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人生訓読 ブログ(日本語)

神様と真の御父母様を中心に全世界で御旨を歩む兄弟姉妹達と全ての人々の幸福の為にこのブログを捧げます。

世界経典-21

2020年10月17日 18時30分06秒 | 学習


―宗教経典―

アベルは羊を飼う者となり、カインは土を耕す者となった。時を経て、カインは土の実りを主のもとに献げ物として持って来た。アベルは羊の群れの中から肥えた初子を持って来た。主はアベルとその献げ物に目を留められたが、カインとその献げ物には目を留められなかった。

 

カインは激しく怒って顔を伏せた。主はカインに言われた。「どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのか。もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか。正しくないなら、罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める。お前はそれを支配せねばならない。」

 

カインが弟アベルに言葉をかけ、二人が野原に着いたとき、カインは弟アベルを襲って殺した。主はカインに言われた。「お前の弟アベルは、どこにいるのか。」カインは答えた。「知りません。私は弟の番人でしょうか。」主は言われた。「何ということをしたのか。お前の弟の血が土の中から私に向かって叫んでいる。今、お前は呪われる者となった。お前が流した弟の血を、口を開けて飲み込んだ土よりもなお、呪われる。土を耕しても、土はもはやお前のために作物を産み出すことはない。お前は地上をさまよい、さすらう者となる。」

 

カインは主に言った。「私の罪は重すぎて負いきれません。今日、あなたが私をこの土地から追放なさり、私が御顔から隠されて、地上をさまよい、さすらう者となってしまえば、私に出会う者はだれであれ、私を殺すでし
ょう。」

 

主はカインに言われた。「いや、それゆえカインを殺す者は、だれであれ七倍の復讐を受けるであろう。」主はカインに出会う者がだれも彼を撃つことのないように、カインにしるしを付けられた。カインは主の前を去り、エデンの東、ノド(さすらい)の地に住んだ。
創世記4.2 ~ 16(キリスト教)

 

アダムの二子の物語の真実をかれらに語れ。かれら両人が犠牲をささげたとき、ひとりは受け入れられなかった、それで「わしはきっとおまえを殺すであろう」と言った。

 

かれは答えて言った「神は、ただ主を畏れる者からのみ、受け入れたもう」。「たとえあなたが、私を殺すためにその手を伸べても、私はあなたを殺すために、手を伸べないであろう。私はよろず世の主、神を恐れまつる」。

 

「まことに私は、あなたが私の先に犯した罪と、あなたの殺人の罪とを負って、火獄のともがらになることを望む、これは不義を行なった者の応報である」。しかしかれの利己的な心は、その兄弟を殺すのを望ましいことにし、ついにかれを殺害して、失敗者のひとりとなった。

 

そのとき神は、一羽の大ガラスをつかわして地を掘らせたまい、その兄弟の死体をいかにおおうべきかをかれに示したもうた。かれは言った「ああ情けない、兄弟の死体を葬るのに、わしはこのヵラスほどのことさえできないのか」と。こうしてかれは後悔するひとりとなった。
クルアーン5.27 ~ 31(イスラーム)

 

信仰によって、アベルはカインより優れたいけにえを神に献げ、その信仰によって、正しい者であると証明されました。神が彼の献げ物を認められたからです。アベルは死にましたが、信仰によってまだ語っています。
ヘブライ人への手紙11.4(キリスト教)

 

アダムとエバが子女を生んだとき、その最初の実は蛇の息子だった。エバが二人と関係したために、どちらからも妊娠し、二人の子女を生んだ。二人の息子は、どちらもそれぞれの父から生まれたために、彼らの霊は分かれた。

 

一人の子はこちらに、もう一人は反対側に。性稟もやはり反対だった。カインの側には常に悪の部類が共にあり、アベルの側には慈悲深い者たちが多かったが、すべてが義なる者たちではなかった。
良いぶどう酒と悪いぶどう酒が混ざっているのと同じだった。ゆえに、三人目が出てきたのちに、初めて完全な人類が出てきたのである。三人目は、すべての義人たちの最初の先祖になった。

 

カインはアベルと敵対し、彼を殺した。これは、カインが世に死をもたらすサマエルの天性を相続したからである。カインは、女性問題でアベルをねたんだ。創世記4章8節に、「二人が野原に着いたとき、カインは弟アベルを襲って殺した」と出ている。ここで「二人」とは女性を象徴する。本文によれば、カインが自分の祭物が受け入れられずに怒ったとあるが、これは副次的な理由だった。(注5)
ゾハール1.36b (ユダヤ教)


―み言選集―

アダム家庭で始まったカインとアベルの闘争歴史は、人類歴史をそのまま戦争と葛藤の歴史にしてしまいました。小さくは人間個々人の心と体の葛藤から、大きくは国家と国家が、さらには全世界が物本主義と神本主義に分かれ、対立、闘争をしてきました。
平和神経、平和メッセージ1.20、2005.9.12

 

本来人間は、神様の主管のみを受けるようになっています。神様のみが人間の主人でなければなりません。ところが、人間とサタンとが不倫なる関係を結ぶことにより、人間に対してサタンが不倫なる主人となってしまったのです。

 

愛は統制力、支配力を伴うと原理が語っているように、たとえそれが不倫の愛であっても、サタンは、人間に対してその所有権を主張するだけの力、あるいは権威や権利をもつのです。

 

ところが、創造原理によれば、あくまでも神様が本来の主人ですから、結局、この両者は共に人間に対して、その所有を主張することができることになります。しかし、だからといってアダムを二つに切断して、神様とサタンの間で分け合うことは、物理的に不可能です。

 

そこで神様は、原理的観点から、人間を二つに分立するために、あるルールを定められたのです。すなわち内的存在としての神様と、外的存在としての被造物という立場から、内外の関係と、主体、対象の関係によって、神様はその分立のルールを定められました。すなわち神様は、堕落したアダムとエバを、彼らによって生まれた二人の子供を通して、分立されたのです。

 

カインはサタンを表示する側であり、アベルは罪なきアダムの立場を表示する側です。次男(アベル)を神様は、内的立場に立たせたのであり、これは、悪の要素のより少ない側、言い換えるならば、アダムとエバの間に結ばれた第2の愛を表示しているのです。
アベルは、第2の愛の実ですが、一方のカインは、第1の愛の実であって、その愛の中にあるサタンを表示しているのです。つまり、次男アベルのほうが、エバと天使長との関係よりも、エバとアダムとの関係により近いので神様の側に取られたわけです。

 

さて、本来の命令系統は、神様から始まり、アダムヘ、アダムから天使長へという順序だったので、この場合には、その関係は神様からアベルへ、アベルからカインヘという順序にならなければなりません。これが復帰された位置関係なのです。

 

そこで神様は、まず、この公式を復帰することにより、失われた原理を取り戻していくのです。堕落行為によって、人類の血統は交差しました。言い換えれば、サタンの血が人類の血統を占領しているのです。

 

それゆえに、これらの復帰は、根源までさかのぼって成されなければならず、そのために、次男アベルが長男の長子権を復帰しなければならなかったのです。神様はこれらの二人の兄弟を用いることによって、長男の長子権を復帰する摂理を行おうとされたのです。

 

すなわち、カインはアベルの位置に下がらなければならず、アベルはカインの位置、すなわち長男の位置に上がらなければならなかったのです。

 

ところが、カインはアベルを殺害してしまいました。この行為は、アダムとエバの時の堕落行為の反復です。すなわち、復帰されるどころか、再び天使がアダムを主管した立場に立ってしまったのです。
(55-109 ~ 110、1972.4.1)

 

アダムはサタンと血縁関係を結んだので、神とも対応でき、また、サタンとも対応することができる中間位置におかれるようになった。したがって、このような中間位置におかれた堕落人間を天の側に分立して、「メシヤのための基台」を造成するためには、堕落人間自身が何らかの蕩減条件を立てなければならない。……

 

神はこのような非原理的な摂理をなさることはできないので、善悪二つの性品の母体となったアダムを、善性品的な存在と悪性品的な存在との二つに分立する摂理をなさらなければならなかったのである。

 

このような目的のために、神はアダムの二人の子を、各々善悪二つの表示体として分立されたのち、彼らに、神かサタンかのどちらか一方だけが各々対応することのできる、すなわち、一人の主人とのみ相対する、原理的な立場に立ててから、各自供え物をささげるように仕向けられたのである。

 

カインとアベルは、どちらもエバの不倫の愛の実である。したがって、エバを中心として結んだ二つの型の不倫な愛の行為を条件として、それぞれの立場を二個体に分けもたすべくカインとアベルを、各々異なる二つの表示的立場に立てるよりほかに摂理のしようがなかったのである。

 

すなわち、カインは愛の初めの実であるので、その最初のつまずきであった天使長との愛による堕落行為を表徴する悪の表示体として、サタンと相対する立場に立てられたのであり、アベルは愛の二番目の実であるがゆえに、その二番目の過ちであったアダムとの愛による堕落行為を表徴する善の表示体として、神と対応することができる立場に立てられたのである。

 

神が創造された原理の世界を、サタンが先に占有したので、神に先立って、サタンが先に非原理的な立場からその原理型の世界をつくっていくようになった。そうして、元来、神は長子を立てて、長子にその嗣業を継承させようとなさった原理的な基準があるので、サタンも、二番目のものよりも、最初のものに対する未練が一層大きかった。

 

また事実サタンは、そのとき、既に被造世界を占有する立場にあったので、未練の一層大きかった長子カインを先に取ろうとした。したがって、神はサタンが未練をもって対応するカインよりも、アベルと対応することを選び給うたのである。
そうして、神はアベルの供え物は受けられ、カインの供え物は受けられなかったが、その理由はどこにあったのだろうか。アベルは神が取ることのできる相対的な立場で、信仰によって神のみ意にかなうように供え物をささげたから(ヘブル11・4)神はそれを受けられた(創4・4)。

 

このようにして、アダムの家庭が立てるべき「信仰基台」がつくられるようになったのである。これは、たとえ堕落人間であっても、神が取ることのできる何らかの条件さえ成立すれば、神はそれを受け入れられるということを教示なさるためでもあった。

 

そして、神がカインの供え物を受けられなかったのは、カインが憎いからではなかったのである。ただ、カインはサタンが取ることのでぎる相対的な立場に立てられていたので、神がその供え物を取ることができるような何らかの条件をカイン自身が立てない限りは、神はそれを取ることができなかったからである。

 

神はこれによって、サタンと相対する立場にいる人間が、神の側に復帰するには、必ずその人自身が何らかの蕩減条件を立てなければならないことを教示されたのである。……

 

天使長が、神にもっと近かったアダムを仲保に立て、彼を通じて神の愛を受けようとはせず、かえってアダムの位置を奪おうとして堕落してしまったので、「自己の位置を離れる堕落性」が生じた。ゆえに、この堕落性を脱ぐためには、天使長の立場にいるカインがアダムの立場にいるアベルを仲保として、彼を通じて神の愛を受ける立場をとることにより、自分の位置を守るべきであったのである。

 

天使長は自分を主管すべくつくられた人間、すなわちエバとアダムを逆に主管して堕落したので、「主管性を転倒する堕落性」が生じた。したがって、人間がこの堕落性を脱ぐためには、天使長の立場にいるカインがアダムの立場にいるアベルに従順に屈伏して、彼の主管を受ける立場に立つことによって、主管性を正しく立てるべきであったのである。

 

善悪の果を取って食べるなという善のみ言を、神はアダムに伝え、アダムはこれをエバに伝え、エバは天使長に伝えて、善を繁殖すべきであった。しかし、これとは反対に、天使長は取って食べてもよいという不義の言葉をエバに伝え、エバはそれをアダムに伝えて堕落したので、「罪を繁殖する堕落性」が生じた。

 

ゆえにこの堕落性を脱ぐためには、天使長の立場にいるカインが、自分よりも神の前に近く立っているアベルの相対となる立場をとり、アベルから善のみ言を伝え受けて、善を繁殖する立場に立つべきであったのである。……

 

人間が常に立派な指導者や親友を探し求めようとするのは、結果的に見るならば、より天の側に近いアベル型の存在を求めて彼と一体化し、天の側に近く立とうとする天心から起こる行為である。

 

また、謙遜と柔和が、キリスト教信仰の綱領となっているのは、日常生活の中で、自分も知らずにアベル型の人物に会って、彼を通じて天の前に立つことができる位置を確保するためである。個人から家庭、社会、民族、国家、世界に至るまで、そこには必ず、カインとアベルの二つの型の存在がある。それゆえに、このようなすべてのものを、創造本然の立場に復帰するためには、必ずカイン型の存在がアベル型の存在に従順に屈伏しなければならないのである。

 

イエスは、全人類がその前に従順に屈伏しなければならないアベル的な存在として、この世に来られたお方である。したがって、彼によらなくては、天国に入る者がないのである(ヨハネ14・6)。しかし、カインがアベルを殺害することによって、天使長が人間を堕落せしめた堕落性本性を反復するようになり、アダムの家庭が立てるべきであった「実体基台」は立てられなかった。したがって、アダムの家庭を中心とする復帰摂理は成し遂げられなかったのである。
原理講論、復帰基台摂理時代1-1 ~ 2

 

カインとアベルが祭物を捧げたのち、アベルの祭物だけを神様が受けられたことを知ったカインが、アベルを憎み、殺害してしまいましたが、ここには、カインとアベルが祭物を捧げるために準備するときから、カインにアベルを憎む心があったことを、皆さんは知らなければなりません。

 

カインが、神様が自分の祭物を受けないので、瞬間的にアベルに対する憎しみが生じて彼を殺害し
たのではなく、そのことにぶつかる前から、アベルが憎くて葬り去りたいという思いがカインにあったというのです。
(3-205、1957.11.1)

 

皆さんは、カインとアベルが一緒に神様に祭物を捧げたとき、アベルの祭物を受けられた神様の立場と、カインの祭物を受けられなかった神様の立場が、互いに異なるものだと思っていますが、そうではなかったことを知らなければなりません。

 

カインに、天の立場を身代わりしていたアベルを通そうという心が少してもあったならば、神様は、そのカインの祭物を受けられたでしょう。神様は、時間的な差はあったとしても、公平な立場で彼らに接しようとされたのです。
(3-205、1957.11.1)

 

カインとアベルが祭祀を分かれて捧げたのですが、アベルの祭祀を受けたことに対して、カインが私も神様に紹介してくださいと、完全に絶対信仰、絶対愛、絶対服従する心で一つになってこそ、受け入れられるようになっているのです。
(378-206 ~ 207、2002.5.12)

 

神様がアベルを立てられた理由は、カインを救援するところにあります。ですから、神様から受けた愛をカインに丸ごと与えると同時に、自分の愛までも加えて与えなければなりません。これが本来のアベルの立場です。
(18-277、1967.6.12)

 

アダム家庭において、実体基台を勝利するためにカインとアベルが一つにならなければならないという摂理をされる時、神様がアベルの祭物だけを受けるようになったのですが、これに対してアベルが驕慢な心をもつようになったので、サタンがそれを讒訴してカインに血気を起こすようにさせ、理性を失うようにして、弟のアベルを殺書するように役事しました。
(374-12 ~ 13、2002.4.4)

 

人間は堕落によって、心と体が統一調和の基準を失ってしまい、葛藤しながら自己矛盾の中で生きてきました。それだけでなく、個人の中で生じる心と体の葛藤と闘争は、家庭、社会、国家と世界に拡大されてきました。

 

兄のカインが弟のアベルを殺害する犯罪も、ここに由来しています。歴史始まって以来、この地球上で起こったあらゆる対決と戦争は、本質的に、より悪なるカイン側とより善なるアベル側との間の戦いでした。
(299-105、1999.2.6)


カインとアベルが一つにならずに分かれてはいけません。一方は正しいほうであり、一方は悪いほうです。ですから誰でも私の神様であると同時に、あなたの神様であり、私を愛するだけでなく、あなたを愛する神様であるという信仰の立場で、お互いにアベル的な存在を求めて侍り、カイン的な立場を避けて最大の努力をしなければいけません。
(3-207 ~ 208、195711.1)

 

アダム家庭でカインがアベルを殺害するのを見つめるとき、神様がどれほど痛哭されたでしょうか。それが世界的に起きるのですが、どうするのですか。本来は、兄が弟を父の代わりに愛さなければならないのに、これはどういうことかというのです。
(406-26、2003.3.2)

 

アダム家庭でカインがアベルを殺害するとき、神様の心はどうだったでしょうか。「しまった、大変なことになった! そのことがなければどれほどよかったか!」と思われたのです。アダムとエバもどれほどあぜんとしたでしょうか。願っているものがなくなったのです。そのような神様が終わりの日に、兄弟、兄と弟が争うこの局面で、一方は天国に、一方は地獄に行くにおいて、刑場に出て死ぬことを願う神様ではなかったのです。息子、娘が刑場に出て死刑を受けることを願う父母はいません。自分たちが責任をとることができるのであれば、何でもするという心を抱かれた神様です。
(295-63、1998.8.17)


3.悪魔とその活動

すべての宗教の経典は、悪魔の存在とその勢力に対して言及している。悪魔の頭は様々な名前で知られている。サタン、ルーシェル、イブリース、マラ、サマエル、ベルゼブル、アングラマイニュなどがそれである。

 

その中の一部は、人間の堕落と悪の根源で言及した。悪魔は、人間の心が邪悪なことをするよう
引っ張るなど、絶えず活動している。理性論者たちは悪魔の実在を受け入れ難いかもしれないが、20 世紀の歴史とそれによる恐怖を見てみれば、互いに悪の影響を及ぼす人間の能力は理性を超える。

 

教皇パウロ6世は、悪魔に対して次のように語った。「私達は、暗く不安にさせる霊が実在することと、それがいまだ校滑に背信的な活動をしていることを知っている。それは、それが人類歴史に過ち、不幸をもたらす見えない敵であり、私達の中で、感覚、想像力、情欲、ユートピア的論理、あるいは人生の過程で交わす無秩序な社会的接触を通して活動している」。(注6)

 

悪魔のわなは多様だ。経典の教えによれば、一人が小さな悪を行おうとする欲望をもったとき、悪魔は彼に対して訴えかけ、彼がもっと大きな過ちを犯すよう影響を及ぼすことができる。逆に言えば、宗教の道に入った人は、特に信仰で大きな進展をなそうとするとき、悪魔の誘惑を経験する。

 

一部の宗教(主にゾロアスター教)で、神様と悪魔は永遠の敵だが、悪魔の力を認める信仰が二元論を意味するのではない。神様の創造の善を教える一神教は、悪魔は結果的存在であり、神様の僕という本来の位置から離れて神様の怨讐となった天使だと教える。

 

文鮮明先生は、天使ルーシェルの堕落は人間の堕落とともに成されたのであり、その時、ルーシェルは人間に対する主管を主張する強力な悪魔であるサタンになったと教える。

 

次の章句は、悪魔の性格と様々な誘惑、そして、人間を捕らえるために、ルーシェルが使った戦略に対して説明している。サタンを克服する鍵は、利己心、驕慢、貪欲、官能的快楽の追求など、サタンのあらゆる性向を私達自身が浄化することであり、神様と永遠性を主軸とした人生を営むことである。


①天使の堕落

―宗教経典―

この巨大な竜、年を経た蛇、悪魔とかサタンとか呼ばれるもの、全人類を惑わす者は、投げ落とされた。地上に投げ落とされたのである。その使いたちも、もろともに投げ落とされた。
ヨハネの黙示録12.9 (キリスト教)

 

ああ、お前は天から落ちた、明けの明星、曙の子よ。お前は地に投げ落とされた、もろもろの国を倒した者よ。かつて、お前は心に思った。

 

「私は天に上り、王座を神の星よりも高く据え、神々の集う北の果ての山に座し、雲の頂に登って、いと高き者のようになろう」と。しかし、お前は陰府に落とされた、墓穴の底に。
イザヤ書14.12 ~ 15(キリスト教)


われが天使たちに「アダムに叩頭(こうとう)せよ」と、告げたときを思え、そのときイブリースのほかは叩頭した。かれは、「私はあなたが、どろでつくられた者に、どうして叩頭しましょう」と言った。

 

かれはまた「あなたはお考えになりませんか、あなたが私よりも重視したもうのは、この者であります。もし復活の日まで、私に猶予を賜わるなら、わずかの者を除き、かれの子孫をきっと私の配下にいたしましょう」と言った。

 

かれは仰せられた「去れ、もしかれらのうち、なんじに従う者あれば、まことに地獄こそ、なんじらへの応報、十分な応報である」。「なんじの魅惑的な声で、かれらのうちの能うかぎりの者を動揺させ、なんじの騎兵や歩兵でかれらを攻撃せよ。財宝と子女をかれらと分けて、約束を結べ。しかし悪魔の約束は、ただ欺くにすぎない」。
クルアーン17.61 ~ 64(イスラーム)


主なる神である私は、モーセに語って言った。「あなたが私の独り子の名によって命じたあのサタンは、初めからいた者である。彼は私の前に来て言った。『御覧ください。私がここにいます。私をお遣わしください。私はあなたの子となりましょう。そして、私は全人類を贖って、一人も失われないようにしましょう。必ず私はそうします。ですから、私にあなたの誉れを与えてください。』

 

しかし見よ、初めから私が愛し選んだ者である私の愛する子は、私に、『父よ、あなたの御心が行われ、栄光はとこしえにあなたのものでありますように』と言った。

 

あのサタンは私に背いて、主なる神である私が与えた、人の選択の自由を損なおうとしたので、また私の力を自分に与えるように求めたので、私は独り子の力によって彼を投げ落とさせた。

 

そして、彼はサタン、すなわち、あらゆる偽りの父である悪魔となって、人々を欺き、惑わし、またまことに、私の声を聴こうとしないすべての者を自分の意のままにとりこにする者となった。……」(注7)
高価なる真珠、モーセ書4.1 ~ 4(末日聖徒イエス・キリスト教会)

 

一方、自分の領分を守らないで、その住まいを見捨ててしまった天使たちを、大いなる日の裁きのために、永遠の鎖で縛り、暗闇の中に閉じ込められました。ソドムやゴモラ、またその周辺の町は、この天使たちと同じく、みだらな行いにふけり、不自然な肉の欲の満足を追い求めたので、永遠の火の刑罰を受け、見せしめにされています。
ユダの手紙6 ~ 7(キリスト教)


―み言選集―

神様は主人であり、私達人間はその方の息子、娘です。天使は主人の僕になり、その息子、娘の僕にもなります。天使の中でも、神様に最も近くアダムとエバと一番近い存在として、彼らの事情を知ることができる存在は天使長でした。

 

神様は、この世の中を創造する過程で、アダムとエバを創造する前には天使長と相談しながら、使いをさせながら創造の偉業を成してきました。したがって、天使長とは何と同じかというと、お金持ちの家の僕と同じです。ですから、その主人の息子、娘、分別のない息子、娘に対しても僕の立場だということを知らなければなりません。
(53-331、1972.3.6)

 

神は天使世界を創造されてから(創1・26)ルーシェル(明けの明星という意、イザヤ14・12)に天使長の位を与えられた。それゆえに、あたかもアブラハムがイスラエルの祝福の基となったように、ルーシェルは天使世界の愛の基となり、神の愛を独占するかのような位置にいたのであった。しかし、神がその子女として人間を創造されたのちは、僕として創造されたルーシェルよりも、彼らをより一層愛されたのである。

 

事実上、ルーシェルは、人間が創造される以前においても、以後においても、少しも変わりのない愛を神から受けていたのであるが、神が自分よりもアダムとエバをより一層愛されるのを見たとき、愛に対する一種の減少感を感ずるようになったのである。

 

これは、ちょうど、朝から働いた労働者が、自分が働いただけに相当する労賃を全部受けとったにもかかわらず、遅く来て少し働いた労働者も自分と同じ労賃を受けとるのを見て、自分が受けた労賃に対する減少感を感じたという聖書の例え話(マタイ20・1~ 15)と同じ立場であったということができる。

 

このような立場で愛の減少感を感ずるようになったルーシェルは、自分が天使世界において占めていた愛の位置と同一の位置を、人間世界に対してもそのまま保ちたいというところから、エバを誘惑するようになったのである。これがすなわち、霊的堕落の動機であった。
原理講論、堕落論2.2.1

 

創世記3章14 節を見れば、神は堕落した天使を呪い給い、「おまえは腹で、這いあるき、一生、ちりを食べるであろう」と言われた。足で歩くことができず腹で這うということは、天使が創造本然の活動をすることができず、悲惨な状態になるということを意味するのであり、ちりを食うということは、天より追いだされることによって(イザヤ14・12、黙12・9)、神からの命の要素を受けることができず、罪悪の世界に陥って、悪の要素を受けながら生きていくということを意味するのである。
原理講論、堕落論1.4

 

②悪魔の行跡

―宗教経典―

私は、悪魔たちが下るのが、だれの上であるかおまえたちに告げようか。かれらは、あらゆる中傷者と罪のある者の上に下る、(悪魔の語に)耳を貸す者、かれらの多くは虚言者である。
クルアーン26.221 ~ 223 (イスラーム)

 

世の中の何ものに執著しても、それによって悪魔が人につきまとうに至る。(注8)
スッタニパータ1103 (仏教)

 

汝の第一の軍隊は欲望であり、第二の軍隊は嫌悪であり、第三の軍隊は飢渇であり、第四の軍隊は妄執といわれる。汝の第五の軍隊はものうさ、睡眠であり、第六の軍隊は恐怖といわれる。汝の第七の軍隊は疑であり、汝の第八の軍隊はみせかけと強情とである。誤って得られた利得と名声と尊敬と名誉と、また自己をほめたたえて他人を軽蔑することである。
ナムチよ、これらは汝の軍勢である。黒き魔(kanha)の攻撃軍である。勇者でなければ、かれにうち勝つことができない。(勇者は)うち勝って楽しみを得る。
スッタニパータ436 ~ 439 (仏教)

 

私達の戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。
エぺソの信徒への手紙6.12 (キリスト教)

 

「邪師は聖歌を破壊する(彼は邪説をもって生の意思を破壊する。彼こそは資産を阻むもの)ウォフ・マナフのくだす吉祥なる授かり分を阻むもの。」わたくしの心中のこのことばを、マズダーよ、アシャと御身たちに、わたくしは訴える次第です。
アヴェスター・ヤスナ32.9 (ゾロアスター教)

 

なんじ以前にわれがつかわした使者や予言者は、かれが望みをもったとき、悪魔がその望みにむなしい示唆をしないことはなかった。だが神は、悪魔の示唆したものを消したまい、やがて神は、しるしを確証したもうた。まことに神は、全知者・英明者であられる。これはかれが悪魔に示唆させて、心に病のある者、ならびに心のかたくなな者に対する、一つの試みとされるためである。
クルアーン22.52 ~ 53(イスラーム)

 

神の使徒が言った。「あなたたちの中で、精霊(悪鬼)がつきまとわない者は誰もいない」。これに信徒の仲間たちが尋ねた。「あなたも同じですか」。使徒が答えた。「そうだ。しかし、神が精霊に対抗して私を保護してくださるため、私は精霊の手から安全だ」。
ムスリム・ハディース(イスラーム)

 

罪を犯す者は悪魔に属します。悪魔は初めから罪を犯しているからです。悪魔の働きを滅ぼすためにこそ、神の子が現れたのです。神から生まれた人は皆、罪を犯しません。神の種がこの人の内にいつもあるからです。この人は神から生まれたので、罪を犯すことができません。神の子たちと悪魔の子たちの区別は明らかです。正しい生活をしない者は皆、神に属していません。自分の兄弟を愛さない者も同様です。
ヨハネの手紙3.8 ~ 10(キリスト教)

 

(イエスは言われた。)「私の言っていることが、なぜ分からないのか。それは、私の言葉を聞くことができないからだ。あなたたちは、悪魔である父から出た者であって、その父の欲望を満たしたいと思っている。

 

悪魔は最初から人殺しであって、真理をよりどころとしていない。彼の内には真理がないからだ。悪魔が偽りを言うときは、その本性から言っている。自分が偽り者であり、その父だからである。しかし、私が真理を語るから、あなたたち
は私を信じない。」
ヨハネによる福音書8.43 ~ 45(キリスト教)

 

憂いの国に行かんとするものはわれを潜れ。
永劫の呵責に遭わんとするものは
われをくぐれ。
破滅の人に伍せんとするものは
われをくぐれ。
正義は高き主を動かし、
ただ無窮あり、われは無窮に続くものなり、
われを過ぎんとするものは
一切の望を捨てよ。
ダンテ・アリギエーリ神曲1.3 (キリスト教)


一み言選集―

堕落とは何でしょうか。サタンに支配されたことです。それゆえ、今日アダムとエバを中心として生まれたすべての子孫は、サタンの支配圏から逃れることができないまま、歴史が発展してきたのです。
(168-300、1987.10.1)

 

悪魔は「私のために生きろ」と言います。歴史的にあらゆる独裁者たちは、「私のために生きろ」と言いました。
(222-139、1991.10.28)

 

私達は、この悪の世の中でどのように善悪を分別しながら真理を求めていかなければならないのでしょうか。自分を中心とする心を捨て、常に低い位置に下りていかなければなりません。聖書にも、「自分を低くする者は高くされるであろう」とあります。

 

人間の本質は霊的なものです。ですから、あの国に行けば、そのような人間の本質が人のために生きるようになっていることを、より一層実感するようになるのです。ところが、人間はどうして自分のために生きようとする心で万事に臨んでいるのですか。これはすべての人間たちが天倫に背いた天使、言い換えれば、サタンと血統的な因縁をもっているからです。
(2-138、1957.3.17)

 

サタンが讒訴して関係を結ぶことができる条件が罪だと言いましたが、結局、創造原則、本来の宇宙の根本原則に反対となる立場に立ったのです。人間は対象の立場で神様を主体としているので、神様だけのために生きるところで存在の価値があり、存在の起源があります。

 

ところが、悪の出発は、サタン自身もそうであり、エバ自身も、「私が主体になってみよう。私が中心になろう」と考えながら、自己愛から始まったのです。これが悪です。神様の創造原則は対象のために存在するというものですが、対象を否定し、「私のために存在せよ」と言ったのです。

 

皆さんは、善悪の起源をはっきりと知らなければなりません。悪の人は「私のために生きなさい。私のところに来てみな屈服しなさい」と言います。神様もこれをたたきつぶさなければならず、イエス様もこれをたたきつぶさなければなりません。ですから、「驕慢になってはいけない。自分の利益を求めてはいけない。人のために犠牲になりなさい。奉仕しなさい」と言ったのです。
(69-84 ~ 85、1973.10.20)

 

堕落とは、人間始祖が神様の縦的な真の愛のもとで、横的に真の愛を完結することができず、天使長の侵犯を受け、偽りの横的愛を成したことです。この堕落の結果として、神様は愛する子女を失ってしまうようになったのであり、人間は心と体が矛盾し、葛藤を経る故障した命として生まれざるを得なくなったのであり、悪魔は横的愛の条件にかこつけて、個人かち世界に至るまで人間を不当に管掌してきています。
(198-58、1990.2.1)

 

ヨハネによる福音書第8章44 節を見れば、「あなたがたは自分の父、すなわち、悪魔から出てきた者」とイエス様が指摘しました。それは何の結果としてそのようになったのでしょうか。堕落の結果としてそのようになったのです。堕落によってサタンがエバを騙し、エバはアダムを騙し、互いに騙す悲劇の歴史が出発したことを知らなければなりません。
(73-202 ~ 203、1974.9.18)

 

エバが天使長と一つになって堕落することによって、天使長は悪魔サタンになったのであり、サタンの血筋を受け継ぐようになったのです。エバを中心として見るとき、本来、生まれるべきアダムとエバの息子たちは、長子も神様の息子であり、次子も神様の息子になるべきでしたが、堕落することによって、エバの一つの体を中心としてサタンに引っ張られていってしまいました。

 

本来の創造原理の中で、愛を中心として見るとき、愛は所有物の確定を決定するようになっています。愛の因縁を結べば、必ずその愛を中心とする主体と対象は互いの所有権が決定するようになっているのです。このような原理的基準を中心として見るとき、エバが堕落したのは何ですか。天使長の世界を中心として新しい愛の因縁を結ぶ所有権の決定をしたということです。
(110-216、1980.11.18)

 

人間は堕落することによって神の宮となることができず、サタンが住む家となり、サタンと一体化したために、神性を帯びることができず堕落性を帯びるようになった。

 

このように、堕落性をもった人間たちが悪の子女を繁殖して、悪の家庭と悪の社会、そして悪の世界をつくったのであるが、これがすなわち、堕落人間たちが今まで住んできた地上地獄だったのである。

 

地獄の人間たちは、神との縦的な関係が切れてしまったので、人間と人間との横的なつながりもつくることができず、したがって、隣人の苦痛を自分のものとして体恤することができないために、ついには、隣人を害するような行為をほしいままに行うようになってしまったのである。人間は地上地獄に住んでいるので、肉身を脱ぎ捨てたのちにも、そのまま天上地獄に行くようになる。

 

このようにして、人間は地上、天上共に神主権の世界をつくることができず、サタン主権の世界をつくるようになったのである。サタンを「この世の君」(ヨハネ12・31)、あるいは「この世の神」(コリントⅡ 4・.4)と呼ぶ理由は実にここにあるのである。
原理講論、人類歴史の終末論1.2

 

私達の主人でいらっしゃるお父様は、主人になることができず、あなたの怨讐であるサタンの血統を受け継ぎ、サタンが主管する暗黒圏内に私達を引きずり下ろしてきたという事実を考えるとき、どれほど憤懣やるかたない事実かをもう一度私達が回顧しながら、この地球上から、大勢の霊人たちがとどまる霊界に至るまで、億千万世の怨讐となったサタンを追放するのがお父様の願いであられ、真の人類の願いだったことを、この時間、私達が肝に銘じなければなりまサん。

 

お父様、サタンの権威と権勢の基盤がどれほど残っているかを生活の中で感じることができない私達でございます。一時一時を送りながら、一日一日を過ごしながらも、サタンの権勢と権限が私達の生活圏内にどれほど浸透しているかを、今までも感じることができなかった私達の信仰生活だったことを、お父様、思うのでございます。
(19-184 ~ 185、1968.1.7)


③告発するサタン

―宗教経典―

堕落後、人は数多い群れの悪霊と懲罰の使者たちに引かれていった。その前でアダムは、恐怖で体が縮み上がった。ソロモンは、神秘な知恵をもった人だった。天は彼を王座に立てられ、あらゆる世界が彼を畏敬した。しかし、彼もまた罪を犯すと、悪で罰を与える霊たちに引かれていった。

 

大切な所有物を奪われ、拷問を受ける状況になると、ソロモンは恐れをなした。明らかに人は自らの行いによってあの世の使者につれていかれる。使者が善か悪かは、自分が歩んできた地上の人生にかかっている。
ゾハール1.53b (ユダヤ教)

 

ある日、主の前に神の使いたちが集まり、サタンも来た。主はサタンに言われた。「お前はどこから来た。」「地上を巡回しておりました。ほうぼうを歩きまわっていました」とサタンは答えた。主はサタンに言われた。「お前は私の僕ヨブに気づいたか。地上に彼ほどの者はいまい。無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きている。」

 

サタンは答えた。「ヨブが、利益もないのに神を敬うでしょうか。あなたは彼とその一族、全財産を守っておられるではありませんか。彼の手の業をすべて祝福なさいます。お陰で、彼の家畜はその地に溢れるほどです。ひとつこの辺で、御手を伸ばして彼の財産に触れてごらんなさい。面と向かってあなたを呪うにちがいありません。」

 

主はサタンに言われた。「それでは、彼のものを一切、お前のいいようにしてみるがよい。ただし彼には、手を出すな。」サタンは主のもとから出て行った。(注9)
ヨブ記1.6 ~ 12(キリスト教)

 

すべてのことが決定されたとき、悪魔は言うであろう、「真実の約束を、おまえたちに約束されたのは神であった、わしも約束したのだが、おまえたちの役に立てなかった。もともとわしは、おまえたちに対し権威はないのだ、ただおまえたちに呼びかけ、おまえたちがわしに従ったのみだ。それでわしを非難してはならぬ、むしろ自分自身を責めよ……」
クルアーン14.22 (イスラーム)


―み言選集―

サタンは、ヨブを神の前に訴えるように(ヨブ1・9)絶えずあらゆる人間を神の前に訴え、地獄に引いていこうとしているのである。しかし、サタンもその対象を取り立てて、相対基準を造成し、授受作用をしない限り、サタン的な活動をすることはできない。サタンの対象は、霊界にいる悪霊人たちである。

 

そして、この悪霊人たちの対象は、地上にいる悪人たちの霊人体であり、地上にいる悪人たちの霊人体の活動対象は彼らの肉身である。したがって、サタンの勢力は悪霊人たちを通して地上人間の肉身の活動として現れる。それゆえ、ルカ福音書22 章3節には「イスカリオテと呼ばれていたユダに、サタンがはいった」と記録されており、またマタイ福音書16 章23 節を見ればイエスはぺテロを指してサタンと言われた。さらにまた、このような悪霊人体を「悪魔の使者」と記録しているところもある(マタイ25・41)。

 

地上天国を復帰するということは(前編第3 章第2 節参照)、全人類がサタンとの相対基準を完全に断ちきり、神との相対基準を復帰して、授受作用をすることにより、サタンが全く活動することのできない、そのような世界をつくることをいうのである。

 

終末に至って、サタンを底なき所に閉じ込めると言われたみ言は、とりもなおさず、サタンの相対者がいなくなることによって、サタンが活動できなくなるということを意味する。
原理講論、堕落論4.2

 

神様は歓迎しますが、サタンは放してくれません。なぜでしょうか。「本来、あなたには創造原則によって、愛で主管できる権限があるではないですか。私は非法的な愛の道、非法的な位置に立ちましたが、アダムとエバを愛したのは間違いない。

 

愛は本来、主管性の原則ではないですか。私がアダムとエバを愛したのだから主管することができるが、あなたがそれ以上、私を愛さなければ、連れていくことはできない」、このように言うのです。
(128-91、1983.6.5)

 

神様がサタンに「本来、人はサタンであるお前に讒訴されるようになっていないではないか。本来、人は、サタン、お前から讒訴され、お前に拘束される存在ではないではないか」と言えば、サタンは、「それはすべて知っています。しかし、愛というものは、永遠に主張するようになっているではないですか。愛の因縁というものを原理的立場から見れば、愛すれば永遠にその人に隷属されるのが愛の法度ではないですか」と言いながら、自己主張をするのです。

 

すると神様は、原理的な立場から見れば、人間を私が造り、私の息子、娘になるべきなのに、お前が不法に因縁を結んだのではないか」と言います。ですから、仕方がありません。原理的法度を主張するサタンの立場も正しく、原理的立場から主張する神様の主張も正しいというのです。
(111-147 ~ 148、1981.2.10)

 

神様も今まで内的にサタンを相手にして闘っていらっしゃり、外的には悪人を相手にして闘っていらっしゃいますが、それは無礼な闘いではなく、法に背く闘いでもありません。神様は絶対に天理法度に背いて闘われることはありません。

 

イエス・キリストもこれと同様に、天理原則に背いた闘いはされませんでした。したがって、私達が終末に宇宙的な闘いをしなければならないときにも、天倫の法度を知らなければなりません。そうして私達は、この法を中心として闘うことができる人にならなければならないのです。

 

皆さんは知りませんが、サタンもやはり無礼な法を立てて天倫に背く闘いはできません。ですから、復帰の条件を立てておいてサタンと闘うようになるとき、人間が神様のみ旨に背けば、サタンが讒訴するようになるのです。イエス様であっても例外ではありません。法度に背くとき、容赦なくサタンが讒訴するのです。
(2-176 ~ 177、1957.4.14)

 

④善悪に対する人間の選択

―宗教経典―

主はカインに言われた。「どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのか。もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか。正しくないなら、罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める。お前はそれを支配せねばならない。
創世記4.6 ~ 7(キリスト教)

 

身を慎んで目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています。
ペテロの手紙一5.8(キリスト教)

 

この世のものを浄らかだと思いなして暮し、(眼などの)感官を抑制せず、食事の節度を知らず、怠けて勤めない者は、悪魔にうちひしがれる。――弱い樹木が風に倒されるように。この世のものを不浄であると思いなして暮らし、(眼などの)感官をよく抑制し、食事の節度を知り、信念あり、勤めはげむ者は悪魔にうちひしがれない。――岩山が風にゆるがないように。
法句経78(仏教)

 

人びとよ、神の約束は真実である、それで、現世の生活に欺かれてはならない、また神に関し、大欺瞞者に欺かれてはならぬ。まことに悪魔(サタン)はなんじらの敵である、それで敵として扱え。かれは、ただ燃えさかる火獄の仲間とする己れの連累者を招くにすぎぬ。
クルアーン35.5 ~ 6(イスラーム)

 

なんじら信仰する者よ、悪魔の足跡に従ってはならぬ。なんじらがもし悪魔の足跡に従うならば、かれはきっと醜行と悪事をなんじらに命ずるであろう。

 

もしなんじらに対し、神の恩恵と慈悲がなかったならば、なんじらのうち、ひとりも純潔になり得なかったであろう、だが神は、み心にかなう者を清めたもう。神は、全聴者・全知者であられる。
クルアーン24.21 (イスラム)

 

では、睡眠を通して双生児としてあらわれた、かの始元の二霊についてであるが、両者は、心意と言語と行為において、より正善なるものと邪悪なものとであった。そして、両者のあいだに、正見者たちは正しく区別をつけたが、邪見者どもはそうではなかった。(注10)

 

して、これら両霊が相会したとき、彼らが定めたのは、第一の世界には生と生存不能とであるが、しかし終末にある境涯は不義者どもには最悪なるも義者には最勝なるウォフ・マナフがあるということであった。

 

これら両霊のうち、不義なる方は極悪事の実行を選取したが、最も堅固なる蓋天を着ていて最勝なるスプンタ・マンユの方は天則を選取し、真実なる行為をもってアフラ=マズダーをすすんで満足させようとするものどももまたそうであった。
アヴェスター・.ヤスナ30.3 ~ 5(ゾロアスター教)


イスラエル民族がシナイ山の前に立ったとき、蛇の不純さが彼らから抜け出ていった。そして、肉欲が止まり、結局命の木に接ぎ木されることができた。彼らの考えは、あの高い所に向かうようになり、そして喜びと歓喜に満ちた天の光と知恵を受けるようになった。主なる神は、聖なる名が記された帯を巻いてくださり、以前のようにサタンが力を発揮できないようにされた。

 

しかし、彼らが再び罪を犯し、金の子牛を拝むと、彼らは降等され天の光を失ってしまった。聖なる名の帯も取り上げられ、再び以前のように悪魔サタンの攻めを受けるようになった。
ゾハール1.52b(ユダヤ教)

 

あるがままの本性の純粋さが真の仏、ゆがんだ見方と貪・瞋・疑は魔王。ゆがみに晦んでいるとき魔王はわが家に入り、正しく見て取ったとき仏は座敷に在す。自性の中のゆがみが三毒を生み、つまり魔王に住み込まれる。正しい見方は自ずと三毒を除き、魔王は仏に変わって紛れもない真のもの。六祖壇経10(仏教)

 

―み言選集―

神様は最も公的な方であり、サタンは徹頭徹尾、自分を中心とする私的な存在です。
(88-209、1976.9.18)

宇宙で人よりも人の主体となる神様がいるとすれば、その神様が最も尊いのです。ところが、サタンはなぜ人の主体である神様をもとうとしないのでしょうか。サタンは欲心が多いのですから、神様を自分のものにすればどれほどよいでしょうか。

 

神様は、絶対不変、絶対唯一、絶対永遠です。神様は変われません。変わることができないというのです。サタンにいくらもっていきなさいと言っても、神様は真なのでもっていけません。サタンは真を消化できないのです。いくらもとうとしても無駄です。

 

それでは、神様も欲心が多いのに、なぜ人よりもサタンを自分のものにしようとしないのでしょうか。それを答えなさいと言えば、上手に答えるでしょう。天の側の反対だからです。神様は変わらないのですが、サタンは変わり、神様は唯一ですが、サタンはそうではありません。そして、神様は永遠ですが、サタンは瞬間的です。根本的にそのように分かれるのです。

 

それでは、サタンや神様はどうして人を必要とするのですか。人は二つの性格、二つの世界の素質をもって生まれ得る中間の立場にいるという論理をここで完全に確定できます。

 

それでは、変わることができる瞬間的な人はサタン側ですか、神側ですか。また、家でしきりに分裂を引き起こし、しきりに争いを引き起こすのは、サタン側ですか、神側ですか。

 

未来を見て、世界や全体、永遠を見て、長い歴史を考えず、「きょうだけ食べていければよい、きょうさえよければよい」と、また子女のために生きるべき父母であるにも.かかわらず、その父母の立場を忘却し、酒を飲み、自分を中心として酔うようになれば、それは悪に属し、サタンに属します。では、酒を飲む人は、彼自身が幸福ですか、不幸ですか。飲むこと自体は幸福でしょう。酒を飲めば、踊りを踊って喜ぶではないですか。ところが、それは永遠を維持することはできません。何日かたてば終わります。

 

それによって、環境的与件に破綻が伴うのです。それによって、環境的与件が保護を受けられず、それが永遠に継続するので、悪に属するという事実を知らなければなりません。
(124-243 ~ 244、1983.2.20)

 

信仰生活が必要なのは堕落したからです。堕落圏内にいるという、この観念を離れてはいけません。落圏内に私達は生きているので、信仰生活をするのです。これが、皆さんの日常生活の生活意識として残されなければなりません。堕落した世界は、サタンが支配する世界です。それは、考えだけでなく事実です。
(161-218、1987.2.15)


休まずに祈りなさいというのです。悪魔は24 時間、皆さんを通じて働けます。しかし、神様は縦的な位置にのみいるので、心以外には活動できません。
サタンは、四方の360 度に、そしていつでも活動できるので、私達はサタンの活動に負けるようになっています。
(200-227、1990.2.25)

 

人間の堕落以降、徐々に発展してきた悪霊の役事は、1980 年代に入って霊界が急激に変化し、地上で悪霊の活動が大きく現れるようになりました。

 

そうなった理由は、それまで、天のみ旨を探し求めてきた中心人物たちが、サタンの正体を具体的に、正確に把握することができず、罪の根である原罪を明らかにすることができなかったので、サタンも、余裕をもって自分中心の世界をこつこつとつくることができたのです。

 

しかし、真の父母様が地上に来られてからは、状況が変わってきました。真の父母様は、サタンの正体と罪の根である原罪が、淫行という不倫なる愛であることを明らかにされ、さらには、神様が直接に啓示されない内容であるサタンの性向を把握し、これからは、サタンが地上での足場を失わざるを得ないように、蕩減条件を立てていかれながら、復帰摂理史を勝利されました。

 

このようになったので、サタンも、当惑するようになりました。それでサタンは、霊界の悪霊たちを動員し、地上人の体の中にいる恨をもった霊人たちと力を合わせて、過去の恨みに対して刺激を与え、地上人を苦しめる悪霊役事を強化しました。

 

サタンは彼らを呼んで刺激を与え、恨みを晴らすようにし、彼らが苦しめられた分、また、それ以上の恨みを、苦痛を与えた先祖の子孫に復讐するようにさせているのです。

 

特にサタンは、祝福家庭に侵入する機会を常にねらっていて、条件に引っ掛かるような生活をすると、悪霊を祝福家庭に入れて、祝福家庭が神様を中心に生活することができないようにさせてきたのです。

 

本来、祝福家庭は、真の父母様と心情一体を成し、絶対信仰、絶対愛、絶対服従で生活すれば、サタンが侵入できないようになっていました。しかし、非原理的なことをして、サタンが讒訴できる条件が成立すると、サタンが侵人することができるようになります。

 

実際に、地上の祝福家庭は、真の父母様の勝利的基台のみに頼ったまま、自分の体と行いを深く振り返ることをおろそかにしていました。「もしかしたら、サタンが自分に侵入し得る条件を立てるようなことをしていないだろうか」「そのような堕落性をもっていないだろうか」と、深く振り返れませんでした。

 

ですから今からでも、自分を完全に浄化させ、創造本然の真の子女の姿に生まれ変わる努力を傾けなければなりません。(注11)
興進様の霊界メッセージ、2002.1.1

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コメント

世界経典-20

2020年10月17日 18時27分03秒 | 学習


13.天と地の結合

人間は、霊人体と肉身に創造された。したがって、私達は、霊界と肉界の両側に立つことができる。このような特別な資質により、私達は二つの世界を仲立ちすることができる。私達は、霊界を恐怖の対象として対する代わりに、二つの世界をどちらも支配できる力をもっているのである。

聖者と賢人たちは、正義の動機をもって人間たちを助けるため、天の主人(人間)となることを奨励したとして知られている。万物の主人であり、神様の代身者だという人間の位相の恩恵で、平凡な信者でもこのような能力をもっている。

先住民たちは、これを昔から知っていた。儀式と踊りを通して彼らは、二つの世界の生きている関係を実感する。集中的霊的訓練を通してヒンドゥー教のヨーガ修行者と様々な伝統の苦行者たちは、霊で飛ぶことができる力をもっており、不思議な妙技を見せる。
キリスト教は、イエス・キリストの中で天と地を支配できることを知っており、彼の死に対する勝利は救援の基盤となった。文鮮明先生は、神様の王国が霊的存在世界と物理的存在世界が広大な統一を通して具現されると教える。

―宗教経典―

秘められた計画を私達に知らせてくださいました。これは、前もってキリストにおいてお決めになった神の御心によるものです。こうして、時が満ちるに及んで、救いの業が完成され、あらゆるものが、頭であるキリストのもとに一つにまとめられます。天にあるものも地にあるものもキリストのもとに一つにまとめられるのです。
エフェソの信徒への手紙1.9 ~ 10(キリスト教)

「その動くときは天に従って自在に活動し、その静かなときは地に従って静止する。ただひとりの人間にすぎないのに、その心が定まれば、広大な天下の王者となることができる。鬼神も崇(たた)ることがなく、自分の魂も疲れることがない。ただひとりの心が定まることによって、万物を服従させることができるのである」と。

このことばは、虚無で静かな心を天地におし及ぼし、万物のうちに浸透させることをいったものである。この境地こそ天楽と呼ばれるものにほかならない。天楽とは、聖人の心をもって万物を養うことである
荘子13(道教)

天が私に恩寵を下し、
地が私に福を与える。
上には天から霊たちが私によって踊りを踊る。
地では人々が私によって踊りを踊る。
クリ族の円舞家(アメリカ先住民の宗教)

御国が来ますように。御心が行われますように、天におけるように地の上にも。
マタイによる福音書6.10(キリスト教)


長髪者(ケーシン)は火を、長髪者は毒を、長髪者は天地両界を担う。長髪者は万有を〔担う〕、〔そが〕太陽を見んがために。長髪者はこの光明と称せらる。風を帯とする(無帯すなわち裸体の)苦行者(ムニ)たちは、褐色にして垢を〔衣服ととして〕纏(まと)う。

彼らは風の疾走に従いて行く、神々が彼らの中に入りたるとき。(苦行者の言葉)苦行者たることにより忘我の境に達し、われらは風に乗りたり(風を乗物とする)。汝ら人間はわれらの形骸のみを眺む。彼(苦行者)は空界を通りて飛ぶ、一切の形態を見おろしつつ。苦行者はおのおのの神の愛すべき友なり、善き行為〔の遂行〕のために。
リグ・ヴェーダ10.136.1 ~ 4(ヒンドウ一教)

天下のうちで、ただ至誠(な聖人)のみが、その性を尽くす(理に従う)ことができるのである。よくその性を尽くせば、(天下の)人の性を尽くすことができる。よく人の性を尽くせば、万物の性を尽くすことができる。よく万物の性を尽くせば、天地が生育するのを助けることができる。
天地が(万物を)生育するのを助けることができれば、天と地とともに三となることができる。
中庸22(儒教)

一なる道に通じれば、万事が尽くされる、物を得ようとする心がなければ、鬼神も従ってくれる。
荘子12(道教)

ところで、子らは血と肉を備えているので、イエスもまた同様に、これらのものを備えられました。それは、死をつかさどる者、つまり悪魔を御自分の死によって滅ぼし、死の恐怖のために一生涯、奴隷の状態にあった者たちを解放なさるためでした。
ヘブライ人への手紙2.14 ~ 15(キリスト教)

天に陰と陽があり、人にも陰と陽がある。天と地の陰気が起きれば、人の陰気がそれに相応して起きる。人の陰気が起きれば、天と地の陰気もまた当然それに相応しで起きるのだが、その原理は一つだ。このような原理に明るければ、雨を降らせようとすれば(人間の)陰気によって(天の)陰気を起きるようにする。(反対に)雨を止めようとすれば(人間の)陽気によって(天の)陽気を起きるようにする。ゆえに、雨を降らせるのは神のような存在の作用ではない。(人々が)神の作用ではないかと思うのは、(相応の)原理が神秘で微妙に起きるからである。

陰と陽の気だけが同じ流れに従って前に進むこともあり、後ろに退くこともあるのではなく、不運、不幸と幸運の発生もやはりこのような原理に起因する。

あらゆる場合において、自らまず動きを見せ、他の事物が種類によってそれに相応するように動くのである。ゆえに、聡明で神聖な人は内的世界を見つめ、外部の声を遮断し……このような心と考えを沈める内部の自己反省によって、聡明で神聖な人だけが、自分の本心が正にこのような原理によって存在することが分かる。

ゆえに、コムンコと琵琶で合奏するとき、一つの楽器の宮音を弾けば、他の楽器の宮音が自然に鳴って前の音と相応するが、これは事物の種類ごとに相応するのである。この感応の動きは、音がするだけでいかなる姿も見えないため、人はその感応する具体的な形を見ることができないがゆえに、それを自ら鳴っていると思う。

また、互いに感応して動くとき、姿がないものは自然にそうなると言うのだが、実際には自然にそうなるのではなく、それをして、そのように相応させるのである。事物は、実際にそうなるようにするものがもともとあるが、作用させるものは姿が現れないのである。
董仲舒春秋繁露(儒教)


―み言選集―

神様は、人間を霊界だけで暮らすように造られたのではなく、この地上で実体をもって霊と肉が調和を成す生活をするように造られました。それは、人間の霊が霊としていらっしゃる神様と通じ、万物を主管するようにし、肉身に霊人体が通じ、霊と肉が和合できるように造られたのです。これが創造の法度です。
(2-80、1957.3.3)

霊界は時空を超越しています。ですから、皆さんは精神統一が必要です。霊界に行けば、心ど体の拍子、テレパシー、それが合わなければなりません。電波で言えば、「ぴっ」とラジオの電波が合えば音がなります。そのように、きちんと姿勢を整えれば、誰かに会いたいと思うとすぐに現れます。親しければ親しい姿で、怨讐なら怨讐の姿で現れます。私が一番忘れることのできない姿で現れるのです。
(187-311、1989.2.12)

神様が創造するときに、愛のために投入し、投入し、忘れるという本質から出発したがゆえに、相対もそれを受けるためには共に投入しなければならないのです。上から投入し、下から投入するのと同じです。こうして天地が合徳、一つとなるのです。天地を抱いて動かすことのできる愛を中心として一つとなるのです。そこに偉大なる力が来るのです。
(237-130、1992.11.13)

神様は人間を被造世界の主管者として創造された(創1 28)。ところで被造世界は、神に対する内的な感性を備えていない。その結果、神はこの世界を直接主管なさらずに、この世界に対する感性を備えた人間を創造され、彼をして被造世界を直接主管するようになされたのである。

したがって、人間を創造されるに当たって、有形世界を感じ、それを主管するようになさるために、それと同じ要素である水と土と空気で肉身を創造された。無形世界を感じ、それを主管するようになさるために、それと同じ霊的要素で、霊人体を創造された。

変貌山上でのイエスの前に、既に1600 余年前に亡くなったモーセと、900 余年前に亡くなったエリヤが顕現したとあるが(マタイ17・3)これらはみな、彼らの霊人体であった。このように、有形世界を主管できる肉身と、無形世界を主管できる霊人体とから構成された人間は、有形世界と無形世界をみな主管することができるのである。

神様は人間を被造世界の媒介体として、また和動の中心体として創造された。人間の肉身と霊人体が授受作用により合性一体化して、神の実体対象となるとき、有形、無形の二つの世界もまた、その人間を中心として授受作用を起こし合性体化して、神の対象世界となる。

そうすることによって、人間は二つの世界の媒介体となり、あるいは和動の中心体となる。人間は、ちょうど二つの音叉を共鳴させるときの空気のようなものである。人間はこのように、無形世界
(霊界)と通ずるように創造されたので、あたかも、ラジオやテレビのように、霊界の事実をそのまま反映するようになっている。

ところが、人間が堕落し、被造世界が自己を主管してくれる主人を失ったので、ロマ書8章19 節に、被造物は神の子たち(復帰された創造本然の人間)の出現を待ち望んでいると述べられている。それだけでなく、和動の中心体である人間が堕落して、有形、無形二つの世界の授受作用が切れたので、それらが一体となることができずに分離されたから、ロマ書8章22 節には、被造物が嘆息している事実を明らかにしている。
原理講論、創造原理6.2

神様のように、いつでも霊界と肉界が一つになるのです。その中心は神様であり、神様は常に尊厳な方でいらっしゃいます。それで、真の愛で霊界と肉界の一体化を成すのです。

真の愛が現れなかったので、霊界と肉界が統一されなかったのであり、真の愛が現れなかったので個人の心と体が分かれたのであり、真の愛が立たなかったので、宗教と政治が分かれたのです。真の愛を中心としてすべて一つになります。個人、家庭、社会、国家、世界、天宙がすべて連結されるのです。私達の手でそのようにしなければなりません。そうしなければ、本然の天上天国、地上天国を相続できません。
(216-105 ~ 106、1991.3.9)

サタンを主管できる人ばかりがいれば、霊界も解放され、肉界も解放されます。
(161-243、1987.2.22)

今後、真の指導者は、霊界を動員して活動できる能力のある人でなければなりません。ところが、一つ難しいことがあります。霊的にそのようになれば、扱いづらいことが生じます。そのときは、神様の代わりに現れたという心をもたなければなりません。
(102-117、1978.11.27)


神様はさせませんが、先生の代わりに、ありとあらゆることをする人たちが世界にはいます。空中を飛ぶ人もいるし、水の上を歩き回る人たちもいるし、千里、万里を瞬く間に行く人が、今いくらでもいるのです。間もなく先生がそのような人たちを、あのヒマラヤ山脈から、修行の世界から呼んでくる時が来るでしょう。
(60-195、1972.8.17)

それを本然の位置に正そうとするのが地上復帰と霊界復帰です。地上復帰とともに霊界復帰が、私達の70 年、80 年の生涯がかかっているので、商いで言えば、これ以上大きな商いはありません。先生の青春時代はすべてこれをするために過ぎてしまいました。
(15-146、1965.10.3)

霊界を一つにしなければ、地で一つになることはできません。地で一つになることができなければ、霊界でも一つになりません。共同運命体だというのです。
西洋の人たちが東洋の人と結婚し、東洋の人が西洋の人と結婚しようというのは、とてもよいことです。そうすれば、霊界から先祖たちが見るとき、どれほど喜ぶでしょうか。五色人種がどれほど喜ぶでしょうか。

霊界でも、今まで白人は白人同士でいて、黒人は黒人同士でいて、すべて分かれていました。黄色人は黄色人同士で互いに……。地ですべてこのようになるので、互いに混ざって一つになるのです。統一が起きます。ですから、一つの世界になるのです。「天でなされたように、地でもなされますように!」と言ったように、霊界でそのようになるので、地でそのようになるのです。
(99-188、1978.9.18)


第2部 罪と救援

第6章 悪、罪、そして人間の堕落

1.人間の堕落

アブラハム系統での信仰では、人間が神様と一つになっていく初期段階で堕落したと教えており、それと類似した信仰が世界の至る所で発見される。キリスト教は、人間の堕落を原罪という教理に連結させている。

原罪はアダムとエバが犯した罪として全人類に遺伝され、神様と人間の永遠の断絶を意味するのだが、それはただキリストだけが治癒することができると言う。

一方、イスラームでは、アダムの罪はアダムにだけ該当するものとして、アダムは、神様に従順にすることによって、全人類と共に許された位置に戻ることができると言う。堕落によってサタンが生じたのであり、少数だけが耐えるべき試練を、
すべての人間が経るようになったと言う。最後に、ユダヤ教では、このような信仰が混合されていることを発見できる。この部門で論じた章句は、アダムとエバの堕落によってこの世に呪いが生じたことを確認している。それは個人の責任を強調し、人間始祖の罪に対する私達の責任を否定するほかの章句と均衡がとれている。

人間の堕落は、宇宙の純粋な根源と現在の苦痛に満ちた状態から現れる矛盾を物語る。次には、宗教が成立し得る論理的諸要件である。1) 神様は唯一の創造者である。2) 創造目的は善である。3) 悪は実在し、創造目的と背馳する。このような論理は、キリスト教、イスラーム、そしてユダヤ教で主張している。

仏教にはこのような創造の教理がなく、物質を根本とみなし、同時に自己実現のために克服すべき制約とみなすヒンドゥー教も、やはりこのような教理がない。
それにもかかわらず、このような諸宗教は、悪の業報の根源を説明するために、恩寵から抜け出した最初の堕落に関する教理をもっている。

聖書とクルアーン(コーラン)の章句は、人間の堕落を象徴的に説明しており、多様な解釈が可能である、サタン、ルーシェル、またはイブリースなど、様々な名前で呼ばれる蛇は、たびたび不適切な性行為を暗示するものとして説明されるが、アダムとエバが神様の命令に従順にしないよう、そそのかす。

文鮮明先生は、人間の堕落は不道徳な性行為だったと直接的に指摘しながら、堕落は神様の真の愛に対する人間の純粋性に害悪を及ぼしたと教える。悪の根源を性的犯罪だと説明したり、暗示したりするのは、ギリシャ神話、仏教、神道、そしてアフリカの伝統にも現れている。


①アダムとエバの犯罪

―宗教経典―

主なる神は人を連れて来て、エデンの園に住まわせ、人がそこを耕し、守るようにされた。主なる神は人に命じて言われた。「園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。」

主なる神は言われた。「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。」主なる神は、野のあらゆる獣、空のあらゆる鳥を土で形づぐり、人のところへ持って来て、人がそれぞれをどう呼ぶか見ておられた。人が呼ぶと、それはすべて、生き物の名となった。人はあらゆる家畜、空の鳥、野のあらゆる獣に名を付けたが、自分に合う助ける者は見つけることができなかった。

主なる神はそこで、人を深い眠りに落とされた。人が眠り込むと、あばら骨の一部を抜き取り、その跡を肉でふさがれた。そして、人から抜き取ったあばら骨で女を造り上げられた。主なる神が彼女を人のところへ連れて来られると、人は言った。「ついに、これこそ私骨の骨、私の
肉の肉。これをこそ、女(イシャー)と呼ぼう。まさに、男(イシュ)から取られたものだから。」こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる。人と妻は二人とも裸であったが、恥ずかしがりはしなかった。

主なる神が造られた野の生き物のうちで、最も賢いのは蛇であった。蛇は女に言った。「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか。」女は蛇に答えた。「私達は園の木の果実を食べてもよいのです。でも、園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないから、と神様はおっしゃいました。」

蛇は女に言った。「決して死ぬことはない。それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ。」
女が見ると、その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆(そそのか)していた。女は実を取って食べ、一緒にいた男にも渡したので、彼も食べた。二人の目は開け、自分たちが裸であることを知り、二人はいちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆うものとした。

その日、風の吹くころ、主なる神が園の中を歩く音が聞こえてきた。アダムと女が、主なる神の顔を避けて、園の木の間に隠れると、主なる神はアダムを呼ばれた。「どこにいるのか。」彼は答えた。「あなたの足音が園の中に聞こえたので、恐ろしくなり、隠れております。私は裸ですから。」

神は言われた。「お前が裸であることを誰が告げたのか。取って食べるなと命じた木から食べたのか。」アダムは答えた。「あなたが私と共いるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました。」主なる神は女に向かって言われた。「何ということをしたのか。」
女は答えた。「蛇がだましたので、食べてしまいました。」主なる神は、蛇に向かって言われた。「このようなことをしたお前は、あらゆる家畜、あらゆる野の獣の中で、呪われるものとなった。お前は、生涯這いまわり、塵を食らう。お前と女、お前の子孫と女の子孫の間に、私は敵意
を置く。彼はお前の頭を砕き、お前は彼のかかとを砕く。」

神は女に向かって言われた。「お前のはらみの苦しみを大きなものにする。お前は、苦しんで子を産む。お前は男を求め、彼はお前を支配する。」
神はアダムに向かって言われた。「お前は女の声に従い、取って食べるなと命じた木から食べた。お前のゆえに、土は呪われるものとなった。

お前は、生涯食べ物を得ようと苦しむ。お前に対して、土は茨とあざみを生えいでさせる。野の草を食べようとするお前に、お前は顔に汗を流してパンを得る。土に返るときまで。お前がそこから取られた土に。塵にすぎないお前は塵に返る。」

アダムは女をエバ(命)と名付けた。彼女がすべて命あるものの母となったからである。主なる神は、アダムと女に皮の衣を作って着せられた。

主なる神は言われた。「人は我々の一人のように、善悪を知る者となった。今は、手を伸ばして命の木からも取って食べ、永遠に生きる者となるおそれがある。」主なる神は、彼をエデンの園から追い出し、彼に、自分がそこから取られた土を耕
させることにされた。こうしてアダムを追放し、命の木に至る道を守るために、エデンの園の東にケルビムと、きらめく剣の炎を置かれた。
創世記2.15 ~ 3.24 (キリスト教)

われはなんじらをつくり、それから形態を与え、それからわれは、天使たちに向かって、「アダムに叩頭(こうとう)せよ」と告げた。それで悪魔(イブリース)のほかはみな叩頭したが、かれは叩頭者のうちに加わらなかった。かれは仰せられた「われがなんじに命じたとき、どうして叩頭しなかったのか」と。

かれは「私はかれよりもすぐれております」と、申し上げた。あなたは、私を火からおつくりになりましたが、かれをどろでつくられました」。

かれは仰せられた、「ここから下がれ、なんじはここで高慢であるべきではない。立ち去れ、なんじはまことに卑しむべき者である」。かれは「かれらがよみがえされる日まで、私を猶予して下さい」と、申し上げた。かれは仰せられた「なんじは猶予される者である」。

かれは申し上げた「あなたは私を惑わされたから、私は、あなたの直き道の上で、かれらに向かってすわり込み」、「それで私は、かれらを前から、また後ろからも、右てからも左てからも襲いましょう。あなたはかれらの多くの者が、お慈悲に対し感謝するのをご覧にならぬでしょう」。

かれは仰せられた、「恥辱をこうむり追われて、ここから出て行け。およそかれらのうちなんじらに従う者があれば、なんじらの衆で、われは地獄を満たすであろう」。

アダムよ、なんじとなんじの妻は楽園に住み、随所でなんじらの好むものを食べよ、ただ不義者のたぐいとならぬために、この木に近づいてはならぬ。その後悪魔(サタン)はかれらにささやき、隠された、恥ずかしいところを、かれらにもらそうとして、「おまえたちの主が、この木に近づくことを禁じたまえるは、おまえたちを、天使または永生の者になさらないためであると言った。

そしてかれは、かれら両人に誓って言った、「わしはおまえたちの心からの忠告者である」。こうしてかれは両人を欺いて堕落させ、かれらがこの木を味わうと、その恥ずかしいところが、かれらにあらわになり、園の木の葉でその身をおおい始めた。

そのとき主は、かれらに呼びかけて仰せられた、「われはこの木を、なんじらに禁じたではないか、また悪魔(サタン)は、なんじらの公然の敵だと、告げなかったか」。かれら両人は「主よ、私達は、自らあやまちを犯しました。もしあなたのお許しと慈悲にあずかれないならば、私達はきっと失敗者のたぐいになってしまいます」と、申し上げた。

かれは仰せられた「なんじらは降りて行け、なんじらは互いに他の敵であろう。なんじらには地上に住所と、一期限に対する給養があろう」。かれは仰せられた「そこでなんじらは生活し、そこでなんじらは死に、またそこから復活のために引き出されるであろう」。

アダムの子らよ、われは、恥ずかしいところをおおい、また飾るために衣装をなんじらに授けた。だが篤信の衣装、それこそ最も優れたものである。これは神のしるしである、おそらくかれらはさとされるであろう。

アダムの子らよ、悪魔がかつてなんじらの祖先に、その恥ずかしいところを知らせるため、無知の衣を奪い、楽園から追われたように、なんじらはかれに惑わされてはならぬ。悪魔およびかれの一味は、なんじらがかれらを見ない所から、なんじらを見ている。まことにわれは悪魔たちを不信心な者の保護者とした。
クルアーン7.11 ~ 27(イスラーム)

私がアダムのように自分の罪を隠し、咎を胸の内に秘めていたことは、決してない。もしあるというなら……。
ヨブ記31.33 (キリスト教)

なぜ聖書には「主なる神は、アダムと女に皮の衣を作って着せられた」(創世記3.21)という聖句が、「人と妻は二人とも裸であったが、恥ずかしがりはしなかった」(創世記2.25)という聖句のすぐあとに続かなかったのか。これはあなたに、邪悪な存在がアダムの内外を誘惑したことが罪だということを教えてくれる。なぜなら、(蛇は)アダムとエバが本来的に約婚した関係であることを知ってエバに対して淫欲を抱いた。
ミドラシュ、創世記ラッパー18.6 (ユダヤ教)

蛇がエバについていって言った。「女性の霊は北の方から出てきた。ゆえに私は素早く彼女を誘惑するだろう」。そうだとすれば、どのように誘惑したのか。蛇はエバと性的関係を結んだのである。
バヒルの書199 (ユダヤ教)

そのとき、邪悪な蛇が深思、熟考したことは何だったか。蛇はこのように考えた。「私が行ってアダムを殺し、彼の妻を奪おう。そして私が世の王になろう」。
タルムード、アヴォート・デ・ラビ・ナタン(ユダヤ教)

私達の最初の先祖は時を待たなかった。時になる前に婚姻しようとした欲望で、神のみ意の時を待つことができずに罪を犯したのである。
アレクサンドリアのクレメンスストロマテイス3.14.94(キリスト教)


墜落の夢は、飛行の夢の場合よりもいっそうしばしば不安を伴う。女性の場合、この種の夢の解釈は簡単である。なぜなら墜落の夢は、性的誘惑への屈服を表現し変えたところの落下の象徴的利用をほとんど例外なしに採用しているからである。われわれはまだ落下夢の幼児的源泉を十分に汲みつくしてはいない。
ジークムント・フロイト夢判断


―み言選集―

人類の堕落が木の実を取って食べた結果であり得るでしょうか。アダムとエバの堕落は神様の真の愛の理想に背いた不倫の犯罪です。守るべき戒めが必要だった堕落前のアダムとエバは、未完成段階、すなわち成長期間で堕落してしまいました。

蛇で表示された天使長の誘いを受け、エバが霊的に堕落し、そのエバがアダムを誘って(時ならぬ時に善悪を知る木の実を取って食べる)肉的な堕落をしてしまったのです。

本然の園で神様と対話しながら、楽しくはしゃぎ回って暮らしていたアダムとエバが、死ぬことまでも顧みないで犯し得る可能性のある犯罪は、間違った愛の犯罪しかないのです。

人類の先祖の初愛の結合は、神様自身の愛の完成でもあったので、当然、神様もアダムとエバも宇宙万象も、歴史を通して歓喜と祝福の中に酔う幸福な宴の連続でなければなりません。神様の愛と生命と血統が人間の中で出発しながら、定着する幸福な儀式でなければなりません。

ところが、彼らは下半身を覆い、木の後ろに隠れて、不安に震えました。天道に逆らう偽りの愛、偽りの生命、偽りの血統の根源をつくった不倫の関係を結んだからです。

堕落したアダムとエバの子孫である全人類は、子々孫々、生まれる時から原罪をもつようになりました。人類が個体の中に心と体の衝突を矛盾として感じるのも、堕落に根源があり、愛の秩序が紊乱した社会の中で、本心が願わない生を生きていくのも、すべてここに由来しているのです。
(277-200、1996.4.16)

善悪の果は果実ではあり得ません。それが何の果実だというのですか。果実を中心として、億千万世の人類が呻吟するのですか。このように破綻の場であり、争いと闘争の路程で呻吟する現象を引き起こす果実を、神様がなぜつくったのですか。
これは今、レバレンド・ムーンが語った愛の内容を中心とする果実の結果だったという事実が、何よりも理論的な道に近いのです。それで、愛は、善の愛と悪の愛が生じたのです。善悪の果は、その愛の果実です。
(128-87、1983.6.5)

創世記2章25 節を見れば、罪を犯す前、アダムとエバは、裸でいても恥ずかしく思わなかった。しかし、彼らが堕落したのちには、裸でいることを恥ずかしく思い、無花果の葉をもって下部を覆ったのである(創3・7)。

もし、善悪の果というある果実があって、彼らがそれを取って食べて罪を犯したのだとすれば、恐らく彼らは手か口を隠したはずである。なぜかといえば人間は恥ずかしい所を隠すのがその本性だからである。

しかし、彼らは、手や口を隠したのではなく、下部を隠したのである。したがって、この事実は彼らの下部が科となったために、それを恥ずかしく思ったということを表しているのである。ここから、我々は彼らが下部で罪を犯したという事実を推測することができるのである。

ヨブ記31 章33 節には、「私がもし(アダムのごとく)人々の前に私のとがをおおい、私の悪事を胸の中に隠したことがあるなら」と記録されている。そうしてアダムは、堕落したのち、その下部を隠したのであった。この事実はとりもなおさず、アダムが覆ったその下部が科となったということを物語っている。

それでは、アダムの下部がなぜ科となったのであろうか。それは、いうまでもなく、アダムがその下部で罪を犯したからである。人間が堕落する以前の世界において、死ぬということを明確に知っていながら、しかも、それを乗り越えることのできる行動とは、いったい何であったのだかうか。それは、愛以外の何ものでもない。

「生めよ、ふえよ」(創1・/28)と言われた神の創造目的は、愛によってのみ完成することができるのである。したがって、神の創造目的を中心として見るとき、愛は最も貴い、そして最も聖なるものであったのである。

しかし、それにもかかわらず、人間は歴史的に愛の行動を、何か卑しいもののように見なしてきたというのも、それが、堕落の原因となっているからである。ここにおいて我々は、人間もまた、淫乱によって堕落したという事実を知ることができる。
原理講論、堕落論1.3.2

被造世界は、そもそも、神の愛の主管を受けるように創造されている。したがって、愛は被造物の命の根本であり、幸福と理想の要素となるのである。それゆえに、この愛をより多く受ける存在であればあるほど、より一層美しく見えるのである。

ゆえに神の僕として創造された天使が、神の子女として創造されたエバに対したとき、彼女が美しく見えたというのも当然のことであった。
ましてやエバがルーシェルの誘惑に引かれてくる気配が見えたとき、ルーシェルはエバから一層強い愛の刺激を受けるようになったのである。こうなるともう矢も盾もたまらず、ルーシェルは死を覚悟してまで、より深くエバを誘惑するようになった。

このようにして、愛に対する過分の欲望によって自己の位置を離れたルーシェルと、神のように目が開けることを望み、時ならぬ時に、時のものを願ったエバとが(創3・5、6)、互いに相対基準をつくり、授受作用をするようになったため、それによって非原理的な愛の力は、彼らをして不倫な
る霊的性関係を結ぶに至らしめてしまったのである。

愛によって一体となれば、互いにその対象から先方の要素を受けるように創造された原理によって(創3・7)エバはルーシェルと愛によって一体となったとき、ルーシェルの要素をそのまま受け継いだのであった。
すなわち、第一に、エバはルーシェルから、創造目的に背いたということに対する良心の呵責から
くる恐怖心を受けたのであり、第二には、自分が本来対すべき創造本然の夫婦としての相対者は天使ではなく、アダムだったという事実を感得することのでぎる新しい知恵を、ルーシェルから受けるようになったのである。

当時、エバは未完成期にいたのであった。したがって、そのときの彼女自体は、既に完成期にあった天使長に比べて、知恵が成熟していなかったために、彼女は天使長からその知恵を受けるようになったのである。
原理講論ご堕落論2.2.1

エバが天使長に強奪されたとき、その心はどうだったでしょうか。良心の呵責を受け、嫌だと思いながら天使長の誘惑に引き込まれていったのです。すべての細胞が喜び、花が早春を願うように愛さなければならなかったにもかかわらず、細胞が朽ち果て、心情が朽ち果てたところで顔をゆがめて愛したのです。(33-330、1970.8.23)
神様にとってエバは未来の夫人でした。なぜかというど、アダムは神様と一体であり、すなわち神様御自身だからです。ですから、神様は自分の夫人をサタンに侵犯されたのです。
(22-208、1969.2.4)

このとき、不倫なる貞操関係によって天使長と一体となったエバは、アダムに対して、天使長の立場に立つようになった。したがって、神が愛するアダムは、エバの目には非常に美しく見えたのである。

また、今やエバは、アダムを通してしか神の前に出ることのできない立場にあったから、エバにとってアダムは、再び神の前に戻る望みを託し得る唯一の希望の対象であった。

だからこそエバは自分を誘惑した天使長と同じ立場で、アダムを誘惑したのである。アダムがルーシェルと同じ立場に立っていたエバと相対基準を造成し、授受作用をすることによって生じた非原理的な愛の力は、アダムをして、創造本然の位置より離脱せしめ、ついに彼らは肉的に不倫なる性関係を結ぶに至ったのである。

アダムは、エバと一体となることによって、エバがルーシェルから受けたすべての要素を、そのまま受け継ぐようになったのである。そのようにして、この要素はその子孫に綿々と遺伝されるようになった。

エバが堕落したとしても、もしアダムが、罪を犯したエバを相手にしないで完成したなら、完成した主体が、そのまま残っているがゆえに、その対象であるエバに対する復帰摂理は、ごく容易であったはずである。しかし、アダムまで堕落してしまったので、サタンの血統を継承した人類が、今日まで生み殖えてきたのである。
原理講論、堕落論2.2.2

②人間堕落の悲劇的結果

―宗教経典―

イマナ(神)が人々と共にいたその昔、死は人々と共にいなかった。死が地に下りていこうとするたびに神が猟犬を送って追い出された。ある日、死は犬に追われて狭い空間に追い込まれ、捕まって死にそうになった。

しかし、一人の女性をみつけ、自分を隠してくれれば、彼女とその家族に報いると約束した。女性は口を開け、死は素早く口の中に隠れてしまった。(注2)

神が彼女のところに来て、死を見たかと尋ねると、彼女は否定した。しかし、すべてのことをご存じの神は、何があったのかをご存じで、彼女が死をかくまってあげたため、遠からず死が彼女と子供たちを殺すだろうと言った。そのときから死はすべての世に広がるようになった。
フツ族の伝承(アフリカ伝統宗教)
アダムが堕落していなければ、サタンではなく、聖霊の子を生んだだろう。しかし今、全人類の子孫は、サタンのものとして生まれたために永遠性がない。そして、一つの個体の中に、他のものの要素をもっているために、短い生しか生きることができない。

しかし、アダムが堕落してエデンの園から追い出されなければ、天の姿に似て、永遠に生きる天使たちのような聖霊の子を生んだだろう。しかし、アダムが堕落してエデンの園の外で子を生んだため、そのみ意は根を下ろすことができなかった。
ゾハール、創世記61a (ユダヤ教)

アダムとエバの堕落後に神は、彼らに肌をくるむ衣服を作ってくださった。創世記3章21 節に次のように記録されている。「主なる神は、アダムと女に皮の衣を作って着せられた」。本来、彼らは、最高の中の最高の栄光である、光の服を着ていた。天使たちもその光を見にきたりしていた。詩編の記録によれば、「神に僅かに劣るものとして人を造り、なお、栄光と威光を冠としていただかせ」(詩編8章6節)と出ている。しかし、罪を犯したのちには、霊のためのその光が消え、結局、肉身のための皮の服だけが残るようになった。
ゾハール1.36b (ユダヤ教)

海水がおのずから凝り固まってできた島なので、これを淤能碁呂(おのごろ)島というのである。両神はその島にお降りになって、聖なる御柱(みはしら)をお見立てになり、また結婚のための広い宮殿もお見立てになった。

そこで伊耶那岐命(いざなぎのみこと)は妹の伊耶那美命(いざなみのみこと)に尋ねて、「おまえの身体はどのようにできてきたのか」とお仰せになると、伊耶那美命は私の身体はだんだんに成り整ってきましたが、まだ整わない所が一か所
あります」とお答えになった。

さらに伊耶那岐命が「私の身体はだんだんに成り整ってきたが、できすぎたところが一か所ある。だから、この私の身体の余分なところを、おまえの身体の足りないところに刺し入れふさいで、国を生もうと思う。生むことはどうだろうか」と仰せになると、伊耶那美命は「それは結構でしょう」とお答えになった。そこで伊耶那岐命は「それならば、私とおまえこの聖なる御柱を巡り、出会って、聖なる結婚をしよう」と仰せになった。

このように約束してから伊耶那岐命は「おまえは右から巡って会いなさい。私は左から巡って会おう」と仰せられて、約束し終わって御柱巡りをした時に、伊耶那美命のほうが先に「何とまあ、すばらしい男性でしょう」と唱え、そのあとで伊耶那岐命が「何とまあ、美しい娘だろう」と唱え、おのおの唱え終わったのちに、伊耶那岐命がその妹に向かって、「女が男より先に唱えたのはよ
ろしくない」と仰せられた。

そうはいいながら、聖婚の場所である八尋殿にお
いて御子を生むことを始めて、最初に生まれた子は水蛭子という不具児であった。この子は葦の船に乗せて流し捨てた。……そこで二柱(ふたはしら)の神は相談され、「今私達が生んだ子は、不具児でよろしくない。やはり天(あま)つ神のおられる所に参上して、このことを申し上げよう]とおっしゃって、すぐに一緒に高天原(たかまのはら)に参上し、天つ神の指示を仰がれた。そして天つ神のご命令で鹿の骨を焼いて裂け目の形で神意を知るという占いをした結果、天つ神は「女が先に唱えたのがよくないのだ。再び淤能碁呂島に帰り降(くだ)って、改めて唱え直しなさい」と仰せられた。

そこで両神は帰り降って、また例の天の御柱を前回のように巡られた。こんどは伊耶那岐命の方か
ら先に「何とまあ、美しい娘だろう」と唱え、そのあとで妹の伊耶那美命が「何とまあ、すばらしい男性でしょう」と唱えた。このように唱え終わって結婚され……八つの島を生んだのにちなんで日本列島を大八島国(おおやしまくに)
という。(注3)
古事記4.1 ~ 6.1 (神道)

ゼウスが人のゆえに怒りをもったとき、彼は、彼が考え得る最も残酷な罰を思い巡らし、女を構想した。鍛冶屋の神であるヘパイストスが頼まれ、土をこねて美しく魅力的な女をつくった。神々は、それぞれ女に自分たちが選んだ最もよい才能を贈り物として与えた。こうして彼女は、「もらったすべての贈り物」という意味のパンドラと呼ばれるようになった。

彼女が様々な贈り物で完全に美を備え、魅力をもったとき、この反逆的な宝は、伝達の神であるヘロメスによって地に下ろされ、プロメテウスの愚かな弟エピメテウスに送られた。そのときプロメテウスは彼の弟に、たとえそれが友好的に送られてきた贈り物のように見えても、ゼウスから何も受け取るなと警告した。

しかし、エピメテウスはいつものように先に行動してあとで考えた。彼はヘロメスから来たその女を受け入れ、彼の家に連れていった。そして、神
々が安全に保管し、決して開けるなと言いながら彼女に与えた大きな箱を彼女と共に受け入れた。(注1)

贈り物の中に女性的好奇心という才能をもったパンドラにとって、この箱を開けないということは無理だった。しばらく我慢したのち、彼女はついに耐え切れず、その箱の蓋をはずし、その瞬間から人類の悲しみは始まった。

なぜなら、それぞれの神々はその箱に彼らが与えることのできる最悪のものと、彼らが彼女に才能として付与した優れたものを貯蔵したからである。伝染病を移す昆虫と悪臭を放つ黒い雲がその箱からあふれ、出てくる邪悪なものたちはとても恐ろしいものだった。それは疾病と苦痛、憎悪と嫉妬と貪欲、心臓を凍らせ、老いをもたらすあらゆる残酷なものだった。

パンドラは、箱の蓋を再び閉じようとしたが、あまりに遅すぎた。幸福な人の子孫たちは永遠に消え去り、それと共に生が楽だった黄金時代も消え去った。そのときから人は、友好的でない土壌で自らの労働によって生きるために格闘しなければならなくなった。

ただ、その箱から一つの良いものが人に現れ、これまで残されて苦痛の中にいる人を慰労したのだが、それは希望だった。
パンドラの箱の神話(ヘレニズム)


―み言選集―

堕落がどこから始まりましたか。家庭で堕落したのが何ですか。善悪の果を取って食べたのですか。家庭的に堕落し得るのは愛しかありません。善悪の果を取って食べて堕落したのでしょうか。善悪の果を取って食べて原罪が生じますか。父親が善悪の果を取って食べたことが罪だというのですが、善悪の果が何であるがゆえに千代、万代の子孫が罪人になったのでしょうか。これは血統的関係です。血統的に罪の根を植えておけば、遺伝の法則によって永遠に続くのです。そうなるのは愛の問題だけです。誤った愛が堕落の原因です。
(23-167、1969.5.18)

愛で成熟しなければならないのですが、愛によって故障したときは、神様も退くのです。そのようになれば大問題です。それで私達が探し出したのが何ですか。愛の事故が起きた、愛の事故以外にはあり得ないということです。


ですから、天が問題になり、人間が問題になり、歴史が問題になり、宇宙の大事件として衝撃を与え得るものは愛しかなく、愛の事故だというのです。
(128-87、1983.6.5)

愛というものを知るようになるとき、すべてのものに通じます。地上世界の平面的な事実だけでなく、霊眼が開け、立体的な世界である霊界の事実までも分かるので、神様に直接会って接することのできる境地に至るようになります。ですから、愛の知覚が発達します。ところが、それを成す前に堕落してしまいました。その堕落とは何ですか。不倫の因縁を結んだことです。
(137-129、1986.1.1)

神様が「それである!」と言うことのできる愛はどのようなものでしょうか。アダムとエバが16、17、18 歳になれば自然に思春期になり、目が思いどおりに動くのではなく、エバは男性をまっすぐに見つめ、男性はエバをまっすぐに見つめ、「いやあ! 私が探し求めてみると、君だったのだなあ、君、君、君!」、このように言えるところに行かなければなりません。その時は思春期なので、
心と体が一つになったでしょうか、なっていないでしょうか。目をのぞき込んでみると神秘的な目であり、鼻に触れてみると電気が走り、これは問題が大きいというのです。そのとき、アダムの心と体が一つになったでしょうか、なっていないでしょうか。一つになったでしょう。

男性と女性が、初めて宇宙に善を掲げて心と体が一つになるとき、花が大きく咲くのです。完全に咲き、香りがします。その香りは宇宙の香りなので、宇宙の万物が「ふーむ!」というのです。地でもどこでも、すべてその香りをかごうと、鼻が長くなり、体が伸びて大騒ぎします。

神様はどうでしょうか。神様は、「ふーむ、おや! これはおかしい、おかしい!」と言います。神様も、我知らずあっという間に虜になってしまいます。ひゅーっと回って引き込まれてくるのです。自然に引き込まれます。「もう出動時代になったなあ。出掛けよう!」と言われるというのです。男性と女性が核になったならば、神様も首にぶらさがってそこから離れられません。離れようとすれば、体だけが離れるのであって足はくっついているのです。男性も女性もくっついています。どこへも離れていけません。ここから生まれた男性と女性も、このひもをもってここで再び会えば、またくっつき、またくっつき……。

こうして家庭から氏族、民族、国家、世界になるのです。男性と女性が一つになったここから子孫が生まれれば、さっとくっつきます。それで、家庭、氏族、民族、国家、世界になります。どれほど素晴らしい宇宙ですか。そのようになれば偉大な所になります。それが地上天国であり、真の世界です。

そのようなものができずに堕落したので、反対の世界となり、すべてが分かれるのです。このような原則で見るとき、故障したときは、いくら世の中に人が大勢いても、ばらばらに分かれて分立した人間像が発見されるのです。
ところが、現世の世界がそのようになっている事実を否定できません。ですから堕落したというのです。堕落によってつくり出された世界だというのは、正当な結論だということを知らなければなりません。

ここからすべて分かれたので、神もなく、父母もなく、兄弟もなく、男性もなく、女性もなく、世界もない混乱状態がつくり出されたのです。これが現世だという事実が分かりましたか。ここで自分自身では絶対に一つになれません。

理想がありません。人間自体では、理想を猫いたところでそれは永遠に不可能です。それで今では神様を求め、ここから再び神様を……。ところが、「神はいない。神は死んだ!」と言うのです。それは何かというと、すべて終わったということです。「私達人間は滅亡する。希望も何も、ユートピアも理想もすべて片付けてしまえ。それは人間たちがつくりあげたものだ!」このように
見るのです。
(128-88 ~ 90、1983.6.5)
堕落しなかったなら、神様が縦的な愛となり、アダム・エバは神様の体になったのです。神様は骨のようなものであり、アダム・エバは肉のようなものだというのです。神様は、内的な場で内的な父母になり、アダム・エバは、外的な場で外的な父母になります。

内的・外的父母が一つになったその場が愛でつづられて内的父母に侍るようになり、外的父母をもつようになります。神様と人間が愛で結ばれることにより、真の父母、完成した人間が成就されるようになっていたというのです。愛で結ばれなければ、完成人間はいないのです。

それが本然の私達の先祖でなければなりません。神様が創造された本然の人間です。そのような人から私達が生まれるのです。そのような神性をもった人により、私達が生まれなければなりません。ですから、私達は神性を帯びた神様の性稟をもち、人性を帯びた父母の性稟ももつのです。

ですから、アダム・エバの完成は、神様の愛に結ばれてこそ完成するのであって、これが結ばれなければ駄目なのです。神様の縦的な愛と横的な肉的愛が、一点で結ばれたものが、正に私達の先祖の血統の根です。そこが私達の先祖の血統です。そこから全人類が生まれなければなりませんでした。

堕落のために、男性の愛、女性の愛、神様の愛がみな分かれました。堕落によって、男性の愛、女性の愛、神様の愛が結ばれませんでした。堕落しなかったなら、男性と女性は自動的に愛で結ばれます。なぜ男性と女性が一つになろうとするのですか。愛のたのです。愛で一つになったのちに、何をしようというのですか。神様の祝福を受けようとするのです。それが目的です。
(184-71、1988.11.13)

③性的愛の堕落

―宗教経典―

比丘たちよ、これを知らなければならない。(最後の宇宙の周期を締めくくる)大洪水が退いていき、再び大地がその姿を現し始めた。そのとき、大地の表面に神々の食物よりもっとかぐわしいにおいのする薄い膜があった。

その薄い膜の味はどのようなものだったか。それはまるで口の中に溶け込むぶどう酒の味と似ていた。そのとき、極光浄天の神々が互いに言った。

「閻浮提に今、再び大地が現れ始めたが、我々が行って、それがどのようなものなのか見てこよう」。こうして若い神々は世に下りていき、大地の表面にできた薄い膜を見た。彼らはそれを指につけて昧わった。ある神々はこのようなことを何度も行い、この薄い膜をたくさん食べたが、彼らは即座に彼らの権能と光彩を失ってしまった。
彼らの体は重くなり、彼らの本質はまた骨と肉に変わり、ついに彼らは力を失い、これ以上飛んでいることができなくなった。しかし、その薄い膜を全く食べなかった神々がいたが、彼らはまだ空中を自由自在に飛び回ることができた。

力を失って飛ぶことができない神々が、どうしてよいか分からず、互いに泣き喚いて叫んだ。「我々は今、苦しい境遇に置かれるようになった。力を失い、この大地の上にとどまるしかすべがない。我々は飛ぶことができないため、天界に再び戻ることはできない」。

こうして彼らは大地にとどまり、大地を覆っていたその薄い膜を食べて生き、互いの美しさを注視するようになった。彼らの中で、最も情熱的だった者たちは女性になり、彼ら神々と女神たちは、互いに自分たちの欲望と快楽を満たした。

比丘たちよ、このように世の中が最初に始まるとき、すべての世に貪欲な愛が等しく広がるようになった。
それは実に長い時間がたち、また持続するものである。そして、女が世に現れたのもまた実に長い時間がたち、彼らだけのことではないことを知らなければならない。

天界に再び上がっていくことができた神々が見下ろし、若い神々が堕落したことを知り、世に下りてきて彼らに言った。「あなたたちは、どうしてこのような堕落の行いを好んでするのか」。地上の神々は自ら考えた。「我々は、他の者たちに見えず、互いに一緒にいることができる方法を見つけなければならない」。こうして彼らは、自分たちを隠す家を造るようになった。比丘たちよ、このようにして初めて家ができるようになったのである。

(今、人々が)夫と妻たちのこのことを見て、そのような夫婦を憎悪し、軽蔑し、左手で彼らを捕まえ、右手で押し、彼らを追い出してしまった。しかし、いつも彼らは二カ月、あるいは三カ月たつと、再び戻ってきた。そのため人々は、彼らを拳でたたいたり、罵倒を浴びせたり、地にたたきつけたりもし、棍棒や石でたたき、土をかぶせたりもした。「行ってお前たちの体を隠せ! 行ってお前たちの体をしっかりと隠せ!」。これが今日、若い女たちが婚姻するとき、花や金、銀、または布の切れ端や米で清められ、人々が新婦に花や金、銀などを投げ、「新婦よ、和平と幸福があなたと共にあることを!」と叫ぶ理由である。

比丘たちよ、昔は、悪行とは正にこのようなことを意味した。しかし、今日ではこのようなことが善とみなされることは、また驚くべきことではないか?
増一阿含経34、起世経(注4)(仏教)

このような欲望によって成し遂げられる行為そのものは、いずれのばあいにも人目を避けるのである。すなわち、さまざまの淫蕩においては、人間の罰則をひそかに避けるために隠れ場が求められ、また、この世の国が許して、売春婦を利用しておこなわれる恥辱においても、その国のいかなる法も罰しないようなことがいとなまれるのではあるが、それにもかかわらず、公認されて罪とはならないその欲望は衆目環視を避け、自然な羞恥心は秘密のために売春宿さえも配慮するのである。

ある「ローマの弁論術の最大の巨匠」も、すべて正しくなされた行為は光のなかに立てられることをのぞむ、といっており、これはすなわち、その行為が知られることを求めるということなのであるから、そのように正しくなされたこの行為も、知られることを求めるのであるが、しかもなお恥ずかしく思うのである。……

たしかにそのための行為が果たされるために花嫁たちはひじょうな祝いの儀式をももって娶られるのであるが、その行為がいとなまれるとき、そのような行為の結果としてすでに生まれている子供たちがその目撃者となることはゆるされないのである。

このように正当におこなわれたこの行為は、それが認知されるために人びとの精神の光を求めながら、それにもかかわらず、人びとの目の光を避けるのである。その理由は、その行為自体としては自然に適ったところのことをおこなっているのであるが、それに伴う恥辱の感情は罰の結果として生じたものであるというのでなければなんであろうか。

現在の状態においては、これらのものは、いま述べたように駆りたてられたのであって、節度をもって正しく敬虔に生きる者たちにより、ときには比較的容易に、ときにはかなりの苦労を伴って、抑制され抵抗されたりしながら適応せしめられているのであるが、しかし、それはけっして自然本性から与えられた健康な状態ではなく、罪責からきた無力の状態なのである。

したがって、楽園のうちに立てられた最初の人間たちが、この欲望――かれがそれによって恥ずかしく思い、身体のあの部分を隠したところの欲情――をとおして、「生めよ、ふえよ、地にみたせ」とお告げになった神のあの祝福が意味するところのことを成就したのだと信じるようなことがあってはならない。
じっさい、この欲情が目ざめたのは罪ののちであったからである。それ自身恥すべきものではない自然本性は、身体がそのすべての部分から仕えていた主権を、罪ののち喪失してしまうことによって、欲情を感じ、意識し、恥じて隠したのであった。

しかし、夫婦の数がふえて地をみたすべきであるという結婚についてのあの祝福は、罪を犯した者たちにも残っていたのではあるが、すくなくともそれはがれらが罪を犯す以前に与えられていたわけであるから、子供を生むということ自体は、結婚の栄光に属するものなのであって罪にたいする罰に属するものではないということが知られるのである。

したがって、もしも罪が存在しなかったら、あの結婚は楽園のしあわせにふさわしいものとなって、愛されるべき子孫を生み、しかも恥じられるべき欲情をもつこともなかったはずである。ただし、現在私達は、このことがいかにしておこりうるのかを示してくれる例証をもっていないのである。しかし、だからといって、あの一つの器官がこのような欲情を伴うことなく意志に服従することができたとは信じられぬことであると見なければならないわけではないのである。なぜなら、現在、かくも多くの身体的諸部分が意志に服従しているのだからである。
アウグスティヌス神の国14.18 ~ 23(キリスト教)


―み言選集―

人間が堕落する特、愛のために堕落したので、この性器が最も怖いのです。宗教では、姦淫することを最も恐ろしい罪として取り扱っています。ですから、アメリカのフリーセックスは悪魔の地獄膨脹主義ですか、天国膨脹主義ですか。地獄です。地上地獄であり、天上地獄です。これはすべて滅亡するのです。
(261-304、1994.7.24)

神様の愛は、どのように連結されるのでしょうか。上から来る愛は最も近い距離、真の愛が行く道は、すべて直短距離を通るのです。このように考えてみるとき、縦的な愛、上から下に来る愛は、直短距離で統一されるとき、90 度の角度にならざるを得ないことを知らなければなりません。直短距離にならなければなりません。

縦的な神様と直短距離が成立すれば、そこに対して人間の真の愛も直短距離で通じるので、それを中心としてみるとき、横的な男性と女性も必ず水平となり、垂直に、90 度に合わせるとき、それが愛の決着点であり、90 度を中心とする定着地だというのです。それを知りませんでした。堕落とは何かというと、この角度がずれたことです。
(218-219、1991.7.29)

我々は次のような事実から、人間の罪の根が淫乱にあったということを、より一層明確に知ることができるのである。罪の根が血縁関係によってつくられたので、この原罪は、子々孫々に遺伝されてきた。

そして、罪を取り除こうとする宗教は、みな姦淫を最大の罪として定め、これを防ぐために、禁欲生活を強調してきたのであるが、これも罪の根が淫乱にあるということを意味するものである。

また、イスラエル民族が神の選民となるため、贖罪の条件として割礼を行ったというのも、罪の根が淫乱によって悪の血を受けたところにあったために、堕落人間の体からその悪の血を抜きとることを条件として、聖別するためであった。
数多くの英雄烈士、数多くの国家が滅亡した主要な原因が、この淫乱にあったということも、淫行という罪の根が、絶えず人間の心の中から、我知らず発動してきたためである。

我々は宗教によって人倫道徳を立て、また諸般の教育を徹底的に実施して、犯罪を生みだす経済社会制度を改善することにより、他のすべての罪悪は、この社会から一掃することができるかもしれない。しかし、文明の発達と、安逸な生活環境に従い、増大しつつある淫乱による犯罪だけは、誰によっても、またいかなるものによっても、防ぐことができないというのが現在の実情である。

したがって、人間社会から、この犯罪を根こそぎ取り除くことができない限り、決して理想世界を期待することはできないのである。ゆえに、再臨なさるメシヤは、この問題を根本的に解決し得るお方でなければならない。このように、これらの事実は、罪の根があくまでも淫行にあるということを如実に物語っているのである。
原理講論、堕落論1.5

 

2.カインとアベル

歴史上最初の殺人は、人間の堕落のすぐあとに続いて起きた。兄弟間の葛藤は、父母に由来した状況だということができる。カインとアベルの話は、避けられない人間の不平等問題を提起する。

その話は、人間が財産、才能、愛、幸運、そしてこのケースのように祝福の差をどのように克服しなければならないかに対する問いを投げ掛ける。
聖書は、アベルを正義の人とみなす。クルアーン(コーラン)は、アベルを、兄カインと争わないために武器をもつことを拒否する平和の人として描写する。

したがって、二種類の人に対する伝承が出てくる。アベル型の人間は、善良で信じるに足る反面、カイン型の人間は、粗暴で、無神論的で、暴力的である。しかし、文鮮明先生は、根本的にカインとアベルは兄弟だと教える。さらに、彼らは二人とも過ちを犯した。選ばれた者のアベルの驕慢がカインの憎悪を呼び起こし、カインの憎悪は罪悪の歴史を招来した。文鮮明先生は、神様がアベルの祭物だけを受けられたのは、カインに対する軽蔑を表現するものではなく、復帰の過程を促進しようとするものだったと教える。

カインとアベルは、カインがアベルに屈服することによって、アダムが天使長に間違って主管された父母の過ちを復帰することができた。この復帰摂理が成功していれば、殺人はなかったのであり、神様がカインの祭物も受けていたのである。

不平等は不可避である。どちらかを選択しなければならないとき、私達はどのように処理するだろうか。カインは選択の余地があった。暴力を使うことも、謙遜に弟の助けを求めることもできた。アベルもやはり選択の余地があった。選ばれた者の地位を誇ることも、選ばれなかった兄に哀れみをもち、彼を慰労し、励ますこともできた。このようなカインとアベルの状況から、どちらを選択するのかによって戦争と平和が決定され得るのである。

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世界経典-19

2020年10月17日 18時23分51秒 | 学習


②天使の争い

―宗教経典―

さて、天で戦いが起こった。ミカエルとその使いたちが、竜に戦いを挑んだのである。竜とその使いたちも応戦したが、勝てなかった。そして、もはや天には彼らこの居場所がなくなった。
ヨハネの黙示録12.7 ~ 8(キリスト教)

 

言え「私にこう啓示された、一団の幽精(ジン)が、クラーンを聞いて言った、わ.たしたちは、ほんとうにおどろくべき読唱を聞いた」、「正しい道への導きである。それで私達は信仰し、主に何ものをも配しない」。「崇高きわまる主のみいず。かれは妻をめとりたまわず、子も持ちたまわぬ」。「私達のうちの愚かな者が神に対し途方もないうそをねつ造していた」。

 

「しかし、私達は、人間もジンも、神についてうそを言うべきでないと考えた」。「まことに人間のうちある者は、ジンのある者に庇護を求める、しかしそれは、かれらの愚劣を助長した」。「かれらもあなたがたが考えるように、神は何者もよみがえらされないだろうと考えていた」。

 

「私達は、天の秘密に触れようとしたが、それは強い護衛と飛行弾に充満されていることがわかった」。「私達は、盗み聞くために、そこの席にすわっていた。だが聞こうとする者は、いまに、かれを警戒している飛行弾を見るであろう」。

 

「私達は、主が地上の者に対して悪を望みたもうか、または、かれらを正しい道に導くことを望みたもうかを知らなかった」。「私達のうちには正しい者もおり、またそうでない者もいる。私達は種々の道に従っている」。

 

「だが私達は、地上において神をとん座させることはできず、また逃避して、かれを失敗さすこともできぬと思っている」。「私達は導きを聴いたとき、それを信仰した。そして主を信ずる者には、恐れもなく、そこなうこともなく、また不正もない」。「私達のうちには、神に服従帰依する者もあり、また正道からそれる者もいる。服従帰依した者、かれらは正しい道をめざし努めている」。だが正道からそれる者、かれらは火獄のたきぎである」。
クルアーン72.1 ~ 15(イスラーム)


―み言選集―

天使長が堕落してアダムとエバ、人類世界をこのようにめちゃくちゃにしたので、天使がその仕事を代行しているというのです。天使世界がその仕事を代行しているのです。したがって天使世界がサタンと対決しているというのです。悪のサタンと善の天使が対決しているのです。その闘いで、善の天使側が勝利してこそ一歩前進するのです。
(109-18、1980.10.26)

 

神様の本然の理想世界、堕落がなかった本然の人間が行くことができる理想的な善の圏に向かって行くにおいて、善霊はそこに前進しようとし、悪霊はそこをふさいでいるのです。

 

悪の霊界と悪の世界というのは、いつも通じるのです。いつでも連絡がつきます。善霊は悪の世界で対立して反対される位置で生きた霊です。それは宗教を信じて逝った霊人たちだということを皆さんは知らしなければなりません。
(134-10、1985.1.1)

 

争いをすれば、必ず善の側と悪の側に分かれて争います。善の側は神様がコントロールし、悪の側はサタンがコントロールしますが、いつも善の側が勝っていきます。善の側が勝つのです。結局、この争いの歴史は、堕落以降の人間の戦争歴史ですが、その背後で悪神と善神の戦争歴史としてつづられてきたことを人類は知らなかったのです。
(161-13、1987.1.1)


③天使に対する人間の優越性

―宗教経典―

私達が天使たちさえ裁く者だということを、知らないのですか。まして、日常の生活にかかわる事は言うまでもありません。
コリントの信徒への手紙一6.3(キリスト教)

 

またなんじの主が、先に天使たちに向かって「まことにわれは、地上に代理者を置くであろう」と、仰せられたときを思え。かれらは「あなたは地上で悪を行ない、血を流す者を置かれますか、私達は、あなたをたたえて唱念し、またあなたの神聖を賛美し奉るのに」と、申し上げた。

 

かれは仰せられた「まことにわれは、なんじらの知らないことを知っている」。かれはアダムによろずのものの名を教えたまい、ついでそれらを天使たちに示し、「もし、なんじらの言葉が真実なら、これらのものの名をわしに言ってみよ」と、仰せられた。
かれらは答えて申し上げた「あなたの栄光をたたえまつる、あなたが私達に教えたまわるもののほかには、何も存じません。まことにあなたは、全知者・英明者であられます」。

 

かれは仰せられた「アダムよ、それらの名を、かれらに告げよ」。そこでアダムが、それらの名を、かれらに告げたとき、かれは仰せられた「われは天と地の秘密を知っており、また、なんじらが現すことも、隠すここともすべて知っている」。
クルアーン2.30 ~ 33(イスラーム)

 

モーセが高く上がっていったとき、聖なる神の前で守護天使が言った。「宇宙の主管主である神よ! 私達の間に女の生んだ一人の人間がいるのはどういうことでございますか」。神が答えられた。「彼は律法を受け取りにきた」。

 

すると天使たちが答えた。「この上なく秘密の宝、神であるあなたが、世が創造される以前に974 世代の間隠してこられたその秘密を、人間に与えようとされるのですか! あなたが心の中に包んでおられた人とは何ですか。そして、あなたが訪ねたこの人の息子はどのような存在ですか。おお、わが主よ、あなたの優れたお名前は全知にあふれます! 誰があなたの栄光(律法)を天に書き記しておいたのですか」。

 

聖なる方がモーセに、「あなたが答えてあげなさい」と語られた。それでモーセは神の前で天使たちに答えた。「宇宙の主管主であられる神よ! あなたが私に下さった律法、その律法の中には何か記されていましたか」。

 

「私は主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である」(出エジプト記20.2)。モーセが天使たちに言った。「あなたたちがエジプトに行ってパロの奴隷になりましたか。だとすれば、当然律法はあなたたちのものになるのではないですか。また神が私に下さった律法には何が記録されていますか。『あなたには、私をおいてほかに神があってはならない。」(出エジプト記20.3)となっています。あなたたちは、偶像を崇拝する人たちの中で暮らしていますか。また律法には何と記録されていますか。『安息日を心に留め、これを聖別せよ。』(出エジプド記20.8)と記録されています。

 

休息を必要とするときに仕事をしたからといって能率が上がりますか。……また律法に何と記録されていますか。『殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。』(出エジプト記20.13 ~ 15)となっています。皆さんの中で、何かの嫉妬がありますか。悪魔が皆さんの中で共にいることができますか」。

 

するとすぐに天使たちば聖なる神に自分たちの敗北を認めた。そして、「誰があなたの栄光(律法)を天に書き記しておいたのですか」という聖句はないが、「主よ、私達の主よ。あなたの御名は、いかに力強く、全地に満ちていることでしょう。」(詩編8.10)という聖句は記録されているのである。(注28)
タルムード、シャッパト88b ~ 89a(ユダヤ教)


―み言選集―

天使は神様に使える霊だといいました。神様の息子がいれば、息子に支配されなければなりません。天使を支配しなければならないのが人間の権威です。
(84-98、1976.2.22)

 

未完成期にいた人間に、このような戒めを与えられたのは、単純に、彼らが堕落しないようにするためだけではなかった。(注29)更にいま一つ、人間が、自分自身の責任分担として、そのみ言を信じ、自らの力で完成することによって神の創造性に似るようになり、併せて万物に対する主管性をも得るようにさせたいからでもあったのである。

 

そして、この戒めを天使長に与え給わず、人間に与えられたというのは、神の子女としての立場から、天使までも主管しなければならない人間の創造原理的な資格と威信とを、立てさせようとされたからであった。
原理講論、堕落論3.2

 

10.死んだ者の霊魂

死んだ霊たちは、事実、私達から離れることはない。彼らは、記憶以上に私達と共に残っている。私達が愛した人たちの霊は、地上で継続して私達の福地のために最大限努力する。

 

地上で私達が過ちを犯して傷つけられた霊たちは、私達に怒りを見せ、機会があれば復讐しようとするだろう。したがって、死んだ者は、正に死んだのではない。彼らは恐らく私達と一緒に暮らしているのだろう。

 

キリスト教の聖書で、サウルが預言者サムエルの霊を呼び出すために霊媒を利用していたように、時には鋭敏な人たちが死んだ者の霊を地上に呼び出すことができる。

 

大部分の人たちは、人生に対する霊界の影響を感知することができないが、それは実在する。哲学者イマヌエル・カントは次のように言う。「人間の霊魂は、この人生においても霊的世界の非物質的な本質と不可分の関係を結んでいる。人間の霊魂は、霊的本質と相互作用し、霊感を残し、彼らから助けを受ける」。彼らは、死んだ者の霊だけでなく、自然の精霊、鬼、妖精とその一族を含む。古代人たちは霊をよく知っており、シャーマンは彼らの存在を感知できるように訓練され、人間の利益のために彼らを利用した。

 

偉大な芸術を創作するとき、霊感や科学的発見と発明をするとき、閃光のごとき洞察力のように、
その霊たちの影響は幸運を与えたり、有益になり得る。過去の根深い葛藤が今日の氏族的な暴力事態を誘発するとき、怒りに火をつけるように、霊たちの影響はまたすさまじく破壊的にもなり得る。

 

天上と地上の相互関係は二つの方法で起きる。霊たちは義の名分をもって地上の人たちを助けるために動員され得るが、逆に霊たちは、自らの困難を解決するために地上の人たちの助けを必要とする。
様々な宗教は、生きた者が死んだ者の有益のために供え物を捧げなければならないという考えを奨励する。さらには、末日の聖徒たちは、終末に天国により近くに連れていくための方法として、死んだ者たちの洗礼を奨励する。

 

これと関連して文鮮明先生は、「再臨復活」を教える。死んだ者たちの霊は、生きた者たちを助けるために降りてくるのであり、生きた者たちは、死んだ者たちが完成できなかったことに責任をもち、それを解決することによって彼らを助けるのである。


①生きている者と共にある霊魂

―宗教経典―

神の道のために殺害された者を、「かれらは死んだ」と、言ってはならぬ。いや、かれらは生きている、ただなんじらが知覚しないのみである。(注30)
クルアーン2.154 (イスラーム)

榊の葉の香りが香ばしい。(注31)
近くに引き寄せ、私は
皆がっ伺に集まった
無数の親戚たちを見る。
神楽(神道)

これ等の魂が放射する光は、この世の進歩と人々の発展の原因となるものである。彼等は存在の世界を発酵させる酵母の様なもので、この世の技巧や不思議が顕わされるよう活気づける力となるものである。……

これ等の魂と超絶の象徴は、存在の世界に崇高なる運動の推進力を供給して来たし、又、供給し続けるであろう。
バハオラ落穂集81(バハイ教)

女は尋ねた。「誰を呼び起こしましょうか。」「サムエルを呼び起こしてもらいたい」と彼は頼んだ。その女は、サムエルを見ると、大声で叫び、サウルに言った。「なぜ私を欺いたのですか。あなたはサウルさまではありませんか。」

 

王は言った。「恐れることはない。それより、何を見たのだ。」女はサウルに言った。「神のような者が地から上って来るのが見えます。」サウルはその女に言った。「どんな姿だ。」女は言った。「老人が上って来ます。上着をまとっています。」サウルにはそれがサムエルだと分かったので、顔を地に伏せ、礼をした。

 

サムエルはサウルに言った。「なぜ私を呼び起こし、私を煩わすのか。」サウルは言った。「困り果てているのです。ペリシテ人が戦いを仕掛けているのに、神は私を離れ去り、もはや預言者によっても、夢によってもお答えになりません。あなたをお呼びしたのは、なすべき事を教えていただくためです。」
サムエル記上28.11-15 (キリスト教)

死んだ者たちは、決して消えない。
彼らは真っ暗な暗闇の中にいる。
死んだ者たちは土の中にいない。
彼らは風になびく木の中にいて、
彼らは音のする森の中にいて、
彼ちは流れる水にいて、
彼らは静かな水にいて、
彼らは草庵にいて、
彼らは群衆の中にいる。

死んだ者たちは決して死んだのではない。
死んだ者たちは決して消えない。
彼らは女の胸にいて、
彼らは泣き喚く子供の中にいて、
燃えるかがり火の中にいる。
死んだ者たちは土の中にいない。
彼らは消えていく火の中にいて、
彼らは涙に濡れた草原にいて、
彼らはすすり泣く岩にいて、
彼らは森の中にいて、家の中にいる。
死んだ者たちは決して死んだのではない。
 ピラゴ・ディォプ(アフリカ伝統宗教)

「ヘクラの道は見ることができ、光り輝く。そこから空気を重くし、全く息ができないようにする燃える息遣いのようなあるものが出てくる。私達はヘクラを見ることができず、彼らが動くときに引き起こす風を感じる。

 

私がたった今戻ってきた狩りで、私は私の中にいたヘクラを散らしてしまった。」「普通の人は彼らが分からない。しかし、風は彼らがそこにいることを私達に教えてくれる。」

 

「私が目を閉じたとき、私は暗闇の中でのみ、彼らを見る。」「私達は彼らをそのときにだけ見ることができる。」「彼らの道は、私に明確になる。私は眠っている。彼らが突然私の腕をゆすり、足首をつかんで引っ張り、私を起こす。」
「真のシャーマンでない人は、彼らの声を聞くことはできない。真のシャーマンは寝ている間、『ぷう……』という鳴き声とこの声が蒼空からこだましてくるのを聞く。

 

彼は目を開け、『私は今、彼らを見ようとする!」と自らに言う。オウムが「プレ、プレ、プレ……』と歌えば、彼はそれがヘクラであることに気づく。そのとき、すがすがしい風が彼の足をすべるようにして過ぎていく」

 

「私はヘクラが生木の切れ枝の上を歩いているのを見た。私はすぐその下を通っていた。」「事実、それがヘクラだった。しかし、彼らは私に友好的ではなかった。たき火の近くの煙の出る焼き綱の強いにおい、焼けた毛から出るにおい、燃えた肉から出るにおい、彼らを追い出してしまった。

 

しかし、彼らはあなたに接近しようとする心があるように見える。」「彼らは酔うような香りを漂わせていた。その香りは、彼らがもたらした燃料と魔法の杖から出ていた。突然、においを嗅ぐことが中断された。私の鼻はもう彼らを知覚できなかった。」

 

それで、人が成人の儀式の最後にいるとき、狩りをしないのが賢明だ。もしオオハシの群れが飛んでいて、その中の一羽がすぐ近くに下りてきたら、残りの鳥がすぐにその鳥についてくる。彼らが驚かないようにせよ。食い入るように彼らをみつめ、あなたが行く道を続けて行きなさい。

 

彼らがヘクラであることを肝に銘じよ。もちろん、そこには狩りの中であなたが追い出してしまった鳥たちがいる。しかし、関心をもちすぎるな。私は、彼らが良い鳥たちではないと予測する。残りの中に、あなたがハンモックに横になっているとき、あなたの胸に下りてくる鳥たちがいる。彼らが本当にあなたのものであり、あなたに属する(注32)
ヤノマミ族のシャーマンの教え(アメリカ先住民の宗教)

 

最後の顔の赤い人が消え、私達の部族に関する記憶が、白人たちの間に一つの伝説になるとしても、この海岸は私達部族の見えない霊魂たちでいっぱいになるだろう。

 

あなたの子孫たちが野原で、店で、高速道路の上で、また道のない森の静けさの中で、一人だと考えるとき、彼らは一人ではない。この地のどこにも寂しい所はないだろう。夜になり、あなたの都市と村の通りが静かになれば、あなたは荒涼としていると思うかもしれないが、そこには一時満ちていて、依然としてこの美しい地を愛する霊魂たちが戻ってきて、込み合っているのである。白人たちは決して一人ではないだろう。
シアトル酋長(注33)(アメリカ先住民の宗教)


―み言選集―

皆さんは創造本然の人生の内容を知らず、天の大勢の霊人と地の被造万物と創造主神様の前に自信をもって堂々と語ることのできる存在にはなることができていませんが、天の大勢の霊人は、この時間も皆さんのために、地もやはり皆さんのために、神様も皆さんのために働いていらっしゃいます。
(8-43、1959.11.1)

 

皆さんの心霊状態が最高に達したとき、そのような決心をして天のために動いてあげれば、霊界から善の霊たちが降りてきて、皆さんを協助するのです。ところが、皆さんの心霊状態が落ちれば、そのように協助していた霊たちが、一人、二人と離れていくのです。離れていくようになるとき、その霊たちがどれほど悲しむか分かりません。行って、いつまた地上に来て協助するだろうかというのです。一度離れれば、再び皆さんのところに来るのが大変なのです。

 

ですから、霊人たちをだんだんと増やしていくことのできる自身の行動が必要だということを知らなければなりません。そうしてこそ、皆さんのすることが一瀉千里で発展していきます。天運がついてくるのです。
(161-273 ~ 274、19872.26)

 

霊界は、今まで数多くの主流歴史をもっています。これがすべて線を中心として連結されているのです。ところが、思いどおりにここに来て働くことはできません。このように働くことができないのです。これが降りてきて働くことができません。ふさがっているのです。ここから再臨しようとすれば、宗教によって橋を架けなければ、特定の人以外には再臨することができないというのです。(102-29 ~ 30、1978.11.19)

 

先祖たちがすべて、責任分担と蕩減条件に引っ掛かって、霊界に行っても、行くべき道を行けずに、地に再び下りてきて蕩減するのと同様に、その道を皆さんは残してはいけないのです。
(146-224、1986.7.1)

 

過去においては、祈祷し、精誠を尽くしても宗教の教主とはその時にしか会えませんでした。会おうものならすべて分かれてしまうのです。ですからまた上がらなければなりませんでした。ところが今では、すべて宗教圏を中心として地上に再臨することのできる時になりました。
(161-200、1987.2.3)


②霊魂の守護と霊的功績

―宗教経典―

身を清め供物をしつらえ、祖先の御霊に捧げ祀る。春に夏に秋に冬にと、それぞれに祖先の御霊を祀る。祖霊がV辞を授けられた、万年に至るまで命長くあれと。
詩経2.1.6 (需教)

 

彼等は{我らの}在家の外に、又は街の四辻に立ち、或いは{古き}各自の家に行きて戸口に立つ。過去の業に縁りて、多くの食物・飲物や硬き食物、軟き食物の供えられたる時、{此の世の}誰も此等の有情を記憶するものなし。

 

是の如く、慈悲のある人は、因縁ある者の為に、清浄にして、するれたる、時に適したる食物・飲物を興ふ。「こは汝ら〔逝きにし〕因縁あるものは満足してあれ」とて、彼等は此処に集まり、集まりし因縁ある餓鬼等は、多くの食物・飲物に非常に悦び、「此等のものを受けたるその人々によりて、我等因縁あるものは長く生きん。我等のために供養はなさる。又施主は果なきことなし」と、実に此の〔死の〕世界には、耕作もなく、牧畜もなく、商業の如きもなく、金を以て売買することもなし。

 

此の世から受くることによりて、死の世界の餓鬼は生きて行く。高き処の水の低きに流るるが如く、是の如く此の世からの施物は餓鬼に利益あり。……

 

泣くことも、悲しむことも、其の他歎くことも、餓鬼等のためには何の益ともならず。是の如く因縁あるものは立ちてあり。されど、此の施物の僧團に興へられ、使用せられなば、長く死人の利益となり、よく彼を利す。

 

此処に記されたたるこれは、因縁あるものに対する義務にして、餓鬼には大なる供養がなされ、比丘には力を興ふ。又汝等には少からざる福が得らる。
小誦経、戸外経(仏教)

一族の滅亡において、永遠なる一族の美徳(ダルマ・義務)は滅びる。美徳が滅びる時、不徳(アダルマ)が一族を支配する。不徳の支配により、一族の婦女たちが堕落する。婦女たちが堕落すれば、種姓(ヴァルナ)の混乱が生ずる。このような混乱は、一族の破壊者と一族とを地獄に導く。
バガヴァッド・ギーター1.40 ~ 42(ヒンドゥー教)

 

ところで、この人たちはすべて、その信仰のゆえに神に認められながらも、約束されたものを手に入れませんでした。神は、私達のために、更にまさったものを計画してくださったので、私達を除いては、彼らは完全な状態に達しなかったのです。こういうわけで、私達もまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか、信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。
ヘブライ人への手紙11.39 ~ 12.2(キリスト教)

 

この場合、先祖と子孫の間にある事項について固いつながりがなければ、地はのろいをもって打たれるということを知るだけで十分です。さて、その事項とは何でしょうか。

 

それは死者のためのバプテスマです。彼らなしには私達が完全な者とされることはなく、また私達なしには彼らが完全な者とされることはないのです。

 

また、福音にあって死んだ者なしには、彼らもわたしたちも完全な者とされることはありません。今や訪れようとしている時満ちる神権時代の到来に当たって、アダムの時代から現在に至るまでの、神権時代と鍵と力と栄光のすべての、ことごとくの、完全な和合と結合が起こり、示されることが必要だからです。(注34)
教義と聖約128.18(末日聖徒イエス・キリスト教会)


―み言選集―

創造原理によれば、人間の霊人体は神から受ける生素と、肉身から供給される生力要素との授受作用によってのみ成長するように創造された。それゆえに、霊人体は肉身を離れては成長することも、また復活することもできない。

 

したがって、地上の肉身生活において、完成されずに他界した霊人たちが復活するためには、地上に再臨して自分たちが地上の肉身生活で完成されなかったその使命部分を、肉身生活をしている地上の聖徒たちに協助することによって、地上人たちの肉身を自分の肉身の身代わりに活用し、それを通して成し遂げるのである。ユダ書14 節に、終わりの日に主は無数の聖徒たちを率いて来られると言われた理由はここにある。

 

では、霊人たちはどんな方法で地上人に対して、み旨を完成するように協助するのだろうか。地上の聖徒たちが祈祷や、その他の霊的な活動をするうちに、霊人たちの相対になれば、その霊人たちは再臨して、その地上人たちの霊人体と相対基準を造成していろいろの業をするようになる。

 

そして、その霊人たちは地上人たちに火を受けさせたり、病気を治させるなど、いろいろの能力を現させるのである。それだけでなく、入神状態に入って、霊界の事実を見せたり、聞かせたり、あるいは、啓示と黙示によって預言をさせ、その心霊に感銘を与えるなど、いろいろの方面にわたる聖霊の代理をすることによって、地上人がみ旨を成し遂げていくよう協助するのである。
原理講論、復活論2.3.1

 

あの世に行けば人を殺害した者、殺害された者、もろもろの人が一箇所に集まっているので、そこでは刃物で相手を脅かしたり、復讐しようとすることも起こるのです。

 

ですから、数多くの塀でふさがっているのです。それゆえに、悪霊が怨讐の子女を訪ねていって、事故に遭わせて連れていったりするようなことが起こるのです。これをすべて解かなければなりません。これを解くためにはまず地上世界で解かなければなりません。解くにはもっと良いものを与えなければなりません。死ぬことよりもっと良いもの、怨讐関係になったことより、もっと良いものを与えなければ解くことができません。

 

何をもって霊界を解放し、神様を解放するのでしょうか。このような関係は、人間の先祖がこれを結ばせて天上世界をめちゃくちゃにしたのですから、今日後代の子孫は、先祖たちのすべての過ちを償わなければなりません。

 

真の孝行者の伝統を受け継いだ子供なら、父母の借りを返さなければなりません。父母が借りたものを返さなければならないのです。

そのような意味で、霊界の先祖のすべての塀を崩す運動をしなければなりません。そうすることによって、先祖たちがここに来て、皆さんに教えるようになるのです。これは夢のような事実です。私のような人は、一人で暮らしている人ではありません。私は皆さんをさっと見れば、先祖がどうで何をやったのか分かります。悪の霊人の子孫を見ると、真っ暗になります。その先祖の顔がさっと見えたかと思ったら、ふっと消えるのです。ですから、悪の霊、善の霊を分けるのです。
(191-205 ~ 206、1989.6.24)

 

イエス様が地上に来られることによって、それ以前の善なる先祖たちが霊形体級の霊界から生命体級の霊界に入ることができたのと同様に、皆さんの先祖たちも地上にいる皆さんを条件にして、再臨することができる特別な恵沢圏内に入ってきました。皆さんは、数千代の善なる先祖たちが再臨し得る基盤になるべきです。

 

私達が地上で再臨復活を引き起こせることをすれば、どれほど神聖で偉大でしょうか。皆さんの先祖の中で、忠臣がいるとか、烈女、あるいは孝子がいれば、皆さんが祈祷で彼らを呼ぶと、来るようになっているのです。なぜかというと、これからは先祖たちが皆さんを協助しなければならないからです。
(14-22 ~ 23、1964.4.19)

 

人間たちが知らない霊界の霊人たちを動員して、証させることができる基準が自分にあるかが問題です。霊界もそのようなことを要求しています。霊界は神様の心情を知っているために、地上にそのような人がいて訴えれば、霊人たちを動員して、天国理念の実現のための地上の仕事に協助するようになるのです。

 

霊界の霊人たちがこの地に来られない原因は何ですか。それはこの地が嘆息の垣根になっているからです。もし私自身がとどまっている環境が嘆息の条件を抜け出すことができ、自分の体を通しても嘆息の条件を抜け出すことができ、また、サタンの脅威を受けながらも恐怖を感じない安息圏内に立ったのなら、神様は私を協助してくださるようになります。すなわち、神様の悲しみを体恤する心情には、サタンも侵犯できないのです。お父様のために悲しみ、心配し、涙を流す人を捕らえるためには、サタンもそれと同じ立場に立たなければなりません。そのようになれば、サタンの勢力も根本的に崩壊します。
(4-60 ~ 61、1958.3.2)

 

11.生まれ変わり

生まれ変わりに対する信仰は、仏教、ヒンドゥー教、ジャイナ教など、インドで発生した宗教に共通する。これは、個別の霊魂が一つの人生から他の人生に移っていき、それぞれの人生は前世の行為によって条件づけられるという信仰である。

 

財産と幸運、社会的地位、遺産相続などが、人によって差が生じるのは、前世の行為による結果にすぎないとする。宇宙が循環するように、輪廻の車輪は私達各自が絶えず生き死にを反復しながら――時には人間に、時には動物に、さらには昆虫に再び生まれながら――生まれては消えていくようになる。

 

一方、キリスト教は、概して生まれ変わりを否定し、神様はすべての人に一度の人生の間に救援の機会を下さると主張する。仏陀も、悪行に携わる罪人が二番目の機会を無難に得ることができると慰安することによって、生まれ変わりを簡単に期待しようとすることを批判する。

 

生まれ変わりの教義によれば、霊魂たちは、人間に生まれ変わったときに完成という究極的な目的に進むことができる機会をもつ。それで、霊魂たちは、過ちを正し、霊的完成の道を備えようとする希望から、生まれ変わることのできる人間の肉身を願う。

 

文鮮明先生も、霊魂は肉身をまとったときにのみ成長できると教える。しかし、一つの肉身からほかの肉身に生まれ変わる霊魂の代わりに、文先生は地上の人を協助するために再臨する霊魂たちの過程を描写し、この過程を「再臨復活」と呼ぶ。

 

霊魂たちは、自分と類似した困難に処している地上の人たちを協助することによって、自分が完成できなかった任務を解決することができ、その時、初めて解放され、より高い次元に上がっていく。

 

時としてこれは、地上の人たちには苦痛であり、さらには罰を受けるかのような出会いにもなり得るが、彼らは、決して想像することができないつらい先祖たちの経験を相手にしなければならない。生まれ変わりを信じる人たちは、ただその霊魂たちの考えを誤って理解し、まるでその考えが前世の自分の行為であるかのように経験する。どの教えが真なのかの問題と関係なく、自分を遠い過去から無限の未来に至るまで、他者の人生と絡み合っていると見ることは、私達を謙遜と忍耐の姿勢に導く。

 

―宗教経典―

思・触・見による迷妄と、IV食(たんしょく)・吸飲・懐妊とによりて自己の生育と誕生とを得る身主(霊)は次々と、種々の境涯において、その業因に相応せる形相を得。身主はあるいは粗大、あるいは微細なる種々の形相を自己の諸性徳によって選択す。そして、活動の諸性徳と、自体の諸性徳とを有するによりて、上記の諸性徳の綜合因としての別異の存在者として見らる。
シヴェーターシヴァタラ・ウパニシャッド5.11 ~ 12(ヒンドゥー教)

 

世界には、前に行った様々な行動によって、この生で様々な家門と階級に生まれた様々な類型の存在が生きている。時には、彼らが神々の世界に行き、また時には地獄に行く。時には自分たちの行為によって悪魔になることもある。

 

時には彼らが戦士になることもあり、隣のカーストや不可触、または虫や蝶になることもある。

 

それゆえ、繰り返し生まれ変わる、悪行に従事する存在は、生まれ変わりを腹立たしく思わず、彼らはまるで戦士たちのように、生の戦闘に退屈しない。自分たちの悪行の影響で惑わされ、苦痛を受け、彼らは人間以外の生を受けて不幸に遭う。
しかし、偶然に業の止滅によって生きている存在は、時になれば清浄な状態に到達し、人として生まれるだろう。
ウッタラッジャーヤー、スートラ3.1 ~ 7(ジャイナ教)


「ときとして私は高い家門に生まれ、また時として低い家門に生まれた。私は飛天することもなく、高貴でもなく、また私は社会的な高い地位を願うこともない」。このように考えるとき、誰が自分の家門やその栄光に対して誇り、またそのようなことを願うだろうか。

 

したがって、知恵深い者は、自らの運命に対して喜んだり恨めしく思ったりしてはいけない。彼はあらゆる衆生の幸福を知り、それに対して深く考えなければならない。注意して振る舞いながら、次のように考えなければならない。

 

「私は常に盲人、耳が聞こえない人、話ができない人を経験するのであり、片目が見えず、背中が曲がり、目が遠く、黒人であり、白人であり、またあらゆる皮膚の色をした人だ。私の不注意のために、私は様々な生を受けて生まれ、あらゆることを感じ経験する」。
アーカーランガ・スッタ2.50 ~ 55(ジャイナ教)

 

彼盲一百年に一たび浮びて彼一孔ある軛に首を入るるは寧ろ速なり、諸比丘よ、一たび堕処に到れる愚者の人身を得るが如きは然らず。何を以ての故なりや。
阿含経相応部V.455 (仏教)

 

罪を支払うために魂がこの世の生へとふたたびもどされるということはない……私が神の善意によって与えられた身体へもどることがどうして罰であろうか。
アウグスティヌス神の国12.27 (キリスト教)


―み言選集―

宇宙は原因なく生じることはありません。「すべてのものが自然発生的だ」と言いますが、自然はただそのまま出てくるのではないのです。自然の中にはその原因があります。自然の中には方向性があります。また、自然は結果を追求しながら巡回し、運動しています。循環運動や地殻運動など、運動しているのです。必ず方向性をもって運動しているというのです。

 

ですから、複合的な方向性が結集し、一つの完成した物として発展したのであり、そのような結果になったことが分かります。宇宙は回っていく運勢なので回っていくのだと言い、歴史も発展して回っていくと言います。春夏秋冬も回っていくと言います。そのようになれば、進化するすべての段階はなぜ回っていかないのか、なぜ発展ばかりしなければならないのかというのです。

 

このような観点から、循環する世界を見てみるとき、ここから輪廻説のようなものも出てきたのではないかと思います。人が動物にも帰っていき、木にも帰っていき、何にでも帰っていくと見る、そのような観点も関係があるというのです。
(94-11 ~ 12、1977.6.19)

 

今日、人間世界に暮らしている皆さんは、人間世界を中心として霊的現象を見ることができます。どの時代でも、いつの時でも、宗教人はもちろん、それ以外の人たちも霊界の因縁に従い、霊界と混合した生活圏で暮らしていることは歴史的な実証といえます。歴史過程を通してそのように生活してきたという事実は、私達が宗教を信じなくても、夢を通してや、様々な神秘的な体験を通して知っているのです。
(131-167、1984.5.1)

 

なぜ再臨しなければならないのかというと、地で結ばれたために地で解かなければなりません。仏教のようなところでは、このような現象を輪廻説と言います。誰が再臨した、孔子が来た、釈迦が来たというのは一瞬のことです。その人が釈迦ではありません。

 

再臨して、ある分野の責任をその人を通して成し遂げようとすると、そのような現象が起きます。それで、このくらい上がったなら、またここからもっと上がっていこうとすれば、ほかの預言者を通して上がっていかなければなりません。
(91-276 ~ 277、1977.2.27)

 

霊界にいる霊人たちは、地上の人間を通じて自分が恵沢を受けることを願います。これが霊人たちの要求なのです。堕落しなかった本来の人は、天使世界と宇宙を主管することができる価値的存在です。

 

人間が堕落することによって何段階も下に落ちたために、再びその位置まで上がっていかなければなりません。上がっていくにも、一遍に上がっていくのではなく、段階を経て上がっていくのです。段階を経て、個人、家庭、氏族、民族、国家、世界、天宙まで復帰して上がっていかなければならないのです。

 

本来の人間は、この世界に訪ねていくべきです。ところで、この世界に訪ねていくには、一遍に上がっていく道がないために、一段階、一段階を開拓しながら、個人から家庭に、家庭から氏族に、氏族から民族に、段階を経ていかなければなりません。

 

神様の摂理について見れば、旧約時代、すなわち個人を救い得る個人的な摂理時代以前に死んだ霊人たちは、その時代に入って恵沢を受けようとするのです。それで、一段階を上がっていくためには、必ず蕩減が起こります。一段階を越えるためには、カイン・アベルの場合のような蕩減役事が、必ず起こるのです。

 

ある霊人が、この時代を経てきながら、甲という人に協助してきたとしても、一段階を越えていくためには、ただでは越えられないのです。ここには必ず蕩減期間があります。それは、一日、二日で成されるのではなく、7年とか、40年、70 年、あるいは何世紀を経ていく時があるのです。

 

ですから、ここで協助した霊人は、その蕩減期間が終わらないうちは続けて上がっていくことができないので、霊界に帰るのです。その霊人は、地上にいる甲という人が基盤をすっかり築いてくれるのを願っているのですが、その人がその期間内に蕩減を果たせず死ぬことになれば、その霊人は、第2次に乙という人を選んで、乙に再臨するのを待ち望みます。ですから乙に再臨する霊人は、甲に再臨していた霊人なのです。

 

その霊人がパウロなら、パウロが時代的に一段階一段階上がっていくためには、第1次に再臨した甲という人が、蕩減期間内に蕩減を果たせずに死ぬようになれば、第2次として乙という人に再臨して協助して上がっていくのです。

 

必ず蕩減期間があるのです。蕩減期間は、原理的な期間があって、短期間にはなされません。ですから、第2次に選んだ乙という人が蕩減できなくなれば、その次には、丙という人を選んで再臨するのです。それで、結局、丙という人にパウロが再臨したということになるのです、

 

この時に、乙がある文字を書いておいたり、何かをするようになると、「私はパウロの霊の協助を受けて、今役事する」と言うのです。その次の時代に丙という人においても、ある文字を書くようになれば、彼もやはり、「パウロの霊の協助を受けて役事する。私がパウロだ」と言うのです。

 

このようになるので、結局は全世界にパウロの霊が、乙に現れ、再び丙に現れたのと同じようになるのです。このような現象が起きるために、これだけを見て輪廻だと言うのです。リーインカネーション現象のようなものとして現れるのです。全体を知らないために、そのように言うのです。それがこの時代と同様で、世界天宙時代まで起こります。

 

本来の人間は、サタンの支配を受けず、神様の直接主管圏内で暮らさなければならないのに、堕落することによって堕落圏に暮らすようになったので、それを脱するためには個人として蕩減し、家庭として蕩減しなければなりません。

 

これを蕩減せずには、脱することができないのです。霊人は、必ずその時代ごとに再臨現象を経て現れるために、その段階、段階が輪廻、すなわち生まれ変わる現象として見えるのです。

 

このような観点で見るとき、皆さんも同様です。皆さんが個人的にただ信じて死ぬようになれば、家庭をもてなかったために、家庭基準、氏族基準、民族基準、国家基準、世界基準といった段階をみな越えていかなければなりません。

 

ですから、何億万年がかかるかもしれないのです。それは無限に該当します。イエス様も国の基準を越えられなかったために、国の峠を越えるために再びやって来て、国の峠を越えて初めて天国に入ることができるのです。

 

イエス様は、今楽園にいますが、同様の道理です。このような立場で、イエス様がこの中のある人に再臨して、その人を直接指導するようになれば、イエス様が臨在したその人は、「自分がイエスだ」と言います。

 

ですから、それだけ見れば、昔のイエス様が自分として生まれ変わったと思うために、輪廻説のような現象が起こることになるのです。皆さんは、このような霊的世界をよく知らなければなりません。

 

人は、本来神様が直接主管なさる善主権内で暮らさなければならないのに、堕落圏内で生きているために、悪主権を脱しなくてはならない運命にあるのです。ですから、このような問題かあるのです。イエス様は、霊的にそれを成しました。キリスト教も霊的にそのことをしてきているのです。

 

このような観点で見るとき、統一教会の復活論は、霊界の事実にそのまま当てはまります。言い換えれば、統一教会の復活論は、霊界の公式を皆さんに教えてくれているのです。今までの数多くの宗教人たちが、そのような未知の霊界の事実を体験はしましたが、それがどのようになっているか、その事実を知らなかったのです。
(54-277 ~ 280、1972.3.26)

 

12.霊的誤謬と秘術

世界の主要宗教には、霊たちと彼らの霊的交信に対する深い不信がある。霊たちは究極的実在と比較できないため、最上の真理に内密に関与することができない。キリスト教、ユダヤ教、イスラームは、天使たちが誤って罪を犯したと教える。

 

仏教は、さらに創造神(ヒンドゥー教のブラフマン)をこのような従属的な神様の中の一つであり、仏陀として現身した達磨に従属するものとみなす。

 

霊たちは、利己的な目的に引っ張られて過ちを犯し、彼らを案内者として頼る人たちを誤って導きやすい。さらに、霊界は悪霊、悪魔たちと堕落した天使たちだけでなく、ジン(イスラームの神話の神霊)を含む霊的仲介者たち、死んだ者たちの霊、多様な等級の幽霊たちが居住する所である。


霊媒、魔法使い、シャーマンたちから霊界に対する何かの情報を求めるなど、秘術の儀礼は低級な領域にいる霊たちとの交流を通して人々をあちらこちらにさまよわせることもある。

 

文鮮明先生は、これをシャーマニズムが依然として広まっている韓国で経験した。師はまた、エバが霊の力が不足だったため、秘術と人間の堕落の間に隠密な関連がある点を認める。したがって、私達は、啓示されたより高次的真理の権威を借り、「霊たちが果たして神的なのかを検討」してみなければならないと勧告する。

 

信仰、純潔、啓示された真理固守、そして善行を実践することなどは、最上級の霊的存在との交流を保障する優れた方法である。


①堕落した霊魂は偽りの案内者

―宗教経典―

実にバガヴァットよ、神々や悪魔もあなたの顕現を知らない。あなただけが、自ら自己を知る。至高のプルシャよ。万物をあらしめる者、万物の主、神のうちの神、世界の主よ。
バガヴァッド・ギーター10.14 ~ 15(ヒンドゥー教)

 

神はその僕たちをも信頼せず、御使いたちをさえ賞賛されない。
ヨブ記4.18 (キリスト教)

 

人間の息子の中で、盲人たちはどれほどふびんだろうか。この世界がどれほど奇妙で、見えないものと隠された危険でいっぱいに満ちているか、彼らは知ることができない。これを知れば、地上で生命を知らずに生きているという事実に驚くだろう。
ゾハール1.55a (ユダヤ教)

 

神は神聖な会議の中に立ち、神々の間で裁きを行われる。「いつまであなたたちは不正に裁き、神に逆らう者の味方をするのか。弱者や孤児のために裁きを行い、苦しむ人、乏しい人の正しさを認めよ。

 

弱い人、貧しい人を救い、神に逆らう者の手から助け出せ。」彼らは知ろうとせず、理解せず、闇の中を行き来する。地の基はことごとく揺らぐ。
私は言った、「あなたたちは神々なのか、皆、いと高き方の子らなのか」と。

 

しかし、あなたたちも人間として死ぬ。君侯のように、いっせいに没落する。神よ、立ち上がり、地を裁いてください。あなたはすべての民を嗣業とされるでしょう。
詩編82(キリスト教)


―み言選集―

霊的な現象においても、お化けや悪霊の活動という、このような現象がいくらでもあるのです。このように見るとき、神様と人間との関係、これは解決されていません。これを解決しなければなりません。理論的に解決し、神様が主体なのか、人間が主体なのか、悪の霊が主体なのか、人間たちが主体なのかという、このようなすべてのことを設定してあげなければ、この宇宙が定着できないのです。
(191-11、1989.6.24)

霊界はカイン的であり、地上はアベル的です。(注35)今までは、カイン的な立場にいる霊界が人間を支配してきました。霊通人たちがすべての人間たちを支配してきました。地上にいる人間たちに使令(指令?)して、自分が恵沢を受けてきたのです。
(83-15、1976.2.5)


最近、ノイローゼ現象で、よく独りでぶつぶつ言っていますが、なぜそのようになるのか知っていますか。それはすべて霊界……。

 

このような関係、このような階級にいる人たちが、独りでは上がっていくことができないので、この人間世界を通してそのようなことをするのです。ところが、悪霊は観がありません。方向性がないのです。善霊は方向性がはっきりしています。
(91-274 ~ 275、1977.2.27)

②秘術の危険

―宗教経典―

暗質的な人々は、餓鬼や鬼霊の群を供養する。
バガヴァッド・ギーター17.4(ヒンドゥー教)

霊媒を訪れたり、口寄せを尋ねたりして、汚れを受けてはならない。私はあなたたちの神、主である。
レビ記19.31 (キリスト教)

先生は、怪異と暴力と背徳と神秘とは、口にされなかった。
論語7.20 (儒教)

わが徒は、アタルヴァ・ヴェーダの呪法と夢占いと観相と星占いとを行ってはならない。鳥獣の声を占ったり、懐妊術や医術を行ったりしてはならぬ。
スッタニパータ927(仏教)

 

私達は、祈りの場所に行く途中、占いの霊に取りつかれている女奴隷に出会った。この女は、占いをして主人たちに多くの利益を得させていた。彼女は、パウロや私達の後ろについて来てこう叫ぶのであった。「この人たちは、いと高き神の僕で、皆さんに救いの道を宣べ伝えているのです。」彼女がこんなことを幾日も繰り返すので、パウロはたまりかねて振り向き、その霊に言った。「イエス・キリストの名によって命じる。この女から出て行け。」
すると即座に、霊が彼女から出て行った。
使徒言行録16.16 ~ 18(キリスト教)

 

イザヤは言った。ある人たちが神の使徒に、占い師に関して質問を投げかけたとき、彼は答えた。「彼らは重要な人たちではない」。彼らが「神の使徒よ、ときどき彼らは真実を言います」と言った。彼が答えた。「それは精霊が偶然に得た知らせを、めんどりのように友の耳に大声で騒ぎたてる真実の一部にすぎない。そして彼らはそれに百以上のうそを加える」。   ブハーリーおよびムスリム・ハディース(イスラーム)

 

「汚れた霊は、人から出て行くと、砂漠をうろつき、休む場所を探すが、見つからない。それで、『出て来たわが家に戻ろう』と言う。戻ってみると、空き家になっており、掃除をして、整えられていた。そこで、出かけて行き、自分よりも悪いほかの七つの霊を一緒に連れて来て、中に入り込んで、住み着く。そうなると、その人の後の状態は前よりも悪くなる。この悪い時代の者たちもそのようになろう。」
マタイによる福音書12.43 ~ 45(キリスト教)


―み言選集―

人間は我知らず何かを信じたいのですが、それを自らの考えでできないので、迷信を中心として、あるいはムーダンを中心として厄払いしたりしながら、自分たちで模索し、追求するのです。我知らず人間にはそのような傾向があるのです。
(10-190、1978.10.22)

 

皆さんが地方に行けば、ムーダンや占術する人がいて、占いをして未来を予言するのも、普通の人が知らないその背後の神と関係を結び、すべて明らかにすることによってそのような現象が起きるのです。
(176-286、1988.5.13)

 

霊通者はみな、各自通じている霊界の階位と啓示の内容がお互いに異なるために(コリント15・41)、相互間の衝突と混乱に陥るのが普通である。霊通者は、事実上、みな同一の霊界を探し求めていくけれども、これに対する各自の環境、位置、特性、知能、心霊程度などが相異なるために各自に現れる霊界も、各々異なる様相のものとして認識されて、相互に衝突を起こすようになるのである。
原理講論、復活論2.2.6

 

霊界はどのような世界でしょうか。天使世界です。天使世界に当たる霊界の神々が、なぜ人間世界と関係を結ぼうとしているのかという問題を、今まで分かりませんでした。

 

皆さんは、ムーダンや占術、迷信という言葉を聞いたでしょう。それは何ですか。いまだに善悪の位置を明らかにしていない立場に立っている宗教形態です。神様が宗教形態を備えていくので、サタンも宗教形態を備えて防御しなければならないのです。

 

大概、皆さんがムーダンや占術をする人を見れば、8割以上が女性です。誰と接しているのですか。エバが堕落するとき、天使の指導を受けて引っ張られ、悪の結果をもたらしたのと同じように、復帰時代の道を再現させて従っていくこの地上では、必ず霊界の天使たちが地上に来て女性たちと一つになり、すべてのことを教えるのです。天使たちが教えるとおりにするのが占術やムーダンの役事です。そのようにしながら何をするのでしょうか。堕落したエバと同じように、霊人と暮らしているのです。
(76-95、1975.2.1)

 

今日の世の中において、易者・八卦見だとか、卜術家(占い師)たちの言葉を中心として占いをし、何をするからといって、その占う結果によって一時はそのすべての環境的与件に喜びを感じることができるかもしれませんが、それは神様と関係を結ぶことはできないということを皆さんは知らなければなりません。
(295-173、1998.8.28)


③霊魂を相手にする知恵

―宗教経典―

愛する者たち、どの霊も信じるのではなく、神から出た霊かどうかを確かめなさい。偽預言者が大勢世に出て来ているからです。
ヨハネの手紙一4.1(キリスト教)

 

兄弟たち、霊的な賜物については、次のことはぜひ知っておいてほしい。あなたがたがまだ異教徒だったころ、誘われるままに、ものの言えない偶像のもとに連れて行かれたことを覚えているでしょう。

 

ここであなたがたに言っておきたい。神の霊によって語る人は、だれも「イエスは神から見捨てられよ」とは言わないし、また、聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」とは言えないのです。
コリントの信徒への手紙.12.1 ~ 3(キリスト教)

悪霊たちは、恐れる人たちに力を発揮するが、恐れのない人たちを惑わすことはできない。
維摩経の聖なる教え7(仏教)

 

ムスリムは預言ゆえにあることから歩みを変えたりしない。彼が不幸を暗示するものを見たとき、このように言わなければならない。「神よ、あなただけが善なるものをもたらすことができ、あなただけが悪なるものを防ぐことができます。神以外にはいかなる力も勢力もありません」。
アブー・ダーウード・ハディース(イスラーム)

 

妖怪の存在に留まるは、災いを引き起こすばかり
妖怪の実体が無いと悟るは、覚者(ブッダ)の道
妖怪と実相は一つであると悟るは、解放への道
妖怪は一切の有情の両親であると悟るは、正しい理解妖怪は即ち我が心であると悟るは、無上の栄光
ミラレパ(仏教)


―み言選集―

堕落人間は、神もサタンも、共に対応することのできる中間位置にあるので、善神が活動する環境においても、悪神の業を兼ねて行うときがある。また悪神の業も、ある期間を経過すれば、善神の業を兼ねて行うときがたまにあるから、原理を知らない立場においては、これを見分けることは難しい。

 

今日において多くの聖職者たちが、これに対する無知から、善神の働きまでも悪神のそれと見なし、神のみ旨に反する立場に立つようになるということは、実に寒心に堪えないことといわなければならない。霊的な現象が次第に多くなる今日において、善神と悪神との業の違いを十分に理解し、これを分立することができない限り、霊人たちを指導することはできないのである。
原理講論、堕落論4.4

 

私が、誰か、おばさん、おばあさん、霊界に通じる人たちの話を聞いて大ざっぱな計算でこのようなことをしていると思いますか。とんでもないことです。彼らは知りません。彼らは、今証してあげるから分かるのであって、どのように回っていくのかは知らないのです。
(68-276. 1973.8.5)

霊通人たちは、互いの方向と自分の位置が違います。自分が中心点でなければならないというので問題が生じます。霊通人が100 人なら100 人全員問題が生じるのです。自分を中心として第一主義を考えるのです。中央を中心として第一主義にならなければなりませんよ。
(325-289、2000.7.2)

 

今まで霊界が、ムーダンを通して、霊通する群れやあらゆる占い師を通して、この地上の人たちをすべて利用してきました。これからそれはできません。地の人間たちが霊界を支配する時が来るというのです。
(219-78、1991.8.25)

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世界経典-18

2020年10月17日 18時21分16秒 | 学習


③天国の歓喜

―宗教経典―

天国に入っていく者は、豊かな環境にいて、窮することがない。彼の衣服はすり減ることがなく、彼の若さは限りがない。
ムスリム・ハディース(イスラーム)

アーナンダよ。かの〈幸あるところ〉という世界は、種々のかぐわしい香があまねく薫っており、種々の花や果実が豊かであり、宝石の木々に飾られ、如来によってあらわし出された、妙なる音声をもつ種々の鳥の群れが住んでいる。

また、アーナンダよ、かの宝石の木々には種々の色、多くの色、幾百千の色がある。……金と銀と瑠璃と水晶と琥珀と赤真珠と第七の瑪瑙との七つの宝石でできているものもある。……また、アーナンダよ、それら一切の木々の根や幹や小枝や大技や葉や花や果実は、柔軟(にゅうなん)であって、感触が快く、よい香りがあり、風に吹き動かされるとき、美しく快い音が流れ出て、魅惑的であり、聞いて不快の思いを抱かせないのだ。……
また、アーナンダよ、かの〈幸あるところ〉という世界には種々の河が流れている。……

実に、また、アーナンダよ、それらの大河の両岸には、種々の香りある木々が連なってつづいており、それらの(木々)から、種々の大技や葉や花房が垂れ下がっている。その河岸にいる生ける者どもは、天の、汚れ無き楽しみや戯れに耽りたいと望んでその河に入れば、欲するままに水は足首の深さにとどまるのだ。水は、欲するままに、膝の深さに、腰の深さに、腋の深さに、欲するままに頸(くび)の深さにまでなり、天上の快楽が生まれるのだ。

かしこで、生ける者どもが「冷たい水があればよい」と欲するときは、かれらのために冷たい水がある。かれらが「温かな水があればよい」と欲するときは、かれらのために温かな水がある。「冷温ほどよい水があればよい」と欲するときには、
かれらのために、ちょうど快いほどの冷温ほどよい水があるのだ。

また、その諸々の大河は、天のタマーラの木の葉や、アガル(沈香)や、カーラ・アヌサーリン(随時檀香)や、タガラ(甘松香)や、ウラガ・サーラ(蛇心檀香)や、チャンダナ(梅檀香)といった最上の香りに薫る水を満たして流れ、〔その水面は〕天の青蓮花や紅蓮花や、黄蓮花や、白蓮花や、睡蓮などの花に覆われ、如来によって現わし出された鳥どもの群れの訪れる中州には、白鳥や、鶴や、鴛鴦(おしどり)や、鸚鵡(おうむ)や、慢鷺(さぎ)や、鴨や、杜鵑(ほととぎす)や、クナーラ鳥や、カラヴィン鳥や孔雀などの妙なる鳴き声が聞こえる。

貴金属で美しく彩られ、沐浴に都合のよい階段があり、泥はなく、黄金の砂が振り撒かれている。そこでは、かの生ける者どもが、「われわれのこのような願望が満たされるように」と望むとき、そのとき、かれらのそのような願望は法にかなって満たされるのだ。
無量寿経16 ~ 18(仏教)
神の使徒が言った。「私がメッカにいるとき、家の屋根が開き、ガブリエルが入ってきた。彼は私の胸を開き、ザムザムの水で私を洗ったのち、信仰と知恵で満ちた黄金のたらいをもってきて、私の胸の中に注ぎ浴びせた。

そして、胸を閉じたのち私の手をとり、天の最も低い層に連れていった。そこに着くと、ガブリエルが門番に「門を開けよ」と言った。「どなたですか」と門番が尋ねた。「ガブリエル」と天使が答えると、「あなたと一緒にいる者がいるか」と門番が再び尋ねた。「そうだ、ムハンマドが横にいる」とガブリエルが答えた。

門番は、「彼が命を受けたのか」とまた尋ねた。天使が「そうだ」と答えた。門番が私達に門を開けてくれると、私達は天の最下層に着いた。
そこで突然一人の男を見たが、一部の霊魂は彼の右側に、残りは左側に位置していた。彼は右側を見るたびにほほえんだが、左側に顔を向けるやいなや涙を流した。彼が言った。「ようこそ、聖なる預言者よ! 聖なる子孫よ」。「この方はどなたですか」とガブリエルに尋ねた。彼が答えるには、「この方がアダムだ。彼の右側にいる霊魂たちは天国に行くようになる。左側にいる霊魂たちは地獄に落ちる。それゆえ、彼が右側を見るときはほほえみ、左側を見るときは泣くのだ」と言った。

そして、ガブリエルは私を二番目の天に連れていき、門番に「開けよ」と言った。最初と同じ質問をしたのち、門が開いた。預言者は様々な層の天で、アダム、イドリス、モーセ、イエス、アブラハムを発見した。……

そして、天使は翼がはばたく音が聞こえる高さまで私を連れていった。……そして、ガブリエルは私を境界のロートの木に連れていったが、そこは言い表せない美しい色で覆われていた。そして彼は天国に入っていった。そこには真珠でつくったドームがあり、太陽は四方につくられていた。(注19)
ブハーリー・ハディース(イスラーム)

そして、彼らは狭い道を行き、遠からず明るい光が現れた。そのとき彼らは、その道に沿って広がる花々の香りをかぐようになった。おいしそうに見える果物が道端に生えており、いろいろな鳥たちが空中で彼らの上を飛んでいた。最も不思議で美しいものがそれぞれの手にあった。このすべてのものが天の道にあった。エニアイエホク。

彼らは旅を続けた。時が少したち、彼らは休憩所に到着した。そのときメッセンジャーが言った。「ここはその泉と呼ばれる。そしてそれは休息の空間だ」。そのとき、見よ、彼はその泉を見て、彼はこれほど美しく澄んだ泉を見たことがないと思った。そのとき四つの存在が、「ここは元気回復の場だ」と言った。

四つの存在の中の一つが自らの懐から瓶を取り出した。取り出したように見えたが、実際にそうだった。そして、それを泉につけた。そのとき彼は、「あなたはまず飲まなければならない」と言った。それで彼はそれをくみ上げた。しかし、彼がそれを見たとき、彼はそれが十分でないと思った。それで彼は、「私はこれが十分でないと思います」と言った。彼がこのように言ったとき、そのメッセンジャーたちは、互いに見つめあって笑った。

その中の一人が、「本当にそれは十分だ。それが不足なら、まだ泉があるからその瓶にまた満たすことができる」といった。それで、みな水をくんで飲んだ。そして皆が願っていたすべての水はその瓶にあった。エニアイエホク。

彼らは旅を進めた。そして、ほんの短い距離を行ったとき、彼らは何かが彼らに近づいて来るのを見た。まもなく彼らはそれと出会った。彼は、それが一匹の犬だということが分かった。彼らが近くで見たとき、その犬はしっぽを振り始め、彼の懐に飛び込んだ。

そのとき彼は、その動物が新年祭の犠牲として供えたとき、正にその姿をした自分の犬だということが分かった。そのとき四つの存在が、「これは創造主に捧げた私達の感謝の祭物の価値を立証するものだ」と言った。そのように彼らは言った。エニアイエホク。

彼らは再び旅に出た。いくらもたたずに休息所に到着した。彼らの前に遠くから一人の男が現れて近づいてきた。彼はすぐに近くに来た。そのとき彼は、その男がほかの二人を両側に引き連れているのを見た。

彼が見ると、一人はカイアンタカの娘だった。その少女は体の大きい子供に見えた。彼女と一緒にいる子供は、カニオ・ダイイオ自身の息子だった。その息子と娘は、一人一人に挨拶をした。彼らが友好的だったため、彼らが見知らぬ人ではないことを、彼らは知ることができた、さらに、四番目の人が彼ら全員を引率していた。エニアイエホク。その人は、「人が死ぬとき、より低い世界の人たちがここに来るという事実を証明するために、私は私と一緒に彼らを連れてきた」と話した。
コード・オブ・ハンサム・レイク112 ~ 116(アメリカ先住民の宗教)

天国に暮らしている人々は、そこで飲んだり食べたり、つばを吐いたり、用をたしたり、風邪で苦労しない。
ムスリム・ハディース(イスラーム)

すべてのもののために天がある。地も天であり、海も天である。そして、動物と植物と人間も天である。すべてあの天の内容物だ。その中にいる神々は、人間を軽蔑することもなく、すべてが天の秩序の中にある。その外のいかなるものも軽蔑することがなく、平和なすべての宇宙と国を貫通する。

「平和に過ごす」所がそこだ。この神聖な存在にとって真実性は、母であり保母であり、存在であり滋養分である。あらゆるものは、過程ではなくそれらが見る本当の存在だ。

そして、すべてのものにそれら自身がある。なぜなら、すべてのものは透明で、暗闇がなく、抵抗するものがない。すべての存在は、それぞれの異なる存在に幅と深さにおいて明確だ。光は光を通して走る。そして、それら各自にすべてのものを含み、同時にそれぞれの異なる存在においてすべてのものを見る。ゆえに、どこでもすべてのものがあり、すべてのものがすべてのものであり、各自がすべてのものであり、栄光は無限である。

それら各自が偉大だ。小さいものも偉大だ。そこの太陽はすべての星だ。それぞれの星はすべての星であり太陽である。ある存在様式が各自に支配する間、すべては異なる存在に捧げられる。
プロティノスエネアデス5.8.3(ヘレニズム)


―み言選集―

あの世の生活はどうでしょうか。食べるものも心配ありません。住むのも心配ありません。着るものも心配ありません。なぜでしょうか。自らの心霊状態のままに、願うすべてのものが可能だからです。

あの世でも食べます。あの世でも自分を触ってみれば血管が、脈拍が走るのが分かります。同じです。霊的な体ですが同じなのです。

私が「何々を食べたい」と言えばすぐに現れます。「このような物を食べたい」と言えばすぐに現れます。それはどこから来るのでしょうか。根源世界を動員できる能動的な自主性を行使できる世界が霊界です。

ですから、全体を動員できる主体的な能動権をもったものとは何ですか。権力でもなく、知識でもなく、お金をもった勢力でもありません。愛です。
神様がいくら高いといっても「神様!」と愛の心で呼べば、すぐに「なんだ」と自分の心の中で答えます。「神様、どこにいらっしゃいますか」、「どこにいるかって、お前の心の根本にいるではないか」と答えるのです。神様が本来根本ではないでしょうか。心の根の根本にいるでしょう。このようになっているのです。

ですから、一晩で宴会が何十万回、何百万回でも可能だというのです。自分が愛に酔って直感で感じることを実現するために命令すれば、それがそのまま展開します。
(194-42、1989.10.15)

これからは、犬も天国に、すべての万物も天国に行けます。主人が行く所には、どこへでもついて行けるのです。
(78-337、1975.6.10)

あの世にパンエ場があるでしょうか、ないでしょうか。コーラとかジュースを作る工場があるでしょうかないでしょうか。どうしてないのですか。分からないでしょう。そこに自動車を造る工場があるでしょうか、ないでしょうか。あの世に行って「私は、いい車に乗り回るんだ」と言って、こうして乗りますか。ここではベンツに乗って、何がどうだこうだと誇りますが、そこではそれ
はすべて必要ありません。

あの世界では、誰であっても、想像だけで、「私はダイヤモンドの車が必要だ」と思えば、それがさっと現れるのです。それに乗らなくても、1秒の間に数十億万里、数十億光年の距離を行けます。どうして車が必要でしょうか。

愛する心、真の愛の心さえあればよいのです。「私は、何億万年前の、このようなタイプの美人が見たい」と思うとき、そこに100 パーセントそのまま当てはまる人がいなくても、100 パーセントの姿を備えて現れるのです。真の愛を中心として、すべてのものが想像で可能な所です。それが主流の観念です。その観念がなければ何もできません。
(207-94 ~ 95、1990.11.1)
神様が創造したこの巨大な宇宙! そこには自動車もなく、飲食店もありません。しかし、私達は、霊界で、まるで創造主であられる神様のようにあらゆる種類のものを、真の愛の概念を中心として創出することができるように、愛を中心として本来の力を発揮してすべてのものをつくることができるのです。
(217-293、1991.6.2)

霊界に行けば小便を、するでしょうか、しないでしょうか。この次に行ってみてください。私はすると思うのですが、しないと思う人は行ってみてください。それでは、大便をするでしょうか、しないでしょうか。みんなします。みんなするのですが、すぐ元素に帰ります。

宇宙の根本元素が107 個だと言いますが、どんどん増えていますね。その元素に帰ります。したがって、掃除する必要がありません。愛の心をもって手入れをすれば、きれいに本故郷へ帰るのです。
(212-30、1991.1.1)
8.地獄

誰も自分、あるいは愛する人が地獄に落ちるように運命づけられることを喜ばない。しかし、大部分の人々が神様の本来的な愛の基準から離れた人生を生きていくことは、苦痛なこどである。このような状況はごくありふれている。

すなわち、私達は、自分の考えと欲望が肉身の意志に従うように許容し、私達の精神は絶えず利己的に流れる。私達は、習慣的に良心の声を黙殺する。

私達は、愛する人たちを裏切り、その責任を回避するだけでなく、私達自身に関する真実にまでも顔をそむけてしまう。このように70 年を超えて生きたとすれば、水晶のように澄んだ天国の共同体に適合することを望むことができるだろうか。

地獄とは何か。ある伝統宗教は、それは硫黄が流れる川のある地の深い所として描写する。そして、ある伝統宗教では、地獄とは単に心の状態だという。しかし、ひどい孤独、後悔、恥、罪責感や喪失の苦痛を経験していた人であれば分かるように、そのような心の状態は、耐え難いほど生々しいものである。

さらには、私達が肉身生活をする間、大概は忘却、自己合理化、感覚的快楽や飲酒にはまって回避するように、その感覚を避けるのは霊界では不可能だという。不快な感覚からの猶予はあり得ず、その感覚は不幸な霊魂を絶えず苦しめ、それが継続する。

想像を超越する苦痛を描写するために、宗教の諸経典では、めらめらと燃える火、ぐつぐつと煮えたぎる湯水、厳寒、全身がつぶされる、手足を引きちぎられる、踏みつけられる、燃やされる、生きたまま食われるなどの具体的なイメージを使う。

私達は、地獄から抜け出せる可能性を提示する、いくつかの章句で締めくくる。東洋の宗教は、地獄のすべての状態を一定期間、罰を与えるために考案された、悪行が燃やされ、霊魂が真の道を見いだすことができる未来の機会をもつ煉獄とみなしている。

文鮮明先生は、神様が地獄を創造したのではないと、はっきりと教えている。事実、地獄の存在自体は、神様の絶対善に対する侮辱であり、愛に満ちたその胸に杭を打ち込むことである。私達が十分な愛をもてば、ほかの人たちが地獄に向かっていく道を防ぐことであれば、何でもするだろう。その上、私達は、墓の中で三日間地獄を征服していたイエス・キリストやヒンドゥー教の英雄ヴィパスイットのように、地下の監獄に閉じ込められた人たちを救出するだろう。


①地獄の苦痛

―宗教経典―

地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもない。
マルコによる福音書9.48(キリスト教)

しかし、おくびょうな者、不信仰な者、忌まわしい者、人を殺す者、みだらな行いをする者、魔術を使う者、偶像を拝む者、すべてうそを言う者、このような者たちに対する報いは、火と硫黄の燃える池である。それが、第二の死である。
ヨハネの黙示録21.8 (キリスト教)

猛毒の火花が飛び散る火の海、
自我以外には何もない。
火の海の波が千万にも波うち、
罪人たちがその中で燃えている。
アーディ・グラント、マールー・ソハレ、M.1、p.1026(シーク教)

かかる者のあとは地獄があって、けがらわしい水を飲まされるであろう。かれはそれをすするのだが、なかなか飲み込めぬ、また死はあらゆる方向から迫るが、かれは死にもせぬ。なおかれの後ろには容赦のない刑罰がある。
クルアーン14.16 ~ 17(イスラーム)

まことに地獄は、待ち伏せた所であり、法外な者にとって、帰り着く所、かれらは長い年月、その中に住むであろう。そこでは涼しさも味わえず、煮えたぎる湯と膿のほかには、どんな飲物もな
い。かれらのためふさわしい報奨である。

まことにかれらは、その行いに対する清算を希望しないでいた。またかれらは、わがしるしを虚偽だとし、強く拒んだ。われは一切のことを、書物にどどめている。それでなんじらは自分の行いの結果を味わえ、われは刑罰を増加するばかりである。
クルアーン78.21 ~ 30(イスラーム)


罪深い者たちの内で、ある者は薪のようにのこぎりで切られ、またある者は大地に投げ捨てられたり、斧でずたずたにされたりする。ある者は身体の半分を穴に埋められ、頭を槍で刺し貫かれる。またある者は絞り機の真ん中に固定されて、砂糖きびのように圧搾される。ある者は燃えさかる炭に囲まれ、たいまつに包まれ、鉱石の塊のように精錬される。

ある者は熱いバターに、またある者は熱い油に押し込められ、フライパンに投げ込まれたケーキのようにひってり返される。ある者は巨大な狂った象が群れなす道に投げ込まれ、またある者は手足を縛られて逆さまにされる。ある者は井戸に投げ込まれ、ある者は高い所から投げ落とされ、またある者は虫のたくさんいる穴に押し込まれ、それ
に食べられる。……正当な秩序に従って下界の拷問を経験したあと、彼は清められて再びここに帰ってくる。(注20)
ガルダ・プラーナ3.49 ~ 71(ヒンドゥー教)


また蛆虫の棲む水釜があり、罪を犯した人はその中で煮られる。出ようにも、つかむべき縁がない。その釜の上部は内側に彎曲していて、まわりが全部一様だからである。また鋭い剣の葉ある林があり、(地嶽に堕ちた者どもが)その中に入ると、四肢を切断される。(地獄の獄卒どもは)鉤で舌をとらえ、引っ張り、引っ張っては苦しめる。

また次に(地獄に堕ちた者どもは)鋭利なる剃刀の
刃あるヴェータラニー河に至る。愚かなる輩は、悪い事をして罪を犯しては、そこに陥る。そこには黒犬や斑犬や黒烏の群や野狐がいて、泣きさけぶかれは貪り食うて飽くことがない。また鷹や黒色ならぬ烏どもまでが啄む。

罪を犯した人が身に受けるこの地獄の生存は実に悲惨である。だから人は、この世において余生のあるうちになすべきことをなして、忽せにしてはならない。
スッタニパータ672 ~ 76(仏教)


そこで人々は、「これはあなたに、これは私に」と言い、それぞれの私地を分け、互いに分割している。これに関して尋ねれば、彼らは答える。「他の世界で彼らがこのようなやり方で私達を扱い、順番に今度は私達が同じやり方で彼らを扱う」。
シャタパタ・ブラーフマナ11.6.3(ヒンドゥー教)

大地はまたその内部に、多くの地域をもっているのであり、それらは、大地全体をめぐってあるさまざまな窪みのうちに、それぞれ位置しているのだ。そのある地域は、われわれの住んでいるここよりもさらに深くに位置し、またより広く開かれているが、しかしまたある地域は、より深くはあるが、その開きは、われわれのもとにある地域よりもそのほうが狭いというのがあり、またさらに、深さにおいてはここよりも劣るが、しかし広さはまさるという地域も見出されるのである。

さて、以上のすべての地域は、地下を通ってかず多くの地点で、狭広いろいろの仕方で相互に貫通されており、さまざまな通路をもっているのだが、それによって一方から他方へと、あたかもクラテール(混酒器)に水をそそぎこむかのように莫大な水が相互に流れあうのである。そして地の内部には、とほうもなくおおきな不尽の流れがひろがり、それらはあるいは熱湯に、あるいは冷水にみたされているのだ。

またそこには巨大な火があり、さまざまな大河があり、さらにはまた、どろどろに泥濘がおおくの流れをなしているのだ。それらの泥濘には、比較的に清らかなものとか、あるいはまったく泥状のものがあるが、そのさまはちょうど、シケリアにある溶岩の流れにさきだつ泥の河と、その溶岩流そのものにみられるがごときものである。……地域をめぐったのちに、再度、タルタロスヘと流れこむのである。

死者たちが、それぞれ、神霊につれられて、先に述ベられた或る場所へとやってくると、最初に、彼ら、すなわち、すぐれた生をおくり敬虔に生きた者と、そうでない者とが、裁きの前に立つのである。そしてまず、大した善事も悪事もなすことなしに生をおえたと判定された者は、アケロン(冥界の河)のあるところまで行き、彼らのためにしつらえたかの舟にのり、いまいったアケルシアス湖(冥界の湖)までそれにのってやってくるのだ。

そして彼らはそこに住まい、みずからを浄めながら、もし、なにか不正をおかした者であれば、それにあたいする罰をうけて、その不正のとがめからは解放され、また反対に、なんらかの善行があったならば、それ相応をおのおのが受けるのである。

ところがしかし、そのおかした罪過があまりにも大きいために、もはや癒しがたいと判定された者たち、たとえば神のものを冒pする行為を何度も大がかりになした者とか、不正であり無法でもある殺害をかず多くしでかした者とか、またほかにもそれに類する行いをあえてなした者についていえば、彼らは、その悪行にふさわしい定めによって、タルタロスヘと投げこまれ、そこからもはや二度と出ることはないのである。

しかしながら、それはなお癒しうるとしても、そのおかした罪過は大きいと判定された者たち、たとえば一時の激怒から、父母に対して暴虐をおかしはしたものの、のちには悔いあらためて以後の生をすごした者とか、あるいは、それと似た事情のもとに殺人をおかした者についていえば、まずもって彼らが、タルタロスに堕ちねばならないことは、必定である。

しかし、そこに堕ちて一年がたつと、さかまく浪が彼らを〔タルタロスの〕そとへとなげ出すのだ。そして一方、殺人者のほうは、コキュトス(悲傷の流れ)に運ばれ、他方、父母に暴虐を加えた者のほうは、ピュリブレゲトン(灼火の流れ)に運ばれていくのである。

そして運ばれて、アケルシアス湖のあたりまで達すると、彼らはそのところで大声に叫び、自分たちが殺した人々や、あるいは暴虐を加えた人々の名を叫ぶのだ。で呼びとめると哀願して、自分たちがこの河を出て、湖に入ることを許し、自分たちを受けいれてくれと乞うのだ。かくしてもし、その願いがききいれられるならば、そのとき彼らははじめて河のそとに出ることができ、もろもろの苦難はそれでやむ。しかし、もしききいれられなければ、彼らは再度、タルタロスヘと運ばれ、そこからまたあらためておのおの河へと運ばれるのだ。

そして彼らがこのような苦しみにあうことは、おのれが不正をおかした当の相手を納得させるまでは、止むことなくつづくのである。というのも、この定めこそは、かの裁きし者が彼らに課した刑罰にほかならないのだから。
プラトンパイドン(ヘレニズム)


―み言選集―

地獄とは何ですか。どのような所が地獄ですか。愛もなく、生命もなく、血統も関係のない立場で、自分を中心として天下一だと互いに主張し、額をつき合わせ、顔をつき合わせ、行動を比べ、紛争の結果となるのが地獄です。
(360-185、2001.11.16)

地獄とは何ですか。悪魔の愛圏内を意味します。悪魔は憎悪と嫉妬とねたみと分裂と破綻ばかりを崇拝するのです。それで、悪魔圏はそのようなものばかりが盛んに行われる所です。それが戦争として現れるのです。
(214-282、1991.2.3)

地獄はどのような所ですか。地獄は権力を誇る所であり、お金を誇る所であり、自分を誇る所です。私達の本性は、愛を受けたいと思い、善を要求するのですが、その反対の性質があらゆる方向からぶつかってくる所が地獄です。

しかし、地獄に行っているからといって、愛を受けたいと思う心がなくなるのではありません。それがもっと強くなるのです。
(102-160、1978.12.17)

あの世に行って何をするのでしょうか。食べるでしょうか、食べないでしょうか。それで、食べるのに何を中心として食べるでしょうか。愛を中心として食べるようになっているために、愛をもてなかった人は、行って食べようとしても、口が開きません。それが法です。

自分を愛する心だけあり、全体を愛する心が中心になっていなければ、口が開きません。箸で食べる物をつまんで口に持っていこうとしても、箸がほかの所に行くのです。ですから霊界は、真の愛をもってこそ、すべてが可能な世界であって、真の愛のコンセプトをもたなければ、すべてが不可能な世界です。
(207-95、1990.11.1)


霊界に行ってみれば、霊界のすべての人たちが地獄の多くの段階的部署にとどまっているのですが、その人たちがどのようにしてそのようになったのですか。

愛の秩序の道理を中心として、孝子、孝女にならなければならないにもかかわらず、孝子、孝女になることができなかった人たちだからです。国を中心として忠臣にならなければならないのですが、そのようになれなかった人たちだからです。さらには、世界を中心として、聖人になるべきだったのですが、そこに拍子が合わず、その度数の違いによってふさわしい場所にとどまっているのです。
(147-183 ~ 184、1986.9.21)

アダムとエバが堕落することによって、歴史時代においてどれほど批判されましたか! そのように、皆さんを子孫たちが審判するというのです。それが最も恐ろしいのです。先生が皆さんを呼び、この高貴なものを相続させてあげようとしています。
先生がそれを失敗する場合には、すべての霊界が讒訴します。先生はそれを知っています。どれほど恐ろしいですか! 先生はよく知っています。先生の過去の生涯路程がいくら困難だったとしても、それが問題ではないのです。その困難より霊界の讒訴がもっと恐ろしいのです。それで、いくら迫害を受けても、それがやさしい道であることが分かりました。どちらのばうが価値があるのかということが分かるのです。
(189-247、1989.4.9)

天上世界は光の世界であり、地獄は暗闇の世界です。その世界に行けば行くほど、いくら自分がうれしいと思っても、瞬間に喜び得る姿になったとしても、すぐに暗闇が占領してしまうのです。お酒を飲んで喜んでいますが、振り返れば嘆息するのです。良心が忠告します。お前はどこにいるのかと言うのです。良心が喜ぶ所ではなく、良心が嫌う所にいる人間は暗闇の世界に属しているのであって、神様の本性の世界、光の世界と関係がないことを知らなければなりません。
(400-104、2002.12.28)
世界も混乱しています。それでは、霊界はどうですか。混乱した人間像が霊界に行って集まっているので、霊界は混乱せざるを得ないのです。盗みも習慣になれば、いつも盗みをするものです。ですから、地上で盗みごとをしていたならば、天上世界に行ってもただを願います。それで、処置が困難なので地獄というものが生じました。

地獄は神様がつくったのではありません。地獄は生じたのです。ごみ箱をつくっておいて家を建てますか。家を建てて暮らしてみると、ごみ箱が生じるでしょう。同じことです。
(148-28、1986.10.4)

天国からすぐ下に、少し下がると、はっきりとした多様な霊界の階層が広がってきます。地上の人間が考えるときには、霊界は、天国と地獄の二つの階層のみで構成されていると考えることもあるのですが、実際は、数多くの階層で構成されています。善なる所から、より悪なる所まで多様に形成されています。

霊界が、このように多様に階層化されていますが、天国以外の所では、心安らかにいられる所はありません。ここでは、生活するのがとても大変です。お互いが悪を中心として、「自分が正しい」と主張し、けんかしています。、霊界の各階層では、同じ性稟をもった霊人同士が集まって暮らしているので、おもしろくありません。

例えば、地上でよくどろぼうをした霊人たちが暮らしている世界は、いつも周辺の霊人たちが、何かを盗んでいくように感じて、お互いに疑い、不信しながら生活をするようになるので、いつも不安なのです。また、地上でけんかばかりししてきた霊人たちが暮らしている所は、いつもけんかばかりしています。

今まで、地上で暮らしたのち、霊界に来た霊人たちは、大部分、中間霊界と地獄に来ています。霊界では、地上でどのような生活をしたかによって、霊界の生活が決まります。


ですから、苦痛を受けるような霊界や地獄にとどまらないためには、原理的な生き方から外れないで、絶対信仰、絶対愛、絶対服従の道を行かなければなりません。神様の性稟は、ひとえに善であり、愛であるので、神様の性稟に似ようと努力をしてこそ、天国に行くことができるのです。

中間級の霊界を通り過ぎて、もっと下に降りていくと、四方が暗く、どんよりとかすんで、息の詰るような地獄が現れます。ここは、ぞくぞくと寒気がして、汚い臭いが強く漂っています。凶悪な姿をした霊人も現れます。お互いにかみつき合い、血気にはやり、憎み合っています。ある霊人が一言言えば、けんかが始まり、どなって殴り合い、大騒ぎになります。死体の腐った臭いよりも、さらにひどい、嫌な臭いもします。

また、ある所では、火に包まれたくぼみのようになっているのですが、よく怒る霊人が、ここに集まって住んでいます。そして、最も恐ろしい地獄の底には、自殺した霊人や、地上で淫乱な生活をした霊人たちが住んでいるのですが、蛇がうごめいていて、恐ろしくおぞましい姿をしており、とても目を開けて見ていられない所です。

霊界は、天国から地獄まで、色によって各霊界圏の違いを表現できます。天国は、透明で、白く明るい色です。汚れのついているまだらなものが全くなく、白玉のように、傷一つありません。

ところが、低い霊界に行くほどに、色がだんだんと濁っていきます。色あせた薄い色が、暗く濁った紫色系の中間色系統が現れます。さらに低い段階に行くと薄い栗色が現れ、灰色系統が現れます。続いて、灰色系、黒、濃い黒の順に現れます。天国は明るく、天国に近づくほど、明るい色の系統が現れ、地獄に行くほど、暗く混濁した色が現れます。

地上で罪を多く犯して、霊界に来た霊人であるほど、その色を見れば、暗く濁っているのです。そして、犯した罪によって、霊人体の各部位に、色で表示されて現れます。
興進様の霊界メッセージ2002.1.1
②地獄に関する警告

―宗教経典―

なんじらは多いことを、張り合って夢中になり、墓に追いたてられるまで(それにふける)いや、やがてなんじらは知ろう、重ねて言う、いや、やがてなんじらは知ろう。いや、なんじらはいまに明確な知識で知ることになろう。

なんじらはきっと獄火を見よう、重ねて言う、なんじらはきっと明確にその目でそれを見ることになるであろう、それからその日、なんじらは(夢中になっていた)享楽について、きっと問われるであろう。
クルアーン102.1 ~ 8(イスラーム)

「ある金持ちがいた。いつも紫の衣や柔らかい麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。この金持ちの門前に、ラザロというできものだらけの貧しい人が横たわり、その食卓から落ちる物で腹を満たしたいものだと思っていた。
犬もやって来ては、そのできものをなめた。やがて、この貧しい人は死んで、天使たちによって宴席にいるアブラハムのすぐそばに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。そして、金持ちは陰府でさいなまれながら目を上げると、宴席でアブラハムとそのすぐそばにいるラザロとが、はるかかなたに見えた。

そこで、大声で言った。『父アブラハムよ、私を憐れんでください。ラザロをよこして、指先を水に浸し、私の舌を冷やさせてください。私はこの炎の中でもだえ苦しんでいます。』しかし、アブラハムは言った。『子よ、思い出してみるがよい。お前は生きている間に良いものをもらっていたが、ラザロは反対に悪いものをもらっていた。今は、ここで彼は慰められ、お前はもだえ苦しむのだ。

そればかりか、私達とお前たちの間には大きな淵があって、ここからお前たちの方へ渡ろうとしてもできないし、そこから私達の方に越えて来ることもできない。』金持ちは言った。『父よ、ではお願いです。私の父親の家にラザロを遣わしてください。私には兄弟が五人います。あの者たちまで、こんな苦しい場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください。」

しかし、アブラハムは言った。『お前の兄弟たちにはモーセと預言者がいる。彼らに耳を傾けるがよい。』金持ちは言った。『いいえ、父アブラハムよ、もし、死んだ者の中からだれかが兄弟のところに行ってやれば、悔い改めるでしょう。』アブラハムは言った。『もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう。』」
ルカによる福音書16.19 ~ 31(キリスト教)

シュシシェン市の野菜畑の近くにパンキという人が、邪悪なことをして暮らしていた。彼は、人々が互いに反目し、訴え、人の物を強制で奪い、人の妻や娘に恥をかかせるようそそのかした。自分の邪悪な目的がたやすく果たせないとき、彼は最も校滑な方法を使った。

ある日、彼は突然息を引き取ったが、24 時間たって再び目覚め、妻に親戚や隣人を呼んで集めるように頼んだ。親戚と隣人たちがみな集まると、彼は、彼が冥土の大王に会い、次のような話を聞いたと話した。

「死んだ者たちは、ここで自分たちの邪悪な行為に対して罰を受けるようになる。死んだ者たちは、彼らが犯した犯罪と同僚に与えた害悪の分量に従い、熱く焼けた炭火の穴に放り込まれる」。

集まった人たちは、熱で興奮した患者の話を聞いたかのように、疑いながら信じようとしなかった。しかし、パンキは罪をたくさん犯した。それで地獄の閻魔大王は、彼を見せしめにして邪悪な道にいる人たちに警告することにした。、閻魔大王の命令によってパンキは、「これは私が人々を放蕩な生活に誘い込んだことに対する罰だ」と言いながら、刃物で自らを切った。「これは私が怒りで父母を見つめ、腹黒い心で人の妻や娘たちを見つめたことに対する罰だ」と言いながら、彼は自分の二つの目をくり抜いた。「これはたくさんの動物を殺したことに対する罰だ」と言いながら、彼は右手を切った。「これは私が人を苦しんで死ぬようにしたことに対する罰だ」と言いながら、彼は自分の体を切り、心臓を切り取った。そして最後にうそと人を誹謗したことに対する罰として、自分の舌を切った。

この事件に対するうわさが遠くに広まると、この不幸な人の切り裂かれた体を見ようと、四方から人々が集まってきた。彼の妻と子供たちは、悲しみと恥ずかしさに包まれたまま、好奇心にあおられた群集を遮るために門を閉じてしまった。しかし、まだ閻魔大王の試練の中で生きているパンキは、かすかな声で言った。「私は人々の警告になるよう、私自ら罰を下すことを願う地獄の大
王の命令を行っているのに、何の権利で私を見ようとする人たちをさえぎるのか」。6日間、その邪悪な人は、身の毛もよだつほど苦しみ、地べたを転がりながら最後を迎えた。
太上感応篇(道教)
―み言選集―

地獄という所は、一度はまれば永遠に抜け出せない所です。それでも、皆さんは、自分のお父さん、お母さん、そして親戚が地獄に行くということを実感できません。ただ「どうにかなるだろう」と思って、それでおしまいです。

しかし、愛する父母が本当に地獄に行くと考えてみなさい。この世の監獄に入るだけでも、泣いたりわめいたりしながらありとあらゆることをしてでも引っ張り出そうとするのが人情であるならば、まして天情によって結ばれた息子、娘が、自らの父母と親戚、兄弟と姉妹が永遠に出てくることのできない監獄に行くということを知れば、そのような考えをするでしょうか。皆さんは、まだ何も知りません。地獄があるのか、ないのか、あるにはあるようだが、どのようなものか知らずにいるのです。確信がなく、ぼんやりとしているでしょこう。しかし、死んでみれば分かるのです。死んでみれば、一遍に分かりますが、その時はもう遅いのです。(34-267、1970.9.13)
天の国の法度を知らず、天の国の構造的な理想圏を知らない人たちが、天国に行ってどうするのですか。混乱するのです。
(390-260、2002.8.13)

堕落することによって、この地球星はサタンが支配するようになり、霊界には地獄が生じたのです。地獄が生じたというのです。それでサタンが支配することのできる版図は地上地獄世界と天上地獄世界までだというのです。そのため、それを解放しなければなりません。

堕落がなかったなら地上地獄も生じず、一つの理想的天国にのみ行き着くはずだったのですが、堕落によって二つの世界にサタンが支配できる世界形態が現れたために、これを解消しなければなら
ないのです。これを越えていかなければならないのです。
(168-303 ~ 304、1987.10.1)


今まで人間にとって完成とは何でしょうか。それは、愛の場に行くことです。愛の場で神様と三人で一つになりますか、なりませんか。愛の場で神様と男性と女性が一つになります。そのような原理がなければならないのではないですか。

堕落して以降、このような場に行った人は一人もいませんでした。それでは、ここに落ちた人の願いは何でしょうか。ここを経て、このみ旨を成し遂げなければならないでしょう? 最高の基準に至らなければならないのですが、最低の基準に来ているので、その間隔に対する苦衷と虚無感と悲惨さが苦痛を与えているのです。ですから、ここが地獄だということを知らなければなりません。
(92-197、1977.4.10)


③地獄の霊魂救済

―宗教経典―

キリストも、罪のためにただ一度苦しまれました。正しい方が、正しくない者たちのために苦しまれたのです。あなたがたを神のもとへ導くためです。キリストは、肉では死に渡されましたが、霊では生きる者とされたのです。そして、霊においてキリストは、捕らわれていた霊たちのところへ行って宣教されました。(注21)
ペテロの手紙一3.18 ~ 19(キリスト教)

そのときみじめな者たちは、火獄の中にいよう、その中でかれらは、ため息とすすり泣きにあえぐのみ。なんじの主のおぼしめしがない以上、天と地の続くかぎり、その中に住むであろう。まことになんじの主は、お望みのことを必ずなし遂げたもう。その日幸福な者たちは、楽園にはいり、なんじの主のおぼしめしによる以外、天と地の続ぐかぎり、その中に住むであろう。尽きせぬ賜物である。(注22)クルアーン11.106~108(イスラーム)
神が人々の間で審判を終えられるとき、慈悲で地獄から救ってあげる者は、誰でも引き上げられる。……彼らは、地獄の火から引き出され、完全に焼けたのち、彼らの上に命の水が浴びせられる。彼らは急流の泥の中から出てきた種のように、その下から育っていく。……

彼らは、真珠のように出てきて、(金の)首飾りをして天国に入っていくだろう。そして、天国に居住する人びとが言う。「この人たちは慈悲で救われた者たちだ。この人たちは何の善きこともせず、自分たちのためにいかなる良いこともしなかったが、彼が天国に入ってくるようにされたのだ」。
プハーリー・ハディース9.93.532(イスラーム)

「おーい」ヤマの下僕よ! 言ってくれ、私は一体どんな罪を犯した事によって、この一番深い地獄へ落ちるようになったのか? ヴィパスィット王と
して知られる者よ、私は高潔に地を守った。私は争いを起こしたりしなかったし、客人が顔をそむけて出て行くような事もなかった。
また先祖の霊や神々、修行者、あるいは私の下僕だって傷つけた事はなかった。また私は他人の妻や財産、あるいは何であれ彼らの所有するものを欲しがったりしなかった。なのに何故、私はこのひどい地獄に落ちたのか?」

ヤマの役人は言った。「ならば来なさい。どこか他の所へ行こう。あなたは地獄を見たのだから、今や全てを見たのだ。だから来なさい。どこか他の所へ行こう。」そこでさっそく王は彼について行く準備をしたが、苦痛を受けたままになっている人々から叫び声が上がった。「王よ、御慈悲を! 一瞬だけ待って下さい。あなたがまとっている空気は我々の気持ちを喜ばせ、焼かれるような熱さと、苦しみと、痛みとを我々の身体から完全に取り去ってくださるのです。ああ虎のような方よ! 王よ、御慈悲を!」

ヴィパスイットは言った。「天においても、ブラフマの世界においても、苦しんでいる生き物達に至福を与えてやる程の喜びを経験する事はない。もし私がいる間は苦痛がこの者達をさいなまないならば、私はここに山のように堅く立って残ろう。」ヤマの役人は言った。「ああ、王よ来なさい。前に進みましょう。あなた自身の功徳によって得られた歓喜を享受するのです。悪行をなした者達は苦しんだままにして放っておきなさい。」

ヴィパスイットは言った。「この者達がひどい苦しみの中にいる限りは、私は行かない。私がいる事によって、地獄の住人が幸福になって行くのだ。苦しんでいる者に対して何の好意も示さないあの男の、執ように保護を求める生活というものは、たとえ彼が断固とした敵であったとしても、なんとも憐れなものではないか! 苦しんでいる者の救助を全く考えない彼には、祭祀も、供物も、苦行も役に立たない。……

私が思うに、この者達に解放を授ける事は天上の喜びに優るのではないか。もし私一人が苦痛を受ける事によって、多くの苦しんでいる者達が幸福を得るならば、実に私はそれを喜んで受け入れるベきではないか?」

ダルマ(法)は言、つた。「これらの悪をなした者達は、自らの行いの結果として地獄へ来たのです。ああ王よ、あなたもまた自分の功徳の結果として天界へ行かなくてはなりません。私はあなたを天界へ導きます。ぐずぐずしないでこの天の戦車に乗りなさい。さあ行きましょう。」

ヴィパスィットは言った。「ああダルマよ、何千という人々がこの地獄で苦痛を昧わっているのです。そして彼らは苦悩しながら、私に救いを求めて叫んでいるのです。だから私は出発しません。」

ダルマ(法)は言った。「ああ王よ! あなたの功徳は実に計り難い。今この地獄でこの様な哀れみを示す事により、あなたの功徳はさらに一層高くなりました。さあ来なさい、不死なる者達と共に喜んで暮らして下さい。これら不幸な者達には、自分自身の行為から生じた罪を地獄で消滅させればよいのです。」

ヴィパスイットは言った。「三十の神々の主よ、私が所有している全ての功績をもって、苦しみにさいなまされている罪人達を地獄から解放してください。インドラは言った。「ああ王よ、そうしましょう! あなたはより一層高い地位を得ました。あの地獄から解放された罪人達も見てみなさい。」
マールカンデーヤ・プラーナ13 ~ 15(ヒンドゥー教)


―み言選集―

神様は愛の神様です。神様があのみ座にいらっしゃるとすれば、地獄に行って苦しみながら、「私を助けてください!」と言う霊人たちを見るとき、神様が、「おい! お前はそれでも良いほうだ!」と思われるでしょうか、「彼らはかわいそうだ」と思われるでしょうか。かわいそうだと思われるのです。地獄を解放しなければなりません。
(98-116、1978.5.7)

愛によってのみ、地獄を天国にできます。ですから、愛をもてば、地獄を天国にすることができるのです。
(90-314、1977.1.15)

人が100年生きられないのを考えるとき、50億の人類の中に、1年に5000万が霊界に行きます。これらが地獄に行くのをどのようにしますか。サタンが蒔いておいた種を、すべて天に収めるのを神様が願うのに、これが遅れれば遅れるほど、どうなりますか。今まで40 年間に、どれほど地獄に行きましたか。数十億が行ったのです。深刻なことです。あの世に行って、霊たちに会うようになれば、「先生の在世当時に私達に対して責任を果たせなかった」と言われれば何と言いますか。心だけでもしなければなりません。心だけでも食口た
ちに話し、未来についても責任をもつという行動を中心として行くようになるとき、「あなたは驚くべき方です。私達を考えてくださった」と言うのです。
(205-356、1990.10.2)

歴史をたどってみれば、メシヤを中心として、イスカリオテのユダとネロ皇帝をはじめ、共産党が今、天に背いております。きようこの時間、天宙において勝利した一つの因縁を備え、総解怨するこの時間、彼らを天の審判台から下ろすことができないという事実を知るとき、彼らに真の父母の名をもって、あなたが立てられた尊厳な宇宙の勝利的な権限をもって彼らまでもあなたの名で因縁を結ぶようにしてください。

また、真の父母様に寄与し、数多くの宗教と数多くの良心的人士に寄与できる一つの道を模索してあげなければならないことを知っておりますので、お父様、永遠に許諾してください。

これまであなたの心情に杭を打ちつけ、あなたの息子、イエスを殺害し、あなたの愛する大勢の人たちをかみちぎり、殺害した、その怨恨の怨讐ですが、怨讐を愛する場となるよう、許諾してください。天地の門を開いてくださり、あなたの厚徳の愛の心を開いてください。彼らを解放することによって、地獄の門が開かれ、地獄撤廃の道が徐々に築かれることを知っております。
(78-18 ~ 19、1975.5.1)


9.天使

天使たちと霊的恩恵を施す者たちは、あらゆる宗教に普遍的に現れる。それらは、神々、デイーバ、カミ、動物や山々の霊たち(シャーマニズム)、または玉皇上帝のような玉皇(中国)や仏教の菩薩として認めることができるだろう。

地上で立派に生き、神格化されて天使の任務が付与された者たちもいる。それでも、唯一神論の伝統信仰では、このような霊的恩恵を施す者たちは、いくら高められたとしても、唯一の究極的実在に従属する僕としてみなされる。

様々な伝統宗教において、この恩恵深い霊たちは、人間世界に祝福を施し、人間が害を被らないように保護する。天使ガブリエルがムハンマドと聖母マリヤに語ったように、天使として来る者たちは、神様の教えを伝達する。それで、天使たちは神様に奉仕し、神様の子女である人間を助ける「僕の霊」の役割を果たす。

天使たちは、能力をもち、したがってよぐ崇拝の対象となる。しかし、ユダヤ教、イスラーム、キリヘスト教の伝統の中には、人間が天使より優れているという教えがある。このような伝統に従い、文鮮明先生は天使たちが人間を創造した神様の目的が実現されるときまで、創造のすべての段階において神様を助けたと教える。

神様はアダムとエバを教育し、助けるために、エデンの園に天使たちをおいた。彼らは、幼子から成人に成熟し、創造理想を実現するようになっていたからである。天使たちの中の頭はルーシェルだったが、堕落するようになり、これにより人間の堕落に対する責任を負うようになった。「第6
章3「悪魔とその活動」参照

このことにより、人間が天使たちを審判し、彼らの喪失した資格を回復しなければならない日がまだ残っている。


①天使の正体と使命

―宗教経典―

さまざまな風を伝令とし、燃える火を御もとに仕えさせられる。
詩編104.4 (キリスト教)

かれは陶土のようなどろから、人間をつくりたまい、また火の炎から、幽精(ジン)をつくりたもうた。(注23)
クルアーン55.14 ~ 15(イスラーム)

天使たちは皆、奉仕する霊であって、救いを受け継ぐことになっている人々に仕えるために、遣わされたのではなかったですか。
ヘブライ人への手紙1.14(キリスト教)

天使たちは、主の栄光をたたえて唱念し、地上のもののために、許しを請いまつる。
クルアーン42.5 (イスラーム)

まことに「私達の主は、神であられる」と言って、その後正しくしっかりと立つ者。かれらの上には、(次から次に)天使が下り、「恐れてはならぬ、また憂いもない、あなたがたに約束されている、楽園の吉報を受け取れ」(と言われよう)。われは現世の生活において、また来世において、なんじらの友である。そこでは、なんじらの魂の望むものを得……
クルアーン41.30 ~ 31(イスラーム)

主はあなたのために、御使いに命じて、あなたの道のどこにおいても守らせてくださる。彼らはあなたをその手にのせて運び、足が石に当たらないように守る。あなたは獅子と毒蛇を踏みにじり、獅子の子と大蛇を踏んで行く。
詩編91.11 ~ 12(キリスト教)

私(普賢菩薩)は、あらゆる悪の世界にいる存在の苦痛を減らし、また彼らに幸福を与えます。私は、億劫の歳月を通し、四方の世界で続けてそのようにするでしょう。一切衆生の有益さは永遠で、かつどこにも存在します。(注24)華厳経39(仏教)
あらゆる悪の行いをやめよ。あらゆる善の行いをせよ。そうすればあなたは悪の星の影響力から永遠に放たれるようになり、常によい守護天使によって囲まれているようになるだろう。
陰隲文(道教)

ある男が道を歩いていくとき、群れの天使がその前に現れ、次のように叫んだ。「聖なる方が留まる道を開けよ」。
詩編ミドラーシュ(ユダヤ教)

それはかれに啓示された、お告げにほかならぬ、すばらしい偉力者が、かれに教えた、かれはがんじょうなつくりの持主であった。まっすぐに立って、かれはしばらく、地平線の最高の所にいた。

それから親しく降りて来て、近づき、およそ弓二つ、いやそれよりも近い距離であった。そこでしもべ(ムハンマド)に向かって、かれが啓示されたことを告げた。(注25)
クルアーン53.4 ~ l0(イスラーム)

六か月目に、天使ガブリエルは、ナザレというガリラヤの町に神から遣わされた。ダビデ家のヨセフという人のいいなずけであるおとめのところに遣わされたのである。そのおとめの名はマリアといった。

天使は、彼女のところに来て言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。すると、天使は言った。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。
ルカによる福音書1.26 ~ 31(キリスト教)

文昌帝君が言った。「17 世代のあいだ、私は高位の政治家として化身してきたのであり、私は決して私の民を抑圧したことはなく、部下を虐待したこともない。私は不運の中で彼らを助けた。私は彼らを貧しさから救った。私は孤児たちを哀れんだ。私は彼らの罪を赦した。私は天上と調和する密かな徳を広く実践した。私が私の心を保つように、あなたがあなたの心を保つことができれば、天は間違いなくあなたに祝福を下さるだろう」。(注26)
陰隲文(道教)


―み言選集―

天使世界は、この宇宙が、すなわち被造世界が創造される前につくられました。神様が天使世界をつくったのち、天使の協助を受け、万物という物質を通して人間を生まれるようにしました。したがって、人間は神様から天使、物質を通して生まれたのです。

このような過程を経るにおいて、神様が願う目的、神様が創造された目的、天使が創造に協助した目的、万物が人間に投入された目的、人間が生まれた目的、これは違わないというのです。この全体が総合して四つの存在がすべてよいと言わなければなりません。神様もよく、天使もよく、万物もよく、人間もよく、このようによいと言える共通の内容が提示されなければなりません。
(83-155、1976.2.8)

すべての存在は神によって創造された。したがって当然天使もまた、神が創造し給うた被造物であることはいうまでもない。神は天使世界を他のどの被造物よりも先に創造された。創世記1章26 節に書かれている天地創造の記録を見ると、神は「われわれのかたちにわれわれにかたどって人を造り」と、自らを複数をもって語っておられるのであるが、これは今日まで多くの神学者たちが解釈してきたような三位神の立場から、そのように言われたのではなく、人間よりも先に創造されていた天使たちを考慮において、それらを含めた立場から言われたみ言であったことを知らなければならない。

神は被造世界の創造と、その経綸のために、先に天使を使いとして創造された(ヘブル1・14)。天使はアブラハムに神の重大な祝福のみ言を伝えたのであり(創18・10)キリストの受胎に関する消息を伝えたり(マタイ1・20、ルカ1・31)、獄中で鎖につながれていたペテロを解いて、城外に導いたのである(使徒12・7 ~ 10」。

このほかにも、神のみ旨のために天使が活動している例は、聖書の中に、無数に探しだすことができる。それゆえに黙示録22 章9 節では、天使が自分自身を「僕」と言い、またヘブル書1章14 節においては、天使を「仕える霊」と記録しているのである。そしてまた、天使は神に頌栄をささげる存在として創造されていたという証拠も、聖書の中に数多く見いだすことができる(黙5・11、黙7・11)。

つぎに、我々は天使と人間との創造原理的関係を探ってみることにしよう。神は、人間を子女として創造され、被造世界に対する主管権を賦与された(創1・28)。ゆえに、人間は天使さえも主管するよこうにつくられているのである。

コリントⅠ6章3節を見れば、人間は天使さえも審判できる権限があると書かれている。そして、霊的に通ずるあらゆる人たちは、数多くの天使たちが、楽園にいる聖徒たちを擁護しているのを見るのであるが、これもまた、天使の人間に対する主従関係を説明する一つの良い例であるといえよう。
原理講論、堕落論2.1

天使はどのような存在なのでしょうか。僕の立場で神様の前に忠誠の道理を尽くして、アダムとエバの囲いとなってあげるべき存在です。万世にわたって天の世界に栄光の雰囲気をつくり、神様の愛を中心としてアダムとエバと共に幸福に暮らすべきだったのです。

言い換えれば、天使長はアダムとエバのために創造されたのです。アダムとエバの父である神様が天使を創造した目的はアダムとエバのためだったのです。それが天使長を創造された目的でした。
(15-239、1965.10.17)

今まで霊界において天使世界に該当するのは誰でしょうか。今日、地上に来ては逝った善の霊たちは、天使の使命圏内に入っています。それはなぜそうなのかというと、アダムをつくる前に天使をつくったのと同じ立場なので、地上にアダム完成を成し遂げる前の善の人たちは、天使の立場に戻り得る条件が成立します。
(76-324、1975.3.15)

男性は何かというと天使長です。天使長なのですが、天に反対して堕落させた天使長ではなく、復帰された天使長です。(注27)エデンにおいてアダムを絶対協助し、保護、育成し、家庭理想を成して天の国に入ってこいくことができるように、責任を果たさなければならないのが天使の使命でした。このような天使の使命を果たせなかったので、これがすべてならず者になったのです。地獄の王になってしまいました。
(281-313. 1997.3.9)

ですから、天使は、これから来るメシヤが統治するその国の人たちのために、地上に来て犠牲になるのです。天使たちが汗を流し、復帰するのです。霊界は天使世界であり、肉界はアダム世界でしょう? 堕落圏の拡大した世界がサタン圏内にあるので、それを誰が引き抜いてこなければならないのですか。霊肉の実体の天使たちがしなければなりません。霊肉を通じた実体の天使が行使する所が悪魔サタンの世界になっているので、霊界と天使だけではできません。実体の天使世界をつくらなければならないのです。(62-247、1972.9.25)

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世界経典-17

2020年10月17日 18時18分33秒 | 学習


②死後の人生の最初の瞬間

―宗教経典―

ああ、善い人よ、汝には習癖を作る力(習気)から出来上がっている意識の身体(意成身)というものがある。しかしこれは実質を待った血肉の身体ではないのである。

したがって音響・色彩・光明の三つからなるものが迫ってきても、それが何であっても汝に害を加えることはできない。汝には死ぬことがないからである。それが汝自身の投影であると覚りさえすればよいのである。それはすべてバルドゥの現出であると知るべきである。
チベットの死者の書(仏教)

世を旅立つとき、霊魂は、どのような旅程がこれから待っているのか知ることができない。選ばれた霊魂たちのための輝かしいその道が、全員に与えられるのではないからだ。この世で行業が霊魂の行く道を決定する。
ゆえに、常に聖なるその方に向かい、主に向かう渇望に満ちた人は、霊魂が旅立つとき、この世から与えられた力によってより高い圏に向かって導かれるだろう。
ゾハール1.99a ~ b(ユダヤ教)

永遠に備えるために私達に与えられている現世の生涯を終えると、見よ、もし私達が現世にいる間に時間を有益に用いなければ、後から暗闇の夜がやって来る。そして、そこでは何の働きもできない。

あなたがたはその恐ろしい危機に陥るときに、「私は悔い改めて神に立ち返ろう」と言うことはできない。あなたがたはこのように言うことはできない。なぜならば、現世を去るときにあなたがたの肉体を所有しているその同じ霊が、あの永遠の世で、あなたがたの肉体を所有する力を持つからである。
モルモン経、アルマ書34.33 ~ 34(末日聖徒イエス・キリスト教会)

臨終の時、私のみを念じて肉体を脱して赴く者は、私の状態に達する。この点に疑いはない。臨終において、人がいかなる状態を念じて肉体を捨てようとも、常にその状態と一体化して、まさにその状態に赴く。

それ故、あらゆる時に私を念ぜよ。……身体の一切の門を制御し、意(マナス=思考器官)を心中
において遮断し、自己の気息を頭に止(とど)め、ヨーガの保持に努め、「オーム」という一音のブラフマン(聖音)を唱えながら私を念じ、肉体を捨てて逝く者、彼は最高の帰趨に達する。(注16)
バガヴァッド・ギーター8.5 ~ 7、12 ~ 13(ヒンドゥー教)


―み言選集―

歩いていて自動車事故に遭って即死したとき、自分が死んだことが分かりません。霊界に行けば、「ああ、変な所に来たな。ここは私の町より良いな。ないものがなく、すべてのものがある」と思うのです。広大な天地が広がります。

死んだことが分からないのです。自分の周りにいた人たちも、会いたいと思ってこそ現れるのであって、呼ばなければ現れません。一人でいるような思いをたくさんするのです。ところが、霊界に行くと、霊界で案内する人たちが来て教えてくれます。「あなたはあの世に来た。死んだ。死んだ」、そのように言います。

しかし、死が認識できないのです。夢のようにわずかに自動車とぶつかったことは感じられるのですが、死んだという思いはしません。そこに行って死んだことが分かっていないので、ぽかんとしています。眠れません。
自分の家に行こうと、「私は故郷に行かなければならないのだが」と思いながら、故郷に行こうとします。地上の故郷に行くことができますか。故郷に行こうとしても行けません。ですから、来て教えてくれるのです。自分のおじいさん、お父さ
ん、お母さんが来て、「お前は地上世界ではなく霊界に来たのだ」、このように言うとき、「ああ、霊界はこのような所なのだなあ」と思うのです。
(194-41 ~ 42、1989.10.15)

私達の人生が単に70 年の生涯で終わるのならば別問題ですが、永遠の問題を中心として生きていくというときには話が違います。それでは、霊界があり、死後に霊界に行くのならば、何をもって考えるのですか。

その世界は広大な世界です。そのような世界に入っていけば、すぐに感じるようになります。この地で民族間の差別があり、背後に文化的な格差や相入れない生活状態、苦しめられて生きているそこでも、自分を立ててすべてのものを収拾したいと思い、自分の主張と自分の価値を残したいと思っていた過去のことが、昔に過ぎていったことではなく、その世界に行っても生々しく蘇るのです。

その環境が、自分が測定し、自分の考えの範囲内で自由に吸収できない膨大な世界であるほど、より一層慕わしく思うのが故郷の地、あるいは地球星の暮らしではないですか。このように思うのです。

それでは、あの霊界に行って永遠の世界を慕っていく生活をするようになるとき、そこに行って、いつそれを忘れるのですか。その世界に行って出会う人は、みな見慣れない人たちです。そのような慣れない環境で私がもし一人で立っていると考えてみてください。そこで考えるとき、自分が慕う人、過去に心の中から抜くことができない、情緒的な関係を結んでいたすべての因縁を抜け出すことができないのです。


自分が霊界に入っていったとすれば、「父と母はどのようになり、祖父と祖母はどのようになった
のだろうか」という、そのようなことを考えるでしょう。
(187-285 ~ 286、1989.2.12)

私がもし愛の道を訪ねていて、そのような愛の主体を中心として求めていく道で不幸にも死んだと考えてみましょう。そのようになれば、それが死ぬことで終わるのではありません。死ぬとき、「私は愛の道を訪ねていきながら死にます」と考えるでしょう。「私はこの愛のために死ぬので、この愛は私の怨讐だ」、このように考えないというのです。死ぬときに、死を忘れても愛を抱いて死のうとします。その愛の懐で死ぬと考えるとき、それは不幸な死ではありません。

それでは、死によって愛が壊れたのでしょうか。違います。愛の主体である神様が、「お前は、私が出会いたい愛のために死んだ」と、その価値をより良い価値として認定するのではないかというのです。
皆さんがもし神様であれば、自分のために、自分を愛するために、互いに愛するべき道のために死んだ人に出会ったとき、どうすると思いますか。夫婦でも、夫のために死んだ妻に、夫が会えばどうすると思いますか。あるいは、兄弟の間で兄が弟のために、弟が兄のために死んだというとき、その死んだ兄と弟が出会ったとすれば、どうなると思いますか。

生きて出会い、愛し、喜ぶよりも小さく喜ぶでしょうか、大きく喜ぶでしょうか。死なずに出会って愛するのと、互いのために死んで出会ったとき、愛の強度は同じでしょうか。それは、死なずに出会って愛する次元を超越できる愛ではないでしょうか。

皆さんが先生のために死んだのなら、先生がその事実を知って、次に死んで再び出会うことができれば、どれほどうれしいですか。ですから、そのような愛の道を訪ねていく道において死が問題になるでしょうか。死さえも問題になりません。死の道を訪ねていくとしてもそれが死で終わるのではなく、より次元の高い、より近く、より永遠で、より一つになり得る愛の世界に突入する一つの関門になると考えるとき、その死が恐ろしいでしょうか。

そのような境地を訪ねていく人は、死が問題ではありません。そのような場を発見し、そのような道を確定していく人は、不幸ではありません。幸福な人です。幸福な人であれば、その幸福な人に同情されなければなりませんか、同情しなければなりませんか。その人に同情してあげなければならないことは間違いありません。
(67-173 ~ 174、1973.6.3)


6.審判

死後の世界に通じる最初の通路の次に、まだ平安たり得ないもう一つの関門がある。各個人は、加減なく正直に自分の人生を明らかにしなければならない審判を経験する。すべての行為と、それが人々に影響を及ぼした結果を記録する帳簿がある。今、その帳簿が開かれて読まれる。その人の人生を記録した映画が、その心のスクリーンに映し出される。すべてのことが余すところなく明らかになる。

審判の主要な基準は、自分の行為のようである。ある人が人のためにより多く生きたのか、あるいは自分の利益のためにほかの人を利用したのか。宗教の諸経典は、その審判の場面を描写する。ここで神様は審判者として、イエス、またはムハンマドは弁護人として、時には悪魔が罪を讒訴する者として登場することもある。神様は証に基づいて審判せざるを得ない。
この点に関して文鮮明先生は独特な洞察を提示する。審判において、サタンの讒訴を免れるために
私達は地上生活で、私達を最も憎み、そしる人たちを克服しなければならない。彼は、彼らを愛らしい「カイン」と呼ぶ。

諸経典は、ただ義なる者のみが入っていくことができる門、義なる者のみが渡っていくことができる「隔離の橋」、すべての偽りを火で燃やし、ただ真なるものだけを残す火に言及する。霊界は、その状態によって霊魂を受け入れる様々な領域と天国、そして地獄で構成されている。

霊魂たちは分類され、自らにふさわしい場所に自ら行く。資格のない者を防ぐための門番もなく、交通を統制する警察官もいない。各自は、自ち自分の品格と過去の人生に最も適合した場所に行くからである。


①人生の回顧

一宗教経典―

神は、善をも悪をも一切の業を、隠れたこともすべて裁きの座に引き出されるであろう。
コヘレトの言葉12.14 (キリスト教)

「人々を恐れてはならない。覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはないからである。
マタイによる福音書10.26 (キリスト教)

私はまた、大きな白い玉座と、そこに座っておられる方とを見た。天も地も、その御前から逃げて行き、行方が分からなくなった。私はまた、死者たちが、大きな者も小さな者も、玉座の前に立っているのを見た。幾つかの書物が開かれたが、もう一つの書物も開かれた。それは命の書である。死者たちは、これらの書物に書かれていることに基づき、彼らの行いに応じて裁かれた。
ヨハネの黙示録20.11 ~ 12(キリスト教)
大地が、揺れに揺れるとき、大地その重荷を投げ出し、人は「かれ(大地)は、何事だろうか」と言う。その日かれは、種々の消息を語るであろう。それは主が、かれに黙示されたためである。

その日、人びとは分別された集団となって進み出て、かれらの行なったことが示されるであろう。
(そのとき何人も)一みじんの重さでも善を行なった者はそれを見る。また、一みじんの重さでも悪を行なった者はそれを見る。
クルアーン99.1 ~ 8(イスラーム)

ひとりびとりに、われはその運命を首に結びつけた。そして復活の日には、行いの記録された一巻がつきつけられ、かれは開いて見る。(かれに仰せられよう)「なんじの記録を読め。なんじの魂は、己れのための計算書として、きょうは十分である。
クルアーン17.13 ~ 14(イスラーム)


あなたたちがこの世を旅立ったのち、神はあなたの行業を数え計るが、このすべてが彼の帳簿に一つ一つ記されている。従順でないものたちは召喚され、死の使者であるアズラエルが彼らの頭の上を徘徊する。真っ暗な狭い道でわなにひっかかった彼らは、逃げ出す所が分からない。ナナークが言うには、偽りは衰亡し、最後は真理が優勢になるだろう。
アーディ・グラント、ラームカリー・キ・ヴァールM.1、p.953 (シーク教)

人間が世の中をたつとき、肉身は分解され、霊魂が旅立つ用意をする。その日、初めて人間は、肉身が強健だったときに見ることができかったものを見ることを許される。3人の使者がその前に立ち、彼の人生と地上でしたすべてのことを語る。すると自分の口ですべてのことを認め、自分の手でそこに署名する。……これはちょうど、ヨブ記37 章7節の「すべての人間に御業を認めさせられる」と記されているのと同じである。
ゾハール1.79a(ユダヤ教)

―み言選集―

この地上に生まれて、運命の瞬間を迎える最期の場で、過去を悔いる人がいるなら、その人の心には、過去のすべての事実が、映像として過ぎていくでしょう。これこれこういう人だということを、誰かが教えてくれなくても、自ら分かるでしょう。

先祖から受け継いだ生命体をもって、今まで因縁をもった環境と、残しておいた事情など、過去のすべてが一生の最期の瞬間に、自分の心に映像として現れるでしょう。

その中で、「真があった、自分の生命よりも貴い何かを残した」という人がいるなら、彼はたとえこの地に生まれて死んでも、甲斐ある一時を残す人になるでしょう。しかし、「生まれて死ぬこの一生の行路が、通行人のようにただ通り過ぎるものだった」という人もいるのです。
そのような人のすべての過去の事情を回想してみるとき、そのすべての事情が、頭を振って回想したくない過去をもったなら、彼は悲惨な人です。

過去を回想すれば回想するほど、自分の顔に歓喜があふれ、自分のすべての問題が理想に浸ることができるなら、死の恐怖も彼には慰労の一場面として飾られるでしょう。

このようなことを見るとき、過去を回想する瞬間が、恐怖の瞬間でなく、他の何かを残したなら、彼の過去は死なないのであり、現実も死なないものとして現れるでしょう。そのようにできる過去をもった人は、必ず民族が従ってこられる因縁をもった人であり、世界万民がついてこざるを得ない因縁を残した人だと見ることができます。

生涯路程で、自分のために死の場まで行くことより、兄弟なら兄弟、親族なら親族、他人なら他人のために、自分の命をみな捧げて彼らを救ったなら、彼らを救うためにぶつかった時があったなら、そのような事実が最後の運命の場で、彼の心の線上に映像として現れ得るということになるでしょう。いくら自分を中心とした幸福な時があり、数多くの群衆から歓迎されて、自分が光栄にたたえられた聖なる時があったとしても、それは、その瞬間には効力を発揮できないようになっています。

善であったか、真になったか、神様の前に一人立つことができたかという問題について見るとき、真と善は自分から始まり、自分に終わるのではありません。自分から始まり人に結果を結ばせるとか、人によって始まって自分に結果をもたらすことができてこそ、善になり得るのです。私達の原理で、天地のすべての存在は与えて受ける因縁を経なければならない、というのと同じです。

過去の生活が与える生活だったなら、死の道にも恐怖がないでしょう。人のためにすべてを与えて、人のために犠牲になり、真に近い生活をしながら、涙も人によって流し、自分の命も人によって投入し、自分の願いも人によるものなので、自分の脈拍から流れ出るすべての生命力を引き集めて、人のために投入したというなら、その過去は輝き得る過去でしょう。

皆さんは、見るからに険しい環境を備えたこの堕落圏内で、皆さん自身が行く姿を、図表を書いてみるようになるとき、1年はこのように行き、1年はあのように行くだろう、あるいは10 年はこのように行き、10 年はあのように行くだろうと言って、自分なりに一生の行路を計画しながら、高低を予測するでしょう。その高低が、自分を中心として高くなった、低くなったという人は、最後の運命を迎えるようになるとき、自分のために生きながら、人を犠牲にしたそのすべてが、自分をがんじがらめにするでしょう。
(31-308 ~ 310、1970.6.7)


②天国と地獄の区別

―宗教経典―

時が来ると、墓の中にいる者は皆、人の子の声を聞き、善を行った者は復活して命を受けるために、悪を行った者は復活して裁きを受けるために出て来るのだ。
ヨハネによる福音書5.28 ~ 29(キリスト教)

裁き人は最も正しい行動をもって、第一の世界のもろもろの律法なるものをもってすると同じように、行動するでしょう。不義者にたいして、はたまた義者にたいして、さらには邪なるものと正しいものとが混在しているものにたいして。
アヴェスター・ヤスナ33.1(ゾロアスター教)

ある者は害意のある身の行を作り上げます。害意のある語の行を作りあげます。害意のある意の行を作りあげます。かれは害意のある身の行を作りあげ、害意のある語の行を作りあげ、害意のある意の行を作りあげ、害意のある世界に生まれかわりますと、そのかれに、害意のあるもろもろの接触が触れます。

害意のあるもろもろの接触が触れると、かれは、害意のある、もっぱら苦しい感受を受けます。たとえば地獄の生けるものたちのようなものです。プンナよ、以上のように生じたものから生けるものの生まれかわりがあります。行なう行為によって生まれかわります。この生まれかわっているものに接触が触れます。このようにまた、プンナよ、私は「生けるものたちは業の相続者である」と説きます。
阿含経中部i.389 ~ 90、犬行者経(仏教)

人の子は、父の栄光に輝いて天使たちと共に来るが、そのとき、それぞれの行いに応じて報いるのである。
マタイによる福音書16.27(キリスト教)

自然にすべてのホッピーは、彼が愛していた死んだ人の霊魂と接することを願う。そのような目的で彼は自分の心情を純粋に維持し、人に親切で寛大だ。ホッピーではない者として知られた悪い人が死んだとき、彼の運命は大きく異なる。彼の息が体から抜け出るやいなや、「二つの心をもった者」と呼ばれる魔法師たちが手で彼を捕まえる。そして彼らは、彼を彼らの国に連れていく。「二つの心をもった者」の国は、彼らが悪であるように悪である。
ホッピー族の伝承(アメリカ先住民の宗教)

ラッパが高く鳴り響くと、天にあるものも、また地にあるものも、神がよみしたもう者のほかは気絶しよう。それからふたたび鳴り響くと、見よかれらは起き上って見まわす。

そのとき大地は主の栄光で輝き、行いの記録が置かれ、諸使者と証人たちが進み出て、公正な判決が、かれらの間に宣言され、いささかも不当に遇せられないであろう。

各人は、その行なったことに対して、十分に報いられよう、かれは、かれらの行なったすべてを最もよく知りたもう。
不信者は、集団をなして地獄に駆られよう。かれらがそこに到着したとき、地獄の諸門は開かれる、そして看守は、「おまえたちの間から出た、諸使者が来なかったか、(そして)主からのしるしをおまえたちのために読唱し、また、おまえたちのこの会見の日のことを、警告しなかったか」と言おう。

かれらは答えて言おう「その通りであります、ただし、不信者に対する刑罰のおことばが、真実に証明されました」。かれらに言われよう「なんじらは地獄の門をはいれ、その中にとこしえに住
め」。何と哀れなことよ、高慢者の住まいこそは。また、かれらの主を畏れたものは、集団をなして楽園に駆られよう。

かれらがそこに到着したとき、楽園の諸門は開かれる、そしてその看守は言おう、「あなたがたに平安あれ、みごとであった、ここにおはいり、とこしえの住まいである」。かれらは感謝して言おう「神をたたえ奉る、かれは、私達への約束を果たし、私達に大地を継がせたまい、この楽園の中では、好きなところに住ませたもう」。何と結構なことよ、善い行いにいそしんだ者への報奨こそは。
クルアーン39.68 ~ 76(イスラーム)

死の世界の敷居で
あなたは審判官が見る前を通過するだろう。
彼の審判は真実で、あなたの二本の足を見る。
たとえ革に覆われて見えなくても
彼はすべての汚れを知るだろう。
あなたが堕落したことがあれば、
彼が知るだろう。
審判官があなたの足から
何のしみも見ることができなければ、
腹を広げて喜べ、
あなたはすべてに勝ち
清い腹をもったからである。
パン族の歌(アフリカ伝統宗教)

―み言選集―

どのような人が悪の人であり、どのような人が善の人か、何で測定するかということが問題です。しかし、それは簡単なことです。その人がいかに宗教人であっても、彼が天国に行くか、地獄に行くか、ということを何で測定できるのでしょうか。自分のために生きてきた生涯が多ければ、彼は地獄行きです。

他のために生きた生涯が、自分のために生きた生涯よりも1パーセントでも多ければ、彼は地獄を越えて天国に向かうことのできる道に立つのです。けれども、自身のために生きた比率が高いときは、地獄に行くのです。
(75-330、1975.1.16)

それでは、人間の良心基準は、天倫の心情を100 パーセントそのまま受け入れることができるようになっていますか。そのようになっておらず、数多くの障壁が立ちふさがっているのです。
皆さんが願う喜望峰、すなわち天国の関門の前に曲折の門が横たわっています。これがキリスト数的に言えば審判の関門です。
(4-269、1958.8.3)

永生に向かう公式的路程は同じです。そこには、ために生きた人たちだけが通過できる正門があり、そこに門番が守っている事実を知らなければなりません。そこを通過できる資格者にしてあげるために、先生が頼んでいることをよく理解して、きょう帰って過去を反省しながら新しく生まれ変わることを願います。
(203-193、1990.6.24)

霊界に行ってみれば、霊界は膨大ですが、三段階になっています。誰が頂上に上がっていきますか。よりために生きた人です。そこの法がそうです。そのような人は、ここから出発してあそこに行っても、「うれしいです! ようこそ!」、ここに行っても、「うれしいです! ようこそ!」と歓迎されます。
しかし、自分のために生きた人には、反対の世界が展開します。それも同じように三段階です。ここではすべて「ふん! 私達は、お前のような者は嫌いだ!」と反対するのです。

二種類です。二種類ですが、それを分析してみる
と、自分のために生きていた人はすべて反対され、人のために生きていた人はすべて歓迎されます。これは間違いありません。

皆さんが天国に行く群れなのか、地獄に行く群れなのか、はっきり知らなければなりません。レバレンド・ムーンが、ただ考えて言う言葉ではありません。霊界をよく知っている人です。死を避けることができる人は一人もいません。

死を避けることはできないのです。自分のために生きた人は、地獄に行くのであり、人のために生きた人は、天国に行くのです。この二つの世界が、死から分かれるのです。
(203-100 ~ 101、1990.6.17)

③審判の法廷

―宗教経典―

だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。人を義としてくださるのは神なのです。だれが私達を罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、私達のために執り成してくださるのです。だれが、キリストの愛から私達を引き離すことができましょう。
ローマの信徒への手紙8.33 ~ 35(キリ卜教)

私が死ねば、私の死はあなたに慈悲と恩寵になるだろう。死後にあなたの行動が私に送られ、私がそれを見るだろう。正しいことをした者のために神に賛美を捧げ、悪を行った者のためには神に赦しを求めよう。
イブン・サウド・ハディース・(イスラーム)


生まれた者は、結局死ぬようになっている。死んだ者は再び新しい生を得る。生きている者は、結局審判を受けることを知るようになり、知らされ、聖なるその方、神を知るようになっている。

神は製作者、創造者、全知者、審判者、証人、告発者であられる。これから審判される方も、私の愛するその方であられる。その方がいらっしゃる所は、どこにも、不義、赦されないこと、見下す
こと、わいろを受けることはあり得ない。

すべてのことは道理に合うように回っていくことを肝に銘じよ。墓が避難所になってくれるという無駄な希望をもってはならない。あなたが生まれて生きることも死ぬことも、すべてそうなる理由があるのだ。後日王の王であられる愛する聖なるその方の前で地上の人生を審判されるだろう。
ミシュナ、アヴォート41.29 (ユダヤ教)


―み言選集―

イエス様があの世に行って、弁護士の役割をしているのです。イエス様が弁護士になって、「この人は、私の名を信じ、善なることをしました。善であろうとし、公理の法度を守った人は、悪魔も連れていけないということは、悪魔と神様と協定した条約ではないですか」と言うのです。そうすると神様も、「そうだ」と言うのです。
(149-98、1986.11.17)

私の心と体を土台として神様が最後の審判をするとき、私個人が審判の聖書となり、法典となり、審判をしても引っ掛からない絶対的な位置を築いてこそ、個人復帰が完結するのです。

今は、個人完成の上に家庭を完成しなければなら
ない時です。家庭の歴史は、すべてが審判の材料になるのです。それで、審判を受けるとき、サタンが讒訴できない純潔の家庭にならなければなりません。

そうしてこそ、家庭的な復帰を成して民族的な土台を完結できるのです。民族的な勝利の基盤を完全に築けば、サタン世界の万民を審判することができ、神様御自身が裁判長の位置に立つようになるのです。この時、イエス様は、弁護士になられ、サタンは検事になります。

全世界に広がっている民族がサタンを攻撃するとき、抗議を受けない絶対的な勝利の基盤を築いてこそ、民族的な復帰の道を行ったと言うことができるのです。そのような人が国家、世界、天と地、全人類の救援の主人になります。

それで、彼が霊界と肉界を統合する天宙世界において、途方もない歴史的な全体の蕩減基準を完結しておいて、天地を中心とする億千万世の大審判場を用意したおいたあと、創造主であられる父をお迎えし、今まで天地において過ちを犯してきた怨讐を無慈悲に審判するとき、背信者から小心者まで、すべて抗議することができずに当然だと言える基準を立ててこそ、天地復帰路程が完結するのです。(13-211、1964.3.15)
皆さんは、カインを愛しますか。カインはサタンです。サタンの息子です。その霊的サタン、実体サタンが立ち向かってくるのです。葬り去りたいと思い、統一教会が憎くてしかたなく、ぎりぎり、ぎりぎりと歯ぎしりします。

私達が御飯をくれと言いましたか、餅をくれと言いましたか。黙っていてもそうなのです。ここに皆さんが引っ掛からないようにしようとすれば、カインを屈服させなければなりません。カインを屈服させるためには、最後までカインを愛さなければなりません。そのような人でなければ、カインを救えません。

ですから、皆さんが天国に行くには、サタンの承諾書をもらわなければなりません。サタンの承諾書とは何でしょうか。罪人が釈放されるには、まず検事を通じ、弁護士を通じてから、判事によって釈放されるのです。

このような立場で見るとき、サタンは検事であり、神様は判事であり、イエス様は弁護士です。サタンが、「お前はこれこれこのようにしただろう?」と言って、さっと罠にかけて神様に、「この人は、このようにしなければならない」と言えば、神様もどうすることもできないのです。すると、イエス様は弁護士の立場で、「神様、この人の先祖はこのようなことをしました。本来、血統は悪くない人です。これこれの条件に引っ掛かったので、その条件に該当した蕩減条件を立てさせ、罪を脱がせてやらなければなりません」と言うのです。このようなことをしてきています。

ですから、皆さんが天国に行くには、サタンの承諾書をもらわなければならないのです。サタンを愛したと認定されなければ、永久に天国に行けません。
(48-316 ~ 317、1971.9.26)


④自らの審判

―宗教経典―

自我はつくるものであり、つくられないものである。幸福をつくるか悲しみをつくる。自ら友かと思えばまた敵でもある。自ら良し悪しの立場を決定する。自ら自身のパヤラナ川(地獄の存在が苦痛を受ける川)である。
マダキヒシュロッカ(ジャイナ教)

世を破壊するために、人間を悪行に権勢をもって結びつけるのは、カラバン僧らとカウィ王侯らですが、その彼らに、彼ら自身の魂と彼ら自身のダエーナーは立腹するでしょう、いつの日までも「不義」の家に客たる彼らが、チンワントの橋のあるところにやって来るときに。
アヴェスター・ヤスナ46.11 (ゾロアスター教)

汝と一緒に生れた善神によって汝が生前に行った善い行ないの数々がすべて集められ、白い小石で数え上げられるであろう。汝と一緒に生れたピシャーチャ鬼によって汝が生前に行った悪い行ないの数々がすべて集められ、黒い小石で数え上げられるであろう。

この時に、汝が非常に驚き、恐れおののき震えて、《私は悪いことはしていません》と、嘘をついたとする。それに対してヤマ王は《ではお前のカルマンを映写する鏡〈業鏡〉を見てみよう》と言って鏡を見る。

汝の生前に行った善い行ないと悪い行ないのすべてが鏡の面に輝いてはっきりと映し出されるの
で、汝が嘘をついても無駄である。ヤマ王は汝の首に縄索をつけて、汝を引きずり出し、首を切り、心臓を食らい、はらわたを引き出し、脳みそをなめ、血をすすり、肉を食べ、骨をしゃぶる。汝はそれでも死ぬことができない。身体が切れ切れに切り刻まれても、また蘇生してしまう。何度も何度も切り刻まれて、大変な苦しみを昧わうであろう。


この白い小石が数えられている時にも汝は恐れてはならない。おののいてはならない。嘘をついてはならない。ヤマ王におびえてはならない。汝は意識からできている身体であるので、殺され切り刻まれても、死ぬことはないのである。

本当のところ、汝は空それ自体が姿をとったものなのであるから、なにも恐れることはないのである。ヤマ王たちは汝の思いが化して現われたものである。空なるものの姿にほかならない。汝の身体は、潜在意識が形をとったものである。空なる意識からできた身体にほかならない。空なるものが空なるものを傷つけることはできない。性質をもたないものが性質をもたないものを傷つけることはできないのである。

汝自身の錯乱によって現われた幻影以外に、ヤマ王や善神やピシャーチャ鬼や牛頭の鬼(羅刹)等が実際に存在するのではないことを覚るべきである。
チベット死者の書(仏教)

―み言選集―

天国でも地獄でも、霊人体がそこに行くのは、神が定めるのではなく、霊人体自身が決定するのである。人間は元来、完成すれば、神の愛を完全に呼吸できるように創造されたので、犯罪行為によってもたらされた過ちのために、この愛を完全に呼吸することができなくなった霊人体は、完全な愛の主体である神の前に立つことが、かえって苦痛となるのである。それゆえに、このような
霊人体は、神の愛とは遠い距離にある地獄を自ら選択するようになる。
原理講論、創造原理6.3.2

皆さんが天と地の境界線です。地獄と天国の境界線です。「世の中に行くのか、天に行くのか」が確定されなければなりません。皆さんの心と体がここに行くのです。「1歩行くのか、2歩行くのか、3歩行くのか」というのです。

心と体が一つにならなければなりません。神様が地獄に送り、天国に送るのではありません。自分が訪ねていくのです。皆さんが知っている所に行くので、不平を言うことができません。地獄に行って、「神様、私をなぜ地獄に送ったのですか」と言うことはできないのです。誰も神様に対して不平を言うことができません。自分が行く所を決定するのです。今もそうです。私自身が、「天国に行くのか、地獄に行くのか」ということをみな知っています。
(201-225 ~ 226、1990.4.22)

そうだとすれば、天国行きと地獄行きはどこで決定するのですか。私によって決定するのです。体の五官を通して感じる条件の中で、良心の呵責を感じる生活をする人は地獄にいます。心を中心として、心が喜べる生活をする人は天国にいるのです。ですから、人は物欲と悪心を捨てて、良心を中心として天倫を望むのは当然のことです。これは皆さんもよく知っているのです。
(7-238、1959.9.20)

天国は誰かが教えてくれて行くようになっていません。良心的に生きる人は自動的に行くようになっているところが天国です。太陽が昇れば、すべての木の芽は太陽に向かいます。草までも自ら方向性をもって帰っていくのに、まして万物の霊長である人間が自分の行く道を知らないわけがないのです。このような現象が起こってくるのです。
(75-42、1975.1.1)


7.天界

天国と地獄に対する概念は、世界の諸宗教において普遍的に発見される。この領域に対する描写は、地上人たちの日常的な生活において多くは経験できない実在を象徴化し、絵画的で、幻想的な構成で満ちている。この領域は、客観的に実在するのか。宗教の諸経典は、異口同音にこの領域が実在するという。

しかし、その領域は、何かの物理的位置を備えていない。そこの「上」、または「下」は霊的な位相の問題であって、天文学や地質学的位置ではない。ある経典で発見される見解、すなわち天国や地獄は私達の心の状態から派生したという見解は、それを非実在的なものであるという根拠には決してなり得ない。

なぜなら、倫理的な生活において、見える行いによって隠されることもあり得る私達の心の中の態度と欲望が、霊界の内容を構成しているからである。
世界の諸経典は、天国を神様の恩寵に満ちた安息所、あるいは高貴な霊的状態として描写される。天国の居住者たちは神様と交流し、互いに調和を成しながら生活する。数多くの経典は、そこを死んだ者たちの霊魂や聖者たちとの親交場所として描写する。より絵画的で世俗的な光景として描写され、喜びにあふれ、あらゆる富と珍しく貴重な宝物があふれた所として描写した章句もある。

天国に関する文鮮明先生の多彩な描写は、経典のこの主題と一致する。さらに先生は、天国とは家族が完全な愛を享有しながら一緒に暮らす所であることを確認し、強調する話をさらに付け加える。

私達は、天国の光景や天国への旅でこの節を締めくくる。ここには、文鮮明先生自身の描写だけでなく、仏教の浄土に対する描写、ムハンマドの七つの天国を経る夜の旅、「素晴らしい湖の法典」に出てくるイロコイ北アメリカ先住民の旅が含まれる。
この章句は、すべての希望が成し遂げられる永遠の若さと健康があふれる世界、揺れ動く色調と甘美な曲調で感覚が生気に満ちあふれる楽園のような世界として、それを描写する。


①恩寵の世界

―宗教経典―

この世においても、来世においても、そのような人は決して滅びはしない。友よ、善をなす者は、誰も悪趣に赴かないから。ヨーガから脱落した者は、善行者の世界に達し、無限の歳月そこに住んだ後、清浄で栄光ある人々の家に再生する。
バガヴァッド・ギーター6.40 ~ 41(ヒンドゥー教)

だが信仰して善い行いにいそしむ者たち、これらの者は、衆生のうち最善の者である。かれらの報奨は、主のみもとの川が下を流れるエデンの園で、かれらはその中にとこしえに住むであろう。神はかれらを喜びたまい、かれらはかれに満悦し奉る。それは主を恐れる者への報奨である。
クルアーン98.7 ~ 8(イスラーム)


ラビ・ジョセフが……病にかかり意識を失った。再び回復したとき、彼の父が尋ねた。「何を見たか」。彼は答えた。「今の世の中と正反対の世の中を見ました。上にいる者が下にいて、下にいる者が上にいました」。父が答えた。「息子よ、正された世の中を見たのだ」。
タルムード、プサヒーム50a (ユダヤ教)

到来する世は、今の世とは異なる。新しい世になれば、飲み食いすることはないだろう。子供を生むこともなく、商いもないだろう。嫉妬や憎悪や競争がないだろう。新しい世には義人が尊敬され、彼に王冠がかぶせられ、彼は神聖な光彩を享受するだろう。
タルムード、ブラホート17a(ユダヤ教)

何の眩惑もない世界、永生と、この上ない権能と、輝く光彩を備え、自らの形を意のままに変えることができ、いつでも最初の日のように美しく、数千の太陽が発する光輝を備えた神々がとどまる世界、このように比べるもののない究極の境界は、自己統御と苦行により得るが、あらゆる利己的な欲望を抜け出して解脱に入った凡人と、苦行僧たちが得るところの境界だ。
ウッタラッジャーヤー・スートラ5.26 ~ 28(ジャイナ教)

恩寵の世界は気高いところにあるが、神の意識で満たされた英雄たち、至高な権能の英雄たちでなければ、誰も近づける者がいない。至極美しくこの上ない賛美を受けたシッタのような多くの女神たちがその世界に暮らす。

神と一つになったこの者たちは、あらゆる死と心の迷いから自由である。その世界には、至る所で集まった聖なる神に帰依する者たちが暮らし、心に崇厳で永遠の神を抱いている。永遠の至福で無形の至高者が永遠の世界にいて、一切の万有に限りない恩寵を下す。

その世界はすべての大陸と国を抱いており、その数を数えることができない。その中にあるあらゆる森羅万象が彼の意に従う。彼はこの上ない喜びでそれらを見下ろし、一つ一つ心の中に抱く。ナナートが言うには、実に形容し難いものがその世界の壮麗さだ。
アーディ・グラント、ジャプジー37、M.1、p.8(シーク教)


―み言葉選集―

神様は、このような中心存在でいらっしゃるのですが、それでは、神様がいらっしゃるあの天国、神様がいらっしゃるあの霊界はどのような組織でできているのですか。その組織の構造は簡単です。天国に行くことができ、極楽に行くことができる人たちは、自分のために生きていた人たちではありません。そのような人は行くことができません。全体のために生まれ、全体のために生きていた人が行く所が天国だというのです。

皆さんは、霊界を体験した経験がないかもしれませんが、私は天の恩賜によって数多くの霊的世界を体験しました。天国に入っていくと、自分のために生きる人は一人もいません。神様のために生き、人類のために生きた人たちが、みなその世界に行っているのです。
(77-189 ~ 190、1975.4.6)


神様を擁護し、神様の近くに来れば来るほどうれしいというのは、原理がそうだからです。したがって、霊界というのは、神様を中心とする理想世界として神様の愛の拍子と、その波動によって動く世界です。それで、自分がそこに調和できる要素を地上で築いていかなければ、そこで和合ができないのです。そのためには、子女の愛、夫婦の愛、父母の愛、この三つの愛を完成しなければなりません。(注17)
(19-335、1968.3.29)

天国はほかの所にあるのではなく、私の心にあります。その心がとどまる場所はどのような場所ですか。死亡のすべての要素を内包している場所ではなく、それを克服し、一つの生命が波及され得る場所です。

それで、天国は心から始まります。世の中に勝った心から始まるのです。いくら環境的に天国が成し遂げられたとしても、自分の心が悪で、それを慕うことができず、そこに動じることができない立場にいれば、その天国は意味がありません。
ですから、天国を迎えることができる土台になるのは、環境ではなく、私自身です。私自身が問題です。天国を維持できる支柱、支えるその支持点がどこかというと、環境の前に自分の心です。
(46-23 ~ 24、1971.7.18)

天国は、常に青い山河と広い草原地帯が広がっており、そこでは鳥が歌い、美しい花が満開で、動物が楽しく遊んでいます。周りの空気は、ライラックの香りのような匂いに満たされています。

また、宝石よりも明るい光彩を放ち、水晶のような透明な世界が現れ、立っているだけでも心がすがすがしく、安らかになります。天国は、深い愛の感動を感じるようになり、自由と幸福と喜び
が自然に感じられる世界です。地上とは違って、心の中に感じる深い感動と感覚が持続する世界です。

天国には、悩みや、心配や、つらいことがなく、表情がとても明るく、平和な姿です。お互いに話す必要もありません。自然に感じてために生き、愛する所です。闘いもなく、憎しみやねたみ、嫉妬、傲慢のような堕落性もありません。ために生きる真の愛があふれた世界です。
興進様の霊界メッセージ、2002.1.1


②聖人と先祖の親交

―宗教経典―

良き友人たち、善行者たちの愉悦する天界(svarga)、おのが身体の病患を棄て去り、跛者なく、肢体に欠くる者なき所、われら願うは、そこに両親を、息子を見得んことを。
アタルヴァ・ヴエーダ6.120.3 (ヒンドゥー教)

神とみ使いに従う者は、神が恩恵を施したもう者と一緒にいる者たち、予言者たち、誠実者たち、殉教者たち、ならびに正義者たちである。これらはなんとりっぱな仲間であることよ。
クルアーン4.69 (イスラーム)

しかし、あなたがたが近づいたのはシオンの山、生ける神の都、天のエルサレム、無数の天使たちの祝いの集まり、天に登録されている長子たちの集会、すべての人の審判者である神、完全なものとされた正しい人たちの霊、新しい契約の仲介者イエス、そして、アベルの血よりも立派に語る注がれた血です。
ヘブライ人への手紙12.22 ~ 24(キリスト教)

あなたが死ぬとき、あなたはあなたが愛した、既に死んだ人と再び出会うだろう。あなたが死ぬ日に、老いて気力がなかったとしても、あなたは再び若く強くなるだろう。霊魂の地でとうもろこしが育ち、彼らが生存時に善であっても悪であっても、すべて幸福になるだろう。ゆえに死は恐れるものではない。
ユマ族の伝承(アメリカ先住民の宗教)

それから先頭に立つ者は、楽園においても先頭者で、これらの者は、神の側近者であり、至福の楽園の中に住む。むかしからの者が多数で、後世の者からはわずかである。

(かれらは金銀宝玉を)ちりばめた寝床の上に、向かい合ってそれによりかかる。永遠の(清新を保つ)少年たちが、かれらの間を巡り、台付の杯や水差し、清浄な飲物の満たされたコップをささげる。かれらは、それであと障りを残さず、泥酔することもなく、また果物は、かれらの選ぶにまかせ、種々の鳥の肉は、かれらの好みのまま、大きい輝くまなざしの、美しい配偶、ちょうど秘蔵の真珠のよう。かれらが行なったことに対する報奨である。
クルアーン56.10 ~ 25(イスラーム)

ある者のためにはソーマ(神酒)が清まり、ある者はグリタを享楽す、そのために蜜の奔流する者、これらの者(祖先)にこそ彼(死者)は加わるべかれ。苦行により冒すべからざりし人々、苦行により天界に達したる人々、苦行を〔その〕荘厳(しょうごん)となしたる人々、これらの者にこそ彼は加わるべかれ。

合戦において戦う人々、勇士として身体を棄つる人々、または〔牝牛〕千頭をダクシナー(布施)として与うる人々、これらの者にこそ彼は加わるべかれ。天則を扶養し、天則を持し、天則を増大したる古人(いにしえびと)、苦行に富む祖霊、ヤマ(死者の支配者)よ、これらの者にこそ彼は加わるべかれ。(注18)
千の讃歌を知り、太陽を守護する詩人たち、苦行に富む聖仙たち、ヤマよ、彼は苦行より生まれたる人々に加われ。
リグ・ヴェーダ10.154.1 ~ 5(ヒンドゥー教)

 

―み言選集―

「天」といえば「二人」を意味します。皆さんもすべてそうです。すべて相対的です。
(92-309、1977.4.24)

天国は、家庭生活の拡大である。
御旨の道、天国

霊界は愛の心に酔う、このような最高の場所なので、年を取ることがありません。お母様も年を取りましたが、私が見るに、いつでも一番良いときの姿です。
(201-103、1990.3.11)

天国はどのような所ですか。天国という所は、愛が中心にならなければなりません。天国は、愛を受けたいと思う所、受けてもまた受けたいと思う、そのような所です。私達の「うれしい」という一言が、「うれしい」という千の言葉になり得る所が天国という所です。愛に接すれば、眠気が来ても、眠気はどこかに逃げていったかのように逃げていき、聞こえなかった耳が愛の心に接すれば聞こえるようになり、通じないものがありません。すべてのものが24時間、千年、万年ささやいても、話し続けることができる愛の世界なのです。私達の細胞やすべての感覚が100 パーセント以上動くことができる所です。
(102-160 ~ 161、1978.12.17)

霊界に行けば、山のような所も、そのまますっと……。通じない所がありません。霊界の動きを妨げるものが何もありません。天の本性稟の存在性なので、それを妨げるようになっていません。すべて通じるようになっています。時空を超越しているので、何億年前にいた人が今もいます。その人たちも、みな若い人として、自分か願う年齢で現れます。ですから、そのような人たちにいく
らでも会うことができるのです。
(194-133 ~ 134、1989.10.17)

エデンの園において、神様にとって最高の喜びと栄光のあいさつとは何かというと、神様と一緒に愛することです。出会ってベールをかぶって入っていき、神様の前で愛の関係を結ぶことによって、神様と一体になることができるその場があいさつする場なのです。
(314-25、1999.12.30)

天国というのは、人間が堕落せずに、この地上で神様の愛の懐で成婚し、神様の喜ぶ息子、娘、神様の喜ぶ孫を得て神様の愛を受け、その家庭がみな一緒に行く所です。子供が行けなくても、自分さえ行ければ良いというのは天国でしょうか。

ところで、楽園というのは、いくら仲の良い夫婦や親子でも、別れて行くのです。家庭とは何の関係もありません。そのような所が天国でしょうか。両親と共に家族全員が行って、神様を中心として授け受けすることのできる、そのような世界が天国です。
(19-104、1967.12.31)


天国は相対的理念の世界です。それで、家庭がすべて入らなければならず、自分の氏族と国がすべて入らなければならないのです。そうしてこそ、天国が建設されるのです。
(18-331、1967.8.13)

それで、天国は一人で行く所ではありません。父、母、息子、娘、すべて一緒に行く所が天国です。神様の創造目的から見た天国は、そのような所です。母親が地獄に行き、「おい! なにがしよ、私を助けてくれ!」と言っているのに、一人で天国にいることができますか。父親が地獄に行って「苦しい」と言っているのに、一人で天国で「いやあ、うれしい」と言いながら「お父さんは、そこにいても、当然でしょう」と言う、そのような所が天国ではないのです。神様の創造理想である天国は、父母と妻子と共に家族全員が一緒に行く所です。家庭だけが行っても駄目です。親戚も一緒に行かなければならず、民族も一緒にいかなければなりません。国全体が行く所であり、世界全体が行く所です。
(15-265、1965.10.17)
霊界に入っていけば、あいさつが必要ありません。出会えばさっと分かります。すぐに分かるのです。何千年前の人であることが分かります。何百万年前の人だということが分かるのです。

今日、聖書の歴史が、6000 年と言いますが、彼らは霊界を知らない人たちです。聖書の歴史は、何百万年、何千万年です。その時代の私達の先祖を呼べば、すぐに現れるのです。さっと見れば、
話をしなくてもすぐに分かるようになっています。自分のすべてのことが現れるようになっているのです。

額が広くなければなりません。額が広ければ、福
を受けるのです。立ててあげなければならない人なのか、下に見てもよい人なのか、すぐに分かるようになっています。ですから、あいさつが必要ありません。自動的に秩序が維特されるのです。

すべての秩序は、何によって成り立つのでしょうか。愛によって成り立ちます。人間の世界と同じように、愛によって位置が決定するのです。それで、神様の息子、娘にならなければ天の国に行くことができないのです。
(208-142 ~ 143、1990.11.17)

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世界経典-16

2020年10月17日 18時11分14秒 | 学習

3.永生のための準備

宗教は、来世の姿を単純に、死別した人たちには慰安として、あるいは現世で抑圧された人たちに鎮静剤として語ることはできない。かえって来世の人生は、地上生活の目的を高揚させ、その意味を明らかにするための助けとなる。

地上でどのように生きるかが自分自身の永遠の運命を決定する。知恵のある人は、永生を指向する眼目をもって、この地で生きている。

事実、地上の人生こそ、私達が来世の人生を準備するべき唯一の機会であることが広く知られるようになった。行為とその報いを連結する輪は、死によって分離されることはない。かえって、私達は永遠の世界で自分か現世において行った行為の結実を収める。

地上生活で、ある人が一生懸命に働いたり、怠けたり、寛大であったり、けちであったり、勇気があったり、臆病であったり、寛容であったり、嫉妬心が多かったりすれば、その人の来世においてもその状態が持続するのである。

したがって、知恵のある人は、死ぬ前に宗数的な教えに従い、過った行為を懺悔し、すべての善し悪しをきれいに浄化することによって、永生を見つめる目をもって生きる。準備した者にとって、死は恐れるものではない。しかし、不注意で準備していない者にとって死は、悔恨を残し、ぞっとするものであり、突然に差し追ってくる。

文鮮明先生は、霊界で霊魂は愛の空気で息をすると教える。地上で愛する能力をはぐくまなければ、その霊界は、息が詰ってしまう所であることが分かる。永遠の世界で人間が享受する幸福の尺度は、地上生活で築いた愛の能力である。


①永遠の時間において刹那のような地上生活

―宗教経典―

あなたが教会に入っていく前に、自分の着こなしを整えるように、現世は今後到来する世界の玄関と同じだ。
ミシュナ、アヴォート4.21 (ユダヤ教)

帰妹(妹をとつがせるの意)に当たって女が先だって動くようではそもそもはじめからよろしくない。君子は万事に遠い将来の終りまでを見通し、はじめが悪いと失敗を招くことを知るのである。(注10)
易経、周易下経54、帰妹(儒教)

この世界で善行を施し、1時間でも悔い改めることが、あの世界でのあらゆる生よりもはるかに良い。そして、あの世界で1時間平穏をもつことが、この世界でのあらゆる生よりも良い。
ミシュナ、アヴォート4.22 (ユダヤ教)

長い時間の過程の中で、人の生を受けることはとてもまれな機会だ。難しくまた難しいことは業報だ。ゴータマよ、常に注意せよ!
ウッタラッジャーヤー・スートラ10.4 (ジャイナ教)

そして、私達の知っているように、現在、死が人類に及んでいる。まことに、アミュレクが語った死、つまり肉体の死が及んでいる。にもかかわらず、人が悔い改めることができるように、猶予期間が与えられた。したがって、この世の生涯は試しの状態、すなわち神にお会いする用意をする時期、私達が前に語った死者の復活後に訪れるあの無窮の状態に対して用意をする時期となった。
モルモン経、アルマ書12.24(末日聖徒イエス・キリスト教会)

何人でも、つかの間のこの世の事物を望む者には、れも急いでかれらのために、われの欲する物を、われが望む者に与える、それからかれのために地獄を準備する。かれはそこで焼かれ、恥辱を被むり、慈悲を拒まれるであろう。しかし何人でも来世を望み、それに向かって努め精進し、信仰する者、これらの者の精進は、嘉納(かのう)される。
クルアーン17.18 ~ 19(イスラーム)

我々はこの世界で買い物をしているのだ。
我々が買い物龍を満たそうと満たすまいと、
時間になれば家に行かなければならない。
イボ族の歌(アフリカ伝統宗教)

例えば、寿命を迎えた葉が地に落ちるように、人の生もまたそれと同じであるので、ゴータマよ、常に慎みなさい!葉の先にぶら下がった露の玉が一瞬で消えてしまうように、人の生もまたそれと同じであるので、ゴータマよ、常に慎みなさい!
人生は流れる水のように、また弓から放たれた矢のように、一瞬で流れていき、現存は不確実であるがゆえに、あなたが犯したあらゆる罪悪を急いで洗い流しなさい。おお、ゴータマよ、常に慎みなさい!  ウッタラッジャーヤー・スートラ10.1~3(ジャイナ教)

朝には夕ベを期待するな。夕べには朝を期待するな。病いのために健康をふりあて、死のために生をふりあてよ。
ナワウィー40 のハディース40(イスラーム)

おお! 人々よ、何をするにしても神を畏れ、死を予期せよ。一時的で、しがない現世の富貴と権力、快楽の代わりに、永遠の恩寵を得るようにしなさい。

射られた矢のような過程を準備しなければならないがゆえに、ここはあなたがしばし休んでいく所である。常に死に備えなければならないため、あなたたちは、ただ死の影の下で生きているだけである。神の福音を聞いた人のように、賢明に身を振る舞い、その福音から警告の意味を刻み込まなければならない。

現世はあなたたちが永遠に生きる所ではないことを悟らせなければならないがゆえに、あなたはその生を来世で取り替えるようになる。神に栄光をお返しするが、その方は目的なくあなたを創造されたのではなく、義務や責任も負わせず、放っておかれなかった……。

あなたは来世で、あなたたちに有用で助けとなる収穫を現世で収めることができるかを考えなければならない。
ナフジュ・アル・バラーガ説教67(イスラーム)


―み言選集―

私達はこの世に生きていますが、この世だけではなくて霊界があることを知っています。この世と霊界は、二つの世界ではなく、一つの世界として連結しているということを知っているのです。

それでは、私達が行くべき所、私達が行って住まなければならないその場所とはどこでしょうか。私達は肉身生活をしながらこの地にいますが、永遠の世界に向かって行っているのです。一般の人々は、この世に生まれ、10代、20 代、30 代を過ぎ、中年を過ぎて壮年、老年時代を経ていきます。このように、沈む太陽のように一生を終えます。

しかし、霊界があるという事実を知っている人たちは、人生というものがわずかの間で、死んだのちに私達が迎えなければならない世界が永遠だということを知っています。ゆえに一生の期間とは、永遠の世界を準備するための期間だというのです。(140-121、1986.2.9)
肉身と霊人体の中で、より重要なものとは何でしょうか。肉でなく霊なのです。肉は70、80 年の時間圏、限界圏内で生きては去ってしまいますが、霊は時間圏を超越し、空間まで超越する権限をもっています。したがって、歴史的な責任を悟って、責任を果たすことが人間の本務です。皆さんがいくら肉身を中心として豊かに暮らしても、結局は死ぬようになるのです。どのみち肉身は死ぬようになっているのです。そのようになっているのです。では、霊的な基準と肉的な基準のうちで、どちらがより重要なものでしょうか。私達は、肉的な基準を中心として生きていくのではありません。肉は霊のために、霊は肉のために存在するのです。
(20-326、1968.714)

霊界に行けば、愛することができなかった人は窒息します。呼吸が合いません。地上生活は何ですか。地上世界は、あの世界に入っていって呼吸することができるように訓練させる訓練場です。ですから、自分の妻よりも人を愛さなければなりません。(121-294、1982.10.29)
母親の腹中で胎教を正しく受けてこそ、健康で善の赤ん坊として生まれるのと同じように、この地上世界での生活は、腹中での生活と同じなのです。ですから、神様の形状を模範として、神様の心情を模範として、神様の聖なる神性を模範として育たなければなりません。育って、また命を懸けて越えていかなければなりません。
(14-17、1964.4.19)

地上に天法を教えるために、訓練させる舞台が宗教です。宗教は、本郷に帰っていくとき、その故郷の法を生前に地上で訓練され、その法度に適応できる人格を備えるためのものです。これが今日の宗教生活の道理です。

高次的な宗教であるほど自分を強調しません。高次的な宗教であるほど温柔、謙遜を強調します。さらには、犠牲、奉仕を強調するのです。なぜそうしなければならないのですか。本郷の法則がそうだからです。
人間は、どのみち本郷を訪ねていく旅人のような立場なので、本郷に行って暮らす法度に適するように訓練させようとするので、高次的な宗教であるほど、犠牲になりなさいと教えてきたのです。
(77-189、1975.4.6)

この地上にいる生活がどれほど重要でしょうか! 1回しかありません。地上生活を永生と比較すれば、これは1点にすぎません。あまりにも短い瞬間です。私の肉身生活を越えて、霊界のために準備をしなければならないのです。

常にそのような主流思想をもってセンターに立ち、一切をコントロールし、一切を征服できなければなりません。そのようにしなければ、皆さんは個性完成できないのです。
(207-99、1990.11.1)

「ああ、私は若いのでこれから少なくとも40 年、50 年は生きる」と、そのような欲をみんなもっているでしょう? 神様に保証を受けていますか。皆さんはできるだけ短く、1年以内に死ぬと思いなさい。この短い期間に準備をすべてしなければなりません。この観念をもって生きなさい。できるだけ短く計画するほど幸せだというのです。短く計画を立てるほど損害を受けないのです。

その期間に真実に準備するその内容が、自らの永遠の生命の家を建てるのです。2年後に死ぬと考えてみてください。どれほど深刻ですか。共同墓地にも、葬式をする所にも行ってみるのです。これは、信仰生活に絶対必要です。ですから、「生きよう」と言う人たちは死ぬのであり、「死のう」と言う人は生きるのです。その短い期間に、み旨のために死のうと、天のために死のうと思えば、永遠に生きるのです。
(102-122、1978.11.27)


②天に宝を貯蔵しなさい

―宗教経典―

あなたがたは地上に富を積んではならない。そこでは、虫が食ったり、さび付いたりするし、また、盗人が忍び込んで盗み出したりする。富は、天に積みなさい。そこでは、虫が食うことも、さび付くこともなく、また、盗人が忍び込むことも盗み出すこともない。あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ。
マタイによる福音書6.19 ~ 21(キリスト教)

若い時に、財を獲ることなく、清らかな行ないをまもらないならば、魚のいなくなった池にいる白鷺のように、痩せて滅びてしまう。若い時に、財を獲ることなく、清らかな行ないをまもらないならば、壊れた弓のようによこたわる。
法句経155 ~ 156(仏教)


おお、すきのない商人よ、利益のある商売をせよ。死んでもあなたと同伴するそのような商品だけを扱いなさい。
アーディ・グラント、スリー・ラーグ、M.1、p.22(シーク教)

意にかなった好きなものは、人間の目には美しく見える、婦女・むすこ・蓄積された財宝・金や銀・血統の正しい焼印をおした馬・家畜や田畑。これらは、現世の生活の享楽である。だが神のおそばこそは、こよなき安息所である。

言え(ムハンマドよ)、「私はこれらよりも善いものを、あなたがたに告げようか。その身を悪魔から守る者のためには、主のみもとに楽園があり、川が(木々の)下を流れている、かれらはその中にとこしえに住み、純潔な配偶を賜わり、神のご満悦を被むるであろう。……」
クルアーン3.14 ~ 15(イスラーム)


久しく旅に出ていた人が遠方から無事に帰って来たならば、親戚・友人・親友たちはかれが帰って来たのを祝う。そのように善いことをしてこの世からあの世に行った人を善業が迎え受ける。親族が愛する人が帰って来たのを迎え受けるように。
法句経2.19 ~ 20(仏教)

屍を木片、土塊のように地上にうち捨てて、親族たちは顔を向けずに立ち去る。功徳(ダルマ)が彼に従う。それゆえに、道連れのために、常に、少しずつ功徳(ダルマ)を積み上げるべし。なぜならば、功徳という同行者によって越え難い闇を渡るからである。〔功徳は〕功徳を主要素とし、苦行によって罪を破壊し、光り輝き、大気を身体とする者を素早くあの世に導く。
マヌ法典4.241 ~ 43(ヒンドゥー教)

それから、イエスはたとえを話された。「ある金持ちの畑が豊作だった。金持ちは、『どうしよう。作物をしまっておく場所がない』と思い巡らしたが、やがて言った。『こうしよう。倉を壊して、もっと大きいのを建て、そこに穀物や財産をみなしまい、こう自分に言ってやるのだ。「さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽
しめ」と。』

しかし神は、『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか』と言われた。自分のため
に富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ。」
ルカによる福音書12.16 ~ 21(キリスト教)

私は世界の富者を見る。かれらは貪り、財を積み富を得、愚により施さず、ますます欲を広げ求める。

嗣子がかれの財を引き継ぎ、人は業に従って行く。死にゆく者に財従わず、妻子、財産、王国もまた財によって長寿は得られず、富によっても老いは
消せず。この人生は短く、無常、移ろうもの、と賢者らは言う。

富者も貧者も死に触れる。賢者も愚者も死に触れられる。愚者は無知に打たれて臥すも、賢者は触れられ動揺しない。それゆえ慧こそ財よりすぐれ、慧によりこの世で終結を得る
阿含経中部ii.72 ~ 73、ラッタパーラ経(仏教)


―み言選集―

あの国のお金持ちは他でもありません。それだけ愛のために投入した人がお金持ちです。
(205-347、1990.10.2)

死ぬときにすべて置いていくのです。もっていくべきものは、神様を愛し、私が私を愛し、本質的な人である私を立てるために苦労し、私と相対の夫婦の愛、家庭の愛を中心として、この愛を世界に拡大するために努力したことです。人類を愛し、神様を愛したことが最後に残り、あの国で所有権決定の基準になるのです。
(127-38、1983.5.1)

皆さんは、天国に行くときに贈り物としてもって行く物がありますか。霊界に行けば、殉教した功臣たちが前にずらりと並んでいるのに、彼らの前に皆さんがもって行ったふろしきを開いて見せることができるでしょうか。大した物でもないのに開いて見せることができるでしょうか。皆さんがどのような苦労をしましたか。それぐらいの苦労をしただけで、どうして国のため、世界のために生きたと言えるでしょうか。「苦労をするにはしましたが、私は苦労したと思いません」と、それでこそ当然なのです。まだ行くべき道が残っています。

霊界に行ってふろしきを解いて、「これは一生の間私が用意した贈り物ですので、お受け取りくださいませ」と言えなければならないのです。女性たちが嫁に行く時は、荷物をしっかりと持って行くのに、天国に行く時は手ぶらで体だけ行くことができますか。
(32-71、1970.6.21)

一生の間に自分がするすべてのことは、すべてが真の愛のための実績として私の後ろに永遠に固着されているので、あの国に行って暮らすときに、残した功績を中心とする栄光の階級に自然に行ってとどまるのです。
(211-288、1990.12.30)


ために生きる人たちが行く世界が天国です。自分のために生きる人は絶対に行くことができない所です。
(91-173、1977.2.6)

人生の最後の目的は、神様を中心として天の中心たるその方と出会うことではありません。その方と一緒に住むことが問題となります。その方と会うのにどのような場所で会うか、生きるのにどのような場所で生きるのかということが問題です。

その方とは中心の場所で会い、中心の場所で生きようというのですが、その中心の位置は、神様の愛の位置なのです。ですから人類の良心が指向する最高の目標は、天運(注11)に従って神様と一致し、神様の愛を私のものにしようということです。結論はそれです。
(24-17、1969.6.22)

霊界に行くとき、お金をもって行くのではありません。統一教会の名前をもって行くのでもありません。今後皆さんがしなければならないことは、神様が愛することができる息子、娘をどれだけたくさんつくって行くかということです。

今、復帰過程で経ていくべきこととは何かというと、皆さんがサタン世界において神様が愛することのできる多くの息子、娘をつくるようになるとき、その功労は先祖と連結され、また先祖を解放させることのできる道が生まれるのです。これが、復帰路程において自分が受ける最大の贈り物です。

教育して弟子を大勢もつのと同じように、地で解いてあの世に行くようになれば、霊界でも解ける相対的関係になっているので、膨大な活動基盤になります。霊界に行って自分の霊的基準に該当する所は、すべて自分の所有になります。

ですからに自分が活動する舞台は、その基準を中心として全霊界に通じるのです。それがなくなれば、コーナーに追われて活動しにくいのです。ですから、歳月を送って休む間がありません。御飯を食べて暮らし、息子、娘を食べさせて育てることは、あの世に行くようになれば大したことではありません。天国の民を訪ねていかなければならないのです。それが天国では自分の所有になるのです。
(230-25、1992.4.15)


③地上の生活様式どおりに暮らす天上生活

―宗教経典―

季路(きろ)が神霊に仕えることをおたずねした。先生はいわれた、「人に仕えることもできないのに、どうして神霊に仕えられよう。」「恐れいりますが死のことをおたずねします。」というと、「生もわからないのに、どうして死がわかろう。」
論語11.12 (儒教)

(イエスは言われた。)「はっきり言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる」(注12)。
マタイによる福音書18.18(キリスト教)

さて実に人(プルシャ)は意向よりなる。この世に於て人が意向を持ちてあるが如く、その如くに、彼はこの世を去りて成る。 シャンカラヴェーダンタ・スートラ注解書1.2.1(ヒンドゥー教)
苦行を行い、清浄戒律を修行して具足する者は、この世やあの世のどちらでもりっぱな果報を得るため、生きては栄誉を得、死んではまたさらなるこの上ない幸福を享受する。

しかし、罪悪を耽溺する者の生や死は、どちらも悪の果報を得るため、生きては怨恨を積み、死んでは暗闇の中に放り込まれる。
ソーマスンダラウパデーシャ・マーラー443 ~ 44(ジャイナ教)

悪いことをした人は、この世で憂え、来世でも憂え、ふたつのところで共に憂える。かれは、自分の行為が汚れているのを見て、憂え、悩む。

善いことをした人は、この世で喜び、来世でも喜び、ふたつのところで共に喜ぶ。かれは、自分の行為が浄らかなのを見て、喜び、楽しむ。

悪いことをなす者は、この世で悔いに悩み、来世でも悔いに悩み、ふたつのところで悔いに悩む。「わたくしは悪いことをしました」といって悔いに悩み、苦難のところ(=地獄など)におもむいて(罪のむくいを受けて)さらに悩む。善いことをなす者は、この世で歓喜し、来世でも歓喜し、ふたつのところで共に歓喜する。「わたくしは善いことをしました」といって歓喜し、幸あるところ(=天の世界)におもむいて、さらに喜ぶ。
法句経15 ~ 18(仏教)

これは来世の住まいで、われは地上において、誇ることを欲せず、悪を行わぬ者にこれを授ける。善果は、主を畏れる者にある。善い行いをなす者には、それよりもまさるものを賜わる。悪い行いをなす者には、かれらが行なっていた、悪い行いにのみ報いたもう。
クルアーン28.83 ~ 84(イスラーム)


―み言選集―

生涯の内容に対する価値はどこで決定するのかというと、生涯をすべて生きて決定するのではありません。一日一日の生活、その日々が決定するのです。ですから、正しく生きなければなりません。
(197-186、1990.1.14)

ここでそのように生きた人があの世に行って、突然変わることはできません。「三つ子の魂百まで」という言葉があるでしょう。もって生まれた性格は、直すのが難しいのです。あの世に行っている霊人体は、私達の今までの生き方と特別に違うのでしょうか。突然に変わるのでしょうか。そのようなことはないのです。ここで生きた、その姿どおりに収穫されていくのです。霊界に行っているすべての霊人体は、結局は地上で生きた人々の霊人体です。そのように見ると、今日この人たちが生きている世の中と、特に違わない世界だというのです。
(141-268、1986.3.2)
霊人体のすべての感性も肉身生活の中で、肉身との相対的な関係によって育成されるので、人間は地上で完成され、神の愛を完全に体恤して初めて、肉身を脱いだのちのその霊人体も神の愛を完全に体恤することができるようになるのである。

このように、霊人体のすべての素性は肉身のある間に形成されるので、堕落人間においては、霊人体の悪化は肉身生活の犯罪行為に由来するもので、同じく、その霊人体の善化も、肉身生活の贖罪によってのみなされる。

罪悪人間を救うために、イエスが肉身をもって地上に降臨された理由はここにあるのである。それゆえに、我々は地上で善なる生活をしなければならない。したがって、救いの摂理の第一次的な目的が地上で実現されなければならないので、イエスは天国の門の鍵を地上のペテロに授けて(マタイ16・19)地上でつなぐことは天でもみなつながれ、地上で解くことは、天でもみな解かれるであろう
と言われたのである(マタイ18.・18)
原理講論、創造原理6.3.2
皆さんの習慣性をどのように打倒するのですか。今まで皆さんはサタン世界で自分を中心として、「私が優れていなければならない」と考える習慣性をもって生きてきたのですが、その習慣性はこり固まった悪い癖です。そのように固着してしまったその習慣性は、キムチ、テンジャン、コチュジャンの習慣性よりもっと強いでしょうか、弱いでしょうか。

これは歴史性を備えているのです。悪魔が出発したその日から根が打ち込まれたこのような伝統的習慣性をもっているのですが、これをどのように抜いてしまうのかというのです。

皆さんは今日の堕落した世界で先生によって原理を学んだと大口をたたいてはいけません。、穴を掘って根まで埋めてしまおうとしても、これは私の背よりもっと大きく、あの木に登っていって抜こうとしても抜くことができないほど長いのに、座ったまま抜いたと大口をたたきますか。これは深刻な問題です。
天の国に行く自信がありますか。天の国に行こうとすれば、神様を中心とする伝統的習慣性がなければなりません。
(213-20、1991.1.13)

一生の間、神のみ旨のためにいかに生活したかによって、天国における彼の座が決定する。ゆえに、天国に行くか行かないかは自分自身がよく分かる。食べたり、寝たり、好いたり、嫌ったり、行ったり、来たりするのを何のためにしたかによって、天国に行くか行けないかが決定される。
御旨の道、天国

ために存在するという原則で構成された世界が人間の願う天国だと、皆さんが端的に理解してもそれは間違いありません。そのような所が私達の本郷です。

私達は、好きでも嫌いでも、いずれそこへ行くべき運命に置かれています。それが私達の人生の道です。私達は、そこに向かって旅人の道を行っているのです。
それでは、ここで問題になることは、自分のために生きたのか、人のために生きる生活をしたのかということです。その差によって、すなわち人のために生きたことが多ければ天国に行くことができるのであり、その反対になるときには地獄に行くというのです。この原則はこの場では信じられませんが、死んでみれば分かります。
(74-51、1974.11.27)

 

④死の終着地

―宗教経典―

あなたは山に登っていくことができ、再び下りてくることもできる。渓谷の周囲をあちこちと歩き回り、再び戻ってくることもできる。しかし、神には行くことも戻ってくることもできない。
ヌペ族の格言(アフリカ伝統宗教)

信頼できぬこの閻魔(ヤマ=死)。〔罪を浄化〕したかしないかにかかわらず、病気であろうとなかろうと、すべての者は〔いつか〕突然に〔死ぬ。〕命とはあてにならないもの。すべてを捨てて行かねばならないのに、私はそれを知らぬゆえ、親しき者〔を守るため〕にも親しくなき者〔を損なうため〕にも罪をさまざまに犯したが、親しくなき者も死に、親しき者も死ぬ。

さらに私自身も死ぬ。このようにすべては死ぬのである。夢に体験したごとく、いかなる事をなしたとて、それぞれを記憶することは単なる記憶の対象だ。過去の対象すべては目の前にはない。あるとき、命あるこのときにも、親しき者も親しくなき者も多くが死んでいく。〔そして、〕彼らのために犯した罪は耐えようもなく〔恐ろしいものであり〕、今私の前にある。

このように、突然〔訪れる死〕というものを、私は理解できずに、無知と執着と怒りによって、さまざまな種類の罪を犯した。昼も夜も止まれずに、今生(こんじょう)は常に少なくなり、〔寿命を〕加えることもできぬのに、私のごとき者がどうして死なないであろうか。

私は、死の床にあるとき、親戚や友人が囲んでいても、命が尽きたと感じたときは自分一人で〔苦
を〕経験する。閻魔の使いに捉えられたとき(=死が訪れたときに)親戚が何の役に立つのか。友人が何の役に立つのか。そのとき福徳にのみ助けられるのにそれすら私はなさなかった。
菩提行論2.33 ~ 41(仏教)


―み言選集―

この道は、友達もいないのです。愛する父母もいない道であり、愛する兄弟もいない道であり、愛する夫婦、愛する子女もいない道です。ただ一人で行くべき道です。

再び行ってみることもできず、行って帰ってくることもできず、一度行けば永遠に帰ってくることができない道です。このような道を行くようになるとき、皆さんはどのような心をもって行くのでしょうか。皆さんが死に逢着するその瞬間に、その死を乗り越えることができる希望がなければ、そこで終わりです。

今日まで神様のみ旨を信奉して、神様のみ旨を立ててきた数多くの人々はどのような人々だったのかといえば、死の道の前で後退した者たちではなく、死をあざ笑い、死を堂々と越えた人々でした。そのような人々が天の道を立ててきたという事実を、私達は歴史を通じてよく知っています。

皆さんは、各自が死に逢着したとしても、これを越えることができる希望を抱かなければなりません。そして、この道を越えていけば、私は天の前に堂々と立つようになるはずだという希望と、心で憧憬した世界、その本郷に向かって喜んで走ることができなければなりません。神様の理想世界を願う心が切実であってこそ死に勝つことができる存在になる、ということを皆さんは悟らなければなりません。
(6-53、1959.3.22)

霊界をよく知らなければならないというのは、霊界の実存だけを漠然と信じて生きなさいという意味ではなく、好きでも嫌いでも、永遠に生きなければならない霊界における生涯のために、私達が地上界でどのような準備をしなければならないかを知って、徹底的に準備をするということです。

腹中で問題がある子供は、生まれても、間違えば生涯を病の身で生きなければならないように、私達が短い地上界での生涯の中で、天のみ旨を正しく知らずに罪を犯したり、悪を行えば、結局因果応報の宇宙法則により、霊界に行ってその代価を払うようになるのです。霊界に入っていった霊人体が、言い表せない苦痛と蕩減を払わなければならないという意味です。(注13)

一度肉身を脱げばもう遅いのです。肉身は、死ねば一握りの土に戻ってしまいますが、私達の生命、私達の心、私達の心情、そして私達の希望までも埋められてしまうのでしょうか。絶対にそうではありません。

私達の100年の一生は、神様が設置しておいた「霊人体」というスーパーコンピューターに、間違いなく記録され、撮影されて、自動的に評価されるのです。それで、誰でも地上界で生を営む間、行く歩みを捕らえ、動く心と傾く心情を鼓舞して、「あなたはどこへ行くのか」と数えきれないほど自問自答してみるのです。
(447-159 ~ 160、2004.5.1)


4.希望の世界

この世界とあの世界の間に夢の世界がある。すべての夢が霊的なものではないが、その中の幾つかは明らかに霊的であり、霊的な夢は、とても生々しく、長く記憶に残る。そのような霊的な夢を見る間に、霊魂はしばらく肉身を離れて霊界に上がっていき、そこで様々な現象を経験する。

これらの中であるものは神様と関連し、重要なメッセージが伝達される。そのほかの夢もあるが、低級な霊魂、または悪霊たちと遭遇する夢や、悪夢に苦しんだり、性的な夢がここに属する。

この節では、夢を見る霊的な過程を説明し、どのような夢が神様からの啓示なのかを区別する方法に関する教えである。キリスト教の聖書で、神様がヤコブとヨセフにしたことのように、神様は夢を通して人生の転換をもたらす情報と指針を啓示することができる、したがって、意味深長な夢に対して注意を傾けることは、宗教的な生活において重要な訓練の中の一つである。
―宗教経典―

ヤコブはベエル・シェバを立ってハランヘ向かった。とある場所に来たとき、日が沈んだので、そこで一夜を過ごすことにした。ヤコブぱその場所にあった石を一つ取って枕として、その場所に横たわった。

すると、彼は夢を見た。先端が天まで達する階段が地に向かって伸びており、しかも、神の御使いたちがそれを上ったり下ったりしていた。見よ、主が傍らに立って言われた。

「私は、あなたの父祖アブラハムの神、イサクの神、主である。あなたが今横たわっているこの土地を、あなたとあなたの子孫に与える。あなたの子孫は大地の砂粒のように多くなり、西へ、東へ、北へ、南へと広がっていくであろう。地上の氏族はすべて、あなたとあなたの子孫によって祝福に入る。見よ、私はあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、私はあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る。私は、あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない。」
ヤゴブは眠りから覚めて言った。「まことに主がこの場所におられるのに、私は知らなかった。」
創世記28.10 ~ 16(キリスト教)

人が寝床に入れば、霊魂は彼を離れて上に上がり始める。そして、肉身には心臓の音を包む器程度の痕跡だけを残しておく。残りはだんだんと上に上がっていこうとする。上がっていく間に、明るいが不透明な何かの実体にぶつかる。

純粋で昼の間に汚されていない霊魂は、それを飛び越えて上がっていく。そのようにできない霊魂は、その実体の間に入っていき、垢がついて同化し、それ以上に上がることができない。その中でその実体は近い未来に起きることを見ぜてくれる。ときには偽りを見せることもある。これは目覚めるときまで夜通し続く。

神が夢の中に現れ、御自身の秘密を見せてくれる義人たちは幸福な人である。そうして罪を犯すことができなくなる! 自分の肉身と霊魂を汚すかわいそうな罪人たちよ! 昼の間に汚されなかった人は、夜に眠るとき霊魂が昇天し始める。そして、同じ段階に入っていく。

しかし、彼らはその不確実な実体に同化されず、さらに上に上がっていく。したがって、この選ばれた霊魂たちはついに天の王宮の門の前に到達し、王の美しさを見て、彼の聖地に入っていくことを熱望する。……イザヤ書26 章9節に、「私の魂は夜あなたを捜し」と記されているのと同じである。誤った力に誘惑されず、主に従うということだ。
ゾハール1.83b (ユダヤ教)

神は人間が死ぬとき、その魂を召したもう、また死なぬ者は、睡眠の間それを召したもう。かれが死の宣告をされた者の魂は引きとめ、その他のものは定められた時刻に送り返したもう。まことにこの中には、反省する人びとへの種々のしるしがある。
クルアーン39.42 (イスラーム)
睡眠(うまい)もて肉身(むくろ)を抑制し、己れ寝ずして眠れる者(感官)等を照らし、白光を携えて還(ま)たもその旧里へと帰るなり、黄金の神人、弧高の鵠(ハンサ)なる彼は。巣の底は生気に守らせ、巣の外へと出で去りて心のままに翔(かけ)りゆく、不死なる彼は、黄金の神人、弧高の鵠なる彼は。

夢寝(むび)の裡(うち)にて上を下へと翔(かけ)りつつ、神なる彼は種々(くさぐさ)の相をあらはし、あるは数多(あまた)の妻妾と燕楽、嬉笑するが如く、あるは種々の危険に遭うに似たり。

彼の苑囿は世の人の見る所なれど、彼を見し人は一人もなし。「……ある一派は『夢中の神人にも覚醒時と同一の場所があるだけだ。すべて覚醒時に見ているものを夢の中でも見るのだ』と申します。ただし、夢の中では神人自らが光明となっておるのであります」……

喩えばレ車が重い荷物を載せて軋(きし)りながら進んでゆくように、人間が最後の息をひきとる時には肉体的自我が叡智的自我を載せて軋りながら進みつつあるのであります。
ブリハッド・アーラニヤカ・ウパニシャッド4.3.11 ~ 14、35(ヒンドゥー教)

いつか荘周は、夢のなかで胡蝶になっていた。そのとき私は喜々として胡蝶そのものであった。ただ楽しいばかりで、心ゆくままに飛び回っていた。そして自分が荘周であることに気がつかなかった。ところが、突然目がさめてみると、まぎれもなく荘周そのものであった。いったい荘周が胡蝶の夢を見ていたのか、私にはわからない。

けれども、荘周と胡蝶とでは、確かに区別があるはずである。それにもかかわらず、その区別がつかないのは、なぜだろうか。ほかでもない、これが物の変化というものだからである。
荘子2(道教)


あなたたちの間に預言者がいれば、主なる私は幻によって自らを示し、夢によって彼に語る。
民数記12.6 (キリスト教)

神の使徒が言った。「信仰をもった者の幻視は預言の46 番目の部分であり、預言に属していることは間違いない」。彼は、幻視には三つの類型があると考えた。内部から出てくる思い、悪に起因する恐ろしい夢、神から来る良い知らせがそれである。それゆえ、自分が嫌う何かを見るならば、それを誰かに言わず、立ち上がって祈らなければならない。
ブハーリーおよびムスリム・ハディース(イスラーム)

幻視は解釈されない限り、人間をどきどきさせる。しかし、解釈すればそれは落ち着く。ひとえに、それは愛する者や判断できる者にだけ語れ。
アブー・ダーウード・ハディース(イスラーム)


ファラオはヨセフに言った。「私は夢を見たのだが、それを解き明かす者がいない。聞くところによれば、お前は夢の話を聞いて、解き明かすことができるそうだが。」ヨセフはファラオに答えた。「私ではありません。神がファラオの幸いについて告げられるのです。」

ファラオはヨセフに話した。「夢の中で、私がナイル川の岸に立っていると、突然、よく肥えて、つややかな七頭の雌牛が川から上がって来て、葦辺で草を食べ始めた。すると、その後から、今度は貧弱で、しとても醜い、やせた七頭の雌牛が上がって来た。あれほどひどいのは、エジプトでは見たことがない。そして、そのやせた、醜い雌牛が、初めのよく肥えた七頭の雌牛を食い尽くしてしまった。ところが、確かに腹の中に入れたのに、腹の中に入れたことがまるで分からないほど、最初と同じように醜いままなのだ。私は、そこで目が覚めた。


それからまた、夢の中で私は見たのだが、今度は、とてもよく実の人った七つの穂が一本の茎から出てきた。すると、その後から、やせ細り、実が入っておらず、東風で干からびた七つの穂が生えてきた。そして、実の入っていないその穂が、よく実った七つの穂をのみ込んでしまった。私は魔術師たちに話したが、その意味を告げうる者は一人もいなかった。」

ヨセフはファラオに言った。「ファラオの夢は、どちらも同じ意味でございます。神がこれからなさろうとしていることを、ファラオにお告げになったのです。七頭のよく育った雌牛は七年のこ、とです。七つのよく実った穂も七年のことです。どちらの夢も同じ意味でございます。その後から上がって来た七頭のやせた、醜い雌牛も七年のことです。

また、やせて、東風で干からびた七つの穂も同じで、これらは七年の飢饉のことです。これは、先程ファラオに申し上げましたように、神がこれからなさろうとしていることを、ファラオにお示しになったのです。今から七年間、エジプトの国全体に大豊作が訪れます。しかし、その後に七年間、飢饉が続き、エジプトの国に豊作があったことなど、すっかり忘れられてしまうでしょう。飢饉が国を滅ぼしてしまうのです。この国に豊作があったことは、その後に続く飢饉のために全く忘れられてしまうでしょう。飢饉はそれほどひどいのです。ファラオが夢を二度も重ねて見られたのは、神がこのことを既に決定しておられ、神が間もなく実行されようとしておられるからです。
創世記41.15 ~ 32(キリスト教)

 

―み言選集―

霊界から教えてくれるときは、夢の中で教えてくれます。ですから、夢が問題です。そして、夢うつつの中で、啓示の中で、黙示で、そして霊界に入っていってすべて教えてくれます。それで、皆さんの夢の中で的中する夢があるのです。

なぜそうでなければならないのですか。私達人間は堕落することによってサタンの血統を受けました。ですから、動くときはこの悪の血が動くのです。

それは、ガラス管に入れておいた泥水と同じです。眠れば肉身が休むので、重たいものは沈み、きれいな水が浮かぶのと同じようになるのです。本来のきれいな心は、天と関係を結ぶことができるので、ここに象徴的、形象的に今後進む道を夢の中で天が教えてくれるのです。

皆さんは、その夢がつまらない夢なのか、サタンが教えているのか、神様が教えてくれているのか分かりません。それでは、これをどのように知るのですか。サタンが教えるものは、夢の方向性がありません。流れていくのです。すぐに忘れてしまいます。しかし天が教えてくれるものは、体系が備わっています。、そして、前の夢と次の夢が関連性をもっているのです。3回の夢の中で関連性があるときは、天の啓示であることを知らなければなりません。

そして、これは忘れません。それはなぜ忘れないのかというと、本来、天と人間は永遠に一つになるようになっているからです。永遠に一つになるようになっているので、一つになっているものは忘れられません。サタンとの関係はすぐに忘れてしまいます。

このように、霊界の指導を受ける人たちは、すべてそのような事実がたくさん残っているので、悪の所に行こうにも行けません。サタン世界に行っても、それが現れ、それを考えるのです。


今日、心理学者のような人たちが夢に関して、「潜在意識の再現である」と言っています。そのようなものはすぐに忘れてしまいます。しかし、考えていないのに、忘れない夢は霊的な現象です。
(91-272 ~ 275. 1977.2.27)

体恤をするためには、必ず祈祷しなければならず、精誠を尽くさなければなりません。そこで現れる啓示や夢のお告げを、絶対に無視しないでください。

それを調整して現実的生活圏内に、実践舞台にどのように適用させるのかということが、信仰生活で最も重要なことなのです。
(76-153、1975.2.2)

暗示という言葉があります。それはどういう意味ですか。自分が何気なく道を歩いていると、ある家の壁に止まっていた鳥が飛んでいくのを見たとき、鳥は飛んでいきましたが、さっと鳥が飛んでいくそのことを通して、ひそかに何かを教えてくる、ということが起きるようになるのです。この段階を過ぎるようになると、夢のお告げのようなことを体験するようになります。夢の中で起きることなのですが、夢でも深い眠りの中の夢ではありません。

パウロも夢うつつの中で第3の天を体験しました。そのようなことを、何気なしに流して過ごすなというのです。それを総合して、どんな方向の因縁を自分につなぐために現れるのかということを、科学的な面で分析しなさいというのです。

必ずその結果が現れます。ですから、皆さんが忘れることができない夢のお告げのようなものは、100 パーセント的中するようになります。そのような体験があるでしょう。

その段階が高くなれば、どのようなことが起ごるでしょうか。啓示とか指示とか、このようなことが起こります。啓示というものを、私達は分析しなければなりません。指示というものは、直接教えてくれるものですが、啓示は違います。ですから、問題が起こるのです。これは、必ず解釈をしなければなりません。何かを教えてくれるには、声で聞かせてくれたりもしますが、幻想でも見せてくれます。

良い春の日を迎えて、鹿が一対、小川のほとりで水を飲みながら、遠い山を眺める、このような幻想は、限りなく幸福な希望を象徴するのです。そのように、いろいろな現象が繰り広げられるのです。そのようなことは、偶然の事実ではありません。自分の心の畑を啓発するための、天の役事です。

啓示の段階を過ぎるようになれば、次は黙示の段階です。(注14)一日中霊界に入って体験をするとか、そういうものです。そのような世界にまでつながるのです。神様に対する、生活的な感情圏にまで到達できます。

皆さんがこのような体恤信仰をしなければ、偉大な天のみ旨の結果世界を、私達の生活の場、生活舞台に適用させることはできません。ですから、体験をもたない信仰者は、信じることができません。体恤信仰は高貴なので、啓発していかなければなりません。

皆さんがそのような体恤段階に入れば、皆さんの心が皆さんに命令するのです。誰かにこのように話をしようとするのに、言葉が話せないようにするのです。あるいは、自分が良い言葉でその人のために言わなければならないのに、しかる言葉ばかりが出てくるのです。このような現象が起こるのです。

このように理解できない現象が時々起こるために、これを調整するすべを知らなければなりません。過ったなら、狂人として扱われやすいために、それを調整するすべを知らなければなりません。
(76-130 ~ 135、1975.2.2)


5.あの世界への通路

死の瞬間に来世に行く通路は、全く透視できない神秘に包まれている。臨床的な死から生き返った人たちの擬死体験に関する書籍は、何らかの糸口を与えてくれるだろう。彼らは、何かのトンネルを通ってほかの世界に行くこと、光の存在に会うこと、温かさを感じること、愛を受けることなどを語っている。

この人たちは、文字どおりの意味で死んだのではないが、それにもかかわらず、死に至る道の最初の段階を体験したのである。その通路がどのように終わるのか、誰が分かるだろうか。

ある程度はっきりと知られていることは、死後にも何かが存続するということである。事実、ある死んだ人たちは、最初に自分が死んだことを悟れない。彼らは、継続して自ら意識をもち、自覚する力をもっている存在であることを経験するからである。

肉体的な死は、より高次的な存在の段階に移っていくことにすぎない。ちょうどさなぎから殻を脱いで蝶になるように、それは新しい体を着ることである。

平安な子宮の世界を旅立たなければならない胎児の出生に例え、文鮮明先生はそれを2番目の出生と呼ぶ。出生の前まで子宮が胎児を養育するが、子宮が破壊され、胎児が地上の人生のためにそこを旅立つように、死の前まで肉身は霊魂を養育するが、肉身の寿命が尽きるとき、霊界で生まれるために地上界を旅立つ。したがって、人生の三段階、すなわち子宮の水中世界、地上存在の空気世界、愛の大気を呼吸する霊界がある。

したがって、死は何か恐れるべきものではない。反対にそれは霊魂の誕生として記念されなければならない。核心問題は、果たして私達がその世界で平安に存在できるにふさわしい霊的品性をもった霊魂を準備したのかという点である。そこで重要なことは、ただ私達の愛する能力だけである。
①第2の誕生

―宗教経典―

この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを必ず着ることになります。この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを着るとき、次のように書かれている言葉が実現するのです。「死は勝利にのみ込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか。」
コリントの信徒への手紙一15.53 ~ 57(キリスト教)

自分の霊魂こそ真の自我であることを知る者は、死を自分の霊魂の肉体的な生まれ変わりと考える。ちょうど古い服を新しい服に着替えるように考える。
プージャパーダ・サルヴァールタシッディ77(ジャイナ教)

かれらはこの人生を、顔にくっついたいぼやたれこぶのように無用の邪魔ものと思っており、死を、吹き出ものやはれものがつぶれたぐらいにしか思っていない。
荘子6(道教)

なんじらは、なんじらの射出するものについて考えたか。それをつくったのはなんじらか、それともわれがその創造者であるか。われは、なんじらの間のある者に死を命じた。われは、なんじらのような他の者で取り替え、またはなんじらが知らぬ他のものに、なんじらをつくり変える。われは、とんざさせられぬ。なんじらは、確かに最初の創造を知っている、それでもなぜ留意しないか。
クルアーン56.58 ~ 62 (イスラーム)

生が姶まりではなく、死が終りではない。その実があって、それがどこに処るということにないのは宇(空間)である。長があって本末のないのは宙(時間)である。生があり、死があり、出があり入がある。出入しながら、その形を見ないのを天門という。荘子23(道教)
この世界が母親の子宮にいる子供の世界と異なる様に、彼方の世界はこの世界と異なるのである。神の面前に達するとき、魂はその不滅性に最も適った、そして天界の住居にふさわしい姿を装う。
ハバオラ落穂集81 (バハイ教)

白銀の糸は断たれ、黄金の鉢は砕ける。泉のほとりに壷は割れ、井戸車は砕けて落ちる。塵はこの大地に帰り、霊は与え主である神に帰る。
コヘレトの言葉12.6 ~ 7(キリスト教)

そこでかれ(その人、あるいはプルシャ)は、この完全な安静の状態(熟睡の状態)の中で楽しみ、歩きまわり、善と悪とを見ると、すぐに逆のすじみちを通って、もとの場所にむかって、その同じめざめた状態に走りもどるのである。
……
かれ(人)が衰弱の〔状態〕にいたる場合、〔かれは〕老齢、あるいは病気によって衰弱の〔状態〕にいたるのである。ちょうどマンゴーの実、あるいはウドゥンバラ(優曇華うどんげ)の実、あるいはピッパラ(イチジクに似た植物)の実がへたから取れてしまうように、身体に属するアートマンはこれらの肢体から離れて、逆のすじみちを通って、もとの場所にむかって、その同じ気息に走りもどるのである。

すなわち、ちょうどたくさんの荷物を積んだ車がきしりながら行くように、この身体に属するアートマンは、叡智に属するアートマンが上にのると、きしりながら行くのである。

この身体に属するアートマンが無力状態におちいり、あたかも意識不明におちいると、これらの気息(生体を維持する諸機能)はその人(そのように知っている人、すなわち、アートマンのことか?)のもとに集まってくる。かれは輝く活力の〔微細な〕要素をとりまとめてほかならぬ心臓に降りていく。

この視覚機能に属する人間(あるいはプルシャ)が反対の方向に向いてしまうと、〔人は〕形を識別しない者となる。〔視覚機能に属する人間またはプルシャはアートマンと〕一体となり、〔人びとは〕「かれは見えない」という。〔嗅覚機能に属する人間またはプルシャはアートマンと〕一体となり、〔人びとは〕「かれはにおいを感じない」という。〔味覚機能に属する人間またはプルシャはアートマンと〕一体となり、〔人びとは〕「かれは味を感じない」という。〔発声機能に属する人間またはプルシャはアートマンと〕一体となり、〔人びとは〕「かれはことばを話さない」という。〔聴覚機能に属する人間あるいはプルシ
ャはアートマンと〕一体となり、〔人びとは〕「かれは音を感じない」という。〔思考作用に属する人間あるいはプルシャアートマンと〕一体となり、〔人びとは〕「かれは考えない」という。〔触覚機能に属する人間あるいはプルシャはアートマンと〕一体となり、〔人びとは〕「かれは触れても感じない」という。〔認識作用に属する人間あるいはプルシャはアートマンと〕一体となり、〔人びとは〕「かれは認識しない」という。

かれのこの心臓の先端は輝く。その輝きによってこのア一トマンは眼から、あるいは頭から、あるいはそのほかの身体の部分から出てゆくのである。出てゆくそれ(アー卜マン)のあとから気息が出てゆく。出てゆく気息のあとからすべての気息(この場合は生体を維持する機能か?)が出てゆく。〔そして〕ほかならぬ意識あるものヘ降りてゆく。かれは知をもち、知識をもつものとなる。知と行為とは〔かれを〕うしろからつかまえているのである。

そして前生に関する記憶も〔うしろからつかまえているのである〕すなわち、ちょうどイモムシが草の葉先にいき、自分自身を縮めて〔他の葉に移ろうとする〕ように、この人間(あるいはプルシャ)は、この世の肉体を捨てて、〔肉体を〕無知の状態におもむかせ、自分自身を縮めて〔他の生存の状態に移るのである〕

すなわち、ちょうど刺繍をする女性が刺繍の部分をはずし取って、ほかのいっそう新しい、いっそう美しい形を仕上げるように、この人間(あるいはプルシャ)は、この世の肉体を捨てて、〔肉体を〕無知の状態におもむかせ、ほかの、いっそう新しい祖霊の姿、あるいはガンダルヴァの〔姿〕、あるいはブラフマンの〔姿〕、あるいはプラジャーパティの〔姿〕、あるいは神の〔姿〕、あ
るいはほかの存在(生物以外)の人間の〔姿〕を仕上げるのである。
ブリハッド・アーラニヤカ・ウパニシャッド4.3.34 ~ 4.4.4(ヒンドゥー教)


―み言選集―

自分も神様に似ようとし、そして自分が神様の息子、娘であるなら、神様も似させたいという観念をもつのは必然的です。ですから、自分は神様に似たいと思い、神様は自分を連れていきたいと思うのです。これを可能にし得る道を模索するでしょう。

それで人は、再び神様と似ることのできる体をまとって生まれなければなりません。そのように生まれる日を神様も待ち望むのであり、人間も待ち望むでしょう。そのような人として生まれる日が必要です。それが何ですか。死です。

では人間は、死を歓迎すべきでしょうか、歓迎してはいけませんか。歓迎すべきです。死ぬのに、何のために死ぬのかというときに、「神様の真の愛のために死ぬ」と言うべきです。ですから肉身を脱ぐのは、無限の神様の愛の活動圏に自分が同参するためであり、神権の愛の世界のためにそうするのです。
神様の愛の中に生まれることが死ぬことなのですが、人間世界では「ああ、死ぬ」と大騒ぎします。制限された愛の圏内から無制限の愛の圏内へ突入できる喜びを迎える瞬間が、死ぬ瞬間です。したがって、死ぬ瞬間は第2の出生の瞬間です。

そうだとすれば神様が皆さんの肉身が生まれた日を喜ぶでしょうか、第2の無限の拡大世界の愛のために活動する息子として生まれる、その時間を喜ぶでしょうか。なぜこのような話をするのでしょうか。皆さんが死の恐怖から解脱しなければ神様と関係を結ぶことができないからです。
(116-172、1982.1.1)

人は、蘇生、長成、完成時代を通過します。すなわち、腹中での水中時代、地球星の世界、天上の空中世界で生きるのです。言い換えれば、腹中時代を経て地上に生まれ、肉身をもって100 年ほど地の時代を経るようになり、最終的には飛んでいく空中時代、このように3時代を通過するようになるのです。
(297-257、1998.12.19)
腹中でへその緒で息をするのと同様に、空気のパイプである鼻の穴を準備して、出てくるときに取り替えて息をするのです。そして、今この世界ですべきこととは何でしょうか。生まれてからすべきことは、愛というものを体恤することです。

愛という空気を吸わなければなりません。お母さんから、お父さんから、愛の空気を吸わなければなりません。愛の空気を供給され、経ていかなければなりません。ある家庭の赤ん坊として生まれて、サインカーブのように、上がれば下がっていくのです。赤ん坊として生まれて成長して、年を取って死ねば分解されていくのです。赤ん坊として生まれて、赤ん坊に帰るのです。

そのようになるときは、どのようになるのでしょうか。第2の腹中世界をけってしまい、第3の愛の呼吸器官につながらなければなりません。父母の愛、兄弟の愛をけってしまい、大宇宙の神様の本体に和した愛の世界に入ります。


霊界は愛の空気です。愛の空気でいっぱいに満ちています。ですから、皆さんは、今この地上世界で愛の呼吸ができるパイプ装置をつけなければなりません。。それで霊界の体験が必要なのであり、霊的愛を感じてそれを呼吸することができる人になってこそ、死なないというのです。
(139-213 ~ 214. 1986.1.31)

皆さんが生まれる時、母親の腹中から出る時、どんなに大変だったかを覚えていますか。神様はなぜ子供を生む時、このように生むようにされたのでしょうか。ただ簡単に話をするように簡単に、おいしい食べ物を食べるように簡単に、香水の香りが漂うように簡単に、ただうれしくて口を開け「ははは」と子供を生めるようにすればどんなに良いでしょうか。なぜそのように生ませずに、汗を流して死ぬか生きるかという限界で生むようにしたのでしょうか。光り輝く愛を見るためにです。

皆さんが生まれるとき、どれほど大変だったでしょうか。生命の包みが胎ですが、そこにつながった綱をすべて破綻させ、蹴飛ばしてほうり投げ、断ち切って出てくるとき、どのようなものか考えてみてください。そのとき、「私は死ぬ。私は死ぬ。私はすっかり破壊されるのだなあ。私は死んだ」と思うのですが、それは不幸ではなく幸福です。不幸の境界線ではなく、幸福の出発だっ
たということが、生まれてみて分かります。

しかし、胎児が死ぬと思えば、おなかの中で永遠に生きようとするのと同じように、人々の中には、今の地上に永遠にいることができればよいと思うのです。死ぬまいと思うのです。これを片付けてもう一度揺れ動き、「ああ、私は死ぬ!」と思っていると、さっと飛び出してくるのです。

その次には、霊界、無限の世界に生まれます。時間的、空間的次元の世界を脱出してしまいます。無限の神様の力によって、私は端から端まで一瞬のうちに往来します。太陽の光よりも速く、何よりも速いのです。
(107-42 ~ 44、1980.1.20)

おへそについているへその緒は、そのままにしておかなければなりませんか。切ってしまわなければなりません。地球上で空気を呼吸して生きる肉身についている私達の霊人体は、お母さんの腹中の胎児のように、肉身を使って食べ、肉身が老いてしまえば、それを捨てて外に出ようとするのです。

赤ちゃんが成長して、お父さん、お母さんの愛の対象になるように、私達は肉身の悲鳴をあとにして新たに生まれ、霊的父である永遠の神様の相対として再び生まれなければならないというのが、原理原則です。

地上世界でも子供が生まれたのちに大きくなれば、お母さん、お父さんの友達になり得るのです。お母さんとお父さんの愛を共に分かち合うことのできる地上世界に生まれるからです。同じように私達は、霊的無限の世界に通じることができる親の代わりに、神様と愛を分かち合うことのできる霊界へ再び生まれなければならないのです。
(297-258 ~ 259、1998.12.19)
霊界は、どんな所でしょうか。私達が霊界に入れば、頭の上にある気孔と細胞で呼吸するようになります。(注15)霊界での空気は、地上の空気ではなく愛です。呼吸を通じて愛の要素を受けるのです。

私達が地上で生きるときも、御飯だけ食べてはいけません。御飯だけ食べて、水だけ飲んで生きるというのは、御飯袋と水袋を満たすだけのことです。結局、そうして死んでいくということです。

地上で生きる間の私達の姿は、第2の私達の存在です。私達がこの期間にすべきことは、新しい愛の人格を形成することです。この地上で私達が最も必要とするものは愛です。孤児とは何でしょうか。お母さん、お父さんの愛を受けられない子供たちをどうして孤児と呼びますか。霊界と永遠に連結させることのできる愛がないからです。愛がなければ孤独なのです。

それで独身で生きる人をかわいそうだというのです。もう一度お話ししますが、私達が死ぬということは、第2の呼吸をしていた肉体に連結されたこの器官を壊してしまって、愛の要素を受け継ぐことです。ですから私達は、いずれにせよ肉身を破って出ていかなければなりません。愛は見えないものです。父母の愛、夫婦の愛、兄弟の愛、子女の愛、このすべての愛を中心として私達
の内的な構造が成長するのです。

それで私達が神様の法則のとおりに生きるときにのみ、赤ちゃんがお母さんの腹中で正常に育つのと同じように、私達がこの地でもよく成長できるのです。ですから、むやみに生きてはならないのです。
(297-260、1998.12.19)

とんぼも同じです。初めは幼虫になって水の中で泳いで暮らし、地上に上がってきて、しばしはい回り、その次は殻を脱いでぱたぱた飛び回り、陸地では食べるようになるとは想像もしなかった虫を捕まえて食べます。天下を自分の舞台にして飛び回るのです。

昆虫類の中には、三段階の世界を経るものが多いのです。それで昆虫には羽があります。水と陸地と空中の三時代を過ごしながら羽をもつようになります。万物の霊長という私達人間に羽がありますか。人間には次元の高い翼があるのです。死は第2の出生の恵みの関門です。
(297-261 ~ 262、1998.12.19)

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