④優れた衛生
―宗教経典―
何であっても、運動に代わり得るものはない……人間が従う邪悪な支配による害も、運動が追放してくれるだろう。しかし、動くことがすべて運動ではない。運動とは、強力であったり、早いもの、またはこの二つの結合である。息遣いを変化させ、これを早くする躍動的な動きである。
マイモニデスミシュネ・トーラ(ユダヤ教)
自分の母親の乳で養育される子供たちは、最も適切で自然そのままの食物を楽しむ。
クラウディウス・ガレノス
たくさん食べて生じた病は、食べなければ治り、食べられないことで生じた病は、食べれば治る。働き過ぎて生じた病は、休めば治り、怠けて生じた病は、働けば治る。医者は病の類型によって、それが生じた反対の原理で病を治すようにしなければならない。ヒポクラテス
―み言選集―
皆さん、朝、運動しますか。「なぜ運動するのか。そうでなくてもつらいのだから、楽に休めばよいではないか」と思うかもしれませんが、健康のために投入しない人は、だんだんと病気になって退化します。自然の道理がそうです。(380-164、2002.6.7)
私のような人は運動をしました。今も、体のコンディションが良くなければ、ほぐすすべを知っています。たまに腰が痛くなれば、このようにしてほぐすのです。マッサージです。
針を打つのと同じです。このようにさっと見れば、分かります。すぐに分かるのです。訓練ができているので、どこかに支障があれば、必ずそれをほぐします。自分の体の管理をするのです。
私は健康でしょう? 今も、このようにすればぴたっと入ります。70 歳になった老人は、普通このように歩くでしょう? しかし、私はぴったりくっつくでしょう? それは、運動をしたからです。自分の体を管理しなければなりません。(203-177、1990.6.24)
神様を愛する前に、皆さんが食べる食物を愛さなければなりません。万物を愛し、体を愛さなければならないのです。万物を愛することによって万物の要素を吸収し、自分の体を愛するようになるのです。(138-99、1986.1.19)
天のお父様のみ手を経てつくられた純粋なこの草一株を、何よりも価値あるものとして感じられる世界になることを、私は願っています。どのような香りよりも、空気の味がもっと良いのです。私が牧場に行っても話しましたが、人が空気の味を知り、日光の味を知り、水の味を知れば、病気になることはありません。このような心情で暮らせば、誰もが健康体になるのです。
(9-177 ~ 178、1960.5.8)
健康であることを望むのなら、「ために生きる」愛を中心として、投入して忘れなさいというのです。そのように生きる人は、病もなくこの地上で、幸福で、楽しく暮らすのです。(331-23、2000.8.23)
第5章 死以降の人生と霊界
1.霊界
霊界とは何か。それは、肉身の目では見ることができず、簡単に認知することはできないが、人間存在の明白な一部であり、いつかはすべての人が行かなければならない所である。文鮮明先生は、霊界について知ることは神様について知ることの次に重要だと教える。
霊界に対する三つの主題がここから提示される。第1に、霊界を知ることは地上生活において正しい方向を発見し、維持するための核心になる。第2に、霊界は相似の関係として地上世界と相応し、地上生活においてはぐくむ生の質と愛を維持する。霊界での調和、または不調和は、地上の生において、あらゆる性向と偏見の中の生を営んできた人々(霊界の市民たち)の愛、または愛の欠如に起因する。第3に、霊界は、多様な社会と領域によって構成されており、今日では、一つの全体的な天国に統一される過程にある。
①霊界と肉界の一致
―宗教経典―
私は、キリストに結ばれていた一人の人を知っていますが、その人は十四年前、第三の天にまで引き上げられたのです。体のままか、体を離れてかは知りません。神がご存じです。私はそのような人を知っています。彼は楽園にまで引き上げられ、人が口にするのを許されない、言い表しえない言葉を耳にしたのです。
コリントの信徒への手紙二12.2 ~ 4(キリスト教)
幽玄界を知るものは、天地の間で神のほかにはないのである。またかれらは、いつよみがえらされるかも感知できぬ。いや、かれらの知識は来世に及び得ない。いや、それに疑いを抱いている、いや、それについてかれらは盲目である。
クルアーン27.65 ~ 66(イスラーム)
ここ〔現象界〕にあるものは、そこ〔ブラフマン〕にもある。そこにあるものは、それに対応して、ここにもある。
カタ・ウパニシャッド2.1.10 (ヒンドゥー教)
広い天空の上に在り、自ら強大な光輝を放ち、意の強き汝は、われらを助けるため、汝の栄光の模型である地を創られ、天に至るまで水と光を包まれた。
リグ、ヴェーダ1.52.12 (ヒンドゥー教)
今述べていることの要点は、私達にはこのような大祭司が与えられていて、天におられる大いなる方の玉座の右の座に着き、人間ではなぐ主がお建てになった聖所また真の幕屋で、仕えておられるということです。
すべて大祭司は、供え物といけにえとを献げるために、任命されています。それで、この方も、何か献げる物を持っておられなければなりません。もし、地上におられるのだとすれば、律法に従って供え物を献げる祭司たちが現にいる以上、この方は決して祭司ではありえなかったでしょう。この祭司たちは、天にあるものの写しであり影であるものに仕えており、そのことは、モーセが幕屋を建てようとしたときにお告げを受けたとおりです。神は、「見よ、山で示された型どおりに、すべてのものを作れ」と言われたのです。(注1)
ヘブライ人への手紙8.1 ~ 5(キリスト教)
易は天地になぞらえて作られた。だからこそ天地の道を弥綸(つくろいおさめる、洩れなく包みこむ)するのである。聖人は易をよりどころとして、上を仰いでは天文を観察し、下をうつむいては地理を観察するが故に、幽遠な道理も著名な現象もあわせて知り得る。
また、易を拠りどころとして、事物の本源を原ね極め、終極にまでたち返って死するゆえんを知るが故に、生死の問題についての説明を知り得る。また、陰陽の精気は結合して事物を形成し、その精気が分散して生ずる遊魂はくさぐさの変化となる。だからこそ易に拠って陰陽の理を窮めれば、鬼神の情状をも知り得るのである。
易の道は天地の道と相似するが故に、これと一致して違うことがない。易を拠りどころとする聖人はその知力が万物にあまねく行きわたりその道が天下を済うに足るが故に、過ちを犯すことはなく、ひろく自由に行動するが放逸に流れず、天道を楽しみ天命を知るが故に心に憂いを抱くこともなく、その居処に安んじ仁徳に厚いが故に、よく人を愛することができる。
易は天地造化の妙用を一定の型と囲いにおさめて度をすごさせず、万物を曲に完成して余すところがなく、昼夜の道すなわち陰陽・幽明・死生・鬼神の道に通して知りわきまえる。なればこそ陰陽の神妙なはたらきは、一方一処にとどこおることなくして円通し、そのはたらきを内に蔵する易の変化にも一定の型体とてはないのである。
易経、周易繋辞上伝1.4.1 ~ 4、(儒教)
つまりかれらは、知恵があると思っている人が、しらべられて、そうでないことになるのを、聞いているのが、おもしろいからなのです。たしかにおもしろくないことはないのですからね。しかし、私にとっては、それは、私の申し分どおり、神によって、なせと命じられたことなのです。それは神託によっても伝えられたし、夢知らせによっても伝えられたのです。
プラトンソクラテスの弁明29(ヘレニズム)
―み言選集―
人の命は、地上における肉身の死によってすべてが終わるのではありません。天上世界、すなわち霊界では、聖人賢哲たちはもちろん、私達の先祖が、肉身とは異なる人格体である霊人体として生きています。神様が創造された根源の世界、すなわち無限の永遠な世界と比較するとき、私達の肉身が生きているこの自然界は、ごく小さな一部分にすぎません。
(411-151 ~ 152、2003.710)
神様を知り、霊界を知らなければなりません。堕落した世界のすべてのことを忘れてしまっても、神様をはっきりと知り、霊界を知らなければなりません。
霊界は、永遠の本郷です。永遠の本郷の国です。その本郷の国が霊界から成し遂げられるのではなく、地上から成し遂げられなければなりません。
(398-145、2002.12.9)
聖書を見れば、パウロが14 年前に見た第3の天について述べています。14年間パウロはどのよう生きてきたのでしょうか。第3の天を見たこと、それが力になって、14 年間を生きてきました。パウロは、それ以上のことを知ったために、第3の天のことを述べても、また行くことができたのです。
(62-47、1972.9.10)
霊界のすべてのことが地上世界と関係を結んでいます。どこを焦点として、何を共通分母として、その主流的関係が連結されるのですか。それが何かというと、真の愛です。
(137-54、1985.12.18)
地上には内面的に拡大された生活がありますが、内面的に拡大されたその基準は、霊界に行けば表面化されるのです。愛が中心でしょう? 愛が内面化されているために、神様と人類が一つの体の細胞と同じです。自分自身が、その細胞のうちの一つになる世界が霊界です。そのような境地に入れば、神様が間違いなく自分の心の中に入ってくるのです。「神様」と呼べば、自分の心の中で「誰が私を呼ぶのか。何だ?」と言うのです。すなわち、神様と共に暮らしていく世界です。
(218-129、1991.7.14)
霊界がどごにありますか。皆さんの体の外にありますか、体の中にまで入ってきていますか。体の中にあります。ですから、霊界を背負って歩き回り、連れて歩き回るのです。霊界を抱いて歩き回り、抱えて歩き回るのです。
(162-116、1987.3.30)
②霊界の様々な階層と領域
―宗教経典―
神は数多くの地獄と天国をつくり出し、人間はこれを探検するために疲労困憊だ。
アーディ・グラント、ジャプジー22、M.1、p.5(シーク教)
私の父の家には住む所がたくさんある。
ヨハネによる福音書14.2(キリスト教)
また、天上の体と地上の体があります。しかし、天上の体の輝きと地上の体の輝きとは異なっています。太陽の輝き、月の輝き、星の輝きがあって、それぞれ違いますし、星と星との間の輝きにも違いがあります。(注2)
コリントの信徒への手紙一15.40~41(キリスト教)
彼らは長子の教会である。彼らは御父からすべてのものをその手に与えられた者である。彼らは祭司であり、王であり、御父の完全と、御父の栄光を受けた者であり、また、メルキゼデクの位に従ういと高き方の祭司である。このメルキゼデクの位は、エノクの位に従い、かつ独り子の位に従うものであった。それゆえ、書き記されているように、彼らは神々、すなわち神の子である。…
これらは、その体が日の栄えの状態にある者である。その栄光は太陽の栄光すなわちすべての者の至高者なる神の栄光であり、その栄光は大空の太陽によって象徴されると記されている。
さらにまた、私達は月の栄えの世界を見た。見よ、見よ、これらの者は月の栄えの世界に属する者であり、その栄光は、月の栄光が大空の太陽と違っているように、御父の完全を受けた長子の教会の栄光とは違っている。
見よ、これらは、律法なしに死んだ者である。また、獄にとどめられた人々の霊であって、肉において人間として裁きを受けるために、御子が訪れて、福音を宣べ伝えられた者である。また、これらは、肉においてはイエスの証を受け入れなかったが、後にそれを受け入れた者である。これらは、世の高潔な人々でありながら、人間の悪巧みによって目をくらまされた者である。これらは、イエスの栄光を受けるが、その完全は受けない者である。これらは、御子の臨在は受けるが、御父の完全は受けない者である。それゆえ、彼らは日の栄えの体ではなく、月の栄えの体であって、月が太陽と違っているように栄光において違っている。
これらは、イエスの証に雄々しくない者である。それゆえ、彼らは私達の神の王国の冠を得ない。さて、これで私達が月の栄えの世界について見た示現は終わり、私達がまだ御霊に感じている間に、これを書き記すように主は私達に命じられた。
さらにまた、私達は星の栄えの世界の栄光を見た。その栄光は、星の栄光が大空の月の栄光と違っているように、さらに劣った世界の栄光である。
これらは、キリストの福音を受け入れず、イエスの証も受け入れなかった者である。これらは、聖なる御霊を否定しない者である。これらは、地獄に落とされる者である。これらは、最後の復活まで、主すなわち小羊なるキリストがその業を終えられるまで、悪魔から贖われない者である。
これらは、永遠の世界において主の完全を受けないが、月の栄えの者の働きによって聖なる御霊を受ける者である。そして、月の栄えの者は、日の栄えの者の働きによって受ける。また、星の栄えの者は、彼らのために仕えるように任じられる天使たち、すなわち彼らのために仕える霊となるように任じられる天使たちの働きによって聖き御霊を受ける。彼らは救いを受け継ぐ者だからである。(注3)
教義と聖約76.54 ~ 88(末日聖徒イエス・キリスト教会)
ソロモン王が「くるみの園に下りて行きました」(雅歌6.11)。彼はくるみの殻を一つ拾い上げ、それを注意深く見た。彼はくるみの殻の中に見える層状を見つめながら、感覚的な追求欲がわき上がってくるのを感じ、人間という存在を類推した……人間の頭脳がたくさんの薄い膜で覆われているように、すべての存在が永遠性をもつようにするために、何かの処置をしなければならないこ
とを、神はお考えになった。
それゆえ、全世界に層状の深奥で神秘的な所から
最も外部の層に至るまで高低があるのは、このような原理によるものだった。
あらゆるものは覆うものをもつ。頭の中に頭があり、霊の中に霊があり、殻の中にまた別の殻がある。
最初の中心地は、最も奥深い所に光があり、透明で、不可思議で、我々の想像を超えた至極清浄な性質をもつ。最も深い一点が中心を取り囲む“宮殿”を形成し、これはまた、我々が想像できないほど透明な光彩である。具体的に指摘できない最も深い一つの中心の衣服のようなこの宮殿は、それ自体が不可思議な光だ。しかし、この宮殿は、原初的な点よりは透明でなく、奥妙ではない。この宮殿は、それ自体、自ら最初の光彩とはまた異なる服を着るようになる。
このようにして、外に向かっていくほど増幅はまた別の増幅の服を着るようになる。ゆえに、まるで薄い膜が頭脳を覆うように、各組織はそれ以前の組織を包むようになる。最初は保護膜の役割をしていたものが、次の段階の組織に対しては頭脳のような位置をもつようになる。
これと同様に、そのような組織は下にも進行する。この世の人は、天と地の中心となる頭脳の役割をしながら、霊と肉を保護する保護膜を形成するようになる。ゆえにあらゆるものは、より完全な秩序で進行する。
ゾハール(ユダヤ教)
すべての王国には律法が与えられている。そして、多くの王国がある。王国のない空間はないからである。また、大きな王国も小さな王国も、その中に空間のない王国はない。
そして、すべての王国に一つの律法が与えられており、すべての律法に一定の限界と条件がある。それらの条件の中にとどまっていない者は皆、義とされない。
英知は英知に結びつき、知恵は知恵を受け入れ、真理は真理を迎え入れ、徳は徳を愛し、光は光に結びつき、憐れみは憐れみに同情を寄せて自らの権利を主張し、正義はその道を進み続けてその権利を主張し、裁きは御座に着いて万物を治め、万事をなす者の前を行くからである。(注4)
教義と聖約88.36 ~ 40(末日聖徒イエス・キリスト教会)
―み言選集―
霊界に行ってみれば、霊界全体が一人の人間に見えます。主体である神様とこの全体、大きな一人の人と一つになります。そうすると、全霊界と肉界がすべてぐにゃぐにゃになります。神様が走れば地も走り、神様が笑えば地も笑うようになっています。
それはどういうことですか。皆さんは、どのようにして中心になれますか。私とこの細胞を見てみれば、すべて連結されています。指の細胞を見るとき、その細胞がすべて私にぶら下がっています。そのような意味の中心だというのです。
私の手の先を見るとき、手の先は私と一対一です。すべて私にとどまっています。人間が宇宙の一番の中心になります。一つの細胞のような立場で相対するとき、中心的資格をもつことができるのです。
この細胞を通っていた血が、足の裏の細胞を通っていた血に、「ああ、頭のほうに来るな」と言うことができますか。このような境界線がありますか。そのような意味で、黒人、白人、黄色人の区別はありません。皮膚が、これは白く、これは黄色く、色がすべて違います。目の色も違い、髪の毛も違い、すべて違います。
だからといって、「ああ、お前は私とは違うから別種だ」、そのように言えますか。霊界に行ってみれば、一人の人間のような組織になっています。聖人たちが目の役割をして、耳の役割をするようになっています。(注5)
(91-280、1977.2.27)
霊界は、神様を中心とする一つのセンターを中心として、すべてのものが連結されています。しかし、地上にはそれができていません。センターがないのです。神様を中心とするセンターではなく、悪を中心とするセンターができているので、すべてのものが相反しています。
しかし、霊界はすべて統一です。高いレベルのものもあり、もちろん地域も違いますが、同じ階級ではなくても、すべてのものが天に従わなければならないことを知っているのです。低い階級の霊人たちも、神様を中心として従っていかなければならないということが、信仰観念のように生活の目標になっています。それが永遠の生活目標になっているのです。
(161-220、1987.2.15)
地上生活の人間完成の基準によって地獄と天国が生じざるを得ません。このように見れば、数千の階級が生じ得るのです。……地上に散らばっているこの階級、ここにとどまっている階級のようなものが生じます。地上にこのような階級が生じれば、霊界にもこのような階級が生じます。……霊界も多くの集まりでできていて、階級ごとに分裂しています。
(91-269 ~ 270、1977.2.27)
霊界に行けば何もありません。花しかありません。どこに行っても花でいっぱいです。ところが、その花が笑顔で踊りを踊っています。自分の愛の価値観の完成基準によって、それぞれ声を出して踊ったり、黙って踊ったり、様々な姿で迎えてくれるのです。
その時になって、「先生が教えてくださった愛というものがこのように偉大なものだったのだなあ。ああ、その時、すぐに分かっていればよかったのに」と思うかもしれませんが、その時になれば既に通じません。それで先生がその世界に合格させるために、その周波数に合わせるために、地上で教育し、指導しているのです。
(227-100、1992.2.10)
霊界は完成しましたか。霊界は未完成です。なぜ未完成なのでしょうか。本来、霊界の階級体系は、神様と真の父母、真の子女を中心としてつながっていなければならないのに、それができていないのです。地上もやはりできていません。
言い換えれば、堕落しなかったアダム主義、神様を中心としたアダム主義、それと同時に、真の父母を中心とした階級体系になるのが霊界ですが、それができていないのです。
今まで、その中心の中には、仏教を中心とした釈迦牟尼クラブがあり、孔子クラブがあり、ムハンマド(マホメット)クラブがあります。それで、霊界は、真の父母主義とアダム主義が現れることを願い、ムスリム(イスラム教徒)の群れや孔子の群れや釈迦の群れも、すべて願っているというのです。ですから、統一的な方向を経なければならないので、地上においても真の父母の役事が世界的な基準に上がっていくようになる時、すべての宗教の境界線はなくなり、統合運動が霊界の動きに従って自動的に展開し、その結果が地上で現れるようになるというのです。
(161-223、1987.2.15)
今霊界は、すべて壁でふさがれています。国はありません。世の中の国のような国は霊界にはありません。しかし、仏教を信じていた人たちは仏教圏にすべて入っていき、儒教を信じていた人は儒教圏にすべて入っていき、キリスト教を信じていた人はキリスト教圏、イスラームを信じていた人はイスラーム圏に入っていきます。
このようにすべて宗教の系列が霊界にできています。それで、世界的な一時、メシヤが来る時まで、自分の団体のために準備してくるので、今まで壁を積み上げてきたのです。人間の堕落によって生じた神様の恨とイエス様の恨と先生の恨をすべて霊界と肉界で解くことができる基準になるまでは、その壁を崩すことはできません。
(89-101 ~ 102、1976.10.4)
2.不滅の霊魂
霊、または魂は、不滅の人間の本質である。霊魂は、永遠の神様から来たものであるため、それは最後に神様に帰っていく。一方、土でつくられた肉身は、霊魂を包む服にすぎない。細かい違いはあるが、これがあらゆる宗教で発見される一般的な観念である。
霊魂は、天国に上がっていったり、地獄に落ちたり、神性と一つになったり、復活の日まで眠っていたり、またほかの肉身に生まれ変わる。このような違いとは関係なく、霊魂の存続はあらゆる信仰体系に共通して現れる。
宗教の諸経典は、来世で霊魂を包んでいる“霊的体”に対する描写を含んでいる。ある経典では、それ自体の形態と構造を備えた霊魂を想定している。それは、地上生活の間に肉身と共にあり、死後に分離されて霊界に上がっていく。
文鮮明先生は、地上人たちが霊魂と肉身の共鳴によって二つの世界にどのように生きているのかに対する理解を助ける。これは、霊的能力をもつ人たちが地上生活をしながら、どのように霊界を自覚できるのかを意味する。
霊魂がこれ以上肉身に縛られず、意志どおりに自由に旅行できるとき、実にそれは死後にその翼をつける。それでも、地上の生は、天国で要求される完全な魂の性稟を訓練する修練所として重要な意味をもつ。次の節から、この主題を扱う。
①霊魂と肉身
―宗教経典―
主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。
創世記2.7(キリスト教)
またかれは、土から人間の創造を始めたもう。それからかれは、卑しい水の一精髄から、その跡継ぎをつくりたもう。それからかれを均整につくり、かれの霊を吹き込みたまい、……
クルアーン32.7 ~ 9(イスラーム)
霊魂は知恵と洞察の主体であり、無形状の行為者であり、それ自身の肉身と同一の大きさをもつ。霊魂はまた、カルマの果報を享受する者であり、サムサラの世界にいるが精通した者であり、常に至高の境地を目指している。
ネーミチャンドラ・ダッヴァサンガハ2(ジャイナ教)
肉体は霊魂の家である。
タルムード、サンヘドリン108a (ユダヤ教)
孔門の宰我が申した、「わたくしは鬼神という言葉は聞くもののそれが何を指すのか、存じません」そこで孔子が教えた、「人の身には気と魄(心と物の二面)があるが、気のほうは神の妙用、魄のほうは鬼の妙用なのである。それゆえ鬼と神を並べて説いてこそ、人間に対して教訓が完全になるのである。
生きている人々、これは必ず死ぬが、死ねば必ずみな土に帰る。そのように死亡した人間、それを鬼という。人が死ねば骨や肉は地の下に朽ちて、埋もれたままに野の土となり、気のほうは天上に浮かび上がって、あらたかな神霊の群れに入る。すべて、人も物も死ねばその精気が凝って強い香りを放ち、感ずる人々の心を悲壮にさせるのであるが、それこそ神霊の妙用なのである。
礼記21.2.1 (儒教)
しかし、死者はどんなふうに復活するのか、どんな体で来るのか、と聞く者がいるかもしれません。愚かな人だ。あなたが蒔くものは、死ななければ命を得ないではありませんか。あなたが蒔くものは、後でできる体ではなく、麦であれ他の穀物であれ、ただの種粒です。神は、御心のままに、それに体を与え、一つ一つの種にそれぞれ体をお与えになります。
どの肉も同じ肉だというわけではなく、人間の肉、獣の肉、鳥の肉、魚の肉と、それぞれ違います。また、天上の体と地上の体があります。しかし、天上の体の輝きと地上の体の輝きとは異なっています。
コリントの信徒への手紙一15.35 ~ 40(キリスト教)
一み言選集―
この体は、神様があらゆる精誠を尽くし、土の塊のようなものを収拾し、永遠の理念の生命体、すなわち霊人体が育ち得るように造られました。芸術品でも、これ以上の芸術品はありません。ただ神様が、「おい、いでよ」として造られたものではありません。最大の精力を注いで造られた体です。そこに霊人体を吹き入れ、一人の人を造られたのです。神様が主管される有形・無形世界で永遠に存在できるそのような形状を造って祝福してくださいました。
(8-80、1959.11.8)
霊人体は人間の肉身の主体として創造されたもので、霊感だけで感得され、神と直接通ずることができ、天使や無形世界を主管できる無形実体としての実存体である。霊人体はその肉身と同一の様相であり、肉身を脱いだのちには無形世界(霊界)に行って永遠に生存する。人間が永存することを念願するのは、それ自体の内に、このような永存性をもつ霊人体があるからである。
この霊人体は生心(主体)と霊体(対象)の二性性相からなっている。そして生心というのは、神が臨在される霊人体の中心部分をいうのである。霊人体は神からくる生素(陽性)と肉身からくる生力要素(陰性)の二つの要素が授受作用をする中で成長する。また霊人体は肉身から生力要素を受ける反面、逆に肉身に与える要素もあり、我々はこれを、生霊要素という。
人間が神霊に接することによって、無限の喜びと新しい力を得て、持病が治っていくなど、その肉身に多くの変化を起こすようになるが、これは、その肉身が霊人体から生霊要素を受けるからである。霊人体は肉身を土台にしてのみ成長する。それゆえに、霊人体と肉身との関係は、ちょうど実と木との関係と同じである。
原理講論、創造原理6.3.2
人は二重構造になっています。心的な人と体的な人です。それでは、心とはいったい何でしょうか。心は縦的な基準をもっています。体は何でしょうか。横的な基準をもっています。これが本来、神様の理想的基準に立ち、神様の愛を受けることができるようになれば、縦的な心に神様の愛が響くとき、横的な体はすべて感じるようになります。縦的基準が存在する霊人体に神様の真の愛が響けば、横的基準である体も共鳴するようになっています。
(177-216、1988.5.20)
人には、霊的な人、統一教会でいう霊人体があり、肉身があります。霊人体は我々の目に見えませんが、存在するのです。では、霊人体と肉身は、いつ一つになるのでしょうか。これが問題です。
これは、音叉と同じです。音叉の一つを鳴らせば、同じ振動数で別の側を共鳴させるのと同じ道理で、神様の愛の作用が私達の心に来れば、自動的に体が反応しなければなりません。ですから、体と心を100 パーセント共鳴させ一つにする圏内に追い込むことができるのは、神様の知恵でもなく、能力でもなく、力でもなく、愛だけです。
(138-255、1986.1.24)
心と体の細胞があります。霊的五官があり、霊人体があることを知っていますか。内的人間と外的人間の細胞が共鳴しなければなりません。永遠に生きる私達の内的な人と、地上天国に生きる外的な人が、愛を中心として共鳴できなければなりません。
霊人体と肉身が神様の愛を中心として共鳴し、響くようになるとき、初めて霊的細胞と肉的細胞が完全に作動するのです。ですから、目が完全作動するときは、目を開けば、天上天下、地上天下がみな見えるのです。完全作動をするためです。マイクもそうではないですか。性能が良ければ、100 パーセント響き渡ります。同様に、愛の力で肉身と霊人体が一致して、爆発し得る境地になれば、天上世界、地上世界が、神様がすることなく、みな共鳴するようになるのです。
(171-103、1987.12.13)
②死:新しい生命に転換
―宗教経典―
塵は元の大地に帰り、霊は与え主である神に帰る。
コヘレトの言葉12.7(キリスト教)
まことにわれは、生を授けまた死を賜う、われによろずのものの帰着所がある。
クルアーン50.43(イスラーム)
風(気息)は不死の風に帰し、肉体は終に灰となる。5U(オーム)! 意志(クラトウ)よ、憶念せよ。所為を憶念せよ。
イーシャー・ウパニシャッド17(ヒンドゥー教)
人間の真性は先ず霊なる生命にして
心の糸を組み合せて肉体の繭を造り
その繭の中にわれと吾が霊を宿らせて、
はじめて霊は肉体となるなり。
汝ら明かに知れ、繭は蚕に非ず、
然らば肉体は人間に非ずして、
人間の繭に過ぎざるなり。
時来らば蚕が繭を食い破って
羽化登仙するが如く、
人間もまた肉体の繭を食い破って
霊界に昇天せん。
汝ら決して肉体の死滅をもって
人間の死となす勿れ。
人間は生命なるが故に
常に死を知らず。(注6)
甘露の法雨(生長の家)
彼が殺すと思う者、また彼が殺されると思う者、その両者はよく理解していない。彼は殺さず、殺されもしない。彼は決して生まれず、死ぬこともない。彼は生じたこともなく、また存在しなくなることもない。不生、常住、永遠であり、太古より存する。身体が殺されても、彼は殺されることがない。
彼が不滅、常住、不生、不変であると知る人は、誰をして殺させ、誰を殺すか。人が古い衣服を捨て、新しい衣服を着るように、主体は古い身体を捨て、他の新しい身体に行く。武器も彼を断つことなく、火も彼を焼かない。水も彼を濡らすことなく、風も彼を乾かすことはない。
彼は断たれず、焼かれず、濡らされず、乾かされない。彼は常住であり、遍在し、堅固であり、不動であり、永遠である。彼は顕現せず(認識されず)、不可思議で、不変異であると説かれる。それ故、彼をこのように知って、あなたは嘆くべきではない。(注7)
バガヴァッド・ギータ2.19 ~ 25(ヒンドゥー教)
なんじらは、来世がもっとすぐれ、またもっと永遠なものであるのに、この世の生活をよいと思う。これはまことに、いにしえの諸経典にあり、アブラハムやモーゼの経典にもある。
クルアーン87.16 ~ 19(イスラーム)
オニャメ(注9)は死なない。ゆえに私も死なないだろう。
アカン族の格言(アリカ伝統宗教)
祖先と合同せよ、ヤマと〔合同せよ〕、祭祀・善行の〔果報〕と〔合体せよ〕、最高天(ヤマの居所)において。欠陥を棄てて、〔汝の〕家郷(死者の世界)に帰れ。光輝に満ちて、〔新たなる〕身体と合体せよ。
リグ・ヴェーダ10.14.8 (ヒンドゥー教)
だから、私達は落胆しません。たとえ私達の「外なる人」は衰えていくとしても、私達の、「内なる人」は日々新たにされていきます。
私達の一時の軽い艱難は、比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます。私達は見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。私達の地上の住みかである幕屋が滅びても、神によって建物が備えられていることを、私達は知っています。
人の手で造られたものではない天にある永遠の住みかです。私達は、天から与えられる住みかを上に着たいと切に頻って、この地上の幕屋にあって苦しみもだえています。
それを脱いでも、私達は裸のままではおりません。この幕屋に住む私達は重荷を負ってうめいておりますが、それは、地上の住みかを脱ぎ捨てたいからではありません。死ぬはずのものが命に飲み込まれてしまうために、天から与えられる住みかを上に着たいからです。
私達を、このようになるのにふさわしい者としてくださったのは、神です。神は、その保証として“霊”を与えてくださったのです。それで、私達はいつも心強いのですが、体を住みかとしているかぎり、主から離れていることも知っています。目に見えるものによらず、信仰によって歩んでいるからです。私達は、心強
い。そして、体を離れて、主のもとに住むことをむしろ望んでいます。
だから、体を住みかとしていても、体を離れているにしても、ひたすら主に喜ばれる者でありたい。なぜなら、私達は皆、キリストの裁きの座の前に立ち、善であれ悪であれ、めいめい体を住みかとしていたときに行ったことに応じて、報いを受けねばならないからです。
コリントの信徒への手紙二4.16 ~ 5.10(キリスト教)
しかし、もう終りにしよう。時刻ですからね。もう行かなければならない。私はこれから死ぬために、諸君はこれから生きるために。しかしわれわれの行く手に待っているものは、どちらがよいのか、誰にもはっきりは分からないのです、神でなければ。
プラトンソクラテスの弁明42(ヘレニズム)
私は、アフリカヌスにあなたの祖父、父パウルス、そして我々が故人と考えているほかの方たちも生きていらっしゃるのかと尋ねました。彼は答えました。「もちろん生きている。彼らは皆、監獄のような肉体の束縛から抜け出して楽しんでいた。あなたが言う地上の生というものは、その実、死にすぎない。見よ、あなたの父パウルスが、あなたに向かってここに来ているではないか!(注
8)
キケロ国家論6.14 ト(ヘレニズム)
―み言選集―
私達韓国の言葉では、おもしろい表現で「死ぬ(チュンヌンダ)」ということを「帰る(トラガンダ)」という言葉で表します。どこに帰るという話でしょうか。これはただ共同墓地に行くことを意味するのではありません。元来、人生が出発した本来の場所に戻っていくという意味です。果てしなく遠い歴史の起源を越えて帰っていくということです。
だからといって、韓国人として生まれたので、韓国人として帰るという意味ではありません。私達人間始祖の根源となる、その世界に帰るという意味です。すなわち、創造主がいらっしゃるなら、その創造主がいらっしゃる所に帰るという意味です。そこから出発したので、そこに帰るのです。
宇宙も循環作用をします。例えば、山に積もっていた雪が解ければ、その水が小さな渓谷を通じて流れるようになり、さらには様々な川を通じて大海に流れ込みます。大海に流れ込むようになったその水は、水蒸気となって再び帰っていくのです。このように、循環運動を通して、より貴くなり得る所に、より良くなり得る所に帰っていくごとを願うのです。
(299-61、1999.2.4)
神様が人間の父母でいらっしゃるなら、私達人間をどのように、なぜ造ったのかと考えるとき、神様の愛に同参させた位置から出発しました。神様の心から出発し、神様の愛の懐で育ち、神様の愛の懐で成熟して家庭を築き、この地上で世界的な愛と連結させ得る成熟者となり、神様の愛の懐に帰らなければならないのが人生の道です。
(135-267 ~ 268、1985.12.15)
人間の本質は霊的なものです。ですから、あの国に行けば、そのような人間の本質が人のために生きるようになっていることを、より一層実感するようになるのです。
(2-138、1957.3.17)
人は、地上で理想的な家庭を築いて暮らしながら、その内なる人である霊人体を完成させ、天上世界に行くようになっています。霊人体が神様の愛の中で永遠に生きる天上天国が私達の本郷です。……人間は動物とは異なり、霊人体があり、また必ず行くべき天上世界があることを知らなければなりません。
(343-196、2001.1.29)
これからは神様と同じ位置に立つのです。永遠の真の愛の場に同参したのです。外の世界のどこに行っても、韓国のどこに行っても、この永生概念はありません。これが問題です。私は永遠の生命として生まれたので、死んで霊界に行ってみてください。一瞬で飛躍します。制限されたこの地球の人生とは次元が異なります。
制限された所では自由に動けませんが、あの世界は次元が高い世界なので何でもできる所です。時間を飛び越えるのです。愛を中心として、願いさえすれば何でも、いつどこでも、すべて得られます。無窮無尽です。
私達が霊人体として造られたことを、今知りました。永生の真の愛を中心とする対象体である私は、永遠の生命体だという結論が自動的に出でくるのです。霊界に行きさえすれば、私達は自由なのです。
(216-116、1991.3.9)