日この時だけではありません。10年後もサタンのものが残っていると言えば、父の御旨が達成されるまで10年間一人と団結し、10年間千人と団結しなければなりません。私たちは生涯をささげてサタンと戦い、結局サタンを従わせて、私たちが生きている間に父の栄光を示さなければなりません。これを皆さんは忘れてはなりません。
<祈祷>
お父様の心とアダムの心が一つになり、お父様の御旨とアダムの御旨が一つになったならば、今日私たちが二つの世界が互いに戦う悲しい歴史がなかったと知っています。
今日、私たちの心にはお父様の悲しい心と哀しい心があります。誠実な心はこれを認めていますが、自己中心的な堕落だけがこれを否定しています。常にこのような真心と私心の戦いに直面している私たちであることを知っていますから、今日私たちは自分の心を整え、お父様の心と一体になるように許してください。
自分の意志を整え、神の意志と一体にならなければならない戦いの時期が近づいていますので、お父様、もし子供の中にお父様と一体になれない心があれば容赦してください。自分のすべてを忘れて、ただお父様の心とお父様の意志と一体になるために努力する私たちが、許されるようにしてください。
お父様の心と一つになったその心は、何千万もの金を払っても変えることのできない心だと知っております。その一つを見つけるために、あらゆるものを犠牲にしてでも戦い抜くことができ、守り抜くことができるように、私たちを導いてください。愛するお父様、切望し、願っています。
お父様、今こそ極めて困難な時であり、また、サタンが私たちの一つになろうとする心を阻止しているため、あなたの御心を遂げるために、他者のために自らを犠牲にする新たな組織を築くことができるように許してくださいと切望し、願っています。
あなたの御心に従って戦うことができ、あなたの栄光を広げるための使命を果たすことができるように、許してくださいと切望し、願っています。
この日に集まった私たちの心と意志が、お父様の前に一つの姿として、サタンを屈服させる条件となるように許してくださいと切望し、願っています。全てを主の御名によって、お祈りいたします。アーメン。
1957年11月10日(日)前本部教会
使徒行伝4:27-5:11
<祈祷>
愛お父様、最後の戦いが私たちの目の前に迫り、イスラエルの民に告げ示され、示された父の御心をこの地上に成就させねばならないこの場所で、再び聖霊が現れなければならない時が迫っていることを認めます。
今は前例のない歴史的犠牲を全地球の前に示さねばならない新たな時であり、お父様の無限の努力の手を共にしなければならないと感じております。お父様、お任せください。立ててください。呼んで命じられるときには、天の力と能力を授けてください。お父様が望まれる御心をこの地上に成就させ、余剰があるように、歴史をなさってください。お父様、切望し、願っております。
主を失い、120人の弟子がマカの屋根裏部屋で一つになり、叫び声を上げたその叫び声が天地を通して新たな再創造の歴史を引き起こしたことと同様に、今日、私たちも心と体が一つとなり、お父様の御心を代わりにマカの屋根裏部屋に集まった120人の弟子と同じ歴史を私たちの心と体に示してください。
そして、天が震動し、地が揺れ、勝利的な天の栄光がこの地上に現れることを許してください。お父様、熱望し、望んでおります。そして、これまで多くの先達がただお父様の御心のために自らのすべてを捧げたことと同様に、私たちもお父様の御心の前に純粋な心で従う生ける犠牲として捧げられることを許してください。愛するお父様、切望し、望んでおります。
この時間、私たちのすべてを父に委ねました。喜びの御心を示してください。約束された時と場所を延期しないでください。急いで起こし、6000年間にわたって結びついた憎しみの感情を解消してください。お父様、切に頼み、望んでいます。
この場に集まった私たち一人ひとりが、新たな決意と決心を持ち、新たな誓いとしてお父様の子女の資格を自ら持ち、進んで行けるように許してください。
切に願い、望み、すべての言葉を主の名においてお祈り致しました。アーメン。
<御言葉>
今日のこの時間は、「神の力は一つの心と一つの意志が結ばれた場所に現れる」と題して、お話ししたいと思います。
イエス様が復活された後40日間、この地におられ、慰めの聖霊を送り、約束され、昇天されましたが、イエス様を追っていた弟子たちは、イエス様が復活された栄光の姿を見て、神の約束の意味が成就されると思い喜んでいましたが、イエス様は彼らにいつ「再び来る」と明確な言葉を述べないまま昇天してしまったのです。
では、当時の弟子たちの心境はどうだったでしょうか?愛する主イエスを十字架に掛けた不信のイスラエルの民とユダヤ教の一派に対する言いようのない敵意が湧き上がったでしょう。復活した主の御心、神の御心であれば自分の身が粉々になり、骨が溶けることすらあるとしても、最後の勝利のために復活した主を追いかける覚悟を持っていたことでしょう。
そのような覚悟、すなわち主が去られた後、天に慕い求めていたその心、死ぬことがあっても、または困難な十字架の道が遮られているかもしれないが、この道を放棄してはならないという覚悟を持っていた姿で、弟子たちはこの人あの人に対して励まし合ったでしょう。そうしてこのような心境にあった弟子たちに、イエス様は現れて聖霊を送り、約束されました。
その後、マカの屋根裏部屋に集まった120人の弟子は、天が背後で起こすことも想像もつかない体験をしてから、歴史的なすべての理の意味を受け止めることができ、またイエス様の30年間の人生の経験と3年間の公生涯の中で感じた内的な心情を共感する段階に入ったのです。
そして彼らは、自分たちがイエス様を裏切った罪悪感に押しつぶされずにはいられず、この地に来られたイエス様が自分たちにそうではない天の唯一の子であったことを悟るようになりました。
さらに彼らは、イエス様がこの地に万民の救い主として来られたことを確実に悟れば悟るほど、心の中で鉄壁の覚悟と決意を持ち、兄弟と兄弟、使徒と使徒、信徒と信徒が励まし合い、一つの心を中心にして一つの目標に向かって動くようになりました。
彼らが追求する一つの意志のために、お互いが心を交換し、お互いに一体となって、120人の弟子が一人ひとり異なっているが、父の御心に従って進む方向とその動きは一つの姿として現れることです。
このような現象が使徒たちの間で起こり、彼らは燃え盛る心を持ち、その後彼らはどこを向いて叫ぶようになったのでしょうか?彼らはイエス様を反対したイスラエルの民を向いて叫び始めました。そして、イエス様を信じない多くの人々に対して、新たな決心と覚悟を持って新たな誓いとして、自分たちが一体となっているその心を曲げる者がないことを示しました。
自分たちが最初に天の前に固く誓い、覚悟した姿で現れたことはもちろんですが、いかなる迫害が激しい環境であっても確固たる中心を持って現れる時に、天は彼ら一人ひとりをイエスの代わりの存在として立て、使命を委ねられたことを皆さんは知るべきです。
このような心を持った人は一人だけではありませんでした。そして、主を失った悲しみが大きければ大きいほど、その心には悔しさが入り混じり、神の御心が強く動くほど、その心には天を裏切った群衆に対する敵意が強く高まりました。彼らを一挙に砕き、天の御心を即時に成就させる覚悟で天に対して現れた時、ここには人間ではなく、神の力が現れたのです。
ここで人間としては想像できない神の直接的な権能の行使が無知な民、不信心の民、反逆的な民に示されたことを私たちは知らなければなりません。
こうして120人の弟子がマカの屋根裏部屋に集まり、聖霊を送って下さるというお約束を心に信じ、一つになって祈ることがなければ、今日のキリスト教は世界的な宗教にはならなかったでしょう。
その時、地に伏して祈っていた120人の弟子には恐れる心がありませんでした。自らの名誉や自らの体面、そして家庭さえもすべて忘れ、ただ主の約束がいつか、どこかで果たされると信じ、120人の弟子が一つになって祈るとき、4000年間、天と地の間に立ちふさがっていた死の支配を打ち破り、聖霊が地上に臨んだのです。
この出来事は偶然ではありませんでした。この出来事によって人間を再び創造できる新しい道が切り開かれたのですが、これが誰によって成し遂げられたのか?これは120人の弟子が一つの心、一つの熱意、一つの犠牲の精神で父の御心を望み求めた切実なその心によって成し遂げられたのです。こうして地において行われなかった聖霊の歴史がようやく新たな歴史的な出発をすることができたということをあなた方は知らなければなりません。
120人の弟子は天に向かって切望する心に感動し、どんな敵にも対処しながらも死を覚悟して進んでいく心を持つようになりました。ここに天の力が再び働いたので、この力は誰も断つことができなかったのです。このような力が踏み台となって彼らが言葉通り天を動かせる力を行使したことをあなた方は知らなければなりません。
では今日の神の御心を成就するためにはどうすればよいでしょうか?まず第一に、私たちは神と一体となる心を持たなければなりません。神と一体となる心の持ち主になった後、私たちはまた兄弟と一体となる心を持たなければなりません。これが最後に神の御心を成就するための最も重要な礎になるということをあなたがたは忘れてはなりません。
この地上には千人いれば千通りの考えがありますが、神の御心は一つです。そのため、私たちは自分の意見や提示する条件を踏みにじり、全てのものを取り除き、父の御心、父の条件に従うべきです。私たちの考えや心が異なり、それぞれの立場や環境が異なっていても、父の御心と一致しなければ神の御心は達成されないということです。
では、当時の使徒たちはどの程度まで一致していたでしょうか? 有無相通する程度まで一致していました。彼らは自分のものと他人のものの区別がありませんでした。彼らは神の御心を中心に置き、私はあなたであり、あなたは私であるという統一の心で、一つになりました。したがって、彼らは誰がどのような困難に直面しようとも、それを個人の問題として放置せず、自らの問題として捉えました。
兄弟の苦難を自らの骨と肉、髄として感じるようになったとき、天も動きました。つまり、あなたも互いに自分のすべてを忘れ、ただ父の御心だけを求めるためにどんな犠牲が伴っても自らのすべてを捧げる覚悟、兄弟の苦難を自らの苦難として感じる心を持つ者にならなければなりません。
今、地上に生きるあなた方にとって、物質が敵です。あなたが自分の財布に入っているお金を自分のものと考え、また自分だけがそのお金を使えると考え、私の意志のためにそのお金が使われるべきだと考える自己中心的な考えに捕らわれているならば、あなたはまだ父の御心を中心に置き、一つになった立場にありません。
これに対する天の憐れみと哀れみは、あなたが想像する程度の悲しみや哀れみではないことを理解しなければなりません。あなたが想像できないほどの悲しみ、あなたが想像できないほどの緊急事態に置かれていることを、あなたが思いやり、理解する必要があります。
さて、あなたは使徒たちを見習い、全信徒が従っていた初代教会の動きを取り入れなければなりません。そうしないと、天の祝福を受けることができない最後の聖者たちであり、天国の審判の行使を代行しなければならない最後の聖者たちであるあなたは、天の御心を自分のものに利用する人となったのではないか、自らを考えなければならない時が来たということを心に留めなければなりません。
このような使徒たちの動き、あなたにとっても私にとっても、全体が一つの心となることを阻むものが現れるのは、サタンの働きです。それは、信じるすべてのものを一つにし、神の審判を代行するように、全てを信じ、一致できる環境を崩すためのサタンの働きです。
このように一つに結ばれた使徒たちの前に、誰が現れたかというと、アナニヤとサッピラが現れました。彼らは使徒たちが行動し、信者たちが動くのをうらやましく思っていたのです。しかし、それは世俗を中心にした、うらやむ気持ちだったのです。今日の私たちにとっては、これを忘れてはならないことです。
天の驚くべき恵みは、だれにでも栄光ある恵みとして示され、だれもがそれが自分に現れることを望むでしょう。ペテロが一言言うだけで、数千人が悔い改め、あるいは異言を話し、病人が癒されるなど、想像を絶する驚くべき出来事が起こるのを見て、アナニヤとサッピラが同じ立場にあることをうらやみながら、自分も同じ立場に立とうとする人間的な考えを持ち、一つの聖徒の姿として現れるとき、天は許せなかったのです。今日のあなた方は、特にこれを忘れてはならないでしょう。
自分が持っていたものを売って、いくらかを隠しておき、一部だけを差し出し、その後すべてを差し出したかのような振る舞いをすると、天の意志を破壊しようとする、巧妙なサタンの策略であることを、あなた方は知らなければならないでしょう。
自分の真心をそのまま示して、天の意志に吸収される聖徒ならば、差し出すことは問題ではありません。『私の心を全部差し出します。死んでも生きても、あなたの喜ばれるとおりに主がお使いになり、支配してください』と祈りながら、切望する心を持ち、すべてを忘れて差し出し、動く使徒たちの前にアナニヤとサッピラが自分の欲望を中心にし、自分の問題を心配し、立ち去ったことは、イエスの昇天直後、初代教会が新たな基盤を築かなければならない場で、天の道を遮る最大の条件となったのです。
アナニヤの心情が聖霊を通して露呈されると、ペテロは、「天には許されないサタンがあなたの心に入り込んでいる。あなたにサタンが侵入したことは許されない」と言い、聖霊の言葉を代弁し、アナニヤを裁いたことを、この時に悟らなければなりません。
それでは、今度は私たちはどのような心構えを持つべきでしょうか? 自分を中心に置いた条件を立て、天の意志に立ち向かおうとする者は、アナニヤやサッピラと同じ立場に置かれることになります。これは何を予告しているのでしょうか?これは、一つにまとまる群れの前に一体になれない要素を持つ者は、終末の審判の時、死を免れないことを予告しているのです。
マルコの屋根裏部屋に集まった120人の弟子は、昇天した主イエスのためにすべてを捨て、自分の名誉や面目やすべての社会的状況を忘れ、あなたも私も一つで、こちらもあちらも一つで、約束された言葉を崇拝しながら、一つに結びついたとき、ここで天の新たな計画が聞かれました。
終末の使命を担う私たちには、マルコの屋根裏部屋に集まった120人の弟子に起きたような歴史が起こるべきです。そして今、この時こそ、聖霊と聖者と父の歴史が、あなた方一人ひとりの身体で繰り広げられる時なのです。
それでは、終末に父の前に立つ者は誰でしょうか? 主の名と父の名がその額に刻まれた者が、終末の父の前に立てる14万4千人の群れに入ることができると仰せになりました。
今日の私たちは、聖霊の歴史を通じてキリストの認めを受け、キリストと聖霊の認めを受けた後に、誰の認めを受けるべきかと言えば、父の認めを受けるべきです。そして聖霊は母なる神であり、イエス様は父なる神と言われていましたので、これまで聖霊を受け取ったならば、今度は父なる神を受け取る時が来たということです。
したがって、私たちが父なる神を受けるためには、どうすればよいでしょうか? 父と私とが永遠に一つになる資格を得なければなりません。では、一つになるためにはどれほど切望すればよいのでしょうか? イエス様が復活して40日間を過ごされ、約束を残して昇天された後、120人の弟子が一つになり、切望の心で待ち望んでいたその以上の切望の心で、「父の神よ、早く臨まれますように!」と切望しなければなりません。その時が今私たちの前に来たのです。
では、この時にあなた方はどうすればよいでしょうか? あなた方は自分のものがないという事実を知るべきです。私の体も私の心も私のものではないということです。自分のものだという人は、まだサタンの側にいるのです。あなた方の分け前とは、あなた方の心の中で感じる使命だと考えてください。私たちはこのような心を持たなければなりません。
私が私のものでなければ、私は誰のものになるべきでしょうか? 私は父のものにならなければなりません。父のものになるためには、父の御心を中心にし、一つの心とならなければなりません。一つの心と一つの意志がなければ、神の御心は成就されません。
120人の弟子がマルコの屋根裏部屋で一つになったように、終末において120人の弟子以上の人々が一つの心で結びつけることができるでしょうか? これが問題ですが、そのような道を行く私たちにとって、誰が敵でしょうか? 一つに結びつくことを断ち切り、破壊する条件を提示しようとする集団があるなら、そのような集団があなた方の敵です。
今日、私たちが戦わなければならないのは、世界のサタンではなく、聖徒たちが動く様子や、天にいる使徒たちを中心にし、信徒たちが動く様子と同じ様相を持ち、自分の心に誤った心を抱いて動くこのような群れが、今日の私たちの敵であること、あなたたちの中にそのような心を持つ者がいるならば、聖徒たちの前に正直に打ち明けなければならないことです。打ち明けずに天の前にこれを隠していって、重苦しい条件に陥りながら、天の前に進もうとするならば、その人の終末の運命は審判台を免れることはできません。
ですから、今日のあなたたちは心のかばんを解いて置かなければなりません。そうしないでアナニアやサッピラのようなそのような心に捕われて、心身で自分を囲み、自分のものを満たして置き、天の全体の価値を考えず、神と一つにならず、一つの意志を達成しようとするこのような心を忘れ置かれて、自分のものとして主張すれば、終末には天の審判を免れることはできません。
では、今あなたたちは何を知らなければならないでしょうか? 自分が二つの心を持っている矛盾した存在であることを知らなければなりません。そしてあなたたちと異なる考えを持っている兄弟がいることを知らなければなりません。そうであっても、あなたたちはあなたたちと異なる考えを持つ兄弟を反対せず、その兄弟と一つになろうとしなければなりません。これが父の御心です。
あなた自身が真実な命を持つ存在として、天の義の歴史を経験した十人と一つになれば、十人の物質を持つようになり、百人と一つになれば、百人の物質を持つようになるのです。
堕落とは何か? 神と私たちの心が一つにならなかったことです。サタンは何か? 天と私たちとの心を引き裂いたものがサタンです。あなたがたが今日この教会を中心にして、父の御心を求め、原理の言葉を学びながらいます。この原理の言葉を中心にして生活することが神の御心であるため、あなたがたがその御心を中心にして生活しない限り、アナニアやサッピラのようなそのような立場を免れることはできません。
今、そのように非常に恐れ多い時であるため、あなたがたが今条件に陥れば、脱出する術がないことを知らなければなりません。誰一人として自分を守るために弁明してくれる時が来ていることを知らなければなりません。昔も今も無知な人々は、天の方向と衝突した後に気付きます。しかし、その時はもう遅いのです。
あなたがたに父の御心を案じる心がありますか? そうであれば、兄弟たちと一つになりなさい。父の御心を求めて努力する心がありますか? 自分が一つになれる生命の源となりなさい。一つになれないすべての条件を補うし、自分が居る所で一つになれる力を示す人が、お父様の子・娘であるのです。
父の御心のために最後の戦い場に立ち、父の御心を達成しようとする責任感を感じる皆さんなら、自分のすべてを忘れて統一しなければなりません。一心一意になって、一つの姿を持たなければなりません。ここに裏切り者がいるとしても、ペテロがため息をついたように、皆さん自身がまずこの心を持ち、それぞれがサタンのすべての条件を排除しなければなりません。そうしないと、最初は神の御心を強く支持していても、知らぬ間にサタンの支配下に落ちてしまうことになります。これを忘れてはいけません。
今、一心一意になれない場合、むしろ原理を知らずに神の御心を知らなかった方がましなことでしょう。もしアナニアやサッピラが使徒たちの集まりを知らなければ、裁きを受けなかったでしょう。こうして、壮大な歴史的瞬間に皆さんが立っているのです。
今、全てを忘れ、一心一意になり、そのために熱中し、全力を注ぎ、忠誠を尽くし、最後の父の手にしっかりとしがみつかなければなりません。
すると、皆さんは勝利の子となるでしょう。最後に聖霊の手を経て、イエスの手を経て、父の手を握った後、再びサタンは奪うことはできません。このような瞬間に直面している今日の皆さんは、「アーメン」とおっしゃられた主の約束を心に留め、今日も明日も、使徒たちが切望したように熱心な心で父の手を握り、父の命令に従って行動し、善と悪を見分ける資格者とならなければなりません。そうしなければ、聖霊の裁きもイエスの裁きもなく、父が行う裁きの大いなる山を越えることはできません。
父の裁きの時がまだ来ていないため、イエスや聖霊の時には罪を犯しても許されましたが、父の裁きの時には許しがないということです。私たちはこの意味を理解し、私たちの心と意志が一致しない人がいれば、父も運行できないという原理の言葉を学びました。そして、どの程度統一されているかに応じて、神の御心がそこに比例して現れることを理解しなければなりません。
今、皆さんが父の聖霊を受けて、父と同じ心で生活する人にならなければならない時です。そうなると、皆さん自身に父が直接教えてくださることがたくさんあるでしょう。父が自ら現れて介入し、皆さんの進む道を教え、サタンと戦う方法も教えてくれるでしょう。
したがって、皆さんは互いに父なる神の聖性を受け取り、父なる神と同じ心を持ち、父なる神の御旨を受け入れ、父が私を代わりにし、私もまた父を代わりと感じると同時に、一体となることができなければなりません。このような形が広がるにつれて、次第に父なる神の御旨が達成されることになります。何度も祈るよりも、皆さんが一体となろうとする努力を、他の誰よりもたくさん行い、深くその価値を理解し、御旨のために闘う心を持つことが重要です。そうでなければ、裁判台に立たされることになるでしょう。
ですから、この時点では、皆さん個々人が心と体を合わせて父なる神の聖性を受け入れ、父と一体となる生活をしなければ、父の御旨を知ることもなく、父の御旨を知らない限り、父の心も知らないということです。父の心を知らない限り、父の御旨を中心にして一体となることはできないのです。
皆さん自身がこれまでこの教会に通ってきたからこそ、今知るべきことは、父の御旨の前に皆が一心一意になることと、父の御旨が私の御旨であり、父の心が私の心であるべきだということ、このようにならなければ神の権威の行使が起こらないことを知る必要があります。
イエスと聖霊も父の御旨を中心にし、父の心を中心にし、一体となった時に勝利的な復活の歴史がありました。同様に、皆さんも父の熱望が皆さんの心と一体となり、神の御旨が皆さんの御旨と一致して、互いにそれを達成しようとする何かの力が一つの方向に向かうことを感じるようになった時、ここで皆さんが考えられない神の権威の行使が現れるのです。
したがって、二人が一緒に祈る中で神が動きます。したがって、皆さんが意志を見据える中で、三位一体の期待を生み出してくれました。皆さんが三位一体の期待を中心に据え、どの程度まで一心一意になれるか、これが問題です。
密議を中心にし、どの程度一心一意になったか、これが問題です。もし過去にこのように一心一意になる使命を持っていたのにもかかわらず、一心になれなかった立場に立っていた人は特に、自分がアナニヤやサッピラと同じ立場に立っていたということを忘れてはいけません。すべてを忘れて今、最後の戦いを展開するためには、結束した力と結束した心と一つの御旨を私たちは全体的に実現しなければなりません。今日、私たちが標語を立てるなら、『一心になろう、一つの御旨になろう』です。
一心一意となるためには、皆さんは物質や社会的な名誉、社会的な地位や権力など、すべてを忘れることができる人間でなければなりません。これが阻まれているのであれば、これを堂々と打ち破ることができる人間でなければなりません。昔、使徒たちがマルコの屋根裏部屋に現れた聖霊の歴史と同じように、無知な敵を打ち破った英雄を生み出すことができるでしょう。皆さんもそのような心を持って、「一つの心とならせ、一つの意志とならせ、一つの行動が現れるようにしてください。」と祈るべきです。これが今私たちが叫ばなければならない標語です。これを阻止し、これを実現できないような人がいるのであれば、その人は直ちに天の敵であると言えます。
皆さんは今日、大きな目標が達成されることを望みますか?それなら、一心にならなければなりません。大きな栄光が現れることを望みますか?皆さん一人一人が一体とならなければなりません。心が一致する場所にはすべてが通じます。無限に忍耐することもできます。
ですから、今日は早急に一心にならなければなりません。私の心に一致しない要素がありますか?これが敵であり、これが大悪魔であることを知り、これがあなたを地獄に引きずり込むことを知らなければなりません。サタンがあなたを取り憑くことを知らなければなりません。それが条件となり、あなたが裁判台に立たされることになるのです。
そのような条件をあなたの生活から取り除き、環境から整理していく覚悟を持ち、あなたの心が一つになり、意志が一つになり、父の心と父の御旨の代理としてサタンを従わせるまで、私たちは団結しなければなりません。今日この時だけではありません。10年後もサタンのものが残っていると言えば、父の御旨が達成されるまで10年間一人と団結し、10年間千人と団結しなければなりません。私たちは生涯をささげてサタンと戦い、結局サタンを従わせて、私たちが生きている間に父の栄光を示さなければなりません。これを皆さんは忘れてはなりません。
<祈祷>
お父様の心とアダムの心が一つになり、お父様の御旨とアダムの御旨が一つになったならば、今日私たちが二つの世界が互いに戦う悲しい歴史がなかったと知っています。
今日、私たちの心にはお父様の悲しい心と哀しい心があります。誠実な心はこれを認めていますが、自己中心的な堕落だけがこれを否定しています。常にこのような真心と私心の戦いに直面している私たちであることを知っていますから、今日私たちは自分の心を整え、お父様の心と一体になるように許してください。
自分の意志を整え、神の意志と一体にならなければならない戦いの時期が近づいていますので、お父様、もし子供の中にお父様と一体になれない心があれば容赦してください。自分のすべてを忘れて、ただお父様の心とお父様の意志と一体になるために努力する私たちが、許されるようにしてください。
お父様の心と一つになったその心は、何千万もの金を払っても変えることのできない心だと知っております。その一つを見つけるために、あらゆるものを犠牲にしてでも戦い抜くことができ、守り抜くことができるように、私たちを導いてください。愛するお父様、切望し、願っています。
お父様、今こそ極めて困難な時であり、また、サタンが私たちの一つになろうとする心を阻止しているため、あなたの御心を遂げるために、他者のために自らを犠牲にする新たな組織を築くことができるように許してくださいと切望し、願っています。
あなたの御心に従って戦うことができ、あなたの栄光を広げるための使命を果たすことができるように、許してくださいと切望し、願っています。
この日に集まった私たちの心と意志が、お父様の前に一つの姿として、サタンを屈服させる条件となるように許してくださいと切望し、願っています。全てを主の御名によって、お祈りいたします。アーメン。