人生訓読 ブログ(日本語)

神様と真の御父母様を中心に全世界で御旨を歩む兄弟姉妹達と全ての人々の幸福の為にこのブログを捧げます。

世界経典-24

2020年10月25日 17時17分49秒 | 学習

②堕落性

―宗教経典―

ただし見よ、見いだしたことがある。神は人間をまっすぐに造られたが、人間は複雑な考え方をしたがる、ということ。
コヘレトの言葉7.29 (キリスト教)

迷妄とカルマの力は実に悪魔がせき立てるものであるがゆえに、本来、清浄な人の心があらゆる邪悪さを楽しむように誘導する。
クンダクンダパンチャースティカーヤ38(ジャイナ教)

かれは言った、「私はあなたのしもべのうち、相当の部分の者をきっと連れ去るでしょう」。「また私はきっとかれらを迷わせて、そのむなしい欲望にふけらせ、またかれらに命じて、……神の創造を変形させます」。何人でも神をおいて、悪魔を友とする者は、必ず明らかな損失を被むるのである。悪魔はかれらと約束をむすび、むなしい欲望にふけらせるであろう。だが悪魔の
約束は、欺瞞にすぎない。
クルアーン4.118-120(イスラーム)

汝の心性狂乱するに由って、知見妄を発す。妄を発してやまざれば、見を労して塵を発す。目晴(もくしょう)を労すれば、即ち狂華あるが如し。湛精明に於いて、因なくして一切世間の山河大地を乱起す。生死涅槃は、皆即ち狂労転倒の華相なり。
首楞厳経(仏教)

人が禽獣とちがう点は、ごくわずかである。即ち仁義をとり守って存するか、すててしまって存しないか、のちがいである。一般人は仁義をすて去り、君子は常に仁義を存してうしなわないのである。
孟子IV.A.19 (儒教)

人の心は何にもまして、とらえ難く病んでいる。誰がそれを知りえようか。
エレミヤ書17.9(キリスト教)
われがしるしを下した者の物語を、かれらに告げるのだが、かれはそれを受け流している、それで悪魔が憑いて、かれは背教者のたぐいとなった。もしそれがわが意志であったならば、われはそのしるしによってかれを引きたてたであろう、だがかれは地上に執着して、己れのむなしい私欲に従った。

それでかれをたとえてみれば、犬のようなもので、もしなんじが、それをしかりつけても舌をたれている、また放っておいても舌をたれている。これはわがしるしを信じない者の比ゆである、それゆえこのいにしえの人びとの物語を告げよ、おそらくかれらは反省するであろう。……

われは地獄のために、ジンと人間の多くをつくった。かれらは心を持つが、それで悟らず、目はあるが、それで見ず、また耳はあるが、それで聞かぬ。かれらは家畜のようである、いやそれよりも迷っている。かれらは警告を軽視する者たちである。
クルアーン7.175 ~ 79(イスラーム)
一点の神の愛も燃えないあの人、ナナークよ、知れ。彼の俗世の服は犬や豚のそれより少しも優れていないことを!
アーディ・グラント、スロークM.9、p.1428 (シーク教)

天よ聞け、地よ耳を傾けよ、主が語られる。私は子らを育てて大きくした。しかし、彼らは私に背いた。牛は飼い主を知り、ろばは主人の飼い葉桶を知っている。しかし、イスラエルは知らず、私の民は見分けない。
イザヤ書1.2 ~ 3(キリスト教)

人の本性は水と似ている。本来は清い。もし我々がきれいな器に水をくめば水はきれいだが、汚れた器にくめば水は汚れるだろう。その本来の清さは常にそこにあるが、一度それが汚されたり、濁れば、その清さを取り戻すのは難しい。
朱熹(儒教)


私は、不義が何であるかをたずねて、それが実体ではなく、最高の実体である神からはなれて、卑賎なものにねじ曲げられ、「腸をさらけ出して」のさばり出て意志の背反に外ならないことを悟った。
アウグスティヌス告白7.16(キリスト教)

一般の、もっとも卑俗なひとびとは、当然のことながら、快楽を「善」や「幸福」であるとみなしているように見える。かれらが享楽の生活に満足している理由はまさにそこにある(おもうに、生活には、およそ三つの主な形態がある。

いま述べた享楽の生活と、第三に観想の生活である)、こうして、大衆はそのまるっきり奴隷的な根性をむき出しにして、家畜にひとしい生活を選びとっているが、権勢の地位にあるひとびとの多くがその嗜好においてサルダナバロス(アッシリア盛期の王)に類するのを見れば、彼らがそうするのは無理からぬことである。
アリストテレスニコマコス倫理学1.5 (ヘレニズム)

―み言選集―

美しい神様の理想世界を実現なさろうとする人類歴史の初めの日、エデンの園で、人類の始祖は神様を失ってしまいました。一言で言うならば、人類の始祖になる一男一女は神様の前に罪を犯し、神様の国から追放されました。そして神様の聖殿になれず、悪魔の巣窟になりました。そして、その悪魔は利己主義の本山なのです。
(219-116 ~ 117、1991.8.28)

堕落した人間は、万物よりも劣る立場におかれるようになったので(エレミヤ17・9)。
原理講論、後編緒論1.2.1

皆さん、大洋を巡る大きな船が破損する危険が生じるようになるとき、その船の中に棲んでいたねずみたちが、すべて綱を渡って陸地に逃げていくという話を聞いたことがありますか。
微々たる動物も、未来の自分の生死圏を見分けることができるのに、万物の霊長である人間は何ですか。いいだこのようになってしまいました。(215-53、1991.2.6)

私の心と体は、神様の愛を通して完全に一つになります。しかし、私の心と体が分かれて、一度も一つになったことがありません。堕落したためにそうなのです。

堕落していなければ、神様の本質的愛を中心として完全に一つになるのです。その愛を中心とする愛の世界には、教育がありません。先生がいませ
ん。神様だけが先生です。教えてあげなくても、既に知っているのです。

心と体が一つになれば、宇宙が……。すべて宇宙の縮小体です。すべて知っているのです。学ぶ必要がありません。人間がどのように生きなければならないのか、ということを教える必要はありません。倫理道徳を教える必要がありません。
見てください。すずめの世界や動物の世界で、倫理道徳教育をしますか。自分たち同士で保護し、生理的に自分の一族を連結させて生きることを知
っているのに、どうして万物の霊長がこのようになっているのですか。堕落したので争いが起きるのです。
(162-223、1987.4.12)

私達は堕落性をもっています。堕落性の4大条件とは何ですか。驕慢とねたみと血気と偽りです。驕慢、嫉妬、血気、偽り、これが堕落性です。皆さんもそれを脱がなければならないということです。
(150-126 ~ 127、1960.9.4)

堕落性本性が生ずるようになった根本的動機は、天使長がアダムに対する嫉妬心を抱いたところにあった。それでは、善の目的のために創造された天使長から、いかにしてそのような愛に対する嫉妬心が生ずるようになったのであろうか。元来、天使長にも、創造本性として、欲望と知能とが賦与されていたはずであった。このようにして、天使長は知能をもっていたので、人間に対する神の愛が、自分に注がれるそれよりも大きいということを比較し、識別することができたのであり、またその上に欲望をもっていたから、神からそれ以上に大きい愛を受けたいという思いがあったということは当然なことである。そして、こういう思いは、自動的に嫉妬心を生ぜしめたのである。

したがって、このような嫉妬心は、創造本性から誘発されるところの、不可避的な副産物であり、それはちょうど、光によって生ずる、物体の影のようなものであるといえよう。

しかし、人間が完成すれば、このような付随的な欲望によっては決して堕落することはできなくなるのである。なぜなら、このような欲望を満たすときに覚える一時的な満足感よりも、その欲望を満たすことによって生ずる自己破滅に対する苦痛の方が、もっと大きいということを実感するようになるので、このような行いをすることができないのである。

そして、創造目的を完成した世界は、あたかも一人の人間のように、互いに有機的な関係をもつ組織社会であるから、個体の破滅は、直ちに全体的な破滅を招来するようになる。

したがって、全体は個体の破滅を放任することができない。このように、創造目的を完成した世界においての創造本性から生ずる付随的な欲望は、人間の発展をもたらす要素とはなっても、決して堕落の要因とはなり得ないのである。

堕落性本性を大別すれば、次の四つに分類することができる。その第1は、神と同じ立場に立てないということである。天使長が堕落するようになった動機は、神が愛するアダムを、神と同じ立場で愛することができず、彼をねたんでエバの愛を蹂躙したところにあった。

君主の愛する臣下に対して、その同僚が、君主と同じ立場において愛することができず、ねたみ嫌う性稟は、とりもなおさず、このような堕落性本性から生ずるのである。
第2には、自己の位置を離れるということである。ルーシェルは、神の愛をより多く受けるために、天使世界においてもっていたと同じ愛の位置を、人間社会においても保とうとして、その不義なる欲望によって、自己の位置を離れ、堕落したのであった。不義な感情をもって、自己の分限と位置を離れるというような行動は、みなこの堕落性本性の発露である。

第3は、主管性を転倒するということである。人間の主管を受けるべき天使が、逆にエバを主管し、またアダムの主管を受けるべきエバが、逆にアダムを主管するようになったところから、堕落の結果が生じたのである。このように自己の位置を離れて、主管性を転倒するところから、人間社会の秩序が乱れるのであるが、これは、すべてこのような堕落性本性から生ずるのである。

第4は、犯罪行為を繁殖することである。もし、エバが堕落したのち、自分の罪をアダムに繁殖させなかったならば、アダムは堕落しなかったであろうし、エバだけの復帰ならば、これは容易であったはずである。しかし、エバはこれとは反対に、自分の罪をアダムにも繁殖させ、アダムをも堕落させてしまった。悪人たちがその仲間を繁殖させようとする思いも、このような堕落性本性から生ずる思いなのである。
原理講論、堕落論4.6

今、すべての堕落性本性がどうだということを知りました。まず所有権、自分を中心とする所有欲から出発したのであり、その次にはうそをついたのであり、その次には不条理な貞操の道を行き、その次にはあらゆる天のものを奪う強奪の道を行き、その次に、アダム時代に来ては、殺害する道を行きました。

歴史時代のすべての独裁者たちが、どのような人たちかというど、うそをついた者であり、不倫的な愛の道を思いどおりに行った者であり、すべてのものを自分の思いどおりに強奪した者であり、すべての善の人を思いどおりに葬り去った者であることを考えるとき、このような歴史的な汚点の道を私達は行ってはなりません。これを愛で昇華させる天の伝統をそのまま受け継ぎ、自分自ら闘うことを願います。
(121-257 ~ 258、1982.10.27)


8.内的闘争

現実的人間は、善と悪という二つの互いに相反する内的衝突現象に直面している。人間がこのような内的矛盾にとらわれている限り、神性的自我を実現することはできず、完全な状態を成すこともできない。

逆説的に世俗の生活に陥った人間は、はっきりした罪意識を除いては、彼らの内部の闘いを感知することはできないまま生きていくだろう。反面、良心的な生活や宗教的な生活を追求する人たちは、直接的にこの問題に直面するようになる。

文鮮明先生は、人間の内的矛盾は人間堕落の直接的な結果だと教える。先生は、神様がそのような矛盾を抱えた人間を創造するはずがなく、そうでなければ、神様は善の神様になれないと語り、人間も完成を成す希望さえもつことができないと主張する。


このような人間の内的矛盾は、堕落によって人間性が歪曲されたという証拠である。堕落の問題が解決されなければ、心と体の闘争も決して終わらない。

―宗教経典―

私は、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです。もし、望まないことを行っているとすれば、律法を善いものとして認めているわけになります。

そして、そういうことを行っているのは、もはや私ではなく、私の中に住んでいる罪なのです。私は、自分の内には、つまり私の肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。私は自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。もし、私が望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはや私ではなく、私の中に住んでいる罪なのです。それで、善をなそうと思う自分には、いつも悪が付きまとっているという法則に気づきます。

「内なる人」としては神の律法を喜んでいますが、私の五体にはもう一つの法則があって心の法則と戦い、私を、五体の内にある罪の法則のとりこにしているのが分かります。私はなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれが私を救ってくれるでしょうか。
ローマの信徒への手紙7.15 ~ 24(キリスト教)

私は何が善であるか知っている。しかし私はそれをしたいと思わない。私はまた、何が悪であるかを知っている。しかし私はそれをやめることが出来ない。私はただ心の中に立っている、ある神の霊にかり立てられるままにそれをなすだけだ。(注21)
マハーバーラタ(ヒンドゥー教)


ラビ・イサクが言った。「人が悪に傾きやすい傾向は、日ごと新しい変化をもちながら人を苦しめる。ゆえに聖書にはこのような聖句がある。『地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っている』(創世記6.5)」。

そして、ラビの息子ラビ・シムオンはこのように言った。「悪を指向する心は、日ごと人に対して抵抗し、拒否する強い力を蓄える。そして人を殺そうと努める。もし聖なる神が人を助けてくださらなければ、彼は決して悪を行う勢力に勝つことはできないだろう。その方に大いなる祝福があらんことを」。
タルムード、キッドゥシーン30b(ユダヤ教)

怨みという煩悩が生じるのは、すべて貪欲と嫉妬とに由来する。さればこそ、神々、世間の人々、阿修羅、それに他の生きものたちは武器で戦いあうようになるのだ。
阿含経長部ii.276、釈提桓因間経(仏教)


すべての邪悪は首にはめられた鎖と違わない。
アーディ・グラント、ソーラト、M.1、P.595(シーク教)

憎む人が憎む人にたいし、怨む人が怨む人にたいして、どのようなことをしようとも、邪なことをめざしている心はそれよりもひどいことをする。
法句経42(仏教)

まことに神は、決して人間をそこないたまわぬ、だが人間は自ら己れをそこなう。
クルアーン10,44 (イスラーム)

誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い。
マタイによる福音書26.41 (キリスト教)


自ら自己を高めるべきである。自己を沈めてはならぬ。実に自己こそ自己の友である。自己こそ自己の敵である。自ら自己を克服した人にとって、自己は自己の友である。しかし自己を制していない人にとって、自己はまさに敵のように敵対する。
バガヴァッド・ギーター6.5 ~ 6(ヒンドゥー教)

預言者が宣布した。「我々は、小さな聖戦から大きな聖戦に戻ってきた」。彼らが「神の預言者よ、何がもっと大きな聖戦なのですか」と尋ねると、彼が答えた。「弱い自らに対抗して戦うことである」。(注22)
ハディース(イスラーム)

私達が最高善の目的によって完成されることをのぞむとき、私達がなすことを熱望するのは、肉が霊に反して欲求しないこと、そして、霊が熱望するところのことに相反する悪徳が私達のうちにないことでないなら何であろうか。私達はこれをいかにのぞんでも、この世の生においてなすことはできないのであるから、すくなくとも神の助力のもとに、霊に反する肉の欲に霊が屈服して譲歩することがないように、そして、私達が同意して罪を犯すことへ引きずられることがないようにするのである。
アウグスティヌス神の国19.4(キリスト教)


―み言選集―

人は本来、悪を避けて善を追求していこうとします。私達の心は、善の世界を立て、悪の世界を除去するために、常に走っていますが、その反面、私自身の中で悪の心が善の心に向かって強く作用するのを私達はよく感じています。善の心を強く掲げていけばいくほど、それに比例して悪の心が常に対決しているのです。
(36-51. 1970.11.15)

人間は誰でも、自己の欲望が満たされるとき、幸福を感ずるのである。しかし欲望などといえば、ややもすると我々はその本意を取り違えがちである。

というのは、その欲望が概して善よりは悪の方に傾きやすい生活環境の中に、我々は生きているからである。しかしながら、我々をして不義を実らせるような欲望は、決して人間の本心からわき出づるものではない。人間の本心は、このような欲望が自分自身を不幸に陥れるものであるということをよく知っているので、悪に向かおうとする欲望を退け、善を指向する欲望に従って、本心の喜ぶ幸福を得ようと必死の努力を傾けているのである。

とりわけ、このような本心の指向する欲望に従って、善を行おうと身もだえする努力の生活こそ、ほかならぬ修道者たちの生活である。しかしながら、有史以来、ひたすらにその本心のみに従って生きることのできた人間は一人もいなかった。

それゆえ、聖書には「義人はいないいひとりもいない。悟りのある人はいない、神を求める人はいない」(ロマ3・10、11)と記されているのである。また人間のこのような悲惨な姿に直面したパウロは「私は、内なる人としては神の律法を喜んでいるが、私の肢体には別の律法があって、私の心の法則に対して戦いをいどみ、そして、肢体に存在する罪の法則の中に、私をとりこにしているのを見る。私は、なんというみじめな人間なのだろう」(ロマ7・22 ~ 24)と慨嘆したのであった。

ここにおいて、我々は、善の欲望を成就しようとする本心の指向性と、これに反する悪の欲望を達成させようとする邪心の指向性とが、同一の個体の中でそれぞれ相反する目的を指向して、互いに熾烈な闘争を展開するという、人間の矛盾性を発見するのである。

存在するものが、いかなるものであっても、それ自体の内部に矛盾性をもつようになれば、破壊されざるを得ない。したがって、このような矛盾性をもつようになった人間は、正に破滅状態に陥っているということができる。

ところで、このような人間の矛盾性は、人間が地上に初めて生を享けたときからあったものとは、到底考えられない。なぜかといえば、いかなる存在でも、矛盾性を内包したままでは、生成することさえも不可能だからである。もし人間が、地上に生を享ける以前から、既にこのような矛盾性を内包せざるを得ないような、運命的な存在であったとすれば、生まれるというそのこと自体不可能であったといえよう。
したがって、人間がもっているこのような矛盾性は、後天的に生じたものだと見なければなるまい。人間のこのような破滅状態のことを、キリスト教では、堕落と呼ぶのである。
原理講論、総序

人間の良心は神様を代表する心です。良心は私のために存在しません。天の義のために存在します。良心は常に善に向かって走ろうとします。これに体は反抗します。体は自分だけ安らかであろうとし、利己的であり、本能的欲求に従って肉欲を行おうとします。良心はこの体を叱責し、心に順応するようにします。ここに常に血の出るような葛藤と闘争が、一つの体の中で起こるようになるのです。
(219-118、1991.8.28)

今、私達の生命の種をどこで受けましたか。神様から受けましたか、サタンから受けましたか。サタンから受けたということを誰も否定できません。しかし、本心は、サタンの種ではなく、本然の理想的な生命の種を願っています。
このように不調和が起きるので、苦痛を受けるのです。心は神側に立ち、体はサタン側に立って闘っています。ですから、皆さんが心と体の統一をもたらさない限り、天国に行くことができないのです。
(235-203、1999.9.20)

人類歴史に宗教が必要ならば、その宗教によって何をしなければならないのでしょうか。肉身を征服しなければならないのです。なぜなら、肉身によって歴史が滅び、肉身によって社会が滅び、肉身によってこの人類が滅びたたのです。したがってこの肉身は怨讐の母胎であり、罪悪の根本の根だということを切実に感じなければなりません。
(18-322、1967.8.13)

私が問題です。それで、私が怨讐です。皆さんの心と体が一つになれないことが怨讐です。
(128-108、1983.6.5)


この体は、サタンの舞台になっています。体はサタンの舞踏場になっていて、心は神様の舞踏場になっています。堕落していなければ、心と体が一つになるのです。神様の愛、神様の生命、神様の血統を中心として自然に一つになるのです。
(235-203、1992.9.20)


9.利己主義と慢心

自我に対して過度にのめりこんだ利己主義は、神様の実在に対して盲目にさせる。そのような問題は、自己過信、財産と知識、権力に対する慢心によって生じる。

利己主義と慢心は、私達を神様から遠ざける。私達自身が独立していると考えるならば、私達の存在自体が究極的実在に従属されているとい
う事実を認識することができない。慢心は、ほかの人の必要性を無視し、ほかの人の助けを、口を極めて断る。その上、慢心は、私達自身の状態を正確に知ることができないようにする。

キリスト教では、慢心が堕落の第一歩であり、神様に対する反逆だとみなす。仏教では、自我を追求して慢心をもつことがあらゆる欲望の頂点であり、無知の最も深い根とみなす。インドの宗教によれば、利己主義は人を輪廻の車輪に固定させる鎖である。

文鮮明先生は、このような一般的な教えを語りながら、今日の富裕な強大国の市民たちに蔓延している社会的な自己顕示的慢心と利己主義に対して、特に指摘する。先生は特に、アメリカ社会の隅々に潜んでいる慢心に対してアメリカの悔い改めを勧め、そうしなければ必然的にアメリカは衰退すると警告する。先生はまた、利己主義と慢心を、心の奥深くに悪の習性を植えた人間の堕落と連結させる。

―宗教経典―

いや、人間は、自分で何も足らぬところはないのだと考え、まことに法外である。まことになんじの主に、よろずのものは帰されるのである。
クルアーン96.6 ~ 8(イスラーム)

痛手に先立つのは驕り。つまずきに先立つのは高慢な霊。
箴言16.18 (キリスト教)


災いだ、自分の目には知者であり、うぬぼれて、賢いと思う者は。
イザヤ書5.21 (キリスト教)

自己中心的な考えは、それ自身には甘美なものかもしれないが、全体の不調和がそこから現れ得る。
おさしづ(天理教)

すべての痛みとつらさは、調和の欠乏から生じ、調和を妨害する一つの恐るべき、そして唯一の原因は、いかなる形態であれ利己心であると、私達は主張する。
エレナ・ペトロヴナ・ブラヴァツキー神智学の鍵(神智学)

「ここに我あり。これは我に属す」などと臆計し、それによって自己を以て自己を縛するに至るのは、あたかも鳥が網を以て自己を縛するが如くである。
マイトリ・ウパニシャッド3.2 (ヒンドゥー教)


「私には子がある。私には財がある」と思って愚かな者は悩む。しかしすでに自己が自分のものではない。ましてどうして子が自分のものであろうか。どうして財が自分のものであろうか。
法句経62(仏教)

利己心のある所にあなたがいることはできず、あなたのいる所に利己心はない。
アーディ・グラント、マールー・キ・ヴァールM.1、p.1092 (シーク教)

エシュルンはしかし、肥えると足でけった。お前は肥え太ると、かたくなになり、造り主なる神を捨て、救いの岩を侮った。
申命記32.15 (キリスト教)

オンチャメ(神)は高くいらっしゃり、人は地にいる。いえいえお、やれれ、神は神、人は人、
ぞれぞれ自分の家にいて、自ら生きる。(注23)
ファン族の伝承(アフリカ伝統宗教)


万軍の主の日が臨む、すべて誇る者と傲慢な者に、すべて高ぶる者に――彼らは低くされる――高くそびえ立つレバノン杉のすべてに、バシャンの樫の木のすべてに、高い山、そびえ立つ峰のすべてに、高い塔、堅固な城壁のすべてに、タルシシュの船と美しい小舟のすべてに。その日には、誇る者は卑しめられ、傲慢な者は低くされ、主はただひとり、高く上げられる。
イザヤ書2.12 ~ 17(キリスト教)

もしも愚者がみずから愚かであると考えれば、すなわち賢者である。愚者でありながら、しかもみずから賢者だと思う者こそ、「愚者」だと言われる。
法句経63(仏教)

自ら善良だと叫ぶ者は、誰もが当然知るべし、善があなたを避けていくことを。
アーディ・グラント、ガウリー・スクマニーM.5、p.278 (シーク教)


先生がいわれた、「聖人には私は会うことはできないが、君子の人に会えればそれで結構だ。善人には私は会うことはできないが、常のある人に会えればそれで結構だ。無いのに有るように見せ、からっぽなのに満ちているように見せ、困っているのにゆったりと見せて〔見栄をはって〕いるようでは、むつかしいね、常のあることは。」
論語7.25(儒教)

つまさきで立つものは長く立つことはできない。
大股で歩くものは長く歩くことはできない。見せびらかすものはすぐれていない。みずから正しいと主張するものは、他よりきわだっているわけではない。

信用を求めるものは信用を得られない。自分を誇るものは最高のものではない。「道」の立場からいうと、これらすべては生物が好まない余分のものである。だから、「道」を有する人はそんなところに留まらないのである。
道徳経24(道教)
驕(おごり)とは高ぶることであり、放逸とは諸善を行なわないことです。慢(ほこり)は七種があり、それを分けて説きましょう。

そのうち、慢心を起して、(われは)劣る者より劣る、同等の者と等しい、劣る者よりすぐれている、または等しいとほこること、これが自慢といわれます。

いかなる性質からしても自己よりすぐれている人と等しいとほこることおよび(自己より)すぐれている人よりさらにすぐれているとほこること、これが高慢であります。

最高の者よりさらにすぐれているとほこることが思い上がりであって、あたかも腫物の上に(さらに)疱瘡が生じるように、有害であります。生存の要素(取)といわれる五(蘊)は空(無実体)でありますが、愚かなためにそれに「われあり」と我執を起こします。それが我執心(我慢)といわれます。
(修行の)報いを得ていないのに得た、と考えるのが、うぬぼれ(増上慢)であります。悪業をなすことを讃えることが邪慢である、と知者は理解しています。自己を必要なし、と自身を軽蔑することが卑下慢である、といわれます。これらを総括して、七(慢)といいます。
龍樹宝行王正論5.6-12 (仏教)


―み言選集―

信仰世界では驕慢を怨讐視しました。我を怨讐視しました。自主的な立場を主張するのを怨讐視しました。
(67-164、1973.6.1)

自分を中心として考えるので、人の悪口を言うようになり、よいものがあれば奪って使いたいと思うのです。そのようなことを考える人は滅びます。何を中心として考えるのかということが問題です。ここにいる人たちは、そのような面できちんとしていますか。このように見るとき、人はほかの誰かに期待する必要がありません。
(36-183、1970.11.29)

自分を中心とする主義や主張をもった人は滅びます。自分の欲望のために人命を害し、国に害を及ぼしたというときに滅びるのです。国は個人に利用されるものではありません。かえって国に利用されなければならないのが国家圏内にいる国民の道理です。
人間は本来、自分個人だけのために生きるようになっていません。ところが、今日この地上には、自分個人だけのために生きる人がたくさんいます。「自分のために仕事をする」と言います。自分自身のために生きているというのです。どれほどかわいそうな人ですか。父母も、兄弟もいない孤児と同じです。
(24-20 ~ 21、1969.6.22)

堕落の起源、本来の人間が出発した起源を私達が解剖してみれば、個人的な感情を中心として出発したのが人類歴史の起源なので、現代はそれが帰結され得る時なのです。自由思想! このような自由な思想があるので、何かの型を中心として箱のようなところに収まっていないのです。好きなように育ち、好きなようにしていってみると、結果はすべて同じです。結果はすべて同じになるというのです。自分の思いどおりにすれば、あとでどのようになるのですか。それが特別によくなるのではなく、結局はすべて滅びるようになります。
(49-189 ~ 190、1971.10.10)

歴史的なすべての動きは、個人を拡大させたものです。今まで、個人が出世やある目的を達成するためには、どのような手段を使ってきましたか。自分の目的を達成するためには、団体を利用したり、個人を利用したりしました。それが今までの歴史的伝統でした。

人間が堕落しながら出発したその日から、サタンの血を受けて生まれたその日から、本意でない驕慢を中心に自分の利益を渇望してきたのが歴史的方向ではないかというのです。堕落が蒔いた種が正にそれです。
(46-141 ~ 142、1971.8.13)

神様の血統を受けなければならないこの人間たちが、僕の血統を受け継いだということです。ですから、堕落した人間たちがどんなに神様を父と呼んでも実感がわかないのです。それで自分のお父さん、お母さんがしたのと同じようにサタンの本性を引き継いで、自分を中心としてすべてのものを考えるようになり、天も何も、高いものはみな自分と連結させるのです。(91-242、1977.2.23)
皆さんが自己主張ばかりしていれば、みな離れていくでしょう。
(36-181、1970.11.29)

アメリカの国民たちは、個人主義の思想を尊重するのを知っています。主体と対象の関係を忘却した個人主義はあり得ません。ですから、アメリカは袋小路に来たのです。今こそ、キリスト教の精髄の路程を掘り返し、神様の本然の生命の道を訪ねていかなければなりません。

神様は、「個人は家庭のためにあり、家庭は民族のためにあり、民族は国のためにあり、国は世界のためにあり、世界は神のためになければならない」と天理原則を主張します。そのように神様に従っていけば、神様のものであると同時に私のものになるのです。神様のために生きることが私のために生きることになります。
(69-88 ~ 89、1973.10.20)


個人主義は、サタンによる堕落の結果物です。サタンは、自分自身を中心として分離されます。一つは二つになり、二つは四つになります。なぜこのようにアメリカが個人主義国家になったのですか。サタンの王国だからです。ですから、希望がありません。

個人主義のセンターはプライバシーです。それは何ですか。それによって家庭が壊れ、社会が壊れ、国家が壊れます。それは最も恐ろしいものです。そのように地獄に落ちるのです。
(361-233、2001.11.25)

歴史を見るとき、汚れたものがどこがら始まったのでしょうか。自分から始まったのです。汚れたものが私達の先祖を汚したのではなく、私達の先祖、自分たちが汚れるようになったのです。

それでは、その汚れるようになった原因はどこにあるのでしょうか。それは先祖たちが、「私」というものを考えたので、そこで汚れたものが生じるようになったのです。すべて自分を中心としたからです。もし、皆さんの先祖たちが自分自身よりもっと貴いもののために生きていれば、自分たちが汚されない道を行ったでしょう。

それでは、自分より貴いものは何ですか。私は結果的な存在です。ですから、結果的存在は原因的存在のために生きなければなりません。このような結論が出てきます。自分のことを考える前に神様を考え、自分の考えを捨てて神様のことを考えて生きていれば、その人は悪の人になり得ないという結論が出てくるのです。
(92-58 ~ 59、1977.3.13)

皆さんが冷遇され、つばを吐かれながらピーナッツを売り、殴られたりするとき、「お父様!」と悔い改める条件が多いのです。私に罪が多いために、当然受けるべき「私」だというのです。皆さんがそのような生活を約3年だけすれば、皆さんは神様の前に帰るだろうと見るのが先生の観点です。


ところが、皆さんはそのようなことは考えることができず、いくらもたたずに驕慢になっていきます。「ああ、私は統一教会の教会員であり、3年間過ごせば祝福をしてくれなければならず、先生が私を認めてくれなければならず、教会で認めて
くれなければ……」、これはどれほど恥ずかしい姿ですか。これはどれほど恥ずかしいことですか。
(92-72、1977.3.13)

   <次ページ>

 

コメント

世界経典-23

2020年10月25日 17時13分57秒 | 学習

②悪の業報の断絶

―宗教経典―

賢明な比丘は、今、以前の生の業の過失を刈り取らなければならないことを知っている。それが多かろうと、またごく少なかろうと、ねたみや憎悪の心から、または衝動的に行った行為は、要求されるその結果を結ばなければならない。

ゆえに、ねたんだり憎んだりせず、衝動的に行ってはならない。賢明な比丘はりっぱな実を結ぶが、知識は罰を呼ぶ道を残す。
阿含経増支部3.33 (仏教)

立派な若者たちや立派な娘たちが、このような経典をとり上げ、記憶し、誦え、理解し、十分に思いめぐらし、また他の人々に詳しく説いて聞かせたとしても、しかもそういう人たちが辱しめられたり、また甚しく辱しめられたりすることがあるかも知れない。
これはなぜかというと、こういう人たちは前の生涯において、罪の報いに導かれるような幾多の汚れた行為をしていたけれども、この現在の生存において、辱しめられることによって前の生涯の不浄な行いの償いをしたことになり、目ざめた人の覚りを得るようになるのだ。
金剛般若経16(仏教)

地上最大の、そして(パータリーと呼ぶ)花の名をつけた都城パータリプッタおいて、釈迦族の家に生まれた二人の有徳の尼僧がいた。そのなかの一人をイシダーシー、もう一人をボーディーと呼び、かれらは、戒行を具え、禅思を楽しみ、学識があり、煩悩を除いていた。

かれらは托鉢に出かけて帰り、食事をとり終って、鉢を洗い、人気のないところに安坐して、つぎのことを語り合った。「大姉イシダーシーよ、あなたは眉目うるわしく、年もまだふけていない。
あなたは、いかなるわざわいを認めて、出離の生活に専念しているのですか?」……

「ボーディ-よ、私が出家した次第を聞いて下さい。すぐれた都ウッジェーニーにおいて、私の父は、徳行の篤い豪商でした。私は、その一人娘で、可愛がられ喜ばれ慈しみをうけました。ときに、サーケータに住む名門の人から(遣わされた)仲人がやってきました。(名門の人とは)多くの財宝ある豪商で、父は私をその人の嫁として与えました。……

婢女のごとく、みずから夫を装飾しました。私は、自分で御飯を炊き、自分で食器を洗いました。あたかも、母が一人っ子に対してなすように、私は、夫にかしずぎました。このように、貞淑で、最善をなし、高ぶらず、早起きで、怠けず、婦徳のそなわった私を、夫は憎みました。

かの(夫)は、(夫の)母と父にむかって言った。『お許しください。私は、出て行きたいのです。私は、イシダーシーと同じ家のなかで、一緒に住みたくないのです。……彼女は、何も私を害したりしません。しかし、私はイシダーシーとともに住みたくないのです。ただ嫌いな女は、私には用がないのです。お許しください。私は、出て行きたいのです』

かれのことばを聞いて、姑と舅は、私に尋ねました。『あなたは、どんなことを仕出かしたのですか? 打ち明けて、ありのままに言いなさい』『私は、何も悪いことはしませんでした。(夫を)害ったこともありませんし、(夫の欠点を)算えたこともありません。夫が私を憎んで発するようなことばを、どうして、私が口にすることができましょうか?』

憂いまどえるかれら(二人)は、その息子の気持に従って、苦しみながら、私を(私の)父の家につれもとして、言いました。『私どもは、(人間のかたちをした)うるわしい吉祥の女神に敗れたのです』

そこで、(父は)つぎに、私を富める第二の家の人に与えました。(第一の)豪商が私を得て(支払った)身代金の半分をもって。私は、かれの家にも一ヶ月住みましたが、やはり、かれもまた、私を追い返しました。私は、婢女のように仕え、罪もなく、戒めを身にたもっていたのですが。

托鉢のために遍歴し、自己を制御し、(他人を)調御する力のある者に向って、私の父は言いました。『あなたは、私の女婿となって、ボロ布の衣と鉢を捨てなさい。』かれもまた、半ヶ月住みましたが、そこで、父に告げました。『私に、ボロ布の衣と鉢と水飲みの器を返してください。もとどおりの托鉢の生活をしたいのです』……

かれは、追われて去りました。私は、独りで思いにふけりました。『私は、許しを得て、出て行きましょう、死ぬために。そうでなければ、出家しましょう』そのとき、大姉ジナダッターは、托鉢のために遍歴しつつ、父の家にこられました。

彼女は、戒律をたもち、博学で、徳を具えた方でした。かの尼僧を見るや、起って、私達は、彼女のために座席を設けさせました。
坐った彼女の両足を礼拝し、食物を捧げました。食物、飲物、かたい食物、それにそこに貯えられているものを、思う存分食べさせて、『大姉よ、私は出家したいと願うのです』と言いました。

そのとき、父は、私に告げて言いました。『娘よ、ここで、かの(ブッダの)教えを行ないなさい。食物と飲物をもって、道の人や再生族(=バラモン)たちを供養しなさい』そこで、私は、掌を合わせ泣いて、父に申しました。『私は、悪業ばかりをしてきました。私は、これを滅ぼしましょう』そのとき、父は、私に告げて言いました。

『さとりを得なさい。最高の真理を得なさい。両足のうちの最尊者(ブッダ)が実証された安らぎを得なさい』。私は、母と父と親族一同のすべての者に挨拶して、出家しました。出家して七日目に、私は、三種の明知を得ました。

私が自分の(過去)七生を知っているのは、その(明知を得た)結果であります。あなたにそれを話しましょう。一心にお聞きください。(その昔)エーラカカッチャの都において、私は、多くの財産ある金工でした。若気の至りで、その私は、他人の妻と親しくなりました。私は、それから死んで、長い間、地獄のなかで煮られました。

(罪の)報いが熟して、そこから出ると、牝猿の胎に宿りました。私が生まれて七日目に、猿群の長である大猿は、(私を)去勢しました。これは、私がかつて、他人の妻を犯した行為の
報いだったのです。

それから、私は死に、シンダヴァの林で生涯を終えて、片目でびっこの牝山羊の胎に宿りました。私は、去勢されて、幼児たちを(背に)乗せて運ぶこと、十二年間でした。そして、虫類に悩まされ、病気にかかりましたが、これもまた、かつて他人の妻を犯したたのです。

それから、私は死んで、牛商人の所有する牝牛から生まれました。私は、樹脂に似た銅色のオスの子牛で、十二ヶ月たって去勢されました。私は、再びすきと車を引きました。盲目となり、悩み、病気にかかりましたが、これもまた、かつて他人の妻を犯したためです。

それから、私は死んで、街道筋にある婢女の家に生まれ、女性でもなく男性でもありませんでした。これもまた、かつて他人の妻を犯したたのです。

三十歳のとき、私は死に、車夫の家の娘として生まれました。この家は、貧しく財乏しく、債権者にたいして多くの借金をもっていました。その後、(借金が)累積し大きく増大すると、隊商の主は、泣き悲しんでいる私を、家から引きずり出しました。やがて、私が十六歳になったどき、その名をギリダーサと呼ぶかれの息子は、私か妙齢に達したのを見て、(私を)嫁
にしました。

かれ(夫)には、他に妻がありましたが、彼女は、身を修め婦徳を具え、世に知られ、(夫に)愛されていました。私は、この夫に憎しみの念を起しました。婢女のように仕えていた私を、かれらが捨てて行ってしまったことは、かの(前世の)業の結果であります。(そして、いま)私は、
それを終滅しました。」
長老尼の詩400 ~ 447、イシダーシー尼(仏教)

責任を果たしたと、すぐに天から報いを受けることを期待してはいけない。あなたの罪が、まだすべて免れていないかもしれないのだから。代わりに、子に何も相続してあげられないことを不徳に思いなさい。アブラハム、イサク、ヤコブが、彼らの善行に報いを望んだなら、どうして義なる者の種が(一つの例として、イスラエル民族)伝承されただろうか。
出エジプト記ラッバー44.3 (ユダヤ教)


―み言選集―

数千年間、先祖たちが悲しみの障壁を積み上げてきましたが、この障壁が日がたてばたつほど低くなるのではなく、サタンがたくさんの計略を働かせ、この障壁を高くしております。

今日、全世界の人類が、先祖のつくりだしたこの怨恨の障壁を崩す責任をもっており、また私達もその責任を担っていることを知らなければなりません。

イエス様が独りで寂しい道を行かれたことが、イエス様の寂しさだとばかり思っておりましたが、その寂しさが私達の寂しさとして残っていることを知るとき、今、涙を流し、天に向かって進んでいくべき自分自身を発見するようになるのでございます。
(1-305 ~ 306、1956.12.23)


罪には、原罪があり、自犯罪があり、連帯罪があり、先祖から受け継いだ遺伝的罪があります。それを清算していかなければなりません。主の弟子になっても、各自の蕩減の道は残っていることを知らなければなりません。

統一教会に入ってきても、すべてそのまま同じではありません。ある人は苦労して、ある人は死にそうになりながら行き、また、ある人はひどく苦労をしながら行かなければなりません。

なぜそうでなければならないのでしょうか。すべて蕩減の道が違うからです。命を捧げてでも行かなければならないというその伝統基準は同じですが、行く道は違うのです。蕩減の量は違うということを知らなければなりません。
(251-131、1993.10.17)

罪というものを『原理講論』では、「サタンと相対基準を造成して……天法に違反すること」といっています。罪には、原罪、遺伝的罪、連帯罪、自犯罪があります。
ところが、普通、地上人は「罪」というと、自犯罪のみを考えがちです。しかし、原罪はもちろん、先祖から受け継いだ遺伝的罪があり、自分が直接に罪を犯したのではなくても、連帯的な責任として負うようになる連帯罪もあります。

堕落人間は、一言で言うと、6000 年の人類歴史すべての善悪の結実体ということができます。子孫は、先祖から善なる性稟も悪なる性稟も受け継ぐのですが、善よりは悪が多い世界で生きているうちに、より多くの悪の性稟と、その罪が子孫たちに受け継がれて、悪循環をしています。

地上人の体の中に、多くの悪霊がついているということは、自分が犯した自犯罪と、先祖の罪が受け継がれて現れた結果を意味しています。罪は、堕落性を通して、サタンと相対基準を結んで、天法に違反した結果なので、罪には必ず事情があり、関連した者がいるようになっているのです。


それで、もし先祖が過去、地上に生きていたときに、間違ったことをして、相手に苦痛と痛みを与えて、恨みをもたせたとすると、恨みをもった霊人たちは、その苦痛を与えた霊人の子孫にぴたっとついて復讐をしようとし、その子孫たちを悪のどん底に陥れようとするのです。このような罪によって現れる代表的な結果が、病気と、それによる苦痛なのです。

現代の地上人がもっている病気のその多くは、このような先祖の罪と関連していると言っても過言ではありません。子孫に現れた病気と苦痛の内容を見ると、過去のその先祖の生き方がどのようであったかを知ることができます。

先祖が公金を流用したり、他人の財産を盗んだりした場合、また、被害を与えた場合には、その子孫が胃腸系の病気になりやすいのです。淫乱罪を犯した場合には、その子孫が脱線したり、生殖器に関連した病気や不妊症が現れたり、離婚する家庭が多いのです。
自分が相手を見間違えたり、また、ほかの人を通して、その人のことについて誤ったことを聞いたりして言葉を誤れば、心情を蹂躙した罪が成立して、その子孫の中に、目や耳や口の不自由な人が生まれる場合もあります。

相手に被害を与え、痛みを与えた、ちょうどその肉身の該当部位に、病気が発生することが多いのです。その罪の代価が重いほど、不治の病として現れます。

このような先祖が犯した罪を、現在、地上に生きている人間が蕩減条件を積んで清算できなければ、その罪は、さらに子孫へ受け継がれていきます。
あとで、地上人が霊界に来て、子孫たちが苦しんでいるのを見て、「自分がその罪を清算してあげていたなら、子孫たちがあの苦痛を受けずに済んだのに」と後悔することも多いのです。
興進様の霊界メッセージ、2002.1.1


私達の先祖が罪をたくさん犯したのなら、私が……。女性、男性、またどれほど罪をたくさん犯したでしょうか。それを蕩減できなかったのなら、子孫の前にも私が祭物になり、いさぎよく従順にしなければなりません。器量のよくない男性でも、器量のよくない女性でも、世の中の美男美女以上に正しく生きよう、このようにして蕩減しなければなりません。
(116-151、1981.12.27)

6000 年も悲しみの祭壇が連続したところには、先祖たちの過ちがあったためであることを知っておりますが、今日、私達がまた責任を果たすことができず、悲しみを後代に残すのではないかと恐ろしく思います。

今日、私が私1代で悲運の歴史を防ぎ、天の心情をここから収拾し、新しい喜びの心情に変えておかなければならない責任が私達にあることを学びましたので、この時間、頭を下げた私達、お父様の心情の同伴者となるよう許諾してください。
(8-262 ~ 263、1960.2.7)
6.連帯的罪と歴史的罪

個人は、その属した国家、人種、氏族と宗教などの集団に、不可避に連帯している。彼らの個人的人生が有罪であれ、潔白であれ、個人は集団の運命に繁栄と苦痛がかかっている。その共同体に広がった悪(戦争、飢饉、伝染病、そして蔓延した麻薬使用など)は共同体のすべての人に苦痛をもたらす。

文鮮明先生は、これを連帯的罪と呼ぶ。人間は、連帯的罪を認識し、その罪の代価を払わなければならない責任がある。何よりもまず国家によって抑圧され、厳しい待遇を受けた人たちの悲しみを理解する努力を通して、連帯的罪を償うことができる。そして、犠牲と愛で連帯的罪を解決することができる。


―宗教経典―

蛇が群がる湖に住む魚のように、たとえ敬虔で罪のない人であっても、他人と付き合えば彼らの過ちによって苦しみを受けるのである。
ラーマーヤナ、森林の巻38(ヒンドゥー教)

神が人に懲罰を下すとき、彼らの中の正義なる者は、その懲罰にぶつかるようになるが、後日、彼らの行為によって復活するだろう。
ブハーリーおよびムスリム・ハディース(イスラーム)

あなたたちは皆、互いに保証人になる。この世で永遠に、あなたたちの中にいる一人の義人の過去の功績で、あなたたち全員が生き、一人が罪を犯すことで、すべての世代が苦痛を受けるようになる。タンフーマ(ユダヤ教)


正義は退き、恵みの業は遠くに立つ。まことは広場でよろめき、正しいことは通ることもできない。まことは失われ、悪を避ける者も奪い去られる。イザヤ書59.14 ~ 15(キリスト教)

主の怒りで私は満たされ、それに耐えることに疲れ果てた。「それを注ぎ出せ、通りにいる幼子、若者の集いに。男も女も、長老も年寄りも必ず捕らえられる。家も畑も妻もすべて他人の手に渡る。この国に住む者に対して、私が手を伸ばすからだ」と主は言われる。

「身分の低い者から高い者に至るまで、皆、利をむさぼり、預言者から祭司に至るまで皆、欺く。彼らは、わが民の破滅を手軽に治療して、平和がないのに、『平和、平和』と言う。彼らは忌むべきことをして恥をさらした。しかも、恥ずかしいとは思わず、嘲られていることに気づかない。それゆえ、人々が倒れるとき、彼らも倒れ、私が彼らを罰するとき、彼らはつまずく」と主は言われる。
エレミヤ書6.11 ~ 15(キリスト教)
我々は、この戦争という巨大な災いが速やかに過ぎ去ることを心から望み、熱心に祈りを捧げている。しかし、もし神が、250 年間にわたる奴隷たちの報われざる苦労によって蓄積されたすべての富が滅却され、鞭によって流された血のすべての滴が、剣によって流される血の滴によって贖われるまで、戦争が続くことを望まれるなら、3000 年前に言われたように、いまもなおこう言わなければならない。「主の裁きはまことにして正しい」。
エイブラハム・リンガーン第2 回大統領就任演説

 

―み言選集―

イエス・キリストは、この地上に神様の栄光と神様の愛と神様の永遠の生命をもって万民を救うために来られたのですが、彼の道をふさいでいる一つの条件がありました。それが何かというと、この人とあの人、この集まりとあの集まり、この社会とあの社会、この国家とあの国家の間に一つの金網のように組まれている罪というものでした。
(1-167、1956.7.11)

アメリカはたくさんの人を殺害しました。アメリカが歴史的な罪をすべて蕩減するためには、何をしなければならないのでしょうか。アメリカが東洋の人のために生きなければなりません。ここでインディアンを虐殺し、黒人たちの血を流しました。彼らは東洋人です。すべて今日この時代に蕩減して越えていかなければなりません。
(101-337、1978.11.12)


最近では、運動する人、走る人の半分以上が黒人です。アメリカでは年ごとに白人が追いやられ、黒人が登場するという事実を皆さんは知らなければなりません。もしこの人たちが統一教会の思想さえもてば、白人はぱたぱたと落ちていきます。白人はかなわないというのです。ですから、白人たちは、反対すれば反対するほど、黒人たちに福を奪われます。神様は損をしません。ですから、黒人は落胆しないでください。

イエス様が十字架を背負っていくとき、助けてくれた人が黒人です。クレネ人のシモンは黒人です。終末が来れば、黒人が登場するのです。問題は何ですか。思想的に偉大な思想をもたなければならないということです。
(91-219、1977.2.20)


7.利己的欲望と堕落性

情念、貪欲、羨望、憎悪、情欲、このような感情は、人に理性を失わせ、破滅へと導き、霊魂を蝕む。大部分の主要な宗教は、度を越した欲望や利己的な欲望のために苦痛と悪が生じると教える。

仏教では、このような欲望を四聖諦の2番目の原理として集約し、「渇愛」という用語で表現している。渇愛は足かせである。心情の毒になり、心を眩惑させ、私達を悪行の道に結びつける。

すべての宗教が利己的欲望を害悪と様々な苦痛の原因として見ているが、利己的欲望を人間の心理と関連させて説明するやり方は、それぞれ異なる。
仏教とジャイナ教は、あらゆる種類の欲望を、さらには存在自体のための欲望も、悪行と束縛の根源とみなし、拒否する。

キリスト教、ユダヤ教、イスラームなどの一神教や、シーク教とヒンドゥー教の一部の経典は、悪の肉体的欲望を善のための健康な欲求、または神様に向かう欲望と区別する。中国の宗教は、ひとえに度を越した欲望と利己的な欲望だけを非難する。欲望が道と調和を成したなら、欲望自体は善のものになり得る。これは、文鮮明先生の教えでもある。神様は、人々が善のための熱望をもつように欲望を創造したが、人間の堕落の結果、利己的なものに変質した。

文鮮明先生は、アダムとエバが堕落する当時、サタン的性質と態度が彼らに植えられたので、利己的な欲望は「堕落性」の表現であると教える。人間の本性が堕落し、真の召命から遠ざかったという事実を様々な経典が証している。

私達は、動物水準、さらにはそれ以下に転落した。私達は、内的矛盾に包囲され、驕慢、暴力、貪欲、そして情欲が私達の人生を支配している。


①利己的欲望と情念

―宗教経典―

これが苦痛の根に関する聖なる真理、すなわち苦聖諦である。再生で引いていくのは渇愛であり、それは貪欲と密接だ。それは、今ここで、また今そこで、ぐつぐつと燃え上がる快楽を求めるが、いわゆる、感覚的快楽に対する渇望と、存在に対する渇望と、生成に対する渇望と、非存在に対する渇望がそれである。(注18)
阿含経相応部56.11、転法輪経(仏教)

貪りと、憎しみと、愚かさとは、その人自身より生じたものでありながら、悪心をいだく人を害する。果をつけた竹が自らほろびるのと同じである。
如是語経50(仏教)

誘惑に遭うとき、だれも、「神に誘惑されている」と言ってはなりません。神は、悪の誘惑を受けるような方ではなく、また、御自分でも人を誘惑したりなさらないからです。
むしろ、人はそれぞれ、自分自身の欲望に引かれ、そそのかされて、誘惑に陥るのです。そして、欲望をはらんで罪を生み、罪が熟して死を生みます。
ヤコブの手紙1.13 ~ 15(キリスト教)

何が原因で、あなたがたの間に戦いや争いが起こるのですか。あなたがた自身の内部で争い合う欲望が、その原因ではありませんか。あなたがたは、欲しても得られず、人を殺します。

また、熱望しても手に入れることができず、争
ったり戦ったりします。得られないのは、願い求めないからで、願い求めても、与えられないのは、自分の楽しみのために使おうと、間違った動機で願い求めるからです。
ヤコブの手紙4.1 ~ 3(キリスト教)

アルジュナはたずねた。「それではクリシュナ、人間は何に命じられて悪を行うのか。望みもしないのに。まるで力ずくで駆り立てられたように。」

聖バガヴァットは告げた。それは欲望(カーマ)である。それは怒りである。激質(ラジャス)という要素(グナ)から生じたものである。それは
大食で非常に邪悪である。この世で、それが敵であると知れ。

火が煙に覆われ、鏡が汚れに覆われ、胎児が羊膜に覆われるようにこの世はそれ(欲望、怒り)
に覆われている。知識ある者の知識は、この永遠の敵に覆われている。

アルジュナよ、欲望という満たし難い火によって、感官と思考器官(マナス)と思惟機能(ブッディ)は、それの拠り所であると言われる。それはこれらにより知識を覆い、主体(個我)を迷わせる。それ故アルジュナよ、あなたはまず感官を制御し、理論知と実践知を滅ぼすこの邪悪なものを捨てよ。
バガヴァッド・ギーター3.36 ~ 41 (ヒンドゥー教)


先生がいわれた、「私は美人を愛するほどに道徳を愛する人をまだ見たことがない。」
論語9.18 (儒教)

女が誘惑物だと人々は言う。
いや、いや、そうではない。
お金が誘惑物だと人々は言う。
土地が誘惑物だと人々は言う。
いや、いや、そうではない。
本当の誘惑物は満足することを知らない欲望だ。
おお、主なるクヘスワラよ!(注19)
アラマ・プラブーヴァチャナ91(ヒンドゥー教)

この体に隠れた盗賊が五つあるが、色欲、憤怒、貪欲、執着、利己心がそれである。(注20)
アーディ・グラント、ソーラトM.3、p.600 (シーク教)

「諸欲に執し諸欲にあらわせるものは結使に禍あるを見ることなし。これおおいし結使に執著せるものは廣くして大なる河を渡ることなければなり」
「欲に盲目なるもの、網におおわれしもの、愛欲の覆いにおおわれしもの、放逸の友に囚われたるものはあたかも罠の口にある魚の如く、乳を飲む子牛の親牛に向ふがごとくにして老死に赴く」
感興偈75 ~ 76(仏教)


―み言選集―

私達の境界線の中で、最も危険なものとは何かというと、横道にそれやすいことです。それが私達の人生生活においては何かということです。じっくり一度指を折って数えてみましょう。それは、外的と内的に分けられます。

外的に見れば、相対的関係において何が必要なのですか。何か一度数えてみましょう。お金も数えることができます。その次には、知識というものです。また、その次には何かというと権力です。大概このようにみなします。そのようなお金というものが私を引っ張るのです。

それでは、そこに何ゆえに引っ張られるのですか。私がそこに誘惑され得る条件とは何でしょうか。私の内的な問題において、それが正に欲心、欲望なのです。誰のための欲心ですか。この欲心が悪いのです。私のための欲心です。
(90-12、1976.12.5)

人間は誰でも、自己の欲望が満たされるとき、幸福を感ずるのである。しかし欲望などといえば、ややもすると我々はその本意を取り違えがちである。というのは、その欲望が概して善よりは悪の方に傾きやすい生活環境の中に、我々は生きているからである。

しかしながら、我々をして不義を実らせるような
欲望は、決して人間の本心からわき出づるものではない。人間の本心は、このような欲望が自分自身を不幸に陥れるものであるということをよく知っているので、悪に向かおうとする欲望を退け、善を指向する欲望に従って、本心の喜ぶ幸福を得ようと必死の努力を傾けているのである。

これこそ正に、死の暗闇を押しのけて、命の光を探し求めながら、つらく、険しい人の道を彷徨する偽らざる人生の姿なのである。いったい、不義なる欲望のままに行動して、本心から喜べるような幸福を味わい得る人間がいるであろうか。このような欲望を満たすたびごとに、人間は誰しも良心の呵責を受け、苦悶するようになるのである。その子供に悪いことを教える父母がいるであろうか。その子弟を不義に導く教師がいるであろうか。誰しも悪を憎み、善を立てようとするのは、万人共通の本心の発露なのである。
原理講論、総序

人間は、神様の実体である。ゆえに神様は、私を通して喜ばれる。しかし私が、ねたみ、しっと、驕慢のような堕落性によって欠陥のある実体だとすれば、どうして神様が私を通して喜ばれることができようか。
御旨の道、人格

外的な体を中心とした愛が、内的な心を中心として、理想的な永遠な生命の起源になる神様の愛を裏切ってくる歴史の結果がもたらされたのです。ですから外的な愛、すなわちサタンの愛を除去し、そこに本然の内的な愛、すなわち神様の愛を相続して体と心を糾合しなければなりません。
(20-179、1968.6.9)

   <次ページ>

 

コメント

世界経典-22

2020年10月25日 17時12分50秒 | 学習

4.罪

罪に対する聖書の意味は、「的を外れたこと」である。したがって、罪は人間が人生の真の基準からどれほど外れたかを意味する。罪を理解する道はいろいろある。ここに三つを提示する。

第1には、殺人、窃盗、性的不道徳、嘘と麻薬摂取のような典型的な悪行である。世界の諸宗教は共通してこのような罪を非難する。第2に、罪の意味は意図的であれ非意図的であれ、人に害を及ぼす自己中心的思考である。これは、より微細に罪を理解したものであるが、日常生活で人と衝突する行動の動機と方法に対して自己反省するようにさせる。

罪は魔力をもっている。これは私達を束縛し、神様に近づいていくことを妨害する。罪を理解する3番目の方法は、罪をどこにでも隠れている欠点と堕落のような人間の日常的条件として見ることである。
このような脈絡から、文鮮明先生は、すべての罪は神様との本来的関係を切っておいて、人間を疎外と闘争の状態に残した人間堕落の結果だと教える。

①罪の意味

―宗教経典―

生きものを殺し、虚言を語り、世間において与えられていないものを取り、他人の妻を犯し、穀酒・果実酒に耽溺する人は、この世において自分の根本を掘りくずす人である。
法句経246 ~ 247 (仏教)

正しくない者が神の国を受け継げないことを、知らないのですか。思い違いをしてはいけない。みだらな者、偶像を礼拝する者、姦通する者、男娼、男色をする者、泥棒、強欲な者、酒におぼれる者、人を悪く言う者、人の物を奪う者は、決して神の国を受け継ぐことはできません。
コリンの信徒への手紙6.9 ~ 10(キリスト教)

黄金をぬすむ人、スラー酒をのんでいる人、師の閏房をけがす人、バラモンを殺害する人、これら四種の人びとは〔犬や豚やチャンダーラに〕堕落する。
そしてかれらと交わる第五番目のものも〔堕落する〕
チャーンドーギヤ・ウパニシャッド5.10.9(ヒンドゥー教)

ムハンマドが言う。「姦淫を行った者は信者ではない。窃盗を行う者は信者ではない。飲酒をする者は信者ではない。それから目を離したからといってそれを奪っていく者は信者ではない。人をあざむく者は信者ではない。ゆえに注意し、また注意せよ」。
ブハーリおよびムスリム・ハディース(イスラーム)

ラーフラよ、もしそなたが身による行為をなしたいと思うならば、そなたはその身の行為についてよく観察すべきです。〈私がなしたいと思っているこの身による行為は、自己を害することになりはしないか、他者をも害することになりはしないか、両者ともに害するものになりはしないか、この身の行為は不善のもの、苦を生むもの、苦の果のあるものではないか〉と。
ラーフラよ、もしそなたが観察しながら、〈私がなしたいと思っているこの身による行為は、自己を害することになる、他者をも害することになる、両者ともに害することになる、この身の行為は不善のもの、苦を生むもの、苦の果のあるものである〉と知るならば、ラーフラよ、そなたはそのような身による行為を、けっしてなすべきではありません。
阿含経中部i.1415(仏教)

主の手が短くて救えないのではない。主の耳が鈍くて聞こえないのでもない。むしろお前たちの悪が、神とお前たちとの間を隔て、お前たちの罪が神の御顔を隠させ、お前たちに耳を傾けられるのを妨げているのだ。
イザヤ書59.1 ~ 2(キリスト教)

善悪両果報で成れる索(なわ)で縛られたる状態はあたかも跛人の如く、自由なきことは囚人の如く……
マイトリ・ウパニシャッド4.2 (ヒンドゥー教)

私達が幸福になるためにおこなっておりながら、じっさいにはむしろ不幸になるとき、あるいは、より幸福になるためにおこなっておりながら、じっさいにはより不幸となるとき、そこに偽りが存するのである。

しかし、人間が幸福となることができるのは、人間が罪を犯すことにより見捨てた神からくるのであって、自分自身にしたがって生きることにより罪を犯した人間からくるのではない、という理由によっていま述べたことがあって、そうでなければいかなる理由によるのであろうか。
アウグスティヌス神の国14.4 (キリスト教)


―み言選集―

人のために生きずに自分のために生きるところから、すべての罪悪が発生しました。どろぼうがなぜ悪いのですか。そのどろぼうは自分かやりたくてやったのに、その何が悪いのですか。一着の服にも犠牲の代価が含まれていて、奉仕の代価が含まれています。公的なものが入っているのです。それをそのままもってきたので罪なのです。
(105-92 ~ 93、1979.9.30)

今から守るべき鉄則とは何かというと、1 番目に、死ぬほどのことがあったとしても血統を汚してはいけないということです。2番目は、人事処置を誤って人権を蹂躙してはいけないということです。

男性であれ女性であれ、黒人であれ、白人であれ平等です。人権を差別せず、人権を蹂躙してはいけないというのです。責任者は、自分の心に合わないからといって、むやみに人事措置をしてはいけません。心に合わないからといってむやみにでぎないのです。
3番目は、公金を盗んではいけないということです。公金を自分勝手に使うなということです。この三つです。(注12)
(342-298 ~ 299、2001.1.13)

罪とは何ですか。神様のみ言に背いたことが罪だというのですが、サタンが讒訴できる条件を提示することが罪です。神様のみ言を信じないことが罪です。

怨讐がかみついて放さないことができる条件を提示することが罪です。ですから、原理原則に、法度に背けば、神様もどうすることもできません。サタンに引っ掛かっていくのです。

イエス様は、生まれるときサタンの讒訴できる立場から外れた立場で生まれたので、原罪のない方です。サタンの主管圏内でサタンと接するのが原罪ですが、イエス様はサタンの讒訴条件だけでなく、すべての条件を越えて生まれた方なので、原罪とは関係がないのです。
(22-257、1969.5.4)
お互いに愛する人が、きょうは好きなのに、あすには別れるのですから、どうして平和があり、どうして統一があり、どうして自由があるのかというのです。そのような愛は、破壊ばかりを招き入れるのです。破壊の動機であり、受け入れることができない内容だというのです。

その愛は、反対にサタンが利用してこの人類を破壊させ、人類の理想を破壊させるための一つの戦略的な武器だ、ということを皆さんは知らなければなりません。私達から真の平和を奪っていき、私達から真の自由を奪っていき、私達から真の統一を奪っていく怨讐の戦略的な方法だ、ということを私達は知らなければなりません。

伝統をもった愛、原因と結果が通じ得る愛を中心として見てみるとき、それ(淫乱な愛)は悪であり、怨讐であり、赦すことができない罪です。神様にとって怨讐であり、容認できない罪なのです。罪の中の何の罪ですか。最も恐ろしい罪です。怨讐の中で神様が最も嫌う怨讐なのです。
その道を是正できない者は、神様は怨讐であり、罪として扱うので、激しく打って滅ぼすようにするのです。滅ぼすようにするのが原則です。

皆さんの中に、イタリアのポンペイ市に行ったことがある人もいるかもしれませんが、その都市が滅んだのも、淫乱な愛の社会生活のためでした。ソドムとゴモラもそれで滅亡したのです。ローマもそれで滅びました。このような公式的な歴史観で推し量ってみるとき、アメリカもそのような愛を是正せずに、悔い改めなければ、滅びます。
(104-141、1979.4.29)


②罪の浸透

―宗教経典―

自分に罪がないと言うなら、自らを欺いており、真理は私達の内にありません。
ヨハネの手紙一1.8(キリスト教)

また私自身、罪を免ぜられるわけでもない。まことに人間の心は確かに悪に傾きがちで、私の主が、慈悲を賜わないならば悪に陥ったかも知れぬ。(注13)
クルアーン12.53 (イスラーム)


では、どうなのか。私達には優れた点があるのでしょうか。全くありません。既に指摘したように、ユダヤ人もギリシャ人も皆、罪の下にあるのです。次のように書いてあるとおりです。

「正しい者はいない。一人もいない。悟る者もなく、神を探し求める者もいない。皆迷い、だれもかれも役に立たない者となった。善を行う者はいない。ただの一人もいない。」
ローマの信徒への手紙3.9 ~ 12(キリスト教)

地上においても天の神々においても、プラクリティ(根本原質)より生じた三要素(グナ)から解放された生類はいない。(注14)
バガヴァッド・ギーター18.40 (ヒンドゥー教)

先生がいわれた、「わたくしは、まだ仁を好む人も不仁を憎む人も見たことがない。仁を好む人はもうそれ以上のことはないし、不仁を憎む人もやはり仁を行なっている、不仁の人をわが身に影響させないからだ。

もしよく一日のあいだでも、その力を仁のために尽くすものがあったとしてごらん。力の足りないものなど、わたくしは見たことがない。あるいは〔そうした人も〕いるかも知れないが……、わたくしはまだ見たことがないのだ。」(注15)
論語4.6 (儒教)

このようなわけで、一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです。すべての人が罪を犯したからです。
ローマの信徒への手紙5.12 (キリスト教)

私は咎のうちに産み落とされ、母が私を身ごもったときも、私は罪のうちにあったのです。(注16)
詩編51.7 (キリスト教)

かの夫婦として結合した一組の男女が神の罪の宣告をうけたときに、最初の男において、女をとおしてその後裔へと引き渡されていくべき全人類がすでにあったわけである。これは、かれがつくられたときではなく、かれが罪を犯し罰せられたとき人間が成ったところのものであって、かれはこれを、罪と死との起源にかんするかぎり生み出したのであった。
アウグスティヌス神の国13.3 (キリスト教)


―み言選集―

人間の世界で、永遠に変わろうにも変わることができず、分けようにも分けごることができない一つの完全な義理を完成し、天と地に誇れるそのような義理の関係を結んだ人がいるのかというとき、いないと言っても過言ではないでしょう。

さらには、宗教を立てておいて、その道理と永遠に分かれることのない自分を立てたのかというとき、これも自信をもって答えられない自分である
ことを悟るでしょう。さらには、天倫と永遠に一つになることができ、何がそれを分けようとしても分けることができない、一つになった立場にいるのかというとき、そのようにできていないことを皆さん感じるでしょう。
(4-135、1958.3.30)

神様がいるとすれば、皆さんはその神様に似て生まれたのです。それでは、神様が善の神様であれば私達人間も善の人間にならなければならないはずですが、善の人間になることができず、相当に複雑で、善でない人間になったことを認めざるを得ません。善の神様と私達人間の間には隔たりが生じたのです。

皆さんがきれいな服を着ているのに、ここに汚れたものがつけば、それを切ってしまうか、はらってしまうか、見栄えがよくないので処断してしまわなければなりません。それと同じように、善の神様の端に、この汚れた人間がくっついていると考えてみてください。そのように考えなければなりません。そのように見るとき、私達人間は、聖書を知らなくても、汚されたというのです。
(92-58、1977.3.13)

堕落することによって、神様と人間の関係が根本的に破綻しました。いくら神様に帰ろうとしても帰ることができず、また、神様が私達人間のところにいくら来ようとしても来ることができない隔たり生じてしまいました。

壁が生じ、国境が生じてしまったのです。神様まで行くことができない、神様を父母として侍る人間が行くことができない壁、越えることのできない壁、それが何の壁ですか。これが問題なのです。全能であられる神様が思いどおりにできる壁になれなかったという事実が、宗教者にとって問題にならざるを得ません。

この壁が、我々個人の心と体の間に入り込むようになりました。夫婦の間にも、壁が入り込むようになりました。家庭がそうであり、氏族と民族と国家と世界、全霊界の天国と地獄の間にも、このような塀が生じたのです。

この塀を取り除かなくては、神様がいくら天国の栄光のみ座にいらっしゃるとしても、地上にいる我々は、包囲されたこの塀を越えられません。これが、この地上に生きている人間の悲劇です。
(135-268、1985.12.15)

アダム、エバがどうなったかといえば、アダム、エバが関係して神様と一つになるべきところを、僕と一つになってしまいました。結局、神様の血統を受けなければならないこの人間たちが、僕の血統を受け継いだということです。ですから、堕落した人間たちがどんなに神様を父と呼んでも実感がわかないのです。
(91-242、19772.23)

堕落したアダムとエバが相対の因縁を結んで出発したその家庭は、神様とは全く関係がありません。その家庭は、神様がとても悲しむ拠点になったのであり、反対に怨讐であるサタンがすべての権利を主張し、すべての権限を発揮できる拠点になったということを、皆さんは堕落論を通して学んだでしょう。

堕落は、個人と個人、すなわち一人の男性と一人の女性によって引き起こされたものですが、それは単に一人の男性と一人の女性に限られたものではなく、歴史的であり、天宙史的な内容をもっていることを私達は知っています。
(46-196、1971.8.15)

いまだに人類は、私達の先祖であるアダムとエバから伝授された堕落性の奴隷になっており、その束縛から抜け出すことができずにいるという意味です。生涯を断食と禁欲、そして途方もない犠牲の苦難の道を貫いて旅立った聖人、賢哲たちの告白がそれを証しています。肉身の欲望を完全に根絶することができずに旅立たざるを得なかった彼らの告白は、いまだに地上界で同じ道を踏襲している弟子たちと信徒たちに向かって切実に訴えているのです。
(447-160 ~ 161、2004.5.1)


5.遺伝罪と業報

宗教は、様々な人間の運命と天賦的才能の差を過去から受け継いだ結果として説明する。それは、過去の自分の人生の業報や子孫に下ってきた先祖たちの罪、この二種類として理解される。このような教理は、人をして過去の行為を贖罪させ、未来の世代のための善業を積むために、彼らの運命を受け入れさせ、忍耐心をもって耐えるように導く。

業報は行動を意味するが、より具体的に一人の個人がこの世や過去の人生で引き起こした行動を意味する。輪廻に対する信仰をもっているヒンドゥ一教と仏教では、人々は彼らの現在の人生を次の生涯で自業自得にならざるを得ないと教える。

しかし、これらの宗教は、一人の状況が業報によってどのくらい決定されるかの程度では、見解が異なる。ヒンドゥー教は、業報によって個人の現在の人生が全面的に決定すると信じる。したがって、財産、人種、性別、あるいはカーストの不平等は当然のことであり、事実上、宇宙は絶対的に正義であり公正なものである。

一方、仏教は、業報が決定的原理だという点を否定する。業報は一人の人間の人生を条件づける24 の要因(パッチャヤ)の中の一つとして、ほかの条件が備われば、業報は現れる必要がないとする。仏教信者は、精神的修練と瞑想訓練を通して自由を得て、業報の束縛から抜け出そうとする。

東洋と西洋の大部分の宗教は、罪が血統を通して遺伝する点を認める。個人は、肉体的特性は言うまでもなく、家風、態度、個性まで譲り渡した自分の先祖の罪を背負っている。先祖たちの人生は、未来の世代の経験にも影響を及ぼし、数世紀まで伝わる痕跡を残すのである。したがって、このような遺伝問題を解決しようとする賢明な人は、子孫に害を及ぼさないだろう。かえって、子女のために善業を残すだろう。文鮮明先生は、遺伝罪がどのように遺伝し、どのように解決され得るのかに対して、少なくない教えを提示している。

①過去の人生の遺産

―宗教経典―

あなたはそれらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない。私は主、あなたの神。私は熱情の神である。私を否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問うが、私を愛し、私の戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える。
出エジプト記20.5 ~ 6(キリスト教)

父祖の犯せし罪よりわれを解き放せ。われらみずから犯せし[罪]より解き放せ。
リグ・ヴェーダ7.86.5(ヒンドゥー教)

死から依然として処罰を受けていない罪が残っていれば、判決は子孫に延長される。過ちと暴力によって他の人のお金を持っていけば、計算され、その総額を妻と子とその家族たちが次第に死ぬとき、彼らから奪うようになる。もし彼らが死ななければ、彼らの邪悪な着服の額だけ均衡をとるために、水、火、窃盗、強盗、財産の喪失、疾病、そして毒舌(中傷)などによる災難がある。
太上感応篇4.5(道教)

危険を避けるために
小さなひょうたんの蔓の中に入っていくほど
能力のある者よ!
あなたは子を忘れていたのか。
あなたは妻を忘れていたのか。
人が蒔いた悪の種は
彼の子孫が刈り取るようになる。
無慈悲に必ず報復を受けるだろう。
いくら遅くなっても報復は時になれば訪れる。
ヨルパ族の歌(アフリカ伝統宗教)

現世であらゆる子孫の運命は、彼の先祖と変わるところがない。死が破滅を止めることはできず、生存者が彼らの罪悪を放棄することはない。人はそれぞれ互いの前轍を踏み、群れごとに、国ごとに、彼らの道を正すことを考えること心なく、終末を迎えるのだ。
ナフジュ・アル・バラーガ説教86(シーア派イスラーム)
義なる者、どれほど幸福か! 彼一人に徳があるのではなく、子らにまでその徳が相続される。その子の子らにも、あの最後の世代にも、その徳が及ぶ。

アロンは、ナダプとアビフのように火刑にされて当然の息子たちがいたが、その父の徳によって彼らは命を拾った。

罪を犯した者、どれほどふびんか! その罪の代価を一人で支払うのではなく、子らにまで受け継がれるのだ。その子の子らにも、あの最後の世代にも、その罪の代価が及ぶ。カナンの多くの息子は、ラビ・カマラエルの小間使いだったタビのような運命をもって生まれたが、彼らの先祖たちの罪によって、その福の機会を失った。
タルムード、ヨーマ87a(ユダヤ教)

トーデッヤの子であるスバ青年バラモンは世尊にこう言った。「ゴータマ尊よ、人身をそなえている人間に劣性と優性が見られる因は何でしょうか。縁は何でしょうか。なぜならば、ゴータマ尊よ、人間には短命の者が見られ、長命の者が見られるからです。多病の者が見られ、無病の者が見られるからです。醜い者が見られ、美しい者が見られるからです。権勢のない者が見られ、大権勢のある者が見られるからです。貧困の者が見られ、富裕の者が見られるからです。低階層の者が見られ、高階層の者が見られるからです。知恵のない者が見られ、知恵のある者が見られるからです。ゴータマ尊よ、人身をそなえている人間に、劣性と優性が見られる因は何でしょうか。縁は何でしょうか」と。……

「青年バラモンよ、ここに、ある女性、あるいは男性は殺生者となります。残忍で、手を血に染め、殺戮にふけり、生き物に対する思いやりがありません。このように遂行し、このように引き受けたその業によって、かれは身体が滅ぶと、死後、悪処・悪道・破滅の地獄に生まれかわります。

もしも身体が滅び、死後、悪処・悪道・破滅の地獄に生まれかわらず、人間の状態を得るならば、
どこに再生しようとも短命の者になります。……
しかし、青年バラモンよ、ここに、ある女性、あるいは男性は、殺生を捨て、殺生を離れる者となります。棒を置き、刀を置き、恥じらいがあり、慈愛があり、すべての生き物を益し、同情して住みます。このように遂行し、このように引き受けたその業によって、かれは身体が滅ぶと、死後、善道の天界に生まれかわらず、人間の状態を得るならば、どこに再生しようとも長命の者となります。

青年バラモンよ、これが長命に導く実践、すなわち殺生を捨て、殺生を離れる者となり、棒を置き、刀を置き、恥じらいがあり、慈愛があり、すべて
の生き物を益し、同情して住むことです。

青年バラモンよ、ここにある女性、あるいは男性は、生けるものたちを手によって、……害する類の者となります。……このように遂行し、このように引き受けた業によって……どこに再生しようとも多病の者になります。……しかし、青年バラモンよ、ここに、ある女性、あるいは男性は、生けるものたちを手によって……害さない者となります。……かれは無病の者になります。

青年バラモンよ、ここに、ある女性、あるいは男性は、怒りのある者、悩みの多い者になります。……どこに再生しようとも醜い者になります。……しかし、青年バラモンよ、ここに、ある女性、あるいは男性は、怒りのない者、悩みの多くない者になります。……端正の者になります。……ここにある女性、あるいは男性は嫉妬心のある者……どこに再生しようとも権勢のない者になります。……ここにある女性、あるいは男性は、嫉
妬心のない者……かれは大権勢の者になります。ここにある女性、あるいは男性は、沙門やバラモンに……施す者になりません……貧困の者になります。……施す者になります。……かれは富裕の者になります。……

青年バラモンよ、生けるものたちは、業を自己とし、業を相続者とし、業を胎とし、業を拠り所としています。業が、生けるものたちを、すなわち劣性と優性に区別します」と。
阿含経中部iii.202 ~ 206、小業分別経(仏教)
反発的心は自由意志に調整されず、完全に刺激(反応に基づいて作用する心の)部分だ。そして、それは自分の意識、目的、思想、身体、行動を超えて強圧と統制力を発揮する心の一部分だ。記憶の痕跡は反発的心に貯蔵されている。それで私は、精神異常と心因性疾患の唯一の根源をここから見いだした。(注17)
ロン・ハバードサイエントロジー0 ~ 8(サイエントロジー)


―み言選集―

数多くの歴史時代を経てきながら、多くの私達の先祖たちが死んでいきましたが、全体の中心を立て、全体に良いこと、全体の利益を考えたなら、そのように百年生きたことが、千年たってもそのまま残されたことでしょう。ところが、個人を中心として生きたので、すべて滅びました。どんどん落ちます。全体を滅ぼしてしまうのです。
(200-91、1990.2.24)

人類歴史上、罪の量といえば途方もないものです。アダムとエバの根本的罪があり、幹の罪など、様々な罪があります。ところが、中心となる罪の根があります。根も様々なものがありますが、周辺の根もあり、幹の根もあります。

幹も、小さい幹が大きくなるときまで、少なくともそこには一つ、二つの枝から始まり、数万の枝があります。このようにたくさんの枝が間違っているのです。その全体の量を見れば膨大です。人類がそのように多くの罪を犯したのですが、どのように赦しを受けるのでしょうか。その膨大な罪の量が、すべて皆さんの一身と連結されています。
(258-84 ~ 85、1994.3.17)

いったい、人は誰に似てこの姿なのですか。父に似たのなら、その父は誰に似てその姿なのですか。おじいさん、おばあさんに似てそうなのです。このようにどんどん上がっていけば、人間の始祖まで上がっていきます。人間始祖がそうなので私達がそうだというのです。

それでは、人間始祖は誰に似てそのようになったのですか。これが問題になるのです。人は父母に似るものです。その父母に似ていなければ、何代かの先祖の性稟が隠れていて、遺伝法則によって父母の性稟と合わさって一人の人間が生まれたのであって、何の根源もない無関係な場でそのように生まれたのではないということです。

皆さんは、自分独りによって自分になっていくと思っていますが、既に皆さんの先祖世界の人たちがたくさん来ては行きました。数千代の先祖たちを悪く言ってはいけないので、「社長」としましょう。大勢の社長を総合した総社長として残されたのが皆さんの個体なのです。皆さん、このような話を聞いたので、気分がよいでしょう? このように素晴らしいのが人です。

ですから、皆さんは、数千、数万代の先祖たちのもろもろの姿、資格、価値を集めておいたものを博物館に展示しておいた展示品と同じです。このような姿が今日の皆さんの姿なのです。

私達の先祖がこの世界に、「私達の子孫はこうだ」と展示品として立てておいたものが私達です。そのように考えてみましたか。この天地間に男性と女性は実に大勢いますが、個人自体を見てみるとき、自分の先祖の姿を全体で総合し実を結んで生まれた、この世にたった一つしかない人だというのです。
(41-139、1971.2.14)


皆さんの先祖たちはすべて違います。行く道が違い、環境が違い、悪の人、善の人が混ざって流れていくのですが、上がっていったり下がっていったり……。

今、その結実のような皆さんの位置が、すべて一つの位置だと見ることはできません。このような観点から、神様は公平な方ですが、神様がもし、「人類は平等で同じだ」と言われれば、「そうだ」と言うことができるだろうかというのです。

堕落がなかったなら分かりません。堕落が神様の愛圏内にあったなら分かりませんが、堕落して神様の愛を求めていかなければならない運命にある人間に対しては、平等という観念を立てることはできません。

ですから、地獄と天国が生じざるを得ないという理論を私達はここで知らなければなりません。
このように見れば、数千の階級が生じ得るのです。地上に散らばっているこの階級、ここにとどまっている階級と同じものが、今日、人類歴史のすべての人たちの背景を中心として、現在と未来を通して生じることが分かります。地上にこのような階級が生じれば、霊界もこのような階級が生じるのです。霊界もたくざんのグループになっていて、階級的に分裂しています。
(91-269 ~ 270、1977.2.27)

    <次ページへ>

コメント