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還暦リタイアジジイの悠々自適な日々

下館の歴史とさくら散策コースをめぐる

■ 2021年04月15日 下館の歴史とさくら散策コースをめぐる

JR東日本駅からハイキング「【関東鉄道共同開催】北関東最大級の道の駅と下館のさくら散策コース」に参加してきました。JR水戸線下館駅を起点に館最中本舗 湖月庵~しもだて美術館~板谷波山記念館~蔵の街並み(金井町)~竹島神社~道の駅 グランテラス筑西~観音寺~桜づつみ~下館城跡をめぐりました。

▼ ルートマップ・・・歩行距離は11.0㎞

▼ JR水戸線下館駅

▼ 館最中本舗 湖月庵と白ミズキ

▼ しもだて美術館(https://www.city.chikusei.lg.jp/page/dir004549.html)・・・この日は休館中でした。


■  板谷波山記念館(https://www.city.chikusei.lg.jp/data/hazan/top.html)・・・陶芸家として初めて文化勲章を受章した板谷波山(いたや・はざん)(1872-1963)の足跡を伝える記念館。波山の生家のほか、東京田端の工房から移築した自作の窯や貴重な作品、資料などが見学できます。

▼ 生家


▼ 新井家住宅・・・個人所有の建造物として茨城県では初めて国登録有形文化財に登録。江戸時代から醤油、御園醸造業を生業としていたが、現在は「荒七」の屋号で酒類業を営む。母屋は昭和8年建築の木造3階建てモルタル塗りのアールデコ様式。外観は洋風で内部は和風、屋根は帝冠様式を思わせる意匠を持ち、症と下館のシンボル的建物。(案内板より抜粋)

▼ 蔵造りの街並み(金井町)

▼ 五行川(勤行川)にかかる橋から見た筑波山

▼ 街角に咲くクレマチス・モンタナと冬アジサイ・・・竹島神社に向かう道端のお宅で撮影さえてもらいました。


■ 竹島神社


■ ハーレー通り・・・ハーレー・ダビッドソンのディーラーがあった通り


■ 道の駅 グランテラス筑西(https://granterrace-chikusei.com/)・・・立寄りグルメ・カフェコーナーで昼食を頂きました。


■ 八幡神社(諏訪八幡宮)・・・八幡神社は、口戸の羽黒神社、大関の鹿島神社とさらに林の星宮神社、野の野村神社と二等辺三角形を作る位置にある。文治年中(1185~1189)伊佐朝宗(伊達氏の祖)は伊佐城主となった時、諏訪。八幡両神社を奉斎し守護神として累代崇敬。建仁2年(1202)別当の観音寺とともに再建(案内板より抜粋)。


■ 観音寺(中館観音)・・・伊佐氏の居城・伊佐城の城跡に建つ寺院。仙台伊達家の祖・伊達朝宗(だてともむね)はこの伊佐家をルーツとしており、伊達家からの奉納品が数多くある。観音堂裏には、南北朝時代に南朝方の武将として伊佐氏と共に戦った伊達行朝(だてゆきとも)の供養塔がある。

▼ 観音堂

▼ 伊達宮内大輔行朝公塔・・・延元3年(1336)、足利尊氏は武家政治の再興をめざし、京にあって北朝を擁立して征夷大将軍となり、後醍醐天皇は吉野に追われ南北朝の争乱が起こった。興国4年(1343)奥州伊達郡赤館(福島県)にあった伊達行朝は一族の旧地である伊佐城(下館市中館)に入り南朝に組した。行朝は北畠親房をたすけ関城、大宝城と相呼応し、尊氏の武将高師冬の軍と戦い、孤軍よく死守したがついに陥落し北朝に降った後、行朝の供養塔が観音寺境内に建立された(案内板より抜粋)。

▼ 観音寺歴代住職の墓

▼ 観音寺山門

▼ 観音寺本堂

▼ 観音寺本堂横にある「伊佐城趾」石碑

▼ 観音寺本堂裏手にある大欅

▼ 観音寺広場にある「下館藩主 石川総管」の墓・・・下館藩石川氏は、初代総茂が享保17年(1732)国替えにより伊勢国河曲郡神戸(三重県鈴鹿市)から石高2万石で下館に移った。以降、下館城を本拠として、明治維新に至るまで137年間。九代にわたってこの地を治めた。石川氏は歴代の藩主(初代~八代)が江戸下谷の大九寺に埋葬されているが、九代総管のみ観音寺に埋葬されている(案内板より抜粋)。


■ 五行川(勤行川)沿いから見た筑波山と桜づつみ


■ 定林寺・・・下館城主 水谷公菩提寺


■ 城山八幡神社と下館城址石碑・・・下館の地は一千余年前の天慶3年(940)平将門が争乱を起こしたとき、これを平定するため藤原秀郷が上館、中館、下館の三館を築いた所であるといわれている。中館(伊佐城)はここから1.9㎞北方にあり、南北朝争乱の際伊達行朝が南朝のため籠城奮戦した史実で有名である。上館(久下田城)は6.5㎞北方にあり戦国時代の勇将蟠龍斎政村の居城として知られている。下館城は室町時代の中頃文明10年(1478)水谷勝氏が初めて築城。水谷氏は以後勝国、勝之、勝吉、治持と続いて次第に勢力を拡張し六代政村の頃は5万石を領すに至ったが、政村は下館を弟勝俊に譲って久下田城に移った。次の勝隆の代になって備中に移封となり、水戸家頼房の長男頼重が新たに城主として下館を賜ったが、3年後には讃岐高松12万石を賜って栄転。以後、増山正弥、黒田直邦とたびたび城主が変わったが、享保17年(1732)石川総茂が2万石の城主として着任してからは、代々石川氏の領分として九代137年間この地を支配し明治になって廃城となった(案内板より抜粋)。

八幡神社は、下館城本丸跡にあり、享保17年(1732)下館に入封した石川総茂が石川氏の武運長久と領民の安泰を願って建立。石川氏は清和石川源氏の流れで、代々京都の石清水八幡を尊宗し石川氏の氏神として勧請(案内板より抜粋)。

▼ 城山八幡神社の鳥居

▼ 城山八幡神社の鳥居を過ぎて右手にある「下館城址」碑


■ 羽黒神社(下羽黒神社)・・・七羽黒神社の中心の神社。文明10年(1478)に下館城主 水谷勝氏(初代)が結城家より独立し下館に築城。三年後の文明13年(1481)に尊崇する羽黒大神を勧請。勝氏は古式により下館城の鬼門の稲野辺村、風門の下岡崎村、病門の外塚村、天門の岡芹村に五つの羽黒神社を創建。その後、天文14年(1545)水谷政村(六代)が久下田に築城、鬼門にあたる大根田村と病門にあたる口戸村に羽黒神社を創建し、七羽黒神社と呼ばれている(案内板より抜粋)。

▼ 羽黒神社拝殿

▼ 境内にある楠

▼ 山門横に咲くシャガ


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