④人間の本然の価値具現
―宗教経典―
神のみもとで最も尊い者は、なんじらのうち最も主を畏れる者である。
クルアーン49.13 (イスラーム)
螺髪を結っているからバラモンなのではない。氏姓によってバラモンなのでもない。生れによってバラモンなのでもない。真実と理法とをまもる人は、安楽である。かれこそ(真の)バラモンなのである。
法句経393 (仏教)
彼の行為が彼を低くすれば、彼の家門は繁栄できない。
ナフジユ・アル・バラーガ語録21(イスラーム)
四つの階級で、ブラフミン、クシャトリア、バイシャ、スードラがあり、人生には4段階がある。しかし、彼らの中で主に瞑想する者は、誰もが気高い者だという。
アーディ・グラント、ガウンド、M.4 p.861 (シーク教)
正しいさとりを開き、念いに耽り、瞑想に専中している心ある人々は世間から離れた静けさを楽しむ。神々でさえもかれらを羨む。
法句経181(仏教)
良い評判を得る道は、その人が見えることを願うその人になるように努力することです。
ソクラテス(ヘレニズム)
―み言選集―
愛を中心として人間の価値を究明しなければならないことを、皆さんは知らなければなりません。
(99-63、1978.7.23)
人間の貴重な価値を満点にすることは、真の愛と一体となる時に可能です。心身一体は、良心と肉身が共鳴圏に立っていることを意味します。音叉の周波数が同じとき、一つをチンとたたけば、その反対の音叉が響きます。
それと同じように、真の愛によって良心をたたけば、肉身が響きます。真の愛で肉身をチンとたたけば、良心が共鳴圏をつくるようになるのです。そこには、教育が必要ありません。そのど真ん中に入っていけば、教えなければならないすべてのことを知るようになるというのです。
(223-356 ~ 357、1991.11.20)
アダムとエバが堕落していなければ、彼らの体は心が行く道に反対せず、従っていくようになっていたでしょう。体が心に絶対的に服従していたのです。
そのようになれなかったために、今日の人類も神様の真の愛に至ることができず、実質的な人間の価値を失ってしまうようになったのです。それをはっきりと知らなければなりません。
いかなる困難があったとしても、心と体を一つに
しなければなりません。そこから神様の愛が連結されるのです。そのようにしなければ天国に入っていくことができません。
(399-153、2002.12.22)
堕落した人間の最後の目的は、神様が本来の創造目的として下さった自我の自主性、尊厳性、および価値性を回復することである。
御旨の道、人格
6.良心と、もって生まれた善
良心は、私達が善を行うように促し、悪を行おうとする性向を防ぐ内面の神的光彩である。仏教はこの機能を「悟りを得る心」または「仏性」と表現するが、それは知恵の目を通して明らかにされ得る。
儒教はそれを仁とみなすが、広く知られた孟子の比喩によれば、これは井戸に溺れかかった子供を保護しようとする哀れみの心の発露を意味する。
またイスラームは、人間の心を本来、正直なものとみなし、使徒パウロは、良心が全く宗数的な教えを受けることができなかった人々さえも、正誤を区別できるようにしてくれるものだと言った。
良心は積極的に作用し、自己の向上とより良い社会のための理想を追求し鼓舞する。良心はまた消極的に作用し、私達が利己的な行動をしたり、人を傷つける行動をするとき、とがめ、教え諭したりもする。
これと関連し、文鮮明先生は、良心を父母より私達をもっとよく知る「宝のような師」と言う。良心は神様が贈ったものであり、私達に自己の向上を可能にさせ、究極的に神様が意図していた私達自身の完全な目的を実現できるようにする。
しかし、それは肉身の自己中心的欲望と絶えず闘わなければならない。私達は、日常生活においてゆがんだ良心を示すこともあるが、それは良心
が本性的に天賦的なものだとしても、後天的な訓育と教育が良心の判断に重大な影響を与えることができるからである。
正誤に対する誤った判断によって良心を洗脳することは、実に人間の霊魂に対する最悪の冒pである。良心には様々な次元がある。良心の表面にある次元は相対的で、ある人の真理概念を固守する。しかし、より深い次元には本心があり、それは絶対的な神様と関係を維持する。
したがって、堂々とした心でキリスト教徒たちを迫害していたタルソスのサウロのような人に、より高次的な真理の洞察が起きたのであり、人生の
方向を変えて使徒パウロになることができた。良心の根に神聖な本質があるので、すべての人間は結局、救援されるというのは、文鮮明先生の楽観的見解の基盤となるのである。
①善に基づく本心と心情
―宗教経典―
たとえ律法を持たない異邦人も、律法の命じるところを自然に行えば、律法を持たなくとも、自分自身が律法なのです。こういう人々は、律法の要求する事柄がその心に記されていることを示しています。
彼らの良心もこれを証ししており、また心の思いも、互いに責めたり弁明し合って、同じことを示しています。そのことは、神が、私の福音の告げるとおり、人々の隠れた事柄をキリスト・イエスを通して裁かれる日に、明らかになるでしょう。(注11)
ローマの信徒への手紙2.14 ~ 16(キリスト教)
温良は仁の根本なり
礼記38.18(儒教)
真の宗教とは、究極的に人間の霊性に基づぐ徳行である。
クンダクンダプラヴァチャナサーラ7(ジャイナ教)
実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。(注12)
ルカによる福音書17.21 (キリスト教)
ワービサ・イブン・マアバドが言った。「お前は高潔さについて訊ねるためにやって来たのかね」私は「はい、そのとおりです」と答えた。すると預言者は言われた。「自分の心に訊ねてみるがよい。高潔さとは魂が満ち足り、心も満足を覚えるようなものだ。だが悪行は魂にしみつき、他人が繰り返し『お前が法的に正しい』と言ってくれても、胸騒ぎを覚えさせずにはいない」。
ナワウィー40 のハディース27(イスラーム)
もし言下に自己の本心がわかり、自己の本姓を見届けるならば、そのまま丈夫、天人師、仏と呼ばれる。
六祖壇経1(仏教)
あなたの体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、濁っていれば、体も暗い。だから、あなたの中にある光が消えていないか調べなさい。あなたの全身が明るく、少しも暗いところがなければ、ちょうど、ともし火がその輝きであなたを照らすときのように、全身は輝いている。
ルカによる福音書11.34 ~ 36(キリスト教)
神の栄光は高遠なり。唯一真実の神が御自身を人間に現わし給う目的はここにある。つまり、人間の最も奥にある真の自己の鉱山に潜む宝石をあらわにするためである。
バハオラ落穂集132 (バハイ教)
一切衆生悉く仏性あり。即ち是我の義なり。是の如きの我の義や、本よりこの方、常に無量の煩悩に覆はる。是の故に衆生は、見ることを得る能はず。善男子、貧女人の、舎内に、多くの真金の蔵有るが如し。家人大小、知るもの有ること無し。時に異人有りて、善く方便を知り、貧女人に語る、「我今汝を雇はん、汝我が為に草穢を除すべし」女即ち答へて言はく、「我能はず、汝若し能く我が子に金蔵を示さば然して後乃ち當に速やかに汝の為に作すべし」是の人復言ふ、「我は方便を知る。能く汝が子に示さん」女人答へて言ふ、「我が家の大小も、尚自ら知らず、況や汝能く知らんや。」是の人復言ふ、「我今審らかに能くす。」女人答へて言はく、「我も亦見んと欲す、井に我に示すべし。」是の人即ち其の家に於て、真金の蔵を掘出す。女人見終りて、心に歓喜を生じ、奇特の想を生じ、是の人を宗仰す。善男子、衆生の仏性も、亦復是の如し。一切衆生は、見るを得ること能はず。
彼の宝蔵を、貧人の知らざるが如し。善男子、我が今普く一切衆生に、所有の仏性が、諸の煩悩に覆蔽せらるるを示すは、彼の貧人の、真金蔵有れども、見るを得ること能はざるが如し。如来は、今日、普く衆生に諸の覚宝蔵を示す。所謂仏性なり。
大般涅槃経214 ~ 215、隠れた宝の喩え(仏教)
孟子がいわれた。「人間なら誰でもあわれみの心はあるものだ。むかしの聖人ともいわれる先王(せんのう)はもちろんこの心があったからこそ、自然に温かい血の通った政治(仁政)が行なわれたのだ。
今もしこのあわれみの心で温かい血の通った政治を行なうならば、天下を治めることは珠でも手のひらにのせてころがすように、いともたやすいことだ。では、誰にでもこのあわれみの心はあるものだとどうして分るのかと言えば、その理由(わけ)はこうだ。
たとえば、ヨチヨチ歩く幼な子が今にも井戸に落ち込みそうなのを見かければ、誰しも思わず知らずハッとしてかけつけて助けようとする。これは可愛想だ、助けてやろうととっさにすることで、もちろんこれを縁故にその子の親と近づきになろうとか、村人や友達からほめてもらおうとかのためではなく、また、見殺しにしたら非難されるからと恐れてのためでもない。
してみれば、あわれみの心がないものは、人間ではない。悪をはじ、にくむ心のないものは、人間ではない。譲りあう心のないものは、人間ではない。善し悪しを見わける心のないものは、人間ではない。
あわれみの心は仁の芽生えであり、悪をはじ憎む心は義の芽生えであり、譲りあう心は礼の芽生えであり、善し悪しを見わける心は智の芽生えである。人間にこの四つ(仁義礼智)の芽生えがあるのは、ちょうど四本の手足と同じように、生まれながらに具(そな)わっているものなのだ。
それなのに、自分にはとても……そんな立派なことはできそうにないとあきらめるのは、自分を見くびるというものである。またうちの殿様はとても仁政などとは思いもよらぬと勧めようとしないのは、君主を見くびった失礼な話である。
だから人間たるもの、生れるときから自分に具わっているこの四つの芽生えを育てあげて、立派なものにしたいものだと自ら覚(さと)りさえすれば、ちょうど火が燃えつき、泉が湧きだすように始めはごく小さいが、やがていくらでも大きくなるものだ。このように育てて大きくしていけば、遂には〔その徳は〕天下をも安らかに治めるほどにもなるものだが、もしも育てて大きくしていかなければ、手近な親孝行ひとつさえも満足にはできはすまい。」(注13)
孟子Ⅱ.A.6 (儒教)
―み言選集―
人間の良心は神様を代表する心です。良心は私のために存在しません。天の義のために存在します。良心は常に善に向かって走ろうとします。
(219-118、1991.8.28)
釈迦も天を教えてくれました。すべての存在は仏心をもっていると言いましたが、その仏心とは何ですか。それは純粋な本然の心を意味します。
(33-45、1970.8.2)
「心の本源地は神様だ。神様の心に従って動こうとすることが、その対象的な位置にいる私だ」という、このような評価をしなければなりません。
(162-40、1987.3.22)
人倫道徳は、人類の良心を中心として、天に向かって正しい道を行かなければなりません。正しい道を行かなければならないとなっています。良心は高次的な理想世界に向かってこのように発展しようとします。(90-161、1976.12.26)
本来、天法の道理に従っていく人間には、自分自身が滅びるのを防備してくれ、保護してあげようとする心があるのです。本来あるとはどういうことでしょうか。神様に初めからそのような心があるので、人間にも初めからあるという意味です。自分がつくった法ではないというのです。
「良心よ、私がこうなのだからこうだ」と、そのように言いますか。「私の考えがそうなのだから、そうであるべきだ」と命令したからといって、良心が作用しますか。どこか分かりませんが、他の所から命令を受けるのです。そのような感情が、自分を支配するのを見るとき、これは公私の問題を中心として支配するということが分かるのです。
(31-241、1970.6.4)
古今東西を問わず、いかなる悪人であっても、悪を捨てて善に従おうとする本心だけは、だれでも共通にもっている。だから、何が善であり、いかにすればその善をなすことができるかということは、知能に属することであり、時代と場所と人がそれぞれ異なることによって、それらは互いに衝突し、闘争の歴史をつくってきたのであるが、善を求めようとする人間の根本目的だけは、すべて同じであった。
では何故、人間の本心は、いかなるものによっても取り押さえることのできない力をもち、時間と空間を超越して、善を指向しているのであろうか。それは、善の主体であられる神が、神の善の目的を成就するための善の実体対象として、人間を創造なさったからで、たとえ堕落人間がサタンの業により、善の生活ができないようになってしまったとしても、善を追求するその本心だけは、そのまま残っているからである。
したがって、このような人間たちによってつくられてきた歴史の進みいくところは、結局善の世界でなければならない。
原理講論、人類歴史の終末論2.3
神様の創造は、実に神秘で奥深さにあふれています。人間を、御自身の子女として創造され、万物の霊長として立てられた神様は、人間に「良心」という、最高、最善の贈り物を下さいました。
人間が地上界で一生を航海するのに必要な羅針盤として下賜されたものが、良心という特別な贈り物です。よく人生百年と言いますが、人間は誰彼を問わず、生まれて死ぬ瞬間まで、良心の作用圏
を抜け出すことはできません。
そして、良心の作用の中で、最高、最上の機能が正に、真の父母、真の師、真の主人の役割の機能です。言い換えれば、良心は、私達が生まれたときから真の父母、真の師、真の主人の位置で私達の生を指導し、教育する、神様の代身者であるということです。私達の一挙手一投足を、一時も逃すことなく導き、監視する責任が良心の機能だということです。
ですから、良心は、私達のすべての言行はもちろん、考えまでも父母よりも先に知り、師より先に知り、神様よりも先に知るのです。神様が、人間の人生を指導し監視する本源的な機能を、良心に伝授してくださったからです。
ところで、水晶のように清く透明でなければならない人間の良心に、堕落性の垢がつき、今まで様々な罪悪と疾病の中で本来の機能をすべて発揮できずにいるのです。
したがって、サタン主管圏のこの邪悪な世界から一日でも早く解放・釈放を受けたいと、泣き叫んでいる良心の声を聞ける皆様にならなければなり
ません。
平和神経、平和メッセージ15、2007.7.4
良心の方向性と目的の内容は何になるかというと、真の愛が目的の内容にならざるを得ないという結論が出てきます。その方向、良心の根の方向と目的が何かというと、変わらないこのような愛ではないと言うことはできません。(261-311 ~ 312、1991.4.15)
神様の愛は、自分を100 パーセント、120 パーセント投入するのです。そのようなものが堕落した世界に一つ残っているのですが、それが父の愛でもなく、母の愛です。それが種火のように残っています。この種火が残っているので、よく起こしさえすれば、再び火をつけることができるのです。それまでなければ、救援も不可能です。神様の創造本性の種が残っているので、救援が可能だというのです。
(199-276 ~ 277、1990.2.20)
②自分の良心との闘争
―宗教経典―
あなたは平素、自らが成長していることを感じることができないが、あなたが罪を犯すときは、それをはっきりと知ることができる。
アカン族の格言(アフリカ伝統宗教)
正しい良心で、弁明するようにしなさい。
ペテロの手紙3.16 (キリスト教)
先人言へることあり、「心に二種あり浄と不浄となり」と、欲と混するは不浄にして欲と離るるは浄なり。
マイトリ・ウパニシャッド6.34 (ヒンドゥー教)
また私は、己れをとがめる魂によって誓う。
クルアーン75.2 (イスラーム)
ある人が、何の愛らしい行動もせず、有益な行動もせず、心の弱い人たちに安息所を用意してあげることもしなかった。「私は何の愛らしい行動もしなかった」という思いに彼は苦しんだ。「私は悪行をしでかした」という思いに彼は苦しんだ。この二つの思いは、良心を麻痺。
如是語経25. (仏教)
清い人には、すべてが清いのです。だが、汚れている者、信じない者には、何一つ清いものはなく、その知性も良心も汚れています。
テトスヘの手紙1.15(キリスト教)
肉体の中には一片の肉があり、それが健全な場合肉体はすべて健全だが、それが腐ると肉体もすべて腐ってしまう。その一片の肉とは、心のことにほかならない。
ナワウィー40 のハディース6(イスラーム)
とはいえ、肉にも頼ろうと思えば、私は頼れなくはない。だれかほかに、肉に頼れると思う人がいるなら、私はなおさらのことです。私は生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。
律法に関してはファリサイ派の一員、熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者でした。
しかし、私にとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。そればかりか、私の主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、私はすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。キリストを得……。
フィリピの信徒への手紙3.4 ~ 8(キリスト教)
よい人のほまれとは、正しい良心の与える証しである。正しい良心をもちなさい。そうすればあなたはいつも喜びをもつことができよう。
正しい良心はずいぶんたくさんな物事を忍ぶ力を具え、逆境の中にあってもつねにずいぶんと大きな喜びを覚える。病める良心はいつもおずおずとして不安である。
トマス・ア・ケンピスキリストにならいて(キリスト教)
俺の良心には千もの舌があって、それぞれの舌がそれぞれの話をし、そのどの話も俺を悪党だと非難する。
ウィリアム・シェイクスピアリチャード三世
それが正しくても間違っていても、それ自体として悪なるものであろうと道徳的に放縦であろうと、良心に対する審判は必要だ。そのような面で良心に反する者は、いつでも罪を犯す者である。
トマス、・アクィナス(キリスト教)
上官が部下に良心に逆らう命令を下したなら、部下がそれに不服従しても、彼は罷免されないだろう。 アッシジの聖フランチェスコ三番目の降霊説教(キリスト教)
―み言選集―
人は自分の生涯の因縁を求めていくにおいて,自分の心に侍っていかなければなりません。これが天倫の鉄則です。心の命令に服従しない者は天が打ちます。
(42-60. 1958.8.3)
良心に呵責を受ければ天法に引っ掛かります。
(17-38. 1966.11.6)
放蕩息子は、死んでも故郷を訪ねていくことができません。良心がそうなのです。天国に行くのは、ほかの誰かが助けてはくれません。自分が行くのです。
兄の前に過ちを犯せば、兄の前に出ていくことを嫌います。兄は知らなくても、良心が申し訳なく思うのです。ですから、兄を遠ざけなければならず、その前に屈服しなければなりません。天地の道理が秩序に従ってできています。
堕落したために鈍くなって分からないのであって、鋭敏な人はすべて分かります。
(400-328、2003.1.11)
すべての人間は、一生の間ずっと、各自自分の中に最も貴重な師をもっています。それにもかかわらず、その師を誤って待遇し、踏みにじり、濫用しています。その師こそ、すなわち人間の良心です。
私達の良心は、常に私達自身にも助けになるように話し掛け、私達を真の愛と連結させてあげようとしています。私達の良心は、私達をして善で、非利己的な人になりなさいと父母のごとく促し、神様のみ旨に従って行動するように導いてくれています。
しかし、各自の心の中にはまた、常に良心の声に逆らう反乱者がいます。その反乱者こそ、すなわち肉体です。肉体は、良心を散々に踏みにじり、濫用してきました。私達がこのことを悟ったとき、私達は、自らの良心の敵であった肉体、すなわち私達自身の生命と人性をひどく損傷させた肉体の側につくことができますか。私達の良心は、常に心の中の師として、父母として、人類の究極的な父母である神様と、完全に一つとなるように導いてくれなければなりません。この時、良心は私達の中にある神様の代身者となるのです。
さらには良心を「第二の神様」とも呼ぶことができるのです。皆さんは、良心の敵である肉体に対して同情し、肉体を保護しなければならないと考えますか、それとも肉体を統制し、抑制しながら、良心が正当であることを立証しなければならないと考えますか。
肉体は、肉体的な欲望のみを追求するのです。腹が減れば、盗んででも飢えを免れようとします。肉体は常に楽なことを追求し、他を利用しようとします。肉体は、肉体なりの領域をもっています。すべての人は各自、肉体の領域を主管すべき莫大な責任を負っています。
(201-208、1990.4.9)
神様は、知恵の大王でいらっしゃいます。人間が完成に達する道を遠い所には置きませんでした。私達と最も近い所、最も隠密で安全な所、正に皆さんの良心の中にその道を準備しておいてくださったのです。
皆さん、良心は皆さんの主人です。皆さんの師です。皆さんの父母の代わです。良心は、皆さんのすべてのことに対して、誰よりも先に知っています。
皆さんの考えまでも、隅から隅まで知っているのが皆さんの良心です。師より、父母より、神様よりも先に知っています。このような良心が、皆さんのために一生の間どれほど多くの忠告をしてくれるでしょうか。
昼も夜も、悪いことを考えただけで、「こいつ!」と叱りながら、疲れもせずに皆さんを引っ張っていき、川を越え、峠を越えようと、どれほど苦労したでしょうか。良心は、いつも真の主人の姿で皆さんを保護して助けようとしたのに、いつも裏切った皆さんだったのではないでしょうか。宇宙から譲り受けた一つしかない貴い師であるにもかかわらず、この師を徹底して冷遇した皆さんの体をどうするつもりですか。
皆さんの本然的愛を引き継がせてくれた父母の代わりに送ってくれた良心を、無慈悲に蹂躙した肉身ばかりにしがみつき、その肉身の欲望に捕らわれて無為に歳月を過ごして一生の幕を下ろしますか。
(447-163 ~ 164、2004.51)
皆さんは、私は堂々とした一人の人格者なのに、私の良心は何か間違ってしまったのかと思うかもしれませんが、皆さんの良心は眠っています。皆さんの心は間違いなく眠っています。
良心は誰の制裁も支配も受けることを願いませ
ん。良心は休みません。いくら真っ暗な真夜中でも、明るい所でも、豪華絢爛な所でも、間違いをそのままにしておきません。少しでも間違えば、「おい、こいつ!」と言いながら体を打つのが良心です。このような師がどこにいますか。皆さんがはっきりと知らなければならないことは、皆さんの良心が眠っていると言うこの若い人の話が事実かということです。
眠っている良心を目覚めさせましょう。神様の心情を知らずに眠っている民族の良心を目覚めさせましょう。神様の心情を知らずに眠っている世界人類の良心を目覚めさせましょう。
天地を抱き、一つの世界を建設しようとされる神
様のみ旨に従い、終末世界に向かって行くまいとしても行かざるを得ない立場にいる人間たちの良心を目覚めさせてあげましょう。
今日、私達が信じている宗教が世界人類すべてに教えを与えることができ、眠っている良心を目覚めさせ得る宗教になっていますか。そのような内容を備えた主義や理念がありますか。良心が目覚め、そこに入っていくその衝撃、その決意、その覚悟は、世の中の万事を一度に片付けてしまうことのできる力として現れなければなりません。刃物が恐ろしいですか、死が恐ろしいですか、私の良心から起きてくるものを誰が妨げるでしょうか。誰も妨げることはできません。
(10-284 ~ 285、1960.11.6)
7.完全性
宗教の諸経典は、絶対者と一つになった人、真理を体現した人、罪、または世俗的な堕落の足かせから自由な人、満ちあふれる聖なる恩寵を表し示す人の功徳を描写する。彼らは、聖者、賢者、仏陀、または神聖な人間と呼ばれるだろう。このような完全状態は、私達が到達できない領域の向こうではない。
私達が努力さえすれば成就できる目的地である。ガンジーは次のように言った。「人生は熱望だ。その任務は、完成、すなわち自己実現のために奮闘することだ。その理想は、決して私達の意気地のなさや不完全さのために低められてはいけない」。ここに記述された章句は、完全状態を成就した人の卓越した稟性を描写する。特に、完全性の三つの品性を強調する。
一つ目は、心と体の統一である。聖者は、利己的な欲望を克服し、性欲、貪欲、またはほかの欲望を浄化することによって自分自身を主管した。結果的に彼は、ひとえに神様のみ旨と良心の指示に従って正しいことのみを行おうとする。聖アウグスティヌスの言葉によれば、私達は「神様を愛し、あなたの意図することができる人だ」ということである。
二つ目は、完全性は神様との統一である。神様は、最高の人間的熱望の典型でありモデルである。それゆえ聖者は、神様自身の完全性に同参しようと努力することによって、神様の属性、すなわち絶対、不変、愛、正義などを具現するようになる。
三つ目は、完全性は神様の真の愛を具現することを意味する。愛または慈悲は、罪のある人々を救うための、その疲れを知らない努力から現れたものとして、神様の本質の核心である。したがって、完全な男性と女性は、ほかの人々の豊かな人生を喜び、社会の利益のために私心なく努力する。聖者の愛は、どちらの一方にも傾かず、誰も敵とみなさず、常に善で悪に報いる。(第13 章1.
「真の愛」参照)
①完全性は心と体の一致から始まる
―宗教経典―
また、一人の出家沙門が釈尊に問うた。世の中には善となすものが色々とあるが、何が善といわれるものであり、その中で最大の善となすものは何んですか、と。
釈尊はいわれた、仏道を行じ、その真を守るものが善であり、その志しが行ずる道と一つになることが、善の最大をなすものである、と。
四十二章経14(仏教)
愛着までもが私のもたらしたものにふさわしくならない限り、本当の信者とはいえない。
ナワウィー40 のハディース41(イスラーム)
悟りに満ちた者は、決していかなる悪行にふけることはない。彼の良心は、真理で完全に映し出された知性によって導かれるからである。
アーヤーランガ・スッタ1.174(ジャイナ教)
覚りのようすがに心を正しくおさめ、執著なく貪りをすてるのを喜び、煩悩を滅ぼし尽くして輝く人は、現世において全く束縛から解きほごされている。
法句経89、(仏教)
御者が馬をよく馴らしたように、おのが感官を静め、高ぶりをすて、汚れのなくなった人、このような境地にある人を神々でさえも羨む。大地のように逆らうことなく、門のしまりのように慎み深く、(深い)湖は汚れた泥がないように、そのような境地にある人には、もはや生死の世は絶たれている。
正しい智慧によつて解脱して、やすらいに帰した人、そのような人の心は静かである。ことばも静かである。行いも静かである。何ものかを信ずることなく、作られざるもの(一ニルヴァーナ)を知り、生死の絆を断ち、(善悪をなすに)よしなく、欲求を捨て去った人、かれこそ実に最上の人である。
法句経94.97(仏教)
アルジュナはたずねた。
「クリシュナよ、智慧が確立し、三昧に住する人の特徴はいかなるものか。叡知が確立した人は、どのように語り、どのように坐し、どのように歩むのか。」
聖バガヴァッドは告げた。
「アルジュナよ、意(こころ)にあるすべての欲望を捨て、自ら自己(アートマン)においてのみ満足する時、その人は智慧が確立したと言われる。不幸において悩まず、幸福を切望することなく、愛執、恐怖、怒りを離れた人は、叡知が確立した聖者と言われる。
すべてのものに愛着なく、種々の善悪のものを得て、喜びも憎みもしない人、その人の智慧は確立している。亀が頭や手足をすべて収めるように、感官の対象から感官をすべて収める特、その人の智慧は確立している。断食の人にとって、感官の対象は消滅する。味を除いて……。
最高の存在を見る時、彼にとって味もまた消滅する。実にアルジュナよ、賢明な人が努力しても、かき乱す諸々の感官が、彼の意(こころ)を力ずくで奪う。すべての感官を制御して、専心し、私に専念して坐すべきである。感官を制御した人の智慧は確立するから。」
バガヴァッド、ギーター2.54 ~ 61(ヒンドゥー教)
アブ・フレイラが、神の使徒が語る言葉を伝えた。「最も完璧な信仰をもった者は、最もりっぱな性格をもった者である」。
アブー・ダーウードおよびダーリミー・ハディース(イスラーム)
諸の比丘の、阿羅漢にして諸漏己に尽き、{梵行}己に住し、所作己に弁じ、諸の重擔を棄て、己利を逮得し、諸の有結を尽し、正知して解脱せるものは、九事を行ずることあり得べからず。{謂く}漏尽。比丘の故(ことさ)らに殺生することあり得べからず。比丘の盗心を以て不興を取ることあり得べからず。
比丘の淫法を行ずることあり得べからず。比丘の知りて妄語することあり得べからず。比丘の蓄財の欲を亨くること前に在家者なりしが如きことあり得べからず。比丘の欲趣に往くことあり得べからず。比丘の瞋趣に往くことあり得べからず。比丘の癡趣に往くことあり得べからず。比丘の怖畏趣に往くことあり得べからず。
阿含経増支部ⅳ.370 (仏教)
これは「道」と同一になるといわれる。
それに近づくことができず、また、
遠ざけることもできない。
それに利益を与えることもできず、
また、害を及ぼすこともできない。
尊敬へと高めることはできず、また、
恥に苦しめることもできない。、
だから、天下で最も尊い人なのである。
道徳経56(道教)
―み言選集―
皆さんがここから出発するにおいて、どのように行かなければなりませんか。各自が指向する量が100 とするとき、ここで心と体が50 対50 ではいけません。
そのような人は、中間霊界にとどまるようになります。緩衝地帯にとどまるのです。もし体が60 であれば、間違いなく地獄に行きます。地獄はどのような所でしょうか。陰になっている所です。天国はどのような所でしょうか。輝いている所です。その、ように理解すればよいのです。そのような人は、必ず陰になっている所に行くというのです。ここは、下りていけばいくほど真っ暗になります。
ですから、皆さんは常に「私」という存在は善悪の母体だということを考えなければなりません。先生も皆さんのような年齢のとき、このような内容で苦心したのです。それで、先生が立てた標語が何かというと、「宇宙主管を願う前に自己主管を完成せよ」というものです。これが信仰生活においての第一条です。このような面で、自我を完成し、自我を主管できるようになるとき、すなわち、自分の体を制御し、克服できる自主性をもつようになるとき、初めて自分の心と体の相克がなくなるのです。
(?-122、1970.12.23)
人は二重構造になっています。心的な人と体的な人です。それでは、心はいったい何でしょうか。心は縦的な基準をもっています。体は何でしょうか。横的な基準をもっています。
これが本来神様の理想的基準に立ち、神様の愛を
受けることができるようになれば、縦的な心に神様の愛が「カーン」と響く時、横的な体はすべて感じるようになります。心的、縦的基準が存在する霊人体に神様の真の愛が「カーン」と響けば、横的な基準になる体も「カーン」と共鳴するようになっています。……霊人体に真の愛が「カーン」と響けば、体が共鳴できるのです。堕落していなければそうだというのです。
どのような基準によってそのようになっていますか。何によって共鳴するのですか。真の愛の響きに共鳴するようになっています。
(177-216、1988.5.20)
皆さんの体と心が一つになれば、神様が臨在されるというのが原埋の教えです。それでは、神様がなぜそこに臨在されるのかというのです。人の体と心が一つになれば、必ずそこには、一つになる原則は愛から始まるので、相対的愛があるがゆえに臨在するという論理が成立するのです。
「人の体は神様の聖殿である」とこのように言います。聖殿とは、どのような所ですか。聖殿というならば安息所という言葉と通じます。それでは、休むには何の中で休みますか。愛の中で安息するのです。
私達人間が願う理想があるならば、そのような内心的基準が最高の理想の基準ではないですか。そのような心の愛をもった所を、心情の世界というのです。
それはわき出る泉の水と同じであって、くみ出しても、くみ出しても終わりがありません。なぜでしょうか。神様がそこにいらっしゃるから終わりがないという、このような論理を立てることができるというのです。
(91-78、1977.1.30)
神様は純金ですか、偽の金ですか。純金です。神様が純金なので、私達が一緒に一つになろうとすれば、どのようにならなければなりませんか。偽者になってはいけません。
ですから、私達が神様の心と体のようになっていなければならないのです。それでマタイによる福音書第5章48 節に「あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」という言葉が出てくるのです。
(91-321、1977.3.1)
そうだとすれば、天国はどのように成すのですか。第1に、家庭を形成するすべての要員は、個性完成を成さなければなりません。堕落によって選択の余地もなく相続するようになった堕落性を脱ぎ、自らの人格完成をしなければなりません。
すなわち、心と体の葛藤と闘争を完全に克服し、勝利して一心一体一念の境地で完全一和の世界が、人格完成によって実を結ばなければならないのです。このような境地に到達した人には、妬み、嫉妬、欲心、憎悪など、あらゆる悪の要因になる堕落性が再び根を降ろすことができません。
(443-175、2004.3.23)
宗教の目的は、心情世界の法度を活用し、生活的な感情と対している宇宙万象のすべての道理を管轄できる権限をもつ、そのような人格者を育成することです。
(6-349、1959.6.28)
自分を愛さない人は神様を愛することができません。父母を愛さない人は国を愛することができません。また、自分自身を愛することができない人は、父母を愛することができません。
自分自身を愛してこそ、父母を愛することができるのであり、国を愛することができるのであり、世界を愛することができるのであり、神様を愛することができるのです。
ですから、宇宙主管を願う前に自己主管をしなさいというのです。このような途方もない愛の実体である個体を主体的な立場に立てておかなければ、家庭も不可能であり、国も不可能であり、国家も世界も不可能です。ですから、自分を完全に愛することのできる人でなければ、完全な神様を愛することはできません。
(22-97 ~ 98、1969.1.26)