③愛と犠牲がこめられた創造の役事
―宗教経典―
空の精神的現実はいつも存在する。それを受動性の神秘と呼ぶ。その入口は宇宙の根源である。止めることなく、それはいつまでも残る。汲み出しても尽きることはない。
道徳経6(道教)162
そのとき(太初において)無もなかりき、有もなかりき。空界もなかりき、その上の天もなかりき。何ものか発動せし、いずこに、誰の庇護の下に。深くして測るべからざる水は存在せりや。
そのとき、死もなかりき、不死もなかりき。夜と昼との標識(日月・星辰)もなかりき。かの唯一物(中性の根本原理)は、自力により風なく呼吸せり(生存の徴候)。これよりほかに何ものも存在せざりき。
太初において、暗黒は暗黒に蔽われたりき。この一切は標識なき水波なりき。空虚に蔽われ発現しつつあるもの、かの唯一物は、熱の力により出生せり(生命の開始)。
最初に意欲はかの唯一物に現ぜり。こは意(思考力)の第1の種子なりき。(注33)詩人ら(霊感ある聖仙たち)は熟慮して心に求め、有の親縁(起源)を無に発見せり。
彼ら(詩人たち)の縄尺は横に張られたり。下方はありしや、上方はありしや。射精者(能動的男性力)ありき、能力(受動的女性力)ありき。自存力(本能、女性力)は下に、許容力(男性力)は上に。
リグ・ヴェーダ10.129.2 ~ 5(ヒンドゥー教)
神々がプルシャを祭供(供物)として祭祀を執行したるとき、春はそのアージア(グリタ)なりき、夏は薪、秋は供物〔なりき〕祭祀そのものたる彼を、バルヒス(敷草)の上に、彼らは灌(そそ)ぎ清めたり、太初に生まれいでたるプルシャを。
神々は彼をもって祭祀を行なえり、サーディア神群も聖仙らもまた。この完全に行なわれたる祭祀より、プリシャッド・アージアは集められたり。これより彼ら(神々)は、空飛ぶもの、森に住むもの、また村に飼わるる獣を作りたり。
この完全に行なわれたる祭祀より、詩節(讃歌)と旋律と生じたり。韻律もそれより生じたり。祭詞もそれより生じたり。それ(祭祀)より馬生まれたり。両顎に歯あるすべての獣〔生まれたり〕。牛も実(げ)にそれより生まれたり。それより山羊・羊生まれたり。
月は意(思考器官)より生じたり。眼より太陽生じたり。口よりインドラとアグニ(火神)と、気息より風生じたり。
臍(へそ)より空界生じたり。頭より天界は転現せり、両足より地界、耳より方処は。かく彼ら(神々)はもろもろの世界を形成せり。(注34)
リグ・ヴェーダ10.90.6、~ 10、3 ~ 16(ヒンドゥー教)
―み言選集―
神様はどのように天地創造をしたのでしょうか。神様は愛の対象者をつくるために120 パーセントを投入しました。天地創造の根源的思想基盤が「ために生きる」ことでした。
ですから、宗教は犠牲、奉仕と従順を強調するのです。それでは、なぜ「ために生きる」ようにしたのでしょうか。「ために生きる」原則を立てたというのは何ですか。
空気で言えば、平準化された空気の中で完全真空状態に入っていきなさいというのです。絶対真空圏内に入っていけば入っていくほど、高気圧は自動的に低気圧のほうに巡回します。
神様自身が愛の相対を求めるために投入して、投入してみると、その場にいたとしても、自然に戻ってくるのです。このような論理的根拠を中心として被造物をペア・システムで創造したのですが、前進的に次元の高い上部のレベルを通して人間と神様の理想的足場をつくるために天地創造をしたのです。
(199-276、1990.2.20)
神様がなぜ天地を創造されたのでしょうか。それは、いくら絶対者であっても独りでは喜びを感じることができず、仮にうれしいと思っても喜びの刺激を感じることができないので創造されたのです。
絶対者がいくら、「私は絶対者だ。私は愛の主人公だ。生命の主人公だ」と言ったとしても、絶対者独りでは愛の刺激を感じられず、天地が私の体の中にあるという生命の刺激を感じられないのです。
(38-152、1971.1.3)
神様がなぜ天地万物をつくったのでしょうか。皆さんはそれを知らなければなりません。つくったという事実は、このようにつくったという事実は、力を投入したということです。力の投入です。
力の投入は、自体の消耗を意味します。いくら全知全能の神様でも、力をすっかり出し切ったので、それが戻ってこなければ、神様は消耗するのです。
皆さんが朝、御飯を食べ、激しい労働をすれば、早くおなかがすくでしょう?早く疲れるでしょう? なぜですか。力を投入すれば、主体なら主体自身においてはマイナスになるからです。
世の中の万事において損害を受けて喜ぶことはありません。必ずプラスになるところで喜ぶのです。ですから、神様が天地万物をつくられたのは、泣かれるために、悲しまれるためではありません。喜ぶためにつくられたのです。
したがって、そこには必ずプラスになり得る何かがなければなりません。それでは、プラスをいつ探し出すのでしょうか。いつそれを探し出せるのかということが問題です。
ここには被造物の完成という標準があるのです。「この時まで投入すれば、その時から戻ってくる」というものがあるのです。商いをしてもそうです。「このくらい努力すれば、その時からは利益が出る」というのと同じです。
勉強をするときもそうです。「このくらいの限界点まで一生懸命にして、それさえ完全に通過すれば、その次には私に利益が戻ってくる」、そのように思いながら勉強ではないですか。
国家試験でも何でも、何かをしようと希望をもって努力し、その限界点を進んで越えていくようになるとき、必ず戻ってくるのです。これが宇宙の法則です。
神様も同じです。人を造られたのなら、なぜ造られたのかというのです。造られたのは、神様の力を投入したのです。自分自体を消耗しました。しかし、人を中心として投入できるものを完全に投入して完成した日には、どのようになりますか。その次には戻ってくるのです。
このような原則を私達は考えなければなりません。ところが、戻ってくるときに、100 を投入したのに、100 よりも小さな価値のものとして戻ってくるのなら、神様は創造の遺業を継続されなかったでしょう。
100 を投入したのなら、戻ってくるときには200、300、このように、より次元の高い価値のものとして戻ってこなければなりません。無限のものとして戻ってこなければなりません。このようになるとき、その創造は投入しながらも喜ぶのです。
したがって、戻ってくるときにどのように戻ってくるべきかという問題を中心として見るとき、より次元の高い価値のものとして戻ってこなければなりません。
そのような価値のものとして戻ってくるとき、喜ぶことができるものとは何ですか。これが愛だというのです。これを知らなければなりません。
(65-22 ~ 23、1972.11.13)
神様が御自身だけを思ったとするならば、天地創造をしたでしょうか。創造とは力の投入を意味します。芸術家は最高の作品を作ることが願いです。芸術家は傑作品を作るために、ありとあらゆる精誠を投入します。すべてを投入したところからのみ完全な傑作品が出てきます。不完全投入ではありません。完全投入、これ以上できないというときに初めて傑作品が生まれるのです。
(78-111、1975.5.6)
神様がこの宇宙をつくられるとき、神様は絶対信仰をもってつくったのです。それから、2番目は絶対愛です。創造主としてパートナーを絶対愛でつくりました。そして、絶対服従です。絶対服従は何かというと、自分自身までもすべてなくなるのです。完全投入です。投入して忘れてしまい、投入して忘れてしまうことなのです。自分の概念まですべて投入するのです。それで神様はゼロポイントです。信仰もすべて注いだためにゼロポイント、愛もすべて注いだためにゼロポイント、従順もすべて注いだためにゼロポイントです。(313-233、1999.12.19)
13.天の父母
絶対者は、子女に対する父母の因縁で人間と関係を結ぶ。ユダヤ教とキリスト教の経典は、神様を天にいらっしゃるお父様と呼び、「法華経」で釈迦は、「世間の父」と呼ぶ。
一方、ある伝統宗教では、絶対者が神聖な母と見なされていることもある。さらには、神様に対する家父長的イメージを常に適用してきた宗教においてさえも、母性の側面、すなわち養育者、慈悲の泉、保護者として神様を描写する。
デズモンド・ツツ主教は、「神の本質には人間の男性と女性に該当するある性稟がある」(注35)と言う。神様の父性と母性は、あらゆる生命体を創造し、滋養分を供給しながら互いに協同する天と地になぞらえて見ることができる。
神様の父母の役割は創造の行為に限定されない。それはたゆまず持続する情緒的心情の役割と関連している。愛ほど神様の父母の側面をよく表しているものはない。その上、神々が実際にその子孫をもつこともある多神論に対して強く否定する立場をとりながらも、神様を神聖な父として公表しないイスラームでさえも、息子に対する父の愛をほのめかして神様の愛を語る。
文鮮明先生は、神様の父母の性稟について語るとき、愛が核心だと教える。すなわち、「神人の父子関係は宇宙の根本である」。それは、私達が神様の心情を体恤することによって本当の父子関係を確立することができ、当然そのようにならなければならないと教える。神様は、親密な抱擁で自らと出会うことのできる子女を常に求めているのである。
―宗教経典―
天におられる私達の父よ、御名が崇められますように。
マタイによる福音書6.9 (キリスト教)
おまえたちは、皆これわが子であり、私は父である。永いあいだ多くの苦しみに焼かれているおまえたちを、私は皆、救い出して三界から出て行かせたのだ。(注36)法華経3(仏教)
私にとって大ブラフマンは胎{ヨーニ}である。私はそこに胎子(種子)を置く。それから万物の誕生が実現する。アルジュナよ、一切の母胎において諸々の形態が生まれるが、大ブラフマンがそれらの胎である。私は種子を与える父である。
バガヴァッド・ギーター14.4 (ヒンドゥー教)
あなたは父であり、母であり、友であり、兄弟。
いつ、どこでも、私と共に、私をかがんで見つめられるあなた、私に何の恐れがあろうか。
アーディ・グラント、マージュ、M.5、p.103 (シーク教)
世界中の神のたあにハみなわがこ
一れつハみなをやとをもゑよ
にち/\にをやのしやんとゆうものわ
たすけるこもよふばかりをもてる
おふでさき4.79、14.35 (天理教)
私達の父、これはあなたの世界であり、あなたのみ旨です。私達を平和にされ、人間の霊魂を冷徹にしてください。あなたは私達の父、私達の人生の道ですべての悪を除去してください。
ヌエル族の祈り(アフリカ伝統宗教)
天地は万物を創造する父母、人間はその万物の霊長である。
書経5.1.1、泰誓(儒教)
魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか。このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない。
マタイによる福音書7.10 ~ 11(キリスト教)
ある日、ある男が息子と共に預言者のところにやって来た。預言者はその少年を抱きしめて言った。「彼を限りなく思っているか」、父は「はい」と答えた。すると預言者は言った。「主はあなたよりもっと彼を思っていらっしゃる」。
ブハーリー・ハディース(イスラーム)
愚かで知恵のない民よ、これが主に向かって報いることか。彼は造り主なる父、あなたを造り、堅く立てられた方。遠い昔の日々を思い起こし、代々の年を顧みよ。
あなたの父に問えば、告げてくれるだろう。長老に尋ねれば、話してくれるだろう。いと高き神が国々に嗣業の土地を分け、人の子らを割りふられたとき、神の子らの数に従い、国々の境を設けられた。
主に割り当てられたのはその民、ヤコブが主に定められた嗣業。主は荒れ野で彼を見いだし、獣のほえる不毛の地でこれを見つけ、これを囲い、いたわり、御自分のひとみのように守られた。鷲が巣を揺り働かし、雛の上を飛びかけり、羽を広げて捕らえ、翼に乗せて運ぶように、ただ主のみ、その民を導き、外国の神は彼と共にいなかった。
申命記32.6 ~ 12(キリスト教)
天の下のすべての者たちよ! 天を父と、地を母と思い、すべての万物を自分の兄弟姉妹と思いなさい。(注37)
熱田神宮の神託(神道)
母なる地球よ、私達を哀れみ、私達に食べる糧を下さい! 父なる太陽よ、私達の子孫たちに福を下さり、私達の道をまっすぐにしてください!
ブラックエルク族の祈祷(アメリカ先住民の宗教)
吸えども尽きることのないあなたの乳房、それは喜びに満ちて元気づけ、すべての貴重なものを豊かに恵み、宝玉を授け、財物を見出し、幸運を恵む。その乳房を開いてください。われらの身を養うために。
リグ・ヴェーダ1.164.49 (ヒンドゥー教)
母がその子を慰めるように、私はあなた達を慰める。エルサレムであなた達は慰めを受ける。
イザヤ書66.13 (キリスト教)
全(女性)世界を擁護するイムパの母よ! あなたは私にはあまりにも驚くべき母です。おお、母! あなたは柱であり、避難所! 自らの住居に帰る前に、皆が賛美し、ぬかずく母! 私の母、あまりにも誇らしいです。厳かに近づき、万物に水を下さる方!
ヨルバ族の祈り(アフリカ伝統宗教)
―み言選集―
神様とは、私の友人です! 最も尊い友人だというのです。そして、お兄さん、お父さん、王であり、創造主です。この事実がどれほど誇らしいでしょうか。
(293-161、1998.5.26)
神様御自身がなぜ宇宙をつくったのかというとき、愛を中心として父子の関係を結ぶためです。ですから、宇宙の根本は父子の関係だという結論が出てきます。
(118-290、1982.6.20)
私達を造られた創造主は、どのような方ですか。私達の心と体の主人であることはもちろんであり、私達の理念や私達の感情世界の主体の位置、主人の位置に立てる方であり、さらには、私達の心情の主人であり、主体であられる方です。私達には、このような神様が絶対的に必要です。私達の意識や認定によって観念的に必要なものではなく、絶対的に必要です。
そのような主人を失ってしまったことが悲しみです。単に主人だけでなく、さらに一歩進んで神様はどのような格位にいらっしゃるのかというと、人間の父としていらっしゃいます。
天地を造られた神様が、人間を造っておいて主人としてのみいらっしゃるのではなく、父としていらっしゃるのです。私はあなたの父であり、あなたは私の息子、娘だという因縁を明確にし、そのような関係で幸福を謳歌しようとされます。
これが父の生活の中心であり、理念の中心であり、神様が人間を創造された目的だったということを私達は知らなければなりません。(7-48 ~ 49、1959.7.12)
神様をお父様と呼ぶべきです。その父は、皆さんを生んでくれた父です。人間が堕落したので、再び生むという言葉が必要なのであって、その方は本来皆さんを生んだ父です。
肉身の父は、皆さんを橋渡しした父です。霊界に行けば、その父は「父」と呼ぶのではなく、「お兄さん」と呼ぶようになっています。母に対しても、「お母さん」とよぶようになっていないのです。
父母の根をもった人達は、神様を何と呼びますか。すべてが、キリスト教で呼ぶように、神様を「父」と呼びます。一つの家の中で、おじいさんも神様を父」と呼び、お父さんも神様を「父」と呼びます。孫もやはり神様を「父」と呼びます。家の中の家族すべてが、神様を「父」と呼びます。このように、神様はすべての人間の父になられる方です。それゆえ、神様は人間にとって父となられ、人間は互いに兄弟になるのです。
(21-249、1968.11.24)
天は父を象徴し、地は母を象徴します。第一の母は皆さんを生んでくれた母であり、第二の母は地だというのです。地はすべてのものを与えて生命を育ててくれます。それで地は女性の立場です。すべて与えながらも不平を言うことがありません。いくら汚れたものも消化できるのです。それで、すべての存在物を育ててあげることができるのです。したがって、地は第二の母だというのです。その次に聖霊が第三の母です。
(279-171、1996.8.4)
本来、地上でアダムとエバが堕落しなかったならば、誰が先に死にますか。息子、娘が先に死にますか、父母が先に死にますか。父母です。それでは、アダムとエバが天上天国に上がっていけば何になるのでしょうか。彼らが神様の位置に立つようになります。
その後、神様が実体をまとった、アダムとエバの体に変化した霊的な主体的主人公として現れるようになるのです。霊界に行けば、父なる神様だけがいるのではありません。母なる神様がいるようになるということです。父と母がいなくて生命体が出てくることができますか。そのような父母のように、アダムとエバの背後には、神様が分かれて出てきて一つになっているのです。
ですから、母を通してもそうであり、父を通しても天の国に行ける道が生じるという話になるのです。そのようになったならば、あの霊界の天上天国の主人公は誰でしょうか。実体をもって生きていた私の父母が、あの国に行って永遠の天国の王になるのです。
統一教会に入ってくれば何が違うのですか。統一教会に入ってきて皆さんが霊的体験をするときは、必ず先生とお母様が現れて役事するのです。そのようなことを見るでしょう。それが皆さんの生活圏内に切っても切れない主流的な思想として固着してしまうという事実を感じるでしょう。
ですから、神様は誰の体を、誰の形状をまとってこの地上にいる人間たちの前に現れることができるのでしょうか。先生の形状とお母様の形状をまとって全世界の子女達の前に現れることができることを知らなければなりません。
(90-196 ~ 197、1977.1.1)
人間にとって、失ってしまったその神様は誰かといえば、私達の父母です。人間の一番上の先祖です。その神様は誰ですか。宇宙の永遠から永遠まで、ただお一人しかいらっしゃらない王です。王であられることを知らなければなりません。
それでは、皆さんは何ですか。神様の息子、娘です。宇宙を支配する王の息子、娘です。王子、王女だというのです。それでは、その王子、王女とは、何をするのですか。その王権が統治するところで、愛を中心として教育を受け、そこで生活しようというのです。それがその世界の理想なのです。
(10-526、1979.7.8)
神様の創造目的は何でしょうか。神様が人間と共に生きることができる理想的な家庭を築くことです。人類は、堕落したとしても、心では神様がその家庭の父として、または人類の父として、人間がその家庭の家族として暮らせる日を待ち焦がれています。
神様を永遠の父として侍り、私はその家庭の家族になり、神様と共に永遠に暮らすことができれば、希望そのものであり、理念そのものであり、生活そのものであり、幸福そのものである神様と共に永遠に暮らすことができれば、私達が希望する目的は完結するのです。
(7-264 ~ 265、1959.9.27)
皆さんは神様に侍るだけでなく、神様の対象的位置に立ち、その対象的な価値を立て、「お父様、私が来ました。6000 年間どれほどお待ちになりましたか」と言わなければなりません。「どれほど泣かれましたか。私が来ました。どれほど願われましたか。私が来ました。どれほど慕われましたか。私が来ました」と言う、その一言を神様は聞きたいと思われるのです。神様がそのような息子、娘に出会って、天と地上のすべてのものを主管しなさいと祝福したのち、6000 年の恨を忘れてしまい、「きょうが私の誕生日であり、私の歓喜の一日だ!」(注38)と言いたいと思われるのです。
6000 年の恨を記憶せず、新しい天地で新しい息子、娘と情的な歌を歌って暮らそうという方が神様であり、神様が今日の私達の父であり、その父の息子、娘が正に私達だということをはっきりと知らなければなりません。
(7-171、1959.8.30)
第2章 真理と宇宙の法則
1.永遠の真理
永遠のみ言、真理、または神聖な知恵は、宇宙が創造される以前から存在した。み言は宇宙に満遍なく遍在している。それは宇宙創造の牽引力だったのであり、自然法則として持続的作用をする。
それは物理的法則と道徳法則、そして霊的法則として作用する。ある人たちにとって真理は理性的に把握されるが、ほかの人たちにとって真理の本質はみ言として把握される。
ところがそれは、ただ完成人間であるキリストの中で完全に成育したみ言なのである。み言は、宇宙にその目的を付与する。そして、その目的は、神様が宇宙を創造した理由に関する神秘さと関連したものである。全知全能の絶対者として、神様が彼とは異なるある対象を創造することによって、何を得ることができたのだろうか。
この節の末尾の章句は、創造の根本主題が愛だったことを示唆していしる。ただ関係を結ぶときにだけ現れる愛は、プラスとマイナス、男性と女性という普遍的な二元性の特徴を備えながら宇宙に遍満している。
愛の喜びを享受したいと思われた神様も、愛の関係を結ぶために自分とは別個の対象を創造したのであろう。ここに創造の目的、すなわち創造の青写真の中に隠されていた神様の根本的な意図を読み取ることができる。
①太初のみ言
―宗教経典―
太陽と月は、一つの計算に従い運行し、草も木も、仁慈者に叩頭(こうとう)しまつる。かれが天を高く掲げ、はかりを設けたもうたのは、なんじらが、はかりに公正を犯さぬためである。
クルアーン55.5 ~ 7(イスラーム)
かれは真理によって、天と地を創造なされたのである。
クルアーン16.3 (イスラーム)
主の知恵によって地の基は据えられ、主の英知によって天は設けられた。主の知識によって深淵は分かたれ、雲は滴って露を置く。
蔵言3.19 ~ 20(キリスト教)
天則に従ってアーディトヤ神群は安定し、月神ソーマは天に現はれ……
リグ・ヴェーダ10.85.1 (ヒンドゥー教)
初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。(注1)この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。
ヨハネによる福音書1.l ~ 5(キリスト教)
最初にこれが宇宙の唯一の主だった。至高な主のみ言が彼と共にあったが、このみ言が彼の二番目だ。彼はよくよく考えた。そして語った。「私がこのみ言を導き出し、それによってこの世界をつくり、維持するようになるであろう。
ターンディヤマハー・ブラーフマナ20.14.2 (ヒンドゥー教)
御子は、見えない神の姿であり、すべてのものが造られる前に生まれた方です。天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、王座も主権も、支配も権威も、万物は御子において造られたからです。
つまり、万物は御子によって、御子のために造られました。御子はすべてのものよりも先におられ、すべてのものは御子によって支えられています。
コロサイの信徒への手紙1.15 ~ 17(キリスト教)
主は、その道の初めに私を造られた。いにしえの御業になお、先立って。……大地の基を定められたとき。御もとにあって、私は巧みな者(注2)となり、日々主を楽しませる者となって、絶えず主の御前で楽を奏し、主の造られたこの地上の人々と共に楽を奏し、人の子らと共に楽しむ。
蔵言8.22 ~ 31(キリスト教)
王がたとえ宮殿を建てたとしても、それも結局は建築士の技術によって建てるのである。建築士が使う概念も、やはり彼の頭から出てくるものではない。彼も木材と門を置こうとすれば、図表を描き、設計図を描かなければならない。したがって、この世の中のすべては神様がトーラーを通して教えながら建てられたものである。
創世記ラッバー1.1(ユダヤ教)
道というものは、それが実在するという確かな真実性をもちながら、何のはたらきをするものでもなく、また形をもたないものである。それは心から心へと伝えられるものではあるが、形あるものとして手に受け取ることはできない。これを体得することはできるが、これを目に見ることはできない。それは、みずからのうちに存在の根拠をもち、みずからのうちに根ざして生じ、天地がまだ存在しない太古から、すでに存在するものである。
それは鬼神や天帝に霊妙な力を与え、天や地を生じさせるものである。天のきわみにある太極の上においても高すぎることはなく、六極の底深くおいても深すぎることはない。天地に先立って生じながら、時間の長久さを覚えることがなく、太古より以前から存在し続けながら、老いることのないものである。
荘子6(道教)
おおよそ天がその事物を生み出せば、それぞれの事物にはその道理が備わっている。
朱熹(儒教)
―み言選集―
創造するとき、何によってするのでしょうか。初めに神様のみ旨がありました。神様の考えがありました。神様の考えと共に計画がありました。人間を創造し、これこれこのような人間世界をつくろうという、本来の神様のみ旨と計画があったことが分かります。
ですから、いくら人間が堕落したとしても、今日、神様の救援摂理圏の人間たちは、どのような位置に立たなければならないかといえば、今日の神様のみ旨の中で、神様のみ旨と計画圏内に立たなければなりません。そうでなければなりません。
(76-92. 1975.2.1)
神様は知識の大王です。この宇宙世界は、秩序を通じた法によって動きます。それがすべての相対理念を備え、因縁と因縁を通して関係を結び、連関性をもって運行しているのです。
膨大な大宇宙がそのようになっていることを見るとき、ここにはあらゆる公式、理論、原則を超越する理想の知識が内包されています。ですから、神様は知識の大王であられると言っても、誰も反対する人がいません。
(127-11、1983.5.1)
世界にいくら偉大な科学者、偉大な学者がいたとしても、その学者の知識というものは、ごく小さなものにすぎないのです。深い所に前進すれば前進するほど、そこには無窮な法を中心とする原理原則的作用が継続しています。
この事実を勘案してみるとき、このすべてのものは、漠然と自然にできたものではありません。ある内容と根源を通して必ず作用していて、宇宙に背馳する方向性ではなく、全体目的に一致し得る方向性を備えているのです。
その事実を考えてみるとき、ここは無限に広大で、無限に微妙な法則世界だというのです。また、このような宇宙をつくられた神様は、知恵の王であられ、知識の王であられると言っても、「違う」と言う人はいません。神様は誰でしょうか。全知全能であられる方です。
(127-11、1983.5.1)
神様は天地万物を造り、人間を造る前には、自分を中心として動いていたのです。それで、神様に似ている私達も自分を中心として考えるときがあるのです。
そのような神様が天地万物を創造し始めたということは、対象の世界を展開させるためだというのです。また別の自分の相対存在をつくろうというのです。それで、神様御自身を投入しました。見えない神様から見える神様に展開させようというのです。
(69-81 ~ 82、1973.10.20)
創造をするにおいては、人間を中心に、人間をモデルとして東西南北、四方に広げて橋を架けてつくったのです。
(173-212、1988.2.18)
神は人間を創造する前に、未来において創造される人間の性相と形状とを形象的に展開して、万物世界を創造された。それゆえに、人間は万物世界を総合した実体相となるのである。
(原理講論、創造原理3.2)
神様が創造以前に最初に考えたものが真の父母だということを知らなければなりません。真の父母、真の夫婦、そして真の子女が一つになる所が家庭です。
(339-212、2000.12.26)
②絶対的真理
―宗教経典―
正しい裁きは御座の基、慈しみとまことは御前に進みます。
詩編89.15 (キリスト教)
神のことばには変更はない。それこそは、偉大な幸福の成就である。
クルアーン10.64 (イスラーム)
彼はブラフマンのただ中よりブラフマンを抽出せり。彼は低くまた高く、みずからの本性(svadha)に向かいて立ちあがれり。
アタルヴァ・ヴェーダ4.1.3 (ヒンドゥー教)
真実のみ勝つ。虚妄はしからず。真実によりて天神の路も作られたり。この路を辿りて、聖者達はその願望を成就して、真実在なる至上の宝蔵のある処(至上界)へと登りゆくなり。
ムンダカ・ウパニシャッド3.1.6(ヒンドゥー教)
神聖な法によってあらゆる形象が顕現したがゆえに、法は実に説明するすべがない。神聖な法によって万有が生じたために、法によってあるものはかぶせられ、法によって高潔さと卑賤さが分けられ、法によって彼らの幸、不幸を推し量る。
その法によってあるものには恩寵が、またあるものには生死輪廻の果報が巡ってくる。すべてがその法によりかかっているがゆえに誰もこれを抜け出して逃げることはできない。ナーナクが言うには、法の権能を知れば、自ら我慢を脱ぐだろう。
アーディ・グラント、ジャプジー2、M.1、P. (シーク教)
だから至誠は(うそ偽りが無く)間断がない。間断が無ければ、内において常に誠を保持する。内に常であれば外に効験がある。外に効験があれば、ますます悠遠で窮まることがない。
悠遠であれば、広博深厚である。広博深厚であれば、その発現は高大光明である。博厚(の徳)は物を背負い載せるものである。高明(な功業)は万物を覆うものである。長久(な行い)は、物を成就するものである。(これを至誠の徳という)。(聖人の)博厚(な徳)は、地と並び立ち、(聖人の)高明(な功業)は、天と並び立ち、長久に行って極まりないのである。
このような者(聖人)は、示さないで明らかであり(配地)動かないで変じ(配天)、なすことなくして成るのである。
中庸26(儒教)
「本性の法性」とは、何かといえば、すなわち、マハーマテイよ、かの古い(本性の)法性の道は、金と銀と真珠の産地の如し。マハーマテイよ、それらもろもろの如来が世に出ずるも、もろもろの如来が世に出でざるも、住している。それらもろもろの法の法性と法住性と法決定性とは、古城への道の如し。
たとえば、マハーマテイよ、或る人が荒野をさまようて、規則正しい道の随入している古城を発見する時に、かれはその都城へはいるであろう。マハーマテイよ、(かれが)そこにはいって、都城に住して、都城に事用と楽とを受けるとき、(かれが)都城にはいった、かの道と都城の種々相は、実にかの人の生じたものである、と汝は思うか。」
マハーマテイは言った。「世尊よ、そうではありません。」世尊はのたもうた。「実にマハーマテイよ、かくの如くに、わたくしともろもろの如来とによって証得された、かの法性と法住性と法決定性と如性と実性と真性とは住する。
桐伽経(りょうがきょう)61(仏教)
一み言選集―
そのお方は、永遠であり、不変であり、唯一的な存在であられるので、そのお方が願われる理想もそれと同じであり、愛もそれと同じであり、平和と幸福もそれと同じである事は間違いありません。
(74161、1974.12.7)
神様は絶対者であられます。ですから、天使長が堕落したとしても、神様は被造物を御自身の立てられた法則、規則に従って主管せざるを得ません。
(52-87、1971.12.22)
真の愛の生活とはどのようなものでしょうか。一言で言えば「ために生きる生活」です。人が自分のために生きてくれる事を願う前に、先に人のために生きる生活です。自分のために生きてくれる事を忘れてしまう生活です。
イエス様も、「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」と言い、「高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」と言われたのです。全知全能であられる創造主の神様だとしても、御自身が立てられた創造原理を無視して、願いのまま無条件に創造と破壊を繰り返すことはできません。(注3)
(433-179 ~ 180、2004.1.27)
宇宙の構成体自体が盲目的になっているのではないのです。この膨大な宇宙が、相対的、主体と対象の関係において対応しながら、授け受けする運動をしながら、永続的なその法度の軌道に従って永続するのです。法度の軌道に沿っていってこそ永続するというのです。法度の軌道に沿っていかなければ、永続するのではなく破壊が展開します。私達も、御飯を食べて消化が正常にされ、栄養素が正常に血管を通じて普及されて、初めて永続が展開するように、正常に普及されなければなりません。良く授け、良く受けてこそ永続が展開するのです。
(182-117、1988.10.16)
新しい宗教のための本体論は、従来のすべての絶対者が各々別個の神様ではなく、同一の一つの神様であることを明かさなければなりません。それと同時に、この神様の属性の一部を把握したのが各宗教の神観であった事と、その神様の全貌を正しく把握して、すべての宗教が神様から立てられた兄弟的宗教である事を明らかにできなければなりません。
それだけではなく、その本体論は、神様の属性とともに創造の動機と創造の目的と法則を明らかにし、その目的と法則が宇宙万物の運動を支配している事、そして人間が守らなければならない規範も、結局この宇宙の法則、すなわち天道と一致することを解明しなければならないのです。
宇宙の日月星辰(日と月と星)の創造の法則、すなわち天道によって縦的秩序の体系を構成しているように、家庭においても、祖父母、父母、子女から或る縦的秩序と、兄弟姉妹から成る横的秩序の体系が立てられ、それと同時に、それに相応する価値観、すなわち規範が成り立っている事を明らかにしなければなりません。さらに、この本体論は、その理論展開が自然科学的知識とも矛盾してはならず、人間の良心の判断によっても納得できなければなりません。
さらには、歴史の中で、「天に逆らう者は滅び、天に従う者は生きる」という命題が正しかった事が証明されなければなりません。
このような本体論によって立てられる価値観こそ、真の意味の絶対的価値観であり、このような価値観の確立とその絶対価値(絶対真、絶対善、絶対美)を理解し、実践することによって、人類の精神改革がなされると同時に、世界の混乱は次第に消えていくのです。
(122-304、1982.11.25)
③愛の法度
―宗教経典―
愛はこの強者と神聖な循環を支配する偉大な法であり、この物質世界の多様な要素を一つに結ぶ唯一な力であり、天界内において体が動く方向を定めてくれる最高の磁力である。
愛は終わりがなく、無限な力、宇宙の中に隠れている神秘とともに現れる。愛は人類の装った体の上にある生命の霊魂であり、この人間の世の中で真の文明の設立者であり、あらゆる高い所を目指す人種と国家に対する永遠の栄光の破片である。
アブドゥル・バハー(バハイ教)
愛、すなわち神性原理は、人間を含む宇宙の父母である。
科学と健康256 (クリスチャン・サイエンス)
一陰一陽これを道と謂(い)う。これを継ぐ者は善なり。これを成す者は性なり。仁者はこれを見てこれを仁と謂い、知者はこれを見てこれを知と謂い、百姓は日に用いて知らず。故に君子の道は鮮(すくな)し。
諸を仁に顕し、諸を用に蔵し、万物を鼓して聖人と憂いを同じくせず。盛徳大業至れるかな。富有これを大業と謂い、日新これを盛徳と謂う。生生これを易と謂い、象を成す、これを乾と謂い、法を效(いた)す、これを坤と謂う。数を極め来を知るこれを占と謂い、変に通ずるこれを事と謂い、陰陽測られざるこれを神(しん)と謂う。
易経、周易繋辞上伝1.5 (儒教)