不適切な表現に該当する恐れがある内容を一部非表示にしています

人生訓読 ブログ(日本語)

神様と真の御父母様を中心に全世界で御旨を歩む兄弟姉妹達と全ての人々の幸福の為にこのブログを捧げます。

世界経典-15

2020年10月06日 19時38分53秒 | 学習


④優れた衛生

―宗教経典―

何であっても、運動に代わり得るものはない……人間が従う邪悪な支配による害も、運動が追放してくれるだろう。しかし、動くことがすべて運動ではない。運動とは、強力であったり、早いもの、またはこの二つの結合である。息遣いを変化させ、これを早くする躍動的な動きである。
マイモニデスミシュネ・トーラ(ユダヤ教)

自分の母親の乳で養育される子供たちは、最も適切で自然そのままの食物を楽しむ。
クラウディウス・ガレノス

たくさん食べて生じた病は、食べなければ治り、食べられないことで生じた病は、食べれば治る。働き過ぎて生じた病は、休めば治り、怠けて生じた病は、働けば治る。医者は病の類型によって、それが生じた反対の原理で病を治すようにしなければならない。ヒポクラテス

―み言選集―

皆さん、朝、運動しますか。「なぜ運動するのか。そうでなくてもつらいのだから、楽に休めばよいではないか」と思うかもしれませんが、健康のために投入しない人は、だんだんと病気になって退化します。自然の道理がそうです。(380-164、2002.6.7)

私のような人は運動をしました。今も、体のコンディションが良くなければ、ほぐすすべを知っています。たまに腰が痛くなれば、このようにしてほぐすのです。マッサージです。

針を打つのと同じです。このようにさっと見れば、分かります。すぐに分かるのです。訓練ができているので、どこかに支障があれば、必ずそれをほぐします。自分の体の管理をするのです。

私は健康でしょう? 今も、このようにすればぴたっと入ります。70 歳になった老人は、普通このように歩くでしょう? しかし、私はぴったりくっつくでしょう? それは、運動をしたからです。自分の体を管理しなければなりません。(203-177、1990.6.24)

神様を愛する前に、皆さんが食べる食物を愛さなければなりません。万物を愛し、体を愛さなければならないのです。万物を愛することによって万物の要素を吸収し、自分の体を愛するようになるのです。(138-99、1986.1.19)

天のお父様のみ手を経てつくられた純粋なこの草一株を、何よりも価値あるものとして感じられる世界になることを、私は願っています。どのような香りよりも、空気の味がもっと良いのです。私が牧場に行っても話しましたが、人が空気の味を知り、日光の味を知り、水の味を知れば、病気になることはありません。このような心情で暮らせば、誰もが健康体になるのです。
(9-177 ~ 178、1960.5.8)


健康であることを望むのなら、「ために生きる」愛を中心として、投入して忘れなさいというのです。そのように生きる人は、病もなくこの地上で、幸福で、楽しく暮らすのです。(331-23、2000.8.23)


第5章 死以降の人生と霊界

1.霊界

霊界とは何か。それは、肉身の目では見ることができず、簡単に認知することはできないが、人間存在の明白な一部であり、いつかはすべての人が行かなければならない所である。文鮮明先生は、霊界について知ることは神様について知ることの次に重要だと教える。

霊界に対する三つの主題がここから提示される。第1に、霊界を知ることは地上生活において正しい方向を発見し、維持するための核心になる。第2に、霊界は相似の関係として地上世界と相応し、地上生活においてはぐくむ生の質と愛を維持する。霊界での調和、または不調和は、地上の生において、あらゆる性向と偏見の中の生を営んできた人々(霊界の市民たち)の愛、または愛の欠如に起因する。第3に、霊界は、多様な社会と領域によって構成されており、今日では、一つの全体的な天国に統一される過程にある。

①霊界と肉界の一致

―宗教経典―

私は、キリストに結ばれていた一人の人を知っていますが、その人は十四年前、第三の天にまで引き上げられたのです。体のままか、体を離れてかは知りません。神がご存じです。私はそのような人を知っています。彼は楽園にまで引き上げられ、人が口にするのを許されない、言い表しえない言葉を耳にしたのです。
コリントの信徒への手紙二12.2 ~ 4(キリスト教)

幽玄界を知るものは、天地の間で神のほかにはないのである。またかれらは、いつよみがえらされるかも感知できぬ。いや、かれらの知識は来世に及び得ない。いや、それに疑いを抱いている、いや、それについてかれらは盲目である。
クルアーン27.65 ~ 66(イスラーム)


ここ〔現象界〕にあるものは、そこ〔ブラフマン〕にもある。そこにあるものは、それに対応して、ここにもある。
カタ・ウパニシャッド2.1.10 (ヒンドゥー教)

広い天空の上に在り、自ら強大な光輝を放ち、意の強き汝は、われらを助けるため、汝の栄光の模型である地を創られ、天に至るまで水と光を包まれた。
リグ、ヴェーダ1.52.12 (ヒンドゥー教)

今述べていることの要点は、私達にはこのような大祭司が与えられていて、天におられる大いなる方の玉座の右の座に着き、人間ではなぐ主がお建てになった聖所また真の幕屋で、仕えておられるということです。

すべて大祭司は、供え物といけにえとを献げるために、任命されています。それで、この方も、何か献げる物を持っておられなければなりません。もし、地上におられるのだとすれば、律法に従って供え物を献げる祭司たちが現にいる以上、この方は決して祭司ではありえなかったでしょう。この祭司たちは、天にあるものの写しであり影であるものに仕えており、そのことは、モーセが幕屋を建てようとしたときにお告げを受けたとおりです。神は、「見よ、山で示された型どおりに、すべてのものを作れ」と言われたのです。(注1)
ヘブライ人への手紙8.1 ~ 5(キリスト教)

易は天地になぞらえて作られた。だからこそ天地の道を弥綸(つくろいおさめる、洩れなく包みこむ)するのである。聖人は易をよりどころとして、上を仰いでは天文を観察し、下をうつむいては地理を観察するが故に、幽遠な道理も著名な現象もあわせて知り得る。

また、易を拠りどころとして、事物の本源を原ね極め、終極にまでたち返って死するゆえんを知るが故に、生死の問題についての説明を知り得る。また、陰陽の精気は結合して事物を形成し、その精気が分散して生ずる遊魂はくさぐさの変化となる。だからこそ易に拠って陰陽の理を窮めれば、鬼神の情状をも知り得るのである。
易の道は天地の道と相似するが故に、これと一致して違うことがない。易を拠りどころとする聖人はその知力が万物にあまねく行きわたりその道が天下を済うに足るが故に、過ちを犯すことはなく、ひろく自由に行動するが放逸に流れず、天道を楽しみ天命を知るが故に心に憂いを抱くこともなく、その居処に安んじ仁徳に厚いが故に、よく人を愛することができる。

易は天地造化の妙用を一定の型と囲いにおさめて度をすごさせず、万物を曲に完成して余すところがなく、昼夜の道すなわち陰陽・幽明・死生・鬼神の道に通して知りわきまえる。なればこそ陰陽の神妙なはたらきは、一方一処にとどこおることなくして円通し、そのはたらきを内に蔵する易の変化にも一定の型体とてはないのである。
易経、周易繋辞上伝1.4.1 ~ 4、(儒教)

つまりかれらは、知恵があると思っている人が、しらべられて、そうでないことになるのを、聞いているのが、おもしろいからなのです。たしかにおもしろくないことはないのですからね。しかし、私にとっては、それは、私の申し分どおり、神によって、なせと命じられたことなのです。それは神託によっても伝えられたし、夢知らせによっても伝えられたのです。
プラトンソクラテスの弁明29(ヘレニズム)


―み言選集―

人の命は、地上における肉身の死によってすべてが終わるのではありません。天上世界、すなわち霊界では、聖人賢哲たちはもちろん、私達の先祖が、肉身とは異なる人格体である霊人体として生きています。神様が創造された根源の世界、すなわち無限の永遠な世界と比較するとき、私達の肉身が生きているこの自然界は、ごく小さな一部分にすぎません。
(411-151 ~ 152、2003.710)

神様を知り、霊界を知らなければなりません。堕落した世界のすべてのことを忘れてしまっても、神様をはっきりと知り、霊界を知らなければなりません。

霊界は、永遠の本郷です。永遠の本郷の国です。その本郷の国が霊界から成し遂げられるのではなく、地上から成し遂げられなければなりません。
(398-145、2002.12.9)

聖書を見れば、パウロが14 年前に見た第3の天について述べています。14年間パウロはどのよう生きてきたのでしょうか。第3の天を見たこと、それが力になって、14 年間を生きてきました。パウロは、それ以上のことを知ったために、第3の天のことを述べても、また行くことができたのです。
(62-47、1972.9.10)

霊界のすべてのことが地上世界と関係を結んでいます。どこを焦点として、何を共通分母として、その主流的関係が連結されるのですか。それが何かというと、真の愛です。
(137-54、1985.12.18)

地上には内面的に拡大された生活がありますが、内面的に拡大されたその基準は、霊界に行けば表面化されるのです。愛が中心でしょう? 愛が内面化されているために、神様と人類が一つの体の細胞と同じです。自分自身が、その細胞のうちの一つになる世界が霊界です。そのような境地に入れば、神様が間違いなく自分の心の中に入ってくるのです。「神様」と呼べば、自分の心の中で「誰が私を呼ぶのか。何だ?」と言うのです。すなわち、神様と共に暮らしていく世界です。
(218-129、1991.7.14)

霊界がどごにありますか。皆さんの体の外にありますか、体の中にまで入ってきていますか。体の中にあります。ですから、霊界を背負って歩き回り、連れて歩き回るのです。霊界を抱いて歩き回り、抱えて歩き回るのです。
(162-116、1987.3.30)

 

②霊界の様々な階層と領域

―宗教経典―

神は数多くの地獄と天国をつくり出し、人間はこれを探検するために疲労困憊だ。
アーディ・グラント、ジャプジー22、M.1、p.5(シーク教)

私の父の家には住む所がたくさんある。
ヨハネによる福音書14.2(キリスト教)

また、天上の体と地上の体があります。しかし、天上の体の輝きと地上の体の輝きとは異なっています。太陽の輝き、月の輝き、星の輝きがあって、それぞれ違いますし、星と星との間の輝きにも違いがあります。(注2)
コリントの信徒への手紙一15.40~41(キリスト教)

彼らは長子の教会である。彼らは御父からすべてのものをその手に与えられた者である。彼らは祭司であり、王であり、御父の完全と、御父の栄光を受けた者であり、また、メルキゼデクの位に従ういと高き方の祭司である。このメルキゼデクの位は、エノクの位に従い、かつ独り子の位に従うものであった。それゆえ、書き記されているように、彼らは神々、すなわち神の子である。…

これらは、その体が日の栄えの状態にある者である。その栄光は太陽の栄光すなわちすべての者の至高者なる神の栄光であり、その栄光は大空の太陽によって象徴されると記されている。

さらにまた、私達は月の栄えの世界を見た。見よ、見よ、これらの者は月の栄えの世界に属する者であり、その栄光は、月の栄光が大空の太陽と違っているように、御父の完全を受けた長子の教会の栄光とは違っている。

見よ、これらは、律法なしに死んだ者である。また、獄にとどめられた人々の霊であって、肉において人間として裁きを受けるために、御子が訪れて、福音を宣べ伝えられた者である。また、これらは、肉においてはイエスの証を受け入れなかったが、後にそれを受け入れた者である。これらは、世の高潔な人々でありながら、人間の悪巧みによって目をくらまされた者である。これらは、イエスの栄光を受けるが、その完全は受けない者である。これらは、御子の臨在は受けるが、御父の完全は受けない者である。それゆえ、彼らは日の栄えの体ではなく、月の栄えの体であって、月が太陽と違っているように栄光において違っている。

これらは、イエスの証に雄々しくない者である。それゆえ、彼らは私達の神の王国の冠を得ない。さて、これで私達が月の栄えの世界について見た示現は終わり、私達がまだ御霊に感じている間に、これを書き記すように主は私達に命じられた。

さらにまた、私達は星の栄えの世界の栄光を見た。その栄光は、星の栄光が大空の月の栄光と違っているように、さらに劣った世界の栄光である。

これらは、キリストの福音を受け入れず、イエスの証も受け入れなかった者である。これらは、聖なる御霊を否定しない者である。これらは、地獄に落とされる者である。これらは、最後の復活まで、主すなわち小羊なるキリストがその業を終えられるまで、悪魔から贖われない者である。

これらは、永遠の世界において主の完全を受けないが、月の栄えの者の働きによって聖なる御霊を受ける者である。そして、月の栄えの者は、日の栄えの者の働きによって受ける。また、星の栄えの者は、彼らのために仕えるように任じられる天使たち、すなわち彼らのために仕える霊となるように任じられる天使たちの働きによって聖き御霊を受ける。彼らは救いを受け継ぐ者だからである。(注3)
教義と聖約76.54 ~ 88(末日聖徒イエス・キリスト教会)

ソロモン王が「くるみの園に下りて行きました」(雅歌6.11)。彼はくるみの殻を一つ拾い上げ、それを注意深く見た。彼はくるみの殻の中に見える層状を見つめながら、感覚的な追求欲がわき上がってくるのを感じ、人間という存在を類推した……人間の頭脳がたくさんの薄い膜で覆われているように、すべての存在が永遠性をもつようにするために、何かの処置をしなければならないこ
とを、神はお考えになった。

それゆえ、全世界に層状の深奥で神秘的な所から
最も外部の層に至るまで高低があるのは、このような原理によるものだった。

あらゆるものは覆うものをもつ。頭の中に頭があり、霊の中に霊があり、殻の中にまた別の殻がある。

最初の中心地は、最も奥深い所に光があり、透明で、不可思議で、我々の想像を超えた至極清浄な性質をもつ。最も深い一点が中心を取り囲む“宮殿”を形成し、これはまた、我々が想像できないほど透明な光彩である。具体的に指摘できない最も深い一つの中心の衣服のようなこの宮殿は、それ自体が不可思議な光だ。しかし、この宮殿は、原初的な点よりは透明でなく、奥妙ではない。この宮殿は、それ自体、自ら最初の光彩とはまた異なる服を着るようになる。

このようにして、外に向かっていくほど増幅はまた別の増幅の服を着るようになる。ゆえに、まるで薄い膜が頭脳を覆うように、各組織はそれ以前の組織を包むようになる。最初は保護膜の役割をしていたものが、次の段階の組織に対しては頭脳のような位置をもつようになる。

これと同様に、そのような組織は下にも進行する。この世の人は、天と地の中心となる頭脳の役割をしながら、霊と肉を保護する保護膜を形成するようになる。ゆえにあらゆるものは、より完全な秩序で進行する。
ゾハール(ユダヤ教)

すべての王国には律法が与えられている。そして、多くの王国がある。王国のない空間はないからである。また、大きな王国も小さな王国も、その中に空間のない王国はない。
そして、すべての王国に一つの律法が与えられており、すべての律法に一定の限界と条件がある。それらの条件の中にとどまっていない者は皆、義とされない。

英知は英知に結びつき、知恵は知恵を受け入れ、真理は真理を迎え入れ、徳は徳を愛し、光は光に結びつき、憐れみは憐れみに同情を寄せて自らの権利を主張し、正義はその道を進み続けてその権利を主張し、裁きは御座に着いて万物を治め、万事をなす者の前を行くからである。(注4)
教義と聖約88.36 ~ 40(末日聖徒イエス・キリスト教会)


―み言選集―

霊界に行ってみれば、霊界全体が一人の人間に見えます。主体である神様とこの全体、大きな一人の人と一つになります。そうすると、全霊界と肉界がすべてぐにゃぐにゃになります。神様が走れば地も走り、神様が笑えば地も笑うようになっています。

それはどういうことですか。皆さんは、どのようにして中心になれますか。私とこの細胞を見てみれば、すべて連結されています。指の細胞を見るとき、その細胞がすべて私にぶら下がっています。そのような意味の中心だというのです。

私の手の先を見るとき、手の先は私と一対一です。すべて私にとどまっています。人間が宇宙の一番の中心になります。一つの細胞のような立場で相対するとき、中心的資格をもつことができるのです。

この細胞を通っていた血が、足の裏の細胞を通っていた血に、「ああ、頭のほうに来るな」と言うことができますか。このような境界線がありますか。そのような意味で、黒人、白人、黄色人の区別はありません。皮膚が、これは白く、これは黄色く、色がすべて違います。目の色も違い、髪の毛も違い、すべて違います。

だからといって、「ああ、お前は私とは違うから別種だ」、そのように言えますか。霊界に行ってみれば、一人の人間のような組織になっています。聖人たちが目の役割をして、耳の役割をするようになっています。(注5)
(91-280、1977.2.27)

霊界は、神様を中心とする一つのセンターを中心として、すべてのものが連結されています。しかし、地上にはそれができていません。センターがないのです。神様を中心とするセンターではなく、悪を中心とするセンターができているので、すべてのものが相反しています。

しかし、霊界はすべて統一です。高いレベルのものもあり、もちろん地域も違いますが、同じ階級ではなくても、すべてのものが天に従わなければならないことを知っているのです。低い階級の霊人たちも、神様を中心として従っていかなければならないということが、信仰観念のように生活の目標になっています。それが永遠の生活目標になっているのです。
(161-220、1987.2.15)

地上生活の人間完成の基準によって地獄と天国が生じざるを得ません。このように見れば、数千の階級が生じ得るのです。……地上に散らばっているこの階級、ここにとどまっている階級のようなものが生じます。地上にこのような階級が生じれば、霊界にもこのような階級が生じます。……霊界も多くの集まりでできていて、階級ごとに分裂しています。
(91-269 ~ 270、1977.2.27)


霊界に行けば何もありません。花しかありません。どこに行っても花でいっぱいです。ところが、その花が笑顔で踊りを踊っています。自分の愛の価値観の完成基準によって、それぞれ声を出して踊ったり、黙って踊ったり、様々な姿で迎えてくれるのです。

その時になって、「先生が教えてくださった愛というものがこのように偉大なものだったのだなあ。ああ、その時、すぐに分かっていればよかったのに」と思うかもしれませんが、その時になれば既に通じません。それで先生がその世界に合格させるために、その周波数に合わせるために、地上で教育し、指導しているのです。
(227-100、1992.2.10)

霊界は完成しましたか。霊界は未完成です。なぜ未完成なのでしょうか。本来、霊界の階級体系は、神様と真の父母、真の子女を中心としてつながっていなければならないのに、それができていないのです。地上もやはりできていません。

言い換えれば、堕落しなかったアダム主義、神様を中心としたアダム主義、それと同時に、真の父母を中心とした階級体系になるのが霊界ですが、それができていないのです。

今まで、その中心の中には、仏教を中心とした釈迦牟尼クラブがあり、孔子クラブがあり、ムハンマド(マホメット)クラブがあります。それで、霊界は、真の父母主義とアダム主義が現れることを願い、ムスリム(イスラム教徒)の群れや孔子の群れや釈迦の群れも、すべて願っているというのです。ですから、統一的な方向を経なければならないので、地上においても真の父母の役事が世界的な基準に上がっていくようになる時、すべての宗教の境界線はなくなり、統合運動が霊界の動きに従って自動的に展開し、その結果が地上で現れるようになるというのです。
(161-223、1987.2.15)

今霊界は、すべて壁でふさがれています。国はありません。世の中の国のような国は霊界にはありません。しかし、仏教を信じていた人たちは仏教圏にすべて入っていき、儒教を信じていた人は儒教圏にすべて入っていき、キリスト教を信じていた人はキリスト教圏、イスラームを信じていた人はイスラーム圏に入っていきます。

このようにすべて宗教の系列が霊界にできています。それで、世界的な一時、メシヤが来る時まで、自分の団体のために準備してくるので、今まで壁を積み上げてきたのです。人間の堕落によって生じた神様の恨とイエス様の恨と先生の恨をすべて霊界と肉界で解くことができる基準になるまでは、その壁を崩すことはできません。
(89-101 ~ 102、1976.10.4)


2.不滅の霊魂

霊、または魂は、不滅の人間の本質である。霊魂は、永遠の神様から来たものであるため、それは最後に神様に帰っていく。一方、土でつくられた肉身は、霊魂を包む服にすぎない。細かい違いはあるが、これがあらゆる宗教で発見される一般的な観念である。

霊魂は、天国に上がっていったり、地獄に落ちたり、神性と一つになったり、復活の日まで眠っていたり、またほかの肉身に生まれ変わる。このような違いとは関係なく、霊魂の存続はあらゆる信仰体系に共通して現れる。

宗教の諸経典は、来世で霊魂を包んでいる“霊的体”に対する描写を含んでいる。ある経典では、それ自体の形態と構造を備えた霊魂を想定している。それは、地上生活の間に肉身と共にあり、死後に分離されて霊界に上がっていく。

文鮮明先生は、地上人たちが霊魂と肉身の共鳴によって二つの世界にどのように生きているのかに対する理解を助ける。これは、霊的能力をもつ人たちが地上生活をしながら、どのように霊界を自覚できるのかを意味する。

霊魂がこれ以上肉身に縛られず、意志どおりに自由に旅行できるとき、実にそれは死後にその翼をつける。それでも、地上の生は、天国で要求される完全な魂の性稟を訓練する修練所として重要な意味をもつ。次の節から、この主題を扱う。

①霊魂と肉身

―宗教経典―

主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。
創世記2.7(キリスト教)

またかれは、土から人間の創造を始めたもう。それからかれは、卑しい水の一精髄から、その跡継ぎをつくりたもう。それからかれを均整につくり、かれの霊を吹き込みたまい、……
クルアーン32.7 ~ 9(イスラーム)

霊魂は知恵と洞察の主体であり、無形状の行為者であり、それ自身の肉身と同一の大きさをもつ。霊魂はまた、カルマの果報を享受する者であり、サムサラの世界にいるが精通した者であり、常に至高の境地を目指している。
ネーミチャンドラ・ダッヴァサンガハ2(ジャイナ教)
肉体は霊魂の家である。
タルムード、サンヘドリン108a (ユダヤ教)

孔門の宰我が申した、「わたくしは鬼神という言葉は聞くもののそれが何を指すのか、存じません」そこで孔子が教えた、「人の身には気と魄(心と物の二面)があるが、気のほうは神の妙用、魄のほうは鬼の妙用なのである。それゆえ鬼と神を並べて説いてこそ、人間に対して教訓が完全になるのである。

生きている人々、これは必ず死ぬが、死ねば必ずみな土に帰る。そのように死亡した人間、それを鬼という。人が死ねば骨や肉は地の下に朽ちて、埋もれたままに野の土となり、気のほうは天上に浮かび上がって、あらたかな神霊の群れに入る。すべて、人も物も死ねばその精気が凝って強い香りを放ち、感ずる人々の心を悲壮にさせるのであるが、それこそ神霊の妙用なのである。
礼記21.2.1 (儒教)


しかし、死者はどんなふうに復活するのか、どんな体で来るのか、と聞く者がいるかもしれません。愚かな人だ。あなたが蒔くものは、死ななければ命を得ないではありませんか。あなたが蒔くものは、後でできる体ではなく、麦であれ他の穀物であれ、ただの種粒です。神は、御心のままに、それに体を与え、一つ一つの種にそれぞれ体をお与えになります。

どの肉も同じ肉だというわけではなく、人間の肉、獣の肉、鳥の肉、魚の肉と、それぞれ違います。また、天上の体と地上の体があります。しかし、天上の体の輝きと地上の体の輝きとは異なっています。
コリントの信徒への手紙一15.35 ~ 40(キリスト教)


一み言選集―

この体は、神様があらゆる精誠を尽くし、土の塊のようなものを収拾し、永遠の理念の生命体、すなわち霊人体が育ち得るように造られました。芸術品でも、これ以上の芸術品はありません。ただ神様が、「おい、いでよ」として造られたものではありません。最大の精力を注いで造られた体です。そこに霊人体を吹き入れ、一人の人を造られたのです。神様が主管される有形・無形世界で永遠に存在できるそのような形状を造って祝福してくださいました。
(8-80、1959.11.8)

霊人体は人間の肉身の主体として創造されたもので、霊感だけで感得され、神と直接通ずることができ、天使や無形世界を主管できる無形実体としての実存体である。霊人体はその肉身と同一の様相であり、肉身を脱いだのちには無形世界(霊界)に行って永遠に生存する。人間が永存することを念願するのは、それ自体の内に、このような永存性をもつ霊人体があるからである。
この霊人体は生心(主体)と霊体(対象)の二性性相からなっている。そして生心というのは、神が臨在される霊人体の中心部分をいうのである。霊人体は神からくる生素(陽性)と肉身からくる生力要素(陰性)の二つの要素が授受作用をする中で成長する。また霊人体は肉身から生力要素を受ける反面、逆に肉身に与える要素もあり、我々はこれを、生霊要素という。

人間が神霊に接することによって、無限の喜びと新しい力を得て、持病が治っていくなど、その肉身に多くの変化を起こすようになるが、これは、その肉身が霊人体から生霊要素を受けるからである。霊人体は肉身を土台にしてのみ成長する。それゆえに、霊人体と肉身との関係は、ちょうど実と木との関係と同じである。
原理講論、創造原理6.3.2

人は二重構造になっています。心的な人と体的な人です。それでは、心とはいったい何でしょうか。心は縦的な基準をもっています。体は何でしょうか。横的な基準をもっています。これが本来、神様の理想的基準に立ち、神様の愛を受けることができるようになれば、縦的な心に神様の愛が響くとき、横的な体はすべて感じるようになります。縦的基準が存在する霊人体に神様の真の愛が響けば、横的基準である体も共鳴するようになっています。
(177-216、1988.5.20)

人には、霊的な人、統一教会でいう霊人体があり、肉身があります。霊人体は我々の目に見えませんが、存在するのです。では、霊人体と肉身は、いつ一つになるのでしょうか。これが問題です。

これは、音叉と同じです。音叉の一つを鳴らせば、同じ振動数で別の側を共鳴させるのと同じ道理で、神様の愛の作用が私達の心に来れば、自動的に体が反応しなければなりません。ですから、体と心を100 パーセント共鳴させ一つにする圏内に追い込むことができるのは、神様の知恵でもなく、能力でもなく、力でもなく、愛だけです。
(138-255、1986.1.24)

心と体の細胞があります。霊的五官があり、霊人体があることを知っていますか。内的人間と外的人間の細胞が共鳴しなければなりません。永遠に生きる私達の内的な人と、地上天国に生きる外的な人が、愛を中心として共鳴できなければなりません。

霊人体と肉身が神様の愛を中心として共鳴し、響くようになるとき、初めて霊的細胞と肉的細胞が完全に作動するのです。ですから、目が完全作動するときは、目を開けば、天上天下、地上天下がみな見えるのです。完全作動をするためです。マイクもそうではないですか。性能が良ければ、100 パーセント響き渡ります。同様に、愛の力で肉身と霊人体が一致して、爆発し得る境地になれば、天上世界、地上世界が、神様がすることなく、みな共鳴するようになるのです。
(171-103、1987.12.13)

②死:新しい生命に転換

―宗教経典―

塵は元の大地に帰り、霊は与え主である神に帰る。
コヘレトの言葉12.7(キリスト教)

まことにわれは、生を授けまた死を賜う、われによろずのものの帰着所がある。
クルアーン50.43(イスラーム)

風(気息)は不死の風に帰し、肉体は終に灰となる。5U(オーム)! 意志(クラトウ)よ、憶念せよ。所為を憶念せよ。
イーシャー・ウパニシャッド17(ヒンドゥー教)

人間の真性は先ず霊なる生命にして
心の糸を組み合せて肉体の繭を造り
その繭の中にわれと吾が霊を宿らせて、
はじめて霊は肉体となるなり。
汝ら明かに知れ、繭は蚕に非ず、
然らば肉体は人間に非ずして、
人間の繭に過ぎざるなり。
時来らば蚕が繭を食い破って
羽化登仙するが如く、
人間もまた肉体の繭を食い破って
霊界に昇天せん。
汝ら決して肉体の死滅をもって
人間の死となす勿れ。
人間は生命なるが故に
常に死を知らず。(注6)
甘露の法雨(生長の家)

彼が殺すと思う者、また彼が殺されると思う者、その両者はよく理解していない。彼は殺さず、殺されもしない。彼は決して生まれず、死ぬこともない。彼は生じたこともなく、また存在しなくなることもない。不生、常住、永遠であり、太古より存する。身体が殺されても、彼は殺されることがない。

彼が不滅、常住、不生、不変であると知る人は、誰をして殺させ、誰を殺すか。人が古い衣服を捨て、新しい衣服を着るように、主体は古い身体を捨て、他の新しい身体に行く。武器も彼を断つことなく、火も彼を焼かない。水も彼を濡らすことなく、風も彼を乾かすことはない。

彼は断たれず、焼かれず、濡らされず、乾かされない。彼は常住であり、遍在し、堅固であり、不動であり、永遠である。彼は顕現せず(認識されず)、不可思議で、不変異であると説かれる。それ故、彼をこのように知って、あなたは嘆くべきではない。(注7)
バガヴァッド・ギータ2.19 ~ 25(ヒンドゥー教)

なんじらは、来世がもっとすぐれ、またもっと永遠なものであるのに、この世の生活をよいと思う。これはまことに、いにしえの諸経典にあり、アブラハムやモーゼの経典にもある。
クルアーン87.16 ~ 19(イスラーム)

オニャメ(注9)は死なない。ゆえに私も死なないだろう。
アカン族の格言(アリカ伝統宗教)
祖先と合同せよ、ヤマと〔合同せよ〕、祭祀・善行の〔果報〕と〔合体せよ〕、最高天(ヤマの居所)において。欠陥を棄てて、〔汝の〕家郷(死者の世界)に帰れ。光輝に満ちて、〔新たなる〕身体と合体せよ。
リグ・ヴェーダ10.14.8 (ヒンドゥー教)

だから、私達は落胆しません。たとえ私達の「外なる人」は衰えていくとしても、私達の、「内なる人」は日々新たにされていきます。

私達の一時の軽い艱難は、比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます。私達は見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。私達の地上の住みかである幕屋が滅びても、神によって建物が備えられていることを、私達は知っています。


人の手で造られたものではない天にある永遠の住みかです。私達は、天から与えられる住みかを上に着たいと切に頻って、この地上の幕屋にあって苦しみもだえています。

それを脱いでも、私達は裸のままではおりません。この幕屋に住む私達は重荷を負ってうめいておりますが、それは、地上の住みかを脱ぎ捨てたいからではありません。死ぬはずのものが命に飲み込まれてしまうために、天から与えられる住みかを上に着たいからです。

私達を、このようになるのにふさわしい者としてくださったのは、神です。神は、その保証として“霊”を与えてくださったのです。それで、私達はいつも心強いのですが、体を住みかとしているかぎり、主から離れていることも知っています。目に見えるものによらず、信仰によって歩んでいるからです。私達は、心強
い。そして、体を離れて、主のもとに住むことをむしろ望んでいます。
だから、体を住みかとしていても、体を離れているにしても、ひたすら主に喜ばれる者でありたい。なぜなら、私達は皆、キリストの裁きの座の前に立ち、善であれ悪であれ、めいめい体を住みかとしていたときに行ったことに応じて、報いを受けねばならないからです。
コリントの信徒への手紙二4.16 ~ 5.10(キリスト教)

しかし、もう終りにしよう。時刻ですからね。もう行かなければならない。私はこれから死ぬために、諸君はこれから生きるために。しかしわれわれの行く手に待っているものは、どちらがよいのか、誰にもはっきりは分からないのです、神でなければ。
プラトンソクラテスの弁明42(ヘレニズム)

私は、アフリカヌスにあなたの祖父、父パウルス、そして我々が故人と考えているほかの方たちも生きていらっしゃるのかと尋ねました。彼は答えました。「もちろん生きている。彼らは皆、監獄のような肉体の束縛から抜け出して楽しんでいた。あなたが言う地上の生というものは、その実、死にすぎない。見よ、あなたの父パウルスが、あなたに向かってここに来ているではないか!(注
8)
キケロ国家論6.14 ト(ヘレニズム)


―み言選集―

私達韓国の言葉では、おもしろい表現で「死ぬ(チュンヌンダ)」ということを「帰る(トラガンダ)」という言葉で表します。どこに帰るという話でしょうか。これはただ共同墓地に行くことを意味するのではありません。元来、人生が出発した本来の場所に戻っていくという意味です。果てしなく遠い歴史の起源を越えて帰っていくということです。

だからといって、韓国人として生まれたので、韓国人として帰るという意味ではありません。私達人間始祖の根源となる、その世界に帰るという意味です。すなわち、創造主がいらっしゃるなら、その創造主がいらっしゃる所に帰るという意味です。そこから出発したので、そこに帰るのです。

宇宙も循環作用をします。例えば、山に積もっていた雪が解ければ、その水が小さな渓谷を通じて流れるようになり、さらには様々な川を通じて大海に流れ込みます。大海に流れ込むようになったその水は、水蒸気となって再び帰っていくのです。このように、循環運動を通して、より貴くなり得る所に、より良くなり得る所に帰っていくごとを願うのです。
(299-61、1999.2.4)

神様が人間の父母でいらっしゃるなら、私達人間をどのように、なぜ造ったのかと考えるとき、神様の愛に同参させた位置から出発しました。神様の心から出発し、神様の愛の懐で育ち、神様の愛の懐で成熟して家庭を築き、この地上で世界的な愛と連結させ得る成熟者となり、神様の愛の懐に帰らなければならないのが人生の道です。
(135-267 ~ 268、1985.12.15)

人間の本質は霊的なものです。ですから、あの国に行けば、そのような人間の本質が人のために生きるようになっていることを、より一層実感するようになるのです。
(2-138、1957.3.17)

人は、地上で理想的な家庭を築いて暮らしながら、その内なる人である霊人体を完成させ、天上世界に行くようになっています。霊人体が神様の愛の中で永遠に生きる天上天国が私達の本郷です。……人間は動物とは異なり、霊人体があり、また必ず行くべき天上世界があることを知らなければなりません。
(343-196、2001.1.29)

これからは神様と同じ位置に立つのです。永遠の真の愛の場に同参したのです。外の世界のどこに行っても、韓国のどこに行っても、この永生概念はありません。これが問題です。私は永遠の生命として生まれたので、死んで霊界に行ってみてください。一瞬で飛躍します。制限されたこの地球の人生とは次元が異なります。

制限された所では自由に動けませんが、あの世界は次元が高い世界なので何でもできる所です。時間を飛び越えるのです。愛を中心として、願いさえすれば何でも、いつどこでも、すべて得られます。無窮無尽です。
私達が霊人体として造られたことを、今知りました。永生の真の愛を中心とする対象体である私は、永遠の生命体だという結論が自動的に出でくるのです。霊界に行きさえすれば、私達は自由なのです。
(216-116、1991.3.9)

   <次ページ>

 

コメント

世界経典-14

2020年10月06日 19時37分28秒 | 学習


8.創造性と芸術

芸術家、科学者、発明家たちは、神様の創造性を受け継いでいる。宇宙は、神様の心の中の観念から出発して創造されたのであり、その観念を実際の宇宙に創造するためにエネルギーが投入された。同じように、芸術家と科学者は、その心の中にあるイメージを作品として表現するために、自分のすべての努力と精誠を注ぐ。

この節は、芸術に焦点を合わせ、したがって経典とともに、自分の芸術がもつ意味を省察する有名な芸術家たちの言葉の中から選別した幾つかの言葉も含む。しかし、創造性は、このような卓越した人物たちの独占的な所有物ではない。

私達は、スポーツに対する愛に満ちて競技を行う運動選手から、自分の物品を売買するためにより優れた方法を求める商人から、踊りを踊り、歌う子供たちからも創造性を発見する。バレエ団と芸術学校を設立し、また妻と共にデュエットで歌うことを好む文鮮明先生は、芸術が神様を中心とする文化を創造することに寄与する、重要な役割を理解している。相対物と調和を成した芸術、芸術の情緒的な力とその精髄、詩的霊感、芸術の霊性、芸術と価値の問題などの主題が、ここに含まれている。


①芸術の霊性

―宗教経典―

酒に酔いしれてはなりません。それは身を持ち崩すもとです。むしろ、霊に満たされ、詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌いなさい。
エフェソの信徒への手紙5.18 ~ 19(キリスト教)

人生は芸術である
人の一生は自己表現である
自己は神の表現である
表現せざれば悩がある
処世訓1.4(PL 教団) 104

流麗な言葉の中に魔力があり、知識の中に無知がある。詩の中に知恵が、言葉の中に退屈がある。
アブー・ダーウード・ハディース(イスラーム)

神の霊がサウルを襲うたびに、ダビデが傍らで竪琴を奏でると、サウルは心が安まって気分が良くなり、悪霊は彼を離れた。
サムエル記上16.23 (キリスト教)

「神々に誓って、音楽・文芸の場合もそれと同じように、われわれ自身にしても、われわれが国の守護者として教育しなければならぬと言っている者たちにしても、節制や勇気や自由闊達さや高邁さやすべてそれと類縁のもの、他方またそれと反対のものの実際の姿が、いろいろとくり返し現れるのをあらゆる場合に識別し、それらが内在しているあらゆるもののうちに、その実際の姿をも似姿をもともに認識できるようになるまでは、そして小さなもののうちにあろうと大きなもののうちにあろうと、けっしてないがしろにせず、いずれを知るにも同一の技術と訓練を必要とするものだと考えるようになるまでは、われわれはけっして音楽・文芸に習熟した者となったとはいえないのではないだろうか?」……
「もしもある人が、その魂の内にもろもろの美しい品性をもつとともに、その容姿にも、それらと相応し調和するような、同一の類型にあずかった美しさを合わせそなえているとしたら、見る目をもった人にとっては、およそこれほど美しく見えるものはないのではないか?」
プラトン国家3(ヘレニズム)

すべての技術は生成にかかわる。
アリストテレスニコマコス倫理学6.4(ヘレニズム)

私達作曲家たちは、無限を有限の中に投影する人々である。
エドヴァルド・グリーグ

真の芸術品はそれを制作する精神……あるものを完全に創造しようとする努力によって、高貴で敬虔につくられる。神が完全な存在であり、完全を追求する人は、誰でも神聖なあるものを追求しているからである。
ミケランジェロ

通奏低音の唯一で最終的な目標は神の栄光と歓喜である。
ヨハン・セバスティアン・バッハ

私が心で創作すれば、ほぼすべてのものが良くできた。
マルク・シャガール

人間たちは邪悪になることができる。彼らの兄弟である動物がそうなり得るよりももっと邪悪になることができる。しかし、彼らはまた、創造の恍惚境で立ち上がることもできる。イギリスの大聖堂は人間が自分自身の上にいる存在に対する敬拝の記念物として建っている。人間は、自身の手でつくったりっぱな作品を見るとき、人類という種に属したことを誇りに思う。彼らは創造者になってきた。彼らは世の中と、その世の中にあるすべてのものを創造したのであり、それが善だと見た創造主の神聖さを分かち合わなければならない。しかし、その方はつくられるより多くのものを残しておいた。
アガサ・クリスティ
―み言選集―

人間がそれ自身の責任分担を完遂して初めて完成されるように創造されたのは、人間が神も干渉できない責任分担を完遂することによって、神の創造性までも似るようにし、また、神の創造の偉業に加担させることによって、ちょうど創造主である神が人間を主管なさるそのごとくに、人間も創造主の立場で万物を主管することができる主人の権限をもつようにするためであった。
原理講論、創造原理5.2.2

文化は言葉でつくられなければなりません。み言を通した文化です。言葉はすべて文字で表現されます。それから、美術などの芸術で表現されるのです。芸術とは何でしょうか。目に見えない言葉を表示するものです。したがって、この原理とみ言を通して格が出てくるのです。実体が出てくるのです。
(107-317、1980.6.8)

神様が一人でいれば、どうでしょうか。神様が一人でいれば笑われるでしょうか。神様も一人でいれば狂人になります。「ははは……!」と笑うとき、そこに「ほほほ」、「ヘヘヘ……!.」という何かでもなければなりません。そうすれば、その環境がすべて笑うようになります。

上がっていって踊りを踊るのです。それで歌が必要であり、踊りが必要であり、芸術が必要なのです。愛を除いては不可能です。愛を除いては、芸術も、歌もすべて必要ありません。核がありません。芸術の核が愛です。それを知らなければなりません。ですから、神様もこの宇宙の喜びのためには、愛の前に絶対服従します。
(225-128 ~ 129、1992.1.5)

皆さん、作家たちが、これから世界的な作家になるためには、どのようにしなければなりませんか。風景画を描き、彫刻品を作り、様々なものを象徴的に表示するとき、その中で愛が躍動しなければなりません。愛が宿っていなければならないのです。
言い換えれば、その作品の作者が、どのくらい愛を投入したのかということが問題になるだろうと見るのです。その次に、生命力をどのくらい投入したのか、その次には、心血をどのくらい注いだのか、この三つの問題に集約されると見るのです。一つの作品を見てみれば、作家が属している国に対する愛、愛国精神と家門に対する愛があると同時に、生命力が躍動しなければなりません。生命力が輝かなければ、傑作品になりません。そして、どのくらい血がかわくほど投入したのかということです。この三つは、どのような分野でも同じように重要な問題です。
(198-281、1990.2.5)

芸術というものは、情緒的背後が深く介在していなければ価値がありません。千年前に見たものを何千年後に見ても、それ以上の感情をもって感じることができる……。一幅の絵を見る時も、そのような感動を感じることができる心情が誘発され、刺激が起きるとき、傑作品だというのです。
(142-274 ~ 275、1986.3.13)

芸術といえば、パリのオペラハウスに行って、大衆の前で歓声を受け、世界の人々が「ああ! 素晴らしい」と言ってこそ、世界的なものだと思いますか。芸術は、生涯を美しくするものであり、生活を美しくするものだと考えなければなりません。子女も芸術的な教育をしなければなりません。夫も芸術的な感情で厚遇することもでき、包むこともできなければなりません。それがもっと素晴らしい芸術だと思います。家庭に愛を美化させることができ、昇華させることのできるものが、芸術のより甲斐のある価値だと思うのです。
(100-138 ~ 139、1978.10.9)

動物世界に小説というものがありますか。小説の内容は簡単だというのです。愛を中心として悲喜劇の連関性を、どのように私達の歴史に適用し、社会に適用し、生活に適用し、未来に適用するのかということです。そこに上手に適用したものが名作です。ほかのものはないというのです。

その次に、自然があれば水が壮観に流れるのですが、永遠不変に流れる水のような愛なので、自然の美しさゆえにいつも美しい園のようだと言い、香りを漂わせる美しい花に例え、私は鳥に例え、蝶に例え……。そのほかに形容詞を付けるものがないというのです。それはなぜですか。それは、それらが私達に刺激をもたらし得る刺激の触覚になれるからであり、刺激を引き起こせる動機になるからです。ですから、そのようになるのです。

すべて愛を中心として、そのようにつづられます。自然をつづり、川をつづり、山をつづり、木をつづり、鳥をつづり、石をつづり、太陽をつづり、月をつづり、星をつづり、すべて愛を中心としてつづり、神様の愛を素晴らしく描き出すのです。それが名作小説だということです。

そのような形容詞の妙味、美しさに対する構成がいつでも連関性をもって描かれたそのような作品でなければ、おもしろくないのです。1ページだけ見れば、すべてほうり投げてしまいます。これを見るとき、文学が最も中心主流とするものは、愛に関する美化なのです。それを夢見ていることを、私達は知ることができます。そして、詩というものもそうです。詩の表現も同じです。それを圧縮させ、愛を中心とする幾つかの言葉で表示するのが詩です。ですから、青少年たちが詩的感情に酔い、文学的感情に酔うのです。このように愛を扱うのです。
(94-60、1977.7.3)

様々な言語を話すあらゆる国の人々が、そのすべての感情を一瞬のうちに表現できるものとは何でしょうか。それは文学にもできません。芸術にもできません。唯一、歌だけがそれを表現できるのです。歌は、たとえ短くても、そのすべての情緒的内容を抱くようになる時は、どのような人の心でも、一瞬のうちに動かせるのです。

私達が歌うとき、どのような歌が一番良いでしょうか。この宇宙の中心であり、最も価値のある高貴な中心存在を称賛できる歌は、中心に従ってその周囲に包み込まれているすべての万物が、深刻に聞きます。日が暮れながら夕焼けになる、そのような姿を胸に入れて天を称賛すると考えてみなさいというのです。神様がそのような心を感じたなら、どれほど感動されるでしょうか。皆
さんが歌を歌えば、歌それ自体を歌うのではなく、深い世界、作曲し、作詞した人の境地に入っていってそれを称賛することができ、神様の位置で歌を歌ってみなさいというのです。

歌の中には、楽しい歌、悲しい歌があります。楽しい歌は喜ぶとき、その心全体の喜びの園を広げ、自然と共に、この天と共に和動するのです。それがどれほど素晴らしいですか。悲しい歌は何ですか。胸を開き、この世のすべての悲しみを溶かして掃除するために悲しい歌を力いっぱい歌うのです。それがどれほど素晴らしいですか。人間には歌が必要であり、その次には踊りが必要です。芸術が必要なのです。美、美しさを表現する芸術とは何でしょうか。小さな精髄を中心として、すべての内容と形式を表示するものとなる時は、誰もがそれを見つめるようになり、新しいものを感じ、感動することができるのです。これが芸術の力だというのです。
(270-10~11、1995.5.3)
②調和

―宗教経典―

音楽は天地の間の(自然の)和合作用を代表するものであり、礼儀は天地の間の秩序を代表するものである。天地の間に和合作用があるから万物はみなし、秩序があるから万物それぞれの地位や機能を保ち得るのである。

また、音楽は天(の陽気)に基づいて作られ、礼儀は地(の陰気)に基づいて定められるのであって、……即ち天地(自然)の道を明らかに知る者にして、始めて礼楽を正しく用い、その効用を盛んに発揮させることができるのである。
礼記19 (儒教)

音楽は混沌から秩序を創造する。事実、リズムは互いに異なるものに合意点を付加し、メロディは連結されていないものに連続性を付加し、調和は不条理なものに適合性を付加する。それで、混沌は秩序に降伏し、騒音は音楽に降伏する。
私達は、音楽を通して、幾何学的であり数学的な比例の根本的関連性におかれている、あの偉大な宇宙的秩序に参与するように、単純な反復に提供される方向、諸要素の増殖にある力、そして無作為的連合にある目的に参与するようになる。
ユーディ・メニューイン

真の詩、完璧な詩は、相対となるものたちの調和にある。それゆえ、例外が規則を立証し、自然に存在するすべてのものが芸術として存在することを大声で、特にここで語るべき時間である。
ビクトル・ユゴー


―み言選集―

相対圏をもつことができなければなりません。男性と女性の二人が喜ぶ場合に、天地の調和が出てきます。文学や芸術というものは何ですか。男女の愛を中心として描くのです。その実体を求めていくために慕うのが文学です。芸術は、愛を中心として美しく、美化させたものです。
(354-21、2001.9.16)

自分がいつでも相対的な立場に立っていなければなりません。そのような観念が常に自分の心の中に刻まれていなければならないのです。いつもそれを考えなければなりません。舞踊家が踊りを踊るように、いつも芸術の美を表そうとする心をもたなければならないのです。

自分自体が常に相対的な位置を維持し、神様の懐に抱かれ得る基準をもっていなければなりません。その基準で美男美女が決定されていきます。例えば、愛は動的であり美は静的です。動と静かあって調和を成すのです。(15-171、1965.10.7)
「ああ、歌が本当に上手だ」というのは、よく調和しているということです。高いところに上がっていって、「ああ、もっと上がっていかないのか」と思っていては止まってしまいます。さっと越えて下がってくるようになっています。

それがなければ大変です。ソプラノが好きだという人も、上がっていってばかりいれば大変なことになります。上がっていくこともでき、下がっていくこともできるので、ソプラノが良いのです。

世の中の万事がそのようになっています。幸福なものとは何でしょうか。高く上がっていってさっそうと下がっていくことができる、この二つともあるのです。
(98-50、1978.4.9)


③霊感

―宗教経典―

見よ、主は、ユダ族のフルの孫、ウリの子ベツァルエルを名指しで呼び、彼に神の霊を満たし、どのような工芸にも知恵と英知と知識を持たせ、金、銀、青銅による細工に意匠をこらし、宝石をはめ込み、木に彫刻するなど、すべての細かい工芸に従事させ、更に、人を教える力をお与えになった。
出エジプト記35.30 ~ 34(キリスト教)

梓慶(しけい)が木を削り、鐘や太鼓をかける台座の;煤iきょ)をつくった。;狽ェできあがると、これを見たものは、まるで鬼神のわざかと驚いた。そこで魯公(ろこう)は梓慶を引見してたずねた。「お前さんは、どういう技術でこれを作ったのかね」

すると、梓慶は答えて言った。「私は工人にすぎませんから、技術というほどのものはございません。けれども、しいて申しますならば、ただ一つだけでございます。私がこれから;狽ツくろうとする時には、どんなことがあろうとも気を散らして失うことがないように心がけます。そのためには、必ず身心を清める斎(ものいみ)をして、心を静めます。斎をして三日たちますと、殿様からいただくほうびや爵位俸禄のことを考えなくなります。

斎をつづけて五日たちますと、評判のよしあしや仕事の巧拙などを思わなくなります。斎をつづけて七日たちますと、ぼうぜんとして自分の手足や身体があることさえ、すっかり忘れてしまうようになります。もうこの時になりますと、役所のことなどは念頭になく、ただ細工に集中し、外界のわずらわしさが消え去ります。

そこではじめて山林のなかにはいり、自然の性質や格好のすぐれた材木を捜し求めます。木が見つかりますと、いちおう;狽ェできあがった形を頭の中に描いてみて、それからはじめて細工にかかるしようにいたします。もし、ものにならないようでしたら、初めから手をつけません。一口に申しますと、自然のものを自然の心で取り扱うということです。出来上がった道具が、神わざのように見えるのも、このためではないでしょうか」。
荘子19(道教)

「つまりかれらは、知恵があると思っている人が、しらべられて、そうでないことになるのを、聞いているが、おもしろいからなのです。たしかにおもしろくないことはないのですからね。しかし、私にとっては、それは、私の申し分どおり、神によって、なせと命じられたことなのです。それは神託によっても伝えられたし、夢知らせによっても伝えられたのです」。
プラトンソクラテスの弁明22(ヘレニズム)

私が最も鼓舞された雰囲気にいるとき、私はより高い水準の自我が関連した明確な霊感のビジョンをもつ。そのような瞬間に私は、あなたと私、そして万物たちが生成される無限で永遠なエネルギーの根源をたたいていることを感じる。宗教はこれを神と呼ぶ。リハルト・シュトラウス
あらゆる真の創造的な努力の先行条件である、あの恍惚境のような条件にいる間、私はとてもはっきりと印象を受ける。私は、自分がこの振動する力、すなわち全知の存在と一つになること、そして私白身の能力によってのみ制限される限度まで、私がそれを利用できることを感じる。
リヒャルト・ワーグナー

人が享受できる最も美しい経験は神秘である。それは芸術と科学を生む根源的感情だ。
アルベルト・アインシュタイン


一み言選集―

皆さん自体に心と体の愛が開かれるその時が近くに来れば、私自体の感じていることが宇宙に共鳴されるので、その時は文学者になり、小説家になり、詩人になるのです。その時になれば、立体的な世界とあらゆる関係を結びたいと思います。その時は、秋風によって落ちた落ち葉がころころ転がっていくのを見ても、「はははは!」と笑うのです。
(137-232、1986.1.3)

本当に世界的な偉大な学者がいるとすれば、その学者の心情の深みには、自然の心情と和合できる感性があるのであり、自分が研究するその分野以上に随時、連絡される感性があるので、思いも寄らない暗示や幻想や、あるいは夢のお告げのような現象があるのです。そして、これは自分の専攻分野に夢中になっていく、そのような状態でのみ起きる現象です。
(6-341 ~ 342、1959.6.28)

精誠を尽くして自分が神秘的な境地に入っていけば、文章を書いてみなさいというのです。文章を書けば、名文になるのです。そのような境地では、絵を描いてもそうです。自分の手だけで絵を描くのではなく、そのような精誠を込めて、「この手に一人の偉大な画家が来て、私を協助して描く」、そのように精誠を尽くす中で、さっと描けば、感嘆の声が出ます。

それで、良い作品をさっとそこに貼りつけておくのです。そのようなことが起きるということです。ですから、偉大な科学者や偉大な芸術家たちは、必ず霊的に通じます。その人たちは、精誠を尽くしたのでそうなのです。
(100-23、1978.10.9)

創造とは何でしょうか。力の投入、あるいは精神の投入です。さらには心身の投入です。自分の全体を投入するところで、価値のある作品が形成されることを常日ごろ芸術家たちを通してよく見ることができます。精神も投入せず、適当にやって傑作品が出てきますか。精神がまっすぐに立たなければなりません。精神がまっすぐに立たなければならず、まっすぐな精神姿勢に正しい良心を立てておき、その良心と共に体が完全に一つにならなければなりません。ここにすべての力を投入したのか否かによって、作品の価値が決定します。
(77-319、1975.4.30)


④芸術と道徳

―宗教経典―

また詩人たちだが、悪魔にそそのかされた者だけが、かれらに従う。なんじは、かれらがあらゆる谷間にさまようのを見ないか、またかれらは、己れの行わぬことを、口にするではないか、信仰して善い行いにいそしむ者、また多く神を唱念しまつり、迫害された後も自ら守る者は別である。悪を行った者たちは、やがてどんな変遷をたどるかを知ることになろう。
クルアーン26.24 ~ 27(イスラーム)

水が収穫を生むように、歌は心の中に偽善を生む。
バイハキ・ハディース(イスラーム)

アイシャが言うには、詩の主題が神の使徒を告げるものであるとき、彼が言った。「それは、その中の善のものは善であり、悪のものは悪である」。ダラクニ・ハディース(イスラーム)
およそ音楽は人の心情から発するもので、感情が心中に動いて声に表現され、声の変化が一定の型をなしたのを楽音というのである。従って平和の世の音楽が安泰(ゆったり)で和音の気を表わすのは、政治がゆるやかだがらである。

乱世の音楽が恨みや怒りの感情を表わすのは、政治が人心に逆らっているからである。亡国の音楽が物悲しく、憂(うれわ)しげであるのは、人民が苦しんでいるからである。このように、音声や音楽の性質は政治の状況に深く関連するのである。
礼記、楽記(儒教)

いにしえの王者の音楽というものは、万事節度を守るべきものだということを教えたものです。だから音楽には五声の調子というものがあり、遅と速、本と末とが互いに連なって中声(中和)の声に達し、中声に達した後には次第に細く急な音調となり、かくて五声のすべてが細く急な音調になった後には、音をかなでることはできません。
そのとき、わずらわしくて手を動かしてみだりがわしい音を出しますと、人の心をみだらにし、聴覚を狂わせ、なごやかな心を失わせてしまうので、君子は聞こうとはしないものです。何事もこのようなものです。
春秋(儒教)

いかなる種類の感情も、リズムと韻律によって生成される。したがって、人間は、音楽によって正しい感情を感じることになじんでいく。そのため、音楽は性格を形成する力を備え、多様な様式に基づく多様な種類の音楽は、性格に対する影響力によって区別される。

例えば、一つは憂鬱な方向に作用し、もう一つは柔弱な方向に作用する。一つはあきらめるようにしむけ、もう一つは自己調節を、そしてもう一つは熱狂などへ誘う。
アリストテレス(ヘレニズム)


芸術の究極的目的は、人間の道徳意識を増強することであり、さらには、必要であればそれを激昂させることである。
ノーマン・メイラー


―み言選集―

人間は、このような心情の法度を蹂躙したので、今日、心情の世界において無限に募る慕わしさに苦しむようになったのです。ある趣味をもち、芸術を通して、学問を通して、または、地上にある何かの愛の対象を通して、この慕わしさを埋めようとしますが、埋める道がなく、苦しまなければならないのが堕落した人類の実相です。これが歴史的な悲哀であり悲劇です。
(6-348、1959.6.28)

第2次世界大戦で勝利したアメリカの女性たちが、天使長である男性たちを好むのは、男性の中の流れ者の群れを好んでいるのです。俳優たちが世界に宣伝したというのは……。この人たちは、天の前には、びりです。女性たちが、それについていって仕えているのです。それに対することができるのは、終わりの日の天使長の役事です。

レバレンド・ムーンは、芸術の中の芸術、文学の中の文学、理想の中の理想をもってきました。踊りを踊って歌を歌う人たち、ハリウッドの群れたちはフリーセックスに溺れていますが、私達は絶対セックスです。エイズ患者たちがたくさんいます。キーロフバレエアカでデミーで恋愛事件が起き、男女問題が起きてはいけません。アメリカの女性たちと男性たちが滅んでいくのを防ぐためです。
(339-152 ~ 153、2000.12.10)

アメリカに行けば、テレビを通して24 時間映画を見ることができます。アクション映画を見ようと思えば見て、戦争映画を見ようと思えば見て、恋愛映画を見ようと思えば見て、ありとあらゆる映画がすべて出てくるのです。ピンク映画まで出ています。

ですから、青少年たちは、すぐにそこに引き込まれていきます。青少年たちは、思想や伝統的な価値観がないので、直接行動に移すのです。御飯を食べて出ていけば、それをしようとするというのです。

青少年がそれを見て刺激的な面を追求しますが、伝統的にそれを制裁できる環境的な与件もありません。家庭の関心の根が青少年と切り離せない因縁を結んでおらず、先生の教えもなく、自分の国に因縁も結んでいないというのです。

ですから、見るやいなや即座に行動するのです。そのようにしていると、この世界は遠からずそのまま完全に滅亡します。男女が抱き合ったまま一緒に滅亡してしまうのです。また、それも保障できないので、麻薬に酔った人類は、それこそすべて精神の抜けた人になってしまいます。人間として価値のない人間に落ちてしまうというのです。

このような環境をどのように変えるのかということが、私達のような人には深刻な問題です。今後、理想世界を創建しようと主張するのなら、根本に入っていき、

このような世界的な問題を解決しなければなりません。このようなすべてのことを評価して、今後、芸術面を中心として、新しい文化創建の伝統基準をどれくらい早く立てるかという問題が深刻なのです。これが世界を統一するにおて、最も至急な問題です。
(241-197~198、1992.12.26)

芸術を行う心の極致は、一つ一つ手からつくられた作品、もろもろの万物万象を通して無限に喜ぼうとされる創造主、神様の心情世界に到達しようとするのです。与えてもまた与えようとし、ために生きてもまたために生きようとし、条件なく投入しても忘れようとするのが神様の心です。その心情世界の根本は、真の愛です。

被造世界に対する神様の創造理想は、その心情から出発されたのです。芸術の原点は、その心に似たものにあります。したがって、芸術世界は国境があり得ません。特定の理念や理想が道具になってはいけまサん。調和と統一が基本原理です。分裂と葛藤は堕落性の結実です。したがって、作
品世界でも、東洋は西洋を理解し、西洋は東洋を受け入れ、四方性と世界性を備えなければなりません。(316-70 ~ 71、2000.2.9)
9.健康と疾病

人間の体は、明らかに創造主の最高の成果の中の一つである。体は、各部分が均衡をとり、生命の動きを維持する。それは、絶えず相互作用する小さな宇宙と同じである。健康を維持し、疾病と闘う自然の原理によって動く。

しかし、体の驚くべき機能に関し、多くの部分がいまだに神秘として残っている。不均衡や疎通の欠如現象によって、体の細胞と器官の間の相互作用が崩れるとき、その結果として疾病と苦痛が生じる。

すると体全体は、問題が生じた部分を助けるために動員される。この点から、体は宇宙的な道徳律を見せてくれる。すなわち、より大きく重要なもののために生きる生き方、そして、全体が損傷す
る前に、全体は一部分の欠乏を保護する生き方を示してくこれる。さらに、治癒において、心または心理的要素の重要性は、決して過小評価することはできない。
医学は、健康増進のために多くのことを成し遂げ、宗教経典においても、医師の役割が認められている。この節で私達は、医学分野の権威者たち、ヒポクラテス、ガリアン、パラケルスス、そして「黄帝内経」のいくつかの章句を『世界経典』に付加した。

文鮮明先生は、東洋医学と西洋医学、科学的医学と霊的治癒方式のうち、最高のものを利用するようにする総合的治療方式を追求する。私達が長寿しようとすれば、健康に良い食べ物を食べ、きれいな水を飲み、汚染されていない空気を吸い、規則的に運動しなければならない。これに付け加えて、文鮮明先生は、すべての人を愛することを付加する。


①体の治癒力

―宗教経典―

だから、多くの部分があっても、一つの体なのです。目が手に向かって「お前は要らない」とは言えず、また、頭が足に向かって「お前たちは要らない」とも言えません。それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです。私達は、体の中でほかよりも恰好が悪いと思われる部分を覆って、もっと恰好よくしようとし、見苦しい部分をもっと見栄えよくしようとします。見栄えのよい部分には、そうする必要はありません。

神は、見劣りのする部分をいっそう引き立たせて、体を組み立てられました。それで、体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合っています。一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が
共に喜ぶのです。
コリント人への手紙一12.20~26(キリスト教)
せかいぢうとこがあしきやいたみしよ
神のみちをせてびきしらすに
おふでさき2.22 (天理教)

人間の身体は血液、粘液、黄胆汁、それに黒胆汁をもっている。これらが人の身体の本性をつくり出している。また、人はこれらによって病気になったり、健康を満喫したりするのだ。もっとも健康を満喫できるのは、これらが互いに適切な比率で混じり合い、結合状態、性質、それに量の点でうまくいっており、完璧に混じり合っている場合だ。病気になるのは、これらのうちのどれかが少なかったり、多かったりした場合、そのほかのものと結合できず孤立している場合だ。

どれかが孤立して単独で存在すると、それが存在しない場所が病気になるだけでなく、存在する場所も、多すぎて、痛みや苦しみに襲われることになる。実際、身体からこれらのどれか一つが余分であふれて流れでると、足らなくなって痛みに襲われるのだ。
ヒポクラテス
それぞれの生命体に多くの治癒力を付与した大自然に大いなる感謝を捧げる。
ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ


―み言選集―

私達の人体を見てください。私達の人体の血管や数多くのものは神秘の王宮です。世界に眼科の医師だけでもどのくらいになると思いますか。ここに眼科の医師は来ましたか。世界に眼科の医師が何百万になるか分からないでしょう? 今後、数千万になると言っても、それを「違う」と否定する人はいません。鼻の博士、口の博士、歯の博士がそうであり、耳の博士もそうです。

これからは、手の爪の博士もいるのであり、細胞の博士も出てくるでしょう。無尽蔵です。真理の宝庫です。このような莫大な宇宙全体を総合したものを代表できる相応的相対体の内容を、私の一身に備えた存在は、小宇宙だといっても誰も否定できず、神秘の王宮なのです。
(203-327、1990.6.28)

このすべての四肢五体は、主体と対象の関係で円満に授け受けできる和合した一つの総合王国です。そのようなすべての授け受けする環境圏内にいるときは、宇宙が保護するので痛みがありません。私の細胞1平方センチメートルには、1気圧の圧力がかかっていることを知らずにいます。均衡を取らなければならないのです。

病気になったということは、一部分が欠如したということです。宇宙の本然的基準で見るとき、主体と対象が完全な理想的相対圏を喪失したために、不合格者は宇宙が引きずり下ろすのです。それが押し出す力です。「お前はもう脱落するのだ」というのです。それが痛みとして現れます。これ
は論理的です。
(204-112、1990.7.1)

皆さん、苦しんだことがあるでしょう? なぜ痛むのかというのです。医師にそのように尋ねれば、それを知りません。「痛むから痛むのだ」と言うのですが、そのような話がどこにありますか。

なぜ痛むのですか。根本に問題が生じれば痛むのです。それでは、根本とは何ですか。この体を中心として自分の生命を維持するにおいて、すべての肢体が主体と対象が授け受けする授受作用をよくしなければなりません。全体が良く授け良く受ければ、その肉体が円滑に運動して、継続して生存するようになります。

この宇宙は、神様の理想的存在形として良く授け良く受けるものをすべて擁護します。擁護するこの世界の要素の中で、反対要素が発生し、欠如し、一箇所が詰まれば、擁護圏で作用できない不合格者になります。

そのようになるので、その反作用で吐き出すようになるのです。それは、宇宙自体の保護のため
です。世界には作用と反作用があります。その反作用は悪いものではありません。大概悪いものと見ますが、それは大きなものを保護するための作用です。

ですから、見る観が変わらなければなりません。
ですから、おなかが痛ければ、それはおなかを中心としてある主体の前に対象的な位置で授け受けできる回路がふさがったということです。ふさがってしまった分、反対に押し出すようになるのです。宇宙力によって押し出す力がそこに作用するので痛むのです。ふさがったものを開きさえすれば、薬でその門を開きさえすれば回復するというのです。
(165-176、1987.5.20)

病気になると、なぜ痛むのですか。均衡が崩れたからです。均衡が崩れたものは、宇宙力が押し出します。痛くなかったとしても、相克が起きるので宇宙力が押し出すのです。死ぬというのです。なくなります。

良心に呵責を受けること自体が、宇宙力の侵害を受けているという事実を知らなければなりません。そのようなことは、絶対に考えてはならず、行ってもいけません。
(400-113、2002.12.28)


②心の治癒力

―宗教経典―

喜びを抱く心はからだを養うが、霊が沈みこんでいると骨まで枯れる。
蔵言17.22(キリスト教)

激情は骨を腐らせる。
箴言14.30(キリスト教)

あなたは霊魂を除外して肉身を治療しようと試みてはいけません。これは、多くの病に対する治療法がギリシャ人の医師たちに知らされていない理由です。すなわち、ギリシャ人の医師たちは、研究すべき全体に対して無知です。全体がよくなければ、部分は決してよくなり得ないからです……
医師たちが霊魂を体から分離するということが、私達の時代に人間の体を扱うにおいて大きな過ちです。
プラトン(ヘレニズム)

今の人はそうではありません。酒を湯茶を飲むように貪り飲み、万事不規則を常とし、酔っぱらって房事を行い、色欲に耽って精気を絶やさんばかり、はては生命の根源である真元気をも消散しかねないていたらくなのです。

およそ精気に対して満を持すということを心得ず、常に精力を過度に消費し、一時の快楽に耽って生命長久の楽しさに背を向け、日常生活万般にわたって規律性がないために、五十歳になるかならぬかに老衰という憂き目を見ることになるのです。
黄帝内経

 

―み言選集―

それをすべて詩的に消化し、心情で消化するのです。その観念が恐ろしいのです。病気になっても、「ああ、私は病気で死ぬ」と思えば死にます。「病気になったのは私に福を下さるためであり、もっと健康になるためだ」、このように考えれば健康になるのです。もっと健康になるというのです。病気が私を侵犯してから出ていけば、もっと健康になります。
(118-327、1982.6.20)

自分自身で「老いた」と思えば、それで終わりです。そのように思えば、老いた老人のようになるのです。老いた自分に対して、精神が衰えないように仕事をつくってしなければならないと常に考えています。そのような精神的な基台が崩れていないので、健康を維持しながら、どのような困難も越えていくことができるのです。精神力というものは偉大なものです。
(205-91、1990.7.7)

いくら健全な精神をもっているとしても、健康な肉体をもつことができなければ、完全な人になることはできず、それと反対に、健康な肉体を所有したとしても、精神が正しくなければ、正しい人の役割を果たすことはできません。このような事実を認識し、皆さん全員が、心と体の正しい統一を成就していくことができるよう、絶えず精進してくださることを願います。
(271-151.、1995.8.27)

革命家になるためには健康でなければなりません。身体的に虚弱では、革命的任務を遂行することができません。
(203-177、1990.6.24)


③医薬

―宗教経典―

神の従僕たちが治療を行う。神が治療をしてくださるのではなく、病を下さるのではないからである。ただ一つ例外があるとすれば、それは老いることである。
ティルミズィーおよびアブー・ダーウード・ハディース(イスラーム)

良い香りの献げ物と、質の良い小麦粉を供え物として献げよ。余裕のあるかぎり十分に、供え物に油を注げ。その上で、医者にも助けを求めよ。主が医者を造られたのだから。

彼を去らせるな。お前には彼が必要なのだ。医者の手によって病気が治る時もある。医者もまた主に祈り求めているのだ。病人の苦しみを和らげ、命を永らえさせる治療に成功することを。
シラ書〔集会の書〕38.11 ~ 14(キリスト教)

治療師たちは、幻想の中で霊魂たちから医術に関して学んだ。その霊魂たちは、彼らに何をどのように使うのかを話してくれた。彼らの薬物は、常に歯や根である。……彼らは、病を汗、嘔吐、排便、小便、呼吸を通して追い出す。
オグララ・スー部族の伝承(アメリカ先住民の宗教)

ヘクラ(守護霊)は……あなたが奪われた魂を取り戻してくるように助ける。あなたの道を失わないことに対してヘクラに感謝せよ。あなたは病の霊たちを追い出すことができる。彼らの臭いのために、あなたは彼らを知ることができる。あらゆる霊は、独特な臭いを漂わせる。そして、彼らのハンモックにも臭いがしみついている。その臭いは、彼らが皆所持するワトタから出てくる。質のよい幻覚剤は、あなだが、たった今魂を盗んだ霊を見て、その名を語ることができるようにする。「罪のある者は誰々だ」とあなたは考える。そして、あなたに近いヘクラがその霊を追い出すようにする。ヤノマミ族のシャーマンの教え(アメリカ先住民の宗教)
大自然の教訓は、医者が解読しなければならない本である。そのために彼は落ち葉を踏んで歩かなければならない。(注15)
パラケルスス

医者は大自然の助手である。
ガレノス


―み言選集―

医学では、堕落によって生じた肉身の病を治療するだけでなく、東西文化の和合を通して東洋と西洋の葛藤までも治すようになるという次元で、統一思想と統一医学を開発しなければなりません。
東西思想と医学が一つになってこそ、これからエイズのような難病を治すことができるようになるのです。韓国では、医学教育を全く受けていない農村の若い人たちの中に、エイズのような現代医学でも治すのが難しい病を治すことができる特別な治療法を、霊界から教えられた人たちがたくさんいます。ですから、霊的世界の事実を認めなければ、大きな問題が起きるのです。
(287-39、1997.8.10)

薬というものは何でしょうか。相克する天敵が薬です。頭が病気にかかれば、天敵のしっぽを使えば、それが薬になるのです。漢方薬の材料を探してみると、本当におもしろいです。薬というものは、東側で病気が発生すれば、西側の端を治療するのが薬です。(注16)(325-148、2000.6.30)

   <次ページ>

 

コメント

世界経典-13

2020年10月06日 19時35分51秒 | 学習


6.自然保護

キリスト教の聖書において人間の本郷のイメージは、荒野ではなく美しい園である。神様は、人間に保護され、維持され、また豊かな園に育てるよう自然を委託した。

自然保護に関する倫理がこの章句に描写されている。この章句は、苦痛を受けている動物たちの保護、天然資源の適切な管理、絶滅の危機にある動植物たちの保全、適切な量の漁獲高、環境の親和的開発を勧告している。

そして、私達に過度な漁獲量、山林の毀損、水と大気の汚染を避け、自然の均衡を大切に考えることを教える。私達は、度を越えた消費と過度なごみの排出を避けなければならず、自然が恵む環境と調和を成しながら生きなければならない。

しかし、自然に対する責務を立派に遂行できる前提条件がある。私達は、ほかの人間たちと調和して暮らすことを学ばなければならない。「狼と小羊は共に草をはみ」というキリスト教の聖書の預言は、天倫に従って互いに平和に生きていかなければならない人間たちに関する叙述である。

①被造物の保護

―宗教経典―

「知恵ある人は多くの魂をとらえる」(蔵言11.30)とラビは語られた。「この聖句は、ノアに対して語られたものです。ノアは箱舟で手厚く動物たちに食べさせ、世話をしてあげました。動物一匹一匹に特別な食べ物を与え、ころあいに合わせてこれを食べさせました。ある動物たちには昼に、ほかの動物たちは夜にもえさを与えました。ラクダには引いた藁を、ろばには麦を、象には蔓を、だちょうには芝を与えました。いつも動物たちにえさを与えるために忙しく、彼は12 か月間、昼夜きちんと眠ることができませんでした」。
タンフーマ、ノア15a、(ユダヤ教)

アブ・フライラが神の使徒のみ言を伝えた。「道を歩いていたある旅行者がひどく渇きをおぼえ、井戸を降りて水を飲んだ。彼が上がってくると、一匹の犬が、のどが渇いて息を切らせ、濡れた地面を紙めているのを見た。彼は、『この動物は、私くらいのどか渇いて苦痛を受けている!』とつぶやいた。それで、彼はまた井戸を降りていき、自分の靴に水をいっぱいに満たし、それを口にく
わえて井戸を這い上がって犬に水を与えた。神がその行動を見て喜ばれ、彼の罪をすべて許してくださった」。

誰かが言った。「神の使徒よ、そうであれば、私達が動物に良いことをしたことも補償を受けるのですか」「補償されます」と彼は答えた。「おとなしい心をもった存在に水を与えた者は誰であってもそうなのです」。
ブハーリー・ハディース(イスラーム)

願わくばすべての有情たち、虫さえもが誰一人としてサンサーラの生に繋がれぬよう、願わくば私にかれらのすべてを救済させたまえ。
ミラレパ(仏教)


蟻の穴の入り口などに、食物、水、粗糖、穀類を、心堅固である人びとをして、つねに散布させなさい。食事の前後に、餓鬼、蟻、鳥などに、好むままにつねに食物を施与してください。
龍樹宝行王正論249 ~ 50(仏教)

先生は魚釣りはされるがはえなわは使われず、鳥のいぐるみはされるがねぐらの鳥はうたれない。
論語7.26 (儒教)

御身どもに牛の魂は訴えた「だれのために私を御身どもは創造したのですか、だれが私を造成したのですか。私をアエーシュマと暴虐、残虐、それに虐待と暴行がしめつけています。私には、御身どもよりほかに、牧養者がありません。ですから、私にとって、牧養がよきものとみえますように。」

そこで牛の造成者はアシャにたずねた「御身は牛のための裁き人をおもちですか――その支配者たる御身たちが、牧地とともに、牛飼いの熱意をもつくり出されるためにです。不義者どもとともに、アエーシュマをも追い払うべき主としてだれを、御身たちは彼(牛)のために望んでいるのですか。」

彼(牛)にアシャを通して、「牛には抜苦的援助者なし」と返答し給うた。「身分の高いものたちが低いものたちに、どのように対処すべきか、彼らにはわかっていないからであるが、生あるものどものうちで最強なるものといえば、われ(アフラ)がその呼び声に応じ助けをさしのべて赴くところのものである。」

マズダーは企てを最もよく銘記し給うもの。まことになされたことを御心にとどめてくださるよう、そしてまた諸天と諸人によってなされるであろうことをも御心に記してくださるよう。その判決者におわすアフラ――そのかたが望み給うとおりに、してくださるよう。

「マズダーを裁きに促しまいらせるために、わが魂と乳牛の魂となるわれらふたりは、まことに手をのばし、アフラに参進しているところです。不義者どもにとりまかれては、正しい生活者にも生きゆく道がなく、牧畜者にもありません。」

そこで、霊感のなかに秘義を知ってましますアフラ・マズダーは仰せられた。「まことに天則によってのことであるが、全く教え人もなければ裁き人もない。というのは、なんじ(牛)を牧畜者と牧養者とのために造成者は創造したからである。

「『牛に水飼場を、そして飢渇せるものたちにも』――教えを下して聖マズダー一アフラは、アシャと心を合わせて、この酪の蔵言をつくり出し給うたぞ。」「ウォフ・マナフと相たずさえて、ふたりを人間のために大切にしてくれる何者を、御身はおもちですか。」

「このものは、ただひとり、われらの教えに傾聴したものとして、ここで私によってみとめられたるものザラスシュトラ・スピターマです。彼は、マズダーよ、われらと天則とに頌歌を献詠しようと望んでいるのです。どうか、彼に、詞葉の華を頒与し給わんことを。」すると、牛の魂は嘆いた「無力なる飼育者に満足しなければならぬとは、非力なる人の声に――強権をもって支配するものを望んでいるこの私なのに。手をかして彼に助けをざしのべるものは、いつのときにあらわれるのでしょう。」(注12)
アヴェスター・ヤスナ29.1 ~ 9(ゾロアスター教)


―み言選集―

神様を愛することは、自分の足元からです。自分の前にある物を愛し、万物を愛するのです。愛した物を私が生命の要素として吸収するのです。愛するのと同じ、対等な愛で愛してあげなければなりません。

このような愛を知らなければ、愛することはできません。この宇宙というもの全体が愛でできているので、私もそこにぶら下がっているのです。ですから、ために生きてあげれば、天下がすべて私の懐に入ってきます。
(290-129、1998.2.15)

動物世界も言葉が通じるのです。花に向かって歌えば、花はよく育ちます。花の放つ香りもより新鮮になるのです。花も、音楽を好み、芸術を好むのです。
(262-127、1994.723)


昔、牛を使って「えいや、やあやあ」と言って田を耕していた時は、気分が悪い時が多かったのではないですか。そのような時に、「この牛、なぜお前はこうなのか。私がこの一時に使おうと思って、すべての精誠を尽くして育ててきたのに、なぜ言うことを聞かないのか」と言いながら、細い木の枝で容赦なく牛のしりをたたいたりするよりも、(おい、冬の間ずっと休んでいたお前を、
あいさつもせずに春の日に引っ張り出し、よく食べさせもせずに使って、申し訳ない」と言って、牛以上に我慢する心をもって、ジャブジャブと音を立てながら耕せば、天は、むしろその人をより近いと感じるのです。
(127-90、1983.5.5)

被造世界の中心である人間は、神様の愛を願います。また、動物世界の犬も、豚も、馬までも誰の愛を願うでしょうか。人の愛を願うのです。これを知らなければなりません。植物までもそうです。植物たちは動物の愛を願います。
動物の中に最高の存在が人間だとすれば、人間の愛を受けるその動物たちが万物を愛し……。愛も系列的にすべてのものと連結するのですが、これが何かというと真の愛です。

ですから、真の愛の終点に行って、さあっと見下ろせば、あの果てには神様が見え、その次には人が見え、その次には動物が見え、その次には植物が見え、その次には鉱物が見えます。これをとんとんとたたけば、ちゃらんちゃらんと、すべてついていくというのです。
(166-51、1987.5.28)

最初に獲った鯉を放してあげました。そして、お前は愛を通して生まれ、愛のために死ぬのが道理なので、愛する人々のために生きることはうれしいか、死ぬことはうれしいか」という、このような問題を中心として考えてみました。
(93-190、1977.5.29)


魚も雄と雌を解放してあげ、動物を解放してあげるのです。今までのように、自然から捕まえてこのように生きるよりも、主人がいて、捕まえなくても、主人が準備してくれたものを食べて生きていける世の中をつくらなければなりません。
(388-270、2002.8.2)


②保存と持続的発展

―宗教経典―

ムスリムは木を植えたり、地を耕作したりしないが、そこで鳥たちと人、獣が食べて過ごす。しかし、これが正にそれに代わる慈悲である。
ムスリム・ハディース(イスラーム)

大地は真実な者が蜜と草木と果実を育てる所であり、渇いた地に水を与えたり、じめじめした地を渇かす所で幸福を感じる。
アヴェスター、ヴィデーヴダート7.1 ~ 4(ゾロアスター教)

池や沼には目の細かい網を入れ〔幼魚を捕ったり〕させなければ、魚やすっぽんの類はとても食べきれないほどよく繁殖するものです。秋と冬だけしか、斧や木伐りをさせないように〔季節を制限〕すれば、材木はとても使いきれないほどよく繁茂するものです。
かように穀物も魚やすっぽんも材木も使いきれないほど豊かになれば、人民の生活は安定して父母や妻子を養うにも、死者を弔うにも、なに一つ遺憾なくできるものです。これこそ王道政治の手始めなのです。
孟子I.A.3(儒教)

ある日、ホニ・ハマゲルが旅行に出たとき、ある男がいなご豆の木を植えるのを見た。彼に近づいて尋ねた。「この木が実を結ぼうとすれば、どのくらいかかりますか」、その男は答えた、「70 年かかります」。

また尋ねた。「70 年さらに生きて、実を見ることができるという補償がありますか」、その男が答えた。「私はあちこちで大きく育ったいなご豆の木を見ます。私達の先祖が私のために植えておかれたので、私も子孫のために植えるのです」。
タルムード・タアニート23a (ユダヤ教)


ある部族の神聖な輪でも、天地万物の巨大な円を構成する多くのものの中の一つにすぎない。その中で、一人の母と一人の父のすべての子供たちを保護してくれる強力な生命の草花が育つ。すべての生命は神聖だ。

この地の原住民たちは、私達が大地の一部分であり、大地は私達の一部分だということを意識する、その輪の知恵で長く生きてきた。神にとって大切なこの大地を損傷することは――その輪の均衡を揺るがせることは――創造主に軽蔑をうずたかく積み上げて捧げることである。

ゆえに、私達のすべての精誠の心で、私達の孫と孫娘と7代の子孫までのために、大地の均衡を回復させなければならない。
ブラックエルク族(アメリカ先住民の宗教)

主はシナイ山でモーセに仰せになった。イスラエルの人々に告げてこう言いなさい。あなたたちが私の与える土地に入ったならば、主のための安息をその土地にも与えなさい。六年の間は畑に種を蒔き、ぶどう畑の手入れをし、収穫することができるが、七年目には全き安息を土地に与えねばならない。これは主のための安息である。畑に種を蒔いてはならない。ぶとう畑の手入れをしてはならない。
レビ記25.1 ~ 4(キリスト教)

地上に悪を広めることにつとめ、収獲物や家畜を荒しまわる。だが神は邪悪をめでたまわぬ。
クルアーン2.205 (イスラーム)

あなたが町を攻略しようとして、長期にわたって包囲するとき、斧を振るってその町の木を切り尽くしてはならない。本の実は食糧になるから、それを切り倒してはならない。一体、野の木はあなたの前から城壁に囲まれた町に逃げ込む人間なのか。
申命記20.19 (キリスト教)

草木を伐れば波逸提なり。(注13)
波逸提11(仏教)

往昔コーラヴヤ王に善住と名くるニグローダ王あり、五條の枝あり、蔭涼しく、悦意なり、……王の覆ふ所は十二ウオージャナにして、根の〔地に〕入ること五由旬ありたり、果は甘美にして宛も蜜蜂の生蜜如くなりき、……果を守護する人あること無し、されど相互に果を損害せず、しかるに……一人あり、大王の果を飽IVし、枝を折りて去るとは、……王は當来果を生ずることなからしめんと、されば、爾後果を生ぜざりき、
阿含経増支部iii.368 (仏教)


―み言選集―

人間が公害問題をどのように解決するのかが大きな問題です。今学者たちは、オゾン層が破壊されれば、世界人類は太陽の紫外線のために生存できないと言っています。気候の変動が、すべてそのような影響を受けてなされるからです。

早く人類を原始時代のように、山のすそに行って暮らすようにしなければなりません。小便をしても、肥料になればよいのですが、公害にならないようにしなければならないというのです。
(203-56、1990.6.14)

動物も絶滅させてはいけません。すべて私達が育てて公開しなければなりません。このような動物園を造らなければならないのです。展示する動物園であると同時に、生産する動物園を造らなければなりません。昆虫も保護しなければなりません。植物や動物たちの餌だからです。
これを保護して育てなければなりません。世界に種がなくならないように保護しなければならないのです。
(324-118、2000.6.17)

人類が自然を加工し、平準化させて、生存できる基盤をつくらなければなりません。そうでなければ、人類が滅亡します。既に昆虫が死んでいき、魚が死に、獣が死んでいっています。このまま行けば、これから600 年、いや300 年を越えることはできません。そのまま放置すれば、人類は滅亡するというのです。
(326-152、2000.7.7)

これからは、私達が魚を家で育てて送り出すのです。鶏を育てるのと同じように、養殖して、海にたくさんの種類の魚を送らなければなりません。送ってあげて、愛してから、捕まえて食べるのです。愛を受けた万物は、主人に報いるために、命を生きた祭物として奉献するのです。それで、これからは、捕まえるよりも育てて開放しなければなりません。
オキアミは高品質のたんぱく質をもつているので、万物を育てる資源になるのです。すべての動物の子に食べさせて生かし得る飼料になります。それは、人類のための飼料です。万物のための飼料として、私達が供給していかなければなりましせん。

それで、このようなことを計画することによって、海から人類の食糧問題を解決するのです。人類の食糧問題を解決する道は、この道しかありません。
砂漠地帯にも、パイプを埋めて養殖場を造ることができます。アラスカにある石油をアメリカの本土まで何千万里を運んでいくのと同じように、海水をどこにでも、また淡水をどこにでも運べるのです。淡水をそのようにしようとすれば、アマゾン川しかありません。

これを世界に送り、砂漠地帯でも養殖をするのです。魚を愛で育てて、食べて暮らすのです。そこに同伴して、砂漠に養殖場を造れば、そこで水草をいくらでも育てることができます。今、陸地がだんだんと砂漠に変わっていっています。その反対に、人工的に養殖場を造り、養殖場を中心に海洋の水草を育て、陸地の樹木と合わせて、いくらでも栄養素をつくり出せると思います。私達がやろうとしている養殖は、一つの分野だけではありません。大砂漠でも養殖することができるのです。食糧を無限につくり出すことができます。
(324-114 ~ 115、2000.6.17)

ローマクラブの研究は、世界の資源と環境の限界を明確に指摘し、このような世界的な諸問題に対する妥当で完璧な解決のための汎世界的接近と協働的努力が、絶対に必要であることを明白にしました。

このような諸問題は、世界のあらゆる民族に献身的態度と協力を求め、ある社会や国家の利益を超越する世界観を必要とします。そのような協働精神は、全人類が同じ人間家族の構成員だと自らみなす時にこそできるものです。
そのようなイデオロギーに対する人間のこの革命的な変化は、今日、人間の生存のために長い間必要だったのであり、また、それは必須、不可欠のものなのです。
(74-108 ~ 109、1974.11.22)

③エデンの園の復帰

―宗教経典―

主なる神は人を連れて来て、エデンの園に住まわせ、人がそこを耕し、守るようにされた。
創世記2.15 (キリスト教)

主なる神が最初に人間を創造され、彼にエデンの園のすべての木を見せてくださって語られた。「私の作品を見よ。これはどれほど美しく、素晴らしいか!あらゆる被造物は、私がお前のためにつくったのだ。ゆえに、これらが滅びることがないよう、注意深く世話をしなさい。お前が滅ぼせば、お前に代わって復旧する者が誰もいない」。
伝道の書ラッバー7.13(ユダヤ教)

太古の時代には、民は家にいても何の仕事をしてよいか知らず、外出しても目的地を知らないという、無知そのもののありさまであり、ただ食物を口にほおばって楽しみ、腹鼓をうって遊ぶという生活を送っていた。
民にできることといえば、これがすべてであった。至高の徳が行なわれた世では、人びとは鳥獣と同居し、万物と区別なく集まりすんでいた。あらゆる差別がなかったのであるから、むろん君子と小人との差別を知るはずもなかった。

すべてについて分別がなく、無知そのものであり、その心の徳は自然から離れることがなかった。すべてについて差別がなく無欲であり、このような状態にあることを素朴というのである。素朴の状態にあってこそ、人間の本性が完全性を得るのである。
荘子9(道教)

狼は小羊と共に宿り、豹は子山羊と共に伏す。
子牛は若獅子と共に育ち、小さい子供がそれらを導く。牛も熊も共に草をはみ、その子らは共に伏し、獅子も牛もひとしく干し草を食らう。


乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ、幼子は蝮の巣に手を入れる。私の聖なる山においては、何ものも害を加えず、滅ぼすこともない。水が海を覆っているように、大地は主を知る知識で満たされる。(注14)
イザヤ書11.6 ~ 9(キリスト教)


―み言選集―

私達の世界は、深刻な環境危機に直面しています。環境汚染と自然破壊は、神様が創造された美しく神聖な世界を冒涜するのと同じです。真の愛のない人は、自然世界を単純に利己的な利用物とばかり考えるだけです。

堕落がもたらした深刻な結果の一つは、アダムとエバが神様の真の愛を相続できなくなることによって、人々や動植物や地を正しく愛することができなくなったことです。

万物は、人間の真の愛を待ち焦がれています。私は、南米で理想社会の建設とともに、人間が自然と正しい愛の関係を結ぶよう、一つの模範を見せてあげようと思います。
(271-75 ~ 76、1995.8.22)

自然を愛することができてこそ、人を愛することができるのです。再びそうしなければなりません。復帰なのです。復帰。アダムが万物を愛せなかったので、万物を愛さなければなりません。郷土に帰って自然を愛さなければなりません。近所の草からあらゆる山川草木に至るまで、すべてを愛さなければならないのです。すべてを愛してから人を愛するのです。山川草木、動物まで、すべて愛することのできる立場に立ったならば、その基盤の上で人を愛するのです。
(175-32、1988.4.6)

この地上が荒廃していくのを防がなければなりません。毎年砂漠が増えています。木がないからです。私達統一教会は、神様が創造したように、種といこう種はすべて手に入れ、根という根はすべて手に入れ、枝を切って挿し木にしなければなりません。そしてこの地上に万物を創造した神様の愛を身代わりして植えなければなりません。

国土を保護しなければなりません。国土とは何か
というと、草木があり、動物がいて、それから人間がいなければなりません。これが廃虚になれば、人生は自動的に廃虚の歴史になるのです。

創造理想の目的が埋没せざるを得ない運命におかれているので、私達は神様を愛し、神権の国を愛すると同時に、神様の主権を愛すると同時に、神様の国民を愛し、神様の地を保護し、万物全体を再創造して、神様の創造理想世界の豊かな解放的自然世界をつくらなければなりません。
(304-254 ~ 255、1999.11.8)

7.美しさ

山の威厳、花の微妙な色調、日没の壮麗な落照、草の葉の先についた朝露の輝きなど、美しさは自然の中にあふれている。そこには、形態と色、光と影、音と沈黙の調和がある。調和は美しさの一側面である。調和は、宇宙の構造それ自体にもともと宿っている。

古代人たちは、数学こそ音楽の土台だということを知っていたのであり、今日の科学者たちは、星々の動きと原子の特徴から、「惑星のリズム」に関してより多くのことを学ぶ。さえずる鳥たちと鳴く昆虫たちは、彼らが愛を求めるとき、自然のリズムを歌う。彼らは、自らの中に固有な調和を表現している。

人間の音楽は、それと比較することはできない。人間堕落の不調和状態は、不協和音を出すように運命づけられている。そのような人間が、自然のように調和することさえできたならば!

最上の被造物として、人間は至高無上の美しさを現さなければならない。人々は、歌い、踊り、美しい芸術を創造するが、それ以上に私達は、互いの関係の中で愛を分かち合いながら美しさを発見する。

互いに愛する一組の男女、年老いた父母を世話する親孝行な子女、自分の国の福祉のために犠牲的な努力を惜しまない忠実な市民に、内面の美しさがある。人々がこのような方法で表現する美しさは、また神様を賛美することであり、神様は自分が創造した世界に充満した美しさを見て喜ぶ。このような内的美しさは、霊界で明確に現れる。霊界での美しさは、そのような資格を備えた者たちだけに、満ちあふれて現れる。

①自然美

―宗教経典―

なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。
マタイによる福音書6.28 ~ 29(キリスト教)

神は美そのものであり、美を愛する。
ムスリム・ハディース(イスラーム)

神はなんじらのために、大地を休息所とされ、大空を天蓋となされ、また、なんじらに姿を授けて、みごとに形作りたまい、もろもろの良い給与を支給された方であられる。これがなんじらの主神であられる。よろず世の養育の主神を祝福し奉る。
クルアーン40.64 (イスラーム)

「庇護者」の名をもって知られるのが、永遠の理法で身をまとった女神である。彼女の美しさにより、これらの木々は緑色をなし、緑色の花みをつけるのである。
アタルヴァ・ヴェーダ10.8.31 (ヒンドゥー教)

唯一にして、色相なく、多様なる大龍(シアクティ)を用いて、玄秘なる目的のために、数多の色相(ルーペ)を配分せる神、万物が世界の終わりに散ずるもそれにおいてし、世界の初めに会(あつ)まるもそれにおいてする神かかる神のわれらに清浄なる覚智の賦与したまわんことを。
シヴェーターシヴァタラ・ウパニシャッド4.1(ヒンドゥー教)

私の前の美しい光景よ。
私の後ろの美しい光景よ。
私の下の美しい光景よ。
私の上の美しい光景よ。
私をその中で歩くようにしてほしい。
ナバホ族の歌(アメリカ先住民の宗教)

おまえたちは神が、七天をいかに層また層につくたまえるか、また月をその中の灯明とされ、太陽を輝く光りとなされたかを、考えてみなかったか。
クルアーン71.15 (イスラーム)

それが染み込んだ宇宙の空から、
滞ることなく霊妙な錘を取るのだが、
表現できない壮麗さだ。
アーディ・グラント、ガウリー・スクマニー23.1、M5、p.293 (シーク教)

音楽は天地の間の(自然の)和合作用を代表するものであり、礼儀は天地の間の秩序を代表するものである。天地の間に和合作用があるから万物はみなし、秩序があるから万物それぞれの地位や機能を保ち得るのである。

また、音楽は天(の陽気)に基づいて作られ、礼儀は地(の陰気)に基づいて定められるのであって、……即ち天地(自然)の道を明らかに知る者にして、始めて礼楽を正しく用い、その効用を盛んに発揮させる)ことができるのである。礼記19(儒教)

自然は神の芸術である。
ダンテ・アリギエーリ

―み言選集―

博物館にある、何かの作品がどんなに貴重だと言っても、生きている作品にかないますか。神様の作品であるこの地球星の万物博物館を、誰が神様以上に愛したのかというのです。自分の国の博物館以上に愛したのかというのです。
(175-187、1988.4.16)

昆虫世界を見れば、昆虫世界でも、オーケストラが展開します。せみの声から一度聞いてみてください。「ミンミン」と鳴けば、すべてその拍子に合わせて歌います。現在の有名なオーケストラが問題ではありません。
(285-243、1997.6.5)

私達が森羅万象、自然界を見つめるとき、四季に従って変わる自然現象と時によってすべての万物が和動し、美を現すのを見るとき、私達は無意味な心情で見つめてはいけません。私は、鳥を見たり、蝶や蜂を見たりするとき、流れる水やそびえる峰を見るときも、このすべてが創造された神様の内的な心情の反映された姿だという事実を感じます。私達は、それを感じることができなければなりません。

多くの芸術家がいて、多くの文学者がいますが、あらゆる芸術家と文学者たちは、一様に多くの形容詞を動員し、被造世界、すなわち万物の美を現しています。そして、この自然は、芸術や文学と密接な関係をもっています。

被造世界、すなわち自然を外せば、私達が楽しむことのできる相対的条件が、言うまでもなく減少するという事実を考えるとき、なくてはならない自然であり、感じなければならない自然だということを知ることができます。
(5-343、1959.3.8)

一人孤独に死ぬのですが……。なぜ孤独に死ぬのですか。そのようなときは、庭園に出ていって花を見つめ、香りをかぎながら、「この香りよ、お前はどこから来たのか」と香りと語るのです。
「どこから来たのかも何も、私の祖父母の香りから来た」、このように尋ねてみると、神様から来たというのです。神様が私のためにこのような庭園を装ってくださったのです。このすべてのもの
は、生きている博物館です。生きた命をもつ博物館を私に付与したのが庭園なのです。ピカソの一枚の絵がいくら美しいとしても、生きている一株の草もつくることができません。

「神様の博物館を見物する」と考えてみましたか。ねこやなぎをもって、「ああ、きれいだ。これは誰のためにつくったのだろう」、そのようなことを考えてみましたか。肌寒い春の日、その川辺の氷の下から雪解け水が流れていくのですが、ねこやなぎが花を咲かせます。

それがどれほど素晴らしいかというのです。果たして誰のためにそのように咲くのかというのです。愛する息子、娘が、のどか渇いて氷水を飲みたいと思うとき、拳で氷を割り、その水を飲んでねこやごなぎを見るとき、このように歌を歌うことのできる一つの象徴体としてこのねこやなぎをつくったとすれば、それはどれほど素晴らしいでしょうか。ですから、生活がどれほど潤沢かというのです。愛の博物館を私達が観覧し、そのすべての博物館と語ることができ、友人にできるこのような環境で生きているのです。……このような驚くべき愛の世界と因縁を結ぶために、地上世界に生まれたということを思うとき、なぜ孤独なのですか。
(112-220、1981.4.12)

創造の父よ! あなたの美しさがすべての万物、万象に現れ、あなたのみ手を経ていった形状の上には奥妙さと顕現の美が満ちあふれております。人間に対する創造目的である美を、きょうも休むことなく訪ねていかれるお父様の切ない心を、私が心と体で体恤することができ、あなたの愛に美で対することができるよう許諾してください。
(1-102、1956.6.10)

②人間美

―宗教経典―

花の香りは風に逆らって進んで行かない。栴檀(せんだん)もタガラの花もジャスミンもみなそうである。しかし徳のある人々の香りは、風に逆らっても進んで行く。徳のある人はすべての方向に薫る。
法句経54(仏教)

先生がいわれた、「仁に居るのが立派なことだ。」
論語4.1 (儒教)

村でも、林にせよ、低地にせよ平地にせよ、聖者の住む土地は楽しい。
法句径98(仏教)

霊的力のために、神の脈拍により浄化されることにより、私達は美しいすべてのものを思う。
リグ・ヴェーダ5.82.6 (ヒンドゥー教)
私は主によって喜び楽しみ、私の魂は私の神にあって喜び躍る。主は救いの衣を私に着せ、恵みの晴れ着をまとわせてくださる。花婿のように輝きの冠をかぶらせ、花嫁のように宝石で飾ってくださる。
イザヤ書61.10 (キリスト教)

あなたがたの装いは、編んだ髪や金の飾り、あるいは派手な衣服といった外面的なものであってはなりません。むしろそれは、柔和でしとやかな気立てという朽ちないもので飾られた、内面的な人柄であるべきです。このような装いこそ、神の御前でまことに価値があるのです。
ペテロの手紙一3.3 ~ 4(キリスト教)

事実、音楽には三つの類型がある。第一の類型は宇宙の音楽であり、第二の類型は人間の音楽であり、第三の類型は旋律をつくりだす、ー定の道具によって創造された音楽である。……今、第一の類型、宇宙の音楽は、人間が天それ自体から感知するものから、または元素の構造から、または季節の多様性から……最もよく観察される。それゆえ、この天体の運動で、音楽的転調に対するある固定された秩序があることは間違いない。

今、人間は自分自身を検討することにより、人間の音楽を理解するようになる。ある調和、いわゆる高低の調べが、一つの和音を形成するやリ方で注意深く調律することを除いては、何のために理性の非物質的存在が肉体と連合するだろうか。
ボエティウス

少なくとも徳を得るためならば、そして一段とすぐれた者になるためならば、人も選ばず、事も選ばずによろこんで相手につくそうという姿……何よりも美しい姿だからである。

このようなわけで、少なくとも徳を得んがために愛をうけ入れることは、その事と仕方とを問わず、一切美しいことなのである。この徳を目指しての愛が、すなわち天上{ウーラニアー}の女神に属する愛なのだ。

その愛は、自身も天上的であり、また、都市(くに)個人のいかんを問わず、いずれにとっても、こよなき値をもつものなのだ。なぜなら、その愛は、愛する者は、愛される者をして、徳を目指しつつ、自分自身を気づかうようにせしめるからだ。
プラトン饗宴(ヘレニズム)


―み言選集―

修養の世界での感じはこうです。恩恵を受けた人、神様の愛を受ける人は美しく見えます。愛を受ければ美しく見えるのです。どれほど美しく見えるのでしょうか。光のように見えるのです。ですから、光を発することができます。

これと同じように、すべての存在がそのような光を発するようになれば、ろくでもない人、つまり愚かな人がいないというのです。
(33-88、1970.8.9)

本然の美とは、どのような美でしょうか。それは、ほほえみと歌と踊りで現せる美であり、神様に栄光をお返しできる永遠の価値としての美なのです。本然のエデンの園が、正にこのような美の世界でした。
(2-245、1957.6.9)


愛のめがねをかけていれば、すべて良くないものがなく、悪いものがないのです。いくら器量が悪くても、味があるというのです。おいしい食事もそうです。見栄えが良く、きれいなものは、その中が悪いのです。しかし、見栄えの良くないものは、その中が良いというのです。これは、すべて相対的になっています。

ですから、美人は薄幸でよく変わりますが、かぼちゃのように器量が良くなければ、内的にすべてのものが美しいのです。良心も美しく、見ていて
も美しく、揺れ動かないのです。ですから、いくら女性が世の中を支配しても、女性が完成するには愛を求めなければなりません。これが最も貴重な真理です。
(162-47、1987.3.22)

いくら湖が良くても、汚水がたまっていれば、おもしろくないのです。ですから、汚水の中で青く光るはすの花が咲いているという事実が驚くべぎことです。花が咲いたので、池が生きるのです。一輪の花によって、醜いものになり得る池が美しくなります。人々も、悪なる人の中に愛が残っていれば、美しさが現れるようになるのです。
(354-21、2001.9.16)

いくら女性が美しくても、その美しさだけで目的がなければ、どのようになりますか。筒の中に入っている美しい人形がよいですか。「あなたは、そのような美人になって一日中座っていなさい」と言えば、「ああ!」と言って女性たちはみな逃げていくでしょう。そのように座っているのが、美しさにおいて理想型ですか、あちこち歩き回るのが理想型ですか。

女性の美しさの夢が、男性のところにいって終わるとすれば、それは気分が良いのです。なぜそうなのですか。夢自体が男性ではなく、男性の中にもう一つの何かがあることを知らなければなりません。それは何でしょうか。それが愛です。美しい夢が定着して喜び得る終着点とは何かというと、愛です。
(116-10 ~ 11、1981.12.01)

本当の愛の心で見れば、化粧をきれいにして美しく装ったのと、ひたすら苦労して努力するのと、どちらの女性がより美しいですか。洗濯をして、床を磨き、子供の世話をする、そこに理想郷があることを知らなければなりません。
(129-176、1983.10.30)

あの国には奉仕もありません。どれほど互いに「ために生きる」人生を生きたのかということが問題です。それがあの国の人格の美です。それが愛の完成をなすので、美しさの中の最高の美しさなのです。丸くて美しい形態はありますが。
(307-166、1998.11.8)

あの国の重要な話題とは何でしょうか。調和です。均衡と統一です。何を中心とするのでしょうか。「ああ、私は顔が美しいので、私を中心として調和を成さなければならない!」、そのように言うのですか。

あの国では、いくら美しいことを誇っても、すべての人が「私はあなたより、もっと美しい!」と言うのです。周囲がすべて美しさを備えています。周囲を見ることができなければなりません。そこは立体的に見るのです。
(217-143、1991.5.19)

   <次ページ>

 

コメント

世界経典-12

2020年10月06日 19時32分40秒 | 学習

4.小宇宙と大宇宙

人間は、小宇宙として、その中にあらゆる宇宙の本質を凝縮してもっている。逆説的に言えば、宇宙全体は、大宇宙の中の人間に似た存在である。

世界の宗教の諸経典は、このような洞察を神話的、哲学的な言語で表現する。空間と時間のすべての流れの中で、小宇宙としての人間は、被造万物すべてを把握し、使用し、喜び、楽しむことのできる根拠をもっている。あらゆる被造物の中で人間は、最も広大な思惟と行動範囲をもち、すべてのものを包括し、すべてのものを知って評価し、すべてのものを導いて豊かにし、また、すべてのものを超越する。

文鮮明先生の教えのように、小宇宙である人間は、宇宙を愛し、宇宙を保護しなければならない責任をもっている。大宇宙と小宇宙が相応する源泉とは何か。ウパニシャッドとその他の神秘的経典は、原初的人間、すなわちプルシャ、またはメタトロンが創造以前に存在し、それに形態を付与した宇宙的人間を描写する。文鮮明先生は、創造前、神様の心の中にある創造のモデルである宇宙的人間の「原型」を語る。それを創造の始発とし、宇宙創造の過程で低い段階から高い段階の自然のあらゆる諸要素は、それらが創造されるとき、人間において人間を構成する要素として再結合された。さらには、それは、霊界を一人の巨大な人間をモデル化した姿で描写する。

―宗教経典―

聖なる神が世を創造されるが、そのあらゆるものを人に似せてつくられた。
タルムード、アヴォート・デ・ラビ・ナタン31(ユダヤ教)

一切万有が私の中から起き、三界がまた私の中から起き、私によってこのすべてが広がっていくがゆえに、この世はそれ以外の何者でもない。
呼金剛8.41 (仏教)

自身の内密な自我を知る者は、また一切万有の宇宙を一つ残らず知り、一切万有の外部世界を知る者はまた、自身の内密な自我を知る。
アーヤーランガ・スッタ1.147(ジャイナ教)

そもそも人間は天地二徳の和合、陰陽両性の交通、諸神諸霊の協力、五行(木火土金水)の最良の精気の配合によって、作り出されている。(注6)

天は陽性を備えて日や星辰を空に列ね、地は陰性を備えて山野川海を形成する。また天は五日を用いて四時を巡らしめ、季節の動きに応じて月は満ち、また欠けるようにしたから、そこで月は十五日で満ち、十五日で欠け尽きるのである。

なお五行の四時における作用は互いに受け継いで消長する。……五行や四時や十二箇月などの変化や進行においては、すべて諸要素が相互に本末となって作用するようにしくまれているのである。

また五声・六律・十二管などの楽音の階梯や調子の上下などにおいても、やはり諸要素が相互に本末となって変化を示すように、しくまれているのである。また、五味・六和・十二色などの、飲食の味も、やはり諸要素が相互に本末となって変化を呈するように仕組まれている。

このほか五色・六章・十二衣などにおいても、やはり諸要素が相互に本末となって、変化を見せるように、しくまれているのである。
礼記7.3.1 ~ 7(儒教)

天地(あめつち)の初めにはただ自我(アートマン)のみがあった。その他に眼を開けているものとては何物もなかった。かれ自我は「何とかして種々(いろいろ)の世界(ローカ)を創ってみよう」と考えた。そして、これらの世界を創った。
天水、光塵、死、地水等の世界である。

天水の世界は光天の上にある。光天はそ(天水)の基底をなしているのである。光塵の世界とは中空界である。死の世界とは地上界である。地水の世界は大地の下にある。

かれ自我は考えた。「今や世界は成った。今度は世界の守護神達を創ろう」彼は水の中から材料を取り出して、これを一個の人間の形に固め上げた。(注7)彼はこの人間を温めた。すると、卵を温めた時のように、それが裂けて口腔ができた。口腔から語が生じ、語から火が生じた。同様にふたつの鼻孔ができた。

鼻孔から気息が生じ、気息から風が生じた。次に眼窩ができた。眼窩から眼(感官)が生じ、眼から太陽が生じた。次に耳孔ができた。耳孔から耳(感官)が生じ、耳から方位が生じた。次に皮膚ができた。皮膚から毛が生じ、毛から草木が生じた。

次に心臓ができた。心臓から意が生じ、意から月が生じた。次にへそができた。へそから吸気(アパーナ)が生じ、吸気から死が生じた。次に陽根ができた。陽根から精液が生じ、精液から水が生じた。


これらの諸神(火、風等)は生まれ出るや否や、かの大海の中へ落ち込んでしまった。彼(自我)はこれ(大海)に飢と渇とを混じた。それで諸神は困って彼(自我)に向かって「われらが安心して食物を食べられる棲処(すみか)を造って下さい」と歎願した。

彼(自我)は彼等の為に一頭の牛を牽(ひ)いてきたが、彼等は「われらにはこれは充分でありません」といった。そこで彼は一頭の馬を牽いてきたが、彼等は「われらにはこれは充分でありません」といった。そこで彼は人間(プルシャ)を伴(つ)れてきた。すると神々は「これは実にみごとにできています」といった。人間は実際みごとにできている。彼(自我)は神々に「各自の棲処
へ入れ」と命じた。

ここにおいて、火は語となって口腔に入り、風は気息となって鼻孔に入り、太陽は眼(感官)となって眼窩に入り、方位は耳(感官)となっで耳孔に入り、草木は毛となって皮膚に入り、月は意となって心臓に入り、死は吸気となってへそに入り、水は精液となって陽根に入った。……

彼(自我)は考えた。「我がおらねばこれ(人間)はどうなるだろうか?」次に、「どの部分から入ることにしようか?」と考えた。彼はまた、こうも考えた。「談話は語(発声器官)によってなされ、呼吸は鼻によってなされ、視は眼によって、聴は耳によって、触は皮膚によって、静思は意によって、吸気は吸息によって、射精は陽根によってなされるとき、我はそもそも何者であるか?」

彼(自我)は顱頂を闢(ひら)いて、これを門として体中に入った。この門はヴィドリティ(裂け目)とよばれる。(注8)
アイタレーヤ・ウパニシャッド1.1 ~ 1.4、3.11 ~ 3.12(ヒンドゥー教)

人間の形態は、世界の構造で造られた。さらには、天の材料を利用して造られた。
ヒルデガルト・フォン・ビンゲン道を知れ(キリスト教)

人の体を見れば、頭が大きく丸いのは天の形に倣ったものである。頭髪は星の位置に倣ったものである。耳と目がずれているのは太陽と月に倣ったものである。鼻と口が呼吸するのは風と雲に倣ったものである。心の中に知恵を悟るのは(天の)神明に倣ったものである。
董仲舒・春秋繁露56、(儒教)

 

―み言選集―

人は大宇宙の縮小体です。皆さんは小宇宙です。大宇宙は何ですか。大宇宙は被造世界です。大宇宙の源泉は力の源泉です。それが神様です。私は、大宇宙の前に立った一つの小宇宙として、大宇宙の絶え間ない力の源泉となるその力が私の心に入ってくることによって、この大宇宙と相応する相対の価値をもっているのです。
(121-193、1982.10.27)

私達人間を小宇宙と言いしました。体は地を象徴し、心は理念を象徴し、霊は天を象徴するのです。
(8-78、1959.11.8)

私が崩れる日には、私を中心とする天の因縁が崩れるのであり、地の因縁が崩れるのであり、世界、あるいは氏族と家庭のすべての因縁が崩れます。それで、人をして天と地を代表する小宇宙と言うのです。(注9)
(8-10、1959.10.25)
皆さん、この手も三つの節になっているでしょう? そして、腕も三つの部分でできています。私達の体全体を見ても、頭と胴体、そして足、このように三つの部分になっています。腹中にいる赤ん坊は、大概手を握って育ちます。

神様は二性、すなわち二つの性稟をもっているとお話ししたように、親指は神様を象徴するのです。ですから、宇宙の中心である神様を象徴するのです。また、4本の指は東西南北を象徴し、春夏秋冬を象徴します。そして、4本の指の三つの節は12 の月を象徴するのです。

ですから、私達人間を小宇宙と言います。たとえ小さくても、人体の構造にはこの宇宙万象のすべてのものが入っています。私達の心臓の構造を見れば、根と同じであり、肺の構造を見れば、木の葉と同じです。私達の人体構造は、木の幹や茎が入っているのと同じです。このように、私達の人体は、この宇宙万象を代表する小宇宙だということを知らなければなりません。
(54-97、1972.3.20)
なぜ自分が生まれたのでしょうか。この大宇宙と拍子を合わせるために生まれました。大宇宙と拍子を合わせるために生まれたということです。それで海の波がザブンザブンと音を立てれば、自分の心もザブンザブンと音を立て、風が気分良く吹けば、自分の心も気分が良く、花が咲いて香りを放てば、自分の心も香りを放てるというのです。どれほど気分が良いかというのです。
(104-123、1979.4.22)

「私」という存在は、いったいどこから生まれたのでしょうか。皆さんを小宇宙だといいました。「私」はこの地球星の縮小体です。宇宙の縮小体です。

皆さんの体には、地球がもっているあらゆる元素がすべて入っています。ですから、宇宙が加担しています。そのような私を誰が造りましたか。宇宙が造りました。宇宙の元素を借りて私が形成されたのです。それは、宇宙が私を生んでくれ、造ってくれたということです。
それで、私に父母がいるとすれば、宇宙が第一の父母です。ですから、私という存在は、このすべての宇宙の元素を総合した実体です。「私は動く宇宙であり、活動する宇宙だ」というのです。

また、「私は自由に行動することができる。往来できる。あなたたちは固着しているが、私は活動する宇宙だ」というのです。ですから、「あなたたちは、私にぶら下がっている。あなたたちもそれを願うだろう?」と尋ねてみれば、「うん、うん」と言うのです。
(105-106、1979.9.30)

霊界に行ってみれば、霊界全体が一人の人間に見えます。全体が一人の人間に見えるのです。それで、主体である神様とこの全体、大きな一人の人と一つになります。そうすると、全霊界と肉界がすべてとろとろに溶け合います。神様が走れば地も走り、神様が笑えば地も笑い……。そのようになっています。

それはどういうことですか。皆さんは、どのように中心になれますか。私とこの細胞を見てみれば、すべて連結されています。指の細胞を見るとき、その細胞がすべて私にぶら下がっています。そのような意味の中心だというのです。

私の手の先を見るとき、手の先は私と一対一です。すべて私に留まっています。人間が宇宙の一番の中心になるという話が理解できますか。一つの細胞のような立場で相対するとき、中心的資格をもつことができるのです。

この細胞を通っていた血が足の底の細胞を通っていた血に、「ああ、頭のほうに来るな」と言うことができますか。このような境界線がありますか。頭のほうに来るなという境界線がありますか。

そのような意味で、黒人、白人、黄色人のような区別はありません。皮膚がこれは白く、これは黄色く、色がすべて違います。だからといって、「ああ、お前は私とは違うから別種だ」(注10)、そのように言えますか。霊界に行ってみれば、一人の人間のように組織ができていることを知らなければなりません。聖人たちは目の役割をして、耳の役割をして、においを……。霊界がそのようになっています。そのような理想をもったのなら、地獄が問題ではありません。神様が見るとき、いつも化膿して膿が出て、足が不自由になる、これを願うでしょうか。願いません。
(91-280、1977.2.27)

天地が調和するとき、この天地、大宇宙の主体と対象が喜ぶのですが、これが私達人間生活の家庭を中心として結ばれるのです。これがこの宇宙の核になっています。

女性は愛です。男性は大きいですが、女性には愛が入っているので、女性を無視することはできません。いくら太陽が大きくても、地を無視するこ
とはできないのです。互いに授け受けするところから、天地のあらゆる喜びと、あらゆる完成が成立します。ですから、これを大きく見れば、この宇宙の太陽系を縮小し、このすべての動植物界を縮小したのです。
ですから、すべてがペア・システムになっています。調べてみれば、鉱物界、植物界、動物界も、すべて主体と対象のペア・システムになっています。これが天のすべてのペア・システムを代表した一つの核だというとき、センターが争えばどのようになりますか。

皆さん、男性も女性も、宇宙の中心になりたいと思うでしょう? 動物もそうでしょうか。この太陽系がそのように思うでしょうか。そのように考
えてみれば、そのようなことは人しかないというのです。
(216-159、1991.3.10)


5.被造世界の主人

人間は自然界の一部であると同時に、被造世界の主人として独特な地位をもつ。キリスト教の聖書で、アダムとエバは万物の主管主として祝福を受けたのであり、クルアーン(コーラン)は各自に、神様の「代理人」の地位を付与した。

これはまた、神様は人間の豊穣のために、すなわち、生育し、繁殖するのに必要なすべてのものを提供する土台として、自然界を創造したということを意味する。それにもかかわらず、大地を汚染させ、自然を破壊し、人為的な環境を改造しながら神様が許諾していないことをするということは、本当の主管の祝福ではない。

自然主管の委任が初めて与えられた農耕社会において、人間の創造性は本質的に自然の盛衰と調和を成すものとして現れる。その上に、人間が自然を利用する場合、万物に対する愛を実践し、自然の豊穣を増進するために創造性を発揮するとき、初めて人間は、被造世界の本当の主人となる。
自然に対する人間の主管権は、規模や力の問題ではない。その物差しで見れば、人間は地球上でとても小さな一点にすぎず、地球もまた、広大な宇宙の中で一点にすぎない。

それは、むしろ人間の固有な霊的資質に起因する。人間だけが神様を求める。そして、人間だけが自分自身の理想を追求し、より良い世界を熱望する。これこそ、人間がほかの動物たちとの違いをもった存在でいられるようにするのである。宇宙の創造者を知り、彼と親密な関係をもつという点において、人間は潜在的に全体被造世界よりもっと貴重な価値をもっている。

人間は、このような栄光を享受する資格があるのか。文鮮明先生の教えのように、人間は創造主の満ち足りた愛を受け、神様の代身として被造世界を愛さなければならない。そのとき人間は、神様と自然界をつなぐ橋となる。神様は、人間を通して被造物を愛し、人間を通して全体世界を完全なものにする。

①万物の主管権を賦与された人間

―宗教経典―

神は彼らを祝福して言われた。「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。」
創世記1.28 (キリスト教)

まことにわれは、地上に代理者を置くであろう。
クルアーン2.30 (イスラーム)

なんじらは思わないか、神は天にあり地にあるよろずのものを、なんじらの入用のために、奉仕させたまい、また外面と内面の恩恵を全うしたもうではないか。
クルアーン31.20 (イスラーム)

あなたの天を、あなたの指の業を、私は仰ぎます。月も、星も、あなたが配置なさったもの。
そのあなたが御心に留めてくださるとは、人間は何ものなのでしょう。
人の子は何ものなのでしょう。あなたが顧みてくださるとは。神に僅かに劣るものとして人を造りなお、栄光と威光を冠としていただかせ、御手によって造られたものをすべて治めるように、その足もとに置かれました。
詩編8.4 ~ 7(キリスト教)

神こそは、天と地を創造され、天から雨を降らせ、これによって果実を実らせたまい、なんじらのため給養される方であられる。また船をなんじらに操縦させ、かれの命によって、海を航行させたまい、また川をなんじらの用に服させたもう。

またかれは、日と月をなんじらに役立たせたまい、両者はその軌道を追う。また夜と昼をなんじらの用に役立たせたもう。またかれはなんじらが求めるすべてのものを授けたもう。たとえ神の恩恵を数えたてても、なんじらはそれを数えとおせないであろう。人間は、まことに不義であり忘恩である。
クルアーン14.32 ~ 34(イスラーム)

主なる神は、野のあらゆる獣、空のあらゆる鳥を土で形づくり、人のところへ持って来て、人がそれぞれをどう呼ぶか見ておられた。人が呼ぶと、それはすべて、生き物の名となった。
創世記2.19 (キリスト教)


―み言選集―

天地万物を創造された神様は、全被造世界の主人公として人間を造られました。
(323-165、2000.6.1)

理想の世界は、創造の目的が実現されなければならない世界であり、神様に似なければならない世界なので、人間は、常に愛に満ち、調和し、平和な生活を願っているのであり、いつも新しいものを創造しながら環境を改善していくことを願っているのです。

創造は、単に製造だけを意味するのではなく、創意的な活動全体を意味するのであり、常に新しいものを創案し、計画し、改善し、生産するなどの活動すべてを意味するのです。

ところで、神様は統一的存在なので、人間も統一的でなければならず、社会生活も統一的でなければなりません。愛しながら創造し、創造しながら愛する統一的な人間、統一的な世界にならなければなりません。今日まで人間は、輝かしい科学的発展を成し遂げることによって、創造的生活においては神様に似たということができますが、愛の生活においては、まだ全く神様に似ることができずにおり、そのために悲しみと苦痛と不幸が継続しています。

愛は調和なので、愛がないところに調和はあり得ず、調和がないところに平和や幸福はあり得ないので、ここで数々の悲惨な光景が展開するよう
になるのです。
(65-259、1972.11.26)

道人とはどのような人でしょうか。一握りの草をつかんでも、「神様!」と言うことができる心情で、その価値を自分の価値と同等に認識できる人が最高の道人です。そのようにその価値を謳歌できる人が最高の芸術家です。

色とりどりに存在する万象を見て、神様の色とりどりの愛と心情の妙味を発見し、それらのものと友達となり、共に楽しめる感情をもった人がいるとすれば、そのような感情で細胞の一つ一つが動く人がいるとすれば、その人は万宇宙を代表することができる人であるはずです。そのような人が万物の霊長です。ところで、食べることしか知らない人が万物の霊長になれますか。

ですから昔、聖フランシスのような人が、動物を見て、あるいは鳥を見て説教したというのも、うそではありません。夢のような話です。しかし夢ではなく事実です。
(9-166 ~ 168、1960.5.8)

真の愛は、人間だけではなく、すべての万物も願います。それで、万物の霊長である人間は、神様がつくられた傑作品を抱き、愛するだけでなく、すべての万物に愛することを教えてあげなければならない責任があることしを知らなければなりません。万物たちは、このような主人を求めています。このような基準に私達自身を照らしてみながら、自らを恥ずかしく思うことができなければなりません。
(300-222、1999.3.14)
神様は、どうしてアダムとエバのような形を必要とするのでしょうか。万物は形状的な形をもっていますが、神様は無形の存在です。神様はどのような形ももっていません。大きいと言えば無限大です。小さいと言えば無限に小さい方です。

そのような方がどんな標準的な形を形成し、形体を現したとしても実体をもった万物は、その神様に直接主管されません。ですから実体をもった被
造世界においては、実体をもった主人的人格と形を備えた存在がなければならないのです。

神様は、地上万物の主管だけではなく、無限な霊界も主管しなければなりません。天使長や様々な形体をもった実体、そして無形の実体までも主管するにはその中心的タイプ、すなわち形状が必要です。それで神様は、アダムを創造されたのです。

アダムを中心に霊肉両面の世界、無形実体世界と有形実体世界を主管しようとされるのが神様の人間創造の目的です。したがって一つの人格的実体と関係を結ばなければならないので、アダム完成とともに神様の形状完成、すなわち形が完成するのです。神様はアダムを造られる時、彼の形態、人相、人格などが無形世界の中心にいらっしゃる神様のような姿にならなければならない、という考えをもってアダムを造り出されたのです。形がなければ形の世界を主管できないのです。
(35-157、1970.10.13)

 

②どの被造物よりも優れた人間

―宗教経典―
われはすべての者に、――これらの者にもまたかれにも――なんじの主の賜物を広く授ける。なんじの主の賜物には限界はないのである。
クルアーン17.20(イスラーム)

神はこの世とそこに住み動くあらゆるものを創造し、神の拘束されない卓越した御意により人間に神を知り愛する独特の特異性と能力――全創造の基礎をなす発生進力、また主なる目的と見なされるべき能力――を与え給うた。

すべての創造物の内奥の各実在に、神はその諸々の名の中のある一つの名の光を注ぎ、神の諸々の属性のうちのある一つの属性の栄光を受け入れるものとなし給うた。しかし乍ら、人間の実質には、神は神の諸々の名と諸々の属性のすべての光輝を集中し、人間の実質をして神自身の鏡となし給うたのである。
ハバオラ落穂集27(バハイ教)
人間は神の顕現として、あらゆる万物の主管者であるため、人間以上に尊敬されるべき存在はない。地上のあらゆる万物はそれぞれの名で本来の姿を備え、神が人間のためにそのようにされたことを知るようになる。

何であれ万物は、自分の根源となる神を失ったり、定められた法度から外れることなく、自らの役割だと悟った分だけ働くように創造された。自らを低め、人間を尊敬し、怒らず、間違った心をもたず、悲しまず、偏らず、自らの本来の個性を発揮するために人間は創造されたのである。
祈り(PL 教団)53

人間は三つの魂を備えていた。……その動物的魂は動物と交流し、肉体的魂は植物と連結し、人間的魂は天使と紐帯する。……

人間の機能である理性的魂は、そのいかなるものよりも高貴な機能である。それ自体が最も高貴な魂だからである。その機能は芸術品に対する感傷と美に対する思いを構成する。
それが凝視するのはより高い世界に向かっており、低い所や卑劣な場を愛することはない。それがそうであるように、人はより高い生と重要な物質に属しており、食べたり飲んだりするために働くのではないことはもちろん、奢侈と性関係を必要としない。かえってその機能は真実の啓示のために待つのである。
アヴィセンナ(イブン・スィーナ) 救いの書(イスラーム)

まことにわれは諸天と大地と山々に信託(注11)を申しつけた、だがそれらは、それをになうことを辞退し、かつそれについて恐れた、しかし人間はそれをになった。まことにかれは不義でありかつ無知である。
クルアーン33.72(イスラーム)

さらに身体においてさえ、それは可死性において獣と共通していても強さにおいてはその多くのものに劣るのではあるが、どれほどの神の善性が、また、どれほどのかくも創造者の摂理が明らかであることであろう。感覚器官と身体のその他の部分とがよく配置され、身体全体の姿、形、大きさが適正に整えられていて、身体が理性的魂に仕えるようにつくられていることを示しているのではないであろうか。

たとえば、私達は非理性的な動物の顔は地に向いているのを見るが、人間はそのようにつくられてはおらず、その姿勢は直立していて天に向かっているのであって、それは天上的なものを想うようにさとしているのである。
アウグスティヌス神の国22.24 (キリスト教)

人間とは何という造化の傑作か、高貴な理性、無限の能力、優美な姿、敏速正確な身の動き、天使さながらの活動、神のごとき悟性、この世の美の極致、生きとし生けるものの典型。
ウィリアム・シェイクスピアハムレット2 幕2 章

―み言選集―

人間は動物と何が違いますか。人は貴いというとき、その人というのは肉的な人ではなく、霊的な人です。霊的なものが貴いというのは、肉的なものと違うということです。霊的なものが高ければ、肉的なものは低いのです。
(129-307、1983.12.1)

それでは、人と猿とを比較してみましょう。猿はただキッキキッキと鳴いて、食べて、寝て、子を産むのが第1です。猿が故郷のお父さん、お母さんに会いたくて泣きますか。猿と人間は根本が違います。猿がお兄さんを心配し、あるいは、父母のために死のうとしますか。それでは人はどうですか。種が違うのです。

人間は、自己を中心にしたものではなく、他を中心としており、より大きいことを望みながら生きるようになっているのであって、自己より低いものを望みながら生きるようになっていないのです。次元が違うのです。
人間は古代から、すなわち、人間が生まれた時から神様を尊崇してきました。神様を尊崇しない種族はありません。神様を考え、私達人間がもっと良くなる宇宙を考えながら来たのです。

猿は、その頭でそのようなことを考えられますか。何千、何万段階が過ぎてもできないのです。猿に、そうすることのできる内容、力がどうやって増し加わっていくのですか。
(39-333、1971.1.16)

神様が人間を万物の霊長として立てるとき、天地のすべての環境を代表したその中で中心として立てたでしょうか、そうでなければ、一部分として立てたでしょうか。これが問題です。

ですから、すべての人間は宇宙の中心になると主張できる自主権をもっているのです。それは、猿やライオン、虎の世界にはありません。人間世界にだけあるのです。

動物的な人間か、人間的な人間かということを考えるとき、動物的な人間に近いですか、人間的な人間に近いですか。今、世の中の人間はどちらに近いですか。
(117-35、1982.1.31)

人格者とは、どのような人でしょうか。御飯だけしっかりと食べ、御飯のために生きる人が人格者でしょうか。それとも、芸術や文学や詩に造詣があって、豊富な鑑賞をしながら、山に対してささやき、野に対してささやき、流れる水に対して褒めたたえることができる、このような人が人格者でしょうか。
(85-143、1976.3.3)

万物の霊長という言葉は、何を意味しているのでしょうか。万物の霊長とは誰でしょうか。「人だ」と言っていますが、万物の根本となった霊長は神様です。皆さんは、霊があるということが分かるでしょう? 人間には、霊があります。人間は、その霊の中の長であるために、結局、神様と直結させて霊長だというのです。
万物の霊長だというのは、人間自体だけではなり得ません。人間も被造物であるのに、どのように万物の霊長になるかということです。被造物とは、相対的な結果体です。被造物だけでは、原因に通じることができず、原因を占領することができないのです。被造物は、原因に占領されるようになっています。

皆さんは、結果的存在であることは間違いありません。霊長といえば、長は霊の中で中心であるという言葉です。この言葉は、本来、神様と人間が一つになった関係についていう言葉であることを知らなければなりません。
(32-137、1970.7.5)

神様が愛を求めるために万物をつくりました。神様は人間を愛の対象存在として造りました。神様が陽性と陰性の二性性相の主体となっている以上、その主体の前に対象になるためには、陽性と陰性の二性性相の形態をもったものが必要なのです。その形態というのは、その主体の性稟の反対になる形態ではありません。
あらゆる性稟の相対性をもち、愛という本質にぴたっとあてはまる相対的形態を意味するのです。それが相対存在なのですが、愛にのみ合うようになっています。神様には、何かの知識や、ほかのものは必要ないのです。

人間がこの宇宙の中心になることができ、被造世界の中心になるのは、愛で被造世界を造ったからです。愛の神様を代表し、その主人の前に最初に中心位置に立って愛を受けることのできる特権をもっているので、「人間は万物の霊長だ」という言葉が成立するのです。

その霊長という言葉は、神様の相対的愛圏を抜かしてはあり得ません。人間の特有な価値は、愛の特権をもつことができ、全被造世界を代表して神様の前に最初に相対的立場に立ってこの宇宙を支
配することができ、そのような愛の因縁の場に同参できる権威をもったことです。ですから、人間は万物の霊長だというのです! 愛を抜けばすべてなくなります。
(132-245、1984.6.20)
愛の理想を中心として見てみるとき、動・植物世界では、愛の関係はすべて繁殖を前提としたときになされます。しかし、人間だけは例外です。人間は、夫婦愛の関係を自由に享受します。これが万物の霊長となった特権です。

神様は、息子、娘である人間が無限の愛の喜びをもつように祝福しました。神様が許諾した真の自由は責任性を前提としています。もし責任性なく、個々人の愛の自由ばかりを主張して実践すれば、どれほど大きな混乱と破局が訪れるでしょうか。至高な愛の理想を成す人間の完成は、愛に対する責任性をもつとき、可能なのです。
(282-213、1997.3.13)


③被造物を完成させ崇められる人間

―宗教経典―

この世は、ひとえに義人のために創造された。義人一人は全世界と取り替えるだけの価値がある。この世は彼と一つになることを目的として創造されたのである。
タルムード、シャッバト30b (ユダヤ教)

「その動くときは天に従って自在に活動し、その静かなときは地に従って静止する。ただ一人の人間にすぎないのに、その心が定まれば、広大な天下の王者となることができる。鬼神も崇(たた)ることがなく、自分の魂も疲れることがない。ただひとりの心が定まることによって、万物を服従させることができるのである」と。このことばは、虚無で静かな心を天地におし及ぼし、万物のうちに浸透させることをいったものである。この境地こそ天楽と呼ばれるものに外ならない。天楽とは、聖人の心をもって万物を養うことである。
荘子13(道教)
エリヤは主が言われたように直ちに行動し、ヨルダンの東にあるケリトの川のほとりに行き、そこにとどまった。数羽の鳥が彼に、朝、パンと肉を、また夕べにも、パンと肉を運んで来た。水はその川から飲んだ。
列王記上175 ~ 6 (キリスト教)

是の如く我聞けり。初めて正覚を成じたまへる世尊は或る時、優樓比螺(ウルヴェーラー)の尼連禅河(ネーランチャラー)の畔りなる目眞隣陀品(ムチャリンダ)樹の下に住(とど)まりたまへり。その時、世尊は一たび趺坐を組みたるままにて七日の間、解脱の楽を享けうつ坐したまへり。

時に大雨非時に起り、七日の間降り続き、寒風吹きて天陰れり。文眞隣陀龍王は己の棲家より出で来り、蜷局(とぐろ)を以て世尊の體を七重に巻きつつ、頭上に大なる鎌首をたてていたり。「寒気世尊に觸(さわ)るるなかれ。寒気世尊に觸るるなかれ。蚊・風・熱・蛇世尊に觸るるなかれ」とて。七日を過ぎて後、世尊はその定より起ちたまへり。
文眞隣陀龍王は空晴れ雲去れることを知りて、世尊の體よりとぐろを解き、己の姿を変へて儒童の姿をなし、合掌して世尊を礼拝しつつその目前に立てり。
感興偈10(仏教)

大地の形勢が坤である。君子はその坤の厚大さにのっとって、厚い徳によりあらゆるものを包容することにつとむべきである。
易経2、周易上経、坤(儒教)

天下のうちで、上ただ至誠(な聖人)のみが、その性を尽くす(理に従う)ことができるのである。よくその性を尽くせば、(天下の)人の性を尽くすことができる。よく人の性を尽くせば、万物の性を尽くすことができる。

よく万物の性を尽くせば、天地が生育するのを助けることができる。天地が(万物を)生育するのを助けることができれば、天と地とともに三となることができる。
中庸22(儒教)
「花は地に咲きいで、小鳥の歌うときが来た。この里にも山鳩の声が聞こえる」(雅歌2.12)神が世界を創造されるとき、地に必須な万有の力を先に下さった。しかし、人間創造の前までは何の産物も出でこなかった。

人間が創造されると、隠れていた生命体が地上に姿を現した。類似して、人間が出てくる前まで、天も地に力を吹き込むことができなかった。

創世記に次のように記録されている。「地上にはまだ野の木も、野の草も生えていなかった。主なる神が地上に雨をお送りにならなかったからである。まだ土を耕す人もいなかった」(創世記2.5)……

しかし、人間が出てくると、「野の草も生え」、隠されていたすべての力が現れ、「小鳥の歌うときが来た」。この地は全能であられるその方に賛美をお返しするように熟していった。人間が創造されていなければ不可能なことだった。

「この里にも山鳩の声が聞こえる」、これは主なる神のみ言だ。しかし、人間が創造される前までは、この世界になかったみ言である。
ゾハール創世記97a (ユダヤ教)


―み言選集―

天倫のみ旨に完全に一つになり、天上の認定を受けた人、神秘的な体験をした人は分かるでしょう。神様が私に対して、「あなたは私のものである」と認めるのを感じると同時に、万物が私に対して頭を下げるのを見るでしょう。

全被造万物が「あなたは神様の息子だ。神様のものだ」と認める日には、霊界にいる大勢の霊人たちはもちろん、地上の万物までも彼に頭を下げ、褒めたたえるようになるという事実を、今日の人間たちは知らずにいます。

神様が認め、万物が認めることのできる立場に入っていくようになれば、真の良心をもった人たちもまた、その前に自然に一つになって入っていくようになるのです。
(4-102、1958.3.16)


神様がいらっしゃるなら、神様が「おいおい地よ、お前を第一の父母の立場に立てたのだから、息子、娘を生み、お前に永遠の愛を伝えてくれる息子、娘をつくってみなさい!」と言うとき、地が「よし」、こうして契約がなされていると考えてみてください。

また、地が「ああ、私はあなたの愛を喜びます。あなたの愛に橋を架けることのできる中間媒介体をつくりなさいとして、そのような公約によって歓迎し、支持し、すべてのものを譲ることにしました」と言ったと考えてみてください。

それで私の体が神様の愛と接することができ、神様の愛を感じることができ、神様を愛することのできる体になったというとき、地が「栄えある人をつくっておいたことを喜びます」と言うでしょう。
(97-143、1978.3.12)


万物というのは何でしょうか。私達が本性の愛をつくりあげていくにおいて応援してくれる、美しい表示体です。赤く、黄色く、刺激的なすべてのものを満たしてくれる、愛を称賛できる一つの贈り物です。

この世界の万物は、人間が理想的な愛を成すにおいて象徴的な橋となり、称賛することを願うのです。それが万物の存在する本来の、愛を中心とする理想的な存在の起源であり、目的なのです。

それで、植物たちも私達人間の愛を追い求めるために、互いに美しいもので装飾し、歓迎します。動物や鳥たちもそうではないですか。雄と雌、互いに喜びながらチュンチュンと鳴き、「ああ、あなたはこのように愛するでしょう?私もあなたについていって喜びます。永遠に、永遠に、永遠に!」、「そうか、そうか」と言うのです。

それで、万物と人間が一つになると同時に、神様が愛する……。愛の雲がかかり、愛の風が吹き、愛の水が流れ、愛の歌が響いてくるこの宇宙がどれはど美しい園かというのです。花を見て、「いやあ、お前はどこに行きたいと思うのか。すべてを装い、すべての美をもって喜ばせてあげられる所を訪ねていくのか」と尋ねれば、「最高の所です!」、このように答えるでしょう。

神様の愛が宿るそのような居間を訪ねていって、この美をもって賛美したいと言うでしょう。それはどれほど美しいですか。真の愛をもって愛する夫婦の居間に咲くその花は、どれほど幸福でしょうか。

そこだけでなく、神様までもお迎えすることのできる所の装飾品になれるのです。それは、どれほど栄光かというのです。「真の愛は永遠なので、昔のアダム時代も、数千年が過ぎた今日の時代も、今後何万年後の時代も変わらないので、その場を美しく整えることに同参することが栄光であり、このように歴史時代に花として生まれたことを私は誇りに思う」と言うでしょう。
(146-107、1986.6.7)

私達の体は小宇宙です。この体には、鉱物もあり、植物もあり、動物もいます。このような人に真の愛をもっていけば、細胞まで喜んで「わあ」と叫ぶのです。口をもっているものはキスをしたくて「ああ」と言い、目をもっているものは目を合わせるために「ああ」と言い、耳をもっているものは耳を合わせるために「ああ」と言います。すべてそうです。

ですから、それらが目をすべて開き、耳をすべて開き、口をすべて開き、そこに力を入れて動くようになれば、どれほどおもしろく、どれほど素晴らしいですか。軽やかに飛び回るようであり、世の中や天地に恐ろしいものがないというのです。目がこのようにひっくり返っても、その力に出会い、「おい、こいつ、早く答えなさい!」と言えば、「はい」と言うのです。

目をまっすぐに開けて、動物世界の雄と雌がどのように生きているのかを見て、細菌の世界、細胞世界、鉱物世界の夫婦がどのように生きているのかを考えてみてください。
皆さんも、「私は真の愛をもった実体だ。私の心と体、私のすべての細胞は完全に一つになり、天宙的に不動となったそのような実体になっている」と言うときは、この宇宙がすべてやってきて、カチッとくっつくかのようです。

宇宙の被造物はすべてそのように動くので、真の愛をもつ真の人が行く所は、すべての動物がついていき、すべての植物もついていき、すべての鉱物もついていくのです。ですから、その人は自然に大きな巣をつくり、保護されて生きるようになるはずです。本然の世界は、そのような愛を中心として……。境界線がありません。どこにでも通じます。
(163-44、1987.4.1)

このようなものすごい天体、私達が数字で推し量れない驚くべき価値の天体ですが、その天体自体が神様の創造目的ではありませんでした。神様の創造目的は、太陽系の一つの惑星である地球という地の上に、大宇宙と比べればちりにもならない、取るに足らない人間を造っておかれ、人間を中心とする一つの理念の世界を建設することだったという事実を思うとき、その感謝と喜びと栄光と偉大さがどれほど大きくなければならないかを、皆さんは考えてみたことがありますか。
(5-343、1959.3.8)

   <次ページ>

 

コメント

世界経典-11

2020年10月06日 19時31分17秒 | 学習

②意識ある生は目的が賦与されたもの

―宗教経典―

地上の生きとし生けるものも、双翼で飛ぶ鳥も、一つとしてなんじらと同じ衆生でないものはないのだ。経典の中には一事でも、われがおろそかにしたものはない、すぐにかれらの主に召集されるのである。
クルアーン6.38 (イスラ一ム)

私が言う。「例えれば、ちょうどある感覚器官を具備していないまま生まれた人(つまり生まれつきの盲人、耳が聞こえない人、口のきけない人、足がなえた人などのような体の不自由な人たち)の意識は、外からは見えないが、彼らが刃物で傷つけられたり暴行されたりするとき、何の苦痛も痛みも感じないのではない。

これと同じように、土でできた存在(つまり鉱物や原子)、水でできた存在、……火でできた存在、……植物、……動物、……空気でできた存在も、それらの意識が苦痛を感じるのが、外から見えないだけであって、だからといって痛みを感じないのではない」。
アーヤーランガ・スッタ1.28 ~ 161(ジャイナ教)

この人たちが黙れば、石が叫びだす。
ルカによる福音書19.40(キリスト教)

私達の部族には、この地のあらゆる部分が神聖である。すべての丘、すべての渓谷、すべての平原と森が、果てしなく遠くに消えていった悲しみや喜びの出来事によって神聖なものとなった。

静かな海岸に沿って、太陽の下で疲れて死んだかのように黙っている岩さえも、私達の部族の生と連結した、胸がじんとする出来事に対する記憶として体を震わせている。今、あなたが立っているこの土も、あなたより私達部族の足どりに、より親しく反応する。この土は、私達の先祖の血によって肥えたからである。
シアトル酋長(アメリカ先住民の宗教)

善なるものを創造する神の善性、くり返していうが、このように正しく十分な理由は、注意深く考察し、敬虔に考えてみると、世界の起源を問題とする人びとのすべての論争を終結させるものであるのに、ある異端者……はそれを認めなかったので、それというのは、火、寒気、猛獣などというような、それ自体、正しい懲罰から起こる、この肉の乏しくもろい可死性に適合せずにそれを害するものがじつに多くあるからである。

そしてそれらの異端者は、それらのものも、そのあるべき場所において、また、その本性において、どんなにりっぱなものであるか、どんなに美しい秩序によって配置されているか、どれだけ万物全体にそれら自身の美しさの分け前に応じて、さながら共有財産に対するように貢献しているか、あるいはまた、私達自身にも、もしも私達がそれらのものを適切に賢明に用いるなら、どれだけ便益を与えるか――毒でさえも、うまく合わなければ死を招くが、うまく用いれば健康をもたらす医薬に変じるように……。
アウグスティヌス神の国11.22(キリスト教)
―み言選集―

人間自体が自然です。完全な自然は神聖なものです。
(90-24、1976.12.10)

花も、雄しべがキスしてくれるとき、雌しべは「ああ、うれしい!」と思うのです。そのような感覚がなければならないのではないですか。そのような感覚があるでしょうか、ないでしょうか。雄と雌の感覚は最高の感覚なのですが、その感覚を構成しているのは、五官的感覚の連結体によってできたというのです。これは理論的です。

五官的感覚で愛するというのは、男性と女性が対等な位置に造られたということです。レベルは低いのですが、共通分母で平準化され、その世界において統一的内容を備えているのです。ですから、男性と女性、まだは雄と雌になっているというのは、神様のすべての共通分母を公開的に分配されたことは間違いありません。これを否定することはできないのです。(217-306、1991.6.12)
物質から形成された人間の生理的機能が、心の知情意に完全に共鳴するのは、物質もやはり、知情意に共鳴できる要素をもっているという事実を立証するものにほかならない。

このような要素が、物質の性相を形成しているために、森羅万象は、各々その程度の差こそあれ、すべてが知情意の感応体となっている。我々が自然界の美に陶酔して、それらと渾然一体の神秘境を体験できるのは、人間が被造物のこのような性相の中心ともなるからである。
原理講論、創造原理2.3.4

神様も御自身を誇りたいと思われたのです。遠い歴史前の時代に戻って、創造の世界を欽慕されていた創造主は、六日間で創造された創造物を見つめて喜ばれた、その時代を回想してみるとき、神様もつくられたすべての万物を通して、御自身を誇りたいと思われた心があったがゆえに万物を創造されたのは間違いありません。
つくられたいかなる存在を見ても、そのような事情が絡まっているというのです。皆さんが見つめるこの被造世界、あるいはこの自然には、様々な被造物が存在しています。存在する万象は、いかなる過程を経て創造されたのでしょうか。

それは、創造主の精誠を込めた心情の過程を通してつくられたのです。いくら微々たる存在でも、神様の愛の心情を通して、神様が誇りたいと願われる心をもった、そのような場でつくられたことは間違いありません。

このような点から見れば、小さくはごく微々たる存在から、大きくは私達が推し量れない広大な宇宙にまで、存在するすべての万物は、神様が誇りたいと思われた、自慢の存在としてつくられたことを、皆さんは知らなければなりません。
(20-248、1968.7.7)


③母なる大地とその子女

―宗教経典―

神は言われた。「地は草を芽生えさせよ。種を持つ草と、それぞれの種を持つ実をつける果樹を、地に芽生えさせよ。」そのようになった。地は草を芽生えさせ、それぞれの種を持つ草と、それぞれの種を持つ実をつける木を芽生えさせた。神はこれを見て、良しとされた。
創世記1.11 ~ 12(キリスト教)

私達の母なる大地は、花のような霜でいっぱいの白い粉の四つの袷(あわせ)で自らを包み、
氷の床が世界を覆い、
寒さで樹木が一方に傾き、
その腕が雪の重さで下に垂れ下がる。

ゆえに、その時になれば、私達の母なる
大地の肌が寒さでひび割れる。
その次に大地が生水で満ちた春に、
私達の母、あらゆる種類のとうもろこしを
それらの母なる大地に休むよう寝かせておくのである。
母なる大地の生水により
それらは新しい存在になるのである。
父なる太陽の光により
それらは立ち上がるのである。
四方を指し
それらは手を広げて雨を呼ぶだろう。

その時、新鮮な水をつれて
雨の神が私達の道を過ぎていくのである。
それらの腕の幼いもの(とうもろこしの実)を抱きかかえ
それらは、それらの子供たちを育てるだろう。

それを私達の家にかき集め、
私達の思いが傾く人たちに従い
それらの従う私達の思いとともに
その時、私達は常に生きるだろう。
チュニ族の歌(アメリカ先住民の宗教)

大地よ、汝の中心たるところ、汝の臍たるところ、汝の身体より出づる生力のただ中に我を据えられんことを。あらゆる方よりわれらを清め給わんことを。大地はわが母なり、われはその息子なり。そして天はわが父にして、豊かなる恵みをもってわれらを満たされんことを。……

大地の中に、草木の中には火が潜み、水がそれを運ぶ。火は石の中にある。人々の奥深きところに火があり、牝牛に火があり、馬に火がある。同じ火が天界において燃え、空界はこの神火に属す。人はこの供物を生みだし、グリタを愛する火を炊く。燃えたぎるマントをまとい、膝の暗い大地よ、われを燃やし給わんことを。われを明るく輝かしめんことを。……

大地よ、汝より掘るいかなるものも、速やかにまた育たんことを。ああ清める者、よ、願わくはわれらが汝の生命と心を傷つけることなかれ。馬が砂塵を〔振い散らすが〕ごとく、彼女(大地)は、生まれて以来大地に住したる種族を分散したり、優美にして先頭に進む世界の守護者、樹木・植物の把握者は。わが語るところ、そをわれ蜜をこめて語る。われが見るところ、そを人々はわれより望む。われは光彩に富み、速力に富む。われは他の敵対者を打ち倒す。平和にして香しく、決適にしてその乳房は甘露に満ち、乳あふるる広き大地は、乳もろともわがために語れ。……

汝は人間の分散者アディティ(「無垢の女神」、神々の母)にして、あらゆる願望を満たし、遠く拡がる。汝に欠けたるところ、そを天則の初生児プラジャ・パティは汝のために満たす。

汝の懐は、病患なく労症なく、われらのために設(しつら)えられてあれ、大地よ。われら願わくは、〔朝な朝な〕長寿のために目覚めつつ、貢物をもたらす者たらんことを。母なる大地よ、幸福もてわれを安定せる者たらしめよ。天と共々に、弁才ある女神よ、われに吉祥と繁栄とを恵み給わんことを。
アタルヴァ・ヴェーダ12.1(ヒンドゥー教)


いと高く、全能の、いとも善き主よ、
賛美と、栄光と、誉れと、祝福はあなたのもの。
これらは、ああ、いと高きおかたよ、
あなたのみに帰すべきもの、
なにびとも、ふさわしく、
あなたのみ名を呼ぶことはできない。
主よ、ほめたたえられよ、すべての被造物、わけても、兄弟なる太陽とともに。
かれは、われらに昼を与え、あなたは、かれによってわれらを照らす。
かれはまた、美しく光り輝き、
その大いなる光明によって、
ああ、いと高きおかたよ、あなたをかたどる。
主よ、ほめたたえられよ、
姉妹なる月と星のために。
あなたはかの女たちを明るく、
とうとく美しく、天に造られた。
主よ、ほめたたえられよ、兄弟なる風のために。
しかして、空気と、雲と、
晴天ともろもろの天候のために。
あなたは、かれらによって、
被造物をささえられる。
主よ、ほめたたえられよ、姉妹なる水のために。
かの女は、いと有益にして、
謙遜、貞潔なるゆえに。
主よ、ほめたたえられよ、兄弟なる火のために。
あなたは、かれによって夜を照らす。
しかして、かれは、美しく、
陽気にして、健やかで強い。
主よ、ほめたたえられよ、
姉妹にして母なる大地のために。
かの女は、われらを保ちささえ、
さまざまな果実と、色とりどりの花と、木々を生みだすゆえに。
アッシジの聖フランチェスコ太陽の歌(キリスト教)


―み言選集―

宇宙が人間を形成してくれました。宇宙の元素を借りて私が形成されたのです。それは、宇宙が私を生んでくれ、造ってくれたということです。それで、私に父母がいるとすれば、宇宙が第二の父母です。これを、皆さんは知らなければなりません。ですから、私という存在は、すべての宇宙の元素を総合した実体です。
(105-106、1979.9.30)

父母は、皆さんを世の中に生んでくれた2番目の父母です。神様は、皆さんに霊を下さった3番目の父母です。このように、人間は三大父母をもっています。
(106-84、1979.12.9)

神様がつくられた自然を愛すれば、神様が訪ねてこられます。「こうしてこのようになった」ということをすべて教えてくださるのです。自然は、そのように貴いのです。
(278-120、1996.5.1)
本当に宗教的な心情がわき出るその瞬間には、万物を見つめて、頭を下げるのです。天を見ても、大自然を見ても、天体の無数の星雲を見ても、神秘的で崇高な感情が心からわき出てくるようになります。このような感情から、宗教が出発したのです。

私を超え、自然の現象を見つめて、高く評価することができ、動く自然のあらゆるものを見つめて、私の心情世界の高貴なものに代わって歌えなければなりません。

そして、動くすべてのものを自然の音楽のように、自然の芸術のように、自然の文学のように感じ得る心情が私の心からわき出てくるようになるとき、初めて天体を支配している神様と私が関係を結ぶことができるのです。

このように、自分がすべてのものと関係を結んでいるという心情が強くなってこそ、事物に対するときに、再び鑑定できる心的基準が定まります。
これは、私達が神霊的な境地に入っていけば、そのまま感じるようになることを皆さんは悟らなければなりません。

神様と万物は、このような関係を結んでいます。神様と万宇宙はこのような因縁で結ばれているのですが、再び人間と関係を結んでいるのです。このような事実を感じて自然を見つめるとき、皆さんは初めて人間の尊厳性を感じることができるでしょう。
(5-344、1959.3.8)

神様が私の父であることを知り、神様は私のためにこの宇宙を造ってくださったことを知りました。ですから、世の中が何と言おうと、私が神様に「この宇宙は誰のために造りましたか」と尋ねてみるとき、「レバレンド・ムーン、お前のために造った」と言われるのです。

神様も私の神様であり、宇宙も私のものだというのです。それは言葉だけではありません。そのように世の中を見つめるのです。
春になれば花が咲き、香りが漂い、美しい花園が訪れてきます。蝶が舞い、虫が飛ぶようになります。それは宇宙のあらゆるものを象徴します。神様の愛と神様の高貴さと天使世界が和動することを、すべて私に見せてくれるためのものです。

すべてが私と連結しています。小さな鳥がチュンチュン鳴くのも私を見てそのようにするのであり、おなかがすいていたり、友人を見つけるのを願うので、私が呼んであげればうれしいと思うのです。このように、すべて因縁を結んでいるくのです。

蝶がカップルで飛んでいれば、蝶よりもっと美しく人間は生きなければならず、鳥たちが喜ぶものを見れば、烏たちよりもっと美しく生きなければならず、すべての動物たちよりも、もっと理想的に生きなければなりません。

ですから、春が来たのなら、「すずめよ、お前は今年の春を迎えてチュンチュン鳴きながら喜んでいるが、来年の春には、私がお前よりもっと喜ぶだろう」と考えなければなりません。私が歌い、私が香りを発するのは誰のたのですか。神様のためです。ですから、神様が私についてきて、比べてみて、刺激を受けて楽しまれるよう、私が動物や万物を通して感じるのと同じように感じられるよう、刺激を差し上げるのです。

私がたとえ着るものがなく、流れ者の立場になったとしても、庭に横になっていれば、「天が私の布団であり、そばに流れる水が私の水道であり、
山に生えている万物が私の食べ物だ!」、このように考えます。

川の流れを見れば、その川の流れはとても小さいですが、「お前はこの大海の先祖と因縁をもった、そのような偉大な水だなあ!」と称賛します。小さな一株の草を見ても、最近人間たちは、ある有名な画家が描いた絵を博物館に保管し、世界に誇り、何十万ドルや何百万ドルだと大騒ぎしますが、「それは人間が描いた絵にすぎない。
神様が直接つくられた生花なら生花、その一輪の花がそれと比べられるだろうか」と思いました。これは、どの国の博物館にある、その何よりも貴いものだと思います。

それで、1羽の鳥を捕まえても、キスしたあとに「お前は誰よりも貴いなあ!」と言います。皆さん、じめじめした所に行って掘り返してみれば、見えない虫もみなカップルで這い回り、自分たち同士でひそひそと通じているというのです。

私が愛と幸福を感じることができるよう、神様が私のためにつくってくださった神様の庭の、生きた博物館です。万物は主人が人、神様の息子であることを知っているので、すべてその主人に関心をもってついて回ろうとするのです。
(106-137、1979.12.23)


2.生命尊重

この節の章句は、生命尊重に符合する倫理を規定するものである。道教と仏教の経典は、人間世界の人為性に関して指摘し、自然の純粋さと無為に帰ることを促す。

暗く不潔な都市環境と比較するとき、自然の中の生は、すなわち浄化であり、霊的生に助けとなる。自然の中で時間を過ごすある人にとって、自然世界に対する尊重と、その中の被造物に関する恭敬は、強制された何かではなく、愛に満ちた心情から自然と流れ出てくるものである。

それゆえに、アヒンサー、すなわちインド亜大陸で生じた非暴力、不殺生の教義がある。菜食主義は、よくこの教義の倫理観によって出現する。さらには、自然の被造物の中で、雌牛ほど惜しみなく、何の不平もなく与える動物はなく、したがって、雌牛はヒンドゥー教徒たちと多数の原住民たちによって当然、恭敬される。

文鮮明先生の教えは、上で言及した側面と様々に符合するが、特に自然に対する愛を強調し、それは環境倫理のための出発点とみなされる。しかし、それは、下位体系の被造物は、上位体系の被造物にのみ込まれ、吸収されることによって、神様の愛にさらに近づいていくという概念に立脚し、菜食主義に対する興味深い異議を提示する。

下位体系の被造物は神様の愛を具現するので、被
造物の頂上に立った人間のための滋養分になることを当然願うだろう。しかし、真の愛を実践しない人は食べ物を摂取する資格がないのである。

①生命体に対する畏敬と保護

―宗教経典―

恰も母が己が子、一子を自らの命を賭して護るが如く、一切有情に対して無辺の〔慈悲〕心を修習せよ。
小誦経、慈悲経(仏教)

全ての生き物に対して一切危害を加えない事、もしくは(実際やむを得ない場合)最小限度の危害にとどめることを信条とした生き方が、最高の道徳である。
マハーバーラタ、シャーンティ・パルヴァン262.5 ~ 6(ヒンドゥー教)


何かの動物や生物、有機体、または意識のある存在を傷つけたり、隷属させたり、苦痛を与えたり、殺したりしてはいけない。非暴力の教義は清浄で不変であり永遠だ。苦痛があなたに痛みを与えるように同様にそれはあらゆる動物、生物、有機体、意識のある存在に痛みを与え、不安にさせ、恐れ震えさせる。
アーヤーランガ・スッタ4.25 ~ 26、(ジャイナ教)

使徒曰く、「イスラームには害悪もないが、害悪に対する根拠もない」。
マジュマ・アル・ザワーイド4.6536 (イスラーム)

一人の比丘あり、蛇に咬まれ死せり。世尊に此の義を告げたり。「比丘等よ、彼比丘は四種の蛇王族に慈心を以て偏満せざりしなり。比丘等よ、若し彼比丘、四種の蛇王族に慈心を以て偏満したりせば、比丘等よ、彼比丘は蛇に咬まれて死することなかりしならん。……。

無足者を慈しみ二足者を慈しみ四足者を慈しみ多足者を慈しみ無足者我を害ふな二足者我を害ふな四足者我を害ふな多足者我を害ふな一切有情、一切生類総じて一切の生者一切は善美に遇ひ小分の悪、来る勿れ」
律蔵、小品V.6 (仏教)

生み出しても、所有することはない。
はたらかせても、報いを期待せず、
成熟しても、管理することをしない。
これは見えない「徳」と呼ばれる。
六道徳経51(道教)

牛馬が四本の足を備えているのを、天といい、自然という。馬の首に綱をまきつけ、牛の鼻に穴をあけて輪を通すことを、人といい、人為という。だから、古人も「人為によって自然を滅ぼしてはならない。故意(はからい)をもって、天から与えられた自然の性命(もちまえ)を滅ぼしてはならない……」。
荘子17(道教)

大和には、群山あれど
とりよろふ天の香具山
登り立ち国見をすれば
国原は煙立ち立つ
海原はかまめ立ち立つ
うまし国そあきづ島大和の国は(注1)
万葉集(神道)

全世界の中心、須弥山の東側に、険しく緩慢な山すその急斜面に沿って流れ下る青々とした小川、明るく青々とした木々の葉、香り漂う百合、天界の木々はそれぞれ美しく、名も知らない林と蔓がうっそうと茂り、苦行僧と求道者たちが世話をするがっちょう、あひる、白鳥たちの鳴き声がのどかだ。(注2)
ジャータカ(仏教)

おお、虎たちよ、再び森に戻り、森が平地と変わらないものにならないようにせよ。お前たちがいなければ、斧が森を無残に殺戮するだろう。森がなければ、お前たちは永遠に住む所なくさまよい歩くだろう。小誦経(仏教)
倫理は、私が、すべて生きんとする意志に、自己の生に対すると同様な生への畏敬をもたらそうとする内的要求を体験することにある。これによって、道徳の根本原理は与えられたのである。

すなわち生を維持し促進するのは善であり、生を破壊し生を阻害するのは悪である。……人間は、助けうるすべての生命を助けたいという内的要求に従い、なんらか生命あるものならば害を加える
ことをおそれるというときにのみ、真に倫理的である。

かれは、この生命あるいはかの生命がどれほどの貴い関心に値するかを、またそれらが感受能力があるかどうか、どの程度にそれがあるか、を問わない。生命そのものがかれには神聖なのである。
アルベルト・シュヴァイツァー文化と倫理

―み言選集―

自然を愛し、人を愛することができなければなりこません。人を愛することができず、自然を愛することができない人は、神様を愛することができません。万物は神様の象徴的存在であり、人間は実体的存在なので、万物と人間を愛することができる人は、神様を愛するようになるのです。
(70-182、1974.2.9)

自然を愛することができない人は、自然の主人である人を愛することができないというのです。自然を自分以上に愛し、また人々を自分以上に愛さなければなりません。
(375-20、2002.4.13)

妻を愛するときも、生きる栄養素を妻に補給する、空気と太陽の光と水と草を先に愛さなければなりません。水と太陽がなければ、草木が育つことができません。自然を愛してこそ、自分が生きることができるのです。
これらは、自分勝手に取って食べながら愛することはできず、そのようにして食べれば病気になります。愛すれば病気になりません。
(385-200、2002.7.11)

私達の体と、最も近いものが自然です。ですから、私達は嘆息する自然の願いを解いてあげなければなりません。山を愛せる人こそ、高いものを崇めることができます。そのような意味で、孔子、釈迦、イエス様は、みな山を愛した方たちでした。

先生は、名勝地に行くと、それが天の運勢を中心として、どのくらいの価値があるのかという立場で見つめます。そして、それを天の運勢と連結するようになります。それで、統一教会の草創期には、たくさん山に通いました。

一つの国の山と地と水を見れば、その国の民族性を知ることができます。私達の国の水は、どこに行って飲んでも玉水です。外国に出ていく前に、私達の国の自然を深く愛してあげなければなりません。自分が生まれた地を愛せる人が、自分の体も愛せます。また、自分の体を愛せる人が自分の心を愛する人であり、自分の心を愛する人が神様を愛する人です。

ですから、このような人は滅びません。また、このような人は、天も打つことができません。私達は、ナイアガラの滝よりも、自分が生まれたこの地をもっと愛さなければならないのです。自然が神様の摂理路程において、どれほど多くの人たちを慰労したかという事実を、私達は知らなければなりません。
(14-102、1964.6.20)

海を愛さなければなりません。愛する海に、危険千万なものがどれほどたくさんありますか。未知の事実がたくさんあります。それを掘り下げ、もっと愛そうとしてこそ、深いものを知り得ます。また、山も危険な所がたくさんあります。それも体験し、自分がさらに開発しようという心があってこそ、自分の心が広くなるのです。
(391-218、2002.8.26)
アメリカのニューヨークやワシントンの一部の地域は、地獄の中の地獄です。一番暗い所です。島国のように、10 里くらい(注3)行って初めて一人に会い、一日中会おうとしても、10 人に会うか会わないかという所に行って暮らせば、そこでは本心が目を開けるのです。そのでような環境であることを知らなければなりません。

自然環境が80 パーセントで、人の環境が20 パーセントになっても、バランスを取るのが大変です。それで、都市にいる人たちを田舎に追い出し、公害問題と環境問題を解決しなければなりません。人類が300 年、3世紀をどのように生き残るのかということです。ですから、追い出さなければなりません。

特に、先進国においてはそうです。都市が問題です。麻薬、犯罪、エイズなど、複雑な問題がたくさんあります。聞くもの、見るもの、感じるものがすべて問題です。このような諸問題から、どのように逃げていくのですか。
ですから、田舎に散らばらなければなりません。今は田舎に行っても、すべて文化生活ができます。インターネッ卜があり、e-Mail と電話があり、どごに行ってもすべて同じです。あの頂上、ロッキー山脈のような7000 メートル以上になる所で
も、インターネットを通して世界のすべてのものを見ることができます。

ですから、レバレンド・ムーンは南米の田舎に行くのです。蚊がたくさんいますが、空気が良く、水が良く、太陽の光が良いのです。海を見てください。太平洋の島に行っても、空気が良く、水が良いのです。公害がなく、環境はもっと良く……。自然と共に話をします。神様は自然に近いのです。
(339-163、2000.12.10)

②神聖な牝牛

―宗教経典―

牝牛たちはこなたに来たれり、しかして幸(さち)をもたらせり。彼らは牛舎の中に坐せ。われらのもとにおいて爽快なれ。後裔に富み、あまたの様相を呈して、彼らがここにあらんことを、インドラのため多くの朝な朝な乳を搾りいだしつつ。……

彼ら(牝牛)は失わるることなからん、盗賊は〔彼らを〕傷つくることなからん。敵意ある者彼らの道を脅(おびやか)すことなからん。彼らをもって神々を祭り、かつ布施する者は、牝牛の主(所有者)として、いと長く彼らと共にあり。埃にまみれたる頚もつ軍馬は、彼ら(牝牛)に達せず。

彼らは設けの場(場)に近づかず。祭祀する人間のそれらの牝牛は、危険なき広濶の地(牧場)に拡がりて歩む。牝牛たちはバガ(幸運の神のごとく、牝牛たちはインドラのごとくわれに見えた牝牛たちは最初のソーマの一飲みのごとくに。これらの牝牛、そは、人々よ、インドラなり。心をもちて、意をもちて、われはインドラを熱望す。

汝らは、牝牛よ、痩せたる者をも肥満ならしむ、醜き者をも美貌ならしむ。汝らは家を幸多からしむ、幸多き声もつものたちよ。汝らの高大なる活力は、集会において宣示せらる(称讃される)。(注4)
リグ・ヴェーダ6.28 (ヒンドゥー教)

おお、先祖様!
あなたが私達に下さった
この野牛を御覧ください。
彼は私達の聖なる母の上にいる
あらゆる四足動物の頭です。
そのおかげで人々は生きていき
彼と共に聖なる行路を歩みます。
スー族の祈り(アメリカ先住民の宗教)


―み言選集―

昔、私は田舎で暮らしていました。そのとき、私が一番嫌いだったことが、牛に餌を食べさせにいくことでした。それが最初はうんざりしていたのですが、悟ってからは、牛を本当に愛するようになりました。

あるときには、牛は午後になると時間になったことをはっきり分かります。ところが、私は、遊んでいる途中で最後までやらずに、そのまま帰るのは嫌いでした。それで、「おい!10 分待て! おい! 30 分待て!」、こうしていると1時間、2時間……。それで、牛は野原に縛られて、「私を迎えにくる主人はどこに行ったのか」と待っているのです。

しかし、遅くなっても、私なら怒って押したり蹴ったりするのに、何も言わずにこのように見つめているのです。そのようなとき、私は、「本当に君子だ! ああ、有り難い!」と心で言いました。そのような時がたくさんあったのです。「いやあ! これは本当に私よりも……」。それからは、
「いやあ! お前のそのような姿を見るとき、きょうは食べさせて蕩減復帰しなければならない!」、そして日が暮れて暗くなるまで食べさせてあげたりしました。それで、おなかがぱんぱんになっても、主人が食べさせるので、どんどん食べるのです。これは、夜通しても食べます。胃がたぐさんあるからです。

それで、私は、牛から学んだことがたくさんあります。暑い5、6月、炎天下に座って汗をぽろぽろ流しながら遠くの山を見つめ……。瞑想する大王様が牛です。

それで、世界の人々は、虎の肉は嫌っても、牛の肉は好むのです。犬の肉も嫌い、猫の肉も嫌います。そのようなものたちは、どれほど素早いです
か。(牛は)どれほど洋々としているかということです。また、犬はどれほど吠えますか。それで、「牛の肉はみな好むのだなあ」、このように考えました。
歯磨き粉のようなものも牛の骨でつくります。しっぽ一つ捨てるものがなく、骨一つ捨てるもめがありません。糞も肥料として使います。それで「牛が良いことは良いなあ!」と思うのです。
(109-40、1980.10.26)

③菜食主義

―宗教経典―

生きている命を殺してはならない。これはあらゆる知恵の要訣であり、これこそ不殺生に関する相互関係の道理から下される至高な結論であることを知れ。

動くもの、動かないもの、一切の生命、空を飛ぶ鳥も、地の上、あるいは地の中にすむ一切の生命に対する危害や殺傷がない世界、このような世界を指して安楽と平和が満ちた究極の涅槃だという……。

真の求道者は、生きた命を捕まえて作られた食べ物や飲み物を食べてはならず、禁じられた食べ物が少しでもある食事に同席してもいけないが、これは戒律に忠実な者の当然の道理である。
自ら疑わしいと思える食べ物は何であっても慎み、自らの魂を究極の境地にふさわしくし、感覚を統御する者は、生きている命を殺したり、このようなことに共にしてはいけないことを、常に肝に銘ぜよ。
スーヤガダンガ1.11.10 ~ 16(ジャイナ教)

生き物を殺害するこしとなく肉を手に入れることは決して出来ず、一方生き物の殺害は天界に導かない。それゆえに肉を避けるべし。
マヌ法典5.48 (ヒンドゥー教)

是の故に阿難よ、若し殺を断ぜずして禅定を修する者は、譬へば人ありて自ら其耳を塞ぎて、高声に大に叫びて、人の聞かざることを求むるが如し。此等を名けて隠さんと欲すれどもいよいよ露はると為す。

清浄の比丘及び諸の菩薩は、岐路に於いて行くに、生草をも踏まず、況や手を以て抜くをや。云何ぞ大悲、諸の衆生の血肉を取って食に充てんや。若し諸の比丘、東方の糸綿絹帛、及び是れ此上の靴履裘毳、乳酪醍醐を服せずば、是の如きの比丘は、世に於て真に脱せり、宿債を酬還して三界に遊ばず。何となれば、其の身分を服すれば、皆彼の縁と為るを以てなり。
首楞厳経(仏教)


一み言選集―

人間が愛のオーケストラをして、愛のすべての脈拍を中心として、宇宙をすべて生かしていける動物世界と植物世界を食べるということは、愛の結実を食べて生きているということです。結実を食べて、生きているというのです。

さあ、涙を流し、愛する心をもって食べ物に対するとき、その食べられる食べ物は、「ついにあなたの血肉になり、力になり、神様を愛することができる元素として私が吸収される、このような驚くべきことに感謝します」と言い、早く口に入っていこうと考えるのです。牛の肉を食べても、「この牛の肉は、子牛のときから母親が愛し、主人が愛して育ててここまで来た愛の結実なのだなあ!」ということを知らなければなりません。愛の実として消化して食べて生きるという概念を中心として愛し、愛する神様の本質的愛の父母の内容と一致した立場で食べて、感謝する人は病気にもならないというのです。これは理論的な結論です。(217-307、1991.6.12)
最近、皆さんは、朝、毎日御飯を食べますか、食べませんか。それでは、食べるとき、生えている野菜を無情に切って、包丁でタタタとするとき、少し申し訳ないと思いますか。煮ることもせずに、塩をかけてうさぎのようにむしゃむしゃ食べるのを見るとき、この野菜が、「ああ、私は死ぬ、こいつ、復讐、復讐、復讐」、このように思いますか。それは、どれほど無情ですか。そのようにできますか。

しかし、野菜は、「私はそれをすべてありがたく思い、あなたは私よりもっと価値のあるこの宇宙の公的な存在です。公的価値のある存在には犠牲になるのが原則なので、私は感謝して入っていきます!」というのです。

そのように、私が「ははは」と喜んで笑うとき、ここに入っていったその食べ物が、喜んでそう言うようにしなければなりません。これが気分を良くし、入っていって私の肉になり、血になって動かなければなりません。
これがすべて不平不満を言えば、どのようになりますか。私が「ははは」と笑うとき、ただ「うーん」と言えば、どのようになるかというのです。私のためではなく、全体のために「ははは」と笑わなければなりません。そのようになることを、
すべての食べ物は喜ぶのです。しかし、自分のために「ははは」と笑うのは、「乞食のようなやつだ」と思います。

それで人々の体は、宇宙の公法によって反動が起きるので、病気になり、悪いことが起きるのです。そのようになれば、自然的にこの宇宙の公法によって衰退し、滅びるのです。
(105-94、1979.9.30)

この道を行かないという存在は、孤独なものであり、腐ちてしまうものであり、廃物になります。ですから、ダーウィンの進化論のようなものは、ある面では一理があるのです。弱肉強食という言葉は、高いもののためには、より大きなもののためには通じるのです。それが宇宙の存在原則です。
ですから、魚を食べ、牛を食べ、あらゆるものを食べてそれを吸収したなら、それ以上に神様の愛のために生きるのです。そのようにするとき、万宇宙が歓迎します。
(124-320、1983.3.1)

植物は鉱物を飲み込み、動物は植物を食べ、どんどん高い所に行きます。人の近くに行くことによって、神様を愛し得る神経細胞に到達しようというのです。それが理想的です。すべてのものは、神様の愛を求めていこうとします。

人も、神様の愛のために犠牲にならなければなりません。愛の力は、犠牲になろうとします。愛がどんどん発展を繰り返していけば、神様の愛にまで行くのです。

ですから、そのような概念をもって結ばれた一双の愛する夫婦は、字宙の宝なので、全宇宙が保護し、天地が保護し、人と万物が保護するので、それを保護することができなければなりません。
(201-123、1990.3.27)
3.教師としての自然

自然には、私達に様々な教えを与えてくれるものが広がっている。勤勉に食糧を貯蔵する蟻から、つがいのために甘い唄を歌う鳥たちに至るまで、自然の被造物が生きていくその生き方を観照すれば、自然は生の根本倫理に関する多くの教えを提供している。

地を開墾して動物の世話をすることは、忍耐と犠
牲を教え、収穫が豊富なとき、神様に抱かれる恩恵を知るようになる。文鮮明先生は、神様が植物と動物を通して、太初の人々にも愛と価値ある人生に関して、十分な教訓を与えたと教える。

―宗教経典―

獣に尋ねるがよい、教えてくれるだろう。空の鳥もあなたに告げるだろう。大地に問いかけてみよ、教えてくれるだろう。海の魚もあなたに語るだろう。彼らはみな知っている。主の御手がすべてを造られたことを。ヨブ記12.7 ~9(キリスト教)
なんじらは、種まきのことを考えたか。なんじらがそれを育てるのか、それともわれが育てるか。
もしわれが欲するならば、それを枯れたくずにしてしまう、なんじらは驚嘆してやまぬ。

「わしらはまことに負債を課せられた、いや、わしらは失望させられた。」(と言うであろう)。
なんじらの飲む水について考えたか。
なんじらが雲から雨を降らせるのか、
それともわれが降らせるのか。

われがもし欲するならば、
それを塩からくすることができる、
なんじらはどうして感謝しないのか。
なんじらは、ともす火について考えたか。
その燃やす木を、なんじらがつくったのか、
それと、もわれがつくったか。
われはそれをもって教訓となし、
また荒野の住民の便利のためにつくった。
クルアーン56.63 ~ 73(イスラーム)

はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。
ヨハネによる福音書12.24 (キリスト教)

主を知ることを追い求めよう。主は曙の光のように必ず現れ、降り注ぐ雨のように大地を潤す春雨のように我々を訪れてくださる。
ホセア書6.3 (キリスト教)

神に関する神聖な文献と聖書を研究したのち、神の創造物とその創造物に関
する偉大な文献を研究せよ。
フランシス・ベーコン(注5)


―み言選集―

人間は、自然世界やこの地球の動きを見て、おもしろいと思うようになるということです。そのようにして、自分自体の愛の属性をすべて学ぶのです。

虫たちが暮らし、昆虫たちが暮らし、あるいは動物たちが暮らすのを見れば、すべてペアであると知ることができます。このように見るとき、自然とは、一人の人間を愛の対象として、相対理想を教育するために展開しておいた教材であり、博物館だというのです。
(137-212、1986.1.3)

万物世界は、お互いに愛します。動物を見ても、昆虫を見ても、植物を見ても、鉱物世界を見ても、すべて同様です。お互いに相対を中心として、歌も歌い、踊りも踊り、飛んだり、はったりします。
このようなすべてのことを見つめながら、「彼らは何をしているのだろうか」といって、すべて見て学ぶのです。自然とは何かというと、アダムを教育する博物館です。アダムを教育する生きた教科書です。
(134-194、1985.7.20)

環境は、必ず主体と対象のペア・システムになっています。この宇宙は、愛を核とする一つの博物館です。ペアの博物館です。

ですから、2羽の鳥がお互いに愛しながら一生懸命に巣を作り、ひなを産んで餌を与えるのを見ながら、学ばなければなりません。「私の子供のために、あれよりも何百倍もしてあげなければならない」と思わなければなりません。虫たちも、雄雌2匹が愛して子供を産みます。彼らも、自分の生命を懸けて子供たちを育てようとします。
(229-287、1992.4.13)


このサーモンのようなものも、本当に驚くべき人間の教材です。一度愛したら死ぬのです。子供たちのために餌になるというのです。それがどれほど美しいですか。愛ゆえに死ぬので、それがどれほど美しいかというのです。
(132-81、1984.5.20)

私は自然を愛しました。原理の80 パーセントを自然の中から見いだしたのです。
(374-235、2002.4.10)

世の中のあらゆる教材の中で、最もすぐれた教材が木と草です。種が蒔かれて大きくなり、春になれば花を咲かせ、実を結んで、主人に報いる贈り物をしていきます。また、毎年、より立派な枝を張り、より多く、より大きく収穫され、生い茂るのが自然世界です。
(386-298、2002.7.18)

先生の村には、時が来ると渡り鳥が飛んできます。ソウルのような都市に住んでいる人たちは、渡り鳥を知らないでしょう。ですから、人間の情緒的な面において足らない人たちです。自然の交流、交流の心情を知らないのです。

先生は、こっそりと渡り鳥についていってみたことがあります。美しい鳥なので、そのつがいが産んだ卵はどれほど美しいだろうか、卵の色はどんな色だろうか、と気になりました。それひたすら渡り鳥を見ているのですが、1週間くらい見ているのは普通です。

そのような鳥たちは、目立つ所に巣を作りません。腐った木の穴のような所は蛇が這い回っているからです。危険な所には作りません。丈夫で下に通じる穴に巣を作ります。誰がすべて教えてあげたのか、一つ穴の巣を作っておきます。巣も深く作るのではなく、いつでも周辺の状況を見渡せるように作ります。その世界で自分の生息のために保護できる感覚と知能というものは天才的なものです。
(137-223、1986.1.3)


鳥も国境がないと見るのです。彼らは、ビザもなく、何もありません。台風が吹いてきて、台風に「アメリカは世界で一番偉大な国、大国なので、ここは誰も入ってくることができないようになっています。ですから、台風も入ってくることができない」、それが通じますか。

小さな蟻も思いどおりに越えていき、小さな蛇も思いどおりに越えていき、虫も飛んでいきます。すべてこうなのに、なぜ人間は思いどおりに越えていくことができないのかというのです。

それもそうですが、メキシコの蟻とアメリカの蟻がつがいになって子供を思いどおりに産み、メキシコめすずめとアメリカのすずめが思いどおりに卵を産み、子供を産み、メキシコの豚、虎、すべて一つになって暮らしているのに、人はどうしてこうなのですか。そのような自然を見つめるとき、本当に、なんとも不思議なのです。
(106-138、1979.12.24)

  <次ページ>

 

コメント

世界経典-10

2020年10月06日 19時29分50秒 | 学習

②完全性は神様と一致すること

―宗教経典―

だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。
マタイによる福音書5.48 (キリスト教)

神から生まれた人は皆、罪を犯しません。神の種がこの人の内にいつもあるからです。この人は神から生まれたので、罪を犯すことができません。
ヨハネの手紙一3.9 (キリスト教)

誠は、天理本来の姿である。誠であろうとするのは、人の当然の務めである。真実無妄で、思勉するまでもなく、おのずからにして道に当たるのは聖人である
中庸20.18 (儒教)


まことに、キリストのもとに来て、キリストによって完全になりなさい。神の御心に添わないものをすべて拒みなさい。もしあなたがたが神の御心に添わないものをすべて拒み、勢力と思いと力を尽くして神を愛するならば、神の恵みはあなたがたに十分であり、あなたがたは神の恵みにより、キリストによって完全になることができる。そしてあなたがたは、神の恵みによりキリストに
よって完全になれば、決して神の力を否定することができない。
モルモン経、モロナイ書10.32(末日聖徒イエス・キリスト教会)

祝福されよ、主に信頼する人は。主がその人のよりどころとなられる。彼は水のほとりに植えられた木。水路のほとりに根を張り、暑さが襲うのを見ることなく、その葉は青々としている。干ばつの年にも憂いがなく、実を結ぶことをやめない。
エレミヤ書17.7 ~ 8(キリスト教)


至高な師は満足と寛容の木であるがゆえに、
正義がその花であり、教会はその実である。
この木は、神の中で喜びにあふれ、
永遠に枯れることがなく、
瞑想の実践によって実を結ぶ。
主の中でそれは喜んで用いられるがゆえに、
自己のない行為として
至高な愛を施すのと同じことである。
アーディ・グラント、ヴァール・マーシュ、M.1、P.147(シーク教)

完璧と不死と天則と王国を完全に主宰し給うことによって、マズダー・アフラは授け給え、心意と行為において彼(アフラ)の盟友たるものに、ウォフ・マナフとの交わりの永続を。これらのことは、正見にして獣身するものには、あらわに見えるのです。彼は、〔善〕思・善語と〔善〕行をもって、王国とともにアシャをも助けるもの。彼は、マズター・アフラよ、御身にとって最もよろこばれる客人となりましょう。
アヴェスター・ヤスナ31.21 ~ 22、(ゾロアスター教)
老子は答えた。「わしは万物のはじまる根源の世界に遊んでいたのだよ」孔子はたずねた。「それは、どういうことなのでしょうか」……
「この境地に達することができれば、最高の美しさと、最高の楽しさを得ることができる。このような最高の美を得て、最高の楽しい境地に遊ぶものを、至人というのだ」と老子は答えた。
荘子21(道教)

最高の我は、生老病死にひっかかることがなく、至高清浄で八つの業に染まっていない。それは無限の知恵と洞察と至福と権能をもち、破壊されることがなく、また尽きることがない。それは人の感官が及ぶところではなく、一切のこだわりや長短点、または再生から自由であり、永遠不変であり、比べるもののない自存者である。
クンダクンダ、ニヤマサーラ176.77、(ジャイナ教)130


―み言選集―

イエスが弟子たちに「あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」(マタイ5・48)と言われたみ言を見ても悟ることができる。創造原理によれば、創造目的を完成した人間は、神と一体となり神性をもつようになるので、罪を犯すことができない。したがって、そのような人間は、「創造目的から見れば、天の父の完全なように完全な人間である。

それゆえに、イエスが弟子たちに言われたこのみ言は、すなわち創造目的を完成した人間に復帰され、天国人になれという意味のみ言だったのである。このように、イエスは堕落人間を天国人に復帰させ、地上天国をつくるために来られたので、「みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように」祈りなさいと言われ(マタイ6・10)、また「悔い改めよ、天国は近づいた」(マタ
イ4.17)と叫ばれたのである。それで、彼の道を備えるために来た洗礼ヨハネもまた、「天国は近づいた」(マタイ3・2)と叫んだのであった。
それでは、創造目的を完成した人間に復帰され、イエスが言われたとおり、天の父が完全であられるように完全になった人間とは、いかなる人間なのだろうか。このような人間は、神と一体となり、その心情を体恤することによって、神性をもつようになり、神と一体不可分の生活をするようになるのである。
原理講論、メシヤの降臨とその再臨の目的1.1

人間が真の姿を成すには、すべての生死禍福の根源であられる神様と関係を結ばなければなりません。その関係を結ばなければ、人間個体内では真の姿を成し遂げることができないのです。

真は(注14)、必ず神様が中心にならなければなりません。ですから人間は、全体的に収拾して、主管し得る決定的な基盤をもつようになるとき、真が成されるのです。その基盤をもつことができな
ければ、「真」という名詞は成立し得ないということを知らなければなりません。

真の起源は、神様です。神様がいらっしゃることによって、真が成されます。神様が離れるようになるとき、真も離れるようになります。そこには真ではない、悪の起源が生まれるのです。このような事実を皆さんは知らなければなりません。

このような観点から見ても、真は、人間が勝手に考えることのできるものではありません。すなわち、堕落した人間が勝手に管理する、そのような位置に従属しているのではなく、真が私達を主管している、ということを知らなければなりません。ですから、私達は、いつも真の前に屈服しなければなりません。真を立てて、そこに順応しなければならないのです。
(24-315、1969.9.14)

神様を生活の中で直接五官を通して感じ、神様の実存を分かるようになってこそ、本当に神様が分かるようになります。言い換えれば、神様の実存を体恤して感じなければなりません。このように神様の実存を生活の中で直接、体恤して生きれば、自動的に神様のみ旨が何かを一瞬一瞬感じ、分かってすべてのことに臨むようになり、罪を犯そうとしても犯すことができない完成した人間の姿になるでしょう。

無形でいらっしゃる神様は、人間の実体をまとって主人的人格と形体を備え、有形世界である地上世界と万物万象はもちろん、霊界までも主管されるようになっているのです。このように、神様をはっきりと知ることは、人間の人生において最も優先的で重要な要素です。

神様をはっきりと知り、生活の中で侍って暮らし、霊界の実存はもちろん、実相までも信じて分かるようになれば、人間の人生は高速道路を走る自動車のように簡単で遮るものがなくなるでしょう。運転者が高速道路の法規を守り、ハンドルを握って居眠りさえしなければ、無難に目的地に到達できるように、天が下さった良心の指向に従って一生懸命に生きさえすればよいのです。そこ
で心と体も一つになるのです。そこで人間完成の花が咲き、実を結ぶというのです。
(447-157 ~ 163、2004.5.1)
真の人間とは何ですか。神様と遊び、神様と休み、神様と眠り、神様と生きようとする人間が最高の真の人間です。神様はどのような人を求めるのかというと、そのような真の人間を求めます。

同じように、私達人間が真のものを求めていき、真の世界を求めていくのですが、神様と共に暮らす世界が真の愛の世界であり、真の幸福の世界なのです。そこで初めて私達の理想境が顕現するのです。
(60-284、1972.8.18)


③完全性は神様のように愛すること

―宗教経典―

あなたがたも聞いているとおり、「隣人を愛し、敵を憎め」と命じられている。しかし、私は言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。

自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。徴税人でも、同じことをしているではないか。自分の兄弟にだけ挨拶したところで、どんな優れたことをしたことになろうか、異邦人でさえ、同じことをしているではないか。だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。
マタイによる福音書5.43 ~ 48(キリスト教)

主なる神は言われた。「私に似なさい。私が悪に対して善で返すように、あなたも私に似なさい」。
出エジプト記ラッバー26.2(ユダヤ教)

愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神かち出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです。……愛にとどまる人は、神の内にとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます。
ヨハネの手紙一4.7 ~ 16(キリスト教)

敵と味方に対して平等であり、また尊敬と軽蔑に対しても平等であり、寒暑や苦楽に対しても平等であり、執着を離れた人、毀誉褒貶を等しく見て、沈黙し、いかなるものにも満足し、住処(すみか)なく、心が確定し、信愛に満ちた人、彼は私にとって愛しい。
バガヴァッド・ギーター12.18 ~ 19(ヒンドゥー教)

霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。
ガラテヤの信徒への手紙5.22 ~ 23(キリスト教)

あなたの愛は普遍的でなければならない。あなたは、宇宙があなた自身の存在様相であることが分かるだろう。他の人々が不完全に残っている限り、私達の完成は完成ではないことを感じるときこそ、完全で全体的な完成が起きるだろう。

もし私達が私達自身を神の子と呼ぶのなら、他の人々もまた神の子である。私達がもっているものがいくら小さなものだとしても、彼らと分
かち合わなければ、私達は何の権利で彼らを私達の兄弟だと呼ぶことができるだろうか。

彼らは私達より少しあとから人生旅程を歩んでいるかもしれず、またいち早く眠りに就くこともあるだろう。しかし、完璧な完成が地球上に明けてくるためには、彼らはその目標に到達しなければならない。シュリ・チンモイ(ヒンドゥー教)
―み言選集―

道の世界において人格完成の標準は、どこから出てくるのでしょうか。愛から出てくるのです。神様の無限で絶対的な愛を中心として人格完成がなされるのです。
(33-79、1970.8.9)

イエス様は、勝利的天倫の道を開拓するために、歴史上になかった愛を強調したのです。そして、いかなる困難な環境にぶつかっても、その環境を克服するためには、忍耐心をもたなければならないと主張したのであり、罪人たちが悪に対して忠誠を尽くす以上に神様のみ旨めために忠誠を尽くさなければならないと語られたのです。これがキリスト教で言う聖霊の九つの実の根本です。

愛の生活をすれば喜楽と和平が出てくるのであり、忍耐を通しては慈悲と善良が出てくるのであり、忠誠の生活をすれば温柔と謙遜が出てきます。
イエス様は、堕落圏内にいる人間たちのすべての悪の要素を除去してあげるために、天的な愛と天的な忍耐、天的な忠誠を強調しました。これらが天国の理念を達成させ得る実践的な理念ですが、今日、皆さんの心にこのようなキリストの愛がありますか。また、忍耐と忠誠心がありますか。
(2-345、1957.8.4)

神様はどのようなお方でしょうか。(注15)神様は、地上の良い人からも好まれ、悪い人からも好まれるお方です。罪を犯して死刑場に出て死ぬようになる死刑囚も、「神様! 私を哀れに思ってください。私はあなたを愛しています!」と言って死にます。「この神様め! 私は死ぬ。あなたが私をこのようにした!」とは言いません。

では、悪いことをして死んでいく立場にある人も、どうして神様の前では、良い心で犠牲になり、希望をもって再出発することを誓いながら、その神様に最高に寄与し、また頼り、彼と共にいたいと思うのでしょうか。内心では切に、「父母から離れ、兄弟から離れても、誰よりも近くで事情を通じたい」と思うのです。これは、神様が真であるために、そのように言うのです。
真の人は、好きな者だけを好むのではなく、自分を殺害しようとする怨讐までも好きにならなければなりません。また、彼の前には、すべてを任せることができ、すべてを相談したくもあり、すべてを願うこともできる立場にある人であってこそ、真の人です。

それでは、今まで育ってきた過程で、憎い人がいる人は、真の人ですか、偽りの人ですか。偽りの人です。憎い人がいる人は、間違いなく偽りの人です。これをはっきりと知らなければなりません。真の人になろうとする人なら、この両面を備えているべきです。それで、私を憎む人をも好きになろというのです。私を憎む人を私が好きになれば、その人も私を好きになるのです。私を憎む人に私が3回以上良く接してあげれば、彼は頭を下げるようになるのです。3回だけ良くしてあげれば、頭を下げます。そうか、そうでないか、一度やってみなさい。人には良心があって、自分が誤ったのか良くやったのか、分かるのです。
(39-302 ~ 304、1971.1.16)

皆さんの心に神様の愛が根付いていて、引き抜こうにも引き抜くことができないようになっていますか。「私は神様の愛になすすべなくぶら下がって生きる者だ。私の体を私の思いどおりしようとしてもできない。私の体に神様の愛が深く根付いているので、私は私の思いどおりに生きようとしても生きることができない。

神様の愛を中心として生きまいとしても生きざるを得ない人だ。御飯を食べるときも、神様の愛を中心として食べ、生きるときも、心と体が神様の愛を中心として生きる私だ」と言うことができますか。
(140-24 ~ 25、1986.2.1)


8.喜び

幸福を追求することは、人間の人生はもちろん、宗数的な探求の土台となる。究極的実在との合一は、超越的な喜びを享受することができる。それは、至福(アーナンダ)、涅槃、または神聖な愛する人との婚姻として多様に特徴づけられる。唯一神論的な信仰によれば、神様は喜びのために人間を創造した。神様とその被造物との合一は、その喜びを完全なものにする。

この節では、人間の心情と神様の心情が合一して共鳴する、そのときの天国の喜びを描写する章句で始まる。そしで、天国の喜びの広大さと感覚を通した部分的な快楽を比較する章句が出てくる。このような洞察は倫理に対する論議でおろそかに扱われてはいけない。ジョージ・ワシントンは次のように言った。「徳と幸福の間には不可分の合致点がある」。
私達は、喜びに満ちた人生と天国の喜びとの間の相乗作用を描写する章句で締めくくる。ほかの人々に幸福を分け与えようとする努力が伴う愉快で楽天的な姿勢は、聖霊の喜びを引き寄せることができる。これは、夫婦の愛と神聖な愛の神秘な連関の中で経験される。(第19 章5、「夫婦愛」参照)

①天の喜び

―宗教経典―

命の道を教えてくださいます。私は御顔を仰いで満ち足り、喜び祝い、右の御手から永遠の喜びをいただきます。
詩編16.11 (キリスト教)

月日にわにんけんはじめかけたのわ
よふきゆさんがみたいゆへから
おふでさき
14.25、(天理教)

幸福は真理と愛から生じる霊的なものである。それは利己的ではない。それで、それは単独で存在することはできず、すべての人間がそれを共に分かち合うことを要求する。
科学と健康57(クリスチャン・サイエンス)


「目が見もせず、耳が聞きもせず、人の心に思い浮かびもしなかったことを、神は御自分を愛する者たちに準備された」と書いてあるとおりです。
コリントの信徒への手紙一2.9 (キリスト教)

人間は、その行なったことの報奨として、満悦させられるものが、ひそかにかれらのために用意されてあるのを知っていない。
クルアーン32.17. (イスラーム)

「雲のようにこの世に出現した余は、如来であり、人間の最高者であり、勝利者である」と。余は、三種め迷いの世界に繋縛されて四肢の痩せ衰えた、すべての人間を元気づけよう。苦悩にさいなまれた者たちを安楽にさせ、かれらに、さまざまな快楽と平安な境地を与えよう。
法華経5(仏教)


カルマの汚染から自由な者は、宇宙の究極に入っていき、一切を観照し、すべてのことを知り、永遠の至福を享受するだろう。
クンダクンダパンチャースティカーヤサーラ170(ジャイナ教)

神を唱念することにより、心の安らぎは得られるのである。
クルアーン13.28(イスラーム)

私の聖母よ! 聖なる師と一つになることで私は至福を得ました。知らず知らずの間に起きた彼との一体の中で、胸の奥深い所に楽しい音楽が響き渡り、珠玉のような旋律の天使たちが降りてきて聖歌を歌います。「そなたはそのすべてを賛美せよ、胸の中に抱いた主の歌を!」とナーナクが言うと、私は聖なる師と一つになる至福を得たのです。
アーディ・グラント、ラームカリー、M.3、p.917(シーク教)

おのが身に、すべてのもののうちの最勝なるもの〔すなわち〕楽土にある安楽をば、人は獲得したいものである――御身の、分別し給う最勝のスプンタ・マンユを通して、マズダーよ。〔けだし〕いつの日までもつづく長き生命の歓喜とともに、ウォフ・マナフの至福をも、御身はこれ(スブンタ・マンユ)によって、天則に従って授け給うのです〔から〕。
アヴェスター・ヤスナ・43.2(ゾロアスター教)

 

―み言選集―

喜びというのは、神様の心情から出発するものです。その目的は、どこで遂げられるかというと、人間によって遂げられるのです。見えない神様の心情が、目に見える人間の心情で顕現するのです。
(27-29、1969.11.15)

人はなぜ生まれたのでしょうか。神様を愛するために生まれたのであり、また万物を愛するために生まれました。反対に言えば、神様の愛を受けるために生まれたのであり、万物の愛を受けるために生まれたのです。
(81-334、1975.12.29)

いったい、神様の創造は何を目的としたものなのでしょうか。神様がいるとすれば、神様が創造したその目的は何でしょうか。私達人間が願う目的と同じでしょうか。神様も喜ばれるためにつくられたのです。喜び楽しむためだということです。
喜び楽しむにおいては何を中心として喜ぶのでしょうか。お金をもって喜ぶのでしょうか。この宇宙のすべての万象をもって喜ぶのでしょうか。人間たちが喜ぶことのできるそのようなものをもって喜ばれるためではなく、愛をもって喜ばれるために万物をつくられたのです。このすべての万物を、そのような目的のもとにつくったのです。

それでは、万物が願う最高の願いとは何であり、最高の終着点とは何でしょうか。このように見るとき、愛を通じた喜びを目的として万物をつくったとすれば、被造世界の万物は、愛を通して連結され得る因縁を抜け出すことはできません。そのような万物は、真の神様の愛を受けるために理想的に作用をするのです。
(114-63、1981.5.16)

人情と天情の合一点が、幸福の出発点である。
御旨の道、天国
人は自分が良いときは父母、兄弟、親戚を訪ねて、一緒に楽しもうとします。良いことは幸福なことなのです。幸福は永遠なものであり、永遠なものは心情です。

宇宙の中心は何でしょうか。それは父母と子供だというのです。すなわち父母と私です。神様と私だというのです。神様は父であり、私は息子です。人生の究極的目的は、父を訪ねて断ち切ることのできない関係を結び、喜びを感じることです。
(12-104、1962.12.16)

ある人が、このような物やあのような物をいっぱいつくっているのですが、ほかのある人が、「ああ、好きだ! ああ、好きだ! 愛している、愛している」と言えば、その主人がそれを見て、「本当に好きですか。本当に好きですか」と尋ね、自分よりもっと好きだということを確認すれば、彼にあげたいと思うのです。私よりもっと愛すればあげるのです。それをつくった自分よりもっと愛すれば、自分のものをその人にあげたいと思うというのです。
皆さんもそのような心があるでしょう? 神様も同じです。ですから、ねずみを見ても、「ああ、神様があれをどれほど愛されるだろうか」と言って愛し、子犬も愛し、蝶を見ても愛すれば、神様が、「それでは、お前にあげよう、お前にあげよう。お前がもっていきなさい、お前がもっていきなさい」と言います。

愛してこそ与えるのであって、そうでなければ与えません。主人の立場にいれば分かるのです。ひたすら愛して喜んでいれば、「では、お前にあげよう」、そのように言わざるを得ません。ですから、愛の刺激体として私のためにつくったという話は、正しい話です。愛を誘発するため
です。

このような万物を愛するのを見るとき、神様が、「あいつは私より優れている」と思われます。……神様も同じです。神様が私を愛するということです。神様に腕があれば、後ろに来て抱きかかえ、「おいおい、こいつ! うれしいなあ!」、このような局面です。……神様が喜んで抱きつけば、私も喜んで振り返って神様を抱きかかえるのです。神様が、「おい、それはいけない」とおっしゃるでしょうか。神様が好きだと言って神様に無限に入り込んでいけば、神様も、「よい、よい、よい」とおっしゃいます。そう言わざるを得ません。すっかり喜ばれるというのです。

そこで酔っていればい神様はどうされますか。神様に出会って愛の病にかかり、酔って楽しんでいれば、神様がそれを見て喜ばれるでしょうか、気分を悪くされるでしょうか。「ああ、私の愛は良いものだなあ。はは!」と大きく笑うのです。その時に神様が「アーメン」と言います。「ええい、不愉快なやつ!ええい、不愉決だ」とおっしゃるでしょうか、その場で「ああ、うれしい!」
とおっしゃるでしょうか。「とてもうれしい」、その言葉しかないというのです。

そのようになったあとには、二人で酔って抱きつき、乗っかろうと、下に敷こうと、どこに連れていってもうれしく、おしりにそのままくっついてもうれしく、すべてかまわないのです。そのようにできる道が最も望ましい道ではないですか。神様も願い、人間も願い、万物も願う道ではないか、このように結論を下すことができるのです。
(111.171 ~ 172、1981.2.15)

 

②感覚的喜びを超越する神聖な喜び

―宗教経典―

神の国は、飲み食いではなく、聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです。
ローマヘの信徒へ手紙14.17(キリスト教)

豊満(プーマン)なるものが即ち愉悦である。貧欠なるものには愉悦は存在しない。豊満こそ愉悦である。だから、豊満そのものを識得することに努めなければならない。
チャーンドーギヤ・ウパニシャッド7.23(ヒンドゥー教)

神は、男の信者も女の信者も、……永遠(エデン)の園の中の立派なやかた、そこに住むことを約束したもうた。だが最も偉大なものは、神のご満悦である。それこそは、至上の幸福の成就である。
クルアーン9.72(イスラーム)


この世に於ける諸欲の楽と、この天上の楽とは愛尽の楽の十六分の一にも値せず。
感興偈11(仏教)

孤独の味、心の安らいの味を味わったならば、恐れも無仏罪過も無くなる。真理の味をあじわいながら。
法句経205(仏教)

外界との接触に執心せず、自己「アートマン」のうちに幸福を見出し、ブラフマンのヨーガに専心し、彼は不滅の幸福を得る。実に、接触から生ずる諸々の享楽は、苦を生むものにすぎず、始めと終りのあるものである。アルジュナよ、知者はそれらにおいて楽しまない。
バガヴァッド・ギーター5.21 ~ 22(ヒンドゥー教)

それはじつに精(rasa)である。これはじつに精を得て、歓喜あるもの(anandin)となる。じつにもしも虚空のなかにこの歓喜がなかったならば、だれが気を吸い、だれが気であろうか? なんとなれば、この〔精〕はじつに歓喜を起こさせるものだから。歓喜の性質とは何であろうか? 高貴で、学識があり、頭がよく、強く、健康で、世界中の富を意のままにできる若者の運命を考えてみよ。彼が幸福であるとし、彼の歓喜を一単位とせよ。

その歓喜め百倍がガンダルヴァスにとっての一単位である。しかし自己を啓示され、渇望のない先覚者は、ガンダルヴァスに劣らないほどの歓喜を持っている。

ガンダルヴァスの歓喜の百倍が、天上界のガンダルヴァス〔天使〕の歓喜の一単位である。しかし自己を啓示され、渇望のない賢者は、ガンダルヴァスに劣らないほどの歓喜を持っている。

天上界のガンダルヴァスの歓喜の百倍が、楽園に住む祖霊達の歓喜の一単位である。神々の歓喜、祭祀より生まれた神々の歓喜、神々の支配者の歓喜、インドラの歓喜、ブリハスパティの歓喜、プラジャパティこの歓喜、ラフマーの歓喜、しかし自己を啓示され、渇望のない先覚者は、ブラフマーに劣らないほどの歓喜を持っている。この様に書かれている。「言葉で表すことができず、意によって到達することのできないブラフマンの歓喜を知る者は、恐れより解放される。彼は、「な
ぜ私は正しいことをしなかったのか? なぜ私は誤ったことをこしたのか?」という思いによって悩まされることがない。ブラフマンの歓喜を知る者は、善悪を共に知り、それらを共に超越する。
タイッティリーヤ・.ウパニシャッド2.7 ~ 9(ヒンドゥー教)

誰でも肉体的な快楽を楽しむごとができる。奴隷も最も良い人に劣らず楽しむことができる。しかし、奴隷も自らの人間的な生活をしているなら分からないが、誰も奴隷が幸せだとは思わない。したがって、幸福はそのような暇つぶしのたねにあるのではなく、徳のある活動に含まれている。
アリストテレスニコマコス倫理学10.6(ヘレニズム)


―み言選集―

私達人間をじっと見てみると、ひたすらあちこち歩き回って、目も麻痺になり、耳も麻痺になり、においをかぐ鼻も麻痺になり、味わう口も麻痺になり、2本の腕も麻痺になり、すべて麻痺になったというのです。

私の目が、私の耳が、私のすべての感覚器が一体化して、すべての神経線まで全体を総合し、私を一つのところに導くことのできるその道はどこでしょうか。陶酔し、喜びを感じて生きることのできる道があるとすれば、それはどの道でしょうか。それが私個人の人生の道として、私の一つの道として、私が満足できるだけでなく、私に従う家庭が満足し、私が属している氏族が満足し、私が属した国が満足し、私が属した世界が満足し、私が属した天地が満足し、神様までも満足できる、
そのような光の道がどこにあるでしょうか。これが問題だというのです。
(95-181、1977.11.13)

個人生活を中心とする人々はよく感じることができませんが、恩恵深い生活をする人々は、いつも見ている万物が昔とは異なるように感じられるのです。

いつも新しいのです。朝に見ても新しく、夕方に見ても新しいのです。神様の恩賜がゆっくり波打ってくるとき、神秘さを立体的に感じます。そのように感知する人がいれば、彼は幸福な人です。
(30-134 ~ 135、1970.3.21)

神様がいれば、その神様と人間はどこで連結されるのですか。生命が交流する所、愛が交流する所、理想が交流する所です。その点がどのような点でしょうか。父子の関係にならざるを得ないという結論が出てきます。

このように見るとき、「ああ、私が神様と同等になることができるので、そのような喜びがどれほど大きいだろうか」と考えてみることを願います。そこで祈祷が必要ですか。「神様、私は罪人です」という祈祷が必要ですか。愛の主体であり、生命の主体であり、理想の主体なのに、祈祷が必要ですか。威信と体面を超越するのです。ためらうことなく神様をつかむことができるのです。

そのように、神様が抱きかかえてなでてくれ、愛してくれることを体験すれば、骨と肉が溶けてしまうでしょう。ここに宗教指導者も来ていると思いますが、そのような神様の愛を一度受けてみましたか。そのような位置で息をすれば、世界が行ったり来たりするのです。阿片を飲み、酒を飲んで酔うよりも劣るでしょうか。阿片にも劣るのですか。酒にも劣るのですか。神様の愛に入ってくれば、満たされない所がありません。

約400 兆にもなる細胞までも踊りを踊ることを感じることができるのです。目は目で、手は手ですべて感じるのです。それ以外のほかのものは、もってきてもすべて嫌います。このような神様の愛があるので、人間の最高の高貴な欲望がそれを目指していることを徹底して知らなければなりません。(69-79 ~ 80、1973.10.20)
きょう一日が喜びで消化されるのは感謝なことですが、この喜びをあすの喜びとしてもっていくことができなければ、きょうの喜びは、私にとって永遠の怨讐になることを知らなければならず、悲しみと困難と嘆息の条件にしかならないことを知らなければなりません。

喜びが良いことばかりではなく、悲しみが悪いことばかりではないことを知っております。問題は、喜びと悲しみを連結するにおいて、自分の目的成就のための内的闘争がその環境にどのくらい結
ばれていくのかということが重要であることを知っております。

このようなことを分かるようになるとき、私達がみ旨と共に生涯路程を行くにおいて、み旨とどのくらい一致したのか、み旨の価値に私達の喜びと悲しみがどのように連結されていくのかということを考えるようになります。
(43-10、1971.4.18)

 

③楽しい生活

―宗教経典―

怨みをいだいている人々のあいだにあって怨むこと無く、われらは大いに楽しく生きよう。怨みをもっている人々のあいだにあって怨むこと無く、われらは暮らしていこう。悩める人々のあいだにあって、悩み無く、大いに楽しく生きよう。悩める人々のあいだにあって、悩み無く暮らそう。われらは一物をも所有していない。大いに楽しく生きて行こう。光り輝く神々のように、喜びを食む者となろう。
法句経197 ~ 200(仏教)

聖霊はうれしく思う心をもつ者にだけ共にされる。
エルサレム・タルムード、スッカー5.1 (ユダヤ教)


北風よ、目覚めよ。南風よ、吹け。私の園を吹き抜けて香りを振りまいておくれ。恋しい人がこの園をわがものとして、このみごとな実を食べてくださるように。私の妹、花嫁よ、私の園に私は来た。香り草やミルラを摘み、蜜の滴る私の蜂の巣を吸い、私のぶどう酒と乳を飲もう。友よ食べよ、友よ飲め。愛する者よ、愛に酔え。
雅歌4.16 ~ 5.1(キリスト教)


―み言選集―

先生は、あることに着手すれば、「このために生まれた!」と考えます。生まれたのはこのためだと考え、その次には、喜んでするのです。喜んでやりながら生きなければなりません。険しい峠を越えられるものが愛です。自分が気が向かないことには手を出しません。心がすべて知っています。喜んでするところには、神様が行かれて福を祈ってくださるのです。
(308-214、1999.1.5)

皆さんが70 年、ないし80 年を生きると考えるとき、その中で3分の2が悲しい生活だとすれば、この3分の2をどのようにしなければなりませんか。神様を中心として喜びの生活にしなければなりません。天国化させなければならないということです。天国は与えながら生きる所です。神様も与えなければなりません。父母は子女に与えなければなりません。良いものを与えたあとも、もっと良いものがあれば、それをまた与えたいと思うのが父母の心です。(34-141、1970.8.30)
なぜ男性が女性を必要とし、なぜ女性が男性を必要とするのですか。神様の愛に共鳴するためです。そのようになれば、「ああ、よい!」と言うのです。

食べなくてもよく、寝なくてもよいと言います。女性に男性が必要であり、男性に女性が必要です。完全な男性と完全な女性の愛が共鳴されてこそ、完全に神様の愛が成し遂げられるのです。
(102-21、1978.11.19)

横的な夫婦の愛が神様の理想的愛によって完全に花開き、その愛の香りが全世界を覆い尽くすと同時に、神様の愛が加えられ、父と息子、娘の位置が完成するのです。

息子、娘の幸福を謳い、息子、娘の希望と息子、娘の万事を賛美することができ、愛を謳うことができます。それだけで終わるのではなく、皆さんがもつその愛の貴い贈り物の上に立体的愛を加え、この宇宙が膨らむようになるのです。
風船を知っているでしょう? 平たくつぶれた風船をふーっと吹けば大きくなるように、宇宙が膨らみ、存在世界の万物がその中に入っていってあまりある宇宙になるのです。すべてのものを充満させることのできる愛の力によって登場するというのです。
(101-35、1978.10.28)


第4章 神様の創造と人間の創造性

1.自然の神聖さ

自然は真に神聖である、大小すべての被造物は、神様の生命を賦与され、神様の霊を分有されている。すべての伝統宗教が共有するこのような洞察は、あらゆる生物に対する尊重と恭敬の礎石となる。

アブラハムの伝統宗教によれば、神様は自らの目的に従ってそれぞれの被造物を創造したのであり、愛で満ちた自らの心情を注ぎ入れた。ゆえに、砂粒一つ、草の葉一枚に至るまで、すべての存在は神性の要素をもつ。

さらに自然は、驚くべきバランスを見せる。した
がって自然は、詩的、宗数的霊感の信頼するに足る源泉である。自然の本来の純粋さを黙想することによって、私達は神様と触れ合うことができる。

知恵のある人々は、すべての被造物が一種の意識的な知識の次元をもつことを感知する。多様な種類の動植物は、人間の氏族と世界のように種と類を成す。

それらは、私達の体を構成し、命を支える要素を私達に貸してくれた、正にその母、大地によって養育される兄弟姉妹たちである。自然が提供してくれるすべてのものを考慮すれば、私達は自然に対して、大きく感謝しなければならない。

文鮮明先生の教えのように、各被造物は、生きている神様の傑作品として、私達のために、すなわち私達の喜びと、霊感と、学びのために存
在する。したがって私達は、自然を愛し、保護しなければならない。

①自然界に内在する神性

―宗教経典―

一枚の木の葉も、あるいはもろい草の葉さえも、畏敬すべき神がその自らを表している。
卜部兼国(神道)

地とそこに満ちるもの、世界とそこに住むものは、主のもの。
詩編24.1 (キリスト教)

世界は庭園、主はこれを育てる庭師、すべてを大切にし、そこつがない。
アーディ・グラント、マージュアシュタバディー、M3、p18(シーク敦)

私は、大地に入って、威力により万物を支持する。また、液汁(甘露)よりなるソーマとなって、すべての植物を育てる。
バガヴァッド・ギーター15.13 (ヒンドゥー教)

深い天
曇った天
善い天
まっすぐな天
大地が草木を生む
草木が私達を生かす
私達を長生きさせ
恵ませる
善なる生命よ
大気の中に流布されよ
広がれよ
果てまで満たせ
甘い薬の大地は善良だ
甘い薬の大地は完全だ
甘い薬の大地は永遠の道を行く
甘い薬の大地は洗われ水が流れる
シャイアン族の歌(アメリカ先住民の宗教)


主は泉を湧き上がらせて川とし、山々の間を流れさせられた。野の獣はその水を飲み、野ろばの渇きも潤される。水のほとりに空の鳥は住み着き、草木の中から声をあげる。

主は天上の宮から山々に水を注ぎ、御業の実りをもって地を満たされる。家畜のためには牧草を茂らせ、地から糧を引き出そうと働く人間のためにさまざまな草木を生えさせられる。

ぶどう酒は人の心を喜ばせ、油は顔を輝かせ、パンは人の心を支える。主の木々、主の植えられたレバノン杉は豊かに育ち、そこに鳥は巣をかける。こうのとりの住みかは糸杉の梢。

高い山々は野山羊のため。岩狸は岩場に身を隠す。主は月を造って季節を定められた。太陽は沈む時を知っている。あなたが闇を置かれると夜になり、森の獣は皆、忍び出てくる。

若獅子は餌食を求めてほえ、神に食べ物を求める。太陽が輝き昇ると彼らは帰って行き、それぞれのねぐらにうずぐまる。人は仕事に出かけ、夕べになるまで働く。主よ、御業はいかにおびただしいことか。あなたはすべてを知恵によって成し遂げられた。地はお造りになったものに満ちている。
詩編104.10 ~ 24 (キリスト教)

渓流は寂しい小道を横切り、
寂しい小道は渓流を横切る。
そのどちらが先か。
私達はこの渓流と出会って歩むためにその寂しい小道を断ち切ったのではな
かったか。
渓流はその起源がとても古い。
その起源は創造者から始まった。
彼はあらゆるものを純粋にタノで創造した。
アシャンティ族の詩(アフリカ伝統宗教)


―み言選集―

野に育つ微々たる草一株でも、そこに神様のみ手が触れていないものがないことを私達は考えなければなりません。育っている1本の木を見ても、そこには神様の無限の内的心情の因縁を通じた事情を経ていることを、私達はもう一度思い出してみなければなりません。
(6-338、1959.6.28)

すべての万物が、そのように因縁を結ばれているというのです。そして、因縁というのは、極めて小さいところから結ばれるものです。皆さんの個体も数十(400)兆個もの細胞で因縁が結ばれた生命体です。神様の愛を中心とした創造理念の世界、すなわち大宇宙のすべての存在物はどれ一つをとってみても、神様の心情の外で生じたものはありません。

このようなことを感じる詩人がいたとすれば、偉大な詩人です。1枚の木の葉が揺れるのを見て天宙的な心情を感じ、それを表現できる詩人がいたとすれば、それは宇宙的な詩人だといえます。

今日私達は、このようなことに対して、あまりにも無視し、無関心でした。私達の周囲で無意識のうちに繰り広げられている天下万象は、神様の愛と共に存在するものであるという事実を知りませんでした。

神霊的な境地に入ってみると、小さな砂一粒にも宇宙の理致が入っているし、一つの原子にも無尽蔵の宇宙の調和が入っていることが分かります。存在するすべてのものをよく知ることはできませんが、ある複合的な力を通して現れた結果であることは否定できません。

分子を越えて原子、原子を越えて素粒子…
…。これらのものは無意識的に存在するのではなく、ある意識と目的をもって存在するのです。ですから、存在するすべてのものは、神様の愛の手を通って出てきたものであり、必ず神様と心情的な関係を結んで存在している事実を、徹頭徹尾知らなければなりません。
道人とはどのような人でしょうか。一握りの草をつかんでも、「神様!」と言うことができる心情で、その価値を自分の価値と同等に認識できる人が最高の道人です。そのように、その価値を謳歌できる人が最高の芸術家です。

色とりどりに存在する万象を見て、神様の色とりどりの愛と心情の妙味を発見し、それらのものと友達となり、共に楽しめる感情をもった人がいるとすれば、そのような感情で細胞の一つ一つが動く人がいるとすれば、その人は万宇宙を代表し得る人であるはずです。そのような人が万物の霊長です。

ところで、食べることしか知らない人が万物の霊長になれますか。神様が被造世界を造るとき、そこには喜びがありました。造ってから、見て「良し」と言われました。喜びがあったということです。喜びとは何ですか。


ある目的を成し遂げたときに感じるものです。つくられた万物に神様の目的意識が内在していたがゆえに、創造された万物に神様は喜びを感じられたのです。

それでは復帰の世界とは、どのような世界なのでしょうか。一言で言えば、森羅万象の個体、個体を見て神様を賛美し得る心情的な因縁を、立体的に備えた人々が住む世界です。天から見た人格の価値は、そこにあります。

ですから昔、聖フランシスのような人が、動物を見て、あるいは鳥を見て説教したというのも、うそではありません。夢のような話です。しかし、夢ではなく事実です。
(9-168 ~ 169、1960.5.8)

絶対者がいるとすれば、その絶対者が天地万物を創造するとき、悲しい心で創造したでしょうか。違います。喜びの心で創造したのです。創造されていく過程を見ながら、絶対者であられる神様は喜ばれたでしょう。
だとすれば、どのくらい喜ばれたでしょうか。どれほどうれしく思われたでしょうか。そして、どのくらいの価値としてすべてのものをつくったのでしょうか。

神様が容認されたそのような価値の内容を、今まで人間たちは知りませんでした。知る由もなかったのは、今まで人間たちは、神様を尋ね求めてい
く過程にいたために、その価値を究明し、その価値の定義を下せなかったからです。

ですから、神様が人間を創造するとき、本当の喜びで造ったのなら、その人間に対してどのくらいの価値の内容を賦与されたのであり、どのくらいの喜びの対象として造ったのでしょうか。これが問題です。
(27-223、1969.12.14)

私達人間は、自然を愛します。自然を好みます。人間より自然をより好むのです。自然は純粋です。本然の状態を、そっくりそのまま所持しています。
良い文化住宅に住み、良い文化生活をしながらも、「ああ、山に行きたい。海に行きたい」と思うのですが、なぜ行きたいと思うのですか。そのような所は、本然の状態をそのままもっているからです。
(107-311、1980.6.8)

人類の文化は、自然を抜きにしては考えることができません。自然から離れた人類文化は語ることができないのです。人間がいくら堂々とその威勢を誇り、権勢を享受したとしても、自然を無視すれば、そのすべてのものが成立しないというのです。

このように、私達の生活を価値あるものにしてくれるのが自然であり、私達の生涯において絶対に必要なものが自然なのです。ですから、自然万象に流れている心情を感じ得る人になれなければ、真の幸福を享受できず、天と因縁を結べる栄光の位置に出ていくことはできません。

今から皆さんは、一株の草を見るとしても、神様の立場で見ることができなければならず、花を見つめるとしても、神様の心情を身代わりする立場、神様の心情に通じ得る立場で見つめなければなりません。昆虫や鳥、ある動物を見つめるときにも、神様の心情と因縁が結ばれる、そのような内的な感情を体得できなければなりません。
(6-340.1959.6.28)

お父様! 万有の主人であられるあなたの前に、すべての天地万物が永遠無窮に称賛をお返しすることを願います。どれ一つとして、あなたの因縁の中から外れてつくられた存在はないがゆえに、お父様によって、お父様の心情を通してつくり出されたすべての天地万物は、お父様の栄光を高め、お父様の神聖さと深奥さを現し、お父様の無限の価値を現しているという事実を、私達は知っております。
(20-243、1968.7.7)

  <次ページ>

 

コメント

世界経典-9

2020年10月06日 19時04分56秒 | 学習

 


④人間の本然の価値具現

―宗教経典―

神のみもとで最も尊い者は、なんじらのうち最も主を畏れる者である。
クルアーン49.13 (イスラーム)

螺髪を結っているからバラモンなのではない。氏姓によってバラモンなのでもない。生れによってバラモンなのでもない。真実と理法とをまもる人は、安楽である。かれこそ(真の)バラモンなのである。
法句経393 (仏教)

彼の行為が彼を低くすれば、彼の家門は繁栄できない。
ナフジユ・アル・バラーガ語録21(イスラーム)


四つの階級で、ブラフミン、クシャトリア、バイシャ、スードラがあり、人生には4段階がある。しかし、彼らの中で主に瞑想する者は、誰もが気高い者だという。
アーディ・グラント、ガウンド、M.4 p.861 (シーク教)

正しいさとりを開き、念いに耽り、瞑想に専中している心ある人々は世間から離れた静けさを楽しむ。神々でさえもかれらを羨む。
法句経181(仏教)

良い評判を得る道は、その人が見えることを願うその人になるように努力することです。
ソクラテス(ヘレニズム)


―み言選集―

愛を中心として人間の価値を究明しなければならないことを、皆さんは知らなければなりません。
(99-63、1978.7.23)

人間の貴重な価値を満点にすることは、真の愛と一体となる時に可能です。心身一体は、良心と肉身が共鳴圏に立っていることを意味します。音叉の周波数が同じとき、一つをチンとたたけば、その反対の音叉が響きます。

それと同じように、真の愛によって良心をたたけば、肉身が響きます。真の愛で肉身をチンとたたけば、良心が共鳴圏をつくるようになるのです。そこには、教育が必要ありません。そのど真ん中に入っていけば、教えなければならないすべてのことを知るようになるというのです。
(223-356 ~ 357、1991.11.20)


アダムとエバが堕落していなければ、彼らの体は心が行く道に反対せず、従っていくようになっていたでしょう。体が心に絶対的に服従していたのです。

そのようになれなかったために、今日の人類も神様の真の愛に至ることができず、実質的な人間の価値を失ってしまうようになったのです。それをはっきりと知らなければなりません。

いかなる困難があったとしても、心と体を一つに
しなければなりません。そこから神様の愛が連結されるのです。そのようにしなければ天国に入っていくことができません。
(399-153、2002.12.22)

堕落した人間の最後の目的は、神様が本来の創造目的として下さった自我の自主性、尊厳性、および価値性を回復することである。
御旨の道、人格


6.良心と、もって生まれた善

良心は、私達が善を行うように促し、悪を行おうとする性向を防ぐ内面の神的光彩である。仏教はこの機能を「悟りを得る心」または「仏性」と表現するが、それは知恵の目を通して明らかにされ得る。

儒教はそれを仁とみなすが、広く知られた孟子の比喩によれば、これは井戸に溺れかかった子供を保護しようとする哀れみの心の発露を意味する。

またイスラームは、人間の心を本来、正直なものとみなし、使徒パウロは、良心が全く宗数的な教えを受けることができなかった人々さえも、正誤を区別できるようにしてくれるものだと言った。

良心は積極的に作用し、自己の向上とより良い社会のための理想を追求し鼓舞する。良心はまた消極的に作用し、私達が利己的な行動をしたり、人を傷つける行動をするとき、とがめ、教え諭したりもする。
これと関連し、文鮮明先生は、良心を父母より私達をもっとよく知る「宝のような師」と言う。良心は神様が贈ったものであり、私達に自己の向上を可能にさせ、究極的に神様が意図していた私達自身の完全な目的を実現できるようにする。

しかし、それは肉身の自己中心的欲望と絶えず闘わなければならない。私達は、日常生活においてゆがんだ良心を示すこともあるが、それは良心
が本性的に天賦的なものだとしても、後天的な訓育と教育が良心の判断に重大な影響を与えることができるからである。

正誤に対する誤った判断によって良心を洗脳することは、実に人間の霊魂に対する最悪の冒pである。良心には様々な次元がある。良心の表面にある次元は相対的で、ある人の真理概念を固守する。しかし、より深い次元には本心があり、それは絶対的な神様と関係を維持する。
したがって、堂々とした心でキリスト教徒たちを迫害していたタルソスのサウロのような人に、より高次的な真理の洞察が起きたのであり、人生の
方向を変えて使徒パウロになることができた。良心の根に神聖な本質があるので、すべての人間は結局、救援されるというのは、文鮮明先生の楽観的見解の基盤となるのである。

①善に基づく本心と心情

―宗教経典―

たとえ律法を持たない異邦人も、律法の命じるところを自然に行えば、律法を持たなくとも、自分自身が律法なのです。こういう人々は、律法の要求する事柄がその心に記されていることを示しています。

彼らの良心もこれを証ししており、また心の思いも、互いに責めたり弁明し合って、同じことを示しています。そのことは、神が、私の福音の告げるとおり、人々の隠れた事柄をキリスト・イエスを通して裁かれる日に、明らかになるでしょう。(注11)
ローマの信徒への手紙2.14 ~ 16(キリスト教)

温良は仁の根本なり
礼記38.18(儒教)

真の宗教とは、究極的に人間の霊性に基づぐ徳行である。
クンダクンダプラヴァチャナサーラ7(ジャイナ教)

実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。(注12)
ルカによる福音書17.21 (キリスト教)

ワービサ・イブン・マアバドが言った。「お前は高潔さについて訊ねるためにやって来たのかね」私は「はい、そのとおりです」と答えた。すると預言者は言われた。「自分の心に訊ねてみるがよい。高潔さとは魂が満ち足り、心も満足を覚えるようなものだ。だが悪行は魂にしみつき、他人が繰り返し『お前が法的に正しい』と言ってくれても、胸騒ぎを覚えさせずにはいない」。
ナワウィー40 のハディース27(イスラーム)

もし言下に自己の本心がわかり、自己の本姓を見届けるならば、そのまま丈夫、天人師、仏と呼ばれる。
六祖壇経1(仏教)
あなたの体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、濁っていれば、体も暗い。だから、あなたの中にある光が消えていないか調べなさい。あなたの全身が明るく、少しも暗いところがなければ、ちょうど、ともし火がその輝きであなたを照らすときのように、全身は輝いている。
ルカによる福音書11.34 ~ 36(キリスト教)

神の栄光は高遠なり。唯一真実の神が御自身を人間に現わし給う目的はここにある。つまり、人間の最も奥にある真の自己の鉱山に潜む宝石をあらわにするためである。
バハオラ落穂集132 (バハイ教)

一切衆生悉く仏性あり。即ち是我の義なり。是の如きの我の義や、本よりこの方、常に無量の煩悩に覆はる。是の故に衆生は、見ることを得る能はず。善男子、貧女人の、舎内に、多くの真金の蔵有るが如し。家人大小、知るもの有ること無し。時に異人有りて、善く方便を知り、貧女人に語る、「我今汝を雇はん、汝我が為に草穢を除すべし」女即ち答へて言はく、「我能はず、汝若し能く我が子に金蔵を示さば然して後乃ち當に速やかに汝の為に作すべし」是の人復言ふ、「我は方便を知る。能く汝が子に示さん」女人答へて言ふ、「我が家の大小も、尚自ら知らず、況や汝能く知らんや。」是の人復言ふ、「我今審らかに能くす。」女人答へて言はく、「我も亦見んと欲す、井に我に示すべし。」是の人即ち其の家に於て、真金の蔵を掘出す。女人見終りて、心に歓喜を生じ、奇特の想を生じ、是の人を宗仰す。善男子、衆生の仏性も、亦復是の如し。一切衆生は、見るを得ること能はず。

彼の宝蔵を、貧人の知らざるが如し。善男子、我が今普く一切衆生に、所有の仏性が、諸の煩悩に覆蔽せらるるを示すは、彼の貧人の、真金蔵有れども、見るを得ること能はざるが如し。如来は、今日、普く衆生に諸の覚宝蔵を示す。所謂仏性なり。
大般涅槃経214 ~ 215、隠れた宝の喩え(仏教)


孟子がいわれた。「人間なら誰でもあわれみの心はあるものだ。むかしの聖人ともいわれる先王(せんのう)はもちろんこの心があったからこそ、自然に温かい血の通った政治(仁政)が行なわれたのだ。

今もしこのあわれみの心で温かい血の通った政治を行なうならば、天下を治めることは珠でも手のひらにのせてころがすように、いともたやすいことだ。では、誰にでもこのあわれみの心はあるものだとどうして分るのかと言えば、その理由(わけ)はこうだ。

たとえば、ヨチヨチ歩く幼な子が今にも井戸に落ち込みそうなのを見かければ、誰しも思わず知らずハッとしてかけつけて助けようとする。これは可愛想だ、助けてやろうととっさにすることで、もちろんこれを縁故にその子の親と近づきになろうとか、村人や友達からほめてもらおうとかのためではなく、また、見殺しにしたら非難されるからと恐れてのためでもない。

してみれば、あわれみの心がないものは、人間ではない。悪をはじ、にくむ心のないものは、人間ではない。譲りあう心のないものは、人間ではない。善し悪しを見わける心のないものは、人間ではない。

あわれみの心は仁の芽生えであり、悪をはじ憎む心は義の芽生えであり、譲りあう心は礼の芽生えであり、善し悪しを見わける心は智の芽生えである。人間にこの四つ(仁義礼智)の芽生えがあるのは、ちょうど四本の手足と同じように、生まれながらに具(そな)わっているものなのだ。

それなのに、自分にはとても……そんな立派なことはできそうにないとあきらめるのは、自分を見くびるというものである。またうちの殿様はとても仁政などとは思いもよらぬと勧めようとしないのは、君主を見くびった失礼な話である。

だから人間たるもの、生れるときから自分に具わっているこの四つの芽生えを育てあげて、立派なものにしたいものだと自ら覚(さと)りさえすれば、ちょうど火が燃えつき、泉が湧きだすように始めはごく小さいが、やがていくらでも大きくなるものだ。このように育てて大きくしていけば、遂には〔その徳は〕天下をも安らかに治めるほどにもなるものだが、もしも育てて大きくしていかなければ、手近な親孝行ひとつさえも満足にはできはすまい。」(注13)
孟子Ⅱ.A.6 (儒教)


―み言選集―

人間の良心は神様を代表する心です。良心は私のために存在しません。天の義のために存在します。良心は常に善に向かって走ろうとします。
(219-118、1991.8.28)

釈迦も天を教えてくれました。すべての存在は仏心をもっていると言いましたが、その仏心とは何ですか。それは純粋な本然の心を意味します。
(33-45、1970.8.2)

「心の本源地は神様だ。神様の心に従って動こうとすることが、その対象的な位置にいる私だ」という、このような評価をしなければなりません。
(162-40、1987.3.22)

人倫道徳は、人類の良心を中心として、天に向かって正しい道を行かなければなりません。正しい道を行かなければならないとなっています。良心は高次的な理想世界に向かってこのように発展しようとします。(90-161、1976.12.26)
本来、天法の道理に従っていく人間には、自分自身が滅びるのを防備してくれ、保護してあげようとする心があるのです。本来あるとはどういうことでしょうか。神様に初めからそのような心があるので、人間にも初めからあるという意味です。自分がつくった法ではないというのです。

「良心よ、私がこうなのだからこうだ」と、そのように言いますか。「私の考えがそうなのだから、そうであるべきだ」と命令したからといって、良心が作用しますか。どこか分かりませんが、他の所から命令を受けるのです。そのような感情が、自分を支配するのを見るとき、これは公私の問題を中心として支配するということが分かるのです。
(31-241、1970.6.4)

古今東西を問わず、いかなる悪人であっても、悪を捨てて善に従おうとする本心だけは、だれでも共通にもっている。だから、何が善であり、いかにすればその善をなすことができるかということは、知能に属することであり、時代と場所と人がそれぞれ異なることによって、それらは互いに衝突し、闘争の歴史をつくってきたのであるが、善を求めようとする人間の根本目的だけは、すべて同じであった。

では何故、人間の本心は、いかなるものによっても取り押さえることのできない力をもち、時間と空間を超越して、善を指向しているのであろうか。それは、善の主体であられる神が、神の善の目的を成就するための善の実体対象として、人間を創造なさったからで、たとえ堕落人間がサタンの業により、善の生活ができないようになってしまったとしても、善を追求するその本心だけは、そのまま残っているからである。

したがって、このような人間たちによってつくられてきた歴史の進みいくところは、結局善の世界でなければならない。
原理講論、人類歴史の終末論2.3


神様の創造は、実に神秘で奥深さにあふれています。人間を、御自身の子女として創造され、万物の霊長として立てられた神様は、人間に「良心」という、最高、最善の贈り物を下さいました。

人間が地上界で一生を航海するのに必要な羅針盤として下賜されたものが、良心という特別な贈り物です。よく人生百年と言いますが、人間は誰彼を問わず、生まれて死ぬ瞬間まで、良心の作用圏
を抜け出すことはできません。

そして、良心の作用の中で、最高、最上の機能が正に、真の父母、真の師、真の主人の役割の機能です。言い換えれば、良心は、私達が生まれたときから真の父母、真の師、真の主人の位置で私達の生を指導し、教育する、神様の代身者であるということです。私達の一挙手一投足を、一時も逃すことなく導き、監視する責任が良心の機能だということです。

ですから、良心は、私達のすべての言行はもちろん、考えまでも父母よりも先に知り、師より先に知り、神様よりも先に知るのです。神様が、人間の人生を指導し監視する本源的な機能を、良心に伝授してくださったからです。

ところで、水晶のように清く透明でなければならない人間の良心に、堕落性の垢がつき、今まで様々な罪悪と疾病の中で本来の機能をすべて発揮できずにいるのです。

したがって、サタン主管圏のこの邪悪な世界から一日でも早く解放・釈放を受けたいと、泣き叫んでいる良心の声を聞ける皆様にならなければなり
ません。
平和神経、平和メッセージ15、2007.7.4


良心の方向性と目的の内容は何になるかというと、真の愛が目的の内容にならざるを得ないという結論が出てきます。その方向、良心の根の方向と目的が何かというと、変わらないこのような愛ではないと言うことはできません。(261-311 ~ 312、1991.4.15)

神様の愛は、自分を100 パーセント、120 パーセント投入するのです。そのようなものが堕落した世界に一つ残っているのですが、それが父の愛でもなく、母の愛です。それが種火のように残っています。この種火が残っているので、よく起こしさえすれば、再び火をつけることができるのです。それまでなければ、救援も不可能です。神様の創造本性の種が残っているので、救援が可能だというのです。
(199-276 ~ 277、1990.2.20)

②自分の良心との闘争

―宗教経典―

あなたは平素、自らが成長していることを感じることができないが、あなたが罪を犯すときは、それをはっきりと知ることができる。
アカン族の格言(アフリカ伝統宗教)

正しい良心で、弁明するようにしなさい。
ペテロの手紙3.16 (キリスト教)

先人言へることあり、「心に二種あり浄と不浄となり」と、欲と混するは不浄にして欲と離るるは浄なり。
マイトリ・ウパニシャッド6.34 (ヒンドゥー教)

また私は、己れをとがめる魂によって誓う。
クルアーン75.2 (イスラーム)


ある人が、何の愛らしい行動もせず、有益な行動もせず、心の弱い人たちに安息所を用意してあげることもしなかった。「私は何の愛らしい行動もしなかった」という思いに彼は苦しんだ。「私は悪行をしでかした」という思いに彼は苦しんだ。この二つの思いは、良心を麻痺。
如是語経25. (仏教)

清い人には、すべてが清いのです。だが、汚れている者、信じない者には、何一つ清いものはなく、その知性も良心も汚れています。
テトスヘの手紙1.15(キリスト教)

肉体の中には一片の肉があり、それが健全な場合肉体はすべて健全だが、それが腐ると肉体もすべて腐ってしまう。その一片の肉とは、心のことにほかならない。
ナワウィー40 のハディース6(イスラーム)

とはいえ、肉にも頼ろうと思えば、私は頼れなくはない。だれかほかに、肉に頼れると思う人がいるなら、私はなおさらのことです。私は生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。

律法に関してはファリサイ派の一員、熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者でした。

しかし、私にとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。そればかりか、私の主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、私はすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。キリストを得……。
フィリピの信徒への手紙3.4 ~ 8(キリスト教)

よい人のほまれとは、正しい良心の与える証しである。正しい良心をもちなさい。そうすればあなたはいつも喜びをもつことができよう。
正しい良心はずいぶんたくさんな物事を忍ぶ力を具え、逆境の中にあってもつねにずいぶんと大きな喜びを覚える。病める良心はいつもおずおずとして不安である。
トマス・ア・ケンピスキリストにならいて(キリスト教)

俺の良心には千もの舌があって、それぞれの舌がそれぞれの話をし、そのどの話も俺を悪党だと非難する。
ウィリアム・シェイクスピアリチャード三世

それが正しくても間違っていても、それ自体として悪なるものであろうと道徳的に放縦であろうと、良心に対する審判は必要だ。そのような面で良心に反する者は、いつでも罪を犯す者である。
トマス、・アクィナス(キリスト教)

上官が部下に良心に逆らう命令を下したなら、部下がそれに不服従しても、彼は罷免されないだろう。   アッシジの聖フランチェスコ三番目の降霊説教(キリスト教)
―み言選集―

人は自分の生涯の因縁を求めていくにおいて,自分の心に侍っていかなければなりません。これが天倫の鉄則です。心の命令に服従しない者は天が打ちます。
(42-60. 1958.8.3)

良心に呵責を受ければ天法に引っ掛かります。
(17-38. 1966.11.6)

放蕩息子は、死んでも故郷を訪ねていくことができません。良心がそうなのです。天国に行くのは、ほかの誰かが助けてはくれません。自分が行くのです。

兄の前に過ちを犯せば、兄の前に出ていくことを嫌います。兄は知らなくても、良心が申し訳なく思うのです。ですから、兄を遠ざけなければならず、その前に屈服しなければなりません。天地の道理が秩序に従ってできています。
堕落したために鈍くなって分からないのであって、鋭敏な人はすべて分かります。
(400-328、2003.1.11)

すべての人間は、一生の間ずっと、各自自分の中に最も貴重な師をもっています。それにもかかわらず、その師を誤って待遇し、踏みにじり、濫用しています。その師こそ、すなわち人間の良心です。

私達の良心は、常に私達自身にも助けになるように話し掛け、私達を真の愛と連結させてあげようとしています。私達の良心は、私達をして善で、非利己的な人になりなさいと父母のごとく促し、神様のみ旨に従って行動するように導いてくれています。

しかし、各自の心の中にはまた、常に良心の声に逆らう反乱者がいます。その反乱者こそ、すなわち肉体です。肉体は、良心を散々に踏みにじり、濫用してきました。私達がこのことを悟ったとき、私達は、自らの良心の敵であった肉体、すなわち私達自身の生命と人性をひどく損傷させた肉体の側につくことができますか。私達の良心は、常に心の中の師として、父母として、人類の究極的な父母である神様と、完全に一つとなるように導いてくれなければなりません。この時、良心は私達の中にある神様の代身者となるのです。

さらには良心を「第二の神様」とも呼ぶことができるのです。皆さんは、良心の敵である肉体に対して同情し、肉体を保護しなければならないと考えますか、それとも肉体を統制し、抑制しながら、良心が正当であることを立証しなければならないと考えますか。

肉体は、肉体的な欲望のみを追求するのです。腹が減れば、盗んででも飢えを免れようとします。肉体は常に楽なことを追求し、他を利用しようとします。肉体は、肉体なりの領域をもっています。すべての人は各自、肉体の領域を主管すべき莫大な責任を負っています。
(201-208、1990.4.9)
神様は、知恵の大王でいらっしゃいます。人間が完成に達する道を遠い所には置きませんでした。私達と最も近い所、最も隠密で安全な所、正に皆さんの良心の中にその道を準備しておいてくださったのです。

皆さん、良心は皆さんの主人です。皆さんの師です。皆さんの父母の代わです。良心は、皆さんのすべてのことに対して、誰よりも先に知っています。

皆さんの考えまでも、隅から隅まで知っているのが皆さんの良心です。師より、父母より、神様よりも先に知っています。このような良心が、皆さんのために一生の間どれほど多くの忠告をしてくれるでしょうか。

昼も夜も、悪いことを考えただけで、「こいつ!」と叱りながら、疲れもせずに皆さんを引っ張っていき、川を越え、峠を越えようと、どれほど苦労したでしょうか。良心は、いつも真の主人の姿で皆さんを保護して助けようとしたのに、いつも裏切った皆さんだったのではないでしょうか。宇宙から譲り受けた一つしかない貴い師であるにもかかわらず、この師を徹底して冷遇した皆さんの体をどうするつもりですか。

皆さんの本然的愛を引き継がせてくれた父母の代わりに送ってくれた良心を、無慈悲に蹂躙した肉身ばかりにしがみつき、その肉身の欲望に捕らわれて無為に歳月を過ごして一生の幕を下ろしますか。
(447-163 ~ 164、2004.51)

皆さんは、私は堂々とした一人の人格者なのに、私の良心は何か間違ってしまったのかと思うかもしれませんが、皆さんの良心は眠っています。皆さんの心は間違いなく眠っています。

良心は誰の制裁も支配も受けることを願いませ
ん。良心は休みません。いくら真っ暗な真夜中でも、明るい所でも、豪華絢爛な所でも、間違いをそのままにしておきません。少しでも間違えば、「おい、こいつ!」と言いながら体を打つのが良心です。このような師がどこにいますか。皆さんがはっきりと知らなければならないことは、皆さんの良心が眠っていると言うこの若い人の話が事実かということです。

眠っている良心を目覚めさせましょう。神様の心情を知らずに眠っている民族の良心を目覚めさせましょう。神様の心情を知らずに眠っている世界人類の良心を目覚めさせましょう。

天地を抱き、一つの世界を建設しようとされる神
様のみ旨に従い、終末世界に向かって行くまいとしても行かざるを得ない立場にいる人間たちの良心を目覚めさせてあげましょう。

今日、私達が信じている宗教が世界人類すべてに教えを与えることができ、眠っている良心を目覚めさせ得る宗教になっていますか。そのような内容を備えた主義や理念がありますか。良心が目覚め、そこに入っていくその衝撃、その決意、その覚悟は、世の中の万事を一度に片付けてしまうことのできる力として現れなければなりません。刃物が恐ろしいですか、死が恐ろしいですか、私の良心から起きてくるものを誰が妨げるでしょうか。誰も妨げることはできません。
(10-284 ~ 285、1960.11.6)
 

7.完全性

宗教の諸経典は、絶対者と一つになった人、真理を体現した人、罪、または世俗的な堕落の足かせから自由な人、満ちあふれる聖なる恩寵を表し示す人の功徳を描写する。彼らは、聖者、賢者、仏陀、または神聖な人間と呼ばれるだろう。このような完全状態は、私達が到達できない領域の向こうではない。

私達が努力さえすれば成就できる目的地である。ガンジーは次のように言った。「人生は熱望だ。その任務は、完成、すなわち自己実現のために奮闘することだ。その理想は、決して私達の意気地のなさや不完全さのために低められてはいけない」。ここに記述された章句は、完全状態を成就した人の卓越した稟性を描写する。特に、完全性の三つの品性を強調する。

一つ目は、心と体の統一である。聖者は、利己的な欲望を克服し、性欲、貪欲、またはほかの欲望を浄化することによって自分自身を主管した。結果的に彼は、ひとえに神様のみ旨と良心の指示に従って正しいことのみを行おうとする。聖アウグスティヌスの言葉によれば、私達は「神様を愛し、あなたの意図することができる人だ」ということである。

二つ目は、完全性は神様との統一である。神様は、最高の人間的熱望の典型でありモデルである。それゆえ聖者は、神様自身の完全性に同参しようと努力することによって、神様の属性、すなわち絶対、不変、愛、正義などを具現するようになる。

三つ目は、完全性は神様の真の愛を具現することを意味する。愛または慈悲は、罪のある人々を救うための、その疲れを知らない努力から現れたものとして、神様の本質の核心である。したがって、完全な男性と女性は、ほかの人々の豊かな人生を喜び、社会の利益のために私心なく努力する。聖者の愛は、どちらの一方にも傾かず、誰も敵とみなさず、常に善で悪に報いる。(第13 章1.
「真の愛」参照)
①完全性は心と体の一致から始まる

―宗教経典―

また、一人の出家沙門が釈尊に問うた。世の中には善となすものが色々とあるが、何が善といわれるものであり、その中で最大の善となすものは何んですか、と。

釈尊はいわれた、仏道を行じ、その真を守るものが善であり、その志しが行ずる道と一つになることが、善の最大をなすものである、と。
四十二章経14(仏教)

愛着までもが私のもたらしたものにふさわしくならない限り、本当の信者とはいえない。
ナワウィー40 のハディース41(イスラーム)

悟りに満ちた者は、決していかなる悪行にふけることはない。彼の良心は、真理で完全に映し出された知性によって導かれるからである。
アーヤーランガ・スッタ1.174(ジャイナ教)
覚りのようすがに心を正しくおさめ、執著なく貪りをすてるのを喜び、煩悩を滅ぼし尽くして輝く人は、現世において全く束縛から解きほごされている。
法句経89、(仏教)

御者が馬をよく馴らしたように、おのが感官を静め、高ぶりをすて、汚れのなくなった人、このような境地にある人を神々でさえも羨む。大地のように逆らうことなく、門のしまりのように慎み深く、(深い)湖は汚れた泥がないように、そのような境地にある人には、もはや生死の世は絶たれている。

正しい智慧によつて解脱して、やすらいに帰した人、そのような人の心は静かである。ことばも静かである。行いも静かである。何ものかを信ずることなく、作られざるもの(一ニルヴァーナ)を知り、生死の絆を断ち、(善悪をなすに)よしなく、欲求を捨て去った人、かれこそ実に最上の人である。
法句経94.97(仏教)
アルジュナはたずねた。
「クリシュナよ、智慧が確立し、三昧に住する人の特徴はいかなるものか。叡知が確立した人は、どのように語り、どのように坐し、どのように歩むのか。」

聖バガヴァッドは告げた。
「アルジュナよ、意(こころ)にあるすべての欲望を捨て、自ら自己(アートマン)においてのみ満足する時、その人は智慧が確立したと言われる。不幸において悩まず、幸福を切望することなく、愛執、恐怖、怒りを離れた人は、叡知が確立した聖者と言われる。

すべてのものに愛着なく、種々の善悪のものを得て、喜びも憎みもしない人、その人の智慧は確立している。亀が頭や手足をすべて収めるように、感官の対象から感官をすべて収める特、その人の智慧は確立している。断食の人にとって、感官の対象は消滅する。味を除いて……。

最高の存在を見る時、彼にとって味もまた消滅する。実にアルジュナよ、賢明な人が努力しても、かき乱す諸々の感官が、彼の意(こころ)を力ずくで奪う。すべての感官を制御して、専心し、私に専念して坐すべきである。感官を制御した人の智慧は確立するから。」
バガヴァッド、ギーター2.54 ~ 61(ヒンドゥー教)

アブ・フレイラが、神の使徒が語る言葉を伝えた。「最も完璧な信仰をもった者は、最もりっぱな性格をもった者である」。
アブー・ダーウードおよびダーリミー・ハディース(イスラーム)

諸の比丘の、阿羅漢にして諸漏己に尽き、{梵行}己に住し、所作己に弁じ、諸の重擔を棄て、己利を逮得し、諸の有結を尽し、正知して解脱せるものは、九事を行ずることあり得べからず。{謂く}漏尽。比丘の故(ことさ)らに殺生することあり得べからず。比丘の盗心を以て不興を取ることあり得べからず。
比丘の淫法を行ずることあり得べからず。比丘の知りて妄語することあり得べからず。比丘の蓄財の欲を亨くること前に在家者なりしが如きことあり得べからず。比丘の欲趣に往くことあり得べからず。比丘の瞋趣に往くことあり得べからず。比丘の癡趣に往くことあり得べからず。比丘の怖畏趣に往くことあり得べからず。
阿含経増支部ⅳ.370 (仏教)

これは「道」と同一になるといわれる。
それに近づくことができず、また、
遠ざけることもできない。
それに利益を与えることもできず、
また、害を及ぼすこともできない。
尊敬へと高めることはできず、また、
恥に苦しめることもできない。、
だから、天下で最も尊い人なのである。
道徳経56(道教)


―み言選集―

皆さんがここから出発するにおいて、どのように行かなければなりませんか。各自が指向する量が100 とするとき、ここで心と体が50 対50 ではいけません。

そのような人は、中間霊界にとどまるようになります。緩衝地帯にとどまるのです。もし体が60 であれば、間違いなく地獄に行きます。地獄はどのような所でしょうか。陰になっている所です。天国はどのような所でしょうか。輝いている所です。その、ように理解すればよいのです。そのような人は、必ず陰になっている所に行くというのです。ここは、下りていけばいくほど真っ暗になります。

ですから、皆さんは常に「私」という存在は善悪の母体だということを考えなければなりません。先生も皆さんのような年齢のとき、このような内容で苦心したのです。それで、先生が立てた標語が何かというと、「宇宙主管を願う前に自己主管を完成せよ」というものです。これが信仰生活においての第一条です。このような面で、自我を完成し、自我を主管できるようになるとき、すなわち、自分の体を制御し、克服できる自主性をもつようになるとき、初めて自分の心と体の相克がなくなるのです。
(?-122、1970.12.23)

人は二重構造になっています。心的な人と体的な人です。それでは、心はいったい何でしょうか。心は縦的な基準をもっています。体は何でしょうか。横的な基準をもっています。

これが本来神様の理想的基準に立ち、神様の愛を
受けることができるようになれば、縦的な心に神様の愛が「カーン」と響く時、横的な体はすべて感じるようになります。心的、縦的基準が存在する霊人体に神様の真の愛が「カーン」と響けば、横的な基準になる体も「カーン」と共鳴するようになっています。……霊人体に真の愛が「カーン」と響けば、体が共鳴できるのです。堕落していなければそうだというのです。
どのような基準によってそのようになっていますか。何によって共鳴するのですか。真の愛の響きに共鳴するようになっています。
(177-216、1988.5.20)

皆さんの体と心が一つになれば、神様が臨在されるというのが原埋の教えです。それでは、神様がなぜそこに臨在されるのかというのです。人の体と心が一つになれば、必ずそこには、一つになる原則は愛から始まるので、相対的愛があるがゆえに臨在するという論理が成立するのです。

「人の体は神様の聖殿である」とこのように言います。聖殿とは、どのような所ですか。聖殿というならば安息所という言葉と通じます。それでは、休むには何の中で休みますか。愛の中で安息するのです。

私達人間が願う理想があるならば、そのような内心的基準が最高の理想の基準ではないですか。そのような心の愛をもった所を、心情の世界というのです。
それはわき出る泉の水と同じであって、くみ出しても、くみ出しても終わりがありません。なぜでしょうか。神様がそこにいらっしゃるから終わりがないという、このような論理を立てることができるというのです。
(91-78、1977.1.30)

神様は純金ですか、偽の金ですか。純金です。神様が純金なので、私達が一緒に一つになろうとすれば、どのようにならなければなりませんか。偽者になってはいけません。

ですから、私達が神様の心と体のようになっていなければならないのです。それでマタイによる福音書第5章48 節に「あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」という言葉が出てくるのです。
(91-321、1977.3.1)


そうだとすれば、天国はどのように成すのですか。第1に、家庭を形成するすべての要員は、個性完成を成さなければなりません。堕落によって選択の余地もなく相続するようになった堕落性を脱ぎ、自らの人格完成をしなければなりません。

すなわち、心と体の葛藤と闘争を完全に克服し、勝利して一心一体一念の境地で完全一和の世界が、人格完成によって実を結ばなければならないのです。このような境地に到達した人には、妬み、嫉妬、欲心、憎悪など、あらゆる悪の要因になる堕落性が再び根を降ろすことができません。
(443-175、2004.3.23)

宗教の目的は、心情世界の法度を活用し、生活的な感情と対している宇宙万象のすべての道理を管轄できる権限をもつ、そのような人格者を育成することです。
(6-349、1959.6.28)

自分を愛さない人は神様を愛することができません。父母を愛さない人は国を愛することができません。また、自分自身を愛することができない人は、父母を愛することができません。

自分自身を愛してこそ、父母を愛することができるのであり、国を愛することができるのであり、世界を愛することができるのであり、神様を愛することができるのです。

ですから、宇宙主管を願う前に自己主管をしなさいというのです。このような途方もない愛の実体である個体を主体的な立場に立てておかなければ、家庭も不可能であり、国も不可能であり、国家も世界も不可能です。ですから、自分を完全に愛することのできる人でなければ、完全な神様を愛することはできません。
(22-97 ~ 98、1969.1.26)

   <次ページ>

 

コメント

世界経典-8

2020年10月06日 19時03分17秒 | 学習


2.神様の形状

どのようにして人間が神様に似たということを描写できるのか。この節と次の節は、三つの側面からこの主題に関して説明する。

第1に、人間は神様の形状として創造された。第2に、人間は神様の霊が臨在する器である。第3に、私達は神様の愛らしい子女たちである。

ユダヤ教とキリスト教の諸経典は、人間が神様の形状として神様に似て創造されたと教える。神様の形状は、神性、真理、正義、愛などの理想を言う。聖者や自我を完成した人は、神様の神性を表す天国と似ている。

このような理想に到達するためには、内的人間の変化、すなわち文鮮明先生が言及したように、
「人格革命」を必要とする。文鮮明先生の教えは、人間が神様に似るいくつかの方法に対して説明してくれている。
先生は、全知、全能、絶対、永遠など、神様の属性を検討し、人間がこれと同一の品性をもつために努力していると語る。さらに、このような諸品性をもつことは、神様から受けた私達の本性的権利である。

また、諸経典は、男性と女性がすべて神様の形状の中にとどまると断言する。神様は、ひとえに自らと完全な愛を分かち合うことのできる相対として人間を創造されたため、人間は一様に完全に神様に似なければならない。それゆえ、人間が堕落していなければ、結婚によって一つになった男女により、神様の形状を完全に成就できたのである。

①人間は神様にどのように似たのか

―宗教経典―

おお人の子よ! わが太古よりの存在と、わが本質の不変の永遠性に包まれて、われ汝への愛を知った。さればこそ、われ汝を創った。汝の上にわが面影を刻み、汝にわが美を表わした。
バハオラ隠されたる言葉3、(バハイ教)

神は言われた。「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。(注1)
創世記1.26 (キリスト教)

ラビ・アキバは言った。「人は愛を受ける存在だ。彼らが神の形どおりに創造されたからである。しかし、創世記9章6節に『人は神にかたどって造られたからだ』と教えてくださるように、格別な愛で人にこの事実を知らせてくださった」
ミシュナ、アヴォート3.18、(ユダヤ教)

それでなんじは純正な教えに、なんじの顔をしっかり向けよ、神が人間に定めたまえる天性にもとづいて、かれの本性に従い奉れ。神の創造に、変更があるべきではない。それが正しい教えである。
クルアーン30.30(イスラーム)

あなた自ら神の性格に一致するようにせよ。
アブー・ヌッアイム・ハディース(イスラーム)

明(太陽)が地上に出れば、あたりをくまなく照らす。君子はこの卦象にのっとって、みずからの明徳をあきらかにして人に仰ぎ見られるようにつとめる。
易経35(儒教)

もし人々が天と同じであれば、地から受けたその心を正しくもつとき、それが正に神である。
清和天皇に下った啓示(神道)


神は慈悲深く恩恵に満ちた方だと呼ばれるがゆえに、あなたも慈悲深く恩恵に満ちた人になりなさい。すべての者たちに無償で贈り物を与えなさい。神が義で愛多き方であられるがゆえに、あなたも義で愛を施す者になりなさい。
申命記スィフレイ(ユダヤ教)

この世のすべてのものはそれ(「有」)を本質としている。それは真に存在するものである。それはアートマンである。……おまえはそれである。
チャーンドーギャ・ウパニシャッド6.8.7 (ヒンドゥー教)

無知に被われて凡夫と覚者(ブッダ)の心は異って見えます。だが心の精髄の境地では、それらは〔平等〕一味のもの
ミラレパ(仏教)


主はモーセに仰せになった。イスラエルの人々の共同体全体に告げてこう言いなさい。あなたたちは聖なる者となりなさい。あなたたちの神、主である私は聖なる者である。
レビ記19.1 ~ 2(キリスト教)

父よ、全能の力よ! あらゆるものの中にあるその力よ! 私達に下りてきて、私達を満たしたまえ。私達があなたのようになるまで、私達があなたのようになるまで。
スー族の祈り(アフリカ伝統宗教)

「ヴァーセッタよ、どう思うか。梵天は妻帯しているか、していないか」(注2)
「妻帯していない。ゴータマよ」
「心に恨む気持ちがあるか、ないか」
「恨む気持ちはない。ゴータマよ」
「心に悪意はあるか、ないか」
「悪意はない。ゴータマよ」
「心が汚れているか、いないか」
「汚れていない。ゴータマよ」
「自制心があるか」
「自制心がある。ゴータマよ」
「ヴァーセッタよ、どう思うか、三ヴェーダに詳しいバラモンたちは、妻帯しているか、していないか」
「妻帯している。ゴータマよ」
「心に恨む気持ちがあるか、ないか」
「恨む気持ちがある。ゴータマよ」
「心に悪意があるか、ないか」
「悪意がある。ゴータマよ」
「心が汚れているか、いないか」
「汚れている。ゴータマよ」
「自制心があるか」
「自制心がない。ゴータマよ」
「ヴァーセッタよ、梵天は、妻帯していないが、三ヴェーダに詳しいバラモンたちは、妻帯している。妻帯しているバラモンたちが、妻帯していない梵天と交際し、親しくなるということがあるだろうか」
「そのようなことはない。ゴータマよ」
「ヴァーセッタよ、その通りである。妻帯している三ヴェーダに詳しいバラモンたちは、身体が亡びた後、死んだ後、梵天と共生するであろうというが、この事に根拠はない」
ディーガ・ニカーヤ13.31 ~ 34 テーヴッジャ・スッタ(三明経)(仏教)

人間とは何か。人間は物質ではない。それは、頭脳、血液、骨、そしてほかの物質的要素で組み立てられた存在ではない。聖書は、人間は神の形と姿どおりに造られたと私達に教えてくれる。物質は姿ではない。霊の姿は霊とあまり異なるものがない。人間は霊的であり完全だ。そして、霊的であり完全なので、クリスチャン・サイエンスで人間はそのように理解されなければならない。人間は、観念であり、形状であり、愛である。人間は肉体的構造ではない。
科学と健康475(クリスチャン・サイエンス)

彼らは、根本において正義なるもの、美しいもの、節制あるもの、そして彼らが人間たちの中に生じるようにしようとするものに対して注目するでしょう。
そして、さまざまな活動要素を一つに混ぜ合わせて人間の姿を造成するので、これはホメロスも、人間の中に現れた神の姿であり、神に似たものだと言ったのです。
プラトン国家6(ヘレニズム)

ともかく、神は決して不義ではありません。神は完全な義です。私達の中で最も義なる者は、最も多く神に似た者です。
プラトンテアイテトス(ヘレニズム)


―み言選集―

神様はどのような方でしょうか。皆さんにこのように尋ねるとき、「神様はどのような方か。神様は神様のような方でしょう」と答えます。それは私達に実感がわきません。

神様はいったい誰か、どのような方かという問題について考えてみるとき、私達人間に一番良い答え、すべての人間たちが願う最高の答えがあるとすれば、私のような方だということです。

最も大きな答えがあれば、私達の国のような方だ、私達の世界のような方だ、私の兄のような
方だというものですが、兄でも遠いのです。父母でも私と違います。結局、神様はどのような方かというとき、私のような方だというのです。
(127-233、1983.5.15)

神様も独りでは絶対に愛することができないので、必ず愛することのできる一つの対象をつくらなければなりません。それで、その対象として被造万物をつくったのですが、その被造万物は、御自身の形状をそのままかたどって展開させてつくったのであり、その中で御自身の人格を身代わりできる存在として創造的な立場に立てておくために造ったのが人間なのです。

このような人間は、神様が喜ぶときに一緒に喜ぶことができ、悲しむときに一緒に悲しむことができる素性をもたなければなりません。このような神様の内情を体得し、体感できる人にならなければ、いくら神様が人間を愛しているとしても、その人と互いに和動し一つになれる立場に立つことはできません。

ですから、神様は人間を造られるとき、互いに喜ぶことができ、またその愛を感じることができるように造らざるを得ないのです。それで人間を絶対者の相対的な立場に立てるために、絶対者と同じ価値をもつことができるように造ったのです。
(39-9、1971.1.9)

人は自分に似たものを好みます。世の中は誰に似たのでしょうか。これから理想世界は誰に似なければならないのでしょうか。神様に似なければなりません。それでは、神様は天地を創造されるとき、どのようにつくったでしょうか。

創世記第1章27 節に何とありますか。「神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された」とあります。神様にかたどって創造したというのです。誰に似るように皆さんを造ったというのですか。神様に似るように造ったのです。

結局、私達が自分に似たものを好むので、神様は、私達が神様に似ることを喜びます。それで神様は、天地万物をつくっておかれ、神様に似たものを御覧になりながら喜ばれるのです。
(26-167、1969.10.25)

似るときはどこから似なければなりませんか。神様は、神様の法度を中心として永遠の愛、全知全能、遍在する方としていらっしゃいます。神様は全知全能であられ、遍在され、永遠なる方ですが、私達はどこから似なければなりませんか。私達が神様に似たとすれば、どのようにならなければならないでしょうか。

神様が永遠であられるなら私達も永遠でなければならず、神様が遍在されるのなら私達も遍在しなければなりません。ですから、世界のあらゆる所に行って暮らしてみたいと思うでしょう? 全知全能の力をもって全世界を一度に握ってみたいと思うでしょう? そのようにしたいと思うことが神様に似たというのです。

それでは、神様は自分の何に似れば一番喜ばれるのでしょうか。似るにおいて一番の根とは何であり、先祖とは何でしょうか。遍在することよりも良く、全知全能であることよりも良く、唯一無二であることよりも良いことは何でしょうか。愛です。


そのようなものをすべて与えても、一つの家庭になり得るたった一つの根源は愛です。神様に最も似るようにしたものとは何ですか。愛です。その愛にさえ似れば、すべてを失ってしまっても、結局は、自分自身が行くとおりに何でもすべてついてくるようになっています。三文の値打ちもない
ほど醜い女性でも、愛さえあれば、立派な独身男性がついていくのです。
(26-167、1969.10.25)

神様は明らかに存在します。真の人とは神様に似た人です。このような真の人があふれて暮らす世界を成し遂げようとすれば、人間革命ではなく人格革命をしなければなりません。神様の神格に似ることが人格革命です。神格と対等になれる基準まで合致するようにするのが人格革命です。神様は、知識も、お金も、権力も必要ありません。
(149-271、1986.11.27)

神様は最も公的な方であり、サタンは徹頭徹尾、自分を中心とする私的な存在です。ですから、神様に帰ろうとすれば、復帰の公式は結局、神様に似ることなので、徹頭徹尾私的なものを犠牲にして公的なものを立て、自分を中心とする利己主義から人のために生きる利他主義に戻って、奉仕生活をしなければならないのです。公的な人は、神様に似たので必ず栄え、私的な人は、神様に背いたので、結局滅びるというのが天理です。
(88-209、1976.9.18)


②家庭で完全に現れる神様の形状

―宗教経典―

神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。
創世記1.27 (キリスト教)

われは彼なり、汝は彼女なり。われは旋律なり、汝は詩節なり。われは天なり、汝は地なり。われら二人はここに共に住み、子供達の親とならん。
アタルヴァ・ヴェーダ14.2.71 (ヒンドゥ教)

愛の福音は……。もうこれ以上、結婚した二つの個人としてではなく、一つの存在内にいる二つの個体的本性として、男性と女性の一致を提供する。そして、この合わさった霊的個体性は、一つの有形的存在としてではなく、父母として神を反映する。この神聖に統一された霊的意識から永遠の天国の喜び(神の創造の完全性)に進んでいくのに障害物はない。
科学と健康576(クリスチャン・サイエンス)
―み言選集―

アダムとエバは、何でしょうか。アダムとエバは、神様が入っていける家です。コリント人への第一の手紙第3章16 節にあるみ言と同じです。「あなたがたは神の宮であって、神の御霊が自分のうちに宿っていることを知らないのか」と言われたみ言を見ると、アダムとエバは神様の家なのです。何がとどまる聖殿ですか。神様の何がとどまる聖殿なのかということです。神様の愛がとどまる聖殿だというのです。

神様は何をもって愛するのでしょうか。アダムとエバは神様の家であり、神様の体なので、神様の体をもってアダムとエバが愛するというのです。これが宇宙の秘密です。これを知りませんでした。アダムとエバを誰が愛するのですか。堕落していなければ、アダムとエバを誰が愛するのですか。神様が愛するのです。アダムとエバは神様の愛の聖殿です。
(161-44、1987.1.1)

神様の性相と形状を分けたものが人ですが、人は性相と形状からなる男性と女性なのです。それが完全に時になれば、彼らが父母、すなわち天地父母になります。そして、その中間に、その骨に神様がいるのです。
(341-239、2001.1.2)

一男一女は無形であられる神様の実体対象として表れた息子、娘です。男性は神様のプラス(+)性稟を、女性は神様のマイナス(-)性稟を表した実体対象です。創造の理念は、両性の中和体としていらっしゃる神様の性相を二性に分立したのちに、再び神様の本性相に似た姿に合性一体化することです。

一人の男性と一人の女性は、それぞれ神様の一性に似て出てきました。したがってこれらの一男一女の結合は、神様のプラス(+)性稟とマイナス(-)性稟が一つになることです。すなわち神様に似た中和体になるのです。ですから、人間二人、すなわち夫婦は神様の全体を表象する結合体なのです。(9-83、1960.4.16)
神様は絶対的な方であられ、神様は唯一の方であられ、神様は不変の方であられ、永遠の方であられます。それでは、このような対象の位置に立った私達人間は、相対的であり、対象的ではありますが、対象的な位置で変わることを願うでしょうか。願いません。絶対的であり、唯一的であり、不変的であり、永遠的な対象の価値をもつことを願うのです。

今日、私達堕落した人間、俗世に属した私達人間世界においても、愛する人が永遠であることを願います。愛する人がただ一人であることを願うのではないですか。愛する人が変わることを願いません。

私達堕落した人間も、愛する対象の絶対、唯一、不変、永遠を要求するのに、宇宙の中心であられる神様が、その愛の対象が変わることを願うだろうかというのです。それはあり得ません。その対象の存在が限界的であることを願うだろうかというのです。

絶対的であることを願うのです。その対象の存在が不変であることを願うという事実を、私達は知らなければなりません。
(77-185、1975.4.6)

神様の創造目的は何でしょうか。アダムとエバを造って、ただ見るためではありません。男性と女性を造ったのは、男性は男性なりに、女性は女性なりに老いて死ぬようにするためではありません。息子が成長し、互いに異性に対する相対的な心情を通して神様を中心とした真の地上天国を建設するためでした。

神様を中心とした愛の巣をつくるようにするためだったのです。ここで男性であるアダムは天を代表し、女性のエバは地を代表します。天地です。ですから、彼らは二人ですが、彼らが横的に一つになれば天と地が統一されるのです。神様の愛を中心として二人が統一されれば、天宙は自動的に統一されるのです。
(21-44 ~ 45、1968.9.1)

人間は神様に似て生まれたでしょう? 神様は絶対的な主体であられるので、絶対的な対象の愛を中心として一つになることができます。それで、神様は人を造るとき、そのような主体と対象の中和的主体としてアダムとエバを造られました。

私達人間がそのような神様に似ているので、その全知全能な愛の力には、何であっても許諾されないものがありません。ですから、神様がアダムとエバを創造されたのと同様に、私達人間も創造の能力を賦与され得るのです。神様から創造の能力を賦与され、私達も人を創造できる場が息子、娘を生む場なのです。結局は、神様と同様に人を造ったという位置に私達も立つことができるのです。
(57-111、1972.5.29)

3.神様の聖殿

人間は、生きた神様の聖殿として理解されなければならない。人間を創造するとき、神様は人間の心に愛、創造性、永遠の渇望など、神聖な稟性を賦与する特別な聖霊を吹き入れた。神様は人間の中に自分の居所をつくろうとした。

神様の霊が私達の心と共鳴し、まるで神様が見るように、私達の体は見て、聞いて、動く。見えない無形の神様を身代わりして共に動くことによって、人間は神聖をもつようになり、神様はその人を通してほかの人々を神聖にすることができる。

ヒンドゥー教やそのほかの東洋の諸宗教において、このような究極的実在の内在を真の自我、またぱアートマンという。しかし、大部分の人々は真の自我を知らずに生きていき、全的に利己的な動機で生を営為する。
文鮮明先生によれば、私達は、人間堕落の悲劇のために汚れた聖設と同じである。神様の霊は、堕落した人間の中にとどまることができなくなった。本来、アダムとエバは、神様の聖殿として神様の有形的体となり、この世界を美しいエデンの園にしなければならなかった。キリストは神様の聖殿として来られた方だ。

したがって、彼は自身の人格の中に神様を現すことができた。神様の恩寵と復帰のための人間の努力により、私達はまた神様の聖殿の地位を取り戻すことができる。


―宗教経典―

あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか。
コリントの信徒への手紙一36(キリスト教)

あなたは、すべての人が自分の心の中に聖なる方がいらっしゃるという自意識をもつようにしてあげなさい。
タルムード、タアニートl1b (ユダヤ教)

私は、キリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはや私ではありません。キリストが私の内に生きておられるのです。(注3)
ガラテヤの信徒への手紙29 ~ 20 (キリスト教)

天と地は私を包んでいるが、私の信実な僕の心情は私を包んでいる。
スフラワルディー・ハディース(イスラーム)

神が世を満たすように、霊が肉体を満たす。神は見ることができるが御自身は見えないように、霊は見ることができるがそれ自体は見えない。神が全世界に糧を提供するように、霊は肉体に糧を供給する。神が純粋であられるように、霊もまた純粋である。神が(聖殿の)至聖所にいるように、霊は肉体の最も高い所に留まる。
タルムード、ブラホート10a. (ユダヤ教)

私が彼を愛するようになれば、私は彼の聞く耳、彼の見る眼、彼の打つ手、彼の歩く足となろう。
ナワウィー40 のハディース38(イスラーム)

われはかれを完全に形づくり、それからわが霊をかれに吹き込んだ。
クルアーン15.29(イスラーム)

主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。
創世記2.7(キリスト教)

有情(生類)の玄洞(心臓)に鎮まれる自我は微なるよりも微に、大なるよりもさらに大なり。かかる自我の栄光は、意欲をもたず、煩悶を離れし人にして諸官能の静澄なるを得たる時、初めて照観するを得べし。

彼(自我)は坐してしかも遠く遊び、臥しつつしかも遍く行く。かかる可思、不可思を兼ねたる神を識ることは我以外に誰か能くせん? 諸々の肉団の裡(うち)にありて身をもたず、安固ならざる物がらの裡にありて泰然たる、偉大にして、遍在せる自我を観想せる時、賢者は憂患なし。
カタ・ウパニシャッド1.2.20 ~ 22、(ヒンドゥー教)

露にして、しかも幽れ、玄洞(心臓)の内に逍遥するものと称ばれる所の偉大なる天地の基底、その内にぞ、ありとあらゆる蠢めくもの、息づくもの、瞬くものは収められてあるなれ。

汝等がこの有体にして無体なる善美なるもの、智
慧才覚を超えたる、生類中の最勝のものとして知れるもの、光輝あるもの、微なるよりも微なるもの、諸々の世界(果報)と世界を得し輩とがその根基とせるもの、これぞこの不滅なるものなり、梵なり、生気なり、はた語なり、意なり。これこそこの真実なるもの、不死なるもの、射抜くべきものなれ。友よ、これを射抜けよ。
ムンダカ・ウパニシャッド2.2.1 ~ 2(ヒンドゥー教)

富者たちはシバ神に寺院を建てて捧げるが、
貪しい人、私は何をするか。
おお、私の主よ!
私の2 本の足は柱、
体は聖殿、
私の頭は黄金の尖塔です!
立っている寺院はすぐに倒れますが、動く私は永遠に立っていることでしょう。
(注4)
バサヴァンナヴァチャナ820.(ヒンドゥー教)

人もまた初めに神とともにいた。英知すなわち真理の光は、創造されることも、作られることもなく、実にそうすることのできないものである。すべての真理は、神がそれを置かれた領域において独立し、それ自体で作用する。

すべての英知も同様である。そうでなければ、存在というものはない。見よ、ここに人の選択の自由があり、またここに人の罪の宣告がある。なぜ
ならば、初めからあったものが分かりやすく示されているのに、彼らがその光を受け入れないからである。その霊が光を受け入れない者は皆、罪の宣告の下にある。

人は霊である。元素は永遠であり、分離しないように結合した霊と元素は、満ちみちる喜びを受ける。これらが分離するとき、人は満ちみちる喜びを受けることはできない。その元素は神の幕屋である。まことに、人は神の幕屋すなわち神殿である。そして、いかなる神殿でも汚されると、神はその神殿を滅ぼすであろう。(注6)
教義と聖約93.25 ~ 35 (末日聖徒イエス・キリスト教会)

アブドラ・ビン・オマルは、カーバの周囲を歩き、このように語る先知者(平和がその方に宿ることを)を見た。「おお、カーバよ、お前とお前の香りのある風は本当に祝福されている。お前の神聖さは実に素晴らしい! 私の魂の主人であられる神から、神に信仰をもつ者の神聖さは、お前よりさらに神聖だ」。
イブン・マージャのスナン(注5) 2.3932 (イスラーム)

―み言選集―

見えない神様は心と同じであり、アダムとエバは見える神様です。神様の体と同じだというのです。本来、霊界に行けば、人としての神様はアダムとエバがなります。霊界に行けば、体をもった父母の位置に立ったその方がアダムとエバなので、アダムとエバが神様の体のようになるのです。

アダムの心のような立場にいる神様になるので、私の心に神様が臨在するのです。このように、大きな神様が私を中心とする小さな心の神様として心に臨在するようになる、というのです。私は小さな神様だということです。
(107-172 ~ 173、1980.4.27)

妻は、夫が神様の体だということを考えてみたことがありますか。コリント人への第一の手紙第3章16 節で、「あなたがたは神の宮であって、神の御霊が自分のうちに宿っていることを知らないのか」とあるでしょう? ですから、皆さんが霊的に深く入っていけば、分かるようになるのです。皆さんがそのような境地に入っていって「神様、どこにいらっしゃいますか」と言えば、神様が心の根源から答えます。ぞのような境地に入っていかなければなりません。
(362-190、2001.12.12)

堕落する前、アダムとエバの顔がいくら良いといっても、主人がいなければあらゆる外的な物は価値がありません。その時、アダムとエバがいくら醜くても、彼らの心の中に神様がいらっしゃり、彼らの体は神様の聖殿になることができたのです。これが今の私達と違う点だということを知らなければなりません。

彼らの顔は、純粋な神様の喜びを表象できる顔であることは間違いなかったでしょう。また、彼らは、目で見るのも、自分たちの目を通して見るよりも、神様に代わって見たはずであり、彼らが聞くこと、感じること、語ることなどのあらゆることは、神様に代わって示すことのできる表示になることができたでしょう。
(95-247、1977.12.4)
アダムとエバが堕落したその日からの神様の希望とは何かというと、神様の心情を身代わりできる人、神様がとどまることのできる聖殿として完成した人、神様と一致する心情と心臓をもった人を探し出すことでした。
(3-298 ~ 299、1958.1.26)

イエス様の心と体は何だったのでしょうか。イエス様の心は自分の心ではありませんでした。誰の心だったかというと、父の心だったのです。イエス様の体は自分の体ではなく、父の体だったのです。

また、イエス様が語られたみ言は、自分のみ言ではなく、神様のみ旨を身代わりした天理の法度であり、すべての人間がもちたいと思う希望のみ言だったのです。イエス様は、そのみ言を通じた実体的な天の聖殿として、または実体的な神様の玉座を身代わりした存在として、この地上に現れたのです。
(3-264、1958.1.12)

個性を完成した人間と神との関係は、体と心との関係をもって例えられる。体は心が住む一つの家であって、心の命令どおりに行動する。このように、個性を完成した人間の心には、神が住むようになるので、結局、このような人間は神の宮となり、神のみ旨どおりに生活するようになるのである。

したがって、体と心とが一体となるように、個性を完成した人間は、神と一体となるのである。それゆえ、コリントⅠ3章16 節に、「あなたがたは神の宮であって、神の御霊が自分のうちに宿っていることを知らないのか」と記されているのであり、また、ヨハネ福音書14 章20 節には、「その日には、私は私の父におり、あなたがたは私におり、また、私があなたがたにおることが、わかるであろう」と言われたのである。
原理講論、人類歴史の終末論1.1

御飯を食べるのは誰のために食べるのですか。眠るのは誰のために眠るのですか。皆さんがまくらして横になるとき、「ああ! 神様と一緒に寝る」、このように考えてみましたか。「胸をぎゅっとつかんで気分が良い。神様がお休みになる!」、このように考えてみましたか。そしてまた、さっと起きれば、私が起きたと考えますか、神様が起きたと考えますか。神様が起きたと考えなければなりません。私が先に起きたのではなく、神様が先に起きたのです。
(92-153、1977.4.1)

人の中に世界がすべて入っていって眠ることができます。神様も入っていって昼寝できるのです。神様が心置きなく足を伸ばして眠ることができるというのです。

神様がどれほど自由ですか。いくら足で蹴飛ばしても、引っ掛かるものがないのです。どこにも引っ掛かるものがありません。そのような人は神様が共にいるようになります。そのような人は神様の聖殿になるのです。それを理解して、より一層自分を愛し、自分に侍ることができなければなりません。
(125-101 ~ 102、1983.3.13)

私達人間の形状を見てください。体をもっているのです。しかし、無形の神様には体がありません。体をもたなければ、霊界世界や地上世界を治めることができないのです。

それで、神様がいらっしゃるとしても、神様が人間の父母として現れるためには体をもたなければならないのですが、その体をもった代表が誰かといえば、アダムとエバだというのです。堕落していないアダムとエバの体をもって現れるのです。

ですから、アダムとエバは誰ですか。アダムとエバは、人類の始祖であると同時に、天地を主宰する神様になるのです。実体をもった神様、すなわち永遠の無形世界の神様の形状を代わりにもって現れた立場で、父母の立場で世界を統治する責任がアダムとエバにあったのです。
(133-91 ~ 92、1984.7.10)

神様は無形です。霊界に行っても見えません。神様がアダムをなぜそのように愛を中心として造ったのかというと、この被造世界が体をもっているからです。

ですから、体をもった父にならなければならないのです。体をもった父になることで、見えない無形と有形が一つになるのです。それは宇宙が一つになることを象徴します。

ですから、体をまとうためにアダムとエバを造ったのです。体をまとうのは何か決定するのですか。愛だけが可能なのです。神様の形状に似たそのような体をもつことができる姿として、アダムとエバを造ったのです。そうしてアダムとエバを天の国の王宮に、王座へ上がらせ、その王とし王妃の心の中に神様がいらっしゃり、地上世界と無形世界を統治するのです。

神様の王国を造るのです。王国は、愛の王国だというのです。愛を中心としてのみ霊と肉が合わさるようになっているのであって、他のものでは合わさることができないのです。
(143-93 ~ 94、1986.3.16)
4.神様の子女

ユダヤ教とキリスト教の諸経典は、神様を「天にいらっしゃる父」と呼ぶ。このような洞察は世界のほかの信仰伝承でも発見される。したがって、人間は神様の子女とみなされる。そのような父母と子女の関係がどれほど真正な関係であり得るか。これがこの節に記された章句の主題である。

文鮮明先生は、神様と人間の関係において感じる心情の深さと力が、私達を生んでくれた肉親の父母から感じる愛情と義理よりもっと強烈でなければならないと教える。

私達が神様の心情と事情を悟り、そして息子が年老いた父のために重い荷物を背負うように、世に対する神様の重荷を私達が共に分かつことができ、また分かち合わなければならないという心をもつとき、神様と共にある私達の人生はどれほど意味深長なものだろうか!

①神様の子女としてもって生まれた権利

―宗教経典―

神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によって私達は、「アッバ、父よ」と呼ぶのです。

この霊こそは、私達が神の子供であることを、私達の霊と一緒になって証ししてくださいます。もし子供であれば、相読人でもあります。神の相続人、しかもキリストと共同の相続人です。キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受けるからです。
ローマの信徒への手紙8.14 ~ 17(キリスト教)

あなたたちは、あなたたちの神、主の子らである。
申命記14.1 (キリスト教)

アニスとアブドゥラが神の先知者に伝えるには、「すべての創造物は神の子であり、神が最も大切に思う者は、その方の子に優しく接する者たちである」。
バイハキ・ハディース(イスラーム)

我々は我々をつくりしものの子ら、彼が我々を殺すと恐れてはならない。我々は神の子ら、彼が我々を殺すと恐れてはならない。
ディンカ族の祈り(アフリカ伝統宗教)

御父がどれほど私達を愛してくださるか、考えなさい。それは、私達が神の子と呼ばれるほどで、事実また、そのとおりです。
ヨハネの手紙一3.1(キリスト教)


しかし、イエスは乳飲み子たちを呼び寄せて言われた。「子供たちを私のところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」
ルカによる福音書18.16 ~ 17(キリスト教)

私は言った、「あなたたちは神々なのか、皆、いと高き方の子らなのか」と。
詩編82.6 (キリスト教)

預言者アサフの言葉が当たりますように。「あなたたちはすべて神であり、あの気高き方の子女たちである」、父の寛容をむやみに使って、私達に下さった自由の選択が、害となって戻ってこないようにしてください。私達がすれば成し遂げることができるので、神聖な情熱を抱き、現実に満足せず、最高の善を成し遂げるために努力する者として導いてください。
ピーコ・デッラ・ミランドラ人間の尊厳について(キリスト教)
―み言選集―

神様は愛の神様だといいました。その愛の神様が私達人間を本当に愛される位置がどこかというと、人間が要求する最高の位置です。神様はその位置を愛さざるを得ない立場にいらっしゃるのです。人情と天情が結合する位置は、神様と人間が父子関係の因縁を結ぶ位置に違いありません。

皆さんは今、短時間のうちにこのような話を聞いていますが、ここに立って話をする人は、宇宙の究極の位置とは何かという問題に対して、誰よりも深刻な立場で長い間追究してきた人です。

最高の位置に入っていって得た答えは何でしょうか。宇宙の根本は父子の関係だという結論です。
父子の関係だといって、今日の私たきちを生んでくれて、一緒に暮らす父母のことではありません。それは天地を創造した絶対的な神様と、堕落していない本然の私達人間の関係のことです。
人類が到達すべき本然の価値の位置は、神様が父であり私達は子女だという位置です。神様は、このような途方もない位置を私達に許諾されたのです。
(53-286、1972.3.4)

ここに立っている人は、神秘的な境地に入っていき、宇宙の根本とは何かと尋ねてみたことがあります。神様の答えは、「父子の関係だ。父と息子だ!」というものでした。それが結論だというのです。

一般の人であれば、「ああ!私の父母と私」と考えるでしょう。自分を生んでくれた父と母と考えやすいのです。しかし、神様と人間の関係を意味しているのです。

父子の関係がもつ特定の内容とは何でしょうか。父と息子が出会える最高の場所とはどこでしょうか。愛が交差する中心、生命が交差する中心、理想が交差するその中心で出会うのです。
そのように見ると、愛と生命と理想が一つの場にあるというのです。その場に行けば神様も愛であり、私も愛であり、神様も生命であり、私も生命であり、神様も理想であり、私も理想になるというのです。これを決定づけることのできる最初の因縁と最初の統一の場所が、親子関係が成される場でなければなりません。これは間違いのない事実です。
(69-78 ~ 79、1973.10.20)

神様は、私達人間、アダムとエバを造っておいて真の愛を行ったのです。真の愛を誰が始めたのですか。アダムとエバがしたのではなく、神様がアダムとエバを息子、娘のように愛してきたのです。皆さんが父母から生まれて愛を受けるのと同じです。父母の愛をたっぷり受けるのと同じです。

しかし、その愛を知らずに生まれて、自分だけがいるかのようです。父母の愛はすべてのものを包囲して抱いてあげ、愛するようになるのです。それで、最初は神様が分かりませんでしたが、神様を見て笑いながら、神様の保護の中で育つことによって、神様の愛がどのようなものだということを知ります。そのように父母の愛と子女の愛が大きくなっていくのです。
(149-312、1986.12.21)

父子の関係がもっている特性とは何でしょうか。真の愛と真の生命と真の血統の関係です。真の父母の真の愛が前提とならなければ、私達の真の生命が存在することはできません。すなわち、神様の前に人間は、絶対的な真の愛の相対として創造されたということです。そこは、正に神様が父となり、人間は息子、娘となる軸が立てられる所なのです。

もし、それよりもっと高く貴い所があれば、人間の欲望は、またそれを追求することでしょう。しかし、そのような所はありません。全知全能であられる神様が、最高のものは御自身のために隠しておいて、御自身の子女であり、愛の絶対相対者であるアダムとエバには2番目に良い所に立てて創造したということは、想像することもできません。私達の永遠の真の父母であられる神様は、100 パーセント御自身のすべてを投入して人間を創造され、同位権、同参権、同居権、相続権を付与されました。神様のすべての属性を下さったのです。
平和神経、平和メッセージ1.14 ~ 15、2005.9.12

神様と人間の関係を中心として見てみるとき、神様が人間の父であり、人間が神様の息子であるとすれば、人間に対して、「神様よりハンサムだなあ」と言えば、神様は気分が良いでしょうか、悪いでしょうか。悪ければ、神様は人間より劣るのです。間違いなく神様も喜ばざるを得ません。それで愛というものが必要なのです。
(40-343、1971.2.11)

宇宙の真理、天理の大道の原則は何かというと父子の関係です。その父子の関係は、今日の堕落した世界に自分を生んでくれた父と母との関係ではありません。横的な夫婦の愛が神様の理想的愛で完全に花開き、その愛の香気が全世界を覆い尽くすと同時に、神様の愛が加えられ、父と息子、娘の位置が完成するのです。(101-35 1978.10.28)
②神様の子女の尊厳性回復

―宗教経典―

主は岩、その御業は完全で、その道はことごとく正しい。真実の神で偽りなく、正しくてまっすぐな方。不正を好む曲がった世代は、神を離れ、その傷ゆえに、もはや神の子らではない。愚かで知恵のない民よ。これが主に向かって報いることか。彼は造り主なる父、あなたを造り、堅く立てられた方。
申命記32.4 ~ 6(キリスト教)

天よ聞け、地よ耳を傾けよ、主が語られる。私は子らを育てて大きくした。しかし、彼らは私に背いた。
イザヤ書1.2 (キリスト教)

わたくしどもは皆、仏の子のようなものであります。それは、如来がいつもわたくしどもに『おまえたちはわが子である』と説かれているからであります。
世尊よ、わたくしどもは三種の苦悩によって、生死の中でもろもろの烈しい悩みを受け、迷い惑い、無知であって下劣な教えに執着しております。今日、世尊は、わたくしどもに考えさせて、汚物にも似た、存在についての空しい論議を除くようにされました。

わたくしどもは努力精進して、ちょうど一日の給金を得るように、永遠の平安を得ました。それを得てしまうと、心に大いに歓喜して、自分では満足しておりました。……

仏はわたくしどもが心で卑小な教えをねがっているのを知られて、方便力によってわたくしどもに応じて説かれましたのに、わたくしどもの方では自分たちが真に仏の子であると知らなかったからであります。
法華経4(仏教)

祈祷するとき、主なる神を父と呼ぶように、いつでも天の子女としてふるまいを正しくしなければならない。それが私達の義務である。私達によって主なる神が、恥ではなく栄光を受け、賛美されなければならない。
マルチン・ルター大教理問答(キリスト教)


―み言選集―

本然の神様と人間の関係は、永遠の父母と子女の関係でした。堕落はその断絶を意味し、復帰は父母と子女の因縁を回復することを意味します。
(316-236、2000.2.13)

神様は、信仰の王様でいらっしゃるので、信仰の王子を尋ねられるのであり、神様は、愛の王様でいらっしゃるので、愛の王子を探し求められる。

御旨の道、人格、私達は孝子の道を行かなければなりません。神様が世界情勢を前にして深刻であれば、その深刻さ以上に、夜を徹して、あるいは自分の一身を忘却し、すべてのことを忘れ、体恤する境地で憂慮する心をもって神様のために生きる息子、娘になろうと身もだえする人がいますか。問題はここに帰結するのです。
(62-35、1972.9.10)


神様が私の父であり、私は神様の息子、娘です。神様がどれほど子女を抱きたいと思い、どれほどそれを待ってきたでしょうか。ですから、私が孝子にならなければなりません。

もし父の願う国のセンターになれば、愛国者になるのです。父の願う世界の主人になったならば、聖人になるのです。天宙のセンターになれば、聖子になるのです。私が孝子になれば、全家庭がついてきます。

すべての国がついてきて、すべての世界と天宙、神様まで私と一つになるのです。私がナンバーワンの息子と娘にならなければなりません。世界では聖人、天宙では聖子にならなければなりません。それで皇族圏を成さなければならないのです。
(293-208、1998.5.26)

悲しみの峠を越え、苦痛の峠を越え、憤りの心情の峠を越えてこそ、その日の福が決定するという天倫の原則を私達は知りました。今、お父様の心情をつかみ、地をつかみ、万物をつかんで涙を流し、お父様の悲しみが私の悲しみであり、お父様の苦痛が私の苦痛であり、お父様の苦難が私の苦難なので、「そのすべての苦痛を私にお任せくだざい。お父様は幸福の立場にお立ちください」
と言うことのできる私達となるよう、許諾してください。
(4-294、1958.9.14)


5.人生の価値

人間は金銭で計算できない貴重な価値をもっている。堕落したあらゆる社会において、人生は価値のないものとみなされ、人間の価値は富と地位、教育水準、または外貌で決定するという世俗的な偏見があるにもかかわらず、神様は各個人すべてに御自身の愛の絶対的な価値を賦与した。

神様は、私達を無限に貴重で、その上、神様と同等な地位をもつ、自分の愛らしい息子として創造した。この節に含まれた経典の章句は、人間の高潔な価値を描写している。

一個人は全体世界と同等の価値をもつ。すべての被造物の中で、唯一無二の存在として、個人はその何とも取り替えることができない。さらに、それぞれの個人は、神様の愛と家庭、そして国家と全被造世界の万物に囲まれ、抱かれている。各個体は、ほかのあらゆる存在にとってなくてはならない存在だ。
ある個体の死は、すべての存在にも喪失をもたらす、このため、殺人、自殺、堕胎は、神様の世界において立つ位置がない。さらには、肉身の生は霊的成長のための機会を提供するので(第5 章3.「永生のための準備」参照)命を軽んじることは、個人と宇宙の完成に向かう道を奪い取ることである。

それにもかかわらず、物質主義に固執した世界において、自分の内面の高貴な潜在的価値を実現した人々は極少数にすぎず、このような潜在的価値は、神様と人類を愛する心から出てくる。したがって、真の価値の泉の源泉を見いだし、神様と世界に注目される神様の子女となることが、私達全員の終始一貫した義務である。


①黄金より貴重な人間

―宗教経典―

人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。
マタイによる福音書16.26(キリスト教)

私を追う者の悪意に囲まれる時にも、どうして恐れることがあろうか。財宝を頼みとし、富の力を誇る者を。神に対して、人は兄弟をも贖いえない。神に身代金を払うことはできない。魂を贖う値は高く、とこしえに、払い終えることはない。
詩編49.6 ~ 9(キリスト教)

「私は奴隷を新しく買った」と言うとき、いくらでその奴隷を買ったのか。世の中に人間ほど価値のある存在が、どこにあるのか。合理的知性を買おうとすれば、いくら出さなければならないか。
神に似て創造された存在を買おうとすれば、何ドラクマを出さなければならないか。金貨何枚を支払って、神に似た存在を買うことができるのか。神は語られた、「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。」(創世記1 章26 節)。

人間は神のかたちに創造され、万物の霊長であり、天から万物に対する権威を賦与された。主なる神だけが人間をお買いになることのできる方であるとすれば、人間を売るように許諾された者は誰だというのか。その能力は、ただ神にのみ属しているのである。
ニュッサのグレゴリオス伝道の書に関する説教4(キリスト教)

―み言選集―

今まで世の中に暮らす人々が「よいなあ!」と思うのは、着飾り、立派な家に住み、立派な自動車に乗り、人をうらやむことなく飛行機に乗りながら平安に暮らすことです。そのようなことをよいと思うことが、この世の人々の悪い習性だということを知らなければなりません。
(131-171、1984.5.1)

いかなる苦痛と悲しみ、そしていかなる困難が迫ってきても、大宇宙の理念圏内にいる自分の位置が、その程度の困難に揺さぶられてはいけないことを知っている人は、その苦痛の峠を越えていくでしょう。

また、この程度の苦痛を耐えられない自分ではない、この程度の死の峠と取り替えなければならない私の命ではないと感じる人がいれば、彼は、人生行路において成功した人です。

「いかなる迫害と死の峠が迫ってきても、私が行く方向を変えることはできない。私の価値は、地上の何物とも取り替えることができない」と考える人は、地上にいても天の人です。地で死んでも、彼は天の人です。
(9-166、1960.5.8)

世の中でこの上なく貴いものは何でしょうか。金銀財宝でもなく、世の中の名誉や権勢でもありません。天地間において最も貴いものは何かというとき、それは正に自分自身です。

ところが、自分自身が貴いことを、何をもって保障するのかというとき、答えることができないのです。人々は自ら備えるべきところは備えることができなくても、心では満天下に自分を最高の価値的存在として認めさせたいと思います。それが人間の本性です。

今日、私達民族のために、世界のために生きる観念を越えて、最も貴い私自身を、人々がどのくらい貴く思うだろうか、ということを問題としなければ、新しい決意と新しい出発ができないことを心配せざるを得ません。

私達自身は、どのくらいの価値の内容を備えた存在でしょうか。皆さんは、これを考えてみましたか。私が宇宙の中で一つしかない宝となり、本当の宝になったとすれば、その宝は神様も慕い、来ては逝かれたイエス様も慕い、今まで来ては逝った大勢の聖徒、すべての歴史の中でいくら偉大な思想をもった誰かがいたとしても、その人もやはり慕うのです。

過去だけでなく、現世のこの万民も慕うのです。その価値を憧憬するでしょう。今だけでなく、未来もそうでしょう。ところが、今まではそのような宝が自分だということを知らなかったのです。
(17-13 ~ 14、1966.11.6)


②宇宙的価値をもつ人間

―宗教経典―

あなたの天を、あなたの指の業を、私は仰ぎます。月も、星も、あなたが配置なさったもの。そのあなたが御心に留めてくださるとは、人間は何ものなのでしょう。人の子は何ものなのでしょう。あなたが顧みてくださるとは。神に僅かに劣るものとして人を造り、なお、栄光と威光を冠としていただかせ
詩編8.4 ~ 6(キリスト教)

天と地において、ひとえに私こそが尊貴な者である。(注7)
長阿含経(仏教)

われはアダムの子らを重んじ、海陸にかれらを運び、また種々のよい暮らし向きの物を支給し、またわれが創造した多くのすぐれたものの上に、かれらを優越させたのである。
クルアーン17.70(イスラーム)
この世は、ひとえに義人のために創造された。義人一人は全世界と取り替えるだけの価値がある。この世は、彼と一つになることを目的として創造されたのである。
タルムード、シャッバト30b(ユダヤ教)

そのことのゆえに。われはイスラエルの子らに対し、おきてを定め、ひとりを殺した者は、ひとりの報復のためか、地上に悪をなす者の処罰でないかぎり、全人類を殺したと同じである。ひとりの生命を救う者は、全人類の生命を救ったと同じであると定めた。
クルアーン532(イスラーム)

ただ一人(アダム)だけが創造された。これを教えるため、聖書では、誰かが一人の魂を破滅させれば、それをまるで彼が全世界を破滅させたものとみなす。

また、誰かが一人の魂を救えば、彼が全世界を救ったと語る。しかし、一つの鋳型からは同じ銅銭が出てくるが、聖なるその方の偉大さを示すために創造された人間は、そうはできない。王の中の王であられる聖なるその方は、人間をすべてアダムの形に造られたが、誰も彼の形に似ていない。ゆえに人間はそれぞれ、「世の中が私のためにつくられた」と言うのである。
ミシュナ、サンヘドリン4.5 (ユダヤ教)


―み言選集―

一つの生命は宇宙よりもっと貴いことを知らなければなりません。怨讐の一族ではありません。神様の愛の対象として造られた人間の価値というものを知らなければなりません。
(262-145、1994.7.23)

人間は神様と完全に一つになってこそ、完全な人になるのです。人は、たとえ小さな一つの個体でも、全体の歴史を身代わりした存在であり、未来のあらゆる因縁を身代わりする存在なので天宙的な価値をもっている存在なのです。
(4-268、1958.8.3)

神様は人をどのような存在として造ったのでしょうか。神様の絶対唯一の価値をもつことができる愛の対象者として造ったというのです。これは驚くべき事実です。
最近では、人間一人の生命の価値がどのくらいになりますか。いくらになりますか。そのような無価値な人間ではないというのです。神様にとっては、宇宙を与えられても取り替えることができない高貴な価値、愛の相対圏を備えて男性を造り女性を造ったという驚くべき事実を知らなければなりません。
(142-143、1986.3.8)

神様の真の愛、神様の理想、神様の幸福、神様の平和を達成するにおいては、その対象がいなくては神様もお一人ではできないというのです。神様がお一人で、「ああ、愛そう」と言って愛して何をするのですか。神様お一人で理想といって何をするのですか。神様がお一人で平和や幸福があって何をするというのですか。必ず対象がいてこそ、神様も幸福、平和、愛、理想が可能になる、ということを私達は考えることができるのです。

神様の真の愛と理想と幸福と平和を完成させるにおいては、達成するにおいては、私という人間自体がいなければ不可能だということです。このような事実を記憶してくださることをお願いします。私達は、このような価値を全く分かりませんでした。

このように高貴で理想的な尊厳な価値、神様までも愛から解放することができ、神様までも理想から解放することができ、神様までも幸福と平和から解放することができるこの尊厳な価値を知って、今からは、心深く頭を下げながら自らを賛美し得る皆さんになってくださることを願ってやみません。
(77-314 ~ 315. 1975.4.30)

皆さん結婚するとき、結婚相手が自分より立派な人を願います。自分の息子、娘が、自分より立派であることを願わない人がどこにいますか。それは誰に似たのでしょうか。神様に似たのです。

どういうことかといえば、神様も愛の相対が自分よりも立派であることを願うということです。これを否定できますか。人間の価値が最大の価値です。愛を中心として見るとき、神様より高い価値があるということです。ですから、皆さんの心は、最高のものを顧っているのです。それは不可能なことではありません。万人平等に可能なことです。堕落しなかったなら可能なのです。

天上の高く貴い立場で、この宇宙を眺めて管理し
て主導するようになっているのであって、何かと望んで引きずり回され、服従するようになっていませんでした。皆さんの心がそうでしょう? 解放された心です。誰の支配も受けたいと思いません。これは、万民共通です。真の愛の位置にいれば、神様の位置、天国の御座に自由に行くことができます。神様の友達になることができるのです。
(211-272 ~ 273、1990.12.30)

人間はだれでも、他の人がもっていない特性を各々もっているので、その数がいくら多く増えたとしても、個性が全く同じ人は一人もいない。
したがって、神に内在しているある個性体の主体的な二性性相に対する刺激的な喜びを、相対的に起こすことができる実体対象は、その二性性相の実体として展開されたその一個性体しかないのである。
原理講論、キリスト論1

上を見ても、下を見ても、前後を見ても、左右を見ても、すべてのものが私と因縁を結んでいます。また、この因縁は一時的なものではなく、命をもっていく生涯路程、すなわち一生の間の因縁なのです。

さらには、歴史始まって以来、今まで因縁を結んできたのであり、今日の私を経て千秋万代の子孫まで因縁を結ばなければならない、因縁の祭壇の上に上がっている自分自身だということを私達は考えなければなりません。

このような私が壊れる日には、私を中心とする天の因縁が壊れるのであり、地の因縁が壊れるのであり、世界、あるいは氏族と家庭のすべての因縁が壊れるのです。それで、人をして天と地を身代わりする小宇宙と言うのです。

私の心は天を抱くことを願っています。私の体は地を占領したいと思います。また私は、天地の何ものも止めることのできない主権者、代表者の心情によって動こうとします。このような私、このような因縁をもった私達を深く解剖して入っていけば、無限に価値のある存在であり、無限に大きな存在だという事実が分かるようになるでしょう。
(8-10 ~ 11、1959.10.25)

神様の王権の前に立つことができる本然の人間の価値というものは、天地とも取り替えることができません。神様までも与えようとしていたその価値を、私が受けることができるかというのです。私がそのように内外に美化されていれば、天下がすべて夜光石のように輝くのです。ダイヤモンドのように輝くというのです。
(354-25 ~ 26、2001.9.16)

③殺人、自殺、そして堕胎は生命の大逆罪

―宗教経典―

正当な理由による以外は、神が禁じたもうものを殺してはならぬ。
クルアーン17.33(イスラーム)

殺してはならない。
出エジプト記20.13 (キリスト教)

ある男がラバのもとを訪ねてきて言った。「私が仕える主人が、私に殺人を命じました。私が拒絶すれば、私を殺すでしょう」。サバが彼に言った。「かえって殺人より死ぬ道を選びなさい。あなたの血がその人(犠牲者)のものより純粋だと思いますか。おそらくその反対でしょう」。
タルムード、プサヒーム25b(ユダヤ教)


すべての者は暴力におびえ、すべての者は死をおそれる。己が身をひきくらべて、殺してはならぬ。殺さしめてはならぬ。すべての者は暴力におびえる。

すべての(生きもの)にとって生命は愛しい。己が身にひきくらべて、殺してはならぬ。殺さしめてはならぬ。生きとし生ける者は幸せをもとめている。もしも暴力によって生きものを害するならば、その人は自分の幸せをもとめていても、死後には幸せが得られない。生きとし生ける者は幸せをもとめている。

もしも暴力によって生きものを害しないならば、そめ人は自分の幸せをもとめているが、死後には幸せが得られる。
法句経129 ~ 132 (仏教)


信仰する者よ、なんじらの財産を、不正になんじらの間で浪費してはならぬ、ただしお互いの善意による、商売上の場合は別である。またなんじら自身で、殺したり害してはならぬ。まことに神は、なんじら仁慈悲深くあられる。
クルアーン4.29 (イスラーム)

「あなたたちの命である血が流された場合、私は賠償を要求する」(創世記9章5 節)。パウロの場合を除外し、自殺もここに含まれる。
創世記ラッパー34.13(ユダヤ教)

何れの比丘と雖も、故意に人体の生命を奪ひ、或はその為に、殺具を持つ者を求め、或は死の美を讃歎し、或は死を勧めて(咄、男子、この悪苦の生は汝にとりて何の用ぞ、死は汝にとりて、生に勝るべし」と云ひ、斯く心意ひ斯く決心し、種々の方便を以て死の美を讃歎し死を勧むれば、これ亦波羅夷にして共住すべからざるものなり。
律蔵(仏教)?

貧困を恐れてなんじらの子女を殺してはならぬ。われはかれらとなんじらのために給養する。かれらを殺すのは、まことに大罪である。
クルアーン17.31 (イスラーム)

意図的に人を殺したり。隋胎を画策する比丘は、決して苦行者と言うことはできず、仏陀の僧団に従う者でもない。
律蔵経分別1.78.4 (仏教)

一言の言葉であっても、信仰をもつ者を殺すことに寄与した者は、最後の審判の日に神に出会い、額に「主の慈悲から除外された」という審判を受けるだろう。
イブン・マージャのスナン2.2620(イスラーム)

生命の神聖さが侵害されるとき、私達はそれに立ち向かい、誰にも生命を破壊する権利がないことを公布するだろう。
教皇ヨハネ・パウロニ世(注8)(キリスト教)

人を殺すことは全面的に禁止されているので、母の胎内にある子供でも、母親の血がこの人間を形造るためにそそがれている限り、中絶することは許されていない。出生の中絶は早手まわしの殺人である。生まれ出た生命を取り除こうが、生まれようとしている者を中絶しようが殺人は殺人である。人間になろうとしている者もまた人間であり、胤のなかには果実全体が宿っているのであるから。
テルトゥリアヌス護教論9.8(キリスト教)


―み言選集―

人間の権利と尊厳性の保護がすべての倫理と道徳性の標準にならなければなりません。
(168-239、1987.9.21)

人権問題をもってこれをどのように扱うのかというのです。(注9)北朝鮮で金日成は300 万を虐殺しました。毛沢東は1億5000 万を虐殺しました。また、ソ連革命当時には7000 万を虐殺しました。

ニューヨーク・タイムズに出ていましたが、ベトナムで60 万を虐殺したことを、報道を通して見たでしょう。人権が問題ではありません。生命権を蹂躙する共産党に対してどうするのかというのです。
(91-255、1977.2.23)

神様とこの宇宙を合わせても、肉身をもった人間がいなくては完成できないために、今日の私達人間の体がどれほど貴いかを知らなければなりません。
私達人間に欲心があるのならば、神様は欲心の前に何を願うでしょうか。これを願うというのです。私達の肉身は宇宙とも取り替えることができません。

聖書にある「たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか」(マタイ16・26)という言葉もそれで成立するのです。
(91-19、1977.2.13)

私という存在を父母が必要とし、未来の夫が必要とし、妻が必要とし、その次には兄弟が必要とすることを今分かりました。そして、家庭が必要とすることを知りました。そして、国が必要とするのです。

アメリカがいくら大きいとしても、国民がいなければ何をするのですか。ですから、国が必要とするのです。そして、世界が私を必要とします。そして、結局何が必要とするのかというと、霊界が必要とするのです。その次には何が必要とするのでしょうか。神様が私を必要とするのです。
ですから、最も変わることができず、最も貴い父母が私を必要とし、またそのような相対が私を必要とし、兄弟が必要とし、家庭が必要とし、国が必要とし、世界が必要とし、霊界とこの全宇宙が必要とし、神様までも私を必要とするのに、なぜ私が必要としないのかというのです。

父母、そして相対、兄弟、家庭、国、世界、霊界、神様……。「ああ、私は必要ない人間だ」、このように考えるとき、すべてに対して罪を犯していることを知らなければなりません。

それは父母に対する犯罪であり、未来の夫婦に対する犯罪であり、兄弟に対する犯罪であり、家庭と国と世界と天地に対する犯罪であり、そして、神様に対する犯罪になるのです。彼は、そのような愛の法度に背こうとする存在です。このような観点から見るとき、自殺する人はどのような人ですか。自殺する人が多いのです。そのようにすることができるのかというのです。それは夢にも考えることができません。
(74-30、1974.11.10)
自分が今赤ん坊を身ごもったとすれば、その赤ん坊がどのような息子、娘に生まれるか分かりますか。それを堕胎させることができるのかというのです。

アメリカの大統領になり、聖君になり、アメリカを生かすことができる、そのような人が、自分の息子、娘として自分の体を通して生まれるのに、それを自分勝手に制御できますか。先生の母親が今日のように何でも自分の思いどおりにできる、そのような何かがあったとすれば、先生が生まれていたでしょうか。

それでは、堕胎は罪か、罪ではないかというとき、罪だというのです。赤ん坊は、愛と生命と血統の精髄として生まれたのです。それが人か動物かと考えるとき……。細胞が動物ですか。細胞が人ではないですか。細胞の中には、愛が入っていて、生命が入っていて、血筋が入っています。ですから、父母と同じ価値があるのです。父母の愛が入っているというのです。(注10)
(230-121、1992.4.26)
父母が「ああ! 足の不自由な赤ん坊は蹴飛ばしてしまおう」と言いますか。それが愛ですか。それが真の愛ですか。
(117-292、1982.4.11)

  <次ページ>

 

コメント

世界経典-6

2020年10月06日 18時59分48秒 | 学習

 

5.律法を越えて

律法は神様に至る道を案内するが、多くの伝統宗教で神聖な人生の理想は、律法の境界の向こうにある。したがって律法は、束縛から抜け出すようにする教えであると同時に、もう一つの束縛ともなり得る。


例えば、パウロは、教訓的ではあるが、依然として拘束的なモーセの律法を、イエス・キリストを通して得ることのできる救援の恩寵と対比した。律法の命令を遂行することだけで救援を得ることはできない。それは、依然として善と悪の絶えることのない葛藤の中に落ち込んだ心の最も深い内面を刺激しないからである。


したがって、律法はせいぜい予備的な価値をもつにすぎない。さらには、世俗的な準則が誤用されたり、乱用される状況で、良心はより高い心の法に従うように導く。


律法の向こうに絶対者と関連したより高い次元がある。そこに至って人々は、行うことに制限がなく、良心の波動が神様の願いと常に一致するという点を確信する。


しかし、自由に行うといって、霊性の生がどんな罪を犯してもかまわないと誤解してはいけない。完全に自由にしたとしても、依然として天的な基準と原理があるものである。したがって、正しく悟った人は、その天的原理と一つになりながらも、それによる束縛感を感じないのである。

 

―宗教経典―

神から生まれた人は皆、罪を犯しません。神の種がこの人の内にいつもあるからです。この人は神から生まれたので、罪を犯すことができません。
ヨハネの手紙一3.9 (キリスト教)


悟りに満ちた者は、決して悪行にふけることはない。彼の良心は、真理で完全に映し出された知性によって導かれるからである。
アーヤーランガ・スッタ1.174(ジャイナ教)


来るべき日に、私がイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、私の律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。私は彼らの神となり、彼らは私の民となる。


そのとき、人々は隣人どうし、兄弟どうし、「主を知れ」と言って教えることはない。彼らはすべて、小さい者も大きい者も私を知るからである、と主は言われる。私は彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない。
エレミヤ書31.33 ~ 34(キリスト教)


さて、私達が知っているように、すべて律法の言うところは、律法の下にいる人々に向けられています。それは、すべての人の口がふさがれて、全世界が神の裁きに服するようになるためなのです。なぜなら、律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。


ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。


私達が肉に従って生きている間は、罪へ誘う欲情が律法によって五体の中に働き、死に至る実を結んでいました。しかし今は、私達は、自分を縛っていた律法に対して死んだ者となり、律法から解放されています。その結果、文字に従う古い生き方ではなく、“霊”に従う新しい生き方で仕えるようになっているのです。
ローマの信徒への手紙3.19 ~ 22、7.5 ~ 6(キリスト教)


高い徳の人は徳を自慢しない。
だから、徳がある。
低い徳の人は徳にこだわる。
だから、徳がない。……
だから、「道」が失われると徳がそこにあり、
徳が失われると仁愛がそこにある。
仁愛が失われたのちに道義がきて、道義が失われたのちに礼儀がくる。
礼儀は信義を欠くことで、無秩序の第一歩となる。
道徳経38(道教)


本心を見失った人は、福徳を修めるのみで仏道を修行せず、福徳を行うことがそのまま仏道だとばかりいっている。物を施したり仏法僧に供養するなどその福徳には限りがないが、自分の心中の三種の悪行ははじめから作られている。
六祖壇経6(仏教)


かの十八の祭資は祭祀の形なせる不安定なる小舟に過ぎず。これらに基づく祭儀は低劣なるものといわれる。かくの如きものを勝道と思い喜ぶ痴愚の輩は再び老死の世界に堕つ。愚昧の輩は無知なるままにあれやこれやと行事をなしつつ「我こそ道を得たり」と驕る。彼等祭祀主義者は慾念に迷わされて真理を悟らざるが故に、果報尽きたる天界よりみじめな姿もて退堕す。


迷乱せる輩は祭祀と善行を最勝事と想い、これに勝れるものあるを知らず。彼等は殊妙なる天界の背(頂)にて福祉を享受したる後、この世界あるいはさらに劣れる世界に入る。およそ森林において苦行と信仰とを修め、心を寂静にして、乞食行を行ずる賢者は罪垢を去り、太陽の門を過ぎて、かの自性不滅なる不死の神人(プルシア)の在ます処にゆく。
ムンダカ・ウパニシャッド1.2.7 ~ 11(ヒンドゥー教)


スブーテイよ、実に、誰かが、「求道者の道に向かう者には、なにかの法が滅んだり、断ちきられたりするようになっている」と、このように言うかも知れない。けれども、スブーティよ、このように見てはならない。金剛般若経27(仏教)

「私には、すべてのことが許されている。」しかし、すべてのことが益になるわけではない。「私には、すべてのことが許されている。」しかし、私は何事にも支配されはしない。食物は腹のため、腹は食物のためにあるが、神はそのいずれをも滅ぼされます。体はみだらな行いのためではなく、主のためにあり、主は体のためにおられるのです。神は、主を復活させ、また、その力によって私達をも復活させてくださいます。
コリントの信徒への手紙一6.12 ~ 14(キリスト教)


―み言選集―

真の愛で家庭教会を完成すれば、天国に入っていくのですが、門が分からなくて、東側、西側、12 の真珠門を逆さまに入っていってもOKです。居眠りしながら入っていってもOKです。どれほど自由ですか。真の愛は法を超越します。このような特権をもった真の愛を今知りました。今知ったので、実践すれば皆さんは、天国に全員行けま
す。
(116-249、1982.1.1)


心と体が一つになれば、宇宙が……。すべて宇宙の縮小体です。すべて知っているのです。学ぶ必要がありません。人間がどのように生きなければならないのか、ということを教える必要がありません。倫理道徳を教える必要がありません。


見てください。すずめの世界や動物の世界で、倫理道徳教育をしますか。自分たち同士で保護し、生理的に自分の一族を連結させて生きることを知
っているのに、どうして万物の霊長がこのようになっているのですか。堕落したので争いが起きるのです。
(162-223、19874.12)


今までの歴史を見ても、人倫道徳は心から始まります。いつでも正しい心をもって事をなして良心の呵責を受けない人は、何も怖くありません。いくら悪の世界の暴君の前に行っても、堂々としています。
(19-288、1968.3.10)


善は、この宇宙が保護育成し、自由と平和が宿っており、生命と権勢が共にあるのです。これを屈服させることができるものは、天地のどこにもないというのです。ここに異議がありますか。


善になるときには、大統領も恐ろしくありません。六法全書が適用されたとしても関係がありません。いくら刑法がたくさんあっても、その法とは何の関係もないというのです。それゆえに、世の中の法は、良心の基準を通過することはできません。すなわち世の中の法は、善の権限を侵犯することはできない、という結論が出てくるのです。
(16-134、1966.1.2)


統一教会は何ももっていませんが、境界線があるかないかというとき、境界線はないと言うかもしれませんが、そうではありません。厳然として境界線があります。


また、その線を越えてはいけない、越えるなというそのような線があります。そこを越えれば必ずほかの何かの形態に転換されるか、ほかの所に属するようになる、このような存在として決定されるのです。
(90-9 ~ 10、1976.12.5)


私は秘密の力をもっています。神様の胸に入り込んでも、神様が怒ることなく喜ぶ秘密をもっています。それは何でしょうか。理想的な真の愛です。神様がそのような公式を適用したのです。すべてのことを公式的にするようになっています。数学ですべての宇宙を……。


自然科学も解く公式があるのに、愛の世界にそのような公式がないでしょうか。そのようなユニットがなければ、世界の地の果てから来るすべての人を、何をもって操縦するのですか。
(170-256、1987.11.22)


6.二重属性

二重属性は、宇宙に広がっている普遍的な現象である。すべての存在は男性と女性、光と影、天と地、心と体、主体と対象、個体と全体、そして存在と非存在という二重属性をもつ。


この両極の間の躍動的な相互作用は、生殖力と創造力の源泉である。これは自然の周期的な循環、昼と夜の変化、そして季節の変化などによって現れる。


二重属性は、男性神と女性神の宇宙的結合によって神話的に描写され、科学で見るように、原子と分子を構成する電磁気的相互作用として知られている。


ある宗教、特に儒教と道教は、陽(男性)と陰(女性)の重属性を自然の支配的な原理、そして正しい方式として、人間を教育できる人生の原理とみなしている。


文鮮明先生は、自然を深く洞察した結果、自然の二重属性を一つの体系的な存在論に発展させた。先生は、自然の相互作用を詳細に洞察したのち、ために生きる人生の原理の基盤を発見した。与えることが受けることに対して先行してこそ、円満な関係性が形成されるからである。


さらには、自然の反発力は、三存在を一双に転換させる効果を発揮することによって、一双となったものがもつ創造的で包容的な関係性の領域をより強く保護する。


また、文鮮明先生は、このような根拠を基盤として、対立と葛藤に根を置き、実在に対する誤った観念を教えるマルクスの弁証法を批判した。


①男性と女性の二重属性

―宗教経典―

またわれは、すべてのものを両性につくった、おそらくなんじらは訓戒を受け入れるであろう。
クルアーン51.49 (イスラl ム)


すべてのものは対をなし、一方は他方に対応する。主は不完全なものを何一つ造られなかった。一方は他の長所を更に強める。だれが主の栄光を見て飽き足りたといえようか。
シラ書(集会の書)42.24 ~ 25(キリスト教)


天と地の原始の創造者。かれはなんじらのために、なんじら自身の間から夫婦を、また家畜にも雌雄をつくりたもう。このようにして、なんじらを繁殖させたもう。
クルアーン42.11 (イスラーム)


かくて易には陰陽未生以前の根源として太極があり、太極から陰陽の両儀を生じ、両儀はさらに分かれて四象(陰陽二交の組み合わせ、すなわち老陽・少陽・少陰・老陰)を生じ、四象は八卦を生ずる。この八卦の組み合わせにより万事の吉凶が定まり、その定められた吉凶によってもろもろの大いなる事業も成就される。
易経、周易繋辞上伝11.5 ~ 6(儒教)


往昔{むかし}、生主神は子孫を欲して苦行を修めた。苦行を修め終わって財(物質)と気(生命)という一対のものを生ぜしめた。このふたつのものがわがために多種多様の子孫を造ってくれるように、といって。ここで気とは太陽のことで、財とは月のごとである。
プラシュナ・ウパニシャッド1.4 ~ 5(ヒンドゥー教)


ムジャヒードが言った。「神は万物を二つに創造された。男と女、天と地、太陽と月、夜と昼、明と暗、人間と精霊、善と悪、朝と夜、あらゆる種類の糧と風と音を創造された。神は御自身の偉大さの証としてこのすべてのものを造られた。
タルトゥピークルアーンの諸規定の集成17(イスラーム)


神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。
創世記1.27 (キリスト教)


「男と女を創造された」、このみ言は、男と女の条件に当てはまらない人は、真で適合した人ではないということである。……見よ、主なる神は男女が共にいない所にはおられず、その方の祝福もやはりその場には臨まない。
ゾハール1.55b (ユダヤ教)


すべての生命、生きているもののすべての鼓動は、永遠の彼であり永遠の彼女として顕現するシヴァ・シャクティの一対の真理の偉大な宣言とともに脈打っている。(注11)
クラールナヴァ・タントラ3(ヒンドゥー教)


あの天がいっぱいに育み、2 人の子を生んだが、それが男と女である。彼らが天上の形にそって天と地になった。地は天から注がれる水を飲んで生きる。


上層の水は男であり、下層は女である。女は男から扶養される。下層の水は女が男を受け入れるように、上層の水の気を引く。そして、種を宿そうとする男の水と出会うため、水を浴びるのである。
ゾハール1.29b (ユダヤ教)


本有的特性は二つである。なぜなら、知恵は女であり、手段は男だからである。その後、この二つは、相対的なものと絶対的なものに区別される二重的なものとなった。


男の中にこの二つの本質、すなわち悟りに対する思い(相対性)と、それから起きてくる至福(絶対性)がある。女の中にもそれは同様だ。すなわち、悟りに対する思いと、それから起きてくる至福がある。呼金剛8.26 ~ 29(仏教)


陽の変化と陰の変化が結合し、水火木金土の五つの気運が生じる。五気が順調に広がって四つの季節が運行する。五行は一つの陰陽であり、陰陽は一つの太極である。
周敦頤太極図説(儒教)

―み言選集―

すべての存在世界は、ペア・システムになっています。人間も男性と女性、動物も雄と雌でしょう? 昆虫も雄と雌でしょう? 蝶も、鳥も、蟻もすべてそうであり、鉱物も同じです。鉱物も元素が107 個にもなりますが、それはむやみに合わさったりしません。


しかし、自分の相対になるものは、合わさるなといっても合わさるのです。プラスとプラスが互いに反発するものは、神様でもくっつけられません。しかし、相対性があれば、くっつくなと言っても自動的にくっついてしまうのです。
(203-355 ~ 356、1990.6.28)


宇宙を観察してみれば、すべての存在は陽性と陰性の二性性相の相対的関係を結ぶことによって存在していることが分かります。


これは、鉱物という次元から出発してすべての場合に当てはまります。分子は、陽イオンと陰イオンの結合を通じて形成されます。植物の場合、生存と繁殖は、雄、雌を代表する雄しべと雌しべの結合を通じてなされます。動物の場合、このような二性性相がよりはっきりとします。魚類、鳥類、哺乳類等、すべての動物は雄と雌によって存在します。


最後に、神様の最高の創造物である私達人間も、男性と女性に区分されています。最初の男性アダムと最初の女性エバは人類の始祖です。


このような二性性相の存在目的とは何でしょうか。神様は、なぜこのような方式で創造をされたのでしょうか。創造主は、万物を陽性と陰性に区分し、これらが互いに愛を授け受けすることを通して結合するように創造されたのです。愛の行為を通じて、すべての種はその数を増やし、系譜をつないでいくのです。
(201-204、1990.4.9)


ペア・システムは宇宙創造の原則です。上下、前後、左右、子を生みながらすべての宇宙が生じたので、昆虫の世界から植物世界、動物世界、人間世界、天地、すべてペア・システムでできています。


五官もペアになっています。手もペアであり、心と体もペアです。私達人間において最も問題になることは、心と体が一つにならないことです。


目も両側が同時に瞬きします。鼻も一緒に呼吸します。唇も、話をするときに勝手にしません。聞くことも、三半規管があって、共鳴できるようにすべて一つになっています。手も、片手では仕事ができません。歩くのも、2本の足が協力しなければなりません。すべてが相対を必要としているのです。


動いて作用しようとするので、そうなのです。作用は独りではできません。独りで作用しては、神様には似ません。五官自体が父母に似ているので、相対関係を必要としています。相対関係に適応し、大きな宇宙が、相対性を中心として共同的な目的のために、対応的な、和合した世界に連結されてこそ、完成品になるのです。小さければ小さいなりに、大きければ大きいなりに、宇宙は宇宙なりに、対応関係によってバランスを保っています。それは、授受作用して運動しなければなくなるからです。
(391-174 2002.8.21)


創造するにおいては、人間を中心に、人間をモデルとして東西南北、四方に広げて橋を掛けて造ったのです。それで、すべての万物、鉱物、植物、動物界、すべてが相対になっています。すべて相対に造ったというのです。


そのように縦的な道と横的な道をペアでつづりながら行くのです。ジグザグに行くもの、このように運動するもの、様々な形態の作用を経ながら、ペア・システムを中心とした万物は、理想的愛を訪ねていくことができる人間の教材です。
(173-212、1988.2.18)


あらゆる植物の種を見るとき、その内部に相対的な両側があるので、完全一体となったまま、一つの殻の中で胚子を通して授受作用することによってのみ、生命を繁殖するのです。


卵を見ても、黄身と白身の間に胚子があるのですが、一つの殻に包まれたまま一体を成しているのです。人間の胎児も同様です。


あらゆる生物は、主体と対象が授受作用によって一体化すれば、人間なら人間、植物なら植物はその原因に似て繁殖し、結局根本に還元するのです。


このすべてが究極の第一原因に似たのであれば、その第一原因的存在も、主体と対象が完全一体化した基本形態として、すべての存在に対して主体格をもっているという結論になります。
(89-226、1976.11.27)


神様の立場で見れば、神様がいくら主体で、いくら絶対者だとしても、相対がいなければ孤独なのです。世界的に自分がいくら多くのものをもっていても、あるいは多くの知識があっても、また、多くの権力があったとしても、孤独単身の立場で喜ぶことのできる道はないのです。


神様は、なぜ天地を創造されるようになったのでしょうか。神様は、絶対的な主体ですが、主体だけでいては喜びがあり得ないというのです。喜びというものは、一人でなされるものではなく、相対的関係においてなされるものです。


平和も幸福も、一人でなされるのではありません。相対的関係においてのみ平和が成し遂げられるのであり、幸福が成し遂げられるのです。それゆえに、神様も独自的な立場では、神様の本分を果たすことはできないというのです。
(58-210、1972.6.11)


宇宙のすべての存在を見れば、主体と対象、プラスとマイナスのペアになっています。鉱物界、植物界、動物界、そして人間世界もすべてペア・システムになっているのです。


なぜかというと、すべてがこのような相対関係を通して真の愛を願うからです。この宇宙の中で、絶対に一人では得られないものが愛ですが、反面、相対が現れることによって愛で連結されたすべてのものを得るようになるのです。


同じように、子女なくしては子女を愛する父母の愛が現れず、子女に対する父母の愛の主人にもなれません。したがって、神様も、真の愛を成し遂げるためにその相対として宇宙と人間を創造されたのです。このように、子女の愛や兄弟の愛、夫婦の愛、そして父母の愛、すべてが主体と対象が一つになることによって現れます。主体と対象で一つになれば、この二つを分けることはできません。もし分けるとすれば、真の愛が破壊されてしまいます。ですから、離婚という概念はあり得ません。(300-214 ~ 216、1999.3.14)


全被造万物を相対的につくったのは、神様の真の愛を受けるようにするためです。一つしかない愛を受けるようにしようというのです。それで相対的につくりました。


そのような男性、そのような女性が神様の愛を、完成させ、神様の愛を自らに決定的に結びつけられる姿になれば、同じ立場で愛を分かち合える立場に立てば、彼らは間違いなくたった一つの理想的な夫婦になります。
(26-155 ~ 156、1969.10.25)


神様が人間を造られたのは、御自身のパートナーを造られたということです。真の愛のパートナーとして人間を造られたのです。それを手本として、宇宙がペア・システムをもって造られたのです。


ですから、神様の愛も永遠であり、男性の愛も永遠であり、女性の愛も永遠であり、子女の愛も永遠です。これが神様の家庭です。ですから、この家庭は永遠の家庭なのです。
(201-193、1990.4.1)

②精神と物質の二重属性

―宗教経典―

プラクリティ(根本原質)とプルシャ(個我)とは、二つとも無始であると知れ。諸変異と諸要素とは、プラクリティから生ずるものと知れ。


プラクリティは、結果と原因を作り出す働きにおける因であると言われる。プルシャは、苦楽を享受することにおける因であると言われる。


というのは、プラクリティに宿るプルシャは、プラクリティから生ずる要素(グナ)を享受するから。彼が要素と結合することが、彼が善悪の胎から生まれる原因である。この身体における最高のプルシャは、近くで見る者、承認者、支持者、享受者、偉大な主、最高の自己(アートマン)と言われる。


動不動のいかなるものが生じようとも、それは「土地」と「土地を知る者」との結合によると知れ。バラタ族の雄牛よ。(注12)
バガヴァッド・ギーター13.19 ~ 22、26(ヒンドゥー教)


私達の体はただの一つの殻である。内外にただ天地の気運と陰陽があるだけである。
朱熹(儒教)


神は非物体的本性と物体的本性とを、また、先におかれた本性とあとにつづく本性とを不思議な仕方で結合させて魂あるものをおつくりになった。その御業の大いなること、おどろくべきことは、理性的動物であって、そのことゆえに地上のすべての動物にまさってすぐれている人間だけでなく、どんなに小さなねずみをもよく眺めるならば、精神をおどろかせ、創造者への賛美をよびおこすであろう。
アウグスティヌス神の国22.24 (キリスト教)

―み言選集―

400 兆にもなる細胞をもつ私達の人体を構成するにおいては、必ず循環過程の運動が連結されています。その循環運動を通して存続するのです。そうではないですか。血液は動脈と静脈を中心として循環し、神経系を中心として上下を連結させることのできる電気作用によって循環運動をするのです。見えない循環系統、見える循環系統の二重になっているのです。
(262-126 ~ 127、1994.723)


すべての存在は二重目的をもつ連体である。既に述べたように、すべての存在の中心には、性相的なものと、形状的なものとの二つがあるので、その中心が指向する目的にも、性相的なものと形状的なものとの二つがあって、それらの関係は性相と形状との関係と同じである。


そして、性相的な目的は全体のためにあり、形状的な目的はそれ自体のためにあるもので、前者と後者は、原因的なものと結果的なもの、内的なものと外的なもの、主体的なものと対象的なものという関係をもっている。それゆえに、全体的な目的を離れて、個体的な目的があるはずはなく、個体的な目的を保障しない全体的な目的もあるはずがない。したがって、森羅万象の被造物は、このような二重目的によって連帯しあっている一つの広大な有機体なのである。
原理講論、創造原理3.1


この被造世界はどのように存在しているのでしょうか。軸があるのですが、その軸にも、二つがあります。見える軸と見えない軸、二重構造になっているのです。

一つの主体を中心として回るのですが、その主体自身も回るのです。体と心が相対を中心として授け受ければ、互いに回るようになるのと同じことです。すべての存在物は、このような原則によって存在します。同様に、今日堕落した人間世界における復帰の道も、軸を直さなければいけません。軸を直さなければなりません。人間において、体の中心は心です。霊人体があるのです。


霊を中心として、体がつながっているために、体は霊を中心として回るのです。心の命令に体が動くのです。心が「東に行け」と言えば、東に行かなければならず、「西に行け」と言えば、西に行かなければなりません。体が勝手にすることはできません。
(136-14、1985.12.20)


③授受を通して現れた二重属性

―宗教経典―

雨水が地に落ちるたび、地球はその2倍の水分を送り上げる
創世記ラッパー13.13 (ユダヤ教)


本当に天と地の創造、また夜と昼の交替の中には、思慮ある者へのしるしがある。
クルアーン3.3190 (イスラーム)


主なる神が造られた被造物が、どれほど互いに世話になっているかを見よ。昼は夜に、夜は昼に、互いに世話になっている。しかし、これらは人間たちのように、互いに告訴したりしない。月は星に、地は天に、すべての神の創造物たちは、互いに世話になっているが、そうしながらも互いに裁判することはなく、平和を維持している。しかし、人間は、友に借りたものをかえって強奪し、奪おうとする。
出エジプト記ラッバー31.15 (ユダヤ教)


日往けば月来り、月往けば日来り、日月相い推して明生ず、寒往けば暑来り、暑往けば寒来り、寒暑相い推して歳成る。往くとは屈するなり、来るとは信ぶるなり。屈信相い感じて利生ず。尺蠖の屈するは、もって信びんことを求むるなり。


竜蛇の蟄るるは、もって身を存するなり、義を精しくし神に入るは、もって用を致すなり。用を利し身を安んずるは、もって徳を崇くするなり。これを過ぐる以往は、いまだこれを知ることあらず。神を窮め化を知るは、徳の盛なり。(注14)
易経周易繋辞下伝2.5.2 ~ 3(儒教)


難と易はたがいに補いあい、長と短はたがいにそれぞれの位置をしめ、高と低はたがいに調和しあい、前と後とはたがいに順序をもつ。
道徳経2(道教)


何事にも時があり、天の下の出来事にはすべて定められた時がある。生まれる時、死ぬ時、植える時、植えたものを抜く時、殺す時、癒す時、破壊する時、建てる時、泣く時、笑う時、嘆く時、踊る時、石を放つ時、石を集める時、抱擁の時、抱擁を遠ざける時、求める時、失う時、保つ時、放つ時、裂く時、縫う時、黙する時、語る時、愛する時、憎む時/戦いの時、平和の時。
コヘレテの言葉3.1 ~ 8(キリスト教)


天地陰気が密接にまじわりあうことによって万物が見事につくり成され、男女がその精気を交合させることによって万物が生み成される。易に「三人行けば、一人を損す。一人行けば、その友を得」とあるのも、二つのものが力をあわせてこそ一つのことを成就し得るということを言っているのである。
易経、周易繋辞下伝2.4.13 (儒教)


さて天は高くして尊く、地は低くして卑いという事実にのっとって、易の基幹ともいうべき乾・坤の二卦が定立される。また天地間の万物があるいは高くあるいは卑く陳なり並ぶ事実にのっとって、易の各卦における六交の貴賤が位地づけられ、陰陽二気の動静に恒常的な条理の備わることにのっとって、易の各卦の剛交と柔交とが区分される。(注15)さらにおよその事が善悪邪正におもむく方向はその類をおなじくするもの同志で相い集まり、およその物は群れを同じくするもの同志で相い分かれることにのっとって、易の卦交の判断にも吉凶の別が生ずるのであり、陰陽の二気が天に在っては日月星辰の象を成し、地に在っては山川・動植物の形を成すことにのっとって、易の卦交にも陰が陽に変ずるという変化の作用が現われるのである。
易経、周易繋辞上伝1.1.1 ~ 5(儒教)


三十本の輻(や)が車輪の中心に集まる。その何もない空間から車輪のはたらきが生まれる。粘土をこねて容器ができる。その何もない空間から容器のはたらきが生まれる。


ドアや窓は部屋をつくるために作られる。その何もない空間から部屋のはたらきが生まれる。これ故に、一つ一つのものとして、これらは有益な材料となる。何もないものとして作られることによって、それらは有用になるもののもとになる。(注16)道徳経11(道教)
愛は巡り巡ってくる。愛された者は愛する者に似ることによって、愛する者を感動させる。すると、愛する者はその愛された者を迎えるために出ていく。最初に始めた者がすなわち最後になる。
トマス・アクィナス神学大全(注13) (キリスト教)


―み言選集―

授け受けするにおいて、差が一つもなければどうなるでしょうか。それは長く続くのです。石のようなものも、長く続く石はどのようなものでしょうか。完全に授け受けするものは長く続くのです。しかし、そこに不純物が入り込んでいるとき、完全に授け受けできないので、その差が大きければ大きいほど早ぐ崩壊するのです。


ですから、宇宙の天法とは何でしょうか。存在の法則とは何でしょうか。それは授け受けすることです。完全に授け受けしなければなりません。良く授け、良く受ければ、長く存在しますが、良く授け受けできなければ崩壊してしまうのです。
(157-266、1967.4.10)


作用には必ず二つの作用体、主体と対象がその過程を通して、よりプラスにならなければなりません。そのような所においてのみ作用するという事実を、結論づけられるのです。ですから、作用の目的を見てみれば、これはプラス(主体)よりも大きく、マイナス(対象)よりも大きな第3の存在、結果的存在が出てくるようになるのです。


きょう皆さんは、ここに集会があると思って来たのですが、ここに来た目的はどこにあるのですか。それは、来るときのその心よりも、よりプラスになり得る、もう少しよくなり得る、その何かを求めてきたのです。


もしここに来てマイナスになり得る結果をもたらしたとすれば、そのような作用はだんだんとなくなっていくのです。ですから、この現象世界で見えるすべての作用は、自らを減少させるために作用する存在は一つもないという結論を下せます。
(56-134 ~ 135、1972.5.14)


私自身を中心として見るとき、受けたいと思いますか、与えたいと思いますか。深刻な問題です。それで「統一原理」には授受作用という言葉が出てくるのです。授受作用で、この「授」が先ですか、この「受」が先ですか。与えることか先です。父母が子女のために与えますか、子女が父母のために与えますか。父母が与えるでしょう? これを見るとき、存在の最初の起源になるその方から与えることが始まり、作用が連結されたという論理を認めなければなりません。(注17)
(239-59、1993.11.23)


世の中のすべてのものは回ります。運動をしないものがありません。動くようになるとき、どこから始まるのでしょうか。皆さんはすべて受けることを願います。お金を引っ張り込むことを願います。それが正しいかどうかは、宇宙の原則から解いていかなければなりません。原則がそうであれば、神様も否定できないでしょう。神様が創造を始めるとき、受けようとして引っ張る力で創造したでしょうか、与える力で創造したでしょうか。与える力です。投入する力です。
(239-223、1992.11.25)


すべてのものは、一から多くのものに分かれ、結局、一つの大きなものに総合されます。このように発展するのです。一からいろいろなものに分かれ、一つに統合されるのです。ここでまた分かれて、より大きなものになります。より大きな一つの世界の中にすべて入っていくという話です。
(26-189、1969.10.25)


この宇宙には相対圏があるので、宇宙が、天運が保護します。ですから、プラスにプラスが来れば反発するのであり、またマイナスにマイナスが来れば一緒に反発するのです。……


この宇宙には和合力と排斥力があるのですが、相対するものは和合し、相反するものは排斥するのです。宇宙の天運は、自分を損傷させようとするものから自ら保護するようになっています。


このような原則的論理が符合する所においてのみ、相対圏が形成されるので、ここにほかのものが来るとき、相対圏か傷つくので反発するのです。反発する力が悪いものではありません。……
宇宙は、和合と同時に反発する作用があるというのです。和合力と反発力があります。相反する力があったとしても、それは一緒に同伴してマイナス化させるのではなく、天運の完成を助けるための作用をするのです。もし作用に対して反作用の力がなければ、歩くこともできません。
(227-36 ~ 37、1992.2.10)


妻が死んだり、夫が死ぬと、なぜ悲しいのですか。自分の夫が死んだといってなぜ妻は取り乱し、我を忘れて泣き喚くのですか。ただ泣くのではなく、ひっくり返って泣くのですが、なぜそのようになるのかというのです。


男性と女性の相対圏を結び、愛を中心として永遠の宇宙の法の圏内に入っていたものが、相対圏が乱れることによって、皮膚が赤くなるほど押し寄せてくるその力によって悲しみと痛みを感じるのです。友人関係でも、その相対圏が、なくなった場合には寂しく思います。知識も友であり、お金も友であり、権力も友であり、すべて友です。その友人関係においてもそうだというのに永遠の主流となる愛の基準を中心として築いた相対圏を失ったその痛みは、宇宙と取り替えても消えない痛みだというのです。


その原則によって、数億ボルトの電気がプラスになるところには相対圏が必要なのです。そのプラスは、相対圏が成立しなくなるときは壊れます。一度、プラスの電気とマイナスの電気が相対圏をつくった場合、ここにほかのプラスが来れば、その相対圏は破壊されるのです。宇宙の保護圏を侵害するのと同じ立場に立つので、プラス同士は反発するのです。


自分の相対位置を保護するための反発作用は、第2の保護作用です。宇宙は、そのような対応、反発という力によってバランスを取っているのです。それは悪い力ではなく、作用と反作用の平均によってバランスをとるようになります。それがどのようにして来るのですか。結婚する前の女性たちは、大勢の女性たちが集まって互いに腕組みをしながら歩けます。男性も同様です。子犬のようにじゃれながら、男性同士で村を騒がしくさせて歩き回ったり、互いにじゃれ合ったりして一つになります。


しかし、その男性がある日、結婚をして女性が来た場合に、自分より美男子の友人が自分の横に立って自分の妻の前に現れることを願うでしょうか。それを願う男性はいません。蹴飛ばしてしまうのです。「あしたから来るな、こいつ!」と言うのです。


このとき、行けと言うのは悪いことではありません。「お前も私のように宇宙の法に合う立場に立て!」と言って蹴飛ばすのは、完成の道に導くことになります。


これは初めて聞く論理でしょう。ですから、どこに行ってもプラスとプラスのときは相対圏になりません。自分か大きくなれば、周囲の環境が、あの人が中心に立って相対圏を支配してくれないかと願うようになるのです。自分が相対圏に立つようこになるとき、全体がそのようになり、一つの関係を中心として相対理想圏をつくろうというよ
うになるというのです。
(218-335、1991.8.22)


このようなことが原則だとすれば、進化論は成立しません。対象の路程を通じたアメーバから猿まで、数千、数万回の愛の門を通じた雄と雌の関係を無視すれば、連結されないのです。


雀もそうです。冬は相対のようなものが分からないので、戯れて、それぞれ別々のプラスになっていますが、春になって巣をつくり、相対圏をつくったときには絶対的です。第三者の雀に対しては雄と雌が一緒になって絶対的に排斥するのです。雌が来れば雄が排斥し、雄が来れば雌が排斥します。自分の相対圏を壊すのでそのようにするのです。宇宙の法圏内の侵略者になるので、それを排斥するようになっています。
(218-338 ~ 339、1991.8.22)


いわば弁証法的論拠があると見るのです。歴史的な上下闘争の概念があると見るのです。ヘーゲルはそのように見ました。これを解決できなければ、歴史のすべての理想世界も、上下関係の構造的組織をもった組織体の平和や理想郷というものも探し出す道がありません。強者は弱者を無視し、のみ込もうとし、冷遇し、どのように扱っても罪ではないと考えます。
(132-142、1984.5.31)


ある人々は、宇宙が力によってつくられたといいます。もちろん、すべての存在が力によって構成されていることは事実です。しかし、その力が存在するためには何が必要でしょうか。それぞれの存在は力自体ではありません。そこには必ず相対的な基準がなければなりません。私達は力を認める前に相対基準を認めなければなりません。相対基準を認めれば、主体と対象を認めなければなりません。

主体というのは、時によって変化する存在ではいけません。目的を決定し、永遠の存在圏をつくることのできる存在でなければならないのです。そこにおいて認められる相対的関係は、主体に対して相応できる関係でなければならず、相対的に反発する関係になってはいけません。


相対的関係というのは、「正」という基準「反」というものが互いに対立して、それが一つに統一されるという正反合の関係ではなく、主体の前に対象が応じる関係です。すなわち、主体と対象が相応し、共通の目的を中心に作用することを意味します。これが完全な授受作用をして相対圏に到達すれば力が現れるようになり、そのときに初めて中心が決定するのです。しかし、いくら作用したとしても、それが反対に作用すれば、世界は破壊されてしまいます。
(15-53、1965.2.7)


7.相互依存

大小すべての存在は、相互依存的な関係の網で連携している。全体を離れて個体は存在できない。したがって、一つの分離された個体として「自分自身」を考えることは、認識の根本的な誤謬である。


アインシュタインはそれを「意識の視覚的迷妄……私達を自らの個人的な欲望に閉じ込め、私達とごく近い何人かの人々に限定させる一種の監獄」と呼んだ。彼は、私達が「生きているすべてのものと、美しさに満ちた自然全体を包容することによって愛の範囲を広げ、私達自身をこの監獄から解放させなければならない」と言った。


事実、仏教の経典によれば、宇宙の最初から最後まで、すべての存在は因果の網、すなわち因縁の鎖に縛られている。このような理解は仏教の「無我説」の土台になる。すべての存在が「私」であり、「私」がすなわちすべての存在だという認識、それが仏教の慈悲倫理の核心である。その倫理こそ、人々が「私」の救いだけを目標と信じる個人主義の病弊を治療する治療薬である。事実、ほ
かの人々が苦痛の中にいる限り、誰も究極的な平和を得ることはできない。


―宗教経典―

これ等の人々は自といふ念に囚われ、他といふ念に縛せられる。或るものはこれを知ることなく、又そを矢なりと見ず。矢なりと豫め見たる人には我は為すといふ念も起ることなく、他が為すといふ念も起ることなし。
感興偈70(仏教)


私達は、互いに体の一部なのです。
エぺソの信徒への手紙4.25 (キリスト教)


諸の因縁を遠離し、能作者あるなく、唯心の建立する所なり、我は是を無生なりと説く。諸法は因生に非ず、無に非ず、能所の分別を離る、我は是を無生なりと説く。其の心に外物の有と非有と(の相)を取ること無くむば、一切の〔邪〕見ことごとく断ぜむ、此を是れ無生の相〔とは謂ふ〕なり。……


因縁はともに集会す、是の故に生滅あり、因縁分散すれば、即ち生滅あることなし。……若し因縁の鎖を離るれば、生の義は得べからず。我は唯鉤鎖を説く、生なきが故に不生なり、(これ)諸々の外道の過を離る、凡愚の了る所にあらざるなり。


若し縁の鉤鎖を離れて別に生法あらば、是即ち無因論にして鉤鎖の義を破壊す。燈の能く物を照すが如く、若し鉤鎖の現ずるも〔亦〕然らば、これ即ち鉤鎖を離れて別に諸法あらむ。無生なれば即ち無性なり、体相は(猶は)虚空の如し、鉤鎖を離れて法を求むるは、愚夫の分別する所なり。……


一切の諸の世間は、是の鉤鎖に非ざるは無し。若し能く是の如く解せば、此
の人は心に定を得む。(注18)
楞伽経78(仏教)


そのように他者のからだをも自分であると、なぜ把握しないのか。自分のからだを他者においても、そのようにすることは難しくない。自分自身には過失があり、他者においても海のような功徳〔があるの〕を知れ。


我執を完全に捨て去ることと、他者を受け入れる修習をすべきである。あたかも「手などはからだの一部である」と考えるように、そのように衆生の一部として、なぜ生きものを考えないのか。あたかも、無我であるこのからだに慣れにより自分という心が生じたように、他の有情に対しても、慣れによって、自分という心をなぜ生じないのか。


そのように、他者の利益をなしても、自賛も自慢も生じない。自分自身が食事を食べても、見返りを期待しないように。
菩提行論8.112 ~ 16 (仏教)


美があまねく美として認められると、そこに醜さがでてくる。善があまねく善として認められると、そこに不善がでてくる。だから、有と無はたがいに生まれ、難と易はたがいに補いあい、長と短はたがいにそれぞれの位置をしめ、高と低はたがいに調和しあい、前と後とはたがいに順序をもつ。だから、賢者は干渉しないでものごとを扱い、言葉のない教えをする。
道徳経2(道教)


人は誰もが他人との相互関係の中に置かれている。そして、その関係は運命という服をまとっている。一人に直接的な影響が加えられれば、ほかのすべての人に間接的にその影響が戻っていくものだ。ほかの人が自分の立場で本分を果たすとき、私もやはり自分の立場を取り戻すことができ、私が私の立場で責任を果たすとき、ほかの人たちも自分の立場を取り戻すことができる。
マーティン・ルーサー・キング・ジュニア


―み言選集―

宇宙はごく小さなものからこの上なく大きなものまで、すべて関係と連関性をもっている。
(16-119、1966.1.2)


すべての存在の中心には、性相的なものと、形状的なものとの二つがあるので、その中心が指向する目的にも、性相的なものと形状的なものとの二つがあって、それらの関係は性相と形状との関係と同じである。


そして、性相的な目的は全体のためにあり、形状的な目的はそれ自体のためにあるもので、前者と後者は、原因的なものと結果的なもの、内的なものと外的なもの、主体的なものと対象的なものという関係をもっている。


それゆえに、全体的な目的を離れて、個体的な目的があるはずはなく、個体的な目的を保障しない全体的な目的もあるはずがない。
したがって、森羅万象の被造物は、このような二重目的によって連帯しあっている一つの広大な有機体なのである。
原理講論、創造原理1.3.1


すべて相対性を中心として共同的な目的のために対応し、和合した世界に連結されてこそ、完成品になります。小さければ小さいなりに、大きなものは大きなものなりに、宇宙は宇宙なりに対応関係でバランスをとっています。なぜですか。授受作用、運動しなければならないからです。
(391-175、2002.8.21)


天運(注19)は自分のために生きようとするものはすべて否定しますが、人のために生きようとするものはますます抱いてくれるのです。


目で例えれば、両方の目が1.2であれば、「いやあ! 気分が良い。はっきり見える」と目が喜ぶのです。なぜ喜ぶのですか。天運が保護するからです。天運が全宇宙に連結されるのです。それで永遠に見ることができます。無制限に透視されるので、その領域が無限定に拡大されていくのです。耳も同じです。相対のために生きるとき、関係性をもつようになります。相対のために生きることが関係性をつくる力だというのです。
(244-107 ~ 108、1993.1.31)


人体の中で目を見てみれば、簡単に見えますが、複雑なのです。目の細胞も、それぞれはすべて複雑です。すべて複雑ですが、一つの生命体として生活するにおいて、これが互いにぶつかり合うのではなく、互いに協助して共存しているのです。


ですから、「私は目も何もすべて嫌いだ、手が一番だ」と言うことはできません。前後、左右、上下関係において、位置と階級に従って、必ずそれぞれ制約された法度と条件に順応しなければ、行く道がありません。通じる道がないのです。
(49-193、1971.10.10)


人類は何ですか。一つの細胞と同じです。そして、それが自分勝手になるのではなく、全体が一つの極を成すのです。極を成して、全体の中心となる神様と人間、人間がいれば、人間全体を合わせたものが、互いに相対的関係を中心として、これ自体が生命力の発露体、これ自体が愛の発露体として目的を成就するその原因と結果が一致すれば、目的が成し遂げられるのです。原因と結果が結合することによって、一つの目的を完成した価値体として現れなければなりません。
(110-73、1980.11.9)


私達人間が追求する最高の理想の要素が愛ですが、愛が良く授け良く受けられるようにしなさいというのです。私達の主体を中心として宇宙を連結し、すべて軸となって電気が連結されているように、軸を通して良く授け良く受ける木と同じだということです。一番の中心の根の先と芽の先は常に相対的です。これが良く授け良く受けてこそ大きくなるのであって、これが及ばなければ、
根も小さくなり、すべて小さくなるのです。
(165-177、1987.5.20)


8.原因と結果

蒔いたとおりに刈り入れるという格言、神様の審判に対する信仰、そして業報の教理などは、世界が正義によって支配されるという普遍的な考えを多様に表現したものである。


諸宗教は、現世での運命や輪廻転生、または来世の生を通してでも正義は実現されるという、様々な特定の方式に関する教えを提示する。このようにすべての宗教は、正義はそのような方式で報いられるという点に同意する。


慈悲深い創造者が意図したとおり、善の行為は報いられ、悪の行為は罰を受けるというのは、宇宙の固有な本質である。これが正に因果の法則である。

因果の法則は、神聖な法と同様に、究極的実在とどのように関連しているのか曖昧である。東洋の宗教における正義の法則は、宇宙の構成において本質的なものであり、このような点から、それは解脱という究極的目標に従属される。業と輪廻の車輪は、因果作用を示してくれるが、このようなものは人間存在のぞっとするような恐ろしい暗い側面にすぎず、輪廻の循環が消滅する涅槃と解脱という究極的目標とは無関係である。


一方、唯一神の宗教は、正義をするために罪を罰する神聖な審判官として神様を描写する。しかし、判官として子女を審判する役割が父なる神様の目的だとは言えないだろう。かえって神様は、愛と真理で人類を救援の道へと導く。


したがって、文鮮明先生が指摘するように、私達は神様の審判を、その被造世界に対する主管、すなわち宇宙法則の作用を通して正義を具現するよう創造されたこの世界に対する主管に該当すると言える。


ここの節では、二つの側面の原因と結果に対して言及する。第1には、蒔いたとおりに刈り入れるという正義に対する言及である。文鮮明先生は、個人の人生においてのみならず、蕩減すべき罪を犯した国と民族の歴史においてもこの法則の例を提示する。諸経典は、たとえこの世界が不義を容認し、正しくないことを罰しないかのように見えたとしても、究極的な個人の応報は、天国または地獄に運命づけられた来世にあると語る。


これに関して文鮮明先生は、その意味を増し加え、罪人たちは天使の審判のためではなく、地上の人生における悪行のために自ら地獄にとどまらざるを得ないと教える。


第2には、万物の成長と完成過程において作用する普遍的原理として、原因と結果に対する言及である。私達は、結果が原因と無関係に生じないということを知っている。むしろその二つは、互いに密接に結ばれている。


仏教の核心教理である縁起論は、この概念の消極的な面を示してくれるが、それは無知が因果的連鎖を通して苦悩という人間の全体的状況に展開されるからである。


道教の経典は、この概念の積極的な側面を示しているが、原因と結果は互いの尾をくわえながら回る天の運行だというのである。


文鮮明先生は、原因者として神様がこの世に臨在し、この世のあらゆる所で役事されながら、結果として、最後には人間を通して自らを現すと教える。究極的に原因と結果である神様と人間は、愛を通して始まりと終わりとなり、ついには結合するようになる。


①因果応報

―宗教経典―

思い違いをしてはいけません。神は、人から侮られることはありません。人は、自分の蒔いたものを、また刈り取ることになるのです。
ガラテヤの信徒への手紙6.7(キリスト教)


なんじらに降りかかるどんな不幸も、なんじらの手がかせいだためである。
クルアーン42.30 (イスラーム)


剣を取る者は皆、剣で滅びる。
マタイによる福音書26.52 (キリスト教)


暴力は苦痛を生むだけであるがゆえに、当然このことを理解して常に警戒しなければならない。
アーヤーランガ・スッタ3.13 (ジャイナ教)


灰は、それをまいたその人に舞い戻ってくる。
ヨルバ族の格言(アフリカ伝統宗教)


彼らは風の中で蒔き、嵐の中で刈り取る。芽が伸びても穂が出ず、麦粉を作ることができない。作ったとしても、他国の人々が食い尽くす。
ホセア書8.7 (キリスト教)


しかし愚かな者は、悪い行いをしておきながら、気がつかない。浅はかな者は自分自身のしたことによって悩まされる。火に焼きこがされた人のように。
法句経136 (仏教)


よろずの事の終末は神に帰着するのである。
クルアーン31.22 (イスラーム)


神に角がないのではない。彼にも角がある。あらゆる行為に対して、彼は厳しく審判を下される。
オヴァンボ族の格言(アフリカ伝統宗教)


この世においてなされた不正な行為(アダルマ)は牝牛〔が乳を出す〕ように即座には結果を生まない。しかし徐々に巡り来て行為者の根を断ち切る。マヌ法典4.172(ヒンドゥー教)


人の運命の中に懺悔と幸福のための特別な門はない。それらは、人々自身がそれらを呼ぶことでついてくる。それらの報いは、まるで影が実体についていくように善と悪がついていく。
陰隲文、応報書1(道教)


大空の中にいても、大海の中にいても、山の中の奥深いところに入っても、およそ世界のどこにいても、悪業から脱れることのできる場所は無い。
法句経127(仏教)


自然の網はすべてを包みこむ。その目はあらいが、何も逃さない。
道徳経73(道教)


愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「『復讐は私のすること、私が報復する』と主は言われる」と書いてあります。
ローマの信徒への手紙12.19 (キリスト教)


不信心に向かってむてっぽうに急ぐ者のために、なんじの心を痛ませてはならぬ。かれらはいささかも、神をそこなわぬ。神は来世において、かれらに福分を与えることを望みたまわぬ。かれらは重い刑罰を受けるであろう。……

信じない者に、われが与える猶予を、かれら自身のために有利だと思わせてはならぬ。われはただ、かれらの不義を増長させるために、それを与えているのだ。かれらは恥ずべき刑罰を受けるであろう。
クルアーン3.176・178(イスラーム)


すべての取引には誓いが伴う。利益を求めようとする心が、生きているあらゆるものに宿っている。店の門が開き、商人たちは信用によって取引をする。取引帳簿が置かれ、そこに手で記録をする。


お金を貸そうとする者は、誰もが来て借りていく。しかし、集金者は、定期的に毎日巡回し、債務者の事情は意に介さず、きちんと定められた金額をもらっていく。債権者たちは、彼らが要求できるものをいつでも取ることができる。審判は真理の審判であり、世の中のあらゆることは祝祭のためにある。
ミシュナ、アヴォート3.20 (ユダヤ教)


まして天地は物の中で最大である。理屈から言ってあらたかな神が宿って当然。神があるからには善を賞し悪を罰すること不思議でない。ただ神体が大きくて網の目があらいから、必ずしも打てば響くように反射的に発動するわけではない。.
抱朴子(注20)(道教)


マズダーよ、私くがみとめ奉ったのは、アフラよ、わたくしが、世を生み出し給う際の御身をはじめに見奉ったときで、そのとき、御身は創造の終末の一周に際し御身の善巧によって悪には悪い報応を、善には善い報応をと、行為とことばとをして報償をうけるように定め給うたのでした。
アヴェスター・ヤスナ43.5 (ゾロアスター教)


行なったとおり、実践したとおりになるのである。正しく行なうものは正しい者となる。悪を行なうものは悪となる。善の行為によって〔人は〕善となり、悪の行為によって〔人は〕悪となる」


……「いま〔人びとはつぎのように〕いう。『人間(またはプルシャ)はただ欲望からなるものである』と。かれは欲求するように意向するものとなり、意向するとおりに行為をおこない、行為をおこなうと、それ(行為に応じた結果)となるのである」……


したがって、ここに〔つぎのような〕詩節がある。『それのみが真に実在するものであり、〔そこにかれは〕行為とともにおもむく。そしてそこにおいてはかれの性格と思考作用が付着している。さらにかれがこの世で行うその行為のおわりに達すると、かの世からにの世にふたたびもどる。行為のために……』(注21)以上は欲望をいだいている者である。
ブリハッド・アーラニヤカ・ウパニシャッド44.5 ~ 6(ヒンドゥー教)


一み言選集―

体を中心として自分の生命を維持するにおいては、すべてのものが、主体と対象が授け受けする授受作用をよくしなければなりません。授け受けするすべてのものが、全体が良く授け、良く受ければ、その肉体が円滑に運動し、生存が継続します。


ところが、どこかが詰まればどのようになるでしょうか。この宇宙は、神様の理想的存在型として良く授け良く受けるものはすべて擁護します。擁護するこの世界の要素の中で反対要素が発生し、欠如したり、ある所が詰まれば、擁護圏で作用できない不合格者になるのです。


したがって、その反作用によって吐き出されるようになります。それは宇宙自体の保護のたのです。世界には作用と反作用があります。その反作用は悪いものではありません。大概、悪いものとして反対に見ますが、それは大きなものを保護するための作用なのです。

したがって、見る観点が変わらなければなりません。ですから、おなかが痛ければ、それはおなかを中心としてある主体の前に対象的な位置で、授け受けできる回路が詰まったというのです。詰まったので、詰まってしまった基準だけ反対に追い出すようになります。宇宙力によって追い出す力がそこに作用するので痛むのです。詰まったものを開きさえすれば、薬でその門を開きさえすれば、回復するのです。


同じことです。私達の良心世界や、人のすべての世界が苦痛を受けるのですが、なぜ苦痛を受けるのかというと、それは宇宙力に不合格となり得る要素をもっているために、宇宙がそれを追い出すことによって良心の呵責を受けるのです。それが正常な方向であるにもかかわらず、そこに反対となる立場に立てば、その作用ができなくなるので、必ず反対に苦しめる作用が痛みとして現れるのです。反作用が現れて地獄行きになります。
(165-176 ~ 177、19875.20)


アメリカも、天主教から分かれた新教を中心として、ヨーロッパで新しい宗教に反対する旧教の中で、よく信じる教派を選んで移動させ、建設した国です。大移動したのです。大移動してここに基盤を築いたのです。……


アメリカはイギリスの延長です。ですから、イギリス人が果たせなかったことまでアメリカですべて蕩減しなければなりません。イギリスが今までアジア、中国に来て何をしたかというと、アジア人たちをすべて阿片で殺害してしまいました。今までアジア地域に来てそのような政策を用いたのです。それで勢力基盤を完全に崩し、麻痺状態になったものを自分たちが今まで支配してきまし
た。


ですから、その罪を蕩減しなければなりません。それをアメリカにいる皆さん、今若い家庭や高等学校の学生たちがすべて蕩減しなければなりません。そうしなければ滅びます。歴史に背いてしまうというのです。
(105-134、1979.10.4)

神様の愛の法に背くのは悪であり、怨讐であり、容認できない罪です。神様の前に怨讐であり、容認できない罪だというのです。罪の中で一番恐ろしい罪です。怨讐の中で神様が最も嫌う怨讐です。その道を是正できない者は、神様の怨讐であり、罪人として扱うので、激しく打って滅びるようにするのです。


滅ぼすようにするのが原則です。皆さんの中にはイタリアのポンペイ市に行ったことのある人がいるかもしれませんが、その都市が滅んだのも、淫乱な愛の社会生活のためでした。ソドムとゴモラもそれで滅亡したのです。ローマもそれで滅びました。このような公式的な歴史観によって推し量ってみるとき、アメリカもそのような愛を是正せず、悔い改めなければ、滅びます。
(104-141、1979.4.29)


皆さん! 日帝下で反日地下運動をしていた私にとって、日本民族は怨讐でした。民族的にはもちろん、個人的にも怨讐でした。しかし、日本が敗戦したのち、私は日本人を愛しました。地下独立運動をしたといって引っ張られていき、ひどい拷問をした日本の警察官たちは、私の一言ですべて処刑される立場だったにもかかわらず、かえって追われている彼らを安全に送ってあげたのです。


今日、日本の多くの若者たちが、なぜ私に永遠の命を懸けて忠誠を果たすのか分かりますか。因果法則によって報いなければならない原則があるからです。それは国家を超越し、神様の心情的なみ旨に従い、世界に向かって真の愛を植えたからです。国家的な怨讐を愛し、生きる道に導く心情的基盤を植えたために、自分たちも知らないうちに、天命に従っているのです。
(316-82、2000.2.10)

  <次ページ>

 

コメント

世界経典-5

2020年10月06日 18時55分53秒 | 学習

―み言選集―

愛の原則を中心として宇宙を造ったので、宇宙はその拍子に合わせて踊るようになっているのであって、個人の拍子では踊らないのです。
(131-124、19841.04.22)


神様は、何が慕わしくて創造したのでしょうか。絶対的なのに神様は、何が慕わしくて創造をしたのかというのです。その方は黄金も必要なく、知識も必要ない全知全能の方なのに、備えていないものがない方なのに、何か必要で人を造ったのかというのです。


創造の根本動機とは何でしょうか。権力でもなく、知識でもなく、所有物でもないというのです。神様に何がないのでしょうか。愛の基盤がなかったのです。神様も、やはり一人でいては愛を成せません。ですから天地創造の動機、アルファ的起源も愛だというのです。
(149-150、1986.11.21)


宇宙創造の内容は愛から始まりました。神様を中心として、それに相応的、対応的、平行的位置において、自分の存在軸を中心として、神様と人間の大きな軸を中心に平行的な存在として回りながら、細胞の立場で愛の相対として存在します。


ですから、それは、神様に対して、人間に対して、反対することはできません。このようになるとき、この細胞が反対しますか。反対に感謝するようになります。


ですから、低級なものが最も願うことは何でしょうか。最高級の存在の愛の軸に結びつくことです。それが最高の意志です。ですから、大いなる愛の心情をもって自分を食べてくれることを願うのです。食べるとしても、愛をもって食べるのです。


神様の愛の相対となる立場で、苦しんでいる女性の愛を解放する、その主人の細胞活動に刺激を与える要素として移動し、生きていきたいと思うのです。それを誇ります。


ですから、女性の唇や男性の唇の細胞になりたいと思います。動物の中にいる細胞や、低級な動物たちは、すべてが高い主人の細胞圏、中核に含まれて、神様の愛に連結されたいと思うのです。それが希望です。横的な存在は、このように回りながら縦的な愛の主体である神様にまで連結されています。


男性と女性の生殖器は、神様の愛に連結される中心細胞です。自分のためのものではありません。これを中心として与えたいと思うのです。これを中心として相対圏に立ちたいと思うのです。そのように立ちたいと思う所が、女性にとっては女性ではありません。男性にとっては男性ではありません。


アメリカのホモやレズビアンのような、そのようなものではありません。女性は男性、男性は女性だというのです。女性として、女性を中心として生きるようにはなっていません。妻として男性のために生きなければならないのが女性の道です。


なぜですか。生まれるとき、愛という観念が先にありました。愛の観念がなかったとすれば、雄と雌の観念を設定する必要がありません。鉱物の世界もプラスイオンとマイナスイオンがあり、これが雄と雌と同じです。昆虫の世界も雄と雌になっています。同じです。動物世界も雄と雌になっているのは同じです。


人も男性と女性でしょう? 雄と雌の観念以前に、それが生まれる前に愛という観念があり、愛を中心としてそれが一つになるようになっているのです。それが雄と雌の観念です。


この愛の観念がなかったならば、雄と雌は出てこないのです。どちらが最初かというと、雄と雌が最初ではありません。愛の感性と観念が最初です。実在と観念、哲学において、観念と実在の問題は、世界的な闘争の土台となり、今ではすべてが崩れてしまいました。


愛の概念から生まれた女性は、女性のために生まれたのではありません。男性は男性のために生まれたのではありません。愛のために生まれたのです。ですから、男性の中心思想と女性の中心思想は、すべて愛です。それ以外にはありません。お金ではありません。知識ではありません。
(218-339、1991.8.22)


被造世界には主体と対象があるので、男性と女性がいて、雄と雌がいます。これが主体と対象の関係です。その次に、花には雄しべと雌しべが主体と対象であり、分子世界ではプラスイオンとマイナスイオンが主体と対象であり、原子世界では陽電子と陰電子が主体と対象です。このように、すべてペア・システムになっています。


ですから、あらゆる生存の価値と歴史を受け継いでいくのは愛以外にはありません。男性と女性も愛を通して繁殖します。ほかの存在にも、それなりの愛があります。昆虫も同様であり、植物も同様であり、鉱物も同様です。すべてペア・システムになっています。
なぜこのようにペア・システムになっているのでしょうか。環境には必ず主体と対象があります。なぜ主体と対象があるのでしょうか。愛のためだというのです。それで問題になるものが何かというと、愛が先か、主体と対象が先かということです。女性と男性のために愛が生じたのでしょうか、愛のために女性と男性が生したのでしょうか。愛のために男性と女性が生じたのです。
(227-268、1992.2.14)


神様の真の愛による投入と注入がなければ、宇宙は生まれませんでした。宇宙の存在法則は、主体が対象のために生きることです。しかし、堕落した世界においては、主体が対象のために生きるのではなく、反対に、自分を中心として利用しようとするので滅びるのです。宗教は、まず相手が喜んだのちに自分か喜ぼうとする天理の原則を教育し、実践しなければならないと考えます。
(271-70、1995.8.21)


2.道徳法則

神聖な法や不変の自然法則は、本質的に道徳的である。神聖な法は、宇宙的、倫理的、社会的、法律的次元を一つの原理で結ぶ。したがって、宗教は、事実(自然法則)と価値(道徳法則)の現代的区分を超越して立つ。


人間の人生を主管する道徳法則は、かえって重力法則と同じように絶対的である。宇宙の秩序と人間の人生の秩序は一貫しているため、私達が人生において正しい秩序を確立することは、繁栄と長寿に至る道である。


道徳法則に従えば命を得て天上に至るようになるが、その法を無視すれば衰退し、苦痛と死に至るようになる。経典の中に示された人間の人生の道徳的規範は、律法またはトーラー(ユダヤ教)、法(上座部仏教)、タオ(道教)、ダルマ(ヒンドゥー教)、道徳的秩序(儒教)という名で様々に呼ばれる。
しかし、これらの道徳的規範は、単に人間の本性に内在し、心情の中に刻まれた自然法則、すなわち宗教や社会的状況と関連がないように思われる自然法則的な表現にすぎない。


実際には、文鮮明先生の教えと儒教の経典で確認できるように、道徳法則は、家庭の中で特徴的に最もよく現れている。調和した人間関係を確立することが根本的な原理であり、このような人間関係は利他的な実践行為と人のために生きる人生を通して実現される。


①法則に従う人生

―宗教経典―

主は我々にこれらの掟をすべて行うように命じ、我々の神、主を畏れるようにし、今日あるように、常に幸いに生きるようにしてくださった。
申命記6.24 (キリスト教)


栄える人を識別することは易く、破滅を識別することも易い。理法を愛する人は栄え、理法を嫌う人は敗れる。
スッタニパーダ92(仏教)


神はこよなき美しい教示を、互いに似ている、種々の立場で繰り返し経典として啓示したもうた。主を恐れる者は、それによって膚はおののき震える。そのとき神をたたえ唱念すれば、膚も心もやわらぐ、これが神の導きである。かれは、み心にかなう者を導きたもう。だが神が迷うに任せたもう者には、それを導く者はない。
クルアーン39-23(イスラーム)


一度過ぎた夜は、二度と戻らない。法に従って行わない者たちの夜は、むなしく過ぎていく。
ウッタラッジャーヤー14.24 (ジャイナ教)


主の律法は完全で、魂を生き返らせ、主の定めは真実で、無知な人に知恵を与える。主の命令はまっすぐで、心に喜びを与え、主の戒めは清らかで、目に光を与える。


主への畏れは清く、いつまでも続き、主の裁きはまことで、ことごとく正しい。金にまさり、多くの純金にまさって望ましく、蜜よりも、蜂の巣の滴りよりも甘い。
詩編19.8 ~ 11(キリスト教)


信仰を抱き、不満なく、常に私の教説に従う人々は、行為から解放される。しかし不満を抱き、私の教説に従わない人々、彼らはすべての知識に迷う、破滅した愚者であると知れ。
バガヴァッド・ギーター3.31~32(ヒンドゥー教)


そこで、私のこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲っても、倒れなかった。岩を土台としていたからである。


私のこれらの言葉を聞くだけで行わない者は皆、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家に襲いかかると、倒れて、その倒れ方がひどかった。
マタイによる福音書7.24 ~ 27(キリスト教)


諸仏世尊は大福智を具へて而も荘厳と為し、大慈悲を以て所行の境と為し、……相応の智を以て世の照明を為し、……一切人民常に楽うて承事し、自の楽を遠離し他の苦を息除す。正法を住持し、法を以て主と為し、法の自在を得、法を以て食と為し法を以て薬と為し法を以て施を為し一切皆捨す。


……〔念法清規〕……復次に菩薩諸衆生に於て當に平等にして而も為に説法すべし、法に高下無きを以ての故に、彼我の法に同じく其の心平等なり。法に面従無く而も為に宣説す、法に相當無き……法を時節無く而も為に宣説す、……法を勝者に於て而も為に宣説す、其を劣者に於て為に宣説せざるに非ず……法は諸見を離るる


……法は常に加持する所……法は取著する所無き……法は衆生を厭はず衆生能く法を護る……法は所帰興を求むるに非ず世の帰依と作る……法は怨嫉無し、法は諸結使を離るるを以ての故に、彼我の法に同じく其の心平等なり。


法は輪廻を怖るるに非ず、亦涅槃を楽しまず、法は無分別なるを以ての故に、彼我の法に同じく其の心平等なり。菩薩是の如く正念を積集す、是を念法と為す。
法集経(仏教)


しっかりと基礎がおかれておれば、引き抜かれるものはない。しっかりと抱かれておれば、脱けでるものは何もない。子々孫々祭祀はとだえないだろう。
自己において道を修めれば、徳は本当のものとなり、家族において修めれば、徳はあり余るほどになる。一つの村で修めれば、徳は永続するし、一国において修めれば、徳はたくさんのものとなり、天下において修めれば、徳はすべてをつつみこむものとなる。
道徳経54(道教)


―み言選集―

栄える道は何でしょうか。栄える道は法に従っていくことです。神様が自分の創造目的を成し遂げることのできる法は、神様が保護し、神様が協助してくださるからです。この法に従っていけば栄えることができます。しかし、神様の法に反対してサタン側になるときは、神様が打つので滅びるのです。
(103-275、1979.3.11)


法度に従い、法のとおりに生きる人を何と言いますか。驕慢だと言いますか。そのように生きる人を正直な人と言います。正直というのは「正」の字と「直」の字です。正しくて真っ直ぐだということです。


法というものは何ですか。真っ直ぐなものを立てることです。それでは、善と悪は何によって分けるのでしょうか。法によって分けるのです。驕慢は法度を無視するのです。法度を無視し、位置と環境を無視して行動することを止めなければなりません。驕慢を制御し、謙遜を備えなければならないのです。
(37-130、1970.12.23)


ここにメートル尺があるとしましょう。実際の1メートルはこのくらいなのに、自分勝手に尺を作って「このくらいが1メートルだ」といって測ってはいけません。自分勝手に測ってはいけないというのです。メートル尺は、必ずメートルの原器を中心として製作されたものでなければなりません。
(5-80、1971.11.1)


法廷で一人の殺人強盗に対して、「我が国の憲法何条によって死刑宣告だ」と言えば、気分が良い人がいますか。判定はそのように出ましたが、「こいつ、何だ。私は悪くない、これは何だ」と言うでしょう。皆さん、アメリカならアメリカの憲法を中心として、法廷では赦しを受けられますが、宇宙的なこの憲法を中心として見れば、赦す法があるでしょうか。ありません。


しかし、犠牲になり、奉仕すれば、赦されるのです。このようなときは同情を受けることができ、生きる道があり得るというのです。「悔い改めよ」という言葉があります。イエス様がこの地上で、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言いました。何を悔い改めなさいというのですか。


簡単です。犠牲になり、奉仕すべき道理から外れたすべてのことを悔い改めるのです。キリスト教は、何を悔い改めるのですか。


人のために生きずに自分のために生きるところからすべての罪悪が発生したのです。なぜどろぼうが悪いのですか。自分がやりたくてやったのに、その何が悪いのでしょうか。そこには、その一着の服にも犠牲の代価が含まれていて、奉仕の代価が含まれています。


公的なものが含まれているのです。それをそのままもってきたので罪なのです。「うそをつくのが何の罪なのか。私は気分が良い。騙されているのを見ると無性に気分が良い」、そのように言います。うそをついて何をしようというのですか。自分の利益を得ようとするのです。


原則に背けば、すべて条件に引っ掛かります。また、会いたくないその女性を一人殺害したとします。その会いたくない怨讐を殺害したとして、何の罪なのですか。私も会いたくないと同時に、私の父母、祖父母……。アメリカ人すべてが会いたくないと思っているその人を殺害して、それが何の罪なのですか。


彼も皆さんと同じように、同等にアメリカを代表した人だというのです。アメリカを代表した人なので、そのようにすれば公法を蹂躙することになります。そのようなものをすべて総合して見てみると、何が含まれているのでしょうか。どこに帰結するのかというと、犠牲と奉仕に帰結します。


犠牲になり、奉仕する人を憲法、何法何条の公判にかけるという法が世界のどこにありますか。そのような人を法廷で悪だと罰を与えるそのような法があるかというのです。
この公法は、悪いという公法ですか、良いという公法ですか。その国の大統領がいれば、その人を呼んでその国を代表して表彰して賞を与えるようになります。


それでは、それはいったいどこから始まったものですか。どこからそのような出発が起きたのでしょうか。私を中心とすればよいのに、なぜ全体を中心としてしなさいというのですか。人が私のために犠牲になるようにして、私は犠牲にさせるようにしたならどれほどよいでしょうか。


もしそのような法を立てたとすれば、一つの家に集まって暮らすことができますか。その家はばらばらになります。10 人なら10 人がそのような主張をすれば、10 のかけらになります。また、100 人なら100 のかけら、2億4000 万のアメリカ人がそのような主張をすれば、2億4000 万のかけらになります。


そのような法を定めたならば、物質世界からどのような存在世界にも適用しなければならないという、このような話が成立します。皆さんだけ、人だけがそのようにできるかというのです。目の中にいる一つの細胞が、「私も存在なので、私という存在を中心として、全宇宙が私のために存在しなさい」と言うとき、そのようになってはいけません。


目が、「おい、お前、金なにがし! 屈服しなさい。お前のようなものが自己主張すれば、目である私はお前を嫌う」と言うでしょう。このように自分を主張することが、存在破壊形成の基本になるのです。


ですから、目が「おい、目の細胞、お前も貴いが、私というより公的な存在にお前は吸収されるようになっているのだから、宇宙の公法どおりに従いなさい!」と言えば、「はい」と言うようになっています。より価値のあるもの、それは公的なものです。それはどこでも「はい、はい」と言うことができるのです。このような原則があることを知っているので、不平を言うごことはできません。(105-92 ~ 93、1979.9.30)

②自然法

―宗教経典―

君子の道は(働きが)広くて(その本体が)微なるものである。夫婦の愚でも、あずかり知ることができるが、その全体を尽くすとなると、聖人でさえも知らないことがある。


夫婦の不肖でもよく行なうことができるが、その全体を尽くすとなると、聖人でさえもよくできないことがある。天地の大でも、人はなお恨むことがある。君子は大を語れば、天下にこれを載せるものはない。小を語れば、天下にこれを破るものはない。


『詩経』にいう「鳶は飛んで天に至り、魚は淵に躍る」と。上下に明らかなのは、この理の働きに他ならないことをいうのである。君子の道は、夫婦にその始めを起こす。その全体を尽くすとなれば、天地上下に明らかである。
中庸12(儒教)


君子は中庸を体しており、小人は中庸に反している。君子が中庸であるのは、君子に徳があって、その上、時に応じて中を行なうからである。小人が中庸に反するのは、小人の心をもっていて、その上恐れはばかることがないからである。
中庸2(儒教)


法には二種類ある。自然法と成文法だ。自然法は心に刻まれている法であり、成文法は机の上に置かれている法典である。すべてのものは法、自然法のもとに存在するが、すべてのものがこれに属していないため、自分自らが法自体にならなければならない。彼は自ら戒めを実践し、心に刻まれた法に従って実践する者である……。


私達の本性が善行を教えてくれる師である。どろぼうしてはいけないことを知らない人はいない。それで、僕が物を盗めば罰を与える。誰かが私の妻をむさぼれば、その者は、罰を受けて当然だと考える。今から、人に向けたそのさおを、自分自身にも同じように当ててみなさい。
ミラノのアンブロシウス(注4)(キリスト教)


道の原理は、私達の日常生活の中で、食べて飲む中で、一般的な社会的関係――君臣関係、父子関係、兄弟関係、夫婦関係、友人関係を維持するにおいて、目の前に張られたもののように近いものである。
朱熹(儒教)


―み言選集―

私が願おうと願うまいと、循環運動を通して年を取った人たちは本然の元素に帰り、新しい人たちが生まれ、このように循環しながら発展し、成長するのです。ですから、存在するすべてのものは、自然の循環法則を通して自分の限界内で、各自がそれに従って運動し、作用しながら存続するのです。

太陽系を中心として見てみても、九つの惑星が太陽を中心として回っているのですが、この惑星たちが、「ああ、もう私の好きなようにする」と言うことができるでしょうか。その軌道を外れて自由行動はできないのです。

また、動物や植物も、春になれば、「ああ、私の好きなようにしよう」と言って、成長しないようにすることはできないのです。夏になれば生い茂らなければならず、花を咲かせ、秋になれば実を結ばなければなりません。
(207-61 ~ 62、1990.11.1)


太陽系が一つになって大宇宙で回っているのです。何をセンターにするのかというと、愛です。ですから、家庭では父母を中心として愛で一つになりなさい、国を中心として国を愛する愛国心で一つになりなさい、また世界では聖人が出てきて、愛を中心として全世界人が一つになりなさいと教えるのです。


したがって、愛がセンターとなって回らなければならないのです。真の愛で回りさえすれば、すべてのものはそれに従って自動的に回ろうとするのです。その軸は変わりません。
(146-166、1986.6.15)


自然の中では、春になれば間違いなく花が咲き、夏の季節を経て、秋に実を結びます。そのような自然の法則に従って生きることが天国と通じる近道だということを知っています。
(393-215、2002.10.4)


人倫は情を通して形成されます。家族関係や、道徳観念や、社会制度や、秩序などというものは、すべて情緒的な面です。父母が子女を愛するところから人倫は始まります。そうでしょう? 子女が父母を愛するところから真の人間関係が成立するのです。また、男性が女性を愛し、女性が男性を愛するところから人間関係が結ばれるのです。人倫を形成したのは愛だというのです。(注5)
(64-124、1972.10.29)


今日の法はローマ法を基礎としてつくられたのであり、ローマ法が現在、世界文化の基礎になっていると言えますが、人倫道徳はどこまでも良心を根拠にします。法よりは良心だというのです。
(33-44、1970.8.2)


科学文明の世界を早めたのは、法則を中心とする一つの公式でした。公式は、全体の各分野にどれくらい適用させられるかによって採択の可否が決定されます。私達は、宗教生活をするにおいて、盲目的にしてはいけません。


神様は必ず公式的な法度を通して摂理されるので、その公式を知らなければなりません。統一教会の原理は、過去から現在まで復帰摂理歴史がどのように続いてきたのかをはっきりと教えてくれています。
(16-119、1978.10.22)


3.黄金律

黄金律は、ほぼすべての宗教の経典で発見される。その多くは最も簡潔で普遍的な倫理的原理とみなされる。時として“相互性”と呼ばれたりもする黄金律は、報復をするのではなく、主導的に先に行うことである。


それは、ある無礼な行いに対して、同じ無礼な行いで反応するのではなく、他人に対してまず親切を施し、配慮しなさいと教える。したがって黄金律は、それを実践に移すためには、かなりの道徳的努力を傾けなければならない倫理である。


黄金律の倫理には3種類の次元がある。第1に、「あなたが願わないことを人にしてはいけない」という消極的表現は、私達が人から傷つけられることを願わないように、私達も人を傷つけてはいけないということを教えている。


次に、「人からもてなしてもらいたければ、まず人をもてなしなさい」、または「あなたの隣人をあなたの体のように愛しなさい」という積極的な表現は、私達がほかの人たちの欲求と気分を察し、彼らに慈愛深く対することを求めている。


最後に、文鮮明先生の教えは、黄金律を「ために生きなさい」というそのみ言の根本原理を包含して、その意味を高揚させる。その教えの倫理は、私達に犠牲と奉仕を絶えず促す。それは、縦的な関係の神様とその限りない愛を伝授され、常に利他的に生きていくことを求めている。

 

―宗教経典―

人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。
マタイによる福音書7.12 (キリスト教)


子貢がおたずねしていった、「ひとことだけで一生行なっていけるということがありましょうか。」先生はいわれた、「まあ恕(思いやり)だね。自分の望まないことは人にしむけないことだ。」
論語15.24 (儒教)


自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。(注6)
レビ記19.18 (キリスト教)


自分自身を愛するように兄弟を愛すまでは、誰一人信者ということはできない。
ナワウィー40 のハディース13(イスラーム)


大いに努力して思いやりの真心を他人に推し及ぼしてゆけば、……これこそ、仁を求める一番手近かな方法である。孟子Ⅶ、A.4、(儒教)


自分自身にとって不愉快なやり方で人に対して振る舞ってはならない。これが道徳の本質である。他の全ての行いは利己的な欲望によるものである。マハバーラタ、教訓の巻113.8 (ヒンドゥー教)


幸福である時も、苦痛の中にいる時も、楽しい時も、悲しい時も、一切衆生をあなた自身のように思わなければならず、ほかの存在を傷つけてはならない。ほかの存在を傷つけることは、すなわちあなた自身を傷つけることである。
ヨーガシャーストラ2.20 (ジャイナ教)


かれらもわたくしと同様であり、わたくしもかれらと同様である」と思って、わが身に引きくらべて、生きものを殺してはならぬ。また他人をして殺させてはならぬ。
スッタニパータ705(仏教)


尖った棒切れで幼い鳥を切ろうとする者は、まず自分を切ってどのくらい痛いか感じてみなければならない。
ヨルバ族の格言(アフリカ伝統宗教)


ある異教徒がシャーマイのところに来て言った。「私を伝道してみなさい。私が一方の足で立っているあいだ、あなたが私にトーラを教えるという条件で」。するとシャーマイが手にしていた細い木の枝で彼を退けた。彼がヒレルのところに行くと、ヒレルが言った。「あなたが嫌うことを人にも強要してはいけない。これがトーラの教えです。それ以外のほかのところは、すべて敷衍して説明したものにすぎない。さあ、もう一度行って学びなさい」。
タルムード、シャッバト31a (ユダヤ教)


「我は生を欲し死を欲せず楽を欲し苦を厭ふ。…若し我命を奪ふ者あらば我可愛可意にあらじ。他も生を欲し死を欲せず楽を欲し苦を厭ふに、若し我、その命を奪はば可愛可意にあらじ。我に於て不可愛不可意の法は他に於ても不可愛不可意の法なり。我に於て不可愛不可意の法を我、云何ぞ他に加へんや」と。
サンユッタ・ニカーヤ5.353 (仏教)


あなたの意志の準則が、同時に普遍的立法の原理として妥当たり得るよう行いなさい。
イマヌエル・カント人倫の形而上学


―み言選集―

今日、人倫道徳やこの社会の道徳基準を中心として見るとき原理原則があるのですが、この原理はどのような基準によって成立するのかというと、「私のために生きなさい」というところから成立するのではありません。ために生きようとするところから原則が成立するのです。
(71-125、1974.4.29)


真の人生が行く道とは何でしょうか。一つの公理として立てるべきことはために生きよということです。孔子やイエス様や釈迦牟尼やムハンマドのようなすべての聖者の前に神様が現れて、「あなた方はどう思うか」と言われれば「正しい」と言います。それが宇宙の法則です。それが、人間が人生において真の姿で生きる一つの法だということを知るべきです。
(133-18、1984.7.1)


もてなしてもらおうとすれば、まず人をもてなさなければなりません。私がもてなしてもらってから人をもてなそうと考えてはいけません。「人にもてなしてもらおうとすれば、先にもてなしなさい」と言いました。先にもてなすことが原則です。


統一教会の文先生はどうでしょうか。皆さんをもてなそうとしましたか、そうでなければ私がもてなしてもらおうとしたかというのです。皆さんにもてなしてもらおうとは少しも考えませんでした。人に負債を負ってはいけないというのです。
(50-339、1971.11.8)


真の愛の生活とはどのようなものでしょうか。一言で言えば「ために生きる生活」です。人が自分のために生きてくれることを願う前に、先に人のために生きる生活です。ために生きてあげたことを忘れてしまう生活です。


ために生きであげたからといって、何かを期待する生活ではありません。ために生きてあげても、もっとために生きてあげることができずにもどかしく思う生活です。ために生きても、謙遜に頭を下げてために生きる生活です。それで、イエス様も、「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」と言い、「高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」と言われたのです。
(433-179、2004.1.27)


4.十戒

十戒はユダヤ教とキリスト教の倫理的価値観の土台として広く知られている。しかし、それと類似した倫理的原理の諸項目は、ほかの宗教でも発見される。クルアーンは、イスラームの十戒として命名された数種類の目録の倫理規範を含んでいる。山上の垂訓でイエス様は、この戒めが服従を強要する戒律ではなく、それが心からわき出て生きるようにするための教訓だと語った。


仏教、ヒンドゥー教、ジャイナ教には、出家者と在家者のための十種類の戒律の項目があり、サーマーンヤ・ダルマという五つの普遍的ダルマの目録に圧縮される。


これに比肩するもう一つの戒律は、仏教の八正道である。東洋的視覚にふさわしく、これらの大部分は内的な要素、すなわち自制心と慈悲心の涵養などを含んでいる。儒教は、戒律より関係性に特別な強調点を置いた五つの倫理的関係を強調する。


文鮮明先生は、神様の国を成し遂げるにおいて守るべき三つの戒めを公表した。第1に、純潔を守りなさい。第2に、人の心情を蹂躙してはいけない。第3に、公金を横領してはいけない。この三つの戒めは、特に姦淫、殺人、窃盗に対する十戒と比較することができるが、その中の2番目の戒めは、十戒の内的側面に対するキリストの教えだけでなく、正しい人間関係に対する儒教の教えを反映する心情問題と深く関連している。

 

―宗教経典―

神はこれらすべての言葉を告げられた。「私は主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。あなたには、私をおいてほかに神があってはならない。あなたはいかなる像も造ってはならない。上は天にあり、下は地にあり、また地の下の水の中にある、いかなるものの形も造ってはならない。あなたはそれらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない。

私は主、あなたの神。私は熱情の神である。私を否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問うが、私を愛し、私の戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える。あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。みだりにその名を唱える者を主は罰せずにはおかれない。

安息日を心に留め、これを聖別せよ。六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである。

あなたの父母を敬え。そうすればあなたは、あなたの神、主が与えられる土地に長く生きることができる。殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。隣人に関して偽証してはならない。隣人の家を欲してはならない。隣人の妻、男女の奴隷、牛、ろばなど隣人のものを一切欲してはならない。(注7)
出エジプト記20.1 ~ 17(キリスト教)


言え「さて私は、主があなたがたに対し禁じたもうことを、復唱しよう」かれに何ものでも同位者を配してはならぬ、両親に孝行であれ。困窮することを恐れて、なんじらの子女を殺してはならぬ。われは、なんじらもかれらをも養うものである。


また公けでも隠れても、醜事に近づいてはならぬ。また、神が神聖化された生命を、正義のため以外には殺害してはならぬ。このようにかれは命じたもう、おそらくなんじらは了解するであろう。孤児が成人に達するまでは、最善の管理のためのほか、なんじらはその財産に近づいてはならぬ。


また十分に計量し正しくはかれ。われは何人にもその能力以上のことを負わせぬ。またなんじらが発言するときは、たとえ近親の間柄でも公正であれ、そして神の約束を全うせよ。このようにかれは命じたもう、おそらくなんじらは留意するであろう。まことにこれはわれの正しい道である、それに従え。


他の道に従ってはならぬ、それはかれの道からなんじらを離れ去らせよう。このようにかれは命じたもう、おそらくなんじらは主を畏れるであろう。
クルアーン6.151 ~ 153 (イスラーム)


ノアの子女たちに、七つの戒めが与えられた。社会法(社会正義)、神性冒p、偶像崇拝、姦通、流血、強盗、生きた動物を切った肉を食べることを禁ぜよ。(注8)
タルムード、サンヘドリン56a (ユダヤ教)


あなたがたも聞いているとおり、昔の人は「殺すな。人を殺した者は裁きを受ける」と命じられている。しかし、私は言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に「ばか」と言う者は、最高法院に引き渡され、「愚か者」と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。


あなたがたも聞いているとおり、『姦淫するな』と命じられている。しかし、私は言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。
マタイによる福音書5.21 ~ 22、27 ~ 28(キリスト教)


赦し、謙遜、正直、潔白、定言、自制、耐乏、意欲、無執着、純潔、これら十のことは、在家者たちも当然に遵行すべき本分である。
タットヴァールターディガマスートラ9.6(ジャイナ教)


殺生をしない、ものを盗まない、みだらな行為をしない、嘘をつくこと(妄語)と二枚舌と悪口とへつらいのことばをやめること、貪りと怒りと邪な考えを捨てること、以上が十種の善の行ない(十善業道)であって、その反対が十種の不善の行ないであります。
ナーガールジュナ(龍樹菩薩)宝行王正論8~9(仏教)


不殺生、真実、盗みをしないこと、清浄、感官の抑制――かいつまめば、これらが四身分に共通の正しい生き方(ダルマ)であるとマヌは語った。(注9)
マヌ法典10.63 (ヒンドゥー教)


苦滅道聖諦とは何か。これこそが聖なる八支の道です。すなわち、正見・正思惟・正語・正業・正命・正精進・正念・正定です。では、苦についでの智、苦の生起についての智、苦の滅尽にいたる道についての智があります。これが正見と言われます。


また、正思惟とは何か。欲を離れた思惟、怒りのない思惟、害意のない思惟です。これが正思惟と言われます。また、正語とな何か。妄語から離れること、両舌から離れること、悪口から離れること、綺語から離れることです。これが正語と言われます。


また正業とは何か。殺生から離れること、偸盗から離れること、邪淫から離れることです。これが正業と言われます。正命とは何かよ聖なる弟子、邪な生活を捨て、正しい生活によって生活を営みます。これが正命と言われます。


正精進とは何か。比丘は未だ生じていないもろもろの悪しき不善の法が生じないように、意欲を起し、努力し、精進し、心を励まし、勤めます。すでに生じているもろもろの悪しき不善の法が捨断されるように、未だ生じていないもろもろの善の法が生じるように、すでに生じているもろもろの善の法が存続し、消失せず、増大し、拡大し、修習が成就するように、これが正精進と言われます。


正念とは何か。比丘は身において身を観つづけ、もろもろの受において受を観つづけ、心において心を観つづけ、もろもろの法において法を観つづけ、世界における貪欲と憂いを除いて住みます。これが正念と言われます。


正定とは何か。比丘はもろもろの欲を確かに離れ、もろもろの不善の法を離れ、大まかな考察のある、細かな考察のある、遠離から生じる喜びと楽のある、第一の禅に達して住みます。大まかな考察・細かな考察のない、心の安定より生じる喜びと楽のある、第二の禅に達して住みます。喜びが消えていることから、第三の禅に達して住みます。……第四の禅に達して住みます。これが正定と言われます。
マッジマ・ニカーヤ(中阿含経) 3.251 ~ 252 八正道(仏教)


天下の(常に行われて百王も変えないところの)達道は五つ。これを行うためのものが三つ。それは君臣であり父子であり夫婦であり兄弟であり、朋友の交わりである。この五つのものは天下の(人間に常に行われる道理で、それによって物事が開通する)遠道である。
中庸20.79 (儒教)


―み言選集―

今までこの地上に聖賢、あるいは賢哲たちが出てきて、人生の行く道を教えてくれました。「このように行きなさい」、あるいは「このようなことを注意して生きなさい」と言いながら、ある方向性を立ててくれたりもしました。……


それで、堕落の人生の道を歩んでいるかわいそうな人間たちに、大勢の聖賢たちは、三綱五倫(注10)などで人類を教育し、モーセは十戒を紹介したのであり、さらには、大勢の道人たちもそのような一面を開拓するために苦労してきたことは間違いないというのです。(7-16 ~ 24、1959.7.5)


今から守るべき鉄則が三つあります。第1に、死ぬほどのことがあったとしても血統を汚すなということです。今から、祝福を受けた血統は、神様の血代であり、神様の愛と生命を受け継いだものなので、今までの堕落世界に染まった習慣的な行動で汚してはなりません。それを守ることができますか。夫婦になっている人も、配偶者がいなければ一人ででもいいので、完全に血統を汚さないという人は、目を閉じて決意し、神様だけを見つめて力いっぱい手を挙げて誓いましょう。


第2に、人事措置を間違えて、人権を蹂躙するなということです。男性であれ女性であれ、黒人であれ白人であれ、平等です。人権を差別したり、人権を蹂躙したりするなということです。人権を正しく指導するにおいては、真の愛、「ため」に生きる愛をもって暮らす人が主流です。天地創造は、そこから始まりました。その主流思想を乱すことは許されません。罪の中で2番目の罪です。


第3に、公金を盗むな、公金を自分勝手に使うなということです。働きもせずに、規則も守らずに良い所で寝ようとすることはみな公金略取です。公的な環境を破壊するのです。国家財産の略取と同様に恐ろしいのです。そのように生きる人は、いくらうまくやろうとしてもうまくいきません。そのように生きてみてください。いくら神様の前に祈祷しても、伝道できません。


以上の三つです。監獄に入ってみると、そこにいる人の70 パーセント以上が、これらのことゆえに監獄にいるのです。人権を蹂躙し、血統を汚し、男女問題に引っ掛かっています。それから、金銭問題、権力問題です。お金と知識と権力が怨讐だったというのです。

1番目が何ですか。純潔であれ! 2番目は? 人権を蹂躙するな! 3番目は? 公金を略取するな! きょうのこの記念日に天の国の王権を維持し、皆さんが王権の前に民となり、父母となり、妻子となり、兄弟となるためには、これが絶対に必要です。


それゆえに、兄を無視することはできません。弟の体が不自由だからといって、無視することはできません。親戚を無視することはできません。世の中は、みな無視するでしょう。知識があるといって、大学を出た人だといって、高卒の人を無視してしまいます。それは、人権蹂躙になります。


では、どのようにしなければなりませんか。どのように生きていきますか。正しく生きなければならないでしょう。正しく生きるにおいて、一人で暮らすことを正しく生きるといいますか。一緒に暮らさなければなりませんが、正しく生きるということの中には何が入りますか。


神様の公式法度として立てられたものの中で、どのような環境、どのような人たちと共に暮らせば、正しく生きることになるのかというのです。簡単です。それも三つです。父子関係、夫婦関係、兄弟関係です。兄弟関係は夫婦の前では子女になります。


子女関係を兄弟関係といってもかまいません。彼らと一つになって正しく生きなければなりません。正しく生きるためには、正しく生きることができるように指導しなければなりません。お互いが手本になってこそ、それが正しく生きることになるのです。手本になっていなければ、正しく生きていないのです。


父母の前に、夫婦の前に、子女の前に手本となれるように暮らせば、それが正しく生きることなのです。そのように正しく生きればどのようになりますか。


天の国の王がいて、地上の王がいれば、その王たちが正しく生きている家庭を訪問する日が来ます。毎年、年の初めに、その国で最も正しく生きている家庭を訪問して表彰する時が来るというのです。


今から、逆賊として追われて死ぬようなことがあったとしても、この法を守って生きれば、間違いなく天の国の皇族圏となって、どこででも自由、統一、解放の家庭になります。きょう、これを肝に銘じてくださるようお願いします。これを標語として定めるのです。

3000 年標語の中で、みな純潔血統、それから、人権平準化、それから、国家の公的財産略取……。それから何ですか。父子間において、夫婦間において、子女間において手本になろうというのです。兄弟といってもいいです。先に兄弟がすることは、その生活を子女たちが見習うのです。そうではないですか。


自分の親戚、親族がみな正しく暮らせば、息子、娘が見習うようになっています。そうしてこそ、手本になります。町内中がみな、「あの人に従っていかなければならない」と言い、「あの人のように暮らしたい」と言えば、その人は、間違いなく天国の民となり、天の国に記憶され得る人になります。


きょう、神様の王権即位式において最も重要な3大鉄則を話しました。それは、私達人間が公人として必ず守るべき、家庭にあっても、国にあっても引っ掛かることのない指針です。この日に、十分に覚えておくに値する内容であることを肝に銘じて、生涯の標的としてくださるようお願いします。
(324-298 ~ 306、2001.1.13)


夫婦が堕落しては絶対にいけません。堕落すれば大変なことになります。その次に、人を愛しなさいというのです。その次に、公金を重要視しなさいというのです。心情問題、人間問題、万物問題、この三つが重要なのです。


天の国の憲法を制定したとしても、心情問題が第一条に該当します。その次に人間問題、愛の人間がいなければならないので、人間問題を重要視するのです。男性と女性の問題、祖父母、父母、自分たちの問題、その次に兄弟問題と隣人、親戚間の問題、社会問題などはすべて人間問題です。人間を愛さなければなりません。
(169-217、198710.31)

   <次ページ>

 

コメント

世界経典-7

2020年10月06日 18時50分29秒 | 学習

②因果の連鎖

―宗教経典―

世間は行為によって存在し、人々は行為によって存在する。生きとし生ける者は業(行為)に縛せられている。あたかも進み行く車が轄に結ばれているようなものである。
スッタニパーダ654 (仏教)


あるとき、悟りを開かれたばかりの世尊はウルヴェーラー村のネーランジャッラー河畔の菩提樹の根方におられた。さてそのとき、世尊は七日間同じ姿勢で坐ったまま解脱の楽しみに浸っておられた。


その七日が過ぎて、世尊はこの三昧から出られ、宵のうちに、次のような順序を追って、正しく縁起に心を注がれた。これがあるときこれがある。これが生ずるときこれがある。すなわち、無明(無知)によって行(迷いの生活行為)があり、行によって識(心)があり、識によって名色(個体を成す心身)があり、名色によって六処(内なる心と外界を知覚する六つの領域)があり、六処によって、触(内なる心と外界との接触)があり、触によって受(心による外界の感受)があり、受によって愛(渇きのごとき強い欲望)があり、愛によって取(執着)があり、取によって有(迷いの生存)があり、有によって出(出生)があり、生によって老い・憂い・悲しみ・悩み・悶えが生ずる。この苦の集まりである人間存在はそのようにして起こるのである。(注22)
感興偈1.1(偈仏教)


人間はその生命のはたらきを天地の根源より受けたのであるから、その霊妙な働きにたちかえって生きなければならない。
荘子27(道教)


見よ、私はすぐに来る。私は、報いを携えて来て、それぞれの行いに応じて報いる。私はアルファであり、オメガである。最初の者にして、最後の者。初めであり、終わりである。
ヨハネの黙示録22、12 ~ 13(キリスト教)


一み言選集―

物事には原因と結果があり、結果は過程を通過するので、原因と結果は一つになります。一致するには、過程という条件が必要です。過程という条件は、原因に通じなければならず、結果に応じなければなりません。そのような関係を離れては一つになることはできず、目的完成もできないのです。出発点がなければ目的もありません。
(15-130、1965.10.3)


本質世界と現象世界との関係は、例えていうならば、心と体との関係に等しく、原因的なものと結果的なもの、内的なものと外的なもの、そして、主体的なものと対象的なものとの関係をもっているのである。
原理講論、総序


どこに行かなければなりませんか。いつも喜べる所、あるいはいつも喜べる方を訪ねていかなければなりません。この方が絶対者である神様なのです。神様は、動機の世界と結果の世界にいらっしゃいます。すなわち原因と結果としていらっしゃるのです。ですから、アルファでありオメガだと言ったのです。


人間が原因と結果の過程にいることを知れば、神様と人間の関係を知るようになります。歴史は、原因の世界から結果の世界に向かっています。ですから、人間の良心はこの過程の道を進んでいるのですが、歴史の流れが早いので、これについていこうとする良心は2倍に忙しいのです。


動機は神様がなり、人間を結果として立てなければなりません。堕落しなければ、人間が歴史の原因になっていたでしょう。ですから、原因をもてなかったことが堕落です。
(11-114、1961.2.19)


主体と対象は一つにならなければなりません。原因と結果も必ず一つにならなければなりません。聖書を見れば、神様が「私はアルパであり、オメガである。最初の者であり、最後の者である。初めであり、終りである」(黙示録22・13)と言いました。


二つが離れるのですか。一つになるのです。神様がアルファであれば、私達人間はオメガです。神様が最初の者であれば、私達は最後の者です。神様が初めであれば、私達は終わりです。
(69-76、1973.10.20)


誰であっても、根本を否定する人は結果をもてません。すべての息子、娘の根本は父ですが、その父を否定すれば、結果である息子、娘をもてません。これは論理的です。原因と結果が一つになることによって、理想や喜びのようなものがあり得ます。女性が母になる原因も自分自身にあるのではありません。
(328-185、2000.8.3)


男性を通して女性世界を1周回って、二人が一つになります。二人がぐるっと1周回れば、出会います。出会えば、上がっていかなければなりません。同様に、女性と男性が出会って、互いにために生きなければなりません。男性と女性が結婚し、1周回って出会い、神様のために犠牲になるのです。そこから正分合です。愛のために分かれて、愛のために出会ったので、愛のために原因と結果が一つにならなければなりません。原因と結果の内容が一つになったところにすべて結びついて、初めて種になります。授受作用の循環的法度を通さなければ、統一世界はできません。
(389-303、2002.8.7)


第3章 人生の目的

1.神様の完全な喜びのために

被造物として人間は、創造主によってある目的をもって創造された。特に唯一神の諸宗教において、神様が自らに仕え、愛し、自らに栄光を返すために人間を創造したと理解する。


そうだとすれば、人間は仕えることと服従することだけでも完成することができる。しかし、神様は父として、私達人間が世の中で全人類に愛と慈悲を広く展開することによって、その形状と姿に似た子女になることを願うだろう。


いくつかの経典でも、神様はあらゆる現象を享有する方として描写されている。神様は、創造目的が完成されたとき喜ぶだろう。神様にそのような喜びを返してあげなければならないのが私達人間の特権である。
文鮮明先生は、創造性を備えた相対として人間を造られた神様の創造目的を説明しながら、私達人間が神様の愛に満ちた家庭を成し、互いに愛で万物と一つになるとき、神様は自らの分身として愛の本性に似た多くの子女たちを見て喜びを享受すると教える。


ところが、人類始祖の堕落によって、人々は愛が満ちた家庭を築くことができなかっただけでなく、愛によって万物を主管することもできなくなった。したがって神様は、今まで満ち足りた喜びを享受できずにいらっしゃる。(第6 章13「神様の悲しみ」参照)


①人生の目的は神様に仕えること

―宗教経典―

私に仕えさせるためにのみ、ジンと人間をつくったのである。私はかれらにどんな糧も求めず、また私の扶養されることも求めない。まことに神こそは、糧を授けたもう方、偉力の主、堅忍の主であられる。
クルアーン51.56 ~ 58(イスラーム)


神が御自身の世を造られるとき、ひとえに御自身の栄光のために創造された。それゆえ預言者イザヤはこのように歌った。「彼らは私の民だと呼ばれる者たち、私の栄光を輝かせようと私が創造した私の民、私の手で造り出した私の民である。」
ミシュナ、アヴォート6.11(ユダヤ教)


私達にとっては、唯一の神、父である神がおられ、万物はこの神から出、私達はこの神へ帰って行くのです。
コリントの信徒への手紙一8.6 (キリスト教)

神は、男の信者も女の信者も、……永遠(エデン)の園の中の立派なやかた、そこに住むことを約束したもうた。だが最も偉大なものは、神のご満悦である。それこそは、至上の幸福の成就である。
クルアーン9.72 (イスラーム)


神を畏れ、かれのおよろこびを求めて、その家の礎を定め建てる者と、砕け崩れそうながけのふちに、その家の礎を定めて建て、地獄の火の中に共に砕け落ちる者と、いずれがすぐれているか。神は、不義を行う民を導きたまわぬ。
クルアーン9.109 (イスラーム)


私が今日命じるとおり、あなたの神、主を愛し、その道に従って歩み、その戒めと掟と法を守るならば、あなたは命を得、かつ増える。あなたの神、主は、あなたが入って行って得る土地で、あなたを祝福される。
申命記30.16 (キリスト教)


人が至上のものとする知恵や作為の道をひろめることなく、天において至上とされるもの――自然の道をひろめなければならない。天の道をひろめれば自然の幸福が生まれるが、人の道をひろめれば、危害が生まれる。
荘子19(道教)


もし人々が神を知り、その方の能力の偉大さを発見することがあなたの願いならば、私ではない誰か他の人の目ではなく、私自身の目で私を見よ。そうでなければ、たとえあなたが私の王国が持続する間、私の動機を慎重に考えるとしても、あなたは決して私を知ることはできない。
バハオラ落穂集127(バハイ教)


―み言選集―

本来、人間は、父母である神様の前で、幸福で生気に満ちあふれた喜びの中で生きていくように創造されました。そして、神様の栄光のために存在するように創造されました。
(52-36、1971.12.12)


人間は何を目的としなければならないのでしょうか。個人を目的とすることより、家庭を目的とすることより、団体を目的とすることより、国家を目的とすることより、世界を目的とすることより、天地を目的とすることより、神様を中心として神様と人間が一つになることを目的として進んでいかなければならないのです。
(41-323、1971.2.18)


私達は何を中心として生まれ、何を中心として行かなければならず、何を目的として行かなければならないのでしょうか。ここで、神様抜きにしては絶対にいけません。神様を抜きにしては動機のない因縁になるのです。動機をもつことができない人は、どんなことを成就しようとしても、その結果を収めることができず、価値を認めてもらえないのです。


ある建物を建てるときは、設計者が設計した設計図に従って建築するようになります。設計の原本もなく建てられた建築物は、設計者が目的とした建物になることはできないのです。
(21-100、1968.11.17)


先生の生活は、神様のために生きる生活です。神様とこの世界のために生きると考えなければなりません。自分のために生きると考えてはいけないというのです。


その次には、人類のために生きると考えなければなりません。神様と真の父母と人類です。それで皆さんは、神様と真の父母と人類を考えなければなりません。今まで皆さんが、どれほど天が願う生活と一致したかということを、常に比較しなければならないのです。(147-115、1986.831)


②人間を見て喜ばれる神様

―宗教経典―

神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。
創世記1.31 (キリスト教)


私は隠された宝ゆえに、私を知らせるために被造物を創造したのである。
ハディース(イスラーム)


萬有の主よ汝に南無す。汝は凡ての自我にして凡ての作者たり。汝は凡ての食者(経験者)にして、凡ての生命なり、而して又汝は凡ての戯楽主たり。
マイトリ・ウパニシャッド5.1 (ヒンドゥー教)


幸福は真理と愛から生じる霊的なものである。それは利己的ではない。それで、それはひとつで存在することはできず、あらゆる人間がそれを一緒に分かち合うことを要求する。
科学と健康57(クリスチャン・サイエンス)


若者がおとめをめとるように、あなたを再建される方があなたをめとり、花婿が花嫁を喜びとするように、あなたの神はあなたを喜びとされる。
イザヤ書62.5 (キリスト教)


せかいぢうみな一れつハすみきりて
よふきづくめにくらす事なら
月日にもたしか心がいさむなら
にんけんなるもみなをなし事
このよふのせかいの心いさむなら
月日にんけんをなじ事やで
おふでさき7.109 ~ 111(天理教)


そのあなたが御心に留めてくださるとは、人間は何ものなのでしょう。人の子は何ものなのでしょう。あなたが顧みてくださるとは。神に僅かに劣るものとして人を造り、なお、栄光と威光を冠としていただかせ
詩編8.5 ~ 6(キリスト教)

 

(あらゆる欲望を達せるものなるブラフマンには、いかなる行動目的も存し得ず。)しかるに(ブラフマンの世界創造は、)単に遊戯のみにすぎず。あたかも世間において(見らるる遊戯)のごとし。(故に特定の目的を有せず)
ヴェーダーンタ・ストラ2.1.32 ~ 33(ヒンドゥー教)


われは天と地、ならびにその間にあるものを、戯れにつくったのではない。もし遊戯が、われの望みならば、きっとわが手近なものからそれを選んだであろう。


もしわれがこんなことをするならば。いや、われは真理を虚偽に投げつけて、その頭脳を砕く、見よ、虚偽は消滅する。……天と地のよろずのものは、かれの有(もの)である。またその側近にある天使は、かれに仕えて高慢でもなく、疲れることもない。
クルアーン21.16 ~ 19(イスラーム)

 

神はこの世とそこに住み動くあらゆるものを創造し、神の拘束されない卓越した御意により人間に神を知り愛する独特の特異性と能力――全創造の基礎をなす発生進力、また主なる目的と見なされるべき能力――を与え給うた。


すべての創造物の内奥の各実在に、神はその諸々の名の中のある一つの名の光を注ぎ、神の諸々の属性のうちのある一つの属性の栄光を受け入れるものとなし給うた。
バハオラ落穂集27(バハイ教)


アッラーの預言者が言った。「神様がおっしゃるには、私が勝利者になるためではなく、勝利しなさいとして人間を創造した。
アル・ガザーリー宗教諸学の再興(イスラーム)


―み言選集―

神様は、私の生活を通して喜びを味わおうとして、私を訪ねられた。御旨の道、人格神様がいかに絶対者だとしても、独りでは幸福になることができません。「うれしい」という言葉や「幸福だ」という言葉は、独りでは成立しない言葉です。必ず相対的関係を備えた所で成立するのです。


一生を声楽家として生きてきた人でも、もし無人島に捨てられ、独りで喉が張り裂けるほど歌を歌ったとしても、幸福でしょうか。自存される神様も、喜び、幸福であるためには、必ず授け受けできる愛の相対が必要なのです。
平和神経、平和メッセージ1.15、2005.9.12


神様は、真の愛を施すことのできる対象を必要としていらっしゃいました。これが創造の動機です。神様の創造は必然でした。真の愛の創造理想は独りで成す理想ではありません。御自身の気高く、善のみ旨を人間と共に喜ばれるための理想です。
真の愛の神様を正しく理解すれば、今日の罪を犯して争う不幸なこの世界は、神様の本来の計画ではなかったことが自明のものとなります。
(400-81、2002.12.27)


家庭には必ず、父母がいなければならず、妻子がいなければなりません。そうであってこそ、その家庭が幸福の基台となるのです。神様が人類を探し求めてきた目的も、神様御自身の幸福を模索するためであったに違いありません。


ですから、神様御自身が幸福の基台を求めてくるにおいて、人間を離れたところではそのような理想はあり得ないのです。人間と関係を結んでこそ、一致点をもたらすことができるのです。私達が家庭において、情緒的な内容をすべて備えた立場で幸福を感じるのと同じように、神様もやはりそのような立場で幸福を感じようとなさるのです。
(32-197、1970.715)


神様に「あなたがこの世界を一つの世界にして何をするのですか。何をしようとそのような世界を願われるのですか」と尋ねれば、「ああ、一つの世界になれば喜ばしいので良いのだ」とおっしゃるでしょう。


なぜ良いのですか。良くて何をするのですか。良いのは喜ぶためですが、喜んで何をするのですか。神様はお金がなくて悲しまれますか。神様は知識がなくて悲しまれますか。神様は権力がなくて悲しまれますか。神様がお喜びになれないものが一つあるのですが、それが正に愛がないことです。愛がなくて悲しまれるのです。


神様と人と万物を一つにできる愛さえもてば、神様は喜びの神様になるのであり、栄光の神様になるのであり、さらには、幸福の神様になれるということです。ですから、最も重要なものとは何ですか。神様の心情と人間の心情を通して万物までも吸収できる愛の力をもったものが、最も貴いのです。
(113-315 ~ 316、1981.5.10)


神様は、人間を造られるとき、あらゆる精誠をすべて尽くされ、また心血と御自身の生命の核心をすべて傾けて造られたのであり、ありったけの愛と愛情を注がれて造られたのです。


いかなる力をもってしても、離そうとしても離すことができず、分かれようとしても分かれることができない因縁の中で造られたのです。このように造られた人間なので、そのような人間を見つめられる神様には、初めて平和が宿るのであり、すべての情と幸福は、その人間を通してのみ宿ることができるのです。
(20-207、1968.6.9)


神様は、天地万物を、見て喜ぶためにつくられました。今日の既成教会員たちが言うには、「神様は創造主であられ、私達人間は被造物だが、創造主と被造物が同じになり得るか。違うだろう」と言います。それは正に、神様は常に独りで絶対的な位置、相対がない位置にいなければならないという話です。


それ以上の不幸はありません。いくら父が国の大統領の権限をもったとしても、母が死んで一人で暮らしているのに、「一人で暮らしているのでどれほどお幸せですか」と言う息子がいれば、「こいつ、何か幸せだ!」と言うでしょう。


そのような状況なのに、父が世界的な大統領だからといって、「お父さん、幸せでしょう?」と言えば、「おお、おお、幸せだ」、そのようになっていますか。孝子であれば、一人でいる父に、「お父さん! 私が母を一人お連れしましょうか」と言ってこそ孝子です。
(57-247、1972.6.4)


神が被造世界を創造なさった目的は、人間をはじめ、すべての被造物が、神を中心として四位基台を完成し、三大祝福のみ言を成就して、天国をつくることにより、善の目的が完成されたのを見て、喜び、楽しまれるところにあったのである。それゆえに、人間を中心とする被造世界が存在する目的は、神を喜ばせることであった。
原理講論、創造原理3.1

   <次ページ>

 

コメント