人生訓読 ブログ(日本語)

神様と真の御父母様を中心に全世界で御旨を歩む兄弟姉妹達と全世界の人々の幸福の為にこのブログを捧げます。

世界経典-9

2020年10月06日 19時04分56秒 | 学習

 


④人間の本然の価値具現

―宗教経典―

神のみもとで最も尊い者は、なんじらのうち最も主を畏れる者である。
クルアーン49.13 (イスラーム)

螺髪を結っているからバラモンなのではない。氏姓によってバラモンなのでもない。生れによってバラモンなのでもない。真実と理法とをまもる人は、安楽である。かれこそ(真の)バラモンなのである。
法句経393 (仏教)

彼の行為が彼を低くすれば、彼の家門は繁栄できない。
ナフジユ・アル・バラーガ語録21(イスラーム)


四つの階級で、ブラフミン、クシャトリア、バイシャ、スードラがあり、人生には4段階がある。しかし、彼らの中で主に瞑想する者は、誰もが気高い者だという。
アーディ・グラント、ガウンド、M.4 p.861 (シーク教)

正しいさとりを開き、念いに耽り、瞑想に専中している心ある人々は世間から離れた静けさを楽しむ。神々でさえもかれらを羨む。
法句経181(仏教)

良い評判を得る道は、その人が見えることを願うその人になるように努力することです。
ソクラテス(ヘレニズム)


―み言選集―

愛を中心として人間の価値を究明しなければならないことを、皆さんは知らなければなりません。
(99-63、1978.7.23)

人間の貴重な価値を満点にすることは、真の愛と一体となる時に可能です。心身一体は、良心と肉身が共鳴圏に立っていることを意味します。音叉の周波数が同じとき、一つをチンとたたけば、その反対の音叉が響きます。

それと同じように、真の愛によって良心をたたけば、肉身が響きます。真の愛で肉身をチンとたたけば、良心が共鳴圏をつくるようになるのです。そこには、教育が必要ありません。そのど真ん中に入っていけば、教えなければならないすべてのことを知るようになるというのです。
(223-356 ~ 357、1991.11.20)


アダムとエバが堕落していなければ、彼らの体は心が行く道に反対せず、従っていくようになっていたでしょう。体が心に絶対的に服従していたのです。

そのようになれなかったために、今日の人類も神様の真の愛に至ることができず、実質的な人間の価値を失ってしまうようになったのです。それをはっきりと知らなければなりません。

いかなる困難があったとしても、心と体を一つに
しなければなりません。そこから神様の愛が連結されるのです。そのようにしなければ天国に入っていくことができません。
(399-153、2002.12.22)

堕落した人間の最後の目的は、神様が本来の創造目的として下さった自我の自主性、尊厳性、および価値性を回復することである。
御旨の道、人格


6.良心と、もって生まれた善

良心は、私達が善を行うように促し、悪を行おうとする性向を防ぐ内面の神的光彩である。仏教はこの機能を「悟りを得る心」または「仏性」と表現するが、それは知恵の目を通して明らかにされ得る。

儒教はそれを仁とみなすが、広く知られた孟子の比喩によれば、これは井戸に溺れかかった子供を保護しようとする哀れみの心の発露を意味する。

またイスラームは、人間の心を本来、正直なものとみなし、使徒パウロは、良心が全く宗数的な教えを受けることができなかった人々さえも、正誤を区別できるようにしてくれるものだと言った。

良心は積極的に作用し、自己の向上とより良い社会のための理想を追求し鼓舞する。良心はまた消極的に作用し、私達が利己的な行動をしたり、人を傷つける行動をするとき、とがめ、教え諭したりもする。
これと関連し、文鮮明先生は、良心を父母より私達をもっとよく知る「宝のような師」と言う。良心は神様が贈ったものであり、私達に自己の向上を可能にさせ、究極的に神様が意図していた私達自身の完全な目的を実現できるようにする。

しかし、それは肉身の自己中心的欲望と絶えず闘わなければならない。私達は、日常生活においてゆがんだ良心を示すこともあるが、それは良心
が本性的に天賦的なものだとしても、後天的な訓育と教育が良心の判断に重大な影響を与えることができるからである。

正誤に対する誤った判断によって良心を洗脳することは、実に人間の霊魂に対する最悪の冒pである。良心には様々な次元がある。良心の表面にある次元は相対的で、ある人の真理概念を固守する。しかし、より深い次元には本心があり、それは絶対的な神様と関係を維持する。
したがって、堂々とした心でキリスト教徒たちを迫害していたタルソスのサウロのような人に、より高次的な真理の洞察が起きたのであり、人生の
方向を変えて使徒パウロになることができた。良心の根に神聖な本質があるので、すべての人間は結局、救援されるというのは、文鮮明先生の楽観的見解の基盤となるのである。

①善に基づく本心と心情

―宗教経典―

たとえ律法を持たない異邦人も、律法の命じるところを自然に行えば、律法を持たなくとも、自分自身が律法なのです。こういう人々は、律法の要求する事柄がその心に記されていることを示しています。

彼らの良心もこれを証ししており、また心の思いも、互いに責めたり弁明し合って、同じことを示しています。そのことは、神が、私の福音の告げるとおり、人々の隠れた事柄をキリスト・イエスを通して裁かれる日に、明らかになるでしょう。(注11)
ローマの信徒への手紙2.14 ~ 16(キリスト教)

温良は仁の根本なり
礼記38.18(儒教)

真の宗教とは、究極的に人間の霊性に基づぐ徳行である。
クンダクンダプラヴァチャナサーラ7(ジャイナ教)

実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。(注12)
ルカによる福音書17.21 (キリスト教)

ワービサ・イブン・マアバドが言った。「お前は高潔さについて訊ねるためにやって来たのかね」私は「はい、そのとおりです」と答えた。すると預言者は言われた。「自分の心に訊ねてみるがよい。高潔さとは魂が満ち足り、心も満足を覚えるようなものだ。だが悪行は魂にしみつき、他人が繰り返し『お前が法的に正しい』と言ってくれても、胸騒ぎを覚えさせずにはいない」。
ナワウィー40 のハディース27(イスラーム)

もし言下に自己の本心がわかり、自己の本姓を見届けるならば、そのまま丈夫、天人師、仏と呼ばれる。
六祖壇経1(仏教)
あなたの体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、濁っていれば、体も暗い。だから、あなたの中にある光が消えていないか調べなさい。あなたの全身が明るく、少しも暗いところがなければ、ちょうど、ともし火がその輝きであなたを照らすときのように、全身は輝いている。
ルカによる福音書11.34 ~ 36(キリスト教)

神の栄光は高遠なり。唯一真実の神が御自身を人間に現わし給う目的はここにある。つまり、人間の最も奥にある真の自己の鉱山に潜む宝石をあらわにするためである。
バハオラ落穂集132 (バハイ教)

一切衆生悉く仏性あり。即ち是我の義なり。是の如きの我の義や、本よりこの方、常に無量の煩悩に覆はる。是の故に衆生は、見ることを得る能はず。善男子、貧女人の、舎内に、多くの真金の蔵有るが如し。家人大小、知るもの有ること無し。時に異人有りて、善く方便を知り、貧女人に語る、「我今汝を雇はん、汝我が為に草穢を除すべし」女即ち答へて言はく、「我能はず、汝若し能く我が子に金蔵を示さば然して後乃ち當に速やかに汝の為に作すべし」是の人復言ふ、「我は方便を知る。能く汝が子に示さん」女人答へて言ふ、「我が家の大小も、尚自ら知らず、況や汝能く知らんや。」是の人復言ふ、「我今審らかに能くす。」女人答へて言はく、「我も亦見んと欲す、井に我に示すべし。」是の人即ち其の家に於て、真金の蔵を掘出す。女人見終りて、心に歓喜を生じ、奇特の想を生じ、是の人を宗仰す。善男子、衆生の仏性も、亦復是の如し。一切衆生は、見るを得ること能はず。

彼の宝蔵を、貧人の知らざるが如し。善男子、我が今普く一切衆生に、所有の仏性が、諸の煩悩に覆蔽せらるるを示すは、彼の貧人の、真金蔵有れども、見るを得ること能はざるが如し。如来は、今日、普く衆生に諸の覚宝蔵を示す。所謂仏性なり。
大般涅槃経214 ~ 215、隠れた宝の喩え(仏教)


孟子がいわれた。「人間なら誰でもあわれみの心はあるものだ。むかしの聖人ともいわれる先王(せんのう)はもちろんこの心があったからこそ、自然に温かい血の通った政治(仁政)が行なわれたのだ。

今もしこのあわれみの心で温かい血の通った政治を行なうならば、天下を治めることは珠でも手のひらにのせてころがすように、いともたやすいことだ。では、誰にでもこのあわれみの心はあるものだとどうして分るのかと言えば、その理由(わけ)はこうだ。

たとえば、ヨチヨチ歩く幼な子が今にも井戸に落ち込みそうなのを見かければ、誰しも思わず知らずハッとしてかけつけて助けようとする。これは可愛想だ、助けてやろうととっさにすることで、もちろんこれを縁故にその子の親と近づきになろうとか、村人や友達からほめてもらおうとかのためではなく、また、見殺しにしたら非難されるからと恐れてのためでもない。

してみれば、あわれみの心がないものは、人間ではない。悪をはじ、にくむ心のないものは、人間ではない。譲りあう心のないものは、人間ではない。善し悪しを見わける心のないものは、人間ではない。

あわれみの心は仁の芽生えであり、悪をはじ憎む心は義の芽生えであり、譲りあう心は礼の芽生えであり、善し悪しを見わける心は智の芽生えである。人間にこの四つ(仁義礼智)の芽生えがあるのは、ちょうど四本の手足と同じように、生まれながらに具(そな)わっているものなのだ。

それなのに、自分にはとても……そんな立派なことはできそうにないとあきらめるのは、自分を見くびるというものである。またうちの殿様はとても仁政などとは思いもよらぬと勧めようとしないのは、君主を見くびった失礼な話である。

だから人間たるもの、生れるときから自分に具わっているこの四つの芽生えを育てあげて、立派なものにしたいものだと自ら覚(さと)りさえすれば、ちょうど火が燃えつき、泉が湧きだすように始めはごく小さいが、やがていくらでも大きくなるものだ。このように育てて大きくしていけば、遂には〔その徳は〕天下をも安らかに治めるほどにもなるものだが、もしも育てて大きくしていかなければ、手近な親孝行ひとつさえも満足にはできはすまい。」(注13)
孟子Ⅱ.A.6 (儒教)


―み言選集―

人間の良心は神様を代表する心です。良心は私のために存在しません。天の義のために存在します。良心は常に善に向かって走ろうとします。
(219-118、1991.8.28)

釈迦も天を教えてくれました。すべての存在は仏心をもっていると言いましたが、その仏心とは何ですか。それは純粋な本然の心を意味します。
(33-45、1970.8.2)

「心の本源地は神様だ。神様の心に従って動こうとすることが、その対象的な位置にいる私だ」という、このような評価をしなければなりません。
(162-40、1987.3.22)

人倫道徳は、人類の良心を中心として、天に向かって正しい道を行かなければなりません。正しい道を行かなければならないとなっています。良心は高次的な理想世界に向かってこのように発展しようとします。(90-161、1976.12.26)
本来、天法の道理に従っていく人間には、自分自身が滅びるのを防備してくれ、保護してあげようとする心があるのです。本来あるとはどういうことでしょうか。神様に初めからそのような心があるので、人間にも初めからあるという意味です。自分がつくった法ではないというのです。

「良心よ、私がこうなのだからこうだ」と、そのように言いますか。「私の考えがそうなのだから、そうであるべきだ」と命令したからといって、良心が作用しますか。どこか分かりませんが、他の所から命令を受けるのです。そのような感情が、自分を支配するのを見るとき、これは公私の問題を中心として支配するということが分かるのです。
(31-241、1970.6.4)

古今東西を問わず、いかなる悪人であっても、悪を捨てて善に従おうとする本心だけは、だれでも共通にもっている。だから、何が善であり、いかにすればその善をなすことができるかということは、知能に属することであり、時代と場所と人がそれぞれ異なることによって、それらは互いに衝突し、闘争の歴史をつくってきたのであるが、善を求めようとする人間の根本目的だけは、すべて同じであった。

では何故、人間の本心は、いかなるものによっても取り押さえることのできない力をもち、時間と空間を超越して、善を指向しているのであろうか。それは、善の主体であられる神が、神の善の目的を成就するための善の実体対象として、人間を創造なさったからで、たとえ堕落人間がサタンの業により、善の生活ができないようになってしまったとしても、善を追求するその本心だけは、そのまま残っているからである。

したがって、このような人間たちによってつくられてきた歴史の進みいくところは、結局善の世界でなければならない。
原理講論、人類歴史の終末論2.3


神様の創造は、実に神秘で奥深さにあふれています。人間を、御自身の子女として創造され、万物の霊長として立てられた神様は、人間に「良心」という、最高、最善の贈り物を下さいました。

人間が地上界で一生を航海するのに必要な羅針盤として下賜されたものが、良心という特別な贈り物です。よく人生百年と言いますが、人間は誰彼を問わず、生まれて死ぬ瞬間まで、良心の作用圏
を抜け出すことはできません。

そして、良心の作用の中で、最高、最上の機能が正に、真の父母、真の師、真の主人の役割の機能です。言い換えれば、良心は、私達が生まれたときから真の父母、真の師、真の主人の位置で私達の生を指導し、教育する、神様の代身者であるということです。私達の一挙手一投足を、一時も逃すことなく導き、監視する責任が良心の機能だということです。

ですから、良心は、私達のすべての言行はもちろん、考えまでも父母よりも先に知り、師より先に知り、神様よりも先に知るのです。神様が、人間の人生を指導し監視する本源的な機能を、良心に伝授してくださったからです。

ところで、水晶のように清く透明でなければならない人間の良心に、堕落性の垢がつき、今まで様々な罪悪と疾病の中で本来の機能をすべて発揮できずにいるのです。

したがって、サタン主管圏のこの邪悪な世界から一日でも早く解放・釈放を受けたいと、泣き叫んでいる良心の声を聞ける皆様にならなければなり
ません。
平和神経、平和メッセージ15、2007.7.4


良心の方向性と目的の内容は何になるかというと、真の愛が目的の内容にならざるを得ないという結論が出てきます。その方向、良心の根の方向と目的が何かというと、変わらないこのような愛ではないと言うことはできません。(261-311 ~ 312、1991.4.15)

神様の愛は、自分を100 パーセント、120 パーセント投入するのです。そのようなものが堕落した世界に一つ残っているのですが、それが父の愛でもなく、母の愛です。それが種火のように残っています。この種火が残っているので、よく起こしさえすれば、再び火をつけることができるのです。それまでなければ、救援も不可能です。神様の創造本性の種が残っているので、救援が可能だというのです。
(199-276 ~ 277、1990.2.20)

②自分の良心との闘争

―宗教経典―

あなたは平素、自らが成長していることを感じることができないが、あなたが罪を犯すときは、それをはっきりと知ることができる。
アカン族の格言(アフリカ伝統宗教)

正しい良心で、弁明するようにしなさい。
ペテロの手紙3.16 (キリスト教)

先人言へることあり、「心に二種あり浄と不浄となり」と、欲と混するは不浄にして欲と離るるは浄なり。
マイトリ・ウパニシャッド6.34 (ヒンドゥー教)

また私は、己れをとがめる魂によって誓う。
クルアーン75.2 (イスラーム)


ある人が、何の愛らしい行動もせず、有益な行動もせず、心の弱い人たちに安息所を用意してあげることもしなかった。「私は何の愛らしい行動もしなかった」という思いに彼は苦しんだ。「私は悪行をしでかした」という思いに彼は苦しんだ。この二つの思いは、良心を麻痺。
如是語経25. (仏教)

清い人には、すべてが清いのです。だが、汚れている者、信じない者には、何一つ清いものはなく、その知性も良心も汚れています。
テトスヘの手紙1.15(キリスト教)

肉体の中には一片の肉があり、それが健全な場合肉体はすべて健全だが、それが腐ると肉体もすべて腐ってしまう。その一片の肉とは、心のことにほかならない。
ナワウィー40 のハディース6(イスラーム)

とはいえ、肉にも頼ろうと思えば、私は頼れなくはない。だれかほかに、肉に頼れると思う人がいるなら、私はなおさらのことです。私は生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。

律法に関してはファリサイ派の一員、熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者でした。

しかし、私にとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。そればかりか、私の主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、私はすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。キリストを得……。
フィリピの信徒への手紙3.4 ~ 8(キリスト教)

よい人のほまれとは、正しい良心の与える証しである。正しい良心をもちなさい。そうすればあなたはいつも喜びをもつことができよう。
正しい良心はずいぶんたくさんな物事を忍ぶ力を具え、逆境の中にあってもつねにずいぶんと大きな喜びを覚える。病める良心はいつもおずおずとして不安である。
トマス・ア・ケンピスキリストにならいて(キリスト教)

俺の良心には千もの舌があって、それぞれの舌がそれぞれの話をし、そのどの話も俺を悪党だと非難する。
ウィリアム・シェイクスピアリチャード三世

それが正しくても間違っていても、それ自体として悪なるものであろうと道徳的に放縦であろうと、良心に対する審判は必要だ。そのような面で良心に反する者は、いつでも罪を犯す者である。
トマス、・アクィナス(キリスト教)

上官が部下に良心に逆らう命令を下したなら、部下がそれに不服従しても、彼は罷免されないだろう。   アッシジの聖フランチェスコ三番目の降霊説教(キリスト教)
―み言選集―

人は自分の生涯の因縁を求めていくにおいて,自分の心に侍っていかなければなりません。これが天倫の鉄則です。心の命令に服従しない者は天が打ちます。
(42-60. 1958.8.3)

良心に呵責を受ければ天法に引っ掛かります。
(17-38. 1966.11.6)

放蕩息子は、死んでも故郷を訪ねていくことができません。良心がそうなのです。天国に行くのは、ほかの誰かが助けてはくれません。自分が行くのです。

兄の前に過ちを犯せば、兄の前に出ていくことを嫌います。兄は知らなくても、良心が申し訳なく思うのです。ですから、兄を遠ざけなければならず、その前に屈服しなければなりません。天地の道理が秩序に従ってできています。
堕落したために鈍くなって分からないのであって、鋭敏な人はすべて分かります。
(400-328、2003.1.11)

すべての人間は、一生の間ずっと、各自自分の中に最も貴重な師をもっています。それにもかかわらず、その師を誤って待遇し、踏みにじり、濫用しています。その師こそ、すなわち人間の良心です。

私達の良心は、常に私達自身にも助けになるように話し掛け、私達を真の愛と連結させてあげようとしています。私達の良心は、私達をして善で、非利己的な人になりなさいと父母のごとく促し、神様のみ旨に従って行動するように導いてくれています。

しかし、各自の心の中にはまた、常に良心の声に逆らう反乱者がいます。その反乱者こそ、すなわち肉体です。肉体は、良心を散々に踏みにじり、濫用してきました。私達がこのことを悟ったとき、私達は、自らの良心の敵であった肉体、すなわち私達自身の生命と人性をひどく損傷させた肉体の側につくことができますか。私達の良心は、常に心の中の師として、父母として、人類の究極的な父母である神様と、完全に一つとなるように導いてくれなければなりません。この時、良心は私達の中にある神様の代身者となるのです。

さらには良心を「第二の神様」とも呼ぶことができるのです。皆さんは、良心の敵である肉体に対して同情し、肉体を保護しなければならないと考えますか、それとも肉体を統制し、抑制しながら、良心が正当であることを立証しなければならないと考えますか。

肉体は、肉体的な欲望のみを追求するのです。腹が減れば、盗んででも飢えを免れようとします。肉体は常に楽なことを追求し、他を利用しようとします。肉体は、肉体なりの領域をもっています。すべての人は各自、肉体の領域を主管すべき莫大な責任を負っています。
(201-208、1990.4.9)
神様は、知恵の大王でいらっしゃいます。人間が完成に達する道を遠い所には置きませんでした。私達と最も近い所、最も隠密で安全な所、正に皆さんの良心の中にその道を準備しておいてくださったのです。

皆さん、良心は皆さんの主人です。皆さんの師です。皆さんの父母の代わです。良心は、皆さんのすべてのことに対して、誰よりも先に知っています。

皆さんの考えまでも、隅から隅まで知っているのが皆さんの良心です。師より、父母より、神様よりも先に知っています。このような良心が、皆さんのために一生の間どれほど多くの忠告をしてくれるでしょうか。

昼も夜も、悪いことを考えただけで、「こいつ!」と叱りながら、疲れもせずに皆さんを引っ張っていき、川を越え、峠を越えようと、どれほど苦労したでしょうか。良心は、いつも真の主人の姿で皆さんを保護して助けようとしたのに、いつも裏切った皆さんだったのではないでしょうか。宇宙から譲り受けた一つしかない貴い師であるにもかかわらず、この師を徹底して冷遇した皆さんの体をどうするつもりですか。

皆さんの本然的愛を引き継がせてくれた父母の代わりに送ってくれた良心を、無慈悲に蹂躙した肉身ばかりにしがみつき、その肉身の欲望に捕らわれて無為に歳月を過ごして一生の幕を下ろしますか。
(447-163 ~ 164、2004.51)

皆さんは、私は堂々とした一人の人格者なのに、私の良心は何か間違ってしまったのかと思うかもしれませんが、皆さんの良心は眠っています。皆さんの心は間違いなく眠っています。

良心は誰の制裁も支配も受けることを願いませ
ん。良心は休みません。いくら真っ暗な真夜中でも、明るい所でも、豪華絢爛な所でも、間違いをそのままにしておきません。少しでも間違えば、「おい、こいつ!」と言いながら体を打つのが良心です。このような師がどこにいますか。皆さんがはっきりと知らなければならないことは、皆さんの良心が眠っていると言うこの若い人の話が事実かということです。

眠っている良心を目覚めさせましょう。神様の心情を知らずに眠っている民族の良心を目覚めさせましょう。神様の心情を知らずに眠っている世界人類の良心を目覚めさせましょう。

天地を抱き、一つの世界を建設しようとされる神
様のみ旨に従い、終末世界に向かって行くまいとしても行かざるを得ない立場にいる人間たちの良心を目覚めさせてあげましょう。

今日、私達が信じている宗教が世界人類すべてに教えを与えることができ、眠っている良心を目覚めさせ得る宗教になっていますか。そのような内容を備えた主義や理念がありますか。良心が目覚め、そこに入っていくその衝撃、その決意、その覚悟は、世の中の万事を一度に片付けてしまうことのできる力として現れなければなりません。刃物が恐ろしいですか、死が恐ろしいですか、私の良心から起きてくるものを誰が妨げるでしょうか。誰も妨げることはできません。
(10-284 ~ 285、1960.11.6)
 

7.完全性

宗教の諸経典は、絶対者と一つになった人、真理を体現した人、罪、または世俗的な堕落の足かせから自由な人、満ちあふれる聖なる恩寵を表し示す人の功徳を描写する。彼らは、聖者、賢者、仏陀、または神聖な人間と呼ばれるだろう。このような完全状態は、私達が到達できない領域の向こうではない。

私達が努力さえすれば成就できる目的地である。ガンジーは次のように言った。「人生は熱望だ。その任務は、完成、すなわち自己実現のために奮闘することだ。その理想は、決して私達の意気地のなさや不完全さのために低められてはいけない」。ここに記述された章句は、完全状態を成就した人の卓越した稟性を描写する。特に、完全性の三つの品性を強調する。

一つ目は、心と体の統一である。聖者は、利己的な欲望を克服し、性欲、貪欲、またはほかの欲望を浄化することによって自分自身を主管した。結果的に彼は、ひとえに神様のみ旨と良心の指示に従って正しいことのみを行おうとする。聖アウグスティヌスの言葉によれば、私達は「神様を愛し、あなたの意図することができる人だ」ということである。

二つ目は、完全性は神様との統一である。神様は、最高の人間的熱望の典型でありモデルである。それゆえ聖者は、神様自身の完全性に同参しようと努力することによって、神様の属性、すなわち絶対、不変、愛、正義などを具現するようになる。

三つ目は、完全性は神様の真の愛を具現することを意味する。愛または慈悲は、罪のある人々を救うための、その疲れを知らない努力から現れたものとして、神様の本質の核心である。したがって、完全な男性と女性は、ほかの人々の豊かな人生を喜び、社会の利益のために私心なく努力する。聖者の愛は、どちらの一方にも傾かず、誰も敵とみなさず、常に善で悪に報いる。(第13 章1.
「真の愛」参照)
①完全性は心と体の一致から始まる

―宗教経典―

また、一人の出家沙門が釈尊に問うた。世の中には善となすものが色々とあるが、何が善といわれるものであり、その中で最大の善となすものは何んですか、と。

釈尊はいわれた、仏道を行じ、その真を守るものが善であり、その志しが行ずる道と一つになることが、善の最大をなすものである、と。
四十二章経14(仏教)

愛着までもが私のもたらしたものにふさわしくならない限り、本当の信者とはいえない。
ナワウィー40 のハディース41(イスラーム)

悟りに満ちた者は、決していかなる悪行にふけることはない。彼の良心は、真理で完全に映し出された知性によって導かれるからである。
アーヤーランガ・スッタ1.174(ジャイナ教)
覚りのようすがに心を正しくおさめ、執著なく貪りをすてるのを喜び、煩悩を滅ぼし尽くして輝く人は、現世において全く束縛から解きほごされている。
法句経89、(仏教)

御者が馬をよく馴らしたように、おのが感官を静め、高ぶりをすて、汚れのなくなった人、このような境地にある人を神々でさえも羨む。大地のように逆らうことなく、門のしまりのように慎み深く、(深い)湖は汚れた泥がないように、そのような境地にある人には、もはや生死の世は絶たれている。

正しい智慧によつて解脱して、やすらいに帰した人、そのような人の心は静かである。ことばも静かである。行いも静かである。何ものかを信ずることなく、作られざるもの(一ニルヴァーナ)を知り、生死の絆を断ち、(善悪をなすに)よしなく、欲求を捨て去った人、かれこそ実に最上の人である。
法句経94.97(仏教)
アルジュナはたずねた。
「クリシュナよ、智慧が確立し、三昧に住する人の特徴はいかなるものか。叡知が確立した人は、どのように語り、どのように坐し、どのように歩むのか。」

聖バガヴァッドは告げた。
「アルジュナよ、意(こころ)にあるすべての欲望を捨て、自ら自己(アートマン)においてのみ満足する時、その人は智慧が確立したと言われる。不幸において悩まず、幸福を切望することなく、愛執、恐怖、怒りを離れた人は、叡知が確立した聖者と言われる。

すべてのものに愛着なく、種々の善悪のものを得て、喜びも憎みもしない人、その人の智慧は確立している。亀が頭や手足をすべて収めるように、感官の対象から感官をすべて収める特、その人の智慧は確立している。断食の人にとって、感官の対象は消滅する。味を除いて……。

最高の存在を見る時、彼にとって味もまた消滅する。実にアルジュナよ、賢明な人が努力しても、かき乱す諸々の感官が、彼の意(こころ)を力ずくで奪う。すべての感官を制御して、専心し、私に専念して坐すべきである。感官を制御した人の智慧は確立するから。」
バガヴァッド、ギーター2.54 ~ 61(ヒンドゥー教)

アブ・フレイラが、神の使徒が語る言葉を伝えた。「最も完璧な信仰をもった者は、最もりっぱな性格をもった者である」。
アブー・ダーウードおよびダーリミー・ハディース(イスラーム)

諸の比丘の、阿羅漢にして諸漏己に尽き、{梵行}己に住し、所作己に弁じ、諸の重擔を棄て、己利を逮得し、諸の有結を尽し、正知して解脱せるものは、九事を行ずることあり得べからず。{謂く}漏尽。比丘の故(ことさ)らに殺生することあり得べからず。比丘の盗心を以て不興を取ることあり得べからず。
比丘の淫法を行ずることあり得べからず。比丘の知りて妄語することあり得べからず。比丘の蓄財の欲を亨くること前に在家者なりしが如きことあり得べからず。比丘の欲趣に往くことあり得べからず。比丘の瞋趣に往くことあり得べからず。比丘の癡趣に往くことあり得べからず。比丘の怖畏趣に往くことあり得べからず。
阿含経増支部ⅳ.370 (仏教)

これは「道」と同一になるといわれる。
それに近づくことができず、また、
遠ざけることもできない。
それに利益を与えることもできず、
また、害を及ぼすこともできない。
尊敬へと高めることはできず、また、
恥に苦しめることもできない。、
だから、天下で最も尊い人なのである。
道徳経56(道教)


―み言選集―

皆さんがここから出発するにおいて、どのように行かなければなりませんか。各自が指向する量が100 とするとき、ここで心と体が50 対50 ではいけません。

そのような人は、中間霊界にとどまるようになります。緩衝地帯にとどまるのです。もし体が60 であれば、間違いなく地獄に行きます。地獄はどのような所でしょうか。陰になっている所です。天国はどのような所でしょうか。輝いている所です。その、ように理解すればよいのです。そのような人は、必ず陰になっている所に行くというのです。ここは、下りていけばいくほど真っ暗になります。

ですから、皆さんは常に「私」という存在は善悪の母体だということを考えなければなりません。先生も皆さんのような年齢のとき、このような内容で苦心したのです。それで、先生が立てた標語が何かというと、「宇宙主管を願う前に自己主管を完成せよ」というものです。これが信仰生活においての第一条です。このような面で、自我を完成し、自我を主管できるようになるとき、すなわち、自分の体を制御し、克服できる自主性をもつようになるとき、初めて自分の心と体の相克がなくなるのです。
(?-122、1970.12.23)

人は二重構造になっています。心的な人と体的な人です。それでは、心はいったい何でしょうか。心は縦的な基準をもっています。体は何でしょうか。横的な基準をもっています。

これが本来神様の理想的基準に立ち、神様の愛を
受けることができるようになれば、縦的な心に神様の愛が「カーン」と響く時、横的な体はすべて感じるようになります。心的、縦的基準が存在する霊人体に神様の真の愛が「カーン」と響けば、横的な基準になる体も「カーン」と共鳴するようになっています。……霊人体に真の愛が「カーン」と響けば、体が共鳴できるのです。堕落していなければそうだというのです。
どのような基準によってそのようになっていますか。何によって共鳴するのですか。真の愛の響きに共鳴するようになっています。
(177-216、1988.5.20)

皆さんの体と心が一つになれば、神様が臨在されるというのが原埋の教えです。それでは、神様がなぜそこに臨在されるのかというのです。人の体と心が一つになれば、必ずそこには、一つになる原則は愛から始まるので、相対的愛があるがゆえに臨在するという論理が成立するのです。

「人の体は神様の聖殿である」とこのように言います。聖殿とは、どのような所ですか。聖殿というならば安息所という言葉と通じます。それでは、休むには何の中で休みますか。愛の中で安息するのです。

私達人間が願う理想があるならば、そのような内心的基準が最高の理想の基準ではないですか。そのような心の愛をもった所を、心情の世界というのです。
それはわき出る泉の水と同じであって、くみ出しても、くみ出しても終わりがありません。なぜでしょうか。神様がそこにいらっしゃるから終わりがないという、このような論理を立てることができるというのです。
(91-78、1977.1.30)

神様は純金ですか、偽の金ですか。純金です。神様が純金なので、私達が一緒に一つになろうとすれば、どのようにならなければなりませんか。偽者になってはいけません。

ですから、私達が神様の心と体のようになっていなければならないのです。それでマタイによる福音書第5章48 節に「あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」という言葉が出てくるのです。
(91-321、1977.3.1)


そうだとすれば、天国はどのように成すのですか。第1に、家庭を形成するすべての要員は、個性完成を成さなければなりません。堕落によって選択の余地もなく相続するようになった堕落性を脱ぎ、自らの人格完成をしなければなりません。

すなわち、心と体の葛藤と闘争を完全に克服し、勝利して一心一体一念の境地で完全一和の世界が、人格完成によって実を結ばなければならないのです。このような境地に到達した人には、妬み、嫉妬、欲心、憎悪など、あらゆる悪の要因になる堕落性が再び根を降ろすことができません。
(443-175、2004.3.23)

宗教の目的は、心情世界の法度を活用し、生活的な感情と対している宇宙万象のすべての道理を管轄できる権限をもつ、そのような人格者を育成することです。
(6-349、1959.6.28)

自分を愛さない人は神様を愛することができません。父母を愛さない人は国を愛することができません。また、自分自身を愛することができない人は、父母を愛することができません。

自分自身を愛してこそ、父母を愛することができるのであり、国を愛することができるのであり、世界を愛することができるのであり、神様を愛することができるのです。

ですから、宇宙主管を願う前に自己主管をしなさいというのです。このような途方もない愛の実体である個体を主体的な立場に立てておかなければ、家庭も不可能であり、国も不可能であり、国家も世界も不可能です。ですから、自分を完全に愛することのできる人でなければ、完全な神様を愛することはできません。
(22-97 ~ 98、1969.1.26)

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世界経典-8

2020年10月06日 19時03分17秒 | 学習


2.神様の形状

どのようにして人間が神様に似たということを描写できるのか。この節と次の節は、三つの側面からこの主題に関して説明する。

第1に、人間は神様の形状として創造された。第2に、人間は神様の霊が臨在する器である。第3に、私達は神様の愛らしい子女たちである。

ユダヤ教とキリスト教の諸経典は、人間が神様の形状として神様に似て創造されたと教える。神様の形状は、神性、真理、正義、愛などの理想を言う。聖者や自我を完成した人は、神様の神性を表す天国と似ている。

このような理想に到達するためには、内的人間の変化、すなわち文鮮明先生が言及したように、
「人格革命」を必要とする。文鮮明先生の教えは、人間が神様に似るいくつかの方法に対して説明してくれている。
先生は、全知、全能、絶対、永遠など、神様の属性を検討し、人間がこれと同一の品性をもつために努力していると語る。さらに、このような諸品性をもつことは、神様から受けた私達の本性的権利である。

また、諸経典は、男性と女性がすべて神様の形状の中にとどまると断言する。神様は、ひとえに自らと完全な愛を分かち合うことのできる相対として人間を創造されたため、人間は一様に完全に神様に似なければならない。それゆえ、人間が堕落していなければ、結婚によって一つになった男女により、神様の形状を完全に成就できたのである。

①人間は神様にどのように似たのか

―宗教経典―

おお人の子よ! わが太古よりの存在と、わが本質の不変の永遠性に包まれて、われ汝への愛を知った。さればこそ、われ汝を創った。汝の上にわが面影を刻み、汝にわが美を表わした。
バハオラ隠されたる言葉3、(バハイ教)

神は言われた。「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。(注1)
創世記1.26 (キリスト教)

ラビ・アキバは言った。「人は愛を受ける存在だ。彼らが神の形どおりに創造されたからである。しかし、創世記9章6節に『人は神にかたどって造られたからだ』と教えてくださるように、格別な愛で人にこの事実を知らせてくださった」
ミシュナ、アヴォート3.18、(ユダヤ教)

それでなんじは純正な教えに、なんじの顔をしっかり向けよ、神が人間に定めたまえる天性にもとづいて、かれの本性に従い奉れ。神の創造に、変更があるべきではない。それが正しい教えである。
クルアーン30.30(イスラーム)

あなた自ら神の性格に一致するようにせよ。
アブー・ヌッアイム・ハディース(イスラーム)

明(太陽)が地上に出れば、あたりをくまなく照らす。君子はこの卦象にのっとって、みずからの明徳をあきらかにして人に仰ぎ見られるようにつとめる。
易経35(儒教)

もし人々が天と同じであれば、地から受けたその心を正しくもつとき、それが正に神である。
清和天皇に下った啓示(神道)


神は慈悲深く恩恵に満ちた方だと呼ばれるがゆえに、あなたも慈悲深く恩恵に満ちた人になりなさい。すべての者たちに無償で贈り物を与えなさい。神が義で愛多き方であられるがゆえに、あなたも義で愛を施す者になりなさい。
申命記スィフレイ(ユダヤ教)

この世のすべてのものはそれ(「有」)を本質としている。それは真に存在するものである。それはアートマンである。……おまえはそれである。
チャーンドーギャ・ウパニシャッド6.8.7 (ヒンドゥー教)

無知に被われて凡夫と覚者(ブッダ)の心は異って見えます。だが心の精髄の境地では、それらは〔平等〕一味のもの
ミラレパ(仏教)


主はモーセに仰せになった。イスラエルの人々の共同体全体に告げてこう言いなさい。あなたたちは聖なる者となりなさい。あなたたちの神、主である私は聖なる者である。
レビ記19.1 ~ 2(キリスト教)

父よ、全能の力よ! あらゆるものの中にあるその力よ! 私達に下りてきて、私達を満たしたまえ。私達があなたのようになるまで、私達があなたのようになるまで。
スー族の祈り(アフリカ伝統宗教)

「ヴァーセッタよ、どう思うか。梵天は妻帯しているか、していないか」(注2)
「妻帯していない。ゴータマよ」
「心に恨む気持ちがあるか、ないか」
「恨む気持ちはない。ゴータマよ」
「心に悪意はあるか、ないか」
「悪意はない。ゴータマよ」
「心が汚れているか、いないか」
「汚れていない。ゴータマよ」
「自制心があるか」
「自制心がある。ゴータマよ」
「ヴァーセッタよ、どう思うか、三ヴェーダに詳しいバラモンたちは、妻帯しているか、していないか」
「妻帯している。ゴータマよ」
「心に恨む気持ちがあるか、ないか」
「恨む気持ちがある。ゴータマよ」
「心に悪意があるか、ないか」
「悪意がある。ゴータマよ」
「心が汚れているか、いないか」
「汚れている。ゴータマよ」
「自制心があるか」
「自制心がない。ゴータマよ」
「ヴァーセッタよ、梵天は、妻帯していないが、三ヴェーダに詳しいバラモンたちは、妻帯している。妻帯しているバラモンたちが、妻帯していない梵天と交際し、親しくなるということがあるだろうか」
「そのようなことはない。ゴータマよ」
「ヴァーセッタよ、その通りである。妻帯している三ヴェーダに詳しいバラモンたちは、身体が亡びた後、死んだ後、梵天と共生するであろうというが、この事に根拠はない」
ディーガ・ニカーヤ13.31 ~ 34 テーヴッジャ・スッタ(三明経)(仏教)

人間とは何か。人間は物質ではない。それは、頭脳、血液、骨、そしてほかの物質的要素で組み立てられた存在ではない。聖書は、人間は神の形と姿どおりに造られたと私達に教えてくれる。物質は姿ではない。霊の姿は霊とあまり異なるものがない。人間は霊的であり完全だ。そして、霊的であり完全なので、クリスチャン・サイエンスで人間はそのように理解されなければならない。人間は、観念であり、形状であり、愛である。人間は肉体的構造ではない。
科学と健康475(クリスチャン・サイエンス)

彼らは、根本において正義なるもの、美しいもの、節制あるもの、そして彼らが人間たちの中に生じるようにしようとするものに対して注目するでしょう。
そして、さまざまな活動要素を一つに混ぜ合わせて人間の姿を造成するので、これはホメロスも、人間の中に現れた神の姿であり、神に似たものだと言ったのです。
プラトン国家6(ヘレニズム)

ともかく、神は決して不義ではありません。神は完全な義です。私達の中で最も義なる者は、最も多く神に似た者です。
プラトンテアイテトス(ヘレニズム)


―み言選集―

神様はどのような方でしょうか。皆さんにこのように尋ねるとき、「神様はどのような方か。神様は神様のような方でしょう」と答えます。それは私達に実感がわきません。

神様はいったい誰か、どのような方かという問題について考えてみるとき、私達人間に一番良い答え、すべての人間たちが願う最高の答えがあるとすれば、私のような方だということです。

最も大きな答えがあれば、私達の国のような方だ、私達の世界のような方だ、私の兄のような
方だというものですが、兄でも遠いのです。父母でも私と違います。結局、神様はどのような方かというとき、私のような方だというのです。
(127-233、1983.5.15)

神様も独りでは絶対に愛することができないので、必ず愛することのできる一つの対象をつくらなければなりません。それで、その対象として被造万物をつくったのですが、その被造万物は、御自身の形状をそのままかたどって展開させてつくったのであり、その中で御自身の人格を身代わりできる存在として創造的な立場に立てておくために造ったのが人間なのです。

このような人間は、神様が喜ぶときに一緒に喜ぶことができ、悲しむときに一緒に悲しむことができる素性をもたなければなりません。このような神様の内情を体得し、体感できる人にならなければ、いくら神様が人間を愛しているとしても、その人と互いに和動し一つになれる立場に立つことはできません。

ですから、神様は人間を造られるとき、互いに喜ぶことができ、またその愛を感じることができるように造らざるを得ないのです。それで人間を絶対者の相対的な立場に立てるために、絶対者と同じ価値をもつことができるように造ったのです。
(39-9、1971.1.9)

人は自分に似たものを好みます。世の中は誰に似たのでしょうか。これから理想世界は誰に似なければならないのでしょうか。神様に似なければなりません。それでは、神様は天地を創造されるとき、どのようにつくったでしょうか。

創世記第1章27 節に何とありますか。「神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された」とあります。神様にかたどって創造したというのです。誰に似るように皆さんを造ったというのですか。神様に似るように造ったのです。

結局、私達が自分に似たものを好むので、神様は、私達が神様に似ることを喜びます。それで神様は、天地万物をつくっておかれ、神様に似たものを御覧になりながら喜ばれるのです。
(26-167、1969.10.25)

似るときはどこから似なければなりませんか。神様は、神様の法度を中心として永遠の愛、全知全能、遍在する方としていらっしゃいます。神様は全知全能であられ、遍在され、永遠なる方ですが、私達はどこから似なければなりませんか。私達が神様に似たとすれば、どのようにならなければならないでしょうか。

神様が永遠であられるなら私達も永遠でなければならず、神様が遍在されるのなら私達も遍在しなければなりません。ですから、世界のあらゆる所に行って暮らしてみたいと思うでしょう? 全知全能の力をもって全世界を一度に握ってみたいと思うでしょう? そのようにしたいと思うことが神様に似たというのです。

それでは、神様は自分の何に似れば一番喜ばれるのでしょうか。似るにおいて一番の根とは何であり、先祖とは何でしょうか。遍在することよりも良く、全知全能であることよりも良く、唯一無二であることよりも良いことは何でしょうか。愛です。


そのようなものをすべて与えても、一つの家庭になり得るたった一つの根源は愛です。神様に最も似るようにしたものとは何ですか。愛です。その愛にさえ似れば、すべてを失ってしまっても、結局は、自分自身が行くとおりに何でもすべてついてくるようになっています。三文の値打ちもない
ほど醜い女性でも、愛さえあれば、立派な独身男性がついていくのです。
(26-167、1969.10.25)

神様は明らかに存在します。真の人とは神様に似た人です。このような真の人があふれて暮らす世界を成し遂げようとすれば、人間革命ではなく人格革命をしなければなりません。神様の神格に似ることが人格革命です。神格と対等になれる基準まで合致するようにするのが人格革命です。神様は、知識も、お金も、権力も必要ありません。
(149-271、1986.11.27)

神様は最も公的な方であり、サタンは徹頭徹尾、自分を中心とする私的な存在です。ですから、神様に帰ろうとすれば、復帰の公式は結局、神様に似ることなので、徹頭徹尾私的なものを犠牲にして公的なものを立て、自分を中心とする利己主義から人のために生きる利他主義に戻って、奉仕生活をしなければならないのです。公的な人は、神様に似たので必ず栄え、私的な人は、神様に背いたので、結局滅びるというのが天理です。
(88-209、1976.9.18)


②家庭で完全に現れる神様の形状

―宗教経典―

神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。
創世記1.27 (キリスト教)

われは彼なり、汝は彼女なり。われは旋律なり、汝は詩節なり。われは天なり、汝は地なり。われら二人はここに共に住み、子供達の親とならん。
アタルヴァ・ヴェーダ14.2.71 (ヒンドゥ教)

愛の福音は……。もうこれ以上、結婚した二つの個人としてではなく、一つの存在内にいる二つの個体的本性として、男性と女性の一致を提供する。そして、この合わさった霊的個体性は、一つの有形的存在としてではなく、父母として神を反映する。この神聖に統一された霊的意識から永遠の天国の喜び(神の創造の完全性)に進んでいくのに障害物はない。
科学と健康576(クリスチャン・サイエンス)
―み言選集―

アダムとエバは、何でしょうか。アダムとエバは、神様が入っていける家です。コリント人への第一の手紙第3章16 節にあるみ言と同じです。「あなたがたは神の宮であって、神の御霊が自分のうちに宿っていることを知らないのか」と言われたみ言を見ると、アダムとエバは神様の家なのです。何がとどまる聖殿ですか。神様の何がとどまる聖殿なのかということです。神様の愛がとどまる聖殿だというのです。

神様は何をもって愛するのでしょうか。アダムとエバは神様の家であり、神様の体なので、神様の体をもってアダムとエバが愛するというのです。これが宇宙の秘密です。これを知りませんでした。アダムとエバを誰が愛するのですか。堕落していなければ、アダムとエバを誰が愛するのですか。神様が愛するのです。アダムとエバは神様の愛の聖殿です。
(161-44、1987.1.1)

神様の性相と形状を分けたものが人ですが、人は性相と形状からなる男性と女性なのです。それが完全に時になれば、彼らが父母、すなわち天地父母になります。そして、その中間に、その骨に神様がいるのです。
(341-239、2001.1.2)

一男一女は無形であられる神様の実体対象として表れた息子、娘です。男性は神様のプラス(+)性稟を、女性は神様のマイナス(-)性稟を表した実体対象です。創造の理念は、両性の中和体としていらっしゃる神様の性相を二性に分立したのちに、再び神様の本性相に似た姿に合性一体化することです。

一人の男性と一人の女性は、それぞれ神様の一性に似て出てきました。したがってこれらの一男一女の結合は、神様のプラス(+)性稟とマイナス(-)性稟が一つになることです。すなわち神様に似た中和体になるのです。ですから、人間二人、すなわち夫婦は神様の全体を表象する結合体なのです。(9-83、1960.4.16)
神様は絶対的な方であられ、神様は唯一の方であられ、神様は不変の方であられ、永遠の方であられます。それでは、このような対象の位置に立った私達人間は、相対的であり、対象的ではありますが、対象的な位置で変わることを願うでしょうか。願いません。絶対的であり、唯一的であり、不変的であり、永遠的な対象の価値をもつことを願うのです。

今日、私達堕落した人間、俗世に属した私達人間世界においても、愛する人が永遠であることを願います。愛する人がただ一人であることを願うのではないですか。愛する人が変わることを願いません。

私達堕落した人間も、愛する対象の絶対、唯一、不変、永遠を要求するのに、宇宙の中心であられる神様が、その愛の対象が変わることを願うだろうかというのです。それはあり得ません。その対象の存在が限界的であることを願うだろうかというのです。

絶対的であることを願うのです。その対象の存在が不変であることを願うという事実を、私達は知らなければなりません。
(77-185、1975.4.6)

神様の創造目的は何でしょうか。アダムとエバを造って、ただ見るためではありません。男性と女性を造ったのは、男性は男性なりに、女性は女性なりに老いて死ぬようにするためではありません。息子が成長し、互いに異性に対する相対的な心情を通して神様を中心とした真の地上天国を建設するためでした。

神様を中心とした愛の巣をつくるようにするためだったのです。ここで男性であるアダムは天を代表し、女性のエバは地を代表します。天地です。ですから、彼らは二人ですが、彼らが横的に一つになれば天と地が統一されるのです。神様の愛を中心として二人が統一されれば、天宙は自動的に統一されるのです。
(21-44 ~ 45、1968.9.1)

人間は神様に似て生まれたでしょう? 神様は絶対的な主体であられるので、絶対的な対象の愛を中心として一つになることができます。それで、神様は人を造るとき、そのような主体と対象の中和的主体としてアダムとエバを造られました。

私達人間がそのような神様に似ているので、その全知全能な愛の力には、何であっても許諾されないものがありません。ですから、神様がアダムとエバを創造されたのと同様に、私達人間も創造の能力を賦与され得るのです。神様から創造の能力を賦与され、私達も人を創造できる場が息子、娘を生む場なのです。結局は、神様と同様に人を造ったという位置に私達も立つことができるのです。
(57-111、1972.5.29)

3.神様の聖殿

人間は、生きた神様の聖殿として理解されなければならない。人間を創造するとき、神様は人間の心に愛、創造性、永遠の渇望など、神聖な稟性を賦与する特別な聖霊を吹き入れた。神様は人間の中に自分の居所をつくろうとした。

神様の霊が私達の心と共鳴し、まるで神様が見るように、私達の体は見て、聞いて、動く。見えない無形の神様を身代わりして共に動くことによって、人間は神聖をもつようになり、神様はその人を通してほかの人々を神聖にすることができる。

ヒンドゥー教やそのほかの東洋の諸宗教において、このような究極的実在の内在を真の自我、またぱアートマンという。しかし、大部分の人々は真の自我を知らずに生きていき、全的に利己的な動機で生を営為する。
文鮮明先生によれば、私達は、人間堕落の悲劇のために汚れた聖設と同じである。神様の霊は、堕落した人間の中にとどまることができなくなった。本来、アダムとエバは、神様の聖殿として神様の有形的体となり、この世界を美しいエデンの園にしなければならなかった。キリストは神様の聖殿として来られた方だ。

したがって、彼は自身の人格の中に神様を現すことができた。神様の恩寵と復帰のための人間の努力により、私達はまた神様の聖殿の地位を取り戻すことができる。


―宗教経典―

あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか。
コリントの信徒への手紙一36(キリスト教)

あなたは、すべての人が自分の心の中に聖なる方がいらっしゃるという自意識をもつようにしてあげなさい。
タルムード、タアニートl1b (ユダヤ教)

私は、キリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはや私ではありません。キリストが私の内に生きておられるのです。(注3)
ガラテヤの信徒への手紙29 ~ 20 (キリスト教)

天と地は私を包んでいるが、私の信実な僕の心情は私を包んでいる。
スフラワルディー・ハディース(イスラーム)

神が世を満たすように、霊が肉体を満たす。神は見ることができるが御自身は見えないように、霊は見ることができるがそれ自体は見えない。神が全世界に糧を提供するように、霊は肉体に糧を供給する。神が純粋であられるように、霊もまた純粋である。神が(聖殿の)至聖所にいるように、霊は肉体の最も高い所に留まる。
タルムード、ブラホート10a. (ユダヤ教)

私が彼を愛するようになれば、私は彼の聞く耳、彼の見る眼、彼の打つ手、彼の歩く足となろう。
ナワウィー40 のハディース38(イスラーム)

われはかれを完全に形づくり、それからわが霊をかれに吹き込んだ。
クルアーン15.29(イスラーム)

主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。
創世記2.7(キリスト教)

有情(生類)の玄洞(心臓)に鎮まれる自我は微なるよりも微に、大なるよりもさらに大なり。かかる自我の栄光は、意欲をもたず、煩悶を離れし人にして諸官能の静澄なるを得たる時、初めて照観するを得べし。

彼(自我)は坐してしかも遠く遊び、臥しつつしかも遍く行く。かかる可思、不可思を兼ねたる神を識ることは我以外に誰か能くせん? 諸々の肉団の裡(うち)にありて身をもたず、安固ならざる物がらの裡にありて泰然たる、偉大にして、遍在せる自我を観想せる時、賢者は憂患なし。
カタ・ウパニシャッド1.2.20 ~ 22、(ヒンドゥー教)

露にして、しかも幽れ、玄洞(心臓)の内に逍遥するものと称ばれる所の偉大なる天地の基底、その内にぞ、ありとあらゆる蠢めくもの、息づくもの、瞬くものは収められてあるなれ。

汝等がこの有体にして無体なる善美なるもの、智
慧才覚を超えたる、生類中の最勝のものとして知れるもの、光輝あるもの、微なるよりも微なるもの、諸々の世界(果報)と世界を得し輩とがその根基とせるもの、これぞこの不滅なるものなり、梵なり、生気なり、はた語なり、意なり。これこそこの真実なるもの、不死なるもの、射抜くべきものなれ。友よ、これを射抜けよ。
ムンダカ・ウパニシャッド2.2.1 ~ 2(ヒンドゥー教)

富者たちはシバ神に寺院を建てて捧げるが、
貪しい人、私は何をするか。
おお、私の主よ!
私の2 本の足は柱、
体は聖殿、
私の頭は黄金の尖塔です!
立っている寺院はすぐに倒れますが、動く私は永遠に立っていることでしょう。
(注4)
バサヴァンナヴァチャナ820.(ヒンドゥー教)

人もまた初めに神とともにいた。英知すなわち真理の光は、創造されることも、作られることもなく、実にそうすることのできないものである。すべての真理は、神がそれを置かれた領域において独立し、それ自体で作用する。

すべての英知も同様である。そうでなければ、存在というものはない。見よ、ここに人の選択の自由があり、またここに人の罪の宣告がある。なぜ
ならば、初めからあったものが分かりやすく示されているのに、彼らがその光を受け入れないからである。その霊が光を受け入れない者は皆、罪の宣告の下にある。

人は霊である。元素は永遠であり、分離しないように結合した霊と元素は、満ちみちる喜びを受ける。これらが分離するとき、人は満ちみちる喜びを受けることはできない。その元素は神の幕屋である。まことに、人は神の幕屋すなわち神殿である。そして、いかなる神殿でも汚されると、神はその神殿を滅ぼすであろう。(注6)
教義と聖約93.25 ~ 35 (末日聖徒イエス・キリスト教会)

アブドラ・ビン・オマルは、カーバの周囲を歩き、このように語る先知者(平和がその方に宿ることを)を見た。「おお、カーバよ、お前とお前の香りのある風は本当に祝福されている。お前の神聖さは実に素晴らしい! 私の魂の主人であられる神から、神に信仰をもつ者の神聖さは、お前よりさらに神聖だ」。
イブン・マージャのスナン(注5) 2.3932 (イスラーム)

―み言選集―

見えない神様は心と同じであり、アダムとエバは見える神様です。神様の体と同じだというのです。本来、霊界に行けば、人としての神様はアダムとエバがなります。霊界に行けば、体をもった父母の位置に立ったその方がアダムとエバなので、アダムとエバが神様の体のようになるのです。

アダムの心のような立場にいる神様になるので、私の心に神様が臨在するのです。このように、大きな神様が私を中心とする小さな心の神様として心に臨在するようになる、というのです。私は小さな神様だということです。
(107-172 ~ 173、1980.4.27)

妻は、夫が神様の体だということを考えてみたことがありますか。コリント人への第一の手紙第3章16 節で、「あなたがたは神の宮であって、神の御霊が自分のうちに宿っていることを知らないのか」とあるでしょう? ですから、皆さんが霊的に深く入っていけば、分かるようになるのです。皆さんがそのような境地に入っていって「神様、どこにいらっしゃいますか」と言えば、神様が心の根源から答えます。ぞのような境地に入っていかなければなりません。
(362-190、2001.12.12)

堕落する前、アダムとエバの顔がいくら良いといっても、主人がいなければあらゆる外的な物は価値がありません。その時、アダムとエバがいくら醜くても、彼らの心の中に神様がいらっしゃり、彼らの体は神様の聖殿になることができたのです。これが今の私達と違う点だということを知らなければなりません。

彼らの顔は、純粋な神様の喜びを表象できる顔であることは間違いなかったでしょう。また、彼らは、目で見るのも、自分たちの目を通して見るよりも、神様に代わって見たはずであり、彼らが聞くこと、感じること、語ることなどのあらゆることは、神様に代わって示すことのできる表示になることができたでしょう。
(95-247、1977.12.4)
アダムとエバが堕落したその日からの神様の希望とは何かというと、神様の心情を身代わりできる人、神様がとどまることのできる聖殿として完成した人、神様と一致する心情と心臓をもった人を探し出すことでした。
(3-298 ~ 299、1958.1.26)

イエス様の心と体は何だったのでしょうか。イエス様の心は自分の心ではありませんでした。誰の心だったかというと、父の心だったのです。イエス様の体は自分の体ではなく、父の体だったのです。

また、イエス様が語られたみ言は、自分のみ言ではなく、神様のみ旨を身代わりした天理の法度であり、すべての人間がもちたいと思う希望のみ言だったのです。イエス様は、そのみ言を通じた実体的な天の聖殿として、または実体的な神様の玉座を身代わりした存在として、この地上に現れたのです。
(3-264、1958.1.12)

個性を完成した人間と神との関係は、体と心との関係をもって例えられる。体は心が住む一つの家であって、心の命令どおりに行動する。このように、個性を完成した人間の心には、神が住むようになるので、結局、このような人間は神の宮となり、神のみ旨どおりに生活するようになるのである。

したがって、体と心とが一体となるように、個性を完成した人間は、神と一体となるのである。それゆえ、コリントⅠ3章16 節に、「あなたがたは神の宮であって、神の御霊が自分のうちに宿っていることを知らないのか」と記されているのであり、また、ヨハネ福音書14 章20 節には、「その日には、私は私の父におり、あなたがたは私におり、また、私があなたがたにおることが、わかるであろう」と言われたのである。
原理講論、人類歴史の終末論1.1

御飯を食べるのは誰のために食べるのですか。眠るのは誰のために眠るのですか。皆さんがまくらして横になるとき、「ああ! 神様と一緒に寝る」、このように考えてみましたか。「胸をぎゅっとつかんで気分が良い。神様がお休みになる!」、このように考えてみましたか。そしてまた、さっと起きれば、私が起きたと考えますか、神様が起きたと考えますか。神様が起きたと考えなければなりません。私が先に起きたのではなく、神様が先に起きたのです。
(92-153、1977.4.1)

人の中に世界がすべて入っていって眠ることができます。神様も入っていって昼寝できるのです。神様が心置きなく足を伸ばして眠ることができるというのです。

神様がどれほど自由ですか。いくら足で蹴飛ばしても、引っ掛かるものがないのです。どこにも引っ掛かるものがありません。そのような人は神様が共にいるようになります。そのような人は神様の聖殿になるのです。それを理解して、より一層自分を愛し、自分に侍ることができなければなりません。
(125-101 ~ 102、1983.3.13)

私達人間の形状を見てください。体をもっているのです。しかし、無形の神様には体がありません。体をもたなければ、霊界世界や地上世界を治めることができないのです。

それで、神様がいらっしゃるとしても、神様が人間の父母として現れるためには体をもたなければならないのですが、その体をもった代表が誰かといえば、アダムとエバだというのです。堕落していないアダムとエバの体をもって現れるのです。

ですから、アダムとエバは誰ですか。アダムとエバは、人類の始祖であると同時に、天地を主宰する神様になるのです。実体をもった神様、すなわち永遠の無形世界の神様の形状を代わりにもって現れた立場で、父母の立場で世界を統治する責任がアダムとエバにあったのです。
(133-91 ~ 92、1984.7.10)

神様は無形です。霊界に行っても見えません。神様がアダムをなぜそのように愛を中心として造ったのかというと、この被造世界が体をもっているからです。

ですから、体をもった父にならなければならないのです。体をもった父になることで、見えない無形と有形が一つになるのです。それは宇宙が一つになることを象徴します。

ですから、体をまとうためにアダムとエバを造ったのです。体をまとうのは何か決定するのですか。愛だけが可能なのです。神様の形状に似たそのような体をもつことができる姿として、アダムとエバを造ったのです。そうしてアダムとエバを天の国の王宮に、王座へ上がらせ、その王とし王妃の心の中に神様がいらっしゃり、地上世界と無形世界を統治するのです。

神様の王国を造るのです。王国は、愛の王国だというのです。愛を中心としてのみ霊と肉が合わさるようになっているのであって、他のものでは合わさることができないのです。
(143-93 ~ 94、1986.3.16)
4.神様の子女

ユダヤ教とキリスト教の諸経典は、神様を「天にいらっしゃる父」と呼ぶ。このような洞察は世界のほかの信仰伝承でも発見される。したがって、人間は神様の子女とみなされる。そのような父母と子女の関係がどれほど真正な関係であり得るか。これがこの節に記された章句の主題である。

文鮮明先生は、神様と人間の関係において感じる心情の深さと力が、私達を生んでくれた肉親の父母から感じる愛情と義理よりもっと強烈でなければならないと教える。

私達が神様の心情と事情を悟り、そして息子が年老いた父のために重い荷物を背負うように、世に対する神様の重荷を私達が共に分かつことができ、また分かち合わなければならないという心をもつとき、神様と共にある私達の人生はどれほど意味深長なものだろうか!

①神様の子女としてもって生まれた権利

―宗教経典―

神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によって私達は、「アッバ、父よ」と呼ぶのです。

この霊こそは、私達が神の子供であることを、私達の霊と一緒になって証ししてくださいます。もし子供であれば、相読人でもあります。神の相続人、しかもキリストと共同の相続人です。キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受けるからです。
ローマの信徒への手紙8.14 ~ 17(キリスト教)

あなたたちは、あなたたちの神、主の子らである。
申命記14.1 (キリスト教)

アニスとアブドゥラが神の先知者に伝えるには、「すべての創造物は神の子であり、神が最も大切に思う者は、その方の子に優しく接する者たちである」。
バイハキ・ハディース(イスラーム)

我々は我々をつくりしものの子ら、彼が我々を殺すと恐れてはならない。我々は神の子ら、彼が我々を殺すと恐れてはならない。
ディンカ族の祈り(アフリカ伝統宗教)

御父がどれほど私達を愛してくださるか、考えなさい。それは、私達が神の子と呼ばれるほどで、事実また、そのとおりです。
ヨハネの手紙一3.1(キリスト教)


しかし、イエスは乳飲み子たちを呼び寄せて言われた。「子供たちを私のところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」
ルカによる福音書18.16 ~ 17(キリスト教)

私は言った、「あなたたちは神々なのか、皆、いと高き方の子らなのか」と。
詩編82.6 (キリスト教)

預言者アサフの言葉が当たりますように。「あなたたちはすべて神であり、あの気高き方の子女たちである」、父の寛容をむやみに使って、私達に下さった自由の選択が、害となって戻ってこないようにしてください。私達がすれば成し遂げることができるので、神聖な情熱を抱き、現実に満足せず、最高の善を成し遂げるために努力する者として導いてください。
ピーコ・デッラ・ミランドラ人間の尊厳について(キリスト教)
―み言選集―

神様は愛の神様だといいました。その愛の神様が私達人間を本当に愛される位置がどこかというと、人間が要求する最高の位置です。神様はその位置を愛さざるを得ない立場にいらっしゃるのです。人情と天情が結合する位置は、神様と人間が父子関係の因縁を結ぶ位置に違いありません。

皆さんは今、短時間のうちにこのような話を聞いていますが、ここに立って話をする人は、宇宙の究極の位置とは何かという問題に対して、誰よりも深刻な立場で長い間追究してきた人です。

最高の位置に入っていって得た答えは何でしょうか。宇宙の根本は父子の関係だという結論です。
父子の関係だといって、今日の私たきちを生んでくれて、一緒に暮らす父母のことではありません。それは天地を創造した絶対的な神様と、堕落していない本然の私達人間の関係のことです。
人類が到達すべき本然の価値の位置は、神様が父であり私達は子女だという位置です。神様は、このような途方もない位置を私達に許諾されたのです。
(53-286、1972.3.4)

ここに立っている人は、神秘的な境地に入っていき、宇宙の根本とは何かと尋ねてみたことがあります。神様の答えは、「父子の関係だ。父と息子だ!」というものでした。それが結論だというのです。

一般の人であれば、「ああ!私の父母と私」と考えるでしょう。自分を生んでくれた父と母と考えやすいのです。しかし、神様と人間の関係を意味しているのです。

父子の関係がもつ特定の内容とは何でしょうか。父と息子が出会える最高の場所とはどこでしょうか。愛が交差する中心、生命が交差する中心、理想が交差するその中心で出会うのです。
そのように見ると、愛と生命と理想が一つの場にあるというのです。その場に行けば神様も愛であり、私も愛であり、神様も生命であり、私も生命であり、神様も理想であり、私も理想になるというのです。これを決定づけることのできる最初の因縁と最初の統一の場所が、親子関係が成される場でなければなりません。これは間違いのない事実です。
(69-78 ~ 79、1973.10.20)

神様は、私達人間、アダムとエバを造っておいて真の愛を行ったのです。真の愛を誰が始めたのですか。アダムとエバがしたのではなく、神様がアダムとエバを息子、娘のように愛してきたのです。皆さんが父母から生まれて愛を受けるのと同じです。父母の愛をたっぷり受けるのと同じです。

しかし、その愛を知らずに生まれて、自分だけがいるかのようです。父母の愛はすべてのものを包囲して抱いてあげ、愛するようになるのです。それで、最初は神様が分かりませんでしたが、神様を見て笑いながら、神様の保護の中で育つことによって、神様の愛がどのようなものだということを知ります。そのように父母の愛と子女の愛が大きくなっていくのです。
(149-312、1986.12.21)

父子の関係がもっている特性とは何でしょうか。真の愛と真の生命と真の血統の関係です。真の父母の真の愛が前提とならなければ、私達の真の生命が存在することはできません。すなわち、神様の前に人間は、絶対的な真の愛の相対として創造されたということです。そこは、正に神様が父となり、人間は息子、娘となる軸が立てられる所なのです。

もし、それよりもっと高く貴い所があれば、人間の欲望は、またそれを追求することでしょう。しかし、そのような所はありません。全知全能であられる神様が、最高のものは御自身のために隠しておいて、御自身の子女であり、愛の絶対相対者であるアダムとエバには2番目に良い所に立てて創造したということは、想像することもできません。私達の永遠の真の父母であられる神様は、100 パーセント御自身のすべてを投入して人間を創造され、同位権、同参権、同居権、相続権を付与されました。神様のすべての属性を下さったのです。
平和神経、平和メッセージ1.14 ~ 15、2005.9.12

神様と人間の関係を中心として見てみるとき、神様が人間の父であり、人間が神様の息子であるとすれば、人間に対して、「神様よりハンサムだなあ」と言えば、神様は気分が良いでしょうか、悪いでしょうか。悪ければ、神様は人間より劣るのです。間違いなく神様も喜ばざるを得ません。それで愛というものが必要なのです。
(40-343、1971.2.11)

宇宙の真理、天理の大道の原則は何かというと父子の関係です。その父子の関係は、今日の堕落した世界に自分を生んでくれた父と母との関係ではありません。横的な夫婦の愛が神様の理想的愛で完全に花開き、その愛の香気が全世界を覆い尽くすと同時に、神様の愛が加えられ、父と息子、娘の位置が完成するのです。(101-35 1978.10.28)
②神様の子女の尊厳性回復

―宗教経典―

主は岩、その御業は完全で、その道はことごとく正しい。真実の神で偽りなく、正しくてまっすぐな方。不正を好む曲がった世代は、神を離れ、その傷ゆえに、もはや神の子らではない。愚かで知恵のない民よ。これが主に向かって報いることか。彼は造り主なる父、あなたを造り、堅く立てられた方。
申命記32.4 ~ 6(キリスト教)

天よ聞け、地よ耳を傾けよ、主が語られる。私は子らを育てて大きくした。しかし、彼らは私に背いた。
イザヤ書1.2 (キリスト教)

わたくしどもは皆、仏の子のようなものであります。それは、如来がいつもわたくしどもに『おまえたちはわが子である』と説かれているからであります。
世尊よ、わたくしどもは三種の苦悩によって、生死の中でもろもろの烈しい悩みを受け、迷い惑い、無知であって下劣な教えに執着しております。今日、世尊は、わたくしどもに考えさせて、汚物にも似た、存在についての空しい論議を除くようにされました。

わたくしどもは努力精進して、ちょうど一日の給金を得るように、永遠の平安を得ました。それを得てしまうと、心に大いに歓喜して、自分では満足しておりました。……

仏はわたくしどもが心で卑小な教えをねがっているのを知られて、方便力によってわたくしどもに応じて説かれましたのに、わたくしどもの方では自分たちが真に仏の子であると知らなかったからであります。
法華経4(仏教)

祈祷するとき、主なる神を父と呼ぶように、いつでも天の子女としてふるまいを正しくしなければならない。それが私達の義務である。私達によって主なる神が、恥ではなく栄光を受け、賛美されなければならない。
マルチン・ルター大教理問答(キリスト教)


―み言選集―

本然の神様と人間の関係は、永遠の父母と子女の関係でした。堕落はその断絶を意味し、復帰は父母と子女の因縁を回復することを意味します。
(316-236、2000.2.13)

神様は、信仰の王様でいらっしゃるので、信仰の王子を尋ねられるのであり、神様は、愛の王様でいらっしゃるので、愛の王子を探し求められる。

御旨の道、人格、私達は孝子の道を行かなければなりません。神様が世界情勢を前にして深刻であれば、その深刻さ以上に、夜を徹して、あるいは自分の一身を忘却し、すべてのことを忘れ、体恤する境地で憂慮する心をもって神様のために生きる息子、娘になろうと身もだえする人がいますか。問題はここに帰結するのです。
(62-35、1972.9.10)


神様が私の父であり、私は神様の息子、娘です。神様がどれほど子女を抱きたいと思い、どれほどそれを待ってきたでしょうか。ですから、私が孝子にならなければなりません。

もし父の願う国のセンターになれば、愛国者になるのです。父の願う世界の主人になったならば、聖人になるのです。天宙のセンターになれば、聖子になるのです。私が孝子になれば、全家庭がついてきます。

すべての国がついてきて、すべての世界と天宙、神様まで私と一つになるのです。私がナンバーワンの息子と娘にならなければなりません。世界では聖人、天宙では聖子にならなければなりません。それで皇族圏を成さなければならないのです。
(293-208、1998.5.26)

悲しみの峠を越え、苦痛の峠を越え、憤りの心情の峠を越えてこそ、その日の福が決定するという天倫の原則を私達は知りました。今、お父様の心情をつかみ、地をつかみ、万物をつかんで涙を流し、お父様の悲しみが私の悲しみであり、お父様の苦痛が私の苦痛であり、お父様の苦難が私の苦難なので、「そのすべての苦痛を私にお任せくだざい。お父様は幸福の立場にお立ちください」
と言うことのできる私達となるよう、許諾してください。
(4-294、1958.9.14)


5.人生の価値

人間は金銭で計算できない貴重な価値をもっている。堕落したあらゆる社会において、人生は価値のないものとみなされ、人間の価値は富と地位、教育水準、または外貌で決定するという世俗的な偏見があるにもかかわらず、神様は各個人すべてに御自身の愛の絶対的な価値を賦与した。

神様は、私達を無限に貴重で、その上、神様と同等な地位をもつ、自分の愛らしい息子として創造した。この節に含まれた経典の章句は、人間の高潔な価値を描写している。

一個人は全体世界と同等の価値をもつ。すべての被造物の中で、唯一無二の存在として、個人はその何とも取り替えることができない。さらに、それぞれの個人は、神様の愛と家庭、そして国家と全被造世界の万物に囲まれ、抱かれている。各個体は、ほかのあらゆる存在にとってなくてはならない存在だ。
ある個体の死は、すべての存在にも喪失をもたらす、このため、殺人、自殺、堕胎は、神様の世界において立つ位置がない。さらには、肉身の生は霊的成長のための機会を提供するので(第5 章3.「永生のための準備」参照)命を軽んじることは、個人と宇宙の完成に向かう道を奪い取ることである。

それにもかかわらず、物質主義に固執した世界において、自分の内面の高貴な潜在的価値を実現した人々は極少数にすぎず、このような潜在的価値は、神様と人類を愛する心から出てくる。したがって、真の価値の泉の源泉を見いだし、神様と世界に注目される神様の子女となることが、私達全員の終始一貫した義務である。


①黄金より貴重な人間

―宗教経典―

人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。
マタイによる福音書16.26(キリスト教)

私を追う者の悪意に囲まれる時にも、どうして恐れることがあろうか。財宝を頼みとし、富の力を誇る者を。神に対して、人は兄弟をも贖いえない。神に身代金を払うことはできない。魂を贖う値は高く、とこしえに、払い終えることはない。
詩編49.6 ~ 9(キリスト教)

「私は奴隷を新しく買った」と言うとき、いくらでその奴隷を買ったのか。世の中に人間ほど価値のある存在が、どこにあるのか。合理的知性を買おうとすれば、いくら出さなければならないか。
神に似て創造された存在を買おうとすれば、何ドラクマを出さなければならないか。金貨何枚を支払って、神に似た存在を買うことができるのか。神は語られた、「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。」(創世記1 章26 節)。

人間は神のかたちに創造され、万物の霊長であり、天から万物に対する権威を賦与された。主なる神だけが人間をお買いになることのできる方であるとすれば、人間を売るように許諾された者は誰だというのか。その能力は、ただ神にのみ属しているのである。
ニュッサのグレゴリオス伝道の書に関する説教4(キリスト教)

―み言選集―

今まで世の中に暮らす人々が「よいなあ!」と思うのは、着飾り、立派な家に住み、立派な自動車に乗り、人をうらやむことなく飛行機に乗りながら平安に暮らすことです。そのようなことをよいと思うことが、この世の人々の悪い習性だということを知らなければなりません。
(131-171、1984.5.1)

いかなる苦痛と悲しみ、そしていかなる困難が迫ってきても、大宇宙の理念圏内にいる自分の位置が、その程度の困難に揺さぶられてはいけないことを知っている人は、その苦痛の峠を越えていくでしょう。

また、この程度の苦痛を耐えられない自分ではない、この程度の死の峠と取り替えなければならない私の命ではないと感じる人がいれば、彼は、人生行路において成功した人です。

「いかなる迫害と死の峠が迫ってきても、私が行く方向を変えることはできない。私の価値は、地上の何物とも取り替えることができない」と考える人は、地上にいても天の人です。地で死んでも、彼は天の人です。
(9-166、1960.5.8)

世の中でこの上なく貴いものは何でしょうか。金銀財宝でもなく、世の中の名誉や権勢でもありません。天地間において最も貴いものは何かというとき、それは正に自分自身です。

ところが、自分自身が貴いことを、何をもって保障するのかというとき、答えることができないのです。人々は自ら備えるべきところは備えることができなくても、心では満天下に自分を最高の価値的存在として認めさせたいと思います。それが人間の本性です。

今日、私達民族のために、世界のために生きる観念を越えて、最も貴い私自身を、人々がどのくらい貴く思うだろうか、ということを問題としなければ、新しい決意と新しい出発ができないことを心配せざるを得ません。

私達自身は、どのくらいの価値の内容を備えた存在でしょうか。皆さんは、これを考えてみましたか。私が宇宙の中で一つしかない宝となり、本当の宝になったとすれば、その宝は神様も慕い、来ては逝かれたイエス様も慕い、今まで来ては逝った大勢の聖徒、すべての歴史の中でいくら偉大な思想をもった誰かがいたとしても、その人もやはり慕うのです。

過去だけでなく、現世のこの万民も慕うのです。その価値を憧憬するでしょう。今だけでなく、未来もそうでしょう。ところが、今まではそのような宝が自分だということを知らなかったのです。
(17-13 ~ 14、1966.11.6)


②宇宙的価値をもつ人間

―宗教経典―

あなたの天を、あなたの指の業を、私は仰ぎます。月も、星も、あなたが配置なさったもの。そのあなたが御心に留めてくださるとは、人間は何ものなのでしょう。人の子は何ものなのでしょう。あなたが顧みてくださるとは。神に僅かに劣るものとして人を造り、なお、栄光と威光を冠としていただかせ
詩編8.4 ~ 6(キリスト教)

天と地において、ひとえに私こそが尊貴な者である。(注7)
長阿含経(仏教)

われはアダムの子らを重んじ、海陸にかれらを運び、また種々のよい暮らし向きの物を支給し、またわれが創造した多くのすぐれたものの上に、かれらを優越させたのである。
クルアーン17.70(イスラーム)
この世は、ひとえに義人のために創造された。義人一人は全世界と取り替えるだけの価値がある。この世は、彼と一つになることを目的として創造されたのである。
タルムード、シャッバト30b(ユダヤ教)

そのことのゆえに。われはイスラエルの子らに対し、おきてを定め、ひとりを殺した者は、ひとりの報復のためか、地上に悪をなす者の処罰でないかぎり、全人類を殺したと同じである。ひとりの生命を救う者は、全人類の生命を救ったと同じであると定めた。
クルアーン532(イスラーム)

ただ一人(アダム)だけが創造された。これを教えるため、聖書では、誰かが一人の魂を破滅させれば、それをまるで彼が全世界を破滅させたものとみなす。

また、誰かが一人の魂を救えば、彼が全世界を救ったと語る。しかし、一つの鋳型からは同じ銅銭が出てくるが、聖なるその方の偉大さを示すために創造された人間は、そうはできない。王の中の王であられる聖なるその方は、人間をすべてアダムの形に造られたが、誰も彼の形に似ていない。ゆえに人間はそれぞれ、「世の中が私のためにつくられた」と言うのである。
ミシュナ、サンヘドリン4.5 (ユダヤ教)


―み言選集―

一つの生命は宇宙よりもっと貴いことを知らなければなりません。怨讐の一族ではありません。神様の愛の対象として造られた人間の価値というものを知らなければなりません。
(262-145、1994.7.23)

人間は神様と完全に一つになってこそ、完全な人になるのです。人は、たとえ小さな一つの個体でも、全体の歴史を身代わりした存在であり、未来のあらゆる因縁を身代わりする存在なので天宙的な価値をもっている存在なのです。
(4-268、1958.8.3)

神様は人をどのような存在として造ったのでしょうか。神様の絶対唯一の価値をもつことができる愛の対象者として造ったというのです。これは驚くべき事実です。
最近では、人間一人の生命の価値がどのくらいになりますか。いくらになりますか。そのような無価値な人間ではないというのです。神様にとっては、宇宙を与えられても取り替えることができない高貴な価値、愛の相対圏を備えて男性を造り女性を造ったという驚くべき事実を知らなければなりません。
(142-143、1986.3.8)

神様の真の愛、神様の理想、神様の幸福、神様の平和を達成するにおいては、その対象がいなくては神様もお一人ではできないというのです。神様がお一人で、「ああ、愛そう」と言って愛して何をするのですか。神様お一人で理想といって何をするのですか。神様がお一人で平和や幸福があって何をするというのですか。必ず対象がいてこそ、神様も幸福、平和、愛、理想が可能になる、ということを私達は考えることができるのです。

神様の真の愛と理想と幸福と平和を完成させるにおいては、達成するにおいては、私という人間自体がいなければ不可能だということです。このような事実を記憶してくださることをお願いします。私達は、このような価値を全く分かりませんでした。

このように高貴で理想的な尊厳な価値、神様までも愛から解放することができ、神様までも理想から解放することができ、神様までも幸福と平和から解放することができるこの尊厳な価値を知って、今からは、心深く頭を下げながら自らを賛美し得る皆さんになってくださることを願ってやみません。
(77-314 ~ 315. 1975.4.30)

皆さん結婚するとき、結婚相手が自分より立派な人を願います。自分の息子、娘が、自分より立派であることを願わない人がどこにいますか。それは誰に似たのでしょうか。神様に似たのです。

どういうことかといえば、神様も愛の相対が自分よりも立派であることを願うということです。これを否定できますか。人間の価値が最大の価値です。愛を中心として見るとき、神様より高い価値があるということです。ですから、皆さんの心は、最高のものを顧っているのです。それは不可能なことではありません。万人平等に可能なことです。堕落しなかったなら可能なのです。

天上の高く貴い立場で、この宇宙を眺めて管理し
て主導するようになっているのであって、何かと望んで引きずり回され、服従するようになっていませんでした。皆さんの心がそうでしょう? 解放された心です。誰の支配も受けたいと思いません。これは、万民共通です。真の愛の位置にいれば、神様の位置、天国の御座に自由に行くことができます。神様の友達になることができるのです。
(211-272 ~ 273、1990.12.30)

人間はだれでも、他の人がもっていない特性を各々もっているので、その数がいくら多く増えたとしても、個性が全く同じ人は一人もいない。
したがって、神に内在しているある個性体の主体的な二性性相に対する刺激的な喜びを、相対的に起こすことができる実体対象は、その二性性相の実体として展開されたその一個性体しかないのである。
原理講論、キリスト論1

上を見ても、下を見ても、前後を見ても、左右を見ても、すべてのものが私と因縁を結んでいます。また、この因縁は一時的なものではなく、命をもっていく生涯路程、すなわち一生の間の因縁なのです。

さらには、歴史始まって以来、今まで因縁を結んできたのであり、今日の私を経て千秋万代の子孫まで因縁を結ばなければならない、因縁の祭壇の上に上がっている自分自身だということを私達は考えなければなりません。

このような私が壊れる日には、私を中心とする天の因縁が壊れるのであり、地の因縁が壊れるのであり、世界、あるいは氏族と家庭のすべての因縁が壊れるのです。それで、人をして天と地を身代わりする小宇宙と言うのです。

私の心は天を抱くことを願っています。私の体は地を占領したいと思います。また私は、天地の何ものも止めることのできない主権者、代表者の心情によって動こうとします。このような私、このような因縁をもった私達を深く解剖して入っていけば、無限に価値のある存在であり、無限に大きな存在だという事実が分かるようになるでしょう。
(8-10 ~ 11、1959.10.25)

神様の王権の前に立つことができる本然の人間の価値というものは、天地とも取り替えることができません。神様までも与えようとしていたその価値を、私が受けることができるかというのです。私がそのように内外に美化されていれば、天下がすべて夜光石のように輝くのです。ダイヤモンドのように輝くというのです。
(354-25 ~ 26、2001.9.16)

③殺人、自殺、そして堕胎は生命の大逆罪

―宗教経典―

正当な理由による以外は、神が禁じたもうものを殺してはならぬ。
クルアーン17.33(イスラーム)

殺してはならない。
出エジプト記20.13 (キリスト教)

ある男がラバのもとを訪ねてきて言った。「私が仕える主人が、私に殺人を命じました。私が拒絶すれば、私を殺すでしょう」。サバが彼に言った。「かえって殺人より死ぬ道を選びなさい。あなたの血がその人(犠牲者)のものより純粋だと思いますか。おそらくその反対でしょう」。
タルムード、プサヒーム25b(ユダヤ教)


すべての者は暴力におびえ、すべての者は死をおそれる。己が身をひきくらべて、殺してはならぬ。殺さしめてはならぬ。すべての者は暴力におびえる。

すべての(生きもの)にとって生命は愛しい。己が身にひきくらべて、殺してはならぬ。殺さしめてはならぬ。生きとし生ける者は幸せをもとめている。もしも暴力によって生きものを害するならば、その人は自分の幸せをもとめていても、死後には幸せが得られない。生きとし生ける者は幸せをもとめている。

もしも暴力によって生きものを害しないならば、そめ人は自分の幸せをもとめているが、死後には幸せが得られる。
法句経129 ~ 132 (仏教)


信仰する者よ、なんじらの財産を、不正になんじらの間で浪費してはならぬ、ただしお互いの善意による、商売上の場合は別である。またなんじら自身で、殺したり害してはならぬ。まことに神は、なんじら仁慈悲深くあられる。
クルアーン4.29 (イスラーム)

「あなたたちの命である血が流された場合、私は賠償を要求する」(創世記9章5 節)。パウロの場合を除外し、自殺もここに含まれる。
創世記ラッパー34.13(ユダヤ教)

何れの比丘と雖も、故意に人体の生命を奪ひ、或はその為に、殺具を持つ者を求め、或は死の美を讃歎し、或は死を勧めて(咄、男子、この悪苦の生は汝にとりて何の用ぞ、死は汝にとりて、生に勝るべし」と云ひ、斯く心意ひ斯く決心し、種々の方便を以て死の美を讃歎し死を勧むれば、これ亦波羅夷にして共住すべからざるものなり。
律蔵(仏教)?

貧困を恐れてなんじらの子女を殺してはならぬ。われはかれらとなんじらのために給養する。かれらを殺すのは、まことに大罪である。
クルアーン17.31 (イスラーム)

意図的に人を殺したり。隋胎を画策する比丘は、決して苦行者と言うことはできず、仏陀の僧団に従う者でもない。
律蔵経分別1.78.4 (仏教)

一言の言葉であっても、信仰をもつ者を殺すことに寄与した者は、最後の審判の日に神に出会い、額に「主の慈悲から除外された」という審判を受けるだろう。
イブン・マージャのスナン2.2620(イスラーム)

生命の神聖さが侵害されるとき、私達はそれに立ち向かい、誰にも生命を破壊する権利がないことを公布するだろう。
教皇ヨハネ・パウロニ世(注8)(キリスト教)

人を殺すことは全面的に禁止されているので、母の胎内にある子供でも、母親の血がこの人間を形造るためにそそがれている限り、中絶することは許されていない。出生の中絶は早手まわしの殺人である。生まれ出た生命を取り除こうが、生まれようとしている者を中絶しようが殺人は殺人である。人間になろうとしている者もまた人間であり、胤のなかには果実全体が宿っているのであるから。
テルトゥリアヌス護教論9.8(キリスト教)


―み言選集―

人間の権利と尊厳性の保護がすべての倫理と道徳性の標準にならなければなりません。
(168-239、1987.9.21)

人権問題をもってこれをどのように扱うのかというのです。(注9)北朝鮮で金日成は300 万を虐殺しました。毛沢東は1億5000 万を虐殺しました。また、ソ連革命当時には7000 万を虐殺しました。

ニューヨーク・タイムズに出ていましたが、ベトナムで60 万を虐殺したことを、報道を通して見たでしょう。人権が問題ではありません。生命権を蹂躙する共産党に対してどうするのかというのです。
(91-255、1977.2.23)

神様とこの宇宙を合わせても、肉身をもった人間がいなくては完成できないために、今日の私達人間の体がどれほど貴いかを知らなければなりません。
私達人間に欲心があるのならば、神様は欲心の前に何を願うでしょうか。これを願うというのです。私達の肉身は宇宙とも取り替えることができません。

聖書にある「たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか」(マタイ16・26)という言葉もそれで成立するのです。
(91-19、1977.2.13)

私という存在を父母が必要とし、未来の夫が必要とし、妻が必要とし、その次には兄弟が必要とすることを今分かりました。そして、家庭が必要とすることを知りました。そして、国が必要とするのです。

アメリカがいくら大きいとしても、国民がいなければ何をするのですか。ですから、国が必要とするのです。そして、世界が私を必要とします。そして、結局何が必要とするのかというと、霊界が必要とするのです。その次には何が必要とするのでしょうか。神様が私を必要とするのです。
ですから、最も変わることができず、最も貴い父母が私を必要とし、またそのような相対が私を必要とし、兄弟が必要とし、家庭が必要とし、国が必要とし、世界が必要とし、霊界とこの全宇宙が必要とし、神様までも私を必要とするのに、なぜ私が必要としないのかというのです。

父母、そして相対、兄弟、家庭、国、世界、霊界、神様……。「ああ、私は必要ない人間だ」、このように考えるとき、すべてに対して罪を犯していることを知らなければなりません。

それは父母に対する犯罪であり、未来の夫婦に対する犯罪であり、兄弟に対する犯罪であり、家庭と国と世界と天地に対する犯罪であり、そして、神様に対する犯罪になるのです。彼は、そのような愛の法度に背こうとする存在です。このような観点から見るとき、自殺する人はどのような人ですか。自殺する人が多いのです。そのようにすることができるのかというのです。それは夢にも考えることができません。
(74-30、1974.11.10)
自分が今赤ん坊を身ごもったとすれば、その赤ん坊がどのような息子、娘に生まれるか分かりますか。それを堕胎させることができるのかというのです。

アメリカの大統領になり、聖君になり、アメリカを生かすことができる、そのような人が、自分の息子、娘として自分の体を通して生まれるのに、それを自分勝手に制御できますか。先生の母親が今日のように何でも自分の思いどおりにできる、そのような何かがあったとすれば、先生が生まれていたでしょうか。

それでは、堕胎は罪か、罪ではないかというとき、罪だというのです。赤ん坊は、愛と生命と血統の精髄として生まれたのです。それが人か動物かと考えるとき……。細胞が動物ですか。細胞が人ではないですか。細胞の中には、愛が入っていて、生命が入っていて、血筋が入っています。ですから、父母と同じ価値があるのです。父母の愛が入っているというのです。(注10)
(230-121、1992.4.26)
父母が「ああ! 足の不自由な赤ん坊は蹴飛ばしてしまおう」と言いますか。それが愛ですか。それが真の愛ですか。
(117-292、1982.4.11)

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世界経典-6

2020年10月06日 18時59分48秒 | 学習

 

5.律法を越えて

律法は神様に至る道を案内するが、多くの伝統宗教で神聖な人生の理想は、律法の境界の向こうにある。したがって律法は、束縛から抜け出すようにする教えであると同時に、もう一つの束縛ともなり得る。


例えば、パウロは、教訓的ではあるが、依然として拘束的なモーセの律法を、イエス・キリストを通して得ることのできる救援の恩寵と対比した。律法の命令を遂行することだけで救援を得ることはできない。それは、依然として善と悪の絶えることのない葛藤の中に落ち込んだ心の最も深い内面を刺激しないからである。


したがって、律法はせいぜい予備的な価値をもつにすぎない。さらには、世俗的な準則が誤用されたり、乱用される状況で、良心はより高い心の法に従うように導く。


律法の向こうに絶対者と関連したより高い次元がある。そこに至って人々は、行うことに制限がなく、良心の波動が神様の願いと常に一致するという点を確信する。


しかし、自由に行うといって、霊性の生がどんな罪を犯してもかまわないと誤解してはいけない。完全に自由にしたとしても、依然として天的な基準と原理があるものである。したがって、正しく悟った人は、その天的原理と一つになりながらも、それによる束縛感を感じないのである。

 

―宗教経典―

神から生まれた人は皆、罪を犯しません。神の種がこの人の内にいつもあるからです。この人は神から生まれたので、罪を犯すことができません。
ヨハネの手紙一3.9 (キリスト教)


悟りに満ちた者は、決して悪行にふけることはない。彼の良心は、真理で完全に映し出された知性によって導かれるからである。
アーヤーランガ・スッタ1.174(ジャイナ教)


来るべき日に、私がイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、私の律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。私は彼らの神となり、彼らは私の民となる。


そのとき、人々は隣人どうし、兄弟どうし、「主を知れ」と言って教えることはない。彼らはすべて、小さい者も大きい者も私を知るからである、と主は言われる。私は彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない。
エレミヤ書31.33 ~ 34(キリスト教)


さて、私達が知っているように、すべて律法の言うところは、律法の下にいる人々に向けられています。それは、すべての人の口がふさがれて、全世界が神の裁きに服するようになるためなのです。なぜなら、律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。


ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。


私達が肉に従って生きている間は、罪へ誘う欲情が律法によって五体の中に働き、死に至る実を結んでいました。しかし今は、私達は、自分を縛っていた律法に対して死んだ者となり、律法から解放されています。その結果、文字に従う古い生き方ではなく、“霊”に従う新しい生き方で仕えるようになっているのです。
ローマの信徒への手紙3.19 ~ 22、7.5 ~ 6(キリスト教)


高い徳の人は徳を自慢しない。
だから、徳がある。
低い徳の人は徳にこだわる。
だから、徳がない。……
だから、「道」が失われると徳がそこにあり、
徳が失われると仁愛がそこにある。
仁愛が失われたのちに道義がきて、道義が失われたのちに礼儀がくる。
礼儀は信義を欠くことで、無秩序の第一歩となる。
道徳経38(道教)


本心を見失った人は、福徳を修めるのみで仏道を修行せず、福徳を行うことがそのまま仏道だとばかりいっている。物を施したり仏法僧に供養するなどその福徳には限りがないが、自分の心中の三種の悪行ははじめから作られている。
六祖壇経6(仏教)


かの十八の祭資は祭祀の形なせる不安定なる小舟に過ぎず。これらに基づく祭儀は低劣なるものといわれる。かくの如きものを勝道と思い喜ぶ痴愚の輩は再び老死の世界に堕つ。愚昧の輩は無知なるままにあれやこれやと行事をなしつつ「我こそ道を得たり」と驕る。彼等祭祀主義者は慾念に迷わされて真理を悟らざるが故に、果報尽きたる天界よりみじめな姿もて退堕す。


迷乱せる輩は祭祀と善行を最勝事と想い、これに勝れるものあるを知らず。彼等は殊妙なる天界の背(頂)にて福祉を享受したる後、この世界あるいはさらに劣れる世界に入る。およそ森林において苦行と信仰とを修め、心を寂静にして、乞食行を行ずる賢者は罪垢を去り、太陽の門を過ぎて、かの自性不滅なる不死の神人(プルシア)の在ます処にゆく。
ムンダカ・ウパニシャッド1.2.7 ~ 11(ヒンドゥー教)


スブーテイよ、実に、誰かが、「求道者の道に向かう者には、なにかの法が滅んだり、断ちきられたりするようになっている」と、このように言うかも知れない。けれども、スブーティよ、このように見てはならない。金剛般若経27(仏教)

「私には、すべてのことが許されている。」しかし、すべてのことが益になるわけではない。「私には、すべてのことが許されている。」しかし、私は何事にも支配されはしない。食物は腹のため、腹は食物のためにあるが、神はそのいずれをも滅ぼされます。体はみだらな行いのためではなく、主のためにあり、主は体のためにおられるのです。神は、主を復活させ、また、その力によって私達をも復活させてくださいます。
コリントの信徒への手紙一6.12 ~ 14(キリスト教)


―み言選集―

真の愛で家庭教会を完成すれば、天国に入っていくのですが、門が分からなくて、東側、西側、12 の真珠門を逆さまに入っていってもOKです。居眠りしながら入っていってもOKです。どれほど自由ですか。真の愛は法を超越します。このような特権をもった真の愛を今知りました。今知ったので、実践すれば皆さんは、天国に全員行けま
す。
(116-249、1982.1.1)


心と体が一つになれば、宇宙が……。すべて宇宙の縮小体です。すべて知っているのです。学ぶ必要がありません。人間がどのように生きなければならないのか、ということを教える必要がありません。倫理道徳を教える必要がありません。


見てください。すずめの世界や動物の世界で、倫理道徳教育をしますか。自分たち同士で保護し、生理的に自分の一族を連結させて生きることを知
っているのに、どうして万物の霊長がこのようになっているのですか。堕落したので争いが起きるのです。
(162-223、19874.12)


今までの歴史を見ても、人倫道徳は心から始まります。いつでも正しい心をもって事をなして良心の呵責を受けない人は、何も怖くありません。いくら悪の世界の暴君の前に行っても、堂々としています。
(19-288、1968.3.10)


善は、この宇宙が保護育成し、自由と平和が宿っており、生命と権勢が共にあるのです。これを屈服させることができるものは、天地のどこにもないというのです。ここに異議がありますか。


善になるときには、大統領も恐ろしくありません。六法全書が適用されたとしても関係がありません。いくら刑法がたくさんあっても、その法とは何の関係もないというのです。それゆえに、世の中の法は、良心の基準を通過することはできません。すなわち世の中の法は、善の権限を侵犯することはできない、という結論が出てくるのです。
(16-134、1966.1.2)


統一教会は何ももっていませんが、境界線があるかないかというとき、境界線はないと言うかもしれませんが、そうではありません。厳然として境界線があります。


また、その線を越えてはいけない、越えるなというそのような線があります。そこを越えれば必ずほかの何かの形態に転換されるか、ほかの所に属するようになる、このような存在として決定されるのです。
(90-9 ~ 10、1976.12.5)


私は秘密の力をもっています。神様の胸に入り込んでも、神様が怒ることなく喜ぶ秘密をもっています。それは何でしょうか。理想的な真の愛です。神様がそのような公式を適用したのです。すべてのことを公式的にするようになっています。数学ですべての宇宙を……。


自然科学も解く公式があるのに、愛の世界にそのような公式がないでしょうか。そのようなユニットがなければ、世界の地の果てから来るすべての人を、何をもって操縦するのですか。
(170-256、1987.11.22)


6.二重属性

二重属性は、宇宙に広がっている普遍的な現象である。すべての存在は男性と女性、光と影、天と地、心と体、主体と対象、個体と全体、そして存在と非存在という二重属性をもつ。


この両極の間の躍動的な相互作用は、生殖力と創造力の源泉である。これは自然の周期的な循環、昼と夜の変化、そして季節の変化などによって現れる。


二重属性は、男性神と女性神の宇宙的結合によって神話的に描写され、科学で見るように、原子と分子を構成する電磁気的相互作用として知られている。


ある宗教、特に儒教と道教は、陽(男性)と陰(女性)の重属性を自然の支配的な原理、そして正しい方式として、人間を教育できる人生の原理とみなしている。


文鮮明先生は、自然を深く洞察した結果、自然の二重属性を一つの体系的な存在論に発展させた。先生は、自然の相互作用を詳細に洞察したのち、ために生きる人生の原理の基盤を発見した。与えることが受けることに対して先行してこそ、円満な関係性が形成されるからである。


さらには、自然の反発力は、三存在を一双に転換させる効果を発揮することによって、一双となったものがもつ創造的で包容的な関係性の領域をより強く保護する。


また、文鮮明先生は、このような根拠を基盤として、対立と葛藤に根を置き、実在に対する誤った観念を教えるマルクスの弁証法を批判した。


①男性と女性の二重属性

―宗教経典―

またわれは、すべてのものを両性につくった、おそらくなんじらは訓戒を受け入れるであろう。
クルアーン51.49 (イスラl ム)


すべてのものは対をなし、一方は他方に対応する。主は不完全なものを何一つ造られなかった。一方は他の長所を更に強める。だれが主の栄光を見て飽き足りたといえようか。
シラ書(集会の書)42.24 ~ 25(キリスト教)


天と地の原始の創造者。かれはなんじらのために、なんじら自身の間から夫婦を、また家畜にも雌雄をつくりたもう。このようにして、なんじらを繁殖させたもう。
クルアーン42.11 (イスラーム)


かくて易には陰陽未生以前の根源として太極があり、太極から陰陽の両儀を生じ、両儀はさらに分かれて四象(陰陽二交の組み合わせ、すなわち老陽・少陽・少陰・老陰)を生じ、四象は八卦を生ずる。この八卦の組み合わせにより万事の吉凶が定まり、その定められた吉凶によってもろもろの大いなる事業も成就される。
易経、周易繋辞上伝11.5 ~ 6(儒教)


往昔{むかし}、生主神は子孫を欲して苦行を修めた。苦行を修め終わって財(物質)と気(生命)という一対のものを生ぜしめた。このふたつのものがわがために多種多様の子孫を造ってくれるように、といって。ここで気とは太陽のことで、財とは月のごとである。
プラシュナ・ウパニシャッド1.4 ~ 5(ヒンドゥー教)


ムジャヒードが言った。「神は万物を二つに創造された。男と女、天と地、太陽と月、夜と昼、明と暗、人間と精霊、善と悪、朝と夜、あらゆる種類の糧と風と音を創造された。神は御自身の偉大さの証としてこのすべてのものを造られた。
タルトゥピークルアーンの諸規定の集成17(イスラーム)


神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。
創世記1.27 (キリスト教)


「男と女を創造された」、このみ言は、男と女の条件に当てはまらない人は、真で適合した人ではないということである。……見よ、主なる神は男女が共にいない所にはおられず、その方の祝福もやはりその場には臨まない。
ゾハール1.55b (ユダヤ教)


すべての生命、生きているもののすべての鼓動は、永遠の彼であり永遠の彼女として顕現するシヴァ・シャクティの一対の真理の偉大な宣言とともに脈打っている。(注11)
クラールナヴァ・タントラ3(ヒンドゥー教)


あの天がいっぱいに育み、2 人の子を生んだが、それが男と女である。彼らが天上の形にそって天と地になった。地は天から注がれる水を飲んで生きる。


上層の水は男であり、下層は女である。女は男から扶養される。下層の水は女が男を受け入れるように、上層の水の気を引く。そして、種を宿そうとする男の水と出会うため、水を浴びるのである。
ゾハール1.29b (ユダヤ教)


本有的特性は二つである。なぜなら、知恵は女であり、手段は男だからである。その後、この二つは、相対的なものと絶対的なものに区別される二重的なものとなった。


男の中にこの二つの本質、すなわち悟りに対する思い(相対性)と、それから起きてくる至福(絶対性)がある。女の中にもそれは同様だ。すなわち、悟りに対する思いと、それから起きてくる至福がある。呼金剛8.26 ~ 29(仏教)


陽の変化と陰の変化が結合し、水火木金土の五つの気運が生じる。五気が順調に広がって四つの季節が運行する。五行は一つの陰陽であり、陰陽は一つの太極である。
周敦頤太極図説(儒教)

―み言選集―

すべての存在世界は、ペア・システムになっています。人間も男性と女性、動物も雄と雌でしょう? 昆虫も雄と雌でしょう? 蝶も、鳥も、蟻もすべてそうであり、鉱物も同じです。鉱物も元素が107 個にもなりますが、それはむやみに合わさったりしません。


しかし、自分の相対になるものは、合わさるなといっても合わさるのです。プラスとプラスが互いに反発するものは、神様でもくっつけられません。しかし、相対性があれば、くっつくなと言っても自動的にくっついてしまうのです。
(203-355 ~ 356、1990.6.28)


宇宙を観察してみれば、すべての存在は陽性と陰性の二性性相の相対的関係を結ぶことによって存在していることが分かります。


これは、鉱物という次元から出発してすべての場合に当てはまります。分子は、陽イオンと陰イオンの結合を通じて形成されます。植物の場合、生存と繁殖は、雄、雌を代表する雄しべと雌しべの結合を通じてなされます。動物の場合、このような二性性相がよりはっきりとします。魚類、鳥類、哺乳類等、すべての動物は雄と雌によって存在します。


最後に、神様の最高の創造物である私達人間も、男性と女性に区分されています。最初の男性アダムと最初の女性エバは人類の始祖です。


このような二性性相の存在目的とは何でしょうか。神様は、なぜこのような方式で創造をされたのでしょうか。創造主は、万物を陽性と陰性に区分し、これらが互いに愛を授け受けすることを通して結合するように創造されたのです。愛の行為を通じて、すべての種はその数を増やし、系譜をつないでいくのです。
(201-204、1990.4.9)


ペア・システムは宇宙創造の原則です。上下、前後、左右、子を生みながらすべての宇宙が生じたので、昆虫の世界から植物世界、動物世界、人間世界、天地、すべてペア・システムでできています。


五官もペアになっています。手もペアであり、心と体もペアです。私達人間において最も問題になることは、心と体が一つにならないことです。


目も両側が同時に瞬きします。鼻も一緒に呼吸します。唇も、話をするときに勝手にしません。聞くことも、三半規管があって、共鳴できるようにすべて一つになっています。手も、片手では仕事ができません。歩くのも、2本の足が協力しなければなりません。すべてが相対を必要としているのです。


動いて作用しようとするので、そうなのです。作用は独りではできません。独りで作用しては、神様には似ません。五官自体が父母に似ているので、相対関係を必要としています。相対関係に適応し、大きな宇宙が、相対性を中心として共同的な目的のために、対応的な、和合した世界に連結されてこそ、完成品になるのです。小さければ小さいなりに、大きければ大きいなりに、宇宙は宇宙なりに、対応関係によってバランスを保っています。それは、授受作用して運動しなければなくなるからです。
(391-174 2002.8.21)


創造するにおいては、人間を中心に、人間をモデルとして東西南北、四方に広げて橋を掛けて造ったのです。それで、すべての万物、鉱物、植物、動物界、すべてが相対になっています。すべて相対に造ったというのです。


そのように縦的な道と横的な道をペアでつづりながら行くのです。ジグザグに行くもの、このように運動するもの、様々な形態の作用を経ながら、ペア・システムを中心とした万物は、理想的愛を訪ねていくことができる人間の教材です。
(173-212、1988.2.18)


あらゆる植物の種を見るとき、その内部に相対的な両側があるので、完全一体となったまま、一つの殻の中で胚子を通して授受作用することによってのみ、生命を繁殖するのです。


卵を見ても、黄身と白身の間に胚子があるのですが、一つの殻に包まれたまま一体を成しているのです。人間の胎児も同様です。


あらゆる生物は、主体と対象が授受作用によって一体化すれば、人間なら人間、植物なら植物はその原因に似て繁殖し、結局根本に還元するのです。


このすべてが究極の第一原因に似たのであれば、その第一原因的存在も、主体と対象が完全一体化した基本形態として、すべての存在に対して主体格をもっているという結論になります。
(89-226、1976.11.27)


神様の立場で見れば、神様がいくら主体で、いくら絶対者だとしても、相対がいなければ孤独なのです。世界的に自分がいくら多くのものをもっていても、あるいは多くの知識があっても、また、多くの権力があったとしても、孤独単身の立場で喜ぶことのできる道はないのです。


神様は、なぜ天地を創造されるようになったのでしょうか。神様は、絶対的な主体ですが、主体だけでいては喜びがあり得ないというのです。喜びというものは、一人でなされるものではなく、相対的関係においてなされるものです。


平和も幸福も、一人でなされるのではありません。相対的関係においてのみ平和が成し遂げられるのであり、幸福が成し遂げられるのです。それゆえに、神様も独自的な立場では、神様の本分を果たすことはできないというのです。
(58-210、1972.6.11)


宇宙のすべての存在を見れば、主体と対象、プラスとマイナスのペアになっています。鉱物界、植物界、動物界、そして人間世界もすべてペア・システムになっているのです。


なぜかというと、すべてがこのような相対関係を通して真の愛を願うからです。この宇宙の中で、絶対に一人では得られないものが愛ですが、反面、相対が現れることによって愛で連結されたすべてのものを得るようになるのです。


同じように、子女なくしては子女を愛する父母の愛が現れず、子女に対する父母の愛の主人にもなれません。したがって、神様も、真の愛を成し遂げるためにその相対として宇宙と人間を創造されたのです。このように、子女の愛や兄弟の愛、夫婦の愛、そして父母の愛、すべてが主体と対象が一つになることによって現れます。主体と対象で一つになれば、この二つを分けることはできません。もし分けるとすれば、真の愛が破壊されてしまいます。ですから、離婚という概念はあり得ません。(300-214 ~ 216、1999.3.14)


全被造万物を相対的につくったのは、神様の真の愛を受けるようにするためです。一つしかない愛を受けるようにしようというのです。それで相対的につくりました。


そのような男性、そのような女性が神様の愛を、完成させ、神様の愛を自らに決定的に結びつけられる姿になれば、同じ立場で愛を分かち合える立場に立てば、彼らは間違いなくたった一つの理想的な夫婦になります。
(26-155 ~ 156、1969.10.25)


神様が人間を造られたのは、御自身のパートナーを造られたということです。真の愛のパートナーとして人間を造られたのです。それを手本として、宇宙がペア・システムをもって造られたのです。


ですから、神様の愛も永遠であり、男性の愛も永遠であり、女性の愛も永遠であり、子女の愛も永遠です。これが神様の家庭です。ですから、この家庭は永遠の家庭なのです。
(201-193、1990.4.1)

②精神と物質の二重属性

―宗教経典―

プラクリティ(根本原質)とプルシャ(個我)とは、二つとも無始であると知れ。諸変異と諸要素とは、プラクリティから生ずるものと知れ。


プラクリティは、結果と原因を作り出す働きにおける因であると言われる。プルシャは、苦楽を享受することにおける因であると言われる。


というのは、プラクリティに宿るプルシャは、プラクリティから生ずる要素(グナ)を享受するから。彼が要素と結合することが、彼が善悪の胎から生まれる原因である。この身体における最高のプルシャは、近くで見る者、承認者、支持者、享受者、偉大な主、最高の自己(アートマン)と言われる。


動不動のいかなるものが生じようとも、それは「土地」と「土地を知る者」との結合によると知れ。バラタ族の雄牛よ。(注12)
バガヴァッド・ギーター13.19 ~ 22、26(ヒンドゥー教)


私達の体はただの一つの殻である。内外にただ天地の気運と陰陽があるだけである。
朱熹(儒教)


神は非物体的本性と物体的本性とを、また、先におかれた本性とあとにつづく本性とを不思議な仕方で結合させて魂あるものをおつくりになった。その御業の大いなること、おどろくべきことは、理性的動物であって、そのことゆえに地上のすべての動物にまさってすぐれている人間だけでなく、どんなに小さなねずみをもよく眺めるならば、精神をおどろかせ、創造者への賛美をよびおこすであろう。
アウグスティヌス神の国22.24 (キリスト教)

―み言選集―

400 兆にもなる細胞をもつ私達の人体を構成するにおいては、必ず循環過程の運動が連結されています。その循環運動を通して存続するのです。そうではないですか。血液は動脈と静脈を中心として循環し、神経系を中心として上下を連結させることのできる電気作用によって循環運動をするのです。見えない循環系統、見える循環系統の二重になっているのです。
(262-126 ~ 127、1994.723)


すべての存在は二重目的をもつ連体である。既に述べたように、すべての存在の中心には、性相的なものと、形状的なものとの二つがあるので、その中心が指向する目的にも、性相的なものと形状的なものとの二つがあって、それらの関係は性相と形状との関係と同じである。


そして、性相的な目的は全体のためにあり、形状的な目的はそれ自体のためにあるもので、前者と後者は、原因的なものと結果的なもの、内的なものと外的なもの、主体的なものと対象的なものという関係をもっている。それゆえに、全体的な目的を離れて、個体的な目的があるはずはなく、個体的な目的を保障しない全体的な目的もあるはずがない。したがって、森羅万象の被造物は、このような二重目的によって連帯しあっている一つの広大な有機体なのである。
原理講論、創造原理3.1


この被造世界はどのように存在しているのでしょうか。軸があるのですが、その軸にも、二つがあります。見える軸と見えない軸、二重構造になっているのです。

一つの主体を中心として回るのですが、その主体自身も回るのです。体と心が相対を中心として授け受ければ、互いに回るようになるのと同じことです。すべての存在物は、このような原則によって存在します。同様に、今日堕落した人間世界における復帰の道も、軸を直さなければいけません。軸を直さなければなりません。人間において、体の中心は心です。霊人体があるのです。


霊を中心として、体がつながっているために、体は霊を中心として回るのです。心の命令に体が動くのです。心が「東に行け」と言えば、東に行かなければならず、「西に行け」と言えば、西に行かなければなりません。体が勝手にすることはできません。
(136-14、1985.12.20)


③授受を通して現れた二重属性

―宗教経典―

雨水が地に落ちるたび、地球はその2倍の水分を送り上げる
創世記ラッパー13.13 (ユダヤ教)


本当に天と地の創造、また夜と昼の交替の中には、思慮ある者へのしるしがある。
クルアーン3.3190 (イスラーム)


主なる神が造られた被造物が、どれほど互いに世話になっているかを見よ。昼は夜に、夜は昼に、互いに世話になっている。しかし、これらは人間たちのように、互いに告訴したりしない。月は星に、地は天に、すべての神の創造物たちは、互いに世話になっているが、そうしながらも互いに裁判することはなく、平和を維持している。しかし、人間は、友に借りたものをかえって強奪し、奪おうとする。
出エジプト記ラッバー31.15 (ユダヤ教)


日往けば月来り、月往けば日来り、日月相い推して明生ず、寒往けば暑来り、暑往けば寒来り、寒暑相い推して歳成る。往くとは屈するなり、来るとは信ぶるなり。屈信相い感じて利生ず。尺蠖の屈するは、もって信びんことを求むるなり。


竜蛇の蟄るるは、もって身を存するなり、義を精しくし神に入るは、もって用を致すなり。用を利し身を安んずるは、もって徳を崇くするなり。これを過ぐる以往は、いまだこれを知ることあらず。神を窮め化を知るは、徳の盛なり。(注14)
易経周易繋辞下伝2.5.2 ~ 3(儒教)


難と易はたがいに補いあい、長と短はたがいにそれぞれの位置をしめ、高と低はたがいに調和しあい、前と後とはたがいに順序をもつ。
道徳経2(道教)


何事にも時があり、天の下の出来事にはすべて定められた時がある。生まれる時、死ぬ時、植える時、植えたものを抜く時、殺す時、癒す時、破壊する時、建てる時、泣く時、笑う時、嘆く時、踊る時、石を放つ時、石を集める時、抱擁の時、抱擁を遠ざける時、求める時、失う時、保つ時、放つ時、裂く時、縫う時、黙する時、語る時、愛する時、憎む時/戦いの時、平和の時。
コヘレテの言葉3.1 ~ 8(キリスト教)


天地陰気が密接にまじわりあうことによって万物が見事につくり成され、男女がその精気を交合させることによって万物が生み成される。易に「三人行けば、一人を損す。一人行けば、その友を得」とあるのも、二つのものが力をあわせてこそ一つのことを成就し得るということを言っているのである。
易経、周易繋辞下伝2.4.13 (儒教)


さて天は高くして尊く、地は低くして卑いという事実にのっとって、易の基幹ともいうべき乾・坤の二卦が定立される。また天地間の万物があるいは高くあるいは卑く陳なり並ぶ事実にのっとって、易の各卦における六交の貴賤が位地づけられ、陰陽二気の動静に恒常的な条理の備わることにのっとって、易の各卦の剛交と柔交とが区分される。(注15)さらにおよその事が善悪邪正におもむく方向はその類をおなじくするもの同志で相い集まり、およその物は群れを同じくするもの同志で相い分かれることにのっとって、易の卦交の判断にも吉凶の別が生ずるのであり、陰陽の二気が天に在っては日月星辰の象を成し、地に在っては山川・動植物の形を成すことにのっとって、易の卦交にも陰が陽に変ずるという変化の作用が現われるのである。
易経、周易繋辞上伝1.1.1 ~ 5(儒教)


三十本の輻(や)が車輪の中心に集まる。その何もない空間から車輪のはたらきが生まれる。粘土をこねて容器ができる。その何もない空間から容器のはたらきが生まれる。


ドアや窓は部屋をつくるために作られる。その何もない空間から部屋のはたらきが生まれる。これ故に、一つ一つのものとして、これらは有益な材料となる。何もないものとして作られることによって、それらは有用になるもののもとになる。(注16)道徳経11(道教)
愛は巡り巡ってくる。愛された者は愛する者に似ることによって、愛する者を感動させる。すると、愛する者はその愛された者を迎えるために出ていく。最初に始めた者がすなわち最後になる。
トマス・アクィナス神学大全(注13) (キリスト教)


―み言選集―

授け受けするにおいて、差が一つもなければどうなるでしょうか。それは長く続くのです。石のようなものも、長く続く石はどのようなものでしょうか。完全に授け受けするものは長く続くのです。しかし、そこに不純物が入り込んでいるとき、完全に授け受けできないので、その差が大きければ大きいほど早ぐ崩壊するのです。


ですから、宇宙の天法とは何でしょうか。存在の法則とは何でしょうか。それは授け受けすることです。完全に授け受けしなければなりません。良く授け、良く受ければ、長く存在しますが、良く授け受けできなければ崩壊してしまうのです。
(157-266、1967.4.10)


作用には必ず二つの作用体、主体と対象がその過程を通して、よりプラスにならなければなりません。そのような所においてのみ作用するという事実を、結論づけられるのです。ですから、作用の目的を見てみれば、これはプラス(主体)よりも大きく、マイナス(対象)よりも大きな第3の存在、結果的存在が出てくるようになるのです。


きょう皆さんは、ここに集会があると思って来たのですが、ここに来た目的はどこにあるのですか。それは、来るときのその心よりも、よりプラスになり得る、もう少しよくなり得る、その何かを求めてきたのです。


もしここに来てマイナスになり得る結果をもたらしたとすれば、そのような作用はだんだんとなくなっていくのです。ですから、この現象世界で見えるすべての作用は、自らを減少させるために作用する存在は一つもないという結論を下せます。
(56-134 ~ 135、1972.5.14)


私自身を中心として見るとき、受けたいと思いますか、与えたいと思いますか。深刻な問題です。それで「統一原理」には授受作用という言葉が出てくるのです。授受作用で、この「授」が先ですか、この「受」が先ですか。与えることか先です。父母が子女のために与えますか、子女が父母のために与えますか。父母が与えるでしょう? これを見るとき、存在の最初の起源になるその方から与えることが始まり、作用が連結されたという論理を認めなければなりません。(注17)
(239-59、1993.11.23)


世の中のすべてのものは回ります。運動をしないものがありません。動くようになるとき、どこから始まるのでしょうか。皆さんはすべて受けることを願います。お金を引っ張り込むことを願います。それが正しいかどうかは、宇宙の原則から解いていかなければなりません。原則がそうであれば、神様も否定できないでしょう。神様が創造を始めるとき、受けようとして引っ張る力で創造したでしょうか、与える力で創造したでしょうか。与える力です。投入する力です。
(239-223、1992.11.25)


すべてのものは、一から多くのものに分かれ、結局、一つの大きなものに総合されます。このように発展するのです。一からいろいろなものに分かれ、一つに統合されるのです。ここでまた分かれて、より大きなものになります。より大きな一つの世界の中にすべて入っていくという話です。
(26-189、1969.10.25)


この宇宙には相対圏があるので、宇宙が、天運が保護します。ですから、プラスにプラスが来れば反発するのであり、またマイナスにマイナスが来れば一緒に反発するのです。……


この宇宙には和合力と排斥力があるのですが、相対するものは和合し、相反するものは排斥するのです。宇宙の天運は、自分を損傷させようとするものから自ら保護するようになっています。


このような原則的論理が符合する所においてのみ、相対圏が形成されるので、ここにほかのものが来るとき、相対圏か傷つくので反発するのです。反発する力が悪いものではありません。……
宇宙は、和合と同時に反発する作用があるというのです。和合力と反発力があります。相反する力があったとしても、それは一緒に同伴してマイナス化させるのではなく、天運の完成を助けるための作用をするのです。もし作用に対して反作用の力がなければ、歩くこともできません。
(227-36 ~ 37、1992.2.10)


妻が死んだり、夫が死ぬと、なぜ悲しいのですか。自分の夫が死んだといってなぜ妻は取り乱し、我を忘れて泣き喚くのですか。ただ泣くのではなく、ひっくり返って泣くのですが、なぜそのようになるのかというのです。


男性と女性の相対圏を結び、愛を中心として永遠の宇宙の法の圏内に入っていたものが、相対圏が乱れることによって、皮膚が赤くなるほど押し寄せてくるその力によって悲しみと痛みを感じるのです。友人関係でも、その相対圏が、なくなった場合には寂しく思います。知識も友であり、お金も友であり、権力も友であり、すべて友です。その友人関係においてもそうだというのに永遠の主流となる愛の基準を中心として築いた相対圏を失ったその痛みは、宇宙と取り替えても消えない痛みだというのです。


その原則によって、数億ボルトの電気がプラスになるところには相対圏が必要なのです。そのプラスは、相対圏が成立しなくなるときは壊れます。一度、プラスの電気とマイナスの電気が相対圏をつくった場合、ここにほかのプラスが来れば、その相対圏は破壊されるのです。宇宙の保護圏を侵害するのと同じ立場に立つので、プラス同士は反発するのです。


自分の相対位置を保護するための反発作用は、第2の保護作用です。宇宙は、そのような対応、反発という力によってバランスを取っているのです。それは悪い力ではなく、作用と反作用の平均によってバランスをとるようになります。それがどのようにして来るのですか。結婚する前の女性たちは、大勢の女性たちが集まって互いに腕組みをしながら歩けます。男性も同様です。子犬のようにじゃれながら、男性同士で村を騒がしくさせて歩き回ったり、互いにじゃれ合ったりして一つになります。


しかし、その男性がある日、結婚をして女性が来た場合に、自分より美男子の友人が自分の横に立って自分の妻の前に現れることを願うでしょうか。それを願う男性はいません。蹴飛ばしてしまうのです。「あしたから来るな、こいつ!」と言うのです。


このとき、行けと言うのは悪いことではありません。「お前も私のように宇宙の法に合う立場に立て!」と言って蹴飛ばすのは、完成の道に導くことになります。


これは初めて聞く論理でしょう。ですから、どこに行ってもプラスとプラスのときは相対圏になりません。自分か大きくなれば、周囲の環境が、あの人が中心に立って相対圏を支配してくれないかと願うようになるのです。自分が相対圏に立つようこになるとき、全体がそのようになり、一つの関係を中心として相対理想圏をつくろうというよ
うになるというのです。
(218-335、1991.8.22)


このようなことが原則だとすれば、進化論は成立しません。対象の路程を通じたアメーバから猿まで、数千、数万回の愛の門を通じた雄と雌の関係を無視すれば、連結されないのです。


雀もそうです。冬は相対のようなものが分からないので、戯れて、それぞれ別々のプラスになっていますが、春になって巣をつくり、相対圏をつくったときには絶対的です。第三者の雀に対しては雄と雌が一緒になって絶対的に排斥するのです。雌が来れば雄が排斥し、雄が来れば雌が排斥します。自分の相対圏を壊すのでそのようにするのです。宇宙の法圏内の侵略者になるので、それを排斥するようになっています。
(218-338 ~ 339、1991.8.22)


いわば弁証法的論拠があると見るのです。歴史的な上下闘争の概念があると見るのです。ヘーゲルはそのように見ました。これを解決できなければ、歴史のすべての理想世界も、上下関係の構造的組織をもった組織体の平和や理想郷というものも探し出す道がありません。強者は弱者を無視し、のみ込もうとし、冷遇し、どのように扱っても罪ではないと考えます。
(132-142、1984.5.31)


ある人々は、宇宙が力によってつくられたといいます。もちろん、すべての存在が力によって構成されていることは事実です。しかし、その力が存在するためには何が必要でしょうか。それぞれの存在は力自体ではありません。そこには必ず相対的な基準がなければなりません。私達は力を認める前に相対基準を認めなければなりません。相対基準を認めれば、主体と対象を認めなければなりません。

主体というのは、時によって変化する存在ではいけません。目的を決定し、永遠の存在圏をつくることのできる存在でなければならないのです。そこにおいて認められる相対的関係は、主体に対して相応できる関係でなければならず、相対的に反発する関係になってはいけません。


相対的関係というのは、「正」という基準「反」というものが互いに対立して、それが一つに統一されるという正反合の関係ではなく、主体の前に対象が応じる関係です。すなわち、主体と対象が相応し、共通の目的を中心に作用することを意味します。これが完全な授受作用をして相対圏に到達すれば力が現れるようになり、そのときに初めて中心が決定するのです。しかし、いくら作用したとしても、それが反対に作用すれば、世界は破壊されてしまいます。
(15-53、1965.2.7)


7.相互依存

大小すべての存在は、相互依存的な関係の網で連携している。全体を離れて個体は存在できない。したがって、一つの分離された個体として「自分自身」を考えることは、認識の根本的な誤謬である。


アインシュタインはそれを「意識の視覚的迷妄……私達を自らの個人的な欲望に閉じ込め、私達とごく近い何人かの人々に限定させる一種の監獄」と呼んだ。彼は、私達が「生きているすべてのものと、美しさに満ちた自然全体を包容することによって愛の範囲を広げ、私達自身をこの監獄から解放させなければならない」と言った。


事実、仏教の経典によれば、宇宙の最初から最後まで、すべての存在は因果の網、すなわち因縁の鎖に縛られている。このような理解は仏教の「無我説」の土台になる。すべての存在が「私」であり、「私」がすなわちすべての存在だという認識、それが仏教の慈悲倫理の核心である。その倫理こそ、人々が「私」の救いだけを目標と信じる個人主義の病弊を治療する治療薬である。事実、ほ
かの人々が苦痛の中にいる限り、誰も究極的な平和を得ることはできない。


―宗教経典―

これ等の人々は自といふ念に囚われ、他といふ念に縛せられる。或るものはこれを知ることなく、又そを矢なりと見ず。矢なりと豫め見たる人には我は為すといふ念も起ることなく、他が為すといふ念も起ることなし。
感興偈70(仏教)


私達は、互いに体の一部なのです。
エぺソの信徒への手紙4.25 (キリスト教)


諸の因縁を遠離し、能作者あるなく、唯心の建立する所なり、我は是を無生なりと説く。諸法は因生に非ず、無に非ず、能所の分別を離る、我は是を無生なりと説く。其の心に外物の有と非有と(の相)を取ること無くむば、一切の〔邪〕見ことごとく断ぜむ、此を是れ無生の相〔とは謂ふ〕なり。……


因縁はともに集会す、是の故に生滅あり、因縁分散すれば、即ち生滅あることなし。……若し因縁の鎖を離るれば、生の義は得べからず。我は唯鉤鎖を説く、生なきが故に不生なり、(これ)諸々の外道の過を離る、凡愚の了る所にあらざるなり。


若し縁の鉤鎖を離れて別に生法あらば、是即ち無因論にして鉤鎖の義を破壊す。燈の能く物を照すが如く、若し鉤鎖の現ずるも〔亦〕然らば、これ即ち鉤鎖を離れて別に諸法あらむ。無生なれば即ち無性なり、体相は(猶は)虚空の如し、鉤鎖を離れて法を求むるは、愚夫の分別する所なり。……


一切の諸の世間は、是の鉤鎖に非ざるは無し。若し能く是の如く解せば、此
の人は心に定を得む。(注18)
楞伽経78(仏教)


そのように他者のからだをも自分であると、なぜ把握しないのか。自分のからだを他者においても、そのようにすることは難しくない。自分自身には過失があり、他者においても海のような功徳〔があるの〕を知れ。


我執を完全に捨て去ることと、他者を受け入れる修習をすべきである。あたかも「手などはからだの一部である」と考えるように、そのように衆生の一部として、なぜ生きものを考えないのか。あたかも、無我であるこのからだに慣れにより自分という心が生じたように、他の有情に対しても、慣れによって、自分という心をなぜ生じないのか。


そのように、他者の利益をなしても、自賛も自慢も生じない。自分自身が食事を食べても、見返りを期待しないように。
菩提行論8.112 ~ 16 (仏教)


美があまねく美として認められると、そこに醜さがでてくる。善があまねく善として認められると、そこに不善がでてくる。だから、有と無はたがいに生まれ、難と易はたがいに補いあい、長と短はたがいにそれぞれの位置をしめ、高と低はたがいに調和しあい、前と後とはたがいに順序をもつ。だから、賢者は干渉しないでものごとを扱い、言葉のない教えをする。
道徳経2(道教)


人は誰もが他人との相互関係の中に置かれている。そして、その関係は運命という服をまとっている。一人に直接的な影響が加えられれば、ほかのすべての人に間接的にその影響が戻っていくものだ。ほかの人が自分の立場で本分を果たすとき、私もやはり自分の立場を取り戻すことができ、私が私の立場で責任を果たすとき、ほかの人たちも自分の立場を取り戻すことができる。
マーティン・ルーサー・キング・ジュニア


―み言選集―

宇宙はごく小さなものからこの上なく大きなものまで、すべて関係と連関性をもっている。
(16-119、1966.1.2)


すべての存在の中心には、性相的なものと、形状的なものとの二つがあるので、その中心が指向する目的にも、性相的なものと形状的なものとの二つがあって、それらの関係は性相と形状との関係と同じである。


そして、性相的な目的は全体のためにあり、形状的な目的はそれ自体のためにあるもので、前者と後者は、原因的なものと結果的なもの、内的なものと外的なもの、主体的なものと対象的なものという関係をもっている。


それゆえに、全体的な目的を離れて、個体的な目的があるはずはなく、個体的な目的を保障しない全体的な目的もあるはずがない。
したがって、森羅万象の被造物は、このような二重目的によって連帯しあっている一つの広大な有機体なのである。
原理講論、創造原理1.3.1


すべて相対性を中心として共同的な目的のために対応し、和合した世界に連結されてこそ、完成品になります。小さければ小さいなりに、大きなものは大きなものなりに、宇宙は宇宙なりに対応関係でバランスをとっています。なぜですか。授受作用、運動しなければならないからです。
(391-175、2002.8.21)


天運(注19)は自分のために生きようとするものはすべて否定しますが、人のために生きようとするものはますます抱いてくれるのです。


目で例えれば、両方の目が1.2であれば、「いやあ! 気分が良い。はっきり見える」と目が喜ぶのです。なぜ喜ぶのですか。天運が保護するからです。天運が全宇宙に連結されるのです。それで永遠に見ることができます。無制限に透視されるので、その領域が無限定に拡大されていくのです。耳も同じです。相対のために生きるとき、関係性をもつようになります。相対のために生きることが関係性をつくる力だというのです。
(244-107 ~ 108、1993.1.31)


人体の中で目を見てみれば、簡単に見えますが、複雑なのです。目の細胞も、それぞれはすべて複雑です。すべて複雑ですが、一つの生命体として生活するにおいて、これが互いにぶつかり合うのではなく、互いに協助して共存しているのです。


ですから、「私は目も何もすべて嫌いだ、手が一番だ」と言うことはできません。前後、左右、上下関係において、位置と階級に従って、必ずそれぞれ制約された法度と条件に順応しなければ、行く道がありません。通じる道がないのです。
(49-193、1971.10.10)


人類は何ですか。一つの細胞と同じです。そして、それが自分勝手になるのではなく、全体が一つの極を成すのです。極を成して、全体の中心となる神様と人間、人間がいれば、人間全体を合わせたものが、互いに相対的関係を中心として、これ自体が生命力の発露体、これ自体が愛の発露体として目的を成就するその原因と結果が一致すれば、目的が成し遂げられるのです。原因と結果が結合することによって、一つの目的を完成した価値体として現れなければなりません。
(110-73、1980.11.9)


私達人間が追求する最高の理想の要素が愛ですが、愛が良く授け良く受けられるようにしなさいというのです。私達の主体を中心として宇宙を連結し、すべて軸となって電気が連結されているように、軸を通して良く授け良く受ける木と同じだということです。一番の中心の根の先と芽の先は常に相対的です。これが良く授け良く受けてこそ大きくなるのであって、これが及ばなければ、
根も小さくなり、すべて小さくなるのです。
(165-177、1987.5.20)


8.原因と結果

蒔いたとおりに刈り入れるという格言、神様の審判に対する信仰、そして業報の教理などは、世界が正義によって支配されるという普遍的な考えを多様に表現したものである。


諸宗教は、現世での運命や輪廻転生、または来世の生を通してでも正義は実現されるという、様々な特定の方式に関する教えを提示する。このようにすべての宗教は、正義はそのような方式で報いられるという点に同意する。


慈悲深い創造者が意図したとおり、善の行為は報いられ、悪の行為は罰を受けるというのは、宇宙の固有な本質である。これが正に因果の法則である。

因果の法則は、神聖な法と同様に、究極的実在とどのように関連しているのか曖昧である。東洋の宗教における正義の法則は、宇宙の構成において本質的なものであり、このような点から、それは解脱という究極的目標に従属される。業と輪廻の車輪は、因果作用を示してくれるが、このようなものは人間存在のぞっとするような恐ろしい暗い側面にすぎず、輪廻の循環が消滅する涅槃と解脱という究極的目標とは無関係である。


一方、唯一神の宗教は、正義をするために罪を罰する神聖な審判官として神様を描写する。しかし、判官として子女を審判する役割が父なる神様の目的だとは言えないだろう。かえって神様は、愛と真理で人類を救援の道へと導く。


したがって、文鮮明先生が指摘するように、私達は神様の審判を、その被造世界に対する主管、すなわち宇宙法則の作用を通して正義を具現するよう創造されたこの世界に対する主管に該当すると言える。


ここの節では、二つの側面の原因と結果に対して言及する。第1には、蒔いたとおりに刈り入れるという正義に対する言及である。文鮮明先生は、個人の人生においてのみならず、蕩減すべき罪を犯した国と民族の歴史においてもこの法則の例を提示する。諸経典は、たとえこの世界が不義を容認し、正しくないことを罰しないかのように見えたとしても、究極的な個人の応報は、天国または地獄に運命づけられた来世にあると語る。


これに関して文鮮明先生は、その意味を増し加え、罪人たちは天使の審判のためではなく、地上の人生における悪行のために自ら地獄にとどまらざるを得ないと教える。


第2には、万物の成長と完成過程において作用する普遍的原理として、原因と結果に対する言及である。私達は、結果が原因と無関係に生じないということを知っている。むしろその二つは、互いに密接に結ばれている。


仏教の核心教理である縁起論は、この概念の消極的な面を示してくれるが、それは無知が因果的連鎖を通して苦悩という人間の全体的状況に展開されるからである。


道教の経典は、この概念の積極的な側面を示しているが、原因と結果は互いの尾をくわえながら回る天の運行だというのである。


文鮮明先生は、原因者として神様がこの世に臨在し、この世のあらゆる所で役事されながら、結果として、最後には人間を通して自らを現すと教える。究極的に原因と結果である神様と人間は、愛を通して始まりと終わりとなり、ついには結合するようになる。


①因果応報

―宗教経典―

思い違いをしてはいけません。神は、人から侮られることはありません。人は、自分の蒔いたものを、また刈り取ることになるのです。
ガラテヤの信徒への手紙6.7(キリスト教)


なんじらに降りかかるどんな不幸も、なんじらの手がかせいだためである。
クルアーン42.30 (イスラーム)


剣を取る者は皆、剣で滅びる。
マタイによる福音書26.52 (キリスト教)


暴力は苦痛を生むだけであるがゆえに、当然このことを理解して常に警戒しなければならない。
アーヤーランガ・スッタ3.13 (ジャイナ教)


灰は、それをまいたその人に舞い戻ってくる。
ヨルバ族の格言(アフリカ伝統宗教)


彼らは風の中で蒔き、嵐の中で刈り取る。芽が伸びても穂が出ず、麦粉を作ることができない。作ったとしても、他国の人々が食い尽くす。
ホセア書8.7 (キリスト教)


しかし愚かな者は、悪い行いをしておきながら、気がつかない。浅はかな者は自分自身のしたことによって悩まされる。火に焼きこがされた人のように。
法句経136 (仏教)


よろずの事の終末は神に帰着するのである。
クルアーン31.22 (イスラーム)


神に角がないのではない。彼にも角がある。あらゆる行為に対して、彼は厳しく審判を下される。
オヴァンボ族の格言(アフリカ伝統宗教)


この世においてなされた不正な行為(アダルマ)は牝牛〔が乳を出す〕ように即座には結果を生まない。しかし徐々に巡り来て行為者の根を断ち切る。マヌ法典4.172(ヒンドゥー教)


人の運命の中に懺悔と幸福のための特別な門はない。それらは、人々自身がそれらを呼ぶことでついてくる。それらの報いは、まるで影が実体についていくように善と悪がついていく。
陰隲文、応報書1(道教)


大空の中にいても、大海の中にいても、山の中の奥深いところに入っても、およそ世界のどこにいても、悪業から脱れることのできる場所は無い。
法句経127(仏教)


自然の網はすべてを包みこむ。その目はあらいが、何も逃さない。
道徳経73(道教)


愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「『復讐は私のすること、私が報復する』と主は言われる」と書いてあります。
ローマの信徒への手紙12.19 (キリスト教)


不信心に向かってむてっぽうに急ぐ者のために、なんじの心を痛ませてはならぬ。かれらはいささかも、神をそこなわぬ。神は来世において、かれらに福分を与えることを望みたまわぬ。かれらは重い刑罰を受けるであろう。……

信じない者に、われが与える猶予を、かれら自身のために有利だと思わせてはならぬ。われはただ、かれらの不義を増長させるために、それを与えているのだ。かれらは恥ずべき刑罰を受けるであろう。
クルアーン3.176・178(イスラーム)


すべての取引には誓いが伴う。利益を求めようとする心が、生きているあらゆるものに宿っている。店の門が開き、商人たちは信用によって取引をする。取引帳簿が置かれ、そこに手で記録をする。


お金を貸そうとする者は、誰もが来て借りていく。しかし、集金者は、定期的に毎日巡回し、債務者の事情は意に介さず、きちんと定められた金額をもらっていく。債権者たちは、彼らが要求できるものをいつでも取ることができる。審判は真理の審判であり、世の中のあらゆることは祝祭のためにある。
ミシュナ、アヴォート3.20 (ユダヤ教)


まして天地は物の中で最大である。理屈から言ってあらたかな神が宿って当然。神があるからには善を賞し悪を罰すること不思議でない。ただ神体が大きくて網の目があらいから、必ずしも打てば響くように反射的に発動するわけではない。.
抱朴子(注20)(道教)


マズダーよ、私くがみとめ奉ったのは、アフラよ、わたくしが、世を生み出し給う際の御身をはじめに見奉ったときで、そのとき、御身は創造の終末の一周に際し御身の善巧によって悪には悪い報応を、善には善い報応をと、行為とことばとをして報償をうけるように定め給うたのでした。
アヴェスター・ヤスナ43.5 (ゾロアスター教)


行なったとおり、実践したとおりになるのである。正しく行なうものは正しい者となる。悪を行なうものは悪となる。善の行為によって〔人は〕善となり、悪の行為によって〔人は〕悪となる」


……「いま〔人びとはつぎのように〕いう。『人間(またはプルシャ)はただ欲望からなるものである』と。かれは欲求するように意向するものとなり、意向するとおりに行為をおこない、行為をおこなうと、それ(行為に応じた結果)となるのである」……


したがって、ここに〔つぎのような〕詩節がある。『それのみが真に実在するものであり、〔そこにかれは〕行為とともにおもむく。そしてそこにおいてはかれの性格と思考作用が付着している。さらにかれがこの世で行うその行為のおわりに達すると、かの世からにの世にふたたびもどる。行為のために……』(注21)以上は欲望をいだいている者である。
ブリハッド・アーラニヤカ・ウパニシャッド44.5 ~ 6(ヒンドゥー教)


一み言選集―

体を中心として自分の生命を維持するにおいては、すべてのものが、主体と対象が授け受けする授受作用をよくしなければなりません。授け受けするすべてのものが、全体が良く授け、良く受ければ、その肉体が円滑に運動し、生存が継続します。


ところが、どこかが詰まればどのようになるでしょうか。この宇宙は、神様の理想的存在型として良く授け良く受けるものはすべて擁護します。擁護するこの世界の要素の中で反対要素が発生し、欠如したり、ある所が詰まれば、擁護圏で作用できない不合格者になるのです。


したがって、その反作用によって吐き出されるようになります。それは宇宙自体の保護のたのです。世界には作用と反作用があります。その反作用は悪いものではありません。大概、悪いものとして反対に見ますが、それは大きなものを保護するための作用なのです。

したがって、見る観点が変わらなければなりません。ですから、おなかが痛ければ、それはおなかを中心としてある主体の前に対象的な位置で、授け受けできる回路が詰まったというのです。詰まったので、詰まってしまった基準だけ反対に追い出すようになります。宇宙力によって追い出す力がそこに作用するので痛むのです。詰まったものを開きさえすれば、薬でその門を開きさえすれば、回復するのです。


同じことです。私達の良心世界や、人のすべての世界が苦痛を受けるのですが、なぜ苦痛を受けるのかというと、それは宇宙力に不合格となり得る要素をもっているために、宇宙がそれを追い出すことによって良心の呵責を受けるのです。それが正常な方向であるにもかかわらず、そこに反対となる立場に立てば、その作用ができなくなるので、必ず反対に苦しめる作用が痛みとして現れるのです。反作用が現れて地獄行きになります。
(165-176 ~ 177、19875.20)


アメリカも、天主教から分かれた新教を中心として、ヨーロッパで新しい宗教に反対する旧教の中で、よく信じる教派を選んで移動させ、建設した国です。大移動したのです。大移動してここに基盤を築いたのです。……


アメリカはイギリスの延長です。ですから、イギリス人が果たせなかったことまでアメリカですべて蕩減しなければなりません。イギリスが今までアジア、中国に来て何をしたかというと、アジア人たちをすべて阿片で殺害してしまいました。今までアジア地域に来てそのような政策を用いたのです。それで勢力基盤を完全に崩し、麻痺状態になったものを自分たちが今まで支配してきまし
た。


ですから、その罪を蕩減しなければなりません。それをアメリカにいる皆さん、今若い家庭や高等学校の学生たちがすべて蕩減しなければなりません。そうしなければ滅びます。歴史に背いてしまうというのです。
(105-134、1979.10.4)

神様の愛の法に背くのは悪であり、怨讐であり、容認できない罪です。神様の前に怨讐であり、容認できない罪だというのです。罪の中で一番恐ろしい罪です。怨讐の中で神様が最も嫌う怨讐です。その道を是正できない者は、神様の怨讐であり、罪人として扱うので、激しく打って滅びるようにするのです。


滅ぼすようにするのが原則です。皆さんの中にはイタリアのポンペイ市に行ったことのある人がいるかもしれませんが、その都市が滅んだのも、淫乱な愛の社会生活のためでした。ソドムとゴモラもそれで滅亡したのです。ローマもそれで滅びました。このような公式的な歴史観によって推し量ってみるとき、アメリカもそのような愛を是正せず、悔い改めなければ、滅びます。
(104-141、1979.4.29)


皆さん! 日帝下で反日地下運動をしていた私にとって、日本民族は怨讐でした。民族的にはもちろん、個人的にも怨讐でした。しかし、日本が敗戦したのち、私は日本人を愛しました。地下独立運動をしたといって引っ張られていき、ひどい拷問をした日本の警察官たちは、私の一言ですべて処刑される立場だったにもかかわらず、かえって追われている彼らを安全に送ってあげたのです。


今日、日本の多くの若者たちが、なぜ私に永遠の命を懸けて忠誠を果たすのか分かりますか。因果法則によって報いなければならない原則があるからです。それは国家を超越し、神様の心情的なみ旨に従い、世界に向かって真の愛を植えたからです。国家的な怨讐を愛し、生きる道に導く心情的基盤を植えたために、自分たちも知らないうちに、天命に従っているのです。
(316-82、2000.2.10)

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世界経典-5

2020年10月06日 18時55分53秒 | 学習

―み言選集―

愛の原則を中心として宇宙を造ったので、宇宙はその拍子に合わせて踊るようになっているのであって、個人の拍子では踊らないのです。
(131-124、19841.04.22)


神様は、何が慕わしくて創造したのでしょうか。絶対的なのに神様は、何が慕わしくて創造をしたのかというのです。その方は黄金も必要なく、知識も必要ない全知全能の方なのに、備えていないものがない方なのに、何か必要で人を造ったのかというのです。


創造の根本動機とは何でしょうか。権力でもなく、知識でもなく、所有物でもないというのです。神様に何がないのでしょうか。愛の基盤がなかったのです。神様も、やはり一人でいては愛を成せません。ですから天地創造の動機、アルファ的起源も愛だというのです。
(149-150、1986.11.21)


宇宙創造の内容は愛から始まりました。神様を中心として、それに相応的、対応的、平行的位置において、自分の存在軸を中心として、神様と人間の大きな軸を中心に平行的な存在として回りながら、細胞の立場で愛の相対として存在します。


ですから、それは、神様に対して、人間に対して、反対することはできません。このようになるとき、この細胞が反対しますか。反対に感謝するようになります。


ですから、低級なものが最も願うことは何でしょうか。最高級の存在の愛の軸に結びつくことです。それが最高の意志です。ですから、大いなる愛の心情をもって自分を食べてくれることを願うのです。食べるとしても、愛をもって食べるのです。


神様の愛の相対となる立場で、苦しんでいる女性の愛を解放する、その主人の細胞活動に刺激を与える要素として移動し、生きていきたいと思うのです。それを誇ります。


ですから、女性の唇や男性の唇の細胞になりたいと思います。動物の中にいる細胞や、低級な動物たちは、すべてが高い主人の細胞圏、中核に含まれて、神様の愛に連結されたいと思うのです。それが希望です。横的な存在は、このように回りながら縦的な愛の主体である神様にまで連結されています。


男性と女性の生殖器は、神様の愛に連結される中心細胞です。自分のためのものではありません。これを中心として与えたいと思うのです。これを中心として相対圏に立ちたいと思うのです。そのように立ちたいと思う所が、女性にとっては女性ではありません。男性にとっては男性ではありません。


アメリカのホモやレズビアンのような、そのようなものではありません。女性は男性、男性は女性だというのです。女性として、女性を中心として生きるようにはなっていません。妻として男性のために生きなければならないのが女性の道です。


なぜですか。生まれるとき、愛という観念が先にありました。愛の観念がなかったとすれば、雄と雌の観念を設定する必要がありません。鉱物の世界もプラスイオンとマイナスイオンがあり、これが雄と雌と同じです。昆虫の世界も雄と雌になっています。同じです。動物世界も雄と雌になっているのは同じです。


人も男性と女性でしょう? 雄と雌の観念以前に、それが生まれる前に愛という観念があり、愛を中心としてそれが一つになるようになっているのです。それが雄と雌の観念です。


この愛の観念がなかったならば、雄と雌は出てこないのです。どちらが最初かというと、雄と雌が最初ではありません。愛の感性と観念が最初です。実在と観念、哲学において、観念と実在の問題は、世界的な闘争の土台となり、今ではすべてが崩れてしまいました。


愛の概念から生まれた女性は、女性のために生まれたのではありません。男性は男性のために生まれたのではありません。愛のために生まれたのです。ですから、男性の中心思想と女性の中心思想は、すべて愛です。それ以外にはありません。お金ではありません。知識ではありません。
(218-339、1991.8.22)


被造世界には主体と対象があるので、男性と女性がいて、雄と雌がいます。これが主体と対象の関係です。その次に、花には雄しべと雌しべが主体と対象であり、分子世界ではプラスイオンとマイナスイオンが主体と対象であり、原子世界では陽電子と陰電子が主体と対象です。このように、すべてペア・システムになっています。


ですから、あらゆる生存の価値と歴史を受け継いでいくのは愛以外にはありません。男性と女性も愛を通して繁殖します。ほかの存在にも、それなりの愛があります。昆虫も同様であり、植物も同様であり、鉱物も同様です。すべてペア・システムになっています。
なぜこのようにペア・システムになっているのでしょうか。環境には必ず主体と対象があります。なぜ主体と対象があるのでしょうか。愛のためだというのです。それで問題になるものが何かというと、愛が先か、主体と対象が先かということです。女性と男性のために愛が生じたのでしょうか、愛のために女性と男性が生したのでしょうか。愛のために男性と女性が生じたのです。
(227-268、1992.2.14)


神様の真の愛による投入と注入がなければ、宇宙は生まれませんでした。宇宙の存在法則は、主体が対象のために生きることです。しかし、堕落した世界においては、主体が対象のために生きるのではなく、反対に、自分を中心として利用しようとするので滅びるのです。宗教は、まず相手が喜んだのちに自分か喜ぼうとする天理の原則を教育し、実践しなければならないと考えます。
(271-70、1995.8.21)


2.道徳法則

神聖な法や不変の自然法則は、本質的に道徳的である。神聖な法は、宇宙的、倫理的、社会的、法律的次元を一つの原理で結ぶ。したがって、宗教は、事実(自然法則)と価値(道徳法則)の現代的区分を超越して立つ。


人間の人生を主管する道徳法則は、かえって重力法則と同じように絶対的である。宇宙の秩序と人間の人生の秩序は一貫しているため、私達が人生において正しい秩序を確立することは、繁栄と長寿に至る道である。


道徳法則に従えば命を得て天上に至るようになるが、その法を無視すれば衰退し、苦痛と死に至るようになる。経典の中に示された人間の人生の道徳的規範は、律法またはトーラー(ユダヤ教)、法(上座部仏教)、タオ(道教)、ダルマ(ヒンドゥー教)、道徳的秩序(儒教)という名で様々に呼ばれる。
しかし、これらの道徳的規範は、単に人間の本性に内在し、心情の中に刻まれた自然法則、すなわち宗教や社会的状況と関連がないように思われる自然法則的な表現にすぎない。


実際には、文鮮明先生の教えと儒教の経典で確認できるように、道徳法則は、家庭の中で特徴的に最もよく現れている。調和した人間関係を確立することが根本的な原理であり、このような人間関係は利他的な実践行為と人のために生きる人生を通して実現される。


①法則に従う人生

―宗教経典―

主は我々にこれらの掟をすべて行うように命じ、我々の神、主を畏れるようにし、今日あるように、常に幸いに生きるようにしてくださった。
申命記6.24 (キリスト教)


栄える人を識別することは易く、破滅を識別することも易い。理法を愛する人は栄え、理法を嫌う人は敗れる。
スッタニパーダ92(仏教)


神はこよなき美しい教示を、互いに似ている、種々の立場で繰り返し経典として啓示したもうた。主を恐れる者は、それによって膚はおののき震える。そのとき神をたたえ唱念すれば、膚も心もやわらぐ、これが神の導きである。かれは、み心にかなう者を導きたもう。だが神が迷うに任せたもう者には、それを導く者はない。
クルアーン39-23(イスラーム)


一度過ぎた夜は、二度と戻らない。法に従って行わない者たちの夜は、むなしく過ぎていく。
ウッタラッジャーヤー14.24 (ジャイナ教)


主の律法は完全で、魂を生き返らせ、主の定めは真実で、無知な人に知恵を与える。主の命令はまっすぐで、心に喜びを与え、主の戒めは清らかで、目に光を与える。


主への畏れは清く、いつまでも続き、主の裁きはまことで、ことごとく正しい。金にまさり、多くの純金にまさって望ましく、蜜よりも、蜂の巣の滴りよりも甘い。
詩編19.8 ~ 11(キリスト教)


信仰を抱き、不満なく、常に私の教説に従う人々は、行為から解放される。しかし不満を抱き、私の教説に従わない人々、彼らはすべての知識に迷う、破滅した愚者であると知れ。
バガヴァッド・ギーター3.31~32(ヒンドゥー教)


そこで、私のこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲っても、倒れなかった。岩を土台としていたからである。


私のこれらの言葉を聞くだけで行わない者は皆、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家に襲いかかると、倒れて、その倒れ方がひどかった。
マタイによる福音書7.24 ~ 27(キリスト教)


諸仏世尊は大福智を具へて而も荘厳と為し、大慈悲を以て所行の境と為し、……相応の智を以て世の照明を為し、……一切人民常に楽うて承事し、自の楽を遠離し他の苦を息除す。正法を住持し、法を以て主と為し、法の自在を得、法を以て食と為し法を以て薬と為し法を以て施を為し一切皆捨す。


……〔念法清規〕……復次に菩薩諸衆生に於て當に平等にして而も為に説法すべし、法に高下無きを以ての故に、彼我の法に同じく其の心平等なり。法に面従無く而も為に宣説す、法に相當無き……法を時節無く而も為に宣説す、……法を勝者に於て而も為に宣説す、其を劣者に於て為に宣説せざるに非ず……法は諸見を離るる


……法は常に加持する所……法は取著する所無き……法は衆生を厭はず衆生能く法を護る……法は所帰興を求むるに非ず世の帰依と作る……法は怨嫉無し、法は諸結使を離るるを以ての故に、彼我の法に同じく其の心平等なり。


法は輪廻を怖るるに非ず、亦涅槃を楽しまず、法は無分別なるを以ての故に、彼我の法に同じく其の心平等なり。菩薩是の如く正念を積集す、是を念法と為す。
法集経(仏教)


しっかりと基礎がおかれておれば、引き抜かれるものはない。しっかりと抱かれておれば、脱けでるものは何もない。子々孫々祭祀はとだえないだろう。
自己において道を修めれば、徳は本当のものとなり、家族において修めれば、徳はあり余るほどになる。一つの村で修めれば、徳は永続するし、一国において修めれば、徳はたくさんのものとなり、天下において修めれば、徳はすべてをつつみこむものとなる。
道徳経54(道教)


―み言選集―

栄える道は何でしょうか。栄える道は法に従っていくことです。神様が自分の創造目的を成し遂げることのできる法は、神様が保護し、神様が協助してくださるからです。この法に従っていけば栄えることができます。しかし、神様の法に反対してサタン側になるときは、神様が打つので滅びるのです。
(103-275、1979.3.11)


法度に従い、法のとおりに生きる人を何と言いますか。驕慢だと言いますか。そのように生きる人を正直な人と言います。正直というのは「正」の字と「直」の字です。正しくて真っ直ぐだということです。


法というものは何ですか。真っ直ぐなものを立てることです。それでは、善と悪は何によって分けるのでしょうか。法によって分けるのです。驕慢は法度を無視するのです。法度を無視し、位置と環境を無視して行動することを止めなければなりません。驕慢を制御し、謙遜を備えなければならないのです。
(37-130、1970.12.23)


ここにメートル尺があるとしましょう。実際の1メートルはこのくらいなのに、自分勝手に尺を作って「このくらいが1メートルだ」といって測ってはいけません。自分勝手に測ってはいけないというのです。メートル尺は、必ずメートルの原器を中心として製作されたものでなければなりません。
(5-80、1971.11.1)


法廷で一人の殺人強盗に対して、「我が国の憲法何条によって死刑宣告だ」と言えば、気分が良い人がいますか。判定はそのように出ましたが、「こいつ、何だ。私は悪くない、これは何だ」と言うでしょう。皆さん、アメリカならアメリカの憲法を中心として、法廷では赦しを受けられますが、宇宙的なこの憲法を中心として見れば、赦す法があるでしょうか。ありません。


しかし、犠牲になり、奉仕すれば、赦されるのです。このようなときは同情を受けることができ、生きる道があり得るというのです。「悔い改めよ」という言葉があります。イエス様がこの地上で、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言いました。何を悔い改めなさいというのですか。


簡単です。犠牲になり、奉仕すべき道理から外れたすべてのことを悔い改めるのです。キリスト教は、何を悔い改めるのですか。


人のために生きずに自分のために生きるところからすべての罪悪が発生したのです。なぜどろぼうが悪いのですか。自分がやりたくてやったのに、その何が悪いのでしょうか。そこには、その一着の服にも犠牲の代価が含まれていて、奉仕の代価が含まれています。


公的なものが含まれているのです。それをそのままもってきたので罪なのです。「うそをつくのが何の罪なのか。私は気分が良い。騙されているのを見ると無性に気分が良い」、そのように言います。うそをついて何をしようというのですか。自分の利益を得ようとするのです。


原則に背けば、すべて条件に引っ掛かります。また、会いたくないその女性を一人殺害したとします。その会いたくない怨讐を殺害したとして、何の罪なのですか。私も会いたくないと同時に、私の父母、祖父母……。アメリカ人すべてが会いたくないと思っているその人を殺害して、それが何の罪なのですか。


彼も皆さんと同じように、同等にアメリカを代表した人だというのです。アメリカを代表した人なので、そのようにすれば公法を蹂躙することになります。そのようなものをすべて総合して見てみると、何が含まれているのでしょうか。どこに帰結するのかというと、犠牲と奉仕に帰結します。


犠牲になり、奉仕する人を憲法、何法何条の公判にかけるという法が世界のどこにありますか。そのような人を法廷で悪だと罰を与えるそのような法があるかというのです。
この公法は、悪いという公法ですか、良いという公法ですか。その国の大統領がいれば、その人を呼んでその国を代表して表彰して賞を与えるようになります。


それでは、それはいったいどこから始まったものですか。どこからそのような出発が起きたのでしょうか。私を中心とすればよいのに、なぜ全体を中心としてしなさいというのですか。人が私のために犠牲になるようにして、私は犠牲にさせるようにしたならどれほどよいでしょうか。


もしそのような法を立てたとすれば、一つの家に集まって暮らすことができますか。その家はばらばらになります。10 人なら10 人がそのような主張をすれば、10 のかけらになります。また、100 人なら100 のかけら、2億4000 万のアメリカ人がそのような主張をすれば、2億4000 万のかけらになります。


そのような法を定めたならば、物質世界からどのような存在世界にも適用しなければならないという、このような話が成立します。皆さんだけ、人だけがそのようにできるかというのです。目の中にいる一つの細胞が、「私も存在なので、私という存在を中心として、全宇宙が私のために存在しなさい」と言うとき、そのようになってはいけません。


目が、「おい、お前、金なにがし! 屈服しなさい。お前のようなものが自己主張すれば、目である私はお前を嫌う」と言うでしょう。このように自分を主張することが、存在破壊形成の基本になるのです。


ですから、目が「おい、目の細胞、お前も貴いが、私というより公的な存在にお前は吸収されるようになっているのだから、宇宙の公法どおりに従いなさい!」と言えば、「はい」と言うようになっています。より価値のあるもの、それは公的なものです。それはどこでも「はい、はい」と言うことができるのです。このような原則があることを知っているので、不平を言うごことはできません。(105-92 ~ 93、1979.9.30)

②自然法

―宗教経典―

君子の道は(働きが)広くて(その本体が)微なるものである。夫婦の愚でも、あずかり知ることができるが、その全体を尽くすとなると、聖人でさえも知らないことがある。


夫婦の不肖でもよく行なうことができるが、その全体を尽くすとなると、聖人でさえもよくできないことがある。天地の大でも、人はなお恨むことがある。君子は大を語れば、天下にこれを載せるものはない。小を語れば、天下にこれを破るものはない。


『詩経』にいう「鳶は飛んで天に至り、魚は淵に躍る」と。上下に明らかなのは、この理の働きに他ならないことをいうのである。君子の道は、夫婦にその始めを起こす。その全体を尽くすとなれば、天地上下に明らかである。
中庸12(儒教)


君子は中庸を体しており、小人は中庸に反している。君子が中庸であるのは、君子に徳があって、その上、時に応じて中を行なうからである。小人が中庸に反するのは、小人の心をもっていて、その上恐れはばかることがないからである。
中庸2(儒教)


法には二種類ある。自然法と成文法だ。自然法は心に刻まれている法であり、成文法は机の上に置かれている法典である。すべてのものは法、自然法のもとに存在するが、すべてのものがこれに属していないため、自分自らが法自体にならなければならない。彼は自ら戒めを実践し、心に刻まれた法に従って実践する者である……。


私達の本性が善行を教えてくれる師である。どろぼうしてはいけないことを知らない人はいない。それで、僕が物を盗めば罰を与える。誰かが私の妻をむさぼれば、その者は、罰を受けて当然だと考える。今から、人に向けたそのさおを、自分自身にも同じように当ててみなさい。
ミラノのアンブロシウス(注4)(キリスト教)


道の原理は、私達の日常生活の中で、食べて飲む中で、一般的な社会的関係――君臣関係、父子関係、兄弟関係、夫婦関係、友人関係を維持するにおいて、目の前に張られたもののように近いものである。
朱熹(儒教)


―み言選集―

私が願おうと願うまいと、循環運動を通して年を取った人たちは本然の元素に帰り、新しい人たちが生まれ、このように循環しながら発展し、成長するのです。ですから、存在するすべてのものは、自然の循環法則を通して自分の限界内で、各自がそれに従って運動し、作用しながら存続するのです。

太陽系を中心として見てみても、九つの惑星が太陽を中心として回っているのですが、この惑星たちが、「ああ、もう私の好きなようにする」と言うことができるでしょうか。その軌道を外れて自由行動はできないのです。

また、動物や植物も、春になれば、「ああ、私の好きなようにしよう」と言って、成長しないようにすることはできないのです。夏になれば生い茂らなければならず、花を咲かせ、秋になれば実を結ばなければなりません。
(207-61 ~ 62、1990.11.1)


太陽系が一つになって大宇宙で回っているのです。何をセンターにするのかというと、愛です。ですから、家庭では父母を中心として愛で一つになりなさい、国を中心として国を愛する愛国心で一つになりなさい、また世界では聖人が出てきて、愛を中心として全世界人が一つになりなさいと教えるのです。


したがって、愛がセンターとなって回らなければならないのです。真の愛で回りさえすれば、すべてのものはそれに従って自動的に回ろうとするのです。その軸は変わりません。
(146-166、1986.6.15)


自然の中では、春になれば間違いなく花が咲き、夏の季節を経て、秋に実を結びます。そのような自然の法則に従って生きることが天国と通じる近道だということを知っています。
(393-215、2002.10.4)


人倫は情を通して形成されます。家族関係や、道徳観念や、社会制度や、秩序などというものは、すべて情緒的な面です。父母が子女を愛するところから人倫は始まります。そうでしょう? 子女が父母を愛するところから真の人間関係が成立するのです。また、男性が女性を愛し、女性が男性を愛するところから人間関係が結ばれるのです。人倫を形成したのは愛だというのです。(注5)
(64-124、1972.10.29)


今日の法はローマ法を基礎としてつくられたのであり、ローマ法が現在、世界文化の基礎になっていると言えますが、人倫道徳はどこまでも良心を根拠にします。法よりは良心だというのです。
(33-44、1970.8.2)


科学文明の世界を早めたのは、法則を中心とする一つの公式でした。公式は、全体の各分野にどれくらい適用させられるかによって採択の可否が決定されます。私達は、宗教生活をするにおいて、盲目的にしてはいけません。


神様は必ず公式的な法度を通して摂理されるので、その公式を知らなければなりません。統一教会の原理は、過去から現在まで復帰摂理歴史がどのように続いてきたのかをはっきりと教えてくれています。
(16-119、1978.10.22)


3.黄金律

黄金律は、ほぼすべての宗教の経典で発見される。その多くは最も簡潔で普遍的な倫理的原理とみなされる。時として“相互性”と呼ばれたりもする黄金律は、報復をするのではなく、主導的に先に行うことである。


それは、ある無礼な行いに対して、同じ無礼な行いで反応するのではなく、他人に対してまず親切を施し、配慮しなさいと教える。したがって黄金律は、それを実践に移すためには、かなりの道徳的努力を傾けなければならない倫理である。


黄金律の倫理には3種類の次元がある。第1に、「あなたが願わないことを人にしてはいけない」という消極的表現は、私達が人から傷つけられることを願わないように、私達も人を傷つけてはいけないということを教えている。


次に、「人からもてなしてもらいたければ、まず人をもてなしなさい」、または「あなたの隣人をあなたの体のように愛しなさい」という積極的な表現は、私達がほかの人たちの欲求と気分を察し、彼らに慈愛深く対することを求めている。


最後に、文鮮明先生の教えは、黄金律を「ために生きなさい」というそのみ言の根本原理を包含して、その意味を高揚させる。その教えの倫理は、私達に犠牲と奉仕を絶えず促す。それは、縦的な関係の神様とその限りない愛を伝授され、常に利他的に生きていくことを求めている。

 

―宗教経典―

人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。
マタイによる福音書7.12 (キリスト教)


子貢がおたずねしていった、「ひとことだけで一生行なっていけるということがありましょうか。」先生はいわれた、「まあ恕(思いやり)だね。自分の望まないことは人にしむけないことだ。」
論語15.24 (儒教)


自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。(注6)
レビ記19.18 (キリスト教)


自分自身を愛するように兄弟を愛すまでは、誰一人信者ということはできない。
ナワウィー40 のハディース13(イスラーム)


大いに努力して思いやりの真心を他人に推し及ぼしてゆけば、……これこそ、仁を求める一番手近かな方法である。孟子Ⅶ、A.4、(儒教)


自分自身にとって不愉快なやり方で人に対して振る舞ってはならない。これが道徳の本質である。他の全ての行いは利己的な欲望によるものである。マハバーラタ、教訓の巻113.8 (ヒンドゥー教)


幸福である時も、苦痛の中にいる時も、楽しい時も、悲しい時も、一切衆生をあなた自身のように思わなければならず、ほかの存在を傷つけてはならない。ほかの存在を傷つけることは、すなわちあなた自身を傷つけることである。
ヨーガシャーストラ2.20 (ジャイナ教)


かれらもわたくしと同様であり、わたくしもかれらと同様である」と思って、わが身に引きくらべて、生きものを殺してはならぬ。また他人をして殺させてはならぬ。
スッタニパータ705(仏教)


尖った棒切れで幼い鳥を切ろうとする者は、まず自分を切ってどのくらい痛いか感じてみなければならない。
ヨルバ族の格言(アフリカ伝統宗教)


ある異教徒がシャーマイのところに来て言った。「私を伝道してみなさい。私が一方の足で立っているあいだ、あなたが私にトーラを教えるという条件で」。するとシャーマイが手にしていた細い木の枝で彼を退けた。彼がヒレルのところに行くと、ヒレルが言った。「あなたが嫌うことを人にも強要してはいけない。これがトーラの教えです。それ以外のほかのところは、すべて敷衍して説明したものにすぎない。さあ、もう一度行って学びなさい」。
タルムード、シャッバト31a (ユダヤ教)


「我は生を欲し死を欲せず楽を欲し苦を厭ふ。…若し我命を奪ふ者あらば我可愛可意にあらじ。他も生を欲し死を欲せず楽を欲し苦を厭ふに、若し我、その命を奪はば可愛可意にあらじ。我に於て不可愛不可意の法は他に於ても不可愛不可意の法なり。我に於て不可愛不可意の法を我、云何ぞ他に加へんや」と。
サンユッタ・ニカーヤ5.353 (仏教)


あなたの意志の準則が、同時に普遍的立法の原理として妥当たり得るよう行いなさい。
イマヌエル・カント人倫の形而上学


―み言選集―

今日、人倫道徳やこの社会の道徳基準を中心として見るとき原理原則があるのですが、この原理はどのような基準によって成立するのかというと、「私のために生きなさい」というところから成立するのではありません。ために生きようとするところから原則が成立するのです。
(71-125、1974.4.29)


真の人生が行く道とは何でしょうか。一つの公理として立てるべきことはために生きよということです。孔子やイエス様や釈迦牟尼やムハンマドのようなすべての聖者の前に神様が現れて、「あなた方はどう思うか」と言われれば「正しい」と言います。それが宇宙の法則です。それが、人間が人生において真の姿で生きる一つの法だということを知るべきです。
(133-18、1984.7.1)


もてなしてもらおうとすれば、まず人をもてなさなければなりません。私がもてなしてもらってから人をもてなそうと考えてはいけません。「人にもてなしてもらおうとすれば、先にもてなしなさい」と言いました。先にもてなすことが原則です。


統一教会の文先生はどうでしょうか。皆さんをもてなそうとしましたか、そうでなければ私がもてなしてもらおうとしたかというのです。皆さんにもてなしてもらおうとは少しも考えませんでした。人に負債を負ってはいけないというのです。
(50-339、1971.11.8)


真の愛の生活とはどのようなものでしょうか。一言で言えば「ために生きる生活」です。人が自分のために生きてくれることを願う前に、先に人のために生きる生活です。ために生きてあげたことを忘れてしまう生活です。


ために生きであげたからといって、何かを期待する生活ではありません。ために生きてあげても、もっとために生きてあげることができずにもどかしく思う生活です。ために生きても、謙遜に頭を下げてために生きる生活です。それで、イエス様も、「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」と言い、「高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」と言われたのです。
(433-179、2004.1.27)


4.十戒

十戒はユダヤ教とキリスト教の倫理的価値観の土台として広く知られている。しかし、それと類似した倫理的原理の諸項目は、ほかの宗教でも発見される。クルアーンは、イスラームの十戒として命名された数種類の目録の倫理規範を含んでいる。山上の垂訓でイエス様は、この戒めが服従を強要する戒律ではなく、それが心からわき出て生きるようにするための教訓だと語った。


仏教、ヒンドゥー教、ジャイナ教には、出家者と在家者のための十種類の戒律の項目があり、サーマーンヤ・ダルマという五つの普遍的ダルマの目録に圧縮される。


これに比肩するもう一つの戒律は、仏教の八正道である。東洋的視覚にふさわしく、これらの大部分は内的な要素、すなわち自制心と慈悲心の涵養などを含んでいる。儒教は、戒律より関係性に特別な強調点を置いた五つの倫理的関係を強調する。


文鮮明先生は、神様の国を成し遂げるにおいて守るべき三つの戒めを公表した。第1に、純潔を守りなさい。第2に、人の心情を蹂躙してはいけない。第3に、公金を横領してはいけない。この三つの戒めは、特に姦淫、殺人、窃盗に対する十戒と比較することができるが、その中の2番目の戒めは、十戒の内的側面に対するキリストの教えだけでなく、正しい人間関係に対する儒教の教えを反映する心情問題と深く関連している。

 

―宗教経典―

神はこれらすべての言葉を告げられた。「私は主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。あなたには、私をおいてほかに神があってはならない。あなたはいかなる像も造ってはならない。上は天にあり、下は地にあり、また地の下の水の中にある、いかなるものの形も造ってはならない。あなたはそれらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない。

私は主、あなたの神。私は熱情の神である。私を否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問うが、私を愛し、私の戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える。あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。みだりにその名を唱える者を主は罰せずにはおかれない。

安息日を心に留め、これを聖別せよ。六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである。

あなたの父母を敬え。そうすればあなたは、あなたの神、主が与えられる土地に長く生きることができる。殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。隣人に関して偽証してはならない。隣人の家を欲してはならない。隣人の妻、男女の奴隷、牛、ろばなど隣人のものを一切欲してはならない。(注7)
出エジプト記20.1 ~ 17(キリスト教)


言え「さて私は、主があなたがたに対し禁じたもうことを、復唱しよう」かれに何ものでも同位者を配してはならぬ、両親に孝行であれ。困窮することを恐れて、なんじらの子女を殺してはならぬ。われは、なんじらもかれらをも養うものである。


また公けでも隠れても、醜事に近づいてはならぬ。また、神が神聖化された生命を、正義のため以外には殺害してはならぬ。このようにかれは命じたもう、おそらくなんじらは了解するであろう。孤児が成人に達するまでは、最善の管理のためのほか、なんじらはその財産に近づいてはならぬ。


また十分に計量し正しくはかれ。われは何人にもその能力以上のことを負わせぬ。またなんじらが発言するときは、たとえ近親の間柄でも公正であれ、そして神の約束を全うせよ。このようにかれは命じたもう、おそらくなんじらは留意するであろう。まことにこれはわれの正しい道である、それに従え。


他の道に従ってはならぬ、それはかれの道からなんじらを離れ去らせよう。このようにかれは命じたもう、おそらくなんじらは主を畏れるであろう。
クルアーン6.151 ~ 153 (イスラーム)


ノアの子女たちに、七つの戒めが与えられた。社会法(社会正義)、神性冒p、偶像崇拝、姦通、流血、強盗、生きた動物を切った肉を食べることを禁ぜよ。(注8)
タルムード、サンヘドリン56a (ユダヤ教)


あなたがたも聞いているとおり、昔の人は「殺すな。人を殺した者は裁きを受ける」と命じられている。しかし、私は言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に「ばか」と言う者は、最高法院に引き渡され、「愚か者」と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。


あなたがたも聞いているとおり、『姦淫するな』と命じられている。しかし、私は言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。
マタイによる福音書5.21 ~ 22、27 ~ 28(キリスト教)


赦し、謙遜、正直、潔白、定言、自制、耐乏、意欲、無執着、純潔、これら十のことは、在家者たちも当然に遵行すべき本分である。
タットヴァールターディガマスートラ9.6(ジャイナ教)


殺生をしない、ものを盗まない、みだらな行為をしない、嘘をつくこと(妄語)と二枚舌と悪口とへつらいのことばをやめること、貪りと怒りと邪な考えを捨てること、以上が十種の善の行ない(十善業道)であって、その反対が十種の不善の行ないであります。
ナーガールジュナ(龍樹菩薩)宝行王正論8~9(仏教)


不殺生、真実、盗みをしないこと、清浄、感官の抑制――かいつまめば、これらが四身分に共通の正しい生き方(ダルマ)であるとマヌは語った。(注9)
マヌ法典10.63 (ヒンドゥー教)


苦滅道聖諦とは何か。これこそが聖なる八支の道です。すなわち、正見・正思惟・正語・正業・正命・正精進・正念・正定です。では、苦についでの智、苦の生起についての智、苦の滅尽にいたる道についての智があります。これが正見と言われます。


また、正思惟とは何か。欲を離れた思惟、怒りのない思惟、害意のない思惟です。これが正思惟と言われます。また、正語とな何か。妄語から離れること、両舌から離れること、悪口から離れること、綺語から離れることです。これが正語と言われます。


また正業とは何か。殺生から離れること、偸盗から離れること、邪淫から離れることです。これが正業と言われます。正命とは何かよ聖なる弟子、邪な生活を捨て、正しい生活によって生活を営みます。これが正命と言われます。


正精進とは何か。比丘は未だ生じていないもろもろの悪しき不善の法が生じないように、意欲を起し、努力し、精進し、心を励まし、勤めます。すでに生じているもろもろの悪しき不善の法が捨断されるように、未だ生じていないもろもろの善の法が生じるように、すでに生じているもろもろの善の法が存続し、消失せず、増大し、拡大し、修習が成就するように、これが正精進と言われます。


正念とは何か。比丘は身において身を観つづけ、もろもろの受において受を観つづけ、心において心を観つづけ、もろもろの法において法を観つづけ、世界における貪欲と憂いを除いて住みます。これが正念と言われます。


正定とは何か。比丘はもろもろの欲を確かに離れ、もろもろの不善の法を離れ、大まかな考察のある、細かな考察のある、遠離から生じる喜びと楽のある、第一の禅に達して住みます。大まかな考察・細かな考察のない、心の安定より生じる喜びと楽のある、第二の禅に達して住みます。喜びが消えていることから、第三の禅に達して住みます。……第四の禅に達して住みます。これが正定と言われます。
マッジマ・ニカーヤ(中阿含経) 3.251 ~ 252 八正道(仏教)


天下の(常に行われて百王も変えないところの)達道は五つ。これを行うためのものが三つ。それは君臣であり父子であり夫婦であり兄弟であり、朋友の交わりである。この五つのものは天下の(人間に常に行われる道理で、それによって物事が開通する)遠道である。
中庸20.79 (儒教)


―み言選集―

今までこの地上に聖賢、あるいは賢哲たちが出てきて、人生の行く道を教えてくれました。「このように行きなさい」、あるいは「このようなことを注意して生きなさい」と言いながら、ある方向性を立ててくれたりもしました。……


それで、堕落の人生の道を歩んでいるかわいそうな人間たちに、大勢の聖賢たちは、三綱五倫(注10)などで人類を教育し、モーセは十戒を紹介したのであり、さらには、大勢の道人たちもそのような一面を開拓するために苦労してきたことは間違いないというのです。(7-16 ~ 24、1959.7.5)


今から守るべき鉄則が三つあります。第1に、死ぬほどのことがあったとしても血統を汚すなということです。今から、祝福を受けた血統は、神様の血代であり、神様の愛と生命を受け継いだものなので、今までの堕落世界に染まった習慣的な行動で汚してはなりません。それを守ることができますか。夫婦になっている人も、配偶者がいなければ一人ででもいいので、完全に血統を汚さないという人は、目を閉じて決意し、神様だけを見つめて力いっぱい手を挙げて誓いましょう。


第2に、人事措置を間違えて、人権を蹂躙するなということです。男性であれ女性であれ、黒人であれ白人であれ、平等です。人権を差別したり、人権を蹂躙したりするなということです。人権を正しく指導するにおいては、真の愛、「ため」に生きる愛をもって暮らす人が主流です。天地創造は、そこから始まりました。その主流思想を乱すことは許されません。罪の中で2番目の罪です。


第3に、公金を盗むな、公金を自分勝手に使うなということです。働きもせずに、規則も守らずに良い所で寝ようとすることはみな公金略取です。公的な環境を破壊するのです。国家財産の略取と同様に恐ろしいのです。そのように生きる人は、いくらうまくやろうとしてもうまくいきません。そのように生きてみてください。いくら神様の前に祈祷しても、伝道できません。


以上の三つです。監獄に入ってみると、そこにいる人の70 パーセント以上が、これらのことゆえに監獄にいるのです。人権を蹂躙し、血統を汚し、男女問題に引っ掛かっています。それから、金銭問題、権力問題です。お金と知識と権力が怨讐だったというのです。

1番目が何ですか。純潔であれ! 2番目は? 人権を蹂躙するな! 3番目は? 公金を略取するな! きょうのこの記念日に天の国の王権を維持し、皆さんが王権の前に民となり、父母となり、妻子となり、兄弟となるためには、これが絶対に必要です。


それゆえに、兄を無視することはできません。弟の体が不自由だからといって、無視することはできません。親戚を無視することはできません。世の中は、みな無視するでしょう。知識があるといって、大学を出た人だといって、高卒の人を無視してしまいます。それは、人権蹂躙になります。


では、どのようにしなければなりませんか。どのように生きていきますか。正しく生きなければならないでしょう。正しく生きるにおいて、一人で暮らすことを正しく生きるといいますか。一緒に暮らさなければなりませんが、正しく生きるということの中には何が入りますか。


神様の公式法度として立てられたものの中で、どのような環境、どのような人たちと共に暮らせば、正しく生きることになるのかというのです。簡単です。それも三つです。父子関係、夫婦関係、兄弟関係です。兄弟関係は夫婦の前では子女になります。


子女関係を兄弟関係といってもかまいません。彼らと一つになって正しく生きなければなりません。正しく生きるためには、正しく生きることができるように指導しなければなりません。お互いが手本になってこそ、それが正しく生きることになるのです。手本になっていなければ、正しく生きていないのです。


父母の前に、夫婦の前に、子女の前に手本となれるように暮らせば、それが正しく生きることなのです。そのように正しく生きればどのようになりますか。


天の国の王がいて、地上の王がいれば、その王たちが正しく生きている家庭を訪問する日が来ます。毎年、年の初めに、その国で最も正しく生きている家庭を訪問して表彰する時が来るというのです。


今から、逆賊として追われて死ぬようなことがあったとしても、この法を守って生きれば、間違いなく天の国の皇族圏となって、どこででも自由、統一、解放の家庭になります。きょう、これを肝に銘じてくださるようお願いします。これを標語として定めるのです。

3000 年標語の中で、みな純潔血統、それから、人権平準化、それから、国家の公的財産略取……。それから何ですか。父子間において、夫婦間において、子女間において手本になろうというのです。兄弟といってもいいです。先に兄弟がすることは、その生活を子女たちが見習うのです。そうではないですか。


自分の親戚、親族がみな正しく暮らせば、息子、娘が見習うようになっています。そうしてこそ、手本になります。町内中がみな、「あの人に従っていかなければならない」と言い、「あの人のように暮らしたい」と言えば、その人は、間違いなく天国の民となり、天の国に記憶され得る人になります。


きょう、神様の王権即位式において最も重要な3大鉄則を話しました。それは、私達人間が公人として必ず守るべき、家庭にあっても、国にあっても引っ掛かることのない指針です。この日に、十分に覚えておくに値する内容であることを肝に銘じて、生涯の標的としてくださるようお願いします。
(324-298 ~ 306、2001.1.13)


夫婦が堕落しては絶対にいけません。堕落すれば大変なことになります。その次に、人を愛しなさいというのです。その次に、公金を重要視しなさいというのです。心情問題、人間問題、万物問題、この三つが重要なのです。


天の国の憲法を制定したとしても、心情問題が第一条に該当します。その次に人間問題、愛の人間がいなければならないので、人間問題を重要視するのです。男性と女性の問題、祖父母、父母、自分たちの問題、その次に兄弟問題と隣人、親戚間の問題、社会問題などはすべて人間問題です。人間を愛さなければなりません。
(169-217、198710.31)

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世界経典-7

2020年10月06日 18時50分29秒 | 学習

②因果の連鎖

―宗教経典―

世間は行為によって存在し、人々は行為によって存在する。生きとし生ける者は業(行為)に縛せられている。あたかも進み行く車が轄に結ばれているようなものである。
スッタニパーダ654 (仏教)


あるとき、悟りを開かれたばかりの世尊はウルヴェーラー村のネーランジャッラー河畔の菩提樹の根方におられた。さてそのとき、世尊は七日間同じ姿勢で坐ったまま解脱の楽しみに浸っておられた。


その七日が過ぎて、世尊はこの三昧から出られ、宵のうちに、次のような順序を追って、正しく縁起に心を注がれた。これがあるときこれがある。これが生ずるときこれがある。すなわち、無明(無知)によって行(迷いの生活行為)があり、行によって識(心)があり、識によって名色(個体を成す心身)があり、名色によって六処(内なる心と外界を知覚する六つの領域)があり、六処によって、触(内なる心と外界との接触)があり、触によって受(心による外界の感受)があり、受によって愛(渇きのごとき強い欲望)があり、愛によって取(執着)があり、取によって有(迷いの生存)があり、有によって出(出生)があり、生によって老い・憂い・悲しみ・悩み・悶えが生ずる。この苦の集まりである人間存在はそのようにして起こるのである。(注22)
感興偈1.1(偈仏教)


人間はその生命のはたらきを天地の根源より受けたのであるから、その霊妙な働きにたちかえって生きなければならない。
荘子27(道教)


見よ、私はすぐに来る。私は、報いを携えて来て、それぞれの行いに応じて報いる。私はアルファであり、オメガである。最初の者にして、最後の者。初めであり、終わりである。
ヨハネの黙示録22、12 ~ 13(キリスト教)


一み言選集―

物事には原因と結果があり、結果は過程を通過するので、原因と結果は一つになります。一致するには、過程という条件が必要です。過程という条件は、原因に通じなければならず、結果に応じなければなりません。そのような関係を離れては一つになることはできず、目的完成もできないのです。出発点がなければ目的もありません。
(15-130、1965.10.3)


本質世界と現象世界との関係は、例えていうならば、心と体との関係に等しく、原因的なものと結果的なもの、内的なものと外的なもの、そして、主体的なものと対象的なものとの関係をもっているのである。
原理講論、総序


どこに行かなければなりませんか。いつも喜べる所、あるいはいつも喜べる方を訪ねていかなければなりません。この方が絶対者である神様なのです。神様は、動機の世界と結果の世界にいらっしゃいます。すなわち原因と結果としていらっしゃるのです。ですから、アルファでありオメガだと言ったのです。


人間が原因と結果の過程にいることを知れば、神様と人間の関係を知るようになります。歴史は、原因の世界から結果の世界に向かっています。ですから、人間の良心はこの過程の道を進んでいるのですが、歴史の流れが早いので、これについていこうとする良心は2倍に忙しいのです。


動機は神様がなり、人間を結果として立てなければなりません。堕落しなければ、人間が歴史の原因になっていたでしょう。ですから、原因をもてなかったことが堕落です。
(11-114、1961.2.19)


主体と対象は一つにならなければなりません。原因と結果も必ず一つにならなければなりません。聖書を見れば、神様が「私はアルパであり、オメガである。最初の者であり、最後の者である。初めであり、終りである」(黙示録22・13)と言いました。


二つが離れるのですか。一つになるのです。神様がアルファであれば、私達人間はオメガです。神様が最初の者であれば、私達は最後の者です。神様が初めであれば、私達は終わりです。
(69-76、1973.10.20)


誰であっても、根本を否定する人は結果をもてません。すべての息子、娘の根本は父ですが、その父を否定すれば、結果である息子、娘をもてません。これは論理的です。原因と結果が一つになることによって、理想や喜びのようなものがあり得ます。女性が母になる原因も自分自身にあるのではありません。
(328-185、2000.8.3)


男性を通して女性世界を1周回って、二人が一つになります。二人がぐるっと1周回れば、出会います。出会えば、上がっていかなければなりません。同様に、女性と男性が出会って、互いにために生きなければなりません。男性と女性が結婚し、1周回って出会い、神様のために犠牲になるのです。そこから正分合です。愛のために分かれて、愛のために出会ったので、愛のために原因と結果が一つにならなければなりません。原因と結果の内容が一つになったところにすべて結びついて、初めて種になります。授受作用の循環的法度を通さなければ、統一世界はできません。
(389-303、2002.8.7)


第3章 人生の目的

1.神様の完全な喜びのために

被造物として人間は、創造主によってある目的をもって創造された。特に唯一神の諸宗教において、神様が自らに仕え、愛し、自らに栄光を返すために人間を創造したと理解する。


そうだとすれば、人間は仕えることと服従することだけでも完成することができる。しかし、神様は父として、私達人間が世の中で全人類に愛と慈悲を広く展開することによって、その形状と姿に似た子女になることを願うだろう。


いくつかの経典でも、神様はあらゆる現象を享有する方として描写されている。神様は、創造目的が完成されたとき喜ぶだろう。神様にそのような喜びを返してあげなければならないのが私達人間の特権である。
文鮮明先生は、創造性を備えた相対として人間を造られた神様の創造目的を説明しながら、私達人間が神様の愛に満ちた家庭を成し、互いに愛で万物と一つになるとき、神様は自らの分身として愛の本性に似た多くの子女たちを見て喜びを享受すると教える。


ところが、人類始祖の堕落によって、人々は愛が満ちた家庭を築くことができなかっただけでなく、愛によって万物を主管することもできなくなった。したがって神様は、今まで満ち足りた喜びを享受できずにいらっしゃる。(第6 章13「神様の悲しみ」参照)


①人生の目的は神様に仕えること

―宗教経典―

私に仕えさせるためにのみ、ジンと人間をつくったのである。私はかれらにどんな糧も求めず、また私の扶養されることも求めない。まことに神こそは、糧を授けたもう方、偉力の主、堅忍の主であられる。
クルアーン51.56 ~ 58(イスラーム)


神が御自身の世を造られるとき、ひとえに御自身の栄光のために創造された。それゆえ預言者イザヤはこのように歌った。「彼らは私の民だと呼ばれる者たち、私の栄光を輝かせようと私が創造した私の民、私の手で造り出した私の民である。」
ミシュナ、アヴォート6.11(ユダヤ教)


私達にとっては、唯一の神、父である神がおられ、万物はこの神から出、私達はこの神へ帰って行くのです。
コリントの信徒への手紙一8.6 (キリスト教)

神は、男の信者も女の信者も、……永遠(エデン)の園の中の立派なやかた、そこに住むことを約束したもうた。だが最も偉大なものは、神のご満悦である。それこそは、至上の幸福の成就である。
クルアーン9.72 (イスラーム)


神を畏れ、かれのおよろこびを求めて、その家の礎を定め建てる者と、砕け崩れそうながけのふちに、その家の礎を定めて建て、地獄の火の中に共に砕け落ちる者と、いずれがすぐれているか。神は、不義を行う民を導きたまわぬ。
クルアーン9.109 (イスラーム)


私が今日命じるとおり、あなたの神、主を愛し、その道に従って歩み、その戒めと掟と法を守るならば、あなたは命を得、かつ増える。あなたの神、主は、あなたが入って行って得る土地で、あなたを祝福される。
申命記30.16 (キリスト教)


人が至上のものとする知恵や作為の道をひろめることなく、天において至上とされるもの――自然の道をひろめなければならない。天の道をひろめれば自然の幸福が生まれるが、人の道をひろめれば、危害が生まれる。
荘子19(道教)


もし人々が神を知り、その方の能力の偉大さを発見することがあなたの願いならば、私ではない誰か他の人の目ではなく、私自身の目で私を見よ。そうでなければ、たとえあなたが私の王国が持続する間、私の動機を慎重に考えるとしても、あなたは決して私を知ることはできない。
バハオラ落穂集127(バハイ教)


―み言選集―

本来、人間は、父母である神様の前で、幸福で生気に満ちあふれた喜びの中で生きていくように創造されました。そして、神様の栄光のために存在するように創造されました。
(52-36、1971.12.12)


人間は何を目的としなければならないのでしょうか。個人を目的とすることより、家庭を目的とすることより、団体を目的とすることより、国家を目的とすることより、世界を目的とすることより、天地を目的とすることより、神様を中心として神様と人間が一つになることを目的として進んでいかなければならないのです。
(41-323、1971.2.18)


私達は何を中心として生まれ、何を中心として行かなければならず、何を目的として行かなければならないのでしょうか。ここで、神様抜きにしては絶対にいけません。神様を抜きにしては動機のない因縁になるのです。動機をもつことができない人は、どんなことを成就しようとしても、その結果を収めることができず、価値を認めてもらえないのです。


ある建物を建てるときは、設計者が設計した設計図に従って建築するようになります。設計の原本もなく建てられた建築物は、設計者が目的とした建物になることはできないのです。
(21-100、1968.11.17)


先生の生活は、神様のために生きる生活です。神様とこの世界のために生きると考えなければなりません。自分のために生きると考えてはいけないというのです。


その次には、人類のために生きると考えなければなりません。神様と真の父母と人類です。それで皆さんは、神様と真の父母と人類を考えなければなりません。今まで皆さんが、どれほど天が願う生活と一致したかということを、常に比較しなければならないのです。(147-115、1986.831)


②人間を見て喜ばれる神様

―宗教経典―

神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。
創世記1.31 (キリスト教)


私は隠された宝ゆえに、私を知らせるために被造物を創造したのである。
ハディース(イスラーム)


萬有の主よ汝に南無す。汝は凡ての自我にして凡ての作者たり。汝は凡ての食者(経験者)にして、凡ての生命なり、而して又汝は凡ての戯楽主たり。
マイトリ・ウパニシャッド5.1 (ヒンドゥー教)


幸福は真理と愛から生じる霊的なものである。それは利己的ではない。それで、それはひとつで存在することはできず、あらゆる人間がそれを一緒に分かち合うことを要求する。
科学と健康57(クリスチャン・サイエンス)


若者がおとめをめとるように、あなたを再建される方があなたをめとり、花婿が花嫁を喜びとするように、あなたの神はあなたを喜びとされる。
イザヤ書62.5 (キリスト教)


せかいぢうみな一れつハすみきりて
よふきづくめにくらす事なら
月日にもたしか心がいさむなら
にんけんなるもみなをなし事
このよふのせかいの心いさむなら
月日にんけんをなじ事やで
おふでさき7.109 ~ 111(天理教)


そのあなたが御心に留めてくださるとは、人間は何ものなのでしょう。人の子は何ものなのでしょう。あなたが顧みてくださるとは。神に僅かに劣るものとして人を造り、なお、栄光と威光を冠としていただかせ
詩編8.5 ~ 6(キリスト教)

 

(あらゆる欲望を達せるものなるブラフマンには、いかなる行動目的も存し得ず。)しかるに(ブラフマンの世界創造は、)単に遊戯のみにすぎず。あたかも世間において(見らるる遊戯)のごとし。(故に特定の目的を有せず)
ヴェーダーンタ・ストラ2.1.32 ~ 33(ヒンドゥー教)


われは天と地、ならびにその間にあるものを、戯れにつくったのではない。もし遊戯が、われの望みならば、きっとわが手近なものからそれを選んだであろう。


もしわれがこんなことをするならば。いや、われは真理を虚偽に投げつけて、その頭脳を砕く、見よ、虚偽は消滅する。……天と地のよろずのものは、かれの有(もの)である。またその側近にある天使は、かれに仕えて高慢でもなく、疲れることもない。
クルアーン21.16 ~ 19(イスラーム)

 

神はこの世とそこに住み動くあらゆるものを創造し、神の拘束されない卓越した御意により人間に神を知り愛する独特の特異性と能力――全創造の基礎をなす発生進力、また主なる目的と見なされるべき能力――を与え給うた。


すべての創造物の内奥の各実在に、神はその諸々の名の中のある一つの名の光を注ぎ、神の諸々の属性のうちのある一つの属性の栄光を受け入れるものとなし給うた。
バハオラ落穂集27(バハイ教)


アッラーの預言者が言った。「神様がおっしゃるには、私が勝利者になるためではなく、勝利しなさいとして人間を創造した。
アル・ガザーリー宗教諸学の再興(イスラーム)


―み言選集―

神様は、私の生活を通して喜びを味わおうとして、私を訪ねられた。御旨の道、人格神様がいかに絶対者だとしても、独りでは幸福になることができません。「うれしい」という言葉や「幸福だ」という言葉は、独りでは成立しない言葉です。必ず相対的関係を備えた所で成立するのです。


一生を声楽家として生きてきた人でも、もし無人島に捨てられ、独りで喉が張り裂けるほど歌を歌ったとしても、幸福でしょうか。自存される神様も、喜び、幸福であるためには、必ず授け受けできる愛の相対が必要なのです。
平和神経、平和メッセージ1.15、2005.9.12


神様は、真の愛を施すことのできる対象を必要としていらっしゃいました。これが創造の動機です。神様の創造は必然でした。真の愛の創造理想は独りで成す理想ではありません。御自身の気高く、善のみ旨を人間と共に喜ばれるための理想です。
真の愛の神様を正しく理解すれば、今日の罪を犯して争う不幸なこの世界は、神様の本来の計画ではなかったことが自明のものとなります。
(400-81、2002.12.27)


家庭には必ず、父母がいなければならず、妻子がいなければなりません。そうであってこそ、その家庭が幸福の基台となるのです。神様が人類を探し求めてきた目的も、神様御自身の幸福を模索するためであったに違いありません。


ですから、神様御自身が幸福の基台を求めてくるにおいて、人間を離れたところではそのような理想はあり得ないのです。人間と関係を結んでこそ、一致点をもたらすことができるのです。私達が家庭において、情緒的な内容をすべて備えた立場で幸福を感じるのと同じように、神様もやはりそのような立場で幸福を感じようとなさるのです。
(32-197、1970.715)


神様に「あなたがこの世界を一つの世界にして何をするのですか。何をしようとそのような世界を願われるのですか」と尋ねれば、「ああ、一つの世界になれば喜ばしいので良いのだ」とおっしゃるでしょう。


なぜ良いのですか。良くて何をするのですか。良いのは喜ぶためですが、喜んで何をするのですか。神様はお金がなくて悲しまれますか。神様は知識がなくて悲しまれますか。神様は権力がなくて悲しまれますか。神様がお喜びになれないものが一つあるのですが、それが正に愛がないことです。愛がなくて悲しまれるのです。


神様と人と万物を一つにできる愛さえもてば、神様は喜びの神様になるのであり、栄光の神様になるのであり、さらには、幸福の神様になれるということです。ですから、最も重要なものとは何ですか。神様の心情と人間の心情を通して万物までも吸収できる愛の力をもったものが、最も貴いのです。
(113-315 ~ 316、1981.5.10)


神様は、人間を造られるとき、あらゆる精誠をすべて尽くされ、また心血と御自身の生命の核心をすべて傾けて造られたのであり、ありったけの愛と愛情を注がれて造られたのです。


いかなる力をもってしても、離そうとしても離すことができず、分かれようとしても分かれることができない因縁の中で造られたのです。このように造られた人間なので、そのような人間を見つめられる神様には、初めて平和が宿るのであり、すべての情と幸福は、その人間を通してのみ宿ることができるのです。
(20-207、1968.6.9)


神様は、天地万物を、見て喜ぶためにつくられました。今日の既成教会員たちが言うには、「神様は創造主であられ、私達人間は被造物だが、創造主と被造物が同じになり得るか。違うだろう」と言います。それは正に、神様は常に独りで絶対的な位置、相対がない位置にいなければならないという話です。


それ以上の不幸はありません。いくら父が国の大統領の権限をもったとしても、母が死んで一人で暮らしているのに、「一人で暮らしているのでどれほどお幸せですか」と言う息子がいれば、「こいつ、何か幸せだ!」と言うでしょう。


そのような状況なのに、父が世界的な大統領だからといって、「お父さん、幸せでしょう?」と言えば、「おお、おお、幸せだ」、そのようになっていますか。孝子であれば、一人でいる父に、「お父さん! 私が母を一人お連れしましょうか」と言ってこそ孝子です。
(57-247、1972.6.4)


神が被造世界を創造なさった目的は、人間をはじめ、すべての被造物が、神を中心として四位基台を完成し、三大祝福のみ言を成就して、天国をつくることにより、善の目的が完成されたのを見て、喜び、楽しまれるところにあったのである。それゆえに、人間を中心とする被造世界が存在する目的は、神を喜ばせることであった。
原理講論、創造原理3.1

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