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人生訓読 ブログ(日本語)

神様と真の御父母様を中心に全世界で御旨を歩む兄弟姉妹達と全ての人々の幸福の為にこのブログを捧げます。

世界経典-24

2020年10月25日 17時17分49秒 | 学習

②堕落性

―宗教経典―

ただし見よ、見いだしたことがある。神は人間をまっすぐに造られたが、人間は複雑な考え方をしたがる、ということ。
コヘレトの言葉7.29 (キリスト教)

迷妄とカルマの力は実に悪魔がせき立てるものであるがゆえに、本来、清浄な人の心があらゆる邪悪さを楽しむように誘導する。
クンダクンダパンチャースティカーヤ38(ジャイナ教)

かれは言った、「私はあなたのしもべのうち、相当の部分の者をきっと連れ去るでしょう」。「また私はきっとかれらを迷わせて、そのむなしい欲望にふけらせ、またかれらに命じて、……神の創造を変形させます」。何人でも神をおいて、悪魔を友とする者は、必ず明らかな損失を被むるのである。悪魔はかれらと約束をむすび、むなしい欲望にふけらせるであろう。だが悪魔の
約束は、欺瞞にすぎない。
クルアーン4.118-120(イスラーム)

汝の心性狂乱するに由って、知見妄を発す。妄を発してやまざれば、見を労して塵を発す。目晴(もくしょう)を労すれば、即ち狂華あるが如し。湛精明に於いて、因なくして一切世間の山河大地を乱起す。生死涅槃は、皆即ち狂労転倒の華相なり。
首楞厳経(仏教)

人が禽獣とちがう点は、ごくわずかである。即ち仁義をとり守って存するか、すててしまって存しないか、のちがいである。一般人は仁義をすて去り、君子は常に仁義を存してうしなわないのである。
孟子IV.A.19 (儒教)

人の心は何にもまして、とらえ難く病んでいる。誰がそれを知りえようか。
エレミヤ書17.9(キリスト教)
われがしるしを下した者の物語を、かれらに告げるのだが、かれはそれを受け流している、それで悪魔が憑いて、かれは背教者のたぐいとなった。もしそれがわが意志であったならば、われはそのしるしによってかれを引きたてたであろう、だがかれは地上に執着して、己れのむなしい私欲に従った。

それでかれをたとえてみれば、犬のようなもので、もしなんじが、それをしかりつけても舌をたれている、また放っておいても舌をたれている。これはわがしるしを信じない者の比ゆである、それゆえこのいにしえの人びとの物語を告げよ、おそらくかれらは反省するであろう。……

われは地獄のために、ジンと人間の多くをつくった。かれらは心を持つが、それで悟らず、目はあるが、それで見ず、また耳はあるが、それで聞かぬ。かれらは家畜のようである、いやそれよりも迷っている。かれらは警告を軽視する者たちである。
クルアーン7.175 ~ 79(イスラーム)
一点の神の愛も燃えないあの人、ナナークよ、知れ。彼の俗世の服は犬や豚のそれより少しも優れていないことを!
アーディ・グラント、スロークM.9、p.1428 (シーク教)

天よ聞け、地よ耳を傾けよ、主が語られる。私は子らを育てて大きくした。しかし、彼らは私に背いた。牛は飼い主を知り、ろばは主人の飼い葉桶を知っている。しかし、イスラエルは知らず、私の民は見分けない。
イザヤ書1.2 ~ 3(キリスト教)

人の本性は水と似ている。本来は清い。もし我々がきれいな器に水をくめば水はきれいだが、汚れた器にくめば水は汚れるだろう。その本来の清さは常にそこにあるが、一度それが汚されたり、濁れば、その清さを取り戻すのは難しい。
朱熹(儒教)


私は、不義が何であるかをたずねて、それが実体ではなく、最高の実体である神からはなれて、卑賎なものにねじ曲げられ、「腸をさらけ出して」のさばり出て意志の背反に外ならないことを悟った。
アウグスティヌス告白7.16(キリスト教)

一般の、もっとも卑俗なひとびとは、当然のことながら、快楽を「善」や「幸福」であるとみなしているように見える。かれらが享楽の生活に満足している理由はまさにそこにある(おもうに、生活には、およそ三つの主な形態がある。

いま述べた享楽の生活と、第三に観想の生活である)、こうして、大衆はそのまるっきり奴隷的な根性をむき出しにして、家畜にひとしい生活を選びとっているが、権勢の地位にあるひとびとの多くがその嗜好においてサルダナバロス(アッシリア盛期の王)に類するのを見れば、彼らがそうするのは無理からぬことである。
アリストテレスニコマコス倫理学1.5 (ヘレニズム)

―み言選集―

美しい神様の理想世界を実現なさろうとする人類歴史の初めの日、エデンの園で、人類の始祖は神様を失ってしまいました。一言で言うならば、人類の始祖になる一男一女は神様の前に罪を犯し、神様の国から追放されました。そして神様の聖殿になれず、悪魔の巣窟になりました。そして、その悪魔は利己主義の本山なのです。
(219-116 ~ 117、1991.8.28)

堕落した人間は、万物よりも劣る立場におかれるようになったので(エレミヤ17・9)。
原理講論、後編緒論1.2.1

皆さん、大洋を巡る大きな船が破損する危険が生じるようになるとき、その船の中に棲んでいたねずみたちが、すべて綱を渡って陸地に逃げていくという話を聞いたことがありますか。
微々たる動物も、未来の自分の生死圏を見分けることができるのに、万物の霊長である人間は何ですか。いいだこのようになってしまいました。(215-53、1991.2.6)

私の心と体は、神様の愛を通して完全に一つになります。しかし、私の心と体が分かれて、一度も一つになったことがありません。堕落したためにそうなのです。

堕落していなければ、神様の本質的愛を中心として完全に一つになるのです。その愛を中心とする愛の世界には、教育がありません。先生がいませ
ん。神様だけが先生です。教えてあげなくても、既に知っているのです。

心と体が一つになれば、宇宙が……。すべて宇宙の縮小体です。すべて知っているのです。学ぶ必要がありません。人間がどのように生きなければならないのか、ということを教える必要はありません。倫理道徳を教える必要がありません。
見てください。すずめの世界や動物の世界で、倫理道徳教育をしますか。自分たち同士で保護し、生理的に自分の一族を連結させて生きることを知
っているのに、どうして万物の霊長がこのようになっているのですか。堕落したので争いが起きるのです。
(162-223、1987.4.12)

私達は堕落性をもっています。堕落性の4大条件とは何ですか。驕慢とねたみと血気と偽りです。驕慢、嫉妬、血気、偽り、これが堕落性です。皆さんもそれを脱がなければならないということです。
(150-126 ~ 127、1960.9.4)

堕落性本性が生ずるようになった根本的動機は、天使長がアダムに対する嫉妬心を抱いたところにあった。それでは、善の目的のために創造された天使長から、いかにしてそのような愛に対する嫉妬心が生ずるようになったのであろうか。元来、天使長にも、創造本性として、欲望と知能とが賦与されていたはずであった。このようにして、天使長は知能をもっていたので、人間に対する神の愛が、自分に注がれるそれよりも大きいということを比較し、識別することができたのであり、またその上に欲望をもっていたから、神からそれ以上に大きい愛を受けたいという思いがあったということは当然なことである。そして、こういう思いは、自動的に嫉妬心を生ぜしめたのである。

したがって、このような嫉妬心は、創造本性から誘発されるところの、不可避的な副産物であり、それはちょうど、光によって生ずる、物体の影のようなものであるといえよう。

しかし、人間が完成すれば、このような付随的な欲望によっては決して堕落することはできなくなるのである。なぜなら、このような欲望を満たすときに覚える一時的な満足感よりも、その欲望を満たすことによって生ずる自己破滅に対する苦痛の方が、もっと大きいということを実感するようになるので、このような行いをすることができないのである。

そして、創造目的を完成した世界は、あたかも一人の人間のように、互いに有機的な関係をもつ組織社会であるから、個体の破滅は、直ちに全体的な破滅を招来するようになる。

したがって、全体は個体の破滅を放任することができない。このように、創造目的を完成した世界においての創造本性から生ずる付随的な欲望は、人間の発展をもたらす要素とはなっても、決して堕落の要因とはなり得ないのである。

堕落性本性を大別すれば、次の四つに分類することができる。その第1は、神と同じ立場に立てないということである。天使長が堕落するようになった動機は、神が愛するアダムを、神と同じ立場で愛することができず、彼をねたんでエバの愛を蹂躙したところにあった。

君主の愛する臣下に対して、その同僚が、君主と同じ立場において愛することができず、ねたみ嫌う性稟は、とりもなおさず、このような堕落性本性から生ずるのである。
第2には、自己の位置を離れるということである。ルーシェルは、神の愛をより多く受けるために、天使世界においてもっていたと同じ愛の位置を、人間社会においても保とうとして、その不義なる欲望によって、自己の位置を離れ、堕落したのであった。不義な感情をもって、自己の分限と位置を離れるというような行動は、みなこの堕落性本性の発露である。

第3は、主管性を転倒するということである。人間の主管を受けるべき天使が、逆にエバを主管し、またアダムの主管を受けるべきエバが、逆にアダムを主管するようになったところから、堕落の結果が生じたのである。このように自己の位置を離れて、主管性を転倒するところから、人間社会の秩序が乱れるのであるが、これは、すべてこのような堕落性本性から生ずるのである。

第4は、犯罪行為を繁殖することである。もし、エバが堕落したのち、自分の罪をアダムに繁殖させなかったならば、アダムは堕落しなかったであろうし、エバだけの復帰ならば、これは容易であったはずである。しかし、エバはこれとは反対に、自分の罪をアダムにも繁殖させ、アダムをも堕落させてしまった。悪人たちがその仲間を繁殖させようとする思いも、このような堕落性本性から生ずる思いなのである。
原理講論、堕落論4.6

今、すべての堕落性本性がどうだということを知りました。まず所有権、自分を中心とする所有欲から出発したのであり、その次にはうそをついたのであり、その次には不条理な貞操の道を行き、その次にはあらゆる天のものを奪う強奪の道を行き、その次に、アダム時代に来ては、殺害する道を行きました。

歴史時代のすべての独裁者たちが、どのような人たちかというど、うそをついた者であり、不倫的な愛の道を思いどおりに行った者であり、すべてのものを自分の思いどおりに強奪した者であり、すべての善の人を思いどおりに葬り去った者であることを考えるとき、このような歴史的な汚点の道を私達は行ってはなりません。これを愛で昇華させる天の伝統をそのまま受け継ぎ、自分自ら闘うことを願います。
(121-257 ~ 258、1982.10.27)


8.内的闘争

現実的人間は、善と悪という二つの互いに相反する内的衝突現象に直面している。人間がこのような内的矛盾にとらわれている限り、神性的自我を実現することはできず、完全な状態を成すこともできない。

逆説的に世俗の生活に陥った人間は、はっきりした罪意識を除いては、彼らの内部の闘いを感知することはできないまま生きていくだろう。反面、良心的な生活や宗教的な生活を追求する人たちは、直接的にこの問題に直面するようになる。

文鮮明先生は、人間の内的矛盾は人間堕落の直接的な結果だと教える。先生は、神様がそのような矛盾を抱えた人間を創造するはずがなく、そうでなければ、神様は善の神様になれないと語り、人間も完成を成す希望さえもつことができないと主張する。


このような人間の内的矛盾は、堕落によって人間性が歪曲されたという証拠である。堕落の問題が解決されなければ、心と体の闘争も決して終わらない。

―宗教経典―

私は、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです。もし、望まないことを行っているとすれば、律法を善いものとして認めているわけになります。

そして、そういうことを行っているのは、もはや私ではなく、私の中に住んでいる罪なのです。私は、自分の内には、つまり私の肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。私は自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。もし、私が望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはや私ではなく、私の中に住んでいる罪なのです。それで、善をなそうと思う自分には、いつも悪が付きまとっているという法則に気づきます。

「内なる人」としては神の律法を喜んでいますが、私の五体にはもう一つの法則があって心の法則と戦い、私を、五体の内にある罪の法則のとりこにしているのが分かります。私はなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれが私を救ってくれるでしょうか。
ローマの信徒への手紙7.15 ~ 24(キリスト教)

私は何が善であるか知っている。しかし私はそれをしたいと思わない。私はまた、何が悪であるかを知っている。しかし私はそれをやめることが出来ない。私はただ心の中に立っている、ある神の霊にかり立てられるままにそれをなすだけだ。(注21)
マハーバーラタ(ヒンドゥー教)


ラビ・イサクが言った。「人が悪に傾きやすい傾向は、日ごと新しい変化をもちながら人を苦しめる。ゆえに聖書にはこのような聖句がある。『地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っている』(創世記6.5)」。

そして、ラビの息子ラビ・シムオンはこのように言った。「悪を指向する心は、日ごと人に対して抵抗し、拒否する強い力を蓄える。そして人を殺そうと努める。もし聖なる神が人を助けてくださらなければ、彼は決して悪を行う勢力に勝つことはできないだろう。その方に大いなる祝福があらんことを」。
タルムード、キッドゥシーン30b(ユダヤ教)

怨みという煩悩が生じるのは、すべて貪欲と嫉妬とに由来する。さればこそ、神々、世間の人々、阿修羅、それに他の生きものたちは武器で戦いあうようになるのだ。
阿含経長部ii.276、釈提桓因間経(仏教)


すべての邪悪は首にはめられた鎖と違わない。
アーディ・グラント、ソーラト、M.1、P.595(シーク教)

憎む人が憎む人にたいし、怨む人が怨む人にたいして、どのようなことをしようとも、邪なことをめざしている心はそれよりもひどいことをする。
法句経42(仏教)

まことに神は、決して人間をそこないたまわぬ、だが人間は自ら己れをそこなう。
クルアーン10,44 (イスラーム)

誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い。
マタイによる福音書26.41 (キリスト教)


自ら自己を高めるべきである。自己を沈めてはならぬ。実に自己こそ自己の友である。自己こそ自己の敵である。自ら自己を克服した人にとって、自己は自己の友である。しかし自己を制していない人にとって、自己はまさに敵のように敵対する。
バガヴァッド・ギーター6.5 ~ 6(ヒンドゥー教)

預言者が宣布した。「我々は、小さな聖戦から大きな聖戦に戻ってきた」。彼らが「神の預言者よ、何がもっと大きな聖戦なのですか」と尋ねると、彼が答えた。「弱い自らに対抗して戦うことである」。(注22)
ハディース(イスラーム)

私達が最高善の目的によって完成されることをのぞむとき、私達がなすことを熱望するのは、肉が霊に反して欲求しないこと、そして、霊が熱望するところのことに相反する悪徳が私達のうちにないことでないなら何であろうか。私達はこれをいかにのぞんでも、この世の生においてなすことはできないのであるから、すくなくとも神の助力のもとに、霊に反する肉の欲に霊が屈服して譲歩することがないように、そして、私達が同意して罪を犯すことへ引きずられることがないようにするのである。
アウグスティヌス神の国19.4(キリスト教)


―み言選集―

人は本来、悪を避けて善を追求していこうとします。私達の心は、善の世界を立て、悪の世界を除去するために、常に走っていますが、その反面、私自身の中で悪の心が善の心に向かって強く作用するのを私達はよく感じています。善の心を強く掲げていけばいくほど、それに比例して悪の心が常に対決しているのです。
(36-51. 1970.11.15)

人間は誰でも、自己の欲望が満たされるとき、幸福を感ずるのである。しかし欲望などといえば、ややもすると我々はその本意を取り違えがちである。

というのは、その欲望が概して善よりは悪の方に傾きやすい生活環境の中に、我々は生きているからである。しかしながら、我々をして不義を実らせるような欲望は、決して人間の本心からわき出づるものではない。人間の本心は、このような欲望が自分自身を不幸に陥れるものであるということをよく知っているので、悪に向かおうとする欲望を退け、善を指向する欲望に従って、本心の喜ぶ幸福を得ようと必死の努力を傾けているのである。

とりわけ、このような本心の指向する欲望に従って、善を行おうと身もだえする努力の生活こそ、ほかならぬ修道者たちの生活である。しかしながら、有史以来、ひたすらにその本心のみに従って生きることのできた人間は一人もいなかった。

それゆえ、聖書には「義人はいないいひとりもいない。悟りのある人はいない、神を求める人はいない」(ロマ3・10、11)と記されているのである。また人間のこのような悲惨な姿に直面したパウロは「私は、内なる人としては神の律法を喜んでいるが、私の肢体には別の律法があって、私の心の法則に対して戦いをいどみ、そして、肢体に存在する罪の法則の中に、私をとりこにしているのを見る。私は、なんというみじめな人間なのだろう」(ロマ7・22 ~ 24)と慨嘆したのであった。

ここにおいて、我々は、善の欲望を成就しようとする本心の指向性と、これに反する悪の欲望を達成させようとする邪心の指向性とが、同一の個体の中でそれぞれ相反する目的を指向して、互いに熾烈な闘争を展開するという、人間の矛盾性を発見するのである。

存在するものが、いかなるものであっても、それ自体の内部に矛盾性をもつようになれば、破壊されざるを得ない。したがって、このような矛盾性をもつようになった人間は、正に破滅状態に陥っているということができる。

ところで、このような人間の矛盾性は、人間が地上に初めて生を享けたときからあったものとは、到底考えられない。なぜかといえば、いかなる存在でも、矛盾性を内包したままでは、生成することさえも不可能だからである。もし人間が、地上に生を享ける以前から、既にこのような矛盾性を内包せざるを得ないような、運命的な存在であったとすれば、生まれるというそのこと自体不可能であったといえよう。
したがって、人間がもっているこのような矛盾性は、後天的に生じたものだと見なければなるまい。人間のこのような破滅状態のことを、キリスト教では、堕落と呼ぶのである。
原理講論、総序

人間の良心は神様を代表する心です。良心は私のために存在しません。天の義のために存在します。良心は常に善に向かって走ろうとします。これに体は反抗します。体は自分だけ安らかであろうとし、利己的であり、本能的欲求に従って肉欲を行おうとします。良心はこの体を叱責し、心に順応するようにします。ここに常に血の出るような葛藤と闘争が、一つの体の中で起こるようになるのです。
(219-118、1991.8.28)

今、私達の生命の種をどこで受けましたか。神様から受けましたか、サタンから受けましたか。サタンから受けたということを誰も否定できません。しかし、本心は、サタンの種ではなく、本然の理想的な生命の種を願っています。
このように不調和が起きるので、苦痛を受けるのです。心は神側に立ち、体はサタン側に立って闘っています。ですから、皆さんが心と体の統一をもたらさない限り、天国に行くことができないのです。
(235-203、1999.9.20)

人類歴史に宗教が必要ならば、その宗教によって何をしなければならないのでしょうか。肉身を征服しなければならないのです。なぜなら、肉身によって歴史が滅び、肉身によって社会が滅び、肉身によってこの人類が滅びたたのです。したがってこの肉身は怨讐の母胎であり、罪悪の根本の根だということを切実に感じなければなりません。
(18-322、1967.8.13)

私が問題です。それで、私が怨讐です。皆さんの心と体が一つになれないことが怨讐です。
(128-108、1983.6.5)


この体は、サタンの舞台になっています。体はサタンの舞踏場になっていて、心は神様の舞踏場になっています。堕落していなければ、心と体が一つになるのです。神様の愛、神様の生命、神様の血統を中心として自然に一つになるのです。
(235-203、1992.9.20)


9.利己主義と慢心

自我に対して過度にのめりこんだ利己主義は、神様の実在に対して盲目にさせる。そのような問題は、自己過信、財産と知識、権力に対する慢心によって生じる。

利己主義と慢心は、私達を神様から遠ざける。私達自身が独立していると考えるならば、私達の存在自体が究極的実在に従属されているとい
う事実を認識することができない。慢心は、ほかの人の必要性を無視し、ほかの人の助けを、口を極めて断る。その上、慢心は、私達自身の状態を正確に知ることができないようにする。

キリスト教では、慢心が堕落の第一歩であり、神様に対する反逆だとみなす。仏教では、自我を追求して慢心をもつことがあらゆる欲望の頂点であり、無知の最も深い根とみなす。インドの宗教によれば、利己主義は人を輪廻の車輪に固定させる鎖である。

文鮮明先生は、このような一般的な教えを語りながら、今日の富裕な強大国の市民たちに蔓延している社会的な自己顕示的慢心と利己主義に対して、特に指摘する。先生は特に、アメリカ社会の隅々に潜んでいる慢心に対してアメリカの悔い改めを勧め、そうしなければ必然的にアメリカは衰退すると警告する。先生はまた、利己主義と慢心を、心の奥深くに悪の習性を植えた人間の堕落と連結させる。

―宗教経典―

いや、人間は、自分で何も足らぬところはないのだと考え、まことに法外である。まことになんじの主に、よろずのものは帰されるのである。
クルアーン96.6 ~ 8(イスラーム)

痛手に先立つのは驕り。つまずきに先立つのは高慢な霊。
箴言16.18 (キリスト教)


災いだ、自分の目には知者であり、うぬぼれて、賢いと思う者は。
イザヤ書5.21 (キリスト教)

自己中心的な考えは、それ自身には甘美なものかもしれないが、全体の不調和がそこから現れ得る。
おさしづ(天理教)

すべての痛みとつらさは、調和の欠乏から生じ、調和を妨害する一つの恐るべき、そして唯一の原因は、いかなる形態であれ利己心であると、私達は主張する。
エレナ・ペトロヴナ・ブラヴァツキー神智学の鍵(神智学)

「ここに我あり。これは我に属す」などと臆計し、それによって自己を以て自己を縛するに至るのは、あたかも鳥が網を以て自己を縛するが如くである。
マイトリ・ウパニシャッド3.2 (ヒンドゥー教)


「私には子がある。私には財がある」と思って愚かな者は悩む。しかしすでに自己が自分のものではない。ましてどうして子が自分のものであろうか。どうして財が自分のものであろうか。
法句経62(仏教)

利己心のある所にあなたがいることはできず、あなたのいる所に利己心はない。
アーディ・グラント、マールー・キ・ヴァールM.1、p.1092 (シーク教)

エシュルンはしかし、肥えると足でけった。お前は肥え太ると、かたくなになり、造り主なる神を捨て、救いの岩を侮った。
申命記32.15 (キリスト教)

オンチャメ(神)は高くいらっしゃり、人は地にいる。いえいえお、やれれ、神は神、人は人、
ぞれぞれ自分の家にいて、自ら生きる。(注23)
ファン族の伝承(アフリカ伝統宗教)


万軍の主の日が臨む、すべて誇る者と傲慢な者に、すべて高ぶる者に――彼らは低くされる――高くそびえ立つレバノン杉のすべてに、バシャンの樫の木のすべてに、高い山、そびえ立つ峰のすべてに、高い塔、堅固な城壁のすべてに、タルシシュの船と美しい小舟のすべてに。その日には、誇る者は卑しめられ、傲慢な者は低くされ、主はただひとり、高く上げられる。
イザヤ書2.12 ~ 17(キリスト教)

もしも愚者がみずから愚かであると考えれば、すなわち賢者である。愚者でありながら、しかもみずから賢者だと思う者こそ、「愚者」だと言われる。
法句経63(仏教)

自ら善良だと叫ぶ者は、誰もが当然知るべし、善があなたを避けていくことを。
アーディ・グラント、ガウリー・スクマニーM.5、p.278 (シーク教)


先生がいわれた、「聖人には私は会うことはできないが、君子の人に会えればそれで結構だ。善人には私は会うことはできないが、常のある人に会えればそれで結構だ。無いのに有るように見せ、からっぽなのに満ちているように見せ、困っているのにゆったりと見せて〔見栄をはって〕いるようでは、むつかしいね、常のあることは。」
論語7.25(儒教)

つまさきで立つものは長く立つことはできない。
大股で歩くものは長く歩くことはできない。見せびらかすものはすぐれていない。みずから正しいと主張するものは、他よりきわだっているわけではない。

信用を求めるものは信用を得られない。自分を誇るものは最高のものではない。「道」の立場からいうと、これらすべては生物が好まない余分のものである。だから、「道」を有する人はそんなところに留まらないのである。
道徳経24(道教)
驕(おごり)とは高ぶることであり、放逸とは諸善を行なわないことです。慢(ほこり)は七種があり、それを分けて説きましょう。

そのうち、慢心を起して、(われは)劣る者より劣る、同等の者と等しい、劣る者よりすぐれている、または等しいとほこること、これが自慢といわれます。

いかなる性質からしても自己よりすぐれている人と等しいとほこることおよび(自己より)すぐれている人よりさらにすぐれているとほこること、これが高慢であります。

最高の者よりさらにすぐれているとほこることが思い上がりであって、あたかも腫物の上に(さらに)疱瘡が生じるように、有害であります。生存の要素(取)といわれる五(蘊)は空(無実体)でありますが、愚かなためにそれに「われあり」と我執を起こします。それが我執心(我慢)といわれます。
(修行の)報いを得ていないのに得た、と考えるのが、うぬぼれ(増上慢)であります。悪業をなすことを讃えることが邪慢である、と知者は理解しています。自己を必要なし、と自身を軽蔑することが卑下慢である、といわれます。これらを総括して、七(慢)といいます。
龍樹宝行王正論5.6-12 (仏教)


―み言選集―

信仰世界では驕慢を怨讐視しました。我を怨讐視しました。自主的な立場を主張するのを怨讐視しました。
(67-164、1973.6.1)

自分を中心として考えるので、人の悪口を言うようになり、よいものがあれば奪って使いたいと思うのです。そのようなことを考える人は滅びます。何を中心として考えるのかということが問題です。ここにいる人たちは、そのような面できちんとしていますか。このように見るとき、人はほかの誰かに期待する必要がありません。
(36-183、1970.11.29)

自分を中心とする主義や主張をもった人は滅びます。自分の欲望のために人命を害し、国に害を及ぼしたというときに滅びるのです。国は個人に利用されるものではありません。かえって国に利用されなければならないのが国家圏内にいる国民の道理です。
人間は本来、自分個人だけのために生きるようになっていません。ところが、今日この地上には、自分個人だけのために生きる人がたくさんいます。「自分のために仕事をする」と言います。自分自身のために生きているというのです。どれほどかわいそうな人ですか。父母も、兄弟もいない孤児と同じです。
(24-20 ~ 21、1969.6.22)

堕落の起源、本来の人間が出発した起源を私達が解剖してみれば、個人的な感情を中心として出発したのが人類歴史の起源なので、現代はそれが帰結され得る時なのです。自由思想! このような自由な思想があるので、何かの型を中心として箱のようなところに収まっていないのです。好きなように育ち、好きなようにしていってみると、結果はすべて同じです。結果はすべて同じになるというのです。自分の思いどおりにすれば、あとでどのようになるのですか。それが特別によくなるのではなく、結局はすべて滅びるようになります。
(49-189 ~ 190、1971.10.10)

歴史的なすべての動きは、個人を拡大させたものです。今まで、個人が出世やある目的を達成するためには、どのような手段を使ってきましたか。自分の目的を達成するためには、団体を利用したり、個人を利用したりしました。それが今までの歴史的伝統でした。

人間が堕落しながら出発したその日から、サタンの血を受けて生まれたその日から、本意でない驕慢を中心に自分の利益を渇望してきたのが歴史的方向ではないかというのです。堕落が蒔いた種が正にそれです。
(46-141 ~ 142、1971.8.13)

神様の血統を受けなければならないこの人間たちが、僕の血統を受け継いだということです。ですから、堕落した人間たちがどんなに神様を父と呼んでも実感がわかないのです。それで自分のお父さん、お母さんがしたのと同じようにサタンの本性を引き継いで、自分を中心としてすべてのものを考えるようになり、天も何も、高いものはみな自分と連結させるのです。(91-242、1977.2.23)
皆さんが自己主張ばかりしていれば、みな離れていくでしょう。
(36-181、1970.11.29)

アメリカの国民たちは、個人主義の思想を尊重するのを知っています。主体と対象の関係を忘却した個人主義はあり得ません。ですから、アメリカは袋小路に来たのです。今こそ、キリスト教の精髄の路程を掘り返し、神様の本然の生命の道を訪ねていかなければなりません。

神様は、「個人は家庭のためにあり、家庭は民族のためにあり、民族は国のためにあり、国は世界のためにあり、世界は神のためになければならない」と天理原則を主張します。そのように神様に従っていけば、神様のものであると同時に私のものになるのです。神様のために生きることが私のために生きることになります。
(69-88 ~ 89、1973.10.20)


個人主義は、サタンによる堕落の結果物です。サタンは、自分自身を中心として分離されます。一つは二つになり、二つは四つになります。なぜこのようにアメリカが個人主義国家になったのですか。サタンの王国だからです。ですから、希望がありません。

個人主義のセンターはプライバシーです。それは何ですか。それによって家庭が壊れ、社会が壊れ、国家が壊れます。それは最も恐ろしいものです。そのように地獄に落ちるのです。
(361-233、2001.11.25)

歴史を見るとき、汚れたものがどこがら始まったのでしょうか。自分から始まったのです。汚れたものが私達の先祖を汚したのではなく、私達の先祖、自分たちが汚れるようになったのです。

それでは、その汚れるようになった原因はどこにあるのでしょうか。それは先祖たちが、「私」というものを考えたので、そこで汚れたものが生じるようになったのです。すべて自分を中心としたからです。もし、皆さんの先祖たちが自分自身よりもっと貴いもののために生きていれば、自分たちが汚されない道を行ったでしょう。

それでは、自分より貴いものは何ですか。私は結果的な存在です。ですから、結果的存在は原因的存在のために生きなければなりません。このような結論が出てきます。自分のことを考える前に神様を考え、自分の考えを捨てて神様のことを考えて生きていれば、その人は悪の人になり得ないという結論が出てくるのです。
(92-58 ~ 59、1977.3.13)

皆さんが冷遇され、つばを吐かれながらピーナッツを売り、殴られたりするとき、「お父様!」と悔い改める条件が多いのです。私に罪が多いために、当然受けるべき「私」だというのです。皆さんがそのような生活を約3年だけすれば、皆さんは神様の前に帰るだろうと見るのが先生の観点です。


ところが、皆さんはそのようなことは考えることができず、いくらもたたずに驕慢になっていきます。「ああ、私は統一教会の教会員であり、3年間過ごせば祝福をしてくれなければならず、先生が私を認めてくれなければならず、教会で認めて
くれなければ……」、これはどれほど恥ずかしい姿ですか。これはどれほど恥ずかしいことですか。
(92-72、1977.3.13)

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世界経典-23

2020年10月25日 17時13分57秒 | 学習

②悪の業報の断絶

―宗教経典―

賢明な比丘は、今、以前の生の業の過失を刈り取らなければならないことを知っている。それが多かろうと、またごく少なかろうと、ねたみや憎悪の心から、または衝動的に行った行為は、要求されるその結果を結ばなければならない。

ゆえに、ねたんだり憎んだりせず、衝動的に行ってはならない。賢明な比丘はりっぱな実を結ぶが、知識は罰を呼ぶ道を残す。
阿含経増支部3.33 (仏教)

立派な若者たちや立派な娘たちが、このような経典をとり上げ、記憶し、誦え、理解し、十分に思いめぐらし、また他の人々に詳しく説いて聞かせたとしても、しかもそういう人たちが辱しめられたり、また甚しく辱しめられたりすることがあるかも知れない。
これはなぜかというと、こういう人たちは前の生涯において、罪の報いに導かれるような幾多の汚れた行為をしていたけれども、この現在の生存において、辱しめられることによって前の生涯の不浄な行いの償いをしたことになり、目ざめた人の覚りを得るようになるのだ。
金剛般若経16(仏教)

地上最大の、そして(パータリーと呼ぶ)花の名をつけた都城パータリプッタおいて、釈迦族の家に生まれた二人の有徳の尼僧がいた。そのなかの一人をイシダーシー、もう一人をボーディーと呼び、かれらは、戒行を具え、禅思を楽しみ、学識があり、煩悩を除いていた。

かれらは托鉢に出かけて帰り、食事をとり終って、鉢を洗い、人気のないところに安坐して、つぎのことを語り合った。「大姉イシダーシーよ、あなたは眉目うるわしく、年もまだふけていない。
あなたは、いかなるわざわいを認めて、出離の生活に専念しているのですか?」……

「ボーディ-よ、私が出家した次第を聞いて下さい。すぐれた都ウッジェーニーにおいて、私の父は、徳行の篤い豪商でした。私は、その一人娘で、可愛がられ喜ばれ慈しみをうけました。ときに、サーケータに住む名門の人から(遣わされた)仲人がやってきました。(名門の人とは)多くの財宝ある豪商で、父は私をその人の嫁として与えました。……

婢女のごとく、みずから夫を装飾しました。私は、自分で御飯を炊き、自分で食器を洗いました。あたかも、母が一人っ子に対してなすように、私は、夫にかしずぎました。このように、貞淑で、最善をなし、高ぶらず、早起きで、怠けず、婦徳のそなわった私を、夫は憎みました。

かの(夫)は、(夫の)母と父にむかって言った。『お許しください。私は、出て行きたいのです。私は、イシダーシーと同じ家のなかで、一緒に住みたくないのです。……彼女は、何も私を害したりしません。しかし、私はイシダーシーとともに住みたくないのです。ただ嫌いな女は、私には用がないのです。お許しください。私は、出て行きたいのです』

かれのことばを聞いて、姑と舅は、私に尋ねました。『あなたは、どんなことを仕出かしたのですか? 打ち明けて、ありのままに言いなさい』『私は、何も悪いことはしませんでした。(夫を)害ったこともありませんし、(夫の欠点を)算えたこともありません。夫が私を憎んで発するようなことばを、どうして、私が口にすることができましょうか?』

憂いまどえるかれら(二人)は、その息子の気持に従って、苦しみながら、私を(私の)父の家につれもとして、言いました。『私どもは、(人間のかたちをした)うるわしい吉祥の女神に敗れたのです』

そこで、(父は)つぎに、私を富める第二の家の人に与えました。(第一の)豪商が私を得て(支払った)身代金の半分をもって。私は、かれの家にも一ヶ月住みましたが、やはり、かれもまた、私を追い返しました。私は、婢女のように仕え、罪もなく、戒めを身にたもっていたのですが。

托鉢のために遍歴し、自己を制御し、(他人を)調御する力のある者に向って、私の父は言いました。『あなたは、私の女婿となって、ボロ布の衣と鉢を捨てなさい。』かれもまた、半ヶ月住みましたが、そこで、父に告げました。『私に、ボロ布の衣と鉢と水飲みの器を返してください。もとどおりの托鉢の生活をしたいのです』……

かれは、追われて去りました。私は、独りで思いにふけりました。『私は、許しを得て、出て行きましょう、死ぬために。そうでなければ、出家しましょう』そのとき、大姉ジナダッターは、托鉢のために遍歴しつつ、父の家にこられました。

彼女は、戒律をたもち、博学で、徳を具えた方でした。かの尼僧を見るや、起って、私達は、彼女のために座席を設けさせました。
坐った彼女の両足を礼拝し、食物を捧げました。食物、飲物、かたい食物、それにそこに貯えられているものを、思う存分食べさせて、『大姉よ、私は出家したいと願うのです』と言いました。

そのとき、父は、私に告げて言いました。『娘よ、ここで、かの(ブッダの)教えを行ないなさい。食物と飲物をもって、道の人や再生族(=バラモン)たちを供養しなさい』そこで、私は、掌を合わせ泣いて、父に申しました。『私は、悪業ばかりをしてきました。私は、これを滅ぼしましょう』そのとき、父は、私に告げて言いました。

『さとりを得なさい。最高の真理を得なさい。両足のうちの最尊者(ブッダ)が実証された安らぎを得なさい』。私は、母と父と親族一同のすべての者に挨拶して、出家しました。出家して七日目に、私は、三種の明知を得ました。

私が自分の(過去)七生を知っているのは、その(明知を得た)結果であります。あなたにそれを話しましょう。一心にお聞きください。(その昔)エーラカカッチャの都において、私は、多くの財産ある金工でした。若気の至りで、その私は、他人の妻と親しくなりました。私は、それから死んで、長い間、地獄のなかで煮られました。

(罪の)報いが熟して、そこから出ると、牝猿の胎に宿りました。私が生まれて七日目に、猿群の長である大猿は、(私を)去勢しました。これは、私がかつて、他人の妻を犯した行為の
報いだったのです。

それから、私は死に、シンダヴァの林で生涯を終えて、片目でびっこの牝山羊の胎に宿りました。私は、去勢されて、幼児たちを(背に)乗せて運ぶこと、十二年間でした。そして、虫類に悩まされ、病気にかかりましたが、これもまた、かつて他人の妻を犯したたのです。

それから、私は死んで、牛商人の所有する牝牛から生まれました。私は、樹脂に似た銅色のオスの子牛で、十二ヶ月たって去勢されました。私は、再びすきと車を引きました。盲目となり、悩み、病気にかかりましたが、これもまた、かつて他人の妻を犯したためです。

それから、私は死んで、街道筋にある婢女の家に生まれ、女性でもなく男性でもありませんでした。これもまた、かつて他人の妻を犯したたのです。

三十歳のとき、私は死に、車夫の家の娘として生まれました。この家は、貧しく財乏しく、債権者にたいして多くの借金をもっていました。その後、(借金が)累積し大きく増大すると、隊商の主は、泣き悲しんでいる私を、家から引きずり出しました。やがて、私が十六歳になったどき、その名をギリダーサと呼ぶかれの息子は、私か妙齢に達したのを見て、(私を)嫁
にしました。

かれ(夫)には、他に妻がありましたが、彼女は、身を修め婦徳を具え、世に知られ、(夫に)愛されていました。私は、この夫に憎しみの念を起しました。婢女のように仕えていた私を、かれらが捨てて行ってしまったことは、かの(前世の)業の結果であります。(そして、いま)私は、
それを終滅しました。」
長老尼の詩400 ~ 447、イシダーシー尼(仏教)

責任を果たしたと、すぐに天から報いを受けることを期待してはいけない。あなたの罪が、まだすべて免れていないかもしれないのだから。代わりに、子に何も相続してあげられないことを不徳に思いなさい。アブラハム、イサク、ヤコブが、彼らの善行に報いを望んだなら、どうして義なる者の種が(一つの例として、イスラエル民族)伝承されただろうか。
出エジプト記ラッバー44.3 (ユダヤ教)


―み言選集―

数千年間、先祖たちが悲しみの障壁を積み上げてきましたが、この障壁が日がたてばたつほど低くなるのではなく、サタンがたくさんの計略を働かせ、この障壁を高くしております。

今日、全世界の人類が、先祖のつくりだしたこの怨恨の障壁を崩す責任をもっており、また私達もその責任を担っていることを知らなければなりません。

イエス様が独りで寂しい道を行かれたことが、イエス様の寂しさだとばかり思っておりましたが、その寂しさが私達の寂しさとして残っていることを知るとき、今、涙を流し、天に向かって進んでいくべき自分自身を発見するようになるのでございます。
(1-305 ~ 306、1956.12.23)


罪には、原罪があり、自犯罪があり、連帯罪があり、先祖から受け継いだ遺伝的罪があります。それを清算していかなければなりません。主の弟子になっても、各自の蕩減の道は残っていることを知らなければなりません。

統一教会に入ってきても、すべてそのまま同じではありません。ある人は苦労して、ある人は死にそうになりながら行き、また、ある人はひどく苦労をしながら行かなければなりません。

なぜそうでなければならないのでしょうか。すべて蕩減の道が違うからです。命を捧げてでも行かなければならないというその伝統基準は同じですが、行く道は違うのです。蕩減の量は違うということを知らなければなりません。
(251-131、1993.10.17)

罪というものを『原理講論』では、「サタンと相対基準を造成して……天法に違反すること」といっています。罪には、原罪、遺伝的罪、連帯罪、自犯罪があります。
ところが、普通、地上人は「罪」というと、自犯罪のみを考えがちです。しかし、原罪はもちろん、先祖から受け継いだ遺伝的罪があり、自分が直接に罪を犯したのではなくても、連帯的な責任として負うようになる連帯罪もあります。

堕落人間は、一言で言うと、6000 年の人類歴史すべての善悪の結実体ということができます。子孫は、先祖から善なる性稟も悪なる性稟も受け継ぐのですが、善よりは悪が多い世界で生きているうちに、より多くの悪の性稟と、その罪が子孫たちに受け継がれて、悪循環をしています。

地上人の体の中に、多くの悪霊がついているということは、自分が犯した自犯罪と、先祖の罪が受け継がれて現れた結果を意味しています。罪は、堕落性を通して、サタンと相対基準を結んで、天法に違反した結果なので、罪には必ず事情があり、関連した者がいるようになっているのです。


それで、もし先祖が過去、地上に生きていたときに、間違ったことをして、相手に苦痛と痛みを与えて、恨みをもたせたとすると、恨みをもった霊人たちは、その苦痛を与えた霊人の子孫にぴたっとついて復讐をしようとし、その子孫たちを悪のどん底に陥れようとするのです。このような罪によって現れる代表的な結果が、病気と、それによる苦痛なのです。

現代の地上人がもっている病気のその多くは、このような先祖の罪と関連していると言っても過言ではありません。子孫に現れた病気と苦痛の内容を見ると、過去のその先祖の生き方がどのようであったかを知ることができます。

先祖が公金を流用したり、他人の財産を盗んだりした場合、また、被害を与えた場合には、その子孫が胃腸系の病気になりやすいのです。淫乱罪を犯した場合には、その子孫が脱線したり、生殖器に関連した病気や不妊症が現れたり、離婚する家庭が多いのです。
自分が相手を見間違えたり、また、ほかの人を通して、その人のことについて誤ったことを聞いたりして言葉を誤れば、心情を蹂躙した罪が成立して、その子孫の中に、目や耳や口の不自由な人が生まれる場合もあります。

相手に被害を与え、痛みを与えた、ちょうどその肉身の該当部位に、病気が発生することが多いのです。その罪の代価が重いほど、不治の病として現れます。

このような先祖が犯した罪を、現在、地上に生きている人間が蕩減条件を積んで清算できなければ、その罪は、さらに子孫へ受け継がれていきます。
あとで、地上人が霊界に来て、子孫たちが苦しんでいるのを見て、「自分がその罪を清算してあげていたなら、子孫たちがあの苦痛を受けずに済んだのに」と後悔することも多いのです。
興進様の霊界メッセージ、2002.1.1


私達の先祖が罪をたくさん犯したのなら、私が……。女性、男性、またどれほど罪をたくさん犯したでしょうか。それを蕩減できなかったのなら、子孫の前にも私が祭物になり、いさぎよく従順にしなければなりません。器量のよくない男性でも、器量のよくない女性でも、世の中の美男美女以上に正しく生きよう、このようにして蕩減しなければなりません。
(116-151、1981.12.27)

6000 年も悲しみの祭壇が連続したところには、先祖たちの過ちがあったためであることを知っておりますが、今日、私達がまた責任を果たすことができず、悲しみを後代に残すのではないかと恐ろしく思います。

今日、私が私1代で悲運の歴史を防ぎ、天の心情をここから収拾し、新しい喜びの心情に変えておかなければならない責任が私達にあることを学びましたので、この時間、頭を下げた私達、お父様の心情の同伴者となるよう許諾してください。
(8-262 ~ 263、1960.2.7)
6.連帯的罪と歴史的罪

個人は、その属した国家、人種、氏族と宗教などの集団に、不可避に連帯している。彼らの個人的人生が有罪であれ、潔白であれ、個人は集団の運命に繁栄と苦痛がかかっている。その共同体に広がった悪(戦争、飢饉、伝染病、そして蔓延した麻薬使用など)は共同体のすべての人に苦痛をもたらす。

文鮮明先生は、これを連帯的罪と呼ぶ。人間は、連帯的罪を認識し、その罪の代価を払わなければならない責任がある。何よりもまず国家によって抑圧され、厳しい待遇を受けた人たちの悲しみを理解する努力を通して、連帯的罪を償うことができる。そして、犠牲と愛で連帯的罪を解決することができる。


―宗教経典―

蛇が群がる湖に住む魚のように、たとえ敬虔で罪のない人であっても、他人と付き合えば彼らの過ちによって苦しみを受けるのである。
ラーマーヤナ、森林の巻38(ヒンドゥー教)

神が人に懲罰を下すとき、彼らの中の正義なる者は、その懲罰にぶつかるようになるが、後日、彼らの行為によって復活するだろう。
ブハーリーおよびムスリム・ハディース(イスラーム)

あなたたちは皆、互いに保証人になる。この世で永遠に、あなたたちの中にいる一人の義人の過去の功績で、あなたたち全員が生き、一人が罪を犯すことで、すべての世代が苦痛を受けるようになる。タンフーマ(ユダヤ教)


正義は退き、恵みの業は遠くに立つ。まことは広場でよろめき、正しいことは通ることもできない。まことは失われ、悪を避ける者も奪い去られる。イザヤ書59.14 ~ 15(キリスト教)

主の怒りで私は満たされ、それに耐えることに疲れ果てた。「それを注ぎ出せ、通りにいる幼子、若者の集いに。男も女も、長老も年寄りも必ず捕らえられる。家も畑も妻もすべて他人の手に渡る。この国に住む者に対して、私が手を伸ばすからだ」と主は言われる。

「身分の低い者から高い者に至るまで、皆、利をむさぼり、預言者から祭司に至るまで皆、欺く。彼らは、わが民の破滅を手軽に治療して、平和がないのに、『平和、平和』と言う。彼らは忌むべきことをして恥をさらした。しかも、恥ずかしいとは思わず、嘲られていることに気づかない。それゆえ、人々が倒れるとき、彼らも倒れ、私が彼らを罰するとき、彼らはつまずく」と主は言われる。
エレミヤ書6.11 ~ 15(キリスト教)
我々は、この戦争という巨大な災いが速やかに過ぎ去ることを心から望み、熱心に祈りを捧げている。しかし、もし神が、250 年間にわたる奴隷たちの報われざる苦労によって蓄積されたすべての富が滅却され、鞭によって流された血のすべての滴が、剣によって流される血の滴によって贖われるまで、戦争が続くことを望まれるなら、3000 年前に言われたように、いまもなおこう言わなければならない。「主の裁きはまことにして正しい」。
エイブラハム・リンガーン第2 回大統領就任演説

 

―み言選集―

イエス・キリストは、この地上に神様の栄光と神様の愛と神様の永遠の生命をもって万民を救うために来られたのですが、彼の道をふさいでいる一つの条件がありました。それが何かというと、この人とあの人、この集まりとあの集まり、この社会とあの社会、この国家とあの国家の間に一つの金網のように組まれている罪というものでした。
(1-167、1956.7.11)

アメリカはたくさんの人を殺害しました。アメリカが歴史的な罪をすべて蕩減するためには、何をしなければならないのでしょうか。アメリカが東洋の人のために生きなければなりません。ここでインディアンを虐殺し、黒人たちの血を流しました。彼らは東洋人です。すべて今日この時代に蕩減して越えていかなければなりません。
(101-337、1978.11.12)


最近では、運動する人、走る人の半分以上が黒人です。アメリカでは年ごとに白人が追いやられ、黒人が登場するという事実を皆さんは知らなければなりません。もしこの人たちが統一教会の思想さえもてば、白人はぱたぱたと落ちていきます。白人はかなわないというのです。ですから、白人たちは、反対すれば反対するほど、黒人たちに福を奪われます。神様は損をしません。ですから、黒人は落胆しないでください。

イエス様が十字架を背負っていくとき、助けてくれた人が黒人です。クレネ人のシモンは黒人です。終末が来れば、黒人が登場するのです。問題は何ですか。思想的に偉大な思想をもたなければならないということです。
(91-219、1977.2.20)


7.利己的欲望と堕落性

情念、貪欲、羨望、憎悪、情欲、このような感情は、人に理性を失わせ、破滅へと導き、霊魂を蝕む。大部分の主要な宗教は、度を越した欲望や利己的な欲望のために苦痛と悪が生じると教える。

仏教では、このような欲望を四聖諦の2番目の原理として集約し、「渇愛」という用語で表現している。渇愛は足かせである。心情の毒になり、心を眩惑させ、私達を悪行の道に結びつける。

すべての宗教が利己的欲望を害悪と様々な苦痛の原因として見ているが、利己的欲望を人間の心理と関連させて説明するやり方は、それぞれ異なる。
仏教とジャイナ教は、あらゆる種類の欲望を、さらには存在自体のための欲望も、悪行と束縛の根源とみなし、拒否する。

キリスト教、ユダヤ教、イスラームなどの一神教や、シーク教とヒンドゥー教の一部の経典は、悪の肉体的欲望を善のための健康な欲求、または神様に向かう欲望と区別する。中国の宗教は、ひとえに度を越した欲望と利己的な欲望だけを非難する。欲望が道と調和を成したなら、欲望自体は善のものになり得る。これは、文鮮明先生の教えでもある。神様は、人々が善のための熱望をもつように欲望を創造したが、人間の堕落の結果、利己的なものに変質した。

文鮮明先生は、アダムとエバが堕落する当時、サタン的性質と態度が彼らに植えられたので、利己的な欲望は「堕落性」の表現であると教える。人間の本性が堕落し、真の召命から遠ざかったという事実を様々な経典が証している。

私達は、動物水準、さらにはそれ以下に転落した。私達は、内的矛盾に包囲され、驕慢、暴力、貪欲、そして情欲が私達の人生を支配している。


①利己的欲望と情念

―宗教経典―

これが苦痛の根に関する聖なる真理、すなわち苦聖諦である。再生で引いていくのは渇愛であり、それは貪欲と密接だ。それは、今ここで、また今そこで、ぐつぐつと燃え上がる快楽を求めるが、いわゆる、感覚的快楽に対する渇望と、存在に対する渇望と、生成に対する渇望と、非存在に対する渇望がそれである。(注18)
阿含経相応部56.11、転法輪経(仏教)

貪りと、憎しみと、愚かさとは、その人自身より生じたものでありながら、悪心をいだく人を害する。果をつけた竹が自らほろびるのと同じである。
如是語経50(仏教)

誘惑に遭うとき、だれも、「神に誘惑されている」と言ってはなりません。神は、悪の誘惑を受けるような方ではなく、また、御自分でも人を誘惑したりなさらないからです。
むしろ、人はそれぞれ、自分自身の欲望に引かれ、そそのかされて、誘惑に陥るのです。そして、欲望をはらんで罪を生み、罪が熟して死を生みます。
ヤコブの手紙1.13 ~ 15(キリスト教)

何が原因で、あなたがたの間に戦いや争いが起こるのですか。あなたがた自身の内部で争い合う欲望が、その原因ではありませんか。あなたがたは、欲しても得られず、人を殺します。

また、熱望しても手に入れることができず、争
ったり戦ったりします。得られないのは、願い求めないからで、願い求めても、与えられないのは、自分の楽しみのために使おうと、間違った動機で願い求めるからです。
ヤコブの手紙4.1 ~ 3(キリスト教)

アルジュナはたずねた。「それではクリシュナ、人間は何に命じられて悪を行うのか。望みもしないのに。まるで力ずくで駆り立てられたように。」

聖バガヴァットは告げた。それは欲望(カーマ)である。それは怒りである。激質(ラジャス)という要素(グナ)から生じたものである。それは
大食で非常に邪悪である。この世で、それが敵であると知れ。

火が煙に覆われ、鏡が汚れに覆われ、胎児が羊膜に覆われるようにこの世はそれ(欲望、怒り)
に覆われている。知識ある者の知識は、この永遠の敵に覆われている。

アルジュナよ、欲望という満たし難い火によって、感官と思考器官(マナス)と思惟機能(ブッディ)は、それの拠り所であると言われる。それはこれらにより知識を覆い、主体(個我)を迷わせる。それ故アルジュナよ、あなたはまず感官を制御し、理論知と実践知を滅ぼすこの邪悪なものを捨てよ。
バガヴァッド・ギーター3.36 ~ 41 (ヒンドゥー教)


先生がいわれた、「私は美人を愛するほどに道徳を愛する人をまだ見たことがない。」
論語9.18 (儒教)

女が誘惑物だと人々は言う。
いや、いや、そうではない。
お金が誘惑物だと人々は言う。
土地が誘惑物だと人々は言う。
いや、いや、そうではない。
本当の誘惑物は満足することを知らない欲望だ。
おお、主なるクヘスワラよ!(注19)
アラマ・プラブーヴァチャナ91(ヒンドゥー教)

この体に隠れた盗賊が五つあるが、色欲、憤怒、貪欲、執着、利己心がそれである。(注20)
アーディ・グラント、ソーラトM.3、p.600 (シーク教)

「諸欲に執し諸欲にあらわせるものは結使に禍あるを見ることなし。これおおいし結使に執著せるものは廣くして大なる河を渡ることなければなり」
「欲に盲目なるもの、網におおわれしもの、愛欲の覆いにおおわれしもの、放逸の友に囚われたるものはあたかも罠の口にある魚の如く、乳を飲む子牛の親牛に向ふがごとくにして老死に赴く」
感興偈75 ~ 76(仏教)


―み言選集―

私達の境界線の中で、最も危険なものとは何かというと、横道にそれやすいことです。それが私達の人生生活においては何かということです。じっくり一度指を折って数えてみましょう。それは、外的と内的に分けられます。

外的に見れば、相対的関係において何が必要なのですか。何か一度数えてみましょう。お金も数えることができます。その次には、知識というものです。また、その次には何かというと権力です。大概このようにみなします。そのようなお金というものが私を引っ張るのです。

それでは、そこに何ゆえに引っ張られるのですか。私がそこに誘惑され得る条件とは何でしょうか。私の内的な問題において、それが正に欲心、欲望なのです。誰のための欲心ですか。この欲心が悪いのです。私のための欲心です。
(90-12、1976.12.5)

人間は誰でも、自己の欲望が満たされるとき、幸福を感ずるのである。しかし欲望などといえば、ややもすると我々はその本意を取り違えがちである。というのは、その欲望が概して善よりは悪の方に傾きやすい生活環境の中に、我々は生きているからである。

しかしながら、我々をして不義を実らせるような
欲望は、決して人間の本心からわき出づるものではない。人間の本心は、このような欲望が自分自身を不幸に陥れるものであるということをよく知っているので、悪に向かおうとする欲望を退け、善を指向する欲望に従って、本心の喜ぶ幸福を得ようと必死の努力を傾けているのである。

これこそ正に、死の暗闇を押しのけて、命の光を探し求めながら、つらく、険しい人の道を彷徨する偽らざる人生の姿なのである。いったい、不義なる欲望のままに行動して、本心から喜べるような幸福を味わい得る人間がいるであろうか。このような欲望を満たすたびごとに、人間は誰しも良心の呵責を受け、苦悶するようになるのである。その子供に悪いことを教える父母がいるであろうか。その子弟を不義に導く教師がいるであろうか。誰しも悪を憎み、善を立てようとするのは、万人共通の本心の発露なのである。
原理講論、総序

人間は、神様の実体である。ゆえに神様は、私を通して喜ばれる。しかし私が、ねたみ、しっと、驕慢のような堕落性によって欠陥のある実体だとすれば、どうして神様が私を通して喜ばれることができようか。
御旨の道、人格

外的な体を中心とした愛が、内的な心を中心として、理想的な永遠な生命の起源になる神様の愛を裏切ってくる歴史の結果がもたらされたのです。ですから外的な愛、すなわちサタンの愛を除去し、そこに本然の内的な愛、すなわち神様の愛を相続して体と心を糾合しなければなりません。
(20-179、1968.6.9)

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世界経典-22

2020年10月25日 17時12分50秒 | 学習

4.罪

罪に対する聖書の意味は、「的を外れたこと」である。したがって、罪は人間が人生の真の基準からどれほど外れたかを意味する。罪を理解する道はいろいろある。ここに三つを提示する。

第1には、殺人、窃盗、性的不道徳、嘘と麻薬摂取のような典型的な悪行である。世界の諸宗教は共通してこのような罪を非難する。第2に、罪の意味は意図的であれ非意図的であれ、人に害を及ぼす自己中心的思考である。これは、より微細に罪を理解したものであるが、日常生活で人と衝突する行動の動機と方法に対して自己反省するようにさせる。

罪は魔力をもっている。これは私達を束縛し、神様に近づいていくことを妨害する。罪を理解する3番目の方法は、罪をどこにでも隠れている欠点と堕落のような人間の日常的条件として見ることである。
このような脈絡から、文鮮明先生は、すべての罪は神様との本来的関係を切っておいて、人間を疎外と闘争の状態に残した人間堕落の結果だと教える。

①罪の意味

―宗教経典―

生きものを殺し、虚言を語り、世間において与えられていないものを取り、他人の妻を犯し、穀酒・果実酒に耽溺する人は、この世において自分の根本を掘りくずす人である。
法句経246 ~ 247 (仏教)

正しくない者が神の国を受け継げないことを、知らないのですか。思い違いをしてはいけない。みだらな者、偶像を礼拝する者、姦通する者、男娼、男色をする者、泥棒、強欲な者、酒におぼれる者、人を悪く言う者、人の物を奪う者は、決して神の国を受け継ぐことはできません。
コリンの信徒への手紙6.9 ~ 10(キリスト教)

黄金をぬすむ人、スラー酒をのんでいる人、師の閏房をけがす人、バラモンを殺害する人、これら四種の人びとは〔犬や豚やチャンダーラに〕堕落する。
そしてかれらと交わる第五番目のものも〔堕落する〕
チャーンドーギヤ・ウパニシャッド5.10.9(ヒンドゥー教)

ムハンマドが言う。「姦淫を行った者は信者ではない。窃盗を行う者は信者ではない。飲酒をする者は信者ではない。それから目を離したからといってそれを奪っていく者は信者ではない。人をあざむく者は信者ではない。ゆえに注意し、また注意せよ」。
ブハーリおよびムスリム・ハディース(イスラーム)

ラーフラよ、もしそなたが身による行為をなしたいと思うならば、そなたはその身の行為についてよく観察すべきです。〈私がなしたいと思っているこの身による行為は、自己を害することになりはしないか、他者をも害することになりはしないか、両者ともに害するものになりはしないか、この身の行為は不善のもの、苦を生むもの、苦の果のあるものではないか〉と。
ラーフラよ、もしそなたが観察しながら、〈私がなしたいと思っているこの身による行為は、自己を害することになる、他者をも害することになる、両者ともに害することになる、この身の行為は不善のもの、苦を生むもの、苦の果のあるものである〉と知るならば、ラーフラよ、そなたはそのような身による行為を、けっしてなすべきではありません。
阿含経中部i.1415(仏教)

主の手が短くて救えないのではない。主の耳が鈍くて聞こえないのでもない。むしろお前たちの悪が、神とお前たちとの間を隔て、お前たちの罪が神の御顔を隠させ、お前たちに耳を傾けられるのを妨げているのだ。
イザヤ書59.1 ~ 2(キリスト教)

善悪両果報で成れる索(なわ)で縛られたる状態はあたかも跛人の如く、自由なきことは囚人の如く……
マイトリ・ウパニシャッド4.2 (ヒンドゥー教)

私達が幸福になるためにおこなっておりながら、じっさいにはむしろ不幸になるとき、あるいは、より幸福になるためにおこなっておりながら、じっさいにはより不幸となるとき、そこに偽りが存するのである。

しかし、人間が幸福となることができるのは、人間が罪を犯すことにより見捨てた神からくるのであって、自分自身にしたがって生きることにより罪を犯した人間からくるのではない、という理由によっていま述べたことがあって、そうでなければいかなる理由によるのであろうか。
アウグスティヌス神の国14.4 (キリスト教)


―み言選集―

人のために生きずに自分のために生きるところから、すべての罪悪が発生しました。どろぼうがなぜ悪いのですか。そのどろぼうは自分かやりたくてやったのに、その何が悪いのですか。一着の服にも犠牲の代価が含まれていて、奉仕の代価が含まれています。公的なものが入っているのです。それをそのままもってきたので罪なのです。
(105-92 ~ 93、1979.9.30)

今から守るべき鉄則とは何かというと、1 番目に、死ぬほどのことがあったとしても血統を汚してはいけないということです。2番目は、人事処置を誤って人権を蹂躙してはいけないということです。

男性であれ女性であれ、黒人であれ、白人であれ平等です。人権を差別せず、人権を蹂躙してはいけないというのです。責任者は、自分の心に合わないからといって、むやみに人事措置をしてはいけません。心に合わないからといってむやみにでぎないのです。
3番目は、公金を盗んではいけないということです。公金を自分勝手に使うなということです。この三つです。(注12)
(342-298 ~ 299、2001.1.13)

罪とは何ですか。神様のみ言に背いたことが罪だというのですが、サタンが讒訴できる条件を提示することが罪です。神様のみ言を信じないことが罪です。

怨讐がかみついて放さないことができる条件を提示することが罪です。ですから、原理原則に、法度に背けば、神様もどうすることもできません。サタンに引っ掛かっていくのです。

イエス様は、生まれるときサタンの讒訴できる立場から外れた立場で生まれたので、原罪のない方です。サタンの主管圏内でサタンと接するのが原罪ですが、イエス様はサタンの讒訴条件だけでなく、すべての条件を越えて生まれた方なので、原罪とは関係がないのです。
(22-257、1969.5.4)
お互いに愛する人が、きょうは好きなのに、あすには別れるのですから、どうして平和があり、どうして統一があり、どうして自由があるのかというのです。そのような愛は、破壊ばかりを招き入れるのです。破壊の動機であり、受け入れることができない内容だというのです。

その愛は、反対にサタンが利用してこの人類を破壊させ、人類の理想を破壊させるための一つの戦略的な武器だ、ということを皆さんは知らなければなりません。私達から真の平和を奪っていき、私達から真の自由を奪っていき、私達から真の統一を奪っていく怨讐の戦略的な方法だ、ということを私達は知らなければなりません。

伝統をもった愛、原因と結果が通じ得る愛を中心として見てみるとき、それ(淫乱な愛)は悪であり、怨讐であり、赦すことができない罪です。神様にとって怨讐であり、容認できない罪なのです。罪の中の何の罪ですか。最も恐ろしい罪です。怨讐の中で神様が最も嫌う怨讐なのです。
その道を是正できない者は、神様は怨讐であり、罪として扱うので、激しく打って滅ぼすようにするのです。滅ぼすようにするのが原則です。

皆さんの中に、イタリアのポンペイ市に行ったことがある人もいるかもしれませんが、その都市が滅んだのも、淫乱な愛の社会生活のためでした。ソドムとゴモラもそれで滅亡したのです。ローマもそれで滅びました。このような公式的な歴史観で推し量ってみるとき、アメリカもそのような愛を是正せずに、悔い改めなければ、滅びます。
(104-141、1979.4.29)


②罪の浸透

―宗教経典―

自分に罪がないと言うなら、自らを欺いており、真理は私達の内にありません。
ヨハネの手紙一1.8(キリスト教)

また私自身、罪を免ぜられるわけでもない。まことに人間の心は確かに悪に傾きがちで、私の主が、慈悲を賜わないならば悪に陥ったかも知れぬ。(注13)
クルアーン12.53 (イスラーム)


では、どうなのか。私達には優れた点があるのでしょうか。全くありません。既に指摘したように、ユダヤ人もギリシャ人も皆、罪の下にあるのです。次のように書いてあるとおりです。

「正しい者はいない。一人もいない。悟る者もなく、神を探し求める者もいない。皆迷い、だれもかれも役に立たない者となった。善を行う者はいない。ただの一人もいない。」
ローマの信徒への手紙3.9 ~ 12(キリスト教)

地上においても天の神々においても、プラクリティ(根本原質)より生じた三要素(グナ)から解放された生類はいない。(注14)
バガヴァッド・ギーター18.40 (ヒンドゥー教)

先生がいわれた、「わたくしは、まだ仁を好む人も不仁を憎む人も見たことがない。仁を好む人はもうそれ以上のことはないし、不仁を憎む人もやはり仁を行なっている、不仁の人をわが身に影響させないからだ。

もしよく一日のあいだでも、その力を仁のために尽くすものがあったとしてごらん。力の足りないものなど、わたくしは見たことがない。あるいは〔そうした人も〕いるかも知れないが……、わたくしはまだ見たことがないのだ。」(注15)
論語4.6 (儒教)

このようなわけで、一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです。すべての人が罪を犯したからです。
ローマの信徒への手紙5.12 (キリスト教)

私は咎のうちに産み落とされ、母が私を身ごもったときも、私は罪のうちにあったのです。(注16)
詩編51.7 (キリスト教)

かの夫婦として結合した一組の男女が神の罪の宣告をうけたときに、最初の男において、女をとおしてその後裔へと引き渡されていくべき全人類がすでにあったわけである。これは、かれがつくられたときではなく、かれが罪を犯し罰せられたとき人間が成ったところのものであって、かれはこれを、罪と死との起源にかんするかぎり生み出したのであった。
アウグスティヌス神の国13.3 (キリスト教)


―み言選集―

人間の世界で、永遠に変わろうにも変わることができず、分けようにも分けごることができない一つの完全な義理を完成し、天と地に誇れるそのような義理の関係を結んだ人がいるのかというとき、いないと言っても過言ではないでしょう。

さらには、宗教を立てておいて、その道理と永遠に分かれることのない自分を立てたのかというとき、これも自信をもって答えられない自分である
ことを悟るでしょう。さらには、天倫と永遠に一つになることができ、何がそれを分けようとしても分けることができない、一つになった立場にいるのかというとき、そのようにできていないことを皆さん感じるでしょう。
(4-135、1958.3.30)

神様がいるとすれば、皆さんはその神様に似て生まれたのです。それでは、神様が善の神様であれば私達人間も善の人間にならなければならないはずですが、善の人間になることができず、相当に複雑で、善でない人間になったことを認めざるを得ません。善の神様と私達人間の間には隔たりが生じたのです。

皆さんがきれいな服を着ているのに、ここに汚れたものがつけば、それを切ってしまうか、はらってしまうか、見栄えがよくないので処断してしまわなければなりません。それと同じように、善の神様の端に、この汚れた人間がくっついていると考えてみてください。そのように考えなければなりません。そのように見るとき、私達人間は、聖書を知らなくても、汚されたというのです。
(92-58、1977.3.13)

堕落することによって、神様と人間の関係が根本的に破綻しました。いくら神様に帰ろうとしても帰ることができず、また、神様が私達人間のところにいくら来ようとしても来ることができない隔たり生じてしまいました。

壁が生じ、国境が生じてしまったのです。神様まで行くことができない、神様を父母として侍る人間が行くことができない壁、越えることのできない壁、それが何の壁ですか。これが問題なのです。全能であられる神様が思いどおりにできる壁になれなかったという事実が、宗教者にとって問題にならざるを得ません。

この壁が、我々個人の心と体の間に入り込むようになりました。夫婦の間にも、壁が入り込むようになりました。家庭がそうであり、氏族と民族と国家と世界、全霊界の天国と地獄の間にも、このような塀が生じたのです。

この塀を取り除かなくては、神様がいくら天国の栄光のみ座にいらっしゃるとしても、地上にいる我々は、包囲されたこの塀を越えられません。これが、この地上に生きている人間の悲劇です。
(135-268、1985.12.15)

アダム、エバがどうなったかといえば、アダム、エバが関係して神様と一つになるべきところを、僕と一つになってしまいました。結局、神様の血統を受けなければならないこの人間たちが、僕の血統を受け継いだということです。ですから、堕落した人間たちがどんなに神様を父と呼んでも実感がわかないのです。
(91-242、19772.23)

堕落したアダムとエバが相対の因縁を結んで出発したその家庭は、神様とは全く関係がありません。その家庭は、神様がとても悲しむ拠点になったのであり、反対に怨讐であるサタンがすべての権利を主張し、すべての権限を発揮できる拠点になったということを、皆さんは堕落論を通して学んだでしょう。

堕落は、個人と個人、すなわち一人の男性と一人の女性によって引き起こされたものですが、それは単に一人の男性と一人の女性に限られたものではなく、歴史的であり、天宙史的な内容をもっていることを私達は知っています。
(46-196、1971.8.15)

いまだに人類は、私達の先祖であるアダムとエバから伝授された堕落性の奴隷になっており、その束縛から抜け出すことができずにいるという意味です。生涯を断食と禁欲、そして途方もない犠牲の苦難の道を貫いて旅立った聖人、賢哲たちの告白がそれを証しています。肉身の欲望を完全に根絶することができずに旅立たざるを得なかった彼らの告白は、いまだに地上界で同じ道を踏襲している弟子たちと信徒たちに向かって切実に訴えているのです。
(447-160 ~ 161、2004.5.1)


5.遺伝罪と業報

宗教は、様々な人間の運命と天賦的才能の差を過去から受け継いだ結果として説明する。それは、過去の自分の人生の業報や子孫に下ってきた先祖たちの罪、この二種類として理解される。このような教理は、人をして過去の行為を贖罪させ、未来の世代のための善業を積むために、彼らの運命を受け入れさせ、忍耐心をもって耐えるように導く。

業報は行動を意味するが、より具体的に一人の個人がこの世や過去の人生で引き起こした行動を意味する。輪廻に対する信仰をもっているヒンドゥ一教と仏教では、人々は彼らの現在の人生を次の生涯で自業自得にならざるを得ないと教える。

しかし、これらの宗教は、一人の状況が業報によってどのくらい決定されるかの程度では、見解が異なる。ヒンドゥー教は、業報によって個人の現在の人生が全面的に決定すると信じる。したがって、財産、人種、性別、あるいはカーストの不平等は当然のことであり、事実上、宇宙は絶対的に正義であり公正なものである。

一方、仏教は、業報が決定的原理だという点を否定する。業報は一人の人間の人生を条件づける24 の要因(パッチャヤ)の中の一つとして、ほかの条件が備われば、業報は現れる必要がないとする。仏教信者は、精神的修練と瞑想訓練を通して自由を得て、業報の束縛から抜け出そうとする。

東洋と西洋の大部分の宗教は、罪が血統を通して遺伝する点を認める。個人は、肉体的特性は言うまでもなく、家風、態度、個性まで譲り渡した自分の先祖の罪を背負っている。先祖たちの人生は、未来の世代の経験にも影響を及ぼし、数世紀まで伝わる痕跡を残すのである。したがって、このような遺伝問題を解決しようとする賢明な人は、子孫に害を及ぼさないだろう。かえって、子女のために善業を残すだろう。文鮮明先生は、遺伝罪がどのように遺伝し、どのように解決され得るのかに対して、少なくない教えを提示している。

①過去の人生の遺産

―宗教経典―

あなたはそれらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない。私は主、あなたの神。私は熱情の神である。私を否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問うが、私を愛し、私の戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える。
出エジプト記20.5 ~ 6(キリスト教)

父祖の犯せし罪よりわれを解き放せ。われらみずから犯せし[罪]より解き放せ。
リグ・ヴェーダ7.86.5(ヒンドゥー教)

死から依然として処罰を受けていない罪が残っていれば、判決は子孫に延長される。過ちと暴力によって他の人のお金を持っていけば、計算され、その総額を妻と子とその家族たちが次第に死ぬとき、彼らから奪うようになる。もし彼らが死ななければ、彼らの邪悪な着服の額だけ均衡をとるために、水、火、窃盗、強盗、財産の喪失、疾病、そして毒舌(中傷)などによる災難がある。
太上感応篇4.5(道教)

危険を避けるために
小さなひょうたんの蔓の中に入っていくほど
能力のある者よ!
あなたは子を忘れていたのか。
あなたは妻を忘れていたのか。
人が蒔いた悪の種は
彼の子孫が刈り取るようになる。
無慈悲に必ず報復を受けるだろう。
いくら遅くなっても報復は時になれば訪れる。
ヨルパ族の歌(アフリカ伝統宗教)

現世であらゆる子孫の運命は、彼の先祖と変わるところがない。死が破滅を止めることはできず、生存者が彼らの罪悪を放棄することはない。人はそれぞれ互いの前轍を踏み、群れごとに、国ごとに、彼らの道を正すことを考えること心なく、終末を迎えるのだ。
ナフジュ・アル・バラーガ説教86(シーア派イスラーム)
義なる者、どれほど幸福か! 彼一人に徳があるのではなく、子らにまでその徳が相続される。その子の子らにも、あの最後の世代にも、その徳が及ぶ。

アロンは、ナダプとアビフのように火刑にされて当然の息子たちがいたが、その父の徳によって彼らは命を拾った。

罪を犯した者、どれほどふびんか! その罪の代価を一人で支払うのではなく、子らにまで受け継がれるのだ。その子の子らにも、あの最後の世代にも、その罪の代価が及ぶ。カナンの多くの息子は、ラビ・カマラエルの小間使いだったタビのような運命をもって生まれたが、彼らの先祖たちの罪によって、その福の機会を失った。
タルムード、ヨーマ87a(ユダヤ教)

トーデッヤの子であるスバ青年バラモンは世尊にこう言った。「ゴータマ尊よ、人身をそなえている人間に劣性と優性が見られる因は何でしょうか。縁は何でしょうか。なぜならば、ゴータマ尊よ、人間には短命の者が見られ、長命の者が見られるからです。多病の者が見られ、無病の者が見られるからです。醜い者が見られ、美しい者が見られるからです。権勢のない者が見られ、大権勢のある者が見られるからです。貧困の者が見られ、富裕の者が見られるからです。低階層の者が見られ、高階層の者が見られるからです。知恵のない者が見られ、知恵のある者が見られるからです。ゴータマ尊よ、人身をそなえている人間に、劣性と優性が見られる因は何でしょうか。縁は何でしょうか」と。……

「青年バラモンよ、ここに、ある女性、あるいは男性は殺生者となります。残忍で、手を血に染め、殺戮にふけり、生き物に対する思いやりがありません。このように遂行し、このように引き受けたその業によって、かれは身体が滅ぶと、死後、悪処・悪道・破滅の地獄に生まれかわります。

もしも身体が滅び、死後、悪処・悪道・破滅の地獄に生まれかわらず、人間の状態を得るならば、
どこに再生しようとも短命の者になります。……
しかし、青年バラモンよ、ここに、ある女性、あるいは男性は、殺生を捨て、殺生を離れる者となります。棒を置き、刀を置き、恥じらいがあり、慈愛があり、すべての生き物を益し、同情して住みます。このように遂行し、このように引き受けたその業によって、かれは身体が滅ぶと、死後、善道の天界に生まれかわらず、人間の状態を得るならば、どこに再生しようとも長命の者となります。

青年バラモンよ、これが長命に導く実践、すなわち殺生を捨て、殺生を離れる者となり、棒を置き、刀を置き、恥じらいがあり、慈愛があり、すべて
の生き物を益し、同情して住むことです。

青年バラモンよ、ここにある女性、あるいは男性は、生けるものたちを手によって、……害する類の者となります。……このように遂行し、このように引き受けた業によって……どこに再生しようとも多病の者になります。……しかし、青年バラモンよ、ここに、ある女性、あるいは男性は、生けるものたちを手によって……害さない者となります。……かれは無病の者になります。

青年バラモンよ、ここに、ある女性、あるいは男性は、怒りのある者、悩みの多い者になります。……どこに再生しようとも醜い者になります。……しかし、青年バラモンよ、ここに、ある女性、あるいは男性は、怒りのない者、悩みの多くない者になります。……端正の者になります。……ここにある女性、あるいは男性は嫉妬心のある者……どこに再生しようとも権勢のない者になります。……ここにある女性、あるいは男性は、嫉
妬心のない者……かれは大権勢の者になります。ここにある女性、あるいは男性は、沙門やバラモンに……施す者になりません……貧困の者になります。……施す者になります。……かれは富裕の者になります。……

青年バラモンよ、生けるものたちは、業を自己とし、業を相続者とし、業を胎とし、業を拠り所としています。業が、生けるものたちを、すなわち劣性と優性に区別します」と。
阿含経中部iii.202 ~ 206、小業分別経(仏教)
反発的心は自由意志に調整されず、完全に刺激(反応に基づいて作用する心の)部分だ。そして、それは自分の意識、目的、思想、身体、行動を超えて強圧と統制力を発揮する心の一部分だ。記憶の痕跡は反発的心に貯蔵されている。それで私は、精神異常と心因性疾患の唯一の根源をここから見いだした。(注17)
ロン・ハバードサイエントロジー0 ~ 8(サイエントロジー)


―み言選集―

数多くの歴史時代を経てきながら、多くの私達の先祖たちが死んでいきましたが、全体の中心を立て、全体に良いこと、全体の利益を考えたなら、そのように百年生きたことが、千年たってもそのまま残されたことでしょう。ところが、個人を中心として生きたので、すべて滅びました。どんどん落ちます。全体を滅ぼしてしまうのです。
(200-91、1990.2.24)

人類歴史上、罪の量といえば途方もないものです。アダムとエバの根本的罪があり、幹の罪など、様々な罪があります。ところが、中心となる罪の根があります。根も様々なものがありますが、周辺の根もあり、幹の根もあります。

幹も、小さい幹が大きくなるときまで、少なくともそこには一つ、二つの枝から始まり、数万の枝があります。このようにたくさんの枝が間違っているのです。その全体の量を見れば膨大です。人類がそのように多くの罪を犯したのですが、どのように赦しを受けるのでしょうか。その膨大な罪の量が、すべて皆さんの一身と連結されています。
(258-84 ~ 85、1994.3.17)

いったい、人は誰に似てこの姿なのですか。父に似たのなら、その父は誰に似てその姿なのですか。おじいさん、おばあさんに似てそうなのです。このようにどんどん上がっていけば、人間の始祖まで上がっていきます。人間始祖がそうなので私達がそうだというのです。

それでは、人間始祖は誰に似てそのようになったのですか。これが問題になるのです。人は父母に似るものです。その父母に似ていなければ、何代かの先祖の性稟が隠れていて、遺伝法則によって父母の性稟と合わさって一人の人間が生まれたのであって、何の根源もない無関係な場でそのように生まれたのではないということです。

皆さんは、自分独りによって自分になっていくと思っていますが、既に皆さんの先祖世界の人たちがたくさん来ては行きました。数千代の先祖たちを悪く言ってはいけないので、「社長」としましょう。大勢の社長を総合した総社長として残されたのが皆さんの個体なのです。皆さん、このような話を聞いたので、気分がよいでしょう? このように素晴らしいのが人です。

ですから、皆さんは、数千、数万代の先祖たちのもろもろの姿、資格、価値を集めておいたものを博物館に展示しておいた展示品と同じです。このような姿が今日の皆さんの姿なのです。

私達の先祖がこの世界に、「私達の子孫はこうだ」と展示品として立てておいたものが私達です。そのように考えてみましたか。この天地間に男性と女性は実に大勢いますが、個人自体を見てみるとき、自分の先祖の姿を全体で総合し実を結んで生まれた、この世にたった一つしかない人だというのです。
(41-139、1971.2.14)


皆さんの先祖たちはすべて違います。行く道が違い、環境が違い、悪の人、善の人が混ざって流れていくのですが、上がっていったり下がっていったり……。

今、その結実のような皆さんの位置が、すべて一つの位置だと見ることはできません。このような観点から、神様は公平な方ですが、神様がもし、「人類は平等で同じだ」と言われれば、「そうだ」と言うことができるだろうかというのです。

堕落がなかったなら分かりません。堕落が神様の愛圏内にあったなら分かりませんが、堕落して神様の愛を求めていかなければならない運命にある人間に対しては、平等という観念を立てることはできません。

ですから、地獄と天国が生じざるを得ないという理論を私達はここで知らなければなりません。
このように見れば、数千の階級が生じ得るのです。地上に散らばっているこの階級、ここにとどまっている階級と同じものが、今日、人類歴史のすべての人たちの背景を中心として、現在と未来を通して生じることが分かります。地上にこのような階級が生じれば、霊界もこのような階級が生じるのです。霊界もたくざんのグループになっていて、階級的に分裂しています。
(91-269 ~ 270、1977.2.27)

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世界経典-21

2020年10月17日 18時30分06秒 | 学習


―宗教経典―

アベルは羊を飼う者となり、カインは土を耕す者となった。時を経て、カインは土の実りを主のもとに献げ物として持って来た。アベルは羊の群れの中から肥えた初子を持って来た。主はアベルとその献げ物に目を留められたが、カインとその献げ物には目を留められなかった。

 

カインは激しく怒って顔を伏せた。主はカインに言われた。「どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのか。もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか。正しくないなら、罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める。お前はそれを支配せねばならない。」

 

カインが弟アベルに言葉をかけ、二人が野原に着いたとき、カインは弟アベルを襲って殺した。主はカインに言われた。「お前の弟アベルは、どこにいるのか。」カインは答えた。「知りません。私は弟の番人でしょうか。」主は言われた。「何ということをしたのか。お前の弟の血が土の中から私に向かって叫んでいる。今、お前は呪われる者となった。お前が流した弟の血を、口を開けて飲み込んだ土よりもなお、呪われる。土を耕しても、土はもはやお前のために作物を産み出すことはない。お前は地上をさまよい、さすらう者となる。」

 

カインは主に言った。「私の罪は重すぎて負いきれません。今日、あなたが私をこの土地から追放なさり、私が御顔から隠されて、地上をさまよい、さすらう者となってしまえば、私に出会う者はだれであれ、私を殺すでし
ょう。」

 

主はカインに言われた。「いや、それゆえカインを殺す者は、だれであれ七倍の復讐を受けるであろう。」主はカインに出会う者がだれも彼を撃つことのないように、カインにしるしを付けられた。カインは主の前を去り、エデンの東、ノド(さすらい)の地に住んだ。
創世記4.2 ~ 16(キリスト教)

 

アダムの二子の物語の真実をかれらに語れ。かれら両人が犠牲をささげたとき、ひとりは受け入れられなかった、それで「わしはきっとおまえを殺すであろう」と言った。

 

かれは答えて言った「神は、ただ主を畏れる者からのみ、受け入れたもう」。「たとえあなたが、私を殺すためにその手を伸べても、私はあなたを殺すために、手を伸べないであろう。私はよろず世の主、神を恐れまつる」。

 

「まことに私は、あなたが私の先に犯した罪と、あなたの殺人の罪とを負って、火獄のともがらになることを望む、これは不義を行なった者の応報である」。しかしかれの利己的な心は、その兄弟を殺すのを望ましいことにし、ついにかれを殺害して、失敗者のひとりとなった。

 

そのとき神は、一羽の大ガラスをつかわして地を掘らせたまい、その兄弟の死体をいかにおおうべきかをかれに示したもうた。かれは言った「ああ情けない、兄弟の死体を葬るのに、わしはこのヵラスほどのことさえできないのか」と。こうしてかれは後悔するひとりとなった。
クルアーン5.27 ~ 31(イスラーム)

 

信仰によって、アベルはカインより優れたいけにえを神に献げ、その信仰によって、正しい者であると証明されました。神が彼の献げ物を認められたからです。アベルは死にましたが、信仰によってまだ語っています。
ヘブライ人への手紙11.4(キリスト教)

 

アダムとエバが子女を生んだとき、その最初の実は蛇の息子だった。エバが二人と関係したために、どちらからも妊娠し、二人の子女を生んだ。二人の息子は、どちらもそれぞれの父から生まれたために、彼らの霊は分かれた。

 

一人の子はこちらに、もう一人は反対側に。性稟もやはり反対だった。カインの側には常に悪の部類が共にあり、アベルの側には慈悲深い者たちが多かったが、すべてが義なる者たちではなかった。
良いぶどう酒と悪いぶどう酒が混ざっているのと同じだった。ゆえに、三人目が出てきたのちに、初めて完全な人類が出てきたのである。三人目は、すべての義人たちの最初の先祖になった。

 

カインはアベルと敵対し、彼を殺した。これは、カインが世に死をもたらすサマエルの天性を相続したからである。カインは、女性問題でアベルをねたんだ。創世記4章8節に、「二人が野原に着いたとき、カインは弟アベルを襲って殺した」と出ている。ここで「二人」とは女性を象徴する。本文によれば、カインが自分の祭物が受け入れられずに怒ったとあるが、これは副次的な理由だった。(注5)
ゾハール1.36b (ユダヤ教)


―み言選集―

アダム家庭で始まったカインとアベルの闘争歴史は、人類歴史をそのまま戦争と葛藤の歴史にしてしまいました。小さくは人間個々人の心と体の葛藤から、大きくは国家と国家が、さらには全世界が物本主義と神本主義に分かれ、対立、闘争をしてきました。
平和神経、平和メッセージ1.20、2005.9.12

 

本来人間は、神様の主管のみを受けるようになっています。神様のみが人間の主人でなければなりません。ところが、人間とサタンとが不倫なる関係を結ぶことにより、人間に対してサタンが不倫なる主人となってしまったのです。

 

愛は統制力、支配力を伴うと原理が語っているように、たとえそれが不倫の愛であっても、サタンは、人間に対してその所有権を主張するだけの力、あるいは権威や権利をもつのです。

 

ところが、創造原理によれば、あくまでも神様が本来の主人ですから、結局、この両者は共に人間に対して、その所有を主張することができることになります。しかし、だからといってアダムを二つに切断して、神様とサタンの間で分け合うことは、物理的に不可能です。

 

そこで神様は、原理的観点から、人間を二つに分立するために、あるルールを定められたのです。すなわち内的存在としての神様と、外的存在としての被造物という立場から、内外の関係と、主体、対象の関係によって、神様はその分立のルールを定められました。すなわち神様は、堕落したアダムとエバを、彼らによって生まれた二人の子供を通して、分立されたのです。

 

カインはサタンを表示する側であり、アベルは罪なきアダムの立場を表示する側です。次男(アベル)を神様は、内的立場に立たせたのであり、これは、悪の要素のより少ない側、言い換えるならば、アダムとエバの間に結ばれた第2の愛を表示しているのです。
アベルは、第2の愛の実ですが、一方のカインは、第1の愛の実であって、その愛の中にあるサタンを表示しているのです。つまり、次男アベルのほうが、エバと天使長との関係よりも、エバとアダムとの関係により近いので神様の側に取られたわけです。

 

さて、本来の命令系統は、神様から始まり、アダムヘ、アダムから天使長へという順序だったので、この場合には、その関係は神様からアベルへ、アベルからカインヘという順序にならなければなりません。これが復帰された位置関係なのです。

 

そこで神様は、まず、この公式を復帰することにより、失われた原理を取り戻していくのです。堕落行為によって、人類の血統は交差しました。言い換えれば、サタンの血が人類の血統を占領しているのです。

 

それゆえに、これらの復帰は、根源までさかのぼって成されなければならず、そのために、次男アベルが長男の長子権を復帰しなければならなかったのです。神様はこれらの二人の兄弟を用いることによって、長男の長子権を復帰する摂理を行おうとされたのです。

 

すなわち、カインはアベルの位置に下がらなければならず、アベルはカインの位置、すなわち長男の位置に上がらなければならなかったのです。

 

ところが、カインはアベルを殺害してしまいました。この行為は、アダムとエバの時の堕落行為の反復です。すなわち、復帰されるどころか、再び天使がアダムを主管した立場に立ってしまったのです。
(55-109 ~ 110、1972.4.1)

 

アダムはサタンと血縁関係を結んだので、神とも対応でき、また、サタンとも対応することができる中間位置におかれるようになった。したがって、このような中間位置におかれた堕落人間を天の側に分立して、「メシヤのための基台」を造成するためには、堕落人間自身が何らかの蕩減条件を立てなければならない。……

 

神はこのような非原理的な摂理をなさることはできないので、善悪二つの性品の母体となったアダムを、善性品的な存在と悪性品的な存在との二つに分立する摂理をなさらなければならなかったのである。

 

このような目的のために、神はアダムの二人の子を、各々善悪二つの表示体として分立されたのち、彼らに、神かサタンかのどちらか一方だけが各々対応することのできる、すなわち、一人の主人とのみ相対する、原理的な立場に立ててから、各自供え物をささげるように仕向けられたのである。

 

カインとアベルは、どちらもエバの不倫の愛の実である。したがって、エバを中心として結んだ二つの型の不倫な愛の行為を条件として、それぞれの立場を二個体に分けもたすべくカインとアベルを、各々異なる二つの表示的立場に立てるよりほかに摂理のしようがなかったのである。

 

すなわち、カインは愛の初めの実であるので、その最初のつまずきであった天使長との愛による堕落行為を表徴する悪の表示体として、サタンと相対する立場に立てられたのであり、アベルは愛の二番目の実であるがゆえに、その二番目の過ちであったアダムとの愛による堕落行為を表徴する善の表示体として、神と対応することができる立場に立てられたのである。

 

神が創造された原理の世界を、サタンが先に占有したので、神に先立って、サタンが先に非原理的な立場からその原理型の世界をつくっていくようになった。そうして、元来、神は長子を立てて、長子にその嗣業を継承させようとなさった原理的な基準があるので、サタンも、二番目のものよりも、最初のものに対する未練が一層大きかった。

 

また事実サタンは、そのとき、既に被造世界を占有する立場にあったので、未練の一層大きかった長子カインを先に取ろうとした。したがって、神はサタンが未練をもって対応するカインよりも、アベルと対応することを選び給うたのである。
そうして、神はアベルの供え物は受けられ、カインの供え物は受けられなかったが、その理由はどこにあったのだろうか。アベルは神が取ることのできる相対的な立場で、信仰によって神のみ意にかなうように供え物をささげたから(ヘブル11・4)神はそれを受けられた(創4・4)。

 

このようにして、アダムの家庭が立てるべき「信仰基台」がつくられるようになったのである。これは、たとえ堕落人間であっても、神が取ることのできる何らかの条件さえ成立すれば、神はそれを受け入れられるということを教示なさるためでもあった。

 

そして、神がカインの供え物を受けられなかったのは、カインが憎いからではなかったのである。ただ、カインはサタンが取ることのでぎる相対的な立場に立てられていたので、神がその供え物を取ることができるような何らかの条件をカイン自身が立てない限りは、神はそれを取ることができなかったからである。

 

神はこれによって、サタンと相対する立場にいる人間が、神の側に復帰するには、必ずその人自身が何らかの蕩減条件を立てなければならないことを教示されたのである。……

 

天使長が、神にもっと近かったアダムを仲保に立て、彼を通じて神の愛を受けようとはせず、かえってアダムの位置を奪おうとして堕落してしまったので、「自己の位置を離れる堕落性」が生じた。ゆえに、この堕落性を脱ぐためには、天使長の立場にいるカインがアダムの立場にいるアベルを仲保として、彼を通じて神の愛を受ける立場をとることにより、自分の位置を守るべきであったのである。

 

天使長は自分を主管すべくつくられた人間、すなわちエバとアダムを逆に主管して堕落したので、「主管性を転倒する堕落性」が生じた。したがって、人間がこの堕落性を脱ぐためには、天使長の立場にいるカインがアダムの立場にいるアベルに従順に屈伏して、彼の主管を受ける立場に立つことによって、主管性を正しく立てるべきであったのである。

 

善悪の果を取って食べるなという善のみ言を、神はアダムに伝え、アダムはこれをエバに伝え、エバは天使長に伝えて、善を繁殖すべきであった。しかし、これとは反対に、天使長は取って食べてもよいという不義の言葉をエバに伝え、エバはそれをアダムに伝えて堕落したので、「罪を繁殖する堕落性」が生じた。

 

ゆえにこの堕落性を脱ぐためには、天使長の立場にいるカインが、自分よりも神の前に近く立っているアベルの相対となる立場をとり、アベルから善のみ言を伝え受けて、善を繁殖する立場に立つべきであったのである。……

 

人間が常に立派な指導者や親友を探し求めようとするのは、結果的に見るならば、より天の側に近いアベル型の存在を求めて彼と一体化し、天の側に近く立とうとする天心から起こる行為である。

 

また、謙遜と柔和が、キリスト教信仰の綱領となっているのは、日常生活の中で、自分も知らずにアベル型の人物に会って、彼を通じて天の前に立つことができる位置を確保するためである。個人から家庭、社会、民族、国家、世界に至るまで、そこには必ず、カインとアベルの二つの型の存在がある。それゆえに、このようなすべてのものを、創造本然の立場に復帰するためには、必ずカイン型の存在がアベル型の存在に従順に屈伏しなければならないのである。

 

イエスは、全人類がその前に従順に屈伏しなければならないアベル的な存在として、この世に来られたお方である。したがって、彼によらなくては、天国に入る者がないのである(ヨハネ14・6)。しかし、カインがアベルを殺害することによって、天使長が人間を堕落せしめた堕落性本性を反復するようになり、アダムの家庭が立てるべきであった「実体基台」は立てられなかった。したがって、アダムの家庭を中心とする復帰摂理は成し遂げられなかったのである。
原理講論、復帰基台摂理時代1-1 ~ 2

 

カインとアベルが祭物を捧げたのち、アベルの祭物だけを神様が受けられたことを知ったカインが、アベルを憎み、殺害してしまいましたが、ここには、カインとアベルが祭物を捧げるために準備するときから、カインにアベルを憎む心があったことを、皆さんは知らなければなりません。

 

カインが、神様が自分の祭物を受けないので、瞬間的にアベルに対する憎しみが生じて彼を殺害し
たのではなく、そのことにぶつかる前から、アベルが憎くて葬り去りたいという思いがカインにあったというのです。
(3-205、1957.11.1)

 

皆さんは、カインとアベルが一緒に神様に祭物を捧げたとき、アベルの祭物を受けられた神様の立場と、カインの祭物を受けられなかった神様の立場が、互いに異なるものだと思っていますが、そうではなかったことを知らなければなりません。

 

カインに、天の立場を身代わりしていたアベルを通そうという心が少してもあったならば、神様は、そのカインの祭物を受けられたでしょう。神様は、時間的な差はあったとしても、公平な立場で彼らに接しようとされたのです。
(3-205、1957.11.1)

 

カインとアベルが祭祀を分かれて捧げたのですが、アベルの祭祀を受けたことに対して、カインが私も神様に紹介してくださいと、完全に絶対信仰、絶対愛、絶対服従する心で一つになってこそ、受け入れられるようになっているのです。
(378-206 ~ 207、2002.5.12)

 

神様がアベルを立てられた理由は、カインを救援するところにあります。ですから、神様から受けた愛をカインに丸ごと与えると同時に、自分の愛までも加えて与えなければなりません。これが本来のアベルの立場です。
(18-277、1967.6.12)

 

アダム家庭において、実体基台を勝利するためにカインとアベルが一つにならなければならないという摂理をされる時、神様がアベルの祭物だけを受けるようになったのですが、これに対してアベルが驕慢な心をもつようになったので、サタンがそれを讒訴してカインに血気を起こすようにさせ、理性を失うようにして、弟のアベルを殺書するように役事しました。
(374-12 ~ 13、2002.4.4)

 

人間は堕落によって、心と体が統一調和の基準を失ってしまい、葛藤しながら自己矛盾の中で生きてきました。それだけでなく、個人の中で生じる心と体の葛藤と闘争は、家庭、社会、国家と世界に拡大されてきました。

 

兄のカインが弟のアベルを殺害する犯罪も、ここに由来しています。歴史始まって以来、この地球上で起こったあらゆる対決と戦争は、本質的に、より悪なるカイン側とより善なるアベル側との間の戦いでした。
(299-105、1999.2.6)


カインとアベルが一つにならずに分かれてはいけません。一方は正しいほうであり、一方は悪いほうです。ですから誰でも私の神様であると同時に、あなたの神様であり、私を愛するだけでなく、あなたを愛する神様であるという信仰の立場で、お互いにアベル的な存在を求めて侍り、カイン的な立場を避けて最大の努力をしなければいけません。
(3-207 ~ 208、195711.1)

 

アダム家庭でカインがアベルを殺害するのを見つめるとき、神様がどれほど痛哭されたでしょうか。それが世界的に起きるのですが、どうするのですか。本来は、兄が弟を父の代わりに愛さなければならないのに、これはどういうことかというのです。
(406-26、2003.3.2)

 

アダム家庭でカインがアベルを殺害するとき、神様の心はどうだったでしょうか。「しまった、大変なことになった! そのことがなければどれほどよかったか!」と思われたのです。アダムとエバもどれほどあぜんとしたでしょうか。願っているものがなくなったのです。そのような神様が終わりの日に、兄弟、兄と弟が争うこの局面で、一方は天国に、一方は地獄に行くにおいて、刑場に出て死ぬことを願う神様ではなかったのです。息子、娘が刑場に出て死刑を受けることを願う父母はいません。自分たちが責任をとることができるのであれば、何でもするという心を抱かれた神様です。
(295-63、1998.8.17)


3.悪魔とその活動

すべての宗教の経典は、悪魔の存在とその勢力に対して言及している。悪魔の頭は様々な名前で知られている。サタン、ルーシェル、イブリース、マラ、サマエル、ベルゼブル、アングラマイニュなどがそれである。

 

その中の一部は、人間の堕落と悪の根源で言及した。悪魔は、人間の心が邪悪なことをするよう
引っ張るなど、絶えず活動している。理性論者たちは悪魔の実在を受け入れ難いかもしれないが、20 世紀の歴史とそれによる恐怖を見てみれば、互いに悪の影響を及ぼす人間の能力は理性を超える。

 

教皇パウロ6世は、悪魔に対して次のように語った。「私達は、暗く不安にさせる霊が実在することと、それがいまだ校滑に背信的な活動をしていることを知っている。それは、それが人類歴史に過ち、不幸をもたらす見えない敵であり、私達の中で、感覚、想像力、情欲、ユートピア的論理、あるいは人生の過程で交わす無秩序な社会的接触を通して活動している」。(注6)

 

悪魔のわなは多様だ。経典の教えによれば、一人が小さな悪を行おうとする欲望をもったとき、悪魔は彼に対して訴えかけ、彼がもっと大きな過ちを犯すよう影響を及ぼすことができる。逆に言えば、宗教の道に入った人は、特に信仰で大きな進展をなそうとするとき、悪魔の誘惑を経験する。

 

一部の宗教(主にゾロアスター教)で、神様と悪魔は永遠の敵だが、悪魔の力を認める信仰が二元論を意味するのではない。神様の創造の善を教える一神教は、悪魔は結果的存在であり、神様の僕という本来の位置から離れて神様の怨讐となった天使だと教える。

 

文鮮明先生は、天使ルーシェルの堕落は人間の堕落とともに成されたのであり、その時、ルーシェルは人間に対する主管を主張する強力な悪魔であるサタンになったと教える。

 

次の章句は、悪魔の性格と様々な誘惑、そして、人間を捕らえるために、ルーシェルが使った戦略に対して説明している。サタンを克服する鍵は、利己心、驕慢、貪欲、官能的快楽の追求など、サタンのあらゆる性向を私達自身が浄化することであり、神様と永遠性を主軸とした人生を営むことである。


①天使の堕落

―宗教経典―

この巨大な竜、年を経た蛇、悪魔とかサタンとか呼ばれるもの、全人類を惑わす者は、投げ落とされた。地上に投げ落とされたのである。その使いたちも、もろともに投げ落とされた。
ヨハネの黙示録12.9 (キリスト教)

 

ああ、お前は天から落ちた、明けの明星、曙の子よ。お前は地に投げ落とされた、もろもろの国を倒した者よ。かつて、お前は心に思った。

 

「私は天に上り、王座を神の星よりも高く据え、神々の集う北の果ての山に座し、雲の頂に登って、いと高き者のようになろう」と。しかし、お前は陰府に落とされた、墓穴の底に。
イザヤ書14.12 ~ 15(キリスト教)


われが天使たちに「アダムに叩頭(こうとう)せよ」と、告げたときを思え、そのときイブリースのほかは叩頭した。かれは、「私はあなたが、どろでつくられた者に、どうして叩頭しましょう」と言った。

 

かれはまた「あなたはお考えになりませんか、あなたが私よりも重視したもうのは、この者であります。もし復活の日まで、私に猶予を賜わるなら、わずかの者を除き、かれの子孫をきっと私の配下にいたしましょう」と言った。

 

かれは仰せられた「去れ、もしかれらのうち、なんじに従う者あれば、まことに地獄こそ、なんじらへの応報、十分な応報である」。「なんじの魅惑的な声で、かれらのうちの能うかぎりの者を動揺させ、なんじの騎兵や歩兵でかれらを攻撃せよ。財宝と子女をかれらと分けて、約束を結べ。しかし悪魔の約束は、ただ欺くにすぎない」。
クルアーン17.61 ~ 64(イスラーム)


主なる神である私は、モーセに語って言った。「あなたが私の独り子の名によって命じたあのサタンは、初めからいた者である。彼は私の前に来て言った。『御覧ください。私がここにいます。私をお遣わしください。私はあなたの子となりましょう。そして、私は全人類を贖って、一人も失われないようにしましょう。必ず私はそうします。ですから、私にあなたの誉れを与えてください。』

 

しかし見よ、初めから私が愛し選んだ者である私の愛する子は、私に、『父よ、あなたの御心が行われ、栄光はとこしえにあなたのものでありますように』と言った。

 

あのサタンは私に背いて、主なる神である私が与えた、人の選択の自由を損なおうとしたので、また私の力を自分に与えるように求めたので、私は独り子の力によって彼を投げ落とさせた。

 

そして、彼はサタン、すなわち、あらゆる偽りの父である悪魔となって、人々を欺き、惑わし、またまことに、私の声を聴こうとしないすべての者を自分の意のままにとりこにする者となった。……」(注7)
高価なる真珠、モーセ書4.1 ~ 4(末日聖徒イエス・キリスト教会)

 

一方、自分の領分を守らないで、その住まいを見捨ててしまった天使たちを、大いなる日の裁きのために、永遠の鎖で縛り、暗闇の中に閉じ込められました。ソドムやゴモラ、またその周辺の町は、この天使たちと同じく、みだらな行いにふけり、不自然な肉の欲の満足を追い求めたので、永遠の火の刑罰を受け、見せしめにされています。
ユダの手紙6 ~ 7(キリスト教)


―み言選集―

神様は主人であり、私達人間はその方の息子、娘です。天使は主人の僕になり、その息子、娘の僕にもなります。天使の中でも、神様に最も近くアダムとエバと一番近い存在として、彼らの事情を知ることができる存在は天使長でした。

 

神様は、この世の中を創造する過程で、アダムとエバを創造する前には天使長と相談しながら、使いをさせながら創造の偉業を成してきました。したがって、天使長とは何と同じかというと、お金持ちの家の僕と同じです。ですから、その主人の息子、娘、分別のない息子、娘に対しても僕の立場だということを知らなければなりません。
(53-331、1972.3.6)

 

神は天使世界を創造されてから(創1・26)ルーシェル(明けの明星という意、イザヤ14・12)に天使長の位を与えられた。それゆえに、あたかもアブラハムがイスラエルの祝福の基となったように、ルーシェルは天使世界の愛の基となり、神の愛を独占するかのような位置にいたのであった。しかし、神がその子女として人間を創造されたのちは、僕として創造されたルーシェルよりも、彼らをより一層愛されたのである。

 

事実上、ルーシェルは、人間が創造される以前においても、以後においても、少しも変わりのない愛を神から受けていたのであるが、神が自分よりもアダムとエバをより一層愛されるのを見たとき、愛に対する一種の減少感を感ずるようになったのである。

 

これは、ちょうど、朝から働いた労働者が、自分が働いただけに相当する労賃を全部受けとったにもかかわらず、遅く来て少し働いた労働者も自分と同じ労賃を受けとるのを見て、自分が受けた労賃に対する減少感を感じたという聖書の例え話(マタイ20・1~ 15)と同じ立場であったということができる。

 

このような立場で愛の減少感を感ずるようになったルーシェルは、自分が天使世界において占めていた愛の位置と同一の位置を、人間世界に対してもそのまま保ちたいというところから、エバを誘惑するようになったのである。これがすなわち、霊的堕落の動機であった。
原理講論、堕落論2.2.1

 

創世記3章14 節を見れば、神は堕落した天使を呪い給い、「おまえは腹で、這いあるき、一生、ちりを食べるであろう」と言われた。足で歩くことができず腹で這うということは、天使が創造本然の活動をすることができず、悲惨な状態になるということを意味するのであり、ちりを食うということは、天より追いだされることによって(イザヤ14・12、黙12・9)、神からの命の要素を受けることができず、罪悪の世界に陥って、悪の要素を受けながら生きていくということを意味するのである。
原理講論、堕落論1.4

 

②悪魔の行跡

―宗教経典―

私は、悪魔たちが下るのが、だれの上であるかおまえたちに告げようか。かれらは、あらゆる中傷者と罪のある者の上に下る、(悪魔の語に)耳を貸す者、かれらの多くは虚言者である。
クルアーン26.221 ~ 223 (イスラーム)

 

世の中の何ものに執著しても、それによって悪魔が人につきまとうに至る。(注8)
スッタニパータ1103 (仏教)

 

汝の第一の軍隊は欲望であり、第二の軍隊は嫌悪であり、第三の軍隊は飢渇であり、第四の軍隊は妄執といわれる。汝の第五の軍隊はものうさ、睡眠であり、第六の軍隊は恐怖といわれる。汝の第七の軍隊は疑であり、汝の第八の軍隊はみせかけと強情とである。誤って得られた利得と名声と尊敬と名誉と、また自己をほめたたえて他人を軽蔑することである。
ナムチよ、これらは汝の軍勢である。黒き魔(kanha)の攻撃軍である。勇者でなければ、かれにうち勝つことができない。(勇者は)うち勝って楽しみを得る。
スッタニパータ436 ~ 439 (仏教)

 

私達の戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。
エぺソの信徒への手紙6.12 (キリスト教)

 

「邪師は聖歌を破壊する(彼は邪説をもって生の意思を破壊する。彼こそは資産を阻むもの)ウォフ・マナフのくだす吉祥なる授かり分を阻むもの。」わたくしの心中のこのことばを、マズダーよ、アシャと御身たちに、わたくしは訴える次第です。
アヴェスター・ヤスナ32.9 (ゾロアスター教)

 

なんじ以前にわれがつかわした使者や予言者は、かれが望みをもったとき、悪魔がその望みにむなしい示唆をしないことはなかった。だが神は、悪魔の示唆したものを消したまい、やがて神は、しるしを確証したもうた。まことに神は、全知者・英明者であられる。これはかれが悪魔に示唆させて、心に病のある者、ならびに心のかたくなな者に対する、一つの試みとされるためである。
クルアーン22.52 ~ 53(イスラーム)

 

神の使徒が言った。「あなたたちの中で、精霊(悪鬼)がつきまとわない者は誰もいない」。これに信徒の仲間たちが尋ねた。「あなたも同じですか」。使徒が答えた。「そうだ。しかし、神が精霊に対抗して私を保護してくださるため、私は精霊の手から安全だ」。
ムスリム・ハディース(イスラーム)

 

罪を犯す者は悪魔に属します。悪魔は初めから罪を犯しているからです。悪魔の働きを滅ぼすためにこそ、神の子が現れたのです。神から生まれた人は皆、罪を犯しません。神の種がこの人の内にいつもあるからです。この人は神から生まれたので、罪を犯すことができません。神の子たちと悪魔の子たちの区別は明らかです。正しい生活をしない者は皆、神に属していません。自分の兄弟を愛さない者も同様です。
ヨハネの手紙3.8 ~ 10(キリスト教)

 

(イエスは言われた。)「私の言っていることが、なぜ分からないのか。それは、私の言葉を聞くことができないからだ。あなたたちは、悪魔である父から出た者であって、その父の欲望を満たしたいと思っている。

 

悪魔は最初から人殺しであって、真理をよりどころとしていない。彼の内には真理がないからだ。悪魔が偽りを言うときは、その本性から言っている。自分が偽り者であり、その父だからである。しかし、私が真理を語るから、あなたたち
は私を信じない。」
ヨハネによる福音書8.43 ~ 45(キリスト教)

 

憂いの国に行かんとするものはわれを潜れ。
永劫の呵責に遭わんとするものは
われをくぐれ。
破滅の人に伍せんとするものは
われをくぐれ。
正義は高き主を動かし、
ただ無窮あり、われは無窮に続くものなり、
われを過ぎんとするものは
一切の望を捨てよ。
ダンテ・アリギエーリ神曲1.3 (キリスト教)


一み言選集―

堕落とは何でしょうか。サタンに支配されたことです。それゆえ、今日アダムとエバを中心として生まれたすべての子孫は、サタンの支配圏から逃れることができないまま、歴史が発展してきたのです。
(168-300、1987.10.1)

 

悪魔は「私のために生きろ」と言います。歴史的にあらゆる独裁者たちは、「私のために生きろ」と言いました。
(222-139、1991.10.28)

 

私達は、この悪の世の中でどのように善悪を分別しながら真理を求めていかなければならないのでしょうか。自分を中心とする心を捨て、常に低い位置に下りていかなければなりません。聖書にも、「自分を低くする者は高くされるであろう」とあります。

 

人間の本質は霊的なものです。ですから、あの国に行けば、そのような人間の本質が人のために生きるようになっていることを、より一層実感するようになるのです。ところが、人間はどうして自分のために生きようとする心で万事に臨んでいるのですか。これはすべての人間たちが天倫に背いた天使、言い換えれば、サタンと血統的な因縁をもっているからです。
(2-138、1957.3.17)

 

サタンが讒訴して関係を結ぶことができる条件が罪だと言いましたが、結局、創造原則、本来の宇宙の根本原則に反対となる立場に立ったのです。人間は対象の立場で神様を主体としているので、神様だけのために生きるところで存在の価値があり、存在の起源があります。

 

ところが、悪の出発は、サタン自身もそうであり、エバ自身も、「私が主体になってみよう。私が中心になろう」と考えながら、自己愛から始まったのです。これが悪です。神様の創造原則は対象のために存在するというものですが、対象を否定し、「私のために存在せよ」と言ったのです。

 

皆さんは、善悪の起源をはっきりと知らなければなりません。悪の人は「私のために生きなさい。私のところに来てみな屈服しなさい」と言います。神様もこれをたたきつぶさなければならず、イエス様もこれをたたきつぶさなければなりません。ですから、「驕慢になってはいけない。自分の利益を求めてはいけない。人のために犠牲になりなさい。奉仕しなさい」と言ったのです。
(69-84 ~ 85、1973.10.20)

 

堕落とは、人間始祖が神様の縦的な真の愛のもとで、横的に真の愛を完結することができず、天使長の侵犯を受け、偽りの横的愛を成したことです。この堕落の結果として、神様は愛する子女を失ってしまうようになったのであり、人間は心と体が矛盾し、葛藤を経る故障した命として生まれざるを得なくなったのであり、悪魔は横的愛の条件にかこつけて、個人かち世界に至るまで人間を不当に管掌してきています。
(198-58、1990.2.1)

 

ヨハネによる福音書第8章44 節を見れば、「あなたがたは自分の父、すなわち、悪魔から出てきた者」とイエス様が指摘しました。それは何の結果としてそのようになったのでしょうか。堕落の結果としてそのようになったのです。堕落によってサタンがエバを騙し、エバはアダムを騙し、互いに騙す悲劇の歴史が出発したことを知らなければなりません。
(73-202 ~ 203、1974.9.18)

 

エバが天使長と一つになって堕落することによって、天使長は悪魔サタンになったのであり、サタンの血筋を受け継ぐようになったのです。エバを中心として見るとき、本来、生まれるべきアダムとエバの息子たちは、長子も神様の息子であり、次子も神様の息子になるべきでしたが、堕落することによって、エバの一つの体を中心としてサタンに引っ張られていってしまいました。

 

本来の創造原理の中で、愛を中心として見るとき、愛は所有物の確定を決定するようになっています。愛の因縁を結べば、必ずその愛を中心とする主体と対象は互いの所有権が決定するようになっているのです。このような原理的基準を中心として見るとき、エバが堕落したのは何ですか。天使長の世界を中心として新しい愛の因縁を結ぶ所有権の決定をしたということです。
(110-216、1980.11.18)

 

人間は堕落することによって神の宮となることができず、サタンが住む家となり、サタンと一体化したために、神性を帯びることができず堕落性を帯びるようになった。

 

このように、堕落性をもった人間たちが悪の子女を繁殖して、悪の家庭と悪の社会、そして悪の世界をつくったのであるが、これがすなわち、堕落人間たちが今まで住んできた地上地獄だったのである。

 

地獄の人間たちは、神との縦的な関係が切れてしまったので、人間と人間との横的なつながりもつくることができず、したがって、隣人の苦痛を自分のものとして体恤することができないために、ついには、隣人を害するような行為をほしいままに行うようになってしまったのである。人間は地上地獄に住んでいるので、肉身を脱ぎ捨てたのちにも、そのまま天上地獄に行くようになる。

 

このようにして、人間は地上、天上共に神主権の世界をつくることができず、サタン主権の世界をつくるようになったのである。サタンを「この世の君」(ヨハネ12・31)、あるいは「この世の神」(コリントⅡ 4・.4)と呼ぶ理由は実にここにあるのである。
原理講論、人類歴史の終末論1.2

 

私達の主人でいらっしゃるお父様は、主人になることができず、あなたの怨讐であるサタンの血統を受け継ぎ、サタンが主管する暗黒圏内に私達を引きずり下ろしてきたという事実を考えるとき、どれほど憤懣やるかたない事実かをもう一度私達が回顧しながら、この地球上から、大勢の霊人たちがとどまる霊界に至るまで、億千万世の怨讐となったサタンを追放するのがお父様の願いであられ、真の人類の願いだったことを、この時間、私達が肝に銘じなければなりまサん。

 

お父様、サタンの権威と権勢の基盤がどれほど残っているかを生活の中で感じることができない私達でございます。一時一時を送りながら、一日一日を過ごしながらも、サタンの権勢と権限が私達の生活圏内にどれほど浸透しているかを、今までも感じることができなかった私達の信仰生活だったことを、お父様、思うのでございます。
(19-184 ~ 185、1968.1.7)


③告発するサタン

―宗教経典―

堕落後、人は数多い群れの悪霊と懲罰の使者たちに引かれていった。その前でアダムは、恐怖で体が縮み上がった。ソロモンは、神秘な知恵をもった人だった。天は彼を王座に立てられ、あらゆる世界が彼を畏敬した。しかし、彼もまた罪を犯すと、悪で罰を与える霊たちに引かれていった。

 

大切な所有物を奪われ、拷問を受ける状況になると、ソロモンは恐れをなした。明らかに人は自らの行いによってあの世の使者につれていかれる。使者が善か悪かは、自分が歩んできた地上の人生にかかっている。
ゾハール1.53b (ユダヤ教)

 

ある日、主の前に神の使いたちが集まり、サタンも来た。主はサタンに言われた。「お前はどこから来た。」「地上を巡回しておりました。ほうぼうを歩きまわっていました」とサタンは答えた。主はサタンに言われた。「お前は私の僕ヨブに気づいたか。地上に彼ほどの者はいまい。無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きている。」

 

サタンは答えた。「ヨブが、利益もないのに神を敬うでしょうか。あなたは彼とその一族、全財産を守っておられるではありませんか。彼の手の業をすべて祝福なさいます。お陰で、彼の家畜はその地に溢れるほどです。ひとつこの辺で、御手を伸ばして彼の財産に触れてごらんなさい。面と向かってあなたを呪うにちがいありません。」

 

主はサタンに言われた。「それでは、彼のものを一切、お前のいいようにしてみるがよい。ただし彼には、手を出すな。」サタンは主のもとから出て行った。(注9)
ヨブ記1.6 ~ 12(キリスト教)

 

すべてのことが決定されたとき、悪魔は言うであろう、「真実の約束を、おまえたちに約束されたのは神であった、わしも約束したのだが、おまえたちの役に立てなかった。もともとわしは、おまえたちに対し権威はないのだ、ただおまえたちに呼びかけ、おまえたちがわしに従ったのみだ。それでわしを非難してはならぬ、むしろ自分自身を責めよ……」
クルアーン14.22 (イスラーム)


―み言選集―

サタンは、ヨブを神の前に訴えるように(ヨブ1・9)絶えずあらゆる人間を神の前に訴え、地獄に引いていこうとしているのである。しかし、サタンもその対象を取り立てて、相対基準を造成し、授受作用をしない限り、サタン的な活動をすることはできない。サタンの対象は、霊界にいる悪霊人たちである。

 

そして、この悪霊人たちの対象は、地上にいる悪人たちの霊人体であり、地上にいる悪人たちの霊人体の活動対象は彼らの肉身である。したがって、サタンの勢力は悪霊人たちを通して地上人間の肉身の活動として現れる。それゆえ、ルカ福音書22 章3節には「イスカリオテと呼ばれていたユダに、サタンがはいった」と記録されており、またマタイ福音書16 章23 節を見ればイエスはぺテロを指してサタンと言われた。さらにまた、このような悪霊人体を「悪魔の使者」と記録しているところもある(マタイ25・41)。

 

地上天国を復帰するということは(前編第3 章第2 節参照)、全人類がサタンとの相対基準を完全に断ちきり、神との相対基準を復帰して、授受作用をすることにより、サタンが全く活動することのできない、そのような世界をつくることをいうのである。

 

終末に至って、サタンを底なき所に閉じ込めると言われたみ言は、とりもなおさず、サタンの相対者がいなくなることによって、サタンが活動できなくなるということを意味する。
原理講論、堕落論4.2

 

神様は歓迎しますが、サタンは放してくれません。なぜでしょうか。「本来、あなたには創造原則によって、愛で主管できる権限があるではないですか。私は非法的な愛の道、非法的な位置に立ちましたが、アダムとエバを愛したのは間違いない。

 

愛は本来、主管性の原則ではないですか。私がアダムとエバを愛したのだから主管することができるが、あなたがそれ以上、私を愛さなければ、連れていくことはできない」、このように言うのです。
(128-91、1983.6.5)

 

神様がサタンに「本来、人はサタンであるお前に讒訴されるようになっていないではないか。本来、人は、サタン、お前から讒訴され、お前に拘束される存在ではないではないか」と言えば、サタンは、「それはすべて知っています。しかし、愛というものは、永遠に主張するようになっているではないですか。愛の因縁というものを原理的立場から見れば、愛すれば永遠にその人に隷属されるのが愛の法度ではないですか」と言いながら、自己主張をするのです。

 

すると神様は、原理的な立場から見れば、人間を私が造り、私の息子、娘になるべきなのに、お前が不法に因縁を結んだのではないか」と言います。ですから、仕方がありません。原理的法度を主張するサタンの立場も正しく、原理的立場から主張する神様の主張も正しいというのです。
(111-147 ~ 148、1981.2.10)

 

神様も今まで内的にサタンを相手にして闘っていらっしゃり、外的には悪人を相手にして闘っていらっしゃいますが、それは無礼な闘いではなく、法に背く闘いでもありません。神様は絶対に天理法度に背いて闘われることはありません。

 

イエス・キリストもこれと同様に、天理原則に背いた闘いはされませんでした。したがって、私達が終末に宇宙的な闘いをしなければならないときにも、天倫の法度を知らなければなりません。そうして私達は、この法を中心として闘うことができる人にならなければならないのです。

 

皆さんは知りませんが、サタンもやはり無礼な法を立てて天倫に背く闘いはできません。ですから、復帰の条件を立てておいてサタンと闘うようになるとき、人間が神様のみ旨に背けば、サタンが讒訴するようになるのです。イエス様であっても例外ではありません。法度に背くとき、容赦なくサタンが讒訴するのです。
(2-176 ~ 177、1957.4.14)

 

④善悪に対する人間の選択

―宗教経典―

主はカインに言われた。「どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのか。もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか。正しくないなら、罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める。お前はそれを支配せねばならない。
創世記4.6 ~ 7(キリスト教)

 

身を慎んで目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています。
ペテロの手紙一5.8(キリスト教)

 

この世のものを浄らかだと思いなして暮し、(眼などの)感官を抑制せず、食事の節度を知らず、怠けて勤めない者は、悪魔にうちひしがれる。――弱い樹木が風に倒されるように。この世のものを不浄であると思いなして暮らし、(眼などの)感官をよく抑制し、食事の節度を知り、信念あり、勤めはげむ者は悪魔にうちひしがれない。――岩山が風にゆるがないように。
法句経78(仏教)

 

人びとよ、神の約束は真実である、それで、現世の生活に欺かれてはならない、また神に関し、大欺瞞者に欺かれてはならぬ。まことに悪魔(サタン)はなんじらの敵である、それで敵として扱え。かれは、ただ燃えさかる火獄の仲間とする己れの連累者を招くにすぎぬ。
クルアーン35.5 ~ 6(イスラーム)

 

なんじら信仰する者よ、悪魔の足跡に従ってはならぬ。なんじらがもし悪魔の足跡に従うならば、かれはきっと醜行と悪事をなんじらに命ずるであろう。

 

もしなんじらに対し、神の恩恵と慈悲がなかったならば、なんじらのうち、ひとりも純潔になり得なかったであろう、だが神は、み心にかなう者を清めたもう。神は、全聴者・全知者であられる。
クルアーン24.21 (イスラム)

 

では、睡眠を通して双生児としてあらわれた、かの始元の二霊についてであるが、両者は、心意と言語と行為において、より正善なるものと邪悪なものとであった。そして、両者のあいだに、正見者たちは正しく区別をつけたが、邪見者どもはそうではなかった。(注10)

 

して、これら両霊が相会したとき、彼らが定めたのは、第一の世界には生と生存不能とであるが、しかし終末にある境涯は不義者どもには最悪なるも義者には最勝なるウォフ・マナフがあるということであった。

 

これら両霊のうち、不義なる方は極悪事の実行を選取したが、最も堅固なる蓋天を着ていて最勝なるスプンタ・マンユの方は天則を選取し、真実なる行為をもってアフラ=マズダーをすすんで満足させようとするものどももまたそうであった。
アヴェスター・.ヤスナ30.3 ~ 5(ゾロアスター教)


イスラエル民族がシナイ山の前に立ったとき、蛇の不純さが彼らから抜け出ていった。そして、肉欲が止まり、結局命の木に接ぎ木されることができた。彼らの考えは、あの高い所に向かうようになり、そして喜びと歓喜に満ちた天の光と知恵を受けるようになった。主なる神は、聖なる名が記された帯を巻いてくださり、以前のようにサタンが力を発揮できないようにされた。

 

しかし、彼らが再び罪を犯し、金の子牛を拝むと、彼らは降等され天の光を失ってしまった。聖なる名の帯も取り上げられ、再び以前のように悪魔サタンの攻めを受けるようになった。
ゾハール1.52b(ユダヤ教)

 

あるがままの本性の純粋さが真の仏、ゆがんだ見方と貪・瞋・疑は魔王。ゆがみに晦んでいるとき魔王はわが家に入り、正しく見て取ったとき仏は座敷に在す。自性の中のゆがみが三毒を生み、つまり魔王に住み込まれる。正しい見方は自ずと三毒を除き、魔王は仏に変わって紛れもない真のもの。六祖壇経10(仏教)

 

―み言選集―

神様は最も公的な方であり、サタンは徹頭徹尾、自分を中心とする私的な存在です。
(88-209、1976.9.18)

宇宙で人よりも人の主体となる神様がいるとすれば、その神様が最も尊いのです。ところが、サタンはなぜ人の主体である神様をもとうとしないのでしょうか。サタンは欲心が多いのですから、神様を自分のものにすればどれほどよいでしょうか。

 

神様は、絶対不変、絶対唯一、絶対永遠です。神様は変われません。変わることができないというのです。サタンにいくらもっていきなさいと言っても、神様は真なのでもっていけません。サタンは真を消化できないのです。いくらもとうとしても無駄です。

 

それでは、神様も欲心が多いのに、なぜ人よりもサタンを自分のものにしようとしないのでしょうか。それを答えなさいと言えば、上手に答えるでしょう。天の側の反対だからです。神様は変わらないのですが、サタンは変わり、神様は唯一ですが、サタンはそうではありません。そして、神様は永遠ですが、サタンは瞬間的です。根本的にそのように分かれるのです。

 

それでは、サタンや神様はどうして人を必要とするのですか。人は二つの性格、二つの世界の素質をもって生まれ得る中間の立場にいるという論理をここで完全に確定できます。

 

それでは、変わることができる瞬間的な人はサタン側ですか、神側ですか。また、家でしきりに分裂を引き起こし、しきりに争いを引き起こすのは、サタン側ですか、神側ですか。

 

未来を見て、世界や全体、永遠を見て、長い歴史を考えず、「きょうだけ食べていければよい、きょうさえよければよい」と、また子女のために生きるべき父母であるにも.かかわらず、その父母の立場を忘却し、酒を飲み、自分を中心として酔うようになれば、それは悪に属し、サタンに属します。では、酒を飲む人は、彼自身が幸福ですか、不幸ですか。飲むこと自体は幸福でしょう。酒を飲めば、踊りを踊って喜ぶではないですか。ところが、それは永遠を維持することはできません。何日かたてば終わります。

 

それによって、環境的与件に破綻が伴うのです。それによって、環境的与件が保護を受けられず、それが永遠に継続するので、悪に属するという事実を知らなければなりません。
(124-243 ~ 244、1983.2.20)

 

信仰生活が必要なのは堕落したからです。堕落圏内にいるという、この観念を離れてはいけません。落圏内に私達は生きているので、信仰生活をするのです。これが、皆さんの日常生活の生活意識として残されなければなりません。堕落した世界は、サタンが支配する世界です。それは、考えだけでなく事実です。
(161-218、1987.2.15)


休まずに祈りなさいというのです。悪魔は24 時間、皆さんを通じて働けます。しかし、神様は縦的な位置にのみいるので、心以外には活動できません。
サタンは、四方の360 度に、そしていつでも活動できるので、私達はサタンの活動に負けるようになっています。
(200-227、1990.2.25)

 

人間の堕落以降、徐々に発展してきた悪霊の役事は、1980 年代に入って霊界が急激に変化し、地上で悪霊の活動が大きく現れるようになりました。

 

そうなった理由は、それまで、天のみ旨を探し求めてきた中心人物たちが、サタンの正体を具体的に、正確に把握することができず、罪の根である原罪を明らかにすることができなかったので、サタンも、余裕をもって自分中心の世界をこつこつとつくることができたのです。

 

しかし、真の父母様が地上に来られてからは、状況が変わってきました。真の父母様は、サタンの正体と罪の根である原罪が、淫行という不倫なる愛であることを明らかにされ、さらには、神様が直接に啓示されない内容であるサタンの性向を把握し、これからは、サタンが地上での足場を失わざるを得ないように、蕩減条件を立てていかれながら、復帰摂理史を勝利されました。

 

このようになったので、サタンも、当惑するようになりました。それでサタンは、霊界の悪霊たちを動員し、地上人の体の中にいる恨をもった霊人たちと力を合わせて、過去の恨みに対して刺激を与え、地上人を苦しめる悪霊役事を強化しました。

 

サタンは彼らを呼んで刺激を与え、恨みを晴らすようにし、彼らが苦しめられた分、また、それ以上の恨みを、苦痛を与えた先祖の子孫に復讐するようにさせているのです。

 

特にサタンは、祝福家庭に侵入する機会を常にねらっていて、条件に引っ掛かるような生活をすると、悪霊を祝福家庭に入れて、祝福家庭が神様を中心に生活することができないようにさせてきたのです。

 

本来、祝福家庭は、真の父母様と心情一体を成し、絶対信仰、絶対愛、絶対服従で生活すれば、サタンが侵入できないようになっていました。しかし、非原理的なことをして、サタンが讒訴できる条件が成立すると、サタンが侵人することができるようになります。

 

実際に、地上の祝福家庭は、真の父母様の勝利的基台のみに頼ったまま、自分の体と行いを深く振り返ることをおろそかにしていました。「もしかしたら、サタンが自分に侵入し得る条件を立てるようなことをしていないだろうか」「そのような堕落性をもっていないだろうか」と、深く振り返れませんでした。

 

ですから今からでも、自分を完全に浄化させ、創造本然の真の子女の姿に生まれ変わる努力を傾けなければなりません。(注11)
興進様の霊界メッセージ、2002.1.1

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世界経典-20

2020年10月17日 18時27分03秒 | 学習


13.天と地の結合

人間は、霊人体と肉身に創造された。したがって、私達は、霊界と肉界の両側に立つことができる。このような特別な資質により、私達は二つの世界を仲立ちすることができる。私達は、霊界を恐怖の対象として対する代わりに、二つの世界をどちらも支配できる力をもっているのである。

聖者と賢人たちは、正義の動機をもって人間たちを助けるため、天の主人(人間)となることを奨励したとして知られている。万物の主人であり、神様の代身者だという人間の位相の恩恵で、平凡な信者でもこのような能力をもっている。

先住民たちは、これを昔から知っていた。儀式と踊りを通して彼らは、二つの世界の生きている関係を実感する。集中的霊的訓練を通してヒンドゥー教のヨーガ修行者と様々な伝統の苦行者たちは、霊で飛ぶことができる力をもっており、不思議な妙技を見せる。
キリスト教は、イエス・キリストの中で天と地を支配できることを知っており、彼の死に対する勝利は救援の基盤となった。文鮮明先生は、神様の王国が霊的存在世界と物理的存在世界が広大な統一を通して具現されると教える。

―宗教経典―

秘められた計画を私達に知らせてくださいました。これは、前もってキリストにおいてお決めになった神の御心によるものです。こうして、時が満ちるに及んで、救いの業が完成され、あらゆるものが、頭であるキリストのもとに一つにまとめられます。天にあるものも地にあるものもキリストのもとに一つにまとめられるのです。
エフェソの信徒への手紙1.9 ~ 10(キリスト教)

「その動くときは天に従って自在に活動し、その静かなときは地に従って静止する。ただひとりの人間にすぎないのに、その心が定まれば、広大な天下の王者となることができる。鬼神も崇(たた)ることがなく、自分の魂も疲れることがない。ただひとりの心が定まることによって、万物を服従させることができるのである」と。

このことばは、虚無で静かな心を天地におし及ぼし、万物のうちに浸透させることをいったものである。この境地こそ天楽と呼ばれるものにほかならない。天楽とは、聖人の心をもって万物を養うことである
荘子13(道教)

天が私に恩寵を下し、
地が私に福を与える。
上には天から霊たちが私によって踊りを踊る。
地では人々が私によって踊りを踊る。
クリ族の円舞家(アメリカ先住民の宗教)

御国が来ますように。御心が行われますように、天におけるように地の上にも。
マタイによる福音書6.10(キリスト教)


長髪者(ケーシン)は火を、長髪者は毒を、長髪者は天地両界を担う。長髪者は万有を〔担う〕、〔そが〕太陽を見んがために。長髪者はこの光明と称せらる。風を帯とする(無帯すなわち裸体の)苦行者(ムニ)たちは、褐色にして垢を〔衣服ととして〕纏(まと)う。

彼らは風の疾走に従いて行く、神々が彼らの中に入りたるとき。(苦行者の言葉)苦行者たることにより忘我の境に達し、われらは風に乗りたり(風を乗物とする)。汝ら人間はわれらの形骸のみを眺む。彼(苦行者)は空界を通りて飛ぶ、一切の形態を見おろしつつ。苦行者はおのおのの神の愛すべき友なり、善き行為〔の遂行〕のために。
リグ・ヴェーダ10.136.1 ~ 4(ヒンドウ一教)

天下のうちで、ただ至誠(な聖人)のみが、その性を尽くす(理に従う)ことができるのである。よくその性を尽くせば、(天下の)人の性を尽くすことができる。よく人の性を尽くせば、万物の性を尽くすことができる。よく万物の性を尽くせば、天地が生育するのを助けることができる。
天地が(万物を)生育するのを助けることができれば、天と地とともに三となることができる。
中庸22(儒教)

一なる道に通じれば、万事が尽くされる、物を得ようとする心がなければ、鬼神も従ってくれる。
荘子12(道教)

ところで、子らは血と肉を備えているので、イエスもまた同様に、これらのものを備えられました。それは、死をつかさどる者、つまり悪魔を御自分の死によって滅ぼし、死の恐怖のために一生涯、奴隷の状態にあった者たちを解放なさるためでした。
ヘブライ人への手紙2.14 ~ 15(キリスト教)

天に陰と陽があり、人にも陰と陽がある。天と地の陰気が起きれば、人の陰気がそれに相応して起きる。人の陰気が起きれば、天と地の陰気もまた当然それに相応しで起きるのだが、その原理は一つだ。このような原理に明るければ、雨を降らせようとすれば(人間の)陰気によって(天の)陰気を起きるようにする。(反対に)雨を止めようとすれば(人間の)陽気によって(天の)陽気を起きるようにする。ゆえに、雨を降らせるのは神のような存在の作用ではない。(人々が)神の作用ではないかと思うのは、(相応の)原理が神秘で微妙に起きるからである。

陰と陽の気だけが同じ流れに従って前に進むこともあり、後ろに退くこともあるのではなく、不運、不幸と幸運の発生もやはりこのような原理に起因する。

あらゆる場合において、自らまず動きを見せ、他の事物が種類によってそれに相応するように動くのである。ゆえに、聡明で神聖な人は内的世界を見つめ、外部の声を遮断し……このような心と考えを沈める内部の自己反省によって、聡明で神聖な人だけが、自分の本心が正にこのような原理によって存在することが分かる。

ゆえに、コムンコと琵琶で合奏するとき、一つの楽器の宮音を弾けば、他の楽器の宮音が自然に鳴って前の音と相応するが、これは事物の種類ごとに相応するのである。この感応の動きは、音がするだけでいかなる姿も見えないため、人はその感応する具体的な形を見ることができないがゆえに、それを自ら鳴っていると思う。

また、互いに感応して動くとき、姿がないものは自然にそうなると言うのだが、実際には自然にそうなるのではなく、それをして、そのように相応させるのである。事物は、実際にそうなるようにするものがもともとあるが、作用させるものは姿が現れないのである。
董仲舒春秋繁露(儒教)


―み言選集―

神様は、人間を霊界だけで暮らすように造られたのではなく、この地上で実体をもって霊と肉が調和を成す生活をするように造られました。それは、人間の霊が霊としていらっしゃる神様と通じ、万物を主管するようにし、肉身に霊人体が通じ、霊と肉が和合できるように造られたのです。これが創造の法度です。
(2-80、1957.3.3)

霊界は時空を超越しています。ですから、皆さんは精神統一が必要です。霊界に行けば、心ど体の拍子、テレパシー、それが合わなければなりません。電波で言えば、「ぴっ」とラジオの電波が合えば音がなります。そのように、きちんと姿勢を整えれば、誰かに会いたいと思うとすぐに現れます。親しければ親しい姿で、怨讐なら怨讐の姿で現れます。私が一番忘れることのできない姿で現れるのです。
(187-311、1989.2.12)

神様が創造するときに、愛のために投入し、投入し、忘れるという本質から出発したがゆえに、相対もそれを受けるためには共に投入しなければならないのです。上から投入し、下から投入するのと同じです。こうして天地が合徳、一つとなるのです。天地を抱いて動かすことのできる愛を中心として一つとなるのです。そこに偉大なる力が来るのです。
(237-130、1992.11.13)

神様は人間を被造世界の主管者として創造された(創1 28)。ところで被造世界は、神に対する内的な感性を備えていない。その結果、神はこの世界を直接主管なさらずに、この世界に対する感性を備えた人間を創造され、彼をして被造世界を直接主管するようになされたのである。

したがって、人間を創造されるに当たって、有形世界を感じ、それを主管するようになさるために、それと同じ要素である水と土と空気で肉身を創造された。無形世界を感じ、それを主管するようになさるために、それと同じ霊的要素で、霊人体を創造された。

変貌山上でのイエスの前に、既に1600 余年前に亡くなったモーセと、900 余年前に亡くなったエリヤが顕現したとあるが(マタイ17・3)これらはみな、彼らの霊人体であった。このように、有形世界を主管できる肉身と、無形世界を主管できる霊人体とから構成された人間は、有形世界と無形世界をみな主管することができるのである。

神様は人間を被造世界の媒介体として、また和動の中心体として創造された。人間の肉身と霊人体が授受作用により合性一体化して、神の実体対象となるとき、有形、無形の二つの世界もまた、その人間を中心として授受作用を起こし合性体化して、神の対象世界となる。

そうすることによって、人間は二つの世界の媒介体となり、あるいは和動の中心体となる。人間は、ちょうど二つの音叉を共鳴させるときの空気のようなものである。人間はこのように、無形世界
(霊界)と通ずるように創造されたので、あたかも、ラジオやテレビのように、霊界の事実をそのまま反映するようになっている。

ところが、人間が堕落し、被造世界が自己を主管してくれる主人を失ったので、ロマ書8章19 節に、被造物は神の子たち(復帰された創造本然の人間)の出現を待ち望んでいると述べられている。それだけでなく、和動の中心体である人間が堕落して、有形、無形二つの世界の授受作用が切れたので、それらが一体となることができずに分離されたから、ロマ書8章22 節には、被造物が嘆息している事実を明らかにしている。
原理講論、創造原理6.2

神様のように、いつでも霊界と肉界が一つになるのです。その中心は神様であり、神様は常に尊厳な方でいらっしゃいます。それで、真の愛で霊界と肉界の一体化を成すのです。

真の愛が現れなかったので、霊界と肉界が統一されなかったのであり、真の愛が現れなかったので個人の心と体が分かれたのであり、真の愛が立たなかったので、宗教と政治が分かれたのです。真の愛を中心としてすべて一つになります。個人、家庭、社会、国家、世界、天宙がすべて連結されるのです。私達の手でそのようにしなければなりません。そうしなければ、本然の天上天国、地上天国を相続できません。
(216-105 ~ 106、1991.3.9)

サタンを主管できる人ばかりがいれば、霊界も解放され、肉界も解放されます。
(161-243、1987.2.22)

今後、真の指導者は、霊界を動員して活動できる能力のある人でなければなりません。ところが、一つ難しいことがあります。霊的にそのようになれば、扱いづらいことが生じます。そのときは、神様の代わりに現れたという心をもたなければなりません。
(102-117、1978.11.27)


神様はさせませんが、先生の代わりに、ありとあらゆることをする人たちが世界にはいます。空中を飛ぶ人もいるし、水の上を歩き回る人たちもいるし、千里、万里を瞬く間に行く人が、今いくらでもいるのです。間もなく先生がそのような人たちを、あのヒマラヤ山脈から、修行の世界から呼んでくる時が来るでしょう。
(60-195、1972.8.17)

それを本然の位置に正そうとするのが地上復帰と霊界復帰です。地上復帰とともに霊界復帰が、私達の70 年、80 年の生涯がかかっているので、商いで言えば、これ以上大きな商いはありません。先生の青春時代はすべてこれをするために過ぎてしまいました。
(15-146、1965.10.3)

霊界を一つにしなければ、地で一つになることはできません。地で一つになることができなければ、霊界でも一つになりません。共同運命体だというのです。
西洋の人たちが東洋の人と結婚し、東洋の人が西洋の人と結婚しようというのは、とてもよいことです。そうすれば、霊界から先祖たちが見るとき、どれほど喜ぶでしょうか。五色人種がどれほど喜ぶでしょうか。

霊界でも、今まで白人は白人同士でいて、黒人は黒人同士でいて、すべて分かれていました。黄色人は黄色人同士で互いに……。地ですべてこのようになるので、互いに混ざって一つになるのです。統一が起きます。ですから、一つの世界になるのです。「天でなされたように、地でもなされますように!」と言ったように、霊界でそのようになるので、地でそのようになるのです。
(99-188、1978.9.18)


第2部 罪と救援

第6章 悪、罪、そして人間の堕落

1.人間の堕落

アブラハム系統での信仰では、人間が神様と一つになっていく初期段階で堕落したと教えており、それと類似した信仰が世界の至る所で発見される。キリスト教は、人間の堕落を原罪という教理に連結させている。

原罪はアダムとエバが犯した罪として全人類に遺伝され、神様と人間の永遠の断絶を意味するのだが、それはただキリストだけが治癒することができると言う。

一方、イスラームでは、アダムの罪はアダムにだけ該当するものとして、アダムは、神様に従順にすることによって、全人類と共に許された位置に戻ることができると言う。堕落によってサタンが生じたのであり、少数だけが耐えるべき試練を、
すべての人間が経るようになったと言う。最後に、ユダヤ教では、このような信仰が混合されていることを発見できる。この部門で論じた章句は、アダムとエバの堕落によってこの世に呪いが生じたことを確認している。それは個人の責任を強調し、人間始祖の罪に対する私達の責任を否定するほかの章句と均衡がとれている。

人間の堕落は、宇宙の純粋な根源と現在の苦痛に満ちた状態から現れる矛盾を物語る。次には、宗教が成立し得る論理的諸要件である。1) 神様は唯一の創造者である。2) 創造目的は善である。3) 悪は実在し、創造目的と背馳する。このような論理は、キリスト教、イスラーム、そしてユダヤ教で主張している。

仏教にはこのような創造の教理がなく、物質を根本とみなし、同時に自己実現のために克服すべき制約とみなすヒンドゥー教も、やはりこのような教理がない。
それにもかかわらず、このような諸宗教は、悪の業報の根源を説明するために、恩寵から抜け出した最初の堕落に関する教理をもっている。

聖書とクルアーン(コーラン)の章句は、人間の堕落を象徴的に説明しており、多様な解釈が可能である、サタン、ルーシェル、またはイブリースなど、様々な名前で呼ばれる蛇は、たびたび不適切な性行為を暗示するものとして説明されるが、アダムとエバが神様の命令に従順にしないよう、そそのかす。

文鮮明先生は、人間の堕落は不道徳な性行為だったと直接的に指摘しながら、堕落は神様の真の愛に対する人間の純粋性に害悪を及ぼしたと教える。悪の根源を性的犯罪だと説明したり、暗示したりするのは、ギリシャ神話、仏教、神道、そしてアフリカの伝統にも現れている。


①アダムとエバの犯罪

―宗教経典―

主なる神は人を連れて来て、エデンの園に住まわせ、人がそこを耕し、守るようにされた。主なる神は人に命じて言われた。「園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。」

主なる神は言われた。「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。」主なる神は、野のあらゆる獣、空のあらゆる鳥を土で形づぐり、人のところへ持って来て、人がそれぞれをどう呼ぶか見ておられた。人が呼ぶと、それはすべて、生き物の名となった。人はあらゆる家畜、空の鳥、野のあらゆる獣に名を付けたが、自分に合う助ける者は見つけることができなかった。

主なる神はそこで、人を深い眠りに落とされた。人が眠り込むと、あばら骨の一部を抜き取り、その跡を肉でふさがれた。そして、人から抜き取ったあばら骨で女を造り上げられた。主なる神が彼女を人のところへ連れて来られると、人は言った。「ついに、これこそ私骨の骨、私の
肉の肉。これをこそ、女(イシャー)と呼ぼう。まさに、男(イシュ)から取られたものだから。」こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる。人と妻は二人とも裸であったが、恥ずかしがりはしなかった。

主なる神が造られた野の生き物のうちで、最も賢いのは蛇であった。蛇は女に言った。「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか。」女は蛇に答えた。「私達は園の木の果実を食べてもよいのです。でも、園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないから、と神様はおっしゃいました。」

蛇は女に言った。「決して死ぬことはない。それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ。」
女が見ると、その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆(そそのか)していた。女は実を取って食べ、一緒にいた男にも渡したので、彼も食べた。二人の目は開け、自分たちが裸であることを知り、二人はいちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆うものとした。

その日、風の吹くころ、主なる神が園の中を歩く音が聞こえてきた。アダムと女が、主なる神の顔を避けて、園の木の間に隠れると、主なる神はアダムを呼ばれた。「どこにいるのか。」彼は答えた。「あなたの足音が園の中に聞こえたので、恐ろしくなり、隠れております。私は裸ですから。」

神は言われた。「お前が裸であることを誰が告げたのか。取って食べるなと命じた木から食べたのか。」アダムは答えた。「あなたが私と共いるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました。」主なる神は女に向かって言われた。「何ということをしたのか。」
女は答えた。「蛇がだましたので、食べてしまいました。」主なる神は、蛇に向かって言われた。「このようなことをしたお前は、あらゆる家畜、あらゆる野の獣の中で、呪われるものとなった。お前は、生涯這いまわり、塵を食らう。お前と女、お前の子孫と女の子孫の間に、私は敵意
を置く。彼はお前の頭を砕き、お前は彼のかかとを砕く。」

神は女に向かって言われた。「お前のはらみの苦しみを大きなものにする。お前は、苦しんで子を産む。お前は男を求め、彼はお前を支配する。」
神はアダムに向かって言われた。「お前は女の声に従い、取って食べるなと命じた木から食べた。お前のゆえに、土は呪われるものとなった。

お前は、生涯食べ物を得ようと苦しむ。お前に対して、土は茨とあざみを生えいでさせる。野の草を食べようとするお前に、お前は顔に汗を流してパンを得る。土に返るときまで。お前がそこから取られた土に。塵にすぎないお前は塵に返る。」

アダムは女をエバ(命)と名付けた。彼女がすべて命あるものの母となったからである。主なる神は、アダムと女に皮の衣を作って着せられた。

主なる神は言われた。「人は我々の一人のように、善悪を知る者となった。今は、手を伸ばして命の木からも取って食べ、永遠に生きる者となるおそれがある。」主なる神は、彼をエデンの園から追い出し、彼に、自分がそこから取られた土を耕
させることにされた。こうしてアダムを追放し、命の木に至る道を守るために、エデンの園の東にケルビムと、きらめく剣の炎を置かれた。
創世記2.15 ~ 3.24 (キリスト教)

われはなんじらをつくり、それから形態を与え、それからわれは、天使たちに向かって、「アダムに叩頭(こうとう)せよ」と告げた。それで悪魔(イブリース)のほかはみな叩頭したが、かれは叩頭者のうちに加わらなかった。かれは仰せられた「われがなんじに命じたとき、どうして叩頭しなかったのか」と。

かれは「私はかれよりもすぐれております」と、申し上げた。あなたは、私を火からおつくりになりましたが、かれをどろでつくられました」。

かれは仰せられた、「ここから下がれ、なんじはここで高慢であるべきではない。立ち去れ、なんじはまことに卑しむべき者である」。かれは「かれらがよみがえされる日まで、私を猶予して下さい」と、申し上げた。かれは仰せられた「なんじは猶予される者である」。

かれは申し上げた「あなたは私を惑わされたから、私は、あなたの直き道の上で、かれらに向かってすわり込み」、「それで私は、かれらを前から、また後ろからも、右てからも左てからも襲いましょう。あなたはかれらの多くの者が、お慈悲に対し感謝するのをご覧にならぬでしょう」。

かれは仰せられた、「恥辱をこうむり追われて、ここから出て行け。およそかれらのうちなんじらに従う者があれば、なんじらの衆で、われは地獄を満たすであろう」。

アダムよ、なんじとなんじの妻は楽園に住み、随所でなんじらの好むものを食べよ、ただ不義者のたぐいとならぬために、この木に近づいてはならぬ。その後悪魔(サタン)はかれらにささやき、隠された、恥ずかしいところを、かれらにもらそうとして、「おまえたちの主が、この木に近づくことを禁じたまえるは、おまえたちを、天使または永生の者になさらないためであると言った。

そしてかれは、かれら両人に誓って言った、「わしはおまえたちの心からの忠告者である」。こうしてかれは両人を欺いて堕落させ、かれらがこの木を味わうと、その恥ずかしいところが、かれらにあらわになり、園の木の葉でその身をおおい始めた。

そのとき主は、かれらに呼びかけて仰せられた、「われはこの木を、なんじらに禁じたではないか、また悪魔(サタン)は、なんじらの公然の敵だと、告げなかったか」。かれら両人は「主よ、私達は、自らあやまちを犯しました。もしあなたのお許しと慈悲にあずかれないならば、私達はきっと失敗者のたぐいになってしまいます」と、申し上げた。

かれは仰せられた「なんじらは降りて行け、なんじらは互いに他の敵であろう。なんじらには地上に住所と、一期限に対する給養があろう」。かれは仰せられた「そこでなんじらは生活し、そこでなんじらは死に、またそこから復活のために引き出されるであろう」。

アダムの子らよ、われは、恥ずかしいところをおおい、また飾るために衣装をなんじらに授けた。だが篤信の衣装、それこそ最も優れたものである。これは神のしるしである、おそらくかれらはさとされるであろう。

アダムの子らよ、悪魔がかつてなんじらの祖先に、その恥ずかしいところを知らせるため、無知の衣を奪い、楽園から追われたように、なんじらはかれに惑わされてはならぬ。悪魔およびかれの一味は、なんじらがかれらを見ない所から、なんじらを見ている。まことにわれは悪魔たちを不信心な者の保護者とした。
クルアーン7.11 ~ 27(イスラーム)

私がアダムのように自分の罪を隠し、咎を胸の内に秘めていたことは、決してない。もしあるというなら……。
ヨブ記31.33 (キリスト教)

なぜ聖書には「主なる神は、アダムと女に皮の衣を作って着せられた」(創世記3.21)という聖句が、「人と妻は二人とも裸であったが、恥ずかしがりはしなかった」(創世記2.25)という聖句のすぐあとに続かなかったのか。これはあなたに、邪悪な存在がアダムの内外を誘惑したことが罪だということを教えてくれる。なぜなら、(蛇は)アダムとエバが本来的に約婚した関係であることを知ってエバに対して淫欲を抱いた。
ミドラシュ、創世記ラッパー18.6 (ユダヤ教)

蛇がエバについていって言った。「女性の霊は北の方から出てきた。ゆえに私は素早く彼女を誘惑するだろう」。そうだとすれば、どのように誘惑したのか。蛇はエバと性的関係を結んだのである。
バヒルの書199 (ユダヤ教)

そのとき、邪悪な蛇が深思、熟考したことは何だったか。蛇はこのように考えた。「私が行ってアダムを殺し、彼の妻を奪おう。そして私が世の王になろう」。
タルムード、アヴォート・デ・ラビ・ナタン(ユダヤ教)

私達の最初の先祖は時を待たなかった。時になる前に婚姻しようとした欲望で、神のみ意の時を待つことができずに罪を犯したのである。
アレクサンドリアのクレメンスストロマテイス3.14.94(キリスト教)


墜落の夢は、飛行の夢の場合よりもいっそうしばしば不安を伴う。女性の場合、この種の夢の解釈は簡単である。なぜなら墜落の夢は、性的誘惑への屈服を表現し変えたところの落下の象徴的利用をほとんど例外なしに採用しているからである。われわれはまだ落下夢の幼児的源泉を十分に汲みつくしてはいない。
ジークムント・フロイト夢判断


―み言選集―

人類の堕落が木の実を取って食べた結果であり得るでしょうか。アダムとエバの堕落は神様の真の愛の理想に背いた不倫の犯罪です。守るべき戒めが必要だった堕落前のアダムとエバは、未完成段階、すなわち成長期間で堕落してしまいました。

蛇で表示された天使長の誘いを受け、エバが霊的に堕落し、そのエバがアダムを誘って(時ならぬ時に善悪を知る木の実を取って食べる)肉的な堕落をしてしまったのです。

本然の園で神様と対話しながら、楽しくはしゃぎ回って暮らしていたアダムとエバが、死ぬことまでも顧みないで犯し得る可能性のある犯罪は、間違った愛の犯罪しかないのです。

人類の先祖の初愛の結合は、神様自身の愛の完成でもあったので、当然、神様もアダムとエバも宇宙万象も、歴史を通して歓喜と祝福の中に酔う幸福な宴の連続でなければなりません。神様の愛と生命と血統が人間の中で出発しながら、定着する幸福な儀式でなければなりません。

ところが、彼らは下半身を覆い、木の後ろに隠れて、不安に震えました。天道に逆らう偽りの愛、偽りの生命、偽りの血統の根源をつくった不倫の関係を結んだからです。

堕落したアダムとエバの子孫である全人類は、子々孫々、生まれる時から原罪をもつようになりました。人類が個体の中に心と体の衝突を矛盾として感じるのも、堕落に根源があり、愛の秩序が紊乱した社会の中で、本心が願わない生を生きていくのも、すべてここに由来しているのです。
(277-200、1996.4.16)

善悪の果は果実ではあり得ません。それが何の果実だというのですか。果実を中心として、億千万世の人類が呻吟するのですか。このように破綻の場であり、争いと闘争の路程で呻吟する現象を引き起こす果実を、神様がなぜつくったのですか。
これは今、レバレンド・ムーンが語った愛の内容を中心とする果実の結果だったという事実が、何よりも理論的な道に近いのです。それで、愛は、善の愛と悪の愛が生じたのです。善悪の果は、その愛の果実です。
(128-87、1983.6.5)

創世記2章25 節を見れば、罪を犯す前、アダムとエバは、裸でいても恥ずかしく思わなかった。しかし、彼らが堕落したのちには、裸でいることを恥ずかしく思い、無花果の葉をもって下部を覆ったのである(創3・7)。

もし、善悪の果というある果実があって、彼らがそれを取って食べて罪を犯したのだとすれば、恐らく彼らは手か口を隠したはずである。なぜかといえば人間は恥ずかしい所を隠すのがその本性だからである。

しかし、彼らは、手や口を隠したのではなく、下部を隠したのである。したがって、この事実は彼らの下部が科となったために、それを恥ずかしく思ったということを表しているのである。ここから、我々は彼らが下部で罪を犯したという事実を推測することができるのである。

ヨブ記31 章33 節には、「私がもし(アダムのごとく)人々の前に私のとがをおおい、私の悪事を胸の中に隠したことがあるなら」と記録されている。そうしてアダムは、堕落したのち、その下部を隠したのであった。この事実はとりもなおさず、アダムが覆ったその下部が科となったということを物語っている。

それでは、アダムの下部がなぜ科となったのであろうか。それは、いうまでもなく、アダムがその下部で罪を犯したからである。人間が堕落する以前の世界において、死ぬということを明確に知っていながら、しかも、それを乗り越えることのできる行動とは、いったい何であったのだかうか。それは、愛以外の何ものでもない。

「生めよ、ふえよ」(創1・/28)と言われた神の創造目的は、愛によってのみ完成することができるのである。したがって、神の創造目的を中心として見るとき、愛は最も貴い、そして最も聖なるものであったのである。

しかし、それにもかかわらず、人間は歴史的に愛の行動を、何か卑しいもののように見なしてきたというのも、それが、堕落の原因となっているからである。ここにおいて我々は、人間もまた、淫乱によって堕落したという事実を知ることができる。
原理講論、堕落論1.3.2

被造世界は、そもそも、神の愛の主管を受けるように創造されている。したがって、愛は被造物の命の根本であり、幸福と理想の要素となるのである。それゆえに、この愛をより多く受ける存在であればあるほど、より一層美しく見えるのである。

ゆえに神の僕として創造された天使が、神の子女として創造されたエバに対したとき、彼女が美しく見えたというのも当然のことであった。
ましてやエバがルーシェルの誘惑に引かれてくる気配が見えたとき、ルーシェルはエバから一層強い愛の刺激を受けるようになったのである。こうなるともう矢も盾もたまらず、ルーシェルは死を覚悟してまで、より深くエバを誘惑するようになった。

このようにして、愛に対する過分の欲望によって自己の位置を離れたルーシェルと、神のように目が開けることを望み、時ならぬ時に、時のものを願ったエバとが(創3・5、6)、互いに相対基準をつくり、授受作用をするようになったため、それによって非原理的な愛の力は、彼らをして不倫な
る霊的性関係を結ぶに至らしめてしまったのである。

愛によって一体となれば、互いにその対象から先方の要素を受けるように創造された原理によって(創3・7)エバはルーシェルと愛によって一体となったとき、ルーシェルの要素をそのまま受け継いだのであった。
すなわち、第一に、エバはルーシェルから、創造目的に背いたということに対する良心の呵責から
くる恐怖心を受けたのであり、第二には、自分が本来対すべき創造本然の夫婦としての相対者は天使ではなく、アダムだったという事実を感得することのでぎる新しい知恵を、ルーシェルから受けるようになったのである。

当時、エバは未完成期にいたのであった。したがって、そのときの彼女自体は、既に完成期にあった天使長に比べて、知恵が成熟していなかったために、彼女は天使長からその知恵を受けるようになったのである。
原理講論ご堕落論2.2.1

エバが天使長に強奪されたとき、その心はどうだったでしょうか。良心の呵責を受け、嫌だと思いながら天使長の誘惑に引き込まれていったのです。すべての細胞が喜び、花が早春を願うように愛さなければならなかったにもかかわらず、細胞が朽ち果て、心情が朽ち果てたところで顔をゆがめて愛したのです。(33-330、1970.8.23)
神様にとってエバは未来の夫人でした。なぜかというど、アダムは神様と一体であり、すなわち神様御自身だからです。ですから、神様は自分の夫人をサタンに侵犯されたのです。
(22-208、1969.2.4)

このとき、不倫なる貞操関係によって天使長と一体となったエバは、アダムに対して、天使長の立場に立つようになった。したがって、神が愛するアダムは、エバの目には非常に美しく見えたのである。

また、今やエバは、アダムを通してしか神の前に出ることのできない立場にあったから、エバにとってアダムは、再び神の前に戻る望みを託し得る唯一の希望の対象であった。

だからこそエバは自分を誘惑した天使長と同じ立場で、アダムを誘惑したのである。アダムがルーシェルと同じ立場に立っていたエバと相対基準を造成し、授受作用をすることによって生じた非原理的な愛の力は、アダムをして、創造本然の位置より離脱せしめ、ついに彼らは肉的に不倫なる性関係を結ぶに至ったのである。

アダムは、エバと一体となることによって、エバがルーシェルから受けたすべての要素を、そのまま受け継ぐようになったのである。そのようにして、この要素はその子孫に綿々と遺伝されるようになった。

エバが堕落したとしても、もしアダムが、罪を犯したエバを相手にしないで完成したなら、完成した主体が、そのまま残っているがゆえに、その対象であるエバに対する復帰摂理は、ごく容易であったはずである。しかし、アダムまで堕落してしまったので、サタンの血統を継承した人類が、今日まで生み殖えてきたのである。
原理講論、堕落論2.2.2

②人間堕落の悲劇的結果

―宗教経典―

イマナ(神)が人々と共にいたその昔、死は人々と共にいなかった。死が地に下りていこうとするたびに神が猟犬を送って追い出された。ある日、死は犬に追われて狭い空間に追い込まれ、捕まって死にそうになった。

しかし、一人の女性をみつけ、自分を隠してくれれば、彼女とその家族に報いると約束した。女性は口を開け、死は素早く口の中に隠れてしまった。(注2)

神が彼女のところに来て、死を見たかと尋ねると、彼女は否定した。しかし、すべてのことをご存じの神は、何があったのかをご存じで、彼女が死をかくまってあげたため、遠からず死が彼女と子供たちを殺すだろうと言った。そのときから死はすべての世に広がるようになった。
フツ族の伝承(アフリカ伝統宗教)
アダムが堕落していなければ、サタンではなく、聖霊の子を生んだだろう。しかし今、全人類の子孫は、サタンのものとして生まれたために永遠性がない。そして、一つの個体の中に、他のものの要素をもっているために、短い生しか生きることができない。

しかし、アダムが堕落してエデンの園から追い出されなければ、天の姿に似て、永遠に生きる天使たちのような聖霊の子を生んだだろう。しかし、アダムが堕落してエデンの園の外で子を生んだため、そのみ意は根を下ろすことができなかった。
ゾハール、創世記61a (ユダヤ教)

アダムとエバの堕落後に神は、彼らに肌をくるむ衣服を作ってくださった。創世記3章21 節に次のように記録されている。「主なる神は、アダムと女に皮の衣を作って着せられた」。本来、彼らは、最高の中の最高の栄光である、光の服を着ていた。天使たちもその光を見にきたりしていた。詩編の記録によれば、「神に僅かに劣るものとして人を造り、なお、栄光と威光を冠としていただかせ」(詩編8章6節)と出ている。しかし、罪を犯したのちには、霊のためのその光が消え、結局、肉身のための皮の服だけが残るようになった。
ゾハール1.36b (ユダヤ教)

海水がおのずから凝り固まってできた島なので、これを淤能碁呂(おのごろ)島というのである。両神はその島にお降りになって、聖なる御柱(みはしら)をお見立てになり、また結婚のための広い宮殿もお見立てになった。

そこで伊耶那岐命(いざなぎのみこと)は妹の伊耶那美命(いざなみのみこと)に尋ねて、「おまえの身体はどのようにできてきたのか」とお仰せになると、伊耶那美命は私の身体はだんだんに成り整ってきましたが、まだ整わない所が一か所
あります」とお答えになった。

さらに伊耶那岐命が「私の身体はだんだんに成り整ってきたが、できすぎたところが一か所ある。だから、この私の身体の余分なところを、おまえの身体の足りないところに刺し入れふさいで、国を生もうと思う。生むことはどうだろうか」と仰せになると、伊耶那美命は「それは結構でしょう」とお答えになった。そこで伊耶那岐命は「それならば、私とおまえこの聖なる御柱を巡り、出会って、聖なる結婚をしよう」と仰せになった。

このように約束してから伊耶那岐命は「おまえは右から巡って会いなさい。私は左から巡って会おう」と仰せられて、約束し終わって御柱巡りをした時に、伊耶那美命のほうが先に「何とまあ、すばらしい男性でしょう」と唱え、そのあとで伊耶那岐命が「何とまあ、美しい娘だろう」と唱え、おのおの唱え終わったのちに、伊耶那岐命がその妹に向かって、「女が男より先に唱えたのはよ
ろしくない」と仰せられた。

そうはいいながら、聖婚の場所である八尋殿にお
いて御子を生むことを始めて、最初に生まれた子は水蛭子という不具児であった。この子は葦の船に乗せて流し捨てた。……そこで二柱(ふたはしら)の神は相談され、「今私達が生んだ子は、不具児でよろしくない。やはり天(あま)つ神のおられる所に参上して、このことを申し上げよう]とおっしゃって、すぐに一緒に高天原(たかまのはら)に参上し、天つ神の指示を仰がれた。そして天つ神のご命令で鹿の骨を焼いて裂け目の形で神意を知るという占いをした結果、天つ神は「女が先に唱えたのがよくないのだ。再び淤能碁呂島に帰り降(くだ)って、改めて唱え直しなさい」と仰せられた。

そこで両神は帰り降って、また例の天の御柱を前回のように巡られた。こんどは伊耶那岐命の方か
ら先に「何とまあ、美しい娘だろう」と唱え、そのあとで妹の伊耶那美命が「何とまあ、すばらしい男性でしょう」と唱えた。このように唱え終わって結婚され……八つの島を生んだのにちなんで日本列島を大八島国(おおやしまくに)
という。(注3)
古事記4.1 ~ 6.1 (神道)

ゼウスが人のゆえに怒りをもったとき、彼は、彼が考え得る最も残酷な罰を思い巡らし、女を構想した。鍛冶屋の神であるヘパイストスが頼まれ、土をこねて美しく魅力的な女をつくった。神々は、それぞれ女に自分たちが選んだ最もよい才能を贈り物として与えた。こうして彼女は、「もらったすべての贈り物」という意味のパンドラと呼ばれるようになった。

彼女が様々な贈り物で完全に美を備え、魅力をもったとき、この反逆的な宝は、伝達の神であるヘロメスによって地に下ろされ、プロメテウスの愚かな弟エピメテウスに送られた。そのときプロメテウスは彼の弟に、たとえそれが友好的に送られてきた贈り物のように見えても、ゼウスから何も受け取るなと警告した。

しかし、エピメテウスはいつものように先に行動してあとで考えた。彼はヘロメスから来たその女を受け入れ、彼の家に連れていった。そして、神
々が安全に保管し、決して開けるなと言いながら彼女に与えた大きな箱を彼女と共に受け入れた。(注1)

贈り物の中に女性的好奇心という才能をもったパンドラにとって、この箱を開けないということは無理だった。しばらく我慢したのち、彼女はついに耐え切れず、その箱の蓋をはずし、その瞬間から人類の悲しみは始まった。

なぜなら、それぞれの神々はその箱に彼らが与えることのできる最悪のものと、彼らが彼女に才能として付与した優れたものを貯蔵したからである。伝染病を移す昆虫と悪臭を放つ黒い雲がその箱からあふれ、出てくる邪悪なものたちはとても恐ろしいものだった。それは疾病と苦痛、憎悪と嫉妬と貪欲、心臓を凍らせ、老いをもたらすあらゆる残酷なものだった。

パンドラは、箱の蓋を再び閉じようとしたが、あまりに遅すぎた。幸福な人の子孫たちは永遠に消え去り、それと共に生が楽だった黄金時代も消え去った。そのときから人は、友好的でない土壌で自らの労働によって生きるために格闘しなければならなくなった。

ただ、その箱から一つの良いものが人に現れ、これまで残されて苦痛の中にいる人を慰労したのだが、それは希望だった。
パンドラの箱の神話(ヘレニズム)


―み言選集―

堕落がどこから始まりましたか。家庭で堕落したのが何ですか。善悪の果を取って食べたのですか。家庭的に堕落し得るのは愛しかありません。善悪の果を取って食べて堕落したのでしょうか。善悪の果を取って食べて原罪が生じますか。父親が善悪の果を取って食べたことが罪だというのですが、善悪の果が何であるがゆえに千代、万代の子孫が罪人になったのでしょうか。これは血統的関係です。血統的に罪の根を植えておけば、遺伝の法則によって永遠に続くのです。そうなるのは愛の問題だけです。誤った愛が堕落の原因です。
(23-167、1969.5.18)

愛で成熟しなければならないのですが、愛によって故障したときは、神様も退くのです。そのようになれば大問題です。それで私達が探し出したのが何ですか。愛の事故が起きた、愛の事故以外にはあり得ないということです。


ですから、天が問題になり、人間が問題になり、歴史が問題になり、宇宙の大事件として衝撃を与え得るものは愛しかなく、愛の事故だというのです。
(128-87、1983.6.5)

愛というものを知るようになるとき、すべてのものに通じます。地上世界の平面的な事実だけでなく、霊眼が開け、立体的な世界である霊界の事実までも分かるので、神様に直接会って接することのできる境地に至るようになります。ですから、愛の知覚が発達します。ところが、それを成す前に堕落してしまいました。その堕落とは何ですか。不倫の因縁を結んだことです。
(137-129、1986.1.1)

神様が「それである!」と言うことのできる愛はどのようなものでしょうか。アダムとエバが16、17、18 歳になれば自然に思春期になり、目が思いどおりに動くのではなく、エバは男性をまっすぐに見つめ、男性はエバをまっすぐに見つめ、「いやあ! 私が探し求めてみると、君だったのだなあ、君、君、君!」、このように言えるところに行かなければなりません。その時は思春期なので、
心と体が一つになったでしょうか、なっていないでしょうか。目をのぞき込んでみると神秘的な目であり、鼻に触れてみると電気が走り、これは問題が大きいというのです。そのとき、アダムの心と体が一つになったでしょうか、なっていないでしょうか。一つになったでしょう。

男性と女性が、初めて宇宙に善を掲げて心と体が一つになるとき、花が大きく咲くのです。完全に咲き、香りがします。その香りは宇宙の香りなので、宇宙の万物が「ふーむ!」というのです。地でもどこでも、すべてその香りをかごうと、鼻が長くなり、体が伸びて大騒ぎします。

神様はどうでしょうか。神様は、「ふーむ、おや! これはおかしい、おかしい!」と言います。神様も、我知らずあっという間に虜になってしまいます。ひゅーっと回って引き込まれてくるのです。自然に引き込まれます。「もう出動時代になったなあ。出掛けよう!」と言われるというのです。男性と女性が核になったならば、神様も首にぶらさがってそこから離れられません。離れようとすれば、体だけが離れるのであって足はくっついているのです。男性も女性もくっついています。どこへも離れていけません。ここから生まれた男性と女性も、このひもをもってここで再び会えば、またくっつき、またくっつき……。

こうして家庭から氏族、民族、国家、世界になるのです。男性と女性が一つになったここから子孫が生まれれば、さっとくっつきます。それで、家庭、氏族、民族、国家、世界になります。どれほど素晴らしい宇宙ですか。そのようになれば偉大な所になります。それが地上天国であり、真の世界です。

そのようなものができずに堕落したので、反対の世界となり、すべてが分かれるのです。このような原則で見るとき、故障したときは、いくら世の中に人が大勢いても、ばらばらに分かれて分立した人間像が発見されるのです。
ところが、現世の世界がそのようになっている事実を否定できません。ですから堕落したというのです。堕落によってつくり出された世界だというのは、正当な結論だということを知らなければなりません。

ここからすべて分かれたので、神もなく、父母もなく、兄弟もなく、男性もなく、女性もなく、世界もない混乱状態がつくり出されたのです。これが現世だという事実が分かりましたか。ここで自分自身では絶対に一つになれません。

理想がありません。人間自体では、理想を猫いたところでそれは永遠に不可能です。それで今では神様を求め、ここから再び神様を……。ところが、「神はいない。神は死んだ!」と言うのです。それは何かというと、すべて終わったということです。「私達人間は滅亡する。希望も何も、ユートピアも理想もすべて片付けてしまえ。それは人間たちがつくりあげたものだ!」このように
見るのです。
(128-88 ~ 90、1983.6.5)
堕落しなかったなら、神様が縦的な愛となり、アダム・エバは神様の体になったのです。神様は骨のようなものであり、アダム・エバは肉のようなものだというのです。神様は、内的な場で内的な父母になり、アダム・エバは、外的な場で外的な父母になります。

内的・外的父母が一つになったその場が愛でつづられて内的父母に侍るようになり、外的父母をもつようになります。神様と人間が愛で結ばれることにより、真の父母、完成した人間が成就されるようになっていたというのです。愛で結ばれなければ、完成人間はいないのです。

それが本然の私達の先祖でなければなりません。神様が創造された本然の人間です。そのような人から私達が生まれるのです。そのような神性をもった人により、私達が生まれなければなりません。ですから、私達は神性を帯びた神様の性稟をもち、人性を帯びた父母の性稟ももつのです。

ですから、アダム・エバの完成は、神様の愛に結ばれてこそ完成するのであって、これが結ばれなければ駄目なのです。神様の縦的な愛と横的な肉的愛が、一点で結ばれたものが、正に私達の先祖の血統の根です。そこが私達の先祖の血統です。そこから全人類が生まれなければなりませんでした。

堕落のために、男性の愛、女性の愛、神様の愛がみな分かれました。堕落によって、男性の愛、女性の愛、神様の愛が結ばれませんでした。堕落しなかったなら、男性と女性は自動的に愛で結ばれます。なぜ男性と女性が一つになろうとするのですか。愛のたのです。愛で一つになったのちに、何をしようというのですか。神様の祝福を受けようとするのです。それが目的です。
(184-71、1988.11.13)

③性的愛の堕落

―宗教経典―

比丘たちよ、これを知らなければならない。(最後の宇宙の周期を締めくくる)大洪水が退いていき、再び大地がその姿を現し始めた。そのとき、大地の表面に神々の食物よりもっとかぐわしいにおいのする薄い膜があった。

その薄い膜の味はどのようなものだったか。それはまるで口の中に溶け込むぶどう酒の味と似ていた。そのとき、極光浄天の神々が互いに言った。

「閻浮提に今、再び大地が現れ始めたが、我々が行って、それがどのようなものなのか見てこよう」。こうして若い神々は世に下りていき、大地の表面にできた薄い膜を見た。彼らはそれを指につけて昧わった。ある神々はこのようなことを何度も行い、この薄い膜をたくさん食べたが、彼らは即座に彼らの権能と光彩を失ってしまった。
彼らの体は重くなり、彼らの本質はまた骨と肉に変わり、ついに彼らは力を失い、これ以上飛んでいることができなくなった。しかし、その薄い膜を全く食べなかった神々がいたが、彼らはまだ空中を自由自在に飛び回ることができた。

力を失って飛ぶことができない神々が、どうしてよいか分からず、互いに泣き喚いて叫んだ。「我々は今、苦しい境遇に置かれるようになった。力を失い、この大地の上にとどまるしかすべがない。我々は飛ぶことができないため、天界に再び戻ることはできない」。

こうして彼らは大地にとどまり、大地を覆っていたその薄い膜を食べて生き、互いの美しさを注視するようになった。彼らの中で、最も情熱的だった者たちは女性になり、彼ら神々と女神たちは、互いに自分たちの欲望と快楽を満たした。

比丘たちよ、このように世の中が最初に始まるとき、すべての世に貪欲な愛が等しく広がるようになった。
それは実に長い時間がたち、また持続するものである。そして、女が世に現れたのもまた実に長い時間がたち、彼らだけのことではないことを知らなければならない。

天界に再び上がっていくことができた神々が見下ろし、若い神々が堕落したことを知り、世に下りてきて彼らに言った。「あなたたちは、どうしてこのような堕落の行いを好んでするのか」。地上の神々は自ら考えた。「我々は、他の者たちに見えず、互いに一緒にいることができる方法を見つけなければならない」。こうして彼らは、自分たちを隠す家を造るようになった。比丘たちよ、このようにして初めて家ができるようになったのである。

(今、人々が)夫と妻たちのこのことを見て、そのような夫婦を憎悪し、軽蔑し、左手で彼らを捕まえ、右手で押し、彼らを追い出してしまった。しかし、いつも彼らは二カ月、あるいは三カ月たつと、再び戻ってきた。そのため人々は、彼らを拳でたたいたり、罵倒を浴びせたり、地にたたきつけたりもし、棍棒や石でたたき、土をかぶせたりもした。「行ってお前たちの体を隠せ! 行ってお前たちの体をしっかりと隠せ!」。これが今日、若い女たちが婚姻するとき、花や金、銀、または布の切れ端や米で清められ、人々が新婦に花や金、銀などを投げ、「新婦よ、和平と幸福があなたと共にあることを!」と叫ぶ理由である。

比丘たちよ、昔は、悪行とは正にこのようなことを意味した。しかし、今日ではこのようなことが善とみなされることは、また驚くべきことではないか?
増一阿含経34、起世経(注4)(仏教)

このような欲望によって成し遂げられる行為そのものは、いずれのばあいにも人目を避けるのである。すなわち、さまざまの淫蕩においては、人間の罰則をひそかに避けるために隠れ場が求められ、また、この世の国が許して、売春婦を利用しておこなわれる恥辱においても、その国のいかなる法も罰しないようなことがいとなまれるのではあるが、それにもかかわらず、公認されて罪とはならないその欲望は衆目環視を避け、自然な羞恥心は秘密のために売春宿さえも配慮するのである。

ある「ローマの弁論術の最大の巨匠」も、すべて正しくなされた行為は光のなかに立てられることをのぞむ、といっており、これはすなわち、その行為が知られることを求めるということなのであるから、そのように正しくなされたこの行為も、知られることを求めるのであるが、しかもなお恥ずかしく思うのである。……

たしかにそのための行為が果たされるために花嫁たちはひじょうな祝いの儀式をももって娶られるのであるが、その行為がいとなまれるとき、そのような行為の結果としてすでに生まれている子供たちがその目撃者となることはゆるされないのである。

このように正当におこなわれたこの行為は、それが認知されるために人びとの精神の光を求めながら、それにもかかわらず、人びとの目の光を避けるのである。その理由は、その行為自体としては自然に適ったところのことをおこなっているのであるが、それに伴う恥辱の感情は罰の結果として生じたものであるというのでなければなんであろうか。

現在の状態においては、これらのものは、いま述べたように駆りたてられたのであって、節度をもって正しく敬虔に生きる者たちにより、ときには比較的容易に、ときにはかなりの苦労を伴って、抑制され抵抗されたりしながら適応せしめられているのであるが、しかし、それはけっして自然本性から与えられた健康な状態ではなく、罪責からきた無力の状態なのである。

したがって、楽園のうちに立てられた最初の人間たちが、この欲望――かれがそれによって恥ずかしく思い、身体のあの部分を隠したところの欲情――をとおして、「生めよ、ふえよ、地にみたせ」とお告げになった神のあの祝福が意味するところのことを成就したのだと信じるようなことがあってはならない。
じっさい、この欲情が目ざめたのは罪ののちであったからである。それ自身恥すべきものではない自然本性は、身体がそのすべての部分から仕えていた主権を、罪ののち喪失してしまうことによって、欲情を感じ、意識し、恥じて隠したのであった。

しかし、夫婦の数がふえて地をみたすべきであるという結婚についてのあの祝福は、罪を犯した者たちにも残っていたのではあるが、すくなくともそれはがれらが罪を犯す以前に与えられていたわけであるから、子供を生むということ自体は、結婚の栄光に属するものなのであって罪にたいする罰に属するものではないということが知られるのである。

したがって、もしも罪が存在しなかったら、あの結婚は楽園のしあわせにふさわしいものとなって、愛されるべき子孫を生み、しかも恥じられるべき欲情をもつこともなかったはずである。ただし、現在私達は、このことがいかにしておこりうるのかを示してくれる例証をもっていないのである。しかし、だからといって、あの一つの器官がこのような欲情を伴うことなく意志に服従することができたとは信じられぬことであると見なければならないわけではないのである。なぜなら、現在、かくも多くの身体的諸部分が意志に服従しているのだからである。
アウグスティヌス神の国14.18 ~ 23(キリスト教)


―み言選集―

人間が堕落する特、愛のために堕落したので、この性器が最も怖いのです。宗教では、姦淫することを最も恐ろしい罪として取り扱っています。ですから、アメリカのフリーセックスは悪魔の地獄膨脹主義ですか、天国膨脹主義ですか。地獄です。地上地獄であり、天上地獄です。これはすべて滅亡するのです。
(261-304、1994.7.24)

神様の愛は、どのように連結されるのでしょうか。上から来る愛は最も近い距離、真の愛が行く道は、すべて直短距離を通るのです。このように考えてみるとき、縦的な愛、上から下に来る愛は、直短距離で統一されるとき、90 度の角度にならざるを得ないことを知らなければなりません。直短距離にならなければなりません。

縦的な神様と直短距離が成立すれば、そこに対して人間の真の愛も直短距離で通じるので、それを中心としてみるとき、横的な男性と女性も必ず水平となり、垂直に、90 度に合わせるとき、それが愛の決着点であり、90 度を中心とする定着地だというのです。それを知りませんでした。堕落とは何かというと、この角度がずれたことです。
(218-219、1991.7.29)

我々は次のような事実から、人間の罪の根が淫乱にあったということを、より一層明確に知ることができるのである。罪の根が血縁関係によってつくられたので、この原罪は、子々孫々に遺伝されてきた。

そして、罪を取り除こうとする宗教は、みな姦淫を最大の罪として定め、これを防ぐために、禁欲生活を強調してきたのであるが、これも罪の根が淫乱にあるということを意味するものである。

また、イスラエル民族が神の選民となるため、贖罪の条件として割礼を行ったというのも、罪の根が淫乱によって悪の血を受けたところにあったために、堕落人間の体からその悪の血を抜きとることを条件として、聖別するためであった。
数多くの英雄烈士、数多くの国家が滅亡した主要な原因が、この淫乱にあったということも、淫行という罪の根が、絶えず人間の心の中から、我知らず発動してきたためである。

我々は宗教によって人倫道徳を立て、また諸般の教育を徹底的に実施して、犯罪を生みだす経済社会制度を改善することにより、他のすべての罪悪は、この社会から一掃することができるかもしれない。しかし、文明の発達と、安逸な生活環境に従い、増大しつつある淫乱による犯罪だけは、誰によっても、またいかなるものによっても、防ぐことができないというのが現在の実情である。

したがって、人間社会から、この犯罪を根こそぎ取り除くことができない限り、決して理想世界を期待することはできないのである。ゆえに、再臨なさるメシヤは、この問題を根本的に解決し得るお方でなければならない。このように、これらの事実は、罪の根があくまでも淫行にあるということを如実に物語っているのである。
原理講論、堕落論1.5

 

2.カインとアベル

歴史上最初の殺人は、人間の堕落のすぐあとに続いて起きた。兄弟間の葛藤は、父母に由来した状況だということができる。カインとアベルの話は、避けられない人間の不平等問題を提起する。

その話は、人間が財産、才能、愛、幸運、そしてこのケースのように祝福の差をどのように克服しなければならないかに対する問いを投げ掛ける。
聖書は、アベルを正義の人とみなす。クルアーン(コーラン)は、アベルを、兄カインと争わないために武器をもつことを拒否する平和の人として描写する。

したがって、二種類の人に対する伝承が出てくる。アベル型の人間は、善良で信じるに足る反面、カイン型の人間は、粗暴で、無神論的で、暴力的である。しかし、文鮮明先生は、根本的にカインとアベルは兄弟だと教える。さらに、彼らは二人とも過ちを犯した。選ばれた者のアベルの驕慢がカインの憎悪を呼び起こし、カインの憎悪は罪悪の歴史を招来した。文鮮明先生は、神様がアベルの祭物だけを受けられたのは、カインに対する軽蔑を表現するものではなく、復帰の過程を促進しようとするものだったと教える。

カインとアベルは、カインがアベルに屈服することによって、アダムが天使長に間違って主管された父母の過ちを復帰することができた。この復帰摂理が成功していれば、殺人はなかったのであり、神様がカインの祭物も受けていたのである。

不平等は不可避である。どちらかを選択しなければならないとき、私達はどのように処理するだろうか。カインは選択の余地があった。暴力を使うことも、謙遜に弟の助けを求めることもできた。アベルもやはり選択の余地があった。選ばれた者の地位を誇ることも、選ばれなかった兄に哀れみをもち、彼を慰労し、励ますこともできた。このようなカインとアベルの状況から、どちらを選択するのかによって戦争と平和が決定され得るのである。

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世界経典-19

2020年10月17日 18時23分51秒 | 学習


②天使の争い

―宗教経典―

さて、天で戦いが起こった。ミカエルとその使いたちが、竜に戦いを挑んだのである。竜とその使いたちも応戦したが、勝てなかった。そして、もはや天には彼らこの居場所がなくなった。
ヨハネの黙示録12.7 ~ 8(キリスト教)

 

言え「私にこう啓示された、一団の幽精(ジン)が、クラーンを聞いて言った、わ.たしたちは、ほんとうにおどろくべき読唱を聞いた」、「正しい道への導きである。それで私達は信仰し、主に何ものをも配しない」。「崇高きわまる主のみいず。かれは妻をめとりたまわず、子も持ちたまわぬ」。「私達のうちの愚かな者が神に対し途方もないうそをねつ造していた」。

 

「しかし、私達は、人間もジンも、神についてうそを言うべきでないと考えた」。「まことに人間のうちある者は、ジンのある者に庇護を求める、しかしそれは、かれらの愚劣を助長した」。「かれらもあなたがたが考えるように、神は何者もよみがえらされないだろうと考えていた」。

 

「私達は、天の秘密に触れようとしたが、それは強い護衛と飛行弾に充満されていることがわかった」。「私達は、盗み聞くために、そこの席にすわっていた。だが聞こうとする者は、いまに、かれを警戒している飛行弾を見るであろう」。

 

「私達は、主が地上の者に対して悪を望みたもうか、または、かれらを正しい道に導くことを望みたもうかを知らなかった」。「私達のうちには正しい者もおり、またそうでない者もいる。私達は種々の道に従っている」。

 

「だが私達は、地上において神をとん座させることはできず、また逃避して、かれを失敗さすこともできぬと思っている」。「私達は導きを聴いたとき、それを信仰した。そして主を信ずる者には、恐れもなく、そこなうこともなく、また不正もない」。「私達のうちには、神に服従帰依する者もあり、また正道からそれる者もいる。服従帰依した者、かれらは正しい道をめざし努めている」。だが正道からそれる者、かれらは火獄のたきぎである」。
クルアーン72.1 ~ 15(イスラーム)


―み言選集―

天使長が堕落してアダムとエバ、人類世界をこのようにめちゃくちゃにしたので、天使がその仕事を代行しているというのです。天使世界がその仕事を代行しているのです。したがって天使世界がサタンと対決しているというのです。悪のサタンと善の天使が対決しているのです。その闘いで、善の天使側が勝利してこそ一歩前進するのです。
(109-18、1980.10.26)

 

神様の本然の理想世界、堕落がなかった本然の人間が行くことができる理想的な善の圏に向かって行くにおいて、善霊はそこに前進しようとし、悪霊はそこをふさいでいるのです。

 

悪の霊界と悪の世界というのは、いつも通じるのです。いつでも連絡がつきます。善霊は悪の世界で対立して反対される位置で生きた霊です。それは宗教を信じて逝った霊人たちだということを皆さんは知らしなければなりません。
(134-10、1985.1.1)

 

争いをすれば、必ず善の側と悪の側に分かれて争います。善の側は神様がコントロールし、悪の側はサタンがコントロールしますが、いつも善の側が勝っていきます。善の側が勝つのです。結局、この争いの歴史は、堕落以降の人間の戦争歴史ですが、その背後で悪神と善神の戦争歴史としてつづられてきたことを人類は知らなかったのです。
(161-13、1987.1.1)


③天使に対する人間の優越性

―宗教経典―

私達が天使たちさえ裁く者だということを、知らないのですか。まして、日常の生活にかかわる事は言うまでもありません。
コリントの信徒への手紙一6.3(キリスト教)

 

またなんじの主が、先に天使たちに向かって「まことにわれは、地上に代理者を置くであろう」と、仰せられたときを思え。かれらは「あなたは地上で悪を行ない、血を流す者を置かれますか、私達は、あなたをたたえて唱念し、またあなたの神聖を賛美し奉るのに」と、申し上げた。

 

かれは仰せられた「まことにわれは、なんじらの知らないことを知っている」。かれはアダムによろずのものの名を教えたまい、ついでそれらを天使たちに示し、「もし、なんじらの言葉が真実なら、これらのものの名をわしに言ってみよ」と、仰せられた。
かれらは答えて申し上げた「あなたの栄光をたたえまつる、あなたが私達に教えたまわるもののほかには、何も存じません。まことにあなたは、全知者・英明者であられます」。

 

かれは仰せられた「アダムよ、それらの名を、かれらに告げよ」。そこでアダムが、それらの名を、かれらに告げたとき、かれは仰せられた「われは天と地の秘密を知っており、また、なんじらが現すことも、隠すここともすべて知っている」。
クルアーン2.30 ~ 33(イスラーム)

 

モーセが高く上がっていったとき、聖なる神の前で守護天使が言った。「宇宙の主管主である神よ! 私達の間に女の生んだ一人の人間がいるのはどういうことでございますか」。神が答えられた。「彼は律法を受け取りにきた」。

 

すると天使たちが答えた。「この上なく秘密の宝、神であるあなたが、世が創造される以前に974 世代の間隠してこられたその秘密を、人間に与えようとされるのですか! あなたが心の中に包んでおられた人とは何ですか。そして、あなたが訪ねたこの人の息子はどのような存在ですか。おお、わが主よ、あなたの優れたお名前は全知にあふれます! 誰があなたの栄光(律法)を天に書き記しておいたのですか」。

 

聖なる方がモーセに、「あなたが答えてあげなさい」と語られた。それでモーセは神の前で天使たちに答えた。「宇宙の主管主であられる神よ! あなたが私に下さった律法、その律法の中には何か記されていましたか」。

 

「私は主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である」(出エジプト記20.2)。モーセが天使たちに言った。「あなたたちがエジプトに行ってパロの奴隷になりましたか。だとすれば、当然律法はあなたたちのものになるのではないですか。また神が私に下さった律法には何が記録されていますか。『あなたには、私をおいてほかに神があってはならない。」(出エジプト記20.3)となっています。あなたたちは、偶像を崇拝する人たちの中で暮らしていますか。また律法には何と記録されていますか。『安息日を心に留め、これを聖別せよ。』(出エジプド記20.8)と記録されています。

 

休息を必要とするときに仕事をしたからといって能率が上がりますか。……また律法に何と記録されていますか。『殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。』(出エジプト記20.13 ~ 15)となっています。皆さんの中で、何かの嫉妬がありますか。悪魔が皆さんの中で共にいることができますか」。

 

するとすぐに天使たちば聖なる神に自分たちの敗北を認めた。そして、「誰があなたの栄光(律法)を天に書き記しておいたのですか」という聖句はないが、「主よ、私達の主よ。あなたの御名は、いかに力強く、全地に満ちていることでしょう。」(詩編8.10)という聖句は記録されているのである。(注28)
タルムード、シャッパト88b ~ 89a(ユダヤ教)


―み言選集―

天使は神様に使える霊だといいました。神様の息子がいれば、息子に支配されなければなりません。天使を支配しなければならないのが人間の権威です。
(84-98、1976.2.22)

 

未完成期にいた人間に、このような戒めを与えられたのは、単純に、彼らが堕落しないようにするためだけではなかった。(注29)更にいま一つ、人間が、自分自身の責任分担として、そのみ言を信じ、自らの力で完成することによって神の創造性に似るようになり、併せて万物に対する主管性をも得るようにさせたいからでもあったのである。

 

そして、この戒めを天使長に与え給わず、人間に与えられたというのは、神の子女としての立場から、天使までも主管しなければならない人間の創造原理的な資格と威信とを、立てさせようとされたからであった。
原理講論、堕落論3.2

 

10.死んだ者の霊魂

死んだ霊たちは、事実、私達から離れることはない。彼らは、記憶以上に私達と共に残っている。私達が愛した人たちの霊は、地上で継続して私達の福地のために最大限努力する。

 

地上で私達が過ちを犯して傷つけられた霊たちは、私達に怒りを見せ、機会があれば復讐しようとするだろう。したがって、死んだ者は、正に死んだのではない。彼らは恐らく私達と一緒に暮らしているのだろう。

 

キリスト教の聖書で、サウルが預言者サムエルの霊を呼び出すために霊媒を利用していたように、時には鋭敏な人たちが死んだ者の霊を地上に呼び出すことができる。

 

大部分の人たちは、人生に対する霊界の影響を感知することができないが、それは実在する。哲学者イマヌエル・カントは次のように言う。「人間の霊魂は、この人生においても霊的世界の非物質的な本質と不可分の関係を結んでいる。人間の霊魂は、霊的本質と相互作用し、霊感を残し、彼らから助けを受ける」。彼らは、死んだ者の霊だけでなく、自然の精霊、鬼、妖精とその一族を含む。古代人たちは霊をよく知っており、シャーマンは彼らの存在を感知できるように訓練され、人間の利益のために彼らを利用した。

 

偉大な芸術を創作するとき、霊感や科学的発見と発明をするとき、閃光のごとき洞察力のように、
その霊たちの影響は幸運を与えたり、有益になり得る。過去の根深い葛藤が今日の氏族的な暴力事態を誘発するとき、怒りに火をつけるように、霊たちの影響はまたすさまじく破壊的にもなり得る。

 

天上と地上の相互関係は二つの方法で起きる。霊たちは義の名分をもって地上の人たちを助けるために動員され得るが、逆に霊たちは、自らの困難を解決するために地上の人たちの助けを必要とする。
様々な宗教は、生きた者が死んだ者の有益のために供え物を捧げなければならないという考えを奨励する。さらには、末日の聖徒たちは、終末に天国により近くに連れていくための方法として、死んだ者たちの洗礼を奨励する。

 

これと関連して文鮮明先生は、「再臨復活」を教える。死んだ者たちの霊は、生きた者たちを助けるために降りてくるのであり、生きた者たちは、死んだ者たちが完成できなかったことに責任をもち、それを解決することによって彼らを助けるのである。


①生きている者と共にある霊魂

―宗教経典―

神の道のために殺害された者を、「かれらは死んだ」と、言ってはならぬ。いや、かれらは生きている、ただなんじらが知覚しないのみである。(注30)
クルアーン2.154 (イスラーム)

榊の葉の香りが香ばしい。(注31)
近くに引き寄せ、私は
皆がっ伺に集まった
無数の親戚たちを見る。
神楽(神道)

これ等の魂が放射する光は、この世の進歩と人々の発展の原因となるものである。彼等は存在の世界を発酵させる酵母の様なもので、この世の技巧や不思議が顕わされるよう活気づける力となるものである。……

これ等の魂と超絶の象徴は、存在の世界に崇高なる運動の推進力を供給して来たし、又、供給し続けるであろう。
バハオラ落穂集81(バハイ教)

女は尋ねた。「誰を呼び起こしましょうか。」「サムエルを呼び起こしてもらいたい」と彼は頼んだ。その女は、サムエルを見ると、大声で叫び、サウルに言った。「なぜ私を欺いたのですか。あなたはサウルさまではありませんか。」

 

王は言った。「恐れることはない。それより、何を見たのだ。」女はサウルに言った。「神のような者が地から上って来るのが見えます。」サウルはその女に言った。「どんな姿だ。」女は言った。「老人が上って来ます。上着をまとっています。」サウルにはそれがサムエルだと分かったので、顔を地に伏せ、礼をした。

 

サムエルはサウルに言った。「なぜ私を呼び起こし、私を煩わすのか。」サウルは言った。「困り果てているのです。ペリシテ人が戦いを仕掛けているのに、神は私を離れ去り、もはや預言者によっても、夢によってもお答えになりません。あなたをお呼びしたのは、なすべき事を教えていただくためです。」
サムエル記上28.11-15 (キリスト教)

死んだ者たちは、決して消えない。
彼らは真っ暗な暗闇の中にいる。
死んだ者たちは土の中にいない。
彼らは風になびく木の中にいて、
彼らは音のする森の中にいて、
彼ちは流れる水にいて、
彼らは静かな水にいて、
彼らは草庵にいて、
彼らは群衆の中にいる。

死んだ者たちは決して死んだのではない。
死んだ者たちは決して消えない。
彼らは女の胸にいて、
彼らは泣き喚く子供の中にいて、
燃えるかがり火の中にいる。
死んだ者たちは土の中にいない。
彼らは消えていく火の中にいて、
彼らは涙に濡れた草原にいて、
彼らはすすり泣く岩にいて、
彼らは森の中にいて、家の中にいる。
死んだ者たちは決して死んだのではない。
 ピラゴ・ディォプ(アフリカ伝統宗教)

「ヘクラの道は見ることができ、光り輝く。そこから空気を重くし、全く息ができないようにする燃える息遣いのようなあるものが出てくる。私達はヘクラを見ることができず、彼らが動くときに引き起こす風を感じる。

 

私がたった今戻ってきた狩りで、私は私の中にいたヘクラを散らしてしまった。」「普通の人は彼らが分からない。しかし、風は彼らがそこにいることを私達に教えてくれる。」

 

「私が目を閉じたとき、私は暗闇の中でのみ、彼らを見る。」「私達は彼らをそのときにだけ見ることができる。」「彼らの道は、私に明確になる。私は眠っている。彼らが突然私の腕をゆすり、足首をつかんで引っ張り、私を起こす。」
「真のシャーマンでない人は、彼らの声を聞くことはできない。真のシャーマンは寝ている間、『ぷう……』という鳴き声とこの声が蒼空からこだましてくるのを聞く。

 

彼は目を開け、『私は今、彼らを見ようとする!」と自らに言う。オウムが「プレ、プレ、プレ……』と歌えば、彼はそれがヘクラであることに気づく。そのとき、すがすがしい風が彼の足をすべるようにして過ぎていく」

 

「私はヘクラが生木の切れ枝の上を歩いているのを見た。私はすぐその下を通っていた。」「事実、それがヘクラだった。しかし、彼らは私に友好的ではなかった。たき火の近くの煙の出る焼き綱の強いにおい、焼けた毛から出るにおい、燃えた肉から出るにおい、彼らを追い出してしまった。

 

しかし、彼らはあなたに接近しようとする心があるように見える。」「彼らは酔うような香りを漂わせていた。その香りは、彼らがもたらした燃料と魔法の杖から出ていた。突然、においを嗅ぐことが中断された。私の鼻はもう彼らを知覚できなかった。」

 

それで、人が成人の儀式の最後にいるとき、狩りをしないのが賢明だ。もしオオハシの群れが飛んでいて、その中の一羽がすぐ近くに下りてきたら、残りの鳥がすぐにその鳥についてくる。彼らが驚かないようにせよ。食い入るように彼らをみつめ、あなたが行く道を続けて行きなさい。

 

彼らがヘクラであることを肝に銘じよ。もちろん、そこには狩りの中であなたが追い出してしまった鳥たちがいる。しかし、関心をもちすぎるな。私は、彼らが良い鳥たちではないと予測する。残りの中に、あなたがハンモックに横になっているとき、あなたの胸に下りてくる鳥たちがいる。彼らが本当にあなたのものであり、あなたに属する(注32)
ヤノマミ族のシャーマンの教え(アメリカ先住民の宗教)

 

最後の顔の赤い人が消え、私達の部族に関する記憶が、白人たちの間に一つの伝説になるとしても、この海岸は私達部族の見えない霊魂たちでいっぱいになるだろう。

 

あなたの子孫たちが野原で、店で、高速道路の上で、また道のない森の静けさの中で、一人だと考えるとき、彼らは一人ではない。この地のどこにも寂しい所はないだろう。夜になり、あなたの都市と村の通りが静かになれば、あなたは荒涼としていると思うかもしれないが、そこには一時満ちていて、依然としてこの美しい地を愛する霊魂たちが戻ってきて、込み合っているのである。白人たちは決して一人ではないだろう。
シアトル酋長(注33)(アメリカ先住民の宗教)


―み言選集―

皆さんは創造本然の人生の内容を知らず、天の大勢の霊人と地の被造万物と創造主神様の前に自信をもって堂々と語ることのできる存在にはなることができていませんが、天の大勢の霊人は、この時間も皆さんのために、地もやはり皆さんのために、神様も皆さんのために働いていらっしゃいます。
(8-43、1959.11.1)

 

皆さんの心霊状態が最高に達したとき、そのような決心をして天のために動いてあげれば、霊界から善の霊たちが降りてきて、皆さんを協助するのです。ところが、皆さんの心霊状態が落ちれば、そのように協助していた霊たちが、一人、二人と離れていくのです。離れていくようになるとき、その霊たちがどれほど悲しむか分かりません。行って、いつまた地上に来て協助するだろうかというのです。一度離れれば、再び皆さんのところに来るのが大変なのです。

 

ですから、霊人たちをだんだんと増やしていくことのできる自身の行動が必要だということを知らなければなりません。そうしてこそ、皆さんのすることが一瀉千里で発展していきます。天運がついてくるのです。
(161-273 ~ 274、19872.26)

 

霊界は、今まで数多くの主流歴史をもっています。これがすべて線を中心として連結されているのです。ところが、思いどおりにここに来て働くことはできません。このように働くことができないのです。これが降りてきて働くことができません。ふさがっているのです。ここから再臨しようとすれば、宗教によって橋を架けなければ、特定の人以外には再臨することができないというのです。(102-29 ~ 30、1978.11.19)

 

先祖たちがすべて、責任分担と蕩減条件に引っ掛かって、霊界に行っても、行くべき道を行けずに、地に再び下りてきて蕩減するのと同様に、その道を皆さんは残してはいけないのです。
(146-224、1986.7.1)

 

過去においては、祈祷し、精誠を尽くしても宗教の教主とはその時にしか会えませんでした。会おうものならすべて分かれてしまうのです。ですからまた上がらなければなりませんでした。ところが今では、すべて宗教圏を中心として地上に再臨することのできる時になりました。
(161-200、1987.2.3)


②霊魂の守護と霊的功績

―宗教経典―

身を清め供物をしつらえ、祖先の御霊に捧げ祀る。春に夏に秋に冬にと、それぞれに祖先の御霊を祀る。祖霊がV辞を授けられた、万年に至るまで命長くあれと。
詩経2.1.6 (需教)

 

彼等は{我らの}在家の外に、又は街の四辻に立ち、或いは{古き}各自の家に行きて戸口に立つ。過去の業に縁りて、多くの食物・飲物や硬き食物、軟き食物の供えられたる時、{此の世の}誰も此等の有情を記憶するものなし。

 

是の如く、慈悲のある人は、因縁ある者の為に、清浄にして、するれたる、時に適したる食物・飲物を興ふ。「こは汝ら〔逝きにし〕因縁あるものは満足してあれ」とて、彼等は此処に集まり、集まりし因縁ある餓鬼等は、多くの食物・飲物に非常に悦び、「此等のものを受けたるその人々によりて、我等因縁あるものは長く生きん。我等のために供養はなさる。又施主は果なきことなし」と、実に此の〔死の〕世界には、耕作もなく、牧畜もなく、商業の如きもなく、金を以て売買することもなし。

 

此の世から受くることによりて、死の世界の餓鬼は生きて行く。高き処の水の低きに流るるが如く、是の如く此の世からの施物は餓鬼に利益あり。……

 

泣くことも、悲しむことも、其の他歎くことも、餓鬼等のためには何の益ともならず。是の如く因縁あるものは立ちてあり。されど、此の施物の僧團に興へられ、使用せられなば、長く死人の利益となり、よく彼を利す。

 

此処に記されたたるこれは、因縁あるものに対する義務にして、餓鬼には大なる供養がなされ、比丘には力を興ふ。又汝等には少からざる福が得らる。
小誦経、戸外経(仏教)

一族の滅亡において、永遠なる一族の美徳(ダルマ・義務)は滅びる。美徳が滅びる時、不徳(アダルマ)が一族を支配する。不徳の支配により、一族の婦女たちが堕落する。婦女たちが堕落すれば、種姓(ヴァルナ)の混乱が生ずる。このような混乱は、一族の破壊者と一族とを地獄に導く。
バガヴァッド・ギーター1.40 ~ 42(ヒンドゥー教)

 

ところで、この人たちはすべて、その信仰のゆえに神に認められながらも、約束されたものを手に入れませんでした。神は、私達のために、更にまさったものを計画してくださったので、私達を除いては、彼らは完全な状態に達しなかったのです。こういうわけで、私達もまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか、信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。
ヘブライ人への手紙11.39 ~ 12.2(キリスト教)

 

この場合、先祖と子孫の間にある事項について固いつながりがなければ、地はのろいをもって打たれるということを知るだけで十分です。さて、その事項とは何でしょうか。

 

それは死者のためのバプテスマです。彼らなしには私達が完全な者とされることはなく、また私達なしには彼らが完全な者とされることはないのです。

 

また、福音にあって死んだ者なしには、彼らもわたしたちも完全な者とされることはありません。今や訪れようとしている時満ちる神権時代の到来に当たって、アダムの時代から現在に至るまでの、神権時代と鍵と力と栄光のすべての、ことごとくの、完全な和合と結合が起こり、示されることが必要だからです。(注34)
教義と聖約128.18(末日聖徒イエス・キリスト教会)


―み言選集―

創造原理によれば、人間の霊人体は神から受ける生素と、肉身から供給される生力要素との授受作用によってのみ成長するように創造された。それゆえに、霊人体は肉身を離れては成長することも、また復活することもできない。

 

したがって、地上の肉身生活において、完成されずに他界した霊人たちが復活するためには、地上に再臨して自分たちが地上の肉身生活で完成されなかったその使命部分を、肉身生活をしている地上の聖徒たちに協助することによって、地上人たちの肉身を自分の肉身の身代わりに活用し、それを通して成し遂げるのである。ユダ書14 節に、終わりの日に主は無数の聖徒たちを率いて来られると言われた理由はここにある。

 

では、霊人たちはどんな方法で地上人に対して、み旨を完成するように協助するのだろうか。地上の聖徒たちが祈祷や、その他の霊的な活動をするうちに、霊人たちの相対になれば、その霊人たちは再臨して、その地上人たちの霊人体と相対基準を造成していろいろの業をするようになる。

 

そして、その霊人たちは地上人たちに火を受けさせたり、病気を治させるなど、いろいろの能力を現させるのである。それだけでなく、入神状態に入って、霊界の事実を見せたり、聞かせたり、あるいは、啓示と黙示によって預言をさせ、その心霊に感銘を与えるなど、いろいろの方面にわたる聖霊の代理をすることによって、地上人がみ旨を成し遂げていくよう協助するのである。
原理講論、復活論2.3.1

 

あの世に行けば人を殺害した者、殺害された者、もろもろの人が一箇所に集まっているので、そこでは刃物で相手を脅かしたり、復讐しようとすることも起こるのです。

 

ですから、数多くの塀でふさがっているのです。それゆえに、悪霊が怨讐の子女を訪ねていって、事故に遭わせて連れていったりするようなことが起こるのです。これをすべて解かなければなりません。これを解くためにはまず地上世界で解かなければなりません。解くにはもっと良いものを与えなければなりません。死ぬことよりもっと良いもの、怨讐関係になったことより、もっと良いものを与えなければ解くことができません。

 

何をもって霊界を解放し、神様を解放するのでしょうか。このような関係は、人間の先祖がこれを結ばせて天上世界をめちゃくちゃにしたのですから、今日後代の子孫は、先祖たちのすべての過ちを償わなければなりません。

 

真の孝行者の伝統を受け継いだ子供なら、父母の借りを返さなければなりません。父母が借りたものを返さなければならないのです。

そのような意味で、霊界の先祖のすべての塀を崩す運動をしなければなりません。そうすることによって、先祖たちがここに来て、皆さんに教えるようになるのです。これは夢のような事実です。私のような人は、一人で暮らしている人ではありません。私は皆さんをさっと見れば、先祖がどうで何をやったのか分かります。悪の霊人の子孫を見ると、真っ暗になります。その先祖の顔がさっと見えたかと思ったら、ふっと消えるのです。ですから、悪の霊、善の霊を分けるのです。
(191-205 ~ 206、1989.6.24)

 

イエス様が地上に来られることによって、それ以前の善なる先祖たちが霊形体級の霊界から生命体級の霊界に入ることができたのと同様に、皆さんの先祖たちも地上にいる皆さんを条件にして、再臨することができる特別な恵沢圏内に入ってきました。皆さんは、数千代の善なる先祖たちが再臨し得る基盤になるべきです。

 

私達が地上で再臨復活を引き起こせることをすれば、どれほど神聖で偉大でしょうか。皆さんの先祖の中で、忠臣がいるとか、烈女、あるいは孝子がいれば、皆さんが祈祷で彼らを呼ぶと、来るようになっているのです。なぜかというと、これからは先祖たちが皆さんを協助しなければならないからです。
(14-22 ~ 23、1964.4.19)

 

人間たちが知らない霊界の霊人たちを動員して、証させることができる基準が自分にあるかが問題です。霊界もそのようなことを要求しています。霊界は神様の心情を知っているために、地上にそのような人がいて訴えれば、霊人たちを動員して、天国理念の実現のための地上の仕事に協助するようになるのです。

 

霊界の霊人たちがこの地に来られない原因は何ですか。それはこの地が嘆息の垣根になっているからです。もし私自身がとどまっている環境が嘆息の条件を抜け出すことができ、自分の体を通しても嘆息の条件を抜け出すことができ、また、サタンの脅威を受けながらも恐怖を感じない安息圏内に立ったのなら、神様は私を協助してくださるようになります。すなわち、神様の悲しみを体恤する心情には、サタンも侵犯できないのです。お父様のために悲しみ、心配し、涙を流す人を捕らえるためには、サタンもそれと同じ立場に立たなければなりません。そのようになれば、サタンの勢力も根本的に崩壊します。
(4-60 ~ 61、1958.3.2)

 

11.生まれ変わり

生まれ変わりに対する信仰は、仏教、ヒンドゥー教、ジャイナ教など、インドで発生した宗教に共通する。これは、個別の霊魂が一つの人生から他の人生に移っていき、それぞれの人生は前世の行為によって条件づけられるという信仰である。

 

財産と幸運、社会的地位、遺産相続などが、人によって差が生じるのは、前世の行為による結果にすぎないとする。宇宙が循環するように、輪廻の車輪は私達各自が絶えず生き死にを反復しながら――時には人間に、時には動物に、さらには昆虫に再び生まれながら――生まれては消えていくようになる。

 

一方、キリスト教は、概して生まれ変わりを否定し、神様はすべての人に一度の人生の間に救援の機会を下さると主張する。仏陀も、悪行に携わる罪人が二番目の機会を無難に得ることができると慰安することによって、生まれ変わりを簡単に期待しようとすることを批判する。

 

生まれ変わりの教義によれば、霊魂たちは、人間に生まれ変わったときに完成という究極的な目的に進むことができる機会をもつ。それで、霊魂たちは、過ちを正し、霊的完成の道を備えようとする希望から、生まれ変わることのできる人間の肉身を願う。

 

文鮮明先生も、霊魂は肉身をまとったときにのみ成長できると教える。しかし、一つの肉身からほかの肉身に生まれ変わる霊魂の代わりに、文先生は地上の人を協助するために再臨する霊魂たちの過程を描写し、この過程を「再臨復活」と呼ぶ。

 

霊魂たちは、自分と類似した困難に処している地上の人たちを協助することによって、自分が完成できなかった任務を解決することができ、その時、初めて解放され、より高い次元に上がっていく。

 

時としてこれは、地上の人たちには苦痛であり、さらには罰を受けるかのような出会いにもなり得るが、彼らは、決して想像することができないつらい先祖たちの経験を相手にしなければならない。生まれ変わりを信じる人たちは、ただその霊魂たちの考えを誤って理解し、まるでその考えが前世の自分の行為であるかのように経験する。どの教えが真なのかの問題と関係なく、自分を遠い過去から無限の未来に至るまで、他者の人生と絡み合っていると見ることは、私達を謙遜と忍耐の姿勢に導く。

 

―宗教経典―

思・触・見による迷妄と、IV食(たんしょく)・吸飲・懐妊とによりて自己の生育と誕生とを得る身主(霊)は次々と、種々の境涯において、その業因に相応せる形相を得。身主はあるいは粗大、あるいは微細なる種々の形相を自己の諸性徳によって選択す。そして、活動の諸性徳と、自体の諸性徳とを有するによりて、上記の諸性徳の綜合因としての別異の存在者として見らる。
シヴェーターシヴァタラ・ウパニシャッド5.11 ~ 12(ヒンドゥー教)

 

世界には、前に行った様々な行動によって、この生で様々な家門と階級に生まれた様々な類型の存在が生きている。時には、彼らが神々の世界に行き、また時には地獄に行く。時には自分たちの行為によって悪魔になることもある。

 

時には彼らが戦士になることもあり、隣のカーストや不可触、または虫や蝶になることもある。

 

それゆえ、繰り返し生まれ変わる、悪行に従事する存在は、生まれ変わりを腹立たしく思わず、彼らはまるで戦士たちのように、生の戦闘に退屈しない。自分たちの悪行の影響で惑わされ、苦痛を受け、彼らは人間以外の生を受けて不幸に遭う。
しかし、偶然に業の止滅によって生きている存在は、時になれば清浄な状態に到達し、人として生まれるだろう。
ウッタラッジャーヤー、スートラ3.1 ~ 7(ジャイナ教)


「ときとして私は高い家門に生まれ、また時として低い家門に生まれた。私は飛天することもなく、高貴でもなく、また私は社会的な高い地位を願うこともない」。このように考えるとき、誰が自分の家門やその栄光に対して誇り、またそのようなことを願うだろうか。

 

したがって、知恵深い者は、自らの運命に対して喜んだり恨めしく思ったりしてはいけない。彼はあらゆる衆生の幸福を知り、それに対して深く考えなければならない。注意して振る舞いながら、次のように考えなければならない。

 

「私は常に盲人、耳が聞こえない人、話ができない人を経験するのであり、片目が見えず、背中が曲がり、目が遠く、黒人であり、白人であり、またあらゆる皮膚の色をした人だ。私の不注意のために、私は様々な生を受けて生まれ、あらゆることを感じ経験する」。
アーカーランガ・スッタ2.50 ~ 55(ジャイナ教)

 

彼盲一百年に一たび浮びて彼一孔ある軛に首を入るるは寧ろ速なり、諸比丘よ、一たび堕処に到れる愚者の人身を得るが如きは然らず。何を以ての故なりや。
阿含経相応部V.455 (仏教)

 

罪を支払うために魂がこの世の生へとふたたびもどされるということはない……私が神の善意によって与えられた身体へもどることがどうして罰であろうか。
アウグスティヌス神の国12.27 (キリスト教)


―み言選集―

宇宙は原因なく生じることはありません。「すべてのものが自然発生的だ」と言いますが、自然はただそのまま出てくるのではないのです。自然の中にはその原因があります。自然の中には方向性があります。また、自然は結果を追求しながら巡回し、運動しています。循環運動や地殻運動など、運動しているのです。必ず方向性をもって運動しているというのです。

 

ですから、複合的な方向性が結集し、一つの完成した物として発展したのであり、そのような結果になったことが分かります。宇宙は回っていく運勢なので回っていくのだと言い、歴史も発展して回っていくと言います。春夏秋冬も回っていくと言います。そのようになれば、進化するすべての段階はなぜ回っていかないのか、なぜ発展ばかりしなければならないのかというのです。

 

このような観点から、循環する世界を見てみるとき、ここから輪廻説のようなものも出てきたのではないかと思います。人が動物にも帰っていき、木にも帰っていき、何にでも帰っていくと見る、そのような観点も関係があるというのです。
(94-11 ~ 12、1977.6.19)

 

今日、人間世界に暮らしている皆さんは、人間世界を中心として霊的現象を見ることができます。どの時代でも、いつの時でも、宗教人はもちろん、それ以外の人たちも霊界の因縁に従い、霊界と混合した生活圏で暮らしていることは歴史的な実証といえます。歴史過程を通してそのように生活してきたという事実は、私達が宗教を信じなくても、夢を通してや、様々な神秘的な体験を通して知っているのです。
(131-167、1984.5.1)

 

なぜ再臨しなければならないのかというと、地で結ばれたために地で解かなければなりません。仏教のようなところでは、このような現象を輪廻説と言います。誰が再臨した、孔子が来た、釈迦が来たというのは一瞬のことです。その人が釈迦ではありません。

 

再臨して、ある分野の責任をその人を通して成し遂げようとすると、そのような現象が起きます。それで、このくらい上がったなら、またここからもっと上がっていこうとすれば、ほかの預言者を通して上がっていかなければなりません。
(91-276 ~ 277、1977.2.27)

 

霊界にいる霊人たちは、地上の人間を通じて自分が恵沢を受けることを願います。これが霊人たちの要求なのです。堕落しなかった本来の人は、天使世界と宇宙を主管することができる価値的存在です。

 

人間が堕落することによって何段階も下に落ちたために、再びその位置まで上がっていかなければなりません。上がっていくにも、一遍に上がっていくのではなく、段階を経て上がっていくのです。段階を経て、個人、家庭、氏族、民族、国家、世界、天宙まで復帰して上がっていかなければならないのです。

 

本来の人間は、この世界に訪ねていくべきです。ところで、この世界に訪ねていくには、一遍に上がっていく道がないために、一段階、一段階を開拓しながら、個人から家庭に、家庭から氏族に、氏族から民族に、段階を経ていかなければなりません。

 

神様の摂理について見れば、旧約時代、すなわち個人を救い得る個人的な摂理時代以前に死んだ霊人たちは、その時代に入って恵沢を受けようとするのです。それで、一段階を上がっていくためには、必ず蕩減が起こります。一段階を越えるためには、カイン・アベルの場合のような蕩減役事が、必ず起こるのです。

 

ある霊人が、この時代を経てきながら、甲という人に協助してきたとしても、一段階を越えていくためには、ただでは越えられないのです。ここには必ず蕩減期間があります。それは、一日、二日で成されるのではなく、7年とか、40年、70 年、あるいは何世紀を経ていく時があるのです。

 

ですから、ここで協助した霊人は、その蕩減期間が終わらないうちは続けて上がっていくことができないので、霊界に帰るのです。その霊人は、地上にいる甲という人が基盤をすっかり築いてくれるのを願っているのですが、その人がその期間内に蕩減を果たせず死ぬことになれば、その霊人は、第2次に乙という人を選んで、乙に再臨するのを待ち望みます。ですから乙に再臨する霊人は、甲に再臨していた霊人なのです。

 

その霊人がパウロなら、パウロが時代的に一段階一段階上がっていくためには、第1次に再臨した甲という人が、蕩減期間内に蕩減を果たせずに死ぬようになれば、第2次として乙という人に再臨して協助して上がっていくのです。

 

必ず蕩減期間があるのです。蕩減期間は、原理的な期間があって、短期間にはなされません。ですから、第2次に選んだ乙という人が蕩減できなくなれば、その次には、丙という人を選んで再臨するのです。それで、結局、丙という人にパウロが再臨したということになるのです、

 

この時に、乙がある文字を書いておいたり、何かをするようになると、「私はパウロの霊の協助を受けて、今役事する」と言うのです。その次の時代に丙という人においても、ある文字を書くようになれば、彼もやはり、「パウロの霊の協助を受けて役事する。私がパウロだ」と言うのです。

 

このようになるので、結局は全世界にパウロの霊が、乙に現れ、再び丙に現れたのと同じようになるのです。このような現象が起きるために、これだけを見て輪廻だと言うのです。リーインカネーション現象のようなものとして現れるのです。全体を知らないために、そのように言うのです。それがこの時代と同様で、世界天宙時代まで起こります。

 

本来の人間は、サタンの支配を受けず、神様の直接主管圏内で暮らさなければならないのに、堕落することによって堕落圏に暮らすようになったので、それを脱するためには個人として蕩減し、家庭として蕩減しなければなりません。

 

これを蕩減せずには、脱することができないのです。霊人は、必ずその時代ごとに再臨現象を経て現れるために、その段階、段階が輪廻、すなわち生まれ変わる現象として見えるのです。

 

このような観点で見るとき、皆さんも同様です。皆さんが個人的にただ信じて死ぬようになれば、家庭をもてなかったために、家庭基準、氏族基準、民族基準、国家基準、世界基準といった段階をみな越えていかなければなりません。

 

ですから、何億万年がかかるかもしれないのです。それは無限に該当します。イエス様も国の基準を越えられなかったために、国の峠を越えるために再びやって来て、国の峠を越えて初めて天国に入ることができるのです。

 

イエス様は、今楽園にいますが、同様の道理です。このような立場で、イエス様がこの中のある人に再臨して、その人を直接指導するようになれば、イエス様が臨在したその人は、「自分がイエスだ」と言います。

 

ですから、それだけ見れば、昔のイエス様が自分として生まれ変わったと思うために、輪廻説のような現象が起こることになるのです。皆さんは、このような霊的世界をよく知らなければなりません。

 

人は、本来神様が直接主管なさる善主権内で暮らさなければならないのに、堕落圏内で生きているために、悪主権を脱しなくてはならない運命にあるのです。ですから、このような問題かあるのです。イエス様は、霊的にそれを成しました。キリスト教も霊的にそのことをしてきているのです。

 

このような観点で見るとき、統一教会の復活論は、霊界の事実にそのまま当てはまります。言い換えれば、統一教会の復活論は、霊界の公式を皆さんに教えてくれているのです。今までの数多くの宗教人たちが、そのような未知の霊界の事実を体験はしましたが、それがどのようになっているか、その事実を知らなかったのです。
(54-277 ~ 280、1972.3.26)

 

12.霊的誤謬と秘術

世界の主要宗教には、霊たちと彼らの霊的交信に対する深い不信がある。霊たちは究極的実在と比較できないため、最上の真理に内密に関与することができない。キリスト教、ユダヤ教、イスラームは、天使たちが誤って罪を犯したと教える。

 

仏教は、さらに創造神(ヒンドゥー教のブラフマン)をこのような従属的な神様の中の一つであり、仏陀として現身した達磨に従属するものとみなす。

 

霊たちは、利己的な目的に引っ張られて過ちを犯し、彼らを案内者として頼る人たちを誤って導きやすい。さらに、霊界は悪霊、悪魔たちと堕落した天使たちだけでなく、ジン(イスラームの神話の神霊)を含む霊的仲介者たち、死んだ者たちの霊、多様な等級の幽霊たちが居住する所である。


霊媒、魔法使い、シャーマンたちから霊界に対する何かの情報を求めるなど、秘術の儀礼は低級な領域にいる霊たちとの交流を通して人々をあちらこちらにさまよわせることもある。

 

文鮮明先生は、これをシャーマニズムが依然として広まっている韓国で経験した。師はまた、エバが霊の力が不足だったため、秘術と人間の堕落の間に隠密な関連がある点を認める。したがって、私達は、啓示されたより高次的真理の権威を借り、「霊たちが果たして神的なのかを検討」してみなければならないと勧告する。

 

信仰、純潔、啓示された真理固守、そして善行を実践することなどは、最上級の霊的存在との交流を保障する優れた方法である。


①堕落した霊魂は偽りの案内者

―宗教経典―

実にバガヴァットよ、神々や悪魔もあなたの顕現を知らない。あなただけが、自ら自己を知る。至高のプルシャよ。万物をあらしめる者、万物の主、神のうちの神、世界の主よ。
バガヴァッド・ギーター10.14 ~ 15(ヒンドゥー教)

 

神はその僕たちをも信頼せず、御使いたちをさえ賞賛されない。
ヨブ記4.18 (キリスト教)

 

人間の息子の中で、盲人たちはどれほどふびんだろうか。この世界がどれほど奇妙で、見えないものと隠された危険でいっぱいに満ちているか、彼らは知ることができない。これを知れば、地上で生命を知らずに生きているという事実に驚くだろう。
ゾハール1.55a (ユダヤ教)

 

神は神聖な会議の中に立ち、神々の間で裁きを行われる。「いつまであなたたちは不正に裁き、神に逆らう者の味方をするのか。弱者や孤児のために裁きを行い、苦しむ人、乏しい人の正しさを認めよ。

 

弱い人、貧しい人を救い、神に逆らう者の手から助け出せ。」彼らは知ろうとせず、理解せず、闇の中を行き来する。地の基はことごとく揺らぐ。
私は言った、「あなたたちは神々なのか、皆、いと高き方の子らなのか」と。

 

しかし、あなたたちも人間として死ぬ。君侯のように、いっせいに没落する。神よ、立ち上がり、地を裁いてください。あなたはすべての民を嗣業とされるでしょう。
詩編82(キリスト教)


―み言選集―

霊的な現象においても、お化けや悪霊の活動という、このような現象がいくらでもあるのです。このように見るとき、神様と人間との関係、これは解決されていません。これを解決しなければなりません。理論的に解決し、神様が主体なのか、人間が主体なのか、悪の霊が主体なのか、人間たちが主体なのかという、このようなすべてのことを設定してあげなければ、この宇宙が定着できないのです。
(191-11、1989.6.24)

霊界はカイン的であり、地上はアベル的です。(注35)今までは、カイン的な立場にいる霊界が人間を支配してきました。霊通人たちがすべての人間たちを支配してきました。地上にいる人間たちに使令(指令?)して、自分が恵沢を受けてきたのです。
(83-15、1976.2.5)


最近、ノイローゼ現象で、よく独りでぶつぶつ言っていますが、なぜそのようになるのか知っていますか。それはすべて霊界……。

 

このような関係、このような階級にいる人たちが、独りでは上がっていくことができないので、この人間世界を通してそのようなことをするのです。ところが、悪霊は観がありません。方向性がないのです。善霊は方向性がはっきりしています。
(91-274 ~ 275、1977.2.27)

②秘術の危険

―宗教経典―

暗質的な人々は、餓鬼や鬼霊の群を供養する。
バガヴァッド・ギーター17.4(ヒンドゥー教)

霊媒を訪れたり、口寄せを尋ねたりして、汚れを受けてはならない。私はあなたたちの神、主である。
レビ記19.31 (キリスト教)

先生は、怪異と暴力と背徳と神秘とは、口にされなかった。
論語7.20 (儒教)

わが徒は、アタルヴァ・ヴェーダの呪法と夢占いと観相と星占いとを行ってはならない。鳥獣の声を占ったり、懐妊術や医術を行ったりしてはならぬ。
スッタニパータ927(仏教)

 

私達は、祈りの場所に行く途中、占いの霊に取りつかれている女奴隷に出会った。この女は、占いをして主人たちに多くの利益を得させていた。彼女は、パウロや私達の後ろについて来てこう叫ぶのであった。「この人たちは、いと高き神の僕で、皆さんに救いの道を宣べ伝えているのです。」彼女がこんなことを幾日も繰り返すので、パウロはたまりかねて振り向き、その霊に言った。「イエス・キリストの名によって命じる。この女から出て行け。」
すると即座に、霊が彼女から出て行った。
使徒言行録16.16 ~ 18(キリスト教)

 

イザヤは言った。ある人たちが神の使徒に、占い師に関して質問を投げかけたとき、彼は答えた。「彼らは重要な人たちではない」。彼らが「神の使徒よ、ときどき彼らは真実を言います」と言った。彼が答えた。「それは精霊が偶然に得た知らせを、めんどりのように友の耳に大声で騒ぎたてる真実の一部にすぎない。そして彼らはそれに百以上のうそを加える」。   ブハーリーおよびムスリム・ハディース(イスラーム)

 

「汚れた霊は、人から出て行くと、砂漠をうろつき、休む場所を探すが、見つからない。それで、『出て来たわが家に戻ろう』と言う。戻ってみると、空き家になっており、掃除をして、整えられていた。そこで、出かけて行き、自分よりも悪いほかの七つの霊を一緒に連れて来て、中に入り込んで、住み着く。そうなると、その人の後の状態は前よりも悪くなる。この悪い時代の者たちもそのようになろう。」
マタイによる福音書12.43 ~ 45(キリスト教)


―み言選集―

人間は我知らず何かを信じたいのですが、それを自らの考えでできないので、迷信を中心として、あるいはムーダンを中心として厄払いしたりしながら、自分たちで模索し、追求するのです。我知らず人間にはそのような傾向があるのです。
(10-190、1978.10.22)

 

皆さんが地方に行けば、ムーダンや占術する人がいて、占いをして未来を予言するのも、普通の人が知らないその背後の神と関係を結び、すべて明らかにすることによってそのような現象が起きるのです。
(176-286、1988.5.13)

 

霊通者はみな、各自通じている霊界の階位と啓示の内容がお互いに異なるために(コリント15・41)、相互間の衝突と混乱に陥るのが普通である。霊通者は、事実上、みな同一の霊界を探し求めていくけれども、これに対する各自の環境、位置、特性、知能、心霊程度などが相異なるために各自に現れる霊界も、各々異なる様相のものとして認識されて、相互に衝突を起こすようになるのである。
原理講論、復活論2.2.6

 

霊界はどのような世界でしょうか。天使世界です。天使世界に当たる霊界の神々が、なぜ人間世界と関係を結ぼうとしているのかという問題を、今まで分かりませんでした。

 

皆さんは、ムーダンや占術、迷信という言葉を聞いたでしょう。それは何ですか。いまだに善悪の位置を明らかにしていない立場に立っている宗教形態です。神様が宗教形態を備えていくので、サタンも宗教形態を備えて防御しなければならないのです。

 

大概、皆さんがムーダンや占術をする人を見れば、8割以上が女性です。誰と接しているのですか。エバが堕落するとき、天使の指導を受けて引っ張られ、悪の結果をもたらしたのと同じように、復帰時代の道を再現させて従っていくこの地上では、必ず霊界の天使たちが地上に来て女性たちと一つになり、すべてのことを教えるのです。天使たちが教えるとおりにするのが占術やムーダンの役事です。そのようにしながら何をするのでしょうか。堕落したエバと同じように、霊人と暮らしているのです。
(76-95、1975.2.1)

 

今日の世の中において、易者・八卦見だとか、卜術家(占い師)たちの言葉を中心として占いをし、何をするからといって、その占う結果によって一時はそのすべての環境的与件に喜びを感じることができるかもしれませんが、それは神様と関係を結ぶことはできないということを皆さんは知らなければなりません。
(295-173、1998.8.28)


③霊魂を相手にする知恵

―宗教経典―

愛する者たち、どの霊も信じるのではなく、神から出た霊かどうかを確かめなさい。偽預言者が大勢世に出て来ているからです。
ヨハネの手紙一4.1(キリスト教)

 

兄弟たち、霊的な賜物については、次のことはぜひ知っておいてほしい。あなたがたがまだ異教徒だったころ、誘われるままに、ものの言えない偶像のもとに連れて行かれたことを覚えているでしょう。

 

ここであなたがたに言っておきたい。神の霊によって語る人は、だれも「イエスは神から見捨てられよ」とは言わないし、また、聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」とは言えないのです。
コリントの信徒への手紙.12.1 ~ 3(キリスト教)

悪霊たちは、恐れる人たちに力を発揮するが、恐れのない人たちを惑わすことはできない。
維摩経の聖なる教え7(仏教)

 

ムスリムは預言ゆえにあることから歩みを変えたりしない。彼が不幸を暗示するものを見たとき、このように言わなければならない。「神よ、あなただけが善なるものをもたらすことができ、あなただけが悪なるものを防ぐことができます。神以外にはいかなる力も勢力もありません」。
アブー・ダーウード・ハディース(イスラーム)

 

妖怪の存在に留まるは、災いを引き起こすばかり
妖怪の実体が無いと悟るは、覚者(ブッダ)の道
妖怪と実相は一つであると悟るは、解放への道
妖怪は一切の有情の両親であると悟るは、正しい理解妖怪は即ち我が心であると悟るは、無上の栄光
ミラレパ(仏教)


―み言選集―

堕落人間は、神もサタンも、共に対応することのできる中間位置にあるので、善神が活動する環境においても、悪神の業を兼ねて行うときがある。また悪神の業も、ある期間を経過すれば、善神の業を兼ねて行うときがたまにあるから、原理を知らない立場においては、これを見分けることは難しい。

 

今日において多くの聖職者たちが、これに対する無知から、善神の働きまでも悪神のそれと見なし、神のみ旨に反する立場に立つようになるということは、実に寒心に堪えないことといわなければならない。霊的な現象が次第に多くなる今日において、善神と悪神との業の違いを十分に理解し、これを分立することができない限り、霊人たちを指導することはできないのである。
原理講論、堕落論4.4

 

私が、誰か、おばさん、おばあさん、霊界に通じる人たちの話を聞いて大ざっぱな計算でこのようなことをしていると思いますか。とんでもないことです。彼らは知りません。彼らは、今証してあげるから分かるのであって、どのように回っていくのかは知らないのです。
(68-276. 1973.8.5)

霊通人たちは、互いの方向と自分の位置が違います。自分が中心点でなければならないというので問題が生じます。霊通人が100 人なら100 人全員問題が生じるのです。自分を中心として第一主義を考えるのです。中央を中心として第一主義にならなければなりませんよ。
(325-289、2000.7.2)

 

今まで霊界が、ムーダンを通して、霊通する群れやあらゆる占い師を通して、この地上の人たちをすべて利用してきました。これからそれはできません。地の人間たちが霊界を支配する時が来るというのです。
(219-78、1991.8.25)

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世界経典-18

2020年10月17日 18時21分16秒 | 学習


③天国の歓喜

―宗教経典―

天国に入っていく者は、豊かな環境にいて、窮することがない。彼の衣服はすり減ることがなく、彼の若さは限りがない。
ムスリム・ハディース(イスラーム)

アーナンダよ。かの〈幸あるところ〉という世界は、種々のかぐわしい香があまねく薫っており、種々の花や果実が豊かであり、宝石の木々に飾られ、如来によってあらわし出された、妙なる音声をもつ種々の鳥の群れが住んでいる。

また、アーナンダよ、かの宝石の木々には種々の色、多くの色、幾百千の色がある。……金と銀と瑠璃と水晶と琥珀と赤真珠と第七の瑪瑙との七つの宝石でできているものもある。……また、アーナンダよ、それら一切の木々の根や幹や小枝や大技や葉や花や果実は、柔軟(にゅうなん)であって、感触が快く、よい香りがあり、風に吹き動かされるとき、美しく快い音が流れ出て、魅惑的であり、聞いて不快の思いを抱かせないのだ。……
また、アーナンダよ、かの〈幸あるところ〉という世界には種々の河が流れている。……

実に、また、アーナンダよ、それらの大河の両岸には、種々の香りある木々が連なってつづいており、それらの(木々)から、種々の大技や葉や花房が垂れ下がっている。その河岸にいる生ける者どもは、天の、汚れ無き楽しみや戯れに耽りたいと望んでその河に入れば、欲するままに水は足首の深さにとどまるのだ。水は、欲するままに、膝の深さに、腰の深さに、腋の深さに、欲するままに頸(くび)の深さにまでなり、天上の快楽が生まれるのだ。

かしこで、生ける者どもが「冷たい水があればよい」と欲するときは、かれらのために冷たい水がある。かれらが「温かな水があればよい」と欲するときは、かれらのために温かな水がある。「冷温ほどよい水があればよい」と欲するときには、
かれらのために、ちょうど快いほどの冷温ほどよい水があるのだ。

また、その諸々の大河は、天のタマーラの木の葉や、アガル(沈香)や、カーラ・アヌサーリン(随時檀香)や、タガラ(甘松香)や、ウラガ・サーラ(蛇心檀香)や、チャンダナ(梅檀香)といった最上の香りに薫る水を満たして流れ、〔その水面は〕天の青蓮花や紅蓮花や、黄蓮花や、白蓮花や、睡蓮などの花に覆われ、如来によって現わし出された鳥どもの群れの訪れる中州には、白鳥や、鶴や、鴛鴦(おしどり)や、鸚鵡(おうむ)や、慢鷺(さぎ)や、鴨や、杜鵑(ほととぎす)や、クナーラ鳥や、カラヴィン鳥や孔雀などの妙なる鳴き声が聞こえる。

貴金属で美しく彩られ、沐浴に都合のよい階段があり、泥はなく、黄金の砂が振り撒かれている。そこでは、かの生ける者どもが、「われわれのこのような願望が満たされるように」と望むとき、そのとき、かれらのそのような願望は法にかなって満たされるのだ。
無量寿経16 ~ 18(仏教)
神の使徒が言った。「私がメッカにいるとき、家の屋根が開き、ガブリエルが入ってきた。彼は私の胸を開き、ザムザムの水で私を洗ったのち、信仰と知恵で満ちた黄金のたらいをもってきて、私の胸の中に注ぎ浴びせた。

そして、胸を閉じたのち私の手をとり、天の最も低い層に連れていった。そこに着くと、ガブリエルが門番に「門を開けよ」と言った。「どなたですか」と門番が尋ねた。「ガブリエル」と天使が答えると、「あなたと一緒にいる者がいるか」と門番が再び尋ねた。「そうだ、ムハンマドが横にいる」とガブリエルが答えた。

門番は、「彼が命を受けたのか」とまた尋ねた。天使が「そうだ」と答えた。門番が私達に門を開けてくれると、私達は天の最下層に着いた。
そこで突然一人の男を見たが、一部の霊魂は彼の右側に、残りは左側に位置していた。彼は右側を見るたびにほほえんだが、左側に顔を向けるやいなや涙を流した。彼が言った。「ようこそ、聖なる預言者よ! 聖なる子孫よ」。「この方はどなたですか」とガブリエルに尋ねた。彼が答えるには、「この方がアダムだ。彼の右側にいる霊魂たちは天国に行くようになる。左側にいる霊魂たちは地獄に落ちる。それゆえ、彼が右側を見るときはほほえみ、左側を見るときは泣くのだ」と言った。

そして、ガブリエルは私を二番目の天に連れていき、門番に「開けよ」と言った。最初と同じ質問をしたのち、門が開いた。預言者は様々な層の天で、アダム、イドリス、モーセ、イエス、アブラハムを発見した。……

そして、天使は翼がはばたく音が聞こえる高さまで私を連れていった。……そして、ガブリエルは私を境界のロートの木に連れていったが、そこは言い表せない美しい色で覆われていた。そして彼は天国に入っていった。そこには真珠でつくったドームがあり、太陽は四方につくられていた。(注19)
ブハーリー・ハディース(イスラーム)

そして、彼らは狭い道を行き、遠からず明るい光が現れた。そのとき彼らは、その道に沿って広がる花々の香りをかぐようになった。おいしそうに見える果物が道端に生えており、いろいろな鳥たちが空中で彼らの上を飛んでいた。最も不思議で美しいものがそれぞれの手にあった。このすべてのものが天の道にあった。エニアイエホク。

彼らは旅を続けた。時が少したち、彼らは休憩所に到着した。そのときメッセンジャーが言った。「ここはその泉と呼ばれる。そしてそれは休息の空間だ」。そのとき、見よ、彼はその泉を見て、彼はこれほど美しく澄んだ泉を見たことがないと思った。そのとき四つの存在が、「ここは元気回復の場だ」と言った。

四つの存在の中の一つが自らの懐から瓶を取り出した。取り出したように見えたが、実際にそうだった。そして、それを泉につけた。そのとき彼は、「あなたはまず飲まなければならない」と言った。それで彼はそれをくみ上げた。しかし、彼がそれを見たとき、彼はそれが十分でないと思った。それで彼は、「私はこれが十分でないと思います」と言った。彼がこのように言ったとき、そのメッセンジャーたちは、互いに見つめあって笑った。

その中の一人が、「本当にそれは十分だ。それが不足なら、まだ泉があるからその瓶にまた満たすことができる」といった。それで、みな水をくんで飲んだ。そして皆が願っていたすべての水はその瓶にあった。エニアイエホク。

彼らは旅を進めた。そして、ほんの短い距離を行ったとき、彼らは何かが彼らに近づいて来るのを見た。まもなく彼らはそれと出会った。彼は、それが一匹の犬だということが分かった。彼らが近くで見たとき、その犬はしっぽを振り始め、彼の懐に飛び込んだ。

そのとき彼は、その動物が新年祭の犠牲として供えたとき、正にその姿をした自分の犬だということが分かった。そのとき四つの存在が、「これは創造主に捧げた私達の感謝の祭物の価値を立証するものだ」と言った。そのように彼らは言った。エニアイエホク。

彼らは再び旅に出た。いくらもたたずに休息所に到着した。彼らの前に遠くから一人の男が現れて近づいてきた。彼はすぐに近くに来た。そのとき彼は、その男がほかの二人を両側に引き連れているのを見た。

彼が見ると、一人はカイアンタカの娘だった。その少女は体の大きい子供に見えた。彼女と一緒にいる子供は、カニオ・ダイイオ自身の息子だった。その息子と娘は、一人一人に挨拶をした。彼らが友好的だったため、彼らが見知らぬ人ではないことを、彼らは知ることができた、さらに、四番目の人が彼ら全員を引率していた。エニアイエホク。その人は、「人が死ぬとき、より低い世界の人たちがここに来るという事実を証明するために、私は私と一緒に彼らを連れてきた」と話した。
コード・オブ・ハンサム・レイク112 ~ 116(アメリカ先住民の宗教)

天国に暮らしている人々は、そこで飲んだり食べたり、つばを吐いたり、用をたしたり、風邪で苦労しない。
ムスリム・ハディース(イスラーム)

すべてのもののために天がある。地も天であり、海も天である。そして、動物と植物と人間も天である。すべてあの天の内容物だ。その中にいる神々は、人間を軽蔑することもなく、すべてが天の秩序の中にある。その外のいかなるものも軽蔑することがなく、平和なすべての宇宙と国を貫通する。

「平和に過ごす」所がそこだ。この神聖な存在にとって真実性は、母であり保母であり、存在であり滋養分である。あらゆるものは、過程ではなくそれらが見る本当の存在だ。

そして、すべてのものにそれら自身がある。なぜなら、すべてのものは透明で、暗闇がなく、抵抗するものがない。すべての存在は、それぞれの異なる存在に幅と深さにおいて明確だ。光は光を通して走る。そして、それら各自にすべてのものを含み、同時にそれぞれの異なる存在においてすべてのものを見る。ゆえに、どこでもすべてのものがあり、すべてのものがすべてのものであり、各自がすべてのものであり、栄光は無限である。

それら各自が偉大だ。小さいものも偉大だ。そこの太陽はすべての星だ。それぞれの星はすべての星であり太陽である。ある存在様式が各自に支配する間、すべては異なる存在に捧げられる。
プロティノスエネアデス5.8.3(ヘレニズム)


―み言選集―

あの世の生活はどうでしょうか。食べるものも心配ありません。住むのも心配ありません。着るものも心配ありません。なぜでしょうか。自らの心霊状態のままに、願うすべてのものが可能だからです。

あの世でも食べます。あの世でも自分を触ってみれば血管が、脈拍が走るのが分かります。同じです。霊的な体ですが同じなのです。

私が「何々を食べたい」と言えばすぐに現れます。「このような物を食べたい」と言えばすぐに現れます。それはどこから来るのでしょうか。根源世界を動員できる能動的な自主性を行使できる世界が霊界です。

ですから、全体を動員できる主体的な能動権をもったものとは何ですか。権力でもなく、知識でもなく、お金をもった勢力でもありません。愛です。
神様がいくら高いといっても「神様!」と愛の心で呼べば、すぐに「なんだ」と自分の心の中で答えます。「神様、どこにいらっしゃいますか」、「どこにいるかって、お前の心の根本にいるではないか」と答えるのです。神様が本来根本ではないでしょうか。心の根の根本にいるでしょう。このようになっているのです。

ですから、一晩で宴会が何十万回、何百万回でも可能だというのです。自分が愛に酔って直感で感じることを実現するために命令すれば、それがそのまま展開します。
(194-42、1989.10.15)

これからは、犬も天国に、すべての万物も天国に行けます。主人が行く所には、どこへでもついて行けるのです。
(78-337、1975.6.10)

あの世にパンエ場があるでしょうか、ないでしょうか。コーラとかジュースを作る工場があるでしょうかないでしょうか。どうしてないのですか。分からないでしょう。そこに自動車を造る工場があるでしょうか、ないでしょうか。あの世に行って「私は、いい車に乗り回るんだ」と言って、こうして乗りますか。ここではベンツに乗って、何がどうだこうだと誇りますが、そこではそれ
はすべて必要ありません。

あの世界では、誰であっても、想像だけで、「私はダイヤモンドの車が必要だ」と思えば、それがさっと現れるのです。それに乗らなくても、1秒の間に数十億万里、数十億光年の距離を行けます。どうして車が必要でしょうか。

愛する心、真の愛の心さえあればよいのです。「私は、何億万年前の、このようなタイプの美人が見たい」と思うとき、そこに100 パーセントそのまま当てはまる人がいなくても、100 パーセントの姿を備えて現れるのです。真の愛を中心として、すべてのものが想像で可能な所です。それが主流の観念です。その観念がなければ何もできません。
(207-94 ~ 95、1990.11.1)
神様が創造したこの巨大な宇宙! そこには自動車もなく、飲食店もありません。しかし、私達は、霊界で、まるで創造主であられる神様のようにあらゆる種類のものを、真の愛の概念を中心として創出することができるように、愛を中心として本来の力を発揮してすべてのものをつくることができるのです。
(217-293、1991.6.2)

霊界に行けば小便を、するでしょうか、しないでしょうか。この次に行ってみてください。私はすると思うのですが、しないと思う人は行ってみてください。それでは、大便をするでしょうか、しないでしょうか。みんなします。みんなするのですが、すぐ元素に帰ります。

宇宙の根本元素が107 個だと言いますが、どんどん増えていますね。その元素に帰ります。したがって、掃除する必要がありません。愛の心をもって手入れをすれば、きれいに本故郷へ帰るのです。
(212-30、1991.1.1)
8.地獄

誰も自分、あるいは愛する人が地獄に落ちるように運命づけられることを喜ばない。しかし、大部分の人々が神様の本来的な愛の基準から離れた人生を生きていくことは、苦痛なこどである。このような状況はごくありふれている。

すなわち、私達は、自分の考えと欲望が肉身の意志に従うように許容し、私達の精神は絶えず利己的に流れる。私達は、習慣的に良心の声を黙殺する。

私達は、愛する人たちを裏切り、その責任を回避するだけでなく、私達自身に関する真実にまでも顔をそむけてしまう。このように70 年を超えて生きたとすれば、水晶のように澄んだ天国の共同体に適合することを望むことができるだろうか。

地獄とは何か。ある伝統宗教は、それは硫黄が流れる川のある地の深い所として描写する。そして、ある伝統宗教では、地獄とは単に心の状態だという。しかし、ひどい孤独、後悔、恥、罪責感や喪失の苦痛を経験していた人であれば分かるように、そのような心の状態は、耐え難いほど生々しいものである。

さらには、私達が肉身生活をする間、大概は忘却、自己合理化、感覚的快楽や飲酒にはまって回避するように、その感覚を避けるのは霊界では不可能だという。不快な感覚からの猶予はあり得ず、その感覚は不幸な霊魂を絶えず苦しめ、それが継続する。

想像を超越する苦痛を描写するために、宗教の諸経典では、めらめらと燃える火、ぐつぐつと煮えたぎる湯水、厳寒、全身がつぶされる、手足を引きちぎられる、踏みつけられる、燃やされる、生きたまま食われるなどの具体的なイメージを使う。

私達は、地獄から抜け出せる可能性を提示する、いくつかの章句で締めくくる。東洋の宗教は、地獄のすべての状態を一定期間、罰を与えるために考案された、悪行が燃やされ、霊魂が真の道を見いだすことができる未来の機会をもつ煉獄とみなしている。

文鮮明先生は、神様が地獄を創造したのではないと、はっきりと教えている。事実、地獄の存在自体は、神様の絶対善に対する侮辱であり、愛に満ちたその胸に杭を打ち込むことである。私達が十分な愛をもてば、ほかの人たちが地獄に向かっていく道を防ぐことであれば、何でもするだろう。その上、私達は、墓の中で三日間地獄を征服していたイエス・キリストやヒンドゥー教の英雄ヴィパスイットのように、地下の監獄に閉じ込められた人たちを救出するだろう。


①地獄の苦痛

―宗教経典―

地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもない。
マルコによる福音書9.48(キリスト教)

しかし、おくびょうな者、不信仰な者、忌まわしい者、人を殺す者、みだらな行いをする者、魔術を使う者、偶像を拝む者、すべてうそを言う者、このような者たちに対する報いは、火と硫黄の燃える池である。それが、第二の死である。
ヨハネの黙示録21.8 (キリスト教)

猛毒の火花が飛び散る火の海、
自我以外には何もない。
火の海の波が千万にも波うち、
罪人たちがその中で燃えている。
アーディ・グラント、マールー・ソハレ、M.1、p.1026(シーク教)

かかる者のあとは地獄があって、けがらわしい水を飲まされるであろう。かれはそれをすするのだが、なかなか飲み込めぬ、また死はあらゆる方向から迫るが、かれは死にもせぬ。なおかれの後ろには容赦のない刑罰がある。
クルアーン14.16 ~ 17(イスラーム)

まことに地獄は、待ち伏せた所であり、法外な者にとって、帰り着く所、かれらは長い年月、その中に住むであろう。そこでは涼しさも味わえず、煮えたぎる湯と膿のほかには、どんな飲物もな
い。かれらのためふさわしい報奨である。

まことにかれらは、その行いに対する清算を希望しないでいた。またかれらは、わがしるしを虚偽だとし、強く拒んだ。われは一切のことを、書物にどどめている。それでなんじらは自分の行いの結果を味わえ、われは刑罰を増加するばかりである。
クルアーン78.21 ~ 30(イスラーム)


罪深い者たちの内で、ある者は薪のようにのこぎりで切られ、またある者は大地に投げ捨てられたり、斧でずたずたにされたりする。ある者は身体の半分を穴に埋められ、頭を槍で刺し貫かれる。またある者は絞り機の真ん中に固定されて、砂糖きびのように圧搾される。ある者は燃えさかる炭に囲まれ、たいまつに包まれ、鉱石の塊のように精錬される。

ある者は熱いバターに、またある者は熱い油に押し込められ、フライパンに投げ込まれたケーキのようにひってり返される。ある者は巨大な狂った象が群れなす道に投げ込まれ、またある者は手足を縛られて逆さまにされる。ある者は井戸に投げ込まれ、ある者は高い所から投げ落とされ、またある者は虫のたくさんいる穴に押し込まれ、それ
に食べられる。……正当な秩序に従って下界の拷問を経験したあと、彼は清められて再びここに帰ってくる。(注20)
ガルダ・プラーナ3.49 ~ 71(ヒンドゥー教)


また蛆虫の棲む水釜があり、罪を犯した人はその中で煮られる。出ようにも、つかむべき縁がない。その釜の上部は内側に彎曲していて、まわりが全部一様だからである。また鋭い剣の葉ある林があり、(地嶽に堕ちた者どもが)その中に入ると、四肢を切断される。(地獄の獄卒どもは)鉤で舌をとらえ、引っ張り、引っ張っては苦しめる。

また次に(地獄に堕ちた者どもは)鋭利なる剃刀の
刃あるヴェータラニー河に至る。愚かなる輩は、悪い事をして罪を犯しては、そこに陥る。そこには黒犬や斑犬や黒烏の群や野狐がいて、泣きさけぶかれは貪り食うて飽くことがない。また鷹や黒色ならぬ烏どもまでが啄む。

罪を犯した人が身に受けるこの地獄の生存は実に悲惨である。だから人は、この世において余生のあるうちになすべきことをなして、忽せにしてはならない。
スッタニパータ672 ~ 76(仏教)


そこで人々は、「これはあなたに、これは私に」と言い、それぞれの私地を分け、互いに分割している。これに関して尋ねれば、彼らは答える。「他の世界で彼らがこのようなやり方で私達を扱い、順番に今度は私達が同じやり方で彼らを扱う」。
シャタパタ・ブラーフマナ11.6.3(ヒンドゥー教)

大地はまたその内部に、多くの地域をもっているのであり、それらは、大地全体をめぐってあるさまざまな窪みのうちに、それぞれ位置しているのだ。そのある地域は、われわれの住んでいるここよりもさらに深くに位置し、またより広く開かれているが、しかしまたある地域は、より深くはあるが、その開きは、われわれのもとにある地域よりもそのほうが狭いというのがあり、またさらに、深さにおいてはここよりも劣るが、しかし広さはまさるという地域も見出されるのである。

さて、以上のすべての地域は、地下を通ってかず多くの地点で、狭広いろいろの仕方で相互に貫通されており、さまざまな通路をもっているのだが、それによって一方から他方へと、あたかもクラテール(混酒器)に水をそそぎこむかのように莫大な水が相互に流れあうのである。そして地の内部には、とほうもなくおおきな不尽の流れがひろがり、それらはあるいは熱湯に、あるいは冷水にみたされているのだ。

またそこには巨大な火があり、さまざまな大河があり、さらにはまた、どろどろに泥濘がおおくの流れをなしているのだ。それらの泥濘には、比較的に清らかなものとか、あるいはまったく泥状のものがあるが、そのさまはちょうど、シケリアにある溶岩の流れにさきだつ泥の河と、その溶岩流そのものにみられるがごときものである。……地域をめぐったのちに、再度、タルタロスヘと流れこむのである。

死者たちが、それぞれ、神霊につれられて、先に述ベられた或る場所へとやってくると、最初に、彼ら、すなわち、すぐれた生をおくり敬虔に生きた者と、そうでない者とが、裁きの前に立つのである。そしてまず、大した善事も悪事もなすことなしに生をおえたと判定された者は、アケロン(冥界の河)のあるところまで行き、彼らのためにしつらえたかの舟にのり、いまいったアケルシアス湖(冥界の湖)までそれにのってやってくるのだ。

そして彼らはそこに住まい、みずからを浄めながら、もし、なにか不正をおかした者であれば、それにあたいする罰をうけて、その不正のとがめからは解放され、また反対に、なんらかの善行があったならば、それ相応をおのおのが受けるのである。

ところがしかし、そのおかした罪過があまりにも大きいために、もはや癒しがたいと判定された者たち、たとえば神のものを冒pする行為を何度も大がかりになした者とか、不正であり無法でもある殺害をかず多くしでかした者とか、またほかにもそれに類する行いをあえてなした者についていえば、彼らは、その悪行にふさわしい定めによって、タルタロスヘと投げこまれ、そこからもはや二度と出ることはないのである。

しかしながら、それはなお癒しうるとしても、そのおかした罪過は大きいと判定された者たち、たとえば一時の激怒から、父母に対して暴虐をおかしはしたものの、のちには悔いあらためて以後の生をすごした者とか、あるいは、それと似た事情のもとに殺人をおかした者についていえば、まずもって彼らが、タルタロスに堕ちねばならないことは、必定である。

しかし、そこに堕ちて一年がたつと、さかまく浪が彼らを〔タルタロスの〕そとへとなげ出すのだ。そして一方、殺人者のほうは、コキュトス(悲傷の流れ)に運ばれ、他方、父母に暴虐を加えた者のほうは、ピュリブレゲトン(灼火の流れ)に運ばれていくのである。

そして運ばれて、アケルシアス湖のあたりまで達すると、彼らはそのところで大声に叫び、自分たちが殺した人々や、あるいは暴虐を加えた人々の名を叫ぶのだ。で呼びとめると哀願して、自分たちがこの河を出て、湖に入ることを許し、自分たちを受けいれてくれと乞うのだ。かくしてもし、その願いがききいれられるならば、そのとき彼らははじめて河のそとに出ることができ、もろもろの苦難はそれでやむ。しかし、もしききいれられなければ、彼らは再度、タルタロスヘと運ばれ、そこからまたあらためておのおの河へと運ばれるのだ。

そして彼らがこのような苦しみにあうことは、おのれが不正をおかした当の相手を納得させるまでは、止むことなくつづくのである。というのも、この定めこそは、かの裁きし者が彼らに課した刑罰にほかならないのだから。
プラトンパイドン(ヘレニズム)


―み言選集―

地獄とは何ですか。どのような所が地獄ですか。愛もなく、生命もなく、血統も関係のない立場で、自分を中心として天下一だと互いに主張し、額をつき合わせ、顔をつき合わせ、行動を比べ、紛争の結果となるのが地獄です。
(360-185、2001.11.16)

地獄とは何ですか。悪魔の愛圏内を意味します。悪魔は憎悪と嫉妬とねたみと分裂と破綻ばかりを崇拝するのです。それで、悪魔圏はそのようなものばかりが盛んに行われる所です。それが戦争として現れるのです。
(214-282、1991.2.3)

地獄はどのような所ですか。地獄は権力を誇る所であり、お金を誇る所であり、自分を誇る所です。私達の本性は、愛を受けたいと思い、善を要求するのですが、その反対の性質があらゆる方向からぶつかってくる所が地獄です。

しかし、地獄に行っているからといって、愛を受けたいと思う心がなくなるのではありません。それがもっと強くなるのです。
(102-160、1978.12.17)

あの世に行って何をするのでしょうか。食べるでしょうか、食べないでしょうか。それで、食べるのに何を中心として食べるでしょうか。愛を中心として食べるようになっているために、愛をもてなかった人は、行って食べようとしても、口が開きません。それが法です。

自分を愛する心だけあり、全体を愛する心が中心になっていなければ、口が開きません。箸で食べる物をつまんで口に持っていこうとしても、箸がほかの所に行くのです。ですから霊界は、真の愛をもってこそ、すべてが可能な世界であって、真の愛のコンセプトをもたなければ、すべてが不可能な世界です。
(207-95、1990.11.1)


霊界に行ってみれば、霊界のすべての人たちが地獄の多くの段階的部署にとどまっているのですが、その人たちがどのようにしてそのようになったのですか。

愛の秩序の道理を中心として、孝子、孝女にならなければならないにもかかわらず、孝子、孝女になることができなかった人たちだからです。国を中心として忠臣にならなければならないのですが、そのようになれなかった人たちだからです。さらには、世界を中心として、聖人になるべきだったのですが、そこに拍子が合わず、その度数の違いによってふさわしい場所にとどまっているのです。
(147-183 ~ 184、1986.9.21)

アダムとエバが堕落することによって、歴史時代においてどれほど批判されましたか! そのように、皆さんを子孫たちが審判するというのです。それが最も恐ろしいのです。先生が皆さんを呼び、この高貴なものを相続させてあげようとしています。
先生がそれを失敗する場合には、すべての霊界が讒訴します。先生はそれを知っています。どれほど恐ろしいですか! 先生はよく知っています。先生の過去の生涯路程がいくら困難だったとしても、それが問題ではないのです。その困難より霊界の讒訴がもっと恐ろしいのです。それで、いくら迫害を受けても、それがやさしい道であることが分かりました。どちらのばうが価値があるのかということが分かるのです。
(189-247、1989.4.9)

天上世界は光の世界であり、地獄は暗闇の世界です。その世界に行けば行くほど、いくら自分がうれしいと思っても、瞬間に喜び得る姿になったとしても、すぐに暗闇が占領してしまうのです。お酒を飲んで喜んでいますが、振り返れば嘆息するのです。良心が忠告します。お前はどこにいるのかと言うのです。良心が喜ぶ所ではなく、良心が嫌う所にいる人間は暗闇の世界に属しているのであって、神様の本性の世界、光の世界と関係がないことを知らなければなりません。
(400-104、2002.12.28)
世界も混乱しています。それでは、霊界はどうですか。混乱した人間像が霊界に行って集まっているので、霊界は混乱せざるを得ないのです。盗みも習慣になれば、いつも盗みをするものです。ですから、地上で盗みごとをしていたならば、天上世界に行ってもただを願います。それで、処置が困難なので地獄というものが生じました。

地獄は神様がつくったのではありません。地獄は生じたのです。ごみ箱をつくっておいて家を建てますか。家を建てて暮らしてみると、ごみ箱が生じるでしょう。同じことです。
(148-28、1986.10.4)

天国からすぐ下に、少し下がると、はっきりとした多様な霊界の階層が広がってきます。地上の人間が考えるときには、霊界は、天国と地獄の二つの階層のみで構成されていると考えることもあるのですが、実際は、数多くの階層で構成されています。善なる所から、より悪なる所まで多様に形成されています。

霊界が、このように多様に階層化されていますが、天国以外の所では、心安らかにいられる所はありません。ここでは、生活するのがとても大変です。お互いが悪を中心として、「自分が正しい」と主張し、けんかしています。、霊界の各階層では、同じ性稟をもった霊人同士が集まって暮らしているので、おもしろくありません。

例えば、地上でよくどろぼうをした霊人たちが暮らしている世界は、いつも周辺の霊人たちが、何かを盗んでいくように感じて、お互いに疑い、不信しながら生活をするようになるので、いつも不安なのです。また、地上でけんかばかりししてきた霊人たちが暮らしている所は、いつもけんかばかりしています。

今まで、地上で暮らしたのち、霊界に来た霊人たちは、大部分、中間霊界と地獄に来ています。霊界では、地上でどのような生活をしたかによって、霊界の生活が決まります。


ですから、苦痛を受けるような霊界や地獄にとどまらないためには、原理的な生き方から外れないで、絶対信仰、絶対愛、絶対服従の道を行かなければなりません。神様の性稟は、ひとえに善であり、愛であるので、神様の性稟に似ようと努力をしてこそ、天国に行くことができるのです。

中間級の霊界を通り過ぎて、もっと下に降りていくと、四方が暗く、どんよりとかすんで、息の詰るような地獄が現れます。ここは、ぞくぞくと寒気がして、汚い臭いが強く漂っています。凶悪な姿をした霊人も現れます。お互いにかみつき合い、血気にはやり、憎み合っています。ある霊人が一言言えば、けんかが始まり、どなって殴り合い、大騒ぎになります。死体の腐った臭いよりも、さらにひどい、嫌な臭いもします。

また、ある所では、火に包まれたくぼみのようになっているのですが、よく怒る霊人が、ここに集まって住んでいます。そして、最も恐ろしい地獄の底には、自殺した霊人や、地上で淫乱な生活をした霊人たちが住んでいるのですが、蛇がうごめいていて、恐ろしくおぞましい姿をしており、とても目を開けて見ていられない所です。

霊界は、天国から地獄まで、色によって各霊界圏の違いを表現できます。天国は、透明で、白く明るい色です。汚れのついているまだらなものが全くなく、白玉のように、傷一つありません。

ところが、低い霊界に行くほどに、色がだんだんと濁っていきます。色あせた薄い色が、暗く濁った紫色系の中間色系統が現れます。さらに低い段階に行くと薄い栗色が現れ、灰色系統が現れます。続いて、灰色系、黒、濃い黒の順に現れます。天国は明るく、天国に近づくほど、明るい色の系統が現れ、地獄に行くほど、暗く混濁した色が現れます。

地上で罪を多く犯して、霊界に来た霊人であるほど、その色を見れば、暗く濁っているのです。そして、犯した罪によって、霊人体の各部位に、色で表示されて現れます。
興進様の霊界メッセージ2002.1.1
②地獄に関する警告

―宗教経典―

なんじらは多いことを、張り合って夢中になり、墓に追いたてられるまで(それにふける)いや、やがてなんじらは知ろう、重ねて言う、いや、やがてなんじらは知ろう。いや、なんじらはいまに明確な知識で知ることになろう。

なんじらはきっと獄火を見よう、重ねて言う、なんじらはきっと明確にその目でそれを見ることになるであろう、それからその日、なんじらは(夢中になっていた)享楽について、きっと問われるであろう。
クルアーン102.1 ~ 8(イスラーム)

「ある金持ちがいた。いつも紫の衣や柔らかい麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。この金持ちの門前に、ラザロというできものだらけの貧しい人が横たわり、その食卓から落ちる物で腹を満たしたいものだと思っていた。
犬もやって来ては、そのできものをなめた。やがて、この貧しい人は死んで、天使たちによって宴席にいるアブラハムのすぐそばに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。そして、金持ちは陰府でさいなまれながら目を上げると、宴席でアブラハムとそのすぐそばにいるラザロとが、はるかかなたに見えた。

そこで、大声で言った。『父アブラハムよ、私を憐れんでください。ラザロをよこして、指先を水に浸し、私の舌を冷やさせてください。私はこの炎の中でもだえ苦しんでいます。』しかし、アブラハムは言った。『子よ、思い出してみるがよい。お前は生きている間に良いものをもらっていたが、ラザロは反対に悪いものをもらっていた。今は、ここで彼は慰められ、お前はもだえ苦しむのだ。

そればかりか、私達とお前たちの間には大きな淵があって、ここからお前たちの方へ渡ろうとしてもできないし、そこから私達の方に越えて来ることもできない。』金持ちは言った。『父よ、ではお願いです。私の父親の家にラザロを遣わしてください。私には兄弟が五人います。あの者たちまで、こんな苦しい場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください。」

しかし、アブラハムは言った。『お前の兄弟たちにはモーセと預言者がいる。彼らに耳を傾けるがよい。』金持ちは言った。『いいえ、父アブラハムよ、もし、死んだ者の中からだれかが兄弟のところに行ってやれば、悔い改めるでしょう。』アブラハムは言った。『もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう。』」
ルカによる福音書16.19 ~ 31(キリスト教)

シュシシェン市の野菜畑の近くにパンキという人が、邪悪なことをして暮らしていた。彼は、人々が互いに反目し、訴え、人の物を強制で奪い、人の妻や娘に恥をかかせるようそそのかした。自分の邪悪な目的がたやすく果たせないとき、彼は最も校滑な方法を使った。

ある日、彼は突然息を引き取ったが、24 時間たって再び目覚め、妻に親戚や隣人を呼んで集めるように頼んだ。親戚と隣人たちがみな集まると、彼は、彼が冥土の大王に会い、次のような話を聞いたと話した。

「死んだ者たちは、ここで自分たちの邪悪な行為に対して罰を受けるようになる。死んだ者たちは、彼らが犯した犯罪と同僚に与えた害悪の分量に従い、熱く焼けた炭火の穴に放り込まれる」。

集まった人たちは、熱で興奮した患者の話を聞いたかのように、疑いながら信じようとしなかった。しかし、パンキは罪をたくさん犯した。それで地獄の閻魔大王は、彼を見せしめにして邪悪な道にいる人たちに警告することにした。、閻魔大王の命令によってパンキは、「これは私が人々を放蕩な生活に誘い込んだことに対する罰だ」と言いながら、刃物で自らを切った。「これは私が怒りで父母を見つめ、腹黒い心で人の妻や娘たちを見つめたことに対する罰だ」と言いながら、彼は自分の二つの目をくり抜いた。「これはたくさんの動物を殺したことに対する罰だ」と言いながら、彼は右手を切った。「これは私が人を苦しんで死ぬようにしたことに対する罰だ」と言いながら、彼は自分の体を切り、心臓を切り取った。そして最後にうそと人を誹謗したことに対する罰として、自分の舌を切った。

この事件に対するうわさが遠くに広まると、この不幸な人の切り裂かれた体を見ようと、四方から人々が集まってきた。彼の妻と子供たちは、悲しみと恥ずかしさに包まれたまま、好奇心にあおられた群集を遮るために門を閉じてしまった。しかし、まだ閻魔大王の試練の中で生きているパンキは、かすかな声で言った。「私は人々の警告になるよう、私自ら罰を下すことを願う地獄の大
王の命令を行っているのに、何の権利で私を見ようとする人たちをさえぎるのか」。6日間、その邪悪な人は、身の毛もよだつほど苦しみ、地べたを転がりながら最後を迎えた。
太上感応篇(道教)
―み言選集―

地獄という所は、一度はまれば永遠に抜け出せない所です。それでも、皆さんは、自分のお父さん、お母さん、そして親戚が地獄に行くということを実感できません。ただ「どうにかなるだろう」と思って、それでおしまいです。

しかし、愛する父母が本当に地獄に行くと考えてみなさい。この世の監獄に入るだけでも、泣いたりわめいたりしながらありとあらゆることをしてでも引っ張り出そうとするのが人情であるならば、まして天情によって結ばれた息子、娘が、自らの父母と親戚、兄弟と姉妹が永遠に出てくることのできない監獄に行くということを知れば、そのような考えをするでしょうか。皆さんは、まだ何も知りません。地獄があるのか、ないのか、あるにはあるようだが、どのようなものか知らずにいるのです。確信がなく、ぼんやりとしているでしょこう。しかし、死んでみれば分かるのです。死んでみれば、一遍に分かりますが、その時はもう遅いのです。(34-267、1970.9.13)
天の国の法度を知らず、天の国の構造的な理想圏を知らない人たちが、天国に行ってどうするのですか。混乱するのです。
(390-260、2002.8.13)

堕落することによって、この地球星はサタンが支配するようになり、霊界には地獄が生じたのです。地獄が生じたというのです。それでサタンが支配することのできる版図は地上地獄世界と天上地獄世界までだというのです。そのため、それを解放しなければなりません。

堕落がなかったなら地上地獄も生じず、一つの理想的天国にのみ行き着くはずだったのですが、堕落によって二つの世界にサタンが支配できる世界形態が現れたために、これを解消しなければなら
ないのです。これを越えていかなければならないのです。
(168-303 ~ 304、1987.10.1)


今まで人間にとって完成とは何でしょうか。それは、愛の場に行くことです。愛の場で神様と三人で一つになりますか、なりませんか。愛の場で神様と男性と女性が一つになります。そのような原理がなければならないのではないですか。

堕落して以降、このような場に行った人は一人もいませんでした。それでは、ここに落ちた人の願いは何でしょうか。ここを経て、このみ旨を成し遂げなければならないでしょう? 最高の基準に至らなければならないのですが、最低の基準に来ているので、その間隔に対する苦衷と虚無感と悲惨さが苦痛を与えているのです。ですから、ここが地獄だということを知らなければなりません。
(92-197、1977.4.10)


③地獄の霊魂救済

―宗教経典―

キリストも、罪のためにただ一度苦しまれました。正しい方が、正しくない者たちのために苦しまれたのです。あなたがたを神のもとへ導くためです。キリストは、肉では死に渡されましたが、霊では生きる者とされたのです。そして、霊においてキリストは、捕らわれていた霊たちのところへ行って宣教されました。(注21)
ペテロの手紙一3.18 ~ 19(キリスト教)

そのときみじめな者たちは、火獄の中にいよう、その中でかれらは、ため息とすすり泣きにあえぐのみ。なんじの主のおぼしめしがない以上、天と地の続くかぎり、その中に住むであろう。まことになんじの主は、お望みのことを必ずなし遂げたもう。その日幸福な者たちは、楽園にはいり、なんじの主のおぼしめしによる以外、天と地の続ぐかぎり、その中に住むであろう。尽きせぬ賜物である。(注22)クルアーン11.106~108(イスラーム)
神が人々の間で審判を終えられるとき、慈悲で地獄から救ってあげる者は、誰でも引き上げられる。……彼らは、地獄の火から引き出され、完全に焼けたのち、彼らの上に命の水が浴びせられる。彼らは急流の泥の中から出てきた種のように、その下から育っていく。……

彼らは、真珠のように出てきて、(金の)首飾りをして天国に入っていくだろう。そして、天国に居住する人びとが言う。「この人たちは慈悲で救われた者たちだ。この人たちは何の善きこともせず、自分たちのためにいかなる良いこともしなかったが、彼が天国に入ってくるようにされたのだ」。
プハーリー・ハディース9.93.532(イスラーム)

「おーい」ヤマの下僕よ! 言ってくれ、私は一体どんな罪を犯した事によって、この一番深い地獄へ落ちるようになったのか? ヴィパスィット王と
して知られる者よ、私は高潔に地を守った。私は争いを起こしたりしなかったし、客人が顔をそむけて出て行くような事もなかった。
また先祖の霊や神々、修行者、あるいは私の下僕だって傷つけた事はなかった。また私は他人の妻や財産、あるいは何であれ彼らの所有するものを欲しがったりしなかった。なのに何故、私はこのひどい地獄に落ちたのか?」

ヤマの役人は言った。「ならば来なさい。どこか他の所へ行こう。あなたは地獄を見たのだから、今や全てを見たのだ。だから来なさい。どこか他の所へ行こう。」そこでさっそく王は彼について行く準備をしたが、苦痛を受けたままになっている人々から叫び声が上がった。「王よ、御慈悲を! 一瞬だけ待って下さい。あなたがまとっている空気は我々の気持ちを喜ばせ、焼かれるような熱さと、苦しみと、痛みとを我々の身体から完全に取り去ってくださるのです。ああ虎のような方よ! 王よ、御慈悲を!」

ヴィパスイットは言った。「天においても、ブラフマの世界においても、苦しんでいる生き物達に至福を与えてやる程の喜びを経験する事はない。もし私がいる間は苦痛がこの者達をさいなまないならば、私はここに山のように堅く立って残ろう。」ヤマの役人は言った。「ああ、王よ来なさい。前に進みましょう。あなた自身の功徳によって得られた歓喜を享受するのです。悪行をなした者達は苦しんだままにして放っておきなさい。」

ヴィパスイットは言った。「この者達がひどい苦しみの中にいる限りは、私は行かない。私がいる事によって、地獄の住人が幸福になって行くのだ。苦しんでいる者に対して何の好意も示さないあの男の、執ように保護を求める生活というものは、たとえ彼が断固とした敵であったとしても、なんとも憐れなものではないか! 苦しんでいる者の救助を全く考えない彼には、祭祀も、供物も、苦行も役に立たない。……

私が思うに、この者達に解放を授ける事は天上の喜びに優るのではないか。もし私一人が苦痛を受ける事によって、多くの苦しんでいる者達が幸福を得るならば、実に私はそれを喜んで受け入れるベきではないか?」

ダルマ(法)は言、つた。「これらの悪をなした者達は、自らの行いの結果として地獄へ来たのです。ああ王よ、あなたもまた自分の功徳の結果として天界へ行かなくてはなりません。私はあなたを天界へ導きます。ぐずぐずしないでこの天の戦車に乗りなさい。さあ行きましょう。」

ヴィパスィットは言った。「ああダルマよ、何千という人々がこの地獄で苦痛を昧わっているのです。そして彼らは苦悩しながら、私に救いを求めて叫んでいるのです。だから私は出発しません。」

ダルマ(法)は言った。「ああ王よ! あなたの功徳は実に計り難い。今この地獄でこの様な哀れみを示す事により、あなたの功徳はさらに一層高くなりました。さあ来なさい、不死なる者達と共に喜んで暮らして下さい。これら不幸な者達には、自分自身の行為から生じた罪を地獄で消滅させればよいのです。」

ヴィパスイットは言った。「三十の神々の主よ、私が所有している全ての功績をもって、苦しみにさいなまされている罪人達を地獄から解放してください。インドラは言った。「ああ王よ、そうしましょう! あなたはより一層高い地位を得ました。あの地獄から解放された罪人達も見てみなさい。」
マールカンデーヤ・プラーナ13 ~ 15(ヒンドゥー教)


―み言選集―

神様は愛の神様です。神様があのみ座にいらっしゃるとすれば、地獄に行って苦しみながら、「私を助けてください!」と言う霊人たちを見るとき、神様が、「おい! お前はそれでも良いほうだ!」と思われるでしょうか、「彼らはかわいそうだ」と思われるでしょうか。かわいそうだと思われるのです。地獄を解放しなければなりません。
(98-116、1978.5.7)

愛によってのみ、地獄を天国にできます。ですから、愛をもてば、地獄を天国にすることができるのです。
(90-314、1977.1.15)

人が100年生きられないのを考えるとき、50億の人類の中に、1年に5000万が霊界に行きます。これらが地獄に行くのをどのようにしますか。サタンが蒔いておいた種を、すべて天に収めるのを神様が願うのに、これが遅れれば遅れるほど、どうなりますか。今まで40 年間に、どれほど地獄に行きましたか。数十億が行ったのです。深刻なことです。あの世に行って、霊たちに会うようになれば、「先生の在世当時に私達に対して責任を果たせなかった」と言われれば何と言いますか。心だけでもしなければなりません。心だけでも食口た
ちに話し、未来についても責任をもつという行動を中心として行くようになるとき、「あなたは驚くべき方です。私達を考えてくださった」と言うのです。
(205-356、1990.10.2)

歴史をたどってみれば、メシヤを中心として、イスカリオテのユダとネロ皇帝をはじめ、共産党が今、天に背いております。きようこの時間、天宙において勝利した一つの因縁を備え、総解怨するこの時間、彼らを天の審判台から下ろすことができないという事実を知るとき、彼らに真の父母の名をもって、あなたが立てられた尊厳な宇宙の勝利的な権限をもって彼らまでもあなたの名で因縁を結ぶようにしてください。

また、真の父母様に寄与し、数多くの宗教と数多くの良心的人士に寄与できる一つの道を模索してあげなければならないことを知っておりますので、お父様、永遠に許諾してください。

これまであなたの心情に杭を打ちつけ、あなたの息子、イエスを殺害し、あなたの愛する大勢の人たちをかみちぎり、殺害した、その怨恨の怨讐ですが、怨讐を愛する場となるよう、許諾してください。天地の門を開いてくださり、あなたの厚徳の愛の心を開いてください。彼らを解放することによって、地獄の門が開かれ、地獄撤廃の道が徐々に築かれることを知っております。
(78-18 ~ 19、1975.5.1)


9.天使

天使たちと霊的恩恵を施す者たちは、あらゆる宗教に普遍的に現れる。それらは、神々、デイーバ、カミ、動物や山々の霊たち(シャーマニズム)、または玉皇上帝のような玉皇(中国)や仏教の菩薩として認めることができるだろう。

地上で立派に生き、神格化されて天使の任務が付与された者たちもいる。それでも、唯一神論の伝統信仰では、このような霊的恩恵を施す者たちは、いくら高められたとしても、唯一の究極的実在に従属する僕としてみなされる。

様々な伝統宗教において、この恩恵深い霊たちは、人間世界に祝福を施し、人間が害を被らないように保護する。天使ガブリエルがムハンマドと聖母マリヤに語ったように、天使として来る者たちは、神様の教えを伝達する。それで、天使たちは神様に奉仕し、神様の子女である人間を助ける「僕の霊」の役割を果たす。

天使たちは、能力をもち、したがってよぐ崇拝の対象となる。しかし、ユダヤ教、イスラーム、キリヘスト教の伝統の中には、人間が天使より優れているという教えがある。このような伝統に従い、文鮮明先生は天使たちが人間を創造した神様の目的が実現されるときまで、創造のすべての段階において神様を助けたと教える。

神様はアダムとエバを教育し、助けるために、エデンの園に天使たちをおいた。彼らは、幼子から成人に成熟し、創造理想を実現するようになっていたからである。天使たちの中の頭はルーシェルだったが、堕落するようになり、これにより人間の堕落に対する責任を負うようになった。「第6
章3「悪魔とその活動」参照

このことにより、人間が天使たちを審判し、彼らの喪失した資格を回復しなければならない日がまだ残っている。


①天使の正体と使命

―宗教経典―

さまざまな風を伝令とし、燃える火を御もとに仕えさせられる。
詩編104.4 (キリスト教)

かれは陶土のようなどろから、人間をつくりたまい、また火の炎から、幽精(ジン)をつくりたもうた。(注23)
クルアーン55.14 ~ 15(イスラーム)

天使たちは皆、奉仕する霊であって、救いを受け継ぐことになっている人々に仕えるために、遣わされたのではなかったですか。
ヘブライ人への手紙1.14(キリスト教)

天使たちは、主の栄光をたたえて唱念し、地上のもののために、許しを請いまつる。
クルアーン42.5 (イスラーム)

まことに「私達の主は、神であられる」と言って、その後正しくしっかりと立つ者。かれらの上には、(次から次に)天使が下り、「恐れてはならぬ、また憂いもない、あなたがたに約束されている、楽園の吉報を受け取れ」(と言われよう)。われは現世の生活において、また来世において、なんじらの友である。そこでは、なんじらの魂の望むものを得……
クルアーン41.30 ~ 31(イスラーム)

主はあなたのために、御使いに命じて、あなたの道のどこにおいても守らせてくださる。彼らはあなたをその手にのせて運び、足が石に当たらないように守る。あなたは獅子と毒蛇を踏みにじり、獅子の子と大蛇を踏んで行く。
詩編91.11 ~ 12(キリスト教)

私(普賢菩薩)は、あらゆる悪の世界にいる存在の苦痛を減らし、また彼らに幸福を与えます。私は、億劫の歳月を通し、四方の世界で続けてそのようにするでしょう。一切衆生の有益さは永遠で、かつどこにも存在します。(注24)華厳経39(仏教)
あらゆる悪の行いをやめよ。あらゆる善の行いをせよ。そうすればあなたは悪の星の影響力から永遠に放たれるようになり、常によい守護天使によって囲まれているようになるだろう。
陰隲文(道教)

ある男が道を歩いていくとき、群れの天使がその前に現れ、次のように叫んだ。「聖なる方が留まる道を開けよ」。
詩編ミドラーシュ(ユダヤ教)

それはかれに啓示された、お告げにほかならぬ、すばらしい偉力者が、かれに教えた、かれはがんじょうなつくりの持主であった。まっすぐに立って、かれはしばらく、地平線の最高の所にいた。

それから親しく降りて来て、近づき、およそ弓二つ、いやそれよりも近い距離であった。そこでしもべ(ムハンマド)に向かって、かれが啓示されたことを告げた。(注25)
クルアーン53.4 ~ l0(イスラーム)

六か月目に、天使ガブリエルは、ナザレというガリラヤの町に神から遣わされた。ダビデ家のヨセフという人のいいなずけであるおとめのところに遣わされたのである。そのおとめの名はマリアといった。

天使は、彼女のところに来て言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。すると、天使は言った。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。
ルカによる福音書1.26 ~ 31(キリスト教)

文昌帝君が言った。「17 世代のあいだ、私は高位の政治家として化身してきたのであり、私は決して私の民を抑圧したことはなく、部下を虐待したこともない。私は不運の中で彼らを助けた。私は彼らを貧しさから救った。私は孤児たちを哀れんだ。私は彼らの罪を赦した。私は天上と調和する密かな徳を広く実践した。私が私の心を保つように、あなたがあなたの心を保つことができれば、天は間違いなくあなたに祝福を下さるだろう」。(注26)
陰隲文(道教)


―み言選集―

天使世界は、この宇宙が、すなわち被造世界が創造される前につくられました。神様が天使世界をつくったのち、天使の協助を受け、万物という物質を通して人間を生まれるようにしました。したがって、人間は神様から天使、物質を通して生まれたのです。

このような過程を経るにおいて、神様が願う目的、神様が創造された目的、天使が創造に協助した目的、万物が人間に投入された目的、人間が生まれた目的、これは違わないというのです。この全体が総合して四つの存在がすべてよいと言わなければなりません。神様もよく、天使もよく、万物もよく、人間もよく、このようによいと言える共通の内容が提示されなければなりません。
(83-155、1976.2.8)

すべての存在は神によって創造された。したがって当然天使もまた、神が創造し給うた被造物であることはいうまでもない。神は天使世界を他のどの被造物よりも先に創造された。創世記1章26 節に書かれている天地創造の記録を見ると、神は「われわれのかたちにわれわれにかたどって人を造り」と、自らを複数をもって語っておられるのであるが、これは今日まで多くの神学者たちが解釈してきたような三位神の立場から、そのように言われたのではなく、人間よりも先に創造されていた天使たちを考慮において、それらを含めた立場から言われたみ言であったことを知らなければならない。

神は被造世界の創造と、その経綸のために、先に天使を使いとして創造された(ヘブル1・14)。天使はアブラハムに神の重大な祝福のみ言を伝えたのであり(創18・10)キリストの受胎に関する消息を伝えたり(マタイ1・20、ルカ1・31)、獄中で鎖につながれていたペテロを解いて、城外に導いたのである(使徒12・7 ~ 10」。

このほかにも、神のみ旨のために天使が活動している例は、聖書の中に、無数に探しだすことができる。それゆえに黙示録22 章9 節では、天使が自分自身を「僕」と言い、またヘブル書1章14 節においては、天使を「仕える霊」と記録しているのである。そしてまた、天使は神に頌栄をささげる存在として創造されていたという証拠も、聖書の中に数多く見いだすことができる(黙5・11、黙7・11)。

つぎに、我々は天使と人間との創造原理的関係を探ってみることにしよう。神は、人間を子女として創造され、被造世界に対する主管権を賦与された(創1・28)。ゆえに、人間は天使さえも主管するよこうにつくられているのである。

コリントⅠ6章3節を見れば、人間は天使さえも審判できる権限があると書かれている。そして、霊的に通ずるあらゆる人たちは、数多くの天使たちが、楽園にいる聖徒たちを擁護しているのを見るのであるが、これもまた、天使の人間に対する主従関係を説明する一つの良い例であるといえよう。
原理講論、堕落論2.1

天使はどのような存在なのでしょうか。僕の立場で神様の前に忠誠の道理を尽くして、アダムとエバの囲いとなってあげるべき存在です。万世にわたって天の世界に栄光の雰囲気をつくり、神様の愛を中心としてアダムとエバと共に幸福に暮らすべきだったのです。

言い換えれば、天使長はアダムとエバのために創造されたのです。アダムとエバの父である神様が天使を創造した目的はアダムとエバのためだったのです。それが天使長を創造された目的でした。
(15-239、1965.10.17)

今まで霊界において天使世界に該当するのは誰でしょうか。今日、地上に来ては逝った善の霊たちは、天使の使命圏内に入っています。それはなぜそうなのかというと、アダムをつくる前に天使をつくったのと同じ立場なので、地上にアダム完成を成し遂げる前の善の人たちは、天使の立場に戻り得る条件が成立します。
(76-324、1975.3.15)

男性は何かというと天使長です。天使長なのですが、天に反対して堕落させた天使長ではなく、復帰された天使長です。(注27)エデンにおいてアダムを絶対協助し、保護、育成し、家庭理想を成して天の国に入ってこいくことができるように、責任を果たさなければならないのが天使の使命でした。このような天使の使命を果たせなかったので、これがすべてならず者になったのです。地獄の王になってしまいました。
(281-313. 1997.3.9)

ですから、天使は、これから来るメシヤが統治するその国の人たちのために、地上に来て犠牲になるのです。天使たちが汗を流し、復帰するのです。霊界は天使世界であり、肉界はアダム世界でしょう? 堕落圏の拡大した世界がサタン圏内にあるので、それを誰が引き抜いてこなければならないのですか。霊肉の実体の天使たちがしなければなりません。霊肉を通じた実体の天使が行使する所が悪魔サタンの世界になっているので、霊界と天使だけではできません。実体の天使世界をつくらなければならないのです。(62-247、1972.9.25)

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コメント

世界経典-17

2020年10月17日 18時18分33秒 | 学習


②死後の人生の最初の瞬間

―宗教経典―

ああ、善い人よ、汝には習癖を作る力(習気)から出来上がっている意識の身体(意成身)というものがある。しかしこれは実質を待った血肉の身体ではないのである。

したがって音響・色彩・光明の三つからなるものが迫ってきても、それが何であっても汝に害を加えることはできない。汝には死ぬことがないからである。それが汝自身の投影であると覚りさえすればよいのである。それはすべてバルドゥの現出であると知るべきである。
チベットの死者の書(仏教)

世を旅立つとき、霊魂は、どのような旅程がこれから待っているのか知ることができない。選ばれた霊魂たちのための輝かしいその道が、全員に与えられるのではないからだ。この世で行業が霊魂の行く道を決定する。
ゆえに、常に聖なるその方に向かい、主に向かう渇望に満ちた人は、霊魂が旅立つとき、この世から与えられた力によってより高い圏に向かって導かれるだろう。
ゾハール1.99a ~ b(ユダヤ教)

永遠に備えるために私達に与えられている現世の生涯を終えると、見よ、もし私達が現世にいる間に時間を有益に用いなければ、後から暗闇の夜がやって来る。そして、そこでは何の働きもできない。

あなたがたはその恐ろしい危機に陥るときに、「私は悔い改めて神に立ち返ろう」と言うことはできない。あなたがたはこのように言うことはできない。なぜならば、現世を去るときにあなたがたの肉体を所有しているその同じ霊が、あの永遠の世で、あなたがたの肉体を所有する力を持つからである。
モルモン経、アルマ書34.33 ~ 34(末日聖徒イエス・キリスト教会)

臨終の時、私のみを念じて肉体を脱して赴く者は、私の状態に達する。この点に疑いはない。臨終において、人がいかなる状態を念じて肉体を捨てようとも、常にその状態と一体化して、まさにその状態に赴く。

それ故、あらゆる時に私を念ぜよ。……身体の一切の門を制御し、意(マナス=思考器官)を心中
において遮断し、自己の気息を頭に止(とど)め、ヨーガの保持に努め、「オーム」という一音のブラフマン(聖音)を唱えながら私を念じ、肉体を捨てて逝く者、彼は最高の帰趨に達する。(注16)
バガヴァッド・ギーター8.5 ~ 7、12 ~ 13(ヒンドゥー教)


―み言選集―

歩いていて自動車事故に遭って即死したとき、自分が死んだことが分かりません。霊界に行けば、「ああ、変な所に来たな。ここは私の町より良いな。ないものがなく、すべてのものがある」と思うのです。広大な天地が広がります。

死んだことが分からないのです。自分の周りにいた人たちも、会いたいと思ってこそ現れるのであって、呼ばなければ現れません。一人でいるような思いをたくさんするのです。ところが、霊界に行くと、霊界で案内する人たちが来て教えてくれます。「あなたはあの世に来た。死んだ。死んだ」、そのように言います。

しかし、死が認識できないのです。夢のようにわずかに自動車とぶつかったことは感じられるのですが、死んだという思いはしません。そこに行って死んだことが分かっていないので、ぽかんとしています。眠れません。
自分の家に行こうと、「私は故郷に行かなければならないのだが」と思いながら、故郷に行こうとします。地上の故郷に行くことができますか。故郷に行こうとしても行けません。ですから、来て教えてくれるのです。自分のおじいさん、お父さ
ん、お母さんが来て、「お前は地上世界ではなく霊界に来たのだ」、このように言うとき、「ああ、霊界はこのような所なのだなあ」と思うのです。
(194-41 ~ 42、1989.10.15)

私達の人生が単に70 年の生涯で終わるのならば別問題ですが、永遠の問題を中心として生きていくというときには話が違います。それでは、霊界があり、死後に霊界に行くのならば、何をもって考えるのですか。

その世界は広大な世界です。そのような世界に入っていけば、すぐに感じるようになります。この地で民族間の差別があり、背後に文化的な格差や相入れない生活状態、苦しめられて生きているそこでも、自分を立ててすべてのものを収拾したいと思い、自分の主張と自分の価値を残したいと思っていた過去のことが、昔に過ぎていったことではなく、その世界に行っても生々しく蘇るのです。

その環境が、自分が測定し、自分の考えの範囲内で自由に吸収できない膨大な世界であるほど、より一層慕わしく思うのが故郷の地、あるいは地球星の暮らしではないですか。このように思うのです。

それでは、あの霊界に行って永遠の世界を慕っていく生活をするようになるとき、そこに行って、いつそれを忘れるのですか。その世界に行って出会う人は、みな見慣れない人たちです。そのような慣れない環境で私がもし一人で立っていると考えてみてください。そこで考えるとき、自分が慕う人、過去に心の中から抜くことができない、情緒的な関係を結んでいたすべての因縁を抜け出すことができないのです。


自分が霊界に入っていったとすれば、「父と母はどのようになり、祖父と祖母はどのようになった
のだろうか」という、そのようなことを考えるでしょう。
(187-285 ~ 286、1989.2.12)

私がもし愛の道を訪ねていて、そのような愛の主体を中心として求めていく道で不幸にも死んだと考えてみましょう。そのようになれば、それが死ぬことで終わるのではありません。死ぬとき、「私は愛の道を訪ねていきながら死にます」と考えるでしょう。「私はこの愛のために死ぬので、この愛は私の怨讐だ」、このように考えないというのです。死ぬときに、死を忘れても愛を抱いて死のうとします。その愛の懐で死ぬと考えるとき、それは不幸な死ではありません。

それでは、死によって愛が壊れたのでしょうか。違います。愛の主体である神様が、「お前は、私が出会いたい愛のために死んだ」と、その価値をより良い価値として認定するのではないかというのです。
皆さんがもし神様であれば、自分のために、自分を愛するために、互いに愛するべき道のために死んだ人に出会ったとき、どうすると思いますか。夫婦でも、夫のために死んだ妻に、夫が会えばどうすると思いますか。あるいは、兄弟の間で兄が弟のために、弟が兄のために死んだというとき、その死んだ兄と弟が出会ったとすれば、どうなると思いますか。

生きて出会い、愛し、喜ぶよりも小さく喜ぶでしょうか、大きく喜ぶでしょうか。死なずに出会って愛するのと、互いのために死んで出会ったとき、愛の強度は同じでしょうか。それは、死なずに出会って愛する次元を超越できる愛ではないでしょうか。

皆さんが先生のために死んだのなら、先生がその事実を知って、次に死んで再び出会うことができれば、どれほどうれしいですか。ですから、そのような愛の道を訪ねていく道において死が問題になるでしょうか。死さえも問題になりません。死の道を訪ねていくとしてもそれが死で終わるのではなく、より次元の高い、より近く、より永遠で、より一つになり得る愛の世界に突入する一つの関門になると考えるとき、その死が恐ろしいでしょうか。

そのような境地を訪ねていく人は、死が問題ではありません。そのような場を発見し、そのような道を確定していく人は、不幸ではありません。幸福な人です。幸福な人であれば、その幸福な人に同情されなければなりませんか、同情しなければなりませんか。その人に同情してあげなければならないことは間違いありません。
(67-173 ~ 174、1973.6.3)


6.審判

死後の世界に通じる最初の通路の次に、まだ平安たり得ないもう一つの関門がある。各個人は、加減なく正直に自分の人生を明らかにしなければならない審判を経験する。すべての行為と、それが人々に影響を及ぼした結果を記録する帳簿がある。今、その帳簿が開かれて読まれる。その人の人生を記録した映画が、その心のスクリーンに映し出される。すべてのことが余すところなく明らかになる。

審判の主要な基準は、自分の行為のようである。ある人が人のためにより多く生きたのか、あるいは自分の利益のためにほかの人を利用したのか。宗教の諸経典は、その審判の場面を描写する。ここで神様は審判者として、イエス、またはムハンマドは弁護人として、時には悪魔が罪を讒訴する者として登場することもある。神様は証に基づいて審判せざるを得ない。
この点に関して文鮮明先生は独特な洞察を提示する。審判において、サタンの讒訴を免れるために
私達は地上生活で、私達を最も憎み、そしる人たちを克服しなければならない。彼は、彼らを愛らしい「カイン」と呼ぶ。

諸経典は、ただ義なる者のみが入っていくことができる門、義なる者のみが渡っていくことができる「隔離の橋」、すべての偽りを火で燃やし、ただ真なるものだけを残す火に言及する。霊界は、その状態によって霊魂を受け入れる様々な領域と天国、そして地獄で構成されている。

霊魂たちは分類され、自らにふさわしい場所に自ら行く。資格のない者を防ぐための門番もなく、交通を統制する警察官もいない。各自は、自ち自分の品格と過去の人生に最も適合した場所に行くからである。


①人生の回顧

一宗教経典―

神は、善をも悪をも一切の業を、隠れたこともすべて裁きの座に引き出されるであろう。
コヘレトの言葉12.14 (キリスト教)

「人々を恐れてはならない。覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはないからである。
マタイによる福音書10.26 (キリスト教)

私はまた、大きな白い玉座と、そこに座っておられる方とを見た。天も地も、その御前から逃げて行き、行方が分からなくなった。私はまた、死者たちが、大きな者も小さな者も、玉座の前に立っているのを見た。幾つかの書物が開かれたが、もう一つの書物も開かれた。それは命の書である。死者たちは、これらの書物に書かれていることに基づき、彼らの行いに応じて裁かれた。
ヨハネの黙示録20.11 ~ 12(キリスト教)
大地が、揺れに揺れるとき、大地その重荷を投げ出し、人は「かれ(大地)は、何事だろうか」と言う。その日かれは、種々の消息を語るであろう。それは主が、かれに黙示されたためである。

その日、人びとは分別された集団となって進み出て、かれらの行なったことが示されるであろう。
(そのとき何人も)一みじんの重さでも善を行なった者はそれを見る。また、一みじんの重さでも悪を行なった者はそれを見る。
クルアーン99.1 ~ 8(イスラーム)

ひとりびとりに、われはその運命を首に結びつけた。そして復活の日には、行いの記録された一巻がつきつけられ、かれは開いて見る。(かれに仰せられよう)「なんじの記録を読め。なんじの魂は、己れのための計算書として、きょうは十分である。
クルアーン17.13 ~ 14(イスラーム)


あなたたちがこの世を旅立ったのち、神はあなたの行業を数え計るが、このすべてが彼の帳簿に一つ一つ記されている。従順でないものたちは召喚され、死の使者であるアズラエルが彼らの頭の上を徘徊する。真っ暗な狭い道でわなにひっかかった彼らは、逃げ出す所が分からない。ナナークが言うには、偽りは衰亡し、最後は真理が優勢になるだろう。
アーディ・グラント、ラームカリー・キ・ヴァールM.1、p.953 (シーク教)

人間が世の中をたつとき、肉身は分解され、霊魂が旅立つ用意をする。その日、初めて人間は、肉身が強健だったときに見ることができかったものを見ることを許される。3人の使者がその前に立ち、彼の人生と地上でしたすべてのことを語る。すると自分の口ですべてのことを認め、自分の手でそこに署名する。……これはちょうど、ヨブ記37 章7節の「すべての人間に御業を認めさせられる」と記されているのと同じである。
ゾハール1.79a(ユダヤ教)

―み言選集―

この地上に生まれて、運命の瞬間を迎える最期の場で、過去を悔いる人がいるなら、その人の心には、過去のすべての事実が、映像として過ぎていくでしょう。これこれこういう人だということを、誰かが教えてくれなくても、自ら分かるでしょう。

先祖から受け継いだ生命体をもって、今まで因縁をもった環境と、残しておいた事情など、過去のすべてが一生の最期の瞬間に、自分の心に映像として現れるでしょう。

その中で、「真があった、自分の生命よりも貴い何かを残した」という人がいるなら、彼はたとえこの地に生まれて死んでも、甲斐ある一時を残す人になるでしょう。しかし、「生まれて死ぬこの一生の行路が、通行人のようにただ通り過ぎるものだった」という人もいるのです。
そのような人のすべての過去の事情を回想してみるとき、そのすべての事情が、頭を振って回想したくない過去をもったなら、彼は悲惨な人です。

過去を回想すれば回想するほど、自分の顔に歓喜があふれ、自分のすべての問題が理想に浸ることができるなら、死の恐怖も彼には慰労の一場面として飾られるでしょう。

このようなことを見るとき、過去を回想する瞬間が、恐怖の瞬間でなく、他の何かを残したなら、彼の過去は死なないのであり、現実も死なないものとして現れるでしょう。そのようにできる過去をもった人は、必ず民族が従ってこられる因縁をもった人であり、世界万民がついてこざるを得ない因縁を残した人だと見ることができます。

生涯路程で、自分のために死の場まで行くことより、兄弟なら兄弟、親族なら親族、他人なら他人のために、自分の命をみな捧げて彼らを救ったなら、彼らを救うためにぶつかった時があったなら、そのような事実が最後の運命の場で、彼の心の線上に映像として現れ得るということになるでしょう。いくら自分を中心とした幸福な時があり、数多くの群衆から歓迎されて、自分が光栄にたたえられた聖なる時があったとしても、それは、その瞬間には効力を発揮できないようになっています。

善であったか、真になったか、神様の前に一人立つことができたかという問題について見るとき、真と善は自分から始まり、自分に終わるのではありません。自分から始まり人に結果を結ばせるとか、人によって始まって自分に結果をもたらすことができてこそ、善になり得るのです。私達の原理で、天地のすべての存在は与えて受ける因縁を経なければならない、というのと同じです。

過去の生活が与える生活だったなら、死の道にも恐怖がないでしょう。人のためにすべてを与えて、人のために犠牲になり、真に近い生活をしながら、涙も人によって流し、自分の命も人によって投入し、自分の願いも人によるものなので、自分の脈拍から流れ出るすべての生命力を引き集めて、人のために投入したというなら、その過去は輝き得る過去でしょう。

皆さんは、見るからに険しい環境を備えたこの堕落圏内で、皆さん自身が行く姿を、図表を書いてみるようになるとき、1年はこのように行き、1年はあのように行くだろう、あるいは10 年はこのように行き、10 年はあのように行くだろうと言って、自分なりに一生の行路を計画しながら、高低を予測するでしょう。その高低が、自分を中心として高くなった、低くなったという人は、最後の運命を迎えるようになるとき、自分のために生きながら、人を犠牲にしたそのすべてが、自分をがんじがらめにするでしょう。
(31-308 ~ 310、1970.6.7)


②天国と地獄の区別

―宗教経典―

時が来ると、墓の中にいる者は皆、人の子の声を聞き、善を行った者は復活して命を受けるために、悪を行った者は復活して裁きを受けるために出て来るのだ。
ヨハネによる福音書5.28 ~ 29(キリスト教)

裁き人は最も正しい行動をもって、第一の世界のもろもろの律法なるものをもってすると同じように、行動するでしょう。不義者にたいして、はたまた義者にたいして、さらには邪なるものと正しいものとが混在しているものにたいして。
アヴェスター・ヤスナ33.1(ゾロアスター教)

ある者は害意のある身の行を作り上げます。害意のある語の行を作りあげます。害意のある意の行を作りあげます。かれは害意のある身の行を作りあげ、害意のある語の行を作りあげ、害意のある意の行を作りあげ、害意のある世界に生まれかわりますと、そのかれに、害意のあるもろもろの接触が触れます。

害意のあるもろもろの接触が触れると、かれは、害意のある、もっぱら苦しい感受を受けます。たとえば地獄の生けるものたちのようなものです。プンナよ、以上のように生じたものから生けるものの生まれかわりがあります。行なう行為によって生まれかわります。この生まれかわっているものに接触が触れます。このようにまた、プンナよ、私は「生けるものたちは業の相続者である」と説きます。
阿含経中部i.389 ~ 90、犬行者経(仏教)

人の子は、父の栄光に輝いて天使たちと共に来るが、そのとき、それぞれの行いに応じて報いるのである。
マタイによる福音書16.27(キリスト教)

自然にすべてのホッピーは、彼が愛していた死んだ人の霊魂と接することを願う。そのような目的で彼は自分の心情を純粋に維持し、人に親切で寛大だ。ホッピーではない者として知られた悪い人が死んだとき、彼の運命は大きく異なる。彼の息が体から抜け出るやいなや、「二つの心をもった者」と呼ばれる魔法師たちが手で彼を捕まえる。そして彼らは、彼を彼らの国に連れていく。「二つの心をもった者」の国は、彼らが悪であるように悪である。
ホッピー族の伝承(アメリカ先住民の宗教)

ラッパが高く鳴り響くと、天にあるものも、また地にあるものも、神がよみしたもう者のほかは気絶しよう。それからふたたび鳴り響くと、見よかれらは起き上って見まわす。

そのとき大地は主の栄光で輝き、行いの記録が置かれ、諸使者と証人たちが進み出て、公正な判決が、かれらの間に宣言され、いささかも不当に遇せられないであろう。

各人は、その行なったことに対して、十分に報いられよう、かれは、かれらの行なったすべてを最もよく知りたもう。
不信者は、集団をなして地獄に駆られよう。かれらがそこに到着したとき、地獄の諸門は開かれる、そして看守は、「おまえたちの間から出た、諸使者が来なかったか、(そして)主からのしるしをおまえたちのために読唱し、また、おまえたちのこの会見の日のことを、警告しなかったか」と言おう。

かれらは答えて言おう「その通りであります、ただし、不信者に対する刑罰のおことばが、真実に証明されました」。かれらに言われよう「なんじらは地獄の門をはいれ、その中にとこしえに住
め」。何と哀れなことよ、高慢者の住まいこそは。また、かれらの主を畏れたものは、集団をなして楽園に駆られよう。

かれらがそこに到着したとき、楽園の諸門は開かれる、そしてその看守は言おう、「あなたがたに平安あれ、みごとであった、ここにおはいり、とこしえの住まいである」。かれらは感謝して言おう「神をたたえ奉る、かれは、私達への約束を果たし、私達に大地を継がせたまい、この楽園の中では、好きなところに住ませたもう」。何と結構なことよ、善い行いにいそしんだ者への報奨こそは。
クルアーン39.68 ~ 76(イスラーム)

死の世界の敷居で
あなたは審判官が見る前を通過するだろう。
彼の審判は真実で、あなたの二本の足を見る。
たとえ革に覆われて見えなくても
彼はすべての汚れを知るだろう。
あなたが堕落したことがあれば、
彼が知るだろう。
審判官があなたの足から
何のしみも見ることができなければ、
腹を広げて喜べ、
あなたはすべてに勝ち
清い腹をもったからである。
パン族の歌(アフリカ伝統宗教)

―み言選集―

どのような人が悪の人であり、どのような人が善の人か、何で測定するかということが問題です。しかし、それは簡単なことです。その人がいかに宗教人であっても、彼が天国に行くか、地獄に行くか、ということを何で測定できるのでしょうか。自分のために生きてきた生涯が多ければ、彼は地獄行きです。

他のために生きた生涯が、自分のために生きた生涯よりも1パーセントでも多ければ、彼は地獄を越えて天国に向かうことのできる道に立つのです。けれども、自身のために生きた比率が高いときは、地獄に行くのです。
(75-330、1975.1.16)

それでは、人間の良心基準は、天倫の心情を100 パーセントそのまま受け入れることができるようになっていますか。そのようになっておらず、数多くの障壁が立ちふさがっているのです。
皆さんが願う喜望峰、すなわち天国の関門の前に曲折の門が横たわっています。これがキリスト数的に言えば審判の関門です。
(4-269、1958.8.3)

永生に向かう公式的路程は同じです。そこには、ために生きた人たちだけが通過できる正門があり、そこに門番が守っている事実を知らなければなりません。そこを通過できる資格者にしてあげるために、先生が頼んでいることをよく理解して、きょう帰って過去を反省しながら新しく生まれ変わることを願います。
(203-193、1990.6.24)

霊界に行ってみれば、霊界は膨大ですが、三段階になっています。誰が頂上に上がっていきますか。よりために生きた人です。そこの法がそうです。そのような人は、ここから出発してあそこに行っても、「うれしいです! ようこそ!」、ここに行っても、「うれしいです! ようこそ!」と歓迎されます。
しかし、自分のために生きた人には、反対の世界が展開します。それも同じように三段階です。ここではすべて「ふん! 私達は、お前のような者は嫌いだ!」と反対するのです。

二種類です。二種類ですが、それを分析してみる
と、自分のために生きていた人はすべて反対され、人のために生きていた人はすべて歓迎されます。これは間違いありません。

皆さんが天国に行く群れなのか、地獄に行く群れなのか、はっきり知らなければなりません。レバレンド・ムーンが、ただ考えて言う言葉ではありません。霊界をよく知っている人です。死を避けることができる人は一人もいません。

死を避けることはできないのです。自分のために生きた人は、地獄に行くのであり、人のために生きた人は、天国に行くのです。この二つの世界が、死から分かれるのです。
(203-100 ~ 101、1990.6.17)

③審判の法廷

―宗教経典―

だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。人を義としてくださるのは神なのです。だれが私達を罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、私達のために執り成してくださるのです。だれが、キリストの愛から私達を引き離すことができましょう。
ローマの信徒への手紙8.33 ~ 35(キリ卜教)

私が死ねば、私の死はあなたに慈悲と恩寵になるだろう。死後にあなたの行動が私に送られ、私がそれを見るだろう。正しいことをした者のために神に賛美を捧げ、悪を行った者のためには神に赦しを求めよう。
イブン・サウド・ハディース・(イスラーム)


生まれた者は、結局死ぬようになっている。死んだ者は再び新しい生を得る。生きている者は、結局審判を受けることを知るようになり、知らされ、聖なるその方、神を知るようになっている。

神は製作者、創造者、全知者、審判者、証人、告発者であられる。これから審判される方も、私の愛するその方であられる。その方がいらっしゃる所は、どこにも、不義、赦されないこと、見下す
こと、わいろを受けることはあり得ない。

すべてのことは道理に合うように回っていくことを肝に銘じよ。墓が避難所になってくれるという無駄な希望をもってはならない。あなたが生まれて生きることも死ぬことも、すべてそうなる理由があるのだ。後日王の王であられる愛する聖なるその方の前で地上の人生を審判されるだろう。
ミシュナ、アヴォート41.29 (ユダヤ教)


―み言選集―

イエス様があの世に行って、弁護士の役割をしているのです。イエス様が弁護士になって、「この人は、私の名を信じ、善なることをしました。善であろうとし、公理の法度を守った人は、悪魔も連れていけないということは、悪魔と神様と協定した条約ではないですか」と言うのです。そうすると神様も、「そうだ」と言うのです。
(149-98、1986.11.17)

私の心と体を土台として神様が最後の審判をするとき、私個人が審判の聖書となり、法典となり、審判をしても引っ掛からない絶対的な位置を築いてこそ、個人復帰が完結するのです。

今は、個人完成の上に家庭を完成しなければなら
ない時です。家庭の歴史は、すべてが審判の材料になるのです。それで、審判を受けるとき、サタンが讒訴できない純潔の家庭にならなければなりません。

そうしてこそ、家庭的な復帰を成して民族的な土台を完結できるのです。民族的な勝利の基盤を完全に築けば、サタン世界の万民を審判することができ、神様御自身が裁判長の位置に立つようになるのです。この時、イエス様は、弁護士になられ、サタンは検事になります。

全世界に広がっている民族がサタンを攻撃するとき、抗議を受けない絶対的な勝利の基盤を築いてこそ、民族的な復帰の道を行ったと言うことができるのです。そのような人が国家、世界、天と地、全人類の救援の主人になります。

それで、彼が霊界と肉界を統合する天宙世界において、途方もない歴史的な全体の蕩減基準を完結しておいて、天地を中心とする億千万世の大審判場を用意したおいたあと、創造主であられる父をお迎えし、今まで天地において過ちを犯してきた怨讐を無慈悲に審判するとき、背信者から小心者まで、すべて抗議することができずに当然だと言える基準を立ててこそ、天地復帰路程が完結するのです。(13-211、1964.3.15)
皆さんは、カインを愛しますか。カインはサタンです。サタンの息子です。その霊的サタン、実体サタンが立ち向かってくるのです。葬り去りたいと思い、統一教会が憎くてしかたなく、ぎりぎり、ぎりぎりと歯ぎしりします。

私達が御飯をくれと言いましたか、餅をくれと言いましたか。黙っていてもそうなのです。ここに皆さんが引っ掛からないようにしようとすれば、カインを屈服させなければなりません。カインを屈服させるためには、最後までカインを愛さなければなりません。そのような人でなければ、カインを救えません。

ですから、皆さんが天国に行くには、サタンの承諾書をもらわなければなりません。サタンの承諾書とは何でしょうか。罪人が釈放されるには、まず検事を通じ、弁護士を通じてから、判事によって釈放されるのです。

このような立場で見るとき、サタンは検事であり、神様は判事であり、イエス様は弁護士です。サタンが、「お前はこれこれこのようにしただろう?」と言って、さっと罠にかけて神様に、「この人は、このようにしなければならない」と言えば、神様もどうすることもできないのです。すると、イエス様は弁護士の立場で、「神様、この人の先祖はこのようなことをしました。本来、血統は悪くない人です。これこれの条件に引っ掛かったので、その条件に該当した蕩減条件を立てさせ、罪を脱がせてやらなければなりません」と言うのです。このようなことをしてきています。

ですから、皆さんが天国に行くには、サタンの承諾書をもらわなければならないのです。サタンを愛したと認定されなければ、永久に天国に行けません。
(48-316 ~ 317、1971.9.26)


④自らの審判

―宗教経典―

自我はつくるものであり、つくられないものである。幸福をつくるか悲しみをつくる。自ら友かと思えばまた敵でもある。自ら良し悪しの立場を決定する。自ら自身のパヤラナ川(地獄の存在が苦痛を受ける川)である。
マダキヒシュロッカ(ジャイナ教)

世を破壊するために、人間を悪行に権勢をもって結びつけるのは、カラバン僧らとカウィ王侯らですが、その彼らに、彼ら自身の魂と彼ら自身のダエーナーは立腹するでしょう、いつの日までも「不義」の家に客たる彼らが、チンワントの橋のあるところにやって来るときに。
アヴェスター・ヤスナ46.11 (ゾロアスター教)

汝と一緒に生れた善神によって汝が生前に行った善い行ないの数々がすべて集められ、白い小石で数え上げられるであろう。汝と一緒に生れたピシャーチャ鬼によって汝が生前に行った悪い行ないの数々がすべて集められ、黒い小石で数え上げられるであろう。

この時に、汝が非常に驚き、恐れおののき震えて、《私は悪いことはしていません》と、嘘をついたとする。それに対してヤマ王は《ではお前のカルマンを映写する鏡〈業鏡〉を見てみよう》と言って鏡を見る。

汝の生前に行った善い行ないと悪い行ないのすべてが鏡の面に輝いてはっきりと映し出されるの
で、汝が嘘をついても無駄である。ヤマ王は汝の首に縄索をつけて、汝を引きずり出し、首を切り、心臓を食らい、はらわたを引き出し、脳みそをなめ、血をすすり、肉を食べ、骨をしゃぶる。汝はそれでも死ぬことができない。身体が切れ切れに切り刻まれても、また蘇生してしまう。何度も何度も切り刻まれて、大変な苦しみを昧わうであろう。


この白い小石が数えられている時にも汝は恐れてはならない。おののいてはならない。嘘をついてはならない。ヤマ王におびえてはならない。汝は意識からできている身体であるので、殺され切り刻まれても、死ぬことはないのである。

本当のところ、汝は空それ自体が姿をとったものなのであるから、なにも恐れることはないのである。ヤマ王たちは汝の思いが化して現われたものである。空なるものの姿にほかならない。汝の身体は、潜在意識が形をとったものである。空なる意識からできた身体にほかならない。空なるものが空なるものを傷つけることはできない。性質をもたないものが性質をもたないものを傷つけることはできないのである。

汝自身の錯乱によって現われた幻影以外に、ヤマ王や善神やピシャーチャ鬼や牛頭の鬼(羅刹)等が実際に存在するのではないことを覚るべきである。
チベット死者の書(仏教)

―み言選集―

天国でも地獄でも、霊人体がそこに行くのは、神が定めるのではなく、霊人体自身が決定するのである。人間は元来、完成すれば、神の愛を完全に呼吸できるように創造されたので、犯罪行為によってもたらされた過ちのために、この愛を完全に呼吸することができなくなった霊人体は、完全な愛の主体である神の前に立つことが、かえって苦痛となるのである。それゆえに、このような
霊人体は、神の愛とは遠い距離にある地獄を自ら選択するようになる。
原理講論、創造原理6.3.2

皆さんが天と地の境界線です。地獄と天国の境界線です。「世の中に行くのか、天に行くのか」が確定されなければなりません。皆さんの心と体がここに行くのです。「1歩行くのか、2歩行くのか、3歩行くのか」というのです。

心と体が一つにならなければなりません。神様が地獄に送り、天国に送るのではありません。自分が訪ねていくのです。皆さんが知っている所に行くので、不平を言うことができません。地獄に行って、「神様、私をなぜ地獄に送ったのですか」と言うことはできないのです。誰も神様に対して不平を言うことができません。自分が行く所を決定するのです。今もそうです。私自身が、「天国に行くのか、地獄に行くのか」ということをみな知っています。
(201-225 ~ 226、1990.4.22)

そうだとすれば、天国行きと地獄行きはどこで決定するのですか。私によって決定するのです。体の五官を通して感じる条件の中で、良心の呵責を感じる生活をする人は地獄にいます。心を中心として、心が喜べる生活をする人は天国にいるのです。ですから、人は物欲と悪心を捨てて、良心を中心として天倫を望むのは当然のことです。これは皆さんもよく知っているのです。
(7-238、1959.9.20)

天国は誰かが教えてくれて行くようになっていません。良心的に生きる人は自動的に行くようになっているところが天国です。太陽が昇れば、すべての木の芽は太陽に向かいます。草までも自ら方向性をもって帰っていくのに、まして万物の霊長である人間が自分の行く道を知らないわけがないのです。このような現象が起こってくるのです。
(75-42、1975.1.1)


7.天界

天国と地獄に対する概念は、世界の諸宗教において普遍的に発見される。この領域に対する描写は、地上人たちの日常的な生活において多くは経験できない実在を象徴化し、絵画的で、幻想的な構成で満ちている。この領域は、客観的に実在するのか。宗教の諸経典は、異口同音にこの領域が実在するという。

しかし、その領域は、何かの物理的位置を備えていない。そこの「上」、または「下」は霊的な位相の問題であって、天文学や地質学的位置ではない。ある経典で発見される見解、すなわち天国や地獄は私達の心の状態から派生したという見解は、それを非実在的なものであるという根拠には決してなり得ない。

なぜなら、倫理的な生活において、見える行いによって隠されることもあり得る私達の心の中の態度と欲望が、霊界の内容を構成しているからである。
世界の諸経典は、天国を神様の恩寵に満ちた安息所、あるいは高貴な霊的状態として描写される。天国の居住者たちは神様と交流し、互いに調和を成しながら生活する。数多くの経典は、そこを死んだ者たちの霊魂や聖者たちとの親交場所として描写する。より絵画的で世俗的な光景として描写され、喜びにあふれ、あらゆる富と珍しく貴重な宝物があふれた所として描写した章句もある。

天国に関する文鮮明先生の多彩な描写は、経典のこの主題と一致する。さらに先生は、天国とは家族が完全な愛を享有しながら一緒に暮らす所であることを確認し、強調する話をさらに付け加える。

私達は、天国の光景や天国への旅でこの節を締めくくる。ここには、文鮮明先生自身の描写だけでなく、仏教の浄土に対する描写、ムハンマドの七つの天国を経る夜の旅、「素晴らしい湖の法典」に出てくるイロコイ北アメリカ先住民の旅が含まれる。
この章句は、すべての希望が成し遂げられる永遠の若さと健康があふれる世界、揺れ動く色調と甘美な曲調で感覚が生気に満ちあふれる楽園のような世界として、それを描写する。


①恩寵の世界

―宗教経典―

この世においても、来世においても、そのような人は決して滅びはしない。友よ、善をなす者は、誰も悪趣に赴かないから。ヨーガから脱落した者は、善行者の世界に達し、無限の歳月そこに住んだ後、清浄で栄光ある人々の家に再生する。
バガヴァッド・ギーター6.40 ~ 41(ヒンドゥー教)

だが信仰して善い行いにいそしむ者たち、これらの者は、衆生のうち最善の者である。かれらの報奨は、主のみもとの川が下を流れるエデンの園で、かれらはその中にとこしえに住むであろう。神はかれらを喜びたまい、かれらはかれに満悦し奉る。それは主を恐れる者への報奨である。
クルアーン98.7 ~ 8(イスラーム)


ラビ・ジョセフが……病にかかり意識を失った。再び回復したとき、彼の父が尋ねた。「何を見たか」。彼は答えた。「今の世の中と正反対の世の中を見ました。上にいる者が下にいて、下にいる者が上にいました」。父が答えた。「息子よ、正された世の中を見たのだ」。
タルムード、プサヒーム50a (ユダヤ教)

到来する世は、今の世とは異なる。新しい世になれば、飲み食いすることはないだろう。子供を生むこともなく、商いもないだろう。嫉妬や憎悪や競争がないだろう。新しい世には義人が尊敬され、彼に王冠がかぶせられ、彼は神聖な光彩を享受するだろう。
タルムード、ブラホート17a(ユダヤ教)

何の眩惑もない世界、永生と、この上ない権能と、輝く光彩を備え、自らの形を意のままに変えることができ、いつでも最初の日のように美しく、数千の太陽が発する光輝を備えた神々がとどまる世界、このように比べるもののない究極の境界は、自己統御と苦行により得るが、あらゆる利己的な欲望を抜け出して解脱に入った凡人と、苦行僧たちが得るところの境界だ。
ウッタラッジャーヤー・スートラ5.26 ~ 28(ジャイナ教)

恩寵の世界は気高いところにあるが、神の意識で満たされた英雄たち、至高な権能の英雄たちでなければ、誰も近づける者がいない。至極美しくこの上ない賛美を受けたシッタのような多くの女神たちがその世界に暮らす。

神と一つになったこの者たちは、あらゆる死と心の迷いから自由である。その世界には、至る所で集まった聖なる神に帰依する者たちが暮らし、心に崇厳で永遠の神を抱いている。永遠の至福で無形の至高者が永遠の世界にいて、一切の万有に限りない恩寵を下す。

その世界はすべての大陸と国を抱いており、その数を数えることができない。その中にあるあらゆる森羅万象が彼の意に従う。彼はこの上ない喜びでそれらを見下ろし、一つ一つ心の中に抱く。ナナートが言うには、実に形容し難いものがその世界の壮麗さだ。
アーディ・グラント、ジャプジー37、M.1、p.8(シーク教)


―み言葉選集―

神様は、このような中心存在でいらっしゃるのですが、それでは、神様がいらっしゃるあの天国、神様がいらっしゃるあの霊界はどのような組織でできているのですか。その組織の構造は簡単です。天国に行くことができ、極楽に行くことができる人たちは、自分のために生きていた人たちではありません。そのような人は行くことができません。全体のために生まれ、全体のために生きていた人が行く所が天国だというのです。

皆さんは、霊界を体験した経験がないかもしれませんが、私は天の恩賜によって数多くの霊的世界を体験しました。天国に入っていくと、自分のために生きる人は一人もいません。神様のために生き、人類のために生きた人たちが、みなその世界に行っているのです。
(77-189 ~ 190、1975.4.6)


神様を擁護し、神様の近くに来れば来るほどうれしいというのは、原理がそうだからです。したがって、霊界というのは、神様を中心とする理想世界として神様の愛の拍子と、その波動によって動く世界です。それで、自分がそこに調和できる要素を地上で築いていかなければ、そこで和合ができないのです。そのためには、子女の愛、夫婦の愛、父母の愛、この三つの愛を完成しなければなりません。(注17)
(19-335、1968.3.29)

天国はほかの所にあるのではなく、私の心にあります。その心がとどまる場所はどのような場所ですか。死亡のすべての要素を内包している場所ではなく、それを克服し、一つの生命が波及され得る場所です。

それで、天国は心から始まります。世の中に勝った心から始まるのです。いくら環境的に天国が成し遂げられたとしても、自分の心が悪で、それを慕うことができず、そこに動じることができない立場にいれば、その天国は意味がありません。
ですから、天国を迎えることができる土台になるのは、環境ではなく、私自身です。私自身が問題です。天国を維持できる支柱、支えるその支持点がどこかというと、環境の前に自分の心です。
(46-23 ~ 24、1971.7.18)

天国は、常に青い山河と広い草原地帯が広がっており、そこでは鳥が歌い、美しい花が満開で、動物が楽しく遊んでいます。周りの空気は、ライラックの香りのような匂いに満たされています。

また、宝石よりも明るい光彩を放ち、水晶のような透明な世界が現れ、立っているだけでも心がすがすがしく、安らかになります。天国は、深い愛の感動を感じるようになり、自由と幸福と喜び
が自然に感じられる世界です。地上とは違って、心の中に感じる深い感動と感覚が持続する世界です。

天国には、悩みや、心配や、つらいことがなく、表情がとても明るく、平和な姿です。お互いに話す必要もありません。自然に感じてために生き、愛する所です。闘いもなく、憎しみやねたみ、嫉妬、傲慢のような堕落性もありません。ために生きる真の愛があふれた世界です。
興進様の霊界メッセージ、2002.1.1


②聖人と先祖の親交

―宗教経典―

良き友人たち、善行者たちの愉悦する天界(svarga)、おのが身体の病患を棄て去り、跛者なく、肢体に欠くる者なき所、われら願うは、そこに両親を、息子を見得んことを。
アタルヴァ・ヴエーダ6.120.3 (ヒンドゥー教)

神とみ使いに従う者は、神が恩恵を施したもう者と一緒にいる者たち、予言者たち、誠実者たち、殉教者たち、ならびに正義者たちである。これらはなんとりっぱな仲間であることよ。
クルアーン4.69 (イスラーム)

しかし、あなたがたが近づいたのはシオンの山、生ける神の都、天のエルサレム、無数の天使たちの祝いの集まり、天に登録されている長子たちの集会、すべての人の審判者である神、完全なものとされた正しい人たちの霊、新しい契約の仲介者イエス、そして、アベルの血よりも立派に語る注がれた血です。
ヘブライ人への手紙12.22 ~ 24(キリスト教)

あなたが死ぬとき、あなたはあなたが愛した、既に死んだ人と再び出会うだろう。あなたが死ぬ日に、老いて気力がなかったとしても、あなたは再び若く強くなるだろう。霊魂の地でとうもろこしが育ち、彼らが生存時に善であっても悪であっても、すべて幸福になるだろう。ゆえに死は恐れるものではない。
ユマ族の伝承(アメリカ先住民の宗教)

それから先頭に立つ者は、楽園においても先頭者で、これらの者は、神の側近者であり、至福の楽園の中に住む。むかしからの者が多数で、後世の者からはわずかである。

(かれらは金銀宝玉を)ちりばめた寝床の上に、向かい合ってそれによりかかる。永遠の(清新を保つ)少年たちが、かれらの間を巡り、台付の杯や水差し、清浄な飲物の満たされたコップをささげる。かれらは、それであと障りを残さず、泥酔することもなく、また果物は、かれらの選ぶにまかせ、種々の鳥の肉は、かれらの好みのまま、大きい輝くまなざしの、美しい配偶、ちょうど秘蔵の真珠のよう。かれらが行なったことに対する報奨である。
クルアーン56.10 ~ 25(イスラーム)

ある者のためにはソーマ(神酒)が清まり、ある者はグリタを享楽す、そのために蜜の奔流する者、これらの者(祖先)にこそ彼(死者)は加わるべかれ。苦行により冒すべからざりし人々、苦行により天界に達したる人々、苦行を〔その〕荘厳(しょうごん)となしたる人々、これらの者にこそ彼は加わるべかれ。

合戦において戦う人々、勇士として身体を棄つる人々、または〔牝牛〕千頭をダクシナー(布施)として与うる人々、これらの者にこそ彼は加わるべかれ。天則を扶養し、天則を持し、天則を増大したる古人(いにしえびと)、苦行に富む祖霊、ヤマ(死者の支配者)よ、これらの者にこそ彼は加わるべかれ。(注18)
千の讃歌を知り、太陽を守護する詩人たち、苦行に富む聖仙たち、ヤマよ、彼は苦行より生まれたる人々に加われ。
リグ・ヴェーダ10.154.1 ~ 5(ヒンドゥー教)

 

―み言選集―

「天」といえば「二人」を意味します。皆さんもすべてそうです。すべて相対的です。
(92-309、1977.4.24)

天国は、家庭生活の拡大である。
御旨の道、天国

霊界は愛の心に酔う、このような最高の場所なので、年を取ることがありません。お母様も年を取りましたが、私が見るに、いつでも一番良いときの姿です。
(201-103、1990.3.11)

天国はどのような所ですか。天国という所は、愛が中心にならなければなりません。天国は、愛を受けたいと思う所、受けてもまた受けたいと思う、そのような所です。私達の「うれしい」という一言が、「うれしい」という千の言葉になり得る所が天国という所です。愛に接すれば、眠気が来ても、眠気はどこかに逃げていったかのように逃げていき、聞こえなかった耳が愛の心に接すれば聞こえるようになり、通じないものがありません。すべてのものが24時間、千年、万年ささやいても、話し続けることができる愛の世界なのです。私達の細胞やすべての感覚が100 パーセント以上動くことができる所です。
(102-160 ~ 161、1978.12.17)

霊界に行けば、山のような所も、そのまますっと……。通じない所がありません。霊界の動きを妨げるものが何もありません。天の本性稟の存在性なので、それを妨げるようになっていません。すべて通じるようになっています。時空を超越しているので、何億年前にいた人が今もいます。その人たちも、みな若い人として、自分か願う年齢で現れます。ですから、そのような人たちにいく
らでも会うことができるのです。
(194-133 ~ 134、1989.10.17)

エデンの園において、神様にとって最高の喜びと栄光のあいさつとは何かというと、神様と一緒に愛することです。出会ってベールをかぶって入っていき、神様の前で愛の関係を結ぶことによって、神様と一体になることができるその場があいさつする場なのです。
(314-25、1999.12.30)

天国というのは、人間が堕落せずに、この地上で神様の愛の懐で成婚し、神様の喜ぶ息子、娘、神様の喜ぶ孫を得て神様の愛を受け、その家庭がみな一緒に行く所です。子供が行けなくても、自分さえ行ければ良いというのは天国でしょうか。

ところで、楽園というのは、いくら仲の良い夫婦や親子でも、別れて行くのです。家庭とは何の関係もありません。そのような所が天国でしょうか。両親と共に家族全員が行って、神様を中心として授け受けすることのできる、そのような世界が天国です。
(19-104、1967.12.31)


天国は相対的理念の世界です。それで、家庭がすべて入らなければならず、自分の氏族と国がすべて入らなければならないのです。そうしてこそ、天国が建設されるのです。
(18-331、1967.8.13)

それで、天国は一人で行く所ではありません。父、母、息子、娘、すべて一緒に行く所が天国です。神様の創造目的から見た天国は、そのような所です。母親が地獄に行き、「おい! なにがしよ、私を助けてくれ!」と言っているのに、一人で天国にいることができますか。父親が地獄に行って「苦しい」と言っているのに、一人で天国で「いやあ、うれしい」と言いながら「お父さんは、そこにいても、当然でしょう」と言う、そのような所が天国ではないのです。神様の創造理想である天国は、父母と妻子と共に家族全員が一緒に行く所です。家庭だけが行っても駄目です。親戚も一緒に行かなければならず、民族も一緒にいかなければなりません。国全体が行く所であり、世界全体が行く所です。
(15-265、1965.10.17)
霊界に入っていけば、あいさつが必要ありません。出会えばさっと分かります。すぐに分かるのです。何千年前の人であることが分かります。何百万年前の人だということが分かるのです。

今日、聖書の歴史が、6000 年と言いますが、彼らは霊界を知らない人たちです。聖書の歴史は、何百万年、何千万年です。その時代の私達の先祖を呼べば、すぐに現れるのです。さっと見れば、
話をしなくてもすぐに分かるようになっています。自分のすべてのことが現れるようになっているのです。

額が広くなければなりません。額が広ければ、福
を受けるのです。立ててあげなければならない人なのか、下に見てもよい人なのか、すぐに分かるようになっています。ですから、あいさつが必要ありません。自動的に秩序が維特されるのです。

すべての秩序は、何によって成り立つのでしょうか。愛によって成り立ちます。人間の世界と同じように、愛によって位置が決定するのです。それで、神様の息子、娘にならなければ天の国に行くことができないのです。
(208-142 ~ 143、1990.11.17)

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世界経典-16

2020年10月17日 18時11分14秒 | 学習

3.永生のための準備

宗教は、来世の姿を単純に、死別した人たちには慰安として、あるいは現世で抑圧された人たちに鎮静剤として語ることはできない。かえって来世の人生は、地上生活の目的を高揚させ、その意味を明らかにするための助けとなる。

地上でどのように生きるかが自分自身の永遠の運命を決定する。知恵のある人は、永生を指向する眼目をもって、この地で生きている。

事実、地上の人生こそ、私達が来世の人生を準備するべき唯一の機会であることが広く知られるようになった。行為とその報いを連結する輪は、死によって分離されることはない。かえって、私達は永遠の世界で自分か現世において行った行為の結実を収める。

地上生活で、ある人が一生懸命に働いたり、怠けたり、寛大であったり、けちであったり、勇気があったり、臆病であったり、寛容であったり、嫉妬心が多かったりすれば、その人の来世においてもその状態が持続するのである。

したがって、知恵のある人は、死ぬ前に宗数的な教えに従い、過った行為を懺悔し、すべての善し悪しをきれいに浄化することによって、永生を見つめる目をもって生きる。準備した者にとって、死は恐れるものではない。しかし、不注意で準備していない者にとって死は、悔恨を残し、ぞっとするものであり、突然に差し追ってくる。

文鮮明先生は、霊界で霊魂は愛の空気で息をすると教える。地上で愛する能力をはぐくまなければ、その霊界は、息が詰ってしまう所であることが分かる。永遠の世界で人間が享受する幸福の尺度は、地上生活で築いた愛の能力である。


①永遠の時間において刹那のような地上生活

―宗教経典―

あなたが教会に入っていく前に、自分の着こなしを整えるように、現世は今後到来する世界の玄関と同じだ。
ミシュナ、アヴォート4.21 (ユダヤ教)

帰妹(妹をとつがせるの意)に当たって女が先だって動くようではそもそもはじめからよろしくない。君子は万事に遠い将来の終りまでを見通し、はじめが悪いと失敗を招くことを知るのである。(注10)
易経、周易下経54、帰妹(儒教)

この世界で善行を施し、1時間でも悔い改めることが、あの世界でのあらゆる生よりもはるかに良い。そして、あの世界で1時間平穏をもつことが、この世界でのあらゆる生よりも良い。
ミシュナ、アヴォート4.22 (ユダヤ教)

長い時間の過程の中で、人の生を受けることはとてもまれな機会だ。難しくまた難しいことは業報だ。ゴータマよ、常に注意せよ!
ウッタラッジャーヤー・スートラ10.4 (ジャイナ教)

そして、私達の知っているように、現在、死が人類に及んでいる。まことに、アミュレクが語った死、つまり肉体の死が及んでいる。にもかかわらず、人が悔い改めることができるように、猶予期間が与えられた。したがって、この世の生涯は試しの状態、すなわち神にお会いする用意をする時期、私達が前に語った死者の復活後に訪れるあの無窮の状態に対して用意をする時期となった。
モルモン経、アルマ書12.24(末日聖徒イエス・キリスト教会)

何人でも、つかの間のこの世の事物を望む者には、れも急いでかれらのために、われの欲する物を、われが望む者に与える、それからかれのために地獄を準備する。かれはそこで焼かれ、恥辱を被むり、慈悲を拒まれるであろう。しかし何人でも来世を望み、それに向かって努め精進し、信仰する者、これらの者の精進は、嘉納(かのう)される。
クルアーン17.18 ~ 19(イスラーム)

我々はこの世界で買い物をしているのだ。
我々が買い物龍を満たそうと満たすまいと、
時間になれば家に行かなければならない。
イボ族の歌(アフリカ伝統宗教)

例えば、寿命を迎えた葉が地に落ちるように、人の生もまたそれと同じであるので、ゴータマよ、常に慎みなさい!葉の先にぶら下がった露の玉が一瞬で消えてしまうように、人の生もまたそれと同じであるので、ゴータマよ、常に慎みなさい!
人生は流れる水のように、また弓から放たれた矢のように、一瞬で流れていき、現存は不確実であるがゆえに、あなたが犯したあらゆる罪悪を急いで洗い流しなさい。おお、ゴータマよ、常に慎みなさい!  ウッタラッジャーヤー・スートラ10.1~3(ジャイナ教)

朝には夕ベを期待するな。夕べには朝を期待するな。病いのために健康をふりあて、死のために生をふりあてよ。
ナワウィー40 のハディース40(イスラーム)

おお! 人々よ、何をするにしても神を畏れ、死を予期せよ。一時的で、しがない現世の富貴と権力、快楽の代わりに、永遠の恩寵を得るようにしなさい。

射られた矢のような過程を準備しなければならないがゆえに、ここはあなたがしばし休んでいく所である。常に死に備えなければならないため、あなたたちは、ただ死の影の下で生きているだけである。神の福音を聞いた人のように、賢明に身を振る舞い、その福音から警告の意味を刻み込まなければならない。

現世はあなたたちが永遠に生きる所ではないことを悟らせなければならないがゆえに、あなたはその生を来世で取り替えるようになる。神に栄光をお返しするが、その方は目的なくあなたを創造されたのではなく、義務や責任も負わせず、放っておかれなかった……。

あなたは来世で、あなたたちに有用で助けとなる収穫を現世で収めることができるかを考えなければならない。
ナフジュ・アル・バラーガ説教67(イスラーム)


―み言選集―

私達はこの世に生きていますが、この世だけではなくて霊界があることを知っています。この世と霊界は、二つの世界ではなく、一つの世界として連結しているということを知っているのです。

それでは、私達が行くべき所、私達が行って住まなければならないその場所とはどこでしょうか。私達は肉身生活をしながらこの地にいますが、永遠の世界に向かって行っているのです。一般の人々は、この世に生まれ、10代、20 代、30 代を過ぎ、中年を過ぎて壮年、老年時代を経ていきます。このように、沈む太陽のように一生を終えます。

しかし、霊界があるという事実を知っている人たちは、人生というものがわずかの間で、死んだのちに私達が迎えなければならない世界が永遠だということを知っています。ゆえに一生の期間とは、永遠の世界を準備するための期間だというのです。(140-121、1986.2.9)
肉身と霊人体の中で、より重要なものとは何でしょうか。肉でなく霊なのです。肉は70、80 年の時間圏、限界圏内で生きては去ってしまいますが、霊は時間圏を超越し、空間まで超越する権限をもっています。したがって、歴史的な責任を悟って、責任を果たすことが人間の本務です。皆さんがいくら肉身を中心として豊かに暮らしても、結局は死ぬようになるのです。どのみち肉身は死ぬようになっているのです。そのようになっているのです。では、霊的な基準と肉的な基準のうちで、どちらがより重要なものでしょうか。私達は、肉的な基準を中心として生きていくのではありません。肉は霊のために、霊は肉のために存在するのです。
(20-326、1968.714)

霊界に行けば、愛することができなかった人は窒息します。呼吸が合いません。地上生活は何ですか。地上世界は、あの世界に入っていって呼吸することができるように訓練させる訓練場です。ですから、自分の妻よりも人を愛さなければなりません。(121-294、1982.10.29)
母親の腹中で胎教を正しく受けてこそ、健康で善の赤ん坊として生まれるのと同じように、この地上世界での生活は、腹中での生活と同じなのです。ですから、神様の形状を模範として、神様の心情を模範として、神様の聖なる神性を模範として育たなければなりません。育って、また命を懸けて越えていかなければなりません。
(14-17、1964.4.19)

地上に天法を教えるために、訓練させる舞台が宗教です。宗教は、本郷に帰っていくとき、その故郷の法を生前に地上で訓練され、その法度に適応できる人格を備えるためのものです。これが今日の宗教生活の道理です。

高次的な宗教であるほど自分を強調しません。高次的な宗教であるほど温柔、謙遜を強調します。さらには、犠牲、奉仕を強調するのです。なぜそうしなければならないのですか。本郷の法則がそうだからです。
人間は、どのみち本郷を訪ねていく旅人のような立場なので、本郷に行って暮らす法度に適するように訓練させようとするので、高次的な宗教であるほど、犠牲になりなさいと教えてきたのです。
(77-189、1975.4.6)

この地上にいる生活がどれほど重要でしょうか! 1回しかありません。地上生活を永生と比較すれば、これは1点にすぎません。あまりにも短い瞬間です。私の肉身生活を越えて、霊界のために準備をしなければならないのです。

常にそのような主流思想をもってセンターに立ち、一切をコントロールし、一切を征服できなければなりません。そのようにしなければ、皆さんは個性完成できないのです。
(207-99、1990.11.1)

「ああ、私は若いのでこれから少なくとも40 年、50 年は生きる」と、そのような欲をみんなもっているでしょう? 神様に保証を受けていますか。皆さんはできるだけ短く、1年以内に死ぬと思いなさい。この短い期間に準備をすべてしなければなりません。この観念をもって生きなさい。できるだけ短く計画するほど幸せだというのです。短く計画を立てるほど損害を受けないのです。

その期間に真実に準備するその内容が、自らの永遠の生命の家を建てるのです。2年後に死ぬと考えてみてください。どれほど深刻ですか。共同墓地にも、葬式をする所にも行ってみるのです。これは、信仰生活に絶対必要です。ですから、「生きよう」と言う人たちは死ぬのであり、「死のう」と言う人は生きるのです。その短い期間に、み旨のために死のうと、天のために死のうと思えば、永遠に生きるのです。
(102-122、1978.11.27)


②天に宝を貯蔵しなさい

―宗教経典―

あなたがたは地上に富を積んではならない。そこでは、虫が食ったり、さび付いたりするし、また、盗人が忍び込んで盗み出したりする。富は、天に積みなさい。そこでは、虫が食うことも、さび付くこともなく、また、盗人が忍び込むことも盗み出すこともない。あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ。
マタイによる福音書6.19 ~ 21(キリスト教)

若い時に、財を獲ることなく、清らかな行ないをまもらないならば、魚のいなくなった池にいる白鷺のように、痩せて滅びてしまう。若い時に、財を獲ることなく、清らかな行ないをまもらないならば、壊れた弓のようによこたわる。
法句経155 ~ 156(仏教)


おお、すきのない商人よ、利益のある商売をせよ。死んでもあなたと同伴するそのような商品だけを扱いなさい。
アーディ・グラント、スリー・ラーグ、M.1、p.22(シーク教)

意にかなった好きなものは、人間の目には美しく見える、婦女・むすこ・蓄積された財宝・金や銀・血統の正しい焼印をおした馬・家畜や田畑。これらは、現世の生活の享楽である。だが神のおそばこそは、こよなき安息所である。

言え(ムハンマドよ)、「私はこれらよりも善いものを、あなたがたに告げようか。その身を悪魔から守る者のためには、主のみもとに楽園があり、川が(木々の)下を流れている、かれらはその中にとこしえに住み、純潔な配偶を賜わり、神のご満悦を被むるであろう。……」
クルアーン3.14 ~ 15(イスラーム)


久しく旅に出ていた人が遠方から無事に帰って来たならば、親戚・友人・親友たちはかれが帰って来たのを祝う。そのように善いことをしてこの世からあの世に行った人を善業が迎え受ける。親族が愛する人が帰って来たのを迎え受けるように。
法句経2.19 ~ 20(仏教)

屍を木片、土塊のように地上にうち捨てて、親族たちは顔を向けずに立ち去る。功徳(ダルマ)が彼に従う。それゆえに、道連れのために、常に、少しずつ功徳(ダルマ)を積み上げるべし。なぜならば、功徳という同行者によって越え難い闇を渡るからである。〔功徳は〕功徳を主要素とし、苦行によって罪を破壊し、光り輝き、大気を身体とする者を素早くあの世に導く。
マヌ法典4.241 ~ 43(ヒンドゥー教)

それから、イエスはたとえを話された。「ある金持ちの畑が豊作だった。金持ちは、『どうしよう。作物をしまっておく場所がない』と思い巡らしたが、やがて言った。『こうしよう。倉を壊して、もっと大きいのを建て、そこに穀物や財産をみなしまい、こう自分に言ってやるのだ。「さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽
しめ」と。』

しかし神は、『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか』と言われた。自分のため
に富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ。」
ルカによる福音書12.16 ~ 21(キリスト教)

私は世界の富者を見る。かれらは貪り、財を積み富を得、愚により施さず、ますます欲を広げ求める。

嗣子がかれの財を引き継ぎ、人は業に従って行く。死にゆく者に財従わず、妻子、財産、王国もまた財によって長寿は得られず、富によっても老いは
消せず。この人生は短く、無常、移ろうもの、と賢者らは言う。

富者も貧者も死に触れる。賢者も愚者も死に触れられる。愚者は無知に打たれて臥すも、賢者は触れられ動揺しない。それゆえ慧こそ財よりすぐれ、慧によりこの世で終結を得る
阿含経中部ii.72 ~ 73、ラッタパーラ経(仏教)


―み言選集―

あの国のお金持ちは他でもありません。それだけ愛のために投入した人がお金持ちです。
(205-347、1990.10.2)

死ぬときにすべて置いていくのです。もっていくべきものは、神様を愛し、私が私を愛し、本質的な人である私を立てるために苦労し、私と相対の夫婦の愛、家庭の愛を中心として、この愛を世界に拡大するために努力したことです。人類を愛し、神様を愛したことが最後に残り、あの国で所有権決定の基準になるのです。
(127-38、1983.5.1)

皆さんは、天国に行くときに贈り物としてもって行く物がありますか。霊界に行けば、殉教した功臣たちが前にずらりと並んでいるのに、彼らの前に皆さんがもって行ったふろしきを開いて見せることができるでしょうか。大した物でもないのに開いて見せることができるでしょうか。皆さんがどのような苦労をしましたか。それぐらいの苦労をしただけで、どうして国のため、世界のために生きたと言えるでしょうか。「苦労をするにはしましたが、私は苦労したと思いません」と、それでこそ当然なのです。まだ行くべき道が残っています。

霊界に行ってふろしきを解いて、「これは一生の間私が用意した贈り物ですので、お受け取りくださいませ」と言えなければならないのです。女性たちが嫁に行く時は、荷物をしっかりと持って行くのに、天国に行く時は手ぶらで体だけ行くことができますか。
(32-71、1970.6.21)

一生の間に自分がするすべてのことは、すべてが真の愛のための実績として私の後ろに永遠に固着されているので、あの国に行って暮らすときに、残した功績を中心とする栄光の階級に自然に行ってとどまるのです。
(211-288、1990.12.30)


ために生きる人たちが行く世界が天国です。自分のために生きる人は絶対に行くことができない所です。
(91-173、1977.2.6)

人生の最後の目的は、神様を中心として天の中心たるその方と出会うことではありません。その方と一緒に住むことが問題となります。その方と会うのにどのような場所で会うか、生きるのにどのような場所で生きるのかということが問題です。

その方とは中心の場所で会い、中心の場所で生きようというのですが、その中心の位置は、神様の愛の位置なのです。ですから人類の良心が指向する最高の目標は、天運(注11)に従って神様と一致し、神様の愛を私のものにしようということです。結論はそれです。
(24-17、1969.6.22)

霊界に行くとき、お金をもって行くのではありません。統一教会の名前をもって行くのでもありません。今後皆さんがしなければならないことは、神様が愛することができる息子、娘をどれだけたくさんつくって行くかということです。

今、復帰過程で経ていくべきこととは何かというと、皆さんがサタン世界において神様が愛することのできる多くの息子、娘をつくるようになるとき、その功労は先祖と連結され、また先祖を解放させることのできる道が生まれるのです。これが、復帰路程において自分が受ける最大の贈り物です。

教育して弟子を大勢もつのと同じように、地で解いてあの世に行くようになれば、霊界でも解ける相対的関係になっているので、膨大な活動基盤になります。霊界に行って自分の霊的基準に該当する所は、すべて自分の所有になります。

ですからに自分が活動する舞台は、その基準を中心として全霊界に通じるのです。それがなくなれば、コーナーに追われて活動しにくいのです。ですから、歳月を送って休む間がありません。御飯を食べて暮らし、息子、娘を食べさせて育てることは、あの世に行くようになれば大したことではありません。天国の民を訪ねていかなければならないのです。それが天国では自分の所有になるのです。
(230-25、1992.4.15)


③地上の生活様式どおりに暮らす天上生活

―宗教経典―

季路(きろ)が神霊に仕えることをおたずねした。先生はいわれた、「人に仕えることもできないのに、どうして神霊に仕えられよう。」「恐れいりますが死のことをおたずねします。」というと、「生もわからないのに、どうして死がわかろう。」
論語11.12 (儒教)

(イエスは言われた。)「はっきり言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる」(注12)。
マタイによる福音書18.18(キリスト教)

さて実に人(プルシャ)は意向よりなる。この世に於て人が意向を持ちてあるが如く、その如くに、彼はこの世を去りて成る。 シャンカラヴェーダンタ・スートラ注解書1.2.1(ヒンドゥー教)
苦行を行い、清浄戒律を修行して具足する者は、この世やあの世のどちらでもりっぱな果報を得るため、生きては栄誉を得、死んではまたさらなるこの上ない幸福を享受する。

しかし、罪悪を耽溺する者の生や死は、どちらも悪の果報を得るため、生きては怨恨を積み、死んでは暗闇の中に放り込まれる。
ソーマスンダラウパデーシャ・マーラー443 ~ 44(ジャイナ教)

悪いことをした人は、この世で憂え、来世でも憂え、ふたつのところで共に憂える。かれは、自分の行為が汚れているのを見て、憂え、悩む。

善いことをした人は、この世で喜び、来世でも喜び、ふたつのところで共に喜ぶ。かれは、自分の行為が浄らかなのを見て、喜び、楽しむ。

悪いことをなす者は、この世で悔いに悩み、来世でも悔いに悩み、ふたつのところで悔いに悩む。「わたくしは悪いことをしました」といって悔いに悩み、苦難のところ(=地獄など)におもむいて(罪のむくいを受けて)さらに悩む。善いことをなす者は、この世で歓喜し、来世でも歓喜し、ふたつのところで共に歓喜する。「わたくしは善いことをしました」といって歓喜し、幸あるところ(=天の世界)におもむいて、さらに喜ぶ。
法句経15 ~ 18(仏教)

これは来世の住まいで、われは地上において、誇ることを欲せず、悪を行わぬ者にこれを授ける。善果は、主を畏れる者にある。善い行いをなす者には、それよりもまさるものを賜わる。悪い行いをなす者には、かれらが行なっていた、悪い行いにのみ報いたもう。
クルアーン28.83 ~ 84(イスラーム)


―み言選集―

生涯の内容に対する価値はどこで決定するのかというと、生涯をすべて生きて決定するのではありません。一日一日の生活、その日々が決定するのです。ですから、正しく生きなければなりません。
(197-186、1990.1.14)

ここでそのように生きた人があの世に行って、突然変わることはできません。「三つ子の魂百まで」という言葉があるでしょう。もって生まれた性格は、直すのが難しいのです。あの世に行っている霊人体は、私達の今までの生き方と特別に違うのでしょうか。突然に変わるのでしょうか。そのようなことはないのです。ここで生きた、その姿どおりに収穫されていくのです。霊界に行っているすべての霊人体は、結局は地上で生きた人々の霊人体です。そのように見ると、今日この人たちが生きている世の中と、特に違わない世界だというのです。
(141-268、1986.3.2)
霊人体のすべての感性も肉身生活の中で、肉身との相対的な関係によって育成されるので、人間は地上で完成され、神の愛を完全に体恤して初めて、肉身を脱いだのちのその霊人体も神の愛を完全に体恤することができるようになるのである。

このように、霊人体のすべての素性は肉身のある間に形成されるので、堕落人間においては、霊人体の悪化は肉身生活の犯罪行為に由来するもので、同じく、その霊人体の善化も、肉身生活の贖罪によってのみなされる。

罪悪人間を救うために、イエスが肉身をもって地上に降臨された理由はここにあるのである。それゆえに、我々は地上で善なる生活をしなければならない。したがって、救いの摂理の第一次的な目的が地上で実現されなければならないので、イエスは天国の門の鍵を地上のペテロに授けて(マタイ16・19)地上でつなぐことは天でもみなつながれ、地上で解くことは、天でもみな解かれるであろう
と言われたのである(マタイ18.・18)
原理講論、創造原理6.3.2
皆さんの習慣性をどのように打倒するのですか。今まで皆さんはサタン世界で自分を中心として、「私が優れていなければならない」と考える習慣性をもって生きてきたのですが、その習慣性はこり固まった悪い癖です。そのように固着してしまったその習慣性は、キムチ、テンジャン、コチュジャンの習慣性よりもっと強いでしょうか、弱いでしょうか。

これは歴史性を備えているのです。悪魔が出発したその日から根が打ち込まれたこのような伝統的習慣性をもっているのですが、これをどのように抜いてしまうのかというのです。

皆さんは今日の堕落した世界で先生によって原理を学んだと大口をたたいてはいけません。、穴を掘って根まで埋めてしまおうとしても、これは私の背よりもっと大きく、あの木に登っていって抜こうとしても抜くことができないほど長いのに、座ったまま抜いたと大口をたたきますか。これは深刻な問題です。
天の国に行く自信がありますか。天の国に行こうとすれば、神様を中心とする伝統的習慣性がなければなりません。
(213-20、1991.1.13)

一生の間、神のみ旨のためにいかに生活したかによって、天国における彼の座が決定する。ゆえに、天国に行くか行かないかは自分自身がよく分かる。食べたり、寝たり、好いたり、嫌ったり、行ったり、来たりするのを何のためにしたかによって、天国に行くか行けないかが決定される。
御旨の道、天国

ために存在するという原則で構成された世界が人間の願う天国だと、皆さんが端的に理解してもそれは間違いありません。そのような所が私達の本郷です。

私達は、好きでも嫌いでも、いずれそこへ行くべき運命に置かれています。それが私達の人生の道です。私達は、そこに向かって旅人の道を行っているのです。
それでは、ここで問題になることは、自分のために生きたのか、人のために生きる生活をしたのかということです。その差によって、すなわち人のために生きたことが多ければ天国に行くことができるのであり、その反対になるときには地獄に行くというのです。この原則はこの場では信じられませんが、死んでみれば分かります。
(74-51、1974.11.27)

 

④死の終着地

―宗教経典―

あなたは山に登っていくことができ、再び下りてくることもできる。渓谷の周囲をあちこちと歩き回り、再び戻ってくることもできる。しかし、神には行くことも戻ってくることもできない。
ヌペ族の格言(アフリカ伝統宗教)

信頼できぬこの閻魔(ヤマ=死)。〔罪を浄化〕したかしないかにかかわらず、病気であろうとなかろうと、すべての者は〔いつか〕突然に〔死ぬ。〕命とはあてにならないもの。すべてを捨てて行かねばならないのに、私はそれを知らぬゆえ、親しき者〔を守るため〕にも親しくなき者〔を損なうため〕にも罪をさまざまに犯したが、親しくなき者も死に、親しき者も死ぬ。

さらに私自身も死ぬ。このようにすべては死ぬのである。夢に体験したごとく、いかなる事をなしたとて、それぞれを記憶することは単なる記憶の対象だ。過去の対象すべては目の前にはない。あるとき、命あるこのときにも、親しき者も親しくなき者も多くが死んでいく。〔そして、〕彼らのために犯した罪は耐えようもなく〔恐ろしいものであり〕、今私の前にある。

このように、突然〔訪れる死〕というものを、私は理解できずに、無知と執着と怒りによって、さまざまな種類の罪を犯した。昼も夜も止まれずに、今生(こんじょう)は常に少なくなり、〔寿命を〕加えることもできぬのに、私のごとき者がどうして死なないであろうか。

私は、死の床にあるとき、親戚や友人が囲んでいても、命が尽きたと感じたときは自分一人で〔苦
を〕経験する。閻魔の使いに捉えられたとき(=死が訪れたときに)親戚が何の役に立つのか。友人が何の役に立つのか。そのとき福徳にのみ助けられるのにそれすら私はなさなかった。
菩提行論2.33 ~ 41(仏教)


―み言選集―

この道は、友達もいないのです。愛する父母もいない道であり、愛する兄弟もいない道であり、愛する夫婦、愛する子女もいない道です。ただ一人で行くべき道です。

再び行ってみることもできず、行って帰ってくることもできず、一度行けば永遠に帰ってくることができない道です。このような道を行くようになるとき、皆さんはどのような心をもって行くのでしょうか。皆さんが死に逢着するその瞬間に、その死を乗り越えることができる希望がなければ、そこで終わりです。

今日まで神様のみ旨を信奉して、神様のみ旨を立ててきた数多くの人々はどのような人々だったのかといえば、死の道の前で後退した者たちではなく、死をあざ笑い、死を堂々と越えた人々でした。そのような人々が天の道を立ててきたという事実を、私達は歴史を通じてよく知っています。

皆さんは、各自が死に逢着したとしても、これを越えることができる希望を抱かなければなりません。そして、この道を越えていけば、私は天の前に堂々と立つようになるはずだという希望と、心で憧憬した世界、その本郷に向かって喜んで走ることができなければなりません。神様の理想世界を願う心が切実であってこそ死に勝つことができる存在になる、ということを皆さんは悟らなければなりません。
(6-53、1959.3.22)

霊界をよく知らなければならないというのは、霊界の実存だけを漠然と信じて生きなさいという意味ではなく、好きでも嫌いでも、永遠に生きなければならない霊界における生涯のために、私達が地上界でどのような準備をしなければならないかを知って、徹底的に準備をするということです。

腹中で問題がある子供は、生まれても、間違えば生涯を病の身で生きなければならないように、私達が短い地上界での生涯の中で、天のみ旨を正しく知らずに罪を犯したり、悪を行えば、結局因果応報の宇宙法則により、霊界に行ってその代価を払うようになるのです。霊界に入っていった霊人体が、言い表せない苦痛と蕩減を払わなければならないという意味です。(注13)

一度肉身を脱げばもう遅いのです。肉身は、死ねば一握りの土に戻ってしまいますが、私達の生命、私達の心、私達の心情、そして私達の希望までも埋められてしまうのでしょうか。絶対にそうではありません。

私達の100年の一生は、神様が設置しておいた「霊人体」というスーパーコンピューターに、間違いなく記録され、撮影されて、自動的に評価されるのです。それで、誰でも地上界で生を営む間、行く歩みを捕らえ、動く心と傾く心情を鼓舞して、「あなたはどこへ行くのか」と数えきれないほど自問自答してみるのです。
(447-159 ~ 160、2004.5.1)


4.希望の世界

この世界とあの世界の間に夢の世界がある。すべての夢が霊的なものではないが、その中の幾つかは明らかに霊的であり、霊的な夢は、とても生々しく、長く記憶に残る。そのような霊的な夢を見る間に、霊魂はしばらく肉身を離れて霊界に上がっていき、そこで様々な現象を経験する。

これらの中であるものは神様と関連し、重要なメッセージが伝達される。そのほかの夢もあるが、低級な霊魂、または悪霊たちと遭遇する夢や、悪夢に苦しんだり、性的な夢がここに属する。

この節では、夢を見る霊的な過程を説明し、どのような夢が神様からの啓示なのかを区別する方法に関する教えである。キリスト教の聖書で、神様がヤコブとヨセフにしたことのように、神様は夢を通して人生の転換をもたらす情報と指針を啓示することができる、したがって、意味深長な夢に対して注意を傾けることは、宗教的な生活において重要な訓練の中の一つである。
―宗教経典―

ヤコブはベエル・シェバを立ってハランヘ向かった。とある場所に来たとき、日が沈んだので、そこで一夜を過ごすことにした。ヤコブぱその場所にあった石を一つ取って枕として、その場所に横たわった。

すると、彼は夢を見た。先端が天まで達する階段が地に向かって伸びており、しかも、神の御使いたちがそれを上ったり下ったりしていた。見よ、主が傍らに立って言われた。

「私は、あなたの父祖アブラハムの神、イサクの神、主である。あなたが今横たわっているこの土地を、あなたとあなたの子孫に与える。あなたの子孫は大地の砂粒のように多くなり、西へ、東へ、北へ、南へと広がっていくであろう。地上の氏族はすべて、あなたとあなたの子孫によって祝福に入る。見よ、私はあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、私はあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る。私は、あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない。」
ヤゴブは眠りから覚めて言った。「まことに主がこの場所におられるのに、私は知らなかった。」
創世記28.10 ~ 16(キリスト教)

人が寝床に入れば、霊魂は彼を離れて上に上がり始める。そして、肉身には心臓の音を包む器程度の痕跡だけを残しておく。残りはだんだんと上に上がっていこうとする。上がっていく間に、明るいが不透明な何かの実体にぶつかる。

純粋で昼の間に汚されていない霊魂は、それを飛び越えて上がっていく。そのようにできない霊魂は、その実体の間に入っていき、垢がついて同化し、それ以上に上がることができない。その中でその実体は近い未来に起きることを見ぜてくれる。ときには偽りを見せることもある。これは目覚めるときまで夜通し続く。

神が夢の中に現れ、御自身の秘密を見せてくれる義人たちは幸福な人である。そうして罪を犯すことができなくなる! 自分の肉身と霊魂を汚すかわいそうな罪人たちよ! 昼の間に汚されなかった人は、夜に眠るとき霊魂が昇天し始める。そして、同じ段階に入っていく。

しかし、彼らはその不確実な実体に同化されず、さらに上に上がっていく。したがって、この選ばれた霊魂たちはついに天の王宮の門の前に到達し、王の美しさを見て、彼の聖地に入っていくことを熱望する。……イザヤ書26 章9節に、「私の魂は夜あなたを捜し」と記されているのと同じである。誤った力に誘惑されず、主に従うということだ。
ゾハール1.83b (ユダヤ教)

神は人間が死ぬとき、その魂を召したもう、また死なぬ者は、睡眠の間それを召したもう。かれが死の宣告をされた者の魂は引きとめ、その他のものは定められた時刻に送り返したもう。まことにこの中には、反省する人びとへの種々のしるしがある。
クルアーン39.42 (イスラーム)
睡眠(うまい)もて肉身(むくろ)を抑制し、己れ寝ずして眠れる者(感官)等を照らし、白光を携えて還(ま)たもその旧里へと帰るなり、黄金の神人、弧高の鵠(ハンサ)なる彼は。巣の底は生気に守らせ、巣の外へと出で去りて心のままに翔(かけ)りゆく、不死なる彼は、黄金の神人、弧高の鵠なる彼は。

夢寝(むび)の裡(うち)にて上を下へと翔(かけ)りつつ、神なる彼は種々(くさぐさ)の相をあらはし、あるは数多(あまた)の妻妾と燕楽、嬉笑するが如く、あるは種々の危険に遭うに似たり。

彼の苑囿は世の人の見る所なれど、彼を見し人は一人もなし。「……ある一派は『夢中の神人にも覚醒時と同一の場所があるだけだ。すべて覚醒時に見ているものを夢の中でも見るのだ』と申します。ただし、夢の中では神人自らが光明となっておるのであります」……

喩えばレ車が重い荷物を載せて軋(きし)りながら進んでゆくように、人間が最後の息をひきとる時には肉体的自我が叡智的自我を載せて軋りながら進みつつあるのであります。
ブリハッド・アーラニヤカ・ウパニシャッド4.3.11 ~ 14、35(ヒンドゥー教)

いつか荘周は、夢のなかで胡蝶になっていた。そのとき私は喜々として胡蝶そのものであった。ただ楽しいばかりで、心ゆくままに飛び回っていた。そして自分が荘周であることに気がつかなかった。ところが、突然目がさめてみると、まぎれもなく荘周そのものであった。いったい荘周が胡蝶の夢を見ていたのか、私にはわからない。

けれども、荘周と胡蝶とでは、確かに区別があるはずである。それにもかかわらず、その区別がつかないのは、なぜだろうか。ほかでもない、これが物の変化というものだからである。
荘子2(道教)


あなたたちの間に預言者がいれば、主なる私は幻によって自らを示し、夢によって彼に語る。
民数記12.6 (キリスト教)

神の使徒が言った。「信仰をもった者の幻視は預言の46 番目の部分であり、預言に属していることは間違いない」。彼は、幻視には三つの類型があると考えた。内部から出てくる思い、悪に起因する恐ろしい夢、神から来る良い知らせがそれである。それゆえ、自分が嫌う何かを見るならば、それを誰かに言わず、立ち上がって祈らなければならない。
ブハーリーおよびムスリム・ハディース(イスラーム)

幻視は解釈されない限り、人間をどきどきさせる。しかし、解釈すればそれは落ち着く。ひとえに、それは愛する者や判断できる者にだけ語れ。
アブー・ダーウード・ハディース(イスラーム)


ファラオはヨセフに言った。「私は夢を見たのだが、それを解き明かす者がいない。聞くところによれば、お前は夢の話を聞いて、解き明かすことができるそうだが。」ヨセフはファラオに答えた。「私ではありません。神がファラオの幸いについて告げられるのです。」

ファラオはヨセフに話した。「夢の中で、私がナイル川の岸に立っていると、突然、よく肥えて、つややかな七頭の雌牛が川から上がって来て、葦辺で草を食べ始めた。すると、その後から、今度は貧弱で、しとても醜い、やせた七頭の雌牛が上がって来た。あれほどひどいのは、エジプトでは見たことがない。そして、そのやせた、醜い雌牛が、初めのよく肥えた七頭の雌牛を食い尽くしてしまった。ところが、確かに腹の中に入れたのに、腹の中に入れたことがまるで分からないほど、最初と同じように醜いままなのだ。私は、そこで目が覚めた。


それからまた、夢の中で私は見たのだが、今度は、とてもよく実の人った七つの穂が一本の茎から出てきた。すると、その後から、やせ細り、実が入っておらず、東風で干からびた七つの穂が生えてきた。そして、実の入っていないその穂が、よく実った七つの穂をのみ込んでしまった。私は魔術師たちに話したが、その意味を告げうる者は一人もいなかった。」

ヨセフはファラオに言った。「ファラオの夢は、どちらも同じ意味でございます。神がこれからなさろうとしていることを、ファラオにお告げになったのです。七頭のよく育った雌牛は七年のこ、とです。七つのよく実った穂も七年のことです。どちらの夢も同じ意味でございます。その後から上がって来た七頭のやせた、醜い雌牛も七年のことです。

また、やせて、東風で干からびた七つの穂も同じで、これらは七年の飢饉のことです。これは、先程ファラオに申し上げましたように、神がこれからなさろうとしていることを、ファラオにお示しになったのです。今から七年間、エジプトの国全体に大豊作が訪れます。しかし、その後に七年間、飢饉が続き、エジプトの国に豊作があったことなど、すっかり忘れられてしまうでしょう。飢饉が国を滅ぼしてしまうのです。この国に豊作があったことは、その後に続く飢饉のために全く忘れられてしまうでしょう。飢饉はそれほどひどいのです。ファラオが夢を二度も重ねて見られたのは、神がこのことを既に決定しておられ、神が間もなく実行されようとしておられるからです。
創世記41.15 ~ 32(キリスト教)

 

―み言選集―

霊界から教えてくれるときは、夢の中で教えてくれます。ですから、夢が問題です。そして、夢うつつの中で、啓示の中で、黙示で、そして霊界に入っていってすべて教えてくれます。それで、皆さんの夢の中で的中する夢があるのです。

なぜそうでなければならないのですか。私達人間は堕落することによってサタンの血統を受けました。ですから、動くときはこの悪の血が動くのです。

それは、ガラス管に入れておいた泥水と同じです。眠れば肉身が休むので、重たいものは沈み、きれいな水が浮かぶのと同じようになるのです。本来のきれいな心は、天と関係を結ぶことができるので、ここに象徴的、形象的に今後進む道を夢の中で天が教えてくれるのです。

皆さんは、その夢がつまらない夢なのか、サタンが教えているのか、神様が教えてくれているのか分かりません。それでは、これをどのように知るのですか。サタンが教えるものは、夢の方向性がありません。流れていくのです。すぐに忘れてしまいます。しかし天が教えてくれるものは、体系が備わっています。、そして、前の夢と次の夢が関連性をもっているのです。3回の夢の中で関連性があるときは、天の啓示であることを知らなければなりません。

そして、これは忘れません。それはなぜ忘れないのかというと、本来、天と人間は永遠に一つになるようになっているからです。永遠に一つになるようになっているので、一つになっているものは忘れられません。サタンとの関係はすぐに忘れてしまいます。

このように、霊界の指導を受ける人たちは、すべてそのような事実がたくさん残っているので、悪の所に行こうにも行けません。サタン世界に行っても、それが現れ、それを考えるのです。


今日、心理学者のような人たちが夢に関して、「潜在意識の再現である」と言っています。そのようなものはすぐに忘れてしまいます。しかし、考えていないのに、忘れない夢は霊的な現象です。
(91-272 ~ 275. 1977.2.27)

体恤をするためには、必ず祈祷しなければならず、精誠を尽くさなければなりません。そこで現れる啓示や夢のお告げを、絶対に無視しないでください。

それを調整して現実的生活圏内に、実践舞台にどのように適用させるのかということが、信仰生活で最も重要なことなのです。
(76-153、1975.2.2)

暗示という言葉があります。それはどういう意味ですか。自分が何気なく道を歩いていると、ある家の壁に止まっていた鳥が飛んでいくのを見たとき、鳥は飛んでいきましたが、さっと鳥が飛んでいくそのことを通して、ひそかに何かを教えてくる、ということが起きるようになるのです。この段階を過ぎるようになると、夢のお告げのようなことを体験するようになります。夢の中で起きることなのですが、夢でも深い眠りの中の夢ではありません。

パウロも夢うつつの中で第3の天を体験しました。そのようなことを、何気なしに流して過ごすなというのです。それを総合して、どんな方向の因縁を自分につなぐために現れるのかということを、科学的な面で分析しなさいというのです。

必ずその結果が現れます。ですから、皆さんが忘れることができない夢のお告げのようなものは、100 パーセント的中するようになります。そのような体験があるでしょう。

その段階が高くなれば、どのようなことが起ごるでしょうか。啓示とか指示とか、このようなことが起こります。啓示というものを、私達は分析しなければなりません。指示というものは、直接教えてくれるものですが、啓示は違います。ですから、問題が起こるのです。これは、必ず解釈をしなければなりません。何かを教えてくれるには、声で聞かせてくれたりもしますが、幻想でも見せてくれます。

良い春の日を迎えて、鹿が一対、小川のほとりで水を飲みながら、遠い山を眺める、このような幻想は、限りなく幸福な希望を象徴するのです。そのように、いろいろな現象が繰り広げられるのです。そのようなことは、偶然の事実ではありません。自分の心の畑を啓発するための、天の役事です。

啓示の段階を過ぎるようになれば、次は黙示の段階です。(注14)一日中霊界に入って体験をするとか、そういうものです。そのような世界にまでつながるのです。神様に対する、生活的な感情圏にまで到達できます。

皆さんがこのような体恤信仰をしなければ、偉大な天のみ旨の結果世界を、私達の生活の場、生活舞台に適用させることはできません。ですから、体験をもたない信仰者は、信じることができません。体恤信仰は高貴なので、啓発していかなければなりません。

皆さんがそのような体恤段階に入れば、皆さんの心が皆さんに命令するのです。誰かにこのように話をしようとするのに、言葉が話せないようにするのです。あるいは、自分が良い言葉でその人のために言わなければならないのに、しかる言葉ばかりが出てくるのです。このような現象が起こるのです。

このように理解できない現象が時々起こるために、これを調整するすべを知らなければなりません。過ったなら、狂人として扱われやすいために、それを調整するすべを知らなければなりません。
(76-130 ~ 135、1975.2.2)


5.あの世界への通路

死の瞬間に来世に行く通路は、全く透視できない神秘に包まれている。臨床的な死から生き返った人たちの擬死体験に関する書籍は、何らかの糸口を与えてくれるだろう。彼らは、何かのトンネルを通ってほかの世界に行くこと、光の存在に会うこと、温かさを感じること、愛を受けることなどを語っている。

この人たちは、文字どおりの意味で死んだのではないが、それにもかかわらず、死に至る道の最初の段階を体験したのである。その通路がどのように終わるのか、誰が分かるだろうか。

ある程度はっきりと知られていることは、死後にも何かが存続するということである。事実、ある死んだ人たちは、最初に自分が死んだことを悟れない。彼らは、継続して自ら意識をもち、自覚する力をもっている存在であることを経験するからである。

肉体的な死は、より高次的な存在の段階に移っていくことにすぎない。ちょうどさなぎから殻を脱いで蝶になるように、それは新しい体を着ることである。

平安な子宮の世界を旅立たなければならない胎児の出生に例え、文鮮明先生はそれを2番目の出生と呼ぶ。出生の前まで子宮が胎児を養育するが、子宮が破壊され、胎児が地上の人生のためにそこを旅立つように、死の前まで肉身は霊魂を養育するが、肉身の寿命が尽きるとき、霊界で生まれるために地上界を旅立つ。したがって、人生の三段階、すなわち子宮の水中世界、地上存在の空気世界、愛の大気を呼吸する霊界がある。

したがって、死は何か恐れるべきものではない。反対にそれは霊魂の誕生として記念されなければならない。核心問題は、果たして私達がその世界で平安に存在できるにふさわしい霊的品性をもった霊魂を準備したのかという点である。そこで重要なことは、ただ私達の愛する能力だけである。
①第2の誕生

―宗教経典―

この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを必ず着ることになります。この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを着るとき、次のように書かれている言葉が実現するのです。「死は勝利にのみ込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか。」
コリントの信徒への手紙一15.53 ~ 57(キリスト教)

自分の霊魂こそ真の自我であることを知る者は、死を自分の霊魂の肉体的な生まれ変わりと考える。ちょうど古い服を新しい服に着替えるように考える。
プージャパーダ・サルヴァールタシッディ77(ジャイナ教)

かれらはこの人生を、顔にくっついたいぼやたれこぶのように無用の邪魔ものと思っており、死を、吹き出ものやはれものがつぶれたぐらいにしか思っていない。
荘子6(道教)

なんじらは、なんじらの射出するものについて考えたか。それをつくったのはなんじらか、それともわれがその創造者であるか。われは、なんじらの間のある者に死を命じた。われは、なんじらのような他の者で取り替え、またはなんじらが知らぬ他のものに、なんじらをつくり変える。われは、とんざさせられぬ。なんじらは、確かに最初の創造を知っている、それでもなぜ留意しないか。
クルアーン56.58 ~ 62 (イスラーム)

生が姶まりではなく、死が終りではない。その実があって、それがどこに処るということにないのは宇(空間)である。長があって本末のないのは宙(時間)である。生があり、死があり、出があり入がある。出入しながら、その形を見ないのを天門という。荘子23(道教)
この世界が母親の子宮にいる子供の世界と異なる様に、彼方の世界はこの世界と異なるのである。神の面前に達するとき、魂はその不滅性に最も適った、そして天界の住居にふさわしい姿を装う。
ハバオラ落穂集81 (バハイ教)

白銀の糸は断たれ、黄金の鉢は砕ける。泉のほとりに壷は割れ、井戸車は砕けて落ちる。塵はこの大地に帰り、霊は与え主である神に帰る。
コヘレトの言葉12.6 ~ 7(キリスト教)

そこでかれ(その人、あるいはプルシャ)は、この完全な安静の状態(熟睡の状態)の中で楽しみ、歩きまわり、善と悪とを見ると、すぐに逆のすじみちを通って、もとの場所にむかって、その同じめざめた状態に走りもどるのである。
……
かれ(人)が衰弱の〔状態〕にいたる場合、〔かれは〕老齢、あるいは病気によって衰弱の〔状態〕にいたるのである。ちょうどマンゴーの実、あるいはウドゥンバラ(優曇華うどんげ)の実、あるいはピッパラ(イチジクに似た植物)の実がへたから取れてしまうように、身体に属するアートマンはこれらの肢体から離れて、逆のすじみちを通って、もとの場所にむかって、その同じ気息に走りもどるのである。

すなわち、ちょうどたくさんの荷物を積んだ車がきしりながら行くように、この身体に属するアートマンは、叡智に属するアートマンが上にのると、きしりながら行くのである。

この身体に属するアートマンが無力状態におちいり、あたかも意識不明におちいると、これらの気息(生体を維持する諸機能)はその人(そのように知っている人、すなわち、アートマンのことか?)のもとに集まってくる。かれは輝く活力の〔微細な〕要素をとりまとめてほかならぬ心臓に降りていく。

この視覚機能に属する人間(あるいはプルシャ)が反対の方向に向いてしまうと、〔人は〕形を識別しない者となる。〔視覚機能に属する人間またはプルシャはアートマンと〕一体となり、〔人びとは〕「かれは見えない」という。〔嗅覚機能に属する人間またはプルシャはアートマンと〕一体となり、〔人びとは〕「かれはにおいを感じない」という。〔味覚機能に属する人間またはプルシャはアートマンと〕一体となり、〔人びとは〕「かれは味を感じない」という。〔発声機能に属する人間またはプルシャはアートマンと〕一体となり、〔人びとは〕「かれはことばを話さない」という。〔聴覚機能に属する人間あるいはプルシ
ャはアートマンと〕一体となり、〔人びとは〕「かれは音を感じない」という。〔思考作用に属する人間あるいはプルシャアートマンと〕一体となり、〔人びとは〕「かれは考えない」という。〔触覚機能に属する人間あるいはプルシャはアートマンと〕一体となり、〔人びとは〕「かれは触れても感じない」という。〔認識作用に属する人間あるいはプルシャはアートマンと〕一体となり、〔人びとは〕「かれは認識しない」という。

かれのこの心臓の先端は輝く。その輝きによってこのア一トマンは眼から、あるいは頭から、あるいはそのほかの身体の部分から出てゆくのである。出てゆくそれ(アー卜マン)のあとから気息が出てゆく。出てゆく気息のあとからすべての気息(この場合は生体を維持する機能か?)が出てゆく。〔そして〕ほかならぬ意識あるものヘ降りてゆく。かれは知をもち、知識をもつものとなる。知と行為とは〔かれを〕うしろからつかまえているのである。

そして前生に関する記憶も〔うしろからつかまえているのである〕すなわち、ちょうどイモムシが草の葉先にいき、自分自身を縮めて〔他の葉に移ろうとする〕ように、この人間(あるいはプルシャ)は、この世の肉体を捨てて、〔肉体を〕無知の状態におもむかせ、自分自身を縮めて〔他の生存の状態に移るのである〕

すなわち、ちょうど刺繍をする女性が刺繍の部分をはずし取って、ほかのいっそう新しい、いっそう美しい形を仕上げるように、この人間(あるいはプルシャ)は、この世の肉体を捨てて、〔肉体を〕無知の状態におもむかせ、ほかの、いっそう新しい祖霊の姿、あるいはガンダルヴァの〔姿〕、あるいはブラフマンの〔姿〕、あるいはプラジャーパティの〔姿〕、あるいは神の〔姿〕、あ
るいはほかの存在(生物以外)の人間の〔姿〕を仕上げるのである。
ブリハッド・アーラニヤカ・ウパニシャッド4.3.34 ~ 4.4.4(ヒンドゥー教)


―み言選集―

自分も神様に似ようとし、そして自分が神様の息子、娘であるなら、神様も似させたいという観念をもつのは必然的です。ですから、自分は神様に似たいと思い、神様は自分を連れていきたいと思うのです。これを可能にし得る道を模索するでしょう。

それで人は、再び神様と似ることのできる体をまとって生まれなければなりません。そのように生まれる日を神様も待ち望むのであり、人間も待ち望むでしょう。そのような人として生まれる日が必要です。それが何ですか。死です。

では人間は、死を歓迎すべきでしょうか、歓迎してはいけませんか。歓迎すべきです。死ぬのに、何のために死ぬのかというときに、「神様の真の愛のために死ぬ」と言うべきです。ですから肉身を脱ぐのは、無限の神様の愛の活動圏に自分が同参するためであり、神権の愛の世界のためにそうするのです。
神様の愛の中に生まれることが死ぬことなのですが、人間世界では「ああ、死ぬ」と大騒ぎします。制限された愛の圏内から無制限の愛の圏内へ突入できる喜びを迎える瞬間が、死ぬ瞬間です。したがって、死ぬ瞬間は第2の出生の瞬間です。

そうだとすれば神様が皆さんの肉身が生まれた日を喜ぶでしょうか、第2の無限の拡大世界の愛のために活動する息子として生まれる、その時間を喜ぶでしょうか。なぜこのような話をするのでしょうか。皆さんが死の恐怖から解脱しなければ神様と関係を結ぶことができないからです。
(116-172、1982.1.1)

人は、蘇生、長成、完成時代を通過します。すなわち、腹中での水中時代、地球星の世界、天上の空中世界で生きるのです。言い換えれば、腹中時代を経て地上に生まれ、肉身をもって100 年ほど地の時代を経るようになり、最終的には飛んでいく空中時代、このように3時代を通過するようになるのです。
(297-257、1998.12.19)
腹中でへその緒で息をするのと同様に、空気のパイプである鼻の穴を準備して、出てくるときに取り替えて息をするのです。そして、今この世界ですべきこととは何でしょうか。生まれてからすべきことは、愛というものを体恤することです。

愛という空気を吸わなければなりません。お母さんから、お父さんから、愛の空気を吸わなければなりません。愛の空気を供給され、経ていかなければなりません。ある家庭の赤ん坊として生まれて、サインカーブのように、上がれば下がっていくのです。赤ん坊として生まれて成長して、年を取って死ねば分解されていくのです。赤ん坊として生まれて、赤ん坊に帰るのです。

そのようになるときは、どのようになるのでしょうか。第2の腹中世界をけってしまい、第3の愛の呼吸器官につながらなければなりません。父母の愛、兄弟の愛をけってしまい、大宇宙の神様の本体に和した愛の世界に入ります。


霊界は愛の空気です。愛の空気でいっぱいに満ちています。ですから、皆さんは、今この地上世界で愛の呼吸ができるパイプ装置をつけなければなりません。。それで霊界の体験が必要なのであり、霊的愛を感じてそれを呼吸することができる人になってこそ、死なないというのです。
(139-213 ~ 214. 1986.1.31)

皆さんが生まれる時、母親の腹中から出る時、どんなに大変だったかを覚えていますか。神様はなぜ子供を生む時、このように生むようにされたのでしょうか。ただ簡単に話をするように簡単に、おいしい食べ物を食べるように簡単に、香水の香りが漂うように簡単に、ただうれしくて口を開け「ははは」と子供を生めるようにすればどんなに良いでしょうか。なぜそのように生ませずに、汗を流して死ぬか生きるかという限界で生むようにしたのでしょうか。光り輝く愛を見るためにです。

皆さんが生まれるとき、どれほど大変だったでしょうか。生命の包みが胎ですが、そこにつながった綱をすべて破綻させ、蹴飛ばしてほうり投げ、断ち切って出てくるとき、どのようなものか考えてみてください。そのとき、「私は死ぬ。私は死ぬ。私はすっかり破壊されるのだなあ。私は死んだ」と思うのですが、それは不幸ではなく幸福です。不幸の境界線ではなく、幸福の出発だっ
たということが、生まれてみて分かります。

しかし、胎児が死ぬと思えば、おなかの中で永遠に生きようとするのと同じように、人々の中には、今の地上に永遠にいることができればよいと思うのです。死ぬまいと思うのです。これを片付けてもう一度揺れ動き、「ああ、私は死ぬ!」と思っていると、さっと飛び出してくるのです。

その次には、霊界、無限の世界に生まれます。時間的、空間的次元の世界を脱出してしまいます。無限の神様の力によって、私は端から端まで一瞬のうちに往来します。太陽の光よりも速く、何よりも速いのです。
(107-42 ~ 44、1980.1.20)

おへそについているへその緒は、そのままにしておかなければなりませんか。切ってしまわなければなりません。地球上で空気を呼吸して生きる肉身についている私達の霊人体は、お母さんの腹中の胎児のように、肉身を使って食べ、肉身が老いてしまえば、それを捨てて外に出ようとするのです。

赤ちゃんが成長して、お父さん、お母さんの愛の対象になるように、私達は肉身の悲鳴をあとにして新たに生まれ、霊的父である永遠の神様の相対として再び生まれなければならないというのが、原理原則です。

地上世界でも子供が生まれたのちに大きくなれば、お母さん、お父さんの友達になり得るのです。お母さんとお父さんの愛を共に分かち合うことのできる地上世界に生まれるからです。同じように私達は、霊的無限の世界に通じることができる親の代わりに、神様と愛を分かち合うことのできる霊界へ再び生まれなければならないのです。
(297-258 ~ 259、1998.12.19)
霊界は、どんな所でしょうか。私達が霊界に入れば、頭の上にある気孔と細胞で呼吸するようになります。(注15)霊界での空気は、地上の空気ではなく愛です。呼吸を通じて愛の要素を受けるのです。

私達が地上で生きるときも、御飯だけ食べてはいけません。御飯だけ食べて、水だけ飲んで生きるというのは、御飯袋と水袋を満たすだけのことです。結局、そうして死んでいくということです。

地上で生きる間の私達の姿は、第2の私達の存在です。私達がこの期間にすべきことは、新しい愛の人格を形成することです。この地上で私達が最も必要とするものは愛です。孤児とは何でしょうか。お母さん、お父さんの愛を受けられない子供たちをどうして孤児と呼びますか。霊界と永遠に連結させることのできる愛がないからです。愛がなければ孤独なのです。

それで独身で生きる人をかわいそうだというのです。もう一度お話ししますが、私達が死ぬということは、第2の呼吸をしていた肉体に連結されたこの器官を壊してしまって、愛の要素を受け継ぐことです。ですから私達は、いずれにせよ肉身を破って出ていかなければなりません。愛は見えないものです。父母の愛、夫婦の愛、兄弟の愛、子女の愛、このすべての愛を中心として私達
の内的な構造が成長するのです。

それで私達が神様の法則のとおりに生きるときにのみ、赤ちゃんがお母さんの腹中で正常に育つのと同じように、私達がこの地でもよく成長できるのです。ですから、むやみに生きてはならないのです。
(297-260、1998.12.19)

とんぼも同じです。初めは幼虫になって水の中で泳いで暮らし、地上に上がってきて、しばしはい回り、その次は殻を脱いでぱたぱた飛び回り、陸地では食べるようになるとは想像もしなかった虫を捕まえて食べます。天下を自分の舞台にして飛び回るのです。

昆虫類の中には、三段階の世界を経るものが多いのです。それで昆虫には羽があります。水と陸地と空中の三時代を過ごしながら羽をもつようになります。万物の霊長という私達人間に羽がありますか。人間には次元の高い翼があるのです。死は第2の出生の恵みの関門です。
(297-261 ~ 262、1998.12.19)

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世界経典-15

2020年10月06日 19時38分53秒 | 学習


④優れた衛生

―宗教経典―

何であっても、運動に代わり得るものはない……人間が従う邪悪な支配による害も、運動が追放してくれるだろう。しかし、動くことがすべて運動ではない。運動とは、強力であったり、早いもの、またはこの二つの結合である。息遣いを変化させ、これを早くする躍動的な動きである。
マイモニデスミシュネ・トーラ(ユダヤ教)

自分の母親の乳で養育される子供たちは、最も適切で自然そのままの食物を楽しむ。
クラウディウス・ガレノス

たくさん食べて生じた病は、食べなければ治り、食べられないことで生じた病は、食べれば治る。働き過ぎて生じた病は、休めば治り、怠けて生じた病は、働けば治る。医者は病の類型によって、それが生じた反対の原理で病を治すようにしなければならない。ヒポクラテス

―み言選集―

皆さん、朝、運動しますか。「なぜ運動するのか。そうでなくてもつらいのだから、楽に休めばよいではないか」と思うかもしれませんが、健康のために投入しない人は、だんだんと病気になって退化します。自然の道理がそうです。(380-164、2002.6.7)

私のような人は運動をしました。今も、体のコンディションが良くなければ、ほぐすすべを知っています。たまに腰が痛くなれば、このようにしてほぐすのです。マッサージです。

針を打つのと同じです。このようにさっと見れば、分かります。すぐに分かるのです。訓練ができているので、どこかに支障があれば、必ずそれをほぐします。自分の体の管理をするのです。

私は健康でしょう? 今も、このようにすればぴたっと入ります。70 歳になった老人は、普通このように歩くでしょう? しかし、私はぴったりくっつくでしょう? それは、運動をしたからです。自分の体を管理しなければなりません。(203-177、1990.6.24)

神様を愛する前に、皆さんが食べる食物を愛さなければなりません。万物を愛し、体を愛さなければならないのです。万物を愛することによって万物の要素を吸収し、自分の体を愛するようになるのです。(138-99、1986.1.19)

天のお父様のみ手を経てつくられた純粋なこの草一株を、何よりも価値あるものとして感じられる世界になることを、私は願っています。どのような香りよりも、空気の味がもっと良いのです。私が牧場に行っても話しましたが、人が空気の味を知り、日光の味を知り、水の味を知れば、病気になることはありません。このような心情で暮らせば、誰もが健康体になるのです。
(9-177 ~ 178、1960.5.8)


健康であることを望むのなら、「ために生きる」愛を中心として、投入して忘れなさいというのです。そのように生きる人は、病もなくこの地上で、幸福で、楽しく暮らすのです。(331-23、2000.8.23)


第5章 死以降の人生と霊界

1.霊界

霊界とは何か。それは、肉身の目では見ることができず、簡単に認知することはできないが、人間存在の明白な一部であり、いつかはすべての人が行かなければならない所である。文鮮明先生は、霊界について知ることは神様について知ることの次に重要だと教える。

霊界に対する三つの主題がここから提示される。第1に、霊界を知ることは地上生活において正しい方向を発見し、維持するための核心になる。第2に、霊界は相似の関係として地上世界と相応し、地上生活においてはぐくむ生の質と愛を維持する。霊界での調和、または不調和は、地上の生において、あらゆる性向と偏見の中の生を営んできた人々(霊界の市民たち)の愛、または愛の欠如に起因する。第3に、霊界は、多様な社会と領域によって構成されており、今日では、一つの全体的な天国に統一される過程にある。

①霊界と肉界の一致

―宗教経典―

私は、キリストに結ばれていた一人の人を知っていますが、その人は十四年前、第三の天にまで引き上げられたのです。体のままか、体を離れてかは知りません。神がご存じです。私はそのような人を知っています。彼は楽園にまで引き上げられ、人が口にするのを許されない、言い表しえない言葉を耳にしたのです。
コリントの信徒への手紙二12.2 ~ 4(キリスト教)

幽玄界を知るものは、天地の間で神のほかにはないのである。またかれらは、いつよみがえらされるかも感知できぬ。いや、かれらの知識は来世に及び得ない。いや、それに疑いを抱いている、いや、それについてかれらは盲目である。
クルアーン27.65 ~ 66(イスラーム)


ここ〔現象界〕にあるものは、そこ〔ブラフマン〕にもある。そこにあるものは、それに対応して、ここにもある。
カタ・ウパニシャッド2.1.10 (ヒンドゥー教)

広い天空の上に在り、自ら強大な光輝を放ち、意の強き汝は、われらを助けるため、汝の栄光の模型である地を創られ、天に至るまで水と光を包まれた。
リグ、ヴェーダ1.52.12 (ヒンドゥー教)

今述べていることの要点は、私達にはこのような大祭司が与えられていて、天におられる大いなる方の玉座の右の座に着き、人間ではなぐ主がお建てになった聖所また真の幕屋で、仕えておられるということです。

すべて大祭司は、供え物といけにえとを献げるために、任命されています。それで、この方も、何か献げる物を持っておられなければなりません。もし、地上におられるのだとすれば、律法に従って供え物を献げる祭司たちが現にいる以上、この方は決して祭司ではありえなかったでしょう。この祭司たちは、天にあるものの写しであり影であるものに仕えており、そのことは、モーセが幕屋を建てようとしたときにお告げを受けたとおりです。神は、「見よ、山で示された型どおりに、すべてのものを作れ」と言われたのです。(注1)
ヘブライ人への手紙8.1 ~ 5(キリスト教)

易は天地になぞらえて作られた。だからこそ天地の道を弥綸(つくろいおさめる、洩れなく包みこむ)するのである。聖人は易をよりどころとして、上を仰いでは天文を観察し、下をうつむいては地理を観察するが故に、幽遠な道理も著名な現象もあわせて知り得る。

また、易を拠りどころとして、事物の本源を原ね極め、終極にまでたち返って死するゆえんを知るが故に、生死の問題についての説明を知り得る。また、陰陽の精気は結合して事物を形成し、その精気が分散して生ずる遊魂はくさぐさの変化となる。だからこそ易に拠って陰陽の理を窮めれば、鬼神の情状をも知り得るのである。
易の道は天地の道と相似するが故に、これと一致して違うことがない。易を拠りどころとする聖人はその知力が万物にあまねく行きわたりその道が天下を済うに足るが故に、過ちを犯すことはなく、ひろく自由に行動するが放逸に流れず、天道を楽しみ天命を知るが故に心に憂いを抱くこともなく、その居処に安んじ仁徳に厚いが故に、よく人を愛することができる。

易は天地造化の妙用を一定の型と囲いにおさめて度をすごさせず、万物を曲に完成して余すところがなく、昼夜の道すなわち陰陽・幽明・死生・鬼神の道に通して知りわきまえる。なればこそ陰陽の神妙なはたらきは、一方一処にとどこおることなくして円通し、そのはたらきを内に蔵する易の変化にも一定の型体とてはないのである。
易経、周易繋辞上伝1.4.1 ~ 4、(儒教)

つまりかれらは、知恵があると思っている人が、しらべられて、そうでないことになるのを、聞いているのが、おもしろいからなのです。たしかにおもしろくないことはないのですからね。しかし、私にとっては、それは、私の申し分どおり、神によって、なせと命じられたことなのです。それは神託によっても伝えられたし、夢知らせによっても伝えられたのです。
プラトンソクラテスの弁明29(ヘレニズム)


―み言選集―

人の命は、地上における肉身の死によってすべてが終わるのではありません。天上世界、すなわち霊界では、聖人賢哲たちはもちろん、私達の先祖が、肉身とは異なる人格体である霊人体として生きています。神様が創造された根源の世界、すなわち無限の永遠な世界と比較するとき、私達の肉身が生きているこの自然界は、ごく小さな一部分にすぎません。
(411-151 ~ 152、2003.710)

神様を知り、霊界を知らなければなりません。堕落した世界のすべてのことを忘れてしまっても、神様をはっきりと知り、霊界を知らなければなりません。

霊界は、永遠の本郷です。永遠の本郷の国です。その本郷の国が霊界から成し遂げられるのではなく、地上から成し遂げられなければなりません。
(398-145、2002.12.9)

聖書を見れば、パウロが14 年前に見た第3の天について述べています。14年間パウロはどのよう生きてきたのでしょうか。第3の天を見たこと、それが力になって、14 年間を生きてきました。パウロは、それ以上のことを知ったために、第3の天のことを述べても、また行くことができたのです。
(62-47、1972.9.10)

霊界のすべてのことが地上世界と関係を結んでいます。どこを焦点として、何を共通分母として、その主流的関係が連結されるのですか。それが何かというと、真の愛です。
(137-54、1985.12.18)

地上には内面的に拡大された生活がありますが、内面的に拡大されたその基準は、霊界に行けば表面化されるのです。愛が中心でしょう? 愛が内面化されているために、神様と人類が一つの体の細胞と同じです。自分自身が、その細胞のうちの一つになる世界が霊界です。そのような境地に入れば、神様が間違いなく自分の心の中に入ってくるのです。「神様」と呼べば、自分の心の中で「誰が私を呼ぶのか。何だ?」と言うのです。すなわち、神様と共に暮らしていく世界です。
(218-129、1991.7.14)

霊界がどごにありますか。皆さんの体の外にありますか、体の中にまで入ってきていますか。体の中にあります。ですから、霊界を背負って歩き回り、連れて歩き回るのです。霊界を抱いて歩き回り、抱えて歩き回るのです。
(162-116、1987.3.30)

 

②霊界の様々な階層と領域

―宗教経典―

神は数多くの地獄と天国をつくり出し、人間はこれを探検するために疲労困憊だ。
アーディ・グラント、ジャプジー22、M.1、p.5(シーク教)

私の父の家には住む所がたくさんある。
ヨハネによる福音書14.2(キリスト教)

また、天上の体と地上の体があります。しかし、天上の体の輝きと地上の体の輝きとは異なっています。太陽の輝き、月の輝き、星の輝きがあって、それぞれ違いますし、星と星との間の輝きにも違いがあります。(注2)
コリントの信徒への手紙一15.40~41(キリスト教)

彼らは長子の教会である。彼らは御父からすべてのものをその手に与えられた者である。彼らは祭司であり、王であり、御父の完全と、御父の栄光を受けた者であり、また、メルキゼデクの位に従ういと高き方の祭司である。このメルキゼデクの位は、エノクの位に従い、かつ独り子の位に従うものであった。それゆえ、書き記されているように、彼らは神々、すなわち神の子である。…

これらは、その体が日の栄えの状態にある者である。その栄光は太陽の栄光すなわちすべての者の至高者なる神の栄光であり、その栄光は大空の太陽によって象徴されると記されている。

さらにまた、私達は月の栄えの世界を見た。見よ、見よ、これらの者は月の栄えの世界に属する者であり、その栄光は、月の栄光が大空の太陽と違っているように、御父の完全を受けた長子の教会の栄光とは違っている。

見よ、これらは、律法なしに死んだ者である。また、獄にとどめられた人々の霊であって、肉において人間として裁きを受けるために、御子が訪れて、福音を宣べ伝えられた者である。また、これらは、肉においてはイエスの証を受け入れなかったが、後にそれを受け入れた者である。これらは、世の高潔な人々でありながら、人間の悪巧みによって目をくらまされた者である。これらは、イエスの栄光を受けるが、その完全は受けない者である。これらは、御子の臨在は受けるが、御父の完全は受けない者である。それゆえ、彼らは日の栄えの体ではなく、月の栄えの体であって、月が太陽と違っているように栄光において違っている。

これらは、イエスの証に雄々しくない者である。それゆえ、彼らは私達の神の王国の冠を得ない。さて、これで私達が月の栄えの世界について見た示現は終わり、私達がまだ御霊に感じている間に、これを書き記すように主は私達に命じられた。

さらにまた、私達は星の栄えの世界の栄光を見た。その栄光は、星の栄光が大空の月の栄光と違っているように、さらに劣った世界の栄光である。

これらは、キリストの福音を受け入れず、イエスの証も受け入れなかった者である。これらは、聖なる御霊を否定しない者である。これらは、地獄に落とされる者である。これらは、最後の復活まで、主すなわち小羊なるキリストがその業を終えられるまで、悪魔から贖われない者である。

これらは、永遠の世界において主の完全を受けないが、月の栄えの者の働きによって聖なる御霊を受ける者である。そして、月の栄えの者は、日の栄えの者の働きによって受ける。また、星の栄えの者は、彼らのために仕えるように任じられる天使たち、すなわち彼らのために仕える霊となるように任じられる天使たちの働きによって聖き御霊を受ける。彼らは救いを受け継ぐ者だからである。(注3)
教義と聖約76.54 ~ 88(末日聖徒イエス・キリスト教会)

ソロモン王が「くるみの園に下りて行きました」(雅歌6.11)。彼はくるみの殻を一つ拾い上げ、それを注意深く見た。彼はくるみの殻の中に見える層状を見つめながら、感覚的な追求欲がわき上がってくるのを感じ、人間という存在を類推した……人間の頭脳がたくさんの薄い膜で覆われているように、すべての存在が永遠性をもつようにするために、何かの処置をしなければならないこ
とを、神はお考えになった。

それゆえ、全世界に層状の深奥で神秘的な所から
最も外部の層に至るまで高低があるのは、このような原理によるものだった。

あらゆるものは覆うものをもつ。頭の中に頭があり、霊の中に霊があり、殻の中にまた別の殻がある。

最初の中心地は、最も奥深い所に光があり、透明で、不可思議で、我々の想像を超えた至極清浄な性質をもつ。最も深い一点が中心を取り囲む“宮殿”を形成し、これはまた、我々が想像できないほど透明な光彩である。具体的に指摘できない最も深い一つの中心の衣服のようなこの宮殿は、それ自体が不可思議な光だ。しかし、この宮殿は、原初的な点よりは透明でなく、奥妙ではない。この宮殿は、それ自体、自ら最初の光彩とはまた異なる服を着るようになる。

このようにして、外に向かっていくほど増幅はまた別の増幅の服を着るようになる。ゆえに、まるで薄い膜が頭脳を覆うように、各組織はそれ以前の組織を包むようになる。最初は保護膜の役割をしていたものが、次の段階の組織に対しては頭脳のような位置をもつようになる。

これと同様に、そのような組織は下にも進行する。この世の人は、天と地の中心となる頭脳の役割をしながら、霊と肉を保護する保護膜を形成するようになる。ゆえにあらゆるものは、より完全な秩序で進行する。
ゾハール(ユダヤ教)

すべての王国には律法が与えられている。そして、多くの王国がある。王国のない空間はないからである。また、大きな王国も小さな王国も、その中に空間のない王国はない。
そして、すべての王国に一つの律法が与えられており、すべての律法に一定の限界と条件がある。それらの条件の中にとどまっていない者は皆、義とされない。

英知は英知に結びつき、知恵は知恵を受け入れ、真理は真理を迎え入れ、徳は徳を愛し、光は光に結びつき、憐れみは憐れみに同情を寄せて自らの権利を主張し、正義はその道を進み続けてその権利を主張し、裁きは御座に着いて万物を治め、万事をなす者の前を行くからである。(注4)
教義と聖約88.36 ~ 40(末日聖徒イエス・キリスト教会)


―み言選集―

霊界に行ってみれば、霊界全体が一人の人間に見えます。主体である神様とこの全体、大きな一人の人と一つになります。そうすると、全霊界と肉界がすべてぐにゃぐにゃになります。神様が走れば地も走り、神様が笑えば地も笑うようになっています。

それはどういうことですか。皆さんは、どのようにして中心になれますか。私とこの細胞を見てみれば、すべて連結されています。指の細胞を見るとき、その細胞がすべて私にぶら下がっています。そのような意味の中心だというのです。

私の手の先を見るとき、手の先は私と一対一です。すべて私にとどまっています。人間が宇宙の一番の中心になります。一つの細胞のような立場で相対するとき、中心的資格をもつことができるのです。

この細胞を通っていた血が、足の裏の細胞を通っていた血に、「ああ、頭のほうに来るな」と言うことができますか。このような境界線がありますか。そのような意味で、黒人、白人、黄色人の区別はありません。皮膚が、これは白く、これは黄色く、色がすべて違います。目の色も違い、髪の毛も違い、すべて違います。

だからといって、「ああ、お前は私とは違うから別種だ」、そのように言えますか。霊界に行ってみれば、一人の人間のような組織になっています。聖人たちが目の役割をして、耳の役割をするようになっています。(注5)
(91-280、1977.2.27)

霊界は、神様を中心とする一つのセンターを中心として、すべてのものが連結されています。しかし、地上にはそれができていません。センターがないのです。神様を中心とするセンターではなく、悪を中心とするセンターができているので、すべてのものが相反しています。

しかし、霊界はすべて統一です。高いレベルのものもあり、もちろん地域も違いますが、同じ階級ではなくても、すべてのものが天に従わなければならないことを知っているのです。低い階級の霊人たちも、神様を中心として従っていかなければならないということが、信仰観念のように生活の目標になっています。それが永遠の生活目標になっているのです。
(161-220、1987.2.15)

地上生活の人間完成の基準によって地獄と天国が生じざるを得ません。このように見れば、数千の階級が生じ得るのです。……地上に散らばっているこの階級、ここにとどまっている階級のようなものが生じます。地上にこのような階級が生じれば、霊界にもこのような階級が生じます。……霊界も多くの集まりでできていて、階級ごとに分裂しています。
(91-269 ~ 270、1977.2.27)


霊界に行けば何もありません。花しかありません。どこに行っても花でいっぱいです。ところが、その花が笑顔で踊りを踊っています。自分の愛の価値観の完成基準によって、それぞれ声を出して踊ったり、黙って踊ったり、様々な姿で迎えてくれるのです。

その時になって、「先生が教えてくださった愛というものがこのように偉大なものだったのだなあ。ああ、その時、すぐに分かっていればよかったのに」と思うかもしれませんが、その時になれば既に通じません。それで先生がその世界に合格させるために、その周波数に合わせるために、地上で教育し、指導しているのです。
(227-100、1992.2.10)

霊界は完成しましたか。霊界は未完成です。なぜ未完成なのでしょうか。本来、霊界の階級体系は、神様と真の父母、真の子女を中心としてつながっていなければならないのに、それができていないのです。地上もやはりできていません。

言い換えれば、堕落しなかったアダム主義、神様を中心としたアダム主義、それと同時に、真の父母を中心とした階級体系になるのが霊界ですが、それができていないのです。

今まで、その中心の中には、仏教を中心とした釈迦牟尼クラブがあり、孔子クラブがあり、ムハンマド(マホメット)クラブがあります。それで、霊界は、真の父母主義とアダム主義が現れることを願い、ムスリム(イスラム教徒)の群れや孔子の群れや釈迦の群れも、すべて願っているというのです。ですから、統一的な方向を経なければならないので、地上においても真の父母の役事が世界的な基準に上がっていくようになる時、すべての宗教の境界線はなくなり、統合運動が霊界の動きに従って自動的に展開し、その結果が地上で現れるようになるというのです。
(161-223、1987.2.15)

今霊界は、すべて壁でふさがれています。国はありません。世の中の国のような国は霊界にはありません。しかし、仏教を信じていた人たちは仏教圏にすべて入っていき、儒教を信じていた人は儒教圏にすべて入っていき、キリスト教を信じていた人はキリスト教圏、イスラームを信じていた人はイスラーム圏に入っていきます。

このようにすべて宗教の系列が霊界にできています。それで、世界的な一時、メシヤが来る時まで、自分の団体のために準備してくるので、今まで壁を積み上げてきたのです。人間の堕落によって生じた神様の恨とイエス様の恨と先生の恨をすべて霊界と肉界で解くことができる基準になるまでは、その壁を崩すことはできません。
(89-101 ~ 102、1976.10.4)


2.不滅の霊魂

霊、または魂は、不滅の人間の本質である。霊魂は、永遠の神様から来たものであるため、それは最後に神様に帰っていく。一方、土でつくられた肉身は、霊魂を包む服にすぎない。細かい違いはあるが、これがあらゆる宗教で発見される一般的な観念である。

霊魂は、天国に上がっていったり、地獄に落ちたり、神性と一つになったり、復活の日まで眠っていたり、またほかの肉身に生まれ変わる。このような違いとは関係なく、霊魂の存続はあらゆる信仰体系に共通して現れる。

宗教の諸経典は、来世で霊魂を包んでいる“霊的体”に対する描写を含んでいる。ある経典では、それ自体の形態と構造を備えた霊魂を想定している。それは、地上生活の間に肉身と共にあり、死後に分離されて霊界に上がっていく。

文鮮明先生は、地上人たちが霊魂と肉身の共鳴によって二つの世界にどのように生きているのかに対する理解を助ける。これは、霊的能力をもつ人たちが地上生活をしながら、どのように霊界を自覚できるのかを意味する。

霊魂がこれ以上肉身に縛られず、意志どおりに自由に旅行できるとき、実にそれは死後にその翼をつける。それでも、地上の生は、天国で要求される完全な魂の性稟を訓練する修練所として重要な意味をもつ。次の節から、この主題を扱う。

①霊魂と肉身

―宗教経典―

主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。
創世記2.7(キリスト教)

またかれは、土から人間の創造を始めたもう。それからかれは、卑しい水の一精髄から、その跡継ぎをつくりたもう。それからかれを均整につくり、かれの霊を吹き込みたまい、……
クルアーン32.7 ~ 9(イスラーム)

霊魂は知恵と洞察の主体であり、無形状の行為者であり、それ自身の肉身と同一の大きさをもつ。霊魂はまた、カルマの果報を享受する者であり、サムサラの世界にいるが精通した者であり、常に至高の境地を目指している。
ネーミチャンドラ・ダッヴァサンガハ2(ジャイナ教)
肉体は霊魂の家である。
タルムード、サンヘドリン108a (ユダヤ教)

孔門の宰我が申した、「わたくしは鬼神という言葉は聞くもののそれが何を指すのか、存じません」そこで孔子が教えた、「人の身には気と魄(心と物の二面)があるが、気のほうは神の妙用、魄のほうは鬼の妙用なのである。それゆえ鬼と神を並べて説いてこそ、人間に対して教訓が完全になるのである。

生きている人々、これは必ず死ぬが、死ねば必ずみな土に帰る。そのように死亡した人間、それを鬼という。人が死ねば骨や肉は地の下に朽ちて、埋もれたままに野の土となり、気のほうは天上に浮かび上がって、あらたかな神霊の群れに入る。すべて、人も物も死ねばその精気が凝って強い香りを放ち、感ずる人々の心を悲壮にさせるのであるが、それこそ神霊の妙用なのである。
礼記21.2.1 (儒教)


しかし、死者はどんなふうに復活するのか、どんな体で来るのか、と聞く者がいるかもしれません。愚かな人だ。あなたが蒔くものは、死ななければ命を得ないではありませんか。あなたが蒔くものは、後でできる体ではなく、麦であれ他の穀物であれ、ただの種粒です。神は、御心のままに、それに体を与え、一つ一つの種にそれぞれ体をお与えになります。

どの肉も同じ肉だというわけではなく、人間の肉、獣の肉、鳥の肉、魚の肉と、それぞれ違います。また、天上の体と地上の体があります。しかし、天上の体の輝きと地上の体の輝きとは異なっています。
コリントの信徒への手紙一15.35 ~ 40(キリスト教)


一み言選集―

この体は、神様があらゆる精誠を尽くし、土の塊のようなものを収拾し、永遠の理念の生命体、すなわち霊人体が育ち得るように造られました。芸術品でも、これ以上の芸術品はありません。ただ神様が、「おい、いでよ」として造られたものではありません。最大の精力を注いで造られた体です。そこに霊人体を吹き入れ、一人の人を造られたのです。神様が主管される有形・無形世界で永遠に存在できるそのような形状を造って祝福してくださいました。
(8-80、1959.11.8)

霊人体は人間の肉身の主体として創造されたもので、霊感だけで感得され、神と直接通ずることができ、天使や無形世界を主管できる無形実体としての実存体である。霊人体はその肉身と同一の様相であり、肉身を脱いだのちには無形世界(霊界)に行って永遠に生存する。人間が永存することを念願するのは、それ自体の内に、このような永存性をもつ霊人体があるからである。
この霊人体は生心(主体)と霊体(対象)の二性性相からなっている。そして生心というのは、神が臨在される霊人体の中心部分をいうのである。霊人体は神からくる生素(陽性)と肉身からくる生力要素(陰性)の二つの要素が授受作用をする中で成長する。また霊人体は肉身から生力要素を受ける反面、逆に肉身に与える要素もあり、我々はこれを、生霊要素という。

人間が神霊に接することによって、無限の喜びと新しい力を得て、持病が治っていくなど、その肉身に多くの変化を起こすようになるが、これは、その肉身が霊人体から生霊要素を受けるからである。霊人体は肉身を土台にしてのみ成長する。それゆえに、霊人体と肉身との関係は、ちょうど実と木との関係と同じである。
原理講論、創造原理6.3.2

人は二重構造になっています。心的な人と体的な人です。それでは、心とはいったい何でしょうか。心は縦的な基準をもっています。体は何でしょうか。横的な基準をもっています。これが本来、神様の理想的基準に立ち、神様の愛を受けることができるようになれば、縦的な心に神様の愛が響くとき、横的な体はすべて感じるようになります。縦的基準が存在する霊人体に神様の真の愛が響けば、横的基準である体も共鳴するようになっています。
(177-216、1988.5.20)

人には、霊的な人、統一教会でいう霊人体があり、肉身があります。霊人体は我々の目に見えませんが、存在するのです。では、霊人体と肉身は、いつ一つになるのでしょうか。これが問題です。

これは、音叉と同じです。音叉の一つを鳴らせば、同じ振動数で別の側を共鳴させるのと同じ道理で、神様の愛の作用が私達の心に来れば、自動的に体が反応しなければなりません。ですから、体と心を100 パーセント共鳴させ一つにする圏内に追い込むことができるのは、神様の知恵でもなく、能力でもなく、力でもなく、愛だけです。
(138-255、1986.1.24)

心と体の細胞があります。霊的五官があり、霊人体があることを知っていますか。内的人間と外的人間の細胞が共鳴しなければなりません。永遠に生きる私達の内的な人と、地上天国に生きる外的な人が、愛を中心として共鳴できなければなりません。

霊人体と肉身が神様の愛を中心として共鳴し、響くようになるとき、初めて霊的細胞と肉的細胞が完全に作動するのです。ですから、目が完全作動するときは、目を開けば、天上天下、地上天下がみな見えるのです。完全作動をするためです。マイクもそうではないですか。性能が良ければ、100 パーセント響き渡ります。同様に、愛の力で肉身と霊人体が一致して、爆発し得る境地になれば、天上世界、地上世界が、神様がすることなく、みな共鳴するようになるのです。
(171-103、1987.12.13)

②死:新しい生命に転換

―宗教経典―

塵は元の大地に帰り、霊は与え主である神に帰る。
コヘレトの言葉12.7(キリスト教)

まことにわれは、生を授けまた死を賜う、われによろずのものの帰着所がある。
クルアーン50.43(イスラーム)

風(気息)は不死の風に帰し、肉体は終に灰となる。5U(オーム)! 意志(クラトウ)よ、憶念せよ。所為を憶念せよ。
イーシャー・ウパニシャッド17(ヒンドゥー教)

人間の真性は先ず霊なる生命にして
心の糸を組み合せて肉体の繭を造り
その繭の中にわれと吾が霊を宿らせて、
はじめて霊は肉体となるなり。
汝ら明かに知れ、繭は蚕に非ず、
然らば肉体は人間に非ずして、
人間の繭に過ぎざるなり。
時来らば蚕が繭を食い破って
羽化登仙するが如く、
人間もまた肉体の繭を食い破って
霊界に昇天せん。
汝ら決して肉体の死滅をもって
人間の死となす勿れ。
人間は生命なるが故に
常に死を知らず。(注6)
甘露の法雨(生長の家)

彼が殺すと思う者、また彼が殺されると思う者、その両者はよく理解していない。彼は殺さず、殺されもしない。彼は決して生まれず、死ぬこともない。彼は生じたこともなく、また存在しなくなることもない。不生、常住、永遠であり、太古より存する。身体が殺されても、彼は殺されることがない。

彼が不滅、常住、不生、不変であると知る人は、誰をして殺させ、誰を殺すか。人が古い衣服を捨て、新しい衣服を着るように、主体は古い身体を捨て、他の新しい身体に行く。武器も彼を断つことなく、火も彼を焼かない。水も彼を濡らすことなく、風も彼を乾かすことはない。

彼は断たれず、焼かれず、濡らされず、乾かされない。彼は常住であり、遍在し、堅固であり、不動であり、永遠である。彼は顕現せず(認識されず)、不可思議で、不変異であると説かれる。それ故、彼をこのように知って、あなたは嘆くべきではない。(注7)
バガヴァッド・ギータ2.19 ~ 25(ヒンドゥー教)

なんじらは、来世がもっとすぐれ、またもっと永遠なものであるのに、この世の生活をよいと思う。これはまことに、いにしえの諸経典にあり、アブラハムやモーゼの経典にもある。
クルアーン87.16 ~ 19(イスラーム)

オニャメ(注9)は死なない。ゆえに私も死なないだろう。
アカン族の格言(アリカ伝統宗教)
祖先と合同せよ、ヤマと〔合同せよ〕、祭祀・善行の〔果報〕と〔合体せよ〕、最高天(ヤマの居所)において。欠陥を棄てて、〔汝の〕家郷(死者の世界)に帰れ。光輝に満ちて、〔新たなる〕身体と合体せよ。
リグ・ヴェーダ10.14.8 (ヒンドゥー教)

だから、私達は落胆しません。たとえ私達の「外なる人」は衰えていくとしても、私達の、「内なる人」は日々新たにされていきます。

私達の一時の軽い艱難は、比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます。私達は見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。私達の地上の住みかである幕屋が滅びても、神によって建物が備えられていることを、私達は知っています。


人の手で造られたものではない天にある永遠の住みかです。私達は、天から与えられる住みかを上に着たいと切に頻って、この地上の幕屋にあって苦しみもだえています。

それを脱いでも、私達は裸のままではおりません。この幕屋に住む私達は重荷を負ってうめいておりますが、それは、地上の住みかを脱ぎ捨てたいからではありません。死ぬはずのものが命に飲み込まれてしまうために、天から与えられる住みかを上に着たいからです。

私達を、このようになるのにふさわしい者としてくださったのは、神です。神は、その保証として“霊”を与えてくださったのです。それで、私達はいつも心強いのですが、体を住みかとしているかぎり、主から離れていることも知っています。目に見えるものによらず、信仰によって歩んでいるからです。私達は、心強
い。そして、体を離れて、主のもとに住むことをむしろ望んでいます。
だから、体を住みかとしていても、体を離れているにしても、ひたすら主に喜ばれる者でありたい。なぜなら、私達は皆、キリストの裁きの座の前に立ち、善であれ悪であれ、めいめい体を住みかとしていたときに行ったことに応じて、報いを受けねばならないからです。
コリントの信徒への手紙二4.16 ~ 5.10(キリスト教)

しかし、もう終りにしよう。時刻ですからね。もう行かなければならない。私はこれから死ぬために、諸君はこれから生きるために。しかしわれわれの行く手に待っているものは、どちらがよいのか、誰にもはっきりは分からないのです、神でなければ。
プラトンソクラテスの弁明42(ヘレニズム)

私は、アフリカヌスにあなたの祖父、父パウルス、そして我々が故人と考えているほかの方たちも生きていらっしゃるのかと尋ねました。彼は答えました。「もちろん生きている。彼らは皆、監獄のような肉体の束縛から抜け出して楽しんでいた。あなたが言う地上の生というものは、その実、死にすぎない。見よ、あなたの父パウルスが、あなたに向かってここに来ているではないか!(注
8)
キケロ国家論6.14 ト(ヘレニズム)


―み言選集―

私達韓国の言葉では、おもしろい表現で「死ぬ(チュンヌンダ)」ということを「帰る(トラガンダ)」という言葉で表します。どこに帰るという話でしょうか。これはただ共同墓地に行くことを意味するのではありません。元来、人生が出発した本来の場所に戻っていくという意味です。果てしなく遠い歴史の起源を越えて帰っていくということです。

だからといって、韓国人として生まれたので、韓国人として帰るという意味ではありません。私達人間始祖の根源となる、その世界に帰るという意味です。すなわち、創造主がいらっしゃるなら、その創造主がいらっしゃる所に帰るという意味です。そこから出発したので、そこに帰るのです。

宇宙も循環作用をします。例えば、山に積もっていた雪が解ければ、その水が小さな渓谷を通じて流れるようになり、さらには様々な川を通じて大海に流れ込みます。大海に流れ込むようになったその水は、水蒸気となって再び帰っていくのです。このように、循環運動を通して、より貴くなり得る所に、より良くなり得る所に帰っていくごとを願うのです。
(299-61、1999.2.4)

神様が人間の父母でいらっしゃるなら、私達人間をどのように、なぜ造ったのかと考えるとき、神様の愛に同参させた位置から出発しました。神様の心から出発し、神様の愛の懐で育ち、神様の愛の懐で成熟して家庭を築き、この地上で世界的な愛と連結させ得る成熟者となり、神様の愛の懐に帰らなければならないのが人生の道です。
(135-267 ~ 268、1985.12.15)

人間の本質は霊的なものです。ですから、あの国に行けば、そのような人間の本質が人のために生きるようになっていることを、より一層実感するようになるのです。
(2-138、1957.3.17)

人は、地上で理想的な家庭を築いて暮らしながら、その内なる人である霊人体を完成させ、天上世界に行くようになっています。霊人体が神様の愛の中で永遠に生きる天上天国が私達の本郷です。……人間は動物とは異なり、霊人体があり、また必ず行くべき天上世界があることを知らなければなりません。
(343-196、2001.1.29)

これからは神様と同じ位置に立つのです。永遠の真の愛の場に同参したのです。外の世界のどこに行っても、韓国のどこに行っても、この永生概念はありません。これが問題です。私は永遠の生命として生まれたので、死んで霊界に行ってみてください。一瞬で飛躍します。制限されたこの地球の人生とは次元が異なります。

制限された所では自由に動けませんが、あの世界は次元が高い世界なので何でもできる所です。時間を飛び越えるのです。愛を中心として、願いさえすれば何でも、いつどこでも、すべて得られます。無窮無尽です。
私達が霊人体として造られたことを、今知りました。永生の真の愛を中心とする対象体である私は、永遠の生命体だという結論が自動的に出でくるのです。霊界に行きさえすれば、私達は自由なのです。
(216-116、1991.3.9)

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世界経典-14

2020年10月06日 19時37分28秒 | 学習


8.創造性と芸術

芸術家、科学者、発明家たちは、神様の創造性を受け継いでいる。宇宙は、神様の心の中の観念から出発して創造されたのであり、その観念を実際の宇宙に創造するためにエネルギーが投入された。同じように、芸術家と科学者は、その心の中にあるイメージを作品として表現するために、自分のすべての努力と精誠を注ぐ。

この節は、芸術に焦点を合わせ、したがって経典とともに、自分の芸術がもつ意味を省察する有名な芸術家たちの言葉の中から選別した幾つかの言葉も含む。しかし、創造性は、このような卓越した人物たちの独占的な所有物ではない。

私達は、スポーツに対する愛に満ちて競技を行う運動選手から、自分の物品を売買するためにより優れた方法を求める商人から、踊りを踊り、歌う子供たちからも創造性を発見する。バレエ団と芸術学校を設立し、また妻と共にデュエットで歌うことを好む文鮮明先生は、芸術が神様を中心とする文化を創造することに寄与する、重要な役割を理解している。相対物と調和を成した芸術、芸術の情緒的な力とその精髄、詩的霊感、芸術の霊性、芸術と価値の問題などの主題が、ここに含まれている。


①芸術の霊性

―宗教経典―

酒に酔いしれてはなりません。それは身を持ち崩すもとです。むしろ、霊に満たされ、詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌いなさい。
エフェソの信徒への手紙5.18 ~ 19(キリスト教)

人生は芸術である
人の一生は自己表現である
自己は神の表現である
表現せざれば悩がある
処世訓1.4(PL 教団) 104

流麗な言葉の中に魔力があり、知識の中に無知がある。詩の中に知恵が、言葉の中に退屈がある。
アブー・ダーウード・ハディース(イスラーム)

神の霊がサウルを襲うたびに、ダビデが傍らで竪琴を奏でると、サウルは心が安まって気分が良くなり、悪霊は彼を離れた。
サムエル記上16.23 (キリスト教)

「神々に誓って、音楽・文芸の場合もそれと同じように、われわれ自身にしても、われわれが国の守護者として教育しなければならぬと言っている者たちにしても、節制や勇気や自由闊達さや高邁さやすべてそれと類縁のもの、他方またそれと反対のものの実際の姿が、いろいろとくり返し現れるのをあらゆる場合に識別し、それらが内在しているあらゆるもののうちに、その実際の姿をも似姿をもともに認識できるようになるまでは、そして小さなもののうちにあろうと大きなもののうちにあろうと、けっしてないがしろにせず、いずれを知るにも同一の技術と訓練を必要とするものだと考えるようになるまでは、われわれはけっして音楽・文芸に習熟した者となったとはいえないのではないだろうか?」……
「もしもある人が、その魂の内にもろもろの美しい品性をもつとともに、その容姿にも、それらと相応し調和するような、同一の類型にあずかった美しさを合わせそなえているとしたら、見る目をもった人にとっては、およそこれほど美しく見えるものはないのではないか?」
プラトン国家3(ヘレニズム)

すべての技術は生成にかかわる。
アリストテレスニコマコス倫理学6.4(ヘレニズム)

私達作曲家たちは、無限を有限の中に投影する人々である。
エドヴァルド・グリーグ

真の芸術品はそれを制作する精神……あるものを完全に創造しようとする努力によって、高貴で敬虔につくられる。神が完全な存在であり、完全を追求する人は、誰でも神聖なあるものを追求しているからである。
ミケランジェロ

通奏低音の唯一で最終的な目標は神の栄光と歓喜である。
ヨハン・セバスティアン・バッハ

私が心で創作すれば、ほぼすべてのものが良くできた。
マルク・シャガール

人間たちは邪悪になることができる。彼らの兄弟である動物がそうなり得るよりももっと邪悪になることができる。しかし、彼らはまた、創造の恍惚境で立ち上がることもできる。イギリスの大聖堂は人間が自分自身の上にいる存在に対する敬拝の記念物として建っている。人間は、自身の手でつくったりっぱな作品を見るとき、人類という種に属したことを誇りに思う。彼らは創造者になってきた。彼らは世の中と、その世の中にあるすべてのものを創造したのであり、それが善だと見た創造主の神聖さを分かち合わなければならない。しかし、その方はつくられるより多くのものを残しておいた。
アガサ・クリスティ
―み言選集―

人間がそれ自身の責任分担を完遂して初めて完成されるように創造されたのは、人間が神も干渉できない責任分担を完遂することによって、神の創造性までも似るようにし、また、神の創造の偉業に加担させることによって、ちょうど創造主である神が人間を主管なさるそのごとくに、人間も創造主の立場で万物を主管することができる主人の権限をもつようにするためであった。
原理講論、創造原理5.2.2

文化は言葉でつくられなければなりません。み言を通した文化です。言葉はすべて文字で表現されます。それから、美術などの芸術で表現されるのです。芸術とは何でしょうか。目に見えない言葉を表示するものです。したがって、この原理とみ言を通して格が出てくるのです。実体が出てくるのです。
(107-317、1980.6.8)

神様が一人でいれば、どうでしょうか。神様が一人でいれば笑われるでしょうか。神様も一人でいれば狂人になります。「ははは……!」と笑うとき、そこに「ほほほ」、「ヘヘヘ……!.」という何かでもなければなりません。そうすれば、その環境がすべて笑うようになります。

上がっていって踊りを踊るのです。それで歌が必要であり、踊りが必要であり、芸術が必要なのです。愛を除いては不可能です。愛を除いては、芸術も、歌もすべて必要ありません。核がありません。芸術の核が愛です。それを知らなければなりません。ですから、神様もこの宇宙の喜びのためには、愛の前に絶対服従します。
(225-128 ~ 129、1992.1.5)

皆さん、作家たちが、これから世界的な作家になるためには、どのようにしなければなりませんか。風景画を描き、彫刻品を作り、様々なものを象徴的に表示するとき、その中で愛が躍動しなければなりません。愛が宿っていなければならないのです。
言い換えれば、その作品の作者が、どのくらい愛を投入したのかということが問題になるだろうと見るのです。その次に、生命力をどのくらい投入したのか、その次には、心血をどのくらい注いだのか、この三つの問題に集約されると見るのです。一つの作品を見てみれば、作家が属している国に対する愛、愛国精神と家門に対する愛があると同時に、生命力が躍動しなければなりません。生命力が輝かなければ、傑作品になりません。そして、どのくらい血がかわくほど投入したのかということです。この三つは、どのような分野でも同じように重要な問題です。
(198-281、1990.2.5)

芸術というものは、情緒的背後が深く介在していなければ価値がありません。千年前に見たものを何千年後に見ても、それ以上の感情をもって感じることができる……。一幅の絵を見る時も、そのような感動を感じることができる心情が誘発され、刺激が起きるとき、傑作品だというのです。
(142-274 ~ 275、1986.3.13)

芸術といえば、パリのオペラハウスに行って、大衆の前で歓声を受け、世界の人々が「ああ! 素晴らしい」と言ってこそ、世界的なものだと思いますか。芸術は、生涯を美しくするものであり、生活を美しくするものだと考えなければなりません。子女も芸術的な教育をしなければなりません。夫も芸術的な感情で厚遇することもでき、包むこともできなければなりません。それがもっと素晴らしい芸術だと思います。家庭に愛を美化させることができ、昇華させることのできるものが、芸術のより甲斐のある価値だと思うのです。
(100-138 ~ 139、1978.10.9)

動物世界に小説というものがありますか。小説の内容は簡単だというのです。愛を中心として悲喜劇の連関性を、どのように私達の歴史に適用し、社会に適用し、生活に適用し、未来に適用するのかということです。そこに上手に適用したものが名作です。ほかのものはないというのです。

その次に、自然があれば水が壮観に流れるのですが、永遠不変に流れる水のような愛なので、自然の美しさゆえにいつも美しい園のようだと言い、香りを漂わせる美しい花に例え、私は鳥に例え、蝶に例え……。そのほかに形容詞を付けるものがないというのです。それはなぜですか。それは、それらが私達に刺激をもたらし得る刺激の触覚になれるからであり、刺激を引き起こせる動機になるからです。ですから、そのようになるのです。

すべて愛を中心として、そのようにつづられます。自然をつづり、川をつづり、山をつづり、木をつづり、鳥をつづり、石をつづり、太陽をつづり、月をつづり、星をつづり、すべて愛を中心としてつづり、神様の愛を素晴らしく描き出すのです。それが名作小説だということです。

そのような形容詞の妙味、美しさに対する構成がいつでも連関性をもって描かれたそのような作品でなければ、おもしろくないのです。1ページだけ見れば、すべてほうり投げてしまいます。これを見るとき、文学が最も中心主流とするものは、愛に関する美化なのです。それを夢見ていることを、私達は知ることができます。そして、詩というものもそうです。詩の表現も同じです。それを圧縮させ、愛を中心とする幾つかの言葉で表示するのが詩です。ですから、青少年たちが詩的感情に酔い、文学的感情に酔うのです。このように愛を扱うのです。
(94-60、1977.7.3)

様々な言語を話すあらゆる国の人々が、そのすべての感情を一瞬のうちに表現できるものとは何でしょうか。それは文学にもできません。芸術にもできません。唯一、歌だけがそれを表現できるのです。歌は、たとえ短くても、そのすべての情緒的内容を抱くようになる時は、どのような人の心でも、一瞬のうちに動かせるのです。

私達が歌うとき、どのような歌が一番良いでしょうか。この宇宙の中心であり、最も価値のある高貴な中心存在を称賛できる歌は、中心に従ってその周囲に包み込まれているすべての万物が、深刻に聞きます。日が暮れながら夕焼けになる、そのような姿を胸に入れて天を称賛すると考えてみなさいというのです。神様がそのような心を感じたなら、どれほど感動されるでしょうか。皆
さんが歌を歌えば、歌それ自体を歌うのではなく、深い世界、作曲し、作詞した人の境地に入っていってそれを称賛することができ、神様の位置で歌を歌ってみなさいというのです。

歌の中には、楽しい歌、悲しい歌があります。楽しい歌は喜ぶとき、その心全体の喜びの園を広げ、自然と共に、この天と共に和動するのです。それがどれほど素晴らしいですか。悲しい歌は何ですか。胸を開き、この世のすべての悲しみを溶かして掃除するために悲しい歌を力いっぱい歌うのです。それがどれほど素晴らしいですか。人間には歌が必要であり、その次には踊りが必要です。芸術が必要なのです。美、美しさを表現する芸術とは何でしょうか。小さな精髄を中心として、すべての内容と形式を表示するものとなる時は、誰もがそれを見つめるようになり、新しいものを感じ、感動することができるのです。これが芸術の力だというのです。
(270-10~11、1995.5.3)
②調和

―宗教経典―

音楽は天地の間の(自然の)和合作用を代表するものであり、礼儀は天地の間の秩序を代表するものである。天地の間に和合作用があるから万物はみなし、秩序があるから万物それぞれの地位や機能を保ち得るのである。

また、音楽は天(の陽気)に基づいて作られ、礼儀は地(の陰気)に基づいて定められるのであって、……即ち天地(自然)の道を明らかに知る者にして、始めて礼楽を正しく用い、その効用を盛んに発揮させることができるのである。
礼記19 (儒教)

音楽は混沌から秩序を創造する。事実、リズムは互いに異なるものに合意点を付加し、メロディは連結されていないものに連続性を付加し、調和は不条理なものに適合性を付加する。それで、混沌は秩序に降伏し、騒音は音楽に降伏する。
私達は、音楽を通して、幾何学的であり数学的な比例の根本的関連性におかれている、あの偉大な宇宙的秩序に参与するように、単純な反復に提供される方向、諸要素の増殖にある力、そして無作為的連合にある目的に参与するようになる。
ユーディ・メニューイン

真の詩、完璧な詩は、相対となるものたちの調和にある。それゆえ、例外が規則を立証し、自然に存在するすべてのものが芸術として存在することを大声で、特にここで語るべき時間である。
ビクトル・ユゴー


―み言選集―

相対圏をもつことができなければなりません。男性と女性の二人が喜ぶ場合に、天地の調和が出てきます。文学や芸術というものは何ですか。男女の愛を中心として描くのです。その実体を求めていくために慕うのが文学です。芸術は、愛を中心として美しく、美化させたものです。
(354-21、2001.9.16)

自分がいつでも相対的な立場に立っていなければなりません。そのような観念が常に自分の心の中に刻まれていなければならないのです。いつもそれを考えなければなりません。舞踊家が踊りを踊るように、いつも芸術の美を表そうとする心をもたなければならないのです。

自分自体が常に相対的な位置を維持し、神様の懐に抱かれ得る基準をもっていなければなりません。その基準で美男美女が決定されていきます。例えば、愛は動的であり美は静的です。動と静かあって調和を成すのです。(15-171、1965.10.7)
「ああ、歌が本当に上手だ」というのは、よく調和しているということです。高いところに上がっていって、「ああ、もっと上がっていかないのか」と思っていては止まってしまいます。さっと越えて下がってくるようになっています。

それがなければ大変です。ソプラノが好きだという人も、上がっていってばかりいれば大変なことになります。上がっていくこともでき、下がっていくこともできるので、ソプラノが良いのです。

世の中の万事がそのようになっています。幸福なものとは何でしょうか。高く上がっていってさっそうと下がっていくことができる、この二つともあるのです。
(98-50、1978.4.9)


③霊感

―宗教経典―

見よ、主は、ユダ族のフルの孫、ウリの子ベツァルエルを名指しで呼び、彼に神の霊を満たし、どのような工芸にも知恵と英知と知識を持たせ、金、銀、青銅による細工に意匠をこらし、宝石をはめ込み、木に彫刻するなど、すべての細かい工芸に従事させ、更に、人を教える力をお与えになった。
出エジプト記35.30 ~ 34(キリスト教)

梓慶(しけい)が木を削り、鐘や太鼓をかける台座の;煤iきょ)をつくった。;狽ェできあがると、これを見たものは、まるで鬼神のわざかと驚いた。そこで魯公(ろこう)は梓慶を引見してたずねた。「お前さんは、どういう技術でこれを作ったのかね」

すると、梓慶は答えて言った。「私は工人にすぎませんから、技術というほどのものはございません。けれども、しいて申しますならば、ただ一つだけでございます。私がこれから;狽ツくろうとする時には、どんなことがあろうとも気を散らして失うことがないように心がけます。そのためには、必ず身心を清める斎(ものいみ)をして、心を静めます。斎をして三日たちますと、殿様からいただくほうびや爵位俸禄のことを考えなくなります。

斎をつづけて五日たちますと、評判のよしあしや仕事の巧拙などを思わなくなります。斎をつづけて七日たちますと、ぼうぜんとして自分の手足や身体があることさえ、すっかり忘れてしまうようになります。もうこの時になりますと、役所のことなどは念頭になく、ただ細工に集中し、外界のわずらわしさが消え去ります。

そこではじめて山林のなかにはいり、自然の性質や格好のすぐれた材木を捜し求めます。木が見つかりますと、いちおう;狽ェできあがった形を頭の中に描いてみて、それからはじめて細工にかかるしようにいたします。もし、ものにならないようでしたら、初めから手をつけません。一口に申しますと、自然のものを自然の心で取り扱うということです。出来上がった道具が、神わざのように見えるのも、このためではないでしょうか」。
荘子19(道教)

「つまりかれらは、知恵があると思っている人が、しらべられて、そうでないことになるのを、聞いているが、おもしろいからなのです。たしかにおもしろくないことはないのですからね。しかし、私にとっては、それは、私の申し分どおり、神によって、なせと命じられたことなのです。それは神託によっても伝えられたし、夢知らせによっても伝えられたのです」。
プラトンソクラテスの弁明22(ヘレニズム)

私が最も鼓舞された雰囲気にいるとき、私はより高い水準の自我が関連した明確な霊感のビジョンをもつ。そのような瞬間に私は、あなたと私、そして万物たちが生成される無限で永遠なエネルギーの根源をたたいていることを感じる。宗教はこれを神と呼ぶ。リハルト・シュトラウス
あらゆる真の創造的な努力の先行条件である、あの恍惚境のような条件にいる間、私はとてもはっきりと印象を受ける。私は、自分がこの振動する力、すなわち全知の存在と一つになること、そして私白身の能力によってのみ制限される限度まで、私がそれを利用できることを感じる。
リヒャルト・ワーグナー

人が享受できる最も美しい経験は神秘である。それは芸術と科学を生む根源的感情だ。
アルベルト・アインシュタイン


一み言選集―

皆さん自体に心と体の愛が開かれるその時が近くに来れば、私自体の感じていることが宇宙に共鳴されるので、その時は文学者になり、小説家になり、詩人になるのです。その時になれば、立体的な世界とあらゆる関係を結びたいと思います。その時は、秋風によって落ちた落ち葉がころころ転がっていくのを見ても、「はははは!」と笑うのです。
(137-232、1986.1.3)

本当に世界的な偉大な学者がいるとすれば、その学者の心情の深みには、自然の心情と和合できる感性があるのであり、自分が研究するその分野以上に随時、連絡される感性があるので、思いも寄らない暗示や幻想や、あるいは夢のお告げのような現象があるのです。そして、これは自分の専攻分野に夢中になっていく、そのような状態でのみ起きる現象です。
(6-341 ~ 342、1959.6.28)

精誠を尽くして自分が神秘的な境地に入っていけば、文章を書いてみなさいというのです。文章を書けば、名文になるのです。そのような境地では、絵を描いてもそうです。自分の手だけで絵を描くのではなく、そのような精誠を込めて、「この手に一人の偉大な画家が来て、私を協助して描く」、そのように精誠を尽くす中で、さっと描けば、感嘆の声が出ます。

それで、良い作品をさっとそこに貼りつけておくのです。そのようなことが起きるということです。ですから、偉大な科学者や偉大な芸術家たちは、必ず霊的に通じます。その人たちは、精誠を尽くしたのでそうなのです。
(100-23、1978.10.9)

創造とは何でしょうか。力の投入、あるいは精神の投入です。さらには心身の投入です。自分の全体を投入するところで、価値のある作品が形成されることを常日ごろ芸術家たちを通してよく見ることができます。精神も投入せず、適当にやって傑作品が出てきますか。精神がまっすぐに立たなければなりません。精神がまっすぐに立たなければならず、まっすぐな精神姿勢に正しい良心を立てておき、その良心と共に体が完全に一つにならなければなりません。ここにすべての力を投入したのか否かによって、作品の価値が決定します。
(77-319、1975.4.30)


④芸術と道徳

―宗教経典―

また詩人たちだが、悪魔にそそのかされた者だけが、かれらに従う。なんじは、かれらがあらゆる谷間にさまようのを見ないか、またかれらは、己れの行わぬことを、口にするではないか、信仰して善い行いにいそしむ者、また多く神を唱念しまつり、迫害された後も自ら守る者は別である。悪を行った者たちは、やがてどんな変遷をたどるかを知ることになろう。
クルアーン26.24 ~ 27(イスラーム)

水が収穫を生むように、歌は心の中に偽善を生む。
バイハキ・ハディース(イスラーム)

アイシャが言うには、詩の主題が神の使徒を告げるものであるとき、彼が言った。「それは、その中の善のものは善であり、悪のものは悪である」。ダラクニ・ハディース(イスラーム)
およそ音楽は人の心情から発するもので、感情が心中に動いて声に表現され、声の変化が一定の型をなしたのを楽音というのである。従って平和の世の音楽が安泰(ゆったり)で和音の気を表わすのは、政治がゆるやかだがらである。

乱世の音楽が恨みや怒りの感情を表わすのは、政治が人心に逆らっているからである。亡国の音楽が物悲しく、憂(うれわ)しげであるのは、人民が苦しんでいるからである。このように、音声や音楽の性質は政治の状況に深く関連するのである。
礼記、楽記(儒教)

いにしえの王者の音楽というものは、万事節度を守るべきものだということを教えたものです。だから音楽には五声の調子というものがあり、遅と速、本と末とが互いに連なって中声(中和)の声に達し、中声に達した後には次第に細く急な音調となり、かくて五声のすべてが細く急な音調になった後には、音をかなでることはできません。
そのとき、わずらわしくて手を動かしてみだりがわしい音を出しますと、人の心をみだらにし、聴覚を狂わせ、なごやかな心を失わせてしまうので、君子は聞こうとはしないものです。何事もこのようなものです。
春秋(儒教)

いかなる種類の感情も、リズムと韻律によって生成される。したがって、人間は、音楽によって正しい感情を感じることになじんでいく。そのため、音楽は性格を形成する力を備え、多様な様式に基づく多様な種類の音楽は、性格に対する影響力によって区別される。

例えば、一つは憂鬱な方向に作用し、もう一つは柔弱な方向に作用する。一つはあきらめるようにしむけ、もう一つは自己調節を、そしてもう一つは熱狂などへ誘う。
アリストテレス(ヘレニズム)


芸術の究極的目的は、人間の道徳意識を増強することであり、さらには、必要であればそれを激昂させることである。
ノーマン・メイラー


―み言選集―

人間は、このような心情の法度を蹂躙したので、今日、心情の世界において無限に募る慕わしさに苦しむようになったのです。ある趣味をもち、芸術を通して、学問を通して、または、地上にある何かの愛の対象を通して、この慕わしさを埋めようとしますが、埋める道がなく、苦しまなければならないのが堕落した人類の実相です。これが歴史的な悲哀であり悲劇です。
(6-348、1959.6.28)

第2次世界大戦で勝利したアメリカの女性たちが、天使長である男性たちを好むのは、男性の中の流れ者の群れを好んでいるのです。俳優たちが世界に宣伝したというのは……。この人たちは、天の前には、びりです。女性たちが、それについていって仕えているのです。それに対することができるのは、終わりの日の天使長の役事です。

レバレンド・ムーンは、芸術の中の芸術、文学の中の文学、理想の中の理想をもってきました。踊りを踊って歌を歌う人たち、ハリウッドの群れたちはフリーセックスに溺れていますが、私達は絶対セックスです。エイズ患者たちがたくさんいます。キーロフバレエアカでデミーで恋愛事件が起き、男女問題が起きてはいけません。アメリカの女性たちと男性たちが滅んでいくのを防ぐためです。
(339-152 ~ 153、2000.12.10)

アメリカに行けば、テレビを通して24 時間映画を見ることができます。アクション映画を見ようと思えば見て、戦争映画を見ようと思えば見て、恋愛映画を見ようと思えば見て、ありとあらゆる映画がすべて出てくるのです。ピンク映画まで出ています。

ですから、青少年たちは、すぐにそこに引き込まれていきます。青少年たちは、思想や伝統的な価値観がないので、直接行動に移すのです。御飯を食べて出ていけば、それをしようとするというのです。

青少年がそれを見て刺激的な面を追求しますが、伝統的にそれを制裁できる環境的な与件もありません。家庭の関心の根が青少年と切り離せない因縁を結んでおらず、先生の教えもなく、自分の国に因縁も結んでいないというのです。

ですから、見るやいなや即座に行動するのです。そのようにしていると、この世界は遠からずそのまま完全に滅亡します。男女が抱き合ったまま一緒に滅亡してしまうのです。また、それも保障できないので、麻薬に酔った人類は、それこそすべて精神の抜けた人になってしまいます。人間として価値のない人間に落ちてしまうというのです。

このような環境をどのように変えるのかということが、私達のような人には深刻な問題です。今後、理想世界を創建しようと主張するのなら、根本に入っていき、

このような世界的な問題を解決しなければなりません。このようなすべてのことを評価して、今後、芸術面を中心として、新しい文化創建の伝統基準をどれくらい早く立てるかという問題が深刻なのです。これが世界を統一するにおて、最も至急な問題です。
(241-197~198、1992.12.26)

芸術を行う心の極致は、一つ一つ手からつくられた作品、もろもろの万物万象を通して無限に喜ぼうとされる創造主、神様の心情世界に到達しようとするのです。与えてもまた与えようとし、ために生きてもまたために生きようとし、条件なく投入しても忘れようとするのが神様の心です。その心情世界の根本は、真の愛です。

被造世界に対する神様の創造理想は、その心情から出発されたのです。芸術の原点は、その心に似たものにあります。したがって、芸術世界は国境があり得ません。特定の理念や理想が道具になってはいけまサん。調和と統一が基本原理です。分裂と葛藤は堕落性の結実です。したがって、作
品世界でも、東洋は西洋を理解し、西洋は東洋を受け入れ、四方性と世界性を備えなければなりません。(316-70 ~ 71、2000.2.9)
9.健康と疾病

人間の体は、明らかに創造主の最高の成果の中の一つである。体は、各部分が均衡をとり、生命の動きを維持する。それは、絶えず相互作用する小さな宇宙と同じである。健康を維持し、疾病と闘う自然の原理によって動く。

しかし、体の驚くべき機能に関し、多くの部分がいまだに神秘として残っている。不均衡や疎通の欠如現象によって、体の細胞と器官の間の相互作用が崩れるとき、その結果として疾病と苦痛が生じる。

すると体全体は、問題が生じた部分を助けるために動員される。この点から、体は宇宙的な道徳律を見せてくれる。すなわち、より大きく重要なもののために生きる生き方、そして、全体が損傷す
る前に、全体は一部分の欠乏を保護する生き方を示してくこれる。さらに、治癒において、心または心理的要素の重要性は、決して過小評価することはできない。
医学は、健康増進のために多くのことを成し遂げ、宗教経典においても、医師の役割が認められている。この節で私達は、医学分野の権威者たち、ヒポクラテス、ガリアン、パラケルスス、そして「黄帝内経」のいくつかの章句を『世界経典』に付加した。

文鮮明先生は、東洋医学と西洋医学、科学的医学と霊的治癒方式のうち、最高のものを利用するようにする総合的治療方式を追求する。私達が長寿しようとすれば、健康に良い食べ物を食べ、きれいな水を飲み、汚染されていない空気を吸い、規則的に運動しなければならない。これに付け加えて、文鮮明先生は、すべての人を愛することを付加する。


①体の治癒力

―宗教経典―

だから、多くの部分があっても、一つの体なのです。目が手に向かって「お前は要らない」とは言えず、また、頭が足に向かって「お前たちは要らない」とも言えません。それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです。私達は、体の中でほかよりも恰好が悪いと思われる部分を覆って、もっと恰好よくしようとし、見苦しい部分をもっと見栄えよくしようとします。見栄えのよい部分には、そうする必要はありません。

神は、見劣りのする部分をいっそう引き立たせて、体を組み立てられました。それで、体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合っています。一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が
共に喜ぶのです。
コリント人への手紙一12.20~26(キリスト教)
せかいぢうとこがあしきやいたみしよ
神のみちをせてびきしらすに
おふでさき2.22 (天理教)

人間の身体は血液、粘液、黄胆汁、それに黒胆汁をもっている。これらが人の身体の本性をつくり出している。また、人はこれらによって病気になったり、健康を満喫したりするのだ。もっとも健康を満喫できるのは、これらが互いに適切な比率で混じり合い、結合状態、性質、それに量の点でうまくいっており、完璧に混じり合っている場合だ。病気になるのは、これらのうちのどれかが少なかったり、多かったりした場合、そのほかのものと結合できず孤立している場合だ。

どれかが孤立して単独で存在すると、それが存在しない場所が病気になるだけでなく、存在する場所も、多すぎて、痛みや苦しみに襲われることになる。実際、身体からこれらのどれか一つが余分であふれて流れでると、足らなくなって痛みに襲われるのだ。
ヒポクラテス
それぞれの生命体に多くの治癒力を付与した大自然に大いなる感謝を捧げる。
ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ


―み言選集―

私達の人体を見てください。私達の人体の血管や数多くのものは神秘の王宮です。世界に眼科の医師だけでもどのくらいになると思いますか。ここに眼科の医師は来ましたか。世界に眼科の医師が何百万になるか分からないでしょう? 今後、数千万になると言っても、それを「違う」と否定する人はいません。鼻の博士、口の博士、歯の博士がそうであり、耳の博士もそうです。

これからは、手の爪の博士もいるのであり、細胞の博士も出てくるでしょう。無尽蔵です。真理の宝庫です。このような莫大な宇宙全体を総合したものを代表できる相応的相対体の内容を、私の一身に備えた存在は、小宇宙だといっても誰も否定できず、神秘の王宮なのです。
(203-327、1990.6.28)

このすべての四肢五体は、主体と対象の関係で円満に授け受けできる和合した一つの総合王国です。そのようなすべての授け受けする環境圏内にいるときは、宇宙が保護するので痛みがありません。私の細胞1平方センチメートルには、1気圧の圧力がかかっていることを知らずにいます。均衡を取らなければならないのです。

病気になったということは、一部分が欠如したということです。宇宙の本然的基準で見るとき、主体と対象が完全な理想的相対圏を喪失したために、不合格者は宇宙が引きずり下ろすのです。それが押し出す力です。「お前はもう脱落するのだ」というのです。それが痛みとして現れます。これ
は論理的です。
(204-112、1990.7.1)

皆さん、苦しんだことがあるでしょう? なぜ痛むのかというのです。医師にそのように尋ねれば、それを知りません。「痛むから痛むのだ」と言うのですが、そのような話がどこにありますか。

なぜ痛むのですか。根本に問題が生じれば痛むのです。それでは、根本とは何ですか。この体を中心として自分の生命を維持するにおいて、すべての肢体が主体と対象が授け受けする授受作用をよくしなければなりません。全体が良く授け良く受ければ、その肉体が円滑に運動して、継続して生存するようになります。

この宇宙は、神様の理想的存在形として良く授け良く受けるものをすべて擁護します。擁護するこの世界の要素の中で、反対要素が発生し、欠如し、一箇所が詰まれば、擁護圏で作用できない不合格者になります。

そのようになるので、その反作用で吐き出すようになるのです。それは、宇宙自体の保護のため
です。世界には作用と反作用があります。その反作用は悪いものではありません。大概悪いものと見ますが、それは大きなものを保護するための作用です。

ですから、見る観が変わらなければなりません。
ですから、おなかが痛ければ、それはおなかを中心としてある主体の前に対象的な位置で授け受けできる回路がふさがったということです。ふさがってしまった分、反対に押し出すようになるのです。宇宙力によって押し出す力がそこに作用するので痛むのです。ふさがったものを開きさえすれば、薬でその門を開きさえすれば回復するというのです。
(165-176、1987.5.20)

病気になると、なぜ痛むのですか。均衡が崩れたからです。均衡が崩れたものは、宇宙力が押し出します。痛くなかったとしても、相克が起きるので宇宙力が押し出すのです。死ぬというのです。なくなります。

良心に呵責を受けること自体が、宇宙力の侵害を受けているという事実を知らなければなりません。そのようなことは、絶対に考えてはならず、行ってもいけません。
(400-113、2002.12.28)


②心の治癒力

―宗教経典―

喜びを抱く心はからだを養うが、霊が沈みこんでいると骨まで枯れる。
蔵言17.22(キリスト教)

激情は骨を腐らせる。
箴言14.30(キリスト教)

あなたは霊魂を除外して肉身を治療しようと試みてはいけません。これは、多くの病に対する治療法がギリシャ人の医師たちに知らされていない理由です。すなわち、ギリシャ人の医師たちは、研究すべき全体に対して無知です。全体がよくなければ、部分は決してよくなり得ないからです……
医師たちが霊魂を体から分離するということが、私達の時代に人間の体を扱うにおいて大きな過ちです。
プラトン(ヘレニズム)

今の人はそうではありません。酒を湯茶を飲むように貪り飲み、万事不規則を常とし、酔っぱらって房事を行い、色欲に耽って精気を絶やさんばかり、はては生命の根源である真元気をも消散しかねないていたらくなのです。

およそ精気に対して満を持すということを心得ず、常に精力を過度に消費し、一時の快楽に耽って生命長久の楽しさに背を向け、日常生活万般にわたって規律性がないために、五十歳になるかならぬかに老衰という憂き目を見ることになるのです。
黄帝内経

 

―み言選集―

それをすべて詩的に消化し、心情で消化するのです。その観念が恐ろしいのです。病気になっても、「ああ、私は病気で死ぬ」と思えば死にます。「病気になったのは私に福を下さるためであり、もっと健康になるためだ」、このように考えれば健康になるのです。もっと健康になるというのです。病気が私を侵犯してから出ていけば、もっと健康になります。
(118-327、1982.6.20)

自分自身で「老いた」と思えば、それで終わりです。そのように思えば、老いた老人のようになるのです。老いた自分に対して、精神が衰えないように仕事をつくってしなければならないと常に考えています。そのような精神的な基台が崩れていないので、健康を維持しながら、どのような困難も越えていくことができるのです。精神力というものは偉大なものです。
(205-91、1990.7.7)

いくら健全な精神をもっているとしても、健康な肉体をもつことができなければ、完全な人になることはできず、それと反対に、健康な肉体を所有したとしても、精神が正しくなければ、正しい人の役割を果たすことはできません。このような事実を認識し、皆さん全員が、心と体の正しい統一を成就していくことができるよう、絶えず精進してくださることを願います。
(271-151.、1995.8.27)

革命家になるためには健康でなければなりません。身体的に虚弱では、革命的任務を遂行することができません。
(203-177、1990.6.24)


③医薬

―宗教経典―

神の従僕たちが治療を行う。神が治療をしてくださるのではなく、病を下さるのではないからである。ただ一つ例外があるとすれば、それは老いることである。
ティルミズィーおよびアブー・ダーウード・ハディース(イスラーム)

良い香りの献げ物と、質の良い小麦粉を供え物として献げよ。余裕のあるかぎり十分に、供え物に油を注げ。その上で、医者にも助けを求めよ。主が医者を造られたのだから。

彼を去らせるな。お前には彼が必要なのだ。医者の手によって病気が治る時もある。医者もまた主に祈り求めているのだ。病人の苦しみを和らげ、命を永らえさせる治療に成功することを。
シラ書〔集会の書〕38.11 ~ 14(キリスト教)

治療師たちは、幻想の中で霊魂たちから医術に関して学んだ。その霊魂たちは、彼らに何をどのように使うのかを話してくれた。彼らの薬物は、常に歯や根である。……彼らは、病を汗、嘔吐、排便、小便、呼吸を通して追い出す。
オグララ・スー部族の伝承(アメリカ先住民の宗教)

ヘクラ(守護霊)は……あなたが奪われた魂を取り戻してくるように助ける。あなたの道を失わないことに対してヘクラに感謝せよ。あなたは病の霊たちを追い出すことができる。彼らの臭いのために、あなたは彼らを知ることができる。あらゆる霊は、独特な臭いを漂わせる。そして、彼らのハンモックにも臭いがしみついている。その臭いは、彼らが皆所持するワトタから出てくる。質のよい幻覚剤は、あなだが、たった今魂を盗んだ霊を見て、その名を語ることができるようにする。「罪のある者は誰々だ」とあなたは考える。そして、あなたに近いヘクラがその霊を追い出すようにする。ヤノマミ族のシャーマンの教え(アメリカ先住民の宗教)
大自然の教訓は、医者が解読しなければならない本である。そのために彼は落ち葉を踏んで歩かなければならない。(注15)
パラケルスス

医者は大自然の助手である。
ガレノス


―み言選集―

医学では、堕落によって生じた肉身の病を治療するだけでなく、東西文化の和合を通して東洋と西洋の葛藤までも治すようになるという次元で、統一思想と統一医学を開発しなければなりません。
東西思想と医学が一つになってこそ、これからエイズのような難病を治すことができるようになるのです。韓国では、医学教育を全く受けていない農村の若い人たちの中に、エイズのような現代医学でも治すのが難しい病を治すことができる特別な治療法を、霊界から教えられた人たちがたくさんいます。ですから、霊的世界の事実を認めなければ、大きな問題が起きるのです。
(287-39、1997.8.10)

薬というものは何でしょうか。相克する天敵が薬です。頭が病気にかかれば、天敵のしっぽを使えば、それが薬になるのです。漢方薬の材料を探してみると、本当におもしろいです。薬というものは、東側で病気が発生すれば、西側の端を治療するのが薬です。(注16)(325-148、2000.6.30)

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世界経典-13

2020年10月06日 19時35分51秒 | 学習


6.自然保護

キリスト教の聖書において人間の本郷のイメージは、荒野ではなく美しい園である。神様は、人間に保護され、維持され、また豊かな園に育てるよう自然を委託した。

自然保護に関する倫理がこの章句に描写されている。この章句は、苦痛を受けている動物たちの保護、天然資源の適切な管理、絶滅の危機にある動植物たちの保全、適切な量の漁獲高、環境の親和的開発を勧告している。

そして、私達に過度な漁獲量、山林の毀損、水と大気の汚染を避け、自然の均衡を大切に考えることを教える。私達は、度を越えた消費と過度なごみの排出を避けなければならず、自然が恵む環境と調和を成しながら生きなければならない。

しかし、自然に対する責務を立派に遂行できる前提条件がある。私達は、ほかの人間たちと調和して暮らすことを学ばなければならない。「狼と小羊は共に草をはみ」というキリスト教の聖書の預言は、天倫に従って互いに平和に生きていかなければならない人間たちに関する叙述である。

①被造物の保護

―宗教経典―

「知恵ある人は多くの魂をとらえる」(蔵言11.30)とラビは語られた。「この聖句は、ノアに対して語られたものです。ノアは箱舟で手厚く動物たちに食べさせ、世話をしてあげました。動物一匹一匹に特別な食べ物を与え、ころあいに合わせてこれを食べさせました。ある動物たちには昼に、ほかの動物たちは夜にもえさを与えました。ラクダには引いた藁を、ろばには麦を、象には蔓を、だちょうには芝を与えました。いつも動物たちにえさを与えるために忙しく、彼は12 か月間、昼夜きちんと眠ることができませんでした」。
タンフーマ、ノア15a、(ユダヤ教)

アブ・フライラが神の使徒のみ言を伝えた。「道を歩いていたある旅行者がひどく渇きをおぼえ、井戸を降りて水を飲んだ。彼が上がってくると、一匹の犬が、のどが渇いて息を切らせ、濡れた地面を紙めているのを見た。彼は、『この動物は、私くらいのどか渇いて苦痛を受けている!』とつぶやいた。それで、彼はまた井戸を降りていき、自分の靴に水をいっぱいに満たし、それを口にく
わえて井戸を這い上がって犬に水を与えた。神がその行動を見て喜ばれ、彼の罪をすべて許してくださった」。

誰かが言った。「神の使徒よ、そうであれば、私達が動物に良いことをしたことも補償を受けるのですか」「補償されます」と彼は答えた。「おとなしい心をもった存在に水を与えた者は誰であってもそうなのです」。
ブハーリー・ハディース(イスラーム)

願わくばすべての有情たち、虫さえもが誰一人としてサンサーラの生に繋がれぬよう、願わくば私にかれらのすべてを救済させたまえ。
ミラレパ(仏教)


蟻の穴の入り口などに、食物、水、粗糖、穀類を、心堅固である人びとをして、つねに散布させなさい。食事の前後に、餓鬼、蟻、鳥などに、好むままにつねに食物を施与してください。
龍樹宝行王正論249 ~ 50(仏教)

先生は魚釣りはされるがはえなわは使われず、鳥のいぐるみはされるがねぐらの鳥はうたれない。
論語7.26 (儒教)

御身どもに牛の魂は訴えた「だれのために私を御身どもは創造したのですか、だれが私を造成したのですか。私をアエーシュマと暴虐、残虐、それに虐待と暴行がしめつけています。私には、御身どもよりほかに、牧養者がありません。ですから、私にとって、牧養がよきものとみえますように。」

そこで牛の造成者はアシャにたずねた「御身は牛のための裁き人をおもちですか――その支配者たる御身たちが、牧地とともに、牛飼いの熱意をもつくり出されるためにです。不義者どもとともに、アエーシュマをも追い払うべき主としてだれを、御身たちは彼(牛)のために望んでいるのですか。」

彼(牛)にアシャを通して、「牛には抜苦的援助者なし」と返答し給うた。「身分の高いものたちが低いものたちに、どのように対処すべきか、彼らにはわかっていないからであるが、生あるものどものうちで最強なるものといえば、われ(アフラ)がその呼び声に応じ助けをさしのべて赴くところのものである。」

マズダーは企てを最もよく銘記し給うもの。まことになされたことを御心にとどめてくださるよう、そしてまた諸天と諸人によってなされるであろうことをも御心に記してくださるよう。その判決者におわすアフラ――そのかたが望み給うとおりに、してくださるよう。

「マズダーを裁きに促しまいらせるために、わが魂と乳牛の魂となるわれらふたりは、まことに手をのばし、アフラに参進しているところです。不義者どもにとりまかれては、正しい生活者にも生きゆく道がなく、牧畜者にもありません。」

そこで、霊感のなかに秘義を知ってましますアフラ・マズダーは仰せられた。「まことに天則によってのことであるが、全く教え人もなければ裁き人もない。というのは、なんじ(牛)を牧畜者と牧養者とのために造成者は創造したからである。

「『牛に水飼場を、そして飢渇せるものたちにも』――教えを下して聖マズダー一アフラは、アシャと心を合わせて、この酪の蔵言をつくり出し給うたぞ。」「ウォフ・マナフと相たずさえて、ふたりを人間のために大切にしてくれる何者を、御身はおもちですか。」

「このものは、ただひとり、われらの教えに傾聴したものとして、ここで私によってみとめられたるものザラスシュトラ・スピターマです。彼は、マズダーよ、われらと天則とに頌歌を献詠しようと望んでいるのです。どうか、彼に、詞葉の華を頒与し給わんことを。」すると、牛の魂は嘆いた「無力なる飼育者に満足しなければならぬとは、非力なる人の声に――強権をもって支配するものを望んでいるこの私なのに。手をかして彼に助けをざしのべるものは、いつのときにあらわれるのでしょう。」(注12)
アヴェスター・ヤスナ29.1 ~ 9(ゾロアスター教)


―み言選集―

神様を愛することは、自分の足元からです。自分の前にある物を愛し、万物を愛するのです。愛した物を私が生命の要素として吸収するのです。愛するのと同じ、対等な愛で愛してあげなければなりません。

このような愛を知らなければ、愛することはできません。この宇宙というもの全体が愛でできているので、私もそこにぶら下がっているのです。ですから、ために生きてあげれば、天下がすべて私の懐に入ってきます。
(290-129、1998.2.15)

動物世界も言葉が通じるのです。花に向かって歌えば、花はよく育ちます。花の放つ香りもより新鮮になるのです。花も、音楽を好み、芸術を好むのです。
(262-127、1994.723)


昔、牛を使って「えいや、やあやあ」と言って田を耕していた時は、気分が悪い時が多かったのではないですか。そのような時に、「この牛、なぜお前はこうなのか。私がこの一時に使おうと思って、すべての精誠を尽くして育ててきたのに、なぜ言うことを聞かないのか」と言いながら、細い木の枝で容赦なく牛のしりをたたいたりするよりも、(おい、冬の間ずっと休んでいたお前を、
あいさつもせずに春の日に引っ張り出し、よく食べさせもせずに使って、申し訳ない」と言って、牛以上に我慢する心をもって、ジャブジャブと音を立てながら耕せば、天は、むしろその人をより近いと感じるのです。
(127-90、1983.5.5)

被造世界の中心である人間は、神様の愛を願います。また、動物世界の犬も、豚も、馬までも誰の愛を願うでしょうか。人の愛を願うのです。これを知らなければなりません。植物までもそうです。植物たちは動物の愛を願います。
動物の中に最高の存在が人間だとすれば、人間の愛を受けるその動物たちが万物を愛し……。愛も系列的にすべてのものと連結するのですが、これが何かというと真の愛です。

ですから、真の愛の終点に行って、さあっと見下ろせば、あの果てには神様が見え、その次には人が見え、その次には動物が見え、その次には植物が見え、その次には鉱物が見えます。これをとんとんとたたけば、ちゃらんちゃらんと、すべてついていくというのです。
(166-51、1987.5.28)

最初に獲った鯉を放してあげました。そして、お前は愛を通して生まれ、愛のために死ぬのが道理なので、愛する人々のために生きることはうれしいか、死ぬことはうれしいか」という、このような問題を中心として考えてみました。
(93-190、1977.5.29)


魚も雄と雌を解放してあげ、動物を解放してあげるのです。今までのように、自然から捕まえてこのように生きるよりも、主人がいて、捕まえなくても、主人が準備してくれたものを食べて生きていける世の中をつくらなければなりません。
(388-270、2002.8.2)


②保存と持続的発展

―宗教経典―

ムスリムは木を植えたり、地を耕作したりしないが、そこで鳥たちと人、獣が食べて過ごす。しかし、これが正にそれに代わる慈悲である。
ムスリム・ハディース(イスラーム)

大地は真実な者が蜜と草木と果実を育てる所であり、渇いた地に水を与えたり、じめじめした地を渇かす所で幸福を感じる。
アヴェスター、ヴィデーヴダート7.1 ~ 4(ゾロアスター教)

池や沼には目の細かい網を入れ〔幼魚を捕ったり〕させなければ、魚やすっぽんの類はとても食べきれないほどよく繁殖するものです。秋と冬だけしか、斧や木伐りをさせないように〔季節を制限〕すれば、材木はとても使いきれないほどよく繁茂するものです。
かように穀物も魚やすっぽんも材木も使いきれないほど豊かになれば、人民の生活は安定して父母や妻子を養うにも、死者を弔うにも、なに一つ遺憾なくできるものです。これこそ王道政治の手始めなのです。
孟子I.A.3(儒教)

ある日、ホニ・ハマゲルが旅行に出たとき、ある男がいなご豆の木を植えるのを見た。彼に近づいて尋ねた。「この木が実を結ぼうとすれば、どのくらいかかりますか」、その男は答えた、「70 年かかります」。

また尋ねた。「70 年さらに生きて、実を見ることができるという補償がありますか」、その男が答えた。「私はあちこちで大きく育ったいなご豆の木を見ます。私達の先祖が私のために植えておかれたので、私も子孫のために植えるのです」。
タルムード・タアニート23a (ユダヤ教)


ある部族の神聖な輪でも、天地万物の巨大な円を構成する多くのものの中の一つにすぎない。その中で、一人の母と一人の父のすべての子供たちを保護してくれる強力な生命の草花が育つ。すべての生命は神聖だ。

この地の原住民たちは、私達が大地の一部分であり、大地は私達の一部分だということを意識する、その輪の知恵で長く生きてきた。神にとって大切なこの大地を損傷することは――その輪の均衡を揺るがせることは――創造主に軽蔑をうずたかく積み上げて捧げることである。

ゆえに、私達のすべての精誠の心で、私達の孫と孫娘と7代の子孫までのために、大地の均衡を回復させなければならない。
ブラックエルク族(アメリカ先住民の宗教)

主はシナイ山でモーセに仰せになった。イスラエルの人々に告げてこう言いなさい。あなたたちが私の与える土地に入ったならば、主のための安息をその土地にも与えなさい。六年の間は畑に種を蒔き、ぶどう畑の手入れをし、収穫することができるが、七年目には全き安息を土地に与えねばならない。これは主のための安息である。畑に種を蒔いてはならない。ぶとう畑の手入れをしてはならない。
レビ記25.1 ~ 4(キリスト教)

地上に悪を広めることにつとめ、収獲物や家畜を荒しまわる。だが神は邪悪をめでたまわぬ。
クルアーン2.205 (イスラーム)

あなたが町を攻略しようとして、長期にわたって包囲するとき、斧を振るってその町の木を切り尽くしてはならない。本の実は食糧になるから、それを切り倒してはならない。一体、野の木はあなたの前から城壁に囲まれた町に逃げ込む人間なのか。
申命記20.19 (キリスト教)

草木を伐れば波逸提なり。(注13)
波逸提11(仏教)

往昔コーラヴヤ王に善住と名くるニグローダ王あり、五條の枝あり、蔭涼しく、悦意なり、……王の覆ふ所は十二ウオージャナにして、根の〔地に〕入ること五由旬ありたり、果は甘美にして宛も蜜蜂の生蜜如くなりき、……果を守護する人あること無し、されど相互に果を損害せず、しかるに……一人あり、大王の果を飽IVし、枝を折りて去るとは、……王は當来果を生ずることなからしめんと、されば、爾後果を生ぜざりき、
阿含経増支部iii.368 (仏教)


―み言選集―

人間が公害問題をどのように解決するのかが大きな問題です。今学者たちは、オゾン層が破壊されれば、世界人類は太陽の紫外線のために生存できないと言っています。気候の変動が、すべてそのような影響を受けてなされるからです。

早く人類を原始時代のように、山のすそに行って暮らすようにしなければなりません。小便をしても、肥料になればよいのですが、公害にならないようにしなければならないというのです。
(203-56、1990.6.14)

動物も絶滅させてはいけません。すべて私達が育てて公開しなければなりません。このような動物園を造らなければならないのです。展示する動物園であると同時に、生産する動物園を造らなければなりません。昆虫も保護しなければなりません。植物や動物たちの餌だからです。
これを保護して育てなければなりません。世界に種がなくならないように保護しなければならないのです。
(324-118、2000.6.17)

人類が自然を加工し、平準化させて、生存できる基盤をつくらなければなりません。そうでなければ、人類が滅亡します。既に昆虫が死んでいき、魚が死に、獣が死んでいっています。このまま行けば、これから600 年、いや300 年を越えることはできません。そのまま放置すれば、人類は滅亡するというのです。
(326-152、2000.7.7)

これからは、私達が魚を家で育てて送り出すのです。鶏を育てるのと同じように、養殖して、海にたくさんの種類の魚を送らなければなりません。送ってあげて、愛してから、捕まえて食べるのです。愛を受けた万物は、主人に報いるために、命を生きた祭物として奉献するのです。それで、これからは、捕まえるよりも育てて開放しなければなりません。
オキアミは高品質のたんぱく質をもつているので、万物を育てる資源になるのです。すべての動物の子に食べさせて生かし得る飼料になります。それは、人類のための飼料です。万物のための飼料として、私達が供給していかなければなりましせん。

それで、このようなことを計画することによって、海から人類の食糧問題を解決するのです。人類の食糧問題を解決する道は、この道しかありません。
砂漠地帯にも、パイプを埋めて養殖場を造ることができます。アラスカにある石油をアメリカの本土まで何千万里を運んでいくのと同じように、海水をどこにでも、また淡水をどこにでも運べるのです。淡水をそのようにしようとすれば、アマゾン川しかありません。

これを世界に送り、砂漠地帯でも養殖をするのです。魚を愛で育てて、食べて暮らすのです。そこに同伴して、砂漠に養殖場を造れば、そこで水草をいくらでも育てることができます。今、陸地がだんだんと砂漠に変わっていっています。その反対に、人工的に養殖場を造り、養殖場を中心に海洋の水草を育て、陸地の樹木と合わせて、いくらでも栄養素をつくり出せると思います。私達がやろうとしている養殖は、一つの分野だけではありません。大砂漠でも養殖することができるのです。食糧を無限につくり出すことができます。
(324-114 ~ 115、2000.6.17)

ローマクラブの研究は、世界の資源と環境の限界を明確に指摘し、このような世界的な諸問題に対する妥当で完璧な解決のための汎世界的接近と協働的努力が、絶対に必要であることを明白にしました。

このような諸問題は、世界のあらゆる民族に献身的態度と協力を求め、ある社会や国家の利益を超越する世界観を必要とします。そのような協働精神は、全人類が同じ人間家族の構成員だと自らみなす時にこそできるものです。
そのようなイデオロギーに対する人間のこの革命的な変化は、今日、人間の生存のために長い間必要だったのであり、また、それは必須、不可欠のものなのです。
(74-108 ~ 109、1974.11.22)

③エデンの園の復帰

―宗教経典―

主なる神は人を連れて来て、エデンの園に住まわせ、人がそこを耕し、守るようにされた。
創世記2.15 (キリスト教)

主なる神が最初に人間を創造され、彼にエデンの園のすべての木を見せてくださって語られた。「私の作品を見よ。これはどれほど美しく、素晴らしいか!あらゆる被造物は、私がお前のためにつくったのだ。ゆえに、これらが滅びることがないよう、注意深く世話をしなさい。お前が滅ぼせば、お前に代わって復旧する者が誰もいない」。
伝道の書ラッバー7.13(ユダヤ教)

太古の時代には、民は家にいても何の仕事をしてよいか知らず、外出しても目的地を知らないという、無知そのもののありさまであり、ただ食物を口にほおばって楽しみ、腹鼓をうって遊ぶという生活を送っていた。
民にできることといえば、これがすべてであった。至高の徳が行なわれた世では、人びとは鳥獣と同居し、万物と区別なく集まりすんでいた。あらゆる差別がなかったのであるから、むろん君子と小人との差別を知るはずもなかった。

すべてについて分別がなく、無知そのものであり、その心の徳は自然から離れることがなかった。すべてについて差別がなく無欲であり、このような状態にあることを素朴というのである。素朴の状態にあってこそ、人間の本性が完全性を得るのである。
荘子9(道教)

狼は小羊と共に宿り、豹は子山羊と共に伏す。
子牛は若獅子と共に育ち、小さい子供がそれらを導く。牛も熊も共に草をはみ、その子らは共に伏し、獅子も牛もひとしく干し草を食らう。


乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ、幼子は蝮の巣に手を入れる。私の聖なる山においては、何ものも害を加えず、滅ぼすこともない。水が海を覆っているように、大地は主を知る知識で満たされる。(注14)
イザヤ書11.6 ~ 9(キリスト教)


―み言選集―

私達の世界は、深刻な環境危機に直面しています。環境汚染と自然破壊は、神様が創造された美しく神聖な世界を冒涜するのと同じです。真の愛のない人は、自然世界を単純に利己的な利用物とばかり考えるだけです。

堕落がもたらした深刻な結果の一つは、アダムとエバが神様の真の愛を相続できなくなることによって、人々や動植物や地を正しく愛することができなくなったことです。

万物は、人間の真の愛を待ち焦がれています。私は、南米で理想社会の建設とともに、人間が自然と正しい愛の関係を結ぶよう、一つの模範を見せてあげようと思います。
(271-75 ~ 76、1995.8.22)

自然を愛することができてこそ、人を愛することができるのです。再びそうしなければなりません。復帰なのです。復帰。アダムが万物を愛せなかったので、万物を愛さなければなりません。郷土に帰って自然を愛さなければなりません。近所の草からあらゆる山川草木に至るまで、すべてを愛さなければならないのです。すべてを愛してから人を愛するのです。山川草木、動物まで、すべて愛することのできる立場に立ったならば、その基盤の上で人を愛するのです。
(175-32、1988.4.6)

この地上が荒廃していくのを防がなければなりません。毎年砂漠が増えています。木がないからです。私達統一教会は、神様が創造したように、種といこう種はすべて手に入れ、根という根はすべて手に入れ、枝を切って挿し木にしなければなりません。そしてこの地上に万物を創造した神様の愛を身代わりして植えなければなりません。

国土を保護しなければなりません。国土とは何か
というと、草木があり、動物がいて、それから人間がいなければなりません。これが廃虚になれば、人生は自動的に廃虚の歴史になるのです。

創造理想の目的が埋没せざるを得ない運命におかれているので、私達は神様を愛し、神権の国を愛すると同時に、神様の主権を愛すると同時に、神様の国民を愛し、神様の地を保護し、万物全体を再創造して、神様の創造理想世界の豊かな解放的自然世界をつくらなければなりません。
(304-254 ~ 255、1999.11.8)

7.美しさ

山の威厳、花の微妙な色調、日没の壮麗な落照、草の葉の先についた朝露の輝きなど、美しさは自然の中にあふれている。そこには、形態と色、光と影、音と沈黙の調和がある。調和は美しさの一側面である。調和は、宇宙の構造それ自体にもともと宿っている。

古代人たちは、数学こそ音楽の土台だということを知っていたのであり、今日の科学者たちは、星々の動きと原子の特徴から、「惑星のリズム」に関してより多くのことを学ぶ。さえずる鳥たちと鳴く昆虫たちは、彼らが愛を求めるとき、自然のリズムを歌う。彼らは、自らの中に固有な調和を表現している。

人間の音楽は、それと比較することはできない。人間堕落の不調和状態は、不協和音を出すように運命づけられている。そのような人間が、自然のように調和することさえできたならば!

最上の被造物として、人間は至高無上の美しさを現さなければならない。人々は、歌い、踊り、美しい芸術を創造するが、それ以上に私達は、互いの関係の中で愛を分かち合いながら美しさを発見する。

互いに愛する一組の男女、年老いた父母を世話する親孝行な子女、自分の国の福祉のために犠牲的な努力を惜しまない忠実な市民に、内面の美しさがある。人々がこのような方法で表現する美しさは、また神様を賛美することであり、神様は自分が創造した世界に充満した美しさを見て喜ぶ。このような内的美しさは、霊界で明確に現れる。霊界での美しさは、そのような資格を備えた者たちだけに、満ちあふれて現れる。

①自然美

―宗教経典―

なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。
マタイによる福音書6.28 ~ 29(キリスト教)

神は美そのものであり、美を愛する。
ムスリム・ハディース(イスラーム)

神はなんじらのために、大地を休息所とされ、大空を天蓋となされ、また、なんじらに姿を授けて、みごとに形作りたまい、もろもろの良い給与を支給された方であられる。これがなんじらの主神であられる。よろず世の養育の主神を祝福し奉る。
クルアーン40.64 (イスラーム)

「庇護者」の名をもって知られるのが、永遠の理法で身をまとった女神である。彼女の美しさにより、これらの木々は緑色をなし、緑色の花みをつけるのである。
アタルヴァ・ヴェーダ10.8.31 (ヒンドゥー教)

唯一にして、色相なく、多様なる大龍(シアクティ)を用いて、玄秘なる目的のために、数多の色相(ルーペ)を配分せる神、万物が世界の終わりに散ずるもそれにおいてし、世界の初めに会(あつ)まるもそれにおいてする神かかる神のわれらに清浄なる覚智の賦与したまわんことを。
シヴェーターシヴァタラ・ウパニシャッド4.1(ヒンドゥー教)

私の前の美しい光景よ。
私の後ろの美しい光景よ。
私の下の美しい光景よ。
私の上の美しい光景よ。
私をその中で歩くようにしてほしい。
ナバホ族の歌(アメリカ先住民の宗教)

おまえたちは神が、七天をいかに層また層につくたまえるか、また月をその中の灯明とされ、太陽を輝く光りとなされたかを、考えてみなかったか。
クルアーン71.15 (イスラーム)

それが染み込んだ宇宙の空から、
滞ることなく霊妙な錘を取るのだが、
表現できない壮麗さだ。
アーディ・グラント、ガウリー・スクマニー23.1、M5、p.293 (シーク教)

音楽は天地の間の(自然の)和合作用を代表するものであり、礼儀は天地の間の秩序を代表するものである。天地の間に和合作用があるから万物はみなし、秩序があるから万物それぞれの地位や機能を保ち得るのである。

また、音楽は天(の陽気)に基づいて作られ、礼儀は地(の陰気)に基づいて定められるのであって、……即ち天地(自然)の道を明らかに知る者にして、始めて礼楽を正しく用い、その効用を盛んに発揮させる)ことができるのである。礼記19(儒教)

自然は神の芸術である。
ダンテ・アリギエーリ

―み言選集―

博物館にある、何かの作品がどんなに貴重だと言っても、生きている作品にかないますか。神様の作品であるこの地球星の万物博物館を、誰が神様以上に愛したのかというのです。自分の国の博物館以上に愛したのかというのです。
(175-187、1988.4.16)

昆虫世界を見れば、昆虫世界でも、オーケストラが展開します。せみの声から一度聞いてみてください。「ミンミン」と鳴けば、すべてその拍子に合わせて歌います。現在の有名なオーケストラが問題ではありません。
(285-243、1997.6.5)

私達が森羅万象、自然界を見つめるとき、四季に従って変わる自然現象と時によってすべての万物が和動し、美を現すのを見るとき、私達は無意味な心情で見つめてはいけません。私は、鳥を見たり、蝶や蜂を見たりするとき、流れる水やそびえる峰を見るときも、このすべてが創造された神様の内的な心情の反映された姿だという事実を感じます。私達は、それを感じることができなければなりません。

多くの芸術家がいて、多くの文学者がいますが、あらゆる芸術家と文学者たちは、一様に多くの形容詞を動員し、被造世界、すなわち万物の美を現しています。そして、この自然は、芸術や文学と密接な関係をもっています。

被造世界、すなわち自然を外せば、私達が楽しむことのできる相対的条件が、言うまでもなく減少するという事実を考えるとき、なくてはならない自然であり、感じなければならない自然だということを知ることができます。
(5-343、1959.3.8)

一人孤独に死ぬのですが……。なぜ孤独に死ぬのですか。そのようなときは、庭園に出ていって花を見つめ、香りをかぎながら、「この香りよ、お前はどこから来たのか」と香りと語るのです。
「どこから来たのかも何も、私の祖父母の香りから来た」、このように尋ねてみると、神様から来たというのです。神様が私のためにこのような庭園を装ってくださったのです。このすべてのもの
は、生きている博物館です。生きた命をもつ博物館を私に付与したのが庭園なのです。ピカソの一枚の絵がいくら美しいとしても、生きている一株の草もつくることができません。

「神様の博物館を見物する」と考えてみましたか。ねこやなぎをもって、「ああ、きれいだ。これは誰のためにつくったのだろう」、そのようなことを考えてみましたか。肌寒い春の日、その川辺の氷の下から雪解け水が流れていくのですが、ねこやなぎが花を咲かせます。

それがどれほど素晴らしいかというのです。果たして誰のためにそのように咲くのかというのです。愛する息子、娘が、のどか渇いて氷水を飲みたいと思うとき、拳で氷を割り、その水を飲んでねこやごなぎを見るとき、このように歌を歌うことのできる一つの象徴体としてこのねこやなぎをつくったとすれば、それはどれほど素晴らしいでしょうか。ですから、生活がどれほど潤沢かというのです。愛の博物館を私達が観覧し、そのすべての博物館と語ることができ、友人にできるこのような環境で生きているのです。……このような驚くべき愛の世界と因縁を結ぶために、地上世界に生まれたということを思うとき、なぜ孤独なのですか。
(112-220、1981.4.12)

創造の父よ! あなたの美しさがすべての万物、万象に現れ、あなたのみ手を経ていった形状の上には奥妙さと顕現の美が満ちあふれております。人間に対する創造目的である美を、きょうも休むことなく訪ねていかれるお父様の切ない心を、私が心と体で体恤することができ、あなたの愛に美で対することができるよう許諾してください。
(1-102、1956.6.10)

②人間美

―宗教経典―

花の香りは風に逆らって進んで行かない。栴檀(せんだん)もタガラの花もジャスミンもみなそうである。しかし徳のある人々の香りは、風に逆らっても進んで行く。徳のある人はすべての方向に薫る。
法句経54(仏教)

先生がいわれた、「仁に居るのが立派なことだ。」
論語4.1 (儒教)

村でも、林にせよ、低地にせよ平地にせよ、聖者の住む土地は楽しい。
法句径98(仏教)

霊的力のために、神の脈拍により浄化されることにより、私達は美しいすべてのものを思う。
リグ・ヴェーダ5.82.6 (ヒンドゥー教)
私は主によって喜び楽しみ、私の魂は私の神にあって喜び躍る。主は救いの衣を私に着せ、恵みの晴れ着をまとわせてくださる。花婿のように輝きの冠をかぶらせ、花嫁のように宝石で飾ってくださる。
イザヤ書61.10 (キリスト教)

あなたがたの装いは、編んだ髪や金の飾り、あるいは派手な衣服といった外面的なものであってはなりません。むしろそれは、柔和でしとやかな気立てという朽ちないもので飾られた、内面的な人柄であるべきです。このような装いこそ、神の御前でまことに価値があるのです。
ペテロの手紙一3.3 ~ 4(キリスト教)

事実、音楽には三つの類型がある。第一の類型は宇宙の音楽であり、第二の類型は人間の音楽であり、第三の類型は旋律をつくりだす、ー定の道具によって創造された音楽である。……今、第一の類型、宇宙の音楽は、人間が天それ自体から感知するものから、または元素の構造から、または季節の多様性から……最もよく観察される。それゆえ、この天体の運動で、音楽的転調に対するある固定された秩序があることは間違いない。

今、人間は自分自身を検討することにより、人間の音楽を理解するようになる。ある調和、いわゆる高低の調べが、一つの和音を形成するやリ方で注意深く調律することを除いては、何のために理性の非物質的存在が肉体と連合するだろうか。
ボエティウス

少なくとも徳を得るためならば、そして一段とすぐれた者になるためならば、人も選ばず、事も選ばずによろこんで相手につくそうという姿……何よりも美しい姿だからである。

このようなわけで、少なくとも徳を得んがために愛をうけ入れることは、その事と仕方とを問わず、一切美しいことなのである。この徳を目指しての愛が、すなわち天上{ウーラニアー}の女神に属する愛なのだ。

その愛は、自身も天上的であり、また、都市(くに)個人のいかんを問わず、いずれにとっても、こよなき値をもつものなのだ。なぜなら、その愛は、愛する者は、愛される者をして、徳を目指しつつ、自分自身を気づかうようにせしめるからだ。
プラトン饗宴(ヘレニズム)


―み言選集―

修養の世界での感じはこうです。恩恵を受けた人、神様の愛を受ける人は美しく見えます。愛を受ければ美しく見えるのです。どれほど美しく見えるのでしょうか。光のように見えるのです。ですから、光を発することができます。

これと同じように、すべての存在がそのような光を発するようになれば、ろくでもない人、つまり愚かな人がいないというのです。
(33-88、1970.8.9)

本然の美とは、どのような美でしょうか。それは、ほほえみと歌と踊りで現せる美であり、神様に栄光をお返しできる永遠の価値としての美なのです。本然のエデンの園が、正にこのような美の世界でした。
(2-245、1957.6.9)


愛のめがねをかけていれば、すべて良くないものがなく、悪いものがないのです。いくら器量が悪くても、味があるというのです。おいしい食事もそうです。見栄えが良く、きれいなものは、その中が悪いのです。しかし、見栄えの良くないものは、その中が良いというのです。これは、すべて相対的になっています。

ですから、美人は薄幸でよく変わりますが、かぼちゃのように器量が良くなければ、内的にすべてのものが美しいのです。良心も美しく、見ていて
も美しく、揺れ動かないのです。ですから、いくら女性が世の中を支配しても、女性が完成するには愛を求めなければなりません。これが最も貴重な真理です。
(162-47、1987.3.22)

いくら湖が良くても、汚水がたまっていれば、おもしろくないのです。ですから、汚水の中で青く光るはすの花が咲いているという事実が驚くべぎことです。花が咲いたので、池が生きるのです。一輪の花によって、醜いものになり得る池が美しくなります。人々も、悪なる人の中に愛が残っていれば、美しさが現れるようになるのです。
(354-21、2001.9.16)

いくら女性が美しくても、その美しさだけで目的がなければ、どのようになりますか。筒の中に入っている美しい人形がよいですか。「あなたは、そのような美人になって一日中座っていなさい」と言えば、「ああ!」と言って女性たちはみな逃げていくでしょう。そのように座っているのが、美しさにおいて理想型ですか、あちこち歩き回るのが理想型ですか。

女性の美しさの夢が、男性のところにいって終わるとすれば、それは気分が良いのです。なぜそうなのですか。夢自体が男性ではなく、男性の中にもう一つの何かがあることを知らなければなりません。それは何でしょうか。それが愛です。美しい夢が定着して喜び得る終着点とは何かというと、愛です。
(116-10 ~ 11、1981.12.01)

本当の愛の心で見れば、化粧をきれいにして美しく装ったのと、ひたすら苦労して努力するのと、どちらの女性がより美しいですか。洗濯をして、床を磨き、子供の世話をする、そこに理想郷があることを知らなければなりません。
(129-176、1983.10.30)

あの国には奉仕もありません。どれほど互いに「ために生きる」人生を生きたのかということが問題です。それがあの国の人格の美です。それが愛の完成をなすので、美しさの中の最高の美しさなのです。丸くて美しい形態はありますが。
(307-166、1998.11.8)

あの国の重要な話題とは何でしょうか。調和です。均衡と統一です。何を中心とするのでしょうか。「ああ、私は顔が美しいので、私を中心として調和を成さなければならない!」、そのように言うのですか。

あの国では、いくら美しいことを誇っても、すべての人が「私はあなたより、もっと美しい!」と言うのです。周囲がすべて美しさを備えています。周囲を見ることができなければなりません。そこは立体的に見るのです。
(217-143、1991.5.19)

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世界経典-12

2020年10月06日 19時32分40秒 | 学習

4.小宇宙と大宇宙

人間は、小宇宙として、その中にあらゆる宇宙の本質を凝縮してもっている。逆説的に言えば、宇宙全体は、大宇宙の中の人間に似た存在である。

世界の宗教の諸経典は、このような洞察を神話的、哲学的な言語で表現する。空間と時間のすべての流れの中で、小宇宙としての人間は、被造万物すべてを把握し、使用し、喜び、楽しむことのできる根拠をもっている。あらゆる被造物の中で人間は、最も広大な思惟と行動範囲をもち、すべてのものを包括し、すべてのものを知って評価し、すべてのものを導いて豊かにし、また、すべてのものを超越する。

文鮮明先生の教えのように、小宇宙である人間は、宇宙を愛し、宇宙を保護しなければならない責任をもっている。大宇宙と小宇宙が相応する源泉とは何か。ウパニシャッドとその他の神秘的経典は、原初的人間、すなわちプルシャ、またはメタトロンが創造以前に存在し、それに形態を付与した宇宙的人間を描写する。文鮮明先生は、創造前、神様の心の中にある創造のモデルである宇宙的人間の「原型」を語る。それを創造の始発とし、宇宙創造の過程で低い段階から高い段階の自然のあらゆる諸要素は、それらが創造されるとき、人間において人間を構成する要素として再結合された。さらには、それは、霊界を一人の巨大な人間をモデル化した姿で描写する。

―宗教経典―

聖なる神が世を創造されるが、そのあらゆるものを人に似せてつくられた。
タルムード、アヴォート・デ・ラビ・ナタン31(ユダヤ教)

一切万有が私の中から起き、三界がまた私の中から起き、私によってこのすべてが広がっていくがゆえに、この世はそれ以外の何者でもない。
呼金剛8.41 (仏教)

自身の内密な自我を知る者は、また一切万有の宇宙を一つ残らず知り、一切万有の外部世界を知る者はまた、自身の内密な自我を知る。
アーヤーランガ・スッタ1.147(ジャイナ教)

そもそも人間は天地二徳の和合、陰陽両性の交通、諸神諸霊の協力、五行(木火土金水)の最良の精気の配合によって、作り出されている。(注6)

天は陽性を備えて日や星辰を空に列ね、地は陰性を備えて山野川海を形成する。また天は五日を用いて四時を巡らしめ、季節の動きに応じて月は満ち、また欠けるようにしたから、そこで月は十五日で満ち、十五日で欠け尽きるのである。

なお五行の四時における作用は互いに受け継いで消長する。……五行や四時や十二箇月などの変化や進行においては、すべて諸要素が相互に本末となって作用するようにしくまれているのである。

また五声・六律・十二管などの楽音の階梯や調子の上下などにおいても、やはり諸要素が相互に本末となって変化を示すように、しくまれているのである。また、五味・六和・十二色などの、飲食の味も、やはり諸要素が相互に本末となって変化を呈するように仕組まれている。

このほか五色・六章・十二衣などにおいても、やはり諸要素が相互に本末となって、変化を見せるように、しくまれているのである。
礼記7.3.1 ~ 7(儒教)

天地(あめつち)の初めにはただ自我(アートマン)のみがあった。その他に眼を開けているものとては何物もなかった。かれ自我は「何とかして種々(いろいろ)の世界(ローカ)を創ってみよう」と考えた。そして、これらの世界を創った。
天水、光塵、死、地水等の世界である。

天水の世界は光天の上にある。光天はそ(天水)の基底をなしているのである。光塵の世界とは中空界である。死の世界とは地上界である。地水の世界は大地の下にある。

かれ自我は考えた。「今や世界は成った。今度は世界の守護神達を創ろう」彼は水の中から材料を取り出して、これを一個の人間の形に固め上げた。(注7)彼はこの人間を温めた。すると、卵を温めた時のように、それが裂けて口腔ができた。口腔から語が生じ、語から火が生じた。同様にふたつの鼻孔ができた。

鼻孔から気息が生じ、気息から風が生じた。次に眼窩ができた。眼窩から眼(感官)が生じ、眼から太陽が生じた。次に耳孔ができた。耳孔から耳(感官)が生じ、耳から方位が生じた。次に皮膚ができた。皮膚から毛が生じ、毛から草木が生じた。

次に心臓ができた。心臓から意が生じ、意から月が生じた。次にへそができた。へそから吸気(アパーナ)が生じ、吸気から死が生じた。次に陽根ができた。陽根から精液が生じ、精液から水が生じた。


これらの諸神(火、風等)は生まれ出るや否や、かの大海の中へ落ち込んでしまった。彼(自我)はこれ(大海)に飢と渇とを混じた。それで諸神は困って彼(自我)に向かって「われらが安心して食物を食べられる棲処(すみか)を造って下さい」と歎願した。

彼(自我)は彼等の為に一頭の牛を牽(ひ)いてきたが、彼等は「われらにはこれは充分でありません」といった。そこで彼は一頭の馬を牽いてきたが、彼等は「われらにはこれは充分でありません」といった。そこで彼は人間(プルシャ)を伴(つ)れてきた。すると神々は「これは実にみごとにできています」といった。人間は実際みごとにできている。彼(自我)は神々に「各自の棲処
へ入れ」と命じた。

ここにおいて、火は語となって口腔に入り、風は気息となって鼻孔に入り、太陽は眼(感官)となって眼窩に入り、方位は耳(感官)となっで耳孔に入り、草木は毛となって皮膚に入り、月は意となって心臓に入り、死は吸気となってへそに入り、水は精液となって陽根に入った。……

彼(自我)は考えた。「我がおらねばこれ(人間)はどうなるだろうか?」次に、「どの部分から入ることにしようか?」と考えた。彼はまた、こうも考えた。「談話は語(発声器官)によってなされ、呼吸は鼻によってなされ、視は眼によって、聴は耳によって、触は皮膚によって、静思は意によって、吸気は吸息によって、射精は陽根によってなされるとき、我はそもそも何者であるか?」

彼(自我)は顱頂を闢(ひら)いて、これを門として体中に入った。この門はヴィドリティ(裂け目)とよばれる。(注8)
アイタレーヤ・ウパニシャッド1.1 ~ 1.4、3.11 ~ 3.12(ヒンドゥー教)

人間の形態は、世界の構造で造られた。さらには、天の材料を利用して造られた。
ヒルデガルト・フォン・ビンゲン道を知れ(キリスト教)

人の体を見れば、頭が大きく丸いのは天の形に倣ったものである。頭髪は星の位置に倣ったものである。耳と目がずれているのは太陽と月に倣ったものである。鼻と口が呼吸するのは風と雲に倣ったものである。心の中に知恵を悟るのは(天の)神明に倣ったものである。
董仲舒・春秋繁露56、(儒教)

 

―み言選集―

人は大宇宙の縮小体です。皆さんは小宇宙です。大宇宙は何ですか。大宇宙は被造世界です。大宇宙の源泉は力の源泉です。それが神様です。私は、大宇宙の前に立った一つの小宇宙として、大宇宙の絶え間ない力の源泉となるその力が私の心に入ってくることによって、この大宇宙と相応する相対の価値をもっているのです。
(121-193、1982.10.27)

私達人間を小宇宙と言いしました。体は地を象徴し、心は理念を象徴し、霊は天を象徴するのです。
(8-78、1959.11.8)

私が崩れる日には、私を中心とする天の因縁が崩れるのであり、地の因縁が崩れるのであり、世界、あるいは氏族と家庭のすべての因縁が崩れます。それで、人をして天と地を代表する小宇宙と言うのです。(注9)
(8-10、1959.10.25)
皆さん、この手も三つの節になっているでしょう? そして、腕も三つの部分でできています。私達の体全体を見ても、頭と胴体、そして足、このように三つの部分になっています。腹中にいる赤ん坊は、大概手を握って育ちます。

神様は二性、すなわち二つの性稟をもっているとお話ししたように、親指は神様を象徴するのです。ですから、宇宙の中心である神様を象徴するのです。また、4本の指は東西南北を象徴し、春夏秋冬を象徴します。そして、4本の指の三つの節は12 の月を象徴するのです。

ですから、私達人間を小宇宙と言います。たとえ小さくても、人体の構造にはこの宇宙万象のすべてのものが入っています。私達の心臓の構造を見れば、根と同じであり、肺の構造を見れば、木の葉と同じです。私達の人体構造は、木の幹や茎が入っているのと同じです。このように、私達の人体は、この宇宙万象を代表する小宇宙だということを知らなければなりません。
(54-97、1972.3.20)
なぜ自分が生まれたのでしょうか。この大宇宙と拍子を合わせるために生まれました。大宇宙と拍子を合わせるために生まれたということです。それで海の波がザブンザブンと音を立てれば、自分の心もザブンザブンと音を立て、風が気分良く吹けば、自分の心も気分が良く、花が咲いて香りを放てば、自分の心も香りを放てるというのです。どれほど気分が良いかというのです。
(104-123、1979.4.22)

「私」という存在は、いったいどこから生まれたのでしょうか。皆さんを小宇宙だといいました。「私」はこの地球星の縮小体です。宇宙の縮小体です。

皆さんの体には、地球がもっているあらゆる元素がすべて入っています。ですから、宇宙が加担しています。そのような私を誰が造りましたか。宇宙が造りました。宇宙の元素を借りて私が形成されたのです。それは、宇宙が私を生んでくれ、造ってくれたということです。
それで、私に父母がいるとすれば、宇宙が第一の父母です。ですから、私という存在は、このすべての宇宙の元素を総合した実体です。「私は動く宇宙であり、活動する宇宙だ」というのです。

また、「私は自由に行動することができる。往来できる。あなたたちは固着しているが、私は活動する宇宙だ」というのです。ですから、「あなたたちは、私にぶら下がっている。あなたたちもそれを願うだろう?」と尋ねてみれば、「うん、うん」と言うのです。
(105-106、1979.9.30)

霊界に行ってみれば、霊界全体が一人の人間に見えます。全体が一人の人間に見えるのです。それで、主体である神様とこの全体、大きな一人の人と一つになります。そうすると、全霊界と肉界がすべてとろとろに溶け合います。神様が走れば地も走り、神様が笑えば地も笑い……。そのようになっています。

それはどういうことですか。皆さんは、どのように中心になれますか。私とこの細胞を見てみれば、すべて連結されています。指の細胞を見るとき、その細胞がすべて私にぶら下がっています。そのような意味の中心だというのです。

私の手の先を見るとき、手の先は私と一対一です。すべて私に留まっています。人間が宇宙の一番の中心になるという話が理解できますか。一つの細胞のような立場で相対するとき、中心的資格をもつことができるのです。

この細胞を通っていた血が足の底の細胞を通っていた血に、「ああ、頭のほうに来るな」と言うことができますか。このような境界線がありますか。頭のほうに来るなという境界線がありますか。

そのような意味で、黒人、白人、黄色人のような区別はありません。皮膚がこれは白く、これは黄色く、色がすべて違います。だからといって、「ああ、お前は私とは違うから別種だ」(注10)、そのように言えますか。霊界に行ってみれば、一人の人間のように組織ができていることを知らなければなりません。聖人たちは目の役割をして、耳の役割をして、においを……。霊界がそのようになっています。そのような理想をもったのなら、地獄が問題ではありません。神様が見るとき、いつも化膿して膿が出て、足が不自由になる、これを願うでしょうか。願いません。
(91-280、1977.2.27)

天地が調和するとき、この天地、大宇宙の主体と対象が喜ぶのですが、これが私達人間生活の家庭を中心として結ばれるのです。これがこの宇宙の核になっています。

女性は愛です。男性は大きいですが、女性には愛が入っているので、女性を無視することはできません。いくら太陽が大きくても、地を無視するこ
とはできないのです。互いに授け受けするところから、天地のあらゆる喜びと、あらゆる完成が成立します。ですから、これを大きく見れば、この宇宙の太陽系を縮小し、このすべての動植物界を縮小したのです。
ですから、すべてがペア・システムになっています。調べてみれば、鉱物界、植物界、動物界も、すべて主体と対象のペア・システムになっています。これが天のすべてのペア・システムを代表した一つの核だというとき、センターが争えばどのようになりますか。

皆さん、男性も女性も、宇宙の中心になりたいと思うでしょう? 動物もそうでしょうか。この太陽系がそのように思うでしょうか。そのように考
えてみれば、そのようなことは人しかないというのです。
(216-159、1991.3.10)


5.被造世界の主人

人間は自然界の一部であると同時に、被造世界の主人として独特な地位をもつ。キリスト教の聖書で、アダムとエバは万物の主管主として祝福を受けたのであり、クルアーン(コーラン)は各自に、神様の「代理人」の地位を付与した。

これはまた、神様は人間の豊穣のために、すなわち、生育し、繁殖するのに必要なすべてのものを提供する土台として、自然界を創造したということを意味する。それにもかかわらず、大地を汚染させ、自然を破壊し、人為的な環境を改造しながら神様が許諾していないことをするということは、本当の主管の祝福ではない。

自然主管の委任が初めて与えられた農耕社会において、人間の創造性は本質的に自然の盛衰と調和を成すものとして現れる。その上に、人間が自然を利用する場合、万物に対する愛を実践し、自然の豊穣を増進するために創造性を発揮するとき、初めて人間は、被造世界の本当の主人となる。
自然に対する人間の主管権は、規模や力の問題ではない。その物差しで見れば、人間は地球上でとても小さな一点にすぎず、地球もまた、広大な宇宙の中で一点にすぎない。

それは、むしろ人間の固有な霊的資質に起因する。人間だけが神様を求める。そして、人間だけが自分自身の理想を追求し、より良い世界を熱望する。これこそ、人間がほかの動物たちとの違いをもった存在でいられるようにするのである。宇宙の創造者を知り、彼と親密な関係をもつという点において、人間は潜在的に全体被造世界よりもっと貴重な価値をもっている。

人間は、このような栄光を享受する資格があるのか。文鮮明先生の教えのように、人間は創造主の満ち足りた愛を受け、神様の代身として被造世界を愛さなければならない。そのとき人間は、神様と自然界をつなぐ橋となる。神様は、人間を通して被造物を愛し、人間を通して全体世界を完全なものにする。

①万物の主管権を賦与された人間

―宗教経典―

神は彼らを祝福して言われた。「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。」
創世記1.28 (キリスト教)

まことにわれは、地上に代理者を置くであろう。
クルアーン2.30 (イスラーム)

なんじらは思わないか、神は天にあり地にあるよろずのものを、なんじらの入用のために、奉仕させたまい、また外面と内面の恩恵を全うしたもうではないか。
クルアーン31.20 (イスラーム)

あなたの天を、あなたの指の業を、私は仰ぎます。月も、星も、あなたが配置なさったもの。
そのあなたが御心に留めてくださるとは、人間は何ものなのでしょう。
人の子は何ものなのでしょう。あなたが顧みてくださるとは。神に僅かに劣るものとして人を造りなお、栄光と威光を冠としていただかせ、御手によって造られたものをすべて治めるように、その足もとに置かれました。
詩編8.4 ~ 7(キリスト教)

神こそは、天と地を創造され、天から雨を降らせ、これによって果実を実らせたまい、なんじらのため給養される方であられる。また船をなんじらに操縦させ、かれの命によって、海を航行させたまい、また川をなんじらの用に服させたもう。

またかれは、日と月をなんじらに役立たせたまい、両者はその軌道を追う。また夜と昼をなんじらの用に役立たせたもう。またかれはなんじらが求めるすべてのものを授けたもう。たとえ神の恩恵を数えたてても、なんじらはそれを数えとおせないであろう。人間は、まことに不義であり忘恩である。
クルアーン14.32 ~ 34(イスラーム)

主なる神は、野のあらゆる獣、空のあらゆる鳥を土で形づくり、人のところへ持って来て、人がそれぞれをどう呼ぶか見ておられた。人が呼ぶと、それはすべて、生き物の名となった。
創世記2.19 (キリスト教)


―み言選集―

天地万物を創造された神様は、全被造世界の主人公として人間を造られました。
(323-165、2000.6.1)

理想の世界は、創造の目的が実現されなければならない世界であり、神様に似なければならない世界なので、人間は、常に愛に満ち、調和し、平和な生活を願っているのであり、いつも新しいものを創造しながら環境を改善していくことを願っているのです。

創造は、単に製造だけを意味するのではなく、創意的な活動全体を意味するのであり、常に新しいものを創案し、計画し、改善し、生産するなどの活動すべてを意味するのです。

ところで、神様は統一的存在なので、人間も統一的でなければならず、社会生活も統一的でなければなりません。愛しながら創造し、創造しながら愛する統一的な人間、統一的な世界にならなければなりません。今日まで人間は、輝かしい科学的発展を成し遂げることによって、創造的生活においては神様に似たということができますが、愛の生活においては、まだ全く神様に似ることができずにおり、そのために悲しみと苦痛と不幸が継続しています。

愛は調和なので、愛がないところに調和はあり得ず、調和がないところに平和や幸福はあり得ないので、ここで数々の悲惨な光景が展開するよう
になるのです。
(65-259、1972.11.26)

道人とはどのような人でしょうか。一握りの草をつかんでも、「神様!」と言うことができる心情で、その価値を自分の価値と同等に認識できる人が最高の道人です。そのようにその価値を謳歌できる人が最高の芸術家です。

色とりどりに存在する万象を見て、神様の色とりどりの愛と心情の妙味を発見し、それらのものと友達となり、共に楽しめる感情をもった人がいるとすれば、そのような感情で細胞の一つ一つが動く人がいるとすれば、その人は万宇宙を代表することができる人であるはずです。そのような人が万物の霊長です。ところで、食べることしか知らない人が万物の霊長になれますか。

ですから昔、聖フランシスのような人が、動物を見て、あるいは鳥を見て説教したというのも、うそではありません。夢のような話です。しかし夢ではなく事実です。
(9-166 ~ 168、1960.5.8)

真の愛は、人間だけではなく、すべての万物も願います。それで、万物の霊長である人間は、神様がつくられた傑作品を抱き、愛するだけでなく、すべての万物に愛することを教えてあげなければならない責任があることしを知らなければなりません。万物たちは、このような主人を求めています。このような基準に私達自身を照らしてみながら、自らを恥ずかしく思うことができなければなりません。
(300-222、1999.3.14)
神様は、どうしてアダムとエバのような形を必要とするのでしょうか。万物は形状的な形をもっていますが、神様は無形の存在です。神様はどのような形ももっていません。大きいと言えば無限大です。小さいと言えば無限に小さい方です。

そのような方がどんな標準的な形を形成し、形体を現したとしても実体をもった万物は、その神様に直接主管されません。ですから実体をもった被
造世界においては、実体をもった主人的人格と形を備えた存在がなければならないのです。

神様は、地上万物の主管だけではなく、無限な霊界も主管しなければなりません。天使長や様々な形体をもった実体、そして無形の実体までも主管するにはその中心的タイプ、すなわち形状が必要です。それで神様は、アダムを創造されたのです。

アダムを中心に霊肉両面の世界、無形実体世界と有形実体世界を主管しようとされるのが神様の人間創造の目的です。したがって一つの人格的実体と関係を結ばなければならないので、アダム完成とともに神様の形状完成、すなわち形が完成するのです。神様はアダムを造られる時、彼の形態、人相、人格などが無形世界の中心にいらっしゃる神様のような姿にならなければならない、という考えをもってアダムを造り出されたのです。形がなければ形の世界を主管できないのです。
(35-157、1970.10.13)

 

②どの被造物よりも優れた人間

―宗教経典―
われはすべての者に、――これらの者にもまたかれにも――なんじの主の賜物を広く授ける。なんじの主の賜物には限界はないのである。
クルアーン17.20(イスラーム)

神はこの世とそこに住み動くあらゆるものを創造し、神の拘束されない卓越した御意により人間に神を知り愛する独特の特異性と能力――全創造の基礎をなす発生進力、また主なる目的と見なされるべき能力――を与え給うた。

すべての創造物の内奥の各実在に、神はその諸々の名の中のある一つの名の光を注ぎ、神の諸々の属性のうちのある一つの属性の栄光を受け入れるものとなし給うた。しかし乍ら、人間の実質には、神は神の諸々の名と諸々の属性のすべての光輝を集中し、人間の実質をして神自身の鏡となし給うたのである。
ハバオラ落穂集27(バハイ教)
人間は神の顕現として、あらゆる万物の主管者であるため、人間以上に尊敬されるべき存在はない。地上のあらゆる万物はそれぞれの名で本来の姿を備え、神が人間のためにそのようにされたことを知るようになる。

何であれ万物は、自分の根源となる神を失ったり、定められた法度から外れることなく、自らの役割だと悟った分だけ働くように創造された。自らを低め、人間を尊敬し、怒らず、間違った心をもたず、悲しまず、偏らず、自らの本来の個性を発揮するために人間は創造されたのである。
祈り(PL 教団)53

人間は三つの魂を備えていた。……その動物的魂は動物と交流し、肉体的魂は植物と連結し、人間的魂は天使と紐帯する。……

人間の機能である理性的魂は、そのいかなるものよりも高貴な機能である。それ自体が最も高貴な魂だからである。その機能は芸術品に対する感傷と美に対する思いを構成する。
それが凝視するのはより高い世界に向かっており、低い所や卑劣な場を愛することはない。それがそうであるように、人はより高い生と重要な物質に属しており、食べたり飲んだりするために働くのではないことはもちろん、奢侈と性関係を必要としない。かえってその機能は真実の啓示のために待つのである。
アヴィセンナ(イブン・スィーナ) 救いの書(イスラーム)

まことにわれは諸天と大地と山々に信託(注11)を申しつけた、だがそれらは、それをになうことを辞退し、かつそれについて恐れた、しかし人間はそれをになった。まことにかれは不義でありかつ無知である。
クルアーン33.72(イスラーム)

さらに身体においてさえ、それは可死性において獣と共通していても強さにおいてはその多くのものに劣るのではあるが、どれほどの神の善性が、また、どれほどのかくも創造者の摂理が明らかであることであろう。感覚器官と身体のその他の部分とがよく配置され、身体全体の姿、形、大きさが適正に整えられていて、身体が理性的魂に仕えるようにつくられていることを示しているのではないであろうか。

たとえば、私達は非理性的な動物の顔は地に向いているのを見るが、人間はそのようにつくられてはおらず、その姿勢は直立していて天に向かっているのであって、それは天上的なものを想うようにさとしているのである。
アウグスティヌス神の国22.24 (キリスト教)

人間とは何という造化の傑作か、高貴な理性、無限の能力、優美な姿、敏速正確な身の動き、天使さながらの活動、神のごとき悟性、この世の美の極致、生きとし生けるものの典型。
ウィリアム・シェイクスピアハムレット2 幕2 章

―み言選集―

人間は動物と何が違いますか。人は貴いというとき、その人というのは肉的な人ではなく、霊的な人です。霊的なものが貴いというのは、肉的なものと違うということです。霊的なものが高ければ、肉的なものは低いのです。
(129-307、1983.12.1)

それでは、人と猿とを比較してみましょう。猿はただキッキキッキと鳴いて、食べて、寝て、子を産むのが第1です。猿が故郷のお父さん、お母さんに会いたくて泣きますか。猿と人間は根本が違います。猿がお兄さんを心配し、あるいは、父母のために死のうとしますか。それでは人はどうですか。種が違うのです。

人間は、自己を中心にしたものではなく、他を中心としており、より大きいことを望みながら生きるようになっているのであって、自己より低いものを望みながら生きるようになっていないのです。次元が違うのです。
人間は古代から、すなわち、人間が生まれた時から神様を尊崇してきました。神様を尊崇しない種族はありません。神様を考え、私達人間がもっと良くなる宇宙を考えながら来たのです。

猿は、その頭でそのようなことを考えられますか。何千、何万段階が過ぎてもできないのです。猿に、そうすることのできる内容、力がどうやって増し加わっていくのですか。
(39-333、1971.1.16)

神様が人間を万物の霊長として立てるとき、天地のすべての環境を代表したその中で中心として立てたでしょうか、そうでなければ、一部分として立てたでしょうか。これが問題です。

ですから、すべての人間は宇宙の中心になると主張できる自主権をもっているのです。それは、猿やライオン、虎の世界にはありません。人間世界にだけあるのです。

動物的な人間か、人間的な人間かということを考えるとき、動物的な人間に近いですか、人間的な人間に近いですか。今、世の中の人間はどちらに近いですか。
(117-35、1982.1.31)

人格者とは、どのような人でしょうか。御飯だけしっかりと食べ、御飯のために生きる人が人格者でしょうか。それとも、芸術や文学や詩に造詣があって、豊富な鑑賞をしながら、山に対してささやき、野に対してささやき、流れる水に対して褒めたたえることができる、このような人が人格者でしょうか。
(85-143、1976.3.3)

万物の霊長という言葉は、何を意味しているのでしょうか。万物の霊長とは誰でしょうか。「人だ」と言っていますが、万物の根本となった霊長は神様です。皆さんは、霊があるということが分かるでしょう? 人間には、霊があります。人間は、その霊の中の長であるために、結局、神様と直結させて霊長だというのです。
万物の霊長だというのは、人間自体だけではなり得ません。人間も被造物であるのに、どのように万物の霊長になるかということです。被造物とは、相対的な結果体です。被造物だけでは、原因に通じることができず、原因を占領することができないのです。被造物は、原因に占領されるようになっています。

皆さんは、結果的存在であることは間違いありません。霊長といえば、長は霊の中で中心であるという言葉です。この言葉は、本来、神様と人間が一つになった関係についていう言葉であることを知らなければなりません。
(32-137、1970.7.5)

神様が愛を求めるために万物をつくりました。神様は人間を愛の対象存在として造りました。神様が陽性と陰性の二性性相の主体となっている以上、その主体の前に対象になるためには、陽性と陰性の二性性相の形態をもったものが必要なのです。その形態というのは、その主体の性稟の反対になる形態ではありません。
あらゆる性稟の相対性をもち、愛という本質にぴたっとあてはまる相対的形態を意味するのです。それが相対存在なのですが、愛にのみ合うようになっています。神様には、何かの知識や、ほかのものは必要ないのです。

人間がこの宇宙の中心になることができ、被造世界の中心になるのは、愛で被造世界を造ったからです。愛の神様を代表し、その主人の前に最初に中心位置に立って愛を受けることのできる特権をもっているので、「人間は万物の霊長だ」という言葉が成立するのです。

その霊長という言葉は、神様の相対的愛圏を抜かしてはあり得ません。人間の特有な価値は、愛の特権をもつことができ、全被造世界を代表して神様の前に最初に相対的立場に立ってこの宇宙を支
配することができ、そのような愛の因縁の場に同参できる権威をもったことです。ですから、人間は万物の霊長だというのです! 愛を抜けばすべてなくなります。
(132-245、1984.6.20)
愛の理想を中心として見てみるとき、動・植物世界では、愛の関係はすべて繁殖を前提としたときになされます。しかし、人間だけは例外です。人間は、夫婦愛の関係を自由に享受します。これが万物の霊長となった特権です。

神様は、息子、娘である人間が無限の愛の喜びをもつように祝福しました。神様が許諾した真の自由は責任性を前提としています。もし責任性なく、個々人の愛の自由ばかりを主張して実践すれば、どれほど大きな混乱と破局が訪れるでしょうか。至高な愛の理想を成す人間の完成は、愛に対する責任性をもつとき、可能なのです。
(282-213、1997.3.13)


③被造物を完成させ崇められる人間

―宗教経典―

この世は、ひとえに義人のために創造された。義人一人は全世界と取り替えるだけの価値がある。この世は彼と一つになることを目的として創造されたのである。
タルムード、シャッバト30b (ユダヤ教)

「その動くときは天に従って自在に活動し、その静かなときは地に従って静止する。ただ一人の人間にすぎないのに、その心が定まれば、広大な天下の王者となることができる。鬼神も崇(たた)ることがなく、自分の魂も疲れることがない。ただひとりの心が定まることによって、万物を服従させることができるのである」と。このことばは、虚無で静かな心を天地におし及ぼし、万物のうちに浸透させることをいったものである。この境地こそ天楽と呼ばれるものに外ならない。天楽とは、聖人の心をもって万物を養うことである。
荘子13(道教)
エリヤは主が言われたように直ちに行動し、ヨルダンの東にあるケリトの川のほとりに行き、そこにとどまった。数羽の鳥が彼に、朝、パンと肉を、また夕べにも、パンと肉を運んで来た。水はその川から飲んだ。
列王記上175 ~ 6 (キリスト教)

是の如く我聞けり。初めて正覚を成じたまへる世尊は或る時、優樓比螺(ウルヴェーラー)の尼連禅河(ネーランチャラー)の畔りなる目眞隣陀品(ムチャリンダ)樹の下に住(とど)まりたまへり。その時、世尊は一たび趺坐を組みたるままにて七日の間、解脱の楽を享けうつ坐したまへり。

時に大雨非時に起り、七日の間降り続き、寒風吹きて天陰れり。文眞隣陀龍王は己の棲家より出で来り、蜷局(とぐろ)を以て世尊の體を七重に巻きつつ、頭上に大なる鎌首をたてていたり。「寒気世尊に觸(さわ)るるなかれ。寒気世尊に觸るるなかれ。蚊・風・熱・蛇世尊に觸るるなかれ」とて。七日を過ぎて後、世尊はその定より起ちたまへり。
文眞隣陀龍王は空晴れ雲去れることを知りて、世尊の體よりとぐろを解き、己の姿を変へて儒童の姿をなし、合掌して世尊を礼拝しつつその目前に立てり。
感興偈10(仏教)

大地の形勢が坤である。君子はその坤の厚大さにのっとって、厚い徳によりあらゆるものを包容することにつとむべきである。
易経2、周易上経、坤(儒教)

天下のうちで、上ただ至誠(な聖人)のみが、その性を尽くす(理に従う)ことができるのである。よくその性を尽くせば、(天下の)人の性を尽くすことができる。よく人の性を尽くせば、万物の性を尽くすことができる。

よく万物の性を尽くせば、天地が生育するのを助けることができる。天地が(万物を)生育するのを助けることができれば、天と地とともに三となることができる。
中庸22(儒教)
「花は地に咲きいで、小鳥の歌うときが来た。この里にも山鳩の声が聞こえる」(雅歌2.12)神が世界を創造されるとき、地に必須な万有の力を先に下さった。しかし、人間創造の前までは何の産物も出でこなかった。

人間が創造されると、隠れていた生命体が地上に姿を現した。類似して、人間が出てくる前まで、天も地に力を吹き込むことができなかった。

創世記に次のように記録されている。「地上にはまだ野の木も、野の草も生えていなかった。主なる神が地上に雨をお送りにならなかったからである。まだ土を耕す人もいなかった」(創世記2.5)……

しかし、人間が出てくると、「野の草も生え」、隠されていたすべての力が現れ、「小鳥の歌うときが来た」。この地は全能であられるその方に賛美をお返しするように熟していった。人間が創造されていなければ不可能なことだった。

「この里にも山鳩の声が聞こえる」、これは主なる神のみ言だ。しかし、人間が創造される前までは、この世界になかったみ言である。
ゾハール創世記97a (ユダヤ教)


―み言選集―

天倫のみ旨に完全に一つになり、天上の認定を受けた人、神秘的な体験をした人は分かるでしょう。神様が私に対して、「あなたは私のものである」と認めるのを感じると同時に、万物が私に対して頭を下げるのを見るでしょう。

全被造万物が「あなたは神様の息子だ。神様のものだ」と認める日には、霊界にいる大勢の霊人たちはもちろん、地上の万物までも彼に頭を下げ、褒めたたえるようになるという事実を、今日の人間たちは知らずにいます。

神様が認め、万物が認めることのできる立場に入っていくようになれば、真の良心をもった人たちもまた、その前に自然に一つになって入っていくようになるのです。
(4-102、1958.3.16)


神様がいらっしゃるなら、神様が「おいおい地よ、お前を第一の父母の立場に立てたのだから、息子、娘を生み、お前に永遠の愛を伝えてくれる息子、娘をつくってみなさい!」と言うとき、地が「よし」、こうして契約がなされていると考えてみてください。

また、地が「ああ、私はあなたの愛を喜びます。あなたの愛に橋を架けることのできる中間媒介体をつくりなさいとして、そのような公約によって歓迎し、支持し、すべてのものを譲ることにしました」と言ったと考えてみてください。

それで私の体が神様の愛と接することができ、神様の愛を感じることができ、神様を愛することのできる体になったというとき、地が「栄えある人をつくっておいたことを喜びます」と言うでしょう。
(97-143、1978.3.12)


万物というのは何でしょうか。私達が本性の愛をつくりあげていくにおいて応援してくれる、美しい表示体です。赤く、黄色く、刺激的なすべてのものを満たしてくれる、愛を称賛できる一つの贈り物です。

この世界の万物は、人間が理想的な愛を成すにおいて象徴的な橋となり、称賛することを願うのです。それが万物の存在する本来の、愛を中心とする理想的な存在の起源であり、目的なのです。

それで、植物たちも私達人間の愛を追い求めるために、互いに美しいもので装飾し、歓迎します。動物や鳥たちもそうではないですか。雄と雌、互いに喜びながらチュンチュンと鳴き、「ああ、あなたはこのように愛するでしょう?私もあなたについていって喜びます。永遠に、永遠に、永遠に!」、「そうか、そうか」と言うのです。

それで、万物と人間が一つになると同時に、神様が愛する……。愛の雲がかかり、愛の風が吹き、愛の水が流れ、愛の歌が響いてくるこの宇宙がどれはど美しい園かというのです。花を見て、「いやあ、お前はどこに行きたいと思うのか。すべてを装い、すべての美をもって喜ばせてあげられる所を訪ねていくのか」と尋ねれば、「最高の所です!」、このように答えるでしょう。

神様の愛が宿るそのような居間を訪ねていって、この美をもって賛美したいと言うでしょう。それはどれほど美しいですか。真の愛をもって愛する夫婦の居間に咲くその花は、どれほど幸福でしょうか。

そこだけでなく、神様までもお迎えすることのできる所の装飾品になれるのです。それは、どれほど栄光かというのです。「真の愛は永遠なので、昔のアダム時代も、数千年が過ぎた今日の時代も、今後何万年後の時代も変わらないので、その場を美しく整えることに同参することが栄光であり、このように歴史時代に花として生まれたことを私は誇りに思う」と言うでしょう。
(146-107、1986.6.7)

私達の体は小宇宙です。この体には、鉱物もあり、植物もあり、動物もいます。このような人に真の愛をもっていけば、細胞まで喜んで「わあ」と叫ぶのです。口をもっているものはキスをしたくて「ああ」と言い、目をもっているものは目を合わせるために「ああ」と言い、耳をもっているものは耳を合わせるために「ああ」と言います。すべてそうです。

ですから、それらが目をすべて開き、耳をすべて開き、口をすべて開き、そこに力を入れて動くようになれば、どれほどおもしろく、どれほど素晴らしいですか。軽やかに飛び回るようであり、世の中や天地に恐ろしいものがないというのです。目がこのようにひっくり返っても、その力に出会い、「おい、こいつ、早く答えなさい!」と言えば、「はい」と言うのです。

目をまっすぐに開けて、動物世界の雄と雌がどのように生きているのかを見て、細菌の世界、細胞世界、鉱物世界の夫婦がどのように生きているのかを考えてみてください。
皆さんも、「私は真の愛をもった実体だ。私の心と体、私のすべての細胞は完全に一つになり、天宙的に不動となったそのような実体になっている」と言うときは、この宇宙がすべてやってきて、カチッとくっつくかのようです。

宇宙の被造物はすべてそのように動くので、真の愛をもつ真の人が行く所は、すべての動物がついていき、すべての植物もついていき、すべての鉱物もついていくのです。ですから、その人は自然に大きな巣をつくり、保護されて生きるようになるはずです。本然の世界は、そのような愛を中心として……。境界線がありません。どこにでも通じます。
(163-44、1987.4.1)

このようなものすごい天体、私達が数字で推し量れない驚くべき価値の天体ですが、その天体自体が神様の創造目的ではありませんでした。神様の創造目的は、太陽系の一つの惑星である地球という地の上に、大宇宙と比べればちりにもならない、取るに足らない人間を造っておかれ、人間を中心とする一つの理念の世界を建設することだったという事実を思うとき、その感謝と喜びと栄光と偉大さがどれほど大きくなければならないかを、皆さんは考えてみたことがありますか。
(5-343、1959.3.8)

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コメント

世界経典-11

2020年10月06日 19時31分17秒 | 学習

②意識ある生は目的が賦与されたもの

―宗教経典―

地上の生きとし生けるものも、双翼で飛ぶ鳥も、一つとしてなんじらと同じ衆生でないものはないのだ。経典の中には一事でも、われがおろそかにしたものはない、すぐにかれらの主に召集されるのである。
クルアーン6.38 (イスラ一ム)

私が言う。「例えれば、ちょうどある感覚器官を具備していないまま生まれた人(つまり生まれつきの盲人、耳が聞こえない人、口のきけない人、足がなえた人などのような体の不自由な人たち)の意識は、外からは見えないが、彼らが刃物で傷つけられたり暴行されたりするとき、何の苦痛も痛みも感じないのではない。

これと同じように、土でできた存在(つまり鉱物や原子)、水でできた存在、……火でできた存在、……植物、……動物、……空気でできた存在も、それらの意識が苦痛を感じるのが、外から見えないだけであって、だからといって痛みを感じないのではない」。
アーヤーランガ・スッタ1.28 ~ 161(ジャイナ教)

この人たちが黙れば、石が叫びだす。
ルカによる福音書19.40(キリスト教)

私達の部族には、この地のあらゆる部分が神聖である。すべての丘、すべての渓谷、すべての平原と森が、果てしなく遠くに消えていった悲しみや喜びの出来事によって神聖なものとなった。

静かな海岸に沿って、太陽の下で疲れて死んだかのように黙っている岩さえも、私達の部族の生と連結した、胸がじんとする出来事に対する記憶として体を震わせている。今、あなたが立っているこの土も、あなたより私達部族の足どりに、より親しく反応する。この土は、私達の先祖の血によって肥えたからである。
シアトル酋長(アメリカ先住民の宗教)

善なるものを創造する神の善性、くり返していうが、このように正しく十分な理由は、注意深く考察し、敬虔に考えてみると、世界の起源を問題とする人びとのすべての論争を終結させるものであるのに、ある異端者……はそれを認めなかったので、それというのは、火、寒気、猛獣などというような、それ自体、正しい懲罰から起こる、この肉の乏しくもろい可死性に適合せずにそれを害するものがじつに多くあるからである。

そしてそれらの異端者は、それらのものも、そのあるべき場所において、また、その本性において、どんなにりっぱなものであるか、どんなに美しい秩序によって配置されているか、どれだけ万物全体にそれら自身の美しさの分け前に応じて、さながら共有財産に対するように貢献しているか、あるいはまた、私達自身にも、もしも私達がそれらのものを適切に賢明に用いるなら、どれだけ便益を与えるか――毒でさえも、うまく合わなければ死を招くが、うまく用いれば健康をもたらす医薬に変じるように……。
アウグスティヌス神の国11.22(キリスト教)
―み言選集―

人間自体が自然です。完全な自然は神聖なものです。
(90-24、1976.12.10)

花も、雄しべがキスしてくれるとき、雌しべは「ああ、うれしい!」と思うのです。そのような感覚がなければならないのではないですか。そのような感覚があるでしょうか、ないでしょうか。雄と雌の感覚は最高の感覚なのですが、その感覚を構成しているのは、五官的感覚の連結体によってできたというのです。これは理論的です。

五官的感覚で愛するというのは、男性と女性が対等な位置に造られたということです。レベルは低いのですが、共通分母で平準化され、その世界において統一的内容を備えているのです。ですから、男性と女性、まだは雄と雌になっているというのは、神様のすべての共通分母を公開的に分配されたことは間違いありません。これを否定することはできないのです。(217-306、1991.6.12)
物質から形成された人間の生理的機能が、心の知情意に完全に共鳴するのは、物質もやはり、知情意に共鳴できる要素をもっているという事実を立証するものにほかならない。

このような要素が、物質の性相を形成しているために、森羅万象は、各々その程度の差こそあれ、すべてが知情意の感応体となっている。我々が自然界の美に陶酔して、それらと渾然一体の神秘境を体験できるのは、人間が被造物のこのような性相の中心ともなるからである。
原理講論、創造原理2.3.4

神様も御自身を誇りたいと思われたのです。遠い歴史前の時代に戻って、創造の世界を欽慕されていた創造主は、六日間で創造された創造物を見つめて喜ばれた、その時代を回想してみるとき、神様もつくられたすべての万物を通して、御自身を誇りたいと思われた心があったがゆえに万物を創造されたのは間違いありません。
つくられたいかなる存在を見ても、そのような事情が絡まっているというのです。皆さんが見つめるこの被造世界、あるいはこの自然には、様々な被造物が存在しています。存在する万象は、いかなる過程を経て創造されたのでしょうか。

それは、創造主の精誠を込めた心情の過程を通してつくられたのです。いくら微々たる存在でも、神様の愛の心情を通して、神様が誇りたいと願われる心をもった、そのような場でつくられたことは間違いありません。

このような点から見れば、小さくはごく微々たる存在から、大きくは私達が推し量れない広大な宇宙にまで、存在するすべての万物は、神様が誇りたいと思われた、自慢の存在としてつくられたことを、皆さんは知らなければなりません。
(20-248、1968.7.7)


③母なる大地とその子女

―宗教経典―

神は言われた。「地は草を芽生えさせよ。種を持つ草と、それぞれの種を持つ実をつける果樹を、地に芽生えさせよ。」そのようになった。地は草を芽生えさせ、それぞれの種を持つ草と、それぞれの種を持つ実をつける木を芽生えさせた。神はこれを見て、良しとされた。
創世記1.11 ~ 12(キリスト教)

私達の母なる大地は、花のような霜でいっぱいの白い粉の四つの袷(あわせ)で自らを包み、
氷の床が世界を覆い、
寒さで樹木が一方に傾き、
その腕が雪の重さで下に垂れ下がる。

ゆえに、その時になれば、私達の母なる
大地の肌が寒さでひび割れる。
その次に大地が生水で満ちた春に、
私達の母、あらゆる種類のとうもろこしを
それらの母なる大地に休むよう寝かせておくのである。
母なる大地の生水により
それらは新しい存在になるのである。
父なる太陽の光により
それらは立ち上がるのである。
四方を指し
それらは手を広げて雨を呼ぶだろう。

その時、新鮮な水をつれて
雨の神が私達の道を過ぎていくのである。
それらの腕の幼いもの(とうもろこしの実)を抱きかかえ
それらは、それらの子供たちを育てるだろう。

それを私達の家にかき集め、
私達の思いが傾く人たちに従い
それらの従う私達の思いとともに
その時、私達は常に生きるだろう。
チュニ族の歌(アメリカ先住民の宗教)

大地よ、汝の中心たるところ、汝の臍たるところ、汝の身体より出づる生力のただ中に我を据えられんことを。あらゆる方よりわれらを清め給わんことを。大地はわが母なり、われはその息子なり。そして天はわが父にして、豊かなる恵みをもってわれらを満たされんことを。……

大地の中に、草木の中には火が潜み、水がそれを運ぶ。火は石の中にある。人々の奥深きところに火があり、牝牛に火があり、馬に火がある。同じ火が天界において燃え、空界はこの神火に属す。人はこの供物を生みだし、グリタを愛する火を炊く。燃えたぎるマントをまとい、膝の暗い大地よ、われを燃やし給わんことを。われを明るく輝かしめんことを。……

大地よ、汝より掘るいかなるものも、速やかにまた育たんことを。ああ清める者、よ、願わくはわれらが汝の生命と心を傷つけることなかれ。馬が砂塵を〔振い散らすが〕ごとく、彼女(大地)は、生まれて以来大地に住したる種族を分散したり、優美にして先頭に進む世界の守護者、樹木・植物の把握者は。わが語るところ、そをわれ蜜をこめて語る。われが見るところ、そを人々はわれより望む。われは光彩に富み、速力に富む。われは他の敵対者を打ち倒す。平和にして香しく、決適にしてその乳房は甘露に満ち、乳あふるる広き大地は、乳もろともわがために語れ。……

汝は人間の分散者アディティ(「無垢の女神」、神々の母)にして、あらゆる願望を満たし、遠く拡がる。汝に欠けたるところ、そを天則の初生児プラジャ・パティは汝のために満たす。

汝の懐は、病患なく労症なく、われらのために設(しつら)えられてあれ、大地よ。われら願わくは、〔朝な朝な〕長寿のために目覚めつつ、貢物をもたらす者たらんことを。母なる大地よ、幸福もてわれを安定せる者たらしめよ。天と共々に、弁才ある女神よ、われに吉祥と繁栄とを恵み給わんことを。
アタルヴァ・ヴェーダ12.1(ヒンドゥー教)


いと高く、全能の、いとも善き主よ、
賛美と、栄光と、誉れと、祝福はあなたのもの。
これらは、ああ、いと高きおかたよ、
あなたのみに帰すべきもの、
なにびとも、ふさわしく、
あなたのみ名を呼ぶことはできない。
主よ、ほめたたえられよ、すべての被造物、わけても、兄弟なる太陽とともに。
かれは、われらに昼を与え、あなたは、かれによってわれらを照らす。
かれはまた、美しく光り輝き、
その大いなる光明によって、
ああ、いと高きおかたよ、あなたをかたどる。
主よ、ほめたたえられよ、
姉妹なる月と星のために。
あなたはかの女たちを明るく、
とうとく美しく、天に造られた。
主よ、ほめたたえられよ、兄弟なる風のために。
しかして、空気と、雲と、
晴天ともろもろの天候のために。
あなたは、かれらによって、
被造物をささえられる。
主よ、ほめたたえられよ、姉妹なる水のために。
かの女は、いと有益にして、
謙遜、貞潔なるゆえに。
主よ、ほめたたえられよ、兄弟なる火のために。
あなたは、かれによって夜を照らす。
しかして、かれは、美しく、
陽気にして、健やかで強い。
主よ、ほめたたえられよ、
姉妹にして母なる大地のために。
かの女は、われらを保ちささえ、
さまざまな果実と、色とりどりの花と、木々を生みだすゆえに。
アッシジの聖フランチェスコ太陽の歌(キリスト教)


―み言選集―

宇宙が人間を形成してくれました。宇宙の元素を借りて私が形成されたのです。それは、宇宙が私を生んでくれ、造ってくれたということです。それで、私に父母がいるとすれば、宇宙が第二の父母です。これを、皆さんは知らなければなりません。ですから、私という存在は、すべての宇宙の元素を総合した実体です。
(105-106、1979.9.30)

父母は、皆さんを世の中に生んでくれた2番目の父母です。神様は、皆さんに霊を下さった3番目の父母です。このように、人間は三大父母をもっています。
(106-84、1979.12.9)

神様がつくられた自然を愛すれば、神様が訪ねてこられます。「こうしてこのようになった」ということをすべて教えてくださるのです。自然は、そのように貴いのです。
(278-120、1996.5.1)
本当に宗教的な心情がわき出るその瞬間には、万物を見つめて、頭を下げるのです。天を見ても、大自然を見ても、天体の無数の星雲を見ても、神秘的で崇高な感情が心からわき出てくるようになります。このような感情から、宗教が出発したのです。

私を超え、自然の現象を見つめて、高く評価することができ、動く自然のあらゆるものを見つめて、私の心情世界の高貴なものに代わって歌えなければなりません。

そして、動くすべてのものを自然の音楽のように、自然の芸術のように、自然の文学のように感じ得る心情が私の心からわき出てくるようになるとき、初めて天体を支配している神様と私が関係を結ぶことができるのです。

このように、自分がすべてのものと関係を結んでいるという心情が強くなってこそ、事物に対するときに、再び鑑定できる心的基準が定まります。
これは、私達が神霊的な境地に入っていけば、そのまま感じるようになることを皆さんは悟らなければなりません。

神様と万物は、このような関係を結んでいます。神様と万宇宙はこのような因縁で結ばれているのですが、再び人間と関係を結んでいるのです。このような事実を感じて自然を見つめるとき、皆さんは初めて人間の尊厳性を感じることができるでしょう。
(5-344、1959.3.8)

神様が私の父であることを知り、神様は私のためにこの宇宙を造ってくださったことを知りました。ですから、世の中が何と言おうと、私が神様に「この宇宙は誰のために造りましたか」と尋ねてみるとき、「レバレンド・ムーン、お前のために造った」と言われるのです。

神様も私の神様であり、宇宙も私のものだというのです。それは言葉だけではありません。そのように世の中を見つめるのです。
春になれば花が咲き、香りが漂い、美しい花園が訪れてきます。蝶が舞い、虫が飛ぶようになります。それは宇宙のあらゆるものを象徴します。神様の愛と神様の高貴さと天使世界が和動することを、すべて私に見せてくれるためのものです。

すべてが私と連結しています。小さな鳥がチュンチュン鳴くのも私を見てそのようにするのであり、おなかがすいていたり、友人を見つけるのを願うので、私が呼んであげればうれしいと思うのです。このように、すべて因縁を結んでいるくのです。

蝶がカップルで飛んでいれば、蝶よりもっと美しく人間は生きなければならず、鳥たちが喜ぶものを見れば、烏たちよりもっと美しく生きなければならず、すべての動物たちよりも、もっと理想的に生きなければなりません。

ですから、春が来たのなら、「すずめよ、お前は今年の春を迎えてチュンチュン鳴きながら喜んでいるが、来年の春には、私がお前よりもっと喜ぶだろう」と考えなければなりません。私が歌い、私が香りを発するのは誰のたのですか。神様のためです。ですから、神様が私についてきて、比べてみて、刺激を受けて楽しまれるよう、私が動物や万物を通して感じるのと同じように感じられるよう、刺激を差し上げるのです。

私がたとえ着るものがなく、流れ者の立場になったとしても、庭に横になっていれば、「天が私の布団であり、そばに流れる水が私の水道であり、
山に生えている万物が私の食べ物だ!」、このように考えます。

川の流れを見れば、その川の流れはとても小さいですが、「お前はこの大海の先祖と因縁をもった、そのような偉大な水だなあ!」と称賛します。小さな一株の草を見ても、最近人間たちは、ある有名な画家が描いた絵を博物館に保管し、世界に誇り、何十万ドルや何百万ドルだと大騒ぎしますが、「それは人間が描いた絵にすぎない。
神様が直接つくられた生花なら生花、その一輪の花がそれと比べられるだろうか」と思いました。これは、どの国の博物館にある、その何よりも貴いものだと思います。

それで、1羽の鳥を捕まえても、キスしたあとに「お前は誰よりも貴いなあ!」と言います。皆さん、じめじめした所に行って掘り返してみれば、見えない虫もみなカップルで這い回り、自分たち同士でひそひそと通じているというのです。

私が愛と幸福を感じることができるよう、神様が私のためにつくってくださった神様の庭の、生きた博物館です。万物は主人が人、神様の息子であることを知っているので、すべてその主人に関心をもってついて回ろうとするのです。
(106-137、1979.12.23)


2.生命尊重

この節の章句は、生命尊重に符合する倫理を規定するものである。道教と仏教の経典は、人間世界の人為性に関して指摘し、自然の純粋さと無為に帰ることを促す。

暗く不潔な都市環境と比較するとき、自然の中の生は、すなわち浄化であり、霊的生に助けとなる。自然の中で時間を過ごすある人にとって、自然世界に対する尊重と、その中の被造物に関する恭敬は、強制された何かではなく、愛に満ちた心情から自然と流れ出てくるものである。

それゆえに、アヒンサー、すなわちインド亜大陸で生じた非暴力、不殺生の教義がある。菜食主義は、よくこの教義の倫理観によって出現する。さらには、自然の被造物の中で、雌牛ほど惜しみなく、何の不平もなく与える動物はなく、したがって、雌牛はヒンドゥー教徒たちと多数の原住民たちによって当然、恭敬される。

文鮮明先生の教えは、上で言及した側面と様々に符合するが、特に自然に対する愛を強調し、それは環境倫理のための出発点とみなされる。しかし、それは、下位体系の被造物は、上位体系の被造物にのみ込まれ、吸収されることによって、神様の愛にさらに近づいていくという概念に立脚し、菜食主義に対する興味深い異議を提示する。

下位体系の被造物は神様の愛を具現するので、被
造物の頂上に立った人間のための滋養分になることを当然願うだろう。しかし、真の愛を実践しない人は食べ物を摂取する資格がないのである。

①生命体に対する畏敬と保護

―宗教経典―

恰も母が己が子、一子を自らの命を賭して護るが如く、一切有情に対して無辺の〔慈悲〕心を修習せよ。
小誦経、慈悲経(仏教)

全ての生き物に対して一切危害を加えない事、もしくは(実際やむを得ない場合)最小限度の危害にとどめることを信条とした生き方が、最高の道徳である。
マハーバーラタ、シャーンティ・パルヴァン262.5 ~ 6(ヒンドゥー教)


何かの動物や生物、有機体、または意識のある存在を傷つけたり、隷属させたり、苦痛を与えたり、殺したりしてはいけない。非暴力の教義は清浄で不変であり永遠だ。苦痛があなたに痛みを与えるように同様にそれはあらゆる動物、生物、有機体、意識のある存在に痛みを与え、不安にさせ、恐れ震えさせる。
アーヤーランガ・スッタ4.25 ~ 26、(ジャイナ教)

使徒曰く、「イスラームには害悪もないが、害悪に対する根拠もない」。
マジュマ・アル・ザワーイド4.6536 (イスラーム)

一人の比丘あり、蛇に咬まれ死せり。世尊に此の義を告げたり。「比丘等よ、彼比丘は四種の蛇王族に慈心を以て偏満せざりしなり。比丘等よ、若し彼比丘、四種の蛇王族に慈心を以て偏満したりせば、比丘等よ、彼比丘は蛇に咬まれて死することなかりしならん。……。

無足者を慈しみ二足者を慈しみ四足者を慈しみ多足者を慈しみ無足者我を害ふな二足者我を害ふな四足者我を害ふな多足者我を害ふな一切有情、一切生類総じて一切の生者一切は善美に遇ひ小分の悪、来る勿れ」
律蔵、小品V.6 (仏教)

生み出しても、所有することはない。
はたらかせても、報いを期待せず、
成熟しても、管理することをしない。
これは見えない「徳」と呼ばれる。
六道徳経51(道教)

牛馬が四本の足を備えているのを、天といい、自然という。馬の首に綱をまきつけ、牛の鼻に穴をあけて輪を通すことを、人といい、人為という。だから、古人も「人為によって自然を滅ぼしてはならない。故意(はからい)をもって、天から与えられた自然の性命(もちまえ)を滅ぼしてはならない……」。
荘子17(道教)

大和には、群山あれど
とりよろふ天の香具山
登り立ち国見をすれば
国原は煙立ち立つ
海原はかまめ立ち立つ
うまし国そあきづ島大和の国は(注1)
万葉集(神道)

全世界の中心、須弥山の東側に、険しく緩慢な山すその急斜面に沿って流れ下る青々とした小川、明るく青々とした木々の葉、香り漂う百合、天界の木々はそれぞれ美しく、名も知らない林と蔓がうっそうと茂り、苦行僧と求道者たちが世話をするがっちょう、あひる、白鳥たちの鳴き声がのどかだ。(注2)
ジャータカ(仏教)

おお、虎たちよ、再び森に戻り、森が平地と変わらないものにならないようにせよ。お前たちがいなければ、斧が森を無残に殺戮するだろう。森がなければ、お前たちは永遠に住む所なくさまよい歩くだろう。小誦経(仏教)
倫理は、私が、すべて生きんとする意志に、自己の生に対すると同様な生への畏敬をもたらそうとする内的要求を体験することにある。これによって、道徳の根本原理は与えられたのである。

すなわち生を維持し促進するのは善であり、生を破壊し生を阻害するのは悪である。……人間は、助けうるすべての生命を助けたいという内的要求に従い、なんらか生命あるものならば害を加える
ことをおそれるというときにのみ、真に倫理的である。

かれは、この生命あるいはかの生命がどれほどの貴い関心に値するかを、またそれらが感受能力があるかどうか、どの程度にそれがあるか、を問わない。生命そのものがかれには神聖なのである。
アルベルト・シュヴァイツァー文化と倫理

―み言選集―

自然を愛し、人を愛することができなければなりこません。人を愛することができず、自然を愛することができない人は、神様を愛することができません。万物は神様の象徴的存在であり、人間は実体的存在なので、万物と人間を愛することができる人は、神様を愛するようになるのです。
(70-182、1974.2.9)

自然を愛することができない人は、自然の主人である人を愛することができないというのです。自然を自分以上に愛し、また人々を自分以上に愛さなければなりません。
(375-20、2002.4.13)

妻を愛するときも、生きる栄養素を妻に補給する、空気と太陽の光と水と草を先に愛さなければなりません。水と太陽がなければ、草木が育つことができません。自然を愛してこそ、自分が生きることができるのです。
これらは、自分勝手に取って食べながら愛することはできず、そのようにして食べれば病気になります。愛すれば病気になりません。
(385-200、2002.7.11)

私達の体と、最も近いものが自然です。ですから、私達は嘆息する自然の願いを解いてあげなければなりません。山を愛せる人こそ、高いものを崇めることができます。そのような意味で、孔子、釈迦、イエス様は、みな山を愛した方たちでした。

先生は、名勝地に行くと、それが天の運勢を中心として、どのくらいの価値があるのかという立場で見つめます。そして、それを天の運勢と連結するようになります。それで、統一教会の草創期には、たくさん山に通いました。

一つの国の山と地と水を見れば、その国の民族性を知ることができます。私達の国の水は、どこに行って飲んでも玉水です。外国に出ていく前に、私達の国の自然を深く愛してあげなければなりません。自分が生まれた地を愛せる人が、自分の体も愛せます。また、自分の体を愛せる人が自分の心を愛する人であり、自分の心を愛する人が神様を愛する人です。

ですから、このような人は滅びません。また、このような人は、天も打つことができません。私達は、ナイアガラの滝よりも、自分が生まれたこの地をもっと愛さなければならないのです。自然が神様の摂理路程において、どれほど多くの人たちを慰労したかという事実を、私達は知らなければなりません。
(14-102、1964.6.20)

海を愛さなければなりません。愛する海に、危険千万なものがどれほどたくさんありますか。未知の事実がたくさんあります。それを掘り下げ、もっと愛そうとしてこそ、深いものを知り得ます。また、山も危険な所がたくさんあります。それも体験し、自分がさらに開発しようという心があってこそ、自分の心が広くなるのです。
(391-218、2002.8.26)
アメリカのニューヨークやワシントンの一部の地域は、地獄の中の地獄です。一番暗い所です。島国のように、10 里くらい(注3)行って初めて一人に会い、一日中会おうとしても、10 人に会うか会わないかという所に行って暮らせば、そこでは本心が目を開けるのです。そのでような環境であることを知らなければなりません。

自然環境が80 パーセントで、人の環境が20 パーセントになっても、バランスを取るのが大変です。それで、都市にいる人たちを田舎に追い出し、公害問題と環境問題を解決しなければなりません。人類が300 年、3世紀をどのように生き残るのかということです。ですから、追い出さなければなりません。

特に、先進国においてはそうです。都市が問題です。麻薬、犯罪、エイズなど、複雑な問題がたくさんあります。聞くもの、見るもの、感じるものがすべて問題です。このような諸問題から、どのように逃げていくのですか。
ですから、田舎に散らばらなければなりません。今は田舎に行っても、すべて文化生活ができます。インターネッ卜があり、e-Mail と電話があり、どごに行ってもすべて同じです。あの頂上、ロッキー山脈のような7000 メートル以上になる所で
も、インターネットを通して世界のすべてのものを見ることができます。

ですから、レバレンド・ムーンは南米の田舎に行くのです。蚊がたくさんいますが、空気が良く、水が良く、太陽の光が良いのです。海を見てください。太平洋の島に行っても、空気が良く、水が良いのです。公害がなく、環境はもっと良く……。自然と共に話をします。神様は自然に近いのです。
(339-163、2000.12.10)

②神聖な牝牛

―宗教経典―

牝牛たちはこなたに来たれり、しかして幸(さち)をもたらせり。彼らは牛舎の中に坐せ。われらのもとにおいて爽快なれ。後裔に富み、あまたの様相を呈して、彼らがここにあらんことを、インドラのため多くの朝な朝な乳を搾りいだしつつ。……

彼ら(牝牛)は失わるることなからん、盗賊は〔彼らを〕傷つくることなからん。敵意ある者彼らの道を脅(おびやか)すことなからん。彼らをもって神々を祭り、かつ布施する者は、牝牛の主(所有者)として、いと長く彼らと共にあり。埃にまみれたる頚もつ軍馬は、彼ら(牝牛)に達せず。

彼らは設けの場(場)に近づかず。祭祀する人間のそれらの牝牛は、危険なき広濶の地(牧場)に拡がりて歩む。牝牛たちはバガ(幸運の神のごとく、牝牛たちはインドラのごとくわれに見えた牝牛たちは最初のソーマの一飲みのごとくに。これらの牝牛、そは、人々よ、インドラなり。心をもちて、意をもちて、われはインドラを熱望す。

汝らは、牝牛よ、痩せたる者をも肥満ならしむ、醜き者をも美貌ならしむ。汝らは家を幸多からしむ、幸多き声もつものたちよ。汝らの高大なる活力は、集会において宣示せらる(称讃される)。(注4)
リグ・ヴェーダ6.28 (ヒンドゥー教)

おお、先祖様!
あなたが私達に下さった
この野牛を御覧ください。
彼は私達の聖なる母の上にいる
あらゆる四足動物の頭です。
そのおかげで人々は生きていき
彼と共に聖なる行路を歩みます。
スー族の祈り(アメリカ先住民の宗教)


―み言選集―

昔、私は田舎で暮らしていました。そのとき、私が一番嫌いだったことが、牛に餌を食べさせにいくことでした。それが最初はうんざりしていたのですが、悟ってからは、牛を本当に愛するようになりました。

あるときには、牛は午後になると時間になったことをはっきり分かります。ところが、私は、遊んでいる途中で最後までやらずに、そのまま帰るのは嫌いでした。それで、「おい!10 分待て! おい! 30 分待て!」、こうしていると1時間、2時間……。それで、牛は野原に縛られて、「私を迎えにくる主人はどこに行ったのか」と待っているのです。

しかし、遅くなっても、私なら怒って押したり蹴ったりするのに、何も言わずにこのように見つめているのです。そのようなとき、私は、「本当に君子だ! ああ、有り難い!」と心で言いました。そのような時がたくさんあったのです。「いやあ! これは本当に私よりも……」。それからは、
「いやあ! お前のそのような姿を見るとき、きょうは食べさせて蕩減復帰しなければならない!」、そして日が暮れて暗くなるまで食べさせてあげたりしました。それで、おなかがぱんぱんになっても、主人が食べさせるので、どんどん食べるのです。これは、夜通しても食べます。胃がたぐさんあるからです。

それで、私は、牛から学んだことがたくさんあります。暑い5、6月、炎天下に座って汗をぽろぽろ流しながら遠くの山を見つめ……。瞑想する大王様が牛です。

それで、世界の人々は、虎の肉は嫌っても、牛の肉は好むのです。犬の肉も嫌い、猫の肉も嫌います。そのようなものたちは、どれほど素早いです
か。(牛は)どれほど洋々としているかということです。また、犬はどれほど吠えますか。それで、「牛の肉はみな好むのだなあ」、このように考えました。
歯磨き粉のようなものも牛の骨でつくります。しっぽ一つ捨てるものがなく、骨一つ捨てるもめがありません。糞も肥料として使います。それで「牛が良いことは良いなあ!」と思うのです。
(109-40、1980.10.26)

③菜食主義

―宗教経典―

生きている命を殺してはならない。これはあらゆる知恵の要訣であり、これこそ不殺生に関する相互関係の道理から下される至高な結論であることを知れ。

動くもの、動かないもの、一切の生命、空を飛ぶ鳥も、地の上、あるいは地の中にすむ一切の生命に対する危害や殺傷がない世界、このような世界を指して安楽と平和が満ちた究極の涅槃だという……。

真の求道者は、生きた命を捕まえて作られた食べ物や飲み物を食べてはならず、禁じられた食べ物が少しでもある食事に同席してもいけないが、これは戒律に忠実な者の当然の道理である。
自ら疑わしいと思える食べ物は何であっても慎み、自らの魂を究極の境地にふさわしくし、感覚を統御する者は、生きている命を殺したり、このようなことに共にしてはいけないことを、常に肝に銘ぜよ。
スーヤガダンガ1.11.10 ~ 16(ジャイナ教)

生き物を殺害するこしとなく肉を手に入れることは決して出来ず、一方生き物の殺害は天界に導かない。それゆえに肉を避けるべし。
マヌ法典5.48 (ヒンドゥー教)

是の故に阿難よ、若し殺を断ぜずして禅定を修する者は、譬へば人ありて自ら其耳を塞ぎて、高声に大に叫びて、人の聞かざることを求むるが如し。此等を名けて隠さんと欲すれどもいよいよ露はると為す。

清浄の比丘及び諸の菩薩は、岐路に於いて行くに、生草をも踏まず、況や手を以て抜くをや。云何ぞ大悲、諸の衆生の血肉を取って食に充てんや。若し諸の比丘、東方の糸綿絹帛、及び是れ此上の靴履裘毳、乳酪醍醐を服せずば、是の如きの比丘は、世に於て真に脱せり、宿債を酬還して三界に遊ばず。何となれば、其の身分を服すれば、皆彼の縁と為るを以てなり。
首楞厳経(仏教)


一み言選集―

人間が愛のオーケストラをして、愛のすべての脈拍を中心として、宇宙をすべて生かしていける動物世界と植物世界を食べるということは、愛の結実を食べて生きているということです。結実を食べて、生きているというのです。

さあ、涙を流し、愛する心をもって食べ物に対するとき、その食べられる食べ物は、「ついにあなたの血肉になり、力になり、神様を愛することができる元素として私が吸収される、このような驚くべきことに感謝します」と言い、早く口に入っていこうと考えるのです。牛の肉を食べても、「この牛の肉は、子牛のときから母親が愛し、主人が愛して育ててここまで来た愛の結実なのだなあ!」ということを知らなければなりません。愛の実として消化して食べて生きるという概念を中心として愛し、愛する神様の本質的愛の父母の内容と一致した立場で食べて、感謝する人は病気にもならないというのです。これは理論的な結論です。(217-307、1991.6.12)
最近、皆さんは、朝、毎日御飯を食べますか、食べませんか。それでは、食べるとき、生えている野菜を無情に切って、包丁でタタタとするとき、少し申し訳ないと思いますか。煮ることもせずに、塩をかけてうさぎのようにむしゃむしゃ食べるのを見るとき、この野菜が、「ああ、私は死ぬ、こいつ、復讐、復讐、復讐」、このように思いますか。それは、どれほど無情ですか。そのようにできますか。

しかし、野菜は、「私はそれをすべてありがたく思い、あなたは私よりもっと価値のあるこの宇宙の公的な存在です。公的価値のある存在には犠牲になるのが原則なので、私は感謝して入っていきます!」というのです。

そのように、私が「ははは」と喜んで笑うとき、ここに入っていったその食べ物が、喜んでそう言うようにしなければなりません。これが気分を良くし、入っていって私の肉になり、血になって動かなければなりません。
これがすべて不平不満を言えば、どのようになりますか。私が「ははは」と笑うとき、ただ「うーん」と言えば、どのようになるかというのです。私のためではなく、全体のために「ははは」と笑わなければなりません。そのようになることを、
すべての食べ物は喜ぶのです。しかし、自分のために「ははは」と笑うのは、「乞食のようなやつだ」と思います。

それで人々の体は、宇宙の公法によって反動が起きるので、病気になり、悪いことが起きるのです。そのようになれば、自然的にこの宇宙の公法によって衰退し、滅びるのです。
(105-94、1979.9.30)

この道を行かないという存在は、孤独なものであり、腐ちてしまうものであり、廃物になります。ですから、ダーウィンの進化論のようなものは、ある面では一理があるのです。弱肉強食という言葉は、高いもののためには、より大きなもののためには通じるのです。それが宇宙の存在原則です。
ですから、魚を食べ、牛を食べ、あらゆるものを食べてそれを吸収したなら、それ以上に神様の愛のために生きるのです。そのようにするとき、万宇宙が歓迎します。
(124-320、1983.3.1)

植物は鉱物を飲み込み、動物は植物を食べ、どんどん高い所に行きます。人の近くに行くことによって、神様を愛し得る神経細胞に到達しようというのです。それが理想的です。すべてのものは、神様の愛を求めていこうとします。

人も、神様の愛のために犠牲にならなければなりません。愛の力は、犠牲になろうとします。愛がどんどん発展を繰り返していけば、神様の愛にまで行くのです。

ですから、そのような概念をもって結ばれた一双の愛する夫婦は、字宙の宝なので、全宇宙が保護し、天地が保護し、人と万物が保護するので、それを保護することができなければなりません。
(201-123、1990.3.27)
3.教師としての自然

自然には、私達に様々な教えを与えてくれるものが広がっている。勤勉に食糧を貯蔵する蟻から、つがいのために甘い唄を歌う鳥たちに至るまで、自然の被造物が生きていくその生き方を観照すれば、自然は生の根本倫理に関する多くの教えを提供している。

地を開墾して動物の世話をすることは、忍耐と犠
牲を教え、収穫が豊富なとき、神様に抱かれる恩恵を知るようになる。文鮮明先生は、神様が植物と動物を通して、太初の人々にも愛と価値ある人生に関して、十分な教訓を与えたと教える。

―宗教経典―

獣に尋ねるがよい、教えてくれるだろう。空の鳥もあなたに告げるだろう。大地に問いかけてみよ、教えてくれるだろう。海の魚もあなたに語るだろう。彼らはみな知っている。主の御手がすべてを造られたことを。ヨブ記12.7 ~9(キリスト教)
なんじらは、種まきのことを考えたか。なんじらがそれを育てるのか、それともわれが育てるか。
もしわれが欲するならば、それを枯れたくずにしてしまう、なんじらは驚嘆してやまぬ。

「わしらはまことに負債を課せられた、いや、わしらは失望させられた。」(と言うであろう)。
なんじらの飲む水について考えたか。
なんじらが雲から雨を降らせるのか、
それともわれが降らせるのか。

われがもし欲するならば、
それを塩からくすることができる、
なんじらはどうして感謝しないのか。
なんじらは、ともす火について考えたか。
その燃やす木を、なんじらがつくったのか、
それと、もわれがつくったか。
われはそれをもって教訓となし、
また荒野の住民の便利のためにつくった。
クルアーン56.63 ~ 73(イスラーム)

はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。
ヨハネによる福音書12.24 (キリスト教)

主を知ることを追い求めよう。主は曙の光のように必ず現れ、降り注ぐ雨のように大地を潤す春雨のように我々を訪れてくださる。
ホセア書6.3 (キリスト教)

神に関する神聖な文献と聖書を研究したのち、神の創造物とその創造物に関
する偉大な文献を研究せよ。
フランシス・ベーコン(注5)


―み言選集―

人間は、自然世界やこの地球の動きを見て、おもしろいと思うようになるということです。そのようにして、自分自体の愛の属性をすべて学ぶのです。

虫たちが暮らし、昆虫たちが暮らし、あるいは動物たちが暮らすのを見れば、すべてペアであると知ることができます。このように見るとき、自然とは、一人の人間を愛の対象として、相対理想を教育するために展開しておいた教材であり、博物館だというのです。
(137-212、1986.1.3)

万物世界は、お互いに愛します。動物を見ても、昆虫を見ても、植物を見ても、鉱物世界を見ても、すべて同様です。お互いに相対を中心として、歌も歌い、踊りも踊り、飛んだり、はったりします。
このようなすべてのことを見つめながら、「彼らは何をしているのだろうか」といって、すべて見て学ぶのです。自然とは何かというと、アダムを教育する博物館です。アダムを教育する生きた教科書です。
(134-194、1985.7.20)

環境は、必ず主体と対象のペア・システムになっています。この宇宙は、愛を核とする一つの博物館です。ペアの博物館です。

ですから、2羽の鳥がお互いに愛しながら一生懸命に巣を作り、ひなを産んで餌を与えるのを見ながら、学ばなければなりません。「私の子供のために、あれよりも何百倍もしてあげなければならない」と思わなければなりません。虫たちも、雄雌2匹が愛して子供を産みます。彼らも、自分の生命を懸けて子供たちを育てようとします。
(229-287、1992.4.13)


このサーモンのようなものも、本当に驚くべき人間の教材です。一度愛したら死ぬのです。子供たちのために餌になるというのです。それがどれほど美しいですか。愛ゆえに死ぬので、それがどれほど美しいかというのです。
(132-81、1984.5.20)

私は自然を愛しました。原理の80 パーセントを自然の中から見いだしたのです。
(374-235、2002.4.10)

世の中のあらゆる教材の中で、最もすぐれた教材が木と草です。種が蒔かれて大きくなり、春になれば花を咲かせ、実を結んで、主人に報いる贈り物をしていきます。また、毎年、より立派な枝を張り、より多く、より大きく収穫され、生い茂るのが自然世界です。
(386-298、2002.7.18)

先生の村には、時が来ると渡り鳥が飛んできます。ソウルのような都市に住んでいる人たちは、渡り鳥を知らないでしょう。ですから、人間の情緒的な面において足らない人たちです。自然の交流、交流の心情を知らないのです。

先生は、こっそりと渡り鳥についていってみたことがあります。美しい鳥なので、そのつがいが産んだ卵はどれほど美しいだろうか、卵の色はどんな色だろうか、と気になりました。それひたすら渡り鳥を見ているのですが、1週間くらい見ているのは普通です。

そのような鳥たちは、目立つ所に巣を作りません。腐った木の穴のような所は蛇が這い回っているからです。危険な所には作りません。丈夫で下に通じる穴に巣を作ります。誰がすべて教えてあげたのか、一つ穴の巣を作っておきます。巣も深く作るのではなく、いつでも周辺の状況を見渡せるように作ります。その世界で自分の生息のために保護できる感覚と知能というものは天才的なものです。
(137-223、1986.1.3)


鳥も国境がないと見るのです。彼らは、ビザもなく、何もありません。台風が吹いてきて、台風に「アメリカは世界で一番偉大な国、大国なので、ここは誰も入ってくることができないようになっています。ですから、台風も入ってくることができない」、それが通じますか。

小さな蟻も思いどおりに越えていき、小さな蛇も思いどおりに越えていき、虫も飛んでいきます。すべてこうなのに、なぜ人間は思いどおりに越えていくことができないのかというのです。

それもそうですが、メキシコの蟻とアメリカの蟻がつがいになって子供を思いどおりに産み、メキシコめすずめとアメリカのすずめが思いどおりに卵を産み、子供を産み、メキシコの豚、虎、すべて一つになって暮らしているのに、人はどうしてこうなのですか。そのような自然を見つめるとき、本当に、なんとも不思議なのです。
(106-138、1979.12.24)

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世界経典-10

2020年10月06日 19時29分50秒 | 学習

②完全性は神様と一致すること

―宗教経典―

だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。
マタイによる福音書5.48 (キリスト教)

神から生まれた人は皆、罪を犯しません。神の種がこの人の内にいつもあるからです。この人は神から生まれたので、罪を犯すことができません。
ヨハネの手紙一3.9 (キリスト教)

誠は、天理本来の姿である。誠であろうとするのは、人の当然の務めである。真実無妄で、思勉するまでもなく、おのずからにして道に当たるのは聖人である
中庸20.18 (儒教)


まことに、キリストのもとに来て、キリストによって完全になりなさい。神の御心に添わないものをすべて拒みなさい。もしあなたがたが神の御心に添わないものをすべて拒み、勢力と思いと力を尽くして神を愛するならば、神の恵みはあなたがたに十分であり、あなたがたは神の恵みにより、キリストによって完全になることができる。そしてあなたがたは、神の恵みによりキリストに
よって完全になれば、決して神の力を否定することができない。
モルモン経、モロナイ書10.32(末日聖徒イエス・キリスト教会)

祝福されよ、主に信頼する人は。主がその人のよりどころとなられる。彼は水のほとりに植えられた木。水路のほとりに根を張り、暑さが襲うのを見ることなく、その葉は青々としている。干ばつの年にも憂いがなく、実を結ぶことをやめない。
エレミヤ書17.7 ~ 8(キリスト教)


至高な師は満足と寛容の木であるがゆえに、
正義がその花であり、教会はその実である。
この木は、神の中で喜びにあふれ、
永遠に枯れることがなく、
瞑想の実践によって実を結ぶ。
主の中でそれは喜んで用いられるがゆえに、
自己のない行為として
至高な愛を施すのと同じことである。
アーディ・グラント、ヴァール・マーシュ、M.1、P.147(シーク教)

完璧と不死と天則と王国を完全に主宰し給うことによって、マズダー・アフラは授け給え、心意と行為において彼(アフラ)の盟友たるものに、ウォフ・マナフとの交わりの永続を。これらのことは、正見にして獣身するものには、あらわに見えるのです。彼は、〔善〕思・善語と〔善〕行をもって、王国とともにアシャをも助けるもの。彼は、マズター・アフラよ、御身にとって最もよろこばれる客人となりましょう。
アヴェスター・ヤスナ31.21 ~ 22、(ゾロアスター教)
老子は答えた。「わしは万物のはじまる根源の世界に遊んでいたのだよ」孔子はたずねた。「それは、どういうことなのでしょうか」……
「この境地に達することができれば、最高の美しさと、最高の楽しさを得ることができる。このような最高の美を得て、最高の楽しい境地に遊ぶものを、至人というのだ」と老子は答えた。
荘子21(道教)

最高の我は、生老病死にひっかかることがなく、至高清浄で八つの業に染まっていない。それは無限の知恵と洞察と至福と権能をもち、破壊されることがなく、また尽きることがない。それは人の感官が及ぶところではなく、一切のこだわりや長短点、または再生から自由であり、永遠不変であり、比べるもののない自存者である。
クンダクンダ、ニヤマサーラ176.77、(ジャイナ教)130


―み言選集―

イエスが弟子たちに「あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」(マタイ5・48)と言われたみ言を見ても悟ることができる。創造原理によれば、創造目的を完成した人間は、神と一体となり神性をもつようになるので、罪を犯すことができない。したがって、そのような人間は、「創造目的から見れば、天の父の完全なように完全な人間である。

それゆえに、イエスが弟子たちに言われたこのみ言は、すなわち創造目的を完成した人間に復帰され、天国人になれという意味のみ言だったのである。このように、イエスは堕落人間を天国人に復帰させ、地上天国をつくるために来られたので、「みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように」祈りなさいと言われ(マタイ6・10)、また「悔い改めよ、天国は近づいた」(マタ
イ4.17)と叫ばれたのである。それで、彼の道を備えるために来た洗礼ヨハネもまた、「天国は近づいた」(マタイ3・2)と叫んだのであった。
それでは、創造目的を完成した人間に復帰され、イエスが言われたとおり、天の父が完全であられるように完全になった人間とは、いかなる人間なのだろうか。このような人間は、神と一体となり、その心情を体恤することによって、神性をもつようになり、神と一体不可分の生活をするようになるのである。
原理講論、メシヤの降臨とその再臨の目的1.1

人間が真の姿を成すには、すべての生死禍福の根源であられる神様と関係を結ばなければなりません。その関係を結ばなければ、人間個体内では真の姿を成し遂げることができないのです。

真は(注14)、必ず神様が中心にならなければなりません。ですから人間は、全体的に収拾して、主管し得る決定的な基盤をもつようになるとき、真が成されるのです。その基盤をもつことができな
ければ、「真」という名詞は成立し得ないということを知らなければなりません。

真の起源は、神様です。神様がいらっしゃることによって、真が成されます。神様が離れるようになるとき、真も離れるようになります。そこには真ではない、悪の起源が生まれるのです。このような事実を皆さんは知らなければなりません。

このような観点から見ても、真は、人間が勝手に考えることのできるものではありません。すなわち、堕落した人間が勝手に管理する、そのような位置に従属しているのではなく、真が私達を主管している、ということを知らなければなりません。ですから、私達は、いつも真の前に屈服しなければなりません。真を立てて、そこに順応しなければならないのです。
(24-315、1969.9.14)

神様を生活の中で直接五官を通して感じ、神様の実存を分かるようになってこそ、本当に神様が分かるようになります。言い換えれば、神様の実存を体恤して感じなければなりません。このように神様の実存を生活の中で直接、体恤して生きれば、自動的に神様のみ旨が何かを一瞬一瞬感じ、分かってすべてのことに臨むようになり、罪を犯そうとしても犯すことができない完成した人間の姿になるでしょう。

無形でいらっしゃる神様は、人間の実体をまとって主人的人格と形体を備え、有形世界である地上世界と万物万象はもちろん、霊界までも主管されるようになっているのです。このように、神様をはっきりと知ることは、人間の人生において最も優先的で重要な要素です。

神様をはっきりと知り、生活の中で侍って暮らし、霊界の実存はもちろん、実相までも信じて分かるようになれば、人間の人生は高速道路を走る自動車のように簡単で遮るものがなくなるでしょう。運転者が高速道路の法規を守り、ハンドルを握って居眠りさえしなければ、無難に目的地に到達できるように、天が下さった良心の指向に従って一生懸命に生きさえすればよいのです。そこ
で心と体も一つになるのです。そこで人間完成の花が咲き、実を結ぶというのです。
(447-157 ~ 163、2004.5.1)
真の人間とは何ですか。神様と遊び、神様と休み、神様と眠り、神様と生きようとする人間が最高の真の人間です。神様はどのような人を求めるのかというと、そのような真の人間を求めます。

同じように、私達人間が真のものを求めていき、真の世界を求めていくのですが、神様と共に暮らす世界が真の愛の世界であり、真の幸福の世界なのです。そこで初めて私達の理想境が顕現するのです。
(60-284、1972.8.18)


③完全性は神様のように愛すること

―宗教経典―

あなたがたも聞いているとおり、「隣人を愛し、敵を憎め」と命じられている。しかし、私は言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。

自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。徴税人でも、同じことをしているではないか。自分の兄弟にだけ挨拶したところで、どんな優れたことをしたことになろうか、異邦人でさえ、同じことをしているではないか。だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。
マタイによる福音書5.43 ~ 48(キリスト教)

主なる神は言われた。「私に似なさい。私が悪に対して善で返すように、あなたも私に似なさい」。
出エジプト記ラッバー26.2(ユダヤ教)

愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神かち出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです。……愛にとどまる人は、神の内にとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます。
ヨハネの手紙一4.7 ~ 16(キリスト教)

敵と味方に対して平等であり、また尊敬と軽蔑に対しても平等であり、寒暑や苦楽に対しても平等であり、執着を離れた人、毀誉褒貶を等しく見て、沈黙し、いかなるものにも満足し、住処(すみか)なく、心が確定し、信愛に満ちた人、彼は私にとって愛しい。
バガヴァッド・ギーター12.18 ~ 19(ヒンドゥー教)

霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。
ガラテヤの信徒への手紙5.22 ~ 23(キリスト教)

あなたの愛は普遍的でなければならない。あなたは、宇宙があなた自身の存在様相であることが分かるだろう。他の人々が不完全に残っている限り、私達の完成は完成ではないことを感じるときこそ、完全で全体的な完成が起きるだろう。

もし私達が私達自身を神の子と呼ぶのなら、他の人々もまた神の子である。私達がもっているものがいくら小さなものだとしても、彼らと分
かち合わなければ、私達は何の権利で彼らを私達の兄弟だと呼ぶことができるだろうか。

彼らは私達より少しあとから人生旅程を歩んでいるかもしれず、またいち早く眠りに就くこともあるだろう。しかし、完璧な完成が地球上に明けてくるためには、彼らはその目標に到達しなければならない。シュリ・チンモイ(ヒンドゥー教)
―み言選集―

道の世界において人格完成の標準は、どこから出てくるのでしょうか。愛から出てくるのです。神様の無限で絶対的な愛を中心として人格完成がなされるのです。
(33-79、1970.8.9)

イエス様は、勝利的天倫の道を開拓するために、歴史上になかった愛を強調したのです。そして、いかなる困難な環境にぶつかっても、その環境を克服するためには、忍耐心をもたなければならないと主張したのであり、罪人たちが悪に対して忠誠を尽くす以上に神様のみ旨めために忠誠を尽くさなければならないと語られたのです。これがキリスト教で言う聖霊の九つの実の根本です。

愛の生活をすれば喜楽と和平が出てくるのであり、忍耐を通しては慈悲と善良が出てくるのであり、忠誠の生活をすれば温柔と謙遜が出てきます。
イエス様は、堕落圏内にいる人間たちのすべての悪の要素を除去してあげるために、天的な愛と天的な忍耐、天的な忠誠を強調しました。これらが天国の理念を達成させ得る実践的な理念ですが、今日、皆さんの心にこのようなキリストの愛がありますか。また、忍耐と忠誠心がありますか。
(2-345、1957.8.4)

神様はどのようなお方でしょうか。(注15)神様は、地上の良い人からも好まれ、悪い人からも好まれるお方です。罪を犯して死刑場に出て死ぬようになる死刑囚も、「神様! 私を哀れに思ってください。私はあなたを愛しています!」と言って死にます。「この神様め! 私は死ぬ。あなたが私をこのようにした!」とは言いません。

では、悪いことをして死んでいく立場にある人も、どうして神様の前では、良い心で犠牲になり、希望をもって再出発することを誓いながら、その神様に最高に寄与し、また頼り、彼と共にいたいと思うのでしょうか。内心では切に、「父母から離れ、兄弟から離れても、誰よりも近くで事情を通じたい」と思うのです。これは、神様が真であるために、そのように言うのです。
真の人は、好きな者だけを好むのではなく、自分を殺害しようとする怨讐までも好きにならなければなりません。また、彼の前には、すべてを任せることができ、すべてを相談したくもあり、すべてを願うこともできる立場にある人であってこそ、真の人です。

それでは、今まで育ってきた過程で、憎い人がいる人は、真の人ですか、偽りの人ですか。偽りの人です。憎い人がいる人は、間違いなく偽りの人です。これをはっきりと知らなければなりません。真の人になろうとする人なら、この両面を備えているべきです。それで、私を憎む人をも好きになろというのです。私を憎む人を私が好きになれば、その人も私を好きになるのです。私を憎む人に私が3回以上良く接してあげれば、彼は頭を下げるようになるのです。3回だけ良くしてあげれば、頭を下げます。そうか、そうでないか、一度やってみなさい。人には良心があって、自分が誤ったのか良くやったのか、分かるのです。
(39-302 ~ 304、1971.1.16)

皆さんの心に神様の愛が根付いていて、引き抜こうにも引き抜くことができないようになっていますか。「私は神様の愛になすすべなくぶら下がって生きる者だ。私の体を私の思いどおりしようとしてもできない。私の体に神様の愛が深く根付いているので、私は私の思いどおりに生きようとしても生きることができない。

神様の愛を中心として生きまいとしても生きざるを得ない人だ。御飯を食べるときも、神様の愛を中心として食べ、生きるときも、心と体が神様の愛を中心として生きる私だ」と言うことができますか。
(140-24 ~ 25、1986.2.1)


8.喜び

幸福を追求することは、人間の人生はもちろん、宗数的な探求の土台となる。究極的実在との合一は、超越的な喜びを享受することができる。それは、至福(アーナンダ)、涅槃、または神聖な愛する人との婚姻として多様に特徴づけられる。唯一神論的な信仰によれば、神様は喜びのために人間を創造した。神様とその被造物との合一は、その喜びを完全なものにする。

この節では、人間の心情と神様の心情が合一して共鳴する、そのときの天国の喜びを描写する章句で始まる。そしで、天国の喜びの広大さと感覚を通した部分的な快楽を比較する章句が出てくる。このような洞察は倫理に対する論議でおろそかに扱われてはいけない。ジョージ・ワシントンは次のように言った。「徳と幸福の間には不可分の合致点がある」。
私達は、喜びに満ちた人生と天国の喜びとの間の相乗作用を描写する章句で締めくくる。ほかの人々に幸福を分け与えようとする努力が伴う愉快で楽天的な姿勢は、聖霊の喜びを引き寄せることができる。これは、夫婦の愛と神聖な愛の神秘な連関の中で経験される。(第19 章5、「夫婦愛」参照)

①天の喜び

―宗教経典―

命の道を教えてくださいます。私は御顔を仰いで満ち足り、喜び祝い、右の御手から永遠の喜びをいただきます。
詩編16.11 (キリスト教)

月日にわにんけんはじめかけたのわ
よふきゆさんがみたいゆへから
おふでさき
14.25、(天理教)

幸福は真理と愛から生じる霊的なものである。それは利己的ではない。それで、それは単独で存在することはできず、すべての人間がそれを共に分かち合うことを要求する。
科学と健康57(クリスチャン・サイエンス)


「目が見もせず、耳が聞きもせず、人の心に思い浮かびもしなかったことを、神は御自分を愛する者たちに準備された」と書いてあるとおりです。
コリントの信徒への手紙一2.9 (キリスト教)

人間は、その行なったことの報奨として、満悦させられるものが、ひそかにかれらのために用意されてあるのを知っていない。
クルアーン32.17. (イスラーム)

「雲のようにこの世に出現した余は、如来であり、人間の最高者であり、勝利者である」と。余は、三種め迷いの世界に繋縛されて四肢の痩せ衰えた、すべての人間を元気づけよう。苦悩にさいなまれた者たちを安楽にさせ、かれらに、さまざまな快楽と平安な境地を与えよう。
法華経5(仏教)


カルマの汚染から自由な者は、宇宙の究極に入っていき、一切を観照し、すべてのことを知り、永遠の至福を享受するだろう。
クンダクンダパンチャースティカーヤサーラ170(ジャイナ教)

神を唱念することにより、心の安らぎは得られるのである。
クルアーン13.28(イスラーム)

私の聖母よ! 聖なる師と一つになることで私は至福を得ました。知らず知らずの間に起きた彼との一体の中で、胸の奥深い所に楽しい音楽が響き渡り、珠玉のような旋律の天使たちが降りてきて聖歌を歌います。「そなたはそのすべてを賛美せよ、胸の中に抱いた主の歌を!」とナーナクが言うと、私は聖なる師と一つになる至福を得たのです。
アーディ・グラント、ラームカリー、M.3、p.917(シーク教)

おのが身に、すべてのもののうちの最勝なるもの〔すなわち〕楽土にある安楽をば、人は獲得したいものである――御身の、分別し給う最勝のスプンタ・マンユを通して、マズダーよ。〔けだし〕いつの日までもつづく長き生命の歓喜とともに、ウォフ・マナフの至福をも、御身はこれ(スブンタ・マンユ)によって、天則に従って授け給うのです〔から〕。
アヴェスター・ヤスナ・43.2(ゾロアスター教)

 

―み言選集―

喜びというのは、神様の心情から出発するものです。その目的は、どこで遂げられるかというと、人間によって遂げられるのです。見えない神様の心情が、目に見える人間の心情で顕現するのです。
(27-29、1969.11.15)

人はなぜ生まれたのでしょうか。神様を愛するために生まれたのであり、また万物を愛するために生まれました。反対に言えば、神様の愛を受けるために生まれたのであり、万物の愛を受けるために生まれたのです。
(81-334、1975.12.29)

いったい、神様の創造は何を目的としたものなのでしょうか。神様がいるとすれば、神様が創造したその目的は何でしょうか。私達人間が願う目的と同じでしょうか。神様も喜ばれるためにつくられたのです。喜び楽しむためだということです。
喜び楽しむにおいては何を中心として喜ぶのでしょうか。お金をもって喜ぶのでしょうか。この宇宙のすべての万象をもって喜ぶのでしょうか。人間たちが喜ぶことのできるそのようなものをもって喜ばれるためではなく、愛をもって喜ばれるために万物をつくられたのです。このすべての万物を、そのような目的のもとにつくったのです。

それでは、万物が願う最高の願いとは何であり、最高の終着点とは何でしょうか。このように見るとき、愛を通じた喜びを目的として万物をつくったとすれば、被造世界の万物は、愛を通して連結され得る因縁を抜け出すことはできません。そのような万物は、真の神様の愛を受けるために理想的に作用をするのです。
(114-63、1981.5.16)

人情と天情の合一点が、幸福の出発点である。
御旨の道、天国
人は自分が良いときは父母、兄弟、親戚を訪ねて、一緒に楽しもうとします。良いことは幸福なことなのです。幸福は永遠なものであり、永遠なものは心情です。

宇宙の中心は何でしょうか。それは父母と子供だというのです。すなわち父母と私です。神様と私だというのです。神様は父であり、私は息子です。人生の究極的目的は、父を訪ねて断ち切ることのできない関係を結び、喜びを感じることです。
(12-104、1962.12.16)

ある人が、このような物やあのような物をいっぱいつくっているのですが、ほかのある人が、「ああ、好きだ! ああ、好きだ! 愛している、愛している」と言えば、その主人がそれを見て、「本当に好きですか。本当に好きですか」と尋ね、自分よりもっと好きだということを確認すれば、彼にあげたいと思うのです。私よりもっと愛すればあげるのです。それをつくった自分よりもっと愛すれば、自分のものをその人にあげたいと思うというのです。
皆さんもそのような心があるでしょう? 神様も同じです。ですから、ねずみを見ても、「ああ、神様があれをどれほど愛されるだろうか」と言って愛し、子犬も愛し、蝶を見ても愛すれば、神様が、「それでは、お前にあげよう、お前にあげよう。お前がもっていきなさい、お前がもっていきなさい」と言います。

愛してこそ与えるのであって、そうでなければ与えません。主人の立場にいれば分かるのです。ひたすら愛して喜んでいれば、「では、お前にあげよう」、そのように言わざるを得ません。ですから、愛の刺激体として私のためにつくったという話は、正しい話です。愛を誘発するため
です。

このような万物を愛するのを見るとき、神様が、「あいつは私より優れている」と思われます。……神様も同じです。神様が私を愛するということです。神様に腕があれば、後ろに来て抱きかかえ、「おいおい、こいつ! うれしいなあ!」、このような局面です。……神様が喜んで抱きつけば、私も喜んで振り返って神様を抱きかかえるのです。神様が、「おい、それはいけない」とおっしゃるでしょうか。神様が好きだと言って神様に無限に入り込んでいけば、神様も、「よい、よい、よい」とおっしゃいます。そう言わざるを得ません。すっかり喜ばれるというのです。

そこで酔っていればい神様はどうされますか。神様に出会って愛の病にかかり、酔って楽しんでいれば、神様がそれを見て喜ばれるでしょうか、気分を悪くされるでしょうか。「ああ、私の愛は良いものだなあ。はは!」と大きく笑うのです。その時に神様が「アーメン」と言います。「ええい、不愉快なやつ!ええい、不愉決だ」とおっしゃるでしょうか、その場で「ああ、うれしい!」
とおっしゃるでしょうか。「とてもうれしい」、その言葉しかないというのです。

そのようになったあとには、二人で酔って抱きつき、乗っかろうと、下に敷こうと、どこに連れていってもうれしく、おしりにそのままくっついてもうれしく、すべてかまわないのです。そのようにできる道が最も望ましい道ではないですか。神様も願い、人間も願い、万物も願う道ではないか、このように結論を下すことができるのです。
(111.171 ~ 172、1981.2.15)

 

②感覚的喜びを超越する神聖な喜び

―宗教経典―

神の国は、飲み食いではなく、聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです。
ローマヘの信徒へ手紙14.17(キリスト教)

豊満(プーマン)なるものが即ち愉悦である。貧欠なるものには愉悦は存在しない。豊満こそ愉悦である。だから、豊満そのものを識得することに努めなければならない。
チャーンドーギヤ・ウパニシャッド7.23(ヒンドゥー教)

神は、男の信者も女の信者も、……永遠(エデン)の園の中の立派なやかた、そこに住むことを約束したもうた。だが最も偉大なものは、神のご満悦である。それこそは、至上の幸福の成就である。
クルアーン9.72(イスラーム)


この世に於ける諸欲の楽と、この天上の楽とは愛尽の楽の十六分の一にも値せず。
感興偈11(仏教)

孤独の味、心の安らいの味を味わったならば、恐れも無仏罪過も無くなる。真理の味をあじわいながら。
法句経205(仏教)

外界との接触に執心せず、自己「アートマン」のうちに幸福を見出し、ブラフマンのヨーガに専心し、彼は不滅の幸福を得る。実に、接触から生ずる諸々の享楽は、苦を生むものにすぎず、始めと終りのあるものである。アルジュナよ、知者はそれらにおいて楽しまない。
バガヴァッド・ギーター5.21 ~ 22(ヒンドゥー教)

それはじつに精(rasa)である。これはじつに精を得て、歓喜あるもの(anandin)となる。じつにもしも虚空のなかにこの歓喜がなかったならば、だれが気を吸い、だれが気であろうか? なんとなれば、この〔精〕はじつに歓喜を起こさせるものだから。歓喜の性質とは何であろうか? 高貴で、学識があり、頭がよく、強く、健康で、世界中の富を意のままにできる若者の運命を考えてみよ。彼が幸福であるとし、彼の歓喜を一単位とせよ。

その歓喜め百倍がガンダルヴァスにとっての一単位である。しかし自己を啓示され、渇望のない先覚者は、ガンダルヴァスに劣らないほどの歓喜を持っている。

ガンダルヴァスの歓喜の百倍が、天上界のガンダルヴァス〔天使〕の歓喜の一単位である。しかし自己を啓示され、渇望のない賢者は、ガンダルヴァスに劣らないほどの歓喜を持っている。

天上界のガンダルヴァスの歓喜の百倍が、楽園に住む祖霊達の歓喜の一単位である。神々の歓喜、祭祀より生まれた神々の歓喜、神々の支配者の歓喜、インドラの歓喜、ブリハスパティの歓喜、プラジャパティこの歓喜、ラフマーの歓喜、しかし自己を啓示され、渇望のない先覚者は、ブラフマーに劣らないほどの歓喜を持っている。この様に書かれている。「言葉で表すことができず、意によって到達することのできないブラフマンの歓喜を知る者は、恐れより解放される。彼は、「な
ぜ私は正しいことをしなかったのか? なぜ私は誤ったことをこしたのか?」という思いによって悩まされることがない。ブラフマンの歓喜を知る者は、善悪を共に知り、それらを共に超越する。
タイッティリーヤ・.ウパニシャッド2.7 ~ 9(ヒンドゥー教)

誰でも肉体的な快楽を楽しむごとができる。奴隷も最も良い人に劣らず楽しむことができる。しかし、奴隷も自らの人間的な生活をしているなら分からないが、誰も奴隷が幸せだとは思わない。したがって、幸福はそのような暇つぶしのたねにあるのではなく、徳のある活動に含まれている。
アリストテレスニコマコス倫理学10.6(ヘレニズム)


―み言選集―

私達人間をじっと見てみると、ひたすらあちこち歩き回って、目も麻痺になり、耳も麻痺になり、においをかぐ鼻も麻痺になり、味わう口も麻痺になり、2本の腕も麻痺になり、すべて麻痺になったというのです。

私の目が、私の耳が、私のすべての感覚器が一体化して、すべての神経線まで全体を総合し、私を一つのところに導くことのできるその道はどこでしょうか。陶酔し、喜びを感じて生きることのできる道があるとすれば、それはどの道でしょうか。それが私個人の人生の道として、私の一つの道として、私が満足できるだけでなく、私に従う家庭が満足し、私が属している氏族が満足し、私が属した国が満足し、私が属した世界が満足し、私が属した天地が満足し、神様までも満足できる、
そのような光の道がどこにあるでしょうか。これが問題だというのです。
(95-181、1977.11.13)

個人生活を中心とする人々はよく感じることができませんが、恩恵深い生活をする人々は、いつも見ている万物が昔とは異なるように感じられるのです。

いつも新しいのです。朝に見ても新しく、夕方に見ても新しいのです。神様の恩賜がゆっくり波打ってくるとき、神秘さを立体的に感じます。そのように感知する人がいれば、彼は幸福な人です。
(30-134 ~ 135、1970.3.21)

神様がいれば、その神様と人間はどこで連結されるのですか。生命が交流する所、愛が交流する所、理想が交流する所です。その点がどのような点でしょうか。父子の関係にならざるを得ないという結論が出てきます。

このように見るとき、「ああ、私が神様と同等になることができるので、そのような喜びがどれほど大きいだろうか」と考えてみることを願います。そこで祈祷が必要ですか。「神様、私は罪人です」という祈祷が必要ですか。愛の主体であり、生命の主体であり、理想の主体なのに、祈祷が必要ですか。威信と体面を超越するのです。ためらうことなく神様をつかむことができるのです。

そのように、神様が抱きかかえてなでてくれ、愛してくれることを体験すれば、骨と肉が溶けてしまうでしょう。ここに宗教指導者も来ていると思いますが、そのような神様の愛を一度受けてみましたか。そのような位置で息をすれば、世界が行ったり来たりするのです。阿片を飲み、酒を飲んで酔うよりも劣るでしょうか。阿片にも劣るのですか。酒にも劣るのですか。神様の愛に入ってくれば、満たされない所がありません。

約400 兆にもなる細胞までも踊りを踊ることを感じることができるのです。目は目で、手は手ですべて感じるのです。それ以外のほかのものは、もってきてもすべて嫌います。このような神様の愛があるので、人間の最高の高貴な欲望がそれを目指していることを徹底して知らなければなりません。(69-79 ~ 80、1973.10.20)
きょう一日が喜びで消化されるのは感謝なことですが、この喜びをあすの喜びとしてもっていくことができなければ、きょうの喜びは、私にとって永遠の怨讐になることを知らなければならず、悲しみと困難と嘆息の条件にしかならないことを知らなければなりません。

喜びが良いことばかりではなく、悲しみが悪いことばかりではないことを知っております。問題は、喜びと悲しみを連結するにおいて、自分の目的成就のための内的闘争がその環境にどのくらい結
ばれていくのかということが重要であることを知っております。

このようなことを分かるようになるとき、私達がみ旨と共に生涯路程を行くにおいて、み旨とどのくらい一致したのか、み旨の価値に私達の喜びと悲しみがどのように連結されていくのかということを考えるようになります。
(43-10、1971.4.18)

 

③楽しい生活

―宗教経典―

怨みをいだいている人々のあいだにあって怨むこと無く、われらは大いに楽しく生きよう。怨みをもっている人々のあいだにあって怨むこと無く、われらは暮らしていこう。悩める人々のあいだにあって、悩み無く、大いに楽しく生きよう。悩める人々のあいだにあって、悩み無く暮らそう。われらは一物をも所有していない。大いに楽しく生きて行こう。光り輝く神々のように、喜びを食む者となろう。
法句経197 ~ 200(仏教)

聖霊はうれしく思う心をもつ者にだけ共にされる。
エルサレム・タルムード、スッカー5.1 (ユダヤ教)


北風よ、目覚めよ。南風よ、吹け。私の園を吹き抜けて香りを振りまいておくれ。恋しい人がこの園をわがものとして、このみごとな実を食べてくださるように。私の妹、花嫁よ、私の園に私は来た。香り草やミルラを摘み、蜜の滴る私の蜂の巣を吸い、私のぶどう酒と乳を飲もう。友よ食べよ、友よ飲め。愛する者よ、愛に酔え。
雅歌4.16 ~ 5.1(キリスト教)


―み言選集―

先生は、あることに着手すれば、「このために生まれた!」と考えます。生まれたのはこのためだと考え、その次には、喜んでするのです。喜んでやりながら生きなければなりません。険しい峠を越えられるものが愛です。自分が気が向かないことには手を出しません。心がすべて知っています。喜んでするところには、神様が行かれて福を祈ってくださるのです。
(308-214、1999.1.5)

皆さんが70 年、ないし80 年を生きると考えるとき、その中で3分の2が悲しい生活だとすれば、この3分の2をどのようにしなければなりませんか。神様を中心として喜びの生活にしなければなりません。天国化させなければならないということです。天国は与えながら生きる所です。神様も与えなければなりません。父母は子女に与えなければなりません。良いものを与えたあとも、もっと良いものがあれば、それをまた与えたいと思うのが父母の心です。(34-141、1970.8.30)
なぜ男性が女性を必要とし、なぜ女性が男性を必要とするのですか。神様の愛に共鳴するためです。そのようになれば、「ああ、よい!」と言うのです。

食べなくてもよく、寝なくてもよいと言います。女性に男性が必要であり、男性に女性が必要です。完全な男性と完全な女性の愛が共鳴されてこそ、完全に神様の愛が成し遂げられるのです。
(102-21、1978.11.19)

横的な夫婦の愛が神様の理想的愛によって完全に花開き、その愛の香りが全世界を覆い尽くすと同時に、神様の愛が加えられ、父と息子、娘の位置が完成するのです。

息子、娘の幸福を謳い、息子、娘の希望と息子、娘の万事を賛美することができ、愛を謳うことができます。それだけで終わるのではなく、皆さんがもつその愛の貴い贈り物の上に立体的愛を加え、この宇宙が膨らむようになるのです。
風船を知っているでしょう? 平たくつぶれた風船をふーっと吹けば大きくなるように、宇宙が膨らみ、存在世界の万物がその中に入っていってあまりある宇宙になるのです。すべてのものを充満させることのできる愛の力によって登場するというのです。
(101-35、1978.10.28)


第4章 神様の創造と人間の創造性

1.自然の神聖さ

自然は真に神聖である、大小すべての被造物は、神様の生命を賦与され、神様の霊を分有されている。すべての伝統宗教が共有するこのような洞察は、あらゆる生物に対する尊重と恭敬の礎石となる。

アブラハムの伝統宗教によれば、神様は自らの目的に従ってそれぞれの被造物を創造したのであり、愛で満ちた自らの心情を注ぎ入れた。ゆえに、砂粒一つ、草の葉一枚に至るまで、すべての存在は神性の要素をもつ。

さらに自然は、驚くべきバランスを見せる。した
がって自然は、詩的、宗数的霊感の信頼するに足る源泉である。自然の本来の純粋さを黙想することによって、私達は神様と触れ合うことができる。

知恵のある人々は、すべての被造物が一種の意識的な知識の次元をもつことを感知する。多様な種類の動植物は、人間の氏族と世界のように種と類を成す。

それらは、私達の体を構成し、命を支える要素を私達に貸してくれた、正にその母、大地によって養育される兄弟姉妹たちである。自然が提供してくれるすべてのものを考慮すれば、私達は自然に対して、大きく感謝しなければならない。

文鮮明先生の教えのように、各被造物は、生きている神様の傑作品として、私達のために、すなわち私達の喜びと、霊感と、学びのために存
在する。したがって私達は、自然を愛し、保護しなければならない。

①自然界に内在する神性

―宗教経典―

一枚の木の葉も、あるいはもろい草の葉さえも、畏敬すべき神がその自らを表している。
卜部兼国(神道)

地とそこに満ちるもの、世界とそこに住むものは、主のもの。
詩編24.1 (キリスト教)

世界は庭園、主はこれを育てる庭師、すべてを大切にし、そこつがない。
アーディ・グラント、マージュアシュタバディー、M3、p18(シーク敦)

私は、大地に入って、威力により万物を支持する。また、液汁(甘露)よりなるソーマとなって、すべての植物を育てる。
バガヴァッド・ギーター15.13 (ヒンドゥー教)

深い天
曇った天
善い天
まっすぐな天
大地が草木を生む
草木が私達を生かす
私達を長生きさせ
恵ませる
善なる生命よ
大気の中に流布されよ
広がれよ
果てまで満たせ
甘い薬の大地は善良だ
甘い薬の大地は完全だ
甘い薬の大地は永遠の道を行く
甘い薬の大地は洗われ水が流れる
シャイアン族の歌(アメリカ先住民の宗教)


主は泉を湧き上がらせて川とし、山々の間を流れさせられた。野の獣はその水を飲み、野ろばの渇きも潤される。水のほとりに空の鳥は住み着き、草木の中から声をあげる。

主は天上の宮から山々に水を注ぎ、御業の実りをもって地を満たされる。家畜のためには牧草を茂らせ、地から糧を引き出そうと働く人間のためにさまざまな草木を生えさせられる。

ぶどう酒は人の心を喜ばせ、油は顔を輝かせ、パンは人の心を支える。主の木々、主の植えられたレバノン杉は豊かに育ち、そこに鳥は巣をかける。こうのとりの住みかは糸杉の梢。

高い山々は野山羊のため。岩狸は岩場に身を隠す。主は月を造って季節を定められた。太陽は沈む時を知っている。あなたが闇を置かれると夜になり、森の獣は皆、忍び出てくる。

若獅子は餌食を求めてほえ、神に食べ物を求める。太陽が輝き昇ると彼らは帰って行き、それぞれのねぐらにうずぐまる。人は仕事に出かけ、夕べになるまで働く。主よ、御業はいかにおびただしいことか。あなたはすべてを知恵によって成し遂げられた。地はお造りになったものに満ちている。
詩編104.10 ~ 24 (キリスト教)

渓流は寂しい小道を横切り、
寂しい小道は渓流を横切る。
そのどちらが先か。
私達はこの渓流と出会って歩むためにその寂しい小道を断ち切ったのではな
かったか。
渓流はその起源がとても古い。
その起源は創造者から始まった。
彼はあらゆるものを純粋にタノで創造した。
アシャンティ族の詩(アフリカ伝統宗教)


―み言選集―

野に育つ微々たる草一株でも、そこに神様のみ手が触れていないものがないことを私達は考えなければなりません。育っている1本の木を見ても、そこには神様の無限の内的心情の因縁を通じた事情を経ていることを、私達はもう一度思い出してみなければなりません。
(6-338、1959.6.28)

すべての万物が、そのように因縁を結ばれているというのです。そして、因縁というのは、極めて小さいところから結ばれるものです。皆さんの個体も数十(400)兆個もの細胞で因縁が結ばれた生命体です。神様の愛を中心とした創造理念の世界、すなわち大宇宙のすべての存在物はどれ一つをとってみても、神様の心情の外で生じたものはありません。

このようなことを感じる詩人がいたとすれば、偉大な詩人です。1枚の木の葉が揺れるのを見て天宙的な心情を感じ、それを表現できる詩人がいたとすれば、それは宇宙的な詩人だといえます。

今日私達は、このようなことに対して、あまりにも無視し、無関心でした。私達の周囲で無意識のうちに繰り広げられている天下万象は、神様の愛と共に存在するものであるという事実を知りませんでした。

神霊的な境地に入ってみると、小さな砂一粒にも宇宙の理致が入っているし、一つの原子にも無尽蔵の宇宙の調和が入っていることが分かります。存在するすべてのものをよく知ることはできませんが、ある複合的な力を通して現れた結果であることは否定できません。

分子を越えて原子、原子を越えて素粒子…
…。これらのものは無意識的に存在するのではなく、ある意識と目的をもって存在するのです。ですから、存在するすべてのものは、神様の愛の手を通って出てきたものであり、必ず神様と心情的な関係を結んで存在している事実を、徹頭徹尾知らなければなりません。
道人とはどのような人でしょうか。一握りの草をつかんでも、「神様!」と言うことができる心情で、その価値を自分の価値と同等に認識できる人が最高の道人です。そのように、その価値を謳歌できる人が最高の芸術家です。

色とりどりに存在する万象を見て、神様の色とりどりの愛と心情の妙味を発見し、それらのものと友達となり、共に楽しめる感情をもった人がいるとすれば、そのような感情で細胞の一つ一つが動く人がいるとすれば、その人は万宇宙を代表し得る人であるはずです。そのような人が万物の霊長です。

ところで、食べることしか知らない人が万物の霊長になれますか。神様が被造世界を造るとき、そこには喜びがありました。造ってから、見て「良し」と言われました。喜びがあったということです。喜びとは何ですか。


ある目的を成し遂げたときに感じるものです。つくられた万物に神様の目的意識が内在していたがゆえに、創造された万物に神様は喜びを感じられたのです。

それでは復帰の世界とは、どのような世界なのでしょうか。一言で言えば、森羅万象の個体、個体を見て神様を賛美し得る心情的な因縁を、立体的に備えた人々が住む世界です。天から見た人格の価値は、そこにあります。

ですから昔、聖フランシスのような人が、動物を見て、あるいは鳥を見て説教したというのも、うそではありません。夢のような話です。しかし、夢ではなく事実です。
(9-168 ~ 169、1960.5.8)

絶対者がいるとすれば、その絶対者が天地万物を創造するとき、悲しい心で創造したでしょうか。違います。喜びの心で創造したのです。創造されていく過程を見ながら、絶対者であられる神様は喜ばれたでしょう。
だとすれば、どのくらい喜ばれたでしょうか。どれほどうれしく思われたでしょうか。そして、どのくらいの価値としてすべてのものをつくったのでしょうか。

神様が容認されたそのような価値の内容を、今まで人間たちは知りませんでした。知る由もなかったのは、今まで人間たちは、神様を尋ね求めてい
く過程にいたために、その価値を究明し、その価値の定義を下せなかったからです。

ですから、神様が人間を創造するとき、本当の喜びで造ったのなら、その人間に対してどのくらいの価値の内容を賦与されたのであり、どのくらいの喜びの対象として造ったのでしょうか。これが問題です。
(27-223、1969.12.14)

私達人間は、自然を愛します。自然を好みます。人間より自然をより好むのです。自然は純粋です。本然の状態を、そっくりそのまま所持しています。
良い文化住宅に住み、良い文化生活をしながらも、「ああ、山に行きたい。海に行きたい」と思うのですが、なぜ行きたいと思うのですか。そのような所は、本然の状態をそのままもっているからです。
(107-311、1980.6.8)

人類の文化は、自然を抜きにしては考えることができません。自然から離れた人類文化は語ることができないのです。人間がいくら堂々とその威勢を誇り、権勢を享受したとしても、自然を無視すれば、そのすべてのものが成立しないというのです。

このように、私達の生活を価値あるものにしてくれるのが自然であり、私達の生涯において絶対に必要なものが自然なのです。ですから、自然万象に流れている心情を感じ得る人になれなければ、真の幸福を享受できず、天と因縁を結べる栄光の位置に出ていくことはできません。

今から皆さんは、一株の草を見るとしても、神様の立場で見ることができなければならず、花を見つめるとしても、神様の心情を身代わりする立場、神様の心情に通じ得る立場で見つめなければなりません。昆虫や鳥、ある動物を見つめるときにも、神様の心情と因縁が結ばれる、そのような内的な感情を体得できなければなりません。
(6-340.1959.6.28)

お父様! 万有の主人であられるあなたの前に、すべての天地万物が永遠無窮に称賛をお返しすることを願います。どれ一つとして、あなたの因縁の中から外れてつくられた存在はないがゆえに、お父様によって、お父様の心情を通してつくり出されたすべての天地万物は、お父様の栄光を高め、お父様の神聖さと深奥さを現し、お父様の無限の価値を現しているという事実を、私達は知っております。
(20-243、1968.7.7)

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