文鮮明先生の言葉集 3 - 10. 神の悲しみを知る者となろう (1957年10月25日)
1957年10月25日(金曜日)、前本部教会
創世記6:5-13
<祈祷>
愛のお父様! 私たちが6000年の歴史を振り返るとき、あなたがいつも安らかに休まれ、楽しまれた時が一度もなく、むしろ悔いと悲しみに閉じこもってこられたことを認めます。またノアの時代を振り返ると、その時代と今日の時代が同様に神の前に立ち、悲しみの涙の跡を作っていることを私たちは感じます。
無知な人々の中で信仰の子孫を見つけるためにお父様の足跡が言い表せないほどの悲しみと哀しみに満ちていたその事情を今ここに集まった息子娘たちが慈しみ得るように許してください。初めてのノア一人を広大なサタンの世界の前に立たせるしかなかったお父様の心情も悲しかっただけでなく、ノアの心情も言い表せないほど悲しく孤独だったことを今この時私たちは悟らせてください、愛する父様、切に願います。
天の御心の前に選ばれた預言者たちはいつの時もその時代の人々の前に犠牲の供物として現れ、神の無限の悲しみの象徴として現れたのはノアだけを通してでなく、今までの歴史の過程で数多くの先達たちを通じても現れたことを私たちはよく知っています。またノアの後、神の御心を受け入れた多くの先達たちもノアのその道を再び歩んでいるという事実もよく知っています。
今最後の審判を迎えなければならない私たち自身、自らを天倫の前に立てねばなりません。私自身がノアと同じ心情を抱いているか、または今まで数多くの先達たちが愛くるしく思っていたその心情を持っているかを反省できるよう許してください。そして私たちこの時、お父様の前にお父様の子としての面目を保てるように導いてください、愛する父様、切に願います。
私たち、最後の審判を恐れて逃げる者となりたくないと願うお父様が導いてくださり、お父様の無限の憐れみの心情を慈しんで、お父様の悲しみを慰め、お父様の御心をこの地上で成し遂げるためにどのような不正の力とも戦う心を持てるように許してください、愛する父様、切に願います。
お父様、この時、ここに集まった息子娘を慈しんでください。昔、ノアに教え示されたような言葉を彼らに与えてください。それによって、私たち一人ひとりが持つすべての決意が一時的なものに終わらないように許してください。生涯を通じて困難な試練を克服し、他者を助ける知恵と力を持ち、また、何万ものサタンが周囲に立ちはだかっていても、それを打ち破って進む覚悟と決意を持つことを許してください。愛するお父様、切にお願い申し上げます。
お父様、この時伝える言葉に共にしてください。言葉を受け取る者の心と伝える者の心が一つになるようにしてください。お父様の恵みに満ち、天が動くならば私たちも動き、天が静まるならば私たちも静まり、天の御心と意志を理解できるように許してください。そして私たちの心に感じるその意志を永遠のお父様の前に立てる意志として受け入れ、進んでいけるようにしてください。愛するお父様、切にお願いいたします。
この一時、私たちの一身をただお父様の前に献げることができるように許してください。愛するお父様、切にお願いし、お願い申し上げます。この残りの時をお預けください。主の御名によって祈ります。アーメン。
<御言葉>
この時間は、「神の悲しみを知る者となろう」と題して皆様にしばらくお話しいたします。
悲しみは、これまで何千年もの歴史を経て、私たち人間と切り離せない不可分の関係を築いてきたことを皆さんはよくご存知です。また、皆さんは、人間だけが悲しんでいるわけではなく、人間と関わりを持つすべてのものが悲しんでおり、また、万物を創造し、人間を造られた創造主である神様も悲しんでおられることをよくご存知です。
皆さんが今、心を清め、上を見上げ、下を見下ろし、この地上の人類を見渡すとき、誰が神を代わりにして、人間を代わりにして、万物を代わりにして、悲しみの苦しみから解放されたと叫び立ってきたでしょうか?そのような人は、今まで一人もいなかったことを知るでしょう。
神の悲しみが取り除かれない限り、地上の人間の悲しみも取り除かれることはなく、地上に住む人間の悲しみが取り除かれない限り、人間をために造られた動物たちも悲しみを免れる道はありません。
では、神に悲しみをもたらした主たちは誰だったのでしょうか?その主たちは神でも万物でもなく、まさに人間でした。神の中心的な使命を担うべき人間、万物に対して与えられた責任を果たすべき人間が堕落によって神に悲しみをもたらし、万物にも悲しみをもたらしたのです。
ですから、今日の皆さんは自らが天地の前に独り立ちしていることを自覚し、心に流れるその悲しい感情を取り除く闘いの過程を経なければならない運命にあることを心に留めておく必要があります。
また、皆さんの悲しみはただ自分自身の悲しみで終わるものではなく、その悲しみは天の悲しみ、万民の悲しみにつながるものです。皆さん一人一人がその悲しみを持ち、自分の家庭、社会、国家、世界にまでその波及を及ぼすことになります。ですから、今日の皆さんはこのように重大な立場にあることを認識しなければなりません。
では、今日の私たちが同様に悲しい立場にある場合、どのような感情で天の悲しみを代弁し、どのような感情でこの地上の万民の悲しみを代弁し、または万物の悲しみを代弁したいと思うでしょうか。このような問題は、最後の審判を超えなければならない私たち堕落した人間が抱える問題の一つです。世界的なゴルゴダの試練に直面した今、私たちはその重荷と負担を自己負担に置き、『私は自由の身であり、希望の身であり、幸福の身であり、天地万物を愛する身である』と自負できるようにならなければなりません。また、私たちは神の悲しみを取り除き、万物の悲しみまで解消したと言える基準を超える人間にならなければなりません。
もしもそのような基準を超えられなかった場合、今日の皆さんがこの一時間に喜びを持つことができたとしても、その喜びは一瞬で終わり、喜びを得たとしても、その恵みは一瞬で終わり、すぐに悲しみに覆われることになります。そのような悲しみを取り除く責任が私たちにはあります。
では、私たちはその悲しみをどのように克服できるのでしょうか?それは人間単独では克服できません。そのため、天はこれまで何千年もの間、私たちに新たな力と新たな恵み、復活の歴史をもたらし、その悲しみを取り除くための闘いを私たちが知らないうちに行われてきたことを、私たちは原理を通してよく知っています。
そして、皆さんは人間の悲しみが天地の悲しみとなり、堕落した人間によって神と万物とが一つとなって進むべき愛の道を阻まれたことをよくご存知です。
ですから、今日の皆さんは自らの悲しみによって自滅する立場に立つべきではありません。皆さんの立場よりも先に、これまでの長い歴史を通じて多くの人類に対して悲しんでこられたお父様の悲しみが何であるかをまず考えるべきです。そうすることで、皆さんがそのお父様の悲しみを自分の実際の生活で感じる人間となれば、自らに降りかかる悲しみを単に自分自身の悲しみとして考えることができない状況に直面することになります。そのような立場を超えることができない場合、皆さんは終末の審判の頭を越えて神の心情を慰める資格者として立つことができないことを心に留めておく必要があります。
では、神様はどのような悲しみを抱えておられるのでしょうか?これが私たちが知るべき非常に重要な問題です。それは、神様が創造理想を達成するための中心的責任者として置かれたアダムとイブが堕落し、神が彼らを通して築こうとした創造の本質的な世界を成し遂げなかったことによる悲しみです。したがって、今日の皆さんはそのような神の悲しみを理解し、共感する人間とならなければなりません。
つまり、アダムとイブが堕落したことによって、永遠の神の愛と理想を中心に、愛の楽園で永遠の幸福を享受している創造の理想が挫折され、神様がこれまで数千年にわたって苦労されないわけにはいかなくなったことです。そのため、今日の皆さんはアダムとイブが堕落したことによって成し遂げられなかった創造理想を達成するために、神様が今までにサタンと戦いながら感じられたその悲しい心情を共感する人間とならなければなりません。
それでは、今、皆さんはアダムが失ったあの時の悲しみ、アダムとイブが神を裏切り堕落した時の神のその悲しい心情を共感しなければなりません。そのためには、まず神の愛が何であるかを知り、神が人間をどの程度愛されているかを共感しなければなりません。
そうでなければ、皆さんは神様がアダムとイブを失い悲しまれたあの心情をどうしても共感することができません。そのため、今日の皆さんは何よりもまずアダムとイブの堕落によって創造理想が実現されなかった神様の悲しい心情を共感しなければなりません。
創造理想を達成するための神の懐切な心情は、全ての人類に絡みついています。それを償うためのものが、これまでの歴史の中での神の摂理の歴史であることを皆さんは知らなければなりません。アダムの後、ノア、アブラハム、モーセ、イエスの時代まで続いたすべての先知先覚たちは、この地上で何を人々に証明し、何を紹介したでしょうか?彼らはただ神の悲しみを無知な人々の前に伝えたのです。
皆さんは、神が人間の堕落によって創造理想を実現できなかった悲しみを抱えていると同時に、その創造理想を達成するために多くの先知先覚を送り、彼らにサタンと戦わせた後、それを見て悲しみを感じざるを得なかった、二重の悲しみを持っていることを知らなければなりません。
つまり、神を裏切る無知な民衆に対して今まで誰も歓迎していない神の意志と、神のその悲しい心情を紹介するために、多くの先知先覚たちは懐切な苦労の歴程を歩んだのです。彼らは神の悲しみが内的に共感されるほど、地上のために神代わりの悲しみを感じなければならなくなり、神と同じ懐切な心情を持ち、サタンと戦わなければなりませんでした。
また、神の永遠の意志を代わって価値を認められる存在として現れなければならなかった彼らは、むしろ無知な人々に軽蔑され、拒絶され、非難されながら無価値にこき使われ、その姿を見ている神様は二重の悲しみを感じたのです。
神にとっては、自らの創造理想を達成しなかったことも悲しみですが、その創造の理想を実現するために、地上の無知な人々を目覚めさせ、サタンと戦わなければならない運命に置かれた多くの先知先覚たちを見ることも言い表せないほどの悲しみでした。このように、神は二重の悲しみを持っていたことを皆さんは忘れてはいけません。
ノアの時代を振り返れば、1600年にわたり神は言い表せないほどの懐切な心情に包まれましたが、耐え忍ぶ道を歩み出しました。どの瞬間も忘れることのできない人間に対する悲しみが襲いかかりましたが、それを全て耐え抜き、自らの悲しみを代わりに全人類の前や全てのものの前に完全に表したかったために、ノアを選んで立てられたのです。
それでは、なぜ神はノアをその当時の人間が理解できない立場に立てたのでしょうか?1600年間にわたり人間が神を悲しみに打ちひしがれさせたことをノア一人を立ててその悪人の悲しみと苦しみを感じさせるために、この理解できない環境に置いたのです。
ノアは自らを信じずに反対し、嘲笑する人々の前に沈黙して現れるようになりました。そして、120年後にこの地を審判するという天からの予告を受けたときも、彼は天に対する信仰の道理を全うしたのです。彼を見て当時の正しい人と言われました。彼が正しい人であった理由は、彼が生きる当時の社会が背信的であるほど、ますますその社会を心配し、悲しんだからです。
多くの人々が自己の怠慢に陥っている中、ノアだけが正義の道を求めて奮闘し、天の摂理を心配し、他人が望まない環境で悲しんでいたのです。そのようなノア、つまり当時の人々を心配し悲しむ心を持っていたノアだったからこそ、神は彼を呼ばれたのです。
ノアだけでなく、これまで神の意志を達成しなければならない責任を負ったすべての先知先覚が選ばれた理由は何でしょうか?それは彼らが全て当時の反逆的な土地と反逆的な人々を一人で心配していたからです。そのように個人や家庭、社会、国家、世界を心配する心を持ち、他人には知られずに、「天がありますか?もしそうなら、この罪深い地を救い出してください。」と祈りながら、天に対する熱い心情で忠誠を尽くしたため、彼らは天の呼びかけを受けることができたのです。
神がノアならノア、どんな預言者なら預言者を選び出すときのその心情は言葉にできないほど悲しみに打ちひしがれたことをあなたは知らなければなりません。また、神の前に召された預言者が地上の人々に不信と裏切りを受ける中で、必死に悲しい心情を持ち、「ああ、父よ!」と叫ぶ祈りの声が響き渡ったとすれば、その祈りの声は人々にとって喜びの声ではありませんでした。
しかし、そのような祈りを聞く神はその切ない嘆願に動かされて現れました。したがって、今日まで多くの先知先覚は神の悲しみを慰めるために、どんな苦難の道でも受け入れて歩んだのです。
誰もが懐切な心情を持ち、このように天に訴え、祈るその姿を見て神はますます感動し、涙する悲しみを持って彼らを受け止めたのです。
しかし、神が自分を信じて従う愛する預言者、または愛する子どもたちに対して、いつも安心して命令することができない立場であり、時間や場所を超えて協議できない状況であったことをあなたは知らなければなりません。このように、どのような象徴的な条件を設けてから、人間を扱うことしかできない神のその悲しみをあなたは知らなければなりません。
したがって、旧約時代は犠牲を通じて、新約時代はイエス・キリストを通じて神の悲しみを取り除く歴史が進んできたことを、皆さんはよくご存知でしょう。しかし、それによって神の御心がすべて成就したわけではありません。神は直接あなた方と心を通わせ、そしてあなた方を抱きしめ、神の愛の領域内で永遠に共に生きたいと願っておられます。神はすべての人を自分の子供として呼びたいと願っておられます。そして、すべての憎しみや悲しみを打ち明けたい心を、今日に至るまで抑えながらおられることを、皆さんは知っておかねばなりません。
今日、この地上に生きる皆さんは、自分の悲しみを他人や家族、または民族の前に告白できるかもしれませんが、神はそうすることはできません。また、皆さんは困難な時に、「私は悲しい。私は孤独だ」と自分の状況を告白するかもしれませんが、神様は数千年にわたる歴史の過程で、悲しくても悲しいと一言も言われなかったことです。このように、神の心情を感じ取ることができるべきです。
過去の歴史の中で、先知たちが自分の悲しみを紹介する前に、彼らの代わりに地上のすべての人々の悲しみを先に示したことを、皆さんは知っているでしょう。そして今、あなたが天に立ち向かいたいと思うなら、まず自分の過去を省みなければなりません。皆さんが自分の生活領域の中で6000年という長い歳月を通じて悲しんでいる神の前に慰めになる何か小さなことでもしたかを思い起こしてください。
そして未来を見据え、自分の所属する家族のために、またはこの国、この民族のために心配する人にならなければならず、また世界が揺らぐ中でも死の権力の中に巻き込まれるようになっても変わらない心で天を向いて歩む人にならなければなりません。そのようなあなたがなるならば、決して失敗することはありませんし、神から呪いを受けることもありません。
ですから、神は人間が堕落して創造理想を達成できなかったことから悲しんでおられ、また達成されなかったその理想を再び達成するために、この地を代わりに心配し努力する一人を探し出しておられるのです。今日のあなた方は、そのように悲しい立場にある神を慰め、その悲しみを取り除く道を持たなければならない運命に置かれています。
しかし、神が悲しみを与えたのも人間であるため、その悲しみを追放しなければならない者も人間であることを、皆さんはよく知らなければなりません。天主を代わって神の悲しみを解消する者が、まさにあなた自身であることに気づき、その悲しみを解消するために努力しなければなりません。これが皆さんが重視すべき最も重大な問題であることを確実に理解しなければなりません。
これまで神様は選ばれた人々の生涯のいかなる時も、一瞬たりとも悲しまれなかったことがありませんでした。なぜなら神様は、あなたの悲しみを和らげるために存在し、心から真心を尽くして中心的な使命を果たす人もいましたが、いつでもあなたの心が満足するほどに慰められることはありませんでした。神様はあなたが選ばれた人と心が通じ、事情が通じる立場にいらっしゃいましたが、その望まれることを彼らが当代に達成できなかったことを、お気の毒に思われたのです。
このような悲しみの歴史が4000年を経過した後、神様はついにこの地上に4000年の歴史を代わりに持ち、その4000年の歴史の中に行ったり来たりしたすべての預言者たちを代わりにできる方を送られたのです。
神様は天を代わって、万物を代わって、人間を代わってくださる一人の存在を送られました。その方が誰であるかと言えば、まさにあなたが信じているイエス・キリストです。その日は万物が喜び、すべての人が喜び、天が喜ぶ日であったことを、あなた方は知っておかねばなりません。
では、イエス様がこの地上に持ってこられたのは何でしょうか?彼は歴史の全ての人類の悲しみを代わりにし、すべての生物の悲しみを代わりにした存在、つまり言い表せない悲しみを抱えてこの地上に現れられたのです。そして、神の胸の中で4000年間痛み続けた悲しみを全人類とすべての生物の代わりに解消していただかなければならない責任を持ってこの地に現れられた方でした。
イエス様は人間が神を裏切り、神から離れたその堕落の歴史を振り返り、新しい視点から人間の命と宇宙の命を妨げているサタンと戦ったのです。つまり、いかなる悪魔的な血統とも関係を結ばず、神との関係を結ぶ唯一の思想、唯一の希望と喜びを追求されたのです。
イエス様は30年余りにわたってそのような歴程を歩まれましたが、誰一人として信じて共感してくれる人がありませんでした。4000年にわたる神の悲しみを和らげ、神の御心を達成するために30年余りも血の滴るような忠誠を尽くされましたが、イエス様のそのような事情を真実に理解してくれる者が一人もいなかったのです。
ユダヤ教会から、またはイスラエルの民から追われて、最終的にはどこにも行き場もなく、住む場所もなく、この町からあの町、この山からあの山へとさまよい続けたイエス様の悲しい事情を今日のあなたは感じなければなりません。
では、イエス様の悲しみはどのようなものでしたか?神の御心の前で担った使命を果たせない悲しみであり、無知な民に神の御心を説き起こすことができない悲しみでした。そのため、イエス様は当時の自分を反対し、信じないユダヤ教を悲しみ、イスラエルの民を悲しみました。
これらの悲しい事情に直面しているイエス様を見守る神様は、イエス様を迫害し、信じないユダヤ教とイスラエルの民を直ちに裁き滅ぼしたいと望んでいましたが、それが叶わなかったのです。このような神様の優しい悲しみがあったことを、あなた方は知っておかねばなりません。
イエス様がこの地上において万民の救い主として来られたのは、全人類の悲しみを代わりにし、すべての生き物の悲しみを代わりにしたからであることを、あなた方は確実に知らなければなりません。
ですから、今こそ、イエス様の孤独な心に触れ、その悲しみがどのようなものかを感じようとする心の姿勢を持たなければなりません。人知れぬ悲しい立場にあったイエス・キリストの友となりたい心を持たなければなりません。
あなた方がイエス様と一日の友になれないとしても、一時間の友でありたいという心を持たなければなりません。もしあなた方にそのような心が少しでもない場合、あなた方は天の御心を代わって進むことができず、人間を代わって神の悲しみを慰めることができず、むしろ天の前で反逆者の立場に置かれることになります。
あなた方は慈悲深い心を持ち、任された使命を果たすために無限に努力しましたが、結局は十字架にかけられるイエス様の姿を見守られた神様の悲しい心情を感じ取ることができなければなりません。
イエス様には全人類を代わって全宇宙を代わって神の悲しみを癒やし、神の御心を成就し、サタンを屈服させなければならない使命がありましたが、信じない群衆に追いやられ、最終的にはゴルゴダの丘で十字架まで背負わされることとなりました。そのようなイエス様の心情がどのようなものであったかを考えてください。
自分を中心として約束されたすべての意志が破壊され、最終的に自分の一生が十字架の架け橋に至ると感じたイエス様でしたが、それでもイエス様は最後まで天を裏切ることなく、天の前の忠誠の道を尽くされました。すべての人間がイエス様を信じなかったとしても、イエス様はそれに関わらず天路を目指し、天の御心に向かって一生の目標としました。
このようなイエス様の一生が、私たち人間にとって歴史的に希望の道となったことを、あなた方は心に留めておかなければなりません。十字架の死の直前に、「わが神、わが神、どうして私を見捨てられましたか?」(マタイ 26:46)と祈るしかなかったイエス様の立場を見守られた神様の悲しい、悲痛な心情を理解することができなければなりません。
4000年にわたって悲しみを耐えられた神様であられますが、愛する御子娘がどのような条件を提示される前には、直接裁定することができないため、彼らが条件を提示するまで耐えなければならない神様であることを皆さんは知っておかねばなりません。
では、イエス様はこの地上でどのようにされていたのでしょうか? 今日の皆さんと同じように、自由に言葉を発したり行動したりしていたでしょうか? それはそうではありませんでした。 イエス様は常に緊張した立場に立たれませんでした。 どこにいても何を食べても、どこに行こうとも、常に神の悲しみの心情を表現せざるを得なかったのです。
イエス様はどこで語られようとも、信じない群衆から自分の骨が溶けるような悲しみを感じながら、当時のパリサイ人やユダヤ人、イスラエルの民の前で声を大にして叫ばれました。
イエス様は彼らから受けた様々な悲しみに心を痛め、無知な人々や信じない群衆と協議することができなかったのです。 このような悲しい状況がイエス様にあったことを今日の皆さんは忘れてはなりません。
天からいかなる使命を受けてこの地に来られたのかをご存知のイエス様は、天の希望と自らが生きている現実との間に大きな違いがあったため、悲しい心情を抱かれたのです。 イエス様は、そのような悲しみが天国を覆い尽くすことができたとしても、自らの事情による悲しみは持ち得なかったのです。
今日の皆さんも、自らの事情に囚われず、全人類の悲しみと歴史的な神の悲しみを憂い、慰めようとしたイエス様の30年余りの生涯を見習わなければなりません。 そして、自らがイエス様のその悲しい状況をいかに憂い、また神の御心を達成するためにそのような悲しみの域までどれだけ進んでみたのかを反省しなければなりません。
神様はアダムとイブが堕落してしまい、創造理念を失ったことによって言葉では言い表せない悲しい心情を感じるようになりました。 そこで神様は、人々にイエス様を信じさせて、あなたの悲しい心情を慰める希望の日を迎えようとされましたが、イエス様を十字架に釘付けにして殺す悲惨な状況を再び見られることになりました。
4000年にわたって苦労してイエス様一人を立ててあなたの悲しみを解き、またこの地上に天国を建設しようとされたのに、そのようなすべての意志が一時に挫折されたとき、その神の心情がどのようだったか、考えてみるとよいでしょう。 この時の神の悲しい心情は、昔のアダムとエバが堕落したときに感じられた悲しみ以上のものでした。
アダムとエバの堕落の時、神は天と地が崩れ落ちるような悲しみを感じられました。そして、イエスが十字架にかかる時、神は4000年間血の汗と涙で築いた愛情の塔が一時に崩れ去り、再び創造の歴史を始めなければならなかったため、堕落の時の悲しみが重くなり、言葉にできない悲しみを嘆息されないことはありませんでした。
そして、今日のあなた方はどのような立場にいますか?今日のあなた方は、堕落によって神に悲しみをもたらしたアダムとイブの子孫です。また、あなた方は、神の悲しみを和らげるために来られたイエス・キリストを殺して神の悲しみを増した者たちの子孫であることを知るべきです。
神は人間があなたに悲しみをもたらした裏切り者であることを忘れ、再びその子孫たちを懐かれ、支配されています。神は人間とすべての生き物の一部となり、地上で神の国が実現されるその日が早く来ることを切に願っておられます。
では、今日のあなたたちはどのような状況にいますか?今日のあなたが見ている現実はどうですか?世界はどのような状況にありますか?意志がある者としては、今日の現実を見据えて胸を打ち、嘆き、悲しみを感じる時です。
この地上に神の愛を紹介し、神の悲しい心を慰めるために来られたイエス・キリストの使命を知る人がいるとすれば、彼は全地上で自らの闇と不明瞭な心を打ち明けることができません。なぜなら、今日の現実は神の意志からは遠く、背信と矛盾と闘争に満ちているからです。
ですから、今日のあなたたちは極めて悲しい神の心を感じながら、神の無限の愛を求め、他人が侮辱し、迫害しても、ただ一つの望みの日を実現するため、すなわちこの地上に神の国を築くためにもがきながら倒れることがあっても、私たちはその一途な道を歩むべきです。それが私たちに課せられた歴史的責任です。あなたたちは、そのような使命を果たす過程で、自らが不信の群衆から受ける様々な悲しい出来事があっても、それよりもっと神の前で悲しい立場にいることを私たちは神に告げるべきではありません。
神は人間に対する悲しみが測量する道はないが、それを今まで人間の前に全体的に示したことがないのです。今日のあなたたちは、神が自らの悲しみを受け止めて人間を救うための計画を成し遂げたことと同じように、自らの悲しみを受け止め、サタンと戦いながら進んでいかなければなりません。そして、あなたがたが祈りを捧げるとき、自分の利益をすべて忘れ、ただ父の悲しみを和らげる存在となり、今まで父に結び付けられた歴史的な憎しみと宇宙的な悲しみをすべて受け入れるように祈らなければなりません。
そして、神の御心を成就するためにサタンと戦い続けなければなりません。そのような人間になるならば、神の御心を成し遂げるためにただもがき続けて消える一時があったとしても、絶対に失敗しないでしょう。
ですから神は、この時代にそのような人が現れることを熱望されています。自らの生命を捧げてでも父の悲しみを和らげようとする人を求められているのです。神は、そのような人に対して、天の摂理の無限な生命の力を吹き込み、彼を通じてあなたの悲しみを和らげ、永遠の関係を結びたいと願われています。また、彼を通じて家庭的な悲しみ、社会的な悲しみ、国家的な悲しみ、さらには世界的な悲しみまで和らげたいと願われていることを、あなたは今この時、確実に知らなければなりません。
では、あなたにとって天からの悲痛などの悲しみは何ですか?あなたはあなた自身のための悲しみを持ってはならないはずです。もしもあなたがあなた自身のための悲しみを抱えているなら、あなたは不幸な人です。
あなたはあなた自身よりも、あなたの家庭、社会、国家、世界、さらには神のための悲しみを抱え、そのようなすべての悲しみを解消する人でなければなりません。昔のノアのおじいさんを思い出してみてください。彼は神が120年後にこの地を洪水で審判するであろうと予告されたとき、その予告の一言を120年もの間、いつの時も忘れることなく信じて生きていきました。一言の命令に120年もの間服従したのです。これは驚くべき信仰です。
しかし、このように神の言葉に絶対服従した人はノアだけではありませんでした。アブラハムも同様に神の言葉に絶対服従した人でした。神がカルデア・ウルを離れろと命じられたとき、彼はその祝福の言葉を忘れることなく荒野に出て行き、一日も欠かさずサタンと戦ったのです。
そしてヤコブも同様でした。イサクから受けた祝福と神からの祝福を忘れずに生きたために、彼はハランで21年もの苦難の生活を耐えることができたのです。また、イエスも同様でした。イエスは自分に約束された一言の命令を受け入れ、その約束の言葉を実現するために30年以上もサタンと戦い続けたのです。
このように神の前に召命されたすべての預言者たちは、天から授かった一言の言葉に自らのすべてをささげて、一生を信仰によって守り抜いたことを、あなたは確実に知らなければなりません。
では、今や歴史的な悲しみがあなたを通り過ぎているこの時代に、あなたはどうすべきでしょうか?まず最初に、神の悲しみを思いやる人とならなければなりません。そして、イエス・キリストと聖霊が神と人間に対して悲しんでいた心情、そしてこれまで6000年もの間この地に来たり去ったりした数多くの先賢たちが悲しんでいた心情を思いやる人とならなければなりません。
ですから、あなたが自らのすべてを捧げて進み、歴史的なすべての悲しみを解消し、神に喜びと栄光を捧げる人とならなければなりません。そのようなあなたになることを神は今も切望されていることを、今日あなたは決して忘れてはいけません。
1957年10月25日(金曜日)、前本部教会
創世記6:5-13
<祈祷>
愛のお父様! 私たちが6000年の歴史を振り返るとき、あなたがいつも安らかに休まれ、楽しまれた時が一度もなく、むしろ悔いと悲しみに閉じこもってこられたことを認めます。またノアの時代を振り返ると、その時代と今日の時代が同様に神の前に立ち、悲しみの涙の跡を作っていることを私たちは感じます。
無知な人々の中で信仰の子孫を見つけるためにお父様の足跡が言い表せないほどの悲しみと哀しみに満ちていたその事情を今ここに集まった息子娘たちが慈しみ得るように許してください。初めてのノア一人を広大なサタンの世界の前に立たせるしかなかったお父様の心情も悲しかっただけでなく、ノアの心情も言い表せないほど悲しく孤独だったことを今この時私たちは悟らせてください、愛する父様、切に願います。
天の御心の前に選ばれた預言者たちはいつの時もその時代の人々の前に犠牲の供物として現れ、神の無限の悲しみの象徴として現れたのはノアだけを通してでなく、今までの歴史の過程で数多くの先達たちを通じても現れたことを私たちはよく知っています。またノアの後、神の御心を受け入れた多くの先達たちもノアのその道を再び歩んでいるという事実もよく知っています。
今最後の審判を迎えなければならない私たち自身、自らを天倫の前に立てねばなりません。私自身がノアと同じ心情を抱いているか、または今まで数多くの先達たちが愛くるしく思っていたその心情を持っているかを反省できるよう許してください。そして私たちこの時、お父様の前にお父様の子としての面目を保てるように導いてください、愛する父様、切に願います。
私たち、最後の審判を恐れて逃げる者となりたくないと願うお父様が導いてくださり、お父様の無限の憐れみの心情を慈しんで、お父様の悲しみを慰め、お父様の御心をこの地上で成し遂げるためにどのような不正の力とも戦う心を持てるように許してください、愛する父様、切に願います。
お父様、この時、ここに集まった息子娘を慈しんでください。昔、ノアに教え示されたような言葉を彼らに与えてください。それによって、私たち一人ひとりが持つすべての決意が一時的なものに終わらないように許してください。生涯を通じて困難な試練を克服し、他者を助ける知恵と力を持ち、また、何万ものサタンが周囲に立ちはだかっていても、それを打ち破って進む覚悟と決意を持つことを許してください。愛するお父様、切にお願い申し上げます。
お父様、この時伝える言葉に共にしてください。言葉を受け取る者の心と伝える者の心が一つになるようにしてください。お父様の恵みに満ち、天が動くならば私たちも動き、天が静まるならば私たちも静まり、天の御心と意志を理解できるように許してください。そして私たちの心に感じるその意志を永遠のお父様の前に立てる意志として受け入れ、進んでいけるようにしてください。愛するお父様、切にお願いいたします。
この一時、私たちの一身をただお父様の前に献げることができるように許してください。愛するお父様、切にお願いし、お願い申し上げます。この残りの時をお預けください。主の御名によって祈ります。アーメン。
<御言葉>
この時間は、「神の悲しみを知る者となろう」と題して皆様にしばらくお話しいたします。
悲しみは、これまで何千年もの歴史を経て、私たち人間と切り離せない不可分の関係を築いてきたことを皆さんはよくご存知です。また、皆さんは、人間だけが悲しんでいるわけではなく、人間と関わりを持つすべてのものが悲しんでおり、また、万物を創造し、人間を造られた創造主である神様も悲しんでおられることをよくご存知です。
皆さんが今、心を清め、上を見上げ、下を見下ろし、この地上の人類を見渡すとき、誰が神を代わりにして、人間を代わりにして、万物を代わりにして、悲しみの苦しみから解放されたと叫び立ってきたでしょうか?そのような人は、今まで一人もいなかったことを知るでしょう。
神の悲しみが取り除かれない限り、地上の人間の悲しみも取り除かれることはなく、地上に住む人間の悲しみが取り除かれない限り、人間をために造られた動物たちも悲しみを免れる道はありません。
では、神に悲しみをもたらした主たちは誰だったのでしょうか?その主たちは神でも万物でもなく、まさに人間でした。神の中心的な使命を担うべき人間、万物に対して与えられた責任を果たすべき人間が堕落によって神に悲しみをもたらし、万物にも悲しみをもたらしたのです。
ですから、今日の皆さんは自らが天地の前に独り立ちしていることを自覚し、心に流れるその悲しい感情を取り除く闘いの過程を経なければならない運命にあることを心に留めておく必要があります。
また、皆さんの悲しみはただ自分自身の悲しみで終わるものではなく、その悲しみは天の悲しみ、万民の悲しみにつながるものです。皆さん一人一人がその悲しみを持ち、自分の家庭、社会、国家、世界にまでその波及を及ぼすことになります。ですから、今日の皆さんはこのように重大な立場にあることを認識しなければなりません。
では、今日の私たちが同様に悲しい立場にある場合、どのような感情で天の悲しみを代弁し、どのような感情でこの地上の万民の悲しみを代弁し、または万物の悲しみを代弁したいと思うでしょうか。このような問題は、最後の審判を超えなければならない私たち堕落した人間が抱える問題の一つです。世界的なゴルゴダの試練に直面した今、私たちはその重荷と負担を自己負担に置き、『私は自由の身であり、希望の身であり、幸福の身であり、天地万物を愛する身である』と自負できるようにならなければなりません。また、私たちは神の悲しみを取り除き、万物の悲しみまで解消したと言える基準を超える人間にならなければなりません。
もしもそのような基準を超えられなかった場合、今日の皆さんがこの一時間に喜びを持つことができたとしても、その喜びは一瞬で終わり、喜びを得たとしても、その恵みは一瞬で終わり、すぐに悲しみに覆われることになります。そのような悲しみを取り除く責任が私たちにはあります。
では、私たちはその悲しみをどのように克服できるのでしょうか?それは人間単独では克服できません。そのため、天はこれまで何千年もの間、私たちに新たな力と新たな恵み、復活の歴史をもたらし、その悲しみを取り除くための闘いを私たちが知らないうちに行われてきたことを、私たちは原理を通してよく知っています。
そして、皆さんは人間の悲しみが天地の悲しみとなり、堕落した人間によって神と万物とが一つとなって進むべき愛の道を阻まれたことをよくご存知です。
ですから、今日の皆さんは自らの悲しみによって自滅する立場に立つべきではありません。皆さんの立場よりも先に、これまでの長い歴史を通じて多くの人類に対して悲しんでこられたお父様の悲しみが何であるかをまず考えるべきです。そうすることで、皆さんがそのお父様の悲しみを自分の実際の生活で感じる人間となれば、自らに降りかかる悲しみを単に自分自身の悲しみとして考えることができない状況に直面することになります。そのような立場を超えることができない場合、皆さんは終末の審判の頭を越えて神の心情を慰める資格者として立つことができないことを心に留めておく必要があります。
では、神様はどのような悲しみを抱えておられるのでしょうか?これが私たちが知るべき非常に重要な問題です。それは、神様が創造理想を達成するための中心的責任者として置かれたアダムとイブが堕落し、神が彼らを通して築こうとした創造の本質的な世界を成し遂げなかったことによる悲しみです。したがって、今日の皆さんはそのような神の悲しみを理解し、共感する人間とならなければなりません。
つまり、アダムとイブが堕落したことによって、永遠の神の愛と理想を中心に、愛の楽園で永遠の幸福を享受している創造の理想が挫折され、神様がこれまで数千年にわたって苦労されないわけにはいかなくなったことです。そのため、今日の皆さんはアダムとイブが堕落したことによって成し遂げられなかった創造理想を達成するために、神様が今までにサタンと戦いながら感じられたその悲しい心情を共感する人間とならなければなりません。
それでは、今、皆さんはアダムが失ったあの時の悲しみ、アダムとイブが神を裏切り堕落した時の神のその悲しい心情を共感しなければなりません。そのためには、まず神の愛が何であるかを知り、神が人間をどの程度愛されているかを共感しなければなりません。
そうでなければ、皆さんは神様がアダムとイブを失い悲しまれたあの心情をどうしても共感することができません。そのため、今日の皆さんは何よりもまずアダムとイブの堕落によって創造理想が実現されなかった神様の悲しい心情を共感しなければなりません。
創造理想を達成するための神の懐切な心情は、全ての人類に絡みついています。それを償うためのものが、これまでの歴史の中での神の摂理の歴史であることを皆さんは知らなければなりません。アダムの後、ノア、アブラハム、モーセ、イエスの時代まで続いたすべての先知先覚たちは、この地上で何を人々に証明し、何を紹介したでしょうか?彼らはただ神の悲しみを無知な人々の前に伝えたのです。
皆さんは、神が人間の堕落によって創造理想を実現できなかった悲しみを抱えていると同時に、その創造理想を達成するために多くの先知先覚を送り、彼らにサタンと戦わせた後、それを見て悲しみを感じざるを得なかった、二重の悲しみを持っていることを知らなければなりません。
つまり、神を裏切る無知な民衆に対して今まで誰も歓迎していない神の意志と、神のその悲しい心情を紹介するために、多くの先知先覚たちは懐切な苦労の歴程を歩んだのです。彼らは神の悲しみが内的に共感されるほど、地上のために神代わりの悲しみを感じなければならなくなり、神と同じ懐切な心情を持ち、サタンと戦わなければなりませんでした。
また、神の永遠の意志を代わって価値を認められる存在として現れなければならなかった彼らは、むしろ無知な人々に軽蔑され、拒絶され、非難されながら無価値にこき使われ、その姿を見ている神様は二重の悲しみを感じたのです。
神にとっては、自らの創造理想を達成しなかったことも悲しみですが、その創造の理想を実現するために、地上の無知な人々を目覚めさせ、サタンと戦わなければならない運命に置かれた多くの先知先覚たちを見ることも言い表せないほどの悲しみでした。このように、神は二重の悲しみを持っていたことを皆さんは忘れてはいけません。
ノアの時代を振り返れば、1600年にわたり神は言い表せないほどの懐切な心情に包まれましたが、耐え忍ぶ道を歩み出しました。どの瞬間も忘れることのできない人間に対する悲しみが襲いかかりましたが、それを全て耐え抜き、自らの悲しみを代わりに全人類の前や全てのものの前に完全に表したかったために、ノアを選んで立てられたのです。
それでは、なぜ神はノアをその当時の人間が理解できない立場に立てたのでしょうか?1600年間にわたり人間が神を悲しみに打ちひしがれさせたことをノア一人を立ててその悪人の悲しみと苦しみを感じさせるために、この理解できない環境に置いたのです。
ノアは自らを信じずに反対し、嘲笑する人々の前に沈黙して現れるようになりました。そして、120年後にこの地を審判するという天からの予告を受けたときも、彼は天に対する信仰の道理を全うしたのです。彼を見て当時の正しい人と言われました。彼が正しい人であった理由は、彼が生きる当時の社会が背信的であるほど、ますますその社会を心配し、悲しんだからです。
多くの人々が自己の怠慢に陥っている中、ノアだけが正義の道を求めて奮闘し、天の摂理を心配し、他人が望まない環境で悲しんでいたのです。そのようなノア、つまり当時の人々を心配し悲しむ心を持っていたノアだったからこそ、神は彼を呼ばれたのです。
ノアだけでなく、これまで神の意志を達成しなければならない責任を負ったすべての先知先覚が選ばれた理由は何でしょうか?それは彼らが全て当時の反逆的な土地と反逆的な人々を一人で心配していたからです。そのように個人や家庭、社会、国家、世界を心配する心を持ち、他人には知られずに、「天がありますか?もしそうなら、この罪深い地を救い出してください。」と祈りながら、天に対する熱い心情で忠誠を尽くしたため、彼らは天の呼びかけを受けることができたのです。
神がノアならノア、どんな預言者なら預言者を選び出すときのその心情は言葉にできないほど悲しみに打ちひしがれたことをあなたは知らなければなりません。また、神の前に召された預言者が地上の人々に不信と裏切りを受ける中で、必死に悲しい心情を持ち、「ああ、父よ!」と叫ぶ祈りの声が響き渡ったとすれば、その祈りの声は人々にとって喜びの声ではありませんでした。
しかし、そのような祈りを聞く神はその切ない嘆願に動かされて現れました。したがって、今日まで多くの先知先覚は神の悲しみを慰めるために、どんな苦難の道でも受け入れて歩んだのです。
誰もが懐切な心情を持ち、このように天に訴え、祈るその姿を見て神はますます感動し、涙する悲しみを持って彼らを受け止めたのです。
しかし、神が自分を信じて従う愛する預言者、または愛する子どもたちに対して、いつも安心して命令することができない立場であり、時間や場所を超えて協議できない状況であったことをあなたは知らなければなりません。このように、どのような象徴的な条件を設けてから、人間を扱うことしかできない神のその悲しみをあなたは知らなければなりません。
したがって、旧約時代は犠牲を通じて、新約時代はイエス・キリストを通じて神の悲しみを取り除く歴史が進んできたことを、皆さんはよくご存知でしょう。しかし、それによって神の御心がすべて成就したわけではありません。神は直接あなた方と心を通わせ、そしてあなた方を抱きしめ、神の愛の領域内で永遠に共に生きたいと願っておられます。神はすべての人を自分の子供として呼びたいと願っておられます。そして、すべての憎しみや悲しみを打ち明けたい心を、今日に至るまで抑えながらおられることを、皆さんは知っておかねばなりません。
今日、この地上に生きる皆さんは、自分の悲しみを他人や家族、または民族の前に告白できるかもしれませんが、神はそうすることはできません。また、皆さんは困難な時に、「私は悲しい。私は孤独だ」と自分の状況を告白するかもしれませんが、神様は数千年にわたる歴史の過程で、悲しくても悲しいと一言も言われなかったことです。このように、神の心情を感じ取ることができるべきです。
過去の歴史の中で、先知たちが自分の悲しみを紹介する前に、彼らの代わりに地上のすべての人々の悲しみを先に示したことを、皆さんは知っているでしょう。そして今、あなたが天に立ち向かいたいと思うなら、まず自分の過去を省みなければなりません。皆さんが自分の生活領域の中で6000年という長い歳月を通じて悲しんでいる神の前に慰めになる何か小さなことでもしたかを思い起こしてください。
そして未来を見据え、自分の所属する家族のために、またはこの国、この民族のために心配する人にならなければならず、また世界が揺らぐ中でも死の権力の中に巻き込まれるようになっても変わらない心で天を向いて歩む人にならなければなりません。そのようなあなたがなるならば、決して失敗することはありませんし、神から呪いを受けることもありません。
ですから、神は人間が堕落して創造理想を達成できなかったことから悲しんでおられ、また達成されなかったその理想を再び達成するために、この地を代わりに心配し努力する一人を探し出しておられるのです。今日のあなた方は、そのように悲しい立場にある神を慰め、その悲しみを取り除く道を持たなければならない運命に置かれています。
しかし、神が悲しみを与えたのも人間であるため、その悲しみを追放しなければならない者も人間であることを、皆さんはよく知らなければなりません。天主を代わって神の悲しみを解消する者が、まさにあなた自身であることに気づき、その悲しみを解消するために努力しなければなりません。これが皆さんが重視すべき最も重大な問題であることを確実に理解しなければなりません。
これまで神様は選ばれた人々の生涯のいかなる時も、一瞬たりとも悲しまれなかったことがありませんでした。なぜなら神様は、あなたの悲しみを和らげるために存在し、心から真心を尽くして中心的な使命を果たす人もいましたが、いつでもあなたの心が満足するほどに慰められることはありませんでした。神様はあなたが選ばれた人と心が通じ、事情が通じる立場にいらっしゃいましたが、その望まれることを彼らが当代に達成できなかったことを、お気の毒に思われたのです。
このような悲しみの歴史が4000年を経過した後、神様はついにこの地上に4000年の歴史を代わりに持ち、その4000年の歴史の中に行ったり来たりしたすべての預言者たちを代わりにできる方を送られたのです。
神様は天を代わって、万物を代わって、人間を代わってくださる一人の存在を送られました。その方が誰であるかと言えば、まさにあなたが信じているイエス・キリストです。その日は万物が喜び、すべての人が喜び、天が喜ぶ日であったことを、あなた方は知っておかねばなりません。
では、イエス様がこの地上に持ってこられたのは何でしょうか?彼は歴史の全ての人類の悲しみを代わりにし、すべての生物の悲しみを代わりにした存在、つまり言い表せない悲しみを抱えてこの地上に現れられたのです。そして、神の胸の中で4000年間痛み続けた悲しみを全人類とすべての生物の代わりに解消していただかなければならない責任を持ってこの地に現れられた方でした。
イエス様は人間が神を裏切り、神から離れたその堕落の歴史を振り返り、新しい視点から人間の命と宇宙の命を妨げているサタンと戦ったのです。つまり、いかなる悪魔的な血統とも関係を結ばず、神との関係を結ぶ唯一の思想、唯一の希望と喜びを追求されたのです。
イエス様は30年余りにわたってそのような歴程を歩まれましたが、誰一人として信じて共感してくれる人がありませんでした。4000年にわたる神の悲しみを和らげ、神の御心を達成するために30年余りも血の滴るような忠誠を尽くされましたが、イエス様のそのような事情を真実に理解してくれる者が一人もいなかったのです。
ユダヤ教会から、またはイスラエルの民から追われて、最終的にはどこにも行き場もなく、住む場所もなく、この町からあの町、この山からあの山へとさまよい続けたイエス様の悲しい事情を今日のあなたは感じなければなりません。
では、イエス様の悲しみはどのようなものでしたか?神の御心の前で担った使命を果たせない悲しみであり、無知な民に神の御心を説き起こすことができない悲しみでした。そのため、イエス様は当時の自分を反対し、信じないユダヤ教を悲しみ、イスラエルの民を悲しみました。
これらの悲しい事情に直面しているイエス様を見守る神様は、イエス様を迫害し、信じないユダヤ教とイスラエルの民を直ちに裁き滅ぼしたいと望んでいましたが、それが叶わなかったのです。このような神様の優しい悲しみがあったことを、あなた方は知っておかねばなりません。
イエス様がこの地上において万民の救い主として来られたのは、全人類の悲しみを代わりにし、すべての生き物の悲しみを代わりにしたからであることを、あなた方は確実に知らなければなりません。
ですから、今こそ、イエス様の孤独な心に触れ、その悲しみがどのようなものかを感じようとする心の姿勢を持たなければなりません。人知れぬ悲しい立場にあったイエス・キリストの友となりたい心を持たなければなりません。
あなた方がイエス様と一日の友になれないとしても、一時間の友でありたいという心を持たなければなりません。もしあなた方にそのような心が少しでもない場合、あなた方は天の御心を代わって進むことができず、人間を代わって神の悲しみを慰めることができず、むしろ天の前で反逆者の立場に置かれることになります。
あなた方は慈悲深い心を持ち、任された使命を果たすために無限に努力しましたが、結局は十字架にかけられるイエス様の姿を見守られた神様の悲しい心情を感じ取ることができなければなりません。
イエス様には全人類を代わって全宇宙を代わって神の悲しみを癒やし、神の御心を成就し、サタンを屈服させなければならない使命がありましたが、信じない群衆に追いやられ、最終的にはゴルゴダの丘で十字架まで背負わされることとなりました。そのようなイエス様の心情がどのようなものであったかを考えてください。
自分を中心として約束されたすべての意志が破壊され、最終的に自分の一生が十字架の架け橋に至ると感じたイエス様でしたが、それでもイエス様は最後まで天を裏切ることなく、天の前の忠誠の道を尽くされました。すべての人間がイエス様を信じなかったとしても、イエス様はそれに関わらず天路を目指し、天の御心に向かって一生の目標としました。
このようなイエス様の一生が、私たち人間にとって歴史的に希望の道となったことを、あなた方は心に留めておかなければなりません。十字架の死の直前に、「わが神、わが神、どうして私を見捨てられましたか?」(マタイ 26:46)と祈るしかなかったイエス様の立場を見守られた神様の悲しい、悲痛な心情を理解することができなければなりません。
4000年にわたって悲しみを耐えられた神様であられますが、愛する御子娘がどのような条件を提示される前には、直接裁定することができないため、彼らが条件を提示するまで耐えなければならない神様であることを皆さんは知っておかねばなりません。
では、イエス様はこの地上でどのようにされていたのでしょうか? 今日の皆さんと同じように、自由に言葉を発したり行動したりしていたでしょうか? それはそうではありませんでした。 イエス様は常に緊張した立場に立たれませんでした。 どこにいても何を食べても、どこに行こうとも、常に神の悲しみの心情を表現せざるを得なかったのです。
イエス様はどこで語られようとも、信じない群衆から自分の骨が溶けるような悲しみを感じながら、当時のパリサイ人やユダヤ人、イスラエルの民の前で声を大にして叫ばれました。
イエス様は彼らから受けた様々な悲しみに心を痛め、無知な人々や信じない群衆と協議することができなかったのです。 このような悲しい状況がイエス様にあったことを今日の皆さんは忘れてはなりません。
天からいかなる使命を受けてこの地に来られたのかをご存知のイエス様は、天の希望と自らが生きている現実との間に大きな違いがあったため、悲しい心情を抱かれたのです。 イエス様は、そのような悲しみが天国を覆い尽くすことができたとしても、自らの事情による悲しみは持ち得なかったのです。
今日の皆さんも、自らの事情に囚われず、全人類の悲しみと歴史的な神の悲しみを憂い、慰めようとしたイエス様の30年余りの生涯を見習わなければなりません。 そして、自らがイエス様のその悲しい状況をいかに憂い、また神の御心を達成するためにそのような悲しみの域までどれだけ進んでみたのかを反省しなければなりません。
神様はアダムとイブが堕落してしまい、創造理念を失ったことによって言葉では言い表せない悲しい心情を感じるようになりました。 そこで神様は、人々にイエス様を信じさせて、あなたの悲しい心情を慰める希望の日を迎えようとされましたが、イエス様を十字架に釘付けにして殺す悲惨な状況を再び見られることになりました。
4000年にわたって苦労してイエス様一人を立ててあなたの悲しみを解き、またこの地上に天国を建設しようとされたのに、そのようなすべての意志が一時に挫折されたとき、その神の心情がどのようだったか、考えてみるとよいでしょう。 この時の神の悲しい心情は、昔のアダムとエバが堕落したときに感じられた悲しみ以上のものでした。
アダムとエバの堕落の時、神は天と地が崩れ落ちるような悲しみを感じられました。そして、イエスが十字架にかかる時、神は4000年間血の汗と涙で築いた愛情の塔が一時に崩れ去り、再び創造の歴史を始めなければならなかったため、堕落の時の悲しみが重くなり、言葉にできない悲しみを嘆息されないことはありませんでした。
そして、今日のあなた方はどのような立場にいますか?今日のあなた方は、堕落によって神に悲しみをもたらしたアダムとイブの子孫です。また、あなた方は、神の悲しみを和らげるために来られたイエス・キリストを殺して神の悲しみを増した者たちの子孫であることを知るべきです。
神は人間があなたに悲しみをもたらした裏切り者であることを忘れ、再びその子孫たちを懐かれ、支配されています。神は人間とすべての生き物の一部となり、地上で神の国が実現されるその日が早く来ることを切に願っておられます。
では、今日のあなたたちはどのような状況にいますか?今日のあなたが見ている現実はどうですか?世界はどのような状況にありますか?意志がある者としては、今日の現実を見据えて胸を打ち、嘆き、悲しみを感じる時です。
この地上に神の愛を紹介し、神の悲しい心を慰めるために来られたイエス・キリストの使命を知る人がいるとすれば、彼は全地上で自らの闇と不明瞭な心を打ち明けることができません。なぜなら、今日の現実は神の意志からは遠く、背信と矛盾と闘争に満ちているからです。
ですから、今日のあなたたちは極めて悲しい神の心を感じながら、神の無限の愛を求め、他人が侮辱し、迫害しても、ただ一つの望みの日を実現するため、すなわちこの地上に神の国を築くためにもがきながら倒れることがあっても、私たちはその一途な道を歩むべきです。それが私たちに課せられた歴史的責任です。あなたたちは、そのような使命を果たす過程で、自らが不信の群衆から受ける様々な悲しい出来事があっても、それよりもっと神の前で悲しい立場にいることを私たちは神に告げるべきではありません。
神は人間に対する悲しみが測量する道はないが、それを今まで人間の前に全体的に示したことがないのです。今日のあなたたちは、神が自らの悲しみを受け止めて人間を救うための計画を成し遂げたことと同じように、自らの悲しみを受け止め、サタンと戦いながら進んでいかなければなりません。そして、あなたがたが祈りを捧げるとき、自分の利益をすべて忘れ、ただ父の悲しみを和らげる存在となり、今まで父に結び付けられた歴史的な憎しみと宇宙的な悲しみをすべて受け入れるように祈らなければなりません。
そして、神の御心を成就するためにサタンと戦い続けなければなりません。そのような人間になるならば、神の御心を成し遂げるためにただもがき続けて消える一時があったとしても、絶対に失敗しないでしょう。
ですから神は、この時代にそのような人が現れることを熱望されています。自らの生命を捧げてでも父の悲しみを和らげようとする人を求められているのです。神は、そのような人に対して、天の摂理の無限な生命の力を吹き込み、彼を通じてあなたの悲しみを和らげ、永遠の関係を結びたいと願われています。また、彼を通じて家庭的な悲しみ、社会的な悲しみ、国家的な悲しみ、さらには世界的な悲しみまで和らげたいと願われていることを、あなたは今この時、確実に知らなければなりません。
では、あなたにとって天からの悲痛などの悲しみは何ですか?あなたはあなた自身のための悲しみを持ってはならないはずです。もしもあなたがあなた自身のための悲しみを抱えているなら、あなたは不幸な人です。
あなたはあなた自身よりも、あなたの家庭、社会、国家、世界、さらには神のための悲しみを抱え、そのようなすべての悲しみを解消する人でなければなりません。昔のノアのおじいさんを思い出してみてください。彼は神が120年後にこの地を洪水で審判するであろうと予告されたとき、その予告の一言を120年もの間、いつの時も忘れることなく信じて生きていきました。一言の命令に120年もの間服従したのです。これは驚くべき信仰です。
しかし、このように神の言葉に絶対服従した人はノアだけではありませんでした。アブラハムも同様に神の言葉に絶対服従した人でした。神がカルデア・ウルを離れろと命じられたとき、彼はその祝福の言葉を忘れることなく荒野に出て行き、一日も欠かさずサタンと戦ったのです。
そしてヤコブも同様でした。イサクから受けた祝福と神からの祝福を忘れずに生きたために、彼はハランで21年もの苦難の生活を耐えることができたのです。また、イエスも同様でした。イエスは自分に約束された一言の命令を受け入れ、その約束の言葉を実現するために30年以上もサタンと戦い続けたのです。
このように神の前に召命されたすべての預言者たちは、天から授かった一言の言葉に自らのすべてをささげて、一生を信仰によって守り抜いたことを、あなたは確実に知らなければなりません。
では、今や歴史的な悲しみがあなたを通り過ぎているこの時代に、あなたはどうすべきでしょうか?まず最初に、神の悲しみを思いやる人とならなければなりません。そして、イエス・キリストと聖霊が神と人間に対して悲しんでいた心情、そしてこれまで6000年もの間この地に来たり去ったりした数多くの先賢たちが悲しんでいた心情を思いやる人とならなければなりません。
ですから、あなたが自らのすべてを捧げて進み、歴史的なすべての悲しみを解消し、神に喜びと栄光を捧げる人とならなければなりません。そのようなあなたになることを神は今も切望されていることを、今日あなたは決して忘れてはいけません。
文鮮明先生の言葉選集 3 - 11. イエスの神秘的な生涯と彼の勝利の目的 (1957年10月27日)
1957年10月27日(日曜日)前本部教会
聖書拝読:マタイによる福音書 12:18-37
<祈祷>
死んでもあなたの遺産を継がなければならない戦いの歴史が今日この場に集まった私たちにとって残されていることを思い至ったとき、立ち止まって自分自身をお父様の前に差し出し、果たして戦うことのできる天の武器、戦って勝利することのできる天の武器が私たち自身に備わっているか自問自答できるように許してください、お父様、切に願い求めます。
今、私たちが戦わなければならない敵は地上のどの一人でもなく、6000年という長い歴史の過程を経て神に対して反抗し、神を讃えなかった、空中の権力を握ったサタンであることを私たちは知っています。
今日この巨大な敵をお父様の前に降伏させなければならない責任と使命が私たちにあることを思い至ったとき、私たちは今まであまりにも簡単な生活を望んでいたし、あまりにも恵みに閉ざされお父様の愛だけを求めていたことに気付きます。お父様、許してください。
敵を降伏させるためには荒れ狂う嵐や戦いや十字架の苦難からもその精神と心が変わってはならない立場にあることをこれまで私たちは忘れていましたが、今後は変わらぬ心を持って万人のサタンたちに対して一人で戦う天の武器たちとなるように許してください、愛する父よ、切に願い求めます。
この意志を受けて戦いに疲れた子どもたちはいますか?お父様! 力を与えてください。躊躇する者がいますか? お父様の勇気を与えてください。そして勝利の目的に向かって走ることができ、戦いの目標に向かって直進し突進できる愛する子どもたちとなるように許してください、愛するお父様、切に願い求めます。
最後の決戦を経て勝利に向かってゴルゴダの丘を越えなければならない責任が私たちにあるので、お父様の力と心と覚悟と決意を持ち、このすべての戦場に向かって走り出すことができ、祝福されて勝利できるお父様の子どもたちとなるように許してください、愛するお父様、切に願い求めます。
集まった子どもたちは少数の集団ですが、彼らが留まるその場所で満足してはならないように許してください。与えられた恵みに感謝することを学ばせてください。
今日与えられた恵みは私一人のためのものではなく、地上または天上のすべての聖徒を代表して数百万のサタンを降伏させる責任と使命を担う代表的な恵みであることを知らせてください、愛するお父様、切に願い求めます。
心が留まる場所はどこですかを父の前に差し出し、父の意志を一つの目的として示し、サタンと対決して勝利の基準を示さなければならない使命を持つ子どもたちが、お父様、弱い立場にいますか? 力を与えてください。お父様の前で祈り、天の悲しみを表現する者はいますか? お父様、喜びを許してください。天国を求める者はいますか?善と正義の歴史を示してください。
そして彼らにお父様の意志と、お父様の恵みとお父様の計画を一人で負って戦い、指示のない子どもたちとなるように許してください、愛する父よ、切に願い求めます。
この日は聖なる日であり、三千万の民衆を代表して集まる多くの教会に祝福を与え、また隠れた祭壇を築き、お父様の計画が実現される時期を教え、知らず知らずのうちに熱い涙を流す子どもたちが多いことを知っており、お父様、普遍的な恵みを示してください。
終わりに聖霊の恵みを注ぎ、約束されたことを早く実現してください。生命のたいまつを持って父の代理者として栄光をささげることができる自己になり、一つの回帰の園を形成するために協力できるよう、お父様、推奨してください、切に願い求めます。
お父様、召された子どもたちがますます父の意志の前で感謝できるように許し、責任を果たして父に栄光を帰し、この1時間の間に決意します。愛するお父様の栄光のために、すべてを求めるとき、お父様の恵みによって再び認め、お父様の意志の前で一つの基準と一つの目標に向かって進むことができる恵みの歴史がこの時間のすべての聴衆に示されることを許してください、愛のお父様、切に願い求めます。
今、私たちが進むべき戦いの野に障害が立ちはだかっても、一人でこれを負ってお父様の意志に向かって行けるように許してください、愛するお父様、切に願い求めます。
イエス様が十字架を前に置きながらも無限の苦しみを乗り越えて行かれた勝利の姿を見習い、私たちも最後の命を捧げても、勝利することができる父の子どもたちの基準を立てられるように許してください、愛するお父様、切に願い求めます。
今、私たちが集まったので、心と心が共に動くことを許してください。お父様の前に一つになって進むことができるように許してください。そして天にいる無数の天使たちの守りの下で、サタンが隙を突かないように保護してください、お父様、切に願い求めます。
残された時間を完全にお父様に託しました。聖三位一体が主導してください、そして私たちに勝利の栄光を許してください、切にお願いいたします。すべての言葉を主の御名によってお祈り申し上げます。アーメン。
1957年10月27日(日曜日)前本部教会
聖書拝読:マタイによる福音書 12:18-37
<祈祷>
死んでもあなたの遺産を継がなければならない戦いの歴史が今日この場に集まった私たちにとって残されていることを思い至ったとき、立ち止まって自分自身をお父様の前に差し出し、果たして戦うことのできる天の武器、戦って勝利することのできる天の武器が私たち自身に備わっているか自問自答できるように許してください、お父様、切に願い求めます。
今、私たちが戦わなければならない敵は地上のどの一人でもなく、6000年という長い歴史の過程を経て神に対して反抗し、神を讃えなかった、空中の権力を握ったサタンであることを私たちは知っています。
今日この巨大な敵をお父様の前に降伏させなければならない責任と使命が私たちにあることを思い至ったとき、私たちは今まであまりにも簡単な生活を望んでいたし、あまりにも恵みに閉ざされお父様の愛だけを求めていたことに気付きます。お父様、許してください。
敵を降伏させるためには荒れ狂う嵐や戦いや十字架の苦難からもその精神と心が変わってはならない立場にあることをこれまで私たちは忘れていましたが、今後は変わらぬ心を持って万人のサタンたちに対して一人で戦う天の武器たちとなるように許してください、愛する父よ、切に願い求めます。
この意志を受けて戦いに疲れた子どもたちはいますか?お父様! 力を与えてください。躊躇する者がいますか? お父様の勇気を与えてください。そして勝利の目的に向かって走ることができ、戦いの目標に向かって直進し突進できる愛する子どもたちとなるように許してください、愛するお父様、切に願い求めます。
最後の決戦を経て勝利に向かってゴルゴダの丘を越えなければならない責任が私たちにあるので、お父様の力と心と覚悟と決意を持ち、このすべての戦場に向かって走り出すことができ、祝福されて勝利できるお父様の子どもたちとなるように許してください、愛するお父様、切に願い求めます。
集まった子どもたちは少数の集団ですが、彼らが留まるその場所で満足してはならないように許してください。与えられた恵みに感謝することを学ばせてください。
今日与えられた恵みは私一人のためのものではなく、地上または天上のすべての聖徒を代表して数百万のサタンを降伏させる責任と使命を担う代表的な恵みであることを知らせてください、愛するお父様、切に願い求めます。
心が留まる場所はどこですかを父の前に差し出し、父の意志を一つの目的として示し、サタンと対決して勝利の基準を示さなければならない使命を持つ子どもたちが、お父様、弱い立場にいますか? 力を与えてください。お父様の前で祈り、天の悲しみを表現する者はいますか? お父様、喜びを許してください。天国を求める者はいますか?善と正義の歴史を示してください。
そして彼らにお父様の意志と、お父様の恵みとお父様の計画を一人で負って戦い、指示のない子どもたちとなるように許してください、愛する父よ、切に願い求めます。
この日は聖なる日であり、三千万の民衆を代表して集まる多くの教会に祝福を与え、また隠れた祭壇を築き、お父様の計画が実現される時期を教え、知らず知らずのうちに熱い涙を流す子どもたちが多いことを知っており、お父様、普遍的な恵みを示してください。
終わりに聖霊の恵みを注ぎ、約束されたことを早く実現してください。生命のたいまつを持って父の代理者として栄光をささげることができる自己になり、一つの回帰の園を形成するために協力できるよう、お父様、推奨してください、切に願い求めます。
お父様、召された子どもたちがますます父の意志の前で感謝できるように許し、責任を果たして父に栄光を帰し、この1時間の間に決意します。愛するお父様の栄光のために、すべてを求めるとき、お父様の恵みによって再び認め、お父様の意志の前で一つの基準と一つの目標に向かって進むことができる恵みの歴史がこの時間のすべての聴衆に示されることを許してください、愛のお父様、切に願い求めます。
今、私たちが進むべき戦いの野に障害が立ちはだかっても、一人でこれを負ってお父様の意志に向かって行けるように許してください、愛するお父様、切に願い求めます。
イエス様が十字架を前に置きながらも無限の苦しみを乗り越えて行かれた勝利の姿を見習い、私たちも最後の命を捧げても、勝利することができる父の子どもたちの基準を立てられるように許してください、愛するお父様、切に願い求めます。
今、私たちが集まったので、心と心が共に動くことを許してください。お父様の前に一つになって進むことができるように許してください。そして天にいる無数の天使たちの守りの下で、サタンが隙を突かないように保護してください、お父様、切に願い求めます。
残された時間を完全にお父様に託しました。聖三位一体が主導してください、そして私たちに勝利の栄光を許してください、切にお願いいたします。すべての言葉を主の御名によってお祈り申し上げます。アーメン。
<御言葉>
堕落した後、今日まで神の復帰の計画がなかった場合、罪に陥っている人間が神を「父」と呼ぶことはできず、また死の血統を受け継いだ存在としても、また天国の贈り物や愛の贈り物について考えることはできないでしょう。
また、今日私たちが生命の権利の下に留まるのも、神がお休みにならずに復帰の計画を何度も行われた贈り物であることを知る必要があります。
イエス様の神秘的な生涯とは、すべてが含まれています。神は4000年の歴史を経てイエス・キリストを送られ、神がイエス様を中心にして新しい計画を始められるようになりました。
つまり、神が地上の人々と自由に交流することができなかったために、多くの天使を使者として派遣して、古代の時代を経て地上で直接的な歴史を築く実在のキリストを置かれることで、堕落した人々を再び包む神の計画が始まったということです。このような内容を持つキリストの誕生について知る必要があります。
キリストが来られてから2000年の歴史が経ちました。したがって、今日、皆さんは父の贈り物の権威の下にあり、イエス・キリストを主として受け入れることができ、聖霊の保護を受けて贈り物を受け取ることができるということを知る必要があります。
イエス様が来られる前の4000年の間、神が直接的に人々と交流できなかったために、多くの天使を使って人々を訪れられた父の苦労の計画があったことを知る必要があります。また、天と地を分け、計画をしていた父が人間の前に直接的で平面的な計画を立てるためにイエス・キリストを送られたことを知る必要があります。
イエス・キリストが来られてから約2000年の歴史が経過した今日、皆さん自身がその恵みの前に選ばれるには、イエスの来られる前の約4000年間、霊的な面で人間を求めて来られた神の心情を共感しなければなりません。また、イエス様がこの地上においでになり、ご自身の生涯や目的をかけて、皆さん一人一人をご自身の生活に同行させ、その生涯に同行させ、その永遠の目的に同行させようとする計画の意志に直面している歴史的な過程に立っていることを忘れてはなりません。
イエス様はこの意志を30年以上の生活目的として、また全体的な生涯の目的として立て、これを達成するために2000年の歴史を経て、皆さんの先祖を導いてきました。そして今後も皆さんの子孫を導いていく責任がイエス様に残っていることを感じなければなりません。
このような立場にいるイエス様が意志に直面するとき、イエス自身だけが喜ぶ生活、イエス自身だけが喜ぶことができる生涯、イエス自身だけが永遠をかけて安穏の日を迎えることができないことを皆さんはよく知っています。
では、今日、天の縁を見つけ出せず、天が求める希望の一日を見つけられないこの時に地上に住む人々はどのような立場にあるべきでしょうか?どんなに安穏を求めようとしても見つけることはできません。心でどれほど平和を求め、どれほど理想的で思想的な世界を夢見ようとも、それを保証される運命に置かれていません。
なぜなら、天地を創造された神の意志が悲しみの意志であり、この地の堕落した人間を救いの意志を遂行するために来られたすべての存在であるイエス・キリストもまた悲しみの心情を抱き、意志に直面しているため、地上のどんな人間もその心の安穏を見つけることはできず、私は勝利の栄光を持った者であると自慢することはできないのです。
このような意志の運命を負って人を導いていく神の悲しい心情が残っている限り、また皆さんを導いてくれるイエス・キリストの懇切な心情が残っている限り、そして数え切れないほどの聖徒たちが意志に直面する悲しみが残っている限り、今日の人類が望む善の園や、人類が敬愛する神の愛を永遠に手に入れることはできません。
このような意志に直面する天が人を導いていくことも容易なことではないが、そこにはどんなものがあるのかと言うと、悲しい心情の父の前に人を条件にしてサタンが邪魔し、中傷し、抵抗しているということです。これを皆さんは知っておかなければなりません。
皆さんの生活や生涯の中で、または皆さんが望む理想の中で、千里を射る原則、または神の創造思想に合わない要素がある場合、どのような条件も省かずにサタンから無慈悲な中傷を受けることになり、皆さん代わりに悲しんで、皆さん代わりに戦い出る父と主と聖徒たちがいることを皆さんは認識しなければなりません。
ですから、神の御計画の中には、神の悲しみが残っており、イエス・キリストの悲しみが残っており、そしてこれまで神の御計画に従ってきた無数の聖徒たちの悲しみが残っていますが、それ以上に大きな神の悲しみとは何でしょうか?それは、私たちを守りながら再びサタンと対決しなければならないという悲しみです。このような立場にいる神であるということを皆さんに知っていただかねばなりません。
さて、皆さんは今、イエス・キリストの誕生と生涯について考えなければなりません。イエス様がこの地上に生まれる前までは、人間と神との間には遠い距離がありました。そのため、神は人間が尽くしている努力を持ってしても、サタンの支配する闇の世界のすべての条件を踏み破り、つまりは天空の領域を掌握した闇のサタンの権力を打ち破り、神のもとに辿り着けるように願われました。そうすれば、人間は神の恵みを受けることができたのです。これが旧約時代の御計画でした。
しかし、人間の努力や苦労だけでは、決して神を見つけることはできないと悟られた神は、この地上にイエス様をお遣いになり、平面的な立場から相対的な価値を持って神を代表する中心的存在となるように、中傷の目にさらされていた堕落した人間を天に向かって顔を上げ、泣き悲しむような人間にするための地位に立たせてくださいました。これが4000年の御計画におけるサタンに対する勝利の条件であり、自慢の条件でした。
しかし、人間たちの不信心により、イエス様がこの地上に来られた目的を完遂することができなかったため、今も私たちは天に向かって祈り続け、真心を尽くさなければならない運命に置かれています。
元々、人間の視点を平面的に見て動くことができるように創造されていたにもかかわらず、どうして心は天に向かうべき立場に置かれたのか?皆さんが平面的な領域内で神の御計画の意志を達成し、神が喜ばれ、イエスや聖霊が喜べるように、地上のすべての人が喜べるようにするためです。
このような状況が実現されることが、私たちの希望が実現するための第一歩であり、この目標を達成するためにイエス・キリストをお遣いになったものの、人間の不信心のために去られたイエス様を再び迎え入れなければならない責任が皆さんにあることを知っていただかねばなりません。
イエス様はこの地上に来られて、その御計画的な生涯の最初の一歩として、天が御計画の意志に従って生活の道を進むことを開始しました。この生活の中心は何でしたか?まず第一に、人々を引き連れて神のもとに進むと同時に、人間を中傷するサタンと対決することでした。このような両面的な立場から、イエスは始まったのです。
見えない霊的な世界では、サタンから中傷を受け、見える肉体的な世界では、あらゆる不信の矢から反対を受ける立場から、イエス様は一人で4000年にわたって神の悲しみを代わり、天路の悲しみを代わりに感じました。このような心持ちを持ち、その御眼はイスラエル民族に向けられ、神の愛の心情に従って選ばれたユダヤ教を対象にしました。
しかし、イエス様の使命を完遂するために協力すべきイスラエル民族と神の御旨を受け入れるべきユダヤ教会は、イエスの前に一切現れず、全てが反対の立場にありました。現代のキリスト教徒は、これが必然的な事実であると信じている時、イエス様の真の心情を理解すべき時が来ていることを知らなければなりません。
イエスは霊的に侵略されるサタンの力を防ぎ、多くの人々によって肉体的に飛びかかるあらゆる不信の矢を阻止しなければなりませんでした。しかし、イエス様はそのような戦いだけをすることができませんでした。もっと大きく、もっと遠い神の御旨とその希望を見据え、そこに自身の身心を合わせなければならない立場にあったキリストの生涯の出発を、皆さんが同じ立場から同情する心を持つべきです。
このような立場から出発したイエス・キリストにとって、どのようにして神の御旨を達成し、どのようにしてサタンを屈服させ、どのようにして堕落した全人類を再び回復するかということが問題でしたが、イエス様はこれを解決するために立ち上がりました。
この地上で権勢を握っていたサタンは、神の栄光を自分たちで享受し、神が統治すべき人々を自分たちで統治しました。そのため人々はサタンの圧力の下で生きていたのです。したがって、イエス様はこの地上において、最初には反対する人よりも、人間を自分に反対させる霊的なサタンと対決しなければなりませんでした。この戦いからキリスト教の歴史が始まったことを皆さんは知っておかねばなりません。
それでは、サタンの本質と対峙するために現れたイエス様は、その生涯の領域内でまず何を示し、現れましたか?サタンができないことをしなければなりませんでした。このような責任を果たすために、イエス様は彼の生活領域内で実践的な行動を示し、現代のキリスト教の福音の原則となったのです。
言葉だけでなく、彼の心も、彼の生活も、彼の生涯も、彼の死に至るまで、サタンが行うことのできない条件を設定するためでした。このようなイエス・キリストの生涯の経過を皆さんは知らなければなりません。神の法もが厳然として存在するため、言い換えれば法を中心にすべてを統治する神が存在するため、イエス・キリストはこの法に従ってサタンを撃破したのです。
サタンの本質は高慢と血気です。このような性質で世の人を扱うサタンでしたが、イエス様は穏やかさと謙遜で世の人の前に現れました。
イエス様は、卑しく謙遜な立場に立ったわけではありませんでした。どんな誰よりも最高に高い存在であり、栄光を享受することができましたが、イエス様はこれらすべてを捨てて卑しく謙遜な立場に立ったのです。サタンはこのようなイエス・キリストと対決して戦おうとしましたが、サタンには神の前に屈服しなければならない条件があることを知っていたため、イエス様は最後まで卑しく謙遜な態度をとることができました。したがって、サタンの本質である高慢と血気に対抗する卑しく謙遜な姿勢を示したのです。
また、厳然とした天律があることを知るサタンであったため、最終的にはイエス・キリストを認めざるを得なくなったのです。つまり、謙遜と謙遜を持ち出してからサタン世界も自然と屈服するのです。このような原則を知るイエス様は、サタンが行うことのできない、サタンがすることのできない卑しく謙遜な立場を取ったのです。こうして卑しく謙遜な立場に立たなければ、中心を通じて歴史を進める神へと向かう新しい道を開拓することができるということを皆さんは知る必要があります。
そして、イエス様が何を示してくれたかというと、従順と服従です。従順は応じられる環境で命令に従うことであり、服従は応じられない環境で従うことです。イエス様は不信する人々にこのような従順と服従の道理を教えました。これもまた、サタンの本質、サタンのすべての生活的な要素を阻止するためのものです。
サタンは自分を中心にして他人がどうなろうと関係ない存在です。これがまた別のサタンの本質です。したがって、サタンの後に従うと不幸になります。そこでイエス様はすべての人々が自分を信じ、自分に従い、天に従うように教えました。このようなイエス様の意図を知らずに、人々はむしろイエス様を神の御旨の前に不正な人間と考えました。
このような立場で、言葉では言い尽くせない侮辱と非難を受けながらも、イエス様は従順の道を切り開いて行きました。また、イエス様は犠牲と奉仕の精神を持ちました。実際には、天の栄光を代わりにして、神の独生子としてこの地に来られたイエス様は、万民や万物、サタンさえも支配し、彼らの犠牲と奉仕を受け入れなければならない立場でしたが、その反対の立場に立たれたのです。
サタンがあなたの前に従順し、奉仕し、犠牲を捧げるようにするために、つまり、このようなサタンのすべての力を屈服させるために、イエス様は無限の犠牲と奉仕の犠牲を払う努力をしました。これを皆さんは知る必要があります。
サタン世界は人間を扱ったり、または創造物を扱ったりする限り、無限に利用し、搾取しようとしますが、イエス様はその反対の立場を取りました。このように、サタンが行えない生活をイエス様が代表的にしたため、つまり、卑しく謙遜であり、従順であり、服従し、犠牲と奉仕の生活をしたため、サタンもその面で屈服しなければならなかったのです。
皆さんは自分をイエス様が教えられた卑しさや謙遜、従順や服従、犠牲や奉仕に照らして見て、その教えを自分の生活領域内で実践できないと感じる場合、まだまだサタンの子孫であることに気づかなければなりません。
ここまで、皆さんの生活はどうでしたか? 自己中心的で高慢な生き方をする人々はまだいますか?早くそのような立場から脱出しなければなりません。イエス・キリストが設けた基準、サタンを屈服させる最後の戦いで勝利するための基準である、柔和と謙遜、従順と服従、犠牲と奉仕の姿勢で、血気によって天を追い詰める者たちに対して戦っていく内的な覚悟を養わなければなりません。
意志に反抗して背く立場に立ったのがサタンであり、これがサタンの生き方とされています。そのため、自らの意志に反発しようとする心は、自身の心ではなく、サタンの力が環境に満ち、その環境に縛られているために、自らも気づかぬうちにサタンの力が自分を中心にして現れるのです。イエス様は憎しみと悲しみがサタンの世界に結びついていますが、犠牲と奉仕を覚悟し、この道を解決しようとしました。
今日、私たちが直面している終末には、二つの道が残されています。それはサタンが行く道と天が行く道です。しかし、サタンが行く道と天が行く道は異なります。天が行く道は、サタンが行けない道です。つまり、サタンはイエス・キリストのように、神に服従し、柔和で謙遜であり、意志を従順にし、全人類を代表して犠牲と奉仕を行うことができないということです。
したがって、イエス様は善においては王の中の王であり、柔和で謙遜であり、従順と服従であり、犠牲と奉仕においても王の中の王であったことを知っておく必要があります。
地上の多くの人々は柔和さを知らず、従順さを知らず、犠牲を捧げる道を歩むことを知りません。イエス様は4000年の歴史の中で多くの人々が来たり去ったりしましたが、彼らができなかったこと、つまり天の前で最高の柔和の基準、最高の従順の基準、最高の犠牲の基準を設け、サタンの世界のすべてを踏み越えて登ることができた理由です。イエス様はこのようにサタンを屈服させる苦しい努力を私たちに示しました。
イエス様はこの地上に来て、柔和で謙遜であり、従順で服従し、犠牲と奉仕する生活をしましたが、神がこの地を通して長い歴史を経て疲れられたその心と同じ心を持ち、そのような生活をしてきたため、サタンは根本的に屈服しなければならず、根本的に変わらなければならない歴史的な出発点ができたのです。これを知っておく必要があります。
サタンは神の心情を知りながらも、人間が神に向かって進もうとする道を阻止し、むしろ自分に導いていく存在です。自ら高くなりたがり、自ら対抗しようとし、自ら人々を利用しようとします。しかし、神とイエス・キリストに向かえば、決して頭を上げることができなくなります。イエス様の生活領域内でこれらの条件が設けられたことを知っておく必要があります。したがって、私たちがイエス様に従うと、私たちからサタンが離れるのです。イエス様の生涯は、このような歴史的な出発を果たした生涯でした。
このような基準をイエス様はどのように設定されたのでしょうか? イエス様はまず、神と私は別々ではなく一体であるという基準を設けました。神が永遠であれば私も永遠であり、神が不変であれば私も不変であり、神が無限の慈悲を持っておられるならば私も無限の慈悲を持つだろうという心を持たれました。つまり、神の内面的な心情をイエス様は誰よりもよく感じ、一体化できたため、サタンとの闘いの中で勝利の基準を設定できたのです。
しかし、イエス様が来られて以降、今日までこのサタンの世界では、神とイエスとの内面的な心情をつなげるその言葉、また神とサタンとの間にどのような進展、どのような問題があるか、ということを知る人は誰もいませんでした。
おおよそ約2000年前、イエスはこの地上に来られ、サタンを屈服させる方法として、「柔和で謙虚であれ」「従順で屈従せよ」「献身と奉仕をせよ」と人々に教えられましたが、地上の人々はイエス様が教えられたとおりに柔和で謙虚に、従順で屈従しながら感謝し、献身と奉仕しながら感謝できる生活環境を持たず、自分でも気づかぬうちに従順の心が変わり、血気と高慢、対立と反対になり、奉仕と献身が変わり、利用と搾取になってしまいました。
イエス様はこのような問題点を解決することができたのは、神と切り離せない関係があり、神とサタンとの間に切ってはならない問題があり、サタンをどのように分断すれば良いかということを知るため、イエスはそのような道を歩むことができたためです。しかし、そのような内容を人々は知らないため、イエス様と同じ道を歩むことができなかったのです。
そのため、皆さんは天に向かって「父よ」と叫び、イエス様に向かって祈り、神とイエス様の心情を知り、サタンの策略まで知り、歴史的なサタンの犯罪を暴露し、現実的にサタンの集団を屈服させ、神の摂理の秘密を明らかにしてこれを清算しなければなりません。
柔和で謙虚でなければ、イエス様の心情を理解することはできません。また、従順で屈従し、献身と奉仕をしなければ、イエス様の前に近づくことはできません。これを皆さんは知るべきです。
現在の私たちには、そのような生活を完全に行い、神を求めて入ることが難しいです。そのため、人々は「ああ、神よ、臨んでください。」「神よ、あわれみたまえ。」と懇願しています。そして、「神の時はいつ訪れるのか?」「イエスと聖霊はいつこの地のすべての人々に現れるのか?」とその時を待ち望んでいます。これが歴史的な悲しみの状況として残っていることです。
あなたがたは、神とイエスとサタンの間の問題について疑念を持つ人々であったため、イエス様が伝えたいことを伝えることができなかったイエス様の心情を理解する必要があります。
それゆえ、従順の献身として、歴史の献身として、犠牲と奉仕の犠牲として、サタンに「なぜ神の摂理に従わないのか?」と叫びながら、霊と肉を結ぶ実体としてサタンを屈服させる秘密を見つけ出さない限り、イエスが霊的にサタンに勝利したことを現実的にも体現し、サタンを屈服させることはできません。
そのため、「私はまだあなたがたに言うべきことが多いが、今はあなたがたが耐えられないであろう。」(ヨハネ 16:12)、「私が地のことを語ってもあなたがたが信じないならば、いったい天のことを語ればどう信じるだろうか?」(ヨハネ 3:12)と述べ、すべてを伝えられなかったイエス・キリストの心情を理解する必要があります。
そうすると、このような歴史的な審判の日が私たちの前に迫っている今、あなたがたが悲しみを持つとすれば、どのような悲しみを持つべきでしょうか? イエス・キリストがサタンを屈服させるために悲しんでいた以上の悲しみを感じる聖徒として存在しなければなりません。
イエス様が十字架を前にし、ゲツセマネの園に登り、叫ばれた瞬間は、想像できないほど悲しい瞬間でした。自らの死が問題ではなく、天と地が揺り動かされる出来事でした。サタンの支配を解消したいという思いから、自らに衝撃を受け、ゲツセマネの園で祈り、叫び続けたイエス様の心情を共感し、さらには神の心情まで理解し、サタンを神の前に立たせ、サタンを屈服させることができるあなたにならなければなりません。そうでなければ、この地に再臨する主もまた、また悲しみの主となるでしょう。
では、今日の私たちはどうすべきでしょうか? 私たちは今や死を覚悟し、意志に従う者として、柔和で謙虚なリーダーとして立たなければなりません。意志に従う者として、逆らう者がいようともイエス様が独りで行かれたように、あなたたちも神の意志のために従順で服従的な犠牲として存在しなければなりません。そして、このような覚悟を持って全世界が反対しようとも、父の意志に従う者として奉仕と犠牲の犠牲となり、その意志の前に差し出されなければなりません。
では、柔和で謙虚であり、献身的であり、従順で服従的である程度はどの程度でしょうか? 神の栄光があり、イエス・キリストの栄光がある以上、あなたがたは神とイエスの栄光を称える立場にありますので、3000万人を代表して柔和で謙虚で、サタンの血気と高慢と対決できなければなりません。そして3000万人を代表して従順で服従し、サタンの対立と抗議に立ち向かわなければなりません。
したがって、利用し、搾取しようとするサタンに対して犠牲と奉仕の心情を持って立ち向かわなければならず、神とイエスが持っていたサタンに対する憤りの心情を持ち、サタンとの対決に打ち勝つことができなければなりません。もし、あなたがたがこのような聖者になれないとするならば、臨まれる主を地上で迎えることはできず、また主が来られてもその方と何らかの関係を結ぶことはできないでしょう。
では、今日のクリスチャンが持つべき生活的な理念は何でしょうか? 私がまず従順に従い、私がまず柔和で謙虚であり、私がまず犠牲をし奉仕することを意志します。このような道を通して、父の御心が達成され、父とイエスの心情が満たされることを知らなければなりません。これにしがみつき、教会と国を代表して献身し、天の御心のために従順に服従することができる聖者が、三千万の民の中に多く現れることを天は期待しています。
イエス様がこのように戦って勝利し、サタンを分別したように、今日私たちもサタンと戦って勝利し、父の腕に抱かれることのできる子どもたちとならなければなりません。終わりの日が今日、この地にはイエス様が内的にサタンと対決して戦われた生活的な理念を継承した柔和で謙虚な人々、従順で服従的な人々、犠牲を捧げ奉仕する人々がいて、全体の使命は果たせないかもしれませんが、神の審判と回帰と摂理を全世界の民を代表して分担しなければなりません。また、一つの分野を一人で負担できないなら、複数が団結してその責任を果たさなければなりません。このような神聖な運命が私たちの前に置かれていることをあなたは知らなければなりません。
イエス様が4000年の歴史を代表して犠牲の価値を象徴的に示されたように、この時代において私たちはイエス様を代表する立場に立たなければなりません。そのためには、イエス様と従順で服従的な友人になり、柔和で謙虚な友人になり、犠牲を捧げ奉仕する友人にならなければなりません。そうすることができる人が現れることを天は期待しています。
あなたがたがそのような姿になるためには、他人が何と言おうと、どのようなサタンの非難や妨害、苦難があろうと、それらに打ち勝たなければなりません。そして、イエス様がゲツセマネの園を通って十字架を担いでゴルゴダの丘まで行かれる悲しい心情が従うでしょうが、そのような場面でもイエス様が柔和で謙虚であり、喜んで犠牲の供えとなられたように、あなたも柔和で謙虚であり、従順でなければなりません。私たちは神の子として、神の栄光を称えなければなりません。
イエス様が自らの立場を誇示したり自らを主張せず、常に神の立場を主張されたように、私たちも神の子として、天の法を守り、自らを誇示すべきではありません。しかし、イエス様が柔和で謙虚であり、従順で服従的であり、犠牲を捧げ、奉仕したのは神から来たからです。神が元々そうであるからです。
崩壊していく命を救い、この堕落した世界を救うためには、すぐに従順で謙虚になり、速やかに柔和で謙虚になることが必要です。すみやかに献身し奉仕することが必要です。こうした人々が世界中で増えれば、サタンの支配や敵対者の支配下にあったこの地が立ち直るでしょう。
あなた方は柔和で謙虚であり、献身的であり、他者に何を与えても無限に与えなければなりません。そうすれば、天の怒りに満ちた感情を持ち、サタンと戦っていたイエス・キリストが再び来られるとき、審判の権威を持ち、栄光の姿でこの地に現れるとき、共に加わることができるのです。
イエスはこの地に来られて、愛情深く、悲しみに満ちた生活をされながらも、自らの人生が終わる日を迎えることはありませんでした。ですから、自らの心情を打ち明け、自らのすべての福を委ね、自らのすべての意志を託せる日を望み続け、今日まで2000年の歴史を過ごしてこられたことを理解しなければなりません。
イエス・キリストはこの地で言いたいことを言わず、やりたいことを行わず、持ちたい家庭を持っていなかったのです。では、イエス様が言いたかった言葉とは何でしょうか?それは神の奥義であり、サタンの奥義であり、人間の奥義を明らかにされる言葉でした。
このような言葉は一人で述べることができるものではありません。神が創造原則、自律的な運行法則によって支配されるように、言葉を述べるには自然な環境が先に整えられなければなりません。このような自然な環境が整った日をイエス様は持つことができなかったのです。
あなた方はイエス・キリストが人々に自由な環境で心を許して言葉を述べられる日を迎えられるようにするべきです。その言葉の中で神が共にあり、イエス様が共にあり、私が共にあり、サタンも自らのすべてを捨ててあなた方を従うことができる勝者となり、神も喜び、イエス様も喜び、私たちも喜ぶ日がこの地で実現しなければなりません。そうすれば神の意志が成就することを理解しなければなりません。
イエス様は言葉の主人として来られ、人格の主人として来られ、愛の主人として来られました。神から天地万物を支配する祝福を受けたアダムとイヴが堕落し、この言葉を実現することができなかった悔しさを残したため、イエス様はそれを解消するために来られました。また、イエス様は万物を支配できる人格的な基準を回復し、万物を支配しているサタンを打ち負かして神の支配権を回復させる言葉の主人、真理の主人であることを理解しなければなりません。
さらに、イエス・キリストは全ての人々、信じる者だけでなく信じない者さえも愛し、サタンの束縛から嘆息する人々を解放する無限の愛を持って来られた方です。今日、キリストの花嫁の理念を求めている私たちは、その花嫁の理念を持つためにはどうすればよいでしょうか。それについて問われると、「私こそが道であり真理であり命です」と(ヨハネ14:6)、その言葉を受け入れ、その通りに生きなければなりません。
また、サタンを服従させるためには、サタンが持っていない言葉、サタンが持っていない人格、サタンが持っていない愛を持たなければなりません。そして、イエス・キリストが地上の人々に示されなかった懇切な思いを理解しなければなりません。今日、あなた方は統一教会に通っています。私は時折言っています。「哀れな人の道をたどるあなた方は哀れであり、悲しい人の後をたどるあなた方は悲しむでしょう。しかし、その哀れや悲しみは私のためではありません。」
あなた方が本当にその立場になったとき、天から与えられるでしょう。その心情を通して、「私はキリストの心情を知り、キリストの生涯目的を知ったから、この目的を代わりに果たし、サタンに対して戦うでしょう。キリストが魂と肉を合わせてサタンを服従させるために戦われたが、私が今その戦いを負うことで、この悪党を打ち破り、サタンを服従させるでしょう」と自信を持って言える人を探さなければなりません。天はそのような人を探し求めています。
さらに、審判の日が近づいているので、私たちは苦難と悲しみの頂点を超え、死の犠牲となり、新たな真理の言葉を抱え、新たな人格を代わりに立てて、新たな生活理念を見つけ立てることから始めなければ、真の生活をすることはできませんし、生涯の目的を達成することも、新たな永遠の理想的な生活を始めることもできません。これは神がすることでもなく、イエスがすることでもなく、あなた自身がするべきことです。
イエス・キリストは神の外部の言葉だけを聖書に示しましたが、今、内部の言葉を持って再び来て、サタンの秘密を明らかにし、サタンを永遠に囚人に閉じ込めるでしょう。したがって、あなた方は再び来られる主から与えられた真理の主人たちにならなければなりません。
その真理の言葉とは、神も納得し、忠実な信者も納得し、サタンまで納得できる言葉でなければなりません。そして、その言葉の前では、正常で本来の心を持つ者であれば誰もが動かされ、引かれる言葉でなければなりません。
あなた方は真理の言葉を持たれたイエス様が犠牲になられるまでにも、神の前で這いつくばる気持ちを感じたかのように、イエス様の前に這いつくばる花嫁となり、父の前に犠牲として捧げられる人格を持たなければ、人格審判の頂点を越えることはできません。そして、真理審判の頂点を越えることによって、神がアダムとイヴに与えられた万物支配権を回復することができるのです。
そこから新しい人生の始まりが実現されるのです。花婿花嫁の資格を持ち、永遠の神の愛を中心に新しい生活が始まること、これが終末的な希望であり、千年王国の基盤であるということです。皆さんが原理を学び理解していることであるが、天使長の愛よりも奇妙な神の愛を受けることができる勝利の資格者となり、「ハレルヤ、アーメン!」と言えるようにならなければなりません。
そして、サタンの死の支配から解放されて、自由と平等と幸福と愛と善と美を中心に生きるが、自己中心的ではなく、神と主と天律を中心に生きることができなければなりません。そして、主の御心が私の御心であり、主の愛が私の愛であり、主の美が私の美であるように、すべてが私の前に現れるとき、皆さんがイエス様を崇拝するように、万物も皆さんを崇拝するでしょう。このような資格を持つ花嫁となることが終末の希望なのです。
同様に、皆さんが花嫁の資格を完成させ、地上で霊と肉を合わせてイエス・キリストを代表し、彼の願いを達成しサタンに誇りを持てる姿となって全体を指導できるようにならなければなりません。そうすれば、イエス・キリストの希望の日が勝利の日として永遠に天国の前に立てられ、人間の前に立てられ、神の前に立てられるでしょう。
また、今日私たちが生命の権利の下に留まるのも、神がお休みにならずに復帰の計画を何度も行われた贈り物であることを知る必要があります。
イエス様の神秘的な生涯とは、すべてが含まれています。神は4000年の歴史を経てイエス・キリストを送られ、神がイエス様を中心にして新しい計画を始められるようになりました。
つまり、神が地上の人々と自由に交流することができなかったために、多くの天使を使者として派遣して、古代の時代を経て地上で直接的な歴史を築く実在のキリストを置かれることで、堕落した人々を再び包む神の計画が始まったということです。このような内容を持つキリストの誕生について知る必要があります。
キリストが来られてから2000年の歴史が経ちました。したがって、今日、皆さんは父の贈り物の権威の下にあり、イエス・キリストを主として受け入れることができ、聖霊の保護を受けて贈り物を受け取ることができるということを知る必要があります。
イエス様が来られる前の4000年の間、神が直接的に人々と交流できなかったために、多くの天使を使って人々を訪れられた父の苦労の計画があったことを知る必要があります。また、天と地を分け、計画をしていた父が人間の前に直接的で平面的な計画を立てるためにイエス・キリストを送られたことを知る必要があります。
イエス・キリストが来られてから約2000年の歴史が経過した今日、皆さん自身がその恵みの前に選ばれるには、イエスの来られる前の約4000年間、霊的な面で人間を求めて来られた神の心情を共感しなければなりません。また、イエス様がこの地上においでになり、ご自身の生涯や目的をかけて、皆さん一人一人をご自身の生活に同行させ、その生涯に同行させ、その永遠の目的に同行させようとする計画の意志に直面している歴史的な過程に立っていることを忘れてはなりません。
イエス様はこの意志を30年以上の生活目的として、また全体的な生涯の目的として立て、これを達成するために2000年の歴史を経て、皆さんの先祖を導いてきました。そして今後も皆さんの子孫を導いていく責任がイエス様に残っていることを感じなければなりません。
このような立場にいるイエス様が意志に直面するとき、イエス自身だけが喜ぶ生活、イエス自身だけが喜ぶことができる生涯、イエス自身だけが永遠をかけて安穏の日を迎えることができないことを皆さんはよく知っています。
では、今日、天の縁を見つけ出せず、天が求める希望の一日を見つけられないこの時に地上に住む人々はどのような立場にあるべきでしょうか?どんなに安穏を求めようとしても見つけることはできません。心でどれほど平和を求め、どれほど理想的で思想的な世界を夢見ようとも、それを保証される運命に置かれていません。
なぜなら、天地を創造された神の意志が悲しみの意志であり、この地の堕落した人間を救いの意志を遂行するために来られたすべての存在であるイエス・キリストもまた悲しみの心情を抱き、意志に直面しているため、地上のどんな人間もその心の安穏を見つけることはできず、私は勝利の栄光を持った者であると自慢することはできないのです。
このような意志の運命を負って人を導いていく神の悲しい心情が残っている限り、また皆さんを導いてくれるイエス・キリストの懇切な心情が残っている限り、そして数え切れないほどの聖徒たちが意志に直面する悲しみが残っている限り、今日の人類が望む善の園や、人類が敬愛する神の愛を永遠に手に入れることはできません。
このような意志に直面する天が人を導いていくことも容易なことではないが、そこにはどんなものがあるのかと言うと、悲しい心情の父の前に人を条件にしてサタンが邪魔し、中傷し、抵抗しているということです。これを皆さんは知っておかなければなりません。
皆さんの生活や生涯の中で、または皆さんが望む理想の中で、千里を射る原則、または神の創造思想に合わない要素がある場合、どのような条件も省かずにサタンから無慈悲な中傷を受けることになり、皆さん代わりに悲しんで、皆さん代わりに戦い出る父と主と聖徒たちがいることを皆さんは認識しなければなりません。
ですから、神の御計画の中には、神の悲しみが残っており、イエス・キリストの悲しみが残っており、そしてこれまで神の御計画に従ってきた無数の聖徒たちの悲しみが残っていますが、それ以上に大きな神の悲しみとは何でしょうか?それは、私たちを守りながら再びサタンと対決しなければならないという悲しみです。このような立場にいる神であるということを皆さんに知っていただかねばなりません。
さて、皆さんは今、イエス・キリストの誕生と生涯について考えなければなりません。イエス様がこの地上に生まれる前までは、人間と神との間には遠い距離がありました。そのため、神は人間が尽くしている努力を持ってしても、サタンの支配する闇の世界のすべての条件を踏み破り、つまりは天空の領域を掌握した闇のサタンの権力を打ち破り、神のもとに辿り着けるように願われました。そうすれば、人間は神の恵みを受けることができたのです。これが旧約時代の御計画でした。
しかし、人間の努力や苦労だけでは、決して神を見つけることはできないと悟られた神は、この地上にイエス様をお遣いになり、平面的な立場から相対的な価値を持って神を代表する中心的存在となるように、中傷の目にさらされていた堕落した人間を天に向かって顔を上げ、泣き悲しむような人間にするための地位に立たせてくださいました。これが4000年の御計画におけるサタンに対する勝利の条件であり、自慢の条件でした。
しかし、人間たちの不信心により、イエス様がこの地上に来られた目的を完遂することができなかったため、今も私たちは天に向かって祈り続け、真心を尽くさなければならない運命に置かれています。
元々、人間の視点を平面的に見て動くことができるように創造されていたにもかかわらず、どうして心は天に向かうべき立場に置かれたのか?皆さんが平面的な領域内で神の御計画の意志を達成し、神が喜ばれ、イエスや聖霊が喜べるように、地上のすべての人が喜べるようにするためです。
このような状況が実現されることが、私たちの希望が実現するための第一歩であり、この目標を達成するためにイエス・キリストをお遣いになったものの、人間の不信心のために去られたイエス様を再び迎え入れなければならない責任が皆さんにあることを知っていただかねばなりません。
イエス様はこの地上に来られて、その御計画的な生涯の最初の一歩として、天が御計画の意志に従って生活の道を進むことを開始しました。この生活の中心は何でしたか?まず第一に、人々を引き連れて神のもとに進むと同時に、人間を中傷するサタンと対決することでした。このような両面的な立場から、イエスは始まったのです。
見えない霊的な世界では、サタンから中傷を受け、見える肉体的な世界では、あらゆる不信の矢から反対を受ける立場から、イエス様は一人で4000年にわたって神の悲しみを代わり、天路の悲しみを代わりに感じました。このような心持ちを持ち、その御眼はイスラエル民族に向けられ、神の愛の心情に従って選ばれたユダヤ教を対象にしました。
しかし、イエス様の使命を完遂するために協力すべきイスラエル民族と神の御旨を受け入れるべきユダヤ教会は、イエスの前に一切現れず、全てが反対の立場にありました。現代のキリスト教徒は、これが必然的な事実であると信じている時、イエス様の真の心情を理解すべき時が来ていることを知らなければなりません。
イエスは霊的に侵略されるサタンの力を防ぎ、多くの人々によって肉体的に飛びかかるあらゆる不信の矢を阻止しなければなりませんでした。しかし、イエス様はそのような戦いだけをすることができませんでした。もっと大きく、もっと遠い神の御旨とその希望を見据え、そこに自身の身心を合わせなければならない立場にあったキリストの生涯の出発を、皆さんが同じ立場から同情する心を持つべきです。
このような立場から出発したイエス・キリストにとって、どのようにして神の御旨を達成し、どのようにしてサタンを屈服させ、どのようにして堕落した全人類を再び回復するかということが問題でしたが、イエス様はこれを解決するために立ち上がりました。
この地上で権勢を握っていたサタンは、神の栄光を自分たちで享受し、神が統治すべき人々を自分たちで統治しました。そのため人々はサタンの圧力の下で生きていたのです。したがって、イエス様はこの地上において、最初には反対する人よりも、人間を自分に反対させる霊的なサタンと対決しなければなりませんでした。この戦いからキリスト教の歴史が始まったことを皆さんは知っておかねばなりません。
それでは、サタンの本質と対峙するために現れたイエス様は、その生涯の領域内でまず何を示し、現れましたか?サタンができないことをしなければなりませんでした。このような責任を果たすために、イエス様は彼の生活領域内で実践的な行動を示し、現代のキリスト教の福音の原則となったのです。
言葉だけでなく、彼の心も、彼の生活も、彼の生涯も、彼の死に至るまで、サタンが行うことのできない条件を設定するためでした。このようなイエス・キリストの生涯の経過を皆さんは知らなければなりません。神の法もが厳然として存在するため、言い換えれば法を中心にすべてを統治する神が存在するため、イエス・キリストはこの法に従ってサタンを撃破したのです。
サタンの本質は高慢と血気です。このような性質で世の人を扱うサタンでしたが、イエス様は穏やかさと謙遜で世の人の前に現れました。
イエス様は、卑しく謙遜な立場に立ったわけではありませんでした。どんな誰よりも最高に高い存在であり、栄光を享受することができましたが、イエス様はこれらすべてを捨てて卑しく謙遜な立場に立ったのです。サタンはこのようなイエス・キリストと対決して戦おうとしましたが、サタンには神の前に屈服しなければならない条件があることを知っていたため、イエス様は最後まで卑しく謙遜な態度をとることができました。したがって、サタンの本質である高慢と血気に対抗する卑しく謙遜な姿勢を示したのです。
また、厳然とした天律があることを知るサタンであったため、最終的にはイエス・キリストを認めざるを得なくなったのです。つまり、謙遜と謙遜を持ち出してからサタン世界も自然と屈服するのです。このような原則を知るイエス様は、サタンが行うことのできない、サタンがすることのできない卑しく謙遜な立場を取ったのです。こうして卑しく謙遜な立場に立たなければ、中心を通じて歴史を進める神へと向かう新しい道を開拓することができるということを皆さんは知る必要があります。
そして、イエス様が何を示してくれたかというと、従順と服従です。従順は応じられる環境で命令に従うことであり、服従は応じられない環境で従うことです。イエス様は不信する人々にこのような従順と服従の道理を教えました。これもまた、サタンの本質、サタンのすべての生活的な要素を阻止するためのものです。
サタンは自分を中心にして他人がどうなろうと関係ない存在です。これがまた別のサタンの本質です。したがって、サタンの後に従うと不幸になります。そこでイエス様はすべての人々が自分を信じ、自分に従い、天に従うように教えました。このようなイエス様の意図を知らずに、人々はむしろイエス様を神の御旨の前に不正な人間と考えました。
このような立場で、言葉では言い尽くせない侮辱と非難を受けながらも、イエス様は従順の道を切り開いて行きました。また、イエス様は犠牲と奉仕の精神を持ちました。実際には、天の栄光を代わりにして、神の独生子としてこの地に来られたイエス様は、万民や万物、サタンさえも支配し、彼らの犠牲と奉仕を受け入れなければならない立場でしたが、その反対の立場に立たれたのです。
サタンがあなたの前に従順し、奉仕し、犠牲を捧げるようにするために、つまり、このようなサタンのすべての力を屈服させるために、イエス様は無限の犠牲と奉仕の犠牲を払う努力をしました。これを皆さんは知る必要があります。
サタン世界は人間を扱ったり、または創造物を扱ったりする限り、無限に利用し、搾取しようとしますが、イエス様はその反対の立場を取りました。このように、サタンが行えない生活をイエス様が代表的にしたため、つまり、卑しく謙遜であり、従順であり、服従し、犠牲と奉仕の生活をしたため、サタンもその面で屈服しなければならなかったのです。
皆さんは自分をイエス様が教えられた卑しさや謙遜、従順や服従、犠牲や奉仕に照らして見て、その教えを自分の生活領域内で実践できないと感じる場合、まだまだサタンの子孫であることに気づかなければなりません。
ここまで、皆さんの生活はどうでしたか? 自己中心的で高慢な生き方をする人々はまだいますか?早くそのような立場から脱出しなければなりません。イエス・キリストが設けた基準、サタンを屈服させる最後の戦いで勝利するための基準である、柔和と謙遜、従順と服従、犠牲と奉仕の姿勢で、血気によって天を追い詰める者たちに対して戦っていく内的な覚悟を養わなければなりません。
意志に反抗して背く立場に立ったのがサタンであり、これがサタンの生き方とされています。そのため、自らの意志に反発しようとする心は、自身の心ではなく、サタンの力が環境に満ち、その環境に縛られているために、自らも気づかぬうちにサタンの力が自分を中心にして現れるのです。イエス様は憎しみと悲しみがサタンの世界に結びついていますが、犠牲と奉仕を覚悟し、この道を解決しようとしました。
今日、私たちが直面している終末には、二つの道が残されています。それはサタンが行く道と天が行く道です。しかし、サタンが行く道と天が行く道は異なります。天が行く道は、サタンが行けない道です。つまり、サタンはイエス・キリストのように、神に服従し、柔和で謙遜であり、意志を従順にし、全人類を代表して犠牲と奉仕を行うことができないということです。
したがって、イエス様は善においては王の中の王であり、柔和で謙遜であり、従順と服従であり、犠牲と奉仕においても王の中の王であったことを知っておく必要があります。
地上の多くの人々は柔和さを知らず、従順さを知らず、犠牲を捧げる道を歩むことを知りません。イエス様は4000年の歴史の中で多くの人々が来たり去ったりしましたが、彼らができなかったこと、つまり天の前で最高の柔和の基準、最高の従順の基準、最高の犠牲の基準を設け、サタンの世界のすべてを踏み越えて登ることができた理由です。イエス様はこのようにサタンを屈服させる苦しい努力を私たちに示しました。
イエス様はこの地上に来て、柔和で謙遜であり、従順で服従し、犠牲と奉仕する生活をしましたが、神がこの地を通して長い歴史を経て疲れられたその心と同じ心を持ち、そのような生活をしてきたため、サタンは根本的に屈服しなければならず、根本的に変わらなければならない歴史的な出発点ができたのです。これを知っておく必要があります。
サタンは神の心情を知りながらも、人間が神に向かって進もうとする道を阻止し、むしろ自分に導いていく存在です。自ら高くなりたがり、自ら対抗しようとし、自ら人々を利用しようとします。しかし、神とイエス・キリストに向かえば、決して頭を上げることができなくなります。イエス様の生活領域内でこれらの条件が設けられたことを知っておく必要があります。したがって、私たちがイエス様に従うと、私たちからサタンが離れるのです。イエス様の生涯は、このような歴史的な出発を果たした生涯でした。
このような基準をイエス様はどのように設定されたのでしょうか? イエス様はまず、神と私は別々ではなく一体であるという基準を設けました。神が永遠であれば私も永遠であり、神が不変であれば私も不変であり、神が無限の慈悲を持っておられるならば私も無限の慈悲を持つだろうという心を持たれました。つまり、神の内面的な心情をイエス様は誰よりもよく感じ、一体化できたため、サタンとの闘いの中で勝利の基準を設定できたのです。
しかし、イエス様が来られて以降、今日までこのサタンの世界では、神とイエスとの内面的な心情をつなげるその言葉、また神とサタンとの間にどのような進展、どのような問題があるか、ということを知る人は誰もいませんでした。
おおよそ約2000年前、イエスはこの地上に来られ、サタンを屈服させる方法として、「柔和で謙虚であれ」「従順で屈従せよ」「献身と奉仕をせよ」と人々に教えられましたが、地上の人々はイエス様が教えられたとおりに柔和で謙虚に、従順で屈従しながら感謝し、献身と奉仕しながら感謝できる生活環境を持たず、自分でも気づかぬうちに従順の心が変わり、血気と高慢、対立と反対になり、奉仕と献身が変わり、利用と搾取になってしまいました。
イエス様はこのような問題点を解決することができたのは、神と切り離せない関係があり、神とサタンとの間に切ってはならない問題があり、サタンをどのように分断すれば良いかということを知るため、イエスはそのような道を歩むことができたためです。しかし、そのような内容を人々は知らないため、イエス様と同じ道を歩むことができなかったのです。
そのため、皆さんは天に向かって「父よ」と叫び、イエス様に向かって祈り、神とイエス様の心情を知り、サタンの策略まで知り、歴史的なサタンの犯罪を暴露し、現実的にサタンの集団を屈服させ、神の摂理の秘密を明らかにしてこれを清算しなければなりません。
柔和で謙虚でなければ、イエス様の心情を理解することはできません。また、従順で屈従し、献身と奉仕をしなければ、イエス様の前に近づくことはできません。これを皆さんは知るべきです。
現在の私たちには、そのような生活を完全に行い、神を求めて入ることが難しいです。そのため、人々は「ああ、神よ、臨んでください。」「神よ、あわれみたまえ。」と懇願しています。そして、「神の時はいつ訪れるのか?」「イエスと聖霊はいつこの地のすべての人々に現れるのか?」とその時を待ち望んでいます。これが歴史的な悲しみの状況として残っていることです。
あなたがたは、神とイエスとサタンの間の問題について疑念を持つ人々であったため、イエス様が伝えたいことを伝えることができなかったイエス様の心情を理解する必要があります。
それゆえ、従順の献身として、歴史の献身として、犠牲と奉仕の犠牲として、サタンに「なぜ神の摂理に従わないのか?」と叫びながら、霊と肉を結ぶ実体としてサタンを屈服させる秘密を見つけ出さない限り、イエスが霊的にサタンに勝利したことを現実的にも体現し、サタンを屈服させることはできません。
そのため、「私はまだあなたがたに言うべきことが多いが、今はあなたがたが耐えられないであろう。」(ヨハネ 16:12)、「私が地のことを語ってもあなたがたが信じないならば、いったい天のことを語ればどう信じるだろうか?」(ヨハネ 3:12)と述べ、すべてを伝えられなかったイエス・キリストの心情を理解する必要があります。
そうすると、このような歴史的な審判の日が私たちの前に迫っている今、あなたがたが悲しみを持つとすれば、どのような悲しみを持つべきでしょうか? イエス・キリストがサタンを屈服させるために悲しんでいた以上の悲しみを感じる聖徒として存在しなければなりません。
イエス様が十字架を前にし、ゲツセマネの園に登り、叫ばれた瞬間は、想像できないほど悲しい瞬間でした。自らの死が問題ではなく、天と地が揺り動かされる出来事でした。サタンの支配を解消したいという思いから、自らに衝撃を受け、ゲツセマネの園で祈り、叫び続けたイエス様の心情を共感し、さらには神の心情まで理解し、サタンを神の前に立たせ、サタンを屈服させることができるあなたにならなければなりません。そうでなければ、この地に再臨する主もまた、また悲しみの主となるでしょう。
では、今日の私たちはどうすべきでしょうか? 私たちは今や死を覚悟し、意志に従う者として、柔和で謙虚なリーダーとして立たなければなりません。意志に従う者として、逆らう者がいようともイエス様が独りで行かれたように、あなたたちも神の意志のために従順で服従的な犠牲として存在しなければなりません。そして、このような覚悟を持って全世界が反対しようとも、父の意志に従う者として奉仕と犠牲の犠牲となり、その意志の前に差し出されなければなりません。
では、柔和で謙虚であり、献身的であり、従順で服従的である程度はどの程度でしょうか? 神の栄光があり、イエス・キリストの栄光がある以上、あなたがたは神とイエスの栄光を称える立場にありますので、3000万人を代表して柔和で謙虚で、サタンの血気と高慢と対決できなければなりません。そして3000万人を代表して従順で服従し、サタンの対立と抗議に立ち向かわなければなりません。
したがって、利用し、搾取しようとするサタンに対して犠牲と奉仕の心情を持って立ち向かわなければならず、神とイエスが持っていたサタンに対する憤りの心情を持ち、サタンとの対決に打ち勝つことができなければなりません。もし、あなたがたがこのような聖者になれないとするならば、臨まれる主を地上で迎えることはできず、また主が来られてもその方と何らかの関係を結ぶことはできないでしょう。
では、今日のクリスチャンが持つべき生活的な理念は何でしょうか? 私がまず従順に従い、私がまず柔和で謙虚であり、私がまず犠牲をし奉仕することを意志します。このような道を通して、父の御心が達成され、父とイエスの心情が満たされることを知らなければなりません。これにしがみつき、教会と国を代表して献身し、天の御心のために従順に服従することができる聖者が、三千万の民の中に多く現れることを天は期待しています。
イエス様がこのように戦って勝利し、サタンを分別したように、今日私たちもサタンと戦って勝利し、父の腕に抱かれることのできる子どもたちとならなければなりません。終わりの日が今日、この地にはイエス様が内的にサタンと対決して戦われた生活的な理念を継承した柔和で謙虚な人々、従順で服従的な人々、犠牲を捧げ奉仕する人々がいて、全体の使命は果たせないかもしれませんが、神の審判と回帰と摂理を全世界の民を代表して分担しなければなりません。また、一つの分野を一人で負担できないなら、複数が団結してその責任を果たさなければなりません。このような神聖な運命が私たちの前に置かれていることをあなたは知らなければなりません。
イエス様が4000年の歴史を代表して犠牲の価値を象徴的に示されたように、この時代において私たちはイエス様を代表する立場に立たなければなりません。そのためには、イエス様と従順で服従的な友人になり、柔和で謙虚な友人になり、犠牲を捧げ奉仕する友人にならなければなりません。そうすることができる人が現れることを天は期待しています。
あなたがたがそのような姿になるためには、他人が何と言おうと、どのようなサタンの非難や妨害、苦難があろうと、それらに打ち勝たなければなりません。そして、イエス様がゲツセマネの園を通って十字架を担いでゴルゴダの丘まで行かれる悲しい心情が従うでしょうが、そのような場面でもイエス様が柔和で謙虚であり、喜んで犠牲の供えとなられたように、あなたも柔和で謙虚であり、従順でなければなりません。私たちは神の子として、神の栄光を称えなければなりません。
イエス様が自らの立場を誇示したり自らを主張せず、常に神の立場を主張されたように、私たちも神の子として、天の法を守り、自らを誇示すべきではありません。しかし、イエス様が柔和で謙虚であり、従順で服従的であり、犠牲を捧げ、奉仕したのは神から来たからです。神が元々そうであるからです。
崩壊していく命を救い、この堕落した世界を救うためには、すぐに従順で謙虚になり、速やかに柔和で謙虚になることが必要です。すみやかに献身し奉仕することが必要です。こうした人々が世界中で増えれば、サタンの支配や敵対者の支配下にあったこの地が立ち直るでしょう。
あなた方は柔和で謙虚であり、献身的であり、他者に何を与えても無限に与えなければなりません。そうすれば、天の怒りに満ちた感情を持ち、サタンと戦っていたイエス・キリストが再び来られるとき、審判の権威を持ち、栄光の姿でこの地に現れるとき、共に加わることができるのです。
イエスはこの地に来られて、愛情深く、悲しみに満ちた生活をされながらも、自らの人生が終わる日を迎えることはありませんでした。ですから、自らの心情を打ち明け、自らのすべての福を委ね、自らのすべての意志を託せる日を望み続け、今日まで2000年の歴史を過ごしてこられたことを理解しなければなりません。
イエス・キリストはこの地で言いたいことを言わず、やりたいことを行わず、持ちたい家庭を持っていなかったのです。では、イエス様が言いたかった言葉とは何でしょうか?それは神の奥義であり、サタンの奥義であり、人間の奥義を明らかにされる言葉でした。
このような言葉は一人で述べることができるものではありません。神が創造原則、自律的な運行法則によって支配されるように、言葉を述べるには自然な環境が先に整えられなければなりません。このような自然な環境が整った日をイエス様は持つことができなかったのです。
あなた方はイエス・キリストが人々に自由な環境で心を許して言葉を述べられる日を迎えられるようにするべきです。その言葉の中で神が共にあり、イエス様が共にあり、私が共にあり、サタンも自らのすべてを捨ててあなた方を従うことができる勝者となり、神も喜び、イエス様も喜び、私たちも喜ぶ日がこの地で実現しなければなりません。そうすれば神の意志が成就することを理解しなければなりません。
イエス様は言葉の主人として来られ、人格の主人として来られ、愛の主人として来られました。神から天地万物を支配する祝福を受けたアダムとイヴが堕落し、この言葉を実現することができなかった悔しさを残したため、イエス様はそれを解消するために来られました。また、イエス様は万物を支配できる人格的な基準を回復し、万物を支配しているサタンを打ち負かして神の支配権を回復させる言葉の主人、真理の主人であることを理解しなければなりません。
さらに、イエス・キリストは全ての人々、信じる者だけでなく信じない者さえも愛し、サタンの束縛から嘆息する人々を解放する無限の愛を持って来られた方です。今日、キリストの花嫁の理念を求めている私たちは、その花嫁の理念を持つためにはどうすればよいでしょうか。それについて問われると、「私こそが道であり真理であり命です」と(ヨハネ14:6)、その言葉を受け入れ、その通りに生きなければなりません。
また、サタンを服従させるためには、サタンが持っていない言葉、サタンが持っていない人格、サタンが持っていない愛を持たなければなりません。そして、イエス・キリストが地上の人々に示されなかった懇切な思いを理解しなければなりません。今日、あなた方は統一教会に通っています。私は時折言っています。「哀れな人の道をたどるあなた方は哀れであり、悲しい人の後をたどるあなた方は悲しむでしょう。しかし、その哀れや悲しみは私のためではありません。」
あなた方が本当にその立場になったとき、天から与えられるでしょう。その心情を通して、「私はキリストの心情を知り、キリストの生涯目的を知ったから、この目的を代わりに果たし、サタンに対して戦うでしょう。キリストが魂と肉を合わせてサタンを服従させるために戦われたが、私が今その戦いを負うことで、この悪党を打ち破り、サタンを服従させるでしょう」と自信を持って言える人を探さなければなりません。天はそのような人を探し求めています。
さらに、審判の日が近づいているので、私たちは苦難と悲しみの頂点を超え、死の犠牲となり、新たな真理の言葉を抱え、新たな人格を代わりに立てて、新たな生活理念を見つけ立てることから始めなければ、真の生活をすることはできませんし、生涯の目的を達成することも、新たな永遠の理想的な生活を始めることもできません。これは神がすることでもなく、イエスがすることでもなく、あなた自身がするべきことです。
イエス・キリストは神の外部の言葉だけを聖書に示しましたが、今、内部の言葉を持って再び来て、サタンの秘密を明らかにし、サタンを永遠に囚人に閉じ込めるでしょう。したがって、あなた方は再び来られる主から与えられた真理の主人たちにならなければなりません。
その真理の言葉とは、神も納得し、忠実な信者も納得し、サタンまで納得できる言葉でなければなりません。そして、その言葉の前では、正常で本来の心を持つ者であれば誰もが動かされ、引かれる言葉でなければなりません。
あなた方は真理の言葉を持たれたイエス様が犠牲になられるまでにも、神の前で這いつくばる気持ちを感じたかのように、イエス様の前に這いつくばる花嫁となり、父の前に犠牲として捧げられる人格を持たなければ、人格審判の頂点を越えることはできません。そして、真理審判の頂点を越えることによって、神がアダムとイヴに与えられた万物支配権を回復することができるのです。
そこから新しい人生の始まりが実現されるのです。花婿花嫁の資格を持ち、永遠の神の愛を中心に新しい生活が始まること、これが終末的な希望であり、千年王国の基盤であるということです。皆さんが原理を学び理解していることであるが、天使長の愛よりも奇妙な神の愛を受けることができる勝利の資格者となり、「ハレルヤ、アーメン!」と言えるようにならなければなりません。
そして、サタンの死の支配から解放されて、自由と平等と幸福と愛と善と美を中心に生きるが、自己中心的ではなく、神と主と天律を中心に生きることができなければなりません。そして、主の御心が私の御心であり、主の愛が私の愛であり、主の美が私の美であるように、すべてが私の前に現れるとき、皆さんがイエス様を崇拝するように、万物も皆さんを崇拝するでしょう。このような資格を持つ花嫁となることが終末の希望なのです。
同様に、皆さんが花嫁の資格を完成させ、地上で霊と肉を合わせてイエス・キリストを代表し、彼の願いを達成しサタンに誇りを持てる姿となって全体を指導できるようにならなければなりません。そうすれば、イエス・キリストの希望の日が勝利の日として永遠に天国の前に立てられ、人間の前に立てられ、神の前に立てられるでしょう。