■2024年05月12日 侍塚古墳群
栃木県大田原市にある大田原市なす風土記の丘湯津上資料館主催の「令和6年度 侍塚古墳ツアー」に参加してきました。侍塚古墳は江戸時代に徳川光圀の命により日本で初めての学術発掘調査が行われた古墳です。この調査は、侍塚古墳群近くにある笠石神社に祀られている那須国造碑の碑文内容と侍塚の被葬者との関連を探るための調査でしたが、発掘の結果、那須国造と侍塚古墳を結びつけるものは見つからなかったそうです。今回は、資料館の学芸員の方による解説を聞きながら、下侍塚古墳~侍塚古墳群~上侍塚北古墳~上侍塚古墳をめぐりました。
▼ ルートマップ
大田原市なす風土記の丘湯津上資料館~下侍塚古墳~侍塚古墳群~上侍塚北古墳~上侍塚古墳~資料館に至る3.1Km
▼ 大田原市なす風土記の丘湯津上資料館
■ 下侍塚古墳・・・那珂川右岸の段丘上に位置する前方後方墳で、那須地方の前方後方墳の中では上侍塚古墳に次ぐ規模。元禄5年(1692)、徳川光圀の命により小口村(那珂川町小口)の庄屋であった大金重貞らが上侍塚古墳と共に発掘調査を行っている(説明板より抜粋)。
▼ 下侍塚古墳説明板
▼ 後方墳上の角部・・・方墳であることがわかる
▼ 後方墳部中央付近の凹み・・・発掘により鏡、管玉、壺など多くの遺物が発見されたが、これらの遺物は画工に図化させた後に松板の箱に納め、再び簿中に埋め戻され、発掘の痕跡が凹地として残っている
▼ 後方墳上から見た侍塚古墳群
▼ 葺石・・・古墳を覆う石が所々露出している
■ 侍塚古墳群・・・下侍塚古墳の北側にある古墳群。現在確認できるのは8基だがかつては10基ほど存在したが、戦後の開田等により消滅したといわれる(説明板より抜粋)。
▼ 8号墳・・・円墳
▼ 5号墳・・・円墳
▼ 7号墳・・・円墳
▼ 6号墳・・・円墳
▼ 4号墳・・・円墳
▼ 3号墳・・・円墳
▼ 2号墳・・・円墳
▼ 1号墳・・・前方後円墳
▼ 上侍塚北古墳・・・前方後方墳
■ 上侍塚古墳・・・那珂川右岸の段丘上に位置する前方後方墳で、那須地方の前方後方墳の中では最大規模。元禄5年(1692)、徳川光圀の命により小口村(那珂川町小口)の庄屋であった大金重貞らが上侍塚古墳と共に発掘調査を行っている(説明板より抜粋)。
▼ 方墳部中心付近の凹み
■ 那須国造碑(なすのくにみやつこのひ)・・・大田原市なす風土記の丘湯津上資料館内の展示物でレプリカ、本物は笠石神社に祀られている。延宝4年(1676)に岩城の僧円順によって発見され、それを円順が大金重貞に話したことが機縁となり、重貞によって確認され、徳川光圀の命により、元禄4年(1691)に碑堂を建てて保存するようになり、翌元禄5年には修験泉蔵院を置いて守らせた。
▼ レプリカ
▼ 碑文
▼ 大意・・・永昌元年(689)、持統天皇の治世で那須国造を務めた追大壱那須直韋堤が、評の朝刊に任ぜられた。文武天皇4年(700)1月2日に亡くなった、そこで、意斯麻呂等が石碑に銘文を刻んで、那須直韋堤を偲んで銘文を刻んだ(説明板より抜粋)。
【参考】