②堕落性
―宗教経典―
ただし見よ、見いだしたことがある。神は人間をまっすぐに造られたが、人間は複雑な考え方をしたがる、ということ。
コヘレトの言葉7.29 (キリスト教)
迷妄とカルマの力は実に悪魔がせき立てるものであるがゆえに、本来、清浄な人の心があらゆる邪悪さを楽しむように誘導する。
クンダクンダパンチャースティカーヤ38(ジャイナ教)
かれは言った、「私はあなたのしもべのうち、相当の部分の者をきっと連れ去るでしょう」。「また私はきっとかれらを迷わせて、そのむなしい欲望にふけらせ、またかれらに命じて、……神の創造を変形させます」。何人でも神をおいて、悪魔を友とする者は、必ず明らかな損失を被むるのである。悪魔はかれらと約束をむすび、むなしい欲望にふけらせるであろう。だが悪魔の
約束は、欺瞞にすぎない。
クルアーン4.118-120(イスラーム)
汝の心性狂乱するに由って、知見妄を発す。妄を発してやまざれば、見を労して塵を発す。目晴(もくしょう)を労すれば、即ち狂華あるが如し。湛精明に於いて、因なくして一切世間の山河大地を乱起す。生死涅槃は、皆即ち狂労転倒の華相なり。
首楞厳経(仏教)
人が禽獣とちがう点は、ごくわずかである。即ち仁義をとり守って存するか、すててしまって存しないか、のちがいである。一般人は仁義をすて去り、君子は常に仁義を存してうしなわないのである。
孟子IV.A.19 (儒教)
人の心は何にもまして、とらえ難く病んでいる。誰がそれを知りえようか。
エレミヤ書17.9(キリスト教)
われがしるしを下した者の物語を、かれらに告げるのだが、かれはそれを受け流している、それで悪魔が憑いて、かれは背教者のたぐいとなった。もしそれがわが意志であったならば、われはそのしるしによってかれを引きたてたであろう、だがかれは地上に執着して、己れのむなしい私欲に従った。
それでかれをたとえてみれば、犬のようなもので、もしなんじが、それをしかりつけても舌をたれている、また放っておいても舌をたれている。これはわがしるしを信じない者の比ゆである、それゆえこのいにしえの人びとの物語を告げよ、おそらくかれらは反省するであろう。……
われは地獄のために、ジンと人間の多くをつくった。かれらは心を持つが、それで悟らず、目はあるが、それで見ず、また耳はあるが、それで聞かぬ。かれらは家畜のようである、いやそれよりも迷っている。かれらは警告を軽視する者たちである。
クルアーン7.175 ~ 79(イスラーム)
一点の神の愛も燃えないあの人、ナナークよ、知れ。彼の俗世の服は犬や豚のそれより少しも優れていないことを!
アーディ・グラント、スロークM.9、p.1428 (シーク教)
天よ聞け、地よ耳を傾けよ、主が語られる。私は子らを育てて大きくした。しかし、彼らは私に背いた。牛は飼い主を知り、ろばは主人の飼い葉桶を知っている。しかし、イスラエルは知らず、私の民は見分けない。
イザヤ書1.2 ~ 3(キリスト教)
人の本性は水と似ている。本来は清い。もし我々がきれいな器に水をくめば水はきれいだが、汚れた器にくめば水は汚れるだろう。その本来の清さは常にそこにあるが、一度それが汚されたり、濁れば、その清さを取り戻すのは難しい。
朱熹(儒教)
私は、不義が何であるかをたずねて、それが実体ではなく、最高の実体である神からはなれて、卑賎なものにねじ曲げられ、「腸をさらけ出して」のさばり出て意志の背反に外ならないことを悟った。
アウグスティヌス告白7.16(キリスト教)
一般の、もっとも卑俗なひとびとは、当然のことながら、快楽を「善」や「幸福」であるとみなしているように見える。かれらが享楽の生活に満足している理由はまさにそこにある(おもうに、生活には、およそ三つの主な形態がある。
いま述べた享楽の生活と、第三に観想の生活である)、こうして、大衆はそのまるっきり奴隷的な根性をむき出しにして、家畜にひとしい生活を選びとっているが、権勢の地位にあるひとびとの多くがその嗜好においてサルダナバロス(アッシリア盛期の王)に類するのを見れば、彼らがそうするのは無理からぬことである。
アリストテレスニコマコス倫理学1.5 (ヘレニズム)
―み言選集―
美しい神様の理想世界を実現なさろうとする人類歴史の初めの日、エデンの園で、人類の始祖は神様を失ってしまいました。一言で言うならば、人類の始祖になる一男一女は神様の前に罪を犯し、神様の国から追放されました。そして神様の聖殿になれず、悪魔の巣窟になりました。そして、その悪魔は利己主義の本山なのです。
(219-116 ~ 117、1991.8.28)
堕落した人間は、万物よりも劣る立場におかれるようになったので(エレミヤ17・9)。
原理講論、後編緒論1.2.1
皆さん、大洋を巡る大きな船が破損する危険が生じるようになるとき、その船の中に棲んでいたねずみたちが、すべて綱を渡って陸地に逃げていくという話を聞いたことがありますか。
微々たる動物も、未来の自分の生死圏を見分けることができるのに、万物の霊長である人間は何ですか。いいだこのようになってしまいました。(215-53、1991.2.6)
私の心と体は、神様の愛を通して完全に一つになります。しかし、私の心と体が分かれて、一度も一つになったことがありません。堕落したためにそうなのです。
堕落していなければ、神様の本質的愛を中心として完全に一つになるのです。その愛を中心とする愛の世界には、教育がありません。先生がいませ
ん。神様だけが先生です。教えてあげなくても、既に知っているのです。
心と体が一つになれば、宇宙が……。すべて宇宙の縮小体です。すべて知っているのです。学ぶ必要がありません。人間がどのように生きなければならないのか、ということを教える必要はありません。倫理道徳を教える必要がありません。
見てください。すずめの世界や動物の世界で、倫理道徳教育をしますか。自分たち同士で保護し、生理的に自分の一族を連結させて生きることを知
っているのに、どうして万物の霊長がこのようになっているのですか。堕落したので争いが起きるのです。
(162-223、1987.4.12)
私達は堕落性をもっています。堕落性の4大条件とは何ですか。驕慢とねたみと血気と偽りです。驕慢、嫉妬、血気、偽り、これが堕落性です。皆さんもそれを脱がなければならないということです。
(150-126 ~ 127、1960.9.4)
堕落性本性が生ずるようになった根本的動機は、天使長がアダムに対する嫉妬心を抱いたところにあった。それでは、善の目的のために創造された天使長から、いかにしてそのような愛に対する嫉妬心が生ずるようになったのであろうか。元来、天使長にも、創造本性として、欲望と知能とが賦与されていたはずであった。このようにして、天使長は知能をもっていたので、人間に対する神の愛が、自分に注がれるそれよりも大きいということを比較し、識別することができたのであり、またその上に欲望をもっていたから、神からそれ以上に大きい愛を受けたいという思いがあったということは当然なことである。そして、こういう思いは、自動的に嫉妬心を生ぜしめたのである。
したがって、このような嫉妬心は、創造本性から誘発されるところの、不可避的な副産物であり、それはちょうど、光によって生ずる、物体の影のようなものであるといえよう。
しかし、人間が完成すれば、このような付随的な欲望によっては決して堕落することはできなくなるのである。なぜなら、このような欲望を満たすときに覚える一時的な満足感よりも、その欲望を満たすことによって生ずる自己破滅に対する苦痛の方が、もっと大きいということを実感するようになるので、このような行いをすることができないのである。
そして、創造目的を完成した世界は、あたかも一人の人間のように、互いに有機的な関係をもつ組織社会であるから、個体の破滅は、直ちに全体的な破滅を招来するようになる。
したがって、全体は個体の破滅を放任することができない。このように、創造目的を完成した世界においての創造本性から生ずる付随的な欲望は、人間の発展をもたらす要素とはなっても、決して堕落の要因とはなり得ないのである。
堕落性本性を大別すれば、次の四つに分類することができる。その第1は、神と同じ立場に立てないということである。天使長が堕落するようになった動機は、神が愛するアダムを、神と同じ立場で愛することができず、彼をねたんでエバの愛を蹂躙したところにあった。
君主の愛する臣下に対して、その同僚が、君主と同じ立場において愛することができず、ねたみ嫌う性稟は、とりもなおさず、このような堕落性本性から生ずるのである。
第2には、自己の位置を離れるということである。ルーシェルは、神の愛をより多く受けるために、天使世界においてもっていたと同じ愛の位置を、人間社会においても保とうとして、その不義なる欲望によって、自己の位置を離れ、堕落したのであった。不義な感情をもって、自己の分限と位置を離れるというような行動は、みなこの堕落性本性の発露である。
第3は、主管性を転倒するということである。人間の主管を受けるべき天使が、逆にエバを主管し、またアダムの主管を受けるべきエバが、逆にアダムを主管するようになったところから、堕落の結果が生じたのである。このように自己の位置を離れて、主管性を転倒するところから、人間社会の秩序が乱れるのであるが、これは、すべてこのような堕落性本性から生ずるのである。
第4は、犯罪行為を繁殖することである。もし、エバが堕落したのち、自分の罪をアダムに繁殖させなかったならば、アダムは堕落しなかったであろうし、エバだけの復帰ならば、これは容易であったはずである。しかし、エバはこれとは反対に、自分の罪をアダムにも繁殖させ、アダムをも堕落させてしまった。悪人たちがその仲間を繁殖させようとする思いも、このような堕落性本性から生ずる思いなのである。
原理講論、堕落論4.6
今、すべての堕落性本性がどうだということを知りました。まず所有権、自分を中心とする所有欲から出発したのであり、その次にはうそをついたのであり、その次には不条理な貞操の道を行き、その次にはあらゆる天のものを奪う強奪の道を行き、その次に、アダム時代に来ては、殺害する道を行きました。
歴史時代のすべての独裁者たちが、どのような人たちかというど、うそをついた者であり、不倫的な愛の道を思いどおりに行った者であり、すべてのものを自分の思いどおりに強奪した者であり、すべての善の人を思いどおりに葬り去った者であることを考えるとき、このような歴史的な汚点の道を私達は行ってはなりません。これを愛で昇華させる天の伝統をそのまま受け継ぎ、自分自ら闘うことを願います。
(121-257 ~ 258、1982.10.27)
8.内的闘争
現実的人間は、善と悪という二つの互いに相反する内的衝突現象に直面している。人間がこのような内的矛盾にとらわれている限り、神性的自我を実現することはできず、完全な状態を成すこともできない。
逆説的に世俗の生活に陥った人間は、はっきりした罪意識を除いては、彼らの内部の闘いを感知することはできないまま生きていくだろう。反面、良心的な生活や宗教的な生活を追求する人たちは、直接的にこの問題に直面するようになる。
文鮮明先生は、人間の内的矛盾は人間堕落の直接的な結果だと教える。先生は、神様がそのような矛盾を抱えた人間を創造するはずがなく、そうでなければ、神様は善の神様になれないと語り、人間も完成を成す希望さえもつことができないと主張する。
このような人間の内的矛盾は、堕落によって人間性が歪曲されたという証拠である。堕落の問題が解決されなければ、心と体の闘争も決して終わらない。
―宗教経典―
私は、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです。もし、望まないことを行っているとすれば、律法を善いものとして認めているわけになります。
そして、そういうことを行っているのは、もはや私ではなく、私の中に住んでいる罪なのです。私は、自分の内には、つまり私の肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。私は自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。もし、私が望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはや私ではなく、私の中に住んでいる罪なのです。それで、善をなそうと思う自分には、いつも悪が付きまとっているという法則に気づきます。
「内なる人」としては神の律法を喜んでいますが、私の五体にはもう一つの法則があって心の法則と戦い、私を、五体の内にある罪の法則のとりこにしているのが分かります。私はなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれが私を救ってくれるでしょうか。
ローマの信徒への手紙7.15 ~ 24(キリスト教)
私は何が善であるか知っている。しかし私はそれをしたいと思わない。私はまた、何が悪であるかを知っている。しかし私はそれをやめることが出来ない。私はただ心の中に立っている、ある神の霊にかり立てられるままにそれをなすだけだ。(注21)
マハーバーラタ(ヒンドゥー教)
ラビ・イサクが言った。「人が悪に傾きやすい傾向は、日ごと新しい変化をもちながら人を苦しめる。ゆえに聖書にはこのような聖句がある。『地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っている』(創世記6.5)」。
そして、ラビの息子ラビ・シムオンはこのように言った。「悪を指向する心は、日ごと人に対して抵抗し、拒否する強い力を蓄える。そして人を殺そうと努める。もし聖なる神が人を助けてくださらなければ、彼は決して悪を行う勢力に勝つことはできないだろう。その方に大いなる祝福があらんことを」。
タルムード、キッドゥシーン30b(ユダヤ教)
怨みという煩悩が生じるのは、すべて貪欲と嫉妬とに由来する。さればこそ、神々、世間の人々、阿修羅、それに他の生きものたちは武器で戦いあうようになるのだ。
阿含経長部ii.276、釈提桓因間経(仏教)
すべての邪悪は首にはめられた鎖と違わない。
アーディ・グラント、ソーラト、M.1、P.595(シーク教)
憎む人が憎む人にたいし、怨む人が怨む人にたいして、どのようなことをしようとも、邪なことをめざしている心はそれよりもひどいことをする。
法句経42(仏教)
まことに神は、決して人間をそこないたまわぬ、だが人間は自ら己れをそこなう。
クルアーン10,44 (イスラーム)
誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い。
マタイによる福音書26.41 (キリスト教)
自ら自己を高めるべきである。自己を沈めてはならぬ。実に自己こそ自己の友である。自己こそ自己の敵である。自ら自己を克服した人にとって、自己は自己の友である。しかし自己を制していない人にとって、自己はまさに敵のように敵対する。
バガヴァッド・ギーター6.5 ~ 6(ヒンドゥー教)
預言者が宣布した。「我々は、小さな聖戦から大きな聖戦に戻ってきた」。彼らが「神の預言者よ、何がもっと大きな聖戦なのですか」と尋ねると、彼が答えた。「弱い自らに対抗して戦うことである」。(注22)
ハディース(イスラーム)
私達が最高善の目的によって完成されることをのぞむとき、私達がなすことを熱望するのは、肉が霊に反して欲求しないこと、そして、霊が熱望するところのことに相反する悪徳が私達のうちにないことでないなら何であろうか。私達はこれをいかにのぞんでも、この世の生においてなすことはできないのであるから、すくなくとも神の助力のもとに、霊に反する肉の欲に霊が屈服して譲歩することがないように、そして、私達が同意して罪を犯すことへ引きずられることがないようにするのである。
アウグスティヌス神の国19.4(キリスト教)
―み言選集―
人は本来、悪を避けて善を追求していこうとします。私達の心は、善の世界を立て、悪の世界を除去するために、常に走っていますが、その反面、私自身の中で悪の心が善の心に向かって強く作用するのを私達はよく感じています。善の心を強く掲げていけばいくほど、それに比例して悪の心が常に対決しているのです。
(36-51. 1970.11.15)
人間は誰でも、自己の欲望が満たされるとき、幸福を感ずるのである。しかし欲望などといえば、ややもすると我々はその本意を取り違えがちである。
というのは、その欲望が概して善よりは悪の方に傾きやすい生活環境の中に、我々は生きているからである。しかしながら、我々をして不義を実らせるような欲望は、決して人間の本心からわき出づるものではない。人間の本心は、このような欲望が自分自身を不幸に陥れるものであるということをよく知っているので、悪に向かおうとする欲望を退け、善を指向する欲望に従って、本心の喜ぶ幸福を得ようと必死の努力を傾けているのである。
とりわけ、このような本心の指向する欲望に従って、善を行おうと身もだえする努力の生活こそ、ほかならぬ修道者たちの生活である。しかしながら、有史以来、ひたすらにその本心のみに従って生きることのできた人間は一人もいなかった。
それゆえ、聖書には「義人はいないいひとりもいない。悟りのある人はいない、神を求める人はいない」(ロマ3・10、11)と記されているのである。また人間のこのような悲惨な姿に直面したパウロは「私は、内なる人としては神の律法を喜んでいるが、私の肢体には別の律法があって、私の心の法則に対して戦いをいどみ、そして、肢体に存在する罪の法則の中に、私をとりこにしているのを見る。私は、なんというみじめな人間なのだろう」(ロマ7・22 ~ 24)と慨嘆したのであった。
ここにおいて、我々は、善の欲望を成就しようとする本心の指向性と、これに反する悪の欲望を達成させようとする邪心の指向性とが、同一の個体の中でそれぞれ相反する目的を指向して、互いに熾烈な闘争を展開するという、人間の矛盾性を発見するのである。
存在するものが、いかなるものであっても、それ自体の内部に矛盾性をもつようになれば、破壊されざるを得ない。したがって、このような矛盾性をもつようになった人間は、正に破滅状態に陥っているということができる。
ところで、このような人間の矛盾性は、人間が地上に初めて生を享けたときからあったものとは、到底考えられない。なぜかといえば、いかなる存在でも、矛盾性を内包したままでは、生成することさえも不可能だからである。もし人間が、地上に生を享ける以前から、既にこのような矛盾性を内包せざるを得ないような、運命的な存在であったとすれば、生まれるというそのこと自体不可能であったといえよう。
したがって、人間がもっているこのような矛盾性は、後天的に生じたものだと見なければなるまい。人間のこのような破滅状態のことを、キリスト教では、堕落と呼ぶのである。
原理講論、総序
人間の良心は神様を代表する心です。良心は私のために存在しません。天の義のために存在します。良心は常に善に向かって走ろうとします。これに体は反抗します。体は自分だけ安らかであろうとし、利己的であり、本能的欲求に従って肉欲を行おうとします。良心はこの体を叱責し、心に順応するようにします。ここに常に血の出るような葛藤と闘争が、一つの体の中で起こるようになるのです。
(219-118、1991.8.28)
今、私達の生命の種をどこで受けましたか。神様から受けましたか、サタンから受けましたか。サタンから受けたということを誰も否定できません。しかし、本心は、サタンの種ではなく、本然の理想的な生命の種を願っています。
このように不調和が起きるので、苦痛を受けるのです。心は神側に立ち、体はサタン側に立って闘っています。ですから、皆さんが心と体の統一をもたらさない限り、天国に行くことができないのです。
(235-203、1999.9.20)
人類歴史に宗教が必要ならば、その宗教によって何をしなければならないのでしょうか。肉身を征服しなければならないのです。なぜなら、肉身によって歴史が滅び、肉身によって社会が滅び、肉身によってこの人類が滅びたたのです。したがってこの肉身は怨讐の母胎であり、罪悪の根本の根だということを切実に感じなければなりません。
(18-322、1967.8.13)
私が問題です。それで、私が怨讐です。皆さんの心と体が一つになれないことが怨讐です。
(128-108、1983.6.5)
この体は、サタンの舞台になっています。体はサタンの舞踏場になっていて、心は神様の舞踏場になっています。堕落していなければ、心と体が一つになるのです。神様の愛、神様の生命、神様の血統を中心として自然に一つになるのです。
(235-203、1992.9.20)
9.利己主義と慢心
自我に対して過度にのめりこんだ利己主義は、神様の実在に対して盲目にさせる。そのような問題は、自己過信、財産と知識、権力に対する慢心によって生じる。
利己主義と慢心は、私達を神様から遠ざける。私達自身が独立していると考えるならば、私達の存在自体が究極的実在に従属されているとい
う事実を認識することができない。慢心は、ほかの人の必要性を無視し、ほかの人の助けを、口を極めて断る。その上、慢心は、私達自身の状態を正確に知ることができないようにする。
キリスト教では、慢心が堕落の第一歩であり、神様に対する反逆だとみなす。仏教では、自我を追求して慢心をもつことがあらゆる欲望の頂点であり、無知の最も深い根とみなす。インドの宗教によれば、利己主義は人を輪廻の車輪に固定させる鎖である。
文鮮明先生は、このような一般的な教えを語りながら、今日の富裕な強大国の市民たちに蔓延している社会的な自己顕示的慢心と利己主義に対して、特に指摘する。先生は特に、アメリカ社会の隅々に潜んでいる慢心に対してアメリカの悔い改めを勧め、そうしなければ必然的にアメリカは衰退すると警告する。先生はまた、利己主義と慢心を、心の奥深くに悪の習性を植えた人間の堕落と連結させる。
―宗教経典―
いや、人間は、自分で何も足らぬところはないのだと考え、まことに法外である。まことになんじの主に、よろずのものは帰されるのである。
クルアーン96.6 ~ 8(イスラーム)
痛手に先立つのは驕り。つまずきに先立つのは高慢な霊。
箴言16.18 (キリスト教)
災いだ、自分の目には知者であり、うぬぼれて、賢いと思う者は。
イザヤ書5.21 (キリスト教)
自己中心的な考えは、それ自身には甘美なものかもしれないが、全体の不調和がそこから現れ得る。
おさしづ(天理教)
すべての痛みとつらさは、調和の欠乏から生じ、調和を妨害する一つの恐るべき、そして唯一の原因は、いかなる形態であれ利己心であると、私達は主張する。
エレナ・ペトロヴナ・ブラヴァツキー神智学の鍵(神智学)
「ここに我あり。これは我に属す」などと臆計し、それによって自己を以て自己を縛するに至るのは、あたかも鳥が網を以て自己を縛するが如くである。
マイトリ・ウパニシャッド3.2 (ヒンドゥー教)
「私には子がある。私には財がある」と思って愚かな者は悩む。しかしすでに自己が自分のものではない。ましてどうして子が自分のものであろうか。どうして財が自分のものであろうか。
法句経62(仏教)
利己心のある所にあなたがいることはできず、あなたのいる所に利己心はない。
アーディ・グラント、マールー・キ・ヴァールM.1、p.1092 (シーク教)
エシュルンはしかし、肥えると足でけった。お前は肥え太ると、かたくなになり、造り主なる神を捨て、救いの岩を侮った。
申命記32.15 (キリスト教)
オンチャメ(神)は高くいらっしゃり、人は地にいる。いえいえお、やれれ、神は神、人は人、
ぞれぞれ自分の家にいて、自ら生きる。(注23)
ファン族の伝承(アフリカ伝統宗教)
万軍の主の日が臨む、すべて誇る者と傲慢な者に、すべて高ぶる者に――彼らは低くされる――高くそびえ立つレバノン杉のすべてに、バシャンの樫の木のすべてに、高い山、そびえ立つ峰のすべてに、高い塔、堅固な城壁のすべてに、タルシシュの船と美しい小舟のすべてに。その日には、誇る者は卑しめられ、傲慢な者は低くされ、主はただひとり、高く上げられる。
イザヤ書2.12 ~ 17(キリスト教)
もしも愚者がみずから愚かであると考えれば、すなわち賢者である。愚者でありながら、しかもみずから賢者だと思う者こそ、「愚者」だと言われる。
法句経63(仏教)
自ら善良だと叫ぶ者は、誰もが当然知るべし、善があなたを避けていくことを。
アーディ・グラント、ガウリー・スクマニーM.5、p.278 (シーク教)
先生がいわれた、「聖人には私は会うことはできないが、君子の人に会えればそれで結構だ。善人には私は会うことはできないが、常のある人に会えればそれで結構だ。無いのに有るように見せ、からっぽなのに満ちているように見せ、困っているのにゆったりと見せて〔見栄をはって〕いるようでは、むつかしいね、常のあることは。」
論語7.25(儒教)
つまさきで立つものは長く立つことはできない。
大股で歩くものは長く歩くことはできない。見せびらかすものはすぐれていない。みずから正しいと主張するものは、他よりきわだっているわけではない。
信用を求めるものは信用を得られない。自分を誇るものは最高のものではない。「道」の立場からいうと、これらすべては生物が好まない余分のものである。だから、「道」を有する人はそんなところに留まらないのである。
道徳経24(道教)
驕(おごり)とは高ぶることであり、放逸とは諸善を行なわないことです。慢(ほこり)は七種があり、それを分けて説きましょう。
そのうち、慢心を起して、(われは)劣る者より劣る、同等の者と等しい、劣る者よりすぐれている、または等しいとほこること、これが自慢といわれます。
いかなる性質からしても自己よりすぐれている人と等しいとほこることおよび(自己より)すぐれている人よりさらにすぐれているとほこること、これが高慢であります。
最高の者よりさらにすぐれているとほこることが思い上がりであって、あたかも腫物の上に(さらに)疱瘡が生じるように、有害であります。生存の要素(取)といわれる五(蘊)は空(無実体)でありますが、愚かなためにそれに「われあり」と我執を起こします。それが我執心(我慢)といわれます。
(修行の)報いを得ていないのに得た、と考えるのが、うぬぼれ(増上慢)であります。悪業をなすことを讃えることが邪慢である、と知者は理解しています。自己を必要なし、と自身を軽蔑することが卑下慢である、といわれます。これらを総括して、七(慢)といいます。
龍樹宝行王正論5.6-12 (仏教)
―み言選集―
信仰世界では驕慢を怨讐視しました。我を怨讐視しました。自主的な立場を主張するのを怨讐視しました。
(67-164、1973.6.1)
自分を中心として考えるので、人の悪口を言うようになり、よいものがあれば奪って使いたいと思うのです。そのようなことを考える人は滅びます。何を中心として考えるのかということが問題です。ここにいる人たちは、そのような面できちんとしていますか。このように見るとき、人はほかの誰かに期待する必要がありません。
(36-183、1970.11.29)
自分を中心とする主義や主張をもった人は滅びます。自分の欲望のために人命を害し、国に害を及ぼしたというときに滅びるのです。国は個人に利用されるものではありません。かえって国に利用されなければならないのが国家圏内にいる国民の道理です。
人間は本来、自分個人だけのために生きるようになっていません。ところが、今日この地上には、自分個人だけのために生きる人がたくさんいます。「自分のために仕事をする」と言います。自分自身のために生きているというのです。どれほどかわいそうな人ですか。父母も、兄弟もいない孤児と同じです。
(24-20 ~ 21、1969.6.22)
堕落の起源、本来の人間が出発した起源を私達が解剖してみれば、個人的な感情を中心として出発したのが人類歴史の起源なので、現代はそれが帰結され得る時なのです。自由思想! このような自由な思想があるので、何かの型を中心として箱のようなところに収まっていないのです。好きなように育ち、好きなようにしていってみると、結果はすべて同じです。結果はすべて同じになるというのです。自分の思いどおりにすれば、あとでどのようになるのですか。それが特別によくなるのではなく、結局はすべて滅びるようになります。
(49-189 ~ 190、1971.10.10)
歴史的なすべての動きは、個人を拡大させたものです。今まで、個人が出世やある目的を達成するためには、どのような手段を使ってきましたか。自分の目的を達成するためには、団体を利用したり、個人を利用したりしました。それが今までの歴史的伝統でした。
人間が堕落しながら出発したその日から、サタンの血を受けて生まれたその日から、本意でない驕慢を中心に自分の利益を渇望してきたのが歴史的方向ではないかというのです。堕落が蒔いた種が正にそれです。
(46-141 ~ 142、1971.8.13)
神様の血統を受けなければならないこの人間たちが、僕の血統を受け継いだということです。ですから、堕落した人間たちがどんなに神様を父と呼んでも実感がわかないのです。それで自分のお父さん、お母さんがしたのと同じようにサタンの本性を引き継いで、自分を中心としてすべてのものを考えるようになり、天も何も、高いものはみな自分と連結させるのです。(91-242、1977.2.23)
皆さんが自己主張ばかりしていれば、みな離れていくでしょう。
(36-181、1970.11.29)
アメリカの国民たちは、個人主義の思想を尊重するのを知っています。主体と対象の関係を忘却した個人主義はあり得ません。ですから、アメリカは袋小路に来たのです。今こそ、キリスト教の精髄の路程を掘り返し、神様の本然の生命の道を訪ねていかなければなりません。
神様は、「個人は家庭のためにあり、家庭は民族のためにあり、民族は国のためにあり、国は世界のためにあり、世界は神のためになければならない」と天理原則を主張します。そのように神様に従っていけば、神様のものであると同時に私のものになるのです。神様のために生きることが私のために生きることになります。
(69-88 ~ 89、1973.10.20)
個人主義は、サタンによる堕落の結果物です。サタンは、自分自身を中心として分離されます。一つは二つになり、二つは四つになります。なぜこのようにアメリカが個人主義国家になったのですか。サタンの王国だからです。ですから、希望がありません。
個人主義のセンターはプライバシーです。それは何ですか。それによって家庭が壊れ、社会が壊れ、国家が壊れます。それは最も恐ろしいものです。そのように地獄に落ちるのです。
(361-233、2001.11.25)
歴史を見るとき、汚れたものがどこがら始まったのでしょうか。自分から始まったのです。汚れたものが私達の先祖を汚したのではなく、私達の先祖、自分たちが汚れるようになったのです。
それでは、その汚れるようになった原因はどこにあるのでしょうか。それは先祖たちが、「私」というものを考えたので、そこで汚れたものが生じるようになったのです。すべて自分を中心としたからです。もし、皆さんの先祖たちが自分自身よりもっと貴いもののために生きていれば、自分たちが汚されない道を行ったでしょう。
それでは、自分より貴いものは何ですか。私は結果的な存在です。ですから、結果的存在は原因的存在のために生きなければなりません。このような結論が出てきます。自分のことを考える前に神様を考え、自分の考えを捨てて神様のことを考えて生きていれば、その人は悪の人になり得ないという結論が出てくるのです。
(92-58 ~ 59、1977.3.13)
皆さんが冷遇され、つばを吐かれながらピーナッツを売り、殴られたりするとき、「お父様!」と悔い改める条件が多いのです。私に罪が多いために、当然受けるべき「私」だというのです。皆さんがそのような生活を約3年だけすれば、皆さんは神様の前に帰るだろうと見るのが先生の観点です。
ところが、皆さんはそのようなことは考えることができず、いくらもたたずに驕慢になっていきます。「ああ、私は統一教会の教会員であり、3年間過ごせば祝福をしてくれなければならず、先生が私を認めてくれなければならず、教会で認めて
くれなければ……」、これはどれほど恥ずかしい姿ですか。これはどれほど恥ずかしいことですか。
(92-72、1977.3.13)
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