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還暦リタイアジジイの悠々自適な日々

東京隅田エリアの街歩き

■ 2023年11月11日 東京隅田エリアの街歩き

JR東日本駅からハイキング「~生誕200年~勝海舟が生まれ育ったまち「すみだ」をめぐる」に参加してきました。JR総武線両国駅の両国観光案内所で参加受付後、旧安田公園~横綱町公園~両国公園(勝海舟生誕の地)~吉良邸跡~勝海舟居住の地(旗本岡野氏屋敷跡)~錦糸公園~能勢妙見山別院~大横川親水公園~コネクトすみだ[まち処]~隅田公園~勝海舟銅像~都営地下鉄吾妻橋駅に至るルートを歩きました。途中、大横川親水公園横にある「たばこと塩の博物館」に立ち寄りました。曇りで肌寒い天候の中でしたが、楽しい街歩きと社会科勉強ができました。

▼ ルートマップ

JR総武線両国駅~両国観光案内所~旧安田公園~横綱町公園~両国公園(勝海舟生誕の地)~吉良邸跡~勝海舟居住の地(旗本岡野氏屋敷跡)~錦糸公園~能勢妙見山別院~大横川親水公園~コネクトすみだ[まち処]~隅田公園~勝海舟銅像~都営地下鉄吾妻橋駅に至る11Km

▼ JR総武線両国駅西口

▼ 江戸NOREN内両国観光案内所で参加受付

▼ 両国国技館の前を通って旧安田庭園へ


■ 旧安田庭園・・・元禄年間(1688-1703)に、徳川5代将軍綱吉の生母である桂昌院の実弟で、後の常陸笠間藩5万石の藩主、本庄因幡守宗資が下屋敷として拝領し、この庭園を築造したと伝わる。中央に「心」字をかたどった池を配し、かつては隅田川の水を引き入れ、潮の干満によって変化する景観を楽しむ、いわゆる潮入り池泉廻遊式庭園。明治になって旧備前藩岡山城主池田章政侯爵亭となり、明治24年(1891)には、安田財閥の創始者である初代安田善次郎の所有となった。安田翁の逝去後、個人の遺志により大正11年(1922)に家屋及び庭園は東京市に寄付された。大正12年(1923)の関東大震災により壊滅的な被害を受けたが、残った地割り石組を基にして復元工事が行われた。旧安田邸跡地は寄付者の名を冠して「旧安田庭園」と命名され、昭和2年(1927)に民間篤志家の寄付による和風庭園として都内初の一般公開となった(説明板より抜粋)。

▼ 西門

▼ 心字池

▼ 駒止石・・・三代将軍家光の寛永年間の半ばにあたる8年(1631)に秋の台風に見舞われ隅田川は大洪水となった。本所側の被害は特に甚大で、これを憂慮した家光はその状況を調べさせようとした。しかし、あまりの濁流に誰もが尻込みをする中、旗本阿部豊後守忠秋が進み出て、現在の柳橋の辺りから馬を乗り入れた。忠秋は馬をたくみに操って川を渡り、被害状況を調べて回る際、馬を止めて休憩したした場所が駒止石(説明板より抜粋)。

▼ 稲荷社

▼ 晋堂雲南の歌碑

▼ 散策路に架かる橋

▼ 灯籠

▼ 旧安田庭園東門と説明板


▼ 旧安田庭園角にある「刀剣博物館」


■ 横綱町公園・・・大正12年(1923)の関東大震災や昭和19年~20年(1944-45)の東京空襲による悲劇を記憶・伝承し、その犠牲となった多くの人々を慰霊する公園

▼ 東京都慰霊堂・・・大正12年(1923)の関東大震災の後に、東京市内で災害の最も悲惨であったここ被服廠跡に、遭難死者のご遺骨を納める霊堂として建てられ「震災記念堂」と名付けられ、遭難者の霊を祀り、その加護によって今後このような災害の起こらないことを祈願したが、その悲願も空しく、昭和19年(1944)の冬から首都東京は戦争により空からの爆撃を受けて関東大震災の数倍もの惨禍を被った。そこで、この戦災遭難者の霊とご遺骨を併せてこの堂に奉安し昭和26年(1951)に名称を「東京都慰霊堂」と改めた(説明板より抜粋)。

▼ 震災遭難児童弔魂像・・・大正12年(1923)の関東大震災により東京市の小学校児童約5千人が亡くなった。この死を悼み、冥福を祈るため、昭和6年(1931)弔魂碑を建立(説明板より抜粋)。

▼ 幽冥鐘・・・関東大震災により遭難した死者を追悼するため中国仏教徒から寄贈されたもの(説明板より抜粋)。


▼ 置いてけ堀・御竹蔵跡

▼ 軍鶏なべ屋「五鉄」・・・小説「鬼平犯科帳」の登場する鬼平の行きつけの店、「二つ目橋の角地で南側は堅川」とありこの辺りと推定(説明板より抜粋)。

▼ 二之橋・・・万治2年(1659)、堅川が開削されると五つの橋が架けられ。隅田川に近い方から一之橋から五之橋と名付けられ、その二つ目の橋(説明板より抜粋)。


■ 両国公園(勝海舟生誕の地)・・・勝海舟は幼名を麟太郎といい文政6年(1823)、この地男谷精一郎邸内で生まれた。剣は島田虎之介に師事し、蘭学海洋術を学び、万延元年(1860)幕府軍艦咸臨丸艦長として太平洋を横断渡米した。慶應4年(1686)高輪薩摩邸において大総督府参謀西郷隆盛と会談し、江戸城の開城を決定して官軍の江戸進撃を中止させ、江戸百万の庶民を戦禍から救ったことは有名な話である。明治32年(1899)赤坂氷川町の自邸で死去(由来碑より抜粋)。

▼ 勝海舟幕末絵巻

▼ 「勝海舟生誕之地」碑

▼ 由来碑

▼ 椅子


■ 吉良邸跡(本所松坂公園)

▼ 吉良上野介義央座像

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▼ 追慕「吉良上野介公」碑

▼ 吉良家家臣二十士碑・・・元禄15年、赤穂浪士が吉良上野介邸を襲撃した際、犠牲となった家臣俗名

▼ 松坂稲荷大明神・・・「松坂稲荷」は「兼春稲荷」と「上野稲荷」の二社を合祀したもの。「兼春稲荷」は徳川氏入国後、現今の社地たる松坂町方面に御竹蔵を置かれし当時、その水門内に鎮座していたもので、元禄15年の赤穂浪士討ち入り後、吉良邸跡へ地所清めのために遷官され、昭和10年に現存の「上野稲荷」と合祀され、当本所松坂町公園開園と共に当初に遷座された(説明板より抜粋)。


▼ 飯澄稲荷

▼ 鏡師中島伊勢住居跡・・・中島伊勢の住居は、赤穂事件の後町人に払い下げられ、本所松坂町となったこの辺りにあった。伊勢は、幕府御用達の鏡師で宝暦13年(1763)、後に葛飾北斎となる時太郎を養子とする(説明板より抜粋)。

▼ 芥川龍之介文学碑・・・芥川龍之介は明治25年(1892)、東京市京橋区入舟町に新原敬三、ふくの長男として生まれる。辰年辰の刻に生まれたのにちなんで龍之介と命名された。生後7ヶ月の時、母ふくが突然発病したために本所区小泉町に住んでいたふくの長兄芥川道章に引き取られ、13歳の時芥川の養子となった。この文学碑は、龍之介の代表作の一つである「杜子春」かの一節を引用したもので、両国の地で成育し両国小学校に学んだ芥川龍之介の人生観を学び氏の文才を偲ぶものとして両国小学校創立150周年の記念事業として平成2年に建立(説明板より抜粋)。

▼ 両国小学校敷地内にある「錨」・・・日露戦争(1904-1905)で活躍した日本海軍の駆逐艦「不知火」のもの。両国1丁目の鉄鋼業岡田商事が軍艦の解体作業で得たものを昭和の初年に現両国小学校に寄贈したもの(説明板より抜粋)。


■ 昼食を頂いた「大阪王将両国店」

▼ 中華そば

▼ 満腹炒飯セット


▼ 勝海舟居住の地(旗本岡野氏屋敷跡)・・・勝海舟は文政6年(1823)に両国にあった父惟寅の実家、男谷氏の屋敷で誕生。その後、父母と共に本所の旗本屋敷を転々としたが、天保2年(1831)頃ここにあった岡野氏の屋敷に落ち着いた(説明板より抜粋)。

▼ JR錦糸町駅のオブジェ

▼ 錦糸公園

▼ 錦糸公園から見たスカツリー

▼ 法恩寺バックにスカイツリー

▼ 法恩寺橋


■ 能勢妙見山別院・・・大阪能勢妙見山の全国唯一の別院で、能勢家の子孫が代々守護に任じている。安永3年創建。この地は当時下総国葛飾郡本所横川町と称し能勢筑前守頼直の江戸下屋敷であり、妙見堂を建立して知行所たる摂津国妙見山より妙見尊像を分祀したもの(説明板より抜粋)。

▼ 勝海舟翁之像・・・勝海舟9才の時大怪我の際妙見大士の御利生により九死に一生を得、その後開運出世を祈って大願成就した由縁の妙見堂の開創200年を迎え海舟翁の偉徳を長く後世に傳えるため地元有志によって胸像が建てられた(説明板より抜粋)。


▼ 紅葉橋

▼ 紅葉橋から大横川親水公園へ降りるところにある吊橋とスカイツリー

▼ 本所七不思議レリーフ・・・本所(東京都墨田区)に江戸時代から伝承される奇談・怪談。江戸の各地でも七不思議の話がまとめられるようになった。各地の七不思議と同じように翻字七不思議にも7つ以上の話がある。【置いてけ堀】【落ち葉なき椎】【狸囃子】【消えずの行灯】【送り提灯】【送り拍子木】【片葉の芦】【足洗い屋敷】【津軽の太鼓】【入江町の時なし】

▼ 大横川親水公園内ちびっこ広場の吊橋

▼ 大横川親水公園から見たスカイツリー

▼ たばこと塩の博物館・・・常設展示と特別展「芥川龍之介がみた江戸・東京」を閲覧しました。

▼ たばこと塩の博物館裏玄関前にある「村井兄弟商会芝工場の門柱」・・・明治のたばこ商、村井兄弟商会の芝工場(現在の港区田町2丁目)の正面入口にあったもの。当時は2mを超す立派な柱で、中間部分にはレンガが積まれていた。上部の石にはたばこの葉の浮き彫りが施され、明治期の近代工場の風格を伝える貴重な資料。村井兄弟商会の工場は、明治37年(1904)の専売制度導入以降、大蔵省専売局の工場となり、昭和14年(1939)火災で焼失するまで稼働(説明板より抜粋)。

▼ 大横川親水公園のオブジェ・・・鏡面にスカツリーが映り込んでいます

▼ コネクトすみだ[まち処]・・・今年オープンした「墨田区」の「ものづくり名産品」がどこよりも揃うお店

▼ スカイツリー

▼ 源森橋・・・名前の由来は現在の枕橋(本橋から約200m隅田川寄りの橋)、古くは源森橋と呼ばれていたものが、明治初期に枕橋に正式に決定されたことから、本橋を源森橋と呼ぶようになった。現在の源森橋は昭和3年に架設した鋼橋(上路式アーチ橋)が約80年経過し老朽化したため、平成19年に鋼橋(鋼床版鈑桁)に架け替えられたもの(説明板より抜粋)。

▼ 隅田公園

▼ スカイツリー


■ 勝安芳の像・・・勝海舟(通称・麟太郎、名は義邦、のち安房、安芳)は、文政6年(1823)江戸本所亀沢町で父小吉の実家男谷邸にて生まれ、明治32年(1899)赤坂の氷川邸で逝去。この海舟像は、「勝海舟の銅像を建てる会」から墨田区に寄贈されたもの(説明板より抜粋)。

▼ 銅像そばにある「勝海舟略年表」


▼ 銅像見学後休憩したTomtom吾妻橋店でいただいた「アンパンマン」、中身はチョコクリームでした!

▼ ゴールは都営地下鉄本所吾妻橋駅


【参考】

1、-両国-江戸NOREN:ジェイアール東日本都市開発

2、旧安田庭園

3、都立横網町公園

4、吉良邸跡

5、両国公園(両国四丁目25番3号)

6、錦糸公園(錦糸四丁目15番1号)

7、大横川親水公園(翻字七不思議レリーフ)

1148:本所七不思議について知りたい。

8、たばこと塩の博物館

 

たばこと塩の博物館

東京都渋谷区から移転し、2015年4月25日に、墨田区にリニューアルオープンしたJT運営の博物館の公式サイトです。たばこと塩に関する資料の収集、調査・研究を行い、その歴史...

たばこと塩の博物館

 

9、コネクトすみだ

 

10、隅田公園(向島一丁目、二丁目、五丁目)


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