―宗教経典―
アベルは羊を飼う者となり、カインは土を耕す者となった。時を経て、カインは土の実りを主のもとに献げ物として持って来た。アベルは羊の群れの中から肥えた初子を持って来た。主はアベルとその献げ物に目を留められたが、カインとその献げ物には目を留められなかった。
カインは激しく怒って顔を伏せた。主はカインに言われた。「どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのか。もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか。正しくないなら、罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める。お前はそれを支配せねばならない。」
カインが弟アベルに言葉をかけ、二人が野原に着いたとき、カインは弟アベルを襲って殺した。主はカインに言われた。「お前の弟アベルは、どこにいるのか。」カインは答えた。「知りません。私は弟の番人でしょうか。」主は言われた。「何ということをしたのか。お前の弟の血が土の中から私に向かって叫んでいる。今、お前は呪われる者となった。お前が流した弟の血を、口を開けて飲み込んだ土よりもなお、呪われる。土を耕しても、土はもはやお前のために作物を産み出すことはない。お前は地上をさまよい、さすらう者となる。」
カインは主に言った。「私の罪は重すぎて負いきれません。今日、あなたが私をこの土地から追放なさり、私が御顔から隠されて、地上をさまよい、さすらう者となってしまえば、私に出会う者はだれであれ、私を殺すでし
ょう。」
主はカインに言われた。「いや、それゆえカインを殺す者は、だれであれ七倍の復讐を受けるであろう。」主はカインに出会う者がだれも彼を撃つことのないように、カインにしるしを付けられた。カインは主の前を去り、エデンの東、ノド(さすらい)の地に住んだ。
創世記4.2 ~ 16(キリスト教)
アダムの二子の物語の真実をかれらに語れ。かれら両人が犠牲をささげたとき、ひとりは受け入れられなかった、それで「わしはきっとおまえを殺すであろう」と言った。
かれは答えて言った「神は、ただ主を畏れる者からのみ、受け入れたもう」。「たとえあなたが、私を殺すためにその手を伸べても、私はあなたを殺すために、手を伸べないであろう。私はよろず世の主、神を恐れまつる」。
「まことに私は、あなたが私の先に犯した罪と、あなたの殺人の罪とを負って、火獄のともがらになることを望む、これは不義を行なった者の応報である」。しかしかれの利己的な心は、その兄弟を殺すのを望ましいことにし、ついにかれを殺害して、失敗者のひとりとなった。
そのとき神は、一羽の大ガラスをつかわして地を掘らせたまい、その兄弟の死体をいかにおおうべきかをかれに示したもうた。かれは言った「ああ情けない、兄弟の死体を葬るのに、わしはこのヵラスほどのことさえできないのか」と。こうしてかれは後悔するひとりとなった。
クルアーン5.27 ~ 31(イスラーム)
信仰によって、アベルはカインより優れたいけにえを神に献げ、その信仰によって、正しい者であると証明されました。神が彼の献げ物を認められたからです。アベルは死にましたが、信仰によってまだ語っています。
ヘブライ人への手紙11.4(キリスト教)
アダムとエバが子女を生んだとき、その最初の実は蛇の息子だった。エバが二人と関係したために、どちらからも妊娠し、二人の子女を生んだ。二人の息子は、どちらもそれぞれの父から生まれたために、彼らの霊は分かれた。
一人の子はこちらに、もう一人は反対側に。性稟もやはり反対だった。カインの側には常に悪の部類が共にあり、アベルの側には慈悲深い者たちが多かったが、すべてが義なる者たちではなかった。
良いぶどう酒と悪いぶどう酒が混ざっているのと同じだった。ゆえに、三人目が出てきたのちに、初めて完全な人類が出てきたのである。三人目は、すべての義人たちの最初の先祖になった。
カインはアベルと敵対し、彼を殺した。これは、カインが世に死をもたらすサマエルの天性を相続したからである。カインは、女性問題でアベルをねたんだ。創世記4章8節に、「二人が野原に着いたとき、カインは弟アベルを襲って殺した」と出ている。ここで「二人」とは女性を象徴する。本文によれば、カインが自分の祭物が受け入れられずに怒ったとあるが、これは副次的な理由だった。(注5)
ゾハール1.36b (ユダヤ教)
―み言選集―
アダム家庭で始まったカインとアベルの闘争歴史は、人類歴史をそのまま戦争と葛藤の歴史にしてしまいました。小さくは人間個々人の心と体の葛藤から、大きくは国家と国家が、さらには全世界が物本主義と神本主義に分かれ、対立、闘争をしてきました。
平和神経、平和メッセージ1.20、2005.9.12
本来人間は、神様の主管のみを受けるようになっています。神様のみが人間の主人でなければなりません。ところが、人間とサタンとが不倫なる関係を結ぶことにより、人間に対してサタンが不倫なる主人となってしまったのです。
愛は統制力、支配力を伴うと原理が語っているように、たとえそれが不倫の愛であっても、サタンは、人間に対してその所有権を主張するだけの力、あるいは権威や権利をもつのです。
ところが、創造原理によれば、あくまでも神様が本来の主人ですから、結局、この両者は共に人間に対して、その所有を主張することができることになります。しかし、だからといってアダムを二つに切断して、神様とサタンの間で分け合うことは、物理的に不可能です。
そこで神様は、原理的観点から、人間を二つに分立するために、あるルールを定められたのです。すなわち内的存在としての神様と、外的存在としての被造物という立場から、内外の関係と、主体、対象の関係によって、神様はその分立のルールを定められました。すなわち神様は、堕落したアダムとエバを、彼らによって生まれた二人の子供を通して、分立されたのです。
カインはサタンを表示する側であり、アベルは罪なきアダムの立場を表示する側です。次男(アベル)を神様は、内的立場に立たせたのであり、これは、悪の要素のより少ない側、言い換えるならば、アダムとエバの間に結ばれた第2の愛を表示しているのです。
アベルは、第2の愛の実ですが、一方のカインは、第1の愛の実であって、その愛の中にあるサタンを表示しているのです。つまり、次男アベルのほうが、エバと天使長との関係よりも、エバとアダムとの関係により近いので神様の側に取られたわけです。
さて、本来の命令系統は、神様から始まり、アダムヘ、アダムから天使長へという順序だったので、この場合には、その関係は神様からアベルへ、アベルからカインヘという順序にならなければなりません。これが復帰された位置関係なのです。
そこで神様は、まず、この公式を復帰することにより、失われた原理を取り戻していくのです。堕落行為によって、人類の血統は交差しました。言い換えれば、サタンの血が人類の血統を占領しているのです。
それゆえに、これらの復帰は、根源までさかのぼって成されなければならず、そのために、次男アベルが長男の長子権を復帰しなければならなかったのです。神様はこれらの二人の兄弟を用いることによって、長男の長子権を復帰する摂理を行おうとされたのです。
すなわち、カインはアベルの位置に下がらなければならず、アベルはカインの位置、すなわち長男の位置に上がらなければならなかったのです。
ところが、カインはアベルを殺害してしまいました。この行為は、アダムとエバの時の堕落行為の反復です。すなわち、復帰されるどころか、再び天使がアダムを主管した立場に立ってしまったのです。
(55-109 ~ 110、1972.4.1)
アダムはサタンと血縁関係を結んだので、神とも対応でき、また、サタンとも対応することができる中間位置におかれるようになった。したがって、このような中間位置におかれた堕落人間を天の側に分立して、「メシヤのための基台」を造成するためには、堕落人間自身が何らかの蕩減条件を立てなければならない。……
神はこのような非原理的な摂理をなさることはできないので、善悪二つの性品の母体となったアダムを、善性品的な存在と悪性品的な存在との二つに分立する摂理をなさらなければならなかったのである。
このような目的のために、神はアダムの二人の子を、各々善悪二つの表示体として分立されたのち、彼らに、神かサタンかのどちらか一方だけが各々対応することのできる、すなわち、一人の主人とのみ相対する、原理的な立場に立ててから、各自供え物をささげるように仕向けられたのである。
カインとアベルは、どちらもエバの不倫の愛の実である。したがって、エバを中心として結んだ二つの型の不倫な愛の行為を条件として、それぞれの立場を二個体に分けもたすべくカインとアベルを、各々異なる二つの表示的立場に立てるよりほかに摂理のしようがなかったのである。
すなわち、カインは愛の初めの実であるので、その最初のつまずきであった天使長との愛による堕落行為を表徴する悪の表示体として、サタンと相対する立場に立てられたのであり、アベルは愛の二番目の実であるがゆえに、その二番目の過ちであったアダムとの愛による堕落行為を表徴する善の表示体として、神と対応することができる立場に立てられたのである。
神が創造された原理の世界を、サタンが先に占有したので、神に先立って、サタンが先に非原理的な立場からその原理型の世界をつくっていくようになった。そうして、元来、神は長子を立てて、長子にその嗣業を継承させようとなさった原理的な基準があるので、サタンも、二番目のものよりも、最初のものに対する未練が一層大きかった。
また事実サタンは、そのとき、既に被造世界を占有する立場にあったので、未練の一層大きかった長子カインを先に取ろうとした。したがって、神はサタンが未練をもって対応するカインよりも、アベルと対応することを選び給うたのである。
そうして、神はアベルの供え物は受けられ、カインの供え物は受けられなかったが、その理由はどこにあったのだろうか。アベルは神が取ることのできる相対的な立場で、信仰によって神のみ意にかなうように供え物をささげたから(ヘブル11・4)神はそれを受けられた(創4・4)。
このようにして、アダムの家庭が立てるべき「信仰基台」がつくられるようになったのである。これは、たとえ堕落人間であっても、神が取ることのできる何らかの条件さえ成立すれば、神はそれを受け入れられるということを教示なさるためでもあった。
そして、神がカインの供え物を受けられなかったのは、カインが憎いからではなかったのである。ただ、カインはサタンが取ることのでぎる相対的な立場に立てられていたので、神がその供え物を取ることができるような何らかの条件をカイン自身が立てない限りは、神はそれを取ることができなかったからである。
神はこれによって、サタンと相対する立場にいる人間が、神の側に復帰するには、必ずその人自身が何らかの蕩減条件を立てなければならないことを教示されたのである。……
天使長が、神にもっと近かったアダムを仲保に立て、彼を通じて神の愛を受けようとはせず、かえってアダムの位置を奪おうとして堕落してしまったので、「自己の位置を離れる堕落性」が生じた。ゆえに、この堕落性を脱ぐためには、天使長の立場にいるカインがアダムの立場にいるアベルを仲保として、彼を通じて神の愛を受ける立場をとることにより、自分の位置を守るべきであったのである。
天使長は自分を主管すべくつくられた人間、すなわちエバとアダムを逆に主管して堕落したので、「主管性を転倒する堕落性」が生じた。したがって、人間がこの堕落性を脱ぐためには、天使長の立場にいるカインがアダムの立場にいるアベルに従順に屈伏して、彼の主管を受ける立場に立つことによって、主管性を正しく立てるべきであったのである。
善悪の果を取って食べるなという善のみ言を、神はアダムに伝え、アダムはこれをエバに伝え、エバは天使長に伝えて、善を繁殖すべきであった。しかし、これとは反対に、天使長は取って食べてもよいという不義の言葉をエバに伝え、エバはそれをアダムに伝えて堕落したので、「罪を繁殖する堕落性」が生じた。
ゆえにこの堕落性を脱ぐためには、天使長の立場にいるカインが、自分よりも神の前に近く立っているアベルの相対となる立場をとり、アベルから善のみ言を伝え受けて、善を繁殖する立場に立つべきであったのである。……
人間が常に立派な指導者や親友を探し求めようとするのは、結果的に見るならば、より天の側に近いアベル型の存在を求めて彼と一体化し、天の側に近く立とうとする天心から起こる行為である。
また、謙遜と柔和が、キリスト教信仰の綱領となっているのは、日常生活の中で、自分も知らずにアベル型の人物に会って、彼を通じて天の前に立つことができる位置を確保するためである。個人から家庭、社会、民族、国家、世界に至るまで、そこには必ず、カインとアベルの二つの型の存在がある。それゆえに、このようなすべてのものを、創造本然の立場に復帰するためには、必ずカイン型の存在がアベル型の存在に従順に屈伏しなければならないのである。
イエスは、全人類がその前に従順に屈伏しなければならないアベル的な存在として、この世に来られたお方である。したがって、彼によらなくては、天国に入る者がないのである(ヨハネ14・6)。しかし、カインがアベルを殺害することによって、天使長が人間を堕落せしめた堕落性本性を反復するようになり、アダムの家庭が立てるべきであった「実体基台」は立てられなかった。したがって、アダムの家庭を中心とする復帰摂理は成し遂げられなかったのである。
原理講論、復帰基台摂理時代1-1 ~ 2
カインとアベルが祭物を捧げたのち、アベルの祭物だけを神様が受けられたことを知ったカインが、アベルを憎み、殺害してしまいましたが、ここには、カインとアベルが祭物を捧げるために準備するときから、カインにアベルを憎む心があったことを、皆さんは知らなければなりません。
カインが、神様が自分の祭物を受けないので、瞬間的にアベルに対する憎しみが生じて彼を殺害し
たのではなく、そのことにぶつかる前から、アベルが憎くて葬り去りたいという思いがカインにあったというのです。
(3-205、1957.11.1)
皆さんは、カインとアベルが一緒に神様に祭物を捧げたとき、アベルの祭物を受けられた神様の立場と、カインの祭物を受けられなかった神様の立場が、互いに異なるものだと思っていますが、そうではなかったことを知らなければなりません。
カインに、天の立場を身代わりしていたアベルを通そうという心が少してもあったならば、神様は、そのカインの祭物を受けられたでしょう。神様は、時間的な差はあったとしても、公平な立場で彼らに接しようとされたのです。
(3-205、1957.11.1)
カインとアベルが祭祀を分かれて捧げたのですが、アベルの祭祀を受けたことに対して、カインが私も神様に紹介してくださいと、完全に絶対信仰、絶対愛、絶対服従する心で一つになってこそ、受け入れられるようになっているのです。
(378-206 ~ 207、2002.5.12)
神様がアベルを立てられた理由は、カインを救援するところにあります。ですから、神様から受けた愛をカインに丸ごと与えると同時に、自分の愛までも加えて与えなければなりません。これが本来のアベルの立場です。
(18-277、1967.6.12)
アダム家庭において、実体基台を勝利するためにカインとアベルが一つにならなければならないという摂理をされる時、神様がアベルの祭物だけを受けるようになったのですが、これに対してアベルが驕慢な心をもつようになったので、サタンがそれを讒訴してカインに血気を起こすようにさせ、理性を失うようにして、弟のアベルを殺書するように役事しました。
(374-12 ~ 13、2002.4.4)
人間は堕落によって、心と体が統一調和の基準を失ってしまい、葛藤しながら自己矛盾の中で生きてきました。それだけでなく、個人の中で生じる心と体の葛藤と闘争は、家庭、社会、国家と世界に拡大されてきました。
兄のカインが弟のアベルを殺害する犯罪も、ここに由来しています。歴史始まって以来、この地球上で起こったあらゆる対決と戦争は、本質的に、より悪なるカイン側とより善なるアベル側との間の戦いでした。
(299-105、1999.2.6)
カインとアベルが一つにならずに分かれてはいけません。一方は正しいほうであり、一方は悪いほうです。ですから誰でも私の神様であると同時に、あなたの神様であり、私を愛するだけでなく、あなたを愛する神様であるという信仰の立場で、お互いにアベル的な存在を求めて侍り、カイン的な立場を避けて最大の努力をしなければいけません。
(3-207 ~ 208、195711.1)
アダム家庭でカインがアベルを殺害するのを見つめるとき、神様がどれほど痛哭されたでしょうか。それが世界的に起きるのですが、どうするのですか。本来は、兄が弟を父の代わりに愛さなければならないのに、これはどういうことかというのです。
(406-26、2003.3.2)
アダム家庭でカインがアベルを殺害するとき、神様の心はどうだったでしょうか。「しまった、大変なことになった! そのことがなければどれほどよかったか!」と思われたのです。アダムとエバもどれほどあぜんとしたでしょうか。願っているものがなくなったのです。そのような神様が終わりの日に、兄弟、兄と弟が争うこの局面で、一方は天国に、一方は地獄に行くにおいて、刑場に出て死ぬことを願う神様ではなかったのです。息子、娘が刑場に出て死刑を受けることを願う父母はいません。自分たちが責任をとることができるのであれば、何でもするという心を抱かれた神様です。
(295-63、1998.8.17)
3.悪魔とその活動
すべての宗教の経典は、悪魔の存在とその勢力に対して言及している。悪魔の頭は様々な名前で知られている。サタン、ルーシェル、イブリース、マラ、サマエル、ベルゼブル、アングラマイニュなどがそれである。
その中の一部は、人間の堕落と悪の根源で言及した。悪魔は、人間の心が邪悪なことをするよう
引っ張るなど、絶えず活動している。理性論者たちは悪魔の実在を受け入れ難いかもしれないが、20 世紀の歴史とそれによる恐怖を見てみれば、互いに悪の影響を及ぼす人間の能力は理性を超える。
教皇パウロ6世は、悪魔に対して次のように語った。「私達は、暗く不安にさせる霊が実在することと、それがいまだ校滑に背信的な活動をしていることを知っている。それは、それが人類歴史に過ち、不幸をもたらす見えない敵であり、私達の中で、感覚、想像力、情欲、ユートピア的論理、あるいは人生の過程で交わす無秩序な社会的接触を通して活動している」。(注6)
悪魔のわなは多様だ。経典の教えによれば、一人が小さな悪を行おうとする欲望をもったとき、悪魔は彼に対して訴えかけ、彼がもっと大きな過ちを犯すよう影響を及ぼすことができる。逆に言えば、宗教の道に入った人は、特に信仰で大きな進展をなそうとするとき、悪魔の誘惑を経験する。
一部の宗教(主にゾロアスター教)で、神様と悪魔は永遠の敵だが、悪魔の力を認める信仰が二元論を意味するのではない。神様の創造の善を教える一神教は、悪魔は結果的存在であり、神様の僕という本来の位置から離れて神様の怨讐となった天使だと教える。
文鮮明先生は、天使ルーシェルの堕落は人間の堕落とともに成されたのであり、その時、ルーシェルは人間に対する主管を主張する強力な悪魔であるサタンになったと教える。
次の章句は、悪魔の性格と様々な誘惑、そして、人間を捕らえるために、ルーシェルが使った戦略に対して説明している。サタンを克服する鍵は、利己心、驕慢、貪欲、官能的快楽の追求など、サタンのあらゆる性向を私達自身が浄化することであり、神様と永遠性を主軸とした人生を営むことである。
①天使の堕落
―宗教経典―
この巨大な竜、年を経た蛇、悪魔とかサタンとか呼ばれるもの、全人類を惑わす者は、投げ落とされた。地上に投げ落とされたのである。その使いたちも、もろともに投げ落とされた。
ヨハネの黙示録12.9 (キリスト教)
ああ、お前は天から落ちた、明けの明星、曙の子よ。お前は地に投げ落とされた、もろもろの国を倒した者よ。かつて、お前は心に思った。
「私は天に上り、王座を神の星よりも高く据え、神々の集う北の果ての山に座し、雲の頂に登って、いと高き者のようになろう」と。しかし、お前は陰府に落とされた、墓穴の底に。
イザヤ書14.12 ~ 15(キリスト教)
われが天使たちに「アダムに叩頭(こうとう)せよ」と、告げたときを思え、そのときイブリースのほかは叩頭した。かれは、「私はあなたが、どろでつくられた者に、どうして叩頭しましょう」と言った。
かれはまた「あなたはお考えになりませんか、あなたが私よりも重視したもうのは、この者であります。もし復活の日まで、私に猶予を賜わるなら、わずかの者を除き、かれの子孫をきっと私の配下にいたしましょう」と言った。
かれは仰せられた「去れ、もしかれらのうち、なんじに従う者あれば、まことに地獄こそ、なんじらへの応報、十分な応報である」。「なんじの魅惑的な声で、かれらのうちの能うかぎりの者を動揺させ、なんじの騎兵や歩兵でかれらを攻撃せよ。財宝と子女をかれらと分けて、約束を結べ。しかし悪魔の約束は、ただ欺くにすぎない」。
クルアーン17.61 ~ 64(イスラーム)
主なる神である私は、モーセに語って言った。「あなたが私の独り子の名によって命じたあのサタンは、初めからいた者である。彼は私の前に来て言った。『御覧ください。私がここにいます。私をお遣わしください。私はあなたの子となりましょう。そして、私は全人類を贖って、一人も失われないようにしましょう。必ず私はそうします。ですから、私にあなたの誉れを与えてください。』
しかし見よ、初めから私が愛し選んだ者である私の愛する子は、私に、『父よ、あなたの御心が行われ、栄光はとこしえにあなたのものでありますように』と言った。
あのサタンは私に背いて、主なる神である私が与えた、人の選択の自由を損なおうとしたので、また私の力を自分に与えるように求めたので、私は独り子の力によって彼を投げ落とさせた。
そして、彼はサタン、すなわち、あらゆる偽りの父である悪魔となって、人々を欺き、惑わし、またまことに、私の声を聴こうとしないすべての者を自分の意のままにとりこにする者となった。……」(注7)
高価なる真珠、モーセ書4.1 ~ 4(末日聖徒イエス・キリスト教会)
一方、自分の領分を守らないで、その住まいを見捨ててしまった天使たちを、大いなる日の裁きのために、永遠の鎖で縛り、暗闇の中に閉じ込められました。ソドムやゴモラ、またその周辺の町は、この天使たちと同じく、みだらな行いにふけり、不自然な肉の欲の満足を追い求めたので、永遠の火の刑罰を受け、見せしめにされています。
ユダの手紙6 ~ 7(キリスト教)
―み言選集―
神様は主人であり、私達人間はその方の息子、娘です。天使は主人の僕になり、その息子、娘の僕にもなります。天使の中でも、神様に最も近くアダムとエバと一番近い存在として、彼らの事情を知ることができる存在は天使長でした。
神様は、この世の中を創造する過程で、アダムとエバを創造する前には天使長と相談しながら、使いをさせながら創造の偉業を成してきました。したがって、天使長とは何と同じかというと、お金持ちの家の僕と同じです。ですから、その主人の息子、娘、分別のない息子、娘に対しても僕の立場だということを知らなければなりません。
(53-331、1972.3.6)
神は天使世界を創造されてから(創1・26)ルーシェル(明けの明星という意、イザヤ14・12)に天使長の位を与えられた。それゆえに、あたかもアブラハムがイスラエルの祝福の基となったように、ルーシェルは天使世界の愛の基となり、神の愛を独占するかのような位置にいたのであった。しかし、神がその子女として人間を創造されたのちは、僕として創造されたルーシェルよりも、彼らをより一層愛されたのである。
事実上、ルーシェルは、人間が創造される以前においても、以後においても、少しも変わりのない愛を神から受けていたのであるが、神が自分よりもアダムとエバをより一層愛されるのを見たとき、愛に対する一種の減少感を感ずるようになったのである。
これは、ちょうど、朝から働いた労働者が、自分が働いただけに相当する労賃を全部受けとったにもかかわらず、遅く来て少し働いた労働者も自分と同じ労賃を受けとるのを見て、自分が受けた労賃に対する減少感を感じたという聖書の例え話(マタイ20・1~ 15)と同じ立場であったということができる。
このような立場で愛の減少感を感ずるようになったルーシェルは、自分が天使世界において占めていた愛の位置と同一の位置を、人間世界に対してもそのまま保ちたいというところから、エバを誘惑するようになったのである。これがすなわち、霊的堕落の動機であった。
原理講論、堕落論2.2.1
創世記3章14 節を見れば、神は堕落した天使を呪い給い、「おまえは腹で、這いあるき、一生、ちりを食べるであろう」と言われた。足で歩くことができず腹で這うということは、天使が創造本然の活動をすることができず、悲惨な状態になるということを意味するのであり、ちりを食うということは、天より追いだされることによって(イザヤ14・12、黙12・9)、神からの命の要素を受けることができず、罪悪の世界に陥って、悪の要素を受けながら生きていくということを意味するのである。
原理講論、堕落論1.4
②悪魔の行跡
―宗教経典―
私は、悪魔たちが下るのが、だれの上であるかおまえたちに告げようか。かれらは、あらゆる中傷者と罪のある者の上に下る、(悪魔の語に)耳を貸す者、かれらの多くは虚言者である。
クルアーン26.221 ~ 223 (イスラーム)
世の中の何ものに執著しても、それによって悪魔が人につきまとうに至る。(注8)
スッタニパータ1103 (仏教)
汝の第一の軍隊は欲望であり、第二の軍隊は嫌悪であり、第三の軍隊は飢渇であり、第四の軍隊は妄執といわれる。汝の第五の軍隊はものうさ、睡眠であり、第六の軍隊は恐怖といわれる。汝の第七の軍隊は疑であり、汝の第八の軍隊はみせかけと強情とである。誤って得られた利得と名声と尊敬と名誉と、また自己をほめたたえて他人を軽蔑することである。
ナムチよ、これらは汝の軍勢である。黒き魔(kanha)の攻撃軍である。勇者でなければ、かれにうち勝つことができない。(勇者は)うち勝って楽しみを得る。
スッタニパータ436 ~ 439 (仏教)
私達の戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。
エぺソの信徒への手紙6.12 (キリスト教)
「邪師は聖歌を破壊する(彼は邪説をもって生の意思を破壊する。彼こそは資産を阻むもの)ウォフ・マナフのくだす吉祥なる授かり分を阻むもの。」わたくしの心中のこのことばを、マズダーよ、アシャと御身たちに、わたくしは訴える次第です。
アヴェスター・ヤスナ32.9 (ゾロアスター教)
なんじ以前にわれがつかわした使者や予言者は、かれが望みをもったとき、悪魔がその望みにむなしい示唆をしないことはなかった。だが神は、悪魔の示唆したものを消したまい、やがて神は、しるしを確証したもうた。まことに神は、全知者・英明者であられる。これはかれが悪魔に示唆させて、心に病のある者、ならびに心のかたくなな者に対する、一つの試みとされるためである。
クルアーン22.52 ~ 53(イスラーム)
神の使徒が言った。「あなたたちの中で、精霊(悪鬼)がつきまとわない者は誰もいない」。これに信徒の仲間たちが尋ねた。「あなたも同じですか」。使徒が答えた。「そうだ。しかし、神が精霊に対抗して私を保護してくださるため、私は精霊の手から安全だ」。
ムスリム・ハディース(イスラーム)
罪を犯す者は悪魔に属します。悪魔は初めから罪を犯しているからです。悪魔の働きを滅ぼすためにこそ、神の子が現れたのです。神から生まれた人は皆、罪を犯しません。神の種がこの人の内にいつもあるからです。この人は神から生まれたので、罪を犯すことができません。神の子たちと悪魔の子たちの区別は明らかです。正しい生活をしない者は皆、神に属していません。自分の兄弟を愛さない者も同様です。
ヨハネの手紙3.8 ~ 10(キリスト教)
(イエスは言われた。)「私の言っていることが、なぜ分からないのか。それは、私の言葉を聞くことができないからだ。あなたたちは、悪魔である父から出た者であって、その父の欲望を満たしたいと思っている。
悪魔は最初から人殺しであって、真理をよりどころとしていない。彼の内には真理がないからだ。悪魔が偽りを言うときは、その本性から言っている。自分が偽り者であり、その父だからである。しかし、私が真理を語るから、あなたたち
は私を信じない。」
ヨハネによる福音書8.43 ~ 45(キリスト教)
憂いの国に行かんとするものはわれを潜れ。
永劫の呵責に遭わんとするものは
われをくぐれ。
破滅の人に伍せんとするものは
われをくぐれ。
正義は高き主を動かし、
ただ無窮あり、われは無窮に続くものなり、
われを過ぎんとするものは
一切の望を捨てよ。
ダンテ・アリギエーリ神曲1.3 (キリスト教)
一み言選集―
堕落とは何でしょうか。サタンに支配されたことです。それゆえ、今日アダムとエバを中心として生まれたすべての子孫は、サタンの支配圏から逃れることができないまま、歴史が発展してきたのです。
(168-300、1987.10.1)
悪魔は「私のために生きろ」と言います。歴史的にあらゆる独裁者たちは、「私のために生きろ」と言いました。
(222-139、1991.10.28)
私達は、この悪の世の中でどのように善悪を分別しながら真理を求めていかなければならないのでしょうか。自分を中心とする心を捨て、常に低い位置に下りていかなければなりません。聖書にも、「自分を低くする者は高くされるであろう」とあります。
人間の本質は霊的なものです。ですから、あの国に行けば、そのような人間の本質が人のために生きるようになっていることを、より一層実感するようになるのです。ところが、人間はどうして自分のために生きようとする心で万事に臨んでいるのですか。これはすべての人間たちが天倫に背いた天使、言い換えれば、サタンと血統的な因縁をもっているからです。
(2-138、1957.3.17)
サタンが讒訴して関係を結ぶことができる条件が罪だと言いましたが、結局、創造原則、本来の宇宙の根本原則に反対となる立場に立ったのです。人間は対象の立場で神様を主体としているので、神様だけのために生きるところで存在の価値があり、存在の起源があります。
ところが、悪の出発は、サタン自身もそうであり、エバ自身も、「私が主体になってみよう。私が中心になろう」と考えながら、自己愛から始まったのです。これが悪です。神様の創造原則は対象のために存在するというものですが、対象を否定し、「私のために存在せよ」と言ったのです。
皆さんは、善悪の起源をはっきりと知らなければなりません。悪の人は「私のために生きなさい。私のところに来てみな屈服しなさい」と言います。神様もこれをたたきつぶさなければならず、イエス様もこれをたたきつぶさなければなりません。ですから、「驕慢になってはいけない。自分の利益を求めてはいけない。人のために犠牲になりなさい。奉仕しなさい」と言ったのです。
(69-84 ~ 85、1973.10.20)
堕落とは、人間始祖が神様の縦的な真の愛のもとで、横的に真の愛を完結することができず、天使長の侵犯を受け、偽りの横的愛を成したことです。この堕落の結果として、神様は愛する子女を失ってしまうようになったのであり、人間は心と体が矛盾し、葛藤を経る故障した命として生まれざるを得なくなったのであり、悪魔は横的愛の条件にかこつけて、個人かち世界に至るまで人間を不当に管掌してきています。
(198-58、1990.2.1)
ヨハネによる福音書第8章44 節を見れば、「あなたがたは自分の父、すなわち、悪魔から出てきた者」とイエス様が指摘しました。それは何の結果としてそのようになったのでしょうか。堕落の結果としてそのようになったのです。堕落によってサタンがエバを騙し、エバはアダムを騙し、互いに騙す悲劇の歴史が出発したことを知らなければなりません。
(73-202 ~ 203、1974.9.18)
エバが天使長と一つになって堕落することによって、天使長は悪魔サタンになったのであり、サタンの血筋を受け継ぐようになったのです。エバを中心として見るとき、本来、生まれるべきアダムとエバの息子たちは、長子も神様の息子であり、次子も神様の息子になるべきでしたが、堕落することによって、エバの一つの体を中心としてサタンに引っ張られていってしまいました。
本来の創造原理の中で、愛を中心として見るとき、愛は所有物の確定を決定するようになっています。愛の因縁を結べば、必ずその愛を中心とする主体と対象は互いの所有権が決定するようになっているのです。このような原理的基準を中心として見るとき、エバが堕落したのは何ですか。天使長の世界を中心として新しい愛の因縁を結ぶ所有権の決定をしたということです。
(110-216、1980.11.18)
人間は堕落することによって神の宮となることができず、サタンが住む家となり、サタンと一体化したために、神性を帯びることができず堕落性を帯びるようになった。
このように、堕落性をもった人間たちが悪の子女を繁殖して、悪の家庭と悪の社会、そして悪の世界をつくったのであるが、これがすなわち、堕落人間たちが今まで住んできた地上地獄だったのである。
地獄の人間たちは、神との縦的な関係が切れてしまったので、人間と人間との横的なつながりもつくることができず、したがって、隣人の苦痛を自分のものとして体恤することができないために、ついには、隣人を害するような行為をほしいままに行うようになってしまったのである。人間は地上地獄に住んでいるので、肉身を脱ぎ捨てたのちにも、そのまま天上地獄に行くようになる。
このようにして、人間は地上、天上共に神主権の世界をつくることができず、サタン主権の世界をつくるようになったのである。サタンを「この世の君」(ヨハネ12・31)、あるいは「この世の神」(コリントⅡ 4・.4)と呼ぶ理由は実にここにあるのである。
原理講論、人類歴史の終末論1.2
私達の主人でいらっしゃるお父様は、主人になることができず、あなたの怨讐であるサタンの血統を受け継ぎ、サタンが主管する暗黒圏内に私達を引きずり下ろしてきたという事実を考えるとき、どれほど憤懣やるかたない事実かをもう一度私達が回顧しながら、この地球上から、大勢の霊人たちがとどまる霊界に至るまで、億千万世の怨讐となったサタンを追放するのがお父様の願いであられ、真の人類の願いだったことを、この時間、私達が肝に銘じなければなりまサん。
お父様、サタンの権威と権勢の基盤がどれほど残っているかを生活の中で感じることができない私達でございます。一時一時を送りながら、一日一日を過ごしながらも、サタンの権勢と権限が私達の生活圏内にどれほど浸透しているかを、今までも感じることができなかった私達の信仰生活だったことを、お父様、思うのでございます。
(19-184 ~ 185、1968.1.7)
③告発するサタン
―宗教経典―
堕落後、人は数多い群れの悪霊と懲罰の使者たちに引かれていった。その前でアダムは、恐怖で体が縮み上がった。ソロモンは、神秘な知恵をもった人だった。天は彼を王座に立てられ、あらゆる世界が彼を畏敬した。しかし、彼もまた罪を犯すと、悪で罰を与える霊たちに引かれていった。
大切な所有物を奪われ、拷問を受ける状況になると、ソロモンは恐れをなした。明らかに人は自らの行いによってあの世の使者につれていかれる。使者が善か悪かは、自分が歩んできた地上の人生にかかっている。
ゾハール1.53b (ユダヤ教)
ある日、主の前に神の使いたちが集まり、サタンも来た。主はサタンに言われた。「お前はどこから来た。」「地上を巡回しておりました。ほうぼうを歩きまわっていました」とサタンは答えた。主はサタンに言われた。「お前は私の僕ヨブに気づいたか。地上に彼ほどの者はいまい。無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きている。」
サタンは答えた。「ヨブが、利益もないのに神を敬うでしょうか。あなたは彼とその一族、全財産を守っておられるではありませんか。彼の手の業をすべて祝福なさいます。お陰で、彼の家畜はその地に溢れるほどです。ひとつこの辺で、御手を伸ばして彼の財産に触れてごらんなさい。面と向かってあなたを呪うにちがいありません。」
主はサタンに言われた。「それでは、彼のものを一切、お前のいいようにしてみるがよい。ただし彼には、手を出すな。」サタンは主のもとから出て行った。(注9)
ヨブ記1.6 ~ 12(キリスト教)
すべてのことが決定されたとき、悪魔は言うであろう、「真実の約束を、おまえたちに約束されたのは神であった、わしも約束したのだが、おまえたちの役に立てなかった。もともとわしは、おまえたちに対し権威はないのだ、ただおまえたちに呼びかけ、おまえたちがわしに従ったのみだ。それでわしを非難してはならぬ、むしろ自分自身を責めよ……」
クルアーン14.22 (イスラーム)
―み言選集―
サタンは、ヨブを神の前に訴えるように(ヨブ1・9)絶えずあらゆる人間を神の前に訴え、地獄に引いていこうとしているのである。しかし、サタンもその対象を取り立てて、相対基準を造成し、授受作用をしない限り、サタン的な活動をすることはできない。サタンの対象は、霊界にいる悪霊人たちである。
そして、この悪霊人たちの対象は、地上にいる悪人たちの霊人体であり、地上にいる悪人たちの霊人体の活動対象は彼らの肉身である。したがって、サタンの勢力は悪霊人たちを通して地上人間の肉身の活動として現れる。それゆえ、ルカ福音書22 章3節には「イスカリオテと呼ばれていたユダに、サタンがはいった」と記録されており、またマタイ福音書16 章23 節を見ればイエスはぺテロを指してサタンと言われた。さらにまた、このような悪霊人体を「悪魔の使者」と記録しているところもある(マタイ25・41)。
地上天国を復帰するということは(前編第3 章第2 節参照)、全人類がサタンとの相対基準を完全に断ちきり、神との相対基準を復帰して、授受作用をすることにより、サタンが全く活動することのできない、そのような世界をつくることをいうのである。
終末に至って、サタンを底なき所に閉じ込めると言われたみ言は、とりもなおさず、サタンの相対者がいなくなることによって、サタンが活動できなくなるということを意味する。
原理講論、堕落論4.2
神様は歓迎しますが、サタンは放してくれません。なぜでしょうか。「本来、あなたには創造原則によって、愛で主管できる権限があるではないですか。私は非法的な愛の道、非法的な位置に立ちましたが、アダムとエバを愛したのは間違いない。
愛は本来、主管性の原則ではないですか。私がアダムとエバを愛したのだから主管することができるが、あなたがそれ以上、私を愛さなければ、連れていくことはできない」、このように言うのです。
(128-91、1983.6.5)
神様がサタンに「本来、人はサタンであるお前に讒訴されるようになっていないではないか。本来、人は、サタン、お前から讒訴され、お前に拘束される存在ではないではないか」と言えば、サタンは、「それはすべて知っています。しかし、愛というものは、永遠に主張するようになっているではないですか。愛の因縁というものを原理的立場から見れば、愛すれば永遠にその人に隷属されるのが愛の法度ではないですか」と言いながら、自己主張をするのです。
すると神様は、原理的な立場から見れば、人間を私が造り、私の息子、娘になるべきなのに、お前が不法に因縁を結んだのではないか」と言います。ですから、仕方がありません。原理的法度を主張するサタンの立場も正しく、原理的立場から主張する神様の主張も正しいというのです。
(111-147 ~ 148、1981.2.10)
神様も今まで内的にサタンを相手にして闘っていらっしゃり、外的には悪人を相手にして闘っていらっしゃいますが、それは無礼な闘いではなく、法に背く闘いでもありません。神様は絶対に天理法度に背いて闘われることはありません。
イエス・キリストもこれと同様に、天理原則に背いた闘いはされませんでした。したがって、私達が終末に宇宙的な闘いをしなければならないときにも、天倫の法度を知らなければなりません。そうして私達は、この法を中心として闘うことができる人にならなければならないのです。
皆さんは知りませんが、サタンもやはり無礼な法を立てて天倫に背く闘いはできません。ですから、復帰の条件を立てておいてサタンと闘うようになるとき、人間が神様のみ旨に背けば、サタンが讒訴するようになるのです。イエス様であっても例外ではありません。法度に背くとき、容赦なくサタンが讒訴するのです。
(2-176 ~ 177、1957.4.14)
④善悪に対する人間の選択
―宗教経典―
主はカインに言われた。「どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのか。もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか。正しくないなら、罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める。お前はそれを支配せねばならない。
創世記4.6 ~ 7(キリスト教)
身を慎んで目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています。
ペテロの手紙一5.8(キリスト教)
この世のものを浄らかだと思いなして暮し、(眼などの)感官を抑制せず、食事の節度を知らず、怠けて勤めない者は、悪魔にうちひしがれる。――弱い樹木が風に倒されるように。この世のものを不浄であると思いなして暮らし、(眼などの)感官をよく抑制し、食事の節度を知り、信念あり、勤めはげむ者は悪魔にうちひしがれない。――岩山が風にゆるがないように。
法句経78(仏教)
人びとよ、神の約束は真実である、それで、現世の生活に欺かれてはならない、また神に関し、大欺瞞者に欺かれてはならぬ。まことに悪魔(サタン)はなんじらの敵である、それで敵として扱え。かれは、ただ燃えさかる火獄の仲間とする己れの連累者を招くにすぎぬ。
クルアーン35.5 ~ 6(イスラーム)
なんじら信仰する者よ、悪魔の足跡に従ってはならぬ。なんじらがもし悪魔の足跡に従うならば、かれはきっと醜行と悪事をなんじらに命ずるであろう。
もしなんじらに対し、神の恩恵と慈悲がなかったならば、なんじらのうち、ひとりも純潔になり得なかったであろう、だが神は、み心にかなう者を清めたもう。神は、全聴者・全知者であられる。
クルアーン24.21 (イスラム)
では、睡眠を通して双生児としてあらわれた、かの始元の二霊についてであるが、両者は、心意と言語と行為において、より正善なるものと邪悪なものとであった。そして、両者のあいだに、正見者たちは正しく区別をつけたが、邪見者どもはそうではなかった。(注10)
して、これら両霊が相会したとき、彼らが定めたのは、第一の世界には生と生存不能とであるが、しかし終末にある境涯は不義者どもには最悪なるも義者には最勝なるウォフ・マナフがあるということであった。
これら両霊のうち、不義なる方は極悪事の実行を選取したが、最も堅固なる蓋天を着ていて最勝なるスプンタ・マンユの方は天則を選取し、真実なる行為をもってアフラ=マズダーをすすんで満足させようとするものどももまたそうであった。
アヴェスター・.ヤスナ30.3 ~ 5(ゾロアスター教)
イスラエル民族がシナイ山の前に立ったとき、蛇の不純さが彼らから抜け出ていった。そして、肉欲が止まり、結局命の木に接ぎ木されることができた。彼らの考えは、あの高い所に向かうようになり、そして喜びと歓喜に満ちた天の光と知恵を受けるようになった。主なる神は、聖なる名が記された帯を巻いてくださり、以前のようにサタンが力を発揮できないようにされた。
しかし、彼らが再び罪を犯し、金の子牛を拝むと、彼らは降等され天の光を失ってしまった。聖なる名の帯も取り上げられ、再び以前のように悪魔サタンの攻めを受けるようになった。
ゾハール1.52b(ユダヤ教)
あるがままの本性の純粋さが真の仏、ゆがんだ見方と貪・瞋・疑は魔王。ゆがみに晦んでいるとき魔王はわが家に入り、正しく見て取ったとき仏は座敷に在す。自性の中のゆがみが三毒を生み、つまり魔王に住み込まれる。正しい見方は自ずと三毒を除き、魔王は仏に変わって紛れもない真のもの。六祖壇経10(仏教)
―み言選集―
神様は最も公的な方であり、サタンは徹頭徹尾、自分を中心とする私的な存在です。
(88-209、1976.9.18)
宇宙で人よりも人の主体となる神様がいるとすれば、その神様が最も尊いのです。ところが、サタンはなぜ人の主体である神様をもとうとしないのでしょうか。サタンは欲心が多いのですから、神様を自分のものにすればどれほどよいでしょうか。
神様は、絶対不変、絶対唯一、絶対永遠です。神様は変われません。変わることができないというのです。サタンにいくらもっていきなさいと言っても、神様は真なのでもっていけません。サタンは真を消化できないのです。いくらもとうとしても無駄です。
それでは、神様も欲心が多いのに、なぜ人よりもサタンを自分のものにしようとしないのでしょうか。それを答えなさいと言えば、上手に答えるでしょう。天の側の反対だからです。神様は変わらないのですが、サタンは変わり、神様は唯一ですが、サタンはそうではありません。そして、神様は永遠ですが、サタンは瞬間的です。根本的にそのように分かれるのです。
それでは、サタンや神様はどうして人を必要とするのですか。人は二つの性格、二つの世界の素質をもって生まれ得る中間の立場にいるという論理をここで完全に確定できます。
それでは、変わることができる瞬間的な人はサタン側ですか、神側ですか。また、家でしきりに分裂を引き起こし、しきりに争いを引き起こすのは、サタン側ですか、神側ですか。
未来を見て、世界や全体、永遠を見て、長い歴史を考えず、「きょうだけ食べていければよい、きょうさえよければよい」と、また子女のために生きるべき父母であるにも.かかわらず、その父母の立場を忘却し、酒を飲み、自分を中心として酔うようになれば、それは悪に属し、サタンに属します。では、酒を飲む人は、彼自身が幸福ですか、不幸ですか。飲むこと自体は幸福でしょう。酒を飲めば、踊りを踊って喜ぶではないですか。ところが、それは永遠を維持することはできません。何日かたてば終わります。
それによって、環境的与件に破綻が伴うのです。それによって、環境的与件が保護を受けられず、それが永遠に継続するので、悪に属するという事実を知らなければなりません。
(124-243 ~ 244、1983.2.20)
信仰生活が必要なのは堕落したからです。堕落圏内にいるという、この観念を離れてはいけません。落圏内に私達は生きているので、信仰生活をするのです。これが、皆さんの日常生活の生活意識として残されなければなりません。堕落した世界は、サタンが支配する世界です。それは、考えだけでなく事実です。
(161-218、1987.2.15)
休まずに祈りなさいというのです。悪魔は24 時間、皆さんを通じて働けます。しかし、神様は縦的な位置にのみいるので、心以外には活動できません。
サタンは、四方の360 度に、そしていつでも活動できるので、私達はサタンの活動に負けるようになっています。
(200-227、1990.2.25)
人間の堕落以降、徐々に発展してきた悪霊の役事は、1980 年代に入って霊界が急激に変化し、地上で悪霊の活動が大きく現れるようになりました。
そうなった理由は、それまで、天のみ旨を探し求めてきた中心人物たちが、サタンの正体を具体的に、正確に把握することができず、罪の根である原罪を明らかにすることができなかったので、サタンも、余裕をもって自分中心の世界をこつこつとつくることができたのです。
しかし、真の父母様が地上に来られてからは、状況が変わってきました。真の父母様は、サタンの正体と罪の根である原罪が、淫行という不倫なる愛であることを明らかにされ、さらには、神様が直接に啓示されない内容であるサタンの性向を把握し、これからは、サタンが地上での足場を失わざるを得ないように、蕩減条件を立てていかれながら、復帰摂理史を勝利されました。
このようになったので、サタンも、当惑するようになりました。それでサタンは、霊界の悪霊たちを動員し、地上人の体の中にいる恨をもった霊人たちと力を合わせて、過去の恨みに対して刺激を与え、地上人を苦しめる悪霊役事を強化しました。
サタンは彼らを呼んで刺激を与え、恨みを晴らすようにし、彼らが苦しめられた分、また、それ以上の恨みを、苦痛を与えた先祖の子孫に復讐するようにさせているのです。
特にサタンは、祝福家庭に侵入する機会を常にねらっていて、条件に引っ掛かるような生活をすると、悪霊を祝福家庭に入れて、祝福家庭が神様を中心に生活することができないようにさせてきたのです。
本来、祝福家庭は、真の父母様と心情一体を成し、絶対信仰、絶対愛、絶対服従で生活すれば、サタンが侵入できないようになっていました。しかし、非原理的なことをして、サタンが讒訴できる条件が成立すると、サタンが侵人することができるようになります。
実際に、地上の祝福家庭は、真の父母様の勝利的基台のみに頼ったまま、自分の体と行いを深く振り返ることをおろそかにしていました。「もしかしたら、サタンが自分に侵入し得る条件を立てるようなことをしていないだろうか」「そのような堕落性をもっていないだろうか」と、深く振り返れませんでした。
ですから今からでも、自分を完全に浄化させ、創造本然の真の子女の姿に生まれ変わる努力を傾けなければなりません。(注11)
興進様の霊界メッセージ、2002.1.1