■ 20204年04月20日 富士山~佐白山
茨城県笠間市にある富士山と佐白山を訪れました。佐白山麓公園に車を置き、佐白山正福寺~つつじ公園~富士山(つつじ山)~大黒石~千人溜り跡~城跡公園~天守跡(佐志能神社)~遊歩道~佐白山麓公園に至るルートを歩きました。つつじ公園で開催されているつつじまつりは約3分咲きでした。今回、山と渓谷社刊の茨城県の山を参考にして歩きましたが、佐志能神社付近は立入禁止になっていたので、周囲の遊歩道を歩いて佐白山麓公園に戻りました。
▼ ルートマップ・・・参考:山と渓谷社 茨城県の山
佐白山麓公園~佐白山正福寺~富士山(つつじ山)~大黒石~千人溜り跡~城跡公園~天守跡(佐志能神社)~遊歩道~佐白山麓公園に至る5.4Km
▼ 佐白山麓公園駐車場・・・周囲の駐車場は車が多かったが、ここはガラガラ状態!
▼ 佐白山麓公園
▼ 佐白山麓公園にある「佐白山ハイキングコース」案内板
▼ 笠間日動美術館
▼ 八重桜
▼ 佐白山正福寺
▼ 正福寺境内を抜けてつつじ山へ
▼ 佐白山正福寺本殿
▼ 境内のツツジ
▼ 境内を抜けるとつつじまつりの第1ゲートがある
▼ つつじ山山頂へ
▼ 石切唄発祥之地碑・・・石切唄
▼ 山頂付近から見た笠間市街・・・つつじは3分咲き
▼ 長塚節歌碑・・・國尻のこの行き違いの眞秀処にぞ 國見が嶺ろは聳え立ける
▼ 身がわり観音
▼ 座頭市の碑
▼ 猿まわし
▼ オオアマナ
▼ ツツジ
▼ ムラサキカタバミ
▼ つつじ山第2ゲートを出て城跡公園へ行く途中にある大黒石・・・鎌倉時代の初め、佐白山の僧兵と七会の僧兵がその勢力を争って戦った。佐白山の僧兵は戦いに敗れて佐白山近くまで逃げ延び、山上にあった大黒石を転がした。徳蔵寺の僧兵は転げ落ちる大黒石之下敷きになり多くの死者が出たため、佐白山の僧兵は危うく難を逃れることができた。大黒石はその時ここまで転げ落ちて止まったといわれている(説明板より抜粋)。
▼ シャガ
▼ チゴユリ
▼ ミミガタテンナンショウ
▼ 城跡公園へ
▼ 仙人溜り跡・・・大手門手前の広場、現在は駐車場になっている。この地にある「笠間城跡」案内板には「的場丸」と記されているので、弓矢の練習場だったのかも?
▼ ホウチャクソウ
▼ オヤブジラミ
▼ ムラサキケマン
▼ コバノガマズミ
▼ ヤマブキ
▼ 笠間城大手門跡・・・右手に石垣がある
▼ ニリンソウ
▼ オドリコソウ
▼ 城跡跡にある案内板・・・この案内板を見てつつじ山が富士山であることが分かった
▼ 歌碑
▼ 笠間城跡・・・鎌倉時代に笠間地方初代の領主笠間時朝によって16年の歳月を費やして気づかれた山城。天然の地形を巧みに利用して「三の曲輪」「二の曲輪」「帯曲輪」「殿主曲輪」を設け、曲輪には白壁の塀を回し、出入口を城門で固め、要所には「宍ヶ崎櫓」「八幡台櫓」「殿主櫓」を配置し強固な山城であった(説明板より抜粋)。
▼ 笠間城跡碑・・・佐白山は古くから正福寺百坊があって信仰の山として栄えた。鎌倉時代の初め正福寺と徳蔵寺の勢力争いのため下野国からつかわされた藤原時朝が正福寺百坊を滅ぼして城を築き、笠間氏を名乗ってこの地方を支配した。笠間市は18代続き天正18年(1590)二亡んだ。その後、蒲生、松平、小笠原、永井、浅野、井上、本庄などの諸氏が相継いだが延慶年(1747)から廃藩まで牧野氏の居城ととなった(碑文から抜粋)。
▼ 浅間天守跡への階段
▼ 石垣跡
▼ 佐志能神社へは立入禁止
▼ 佐志能神社周囲は崩れたまま
▼ 「ちとせまつ」の碑・・・どの松かはわからない!
▼ 笠間城八幡台櫓跡
▼ 城跡から佐白山麓公園へ向かおうとしたが、道しるべないため遊歩道(舗装)を進んだ先にあったトンネル
▼ クサイチゴ
▼ 遊歩道の案内図
▼ 遊歩道を歩いて行った先に「佐白公園」の標識があった
▼ 佐白公園側の標識・・・ここがつつじ山と城址公園の分岐になっている
▼ ハイキングコース脇にある治功神社
▼ 義士顕彰碑・・・笠間は浅野家の旧領であり、赤穂浪士の検視右飛を建立した(碑文より抜粋)。
▼ 笠間満洲分村懐古之碑
▼ 旧笠間町立美術館
▼ 時鐘・・・笠間藩が寛文年(1662)に正福寺の梵鐘を借り受け大町の極楽寺(現:八坂神社)に鐘楼を設け鐘を撞いたことが発端。現在の鐘楼は三代目で、安永7年笠間藩領真壁郡田村(現:桜川市真壁町田)の鋳物師小田部家が鋳造したもの(説明板より抜粋)。
▼ 歌碑
▼ 佐白山麓公園にある「笠間城跡」案内板
▼ 佐白山麓公園にある「石彫」
【参考】
1、笠間つつじ公園
2、笠間城跡
4、長塚節について
5、長塚節歌碑一覧
6、佐白山ハイキングコース